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平井さんがまだオムツのとれない孫の赤ちゃんを二泊三日で預かりました。嫁が言い残したことは、夜の11時ごろ泣くので、その時にオムツを替えて、少し布団を叩いているうちに寝入ってしまい、その後明け方までぐっすり眠るということでした。ところが預かった当日は1時間30分にわたって泣き続けたというのです。次の日も状況は変わりませんでした。平井さんは次のように分析されています。赤ちゃんがはっきり目を覚ませば、おじいちゃんおばあちゃんが世話をしてくれているという認識が生じたでしょうが、半覚せい状態でとろとろしていてその認識ができなかったのです。そのような状態の時、おかあさんとは違った手さばきのオムツ替えや布団のたたき方であることが、孫を不安にしたのだと思います。その証拠に親たちが帰ってきてからはそんなことは全く起きませんでした。3歳までの子どもは、外部の刺激を受け取ってそれが心の深層で根づいてしまっているように考えられます。体の発達には熱心な親が多いようですが、心の発達、特に情緒面や自発性の発達については無関心でいることが多いものです。育児放棄などはよほどのことでしょうが、共働きで3歳までの子供との日常の接触時間が少なかった。または子供との情緒的な肌の触れ合いを避けてきたという場合は、思春期になって問題が出てくる可能性があります。マズローの欲求5段階説の3番目に、暖かい人との交流を求めて、集団への帰属欲求があるといいます。これが小さいときに阻害されると、トラウマとなってそれ以上の欲求には高まっていくことが困難になります。強迫神経症の対人恐怖の原因の一つになっているかもしれません。そういう自覚があれば、今からでも遅まきながら、そういう信頼しあえるグループをいくつか見つけることが大切になります。積極的に参加するなどして、人間同士の暖かい交流の機会を持つことが大切だと思います。その一つとして生活の発見会の集談会を利用してみてはいかがでしょうか。
2014.05.31
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平井信義さんは赤ちゃんが「人見知り」をしないというのは、おかあさんとの情緒的な結びつきができてないといわれています。人見知りというのは生後7か月から8か月ころから現れてきます。人見知りしない子は独立心が育って社交性があるように思いますが、それは違います。反対に思春期以降になって、いろいろと社会的な問題を起こしたり、家出をしたり非行に走ったりするようになります。また添い寝を早くからやめて、一人寝をさせるということも、情緒の不安定な子供になってしまいます。まずおかあさんに抱かれて安心感、安らぎ感を潜在意識の中にしっかりと焼き付けるという体験がその後の安定した成長の土台となります。赤ちゃんの指しゃぶりというのがあります。普通はだんだんとしなくなりますが、いつまでも指しゃぶりが続くというのは、赤ちゃんの時、何らかの原因で情緒的に不安やストレスにさらされていたということが考えられます。
2014.05.31
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明念倫子さんは「強迫神経症を生きる」という本の中で次のように言われています。強迫神経症の人の悩み方には一つの特徴がある。それは「とりあえずこの悩みを解決しよう」というふうに悩みを一つに絞ってしまうことである。それはよくないやり方です。今気になっていることから、別の悩みに意識的に心を移していくやり方がよい。ただ不安の悩みを変えさえすれば、元の不安は背景に退き気にならなくなるようにできている。このように本来人間というものは、次から次へと悩みが多いほど一つの悩みにかかずらっていられなくなるようにできている。森田理論学習の中では、このことを「部分的弱点の絶対視」、「防衛単純化」といいます。いずれも神経症に陥っている人の大きな認識の誤りです。「部分的弱点の絶対視」とは、もともとすべての人間は完全な存在ではない。身体的なハンディを持っている人、脳に障害を持っている人、経済的に恵まれていない人、うつや神経症で苦しんでいる人、認知症で苦しんでいる人、がんや血管障害を抱えている人。等々それぞれに課題や問題点を抱えている。それをある一つの弱点や不安を絶対的なもののように思い込んで、自分の生活にとって致命的な障害として取り扱う態度のことです。一つのことに神経を集中するため、他のことはすべて放置してしまいます。観念的にも、行動的にも縮小再生産が繰り返されて、奈落の底に落ち込んでゆきます。「防衛単純化」とは、もともと不安をかきたてる要因は無数にあります。それらすべてに対応することは困難に思える。パニックになりそうな心境に追い込まれる。そこでこの敵を一つに絞って、これさえ解消できれば、十分に自分の能力を発揮できると感じて対応することである。感情の法則4では感情が強化されることを示している。感情は、その刺激が継続して起こる時、注意をこれに集中するときにますます強くなるのである。感情は境遇と時間の変化に伴って中身が刻々と変化するものである。その変化の波に素直に乗って、物そのものになり切れれば安楽の生き方ができる。そのためには森田理論の基本に立ち戻ることである。
2014.05.30
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2014.05.29
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あるがまま、事実唯真、純な心、感じを高める、自然に服従、無所住心、変化に対応、精神拮抗作用、不安常住、不即不離、「かくあるべし」、気分本位、理知本位、事実本位、物事本位、生の欲望の発揮、物そのものになりきる、唯我独尊、物の性を尽くす、努力即幸福などが単なる知識としてではなく、有機的関連性のつながりとして理解できるようになったのです。たちまち生活が変化してきました。生きることが喜びそのものになりました。このブログでは、その自分の森田観をもとにして、子育て、人間関係、生き方、生活、世の中の動きを見ているのです。森田的視点があると自分の意見ははっきりと打ち出すことができます。本来ならそれをもとに意見交換をしてみたいところです。何度も言いますが、森田理論学習は断片的な知識の集積が役に立つのは最初だけです。何年学習しても、ほとんどの方はこれに終始しているように思われます。一通り学習が終わった後は、自分の森田観を確立することが大切です。その一つの手段として私のまとめた体系的森田理論である「森田理論の全体像」を参考にしてもらいたいと思います。私は20年かかりましたが、今では普通の人でも、3年で森田的生き方をほぼ身につけることができると確信しております。
2014.05.29
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鈴木敏文氏は、毎日多くの情報が洪水のように押し寄せている。しかしこれをそのまま受け止めていくことは、情報に押し流されることであるといわれています。情報に接するということで大切なことは、自分の考えをしっかり持ったうえで、入手した情報によってそれを補強したり、補正していくことである。私は話すことが10年前、20年前と全然変わっていないとみんなによくいわれるが、それは自分の考え方の基本形がそんなに変わっていないからで、話の切り口がその都度変わるだけです。情報の価値づけも自分の考え方がベースにあるからこそできるといわれています。私はこの話に賛同です。それは森田理論をやみくもに手あたり次第学習して、頭が混乱してきた過去の苦い経験があるからです。集談会で場当たり的に学習を積み重ね、立ち直った人の体験談、森田療法家の素晴らしい講話、森田理論関連図書を数多く読み込んできました。公開講演会にも数多く参加しました。しかし生きることが苦しいという現実は一向に改善することはできませんでした。その間先輩から与えられるもので、自分が変化することを期待していたのです。その間約20年経過しました。どこかやり方に問題があったとしか思えません。ところが20年過ぎた頃急に視界が開けてきました。それは自分なりに森田理論を体系化できたことです。言い換えると、自分なりに森田理論はこういうものだというものを作り上げたことです。これは「森田理論全体像」としてまとめ上げました。すると今まで断片的にしか深耕できなかった森田のキーワードが、生きた血液として体の中を駆け巡るようになったのです。
2014.05.29
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赤ちゃんは歩き始めるといたずらが多くなります。屑籠をひっくり返し、その中のものを口の中に入れたりします。またティッシュペーパーを次々と引き出して、箱を空にしているでしょう。大切な書類をくしゃくしゃにして丸めたり破いてしまっていることもあります。障子を破いたり、襖にマジックで線を描いたり、それが畳に及ぶことさえあります。お母さんにとって大切な鏡台も、ちょっとしたすきに、赤ちゃんによってかき回されてしまい、赤ちゃんの顔も鏡の表面もクリームで塗りたくられているでしょう。お父さんが大切にしている万年筆の先も、それで机をこすりつけるので、それですっかりダメにされてしまうことがあります。とにかく数え上げればきりがないほどの「いたずら」で、その被害も大きいように感じられます。「いたずら」に対して親がどう対応するかは、赤ちゃんのその後の人生を左右するといっても過言ではありません。元々赤ちゃんはみんな好奇心が旺盛です。いたずらをしても親に叱られないで許容してもらうとどんどんと意欲的な子供になります。自発性、自主性、独立性、独創性、課題発見能力、他人に頼らず自分で行動できる能力が育ってきます。「いたずら」もしない、「反抗期」もない。親の指示をよく聞いて素直に従う。勉強だけはよくする。真面目で、友達とけんかもほとんどしない。整理整頓がよく、生活習慣がきちんとしている。これは親が「かくあるべし」を押し付けて、指示命令、叱咤激励、強制、脅迫で育ててゆけば容易に作り上げることができます。でも子どもを一人の人格を持った人間ではなく、自分の分身として扱っているので、思春期以降その反動は必ずやってきます。(「心のめばえにほほえみを」平井信義 企画室参照)
2014.05.28
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2006年に亡くなられた平井信義さんという人がいる。子どもの育て方でこの人の果たした影響は計り知れないものがある。子育て中のひと、これから親になる人、孫のいる人はぜひこの人の本を一冊は読んでほしいと思う。アマゾンドットコムで検索してもらえればいくらでもある。「心のめばえにほほえみを」から一部抜粋してご紹介します。レストランで食事をする時のこと。欧米では、メニューが一人一人に渡されます。それぞれが違った注文をします。料理の選択には、自分の嗜好はもとより、腹具合や懐具合によるわけで、相手が安いワインを飲んでいても、自分が上等のワインを飲んでいても一向に平気です。そのような経験をして帰国した直後、私は三組の家族と中華料理屋へ行きました。メニューが一つしかなかったので、年上の私に、「どうぞ」と渡されました。私は嗜好と腹具合を考えて、料理を注文しました。するとどうでしょう。大人たちは「私も、私も」という状態で、私のオーダーに右をならえをしたのです。私は驚いてしまいました。ところが7歳ぐらいの男の子が一緒に来ていて「ぼくラーメンを食べたい」と言い出しました。私は、きちっと「自己主張」できる子供だなとうれしくなったのですが、隣の席に座っていた父親が「みんな同じものを食べるのに、わがままを言うんじゃない」と怒った口調で言ったのです。その言葉に対して子どもは逆らうことはしませんでした。私は、わがままという言葉が、みんなと一緒に行動しないことに対して言われる日本の社会に対して憤りを感じました。平井さんは「意欲」と「おもいやり」を3歳までに育てておけば立派な青年に成長するといわれています。日本人は人と違うということで悩みます。人の思惑に合わせて生きることを重視しています。欧米人は人と同じということで悩みます。自分の意思をはっきり示すことを重視しています。欧米人は自分の気持ちをはっきりと人前で言える、自立した人間になることを目指します。日本人は自分の気持ちを我慢して抑えて、耐えることを教えます。チームワーク、人の輪があっての自分という考えなのです。森田理論では、自分の感情から出発すること。自分の気持ちや意志を大切にして素直に表現することの大切さを学習します。対人恐怖症から解放されるためには、これらの自覚を深めて、生き方を修正する必要があるのではないかと思っております。
2014.05.27
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相手を思いやる。相手の立場になって考えると人間関係はとてもスムーズになる。しかし、これをモットーとして心に誓っても、たいてい3日坊主で終わってしまうであろう。そしてすぐに「自己中心」が出てきて元の木阿弥になる。それを考える前に「自己中心な人」はどんな人なのだろう。第一に過保護で育てられた人。第二に過干渉で育てられた人。第三にほったらかしで育てられた人。過保護で育てられた人は、わがままし放題である。物質的金銭的な欲望を制御できない。欲望が満たされないと、他人のせいだと思う。被害者意識に陥りやすい。こういう人は「思いやり」とは無縁の人である。それこそ絵に描いた餅になるだろう。過干渉に育てられた人。「かくあるべし」を押し付けられて、人の思惑を気にする人になる。自分の感情、意志、希望を抑圧して、自己嫌悪、自己否定して生きるようになる。いつも何かに怯えて、ストレスをため続けている。こういう人は自分を守ることに精一杯で他人を「思いやる」気持ちのゆとりは持てないのです。放任されて育った人。後ろ盾がない人です。親が守ってくれない。一人海に投げ出されてしまったようなものです。そういう人は自分で自分を守っていくしかない。でも限界があります。人間は味方がいなくなるとすぐにつぶれてしまいます。こういう人も他人を「思いやる」気持ちにはなれません。ではどうすれば、相手を「思いやる」優しい心は生まれてくるのだろう。そういう生育環境を持ったまま「思いやり」のある人になることができる道があります。それには次の3つのステップを踏むことが必要です。1、 自分の喜怒哀楽などの感情を大切にする。自分の気持ち、思い、欲望、意志、希望をはっきりさせる。自分の感情、気持ちに気づくことです。自分の○○したい、○○したくないという欲求に気づく。自分の「好き、嫌い、快、不快」という感情から出発する。相手よりもまず自分の意思を優先する。自分の気持ちを基準にして「断る、引き受ける」ことを心から認める。次に可能ならこれらを私メッセージとして相手に伝える。2、 他人の喜怒哀楽などの感情を大切にする。他人の気持ち、思い、欲望、意志、希望を聞いてみる。他人の感情、気持ちに気づくことです。他人の○○したい、○○したくないという欲求に気づく。他人の「好き、嫌い、快、不快」という感情を知る。相手の「断る、引き受ける」気持ちを心から認める。この作業が相手の立場に立って考えるということです。3、 最後に自分と相手の考え方の違いを明確にして、溝を埋めてゆく努力を重ねることです。双方で話し合うことです。妥協点を見つけて、折り合いをつける努力を重ねていくことです。完全に折り合うことは難しいかもしれません。ここでは折り合いをつけることが目的ではありません。そのための努力をしているかどうかが問題です。こうしたスタンスをとれば、相手に一方的に「かくあるべし」を押し付けることはなくなる。標語で「思いやり」のある人になろうというのではなく、事実として「思いやり」のある人になれる。
2014.05.26
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それよりも、事実を十分に把握することに力をいれてゆきたい。そしてもっと自分が楽に生きてゆけるように、多少なりとも生き方を修正してゆきたいものです。次のように考えたらどうでしょうか。まず1ですが、我々の目的は神経質性格を存分に生かして、満足感の持てる人生を送ることである。その目標が明確であれば、いたずらに不安や恐怖と格闘することは避けたい。生の欲望の発揮にしっかりと舵を切ってゆきたい。2は、我々はいつも暖かい人間関係に身を置いておくことが大切だと思う。家庭、集談会、趣味の会、同級生、職場、親せきなどいろんなグループがある。広く浅く心温まる人間関係を築いておくことは必要である。これはその気になればできることです。3は、好奇心のあるものにはどんどん手を出していく。そして一人一芸を身につけてみんなを喜ばす。次に、自分の感情、意志、気持ちを大切にして、前面に打ち出す。そして「純な心」を生活面に応用して、「私メッセージ」で相手と交流する。さらに、自分の気持ちをしっかり持ったうえで、相手の気持ちや意向をしっかり受け止める。そして自分と相手の気持ちのすり合わせを行う。妥協点や調整点を見つけて、折り合いをつけるようにする。4は、欲望の暴走は問題を起こす。森田理論の「精神拮抗作用」をよく学習して欲望と不安のバランスを意識することである。欲望の追及に力点を置いて、適度にブレーキをかけて調和のある生き方を目指すべきである。5は、自分にも他人にも「かくあるべし」の押し付けは絶対にしないこと。これが神経症発症の最大の原因を作る。これは森田理論学習のメインの学習テーマです。「かくあるべし」を抜け出して、事実本位、物事本位の生活態度を身に着けたいものである。完全にできなくてもよい。1割でも2割でも改善できればよしとしたい。それで十分です。生きることがとても楽になると思います。
2014.05.25
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その際もっとも参考になるのは平井信義氏の考え方である。平井氏の親と子供のかかわり方を学習すると、子どもの成長段階に応じて、これは外してはならないこと。子どもにしてあげなければいけないこと。反対に絶対にしてはならないことが明確に示されている。次に要点を示してみたい。1、 子育ての目標をしっかり持つこと。勉強のよくできる子、親の言いつけをよく守る「よい子」を育てることが目的ではない。意欲のある子、好奇心旺盛で自発性があり、自己主張ができる子。自立心がある子、思いやりのある子に育てることが目標である。2、 赤ちゃんの時はスキンシップ、情緒的安定を図ること。触れ合いを大切にすること。泣き叫んでいるときに放任するようなことはよくない。3、 物心がつくと子どもに自由を与えること。そして数多くの経験と体験を積ませる。反抗期、いたずら、けんか、おどけやふざけを許容する。出来るだけ自由を与える。しつけと称して「かくあるべし」の押し付けはさけること。4、 ただし自由をできるだけ与えることは必要だが、自由の暴走はさせないように見守っていくこと。5、 そのためには過保護、過干渉、そして放任して突き放すことは絶対に止めること。神経症で苦しんできた我々は、生育過程のどこかに問題があったと思える。それを自覚してゆくこと。これがとても大事なことである。その前に一つ断っておくことがある。親の育て方を、非難して恨むことはいったん封印しましょう。親をいくら恨んでも何にもなりません。
2014.05.25
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親が子供に対してどのように対応したのかということは、子どものその後の人生を大きく左右することは分かっている。高校を卒業して親の元から巣立ち、自分の人生を自ら切り開いていってくれれば御の字だ。ところが現実は厳しい。不登校、いじめ、家庭内暴力、非行、盗み、無気力、心身症、神経症、孤独、自殺など問題行動が後を絶たない。対人恐怖症で苦しんで、人生の半分を棒に振った人間として考えていることがある。今からでも遅くはないから、子どもと親のかかわり方について学習してゆきたいということだ。それはなぜかというと、第一に孫の生育にかかわるからである。自分の子どもにもヒントを与えることができる。子育て真最中の人にとっては、先人の知恵は役に立つことだろうと思う。次に死ぬまで人間関係は続くのであるから、今後の参考に供したいのである。自分の育ってきた経過をたどることによって自覚が深まる。つまり自分の生育過程のどこに問題があったのかがよく分かる。問題点がはっきりすれば、多少なりとも対策が立てやすい。リセットして一から生き直すことはできないが、生き方に修正を加えることはできる。我々は苦悩を背負ったまま、これから先まだまだ生きてゆかなくてはならないのだから。
2014.05.25
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こんな時、たとえば前もって200円ぐらい渡して、その範囲なら何を買っても自由ですよと子供に任せるというのはどうでしょうか。自由を与えるのだけれども、制限を加えるのです。すると子どもはその予算の範囲でいろいろと工夫をすると思うのです。また出かける前に、今から買い物に行くけれども今日はおもちゃやお菓子は買わない。買い物についてくるか家で遊んですごすか、子どもに決めさせるのです。あるいはどうしても欲しいものは、誕生日などの記念日まで待たせるのです。予算も決めるのです。また最近は携帯を持っている子供も多いのですが、電話代が馬鹿になりません。そんな時は月いくらまでだったら親が払うけど、それ以上はあなたのお年玉かこずかいの中から工面するように話しておくのです。その範囲ならどんなに使っても自由です。その代り限度を超えたら親は1銭も払いません。節度を持って確固たる意志を貫くことが大切です。それが子供のためになるのです。大体自由というのは制約があるものです。無制限に自由にやりたい放題というのは、躁うつ病のそう状態のようなものです。森田理論でも欲望が発生すると、必ずそれを抑止する反対の考えが沸き起こってくるといいます。精神拮抗作用の考え方です。制約の中で創意工夫して自由を満喫すれば、自由と制御のバランスは自然に身についてくるのではないでしょうか。国の借金は1000兆円にもなるとか言われています。やりたい放題の借金地獄のつけは、最後は破たんという結論が待っていると思うのです。
2014.05.24
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我が子が意欲のある子、積極性のある子、自分のことは自分でやる子、自立的な子に成長してくれればうれしいものです。ところがそれが行き過ぎて、わがままで、人の迷惑も顧みずに、傍若無人にやりたい放題の子どもに成長することもあります。これはこれで大変なことです。スーパーや電車の中を、大声を出しながら走り回る子、空き缶などを平気で道路に投げ捨てる子。タガが外れた馬が暴走しているようなもので、社会にとっては迷惑で危険極まりのないものです。自由でのびのびと行動できるというのは、何はさておいても、第一に大切なものですが、行き過ぎをセーブすることもまた必要なことです。そのためには、自由を与えるとともに、抑止力も兼ね備えたバランスのとれた子供に育てることも必要です。小さい子供を買い物に連れていくと、自分の欲しいおもちゃやお菓子を見つけると買ってほしいとねだります。その時親としてどういう態度をとるのか。すぐに買ってやる。叱りつけて我慢させる。無視する。などが普通ではないでしょうか。なんでも子供の言いなりになり、何でも買ってやっていると、買ってもらうのが当たり前になってきます。そのうちだんだん高価なものを要求してくるようになります。欲求はどんどんエスカレートしてきます。ついに親の手の負えないようなことを要求してきます。そうなると今度は手のひらを返したように子供を放任して突き放してしまうのです。この過程で、子どもは過保護で依存的になり、自己統制力はなくなります。欲望だけが突っ走り、なんとしても欲望を充足させないと我慢ができなくなるのです。少々のことにも我慢できない、耐えることのできない人間になってしまいます。欲望だけが突っ走ると、社会に適応して生きていくことは難しくなります。自分の思い通りに金銭や物を買ってくれないと親を恨んで非難するようになります。つまり被害者として親を責めて、けんかをするようになるのです。そして社会と対立して、反発するようになるのです。そういう子供は親や兄弟を思いやる、友達を思いやることはなくなります。思いやりの心は人間関係の潤滑油のようなものです。自己中心的な人間は、人間関係でもつまずき対人恐怖症の温床となります。
2014.05.24
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私は神経症の症状をだけを早期に治したいというのでしたら、まず森田療法の協力医のところへ行って薬物療法、認知行動療法、精神分析を受けられたらよいと思う。集談会で森田理論学習によって治癒を目指す方法もあるが、餅屋は餅屋で精神科医のほうがくわしい。極端な話のように思われるかもしれないが、現在の医療はずいぶん進歩している。敬意を払う必要がある。専門家に任せたらよいのにといつも思ってしまう。それでは、自助グループである生活の発見会・集談会の存在意義はいったい何なのか。医療と競合しない独自路線はあるのか。それがあるのである。森田先生は症状が治るということは人生観が変わったから治るのであるといわれている。医療では、うつや症状は治っても、生き方を変えることは基本的にできない。生活の発見会・集談会は、究極のところ神経質者の生き方を学ぶところである。神経症になるような人は、たとえ表面上の症状が治ったとしても、生きていくこと自体は苦しいと思っている人たちです。どんよりと垂れ込めた雨雲の下で生きているようなものです。砂を噛みながら生きているように感じています。それを春の日差しが燦々とふりこんで、希望に満ちていけるような生き方に変えることができる。森田理論学習でつかみ取ることができる。そのためには感情を高めて、「純な心」を学習・体得し、生活の中に根付かせる。また「かくあるべし」などの認識の誤りを自覚していく。他人本位の思考を自分本位の生活に変えていく。その道筋はすでに先輩たちのご努力により理論として確立しています。それを学習し、体得すれば、自分のものとすることができます。すると視界が開けて、納得できる人生が待ち構えているのです。私は、医療としての森田と神経質者の生き方を模索する道とは協力しあうことは必要ですが、役割も目指す目標もかなり違うものではないかと思っています。
2014.05.23
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インドのある水汲み人足は、二つの壺を持っていました。天秤棒の端にそれぞれの壺をさげ、首の後ろで天秤棒を左右にかけて、彼は水を運びます。その壺のひとつにはひびが入っています。もうひとつの完璧な壺が、小川からご主人様の家まで一滴の水もこぼさないのに、ひび割れ壺は人足が水をいっぱい入れてくれても、ご主人様の家に着く頃には半分になっているのです。完璧な壺は、いつも自分を誇りに思っていました。なぜなら、彼が作られたその本来の目的をいつも達成することができたから。ひび割れ壺は、いつも自分を恥じていました。なぜなら、彼が作られたその本来の目的を、彼は半分しか達成することができなかったから。2年が過ぎ、すっかり惨めになっていたひび割れ壺は、ある日、川のほとりで水汲み人足に話しかけました。「私は自分が恥ずかしい。そして、あなたにすまないと思っている」「なぜ、そんなふうに思うの?」水汲み人足はたずねました。「何を恥じているの?」「この2 年間、私はこのひびのせいで、あなたのご主人様の家まで水を半分しか運べなかった。水がこぼれてしまうから、あなたがどんなに努力をしてもそれが報われることがない。私はそれがつらいんだ」壺は言いました。水汲み人足は、ひび割れ壺を気の毒に思い、そして言いました。天秤棒にぶら下げられて丘を登っていくとき、ひび割れ壺は、お日様に照らされ美しく咲き誇る道端の花に気づきました。花は本当に美しく、壺はちょっと元気になった気がしましたが、ご主人様の家に着く頃には、また水を半分漏らしてしまった自分を恥じて、水汲み人足に謝りました。すると彼は言ったのです。「道端の花に気づいたかい?花が君の側にしか咲いていないのに、気づいたかい?ぼくは君からこぼれ落ちる水に気づいて、君が通る側に花の種をまいたんだ。そして、きみは毎日、ぼくたちが小川から帰る途中、水をまいてくれた。この2年間、ぼくはご主人様の食卓に花を欠かしたことがない。君があるがままの君じゃなかったら、ご主人様は、この美しさで家を飾ることはできなかったんだよ」(子どもの心のコーチング 菅原裕子 PHP文庫より引用しました)この話は森田理論のあるがままに通じる話です。欠点のある自分を否定することなく、あるがままの自分を認めて、そこに根を張る。そこを出発点と定めて、持てる能力を精一杯活用して人のために尽くすということです。欲求5段階説のマズローは、5段階の上にまだ一つの段階があるといっているそうです。それは「人に貢献する」という欲望です。自己実現までの欲望は、自分の欲望の追及ですが、ここに至って初めて自分から離れた欲望に移ることになります。森田理論学習では「小我から大我に生きる」とも言います。自分に与えられた境遇に従順になり、運命を切り開いていく生き方の大切さ。ひびわれた壺はまさにこのことを教えてくれています。
2014.05.22
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欧米は契約社会である。契約を破ると債務不履行となる。債務不履行には損害賠償が付きまとう。しかし責任という意味合いはずいぶん違う。アメリカは何回失敗してもよい。失敗に学んで、創意工夫を重ねて最終的に成功の栄冠をつかめばよい。アメリカンドリームである。責任というのを英訳すると「RESPONSIBILITY」という。これは「RESPONSE(反応)」と「ABILITY(能力)」の合成語だそうだ。この意味合いは、リスクを恐れずに思い切って挑戦する。でも予想に反して失敗をする。その原因を追究して再度リベンジする。その勇気と行動力のことを言う。責任をとる人というのは、最後まであきらめずに挑戦する人のことなのだ。そういう人は前向きで困難に立ち向かい、成長し続ける人である。だから責任のとれる人はみんなから尊敬されるヒーローである。つまり欧米では個人が失敗やミスをのり越えて、生の欲望の発揮に邁進することをいうのである。日本のように失敗した人を、それ見たことかと寄ってたかって奈落の底へ引きずりおろして、自らは優越感を味わうということとは次元の違う話である。人間教育の目的が、自立的、自主的、意欲的な人間を養成することにあるとすると、日本の責任の取り方は根本的に考え直さないといけないのではなかろうか。
2014.05.21
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日本では人に迷惑をかけたり、会社で不祥事を起こしたりすると必ず責任問題になります。責任者は誰だ。顔を出せ。責任をとって謝罪しろ。責任をとって賠償しろ。という気持ちになりがちです。その人がまかされている仕事や役目に対しては、当然果たすべき任務がある。それを果たさなかったのだから、批難されても当然であると考えます。二度と社会で日の目を見れないように奈落の底に落としてやるという気持ちである。当然故意に人をだまして迷惑をかけた場合は、決して許されるものではない。それなりの償いはしてもらわないといけない。でも故意にではなく、うっかりミスや過失で人に迷惑をかけた場合はどうだろう。現在の日本では、そういう人も敗者復活は難しい。一生罪を償っていけ。相手を保護された仲間の輪から排除して外へ放り出してしまうのである。永遠にダメ人間の烙印を背負わされて、不本意な人生を歩まざるを得ない。これは相手を非難、脅迫して自分の考えを押し付ける「かくあるべし」が含まれている。こうなると、ミスや失敗を恐れて挑戦しないほうが無難である。人の目を意識して、他人の思惑を大切にする生き方になる。リスクをとり責任を負って挑戦することは少なくなる。そして最終的には、親や社会に依存して生きていくようになる。仮に親や社会が不利益や不快感を与えると、自分はいつも被害者になるのである。被害者は親や社会を逆恨みするようになる。さらに生きがいを失い悶々とした生活に甘んじて生きるしか道は残されていない。これは対人恐怖症の温床となる。
2014.05.21
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子育ての目的は勉強のよくできる子、親の言うことをよく聞く子、そして子どもをペットのようにかわいがることではありません。社会の荒波の中に放り出されても、自分一人で困難をのり越えて、自立して生きていける人間を作ることです。キタキツネは子育ての時、つきっきりで食べ物を与え、世話をしますが、自立して生きていけると判断すると、もう決して家の中に入れることはありません。母親は牙をむいて威嚇し、追い出してしまいます。かわいそうですがそれが自然界の掟です。成人しても過保護でいつまでも面倒を見ているのは人間だけです。私は父親に叱られることが多く、また父親の「かくあるべし」を押し付けられて、大人になって対人恐怖症になりました。しかし反面、いろいろなことに挑戦させてくれたおかげで、好奇心旺盛に育ちました。それを足掛かりにして神経症の克服と生きがいを見出すことができたのではないかと思っております。誰でも完璧な状態で親になることはできません。それが事実です。先にあげた子育てが一つでも、二つでもできていれば、あとは子供がそこを土台にして出発する。今現在の生きづらさは自ら引き受けて、格闘して乗り越えていくというのが筋ではないでしょうか。そうした生き方の中に生きがいは生まれてくるのではないでしょうか。その生きづらさの一つに神経症があります。でも神経症がなければ森田理論に出会うことはありませんでした。神経症がなければ人間として成長するという機会は与えられなかったのだと思います。神経症よ、ありがとうという気持ちです。
2014.05.20
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あなたの育ってきた子供時代を振り返ってみて、親との関係で次の中で該当することはありませんか。一つでも該当すれば親に感謝してもよいのではないでしょうか。1、 1歳2歳の頃は両親から可愛がられた。無条件に保護されていた。2、 経験や体験、冒険の機会をたくさん作ってくれた。そんな時、親は側にいて暖かく見守っていた。3、 自然と触れ合う機会をたくさん作ってくれた。山や海、公園など。4、 いろんな遊びを教えてくれ、一緒に楽しんでくれた。釣りなど。5、 命に係わる危険なことは厳しくしつけを受けた。それ以外のことはけがをしそうになってもダメだしされるようなことはなかった。6、 社会的にしてはいけないことは厳しくしつけられた。またどうしてしてはいけないのかその理由を丁寧に説明してくれた。7、 親と意見が対立するときでも、自分の言い分をよく聞いてくれた。自己主張する自分を受け入れてくれた。そして自分の意見もある程度は聞いて受け入れてくれた。8、 豪華ではなかったが、いつも手作りの料理を作り、健康を気づかってくれた。9、 自分でできることは自分でするように教えられた。失敗しても、ミスをしても、もたもたしても、不十分であっても叱りつけられることはなかった。むしろ励ましてくれた。10、 何でも自由にさせてくれたが、相手に迷惑をかけたり、ミスをしたときは、自分で責任を持つようにしつけをされた。11、 ペットの世話、掃除、後片付けなど家事の分担を与えられていた。12、 挨拶の大切さについて身をもって教えられた。13、 規則正しい生活の習慣を身につけることができた。14、 物を大切に使うことを教えられた。お金の使い方を教えてくれた。15、 夫婦喧嘩は派手に子どもの前でしていた。それを見てどう折り合いをつけたらよいのかを自然に学んでいった。以上は子育てで大切なことばかりだと思います。
2014.05.20
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「あるがまま」を考えるとき、まず不安に学んで手を出したほうがよいものと手を出してはいけないものを分けるということが大事です。将来に希望がもてないものや自分の利益のためだけの行為は手を出さないほうがよいものがほとんどです。多分8割方は手を出さないで受け入れたほうがよいものになると思います。次に私がお勧めしたいのは、不安や恐怖を4つに分けて考えるということです。すると対応方法が明確になります。学習が深まってゆきます。1、 自然にわき起こってくる不安、恐怖、違和感、不快感などの感情の事実です。森田理論学習では主としてこれを扱っています。2、 元々備わっている自分の素質や性格、今現在の自分の容姿、弱み、また自分の犯したミスや失敗などの事実3、 他人の自分に対する理不尽な仕打ち、元々備わっている他人の素質や性格、容姿、弱み、他人の犯したミスや失敗などの事実4、 自然災害や伝染病、戦争、経済の変動、食料やエネルギー不足、世の中の出来事私は今の事実は何番の事実のことかなと考えるようにしています。1番については欲望があるので不安、恐怖などがでてくる。不安、恐怖は自分にとっては大事なものであるから排除してはいけないし、できないと考えています。「かくあるべし」があると、無限大に膨らむ性質がある。「かくあるべし」を小さくすることが大切だと思っています。不安と欲望の学習、感情の法則の学習が役立ちます。2番については言い訳、弁解、隠し事をしないでありのままの自分を素直に認めると、次へ進むことができる。これが一番楽な生き方になります。認めないといつまでも苦しむことになるのだと思っています。3番については、批判、指示、命令ではなく、第一に感じた感情から出発することと私メッセージの活用を常に意識しています。4番については、事前に不測の事態を察知したときは、可能な限り対策を立てて実行するようにしています。それでも災難がふりかかってきたときは、それは受け入れてゆくしかないと思っています。
2014.05.19
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森田先生は「あるがまま」について次のように説明されている。「嫌なものが好きになる」「不潔が平気になりたい」「人前で恥ずかしくないようになりたい」かく考えている間は、永久に強迫観念は、当然不治である。ただそれを思い捨てる、すなわち「嫌いなものは嫌い」「人前は恥ずかしいものである」と、事実をそのままに見るとき、容易に嫌いは好きになり、人前も恥ずかしくなくなるのである。これが私のいわゆる「思想の矛盾」で、逆になる所以である。嫌いな食べ物でも、人並みにこらえて、仕方なしに食べていれば、まもなく好きになるのである。少し回りくどい説明だが、要するに「あるがまま」というのは、不快な感情、不安、恐怖、違和感などに対して逃避したりやりくりをしない。そのままに受け入れる。自然に服従して生きてゆきましょうということなのだ。不安を持ったまま「なすべきこと」淡々とこなしてゆきましょうということです。
2014.05.19
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次に森田理論で考えてみましょう。まず怒りという感情は、耐えたり我慢し続けてはよくないと言います。心身ともに悪影響が出てくる。胃潰瘍になったり、がんになることもある。また我慢すると、潜在意識の中にストレスとして蓄積されていく。土砂崩れでできた人口のダムを思い浮かべてみてほしい。水がたまりすぎると最後には大決壊を引き起こす。そして下流の人や家や建物に甚大な被害を及ぼす。これを小さい腹立ちの時に、我慢しないで小分けに処理をしていたとするとどうだろうか。大惨事は免れていたと思われる。私はこれを心がけている。言葉に出して相手に自分の気持ちを伝える。第三者に愚痴を聞いてもらう。日記などに書いて文章化する。これらは腹立ちをため込まずに吐き出しているのである。その場でため込むか、吐き出すかはその後の展開を大きく左右する。しかしその方法を間違ってはいけない。吐き出すといっても、相手を責めるような言動は百害あって一利なしである。ここで森田理論の応用だ。まず「純な心」から出発してみよう。その時の初一念は何だったのか。1の場合、「わぁ大変だ、今日は全部の仕事をこなしてゆけるかな」2の場合、「今日は中華料理が食べたい」3の場合、「早く家を出発したい」4の場合、「あまりにも悲しい、さみしい」などなど。次に相手に初一念を伝えるときは、親業の「私メッセージを」使うことである。私の感情、思い、気持ち、要望を素直に出すのである。私はこう感じた、私はこうしたい。こうしてくれるとうれしい。こうしてくれると助かる。などである。その後相手が、「私メッセージ」を受けてどう対応するかは関知しないことである。相手に任せることです。こういう対応は相手からすると肩透かしに合ったような状態である。相手からの非難、叱責、指示、命令に対して、対決姿勢を整えていたのに腰砕けになる。つまり相手と対決するという最悪の事態は避けることができます。さらに自分も怒りをため込まずに吐き出すので、ストレスがたまらなくなるのです。これは森田理論学習でいう「あるがまま」の態度です。
2014.05.18
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腹が立つということは日常生活の中でよくあることである。自分が無視、拒否、抑圧、否定されたときに出てくるものである。自分がこうしたいという気持ち、意志、希望を持っているとき、それが他人によってまさに踏みにじられたときに発生するのである。また当然こうあるはずだという「かくあるべし」を強く持っていると腹が立つことは多い。これを具体的な事例で見てみたい。1、会社では月末締めという仕事が立て込み忙しい時がある。普段の仕事をこなしながら月次決算業務を行わないといけない。そんな時に限って病気だといって突然休む人がいる。当然残された人に負担がかかる。こんな時腹が立ちます。2、家族の記念日などで外食をすることがある。中華料理が食べたいと思っていたのに、夫が焼肉を食べたいという。私に相談もしないですでに勝手に予約をしたという。どうして私に相談もなしに勝手に決めるのと腹が立つ。3、今日は親せきの法事に行く日。子どもがもたもたしてなかなか服を着てくれない。電車に間に合わなくなる。むしょうにイライラして腹が立ってきた。4、彼氏と長年付き合っていたのに、突然別の人と結婚することになったので別れようといわれた。私は結婚するつもりでいたのに、いまさらなんなのよ。こんな場合当然腹が立ってきます。皆さんはどのようにに対応されるでしょうか。一応一つの対応例を書いてみました。1の場合、上司や同僚に不平不満、愚痴を言う。休み明けに出てきた相手に非常識な勤務態度を責めて感情を爆発させる。でも仮に相手が言い返すような人だと、言いたいことを抑えて我慢する。耐えることが多い。2の場合、夫にどうして私の希望を無視するのか詰問する。あるいは夫に反発すると、不機嫌で暴力的になるので、自分のほうから折れて引き下がる。3の場合、子どもを叱りつけて、「早く、早く」と急がせる。子どもが着替えるのを待っておられなくて親が着替えさせる。挙句の果てには、腹立ち解消のため、「あんたは何をやらせてもダメなんだから」と人格攻撃に及ぶこともある。4の場合、散々私をおもちゃにしておいてどういう気持ちなのかと相手を非難しまくる。なんとか仕返しをしないと気がすまない。電話をしまくるが出てこない。ますます怒りが大きくなる。
2014.05.18
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私は治るというのは、治るレベルがあるのだと理解しています。この治りのレベルは1段階目です。森田先生でいうと小学校卒業レベルです。森田先生の入院療法の患者さんを診ていると、それまで不安と格闘し、なんとか不安や恐怖を取り除こうとしていた人が多い。ところが入院しているうちに不安と格闘を止めて、目の前の日常生活の「なすべきこと」に目を向けていけるようになった。つまり不安常住、不安共存の態度を身につけて、生の欲望の発揮に邁進できるようになった。これを治ったといわれているのです。まさに第一のレベルの治り方です。素直に喜んでよいと思います。これで納得できれば、治療を打ち切ってもよいのです。ただしこの人たちはそれでは全く納得していないというのも事実です。この人たちは完治しているわけではないと思います。第二段階の治療を受ける必要があります。これは認識の誤りの自覚を深めて、事実本位の生活態度を身につけるということです。神経症に陥った人は、普通の人と比べて多くの認識の誤りを持っています。特に強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。ですから、神経症の苦しみから逃れるためには、「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、事実本位、物事本位の生活に修正してゆくことが大切になります。こうした生活態度が身につくと、第二段階の治るということは達成されます。この段階まで来ると、あとは不安というブレーキを活用しながら生の欲望の発揮に邁進できるようになります。これが完治ですが、その段階は症状がどうのこうのというよりも、神経質性格を活かして味わいのある人生が目の前に開けてくると思います。
2014.05.17
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強迫神経症の中に鼻尖(びせん)恐怖というのがある。鼻の先がちらちらと目に入り読書などに集中できないという煩悶である。どちらかというと珍しい症状だ。森田先生は鼻尖恐怖の患者さんに次のように指導されている。「治ったから再び鼻の先は見えなくなったというわけにはいかない。鼻尖恐怖にかかる以前は、ただ鼻の先に気がつかなかったというだけで、見えていたことには相違がない。それで、一度気がついた以上は、再び気がつかなくなるということは不可能である。強迫観念が治ったというのは、これに拘泥する苦悩がなくなったというだけで、その傷の瘢痕は永久になくならないのである」書痙の人でも全く字が書けなくて、入院療法後なんとか字が書けるようになり社会復帰した時点で治ったのだといわれています。森田先生は、そもそも今まで無意識で気にならなかったものが、一旦意識化されてとらわれが始まると無意識状態に戻すことはむずかしいといわれています。しかし本人たちは納得がゆきません。気になることを気にならなくしてもらいたい。それが治ることだと思っているのですから。一方森田先生は蟻地獄から這い出た時点で治ったといわれているのです。双方の認識のずれは埋まりそうにありません。
2014.05.17
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親の育て方が悪かったから、神経症で苦しんでいるという人がいる。一面ではそうかもしれない。それでいつまでも親を許そうとしない。ではあなたは立派な親なのですか。親がきちんと育ててくれなかったので、そんなによい育て方なんかできないじゃないですかという人もいる。一理ありそうだが、こんな議論をしていると、暗くなるばかりです。では聞きますが、親が与えてくれたものを考えたことがありますか。親はあなたを生んでくれた。そしてあなたにとっては不十分かもしれないが、今まで育ててくれた。そして神経質性格を与えてくれた。これってよいことなの。もちろんよいことですよ。あなたは神経質性格の悪い面しか見ていないかもしれないけど、見方によってはこれほどはぐくみあいのある性格はありませんよ。特に鋭い感受性を持っていること、好奇心旺盛であることは何物にも代えがたいものです。外向的性格を持った人にはなかなかお目にかかりませんよ。大体完璧な親を期待し、申し分ない育て方を望むことはどういうことなんでしょうか。もともと森田理論は100点満点から減点していく減点主義ではありませんよ。存在そのもの、持っている能力、そこを出発点にして点数を積み上げていく加点主義の考え方ですよ。獲得した能力、自信を喜び、成長している自分をたたえていく、そういう人間でありたいと思います。
2014.05.16
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最後に不安や恐怖に遭遇すると、その実態を観察しないで逃避してしまう人です。予期不安が沸き起こると、すぐに逃げてしまいます。強迫神経症、対人恐怖症の私の場合がこれに当てはまります。逃げた時は少し楽になりますが、その後はずっと悶々としたやりきれない時を過ごすことになるのです。そういう人は、本来生の欲望を発揮して活き活きした人生をおくりたい人なのです。ところが現実は、不安や恐怖にいつも怯えて生活しています。そうした悪循環から抜け出すためにはどうしたらよいのでしょうか。まず欲望と不安の相互関係をよく学習する必要があります。欲望と不安はコインの裏表の関係にあるという学習です。不安は取り除くことはできません。無駄な努力です。不安に学び、不安と共存して、不安を活かしていく態度を身に着けたいものです。次にすぐに逃避する人は「かくあるべし」の強い人です。「かくあるべし」を小さくするための森田理論学習を続けることです。まず自分はそういう人間であるという自覚を深めることです。そして事実を受け入れて、事実に服従する態度を養ってもらいたいものです。そのために「純な心」の体得と「私メッセージ」の発信はぜひとも生活に根づかせていただきたいと思います。また自信喪失に陥っています。自信を持つためには、小さな成功体験を積み重ねることが一番です。そのためにまずは、観念の世界から行動・実践の世界へと切り替えることです。小さなことを丁寧に積み重ねていけば、やればできるという自信が生まれてくると思います。自信がついてくると、生きる意欲が次第に充満してくると思います。
2014.05.16
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人間は普通不安や恐怖に見舞われると、3つの行動をとります。逃避するか闘うか、その場にうずくまってしまうかのどちらかです。極度の不安や恐ろしさのためにうずくまって固まってしまうと、自然界でいえば他の動物の格好の餌食になってしまいます。集談会に参加する人でどんな悩みなのか、何を解決したいのか、目的は何かがよく分からない人がいます。生の欲望がそれほど強いわけではないという人たちです。これは集談会だけに限りません。一般社会でもよく見受けられます。学校や会社で心身ともに疲れ切っている、やる気が出ない、慢性的にうつ状態。人から否定されることを極端に恐れている。指示がないと何もしない。やり始めてもそれ以上に創意工夫してみようという考えは浮かばない。どちらかというと無気力、無関心、無感動の人たちです。森田理論が役に立つ人は、生の欲望が強くなんとしても神経症を治したいという強い意欲の持ち主だといわれています。この人たちは残念ながら森田理論学習で改善することは難しいかもしれません。次に不安や恐怖を取り除くためにやりくりして闘う人。エネルギーのある人です。しかしいろいろとやりくりする割にはよい結果がもたらされません。これは特に不安神経症の人などに多いように思います。しかしいったん森田理論学習で治り方が分かってくると、比較的早く立ち直っていく人です。ここで治るというのは、神経症に陥ったからくりがよく分かるようになり、それを打破できるようになったからです。つまり精神交互作用を断ち切ることができた人です。蟻地獄の底から這い出してきた人のことです。そういう人は時として、飛ぶ鳥を落とす勢いで積極的果敢に行動できるようになります。でも周囲との調和ということを無視してしまうと、摩擦を引き起こすようになります。傍迷惑この上ない人です。これは治り方から見ると小学校卒業程度です。残念だなと思うのは、そこで森田理論学習に見切りをつけてしまうことです。神経症の人は物事を悲観的に見てしまう。大げさ、極端、短絡的に見てしまう。事実を無視してしまう。理想主義から価値判断する傾向がある。などの特徴があります。いわゆる認識の誤りを多分に持っているのです。そういう人は、高校、大学に進んでさらに上の段階の治り方を身に着けてもらいたいと思っております。ここまで進めば神経症とは縁が切れます。
2014.05.16
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生活の発見会の出している「新版森田理論学習の要点」の「行動の原則」の中に、今できることは一つであると書いてある。やるべきことがたくさんあっても、目の前の一つのことに集中しなさいという。これで救われたという人もいる。今日はこれを考えてみたい。神経質者はいろんなことによく気が付き、あれもこれもと課題や問題を抱えると、その重圧に圧倒されてパニックになる。その結果何も手につかない。そんな自分を自己嫌悪感が襲ってくるのである。だからあれこれ思い煩うことなく目の前の一つのことに集中しなさいということです。私はこの話を聞いて思う。あれもこれもと課題を抱えするとイライラしてしまうというのは事実である。それは神経質者が課題や問題のすべてを、今すぐに解決し、処理したいと思っているからではないのだろうか。あまりにも一途である。つまりせっかちなのである。いちいち目の前の不安をすぐに解決しないと、つぎの課題には手をつけられないのである。神経症の人はほとんどの人が悩みを一つに絞って悪戦苦闘している。これさえ解決すれば、わが人生バラ色といった考えに陥っている。これがもし二つのことに悩んでいたらどうだろうか。この状態は、はたで見ると悩みを抱えたまま、日常生活をこなしているということになる。次から次へと不安が沸き起こり、その都度新しい不安にとらわれていくということは、一つの不安にとらわれないということである。精神交互作用で神経症が増悪する前に、次の不安と格闘しているからである。これの仲介をしてくれるものは行動実践である。以上の点から考えて、やみくもに一つのことに集中せよというのは如何なものか。せっかちなのであるから、目の前の一つのことに集中しても、元々存在する圧迫感やイライラ感は抜けきらないのではなかろうか。私は一つのことに集中する前にやることがあると思う。自分の考え方はこうである。まず課題や問題はすべて紙に書き出してみる。つまり課題や問題点は貴重な思い付きアイデアとして大切に扱う。すべてをすぐにいつも持ち歩いているボールペン付のメモ用紙に書きつける。ここに最大の労力を注ぐ。その際できるかどうか思い悩む必要はない。課題や問題点の個数をいくつ持っているかが重要である。ここで目的の半分は達成したようなものである。課題や問題点がはっきりしていると、とても安心感がある。あれもこれもと押しつぶされるようなプレッシャーに見舞われることは経験したことがない。そして重要度、緊急性などを加味して優先順位をつける。その中から急ぎでかつ重要なものから手を付けていくのが望ましいと思う。その際全部を完璧にする必要はないし、いろんな理由により今すぐにはできないし、手を付けずに寝させておくことが最善の策ということもある。それが私にとって、今できることは一つという意味である。課題や問題点はいくらあってもよい。それらはストックしておくのである。ストックして整理しておくと優先順位の段取りを組むことができる。課題や問題点をいくつか抱えているということは、つねに生きがいを持って生きていけることでもある。すると今までパニックになって重苦しかったものが楽になる。いつまでにやればよいのか。今の時期はまずいいものもある。時間の使い方を考える。なかには自分の能力ではできないものもある。そういうものは人に頼むしかない。また人に依頼したほうがよいものもある。さらに自分一人ではできないものもある。仲間に協力要請して根回しをしないといけないものもある。臨機応変に対応できるようになるのである。
2014.05.15
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もう一つの失敗は仕事をしているときに侵すミスである。うっかりミスのことである。人間である以上すべて完璧にこなすということはあり得ない。それなのにあり得もしないことを求めて、その方面に意識を向けていると集中力がなくなる。意識を向けていると、さらにミスを連発するという事態に追い込まれる。特に神経症の人の場合、これをこっそりと隠そうとする傾向がある。人に見つからないようにごまかそうとするのである。上司から叱責を受けたり、同僚から能力のない奴だとさげすまれることに予期不安を感じるからである。本来ならミスをしたときはその内容を正確に把握する。上司や関係部署に早く連絡する。相談したり、指示を仰いだり、自分で対応策を考えたりして素早く対策を講じることが大切である。そうしないと事態はどんどん悪化をたどる。森田理論でいえば、最初の失敗は「生の欲望」の発揮の仕方が絡んでいる。大きな目標や課題は簡単には達成できない。時には失敗や停滞を余儀なくされる。一回の失敗で投げ出してしまうことはとても残念なことだ。大きな感動、成功、自信は失敗を反省材料として果敢に挑戦する中に生まれてくるものである。2番目の失敗は事実を受け入れて、事実に服従するということが絡んでいる。普通失敗やミスをしたときは、初一念として「しまった。やってしまった」という気持ちになるはずだ。ところがそれはすぐにかき消されてしまって、「上司に叱られるのが怖い。同僚に無能力者扱いされるのが嫌だ」という気持ちが出てくる。これを初二念という。初二念は認識の誤り、「かくあるべし」を含むものである。森田理論では「純な心」で初一念から出発しないといけないとくどいくらいに勉強したはずである。「純な心」を生活に応用していないといつまでたっても、同じ過ちを繰り返すのである。森田理論は観念上の学問ではない。どこまでも実践体得の理論である。森田理論学習で、ぜひとも苦しみから抜け出す道を切り開いてほしいものである。
2014.05.14
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失敗するということを考えてみたい。2種類あると思う。一つは自分で目標を決めてとりかかったのはよいが、高い壁に跳ね返されて、早々にあきらめてしまう場合である。神経質者はたったの一回の失敗で退散してしまうことが多い。優秀セールスマン聞いたところ、見込客にたいしての営業は5回目以降に成約に結び付くことが多いそうだ。それなのに1回の断りで、その見込み客には2度と営業をかけないという営業マンが多いという。「あの人は絶対に買ってくれない」と早々に決めつけて、見込み客のリストから外してしまうのである。こうなると営業成績は上がらなくなってしまう。営業のやり方を創意工夫して営業成績を上げたいという考えは湧いてこなくなる。その時そのセールスマンの意識はどこに向くのか。まず成績よい先輩や同僚に向く。あの人たちのようにたいして苦労をしなくても、営業成績を上げる方法はないものだろうか。観念の世界に浸り、地道な営業努力を怠るようになる。プロセスよりも結果だけを求めるようになる。そして見込み客をランク分けして、最上級の見込み客しか訪問しなくなる。その他大勢の見込み客に対してコンタクトを取ろうとしなくなる。営業成績が上がるはずもないのである。自分で自分の首を絞めているような状態だ。そういうパターンにはまり込むと、成功体験は数多く持てない。ノルマは達成できない。上司からはいつも叱られるという状況になる。針の筵に座らされているようなものだ。自己嫌悪、自己否定で自分を自ら傷つけるようになる。
2014.05.14
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12年間NHKの「おかあさんといっしょ」という番組で体操のおにいさんを務めた人がいる。佐藤弘道さんである。12年間で約15万人の幼児と体操をしてきた。2歳から3歳の子どもたちが相手だ。面白いことをいっぱい見てきた。転んだ子供に「だいじょうぶでちゅか」と赤ちゃん言葉で話すと、近くにいた子が「だいじょうぶでちゅか」じゃないでしょと返してきたそうです。子どもは思っていたよりも成長していたそうです。本番に出たがらない子供を隅のほうで叩いているお母さん。本番中にもかかわらず、子どもが転ぶと「だいじょうぶ」と駆け寄ってくるお母さん。撮りなおしになるそうです。バナナを一本ずつ上げて好きなところへ行って食べなさいというと、バナナを持ったまま動こうとしない子。「どうしたの」と聞くと、「だれもバナナの皮をむいてくれないんだもの」という子ども。佐藤さんが「子どもはぜんぜん悪くない」という本を書いています。この中の一部を紹介します。親はいくつになっても子どもが心配です。よちよち歩きするようになると転ぶんじゃないか、ぶつかるんじゃないかと、あとをついてまわり、一人で外遊びをするようになると、事故にあわないか、けがをしていないかと心配する。なんでも先回りしてやってあげたい親の気持ちも分かります。でも僕たち親がしなければならないのは、子供の成長を見守ること。子どもに手をかけ、心をかけて、大切に育てることはもちろんですが、大切に保護して育てることと、先まわりして、すべてを整えてしまうのは、全く違うのだということ考えなくてはなりません。それは「保護」ではなくて、子どもの成長を妨げる「過干渉」。なんでも先まわりしてやってあげる親は、一見やさしい親のように見えますが、子どもから自信をつける機会を奪っているともいえます。山のようにある心配事を、ぐっと我慢して子どもを見守り、「もうこれは絶対親の助けが必要」と感じたときには、いち早くさっと子どものところに駆けつける。「保護」なのか「過干渉」なのか見極めながら子育てを楽しみましょう。現在佐藤さんは「らくがきっ子クラブ」で合宿などを行い子供たちと触れ合っておられるようです。いろんな人の子育てのお話を聞いてみると共通認識があります。1歳から2歳児の時はスキンシップを心がける。親からかわいがられた、愛されたという体験は絶対に必要なようです。その後は過干渉、過保護、放任主義のいずれでも問題を発生させる。例えば困難な状況に遭遇すると、立ち向かうことなくすぐに逃避する。家庭内暴力などに走る。無気力、無関心、無感動で弱弱しい大人になるなどです。子どもは、「過干渉」「過保護」「放任主義」の育て方を止めるだけでりっぱに成長してゆきます。そして自然に親から自立して、元気に巣立ちの時を迎えることができるようです。今子育て真っ最中の人、孫のいる人、これから親になる人は十分に認識していただきたいと思います。また不幸にして、「過干渉」「過保護」「放任主義」で大人になった人は、森田理論学習で今からの生き方を学んでいただきたいと思います。森田理論にはそれにこたえられるだけの内容を持っております。
2014.05.13
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ただし神経症の人は、この制御がかかりすぎているということが問題です。アクセルを踏み込みながらも、ブレーキを踏み込み、さらにサイドブレーキも効かせている状態です。これでは消極的になり前進することができません。前進するためにはブレーキを緩めてやることです。ブレーキを緩めるためにはどうすればよいのでしょうか。いくつかの提案をしてみましょう。その前にどのような時に意欲がなくなるのかということを考えてみましょう。パブロフの条件反射というのがあります。犬に音など刺激の後で餌をやりますと唾液が出ます。そのうち音を聞くだけで唾液が出るようになります。次に音を聞かせても餌をやらないとどうなるか。犬は次第に元気がなくなり、無気力になるということです。犬を元気にしてやるためには、見返りを与えるということが有効です。人間も物質的報酬がモチュベーションを高揚するために役立ちます。自分に対して自分で褒美を与えるのです。さらに人間には物質的満足だけではなく、精神的な満足感も大切です。自分で自分をほめてやるのです。目標を達成してみたい。自分もできるという自信を持ちたい。そして人間として成長したい。また他人からよく見られたい、評価されたいという欲求があります。それらが得られるとすると、意欲に火が付きます。次に、神経質者は好奇心旺盛ですから、四方八方にアンテナを張り、前向きに、外向きに意識を持っていく事が大切です。そういう生活態度を堅持していくことです。好奇心が行動を呼び、次第に弾みがついて意欲的な人間に変わってゆきます。さらに、同じことをずっと続けていると、マンネリ化が起きて意欲が減退してきます。神経質者はなかなか手を出さないが、一旦やり始めると一つのことにのめり込むという特徴があります。意欲という面から見ると、それに意欲を持てなくなった時の反動が心配です。マンネリ化を防ぐためには、「なすべきこと」を、時間を区切って次から次へと変化させ行くことが有効です。30分から1時間で仕事や勉強内容を変えていくことが役立ちます。意欲をかき立てるために、以上3点をご紹介しました。
2014.05.12
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意欲と脳の働きについて考えてみたい。まず目の前の出来事に対して五感が反応します。見る、聞く、匂う、味わう、触れることである。その情報は大脳旧皮質に届けられる。不安、恐怖などは扁桃体、楽しさ、うれしさはエーテン神経に伝えられる。喜怒哀楽などの感情が発生するのである。これはほとんどの動物に備わっている。衝動的な行動は、大脳旧皮質の働きによるものである。次に人間などの場合、その情報は大脳新皮質の前頭前野に送られる。前頭前野は蓄えられた記憶と連携して、喜怒哀楽などの情動を監視したり、修正したり、調整をしている。いわゆる理性を働かせているのである。その後前頭前野は、その時の状況を見極めて、適切な行動のための指示を出しているのである。この一連の流れの中で問題になるのは、大脳旧皮質と大脳新皮質の関係である。まず我々の行動は、扁桃体やエーテン神経で沸き起こった喜怒哀楽から出発しなければなりません。決して前頭前野の理性から出発してはならない。理性から出発することは順序が逆です。森田先生も常に感じから出発することを強調されています。次に喜怒哀楽が暴走をしないように、理性によって制御をかけるということも重要になります。最低限の調整は必要です。幼児は人の迷惑も関係なしに、本能のままに行動しますが、大人になると許されなくなります。
2014.05.12
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菊入みゆきさんの本に、こんな実験を紹介されている。「あなたのジャンプの力を測定します。指にチョークの粉をつけ、ジャンプしたときに、それを壁につけてください。ジャンプしたときの指の跡と、普通に手を伸ばして届くところとの差があなたのジャンプした距離です。」被験者にこのような説明をして、トライしてもらう。みなそれぞれにジャンプして指のあとをつけ始める。その時に、全員の記録を何割かずつアップさせる、ある秘密があるのだ。「ではここまでジャンプをしてみましょう」といって、被験者がジャンプできるところより、いくぶんか高めのところに線を引くのである。すると、ほとんどの被験者が自己記録を更新する。「あそこに飛びあがってみよう」というはっきりした目標があると、これまでよりも何割か強い力を発揮することができるのである。ちなみに、「できるだけ高くジャンプしてください。」「思い切り飛び上がってください」という指示は、あまり記録を伸ばす効果はなく、何も言わなかった時と大差はなかったそうです。このように努力して達成可能な目標をしっかりと持っているということは、自然にやる気、森田でいう「生の欲望」に火がつくのである。自分の中に眠っていた力が、目標が明確になることによって、目を覚まし、結集して外に向かって出てくるのである。この時大切なことは、自分が少し頑張れば達成できそうな時に、最もやる気がでてくる。あまりにも簡単な目標は真剣にならない。あまりにも高いハードルの目標は、最初からあきらめてしまう。日常生活の中で、小さな課題をストックしてチャレンジしてみる。小さい課題を達成すると喜びと自信が生まれる。これを積み重ねていくと生きがいにつながります。神経症の人は自信喪失して、自己嫌悪や自己否定に陥っている人が多い。これは親の責任だといって非難するよりも、遅まきながら、自信を取り戻すための行動に手をつけていくほうが、より建設的だと思います。大きな目標も小さな目標に分解して、失敗を糧にしながら一歩一歩進み続ける。気がつけば山の頂上に立っていたという態度で臨むことが大切です。
2014.05.11
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対人恐怖の人は、幼児の頃親に甘えさせてもらえなかった。それから少し大きくなって自分の意志で行動しようとしていると、ダメ出しをされて自由な行動が制限された。あるいは親が先回りして何でもかんでも手を出してしまうので依存的な子供になった。対人恐怖症になったのは親の責任だ。親はきちんと責任をとるべきだ。といっていつまでも親を恨んでいる人がいます。以前の私もそうでした。もっとも今は違いますが。しかし私は完全な親はどこにもいないと思います。また親を恨んでも事態がよくなることはありません。かえって悪化するばかりです。それよりも今の対人恐怖症の自分を認めて、社会生活が多少なりとも楽になるように行動すべきだと思います。それにはまず人を愛し愛される体験を遅まきながら追体験することだと思います。そのためには居心地の良いグルーブに所属して、癒したり癒されたりする体験を持つことです。子供の頃に持てなかった体験を取り戻すのです。これは私の体験からいって、とても大切なことだと思っています。少しでもそういう体験ができれば何とか生きていけるようになります。苦しいときは、学校や職場、家族の人間関係が中心になっていると思います。それも大切なことです。しかし実際には硬直化して逃げ出したくなるような関係になっていませんか。閉塞的で抜け道ないのでは困ります。最後には人間関係を避けて一人で過ごすことが多くなります。それはまずいいパターンです。もし問題を抱えていれば、他で居心地の良いグループを探してみませんか。森田理論学習をしている人は、生活の発見会の集談会の人間関係があります。神経症という悩みを持った仲間ですので、共感が持てます。学習だけではなく、できたら世話活動、懇親会、野外学習、一泊学習会、支部研修会、全国研修会などにも参加すれば親しい仲間ができると思います。私は全国に友人ができました。この仲間から困った時に何度助けてもらったかわかりません。それ以外も、趣味、同級生、地域社会、町内会、以前の職場の仲間、親せき、習い事などのグループなどなど、その気になればいくらでもあります。一つでも二つでも探して参加してみませんか。その際注意点があります。私は広く浅くの付き合いがよいと思います。あまり、引っ付きすぎると問題が発生したときに収拾がつかなくなります。時と場合に応じて、できれば癒しのグループをたくさん持っておくことです。付き合いのコツは森田理論学習でいう不即不離を心がけてください。次にグループに入る時は、他人のために役に立つことをするという気持ちが大切だと思います。人が自分のために癒してくれるのを待つのではなく、自分から人を癒してあげる側面も忘れてはいけないと思います。
2014.05.10
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二人に一人ががんになる。三人に一人ががんで死ぬ。がんになった時どう対応するか。普段から準備しておいたほうがよいと思う。私は今まで白血球のTキラー細胞などがガンを食いつぶしてくれるから、顆粒球とリンパ球の割合をバランスよく保つという考え方だった。それが唯一のがん対策だと思っていた。がんの手術、抗がん剤治療、放射線治療、その他治療は拒否するつもりだった。それらの治療は免疫抑制が起こり、再発した後は死を待つしかないと思っていた。そんな時平岩正樹医師の「医者の私ががんに罹ったら」を読んだ。まさに目から鱗が落ちるような、衝撃を覚えた。まずがんの特徴や治療の事実をよく観察すること。これをおろそかにして推測でがんと立ち向かってはいけないということだった。一部分を紹介したい。・がんに罹った時の治療法は、手術、抗がん剤治療、放射線治療が中心である。そのほか免疫療法などがあるが成果はあまりよくない。・自分ががんに罹った時現実を受け入れることが大切である。そして自分が積極的にがんの治療にかかわっていく。そのためには自分のがんをよく研究する。自分のがんがどんな状態かを知らなければ、自分の受けている治療がまっとうかどうかは分からない。・がんの手術は2種類ある。がんを完治させるもの。患者の苦痛をとるもの。進行がんは完治が難しいものがある。そういうものは受け入れて、残された日々をいかに生きていくかに切り替えたほうがよい。・大腸がんの抗がん剤治療薬は10種類もある。病院には経費が掛かるのですべてを置いているわけではない。抗がん剤はその患者に合わせて、種類を替えたり、量を替えたり、組み合わせてゆかなければいけない。また厚労省は外国で認められている治療薬をなかなか認可しない。これは今の医療の問題である。・医者にとっても患者にとっても一番恐ろしいのは骨髄抑制である。患者には骨髄抑制の自覚はないが、通常3300から9000個/立方MMの白血球が3000を切ると治療が続けられなくなる。白血球の減少を防ぐにはGCSFという治療薬がある。・正常な細胞は昼間活発に活動し、夜間は休止するという生体リズムを持っている。がんは反対に夜間のほうが活発である。抗がん剤治療は夜間が有効であることが分かっている。・進行がん医療がお粗末な日本。病院によって、患者が受けられる医療の質は全く違う。がんの患者に、もう治療法がありませんと告げる医者たちがいる。私はそういう医者たちに聞いてみたい。もしあなた自身が患者だったとしたらもう治療法はありませんと自らに言えるだろうか。・肺がん、乳がん、胃がん、肝臓がん、担癌、大腸がん、すい臓がんにはそれぞれ大きな特徴がある。それらの特徴を患者が自らよく知ること。特徴に合わせて最適治療を選ぶ必要がある。それらを詳しく述べられている。早期発見、賢い病院の選び方、手術の考え方、副作用の少ない抗がん剤治療、放射線治療も述べられている。今まで医師だけが知っておけばよいというがんの知識を、患者もよく理解しておくことが大切だ。重要なのは自分のがんをよく知り、自分が主治医になったつもりで、病院を選び、担当医師と相談して納得できる治療に臨むということだ。医者の言いなりになって、がんが転移して「がん難民」として見捨てられるということは最悪のパターンである。
2014.05.10
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子どもはふざけたこと、おどけたことをよくしゃべる。これらは大目に見て相手をしてやることがよいと思う。それと人に迷惑をかけることは、理由をきちんと説明してやることが必要だと思う。それを見逃していると、子どもは親の承認のもとに行動していると勘違いしてしまう。子どもはきちんと話せば、意外にも分かってくれることが多いようだ。子どもはもともと自由で活き活きした存在です。そのまま育ってくれれば、神経症にもならずに、それなりに自立して、納得のできる人生を歩んでいけるはずです。それを親があれはダメ、これはダメ、あんたは何をやってもダメな子と叱責しているために、やる気と自信を無くしていく。さらに子供がやるべきことを、親が肩代わりしていると依存体質の人間ができあがる。依存体質の人間は、自分の意志が何かさえも分からなくなくなってくる。そして自分がどう扱われたかをいつも気にしている。他人が丁重に扱ってくれないと、被害者意識が出てくる。被害者意識の人は人を恨むようになる。人に対して感謝することはできない。思いやりのある行動はとることができない。人間関係は悪化して、人を避けるようになる。子育てはいたってシンプルなのではないでしょうか。それは子どもが自分で出来ない幼児の時は、スキンシップをとって精一杯面倒をみてあげる。これがまず大切だ。でも自分で少しずつできるようになると、危ないと思っても極力手を出さないで見ているだけにする。そして子どもの能力や自信の獲得を一緒になって喜んであげる。その切り替え時期のタイミングを逃さないこと。そうかといって放任主義は禁物である。できるだけ子どもに付き添ってみてあげる。でも現実には子育てに自信がなくて苦しんでいる親がほとんどである。本来子育てというのは、大変気を使うものだが、とても楽しいはずである。そのために子育ての学習は欠かせないと思う。森田理論学習には、そのヒントがたくさんちりばめられている。
2014.05.09
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孫を見ていてびっくりすることがある。3歳や5歳の子どもなのに、1年前のこと思い出して話す。以前行ったことのあるところに行くと、以前の記憶を口にする。実に不思議である。小さい子供は、記憶はあいまいでたいして記憶力なんてないときめつけるのは禁物だ。潜在意識の中にはちゃんと記憶として残っている。これは紛れもない事実だ。よい経験も悪い経験も子供の心なかには確実に蓄積されている。だから大人は小さい子どもだからといって、いい加減な対応をしてはならないと思う。厳しく叱りつけたりして素直に従ったように見えても、子どもの心の中には小さな痛みとして残っていく。ましてや暴力をふるったりすると、その場では「ワンワン」泣く。それを見て、親は子供が反省して、二度と悪いことはしないだろうと勝手に判断している。真実は子どもの潜在意識の中に、理不尽な心の痛みとして起こっているだけだ。それが長年積み重ねられていくと考えただけでも恐ろしい。3歳から5歳の子どもは危険な行為にたくさん挑戦する。そんな時、親は命を落とすことは厳しく言って聞かせないといけないと思う。たとえば車の往来する道を走りまわることなどである。それ以外は、たとえけがをするような事態が予想されても、じっと見守り挑戦させることが大切なのではないだろうか。普通はこれがなかなかできない。転んでけがをするかもしれないと思うと、「これをしてはいけない、あれをしてはいけない」とすぐにダメ出しをしたりお助けマンになる。親の不安を払しょくさせるために、過保護になる。子どものやる気や挑戦の目をことごとく摘んでいくのである。
2014.05.09
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私は元々好奇心が強かった。神経質な人は「生の欲望」が強い人が多いから、皆さんも好奇心が旺盛だと思う。現役のころから、好奇心を活かしていろんなことにチャレンジしてきた。トライアスロン、資格試験に凝ったこともあった。そのほか趣味、好奇心の棚卸表が役に立っている。やってみたいことを項目別に一覧表にしているものである。大項目としては、コンサート情報、サックス関連情報、習い事情報、健康情報、花見情報、旅行情報、瀬戸内海遊び情報、イベント情報、映画、テレビ、書籍情報、公共施設情報、株式情報、FP情報などに分けている。それをさらに具体的に細かく分けている。たとえば旅行情報では、格安バス旅行、海外旅行情報、京都、大阪、神戸の観光地情報、ハイキング、登山情報、企業の工場見学情報、博物館、美術館、植物園、動物園情報、花めぐり、温泉情報、瀬戸内島めぐり情報、船の情報、ドライブ情報、グルメ情報、ラーメン、蕎麦屋、うどん屋情報など興味がわくものをリストアップしている。人や情報誌からネタを仕入れている。また私の住んでいるところでは、1か月に一回、コンサート、音楽、イベント、自然観察などのすべてを紹介した案内物が発行されているので、このチェックは欠かせない。このようにして各項目別に「やりたいこと」、「挑戦したいこと」をリストアップしておけば退屈ということは考えられない。あまりにも手を出し過ぎてイライラしないのか。金がかかりすぎるのではないかという人がいる。金のかかることはほとんど敬遠している。情報を集めるだけである。その情報を人に伝えるだけである。すべてに手を付けているわけではない。今できることは一つだから、何でも手を付けることはできない。私の生活は仕事を中心とした生活である。規則正しい生活である。余暇を利用して、音楽や演芸のボランティア、森田理論学習などを行っている。さらにその時々で生活にバリエーションを持たせているのである。仕事というコア部分がしっかりしていないと、退屈感と心の不安を解消するために趣味に没頭しているような状態になる。これはあたかもネズミが糸車を一日中回しているような状態になる。多趣味ではあるが、それははたで見ていると、あまりにも痛々しい。
2014.05.08
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定年退職後暇を持て余し、右往左往している人がいる。今月号の発見誌の人は毎日が日曜日になり、奥さんに「食卓や台所にいないでください」と引導をわたされたそうだ。平日の5日間の空白をどう埋めるか大問題になったそうだ。今では3つのボランティア活動で外に出て活動しておられるようだ。最後のキャッチフレーズの言葉が面白い。「退職後の健康、決め手は規則正しい生活」「夫の定年が妻の病気を引き起こす」「定年アルコール依存症にご用心」私は定年退職後すぐにマンションの管理人の仕事を見つけた。短時間労働で精神的にも肉体的にも楽な仕事である。階段の上り下りで足腰の運動になる。物足りないが多少の収入になる。仕事仲間や居住者の人と会話ができる。規則正しい生活になる。などの利点があった。その後はまた別の仕事を見つけたいと思っている。なければ演芸ボランティアで老人ホーム巡り。自給野菜つくり。花や盆栽などを楽しみたいと思っている。目標はコーカサスの人だ。120歳ぐらいまで働いて、畑で寿命を迎えてぽっくりいけたら最高だ。それは無理でも、90歳ぐらいまで頭も体も元気で過ごしたい。
2014.05.08
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神経質者は一面的、一方的、悲観的なものの見方をするという特徴があります。それを解消するための手段としてリフレーミングという手法があります。これはたとえば、自分が「これしかない」「絶対に間違いない」「100%正しい」「人は自分のことを無能力者だと思っているはずだ」「こんな失敗をして、みんなに合わせる顔がない。もう会社を辞めるしか道はない。」「何をやっても思うようにならない。こんな自分は死んだほうがいいのだ」と考えた時、それとは反対の考え方を提示して、一面的な偏った見方を自覚して是正していこうというものです。自分一人でできない時は他の人の協力を仰ぎます。経験豊かな人、人生の先輩、成功した人、上手な人などに素直に意見を聞いてみることです。第三者は自分の独りよがりな極端な見方を修正してくれることがあります。ここでは、ブログで見つけた自分の一方的見方と反対の見方の例を挙げてみました。森田理論学習では両面観で物を見る。常にバランス、調和をとりながら行動することを重視しています。要はどちらにも極端に偏らないことが大事です。そのための学習の参考にしてみてください。前が自分の偏った考え方、後ろが全く別の見方考え方です。飽きっぽい 好奇心旺盛、興味の範囲が広い あきらめが悪い ねばり強い、集中力がある あわてんぼう 行動的な、積極的である いい加減な こだわらない、行動的である いばっている 自信に満ちている、肝がすわった人である うっとおしい 積極的な、面倒見がいい人である うるさい 元気がいい、活発な おしゃべりな 社交的な、明るい おっとりした マイペースな、自分を持っている おとなしい 思慮深い、思いやりがある 甘えん坊 人にかわいがられる 怒りっぽい 感受性が豊かな 面白みがない 真面目な、冷静な 落ち着きがない 行動的な、好奇心旺盛な かたくるしい 真面目な、冷静な カッとなる 情熱的な、感受性豊か がんこな 自分の意見を持っている、意志が強い きつい 自己主張できる、自分の意見が言える きまじめな 持続性がある、ねばり強い 緊張する 思慮深い くどい ねばり強い、意志が強い、 けじめがない 集中力がある、持続力がある けちな ものを大切にする こだわりのある 自分の意見を持っている、意志が強い 暗い おとなしい、ひかえめな 喜怒哀楽が激しい 感受性豊か 気が強い 自信に満ちている 気が弱い ひかえめな、おっとりした、やさしい 気味が悪い 個性的な 強引な 行動的な、リーダーシップのある 強情な 意志が強い、自分の意見を持っている 軽々しい 積極的、行動的な 軽率な 行動的な、積極的な 口が悪い 自分の意見が言える、率直な 口が軽い 率直な、うそがつけない 勝ち気な 自信に満ちている 変わった 個性的な さわがしい 明るい、活発な、楽しめる しつこい ねばり強い ずうずうしい 堂々とした、積極的な すぐ泣く 感受性豊かな せっかちな 行動的な、積極的な 自慢げな 自己主張ができる 責任感がない こだわらない 地味な ひかえめな、おだやかな だまされやすい 純粋な、素直な だらしない こだわらない つまらない おだやかな、ひかえめな つめたい 冷静な でしゃばり 世話好き、積極的な とろい おっとりした 単純な 素直な 短気な 感受性豊か 調子に乗りやすい 明るい、行動的、素直な 鈍感な 物事に動じない 頼りない やさしい、ひかえめな なれなれしい 積極的な、社交的な、 のろい 慎重な、落ち着いた のんきな こだわらない、マイペースな のんびりした こだわらない、落ち着いた 生意気な 自信に満ちた、堂々とした 鈍い 物事に動じない 涙もろい 感受性豊か、人間味がある 引っ込み思案な 思慮深い、思いやりがある 一人で抱え込む 責任感が強い ふざけた 明るい、ユーモアがある、陽気な、 ぼーっとした 落ち着いた、おだやかな 激しい 行動的な、感受性豊か 人に合わせる 協調性がある 人見知りする ひかえめな、協調性がある 人付き合いが苦手 ひかえめな、協調性がある 八方美人な 人付き合いが上手、社交的な 反抗的な 自分の意見が言える、自立した 不真面目な 活動的、行動的 不親切な 他人に干渉しない、自主性を重んじる 周りを気にする 気が利く、心配りができる 負けず嫌いな 努力家、向上心がある 無口な おだやかな、落ち着いた 無責任な こだわらない、とらわれない 命令口調が多い たのもしい、リーダーシップがある、 面倒くさがり こだわらない、物事にとらわれない 優柔不断 思慮深い、情報収集が綿密、慎重だ、 弱々しい やさしい ルーズな こだわらない
2014.05.07
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森田には日記指導というものがあります。基準型学習会を受けた時にもあります。先輩会員や講師の人がコメントを書いてくれます。入院森田療法にもあります。森田先生は入院患者さんに日記を書かせて指導されていました。集談会などでも苦しい人は、集談会の幹事や世話係りの人などに頼んでみることをお勧めします。適当な指導担当者を紹介してくれることと思います。日記指導は一般的には2冊のノートで行います。一冊は自分の手元に置いて毎日書いてゆきます。もう一冊は指導担当者が見て、赤字でコメントを書き込みます。そのために日記は余白をとって書くことが必要です。たとえば1ページを半分に折って書くとかです。それを1週間とか1か月とか期限を決めて交換するのです。指導を受ける人は、指導者のコメントを見て自覚を深めていくことになります。日記指導はいろんな考え方があります。私の考え方を書いてみます。まず書く人です。まず毎日の日常生活の中の出来事を書きます。具体的に詳細に書きます。つぎに出来事に遭遇した時に沸き起こってきた感情について書きます。最後に自分がどのような対応をとったかを書きます。ですから頭の中で観念的、抽象的に考えたことを書くのではありません。実際に目で見たこと、体験したこと、その中で感じたこと、対応したことなどを書くのです。指導者はどのようなコメントを書いてくれるのか。どの程度不安、恐怖に振りまわされているのかを見ています。そして日常生活が滞っていないか見ています。出来ない時でもその糸口を探しています。そして取り組むべき行動の提案をしてくれるはずです。つぎにどんな認識の誤りが強い人なのかを見ています。それによって考え方が極端になっていないかどうか。悲観的になっていないかどうか。「かくあるべし」に振り回されていないかどうか、事実とどう向き合っているのかを見ています。そして認識の誤りを指摘してくれます。これによって自覚を深めて、自己を客観的に見れるようになればしめたものです。さらに、自分の感情、気持ち、意志、希望を封印していないかどうかを見ています。他者の思惑に翻弄された生活態度がないかどうかを見ています。それらを指摘くれるはずです。なかにはコメントに対して反発したり、それならどうしたらよいのかと意見を求める人もいます。ここでは自覚を深めるという作業を行っているわけです。腹が立っても、一応その方向で受け入れる態度が必要です。今まで何年もかかってきた症状が、1回の日記指導ですべて払拭されるものではありません。森田は客観的な目で自覚を深めるということが極めて大切です。これができれば、対処法は森田理論学習をする中でいくらでも考えつくはずです。自分で気付いて自覚し、自分で乗り越えていくのが森田理論なのです。
2014.05.06
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私は「生活の発見会」の集談会で、一泊学習会や支部研修会の計画、立案、実施、報告などの仕事を数限りなく経験させてもらいました。どうして自分にばかり押し付けられるのだろうと、尻込みしたくなるようなことも多々ありましたが、今振り返れば自分に自信と成長をもたらせてくれたと感謝しています。そしていつか会社で事務所の移転という大事業の責任者に抜擢されて、なんとか仕事をこなせたのはこれらの経験があればこそでした。支部研修会は10以上の集談会の人に呼び掛け、希望の講師をお呼びし、予算もかなりとって行うものです。遠方から30名以上も参加されます。失敗をするかもしれないというプレッシャーの下でできうる限りの段取りを整えるのです。計画は1年前から始まります。まず日程と開催地が決まります。それからは私の出番となります。まず月ごとの計画を立てます。少し早目に進行していくように計画を立てます。最初に会場の確保と研修内容の決定、講師の決定を行います。予算内で懇親会も含めて研修、宿泊場所を選定します。講師は参加者の要望に沿った人を選んで交渉します。そこまで決まれば一安心です。その後、役割分担をして協力依頼を行います。会場との折衝、案内書作成、配布、参加者名簿の作成、会計係、オリエンテーション担当、会場設営、受付担当、司会者、挨拶、お茶係、食事担当、懇親会担当、懇親会の進行係、体験交流の設定係、写真撮影担当、駐車場案内などがあります。あとはそれぞれを細かく手抜かりのないように、問題点を挙げて一つ一つつぶしてゆくのです。ここに一番の勢力を注ぎます。大変ですが実施しているときは無我夢中です。ここで気になる不安をつぶして研修当日を迎えるのです。当日も気配りは欠かせません。ここまで準備をすればほぼうまく進行します。手間暇をかければかけるほどよい研修会になります。終了後は多くの人からメールや電話で感謝やねぎらいの言葉が届きます。一回経験をすると、その体験は貴重な能力の獲得として自信の源になります。自己肯定の道に転換することができるのです。何回も経験していると、さらにノウハウを身につけて、参加者にもっと多くの感動のおすそ分けをすることができるようになります。社会体験の不足している私たちには、またとない学習の機会だと思います。集談会というのはまたとない社会体験の場です。積極的に運営に参加することをお勧めします。ここでの体験が、その後の仕事や家庭生活等に活きてきます。
2014.05.06
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私のユーモアの収集と作品の中からいくつかをご紹介しましょう。川柳と都都逸編からハイハイと 軽い返事に 重い腰 仕事する ふりをするのに ひと仕事ストレスを 減らせと医者が 無茶を言う信州信濃の 新そばよりも わたしゃあなたの そばがいいたてば芍薬 座ればボタン 歩く姿は ボケの花その次には「なぞなぞ問答」も面白いです。「人のために尽くす」とかけてなんと解く「ろうそく」と解くその心は?わが身を削って人を照らす方言遊びも面白いです。「どうにかしないといけませんよ」を各地の方言でいうと!津軽弁 どうにか せねど えげねえよ広島弁 なんとか せにゃ いけんじゃろう宮崎弁 どげんか せんと いかん沖縄弁 どうにい しないと いけませんさい次に替え歌作りに挑戦してみましょう。「青い山脈」の替え歌で「森田とともに」を作ってみました。1番 つらく暗い人生に 何度死のうと思ったか森田の理論に 出会った時からはなんとなく 生きる勇気が 湧いてきた2番 森田先生ありがとう 水谷先生もありがとう森田の理論に 出会った人からはうれしくて 感謝感激 うれし泣き次に「コマーシャル」の歌を覚えて披露する。楽器で演奏すると喜ばれる。私はサックスで、この木なんの木 気になる木 気になる気になる木ですから 大きな木になるでしょうその他、ヤンボーマーボー天気予報 青雲の歌 サザエさん 鉄腕アトム 太陽にほえろ等のテーマ曲などを演奏している。思い出の名場面の実況中継のものまねをしてみる。甲子園の表彰式、野球中継、競馬中継などである。私は東京オリンピック入場行進、全国高校駅伝ゴール前の模様、全国野球選手権大会表彰式の模様、青年の主張、パチンコ屋の店内放送などの持ち芸を持っている。フーテンの寅さんの口上を覚えて披露する。知り合いに帽子、ジャケット、カバンを取り揃えて持ち芸にしている人がいる。その他バナナのたたき売り、ガマの油売りの口上を覚えて披露する。これはやっている人が少ないので、覚えるとうけるだろうと思います。あとは、「ダジャレ」や「ユーモア小話」つくり。これは意外に奥が深いですよ。「生活の発見誌」より一つ引用します。題 猫の「ミイの悩み」私猫として失格なんでしょうか。ネズミ一匹も捕まえられないなんてクヤシイ。今まであの憎きチュー吉を捕まえようとして、障子紙は破るわ、お父さんさんの鉢植えを落として割るわ、ヘマばっかり。「お隣のタマは1日に3匹も捕まえるんですって、感心ねえ」なんてママさんはいやみをいうし、私のプライドはもうズタズタ。こんな自分が情けないやら、腹が立つやら、落ち込んでいます。こんな私でも森田療法で自信を取り戻すことができますでしょうか。ユーモア小話はネタ集めから始まります。ネタを小さな手帳に書いておきます。勘違い、思い込み、極端、ばかばかしいこと、普通ではありえない出来事などを書き溜めておくことです。つぎにはいくつかの話をユーモア小話として創作します。そういう人の会などに入って披露する。みんなの反応を確かめる。他の人の話からまたヒントを得て、新しい創作意欲がわいてきます。次に一人一芸を持ちましょう。私はアルトサックス。演奏曲は100曲以上。移調の仕方を知っていますので、楽譜は独自に作ります。獅子舞。ドジョウ掬い。しば天おどり。浪曲奇術などいつでも披露できます。私は森田学習をしている人は、是非一人一芸で、人を楽しませていただきたいと思っております。きっと生活に活気が出てくると思います。
2014.05.05
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今日はユーモアについて書いてみたい。私は老人ホームなどを訪問して音楽を届けている。その中のグループの中にダジャレを連発する人がいる。おやじギャグである。その方がダジャレを提供すると、すぐに和気あいあいとなる。その場が和むのである。私はその方のユーモア精神に注目している。その人は、「私は元々むっつりスケベーだ」などといわれる。特にユーモアのセンスはないのだといわれる。つまりユーモアの提供は天然ではなく、並々ならぬ努力しておられるのだ。ある時手帳に何やらメモされていた。聞いてみると、ダジャレのネタを見つけたのだという。手帳にいっぱいネタを書きつけて、ことあるごとに公開しているのである。その人に話を聞くと普段から収集していないととっさには出てこないといわれる。神経症の人はユーモアとは無縁という人が多いようである。なかにはユーモアのつもりで話題を提供すると、白い目でにらみつけられることがある。そんなつまらないことを考えるより、森田、森田というような人である。ユーモアというのは人間関係の潤滑油のようなものではないだろうか。ユーモアのない人はとても重苦しい。もっと完全主義という肩の力を抜いて、ゆったりと余裕を持って生きてゆきたいものである。目先ユーモアの習得を目指すと、神経症の克服にも好影響を与える。生きがい療法ユニオンの伊丹仁朗医師によるとユーモアにはいろいろと効用がある。1、日々ユーモアの題材を求めて、注意が周囲の広い世界に向かう。2、材料が見つかり話をまとめる過程は、貴重な創作体験になる。3、みんなに披露する際には、心配、不安はそのままに、今現在の目標を実行する体験になる。4、人を笑わせ、愉快にすることで、人の役に立つという生きる手ごたえを感じる。私はユーモアのセンスがないときめつけている人は、落語、コント、漫才の収集から始めたらよいと思う。ツタヤにはその手のCDやDVDなどがたくさんある。You tubeなどでもいくらでもある。私は面白いものはテープ起こしをして文章にしている。それをみんなに公開すると喜ばれる。自分でもやってみたくなったら川柳や都都逸などから挑戦してみたらいかがでしょうか。そこからどんどん広がってゆきます。最終的に一人一芸を持てるように頑張ってみませんか。明日は私のユーモアとの付き合いについて投稿します。
2014.05.04
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身近な例で説明してみましょう。ランク1、ランク2の例です。最近ではJTBの社員のバスの手配忘れという不手際があった。事件のあらましは次のようであった。岐阜県可児郡御嵩町の東濃高校が4月25日に予定していた遠足が JTBの多治見支店の男性社員の手配忘れでバスが用意できなかった。 ミスに気付いた社員が責任を逃れるため、生徒を装って遠足を中止しなければ 自殺するという内容の手紙を学校に届けていた。 手紙には「あしたの遠足に行きたくない。中止しなければ自殺する」と書かれていたため、学校はその日のうちに全生徒の安否を確認、遠足の実施を決めた。 ところが当日の25日午前8時、JTBが手配する大型バス11台が用意できてないことが判明し、遠足は延期となった。 全校生徒317人は、学年ごとにバスで東山動物園やナガシマスパーランドなどに行く予定だったが、帰宅した。その後、マスコミに大々的に報道されて波紋をよんでしまった。JTBの社員は自分の不手際を隠して、ミスを帳消しにしようとしています。神経症の真っただ中にある人がとりがちな行動です。私も経験があります。でもごまかせばごまかすほど問題が大きくなってしまいます。最終的には個人が責任を取るだけでは収まらなくなります。会社の信頼を大きく裏切り、信頼の回復には長い時間がかかります。この社員は何か大きな問題を抱えていたのでしょうか。仕事が上の空になり、集中できていません。またJTBの会社としてのチェック体制はどうなっていたのでしょうか。いずれにしろ、社員と会社への不信感は振り払うことはできません。これがランク3だと、きちんとバスの手配をして、会社内でその情報を共有化しておく。その内容を学校側に知らせる。運転手、添乗員、バス会社、到着時間、運航計画、予算案などを報告する。そして疑問があれば学校側から聞いてさらに対応する。これらはJTBとしては当然なすべき業務である。学校側としては当然それくらいのことは、こちらから催促しなくてもやってくれるだろうという気持ちである。それらができたうえで、初めてランク4やランク5に進むことができる。例えば移動時間をいかに楽しく過ごしてもらうための仕掛け。あるいはプレゼント作戦。東山動物園やナガシマスパーランドの事前の耳寄り情報の提供。JTBの独自の旅行企画にまつわる、とっておきの話題の提供。その他あっと驚くような企画の実施を考えておく。ランク4や5で相手に感動を与えることができると、JTBに対して信頼がさらに高まり、さらに次の仕事に結びつくという好循環を引き起こしたのではなかろうか。仕事に携わった人はとても充実感を感じることができます。頼まれたことをきちんと提供するというのは最低限必要のことです。でもそこにとどまっていては、感動は味わえません。双方が感動を味わうためには、森田理論学習でいう「物そのものになって」相手の立場にたって考えるという習慣をもつことが大切です。
2014.05.03
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さて、人に感動を与えるという行為はどんな行為でしょうか。人のために役に立つとはどういうことなのでしょうか。人のために役に立つ行動は、受取人がどう受け取ったかによって、5つのランクに分けられます。1、 嫌悪感をもたらす行為。全くの期待外れ。一言文句を言いたくなる行為。会社でいえば得意先の怒りを買い、取引停止となるケース。2、 期待以下のことしかできずに、相手に不平や不満が残る。新聞に投稿したり、スーパーの「お客様の声」に投稿してうっぷんを晴らさないではおられない段階。3、 当初の期待通りのサービスを受けとる。相手は対価に見合ったサービスの提供を受けるが、それは当然のサービスであると思っている。これくらいはやってくれて当たり前という気持ち。普段はこの段階のサービスでとどまることが多い。4、 次におやっと思うような驚きのサービスの提供を受ける。その人の行為に対して好感を持てる。感謝したくなる。評価をして、ファンになる。リピートのお客さんを獲得できるようになる。5、 自分の期待をはるかに超えたサービスの提供を受ける。感動でうれし泣きをする。なんとしてもお返しをしないではおられないような気持ちになる。この感動を他の人にも知ってもらいたいと思うようになる。超一流のレストランなどの料理やサービスなどがある。駐車場の管理人さんはランク4、5に該当します。どんな仕事をしていても、一歩踏み込んで、「ものそのもの」になれば、創意工夫が生まれ、人を感動させることができるようになります。ランク1や2はもってのほかです。相手から責められ、自己嫌悪感、自己否定が出てくると思います。他人の足を引っ張り、自己の利益の確保を目的とした自己中心の立場だと思います。ランク3は指示されたことをきちんとこなしており、問題はないように見えますが、感動を味わうということからみると物足りません。創意工夫は湧いてきません。森田の学習を重ねている人はもう一歩踏み込んでみていただきたいと思います。明日は身近な例で説明します。
2014.05.02
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定年退職後、駐車場の管理人を始めたおじさんがいました。そのおじさんが奥さんの介護で辞めることになりました。その最終日のことです。ある方がちょっとした感謝のしるしとして手土産をもってゆきました。すると信じられないような光景を目にしました。小さなプレハブの管理人室には色とりどりのきれいな花束がいっぱいに積み上げられていたのです。管理人室のドアの横には、置ききれなくなったお土産が積み重ねられていたのです。駐車場の中はたくさんの人がごった返し、それぞれおじさんと並んで記念写真を撮っているのだそうです。撮り終わると感謝の言葉を投げかけ、中には涙ぐんでいる人もいたというのです。この管理人のおじさんに、みんな感動という贈り物を受け取っていたのです。このおじさんは何をしていたのか。挨拶を丁寧にする。雨の日にビニール傘を貸してくれる。重い荷物を運んでくれる。他の管理人さんがしないことを丁寧にこなしていたのです。またここの駐車場は街中にありすぐに満車なりました。満車になると他の管理人さんはロープを張り看板を立てて、プレハブの小屋に入り休憩をとっていました。この管理人さんはロープの外に立って、「満車です。申し訳ありません」と謝っていたのです。苦言を呈するお客の嫌味に耐えながら、雨の日も、風の日も立ち続けていたのです。何でもないようなことを継続していたのです。誰もしないようなことを、愚直にこなしていたことがみんなに感動を与えていたのです。「どんな仕事も楽しくなる3つの物語」きこ書房 福島正伸著より私はこの話を読んで涙が出てきました。感動しました。そして森田でいう、「物そのものになりきる」ことの尊さを改めて感じました。職業に貴賤があるわけではありません。目の前の仕事に没頭すること。これが森田理論学習の目指すところです。人に感動を与えるということは、人から感謝されて自分もうれしくなります。それが生きがいにも結びついてゆきます。私も物そのものになりきって、人に感動を与えられるような人間になりたいと思います。
2014.05.02
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