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8月も今日で終り。ということで・・・・■今月から来月へ今月は夏休みがあったため、普段とは異なり、イレギュラー内容の月だった。久しぶりに休みがとれてよかったが、ブログの更新も夏休みとなった。夏休みといっても一人の時間が増えるわけでは・・・ない。最近やることが増えているせいか、やるべきことを忘れがちになっている傾向がある。忘れることはないが、期限ぎりぎりだったりどうもよろしくない。理想的なのは期限の2、3日前ぐらいまでにやってしまうことなのだが。宜しくない傾向の原因として、自分自身の管理簿(予定表みたいなもの)の記載を疎かにしているということがある。管理簿はマメに記録することが基本で、やはり基本を疎かにするといろいろと宜しくないことが発生するのだろう。来月の目標はこれ。すべての基本として管理簿をマメにつけること。管理というとよくないイメージがあるが、自分自身が決めたルールを自分自身で守るという管理は「素晴らしいこと」だと思う。■今月一番感銘を受けた記事今月一番感銘を受けた記事は bagslifeさんのこの記事。●リンク:いつか言葉も涸れて - bags life♪日々の生活のエッセイでありながら詩的要素を備えた bagslifeさんの記事には、文章構成、そして言葉の選び方、そういった表現に対する意識の高さに学ぶべきものが多々ある。基本的にブログは文章で表現されるもの。bagslifeさんの文章は、絵画や詞のように、アートとしての「完成度」を持った一つの作品であり、この回はそのアート的要素に加え、内容にはっとさせられた。拍手!■そして今月も感謝今月もブログ仲間の皆さまに感謝することが多い月だった。無理を言っていろいろお願いしていることがあったりと、ブログを通じて知り合いとなった皆さまにあらためて感謝。それらすべてはこのブログを通じて還元させていただくので、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。人それぞれ事情あったりで、ブログを更新できなくなったり、辞めざるおえなくなった方もいる。今、更新できてる人だって、いつそうなるかはわからない。でも、同じ時代・同じ社会に生き、同じことに共感した仲間であることに何ら変わりはないと思う。N郎♪ごときがいまさら言うことでもないが、持つべきものはブログ友・・・だよね?本月中は大変お世話になりました。来月もどうぞよろしくお願いいたします。
2006/08/31
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以前書いたように、8月のはじめに、とある本にはまってしまい、しばらく活字中毒状態だったのだが、あまりに活字に熱中してしまって、音楽を聴くことを忘れていた。ネットで予約して図書館から借りてきたインストゥルメンタルの世界的傑作アルバムを携帯MP3再生機に入れ、久しぶりに歩きながら音楽を聴いた(久しぶりといっても実際は2週間ぶりぐらいなのだが)。しかしそのインストのアルバムを2曲と聴かないうちにムショウに日本語の歌詞が聴きたくなり、曲をスキップさせて日本語の歌を探した。インストの曲が悪かったわけでは決してない。活字中毒の影響が少なからずあってか、脳は時間を費やす対価として「言葉」を求めていたのだ。音楽の本質は歌詞とは別のところにあると思う。だが、それに加えて、歌詞の力というものももちろんある。人のメンタルは時々の状況により変化し、必ずしもいつも同じものを求めているとは限らない。ボサノバの名盤をムショウに聴きたくなるときもあれば、ハードロックを聴きたいときもあり、言葉に飢える時だってあるのだ。ヘッドフォンを介した携帯MP3再生機からは、以前ブログで紹介したことのある古賀千春の「鐘の音」が流れていた。歩きながら、あらためてその歌・歌詞に惹きつけられている自分に気付く。もう何十回も聴いた歌詞となってしまったのだが、その歌詞から新たに連鎖して想起されたことが、ある確信を気付かせてくれ、このごろ抱いていた一つの疑問が解けて視界が開けたような気がした。その疑問と確信が一体なんであったかは、いつかまた書くとして、あらためて「歌」というものの力に感嘆すると共に、「意志の力」というべきか、詞の中で歌われているアーティストとしてのそのひたむきさに深い共感を覚えた。以前紹介したように、歌詞の内容はブルーな状況に直面しながら、自分自身を叱咤し、今こそが出発点という決意を言葉にしたものであり、オーソドックスなテーマであると思うのだが、そんなオーソドックスなテーマの名曲を挙げろと言われれば、どれだけの曲名を挙げることができるだろうか。「意志の力」を問われるシーンは日常生活の中で、実は数多くあるような気がする。もしかしたら日常生活のほとんどの場で、「意志の力」は問われているのかもしれない。”今、今、ここでがんばらずに、一体いつがんばるというの?”古賀千春が歌のサビで問いかけている言葉を素直に受け入れ、その言葉を口ずさみながら「意志の力」で日常を打開することがあったっていいと思った。それにしてもこのアーティストのボーカルの表現力にはあらためて感嘆させられる。ボーカルの命として、表現力というものが歴然として存在していることをあらためて知らしめてくれる。・・・「古賀千春」は現在、人生の大仕事のために活動を休止中なのだが、いつになってもいいので、また「古賀千春」としてそのボーカルを世に提示して欲しいと思う。絶対に世に出るボーカルだと思う・・・から。●リンク:「古賀千春」ホームページ
2006/08/26
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夏の間に紹介しようと思っていた映画がある。1977年 松竹映画原作:横溝正史監督:野村芳太郎 脚本:橋本忍出演:萩原健一 小川真由美 渥美清 山崎努この映画が制作されたのは今から30年近く前なのだが、当時の日本の夏の田園風景が記録されていて、夏といえばこの映画を思い出す。横溝正史の代表作は他もそうなのだが、古き日本の因習や価値観に従って事件が進んでゆき、それが事件の原因や重要なキーワードとなっている場合が多い。映画化された作品は、そんな舞台設定を映像として提示してくれて、古き日本のノスタルジックな情景がインパクトを持って視聴者の記憶に刻みこまれる。映像化された横溝作品が、多くのファンを惹きつけて止まないのはこういった面もあるのだろう。この映画に関していうと、時代設定は原作と異なり、公開された当時(昭和50年代)の時代設定となっている。だが、映画の中に出てくる村の葬式の様子や、夏草の生えた八つ墓明神、浴衣を着た夏祭り、村の田園風景は、時代に関係なく、失われ行く日本の光景として印象深い。撮影:川又昂の映像は実に素晴らしい。さて、本題に入ろう。紹介しておきながら、この映画、「観てはいけない」映画だと思う。正確に言うと、映画を観てトラウマになったとしても知らない。今で言うところのR指定に相当する内容だと思う。■一つ目の命題:『砂の器』とのギャップをどう消化する?同じ松竹映画の『砂の器』には感動した。映画『八つ墓村』の制作スタッフは、『砂の器』の制作スタッフと監督・脚本・撮影・音楽で重なっていて、映画の宣伝文句にはこんな文言がならんでいた。”『砂の器』のスタッフが再集結し・・・”この宣伝文句がよくない。監督(野村芳太郎)や脚本(橋本忍)は同じなのだが、この映画は『砂の器』とは違う視点を持った映画で、『砂の器』のような感動大作ではないのだ。『砂の器』と同じような感動を期待したら全然違ったのでがっかりしたという不満をネット上でよく見かけるが、そんなコメントを見るたびに、同じ感動を求めること自体が間違っている~と言いたくなる。が、その気持ち、わからぬでもない。宣伝文句が紛らわしいのだ。■二つ目の命題:残虐描写は可か不可か?この映画が観てはいけない映画だという理由に、残虐シーンが挙げられる。特に戦国時代に八人の落ち武者が村人に虐殺されていくシーンは、フィクションとはいえ、正視できないようなシーンが続き、一度見るとトラウマになると思う。しかし考えてみればこんな目を覆うようなシーンは戦国時代までの日本ではよくあった光景なのかもしれない。近・現代の戦争でもこれに近い光景が繰り返されてきたことだろう。人を殺すということは、実際にはこういう凄惨なことなのだと思う。逆にいうと、テレビや映画の戦国時代劇や戦争モノが、いかにきれいな部分しか出していないかということでもある。山崎努演じる多治見要蔵が村人を虐殺していくシーンもインパクトが強く『八つ墓村』の代名詞的シーンとなっていて、上に挙げたDVDの表紙ともなっている。■三つ目の命題:この映画で一番怖いシーンは?だがしかし、残虐シーンとは違う怖さがこの映画にはある。最後の謎解きのシーンで、渥美清演じる金田一耕助が口にした恐るべき事実。原作にはないこの恐ろしさが、最も怖く背筋が凍った。ダメ押しのように、炎上する多治見家を丘の上から見下ろす人たち。『八つ墓村』の原作はスカッとした冒険活劇で横溝エンターテイメントの最高傑作だと思うのだが、恐怖をテーマとしたこの映画も原作とは別物として傑作だと思う。■四つ目の命題:この映画の小川真由美って、滅茶苦茶魅力的じゃない?映画(ビデオ)を観る前、森美也子役は小川真由美というキャスティングに、いかにも松竹的なキャスティングと感じ、他のタイプの女優のほうが役にあっているのではと思った。小川真由美といえば、『鬼畜』や『復習するは我にあり』のように、泥臭いイメージがあったからだ(それらの作品は『八つ墓村』より後の作品なのだが・・・)。がしかし、実際に作品を観て、森美也子役の小川真由美にすっかりはまってしまった。自らの意思で行動し、クールでありながら情熱的に男性をリードしていく妖艶な年上女性の魅力に、多分映画を観た男性の多くは虜になってしまうんでないかと思う。それぐらい魅力的な役柄・演技だった。衣装も洒落ていて、ツボを得た役だった。この映画のおかげで、すっかり女優・小川真由美のファンになってしまった。■五つ目の命題:金田一耕助の配役として渥美清は成功か失敗か?渥美清演じる金田一耕助について、寅さんにしか見えないとかいう意見をあっちこっちで見かけるが、金田一耕助役ではなく、他の役でも渥美清=寅さんって言われるんだろうな。寅さんは渥美清の当たり役ではあったが、同時に役者・渥美清として不幸でもあったと思う。俺的にはこの金田一、目立たないながらなかなかいい味を出していたと思うのだが。石坂浩二や古谷一行だと、金田一役としては長身すぎたりイイ男過ぎたりして、やはり原作のイメージから外れてしまうのかもしれない。金田一ってもともとイイ男ではないけれど、気になる存在みたいな役なんだから。そう思うと鹿賀丈史ぐらいがちょうどよかったのか。DVDに収録されている予告編の中で、監督の野村芳太郎が渥美清の金田一耕助を心配するシーンがある。それに対し、原作者の横溝正史は彼なら大丈夫と答えるシーンがあった。貴重な映像だと思う。■六つ目の命題:公開年のキネマ旬報ランキングで16位という評価は妥当か?この『八つ墓村』は、興行成績ではその年の日本映画の3本指に入ったのだが、キネマ旬報ベスト10には入ることなく、16位という地味な評価だった。映画のテーマが「たたり」なんで、一種の色物映画だから仕方がないのかもしれないが、映画のあの圧倒的迫力にもう少し正当な評価があってもいいような気がする。どうだろう?ちなみにその年・1977年のキネ旬日本映画第一位は『幸福の黄色いハンカチ』。確かに日本映画のベスト10には名作が並んでいるのだが、同じく横溝原作で6位に入っている『悪魔の手毬唄』よりはこちらの映画を俺はかう。こんな異色映画が評価される価値基準があってもいいのではないか。■七つ目の命題:映画『八つ墓村』を代表する曲は何だ?音楽は芥川也寸志が担当している。『八つ墓村』の音楽と言えば「青い鬼火の淵」(道行のテーマ) か「落武者のテーマ」ばかりが取り上げられるのだが、サントラの曲名でいうと「八つ墓村:メインタイトル」と「エンディング」こそが『八つ墓村』を代表する曲だと思う。例えば角川映画の、東宝『犬神家の一族』「愛のバラード」・東映『悪魔が来たりて笛を吹く』「黄金のフルート」に相当する曲として、この曲こそが『八つ墓村』を象徴すると思うのだが・・・・今ひとつ弱いか。オープニングの戦国時代のシーンで、八人の落ち武者が村にたどりつき、丘の上から村を見おろして、タイトルが赤字でアップとなる。そのバックで流れ出すこの曲は映画の始まりとして実に素晴らしい。煙を立てている畑や古ぼけた田舎の民家の風景となり、曲と映像が見事にマッチし、まるで御伽噺の世界でも見ているようで、ノスタルジックな気分にさせられる。主人公の母親がお宮参りをする回想シーンの中でもこのメロディーは使われていて、子を想う母親の気持ちと重なり、劇中効果を上げている。「落武者のテーマ」はNHK大河ドラマの「赤穂浪士」の曲ととってもよく似ていて、焼き直しと言われても仕方がないとは思う。実際に劇中で使用された「呪われた血の終焉」のほうが好きだ。炎上する多治見家を見下ろす最後の強烈なシーンにふさわしい。「青い鬼火の淵」はワルツで、鍾乳洞を探検する二人のシーンで使用されているのだが、その後の「竜のアギト 」のほうが二人が愛し合うシーンと重なり印象が深い。でも、音楽について一番切ないのは「八つ墓村の系譜を追って」。渥美清演じる金田一耕助が和歌山や京都を調査して歩くシーンで使用されている。短い曲だが切ないメロディーがたまらなくいい。■八つ目の命題:原作のストーリ改変は成功か失敗か?(ネタばれ注意)この作品、ホラーサスペンスとして熱烈な支持を受けている一方で、ミステリーとしてダメだとか、オカルト映画になちゃったとか、そんな理由で低い評価もみかける。だがしかし、ミステリーと言われるドラマや小説の多くは、現実っぽく見せかけながらも、実際にはありえないようなことを平然と描いているのではないかと思う。巷にあふれるテレビドラマや推理小説で、トリックと呼ばれるものと、それを解決していくシナリオにどれだけ真のリアリティーがあるというのか。そんな似非リアリティーをこの映画に求めること自体がまちがっているのかもしれない。この映画で描かれていることは、キャッチコピーどおり「たたり」であり、そして男女二人の愛の軌跡とその破綻なのだ。見知らぬ男女が数奇な運命で出会い、お互いの距離を縮めてゆきながら、ついには鍾乳洞の奥で情を交わす。だが、情を交わした男を殺さなければならなくなった女の悲しみとその狂気、愛し合った女から死に物狂いで逃げざるおえなくなった男の、生への本能。そんな愛の軌跡と破綻にこそ、この映画のリアリティーがあり、脚本家が意図したテーマが込められていると思う。原作でも似たようなシチュエーションがあるのだが、主人公の恋人が違ったり、鍾乳洞の中の追跡劇も、恋人に追われるのではなく、恋人と一緒に自分を殺しに来る村人から逃げるというものであった。映画は原作の要素を踏襲しながら、後半部分をまったく違うストーリに作り変えている。その作り変えた部分こそが映画でやりたかったことではなかったか。一つ目の命題で出した映画『砂の器』は、松本清張の原作を超える傑作として評価が高い。この『八つ墓村』については、エンターテイメントとして傑作である原作とはまたちがった視点での傑作であり、日本映画史に残る異色作だと思う。さて、ここまで読んできた人は、きっとこの映画を観たくなったんじゃないかな。でも・・・やっぱり観ないほうがいいかもよ(笑)●関連記事一覧:金田一耕助についてうんちく 映画&音楽
2006/08/21
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日曜日の夕方、家からさほど離れていない公共のスポーツセンターで諸用を足した後、施設を出て駐車場に戻ってくると、2、3人の女性が携帯電話を顔のあたりに掲げて何かを熱心に見ていた。新手の携帯電話サービスで駐車場の木々でも観測してるんだろうかと不思議に思いながら車に近づいていくと、すれ違いざま、その中の一人の女性と目が合った。彼女はこちらに微笑みかけ、会釈をした。見知らぬ女性だったので、何を思って俺に微笑みかけてくるんだろうと不思議に思いながら、車に乗り込み、エンジンを掛けた。車をバックさせ、アクセルを踏みハンドルを切り回した時、助手席の窓の向こうの空が目に入った。・・・・ああ、そういうことだったのか。見知らぬ女性が微笑みかけてきた理由がその時はじめてわかった。窓の外には見事な虹が見えていた。彼女らはその見事な虹の写真を撮ろうとしていたのだ。そして微笑みかけてきた女性は虹が出ていることに気付いていない俺に、その虹の存在を知らせたかった・・・・・滅多に観られない自然現象に感激し、見知らぬ人であってもその存在を教えてあげたいと思ったのか。「何を見てるんですか?」と聞いてもらいたかったのかもしれない。車を少し走らせ、開けた場所に出た後、思い直したように路上の傍らに車を止め、空を見上げてみた。完璧な弧を描いた見事な虹だった。地面から地面まで円弧が途切れることなく見事に整った虹を、こんな近くでこれまで見たことがあっただろうか・・・・・虹があまりに近くて大きかったため、たまたま持っていたカメラではその半分しか捕らえることができていない。今年の夏は、まとまった休みが取れたこともあって久しぶりに夏らしい夏を過ごすことが出来た。お盆の間は天気がいい日が続き、いつもは涼しい帰省先の夏も、暑かったけれど夏らしい日が続いた。帰省先での午後、日陰の下でベンチに座り、夏の空を見上げながら、建物と建物の間を吹きぬけていく風の気持ちよさに、なんともいえない懐かしさを感じた。冷房の効いたビルの中で閉じこもっているような環境では絶対に味わえないようななつかしい夏の日だった。この日曜で夏休みも終わる。ブログの更新も夏休みにさせてもらった。最後の日にあんな見事な虹を見ることができたなんて、何かしら幸運がある夏と感じずにはいられない。第二産業道路を曲がって、見沼緑地帯に車を走らせていくとパラパラと雨が降り出してきた。遠くに見えるさいたま新都心の超高層ビルは、西の空の淡いオレンジ色の光を背景に、わずかにかすんだように見えた。車を走らせながら空を探してみたが、虹はもうどこにも見つけることはできなかった。
2006/08/20
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8月に入ってから、とある本にはまってしまい、いわゆる活字中毒状態だ。何の本にはまってしまったのかはそのうち書くとして、本にはまるなんて本当に久しぶりだ。ここ数年、いわゆる本らしい本を読んだ記憶がない。ここで言っている本らしい本とは、実用書的な本のことではなく、一つの事柄について書かれた文学の領域やルポルタージュの領域の本のことだ。本にはまってしまって、脳が活性化されてしまっている自分に気付く。続きが読みたくなって、朝、早い時間に目が覚めたりする。なぜこれほどまでに脳が活性化されるのか?読んでいる本の内容がスゴイというのはもちろんなのだが、活字を読むという行為自体がそうさせているのかもしれない。活字を読むという行為は、テレビを観るとか、音楽を聴くとかいう行為とは少し異なり、自らの主体的意思のみによって行なわれる行為だ。垂れ流されているものをただ受け取るというような行為ではない。一読してわからないところがあれば読み直すこともできるし、眠くなったら翌日続きを読めばよい。2時間の映画は誰にとっても2時間の映画なのだが、200頁の本を1時間で読んでしまう人もいれば、3時間かけて読む人もいる。自分主体ですべてが進むゆえに、興味ある本に出会うと、その本は自分の生活に、より親密に密着してくる。漫画についても同じことが言えるかもしれない。自分のペースで進められるため、通勤時間なんかにもってこいだ。電車の中で缶詰にされている間、時間の経過を忘れることができる。電車の中で文庫本に熱中している人が多いのもあらためてうなずける。何かしらを待っている間、例えば3分の待ち時間が発生した場合、文庫本を持っていればその待ち時間を意識することなく過ごすことができる。せっかちな人(俺のこと(笑))は文庫本を常にポケットに忍ばせておけばイライラは少なくなるかもしれない。メディアは多様化し、活字離れや出版不況などど言われて久しいが、電子メールやインターネットの普及により、活字自体に触れる機会はテレビと電話が中心であった時代よりも増えているのかもしれない。ただ、自分の傾向からすると、ネットなどで活字に触れる場合は断片化された知識や情報を吸収する場合が多く、一冊の本を読むように、じっくりと活字に接するというような形ではない。脳は外からの刺激によって活性化される。イマジネーションを活性化させてくれる活字は脳を刺激し、脳の不活性状態・同じ思考の繰り返し状態を消し去ってくれる。活字によって脳が活性化されたのを機に、文庫本を読むという生活習慣をちょっと続けてみようかなと思う今日このごろだ。
2006/08/08
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■マジレンジャーファイナル『魔法戦隊マジレンジャー』DVD最終巻、ついにきてしまった。本巻にはラスト5話が収録されており、また、映像特典としてマジレン兄弟5人+ヒカル先生の役者さんファイナルインタビューも収録されている。『魔法戦隊マジレンジャー』のテレビ放映が2月に終わり、5月には役者さんの出演した各地のショーも終わって、このDVDで本当にマジレンジャーは最期なんじゃないか、一区切りなんじゃないかと思う。N郎♪=戦隊好きの図式が出来たあがったのも、ひとえにこのマジレンジャーのおかげだ。今放送している『轟轟戦隊ボウケンジャー』や一昨年の『特捜戦隊デカレンジャー』だったらここまで戦隊好きにはならなかったと思う。マジレンジャーに感動したゆえに他の戦隊に手を出し、そしてこれまで観た作品数は数しれず。でも、それら他の戦隊を見てみて、あらためてマジレンジャーが突出した出来であったと思わざるおえない。マジレンジャーは他の戦隊シリーズとは決定的に違う要素を持っていた。※『魔法戦隊マジレンジャー』って何?っていう人は前回のDVD紹介をご覧下さい。●自ブログリンク:DVD 魔法戦隊マジレンジャー VOL.11 ■今巻 VOL.12 に収録されているストーリー激戦・冥府十神編もファイナルバトル。冥府十神に加え、最期には絶対神ン・マが復活し、マジレンファミリーとラストバトルを展開する。脚本家に注目しながら紹介しよう。【Stage45】「2人はともだち」【Stage46】「湖へ向かえ」では、敵であるばずの冥府神ティターンが寝返り、マジレンジャー側に立つというストーリーで、脚本家は大和屋暁。「狙い撃ち 」「父の言葉」など傑作回を担当している脚本家だ。冥府神ワイバーンの攻撃からアニキを身を挺して守ったティターンの言葉を借りて、”誰かが誰かを支えている”というテーマを提示してくれる。【Stage47】「君にかける魔法」 脚本は横手美智子。「君こそヒロイン」「あべこべ姉弟」など、女性ならでわの感性でコミカルな脚本を書いてきている。この回は愛の物語。自分が明日死ぬとわかっていて、自分を想ってくれている女性にプロポーズできるか?この命題に、マジレン兄弟の母、深雪の言葉を通して、「体は離れても、愛し合った記憶があれば、人は強くなれるもの」という答えを提示してくれる。【Stage48】「決戦」、【Final Stage】「伝説への帰還」では、絶対神ン・マとの最期の闘いが展開され、その中で、マジレンジャーが年間を通して伝えてきた「勇気」というテーマがもう一度クローズアップされる。「自分の勇気を見つけた時、本当に強くなれる」父・勇の言葉にマジレッド・魁はン・マに立ち向かい、そして最後は勢ぞろいしたファミリーパワーでン・マを倒す。敵であるはずだった冥府神スフィンクスやバンキュリアが最期にはマジレンジャーの味方となったストーリー展開もポイントで、また5月にお亡くなりになられた天空大聖者マジエル役・曽我町子さんも印象深い。■N郎♪的視点マジレンジャーらしく、本巻に収録されているラスト5話も、それぞれの脚本家が持ち味を出して示唆に富んだ内容となっている。単にストーリが進んでいって終わるというのではないところがマジレンジャーの面白さだ。そこには必ず主題があって、年間を通して主題を提示するような脚本を意識して続けたところに、作品としての質の高さををあらためて感じ、送り手側の意図・計画・作戦に感心した。友人・知人などの意見を聞くと、マジレンジャーにはまらなかった人の意見でこういったのがあった。「子供っぽい」「最期は魔法でなんでも解決してしまう」。前者の意見は『特捜戦隊デカレンジャー』と比較して・・・という前置きが入る。デカレンジャーも悪くはないが、DVDを借りてきて観て、マジレンジャーのようにはまらなかった。理由は、脚本にマジレンジャーのような主題を感じ取ることが出来なかったからだ。確かに作品の設定はマジレンジャーよりも対象とする年齢層は少し高いのかもしれないが、脚本という点でマジレンジャーの深さには及んでいないと思う。デカレンジャーとマジレンジャーはプロデューサーをはじめスタッフが重なっているのだが、マジレンジャーのほうが大人を意識した作りとなっているのではないか・・・というよりもより幅広い年齢層で楽しめるのではないかと思う。後者の「最期は魔法でなんでも解決してしまう」という意見は、確かにそんなストーリ展開でもあるのだが、そのストーリー展開をよく見ていれば、新しい魔法が使えるようになるのは、自分の弱さを乗り越え、勇気をふるい起した時にはじめて新しい魔法を使えるようになるということに気づくはずだ。そこには、たとえ困難で厳しい状況の中であっても、勇気をふるいおこして立ち向かえば、困難を突破する道も開けるというテーマがこめられている。日常生活に照らし合わせた時、「魔法」とはいわゆる「奇跡」のことであって、自分自身が勇気を振るい起こしてなんらかの行動を起さない限り、絶対に「奇跡」は起きはしないが、勇気を振るい起して困難や障害に立ち向かえば、「奇跡」だって起こりうるというメッセージがこめられている。すべて無に支配されてしまった世界で、一輪の花を見つけたマジピンク・芳香ちゃんの言葉。「ン・マの支配するこんな世界でも、命が育ってるんだよ。可能性はつくるもの、つくれるもの。だったら、奇跡だっておこせるよ。」そんな単純じゃねぇよとか、ストレート過ぎて子供だましとかいう面もあるかもしれない。だけど逆にそんなストレートさが新鮮であり、人の心を動かしたりもする。そんなメッセージを自分のモノに出来るかどうか・・・・観ている側が問われる番なんじゃないかって思う。DVD 魔法戦隊マジレンジャー VOL.12 紹介収録話数Stage.45 ■ 二人はともだち~ジー・ゴル・マジュナ~ Stage.46 ■ 湖へ向かえ~ゴール・ゴル・ゴル・ゴルディーロ~ Stage.47 ■ 君にかける魔法~ルルド・ゴルディーロ~ Stage.48 ■ 決戦~マジ・マジュール・ゴゴール・ジンガジン Stage.49 ■ 伝説への帰還~マージ・マジ・マジェンド~ 映像特典てるこの部屋/最終回のゲストは父・勇役の磯部務さん。磯部さんは声がめちゃくちゃ渋いのだが、性格はメチャクチャシャイとのこと。そんな人柄が伝わってくる対談だった。「これからは俺たちが伝説を作っていくんだ」という最終回でのセリフに重ね合わせ、スーパー戦隊シリーズの中でも、『魔法戦隊マジレンジャー』は伝説としてこれから語り継がれていくのではないかと話していたのが印象的。マジカル美術館/デザイン担当の人のコメントがまた興味深い。冥府十神は新撰組のイメージというコメントを見て、なるほどと思った。敵ながらかなりインパクトのある存在で一人一人(一神一神)がよく出来ていて、作品の終盤を盛り上げてくれた。キャラクターデザインから逆にストーリーが展開していくというような話もあり、面白かった。マジカルトーク/最期というだけあって話もよかった。マジレッド役の橋本君は、みなさんが応援してくれればDVDもまだ続くかもしれないと意味深なことを言っていたが、どういうことだろう?ラストメッセージ/一人一人、役者さんの最期のメッセージ。みんな落ち着いていて、次へのステップにするとか、マジレンジャーはこれからも生きているとかいう話をしていたが、その中で、マジピンク・小津芳香役の別府あゆみさんが、感極まって涙を流しながらメッセージを伝えていたのは彼女の人柄が出ていて、やさしい娘なんだと思った。一年間ご苦労様でした。ありがとう。DVD 公式サイト●自ブログリンクDVD 魔法戦隊マジレンジャー VOL.11 DVD 魔法戦隊マジレンジャー VOL.10 曽我町子さん逝去『魔法戦隊マジレンジャー VS デカレンジャー』の見どころDVD 魔法戦隊マジレンジャー VOL.9 魔法戦隊マジレンジャーの音楽(2) 魔法戦隊マジレンジャーの音楽(1)
2006/08/07
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やらなければならないことがたまっていて、気持ち的にうんざりしていると、たとえ自由に使える時間が出来たとしても、メンタリティーが低いまま、その時間を有効に使えなかったりする。そんな時、不思議なもので掃除をするとメンタリティーが高まったりする。部屋や目の前がゴチャゴチャしていると、それだけでやる気をそがれるのだが、逆にきれいに整理整頓されているとサクサクやれたりするから、これは本当に不思議だ。もともと自分は昔から部屋なんかは散らかしっ放しの傾向にあるのだが、そんな俺だって、たまに整理整頓をする時もあるのさ!(笑)。掃除をしていると、思考の中は掃除に集中して、脳のストレス解消となったりする。そして部屋がある程度きれいになると、不思議とやる気も出てくる。部屋の掃除ばかりではなく、やらなければならないことがあっちこっちで様様ありすぎると、ポロポロ忘れたり、期限がわからなくなったりして、やる気もなにもあったものではない。図書館から借りている本やCDを期日を過ぎても返していないというのはありがちな例で、この傾向が出始めたら気をつけたほうがよい。こんなことでも、やるべきことをエクセルにメモして整理したりすると、すっきりしてサクサクやれたりするから不思議だ。人の精神は不思議なもので、何かしらひっかかっていることや、なおざりなっていたりすることがあると、前へ進めなかったりする。自分ではさほど意識していないと思っていても、無意識にはしっかり残っているのだろう。今の自分を考えてみた時、はるか昔にやり残していたことが無意識のうちにあって、実はそんなことが気分や行動を束縛していたりするのかもしれない。これまできた道のりを振り返り、はるか昔にやり残してきたことを片付けてみれば、新しい次の自分が見えてきたりするのかも・・・・。時間があったらまずは掃除をしてみよう・・・・か?
2006/08/06
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江東区では他でもそうなのかもしれないが、ここ門前仲町周辺はとにかく河が多い。東西南北、いたるところに河が流れている。必然的に無数の橋が存在し、様々な顔を見せてくれる。 水面を眺めていると落ちついた気持ちになれる。気持ちを休ませたいと思った時、缶コーヒーでも飲みながら河を眺めに行く。人の気持ちを落ち着かせる力は不思議だ。 広い水面のあるところは空も開かれた場所だということもあるのかもしれない。海の近くに住む人であるならば、海を見て心を落ちつかせるのだろう。昔、学生だったころ、バイトを終えた帰り道に、よく水際のある公園へ立ち寄ってしばし水面を眺めていた。まだ若かったから、移り過ぎ行く情景の中で解決がつかないことをいろいろ考えこんだり、誰かの気持ちのことを想像したりした。そんな時、水面を眺めていたというより、まなざしは水面に向かれていたが、思考は水面でななく、自分自身に向いていたのかもしれない。追われるような日々をおくっている今、水面を眺めて気持ちを整理するなんて悠著なことはほとんどない。だけど、そんな時間がないということで、実は人生においてとてつもないロスをしてしまっているのかもしれない。すべての人がこの世に生まれ、すべての人が違う人生を歩み、そしてすべての人がこの世から消えてゆく。社会・人間・・・・謎が多い。ただ言えることは、人間も生物の一つであることに間違いはなく、謎は謎のまま本能に導かれ、生きているということ。論理でも善悪でもなく、感性の赴く方向にさまよい、憧憬に浸り、日常に紛れ込む。まったくの馬鹿げた行為であったとしても、価値観の異なる人から見たら憧憬の対象であるのかもしれない。 自分自身を閉じ込めている「常識」が、実は「常識」ではないのではないかと気が付いた時、開放され解き放たれた欲求と、「常識」のために失われた時間との間で人はたじろぐ。意識はされていなくとも、無意識の海の中には計り知れぬ憧憬が、その姿を浮かび上がらせる機会を待っている。浮上せんとするその声を遮断することなく、素直に受け入れる時があったっていい。すべての人間は必ず消えてゆき、また、今このときも消えてゆくのであるから。 忘れていたもの、置き去りにしてきたもの・・・・・河のある光景はそんなものをふと蘇らせてくれたりする。<写真撮影>2006年7月26日2006年8月 3日2006年8月 4日(街についてうんちく・今回の門前仲町特集はこれでおわり)●自ブログリンク:門前仲町(その1)・門仲への道●自ブログリンク:門前仲町(その2)・門仲といえばここ●自ブログリンク:門前仲町(その3)・レトロタウン
2006/08/05
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門前仲町をはじめて訪れたなら、街のそのレトロな光景にきっと感動すると思う。まるでどこかの地方都市にでも来たかのような錯覚を覚え、とても東京・大手町から地下鉄で3駅目の街とは思えない。レトロな光景は夜になると暖かなオレンジ色の光をかもし出し、「門仲ダイニング」を演出してくれる。ローズ薫さんがコメントしてくれたように、お煎餅屋さんや和菓子屋さんが好きな人にはたまらない街だ。人情深川ご利益通りや永代通りのアーケドー商店街には、そんなお店をいくつも見つけることが出来る。路地にはいくつもの小料理屋が軒を連ね、いろいろな発見をする。この辰巳新道を入っていくと途中トイレがあるのだが、辰巳新道のための共同トイレであって、公衆トイレではないと書いているところが面白い。門仲ならではの光景だと思う。門仲を門仲たらしめているのは、このアーケードだろう。俺が歩く東京の街で昔ながらの商店街アーケドーがこれだけ機能して目立ている街は他にはない。昭和を感じるこの2階の喫茶店、入ってみたい。窓から見える交差点の光景もまたいいんじゃないだろうか。昭和レトロな光景はいたるところに。昭和の時代にタイムスリップしたようで、街散策人にとってもたまらない街だと思う。(門仲特集つづく)●自ブログリンク:門前仲町(その1)・門仲への道●自ブログリンク:門前仲町(その2)・門仲といえばここ
2006/08/04
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おそばせながら新月あけましておめでとうございます。本月もどうぞ宜しくお願い申し上げます。さて、門前仲町。門前仲町といえば、まずは深川不動堂。地下鉄東西線の駅から地上に出ると、すぐ横は「人情深川ご利益通り」の入り口となっていて、その仲見世通りを遡っていくと深川不動堂へ到着する。1703年(元禄16年) 徳川五代将軍綱吉の時代に、成田山のご本尊・不動明王を江戸にて参拝したいという気運の高まりに応え、江戸出開帳がこの地で行われた。それが深川不動堂のはじまりと言われている。●リンク:深川不動堂公式サイト 300年後の現在も深川不動堂は訪れる人が多く、縁日にはたくさんの人で賑わい、江戸下町情緒を感じさせてくれる。一方で深川不動堂の真後ろには首都高速9号線が走っていて、歴史ある不動堂と首都高速の高架との対比が、現在の「東京」を象徴する光景でもあると思う。テレビ東京の番組「出没!アド街ック天国」で門前仲町が取り上げられた時、深川不動堂は第2位だった。●リンク 出没!アド街ック天国(02/09/07) 門前仲町第1位は富岡八幡宮。こちらは深川不動堂よりも歴史が古く、1627年(寛永4年)、周辺の砂州一帯を埋め立て創建されたという。源氏・・・ということになっている徳川将軍家の保護を受け、また「深川の八幡様」として江戸庶民に親しまれ、富岡八幡宮は「江戸最大の八幡様」として現在に至っている。●リンク:富岡八幡宮公式サイト直ぐ近くの深川不動堂とは対象的に、こちらはひっそりとした森の中にあるようなイメージだ。敷地内には伊能忠敬の像、横綱力士碑、大関力士碑など名所が多い。●リンク:深川観光協会サイト江戸時代後期の測量家として知られる伊能忠敬は、深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に居を構え、1800年(寛政2年)、富岡八幡宮に参拝した後、有名な蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけたという。この場所は、「伊能ウォーク」(「平成の伊能忠敬・ニッポンを歩こう・21世紀への100万人ウォーク」)の出発地ともなった。●リンク:赤いランプの終列車 伊能ウォークWeb隊さて、江戸時代からの門前仲町の名所を紹介したが、現代の門前仲町を象徴する名所といえばここだろう「出没!アド街ック天国」でも堂々の第4位となっている。赤札堂は1917年に門仲に創業し、現在東京・神奈川に十数店舗を展開しているスーパーマーケットだ。ちなみに上野などにあるファッション専門店のABABは赤札堂と同じ会社が経営している。●リンク:赤札堂サイトお隣中央区と違って、この街は人が住む街というイメージがある。なぜ?と問われたら、赤札堂があるからと一番最初に答えるだろう。それぐらい生活に密着した店舗だと思う。ここには100円ショップも入っていて、門前仲町には少なくとも駅周辺にここを含めて2件の100円ショップがある。・・・人が住む街だ。既に移転してしまったようだが、赤札堂の1FにはレインボータウンFM 大江戸放送局のオープンスタジオがあった。FMの内容を聴いたことはなかったが、前を通るたびに気になるスポットであった。●リンク:レインボータウンFM 大江戸放送局(門仲特集つづく)●自ブログリンク:門前仲町(その1)・門仲への道
2006/08/02
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