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製造工場を一通り案内して貰ってから、親父は伯父の所に挨拶がてら行ってくると言って工場の4階に行きました。お前も来るか。と言われましたが、色々仕事の話が出てくれば拙かろうと思い。資材部長のN氏に製造工場の向かいにある資材倉庫に案内して頂きました。倉庫と言いましても、7階建ての建物を借り受けそこを倉庫として使っているもので、日本のように立派なものではありません。倉庫の内部は1階が梱包材などの大物材料、2階がキャビという外観材料そして上に上がっていくにつれて材料単価の高い材料を置くようになっていました。そして5階の一部が資材部の事務所となっておりました。ここにもICなど一番高い材料を鉄格子に囲まれた部屋の中にさらに金庫を置いてその中に入れて保管しておりました。信じられないかもしれませんが、盗難を防止する為には当時はその方法しかないと考えていたのです。この時は当月生産の方もほぼ終わりつつあり、棚卸しも大体終わっていましたので、次月度生産分の材料がぼちぼち入ってくるだけで倉庫の材料の在庫自体は少なく、ガランとした印象でした。これが月度生産の初めの時期になると材料が多く倉庫だけでは置けなくなり、材料を運んできたコンテナ自体に保管するとのことでその時はまた盗難防止の為の対策をしなければならないとのことでした。材料倉庫の中自体もエレベーターや階段には二重の鉄格子を各階の入り口に設けてあり、鍵も3~4つ掛けておりました。鍵の保管は各部門の責任者の仕事なのでN氏の腰にも鍵の束がジャラジャラなっておりました。私もその後は同じことになってしまうのですが・・・・。資材倉庫を見終わり、親父もまた3階の事務所に戻ってきてたので2人で暫くうちの会社から出張している人達と話した後にホテルへと戻りました。出勤第一日目はそんな感じで終わってしまいました。 つづく
2005年06月28日
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ところで工場の中ですが、我々は管理部門と生産部門のある3階に上がりました。3階は全フロアが横100mX縦30mの約3000平米位だったと思います。その内の5分の一程が壁で仕切られており、そこが管理部門でした。管理部門といっても大部屋所帯でそこに、入り口から順に財務・総務部門、貿易、生産管理、製造部門となっており、まだ勤務が始まって間もなかったせいか。ガヤガヤしておりました。各部門の長は日本人、それを補佐する形で中国人社員がいました。うちの会社はいわゆる独資企業で役員は全員日本人(と言っても私の親族ばかりですが)で中国企業とは合弁はしておりませんでした。企業内部の活動に関しては外部からの干渉はないのですが、やはり中国にコネなどがないので外部の情報を取るのに苦労していたようです。いずれにしても、うちの会社にとっては初めての海外進出で操業から1年程経っていましたが、まだ製造部門以外の組織がうまく固まっていませんでした。私も後でそのことで苦労することになります。ところで工場内を案内して貰うことになりました。まずは製造部門・・・。生産ラインが2本ありそこで材料投入から組立・検査・完成とやっておりました。私が目に付いたのは天井の低さです。なにか圧迫されそうでそのせいで実際の広さより狭く感じました。生産ラインに平行して品質管理の検査部門があり、そこで完成品の最終検査をやっておりました。そこは製品の盗難を防止する為に鉄格子で囲まれており、大きな南京錠が2つありました。工場の中は、製品とか高価な材料(ICなど)など金になりそうなものは金庫は鉄格子の部屋の中などに保管して盗難を防いでいるつもりでしたが、やはり時々は盗難に遣られていました。まるでイタチごっこのようでした。当時はこんなことがしょっちゅうあり、実際の本業以外で頭を悩ませることの方が多かったのです。 つづく
2005年06月26日
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翌朝7時半私と親父とM氏・N氏の3人はホテルロビーに集合、会社の迎えの社用車に乗り込み、会社(工場)へ向かいました。昼間に眺める珠海の街並みは夜とは異なり、別の意味で活気があるように感じました。特にやたら建築中の建物が多かったことが印象的でした。車は工場のある前山金鶏口という場所に向かいました。この周辺も当時はまだ開発中で外省から来た人達のバラックが集落となって点在していました。それと道にやたらに穴があるのが目に付きました。どうやらマンホールのようです。どうして蓋がないのかを隣のM氏に聞くと、こう言いました。「これは近くのヤツが持って行って売りよるごたるよ。だけんが夜は気をつけんと、落ちてしまうバイ。ガッハハハ・・・。」とのたまっておられました。あとでその穴を覗いて見るとたしかに深く、内側には鉄筋がむき出しになっており、ベトナム戦争の時のべトコンの落とし穴のようです。「ここに落ちたらタダでは済まないな。」思いました。それはあとの話として門を潜り、工場に入りました。工場は伯父の工場の半分を間借りしており、5階建で1階との半分と2・3階を内の会社が借り、1階の残り半分は別の台湾の会社・4・5階は伯父の会社と一つの建物に3つの会社が入っているという複雑なところでした。内の工場は1階が製品出荷と検品場所・2階は製品保管倉庫・3階が管理部門と生産ラインでした。当時の私は製造のことはよく解りませんでしたが、こんな効率の悪い場所で生産して大丈夫なのか?ということくらいは理解できました。ここは第3工場と呼ばれており、その第3工場の前に資材倉庫の7階建ての第一工場・翠珠という場所に基板生産工場の第2工場・そして更に別の場所に材料倉庫の第4・第5工場と工場が5箇所点在しておりました。なぜ一箇所に集約しないのかと聞くと、工場の立ち上げから操業までに3ヶ月しかなかったのでこのような形にしなければならなかったとのことでした。私はこれはえらいところでえらいことをしなければならないのかも。と頭が少し痛くなってきました。 つづく
2005年06月24日
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ホテルにチェックインしたあと、我々は食事に行きました。といってもホテルの9階にあるレストランです。ここには日本食(もどき)があるというので当時の日系企業の人達はここにばかりきていたようです。というのもこの頃は珠海は開発途上で「経済特別区」というのは名ばかりの田舎街だったのです。その為に日本料理の店も無く、日本人の駐在員の人達は食事で結構苦労していたようでした。ともあれ親父・と出迎えの4人と私の5人は9階のレストランへ向かいました。来て見ると照明はオレンジ系で薄暗く、レストランというより場末の酒場のような感じでした。レストランで親父が誰かを見つけたようです。私を呼んでいます。私が行くと伯父の息子つまり私の従兄がいました。約20年ぶりでした。20年ぶりなので何か他人のような感じで従兄のような感じがしません。一緒に中国人の女性がいました。何でも通訳兼家庭教師らしく、日本語はとても上手でした。この女性と後に親戚になるとは夢にも思いませんでした。従兄は2人いて私が会ったのは弟で租の上の兄は台湾に居るとのことでした。最初はぎこちない会話でしたが、従兄同志なのですぐに打ち解け、中国ではなになになどいろいろ話してくれました。「食事は?」と聞かれ、メニューを見ると変な日本語で日本料理らしき物が書かれてありましたが、殆どは当時の私には判別不能でした。とりあえず「カツ丼」と言う文字が判別できたので「カツ丼」を頼みました。約20分後、出てきた「カツ丼」は日本のカツ丼と同じだったので、これなら安心だ。とカツの一切れを口に入れ噛むと・・「ガリッ!」と固い歯ごたえが・・・骨です・・。カツの肉が骨付きだったのです。「本当かよ!」と思いました。そして向いに座っている従兄に「これ骨付きだよ。マジかよ。」とぼやきました。従兄いわく「そんなの当たり前だよ。これからもっといろいろあるよ。ははは・・。」と言って笑っていました。そして「忠君もすぐ慣れるよ。」と慰めか励ましか解らないような言葉を掛けてくれました。夕食後にホテルの窓から通りを見ると、人が絶えず行き来きしています。下の景色を見ながら、「本当に大丈夫かなあ・・・。」と少し不安になりました。翌日は珠海の会社へ初出社です。 つづく
2005年06月21日
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話が前後しますが、私は日本円の両替をしたいと思い、車の中で隣にいるM氏に聞きました。私「日本円の両替は何処でやっているんですか?銀行ですか?」M氏「銀行じゃなか、闇の両替屋のあるけん。そこでしたらヨカよ。」私「闇ですか?ヤバクないですか?」M氏「怖がんちゃヨカ。みんなやっとるけん。」そこに親父が口を挟みました。親父「忠、MとNに生活のことは教えてもらったらヨカ、もう1年もおるけん。仕事はKさんに教わるとヨカ。」M氏「社長、またあ。それじゃ、俺たちが仕事を知らん見たいじゃナカですか。あっはは・・・。」とM氏は豪快に笑って親父と話していました。「忠君、まあ心配せんちゃヨカよ。みんな生きとるけん。」私は少し不安ながらも「そうですか・・・。」と会話しているうちにホテルに到着、私はM氏に促されてその「闇」の両替屋へ・・・・。M氏「忠君、ここたい。」私「へっ、ここ?本当にここですか?タバコ屋ですよ。」M氏「そぎゃんタイ。いつもここで両替してるとよ。大抵の外貨は大丈夫のごたるよ。贋金も無かし、ここなら安全タイ。試しに両替してみよか?」とM氏は1万日本円を取り出し、「レンミンビー。」と言ってタバコ屋の兄ちゃんに渡しました。タバコ屋の兄ちゃんは電卓でレートらしきものを計算し、M氏に見せました。M氏が頷くと、馴れた手つきでお金を数え、M氏に人民元を渡しました。両替の最中に私は何気にその兄ちゃんの手元を見ると、米ドル・フラン・香港ドル・日本円といろいろな国に通貨があり、なぜかTC(しかも無記名で!)までありました。M氏に両替するかと言われ、私は「明日にします。」と言って、ホテルに入りました。しかし、ホテルは珠海の繁華街にあるせいか、老若男女の果てはまだ5歳くらいの子供の乞食、売春婦のお姉さん方、または色々な国の人達でごった返していました。日本で例えたら、歌舞伎町でしょうか。そんな感じがしました。この時はこの街が好きになるとは夢にも思いませんでした。 つづく
2005年06月16日
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イミグレを2人で通過し、出口のところまで来ると人だかりがしており、その殆どは白タクの運ちゃんでした。入ってくる人にしきりに「タクシー、タクシー」と言っています。その人だかりを掻き分けて「社長、社長」と1人の初老の人が来ました。この人が、香港の子会社の総経理T氏でした。一見するとタヌキのような風貌でしたが、名門J大学を卒業後、何処かの大学でドイツ語の教鞭を採っていたという前歴があるとのことでした。もう海外生活が20年以上に及ぶとのことで私は海外で仕事をしている人はこんなものか。と思いました。彼の案内でちょっと離れた場所の駐車場に社用車であるミニバスが停まっており、その前で3人の作業服を着た日本人がいました。M氏・N氏・そしてもう1人は初めて見る顔で、とても目つきの鋭い人でした。M・N両氏は親父の左右の腕とも言われる人で、私も子供の頃から見知っておりました。もう1人はK氏でウチの珠海工場の実質的な責任者をやっておられ、1年前に伯父のツテでやって来られたと後で聞きました。この人も台湾・大陸と渡り歩いてこられ、海外生活も20年以上とのことでした。後で聞いたのですが、T氏とはかつて同じ会社で同僚だったそうです。見た目はK氏・T氏とも凄く対照的で人生長いと、まあいろいろあるもんだなあと思いました。後にK氏からは教育の意味で毎日仕事で怒られることになるとはこの時は夢にも思いませんでした。3人ともやつれたような顔をしていたので、此処の仕事が大変そうなことはなんとなく解りました。親父は私以外の4人に労いの言葉を掛けながら、私と共に車に乗り込みました。そして車は珠海市の中心の拱北と言う場所へ向かいました。車で通る珠海の街は暗く、オレンジ系のネオンが所々にケバケバしく光っており、私が感じた珠海の最初の印象は品の無い所だなあ、と言うことでした。それと「とんでも無いところに来てしまったなあ。」と云う後悔の念がありました。ホテルに着いた私達、特に私は此処で20年ぶりに従兄達に会うことになります。 つづく
2005年06月15日
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珠海行きの船に乗り、約1時間半後、親父が「見えてきたぞ、アレたい。」と珠海の港を指差しました。夕方5時発の船に乗ってたのでもうあたりは真っ暗でした。親父の指差す方向を見ると港の明かりがポツポツと見えます。港の周りには街らしき明かりもポツポツと見ることが出来ました。しかし、私は香港やシンセンの煌びやかな風景を想像していたのでいささか驚きました。「ここ、本当に経済特区かな?田舎だ・・・。」驚きと共に失望も感じました。そう思っているうちに船は珠海の港に到着、我々2人、特に私は初めて珠海に上陸しました。港に下りるとすぐに出入国事務所らしきところに行き、1ヶ月のビザを取りました。今は中国はノービザで2週間滞在できますが、当時は中国に入国する前に1ヶ月のビザを取らなければ中国に入ることができませんでした。ビザが出来るまで私は不安で一杯でした。「本当にこんな田舎で仕事するのかな?言葉は?どんな仕事するのかな?」という不安です。ビザが出来上がり、そのビザを見るとパスポートのページ一杯に印鑑が打ってあり、手書きで日付が書いてあるだけでした。こんな簡単な物の為に30分以上も待ったのか。と思うと少しムカつきました。なにはともあれ、これで中国に入れることが出来るようになったわけです。イミグレ-ションで入国手続きをやっていると出口あたりに会社の人が5人ほど親父を出迎える為に待っているのが見えました。私も見知っている顔でした。初めての土地で知っている顔に出会うと安心するものです。親父はこんなところでよせばいいのに手を振っています。こういうところは子供っぽいのです。入国手続きを済ませ、いよいよ親子で珠海経済特別区に入ることになりました。 つづく
2005年06月14日
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私の海外生活の本格的な始まりは1995年の末、丁度クリスマス・イブあたりだったと思います。当時私は会社を退職後、公務員を目指して勉強しておりましたが、運悪く最終試験に落っこちてしまい、来年も受けようか。と思っていたときでした。毎日家でブラブラしていたのでそれを見かねた親父と弟が私に「中国に行ってみたら?」と言いました。で私は「中国の何処?」と聞いたら、「珠海経済特別区」という聞きなれない都市の名前が返ってきました。「経済特別区」と聞くと私は「シンセン」のイメージがあったので、香港のような所を連想してしまいました。言葉の不安があったものの、軽い気持ちから二つ返事でオーケーしました。折しも親父の経営している会社が丁度そこに進出していたので、親父の海外視察にぶら下がっていくことにしました。先に会社に入っていた弟も少し安心していたようでした。そして95年のクリスマス・イブに親父と共に香港へ行ったのです。約3時間余のフライト後、私達2人は香港(当時は啓徳空港)へ到着、そこで当時の香港の子会社の総経理のT氏のメイドさんでフィリピン人のエミリーさんの出迎えを受けました。(子会社と言っても当時はT氏と香港人スタッフ1名)総経理のT氏は先に珠海に行っており、そこで親父を出迎える手筈になっていたのでエミリーさんに珠海行きの便のある中港城フェリーターミナルまで香港観光がてら案内して貰いました。ターミナルに着き、珠海行きのチケット2枚をエミリーさんから受取り、香港出国手続きを済ませ、フェリーに乗り、いよいよ珠海へ出発となりました。 つづく
2005年06月13日
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ブログを立ち上げました。これから今までの海外生活の思い出や旅行記などを綴って行きたいと考えています。追記:今、日記が自分のページに載ったようです。アクセス数を見たら15件も入っていました。大変だ・・・・・。バリバリ書かなければ・・・・・。
2005年06月13日
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