炬燵蜜柑倶楽部。

炬燵蜜柑倶楽部。

2005.08.22
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カテゴリ: おすすめ
 たったった。
 アスファルトの上を駆ける。
 はあはあはあ。
 息を切らして走る。急ぐ。何故に―――
 急ぎたいからだ。
 誰にともなく内心、答える。
 どうしても。
 どうしても早く、会いたいから。
 だから彼女は急ぐのだ。

 短い濃い色のスカートの裾を乱して。
 同じ色のスカーフをなびかせて。
 かっちりした靴で、その地を蹴り付けて。
 ストップ。
 足を止める。
 息が上がる。
 運動不足だ情けない。
 汗がどっと額から吹き出る。
 彼女は髪をかき上げる。
 眉のあたり、真っ直ぐに切られた前髪を。
 風に髪が揺れる。


 ここだ。

 ポケットから手紙を取り出す。
 電脳世界で世界を一瞬にして繋ぐ端末からではなく、封筒に入れられ、海を渡った、一通の手紙。
 薄いレターペーパー。トリコロールの枠。
 差出人の名前。住所。知らないものだ。

 吹き出す汗。それはただ単に運動したからだけではなく。
「何で…」
 つぶやく。何で。どうして。
 目の前の店の名は「ラ・マン」。
 行きつけの、イートインできるケーキ屋だった。
 そこに「午後二時ちょうど。お茶の時間を一緒にしましょう」。
 その日は全くもってオフで。
 対局も無ければ、イヴェントにかり出されることもなく。
 誰かしらの家に出張碁に行く必要もなく。
 はたまた何処かに講師として招かれることもなく。
 本当に―――全くの、オフだった。
 何をしようか、なんて、考えるべくもなく。ただただ暇を持て余すだろう、と思っていた矢先に。
 その手紙は届いた。
 海を越えて、届いた。
 「きっと暇を持て余していることでしょう」とご丁寧に書かれ。
 ああ全くだ。
 彼女はあまりの図星に皮肉気に目を伏せた。
 おそらくその表情は、端から見ればとても美しく。
 大きな黒い目、濃い眉、くっきりした顔立ちに、色づけなくても赤い唇。白い肌。
 いまどきの十八歳としてはやや古風ではないかと周囲からは言われるけれど。
 そんなことは、どうでもよくて。
 ただ、もう、目の前の扉を開けまいか否か、と。
 迷っていた。―――彼女にしては。
 だが迷っていても仕方が無い。切り替えが早いのが彼女の美点の一つだ。
 からん、と音を立てて、扉が開く。
「あら」
 ギャルソン風の黒いエプロンをかけた女主人が笑顔で迎えてくれる。
「お母様かどなたがが忘れ物でも?」
「え? 母が?」
「あら、違って?」
「いえ、待ち合わせで…」
 つぶやく様に答えながら、辺りを、いや、奥に視線を送る。
 と。
 一つの背中が目に飛び込む。
 ふわりとした布。あの長さは滅多に無い。―――日本では。
 だがかと言って、何処か中東の国ふうでもなく。
「今、お客様は、あちらの方だけだけど…」
 女主人は首を傾げる。
 彼女はありがとう、と一言、するりと女主人の横をすり抜ける。肩から全身を覆うくらいの、ゆったりした布。やわらかな織りの、風通しの良さげな。
 ―――そう、確か、これは。
 同居している兄の婚約者が、幼なじみのお姉サマ方とファッション雑誌を見て騒いでいた。環境問題も関わってくるのねえ、とため息をついていた。
 テーブルの上には、アフタヌーンティの用意。
 二人分の、用意。
 さらさら。
 重なる布の、揺れる、音。
「二分、遅刻ですよ」
 斜め下から、そのひとは、彼女を見上げた。
 少し淡い色の瞳。
 明るい色の髪。
 化粧気の無い、つるりとした肌。
 ―――笑顔。
「二分だけで、遅刻ですか?」
「たとえ一秒だって、遅刻は遅刻ですよ。そう字が示しています。漢字というものは便利です」
 ふふ、と相手は笑った。
「立ち話をするつもりですか?」
「…お茶でしょう?」
「ええそうです。きっと暇を持て余してると思いまして」
「私が暇だと、どうして?」
 相手は軽く首を傾げる。緩やかなウエーヴを描く前髪が、一房こぼれた。
「あなたのスケジュールは外部からでも、簡単に調べられるでしょう?」
「…それはそうだが」
「そしてあなたは基本的に暇が嫌い―――少なくとも、昔は。ねえ一体、何を警戒してますか?」
「警戒―――そう、警戒しているな。何で」
 彼女は重々しくうなづいた。
「何で、あんたなんだ? アゲハさん」





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最終更新日  2005.08.22 18:33:42
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