炬燵蜜柑倶楽部。

炬燵蜜柑倶楽部。

2017.12.06
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カテゴリ: 日々のつれづれ
ウチの母親についてはですな。
生きてるうちは、何処かいつも「気の抜けないひと」だったんだよな。「信用したらやばい」というか。

三年生のとき、六年の兄貴に個室をあげたときに廊下の隅に机とスタンドを置くのみになったことか。
それとも小学三~四年の時にキャンディキャンディの原作者に触発されてポエム書き散らした日記を勝手に読まれて「応援」されたせいなのか。
生理が小3で来たときに、どうにも「粗相」という言葉を使われたせいなのか。生理というものにどうも恥ずかしいものという意識を感じたせいなのか。
誕生日にあげた筆入れを少なくともワタシの目の前で使ってくれなかったせいか。
五年生のときにダイエットしたいと言ったときにやっぱり「応援」されてしまったせいなのか。
当時読んだ「はみだしっ子」のせいだったか。
六年生のときにこっそり飲酒喫煙アムカしてたときに、そのこっそりに気付いていたのかどうか解らない行動だったか。

いやいやいやその更に前に、そもそも幼稚園のバッグが「兄貴の使っていた紺色の大人ものに何故かリアルチューリップをフランス刺繍されたもの」だったせいか。

世話をするとこはしすぎるほどするのに、何処か奇妙な。
ワタシが食卓できちんと「おかわりをください」といえるようになったのは親戚の家だったというのはおかしいよな。いとこ達がそうきっちりしつけられていたことでびっくりするという。
無言で茶碗を出すと注いでもらえるというのはしつけとしておかしい。
と、後で気付いたんだが。

雨の日のぬかるみに靴が汚れると言っても、その部分おぶっていくというのも、何か奇妙で。
そういうときは放り出せばいいのだが。
その一方で、高校の時に雨の中濡れて帰ってくると「おかしい人に思われる」だったのだよな。

数え上げると結局キリが無くなる。
が、まあシンプルにまとめれば
「周囲と同じにしたかった」←少なくとも赤いぴかぴかしたバッグが欲しかった

「こっちのSOSをキャッチしてくれなかった」←まあこっちも必死で隠したが
の三点に尽きるんだよな。

甘えっちゃ甘えです。はい。
ですがどうも親父の証言によると、ワタシは「何考えてるかわからない」と悩める存在だったそうで。ならまあ、自分と似た要素持った兄貴のほうに構うよな。
まあこっちも、兄貴が親父に怒鳴られていたりするとこをすりガラスの向こう側で聞いて、そうならないようにしよう、と顔色読んでいたんだからどうにもこうにも。


今は友好的に話せるんだが、可哀そうに、高校時代なんぞ殆ど顔を見たことがない。こたつテーブルの斜めに座っていたとしてもだ。
……まあ今でも、握手すらできねえ。触れないのだ。考えるだけで鳥肌が立つ。
申し訳ないとは思うのだが、自分の中の何処かで、忌むべき男性性、にイニシャライズされてしまってな。触れるとぞっとするという感覚ができてしまって、これがもう、今の今まで延々続いている。本当に申し訳ないのだが。

母親には、金銭的な面に関して非常に感謝している。
大学の奨学金は一応自分で送金していたんだが、積み立ててくれていた。だから結果として、ワタシ名義の通帳が残った。それで大学院に行って、二年で使い切った。おかげでずいぶんと知識と世界は広がった。
親父の老後を心配していたようだが、今のところ心配はいらない。二人で充分、もしくは家の新築を考えていたらしい。その分が現在のこちらの負担軽減となっている。
ただ、だからこそどうしても愛情的なものが実感できなかったことが、何ともいえない。

ちなみに親父から後々聞きだしたのだが。
彼女は自分の耳が左側が聞こえていないことを親父に言っていなかったという。知らなかったらしい。
親戚付き合いにおいては、いい顔はしていたが、決して父方でも母方でも義理の姉達を好きではなかったことを知っている。と言うか、手際の悪さをいつもぶつくさ言っていた。
そう、外面というのはそういう意味なのだが。
親戚連中は彼女のことを散々良いひとだったとか器用だったとか褒める。だがその都度、「仕切り屋でしたからね」というと驚かれる。実際そうなのだ。彼女にとって大概の周囲の女性は同等ではなく、自分よりトロい人々という認識だったと思われる。
それは亡くなったときの雇用主だった幼馴染のひとに関してもそうで。その職場の人々に関しても、その手際の悪さを愚痴っていた。

そうだ、その口で昔むかし、本当に小さな頃、「あんたは偉そうにするから気をつけろ」的に言われたものだ。
何ってことない。鏡だったということだ。
自分がそうしていたから、娘がそうしていると目についたのだろう。
ただそれでいて、周囲がとろとろしていると腹が立つ。
器用なのは事実で、洋裁もアートフラワーもマスターし、当然のように編み物も刺繍も籐も皮細工もできた。
「だから」家庭科は絶対に手伝ってはもらわなかった。意地でも。
ワタシは何故か右左とか、空間感覚がどこかおかしくて、混乱してしまうことが多い。右回りと左回りも、未だに拳を握って確認している。
これは生まれつきで、最近までの仕事の時も、そこのところを意図的に自分で強化しなくてはならない。たとえばふとんカバーのリボンをつけるとき、位置がいつもわからなくなる。だから裏返しにして全部取り付けてから裏返す方法を根性で見つけた、ように。
その空間感覚の鈍さのせいか、「設計図通り」にするのがもの凄く苦手だった。
それがまあ、中学の家庭科なら、被服だった。
編み物は良かった。あれは試行錯誤ができる。失敗すれば編みなおせばいい。だが被服は、まず型紙の理屈をつかむ時間が取れなかった。だからどの位置にあるものなのか良く混乱した。で、縫い間違ったり切り間違ったりした。
ミシンは今でも苦手だ。何せ三度四度と縫う位置を間違うと布が破れる。というか破いた。
ということで、どうしても頭をひねりつつ、5段階の2しか取れなかった。一方で「時間内に食えるものを用意する」調理は4とかあっさり取れた。そういうもんだ。
一方母親は、ともかく型紙を作ってその通りに綺麗に作ることは恐ろしく上手だった。
だからこっちが判らないことがわからなかった。ゆえに手出ししたかったこともあったろうが。断固拒否した。そこで手伝ってもらったら、ワタシの作品ではなくなる、と思ったからだ。
たぶんそれは現在自分のものは気楽に作っているということで、正解だったと思う。もしそこで型紙というルールが絶対的なものだと刻み付けてしまっていたら、今のようなことはできない。ただ自分のサイズに既製服が合わないでひたすらにコンプレックスをこじらすだけだ。

そう、上にあげた「ダイエットを応援された」。
これが何がいけないか、というと。その前の前の年に小学校で「肥満児体操」と言う試みがあった。ただでさえ可愛げのない子供には、更に追い討ちをかけられたようなもので。昼休みに集められて強制的に運動させられるというのは。周囲でじろじろ見られるというのは。
その後で「暮しの手帖」で低炭水化物ダイエットのことを読んでこういうのもあるよな、と思ったり、女子栄養大学的80カロリー20点法ダイエットを試みてみたのもあるんだけど。
じゃあ何で7キロ減っただけでまた菓子三昧を見逃したか、だよな。

たぶんこの時期、もしダイエットしたい、と子供が言ったとしても、たぶん欲しいのは「そのままでも可愛いよ」なんだよな。そう口に出さなくとも。
ただワタシと母親では、ともかくその相性がもの凄く悪かった。のだと思う。
人に内容が判らないほどの早口も、あえて直させようとはしなかった。今でも早いといわれるが、当時ワタシと母親が話していると、周囲が「何言ってるのかさっぱりわからない」だったらしい。

「みっともないから」はよく言われた。だが根本的なとこ、人に対しての誠意として「字を丁寧に書く」とか「わかるように話す」ことを指摘しなかった。
まあワタシはワタシで、高校時代まで、箸を「ちゃんと持てなかった」くらいに自己暗示が強かった奴である。言ってもきかないと思ったのだろう。が。
それでもたぶん、いとこの母親のように「相手のために」字は綺麗にかけ、ゆっくり喋れ、ということを言ってくれてたら、と今でも思う。無いものねだりだが。

だがたぶんそれは無理だったろう。
彼女自身が、字が綺麗だったとしても周囲に親切だったとしても、たぶんそれは彼女のためにそうしていただけだろう、と推測してしまう自分がいるのだから。

感謝はしている。だがどうしてもそれ以上の気持ちがもてなかった。残念なほどに。





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最終更新日  2017.12.06 01:38:05
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