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昨日(7月10日)、HSKの試験がございました。前回が6級だったので、今回はもう少しステップ・アップをと臨みましたが、恐らく結果は「・・・・・。」でしょう。一昨日が終了式で留学生活は昨日で終わりだったのですが、自分としては昨日のHSKで留学生活の最後を締めくくりたいと思っていました。上海に来て約1年、長いようで短かった日でした。本当は勉強以外に色々なことをやりたかったのですが、これは恐らく来年あたりになるでしょう。この時は上海ではなく大陸の別の場所だと思います。ところで初めて上海で長期生活を営んだ訳ですが、現時点の私にとってはかなり物足りなかったです。これは自分の責任です。今後はこのことを糧として中国での業務展開を考えて行くつもりです。しかし、色々な人に知り合えたこと、特に日本の現役学生さん達と対等に話せたことは自分にとってもいい刺激になりました。仕事上の人間関係とは違った人間関係が作れたし、それは無駄ではなかったと思います。そのことが唯一の救いです。今はそのことしか頭に浮かびませんが、暫くすると留学生活の色々な思い出が頭を交差してくることでしょう。その時に留学生活の良さが解ってくると思います。最後に復旦大学の老師の皆様・同学の皆様ありがとうございました。
2005年07月11日
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珠海滞在4日目、第三工場に出勤致しました。何時もの様に財務の空いている机に座り、そこにある資料などを何気なく見ておりました。しかし、中国語は当時は殆ど解らず、漢字で辛うじてどんな内容かがなんとなく理解できる程度でした。暇つぶしにそれを見ていると、Kさんから呼ばれました。Kさんの当時の役職は「統括経理」総経理の下の役職でしたが、総経理は叔父で、親父は副董事長でしたが、2人は日本におり、時折出張してくるくらいでしたので、Kさんは実質は工場責任者で総経理みたいなものでした。その人から直々に呼ばれ、私は緊張しながら彼のところに行きました。この時の会話は以下の通りです。K氏「忠君、今度来るときは君に総務・財務を見て貰いたいと考えているんだけどねえ。」私「はっ、私がですか。やったことはないんですけど・・・。」K氏「大丈夫だよ。みんな最初は初めてなんだから。」私「で、今は何をやればいいんですか?」K氏「いやね。ウチは立ち上げが早かったのはいいんだけど、製造中心でやって来たから、総務・財務が手薄でね。特に中国人従業員の給与システムが未だに少し不明確なんだよ。」私「まず、給与の仕組みを作ればいいんですか。」K氏「そうそう、手始めに作ってみてよ。君の思い通りにね。まあ直ぐには使わないけど、所謂ひな型をね。」私「はあ、それはいいんですけど。本当にいいんですか。」K氏「いいよ。2日くらいあれば出来るでしょう。これが君の初仕事ですよ。ははは・・。」私「はあ・・・・。やってみます。」K氏「大丈夫。大丈夫。リラックスしてやりなよ。親父さんから君のことは聞いているから・・・。」「何をですか?」とは敢えて聞きませんでした。聞いてどうなると言うものでもありませんでしたから・・・・・。とこんな具合で最初の仕事は会社の給与システムを作ることになりました。システムを作るのはいいのですが、まず基準の数字が無ければいけません。私は辛うじて残っていた立ち上げ当初の「給与の取り決め」なる文章を探し出し、それを基にシステムを作ることに決めました。最初は日本の本社の給与システムを基準ににしようと思いましたが、複雑で給与計算の時にも中国人従業員が混乱するとまた問題なので、ほぼ一から作ることにしました。先ほどのK氏の言葉ではないのですが、恥ずかしい話、製造部門はある程度組織が纏まっていましたが、総務・財務の組織は殆ど整備されていなかったのです。会社立ち上げの際は本来は財務・総務をキチンと整備してから製造・営業などの専門部門をやっていくのですが、ウチは本末転倒の状態でした。大会社ならいざ知らず、中小の会社は大体そうでした。ですから賃金トラブルなどのストライキなどが当時はよく発生していました。ストライキになれば工場稼動が停止して、収益に影響します。それを防ぐ為に総務・財務という大袈裟に言えば要ともなる部門を整備していくのが私の今度の仕事でした。その手始めが、給与システムの整備だったのです。 つづく
2005年07月09日
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出勤3日目、この日は管理部門のある通称第三工場に行きました。実を言うとこの時は私はここでどんな仕事を担当するのか決まっていませんでした。親父殿に聞いても「俺は知らん。Kさんが決めることタイ。」と言われ相手にしてくれません。特に何もすることがないので、財務・総務部門の空いている机に座って日本の新聞などを読んでおりました。しかし、周りが仕事で忙しい中、自分1人だけが新聞なぞを読んでのんびりしている訳には行きません。周りの中国人社員からの視線をひしひしと感じます。別に悪意があるような視線ではありませんが、やはり私が「社長の息子」という特別な意味で見られているのかなあ、と勝手に思ってしまいました。少し居た堪れなくなり、外に行こうとした時、親父殿が「忠、こっちに来い。」と私を呼びました。会社の中くらいは家の中みたいに名前で呼ばなくてもいいのに・・・。と思いつつも親父殿の所へ参上致しました。この時初めて気づいたのですが、工場事務所の奥にパーテーションで区切られた一角があり、どうやらそこが総経理の執務空間(部屋とは呼べませんでしたので)のようでした。約20平米位の場所でした。そこには執務用の机と椅子があり、他には本棚と椅子がもう一つと言う様な質素な場所でした。親父殿がもう一つの椅子に座り、向かい合って執務席には初日に対面した工場の実質的な責任者であるK氏が座っておりました。「その辺の椅子を持ってきて、ここに座れ。」と親父殿は自分の隣を指しました。私は言われた通りに椅子を持って来て指定の場所に座りました。そして、「これが家の長男の忠です。今度ここで仕事をするかもしれませんので、よろしく。」とK氏に私を紹介しました。この時の会話:私「初めまして、楓忠です。よろしくお願い致します。」K氏「あっ、Kです。初めまして。社長からお話は伺っております。よろしく。」私「あっ、そうですか。」と私は緊張して答えました。K氏が話しを続けました。K氏「海外は初めて?」私「そうでもないんですが。珠海は初めてです。」K氏「そう。君の仕事はここに来るのはっきり決まった時に考えるとして・・。ところでね。忠君・・。海外で仕事をしようと思うなら、人は信じちゃいけないよ。」私「はあ?人をですか?」K氏「そう。信じると必ず騙されるよ。これだけは気をつけて。」私「そうですか・・・。」この時の会話はこの位で終わりました。会話の際の内容はK氏の鋭い眼つきが印象的であまりよく覚えておりません。しかしK氏の「人を信じるな。」と言う言葉だけは約10年経った今でも良く覚えています。この時はこの言葉の意味がよく理解出来ませんでしたが、言葉では巧く言えませんが、今になって少し解ってきたような気がします。 つづく
2005年07月06日
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出勤第2日目、この日は翠珠という場所にある基板製造工場へ行きました。基板というのはICやら電子部品などが付いた板(?)のことでテレビやエアコンなどの制御などを行う電気製品の中心となる物です。その工場ではこの基板を製造しておりました。前山の工場から車にて約10分の場所にあり、『国泰家具』という大きな家具店の裏にあり、そこ一帯は当時工場地帯でした。工場の裏手には建設中の建物が幾つかあり、その周辺には現場作業者のバラックが点在しており、近くにはゴミの山があちこちにありました。日本の工場はウチを含め約2~3社あり、一つは大手部品メーカー、もう一つは豆腐や納豆の製造メーカー、そしてウチだったと記憶しております。ウチの工場はと申しますと、7階建ての建物を借り受け、そこに基板製造工場を置いていました。当時私が来た頃は1階は事務所兼材料検収所、2階はAF工程・3階はRH工程・4階はRF工程・5階はCM工程及びDIP・チェッカー工程・基板完成工程、6階は材料倉庫、7階は廃材置場となっておりました。工場にはエレベーターもありましたが、材料の搬出入に使っておりましたので、私は階段を登って工場を見学することにしました。ここの工場長はM氏です。親父はその日は前山の工場にいるとのことで私だけ会社の車でここにやってきました。ところで1階から順番にM氏が案内してくれたのですが、久しく階段を登っていない私には久々に堪えました。しかし、どうしてこんな不便な建物に工場を置いたのかよく解りませんでした。M氏が言うには「時間が無かった」とのことでしたが、いやあ、これは大変だ。と思いました。しかも建物自体が本来安普請な為、上に置いてある機械の振動で1階の天井には少しづつヒビが入っております。「これは崩壊は時間の問題だな。」と思いつつもM氏に付いていきながら一通り案内して貰いました。案内後工場で昼食を済ませ、午後には何もすることがないのでこれ以上お邪魔しても仕方ないので前山の工場に帰ることにしました。私「M部長、私、前山に戻ります。」M部長「よかばってん、会社の車な今無かよ。もう少ししたら戻ってくるけん、待っとくたい。」私「いやあ、いいですよ。タクシーで行きますから、場所の名前は覚えましたから。」M部長「大丈夫ね。中国語の勉強の意味でヨカばってんが、気を付けてね。」というような言葉を交わし、私は工場を出て工場から少し離れた大きな道に行きました。歩いてみると、この翠珠地区は外省人が多く、土地柄がよろしくないとのことでよくトラブルがある場所でした。まあ、拱北とはまた異なり色々な人が沢山います。みんな何をしているんだろう。と思いつつもタクシーを拾い、無事前山の工場へ戻りました。まあしかし中国は歩く機会が多いこと多いこと、これからも増えていくだろうな。と思いつつ夕方になって親父殿と前山工場を出てホテルに戻り、夕食後は街で小姐の「チュッ、チュッ」攻撃にさらされながらも無事に一日を終えることができました。 つづく
2005年07月03日
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なんとか出勤(?)第一日目終了。親父と共にホテルに戻りました。今日も会社の人達と夕食とかでまあ大体夜8時前後ということなので、まだ時間がありました。親父が珠海の街を見てきたらというので、言葉に甘えてホテル周辺を散策致しました。ホテルのあるところは拱北という場所でマカオとは目と鼻の先です。「あっちに行けばマカオたい。」という親父の言葉に従ってホテルの前の「蓮花路」という通りを東南に向かって歩き出しました。通りは色々な商店や色々な人々が行き交っており、賑やかでした。中国側の出国所に向かって歩いている途中に若い女の子から声を掛けられました。「チュッ、チュッ。」と言っているようでした。「チュッ、チュッ?」私は彼女が何を言っているのか解りません。無視して通り過ぎようとすると、再び「チュッ、チュッ」それが何度か続きました。私はスリなのかなと足早に歩いていきました。この女の子は暫く私に付いてきましたが、ある場所まで来ると居なくなりました。中国側の出国所の前に来ると人でごった返していました。そして隣の建物を見ると「パスポート所持者・外国人」という立て札があり、そこが外国人専用出国所らしいようでした。人でごった返しているところは中国人専用の出国所のようでそこからマカオに出入りしていました。今では同じ場所になっており、土日や祝日の際は当時以上に人で一杯です。約300m向こうにはマカオの街が見えます。当時の私には違う世界のようでした。出国所を見た後、ホテルに戻る為に元の道を引き返していくと、また違う女の子が来て、さっきの女の子と同じような言葉を掛けて来ました。何を言っているんだろうと私はつたない英語で聞いて見ました(当時は中国語よく解りませんでした。)私「何言っているの?」女の子「??????」私はちっとも解りません。それでホテルは何処だと行ってホテルの名刺を出すと女の子は「あっち」と指差して教えてくれました。そして何かを言っていましたが、私やはり解りません。とりあえず「謝謝」だけは知っていたのでそれを言って足早にホテルに戻りました。夕食の時にM氏に聞いて見ました。私「今日、女の子がやたらに『チュッ、チュッ』言って声掛けてきましたけどどんな意味ですか?」M氏「ああ、それは小姐たい。『チュッ、チュッ』じゃなくて、『去不去』たい。」私「なんですかそれ?」M氏「つまりたい。『何処行くの?行くなら私も連れて行って』つまり『私、如何?』ていう意味たい。」私「ああ、それですか。なるほどね。」M「これからいろいろ経験して行くタイ。変なのに引っかかったらいかんバイ。」そこで親父が口を挟みました。親父「忠、MやNからよく聞いとけよ。お母さんには言うわんケン。」M「また、社長な変な事ば言って、ガッはは・・。」と2人でふざけあっておりました。この日は中国の風俗の一つを知って利口になった私でした。明日は出勤第2日目でございます。 つづく
2005年07月01日
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