全30件 (30件中 1-30件目)
1
灼熱の砂漠の中無言でラクダの行進は続く。体から出る汗は、体温より高い外気のせいで、一瞬にして蒸発する。私は、何も考えていない。暑さゆえ、思考は止まっている。その頃、誰かがどこかで私を待っているとは知らず。誰かは、沙漠の唄を繰り返し唄う。もし、そのことを私が想像しえたなら、沙漠の中で、ただただ、早く帰りたいと思ったことだろう。冷たいビールを飲みながら、冷房の効いた快適な部屋で。体中、埃まみれ、砂まみれ。美しさを迎えるには、きっとよくない止まった思考。ただ、やはり、自然に敗北した私は、喘いでいるだけ。ここではない、どこかで安らぎを得るに違いない。沙漠のラクダ行進中。進めど風景は変わらず、ただ静かだ。その静寂の中、耐え切れず、歌う。インドの唄。誰も反応しない。ただ、漠然とした神を求めてすすり歌っていた。その頃、誰かがどこかで私を待っているとは知らず。ただただ目的地へ向かい、さっさと帰ろう、ここではないどこかへ。沙漠では、ただただ思考が止まっている。すべてが受身で、すべてに飢えていた。強く愚鈍なラクダはただただ歩く。
2004.11.30
コメント(2)
今日は、ちょっと大阪駅北側の旧国鉄貨物跡地の1等地に2,3年前にできたヨドバシカメラに寄って来た。この影響で、日本橋の電気街の売り上げが半減していると聞く。電気街では、特化現象が起こり、ガチャポン専門店などマニアックな店が出現してきており、生き残りをかけて頑張っているようである。電気街では、当然、大阪らしく、値引き交渉が当り前で、私も、会社の備品から個人的なパソコン等、幾度となく値引き合戦を繰り返した覚えがある。さすがにインドや中東みたいに、言い値を言われて、その10分の1で言い返し、交渉を始めるということはないのだが、ひとつの楽しいゲームであった。当然ながら関東からやってきたヨドバシカメラは値引きがなく、ポイント制をとっており、高いのか安いのかがよく分からない。本日検討してみたテレビ、流行のアクオス32インチも32万円ぐらいではあったが、ポイント還元すると6万円近く、別途使えるようになり、何だか得した気分になる。これが、もともと26万円であれば、ああ、そうなんだ、で済んでしまうのだから、なかなかニクイ戦略ではある。それにしても、電気街の派手派手しさは何だろう。これでもかというぐらいに価格や性能を原色で貼りまくっている。もう少し線が細ければ、よきにもわるきにもイスラムチックな感じがしないでもない。視覚的には、全く落ち着きが無く、人手の多さ、商品の多さも加わって、大変疲れる。人々は、どうやって莫大な商品の中から、選択するのか不思議である。プロでもないのに価格と性能のバランスが一向に分からないまま、派手な宣伝に負けて、というより、疲れて、コレにするよ、と決めてしまうのであろうか。取引先で仲良くしてもらっている奈良の家に、以前、近くに来たからとおしかけたことがある。新築したその家には、夢のひとつであったホームシアターセットがあった。そこで、マトリックスを見たのだが、彼は、収入はかなりあるのだろうが、ほぼほぼ毎日午前様の生活をしていて、「あんた、これいつ観るの?」と苛めてあげたら黙っていた。消費とは限度がないものである。快楽とは限度がないものである。
2004.11.29
コメント(5)

めでたくワインも1本開けた。今日は、昼も夜もインドカレーで渋くきめた。日本一般家庭では、日本料理、西洋料理、中華料理等、レパートリーが多く、どうしても食器類、調理器具類が無尽蔵に増殖するという傾向が見られる。おまけに、関西では、食器吊戸棚奥に、タコ焼き器も眠っている。私自身も、生涯孤独の単身にも関わらず、前時代的キッチンには、調理器具類が納まらず、床にナベやヤカンを置いていたりして、大変煩わしい思いをしている。初めてインドに行った時、それはそれは、毎日毎回カレーの連続で、おまけに、持ち合わせが少ないと自分で思いこんでいたので、インド初めての都市カルカッタでは、ニューマーケット内にある、かち割られた羊のドタマが陳列してある肉屋の横にある、1皿20円という最低級カレーを食していた。それは辛くて仕方なく、出された水に、浄化液を数的垂らしてガブガブ飲んでいた。主が、ナニを入れているのかと尋ねるので、若い私は「LSDです」と冗談を言ったら、なかなかの「ベリーバッド」と苛めてくれた。水を流し込むと、辛さが食道を伝わっているのが分かり、これも修行に違いないと、涙と汗を流しつつ耐え忍んだ。やがて、3週間ほどたち、遂に私は、カレーに飽きてしまい、雑貨屋で見つけたパンに市場で買ってきたタマネギなどを乗せてドミトリールームで一人、飯を食っていた。しかしながら、片栗粉のイギリス経由で入ってきた日本のカレーが、ジャイプールという街で食べた時は、遂に、お代わりまでしてしまい、食べすぎで、死にそうになった。しかし、翌年、インドに行ったら、私の舌は十分に変貌してしまっていたのである。私は、カレーが美味いのだ。辛さが宜しいのだ。20歳を境に、私の舌は、法律どおり、成年になったようであった。それ以来、私は成人を続けている。間違って聖人になるかも知れない。
2004.11.28
コメント(12)
大阪には、いわゆるコリアタウンが2箇所ある。御幸森神社近くと鶴橋駅周辺である。、時折、この駅を通過する際に、少し降りて、JRや近鉄のガード下から始まる路地を、ぶらぶら散歩してみて、香辛料の臭いを嗅ぎ、色鮮やかな民族衣装の店を覗いたり、乾物屋をうろうろしたり、闇市の空気を吸い、いろいろ物色して散歩を楽しむ。キムチは、時々友達から譲ってもらう。その友達は、キムチ屋さんが、店に出していない自分達が食べる自家製キムチを譲ってもらっている。私は、家で一切肉を扱わないし、進んで焼肉を食べに行ったことはないが、それでも、誘われたら、焼肉を食べに行く。学生の時、はじめて、有名店「鶴一」で食い、焼肉よりも、この不思議な国内の外国に魅せられたものであった。そういえば、私の時代は、学校給食は、パンばかりで、ご飯はまだなかった。戦後、飯を食えない児童がいっぱいいて、コリャイカンということで、戦勝国アメリカが、寄贈の小麦粉で給食制度は始まったのだが、実は、アメリカでは小麦粉が余って仕方なく、パンを食べると賢くなるなんてデマを流して、裏で日本に売りつけていたというクライ歴史がある。そういえば、東南アジアにいけば、まだ味の素信仰は存在し、「味の素を舐めれば、賢くなる」なんてデマと共に流通していった訳だなあ。恥ずかしいことだが、私は、初めてタイに行った時、飯が、美味いとともに、大変懐かしい気がした。それが、味の素の味だったということに気がついたのは、ずっと後だった。いやいや、そういう話ではなかった。給食で人気があったのは、カレーシチューやスパゲティであるが、固いクジラ肉グリーンピース入りも私のお気に入りであった。パンにはマーガリンのほか、時々、ピーナツバターやチョコレートバターが出てきた。いやいや、そういう話ではなかった。私は、とにかく給食を食べるのが早かった。牛乳パンおかずの3角食べの際に、パンを細かく千切っておくという方法を採用していた私は、ある日、クラスメイトのほとんどが、私を見習って、パンが魚の餌並みに千切られているのを見て、「これは、皆が、ハヤク食べてしまうのでは?私の早食べチャンピオンの不動の地位が崩れてしまうでは」と危惧したものであった。いやいや、そういう話ではなかった。私の時代は、確か、小学校、4年か5年までシャープペンシルが禁止されていた。何故禁止されていたかは分からない。当時は、100円シャーペンはなかったので、多分、生徒に貧富の差が出てはまずいという先生方の配慮であったのだろうか。確かに、私の持っていたシャーペンも小遣いでは買える代物ではなく、おじいちゃんからのプレゼントだったように思う。私は、2Bの愛用者である。しかいs、小学校の頃は、2Hの愛用者であった。いやいやそういう話ではなかった、が、ナンだか分からなくなってきた。
2004.11.27
コメント(11)
今、女児殺害事件で、奈良県奈良市の富雄や平群(へぐりと読む)の地名がクローズアップされています。十年前、富雄で仕事をしていたこともあり、心が痛いです。 平群方面には近鉄生駒駅から、生駒線として、支線になり、本線から離れていく単線を見るたびに、町に売られていく牛を見ている気分になり、物悲しい気がする。だんだんおぼろげになり霞んで行く姿が寂しい。それは・・・ 当時、私は、兵庫県から大阪府を越えて、奈良県まで仕事をしにきており、交通費と時間を節約するため、数ヶ月であったが、途中でアパートを借りて、家賃-交通費の負担でまあまあ楽しくやっていた。だから会社には秘密であったのだが、急遽配置換えに・・・奈良に向かう出発点として、鶴橋駅がある。構内がヤキニクの匂いで充満している不思議な駅で、駅を降りても、一大や焼肉街となっており、・・・富雄を挟む、学園前駅から生駒の間は、奈良でも高級住宅街と呼ばれ、新興住宅地が多く・・・2年前、何故か夜中の1時に、富雄駅付近のヤキトリ屋に入り、・・・駄目だ、富雄の記憶がほとんどなくなっている・・・
2004.11.26
コメント(2)
求む、オンナニヒリスト 白い空であったが、何か気持ちのいい朝であった。昼であった。十六時間眠り続けたようである。余りリラックスできていない。もう終わりなのだと思った。終わり、だと思った。何ともいえない風変わりな寂しさなんだろうか。カトマンドゥはやたら煩い。こんな所だったろうか。取り残されたおぼっちゃまみたいで、自分がちょっと格好悪い。妙にちらつく。誰もいない、疲れた土地に行きたくなった。同時に誰かに会いたいのだが、具体的に誰というのがない。アンビバレントな感覚。否、あの人のこの部分とその人のあの部分とあの人のその部分をミックスさせた人に遭いたい。徹底的にあきらめた人に遭ってみたい。自転車さえうるさい。シニカルな気分で最低だ。はっきりいって居場所なしの状態だ。 中華レストランに入った。中途半端な時間で、客は私だけ。丁寧なサービスは嬉しいが、音楽がいただけない。熱いジャスミンティがうまい。時間をかければアルコールのように何杯でも飲める。コカコーラはこの店には置いてなかったので、小僧が外まで行って買ってきてくれた。インドから上ってくると外国製品が溢れているのに目を奪われる。何だか、日本の山小屋風居酒屋で一人お茶とコーラを交互に飲んでいるようで、滑稽だ。炎の音がする。ローカルな中国演歌は続く。ブッチャーの音。色の悪い照明。擦り切れたメニュー表。ネパーリー太鼓の登場。先ほど、荷物運びのクーリー(苦力)を意味なく追いかけた。オーダーしたものと違うものが出てきた。まあ、いいか。先程、ミニバーでエッグフライドライスを食べたが、卵焼きは母の作ったものが一番うまいと、刷り込みされているのだろうか。いろんな人に出会ったが、もう会うことはないのだろうな、と思いつつ、コーラとお茶を飲み飲み、ヌードルスープを啜る。 私がカトマンドゥを歩こうが、走ろうが、去ろうが、何も変わらない。皆、理由があって存在するのだろうが、それだけだ。覚醒へのクローズド。 今夜は、いっちょう反省でもしてみるか。シニシズム裸電球よ。部屋は白一色で狂気を誘う。白い壁白いシーツ白いカーテン。私の服まで白い。あっ、茶色のテーブルだ。良かった良かった救ってくれて良かった。救われた救われた色の識別ができて。 めっきり途方にくれた。会ったことがない。女ニヒリスト。
2004.11.25
コメント(3)
先日、迷える子羊になった。そこでは、資料を貰い、その資料を見ていると、日本銀行2004年3月出典、日本の個人資産は1412兆円、そのうち預貯金が55%、株式出資金は8%。USAは、35兆ドル、つまり約3630兆円。預貯金は13%、株式出資金は33%。また日本の銀行の預金総額は518兆円、貸出金は402兆円、つまり116兆円は銀行自身がどこかで使っているか、溜め込んでいるということであるなあ。そして銀行の国債保有残高は約100兆円、つまり銀行は、銀行に残った差額を国債にぶち込んでいるんだなあ。日本銀行2004年6月出典、国債の所有者内訳で37%が預金取扱機関であり、家計は3%に過ぎない。預金取扱機関でも郵便局の221兆円ある運用状況は、43%が国債であるわけ。ちなみに東証1部上場企業の株を買い占めて約340兆円だそうである。そうこういううちに、証券会社の講演会は終わり、私は、すっかり国債を買う気になって外に出た。しかし、多分、明日になれば、忘れるであろう等と考えながら、現在、4日たったが、すっかり忘れてしまった。ところで、先日、私は郡山ハルジ氏(写真入り)と心斎橋ワタル氏(写真入り)に梅田は御堂筋線最南端側改札出口にて遭遇した。そこでの話の詳細は、昨日、一昨日の日記で公開済みであるが、18年前、郡山ハルジ氏が学食の下で会った時の印象を教えてくれた。(ゴメン、私のほうは、あの濃いぃ顔しか印象に無くどのような話をしたかは定かでない)「顔は覚えてないのですが、表情を覚えています。俺の心斎橋を取るな、というものでした」私は、潜在的3%ゲイなんだろうかと一瞬躊躇したが、それはすかさず、心斎橋氏が自分のことのように否定してくれた。そういう心斎橋氏であるが、もう時効なので、彼に断り無く暴露しておくが、彼の住んでいた京都二条辺りの下宿では、彼はベロンベロンに酔い、私のほっぺといわず、机や柱にまでキスをしまくり、平静を装っていた。そういえば、浪人時代に診て貰った手相の一部始終詳細報告書を受け取ったのだが、その中で、神妙な顔をして女性易者に「ホモですか」と訪ねられて前面否定していたことが神妙に書かれていたなあ。
2004.11.24
コメント(6)
2004年11月23日4時56分、今日は息しかしていないので、昨日の続きを書くことにした。昨日、私は郡山ハルジ氏と心斎橋ワタル氏に梅田は御堂筋線最南端側改札出口にて遭遇し、悪意無き、悪しき寿司屋に入ったのであるが、そこでは、ユングの共時性についての熱い議論が展開され、心斎橋氏も「これは、今後の広告の仕事に全然役にたたない」と最上級の賛辞を惜しみなく発揮していた。 その後、私もカトマンドゥで体験したことを話していたのであるが、今日になって、実は、東京でも食ったことがあることを思い出した。某早稲田大学で宗教学を専攻していた親友に、その友達ハノマンさんも参加して大いに盛り上がったことに気がついた。今、ホームページ探したらあった。 http://www.hanomans.net/いやー懐かしいなあ~。お元気ですか。あの夜は、朝まで六本木のアシッド系ディスコで踊りましたなあ。あのとき初めてスパッツはきました。その後、中野区中野の彼の下宿に戻りながらも、まだ、眠気は出ず、銀紙でテレビの画面を覆い、テレビを見ていた。サイケです。その後、私は、荻窪の友達の家に行き、コタツで数泊した後、練馬の友達の家に行き、徹夜で「バイオレンスジャック」を読んだ。この練馬のKは、アテネのオリンピア空港で知り合った。彼は、カイロでシャネルの香水を1リットル購入していたが、多分、値段から推測して、おそらくフェイクであろう。しまった、18年ぶりに会ったハルジ氏と2年ぶりに会ったワタル氏のことを書くのをすっかり忘れていた、疲れてきたので。つづく、にさせていただこう。
2004.11.23
コメント(4)
2004年11月22日21時33分、私は郡山ハルジ氏と心斎橋ワタル氏に梅田は御堂筋線最南端側改札出口にて遭遇した。日本在住の心斎橋氏と私は、超高級寿司専門店を画策し、明日カナダに帰る郡山ハルジ氏をご招待しようとしたのだが、彼は、大阪城界隈を3周ジョギングして来たきり状態での参画となり、カロリーを大量に摂取しなければらんばらい事情や、マラソン帰りのため所持金は汗でベトベトに濡れた2000円しかないという事情を考慮し、急遽、くるくる回る寿司屋に変更となった次第であった。しかしながら、この高級な梅田界隈においそれと、回転してくれている寿司屋は発見できなかったのである。仕方なく、我々は、1皿60円よりという看板にわざと騙されて、回らない寿司屋に入ったのである。「一皿60円のウニを100枚持ってきてください」と言いたかったのであるが、その前にナニが60円か邪推するまでもなく、おばさんに聞いてみた。「わかめ巻きです。え、騙されたって、それほとんどのお客さんが言うんですよ、でもうちは味で勝負ですから、皆さん満足されて帰ってます」と先制攻撃を受けた。「わかめ・・・ですか・・・」我々3人には、明らかに不信感が漂ったのであるが、とりあえず、わかめ巻き以外のものを発注した。我々のために貸切にしてくれたのであろう、2階の大広間に我々3人だけがビップとして通され、曲も洗練されて、さながらロックンロール寿司バーという形相であった。「お客さんすみません、マグロが切れてます」そうやってまで着たばかりの我々を追い出したいのだろうか、マグロのない寿司屋が、あと6時間の営業に耐えられようか。我々が小声で不平不満を言うと、「ありました」と訂正された。「このダイサンゲンってなに?」と聞くと、すかさず、「きゅうりとたらこといかを巻いたものです」という心強い返事が返ってきた。というか、おばさんは、自分の携帯メールや携帯電話で忙しく、あまり仕事どころではなさそうであった。我々が小声で、わかめ頼むか相談していたところ、「すみません、いかが切れてしまいました」と訂悪された。「でも大丈夫マイフレンド、ダイニゲンができたよ、いか抜きだよ」彼女はアイデアウーマンである。値段はちゃんと引いてくれたのかと脳裏をかすめたが、まあ、きっと引いてくれただろう。 「おかわりありますか」とアイデアウーマンは更に猛攻の追い討ちをかけてきた。「この・・・わかめ巻き・・・・って誰か頼むことあるの?」「え、騙されたって、それほとんどのお客さんが言うんですよ、でもうちは味で勝負ですから、皆さん満足されて帰ってます。そうですね、女性客が注文することはあります」と先制攻撃を受けた。「じゃあ、うーんと、イクラ・・・」逐一、我々の濃厚な話題は、下階調理室に漏洩しているようであった。我々が、高校の頃の話題をすれば、その頃流行した音楽が流れ、我々がやばい話をすればやばい音楽が流れ、我々が高尚な話をすれば、高尚な音楽がBGMで流れ、スピチュアルな話をすればそれらしい音楽が、人の噂話をすれば、それなりに・・・。しまった、18年ぶりに会ったハルジ氏と2年ぶりに会ったワタル氏のことを書くのをすっかり忘れていた、疲れてきたので。つづく、にさせていただこう。
2004.11.22
コメント(4)
内閣調査室勤続13年の私が言うのも何だが、日本中枢を一手に担っている公園がある。今日は、特別に、読者の皆様だけに公開することにする。くれぐれも、他言しないようにお願いしたい。 その公園は、兵庫県西脇市にある東経135度、北緯35度に位置する「日本へそ公園」である。私は、まだ行ったことはなかったのであるが、急遽、時速140キロで中国自動車道を飛ばしたら、弱冠50分で到着した。西脇と言えば、横尾忠則の出身と、西脇工業高校が駅伝強いということぐらいしか、私の頭の中にインプットされていないのであるが、横尾忠則の為に作られた美術館があり、早速、へそは置いておいて(しかしへそ公園の敷地内になる)、館内に入ったのである。入口には呼び鈴が置いてあり、「ご来場の方は鳴らして下さい」と書いてあったので、思わず鳴らそうとしたら、じいさんが出てきて「ハイハイ、310円ね、いらっしゃい」と言って、入場券をささっと、渡すと、また奥の事務所(もしかしてアトリエ?)に戻っていった。一人残された私は、急いで入ってみる、と、これまた大盛況で、5回数えても、誰もいないのであった。横尾忠則の絵が12枚。以上であった。1枚観賞料金30円弱。プラス瞑想室が設けられていた。天井の低い、3畳程のその部屋は、ガラスブロックの壁に囲まれ、綺麗な絨毯が敷かれ、真ん中に黒いオブジェの箱が置かれていた。その後、へそモニュメントに行くが、先日の台風でか、多少、壊滅的になっており、修理中であった。しばし、芝生でへそで茶を沸かしながら、のんびりして、いそいそと、家路に向かったのであった。ちなみに、日本の中心として、未だ、死闘を繰り広げているのは以下のところである。喧嘩はしないで欲しいものである。日本の人口の重心 岐阜県郡上郡美並村 日本列島の中央 群馬県渋川市 日本中心の標 長野県辰野町 日本国土の重心 石川県珠洲市
2004.11.21
コメント(9)
時効なので白状するが、実は、5年程ゴルフをしていたことがあった。残念ながら、自主的に練習はしたことがなく、コースの経験しかない。デビューから5年後までスコアは微妙だに動かず、クラブが折れた瞬間、引退を表明した。 ゴルフとはいえ、チームを組んでプレイする訳なので、とにかく、迷惑はかけてはならぬと、打っては、走りと言う構図ができあがる。他者との同時進行であるが故、我侭な単独行動は許されない厳しい運動なのである。 キャディーさんが、ゴルフ暦5年にも関わらず、素人丸出しの私を憐れみ、「仕事なんかも真面目にされているんでしょうね。でも、ゴルフなんかにのめり込んでは駄目ですよ」と訳の分からない謹言を呈してくれた。いや、囁いてくれた。 すこしばかり惨めな気分になった。まるで、私が仕事で無理矢理誘われて、嫌々やっているように見えたのである。私が嫌なのは、ゴルフシューズのヘロヘロのヒダヒダの部分であった。 自慢だが、フォームは褒められていたが、いかんせん、飛ばないので、OBしてプレイング4に行った方がスコアがいいのである。3打ではそこまで飛ばないのである。致命的であった。「くそー」といって練習してもっとうまくなってやる根性が足りなかった自分を憎悪する余裕もなく、イソイソと走る。勿論、休憩場でビールの一気飲みはする。 負けても勝っても味わいのあるものだ、とぼやぼやしている私に、闘争心を!ともう一人の私が心の奥底で小さく叫ぶ。 真面目にやると病気になってしまう、と真面目に考えているので、病気回避の為にふざけている。ふざけたことを真面目にやらないように紳士になる、つもりになる。貴族とは、金も地位も自由に使える特権階級ゆえに、自ら抑制させ、欲望を暴走させないように、紳士の発想を生んだのが始まりだ。だから、よく考えたら、私には関係なかった。 もうロストボールを帰りに買うこともないと思いながらも、少なくとも小学校6年生までは偽善者ではなかったなあと思いながら、パットする。文集に「僕は金持ちになりたくないと思う。もしなってしまったら、恵まれない人々に寄付したい」と書いて、母に恥ずかしいこと書くなと叱られた。プレイが終わり、一同軽い食事が催された。その日のプレイを語り合っていたが、ゴルフ暦5年の私は、専門用語が良く分からず、取り敢えずただ聞く人に徹していたのだが、まわりは悲惨で優雅な成績を収めた私が、底に落ち込んで深みにはまっていっているのだと勘違いし、慰めの言葉もなく、ナンだか、本気で惨めな気分になってきてしまった。その日、久し振りに夜明け前に起き、車を走らす窓から朝日直前の形容し難い美しい空と、都会と、オレンジの海を見て気分がよかったのに。
2004.11.20
コメント(11)
阪神競輪場跡地に大規模なマンションが建つ。私は、数年前のことを思い出した。その日は雨が降っていた。労務者ルックという正装は持ち合わせていなかった。阪神電車に乗り込むと、あちらこちらに競輪ブックを真面目に読む男達が見受けられる。私も、似非ギャンブラーになり、駅の売店で適当にスポーツ新聞を初めて買ってみて、研究するふりをするが、読み方が分からない。普通の乗客に怪訝に見られているのではと自意識過剰になる。平日に競輪に行くの丸出しの勇姿、誰が見ようぞ。張り切って甲子園駅。眼力はないが、何となく気合の入った男達が駅からぞろぞろ出てくる出てくる。そのぞろぞろの一味として私も紛れて付いて行くわ状態になる。バスには、ギャンブラーたちがこれ以上乗れないと分かっていても、押して無理矢理乗ろうとしている。誰かが叫ぶ。「後ろにもう次のバス来とるやないかい。待ったらんかい」私は、心の中で密かに思う。「いいぞいいぞ、罵声、いいぞ」 50円という入場料を払って、競輪場に入ると、言葉は悪いが「わいは人間のクズやもんね。もう捨ててるもんね、守るもの何もないもんね」的な人間が狂い咲きして乱れている。なんて、強い世界なんだ。憧れこそしないものの、どこか羨ましいものがった。幼稚な電子音の音楽が流れており、まさしく、イッツアスモールワールド。 その音楽とは言いがたい音は、発券の締め切りが迫る程に、音楽が変わる速度が速まり、心なしかアップテンポしていき、イソゲイソゲイソイデハヤク賭けろ!と我々の潜在意識に語りかけてくる。労務者達の正しい遊園地である。ツワモノたちは、音楽にせかされながらも、ギリギリまで窓口近くで迷っている。いじらしさがカワイイと、女の子なら思うかも知れない。ゴール前に陣取り、様子を伺う。雨のせいで、天井があるところぎりぎりまで男達は群がり、選手に罵声や応援を浴びせかけ、ついに興奮して金網をがたがた揺らす。吠える。ナンだか、言葉の奥に、人生の弱々しさを感じ、わしらは敗北者じゃ、という開き直りは既に消えていた。吠える、という行為で発散しているようにも見えなかった。それはただ吠えていた。勿論、選手は無視するのだが、余計にむきになってがなりたてている。レースは始まった。2週目。場内に静けさが訪れた。歓声はない。罵声が少し。選手はなだれ込むようにゴール。いったい何番が1位か分からない。しかし、周りの男達の鍛えられた動体視力は素晴らしい。「けっ、2-5やんけ」と口々にぼやき始めた。それも全員がぼやいているのだ。どうやら配当が低かったようだ。勝ったと思われる男達も何故かぼやいているようであった。私は、フト自分の買った券を見た。5倍である。ビギナーズラックである。しかし、3点買いだったので1000円が1600円になっただけであった。連勝複式には何万枚もの賭け金が集まっているのだろうが、複式にはせいぜい何十枚しか賭けている枚数がなく、中には1枚も賭けられていない組数もあり、私は、100円でその番号を買い、ボードに1の数字を浮かばせて「うーん、優雅な遊びですわ、でも幼稚な遊びですわ」というフレーズをインドのエローラ寺院、高校3年の落書きの時以来人生3しかこのフレーズ使ったことないなあとつぶやき、ちょっとしみじみした。よく見ると、背広男も数人、カップルも数人見受けられ、そのうち流行るのではないかと一瞬だけ思った。最初の3回3連勝、その後、全部負けと言う輝かしい成果を収め、一生に一度の競輪賭博参加は終わったのであった。
2004.11.19
コメント(4)
休みの前の日に、意を決して睡眠薬を飲んでみた。が、私の神経は、いつも通り冴え渡り、頭脳明晰のままであった。少しはフラフラすることを期待していた、というのは本当だが、眠くもならないので、仕方なく読書を開始した。次に私が意識を取り戻したのが、12時間後の午後1時30分であった。膀胱は満タンであった。秋の気配を感じた。人間の細胞は60兆から出来ており、毎日、50億個ずつ入れ替わるため、平均200日で全部入れ替わる(つまり1日3食とするならば600食分で体質が変わるといえる)胃の粘膜は3日、骨は500日で変わる。 インドでは何度か腹を壊したことがるが、その夜もそうだった。友達2人で、路上で売っているアイスクリームを買って食べたのだ。正確には3人いたのだが、素手で、アイスクリームをわしづかみして手渡そうとする屋台の親父を見て、一人は拒否したのであった。 「そんなもん、全然汚くないわいな。もう1ヶ月下痢なんかしてないんだぜ」と私は少し興奮気味に言った。そして、ペロペロ舐めたアイスクリームは、まずまずの旨さであった。 ネット風にいうと、キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!その友達とは、やがて悲しき便所の争奪戦が始まった。その便所はいわゆるアジア式便所でしゃがむ便所であった。そして恐るべきことに、汚い話ではあるが、終えた後、状態を確認しようと、下を覗き込んでみるが、ない。完全な液状化現象を起こしており、痛みが小腸を順番に降りていくのであった。汚い表現を優雅に表現するとすれば、米の研ぎ汁であった。「はやくしろー」と友達は叫び、トイレのドアを叩く。数分後「はやくしろー」と私は叫び、トイレのドアを叩く。次郎の家の屋根にも太郎の家の屋根にも雪が降っている場合ではないのである。おまけにデリーは慢性的な停電が時折起こり、真っ暗闇の中でナニをいたさなければならないという2次災害にも見舞われたのであった。 翌日になってもお盛んなままであり、今夜の深夜特急に乗る我々はこの闘争が、列車の中でも展開されるのであろうかと、焦燥感に駆られながらも、便所参拝を再三再四繰り返した。食べなかった野郎は、やや冷ややかな目と明らかに勝ち誇った笑みを浮かべていたが、そんな彼にはもう連帯感はなくなった。 マイカンプ(我が闘争)は、ようやく、翌日の夕刻には回復の方向に向かいつつあった。しかし、汚い話ではあるが、肛門が開かなくても出てしまうものは出てしまうのである。 我々は、夜行列車の電撃戦を延期するか散々迷った挙句、敢行することにした。追い詰められた時にアイデアは出てくるものである。テッシュをお尻に挟んで、我々は駅に向かう為、オートリキシャーに乗った。しかし、そのオートリキシャーは途中でエンストを起こし、「列車の時間に間に合わなくなる~(日本語訳:トイレに間に合わなくなる~)」 といい、別のオートリキシャーに乗り換え、駅に急いで行ったのである。しかし、人間とは精神力である。一歩外に出たら男は7人の敵がいるという。もはや、いつの間にかトイレに不意に行く必要はなくなっていた。優しい気持ちで、自分の体内を称えたのであった。私は、大妻女子中高大学の教訓恥を知れを学んだのであった。
2004.11.18
コメント(6)

イランの京都(古都)イスファーンを流れる川がある。そこに、橋が何本か架かっているが、そのうちのひとつにハージュ橋というのがあった。(Hで始まるがHは黙字で、地元の人にいくらハージュ橋はどこか聞いても通じなかった。地図を見せたら通じた。アージュ橋が正しいようだ)その橋の下には、装飾で埋め尽くされたお茶屋があり、賑わっていた。そこで水パイプを思いっきり吸った。夕陽が川に沈んでいく様子を腰に手をあてたまま、眺めていた。頭の中に電波が走った。「帰ったら京都の桂川の橋の下へ行け!」数ヵ月後の帰国後、私は京都、嵐山に急いだ。渡月橋に辿りついた私は、ボートでラヴラヴカップルをよそに、早速、橋の下に降りた。そこで、見たものは、ナント、鶏の足跡だった。京都は、秋も深まっていた。 私はおおよそ10冊程度の本を平行して眺めているので、内容が全然頭に入らず、おまけに3日程度に本を替えていくので集中力散漫になっているのだが、梁石日の「魂の流れゆく果て」というのは1日で読めてなかなか良かった。処女作「タクシー狂躁曲」を昔作者でなく題名で買って楽しく読んだなあと何か懐かしかった。勿論、「血と骨」は2年ぐらい前にはまりました。
2004.11.17
コメント(2)
今日、支払いをしたら、お釣りをくれたレジの男が、そっと私の手に触れた。マッチョなゲイであることは分かった。昔、私は大阪のゲイの集まる梅田の一角に住んでいた。入居者の95%は夜からの仕事に勤しむ方々で、夜の8時に戻っても、マンションから漏れてくる光はゼロであった。そして、夜中の3時に鉄骨階段に響くハイヒールの音でしばしば目を覚ましてしまうおぼこい私であった。住んでいた隣はラブホテルで、男同士入っていく姿を何度も目撃し、それは自然であった。ある日、私は、後輩とその彼女の3人でゲイディスコに遊びに行った。満員でムンムンする中で女性は彼女一人であった。我々はカウンターに座り、静かに酒を飲んだ。トイレには行列ができており、なかなか人が出てこなかった。少し危ない感じだった。カウンター越しに声をかけてきた男。「ホラ、あそこにいる男の子、あなたのこと気に入ったんだって」と彼は言った。「自分でいうのは恥ずかしいから、私に声をかけるように頼んできたんだよ」と彼は付け加えた。年齢層は、20代の人々が多く、従業員によると、多くはサラリーマンだという。普段はカミングアウトしてる訳ではないので、社会に溶け込み、仕事をそつなくこなしている人達ばかりだとう。ネクタイこそしてなかったが、男に声をかけることにできない恥ずかしがり屋の彼も昼間はマジメに働くサラリーマンだという。「ごめん、私はゲイではないんだ」といえる空気ではなかった。それで私は何か違う言い訳をしたように思う。本当にここは自由だと、満面で踊る男達。ここに本当の自分がるんだと目を輝かせる男達。私は、そのパワーにやられて店を出た。
2004.11.16
コメント(2)
ある日、バンコクのスクンビット通りの夜。トロトロと目的もなく歩いていた。屋台に座っているオカマ3人に声をかけられた。「ここに座って一緒に飲まない?」って。私は、座って、シンハビールを注文した。いやもしかしたら輪ゴムのようなメコンウイスキーだったかも知れない。我々は意気投合して、彼(彼女?)の誘いに乗って、住んでいる所に遊びに行くことにした。誰かについていく時はいつも来た道順を忘れないように、注意深く彼らの後ろをついていく。彼らの住まいは、いわゆるラブホテルであった。入った瞬間から照明は薄暗く、何かタイ映画のビデオが流れていた。そして部屋には、まだオカマが2人いた。私たちは、最初はまだ談笑を展開していたのであるが、やがて、悲しく予想された通り、そのうちの2人がキスを始めたのを皮切りに、あれよあれよという間に一つのダブルベッドの上で、乱闘騒ぎになり始めた。ヤバイ、私の背中に戦慄が走った。このままでは巻き込まれてしまうと、ウジウジしている間に、既に、まさぐられ始めた。「これは本格的にヤバイぞ」という間にも、彼らの猛攻は続き、私は猛烈に焦り始める。私は、カミングアウトするが、ヘテロであり、おまけに、いくらタッチングされようと、当然愚息もヘナチョコのままであった。しかし、私の脳裏に一瞬だけ妙な考えが3パーセントぐらい走り始めた。「まあ、一回ぐらいいいか」と。しかし、私は、正に、理性の人であった。私は、不意に立ち上がった。彼らに水を差してしまったのは申し訳ないが、私は即座に言い訳をした。「今、私の泊まっているホテルに気持ちよくなる媚薬(麻薬)を置いてるから取って来るよ、待っててよ」と嘘八百万を発声した。何故か分からないが、そのうちの一人が、「じゃあ、戻ってくるまでお金を預かっておく」と訳の分からないことを言い出し、3パーセントあった私の世知辛い思いはマイナス300パーセントになった。私は、逃げるように、ホテルのドアを開け、とにかく適当に逃げていったのであった。
2004.11.15
コメント(4)
今日はやぼようがあって卒業した大学に行ってました。恩師は、既に84歳だったのですが、夢がありました。ミクロネシアの国々(島々)には大学がないそうです。大学を出ても働き口はないし、卒業したとしても移住してしまうからです。そこに大学を作りたくて居間、頑張っておられます。戦後、ミクロネシアの国々は独立していきましたが、アメリカにせよフランスにせよ、旧宗主国はそれなりに(傲慢であるかも知れませんが)面倒をみているといいます。しかし、日本は何もしていないという現状があります。では、大学を作ったところで、何か地域に役立つような専門的なものはないのか、ヒアリングしたところ、自動車の廃棄物の処理など、ゴミ問題が今、大変困っているということが分かって、環境学をメインに舌「大学はどうかということで、走り回っておられるようです。キング牧師じゃないけれど、「まだこの年になっても夢があります」っていった先生の言葉にしびれた今日でした。
2004.11.14
コメント(2)
何を隠そう、初めて行ったロックコンサートは「レインボー」だった。当時は滅法気に入ってたアリッチーブラックモ。とにかく、演奏はギャーギーギョーヨヨーンという感じで全然曲が無茶苦茶に聞こえた。お決まりのギター破壊があり、燃えた。当時、まだMTVも日本に入ってきておらず(故にビデオバンドといわれたディランディランとか存在しなかった)、見れる海外音楽テレビと言えば、小林勝也の「ベストヒットUSA」だけだった。その中で、ある夜、ジミヘンドリックスのギターを燃やすシーンが出てきた。「かっちょいい」私は、元祖ギター破壊ジミヘンに狂ってしまった。いやはやコンサート会場を出た私の耳はまだキーンとなったまま、よく聞こえなかった。昨日の血痕士気には、母の弟も来ていた。専ら、無教養で憎めない自由人な感じである。8月に数年ぶりに田舎に行った時に会った。彼は「お、ひさしぶり」と言う言葉は発せず、「おまえか。ビール飲もか」といって瓶ビールを数本出してきて、昨日も出会ったように世間話をしている。「それでよ、おまえよ、」と話に必ず枕詞が出る。彼は植木屋である。私の植木屋のイメージは(造園屋でもガーデナーでもない)昔、ヤク中から更生して、いまはのんびりやってるよ~ってなものだ。彼は、実家の仕事を手伝っていたのだが、1回目の離婚をきっかけに植木屋に見よう見まねでなった。昨日も同じテーブルで笑っていた。隣に座っても落ち着く珍しい親戚である。彼が、「おお、アラファト死んだなあ」といって少しびっくりした。が金持ちの家庭に生まれ事業に大成功した後に、パレスチナ解放のに身を捧げた30歳からずっと中東の中心人物、そら知ってるわな。関西には近江の薬売りが。関東には新潟の毒消し売りが。関西では箱寿司が。関東では握り寿司が。関西では油揚げがのったそばが。関東では揚げ玉(天かす)がのったそばが。関西では腹から裂いて蒸さずに焼く蒲焼が。関東では背から裂いて蒸して焼く蒲焼が。これもフォッサマグナの影響か。
2004.11.13
コメント(2)

今月はお葬式と結婚式があった。っていうか、結婚式は本日あった。っていうか、つきあって3ヶ月の電撃結婚であった。っていうか、結婚したのは従弟だが、割と冴えない奴であった。っていうか、同居するのである。っていうか今日は平日なんだけどなあ。両親をピックアップし、式場に向かう。私は、結婚式白ネクタイ反対論者なので、白ネクタイはしない。変だから。神社での挙式であったが、不覚にも靴下に穴が開いていたので、不必要に緊張した。食事会では同じテーブルに下品な親父がいて、気が滅入った。今までの思い出深い結婚式、ケッコンパーティ結婚式会場と2次会会場が何十キロも離れていたK夫妻。2次会にK夫妻が現れたのは、お開き20分前。交通渋滞に巻き込まれ、新郎新婦なきパーティであった。「久し振り、2次会来てくれないかなあ」と電話があったのは今まで数回しか会ったことのないT君。行けば、15人ぐらいの小規模なパーティ。彼は最後の挨拶で「今日の2次会は厳選に厳選を重ねて一生付き合える人だけを選んで招待させていただきました」と言った。その日以降、彼から連絡はない。俺結婚するねんけど、結婚資金ないねんとN君。式に呼ばれ、日本海まで泊り込みで出かけていった。めでたしめでたしだけど、結婚資金30万円貸したまままだ返ってこないまま10年以上経過。多分来週返してくれるいだろう。気がかりなのは、既に彼の住所不明なことぐらいだ。大阪の一流ホテルで結婚したM氏は、ホテルの部屋まで用意してくれていた。そこに後輩7人を呼び込み、ドンチャン騒ぎ。結婚で浮かれていたM氏に「飲み物ルームサービス頼んでもいいですか」と言えば、よっしゃよっしゃと彼は上機嫌に返事してくれた。ボーイがルームサービスにやってきたとき、後輩7人をバスルームに隠した。「ドンペリニヨン2本ご用意させていただきました」以後、会うたびにM氏に「金払え」と言われているが、誠心誠意無視している。K夫妻の結婚式には我々大学時代テーブルには絶対やってこない。招待しながら明らかに無視している。仕方ないので2次会で無理矢理呼びつけて飲ませまくったら、その場で吐いた。それも吐きそうになったのでKは口を押さえたのだが、嘔吐物の量が多すぎて、口内体積を越え、抑えた手の指の間から、ピューっと線状に嘔吐し、前にいた人の衣服にぶっかけた。その後、ホテルに向かうタクシーの中でも嘔吐した。見舞いのためにまた我々はぞろぞろK夫妻の部屋に行くと、彼は既に泥酔状態で倒れていたので、これは大変だと、急いでシャンペンをルームサービスした。以降、奥様は、露骨に大学の友達を避けている。SK氏結婚式には少し仕事で遅れますといっていたのに、披露宴会場に行くと、席がありません、と言われた。司会をしていたKK氏が全然食事に手をつけていなかったので、そこにこそっと座ってKK氏のふりをしてコース料理の途中からたらい挙げた。実家からは全長3900メートルの明石海峡大橋が見える
2004.11.12
コメント(11)
先日、生まれて初めて心療内科というのに行った。私は、おかしくないということを証明したくなったのだ。しかし、初めにどんな症状ですかという欄でいきなり困ってしまった。取り敢えず「物事に対して無気力」と書いた。 決してよく眠れる薬を大量にもらおうとか、感情を抑える薬を大量に貰おうとか、ちょっと違う世界に行ってしまうような薬を大量に貰おうとかいう魂胆はなかった。 それに、混んでいたので、また今度にしますといいそうになったのだが、また今度にしたらもう永遠に来ないと思ったので、暫く待つことにした。診療の前に聞き取りをしますということで、女性の人が出てきた。彼女は香山リカ似の先生で、向こうも若いハンサムな男性だからか何か緊張しているようであった。私のほうから実は主張することはなかったので、質疑応答に答えることにしたら、概ね自分の中でちょとだけ整理できたようで、まずまず順調な滑り出しかと思われた。私は子供時代にヒーロー体験をしていないような気がした。父親ともこの30数年間に、のべ30分も話をしたことがないことにも気がついた。何でもかんでも最近はトラウマだのPTSDだの流行の言葉で済ますのも問題解決にはならないが、原因究明した気分になるのもなんだかなあと思った。ナンだか、他の患者さんに申し訳ない気がしたし、自分では何もわざわざ来る必要もない程度だったんですよ、と何故かリカ先生に謝っている自分がいた。待合室の患者の中には明らかに目の焦点があっておらず塞ぎ込んでいる人もいる。これが演技だとしたら結構簡単な演技だなと不謹慎に思う。隣の人はなにか機械工作の勉強をしている。いたって普通に見える。他のほとんどの人々も外見は普通で、普通が何か分らないが、心の中を患っているとすれば、ナントもオトロシイ気がした。そういう私も冷静にアンティーク家具仕入れの本を読んでいる。心の中では何を考えているのだか。診察にあたってくれた初老の先生も人当たりのいいおだやかで優しい先生であったが、的外れで来ているので、先生もナンだか的外れな質問を私にしているような気がした。先生は困った。「睡眠不足ですな」というわけで、何故か、いつも眠くて仕方ない私は睡眠不足と診断された。ちょっと違うのだけどなあと思いながら、もらった薬を先ほど寄ったツタヤの袋に入れたまま、映画を見るのも忘れその日は寝てしまい、結局映画を見ずにつたやの返却ボックスにDVDを返却して、翌日電話がかかってきた。薬をもらったことさえ忘れていた私は、照れながら、薬をビデオ屋にとりに行ったのであった。結局、自分が狂っていないということを証明するのは難しい。
2004.11.11
コメント(9)
もう時効なので、隠し事はしないが、子供の頃、考えてみれば、割とお金を貯めていた。私の母はよくできた母で、貯金をしておくからと私からお年玉を巻き上げることもなく、あんたが余計なことに使ったらあかんからと私からお年玉を巻き上げることもなく、私といえば小学校4年のときに双眼鏡を一回買っただけで、後は貯め続けた。双眼鏡は今もちゃんと存在し、箪笥の肥やしになっている。店員がこの臭いがいいのですよといっていたのだが、拡大して風景を見ているうちに臭いで酔って、子供の私には気分が悪くなるということも計算に入れていたのだろうか。そうこうするうちに中学生になる頃には、既に私のへそくりは14万円になり、既に今の全財産より少し多いくらいになった。私は時々、そのお金を眺めては、そうだそうだとあちこちの本の間に挟んでは、隠した面白さに贅に入っていた。そのまま捨てたりされただろうから、多分数万円は損しているだろう。しかし、その圧倒的な財力は大学1年まで続いた。へそくりは、まだ10万円以上あった。おまけに大学に入ると、アルバイトを始める。が、必要なお金以上は働く気もなく、学生の本分である勉学にいそしむ、筈もなく、だらだらしていた。しかしながら、私は18歳で、いわゆるインド病に罹ってしまっていた。当時、エアインディアが格安航空券でナンと16万円。それもまだHISが秀インターナショナルという社名時代で、一番安くてそれであった。ようやく、バイトをして16万円+滞在費を貯めた瞬間に、親の車をぶつけて7万円の弁償をした。もはやインドは諦めなければならないのかと想ったが、ついにへそくりが日の目を浴びる日が来た。秀インターナショナルの私の担当者小西さんに残金を払いに行った。ナントそのお金は、旧1万円札であり、小西さんの目は、驚愕の目であった。私は誇らしくも少し恥ずかしかった。それで残ったお金は3万円であった。その3万円を持ってインドに1ヶ月の旅に出かけたのであった。
2004.11.10
コメント(8)
かつて、トルコのイスタンブールからギリシアのアテネまで約1200キロ24時間のバスに乗ったことがある。オスマントルコやセルジュークトルコと世界を過去に風靡したトルコとヘレニズムなしにヨーロッパなしの過去の栄光を持つギリシアであるが、今は、やはりギリシアがトルコより経済的に優位に立っており、少しギリシアはトルコを見下した所があるように思えた。バスには、私日本人とその他はほぼ全員がトルコ人であった。バスは快適に近かった。しかし、国境で、トルコ人の荷物の多いこと。それを徹底的に調べられていた。私は、パスポートを見ただけで、荷物の検査はなく、すぐにバスに乗れたのだが、検査が終わりバスが再び出発したのは1時間以上してからであった。私は、両替所を探したのだが、それはなかった。(見落としたのかも知れない)私は、夕刻からギリシア通貨のドラクマなしに、アテネまでをひもじい思いをしながら過ごした。国境を越えて、ヨーロッパの香りが漂った。立ち寄ったトイレも清潔になり、エーゲ海を臨み、腹減る現状を無視して、食事休憩をやり過ごした。レストランで、トルコ人が手招きしてくれ、食事をおごってくれた。その老人は英語は喋らないどころか、寡黙な状態で、金はいいといってくれた。私はタカリヤではないが、こんなときに、この人たちとは絶対戦争をしたくない。もしそうなってしまったら、殺される方がましだと、安易なことを考える。
2004.11.09
コメント(4)

日曜日の電車に乗った。まずまず混んでいた。やる気のなさそうな生のエネルギーの弱そうな若いカップルが弱って座っていた。後ろでは、早口で喋り捲る女性2人。すぐ近くなのに何を言っているのかいまいち理解できない。注意深く聞く気はないのだが、2,30年も日本語を使い続けたらこんなに早く喋られるようになり、親密度にあわせて、言葉の省略やアレコレドレ言葉が増えて、何かすごいなあと思った。あ、うん、は小津映画だと思うが、外国人に人気あれど分るのだろうか?私はよく分らないと思った。鈍いんだろう。前は、娘と老夫婦。結婚した後でも娘が親と仲良くしているのは微笑ましいことだ。それでも最近友達母娘というのが流行っている。私は、自分が自分でないようだ。斜め後ろはスポーツ新聞を読んでいる親父。背中に釣りの針の種類がいっぱいプリントされている。新聞紙の音。休日の地下鉄にも乗った。休日のモノレールにも乗った。20年ぶりに国立民族学博物館 に行った。考えれば前の館長梅棹忠夫「東南アジア紀行」 に感化されたなあと思いながら、ぶらぶら歩いた。万博公園 は混んでいたのに、館内はガラガラであった。しかし、案内人がやたら多く、すぐにメーアイヘルプユーと言われそうになる。以前、マニラ空港で、もうイミグレーションに入って、デューティフリーショップをうろうろしていたら、やたら私を見てトランシーバーで何やらいい、そのあとすぐに、「何が欲しいですか」といいよってくる不思議なことがあった。「日本人発見」と連絡を取り合っているのでろうか?多分、私の妄想であろうが。先日、私は、意を決して登山に出かけた。山頂を探すのが困難であった。一番高いところより低い所に山頂があった。http://sano567.web.infoseek.co.jp/tenpouzan/http://box.ojiji.net/nago/osaka/tenpo.htmlhttp://outdoor.site.ne.jp/mountain/tenpouzan/tenpouzan.htmhttp://hys3.com/1008/katsuraga.jpg
2004.11.08
コメント(2)
ダダの旗手マルセルデュシャン展を見に行った。大阪万博記念公園内にあった国際美術館 の移転オープニング1号としての開館記念催し物であった。点数は少ないがディシャン以外にウォーホールやジャスパージョーンズやジョンケージや、ビデオアートのナムジュンパイクもあった。そういえば、現代美術館で面白かったのはフィンランドのヘルシンキにあるキアズマ駅の近くにある便利ななかなか凝った建物、吹き抜け、曲線美、塗り斑の壁、高い天井、突き当たりに窓があり外がヘルシンキの風景が見える。美術館の帰り、堂島川沿いを歩いていた。秋の虫の声がする。こんなビル群の中でもすごいなあ、と思って風流残っているなと思っていると、何か変だ。草むらをよくみると、スピーカーが仕掛けられていた。だまされた。こういうニセモノの自然音好きじゃない。 ところで、悪は滅びるのだろうか。善人が究極的な勝利を得たという話をなかなか聞くことができない。悪いことをした奴は報いを受けなければならないと、我々は悪人に嫉妬する。勧善懲悪に酔い、我々の心の奥底に復讐心が芽生える。
2004.11.07
コメント(6)
大阪や兵庫に住みながらもなかなか指摘にあがらないおもろい現象のひとつにJR宝塚線というのがあり、大阪駅から快速で三田市(人口増加率日本1のベッドタウン)まで36分であり、その間に尼崎市、伊丹市、川西市、宝塚市、1駅だけ神戸市、そして三田市と平均6分で市が変わるというのがある。乗っていて意識するとなかなか楽しい。 NTT電話の加入権が半額にあるらしい。これっていずれ廃止になるに違いない。質権として売買されているものの、NTT自体の買取は昔からなかった。廃止になっても買取しない。はっきりいって電電時代からの詐欺である。1件72000円であった。電話の加入台数を考えると、何千億円の詐欺だ。ここまで大きくなるとあまり問題ではなくなる。私も昔一度NTTから購入し、今も知人に貸しぱなしだ。今の家はネットで安く権利を買ったがそれでも4万円ぐらいしたような記憶がある。むかついてきてしまった。 家の近くに、子供の性別の産み分け人工授精を実施している産婦人科があり、日本産婦人科学会から除名されている医院があり、昔から時々、ニュースになり、今日もなっていた。そこを夜に通るたびに、明かりを見てしまうが、割と電気がついている。今日は、豆腐を食べた。長ネギを切らしていたので、ラー油をかけた。以前知り合いが、豆腐にラー油をかけた。私はびっくりして「それは違います」といったものの、私も真似してみたらまあまあ美味かった。そのままそのことは忘れていたのであるが、先日北京のホテル(5つ星グランドハイアット)の朝食バイキングで豆腐があり、その横に何かかける汁があり、それを前の人がかけて「わあ、これラーユやないか、げげええ」と言っていた。私は、おお結構これって、マヨネーズにご飯的組み合わせでもなかったのだなあと、しばし感慨深く陥った瞬間であった。
2004.11.06
コメント(3)
勝手に好評により昨日の続きデカン高原にあるアジャンタ石窟寺院を思いを馳せ、私は、その後10数年の時を経て、日光に向かった。どちらも歴史の教科書に写真入りで出てくる場所である。あのド派手な装飾と色使いが何故日本に出来たのか?徳川家光はイッテしまっていたのか。どうみてもヒンドゥー原色やイスラム細密画のようである。その謎を説明は出来ないとしても感じる為にやってきた。 お決まりのどこも大差ない万国共通の土産物屋が寺院に向かう参道や駐車場周辺を埋め尽くしていた。おまけに土産物店員又は主が、マジックでPと書いたボードを振り回している。素人が見れば思わず車を停めてしまう勢いだ。Pは勿論、PEACEではなく、駐車場である。ここではご多分に漏れず、初めて来る人は皆、素人だ。このPの誘いに乗ってしまった素人観光客はおおよそ土産物を買わされたり飯を食わさせられたりするに違いない。しかし、確実にいえることは、インドのように外国人だからといって10倍ぼったくることはない。考察するに、どうやらこのP攻撃を抜けなければならないようだ。何故なら公式駐車場もしっかり無料であるからだ。 さて、日光の東照宮は寺院の中のひとつであり、寺院が数箇所あり、それぞれの通し入場券を購入して、組織上げてぼったくっていることが判明したが、ここは仕方なく1000円以上の入場券を支払う。ちなみに、今は知らないが、アジャンタ石窟寺院の入場券は15円であった。 ここでは坊さんや巫女さんが寺院の説明をしてくれる。また団体のガイドさん、それに何故か同じ変わった色の制服を着た専門ガイド?のような人もいて、人々はオートマチカリーに金魚の糞になる。そしてどの寺院に行っても、説明してくれる坊さんや巫女さんの説明内容の約半分がお土産お守りの説明であり、寺院上げての集団総合土産物売り活動に専念している。しかし、確実に言える事は、インドのように外国人を見たらこちらの意思に関係なくオートマチカリーにガイドになり勝手に説明して、10倍ふっかけてきてオートマチカリーに喧嘩になって揉めるということはない。 ボヤボヤしている間に、近隣の荘厳の滝に飛び降りたり、中禅寺湖で水泳したり、いろは坂でほへとにする時間もなくなり、派手であったなあという簡単な感想を終えて帰った。 ついでに、寺院内で結婚式を挙げていいるカップルがいて、私が思ったことによると、とても恥ずかしくて100万円くれてもさらし者になりたくないということと、寺院におもくそぼられたんやろうなということである。 地獄の沙汰も金次第って本当に本当だよ。 ついでに寺院を歩きながら考えていたことは、言葉を合体させたら後の言葉が濁るのだが何か法則があるのだろうかということであった。本と箱 ほんばこ 本と棚 ほんだな しかし本と籠 ほんかご 本とケース ほんけーす 等、多分例外はいっぱいあるだろうが、後の言葉がカタカナ(外来語)であったり、すでに濁音が入っていたりすると濁らないことが多いことが判明した。しかし、これは日光と全然関係なかった。
2004.11.05
コメント(4)
日光東照宮に行った。日本では異色のヒンドゥチックな寺院。行きたいなと思ったのは10年以上前か。 時計を持っていなかった。今、何時なのか、ここはどこの駅なのか、いつ到着するのか。ついでに何故なのか。今、思うことは、ネパールのお湯で薄めるチャイより、ミルクで漉していくインドのチャイのほうがおいしいということ。正義正論はしばし非現実的だということ。列車の進行方向が変わったということ。欲望がなくなったら楽で退屈な人生が送れるということ。バナーラスを出て二十時間。車掌はこのジャルガオン駅で乗り換えだといった。車掌のいったことは正しかったのかも知れないが、私は何となく駅を出た。バスに乗るが、雷が落ち、大木をなぎ倒し、道をふさぎ、三時間バスは止まる。その夜ようやくアジャンタ村に着き、泊まる。 何故か、その夜、デカン高原の大地で意味もなく日光に行こうと思った。いつか。
2004.11.04
コメント(4)
昨日から、関東に行っていた。新幹線での読書の中でシブイネタを発見したので掲載して今日を誤魔化す。「今までは失恋の常習犯だったんだ」「君は解きようのない謎だ」「君の全てを盗みたい」「フラれた回数・・・電卓がいるな・・・」「失恋の領収書はないぜ」座席から滑り落ちたぜ・・・
2004.11.03
コメント(7)
ある暑い夏の日に、背広を着て、名古屋の向こうの地方都市に行った。お寺に行って、焼香をあげた。 汗が出た。数珠を忘れた。私は終止無言であった。誰も知り合いがいなかった。お経が続き、アフリカで死んだ友達のことを偲んだ。 ある暑い夏の日に、私は、正座し、しびれる足を我慢しながら。「また、会社を辞めて、旅に出ます」と彼は手紙をくれた。「またインドに帰って来ました」と彼は手紙をくれた。「アジアを横断し、アフリカに行きます」と彼は手紙をくれた。私は、何度か、大使館付けで手紙を何度か送った。彼と、今後の旅行を楽しもうと、別れたイスタンブール。 手紙は途絶えた。 彼の死を知った。「便りなきは、良き便り」そのときまで、その言葉を信じていた。 バスに分乗し、綺麗な公園墓地に行った。汗が流れた。綺麗なお墓があった。お母さんが、「この後もささやかですけど、食事がありますから食べて行って下さい」といってくれた。 でも、私は、こそっと、言葉もなく帰ってしまった。数日後、母から電話があった。「息子の手紙を整理していたら、あなたがよく出てきましたよ。ありがとう」と。彼の友好関係は多岐に渡りすぎ、母も、恋人も、彼の交友関係を把握することは困難であった。 毎年、母から年賀状をいただく。スペイン、ジブラルタル海峡で、この向こうの大陸で彼は死んだんだな。と私は思った。
2004.11.02
コメント(4)

アールヌーボーの巨匠、エミール・ガレ没後100年展ちに寄って来た。はじめのガラス工芸品は、美しく、まともなのだが、足を進めるに、狂気の部分が交じってきて、思わず嬉しくなってくる。しかし、来ている人々の足は、心なしか早くなっていく気がした。 ここにはいくつかのアールヌーボーのポスターもあり、ミュシャが改めてとてもよく見えた。やはり本物は何か訴えるものが違うのだろう。そう思っていたら、テレビをつけたらミュシャのポスターを売り出している番組があり、彼の簡単な伝記をやっていた。そう思っていたら、自動販売機の缶カフェオレまでアールヌーボーの登場であった。シンクロニシティなのか、単に、その言葉に敏感になっていただけなのかは分らない。 とにかく絵葉書50枚買ってしまった。 ついでなので、ちょっと気になっていた隣の駅のなにわ海の時空館というところにも足を伸ばした。何となく面白いという噂を勝手にネットで聞いていたからだ。(最近、近場、ドコデモしょぼいとこエクスカーションが一人で流行っている)海中道を通って本館に行くのだが、金がかかっている割に、ああ、と若干落胆できるところがなかなか良かった。カップルか家族連れオンリーという所があまりよくなかった。それに、背広も私だけというのも何となく居心地が悪い気がしたが、多分、気のせいだろう。 スターウォーズ展もやってたのでついでにみた。 と、そうやって遊んでいたら時折、罪悪感を思い出してしまった。あのとき私は生き残ってしまった。生き残った人と、死んでしまった人の違いは?こんなことしていていいのだろうか?力になれることしていないのではないか?今、楽しんでもいいのだろうか?不謹慎ではないか?自分の財産を有効に使えているだろううか?もっとこうしたらよかった、こっちを優先してしたらよかった、あれもこれもしてあげたかった・・・こういった感情を持った人がいっぱいいたように思う。 と、よく知る人の父親が亡くなられました。私は、お会いしたこともないのですが、危篤状態の時、何か、何も私はしていないのですね。してないというのも傲慢ですけど。周りの人たちは懸命にお世話しているのに、私は遊んでいるんだね。
2004.11.01
コメント(3)
全30件 (30件中 1-30件目)
1


