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与島から香川県を望む。瀬戸大橋は道路の下は鉄道が走っています。瀬戸内海は穏やかでいいですね。広島県はミカン畑、オリーブ畑がいっぱいです。島から島へ、島から本土へお嫁に行く港港でかかっていた曲は「瀬戸の花嫁」です。
2016.01.31
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一昔前の理論学習では幼弱性の打破ということが言われた。神経症に陥っている人には、この幼弱性がきわだっている。生活面に特徴的に現れます。これには3つある。観念的である。自己中心的である。依存的である。観念的というのは、現実、事実を無視して「かくあるべし」で対処しようという生活態度のことである。神経症の発症の大きな原因になります。事実を無視するといえば、事実をよく把握しないうちに是非善悪の価値判断をすることもあります。森田理論学習では、是非善悪の価値判断は自分や他人を苦しめるだけだと学びました。この学習と克服は森田理論学習の大きなテーマとなっています。自己中心的というのは、自分勝手な態度であり、いつも自分のことばかり、あるいは自分中心に物事を考えています。自己中心的な人は、他者を支配したいという欲望が強い人です。自己中心的な人は相手が自分の考えているように行動してくれないとすぐにひねくれてしまいます。他者から見るととてもわがままに見えて付き合いづらい人です。最後には周りの人は距離を置くようになります。そして本人は孤独に苦しむようになります。森田では自分の意思、気持ち、欲望を第一に押し出すということを大事にします。そして次に相手の意思、気持ち、欲望を聞いてみる。確かめる作業がかかせないといいます。普通は不一致のことが多いわけですから、それらを調整して妥協点を見つけるという作業が必要になります。自己中心的な人は自分の意思、気持ち、欲望を押しだすばかりで、他人への配慮はあまりありません。一歩も譲らないのです。すると暴言を吐いたり、暴力で相手を打ち負かすか、反対にしぶしぶ相手に服従してしまうかのどちらかになります。これらは子どものけんかと一緒です。子どもはすぐに仲直り出来ますが、大人の場合は容易なことではありません。依存性というのは自分の出来ることややらなければならないことを他人任せにするということです。それらを他人が肩代わりしてくれれば自分は楽ができます。テレビを見たり、レジャーを楽しんだり好きなことができます。また何も考えなくてすみます。エネルギーを使わなくてすみます。子どもを過保護に育てるということは、まさにこのような依存性の強い子どもを作りだすということです。これは一見すると、人間の生き方として自然の流れのように見えます。つまり日常茶飯事に出来るだけ手を抜く。お金を出して本来自分のなすべきことを他人に依存する。そして浮いた時間で生活をもっともっと楽しむ。でもこれは本末転倒だと思います。人間の幸せというのは、日常生活を無視していては決して訪れることはない。日々の生活の中で衣食住の必要なことに自分で取り組んでいく。そこに気づきや発見、他者との交流が生まれる。しだいに生きる欲望ややる気、意欲が出てくる。これが味わい深い人生を送ることにつながります。ですから依存性を打破して、自分のことは自分でするという原点回帰がとても大切だと思います。その上で自分の出来ないことは、思い切って人に甘えてもいいのだと思います。
2016.01.31
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この絵は1962年放浪画家、山下清さんが広島の蕎麦屋に立ち寄られたときに描かれたものです。その時は若い女性が付き添って面倒を見ておられたそうです。それにしてもうまい絵ですね。
2016.01.30
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斎藤茂太さんのお話です。ある病院に入院していた女性は深刻な病気にかかっていたものの医者が驚くほど病院生活をエンジョイしていた。たまたまその病院に知人がいたため聞いた話だが、「せっかく病気になったのだから闘病記を書いて本をだそう」と思ったそうだ。転んでもただでは起きないという神経が頼もしい。その女性は検査のたびに写真をとり、記録をつけ、他の入院患者の話を聞き、食事のメニューまで細かく記し、薬の成分や効能について医師を質問攻めにし、看護婦にインタビューをするというまことに忙しい入院生活を送ったそうである。そして2ヶ月後には、資料を山ほど抱えて意気揚々と退院していったという。ガンにかかったとき、再発もなくもっとも長生きしたのは、告知されたときに「絶対がんを克服する」と決意した人々、次に「からだに変調なんてない」とかたくなに否定した人である。反対に予後が悪かったのは、「平然と事実を受け止め、模範的な患者であった人々」、もしくは「絶望的になり気分的に死を受け入れてしまった人々」なのだという。がん細胞は人間が弱みを見せるのを虎視眈々と狙っている。ちょっと弱気になろうものなら、いちゃもんはつけないまでも、襲いかかり、弱いところを攻め始める。相手ががん細胞では抗議もできない。打つ手がないと思いこんで病気になると、がん細胞は骨の髄まで入り込んで、徹底的にのさばりだす。(いくつになっても輝いている人の共通点 斎藤茂太 祥伝社黄金文庫より引用)ガンなどの重大疾患にかかったとき、どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのかと嘆く人は危ない。また意気消沈して無気力になる人も危ない。反対にガンになりながらも目標を持ってチャレンジしている人は強い。1987年生きがい療法の会員の方で、ヨーロッパ最高峰モンブランに登頂したがん患者さん7名のうち5名は健在である。私の知っている人で、スキルス性の胃がんで、5つの内臓の摘出手術を受けた人がいた。その方の5年生存率はかなり低いものだった。ところがその方は生きがい療法の会員になり、前向きに明るく生きることを学ばれた。そしてランニングを始められた。そしてなんとフルマラソンを完走するまでになった。それも毎年のように何回も出場されている。現在鬼門とされた5年をはるかに超えて10年目になられる。現在は福祉関係の仕事をしながら、自分の体験談をがん患者会、看護師の卵たちに講演して回られている。そしてエッセイを書いて多くの方を励ましておられる。ユーモアも持ち合わせておられるし、かえって私の方が励まされる。その人を見ていると、がんを治すという強い意志がとても大切であるということをしみじみと感じる。そして一日一日を精一杯生きないともったいないといつも思う。
2016.01.30
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どの本を見ても人と比較することはよくないと書いてある。私はこの考え方は問題だと思う。いかにも常識的である。私は大いに比較しましょうという立場です。比較というのは3つあります。人と比較する。昔と今を比較する。頭で考えた事と現実を比較している。比較することで得られることはなにか。比較するとちがいや特徴がよく分かります。例えば外国に旅行すると日本と海外の国との違いがよく分かります。違いが分かるということは自分への自覚が深まることだと思います。自覚が深まると次につながります。それなのに比較することがなぜ悪いのでしょうか。それは価値判断をして劣っているもの、現実、事実を否定するようになるからだと思います。人と比較する場合、人のよいところと自分の欠けている部分を比較して自己嫌悪します。昔のよかった状態と現在のよくない状況を比較して嘆くようになります。理想、完全、完璧な状態から現実をみて自己否定、他者否定するようになります。ですから比較することはとても大切であるが、その先是非善悪の価値判断をすることはとても問題があるということではないでしょうか。そもそもこの是非善悪の価値判断というのは、いい加減なものです。いつでもすぐに覆ることがあります。例えばポストイット、ピールアップテープを考えてみてください。一般常識ではあんな粘着力の弱いテープはなんの役にも立たない。つまらぬ物、ダメな物、失敗作として価値判断したとしたらそんなものが商品として世の中に出ることはありません。でも現実は一般的な価値判断を覆し圧倒的な存在感を見せつけています。つまり欠点と思われるようなものにも、使う場所によっては、強力粘着テープにひけをとらない強みや良さがあるのです。デルというパソコン販売会社があります。部品やパソコン製作の工場を持ちません。また大手電機メーカーのように販売チャネルを確立していません。一昔前でしたら商売になりません。ところがデルはそれを強みとしてとらえていたのです。部品調達や組み立てを世界中の工場にアウトソーシングし、インターネットを通じて格安の価格で提供することに成功したのです。価格面では圧倒的優位にあるので、世界中の人に支持されています。ですから、比較は大いにする。そして自分の特徴、違いをよく自覚する。でもそれから先、安易に是非善悪の価値判断をしないということを肝に銘じてゆきたいと思います。
2016.01.29
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「生の欲望の発揮」について、今まで人生の大きな目標を持つということはあまり重視していなかった。それよりも日常茶飯事、雑事、雑仕事などに精魂を傾けて、ものそのものになりきって取り組むことを強調していた。最近認識が変わった。その両方をバランスよく持つことが大事なのではないか。その2つが車の両輪のようなものになり、バランスよく生活の中に組み込まれることで相乗効果を生みだすのではないかということです。どちらも人間が生きていく上で必要なものではないのかと思っているのです。「夜と霧」を書いたフランクルは、人間が生きていく上で大切なものは、健康な体以上に、生きる目標を持つことの大切さを述べている。飢え、寒さ、重労働、虐待のアウシェビッツ収容所から生還を果たした人は目標を持った人だった。骨と皮だけになりながらも、愛する家族との再会を願い、やりかけの仕事を成し遂げたいという希望を持った人が生き残った。目標を持ち得なかった人や持っていても途中であきらめた人はもろくも命を落としていったのであった。イチローは言う。ただバットを振るだけではモチュベーションを維持することは難しい。でも200本のヒット打ちたいと目標を設定した途端に俄然士気が高まる。200本のヒットを打つためには163試合で、1試合あたり1.23本打てばよい。つまり4試合で5本のヒットを打てば達成できるそうだ。目標を持たず出たとこ勝負では記録達成は無理だろう。振り返ってみれば、私は日常茶飯事に森田を随所に応用してきた。自分の出来ることは安易に人に依存しないで自分で手を出す。つまり小さいことを大事にして、日常茶飯事をものそのものになりきって丁寧にこなす。仕事、家事、生活、趣味などである。好奇心を発揮して一人一芸に取り組む。物、自分、他人、時間、お金を最大限に活かすように気を配る。変化の波に乗って生活する。等である。では大きな目標はなにか。これは生涯をかけた目標である。これは森田理論学習の普及である。社会不安障害学会は日本にその対象者は300万人いるという。私は神経質性格の人は1000万は下らないと見ている。神経質性格の人で、考え方の問題で毎日生きていくことに苦しんでいる人が相当数いる。そういう人に森田理論を分かりやすく伝えてお役に立ちたいということだ。今はとりあえず5年間ブログを続けてみたい。2200の投稿と50万のアクセスを目標にしている。その先は、ネットを使った学習会やカウンセリングのようなこともしてみたい。まだはっきりとはしていない。目標に向かって夢はどんどんと膨らんでくる。もし大きな目標がなかったとしたらどうなるのか。森田理論を生活に応用して自己満足は出来るかもしれないが、もう一つ生きる意欲ややる気が小さく固まってしまうような気がする。努力幸福の境地を十分に味わうことができないような気がする。日々の生活は生活の土台ですから、きちんと森田理論通りの生活を踏襲する。その上に人生の大きな目標を掲げて、その達成の為に努力精進していく。そういう気持ちでこれから先最後まで生き抜いて、最終のゴールテープを切りたいと思うのである。
2016.01.28
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昨日の続きです。こんな相談が寄せられた。旅行に行くために有給休暇を申請したら、会社から日にちを変更してくれないかと言われた。また申請すること自体会社の人事担当者はいい顔をしていない。これは法律に決められた国民の権利である。責任者として断固たる態度で会社に交渉してくれという。その結果次第では労働基準監督署に相談に行くという。その方は有給休暇の完全取得を希望している。その人の言い分も一理ある。どう対応したらよいものか。思案した。こういう場合はまず法律の内容を理解しないといけない。フルタイム労働者の場合は6カ月継続勤務すると、その先1年間は10日の有給休暇が発生する。1年6カ月たった時点でさらに11日の有給休暇が付け加わり、その後の1年間の有給は21日となる。2年6カ月たった時点では11日と12日の合計23日の有給が発生する。肝心なことはその時点で6カ月目に発生した10日の有給は使っていないと消えてしまうということだ。例えば5日間有給を使い、残った5日間は繰り越されることはない。その方はこの点を問題にしておられた。この方は、さらに、有給が残っていると、会社は「早く消化してください」というアナウンスをする役目があるといわれる。また消化しないで残った有給がある場合は会社が買い上げるべきだと主張される。その交渉を自分ではしたくないので、管理責任者の私が責任をもって交渉してくれということだった。気が進まなかったが立場上交渉せざるを得ない。管理会社の支店長に電話をした。まず有給休暇取得を断るということがあるのかどうか聞いてみた。するとこれは法律で決まっていることであり、会社がどうのこうのという問題ではないと言われた。会社が嫌がっているというのはその人の受け取り方の問題でしょう。その上で理解してほしいことがあるといわれる。約150名もの管理人がいる。その人たちが有給休暇をとった時、当然替わりの人を投入しないといけない。替わりの人は会社として常時4人確保している。それ以外にもとっさの場合シルバー人材センターにも依頼することがある。でもそれは限りがある。一方有給をとる人は、理由はさまざまである。病気や怪我、冠婚葬祭、旅行、スポーツ、観劇などのレジャーなどである。会社としては病気、怪我、冠婚葬祭は無条件に最優先している。これが厄介なのは突発的に発生することだ。交代要因の段取りがつかないことがある。旅行、スポーツ、観劇等のレジャーは前もって予想が立つ。だから前もって早めに予定を入れてほしい。それでもどうしてもやりくりがつかないときは、変更依頼をお願いしている。また有給休暇の買い上げは予定していない。これはどこの会社でもそうでしょうと言われた。また取得の促進をことさら推奨するようなアナウンスはしないという。だからもし有給休暇を完全消化したいということにこだわるのなら、これを考慮して会社と調整していけばよいことになる。以上を、この方に伝えたところ全く納得できる内容ではないといわれる。私が以前の会社で管理職をしていた時に困ったことは、有給休暇をとられるとすっぽり仕事の穴があき、それを課の者全員でカバーしなければならないことだった。また旅行やレジャーなどで有給をとられると、有給をとらない人の士気が下がることだった。そのためには出来るだけ全員に平等に有給をとらせる必要があった。でも会社は目一杯の業務を割り当てており、もし誰かが休めば、替わりの人がいるわけではないので、その分は他の人にかなりの負担となった。そこで私自身は普段は仕事が少ない状態にしておいて、有給をとられた人の穴埋めが効くように全体の仕事を割り振っていた。私も有給取得の考え方は、出来るだけ有給が流れないように全員が平等にとれることが一番だと思う。でもそれは建前だ。現実問題として多くの問題が発生するのだ。だから取る人はその意思を第一番に押し出してもよいが、それと同時に他の人への配慮を忘れてはならないと思う。欧米では完全取得が原則だという。でもここは日本なのだ。杓子定規に法律をタテに厳密に適応を迫るのは如何なものか。他の人との兼ね合い、仕事の忙しい時期等の調整を無視すれば会社の中でその人は浮いてしまう。その結果つまらぬところで人間関係がぎくしゃくとして仕事がやりにくくなるのである。これではかえってマイナスだと思う。これは私個人の意見であって、きっと反発される方は多いと思うが、森田の理論学習でよくいう調和、バランスという視点は欠かせないと思う。
2016.01.27
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現在マンションの管理人の仕事をしている。もう6年目になる。また管理人17名の取りまとめをしている。年3回のブロック会議、懇親会の実施、地区長会議への出席、管理人の苦情相談、仕事の進め方相談、会社からの連絡等を行っている。よく電話やFAXが入ってくる。先日こんな苦情の電話があった。その方は昨年7月から管理人の仕事を始めた人だ。勤務時間は1日4時間。週3日の勤務の方である。その方の内容はこうである。管理会社の担当営業マンを入社以来見たことがない。自分がいないときに来ているが実際に顔を見たことがない。またマンションを点検して不具合箇所を報告しても返事がない。現在樋が詰まって雨漏りがしている。電話やFAXしても反応がないのでイライラする。ついけんか腰で話をするものだから、人間関係が悪化している。もう辞めたいという。この話が本当だとするともう7カ月も管理会社の営業マンはその管理人と会っていないことになる。管理人と会わないときめ細かい管理はできない。管理人は毎日勤務棟を巡回しており、居住者に接している。多くの情報を持っているのである。これを活用して、きめ細かいサービスを提供すればその営業マンは管理組合から信頼されるようになる。逆に信頼を損なうと、管理委託契約は1年更新なので管理を打ち切られてしまうのである。一方営業マンにも言い分がある。営業マンは一人15棟ぐらいの管理棟を持っている。その管理棟が広範囲に割り当てられている。しかも営業車が少なくフットワークよく動くことができない。毎月の理事会の実施、報告、年一回の総会の資料作り、報告等事務処理に追われている。その他不具合箇所の修繕、大規模修理工事、さまざまな居住者からのクレーム対応に追われている。とてもきめ細かい対応はむずかしい状況にある。以上の点を踏まえて、私はその人に森田理論を応用して次のようにアドバイスした。Kさんは現在、担当営業マンをとても許すことはできないと考えておられる。その根拠は、営業マンは、「1カ月に1回は担当している棟を巡回して管理人と面会すべきである」という考え方が強いからではないか。そういう「かくあるべし」で担当営業マンを見ていると、ふつふつと怒りが湧いてくる。どうして営業マンとしてなすべきことができないのか。営業マン失格ではないのか。そうゆう営業のもとでまじめに仕事をしてゆくことはばかばかしい。私は次のように聞いてみた。営業が回ってこないことで、Kさんにどういう不都合が発生しているのか。かえって巡回がないので自由気ままに仕事ができるのではないか。Kさんは、もっともっと、そういう現状を見つめてみることに専念したらどうか。「かくあるべし」を振り回して、担当営業マンを追い込み、自分もストレスを増悪させてなんのメリットがあるのか。事実を見つめていると、どうして担当営業マンが巡回をしないのか。この営業マンが担当している他の棟はどうなっているのか。自然に情報を集めるようになる。試しに電話をしてみると、確かに巡回はそれほど行われていなかった。ところがその過程で貴重な情報が寄せられた。管理組合の理事さんや居住者からのクレームについてはすぐに対応しているということだった。そこから考えられることは、樋の詰まりの問題を管理組合の理事さんや居住者に伝えて、その方からクレームとして管理会社に電話してもらうのだ。すると今までの経過からするとその営業マンはすぐに対応するはずだ。事実を見つめることに専念し、それ以上のことに手を出さないことはこんなよいことが起きるのだ。また自分で窮地に陥った時は、蟻地獄に落ちたようなものである。もがけばもがくほど悪循環に陥る。そんな時は謙虚になって第三者のアドバイスを受けるようにしたらどうか。Kさんは、一応は納得したが、また電話がかかってきて、今度その営業マンと事務の責任者を交えて対決をすることにしたという。残念ながら、あまりよい展開にはならないような気がしている。
2016.01.26
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心療内科の平木英人医師の言葉です。痛みとは視覚神経を伝わって大脳の視床に到達します。これに対する反応として、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、血管の収縮や筋肉の緊張が生じます。この反応で局所的な貧血が起こります。貧血が起こると組織内の酸素が足りなくなるため、今度は内因性の発痛物質が生じます。こうなると、外因性の痛み刺激が消えても痛みを感じるようになるのです。又こんなふうにもいわれている。慢性疼痛の場合、通常の痛み刺激で活性化するはずの大脳視床ではなく、思考や感情を司る前頭葉の部分が活性化することが分かったのです。前頭葉というのは脳の思考を司る部分です。米ノースウエスタン大学のアプカリアン教授らが行った分析では、慢性疼痛の最中に活動しているのは前頭葉の中でも前部――ストレス不安など、ネガティブな感情を司る部分であることが分かりました。実際、慢性疼痛には、抗うつ薬など前頭葉に作用する薬や、思考を必要とする心理療法が有効です。(慢性疼痛 平木英人 ちくま新書 60ページ引用)これが事実であるとすれば、慢性疼痛の治療方法は根本から見直していく必要があるということです。つまり身体的痛みは、末梢神経から視床下部に伝わり、視床下部から下垂体、副腎系へ対応指令が出されていると思われていた。そのために、その方面の対症療法が中心となっていたのです。実際一過性の痛みはそれで解決できていた。ところが慢性疼痛の場合、その経路だけではなく、前頭葉が絡んでいる。むしろそちらの方の影響が大きいのではないかと言われているのだ。それは自分が作り出した架空の思いこみのようなものなのだ。だから痛みの原因がなくなっても痛みを感じるようになり、しかも増悪していく。このように問題をとらえると治療方針は全く違ってくる。薬物療法も薬の種類が違ってくる。それに加えて心理療法が重要になってくるのです。平木医師は、自律訓練法、交流分析、行動療法、認知療法、カウンセリング、絶食療法、森田療法、催眠療法、内観療法等が必要となると指摘されている。平木医師は絶食療法、森田療法にことに詳しい。それはご自身不安神経症を森田療法で克服したからだ。これは慢性疼痛の治療に限らず神経症の治療にも言えることであると思う。神経症で精神科にかかると、まずは薬物療法で様子を見ましょうということになることが多い。それが第一選択肢である。クライアントが苦痛を訴えれば、薬の種類や量を変えて、あくまでも神経伝達物質のバランスの崩れに違いないと決めつける傾向にあるのではないか。それでも改善が見られないときは匙を投げるか、薬漬けにしてしまう。患者にとっては大変なことである。病院にかからない方がまだよかったかもしれない。慢性うつ、気分変調性障害、神経症は治療の視点を変えることが必要だと思う。様々な心理テストを行い、そのクライアントにあった心理療法を取り入れて治療をしていく必要がある。平木医師によると、その心理療法は30種類くらいあるという。私自身は神経症には森田理論学習がよいという立場をとっている。不安の見方を変え、「生の欲望に邁進する」実行力を身につける。「理知本位」「気分本位」から「事実本位」の考え方を理解して、日常生活への応用力をつける。これが神経症克服の決めてであると思っている。ただこれは適切な指導者のもとに行わないと効果が少ない。ましてや自分ひとりで取り組むことは至難の業である。さらに時間ばかりが空回りして、途中で放り投げてしまい、森田には二度と寄りつかなくなってしまうのが残念なことである。「森田はもう少し掘り進めば、その下に豊かな鉱脈が静かに眠っている」これが私の実感である。
2016.01.25
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森田理論で大事なことと問われれば次の2点は外すことはできない。一つは「生の欲望の発揮」である。もう一つは「事実唯真」である。今日は「事実唯真」について考えてみたい。これは森田理論学習に取り組んでいる人以外は理解しづらい言葉である。これを別の言葉にいい直すとすれば、「事実本位」である。「自然に服従する」というのも同じ意味である。「事実本位」になれば「物事本位」にもなれる。これに対して反対の態度は、「理知本位」、あるいは「気分本位」である。ではどういう態度が実現できると「事実本位・物事本位」になれるのか。その判定の基準となるチェック項目をあげてみたい。1、 事実を軽視していないか。事実を掴もうと努力しているか。2、 事実は抽象的ではなく、具体的に話しているか。3、 事実を捻じ曲げていないか。ごまかそうとしていないか。4、 都合の悪い事実を隠そうとしていないか。嫌な事実から逃げていないか。5、 事実認識が偏っていないか。事実を両面観でみているか。6、 現実や事実を「かくあるべし」で批判、否定、拒否していないか。7、 事実を自分のものさしでよい悪い等と価値判定して批判、否定、拒否していないか。8、 「純な心」「私メッセージ」を対人関係に活用しているか。これらを湧き起ってきた感情に対しても、自分自身に対しても、他人に対しても、自然現象等に対しても貫徹できているかどうか。一つ一つの出来ごと、生活場面で、はい、いいえで自己内省してみてください。「純な心」「私メッセージ」の活用法が分からない方は、その理解から始めてください。このブログで何回も説明しています。その際キーワード検索されるとすぐに該当ページが見つかると思います。チェック項目を手掛かりにして、配偶者、子供、両親に対してどのように対応しているのか調べてみましょう。自己否定、他者に対して怒り、腹立ち、叱責、批判、拒否、否定、言い訳、支配欲求の強い人は、「事実本位・物事本位」の態度からかけ離れていることが予想されます。まずはそうした傾向があるのかないのか自覚することが大切です。もしそういう傾向が強く、人間関係でストレスを感じていれば少し緩めてゆく必要があります。森田理論学習に取り組んでいる人は、「事実本位・物事本位」の生活態度を多少なりとも体得していくことが必須となります。従来のように、「不安を抱えたまま、なすべきをなす」だけでは神経症の克服は不十分だと思います。その大きな原因は「事実本位・物事本位」の生活態度を会得しているかどうかということです。
2016.01.24
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肩や腰が痛いという慢性疼痛について考えてみたい。慢性疼痛の人は病院にかかり、薬を飲み、鍼灸、マッサージ等を受けているが全く痛みがなくならないのである。そういう痛みとの闘いが何年も続いている。それをたびたび口にすると周囲の人を悩ます。そういう人たちに家族や身近な人どう接したらよいのか。平木英人先生の話を紹介したい。慢性疼痛の人が痛いといってきたら「また痛んできた。今日はどのくらい痛い。どんな風に痛い」と問いかけてみてください。患者さんは、自分の言葉で、その独特な痛みを伝えるでしょう。「腰の真ん中から少し下あたりが、じんじんと火山が噴火するように痛い」というかもしれません。そうしたら、聞いたとおりをそのまま口に出して返してあげるのです。「腰の真ん中から少し下あたり。火山が噴火するようにじんじんと痛いんだね」と。すると患者さんは「そうなの。腰の真ん中あたりなの」といいます。あなたはまた「腰の真ん中から少し下あたりなんだね」と返してやります。「じんじん痛いの」といえば、「じんじんと痛いのか」と返します。「どうしても起きあがれないのに、仕事をしなければと気ばかりが焦って」と言えば、「どうしても起きあがれないんだね。仕事もあるし焦るよね」と応じます。こういったやりとりを通して、あなたは患者さんに対して、「あなたの痛みの場所や痛み方、苦しみ方がよく分かったよ」と伝えることになります。患者さんは自分の訴えが相手に正しく伝わった、理解してくれたと感じます。そしてそのあと、「辛いだろうが、希望をもっていこうね」と、励ましてあげるのです。大切な相手であればあるほど、悩みを訴えられれば一生懸命考えてあげたくなるものです。しかし、それが不要なのです。ただ受け入れるだけでよいのです。こうしたやり方で接することができると、患者さんは痛みの悪循環に陥る必要がなくなります。のたうち回ってまで相手に自分の痛みをわからせようとしなくてすむのです。この態度が、慢性疼痛という病気に対する治療と看護、そして診療室介助の出発点であり基本となります。慢性疼痛は患者さん本人の心が作り出す架空の病気ですから、際限なく増幅する可能性をもっています。相談した相手に通じないとなると、無意識のうちに痛みがどんどんとひどくなってきます。患者さんが、「分かってもらえた」と感じると、それ以上に痛みはエスカレートしないものです。慢性疼痛というのはそういう疾患なのです。この考え方は神経症の治療と同じだと思います。神経症も気質的な病気ではありません。心のとらわれとやりくりが実際の気質的な病気以上に深刻なダメージを与えています。そういう人が集談会にやって来た時はまず相手の悩みをよく聞いて、共感し受容してあげるということだと思います。この姿勢を崩して、すぐに森田理論の話を持ち出すことは、なんの効果もないということを肝に銘じておく必要があります。(慢性疼痛 平木英人 ちくま新書 171ページより引用)
2016.01.23
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叱ることと腹をたてて怒ることについて考えてみたい。まず腹をたてて怒るのはどんな場合か。子どもが勉強しない。動作が遅くもたもたしている。忘れ物をする。おかずを残す。ごはんをこぼす。飲物をひっくり返す。スーパーに連れていくとお菓子やおもちゃを買ってくれとせがむ。部下が自分を無視する。反抗する。ノルマをこなさない。配偶者が料理の手抜きをする。掃除をしない。洗濯をしない。親が痴呆になり粗相をする。同じことを何回も繰り返す。物が無くなったといって大騒ぎする。自分たちの悪口を隣近所に言いふらす。友人が自分のことを非難する。否定する。無視する。これらは子ども、部下、配偶者、親、友人が自分の考えているように行動してくれないのでイライラして腹を立てるのである。つい怒りとなって爆発するのである。それが高じると憎しみ恨みに変わる。そして最悪関係を断つようになる。これは「かくあるべし」から相手を見下して、コントロールしようとしているのではないか。その際、自分の気持ちを強烈に相手に伝えるために、怒りを手段として利用しているのである。でも相手の反発を招くばかりで、決して自分の思い通りに事が運ぶことはめったにない。また是非善悪の価値判断の結果、間違い、悪い、役に立たない等と判定したものを否定、攻撃して修正を迫る場合はどうか。これも相手無視したり、自分の思うがままに操ろうとしているのである。次に叱る場合はどんな場合か。子どもが信号を守らないで、赤信号で交差点を渡ろうとする。一旦停止を無視する。スピード出し過ぎて無謀運転をする。無駄遣いばかりをする。物を盗む。レストランで大騒ぎをする。違法ドラッグに手を出す。お菓子ばかりを食べてごはんを食べない。物を平気で道路に投げ捨てる。約束を平気で破る。など。私は親、先生、上司が部下等を叱ることは、必要な場合があると思う。かえって叱れない親、先生、上司はダメだと思う。その理由は、相手に寄り添っていないからである。相手に関わろうとしていない。無関心な態度だからである。自分の保身ばかりを考えている。そういう人を子ども、生徒、部下は軽蔑していると思う。親が子どもを叱る場合は、ルール、規範、しきたりを端から無視する。放っておくと子どもに生命の危機がせまる。放っておくと人に迷惑をかける。将来に禍根を残す。叱る場合は、こんなことをするとこんな不具合や問題点が発生する可能性が高いと知らせることである。将来高い確率で問題が起こると予想される事実を説明しているのである。あるいは相手に考えさせるきっかけ作りをしているのである。叱ることは相手の人格を責めているのではない。またそうであってはならない。事柄、行動を責めているのである。相手のことを考えているのである。叱ることで相手から逆恨みをされ、自分が非難されたり危害を加えられることになるかもしれないというリスクを冒しながらも相手の身になっているのである。あとになってみればあの忠告が役に立ったと感謝されるようなものである。でも叱るにあたっては、もともと相手との信頼関係がないと効果は半減する。普通人を育てるためには褒めることが一番だといわれる。それを基本としつつも、叱るということも加味して子育て、部下の教育にあたる方がよいと思う。
2016.01.22
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元中学校の校長の関根正明さんはこんな話もされている。C君が小学生の頃給食を残すととても叱られた。偏食してはいけないとか、感謝して食べなければいけないとか、いろいろ説教も聞いた。だから嫌いなものでも我慢して食べた。その日もそうだった。全部食べたものから校庭にでて遊んでいいことになっていたので、ぼくは校庭にでようとして靴箱のところに行った。すると担任の先生が、「こら、C男、お前だろ、これ残したのは」といって、給食のお盆とお皿をぼくの胸に突きつけた。「ぼくではありません。ぼく知りません」と言ったが、先生は「いや、お前に違いない。魚の皮、嫌いなのはお前じゃないか」「先生はみんなのことよく知っているのだ」という。ぼくは泣きたくなった。先生は「さあ、食べろ」「先生の目がごまかせるとでも思っているのか」と言って僕の胸に押し付けた。僕は食べないとぶたれると思って、皿にあったものを無理矢理食べた。僕はきたない魚を食べされられた件は決して忘れないだろう。(「叱り方 うまい先生 下手な先生」関根正明 学陽書房 182ページより引用)担任の先生はどうして先入観で犯人を決めつけるのだろうか。どんなに見え見えの凶悪犯人だって、弁護人を立てて、犯人の言い分を聞くではないか。またきちんとした証拠をあげて犯人を特定しているではないか。また状況証拠だけで死刑に追い込まれることはまずない。それは防犯カメラなどの確たる証拠がないと冤罪になる可能性が残されているからである。それぐらい事実の重みは大きい。この担任の先生の場合は、あらゆる場面で、事実を軽視していることであろう。また、家庭でも、教師仲間でも、友人関係でも事実をよく確かめないで、先入観で決めつけを行っていることだろう。その結果本当の事実との間で常にミスマッチを起こしているだろう。その結果人間関係は悪化しているだろうと思う。事実をどこまでも重視する森田理論を是非学習してもらいたいものである。C君の場合。C君は先生の先入観による決めつけはとても我慢がならないことだろう。でもそんな理不尽極まることが連続して起こり、絶えず生命の危険にさらされたり、不快な気分にされられるのが現実である。それへの基本的な対応としては、事実を認めるということだ。理不尽極まる暴挙を決して許さないという「かくあるべし」や是非善悪の価値判定の前にまずはその事実を認めて、事実は事実として認めてしまうことだ。そうすると激しい怒りは無くなる。そして担任の先生はどうしてそのような先入観で決めつけを行うのだろうかと考えるようになる。先生の人格の問題だったら対応方法を考えるようになる。そしたら親に話してPTAで対応してもらうようにした方がいいかもしれない。また食べ終わったあと「先生、魚は嫌いだったけど全部食べました」と報告するようになるかもしれない。事実を受けてすぐかっとなって自暴自棄になるのでは何にもならない。事実を認めてしまえば、腹が立つ前に次に同じようなケースに備えて対応策を立てられるのである。
2016.01.21
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関根正明さんと言う元中学校の校長先生の話です。K子さんという中学生の生徒が、小学5年生の時、先生から受けた対応がいまだに許せないという。K子さんにはこんな体験がありました。昼休み、トイレのそばで2年生らしい女の子がシクシク泣いていたそうだ。「どうしたの」と聞いても、何も言わずシクシク泣いている。「どこかイタイのだったら、オネエサンが保健室に連れて行ってあげるから」と言っても何も言わずにシクシク泣いている。その子は両手で両目をふさいでいて、顔がわからないものだから、私は両手で、その子の両手をつかんで、「ドレドレ」という感じでその子の手を離そうと思った。ところが、その子どういうわけだか、とてもがんこで、手をギュッとかたくして顔から離さない。私も少しがんこになって「どうしたのよ」と強い声で言ってしまった。とたんにその子、大きな声でウエーンと泣きだした。そのとき、運悪くとても短気で、女の子でもぶつというD先生が通りかかった。D先生は、いきなり、「こら、2年生をなぜ泣かすのか」と言うと、私の頭をゴツンとぶった。D先生は、「ちょっと来い」と私のそでを引っ張って、その2年生には、やさしい声で「どうした、何をされたんだ」と聞きながら、私と一緒に職員室に連れて行った。職員室でK子さんがどんなに理由を説明してもD先生は聞いてくれなかったという。担任もやってきて、「いじめたのなら早くあやまってしまいなさい」などという。おまけに、他の先生に「この子は、強情なところがあって」とか、「勝ち気だから扱いにくい」などと言っている。私は「もういいです。私が泣かしました」と言って、私も泣いてしまいました。この件は、Kさんは今でもシャクにさわるという。私の言うことをアタマから疑っていた担任の先生も憎らしい。だから卒業してからも、小学校なんかには一度も行っていない。(「叱り方 うまい先生 下手な先生」関根正明 学陽書房 175ページより引用)この件について、D先生はなんとも思っていないかもしれないが、K子さんにとってはとてもつらい体験だった。そして先生なんて信頼できない。大人なんて信頼できないという気持ちになったことだろう。Kさんにとっては、その時の真実を無視された。D先生は自分勝手な先入観、決めつけで私を悪者扱いした。私の言い分もよく聞いて、信じてもらいたかった。証拠もないのに私を責めることはどうしても許せないという気持ちになった。これを森田理論で考えてみよう。まず先生の対応について。先生は児童と比べると体力、経験、立場的に圧倒的に優位にある。先生は児童を教育していくという使命感から、上から下目線で児童に接する機会が多くなる。これは森田で言えば「かくあるべし」の押し付けにつながりやすい。ここは先生は十分に気をつける必要がある。児童の言い分を聞こうとしない。事実を確かめようともしない。先入観でいじめがあったに違いないと決めつけてKさんを責めている。こういう先生がいることは残念で仕方がない。教師はそういう間違いを犯しやすい存在なのだということにもっと注意を払うべきなのではないだろうか。その際森田理論学習理論が役に立つと思う。次にKさんの対応について。Kさんはきっと教師の理不尽極まる言動を許せないと思っている。Kさんはまだ小さいからよく分からないかもしれいが、世の中には理不尽極まる悲惨な出来事は数限りなくある。先日のスキーバスの事故だってそうだ。森田理論でいうと、教師の理不尽極まる言動も実際の出来事であるということを認めていくことしかない。教師を許せない。仕返しをしてやりたい。あんな奴早く死ねばいいのにと思うことは、自分も「かくあるべし」に振り回されているということである。つまり、教師ともあろうものが、決して理不尽な言動をとってはならない。教師は私たち児童、生徒のよき理解者であるべきだという「かくあるべし」にとらわれているのである。「かくあるべし」にとらわれているから、怒り、腹立たしさ、憎しみが出てきているのだ。それはトラウマとなり、今後大人になっても増悪することはあっても小さくなることはない。ではKさんのとるべき態度はなにか。事実を事実として認めていくことだ。自分の言い分を聞いてもらえず、先入観で自分が悪者扱いされたという事実を認めて受け入れていくことだ。事実を受け入れると打開策が見つかるかもしれない。先生に真実を知ってもらうにはどうしたらよかったのだろうか。その時誰か見ている人はいなかっただろうか。どう考えてもわからなかったら、客観的に話の分かる人に相談してみる。関根先生のような先生、教育委員会、児童相談所、お父さん、お母さん、PTAの役員さん等に相談してみる。また今度このような状況に遭遇したときは、どう対応したら良いか考えてみる。いろんなアイデアが浮かんで来るだろう。二度と紛らわしい行動はしないようになるのではなかろうか。つまりここでいいたいのは、事実を受け入れて、事実に従うという態度になればその後の展開が180度違ったものになるということだ。すぐに怒り狂うということは無くなってくると思うのだがどうでしょうか。
2016.01.20
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是非善悪の価値判断の弊害については1月14日に投稿しています。・モノサシは、個人の主義、主張、思想、信念、好み、クセ、とらわれ、思い込み、勘違いなど自分の価値基準です。家庭環境や親からのしつけ、教育、個人的体験、周りの影響などによってモノサシがたくさん作られます。・そしてその物差しとは、人によって、時代によって、場合によっていくらでも変わります。文明が進めば進むほど、社会が複雑になればなるほど、数が増え、モノサシの基準が時によって変わり、状況によって変わり人によって変わります。・自分のモノサシと人のモノサシは一致しません。・モノサシの不一致によって、怒りや悩み、利害の対立、トラブル、争いが起こるのです。・モノサシが丈夫なほど怒りが強くなり、悩みが深くなり、対立が激しくなります。・モノサシがやわらかければ、「まあ、いいじゃないか」と冷静になり、話し合える可能性が生まれ、解決できる可能性が生まれます。・双方のモノサシがやわらかであるならば、解決はもっと簡単になります。どんなふうに価値判断するのか、さらに詳しく見てみましょう。良い、悪い正しい、間違い役に立つか、役に立たないか優れているか、劣っているか儲かるか、儲からないか美しいか、醜いか有益か、無駄か幸福か、不幸かプラスか、マイナスかポジティブか、ネガティブか明るいか、暗いかなどなど・・・・是非善悪の価値判断の強い人は、そのどちらかに自分の立場を明確にしようとします。中庸、ほどほどということはありません。これは、森田理論でいう、オール・オア・ナッシング、白か黒、0か100の発想なのです。そして自分の価値判定したものを絶対的なものとして、すべてのものを比較検討するようになります。自分の価値判断に合わないと判定したものは、拒否、無視、抑圧、否定、批判するようになります。行動としては脅迫、従属、命令、指示、叱責、怒り、恨み、嫉妬などとして表面化してきます。これは「かくあるべし」的思考により思想の矛盾に苦しむ過程と全く同じことです。森田理論学習では、是非善悪の価値判断をしないで、事実を受け入れる、事実と一体化する道を勧めています。自分は見栄えが悪い。能力がない。健康面に不安がある。仕事がない。経済的に不安定だ。人と比べて現状を正しく分析したら、その先是非善悪の価値判断をすることを緩めていくこと。現実、現状、事実を受け入れてそこから一歩ずつ歩んでいくこと。自分はこう思うけれども、あなたはそうは思ないのですねと相手を思いやる関係を作る。理屈がわかっても、いっぺんに変身することはできません。2歩前進1歩後退が続くかもしれません。一番大事なのは、問題が起きたとき、これって是非善悪の価値判断の結果ではないのだろうかと自己内省出来るのかどうかです。今一歩間をとれるようになることです。1割でも2割でもその方向性に向かって舵をとることができるようになれば、その人はかなり人間的に成長できていると言えるでしょう。
2016.01.19
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それでは「神経症克服2つの道」の2番目について説明します。これは私の作成した森田理論全体像の2、3、4を加工したものです。ここでの眼目は、現状、現実、事実を認めて、受け入れていくということです。まずイラストをご覧ください。見にくい人は表示で倍率をあげてみてください。「かくあるべし」の強い人は容易に神経症に陥ります。右上の丸で囲ったところをみてください。「かくあるべし」的思考をとる人の最大の問題は自分の立ち位置です。「こうでなくてはならない」「こうであってはならない」という視点に自分を置いてから発想しています。自分が雲の上のほうにいて、地上でアップアップしながら生活している自分や他人を批判、否定、拒否しているのです。さらに自然にわき起こってくる不安、恐怖、違和感、不快感なども目の敵にしているのです。その状況は爆撃機で地上に爆弾を落としたり、機銃掃射している状況に似ています。なんとひどいことをしているのでしょう。その状態は、自分の頭で考えていることと、現状、現実、事実が大きく乖離しているのです。そして神経症で苦しんでいる人は、いつも観念の世界の味方をしているのです。現状、現実、事実の世界の側にいる人は浮かばれません。さらに批判、否定、拒否しているのですから地上にいる人は生きていくことが苦しいのです。これが自分という一人の人間の中で行われていることなのです。観念の世界の人が、すっと事実の世界に降りてくると楽になるとは思いませんか。森田理論では、その解決方法として、自分の立ち位置を雲の上の観念の世界ではなく、現状、現実、事実の世界に変更してゆきましょうといっているのです。4の現状、現実、事実を認めて受け入れ、そこを生活の出発点にしましょうといっているのです。そのためにはどんなことが必要なのか。4の下に記載してある通りです。簡単に項目だけ書いてありますが、内容はとても深いものがあります。それぞれの項目については、このプログで手を変え品を変えて様々な角度から説明しております。事実を決めつけや先入観で見ることなくよく観察して正確につかむ。事実は抽象的ではなく具体的赤裸々に話す。事実は一面的ではなく両面観で見れるようにする。「かくあるべし」を少なくしていく。そして、「純な心」「私メッセージ」を生活に取り入れていく。出来るだけ是非善悪の価値判断を持ち込まない。これは明日以降さらに詳しく説明します。そしてすべてのものを自分の思い通りにコントロールしようとしないこと。神経症から回復するためには、昨日説明した「不安を受容する」ことと、今日説明した「事実を受け入れる」の2つ方法があります。どちらも大事だと思います。不安を受容してなんとか生活の悪循環を脱しただけでは、依然として心の中は不安でいっぱいだと思います。私の経験でもそうでした。森田の限界を感じてむなしさを感じたものでした。それは「事実を受け入れて生活する」という面の理解不足と実践不足が大きくかかわっていたのです。この2つの視点から森田理論学習を継続すれば、きっと良い成果が現れてくると思います。ぜひそのことに思いを馳せていただきたいと願っております。
2016.01.17
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神経症の克服には2つの道があると思います。一つは、不安を受容して、生の欲望の発揮に進む方法です。もうひとつは、「かくあるべし」を小さくして事実を受け入れていく方法です。今日は、最初の方法についてついて説明します。まずイラストをご覧ください。これは森田理論全体像の1と2を加工したものです。不安と欲望の関係は1月13日に説明していますので合わせてご覧ください。神経症で苦しんでいる人は、自分の気になる不安、恐怖、違和感、不快感をなんとか取り去ろうとしています。ところが自分の思いとは反対にどんどん増悪してきます。最後には蟻地獄に入り込んだようになり、どうあがいても解決策はなかなか見つかりません。この観念上の悪循環、行動の悪循環から立ち直る道筋がこの図で示されています。不安の特徴と役割、不安と欲望の関係を森田理論で十分に理解することから始まります。不安と格闘している状態は、生の欲望の発揮が蚊帳の外になっています。それを回復させていくことが、神経症からある程度解放されるのです。生の欲望の発揮は、イからへまでいろいろ書いてありますが、すべて取り組む必要はありません。私の知っている人で、「ものそのものになりきる」「物の性を尽くす」だけで克服した人がいます。それどころか、「森田の達人」の域にまで達しておられます。私は一人一芸を極めることが、神経症の克服に大いに役立ちました。この方法は、実は、入院森田療法、外来森田療法で行われている方法です。生活の発見会でも、私が入会したころは、このことを盛んに言われていました。認知行動療法の手法である暴露療法もこれとよく似ています。そして最終的には、常時、自分の現状、現実、事実を踏まえて、一段ずつ階段を上るように、生の欲望の実現を目指していく生活態度になれば、とりあえず神経症は克服できるのです。丸印で説明しているとおりです。生の欲望の発揮は、命あるかぎり真剣に取り組んでいくことがとても大切になります。ここが身についた方は、ぜひ次のステップへ進まれることをお勧めします。明日紹介する、「かくあるべし」を小さくして事実を受け入れていく方法を身につけることです。これは多少難しい面がありますが、その気になれば必ず身につけることができます。
2016.01.16
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メンタルヘルス岡本記念財団が出している「森田療法セミナー」のDVDを見た。その中に立松クリニック院長の立松一徳医師の外来森田療法の進め方が参考になった。立松先生は、神経症の治療として行動療法、日記療法、薬物療法、ピアカウンセリング等の組み合わせを視野に入れて森田療法行っておられる。講話の中で、パニック発作で悩むやり手の営業マンを取り上げられていた。この方は電車に乗ることができない乗り物恐怖の方であった。治療は1年3カ月に及んだが全治退院された。どのような治療を行われたのであろうか。1、 主訴を丹念に聞く。とらわれを受け止める。予期不安を受けとめる。電車内での様子を聴く。とらわれの態度の明確化を行う。不安と欲望の関係を理解してもらう。不安をなくそうとしない。生の欲望を明確にする。パーソナリティ、生き方の問題を提示する。とらわれの態度の見直しを行う。具体的行動面の提示を行う。2、 次に仕事の中でのとらわれを扱う。この方の場合は職場の中での人間関係、仕事の取り組み方等を聴いていく。この方は、トップセールスマンであった。仕事以外には価値を見出すことはできない。職場に過剰適応している状況が明らかになった。上司や得意先の期待に応えることに絶対的な価値をおいておられた。そのため仕事の質や量の過剰。いい加減な人間への怒りがいつも心の中に渦巻いていた。この方の場合は仕事の中における人間関係、仕事の進め方のとらわれを聴いていった。家事、育児、介護等では家族の中の人間関係、あるいはそれらの取り組み状況について聞いていく。学校に行っている人は、交友関係、教師などの人間関係、学習の仕方のとらわれを明確にしていく。3、 生き方の中のとらわれを明確化していく。この方の場合は過剰適応の裏にある怒りの爆発があった。上司や同僚等に対して、自分と同じように仕事に熱心に取り組むべきであるという「かくあるべし」の押しつけ。治療としては人間関係の改善。過度に仕事に対して傾斜している生活の見直し。上司や家族の協力を得ながら負荷を減らしたり、バランスのとれた生活への取り組み。最終的には薬物療法を中止し、パニック障害が好転して治療を終結されたそうである。これを我々の森田理論学習と比較してみると、1で取り扱っておられるのは、緊急時の森田理論の活用であると思う。主訴をよく聞く。精神交互作用によってどんどん症状がひどくなっている状況を理解してもらう。精神交互作用を断ち切るための提案を行う。さらに不安は取り除くことはできないものである。不安には役割がある。不安を利用して自分の欲望を見つめてみよう。生の欲望を発揮するための提案を行う。2と3では、認識の誤り、「かくあるべし」の打破を行うことだと思う。認識の誤りでは事実を両面観で見れるようになる。「かくあるべし」の打破では事実をよく観察する。具体的に包み隠さずに話す。「純な心」や私メッセージの応用。他人に対しては、傾聴、共感と受容、協調、人の為に尽くす等の実践のことだと思う。人間関係の改善では是非善悪の価値判断を相手に押し付けないようにする。そして最終的にはバランスのとれた生の欲望の発揮に邁進できるように援助していく。その中でも外来森田療法では不安の役割を認識して、生の欲望の発揮に邁進していくように関わっていくことが治療の中心のように感じた。
2016.01.16
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「叱り方 うまい先生 下手な先生」(関根正明 学陽書房)という本にこんなことが書いてあった。内容を見るとユーモア小話の材料になると思った。先生は生徒が忘れ物をすると不機嫌になる。遅刻をすると精神がたるんでいると言って怒る。授業中少しでもおしゃべりをすると他の人の迷惑になるといって注意する。でも先生本人の方は、チャイムが鳴っても、のんびりと廊下を歩いて教室に行く。そして教科書を開いて「この前は、どこまでやったか」などと進度を生徒に尋ねる。つまり進捗チェックをしていないと同時に、事前の教材研究は全くおこなっていないということだ。学習内容を「ここは試験に出すぞ」などと言って、生徒が赤鉛筆で印をつけるのをおもしろがっている。チョークを職員室に忘れて、「日直はだれだ、あ、君か、それでは君、悪いけど、職員室に行ってチョークを持ってきて」などという。普段は生徒に「忘れ物をするな。忘れ物なんかするのは精神がたるんでいるからだ」などと言い、「自分のことは最後まで責任をもってやりとげろ」と言っているくせにである。しかもそのチョークを持ってきてくれた生徒が、黙ってチョークを教卓にのせるのを「何だ、その置き方は。物の渡し方も知らないのか」などと言って叱る。そんな先生は疲れたと言ってはロクに本も読まない。忙しいとか、疲労をタテにして、飲み屋で飲んで、遅く帰って、後はテレビを眺めてゴロッとしていて寝てしまう。そんな怠惰な生活を送っている先生がいる。そんな先生でも規則違反、規律違反等にはことのほか厳しい。ボタンがついていない。ホックがはずれている。名札が消えかかっている。ベルトが細すぎる。バッチがついていない。髪の毛に油がついている。靴のかかとつぶしをしている。掃除当番をすっぽかす。整理整頓ができていない。宿題をしてこない。学習意欲がない。等々あげればきりがない。まあこんな先生はごく一部だと思うが。でももしこんな先生がいたとすると、会社のパワーハラスメントと一緒である。会社の上司がその地位と権力を利用して部下の人格を否定するような言動を浴びせるのである。部下は上司に怯えて、避けるようになる。ところが上司はしつこく追いかけまわして、これでもかというぐらい痛めつける。その結果うつ病を発症したり、神経症に陥ったりするのである。こういう上司は管理職不適格者である。学校の先生の場合は体力、経験、知識の面で生徒と上下の関係に陥りやすい。立場的にもともとそういう人間関係である。教室は密室であり、そういう環境に放りこまれるということはよほど自己内省力がないとパワハラ上司のような関係になりやすい。問題行動の顛末を子どもが親に話し、PTAで問題視しだすとややこしくなる。こういう先生は森田理論学習をしたらどうだろうか。教科の教え方もさることながら、こちらの方が先だと思う。是非とも「かくあるべし」の押し付けの弊害を学ぶことだ。「かくあるべし」を押し付けると生徒は猛反発する。生徒には生徒なりの思いや考え方があるからである。その自分の思いや考えを聞いてもらえない。そして先生から一方的に指示、命令、説教、非難、禁止、叱責、怒りなどが飛んでくる。地位、体力、立場を利用して一方的にコントロールされることはだれしもストレスを感じる。こんな先生は同窓会に呼ばれることはない。そして理不尽な扱いの数々が昔の思い出話として話されるのである。先生としても卒業して何年経っても、根に持たれて恨み続けられることは気持ちのいいものではないだろう。「かくあるべし」を押し付けない先生は、生徒が不祥事や間違っていることをした場合、事実関係をよく調べる。そしてそのような行動をとった背景を探ろうとする。どんな行動にもその生徒の気持ち、家庭環境、社会環境などの反映である。その生徒の話や言い分を十分に聞こうとする。立場や状況をわかろうとする。生徒を擁護しようとする。その態度は生徒にすぐに伝わる。先生がもしそういう生徒との人間関係作りを重視しだすと、すぐに人気が出てくると思う。子どもを教育することが楽しくなるだろうし、生徒から信頼されるようになる。先生になる時は誰でも立派な先生になりたい。生徒に信頼される教育者になりたいと思っていたはずである。初心に戻ることである。そのために森田理論を活用してほしいものである。
2016.01.15
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森田では事実つかむ努力をしなさいと言われます。それから先、いい悪い、正しい間違い、役に立つ役に立たない、幸福不幸等という価値判断をしないほうがよい。価値判断をするということは、よくないこと、悪いこと、間違っていることをしている人を見ると、否定したり、批判したりするようになります。事実を無視して何でもすぐに価値判断する人は神経症に陥りやすくなります。今日は価値批判の成り立ち、特徴を見てみましょう。この是非善悪の価値判断というのは、自分のモノサシを使って行います。自分のモノサシはそもそも何でしょうか。・モノサシは、個人の主義、主張、思想、信念、好み、クセ、とらわれ、思い込み、勘違いなど自分の価値基準です。家庭環境や親からのしつけ、教育、個人的体験、周りの影響などによってモノサシがたくさん作られます。・そしてその物差しとは、人によって、時代によって、場合によっていくらでも変わります。文明が進めば進むほど、社会が複雑になればなるほど、数が増え、モノサシの基準が時によって変わり、状況によって変わり人によって変わります。法律、ルール、マナー、常識などもモノサシです。社会の秩序を維持するためには必要なものです。しかし、これらは都合によって時代とともに変化してゆきます。・自分のモノサシと人のモノサシは一致しません。・モノサシの不一致によって、怒りや悩み、利害の対立、トラブル、争いが起こるのです。特に宗教の対立などはその最たるものです。・モノサシが丈夫なほど怒りが強くなり、悩みが深くなり、対立が激しくなります。・モノサシがやわらかければ、「まあ、いいじゃないか」と冷静になり、話し合える可能性が生まれ、解決できる可能性が生まれます。・双方のモノサシがやわらかであるならば、解決はもっと簡単になります。怒りは、「自分が正しい」という思い込み(ものさし)から生まれます。戦いは、正義感や怒り(モノサシ)から生まれます。悩みは、本音と建前(モノサシ)の違いから生まれます。トラブルは、双方の正義感(モノサシ)から生まれます。幸不幸は、価値観(モノサシ)からうまれます。自信喪失、自己嫌悪、コンプレックスはとらわれ(モノサシ)から生まれます。嫉妬は、執着(モノサシ)から生まれます。すべての不幸はモノサシから生まれる。以上の視点から、是非善悪の価値判断をして相手を批判しそうになった時は、少し間をおいてみることが必要です。そして事実関係をさらに把握して、その背景に思いをはせるという態度がとても重要になると思います。(非対立の生き方 高木善之 ビジネス社より引用61から63ページ)
2016.01.14
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2月6日(土)15時から17時30分東京慈恵医科大学にて体験発表を行います。題は「私の森田理論の活用法」です。約30分。パワーポイントにて説明します。また3月26日(土)は岡山にて同様の体験発表を行います。近くの方で興味のある方はお越しください。なお詳しくは「メンタルヘルス岡本記念財団」のホームページをご参照願います。
2016.01.13
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森田理論によって神経症を克服したいと考えるなら、第一に不安の取り扱いをよく学習して生活に応用できるようになることが大切である。これを国家試験にすると、「不安取り扱い主任技術者」とも言うべき資格になるであろう。これは何も神経症で悩んでいる人だけでなく、普通の人にも役立つ考え方である。特に神経症に陥っている人は、必須科目となる。ポイントは4つある。1、 不安は取り除くことはできないし、取り除こうとしてはならないという考え方である。欧米の心理療法ではほとんど不安を取り除くというところから出発している。森田理論と欧米の心理学の違いはよく検討してみる必要がある。2、 森田理論では不安は欲望があるから発生するのだといいます。不安と欲望はコインの裏表、表裏一体と考えます。長谷川洋三氏は、欲望を本体(形)とすると不安は影であるといわれています。本体がゆくところ影はどこまでもついてゆきます。私たちはその影が気になり、ほうきではいて無きものにしようとしているようなものだ。本体がある限り、いつまでたっても影はなくすることができない。そうした行為は不可能に挑戦していることであり、最後は疲れ果ててしまいます。欲望が小さい時は不安も小さい。欲望が大きくなると不安もそれに比例して大きくなります。不安が嫌だから不安をなくしたいと思われれば、欲望を無くすればよいのです。でも人間は欲望を全くなくすることはできません。3、 不安は意味もなく存在しているのではありません。予期不安があるからこそ、あらかじめ危険を察知して身を隠し、生命の危険を回避することができます。また不安は欲望が暴走しそうになるときに、それを阻止とどめる役割を持っています。欲望が暴走すると自己中心的になり、他人を痛めつけるようになります。また自暴自棄になり将来に禍根を残すことを平気で起こすようになります。それを押しとどめる役割が不安にあります。森田ではこのことを精神拮抗作用と言っています。それでも欲望が暴走するというのは不安の活用法が希薄であるといえます。4、 不安と欲望はどのように生活に応用してゆけばよいのか。まず「生の欲望の発揮」を前面に押し出して生活することである。生の欲望というと大げさなようである。具体的な中身は日常生活を規則正しくものそのものになりきって取り組むことである。安易に他人任せにしないで自分のことは自分でやるようにする。次に仕事、勉強、家事、育児、介護等イヤイヤながら取り組んでいくことである。それから先は自分の興味のあることはいろいろと手を出してゆけばよい。その際補助的に不安を活用して欲望が暴走しないように注意する。イメージとしてはサーカスの綱渡りの曲芸を思い出してほしい。長い物干し竿のようなものを持っていつもバランスをとっている。欲望が優位になれば、不安の方を持ち上げ、不安が強くなれば欲望の方を持ち上げる。バランスをとりながら注意深く自己内省を繰り返しながら向こう岸に向かって歩みをつづける。以上の4つの視点をしっかりと頭にたたみこんで、生活に応用していただきたいと思うのである。
2016.01.13
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正月にこんなことがあった。娘夫婦が小学校一年と保育園児の男の子2人ずれでやってきた夕食を囲んでいた時のこと。小学校一年生の子が私宛にくれた年賀状の話になった。私が「絵はうまく描けていたが、字がくちゃくちゃだった」と口を滑らせた。不用意な発言だったと思ったが後の祭りである。すると娘が途端に不機嫌になり「一生懸命書いたのだから、そんなことを言わなくてもいいじゃないの」と怒りだした。急に気まずくなった。これをあとでどうすればよかったのか娘の立場になって考えてみた。娘の言葉はあなたメッセージだと思う。私の言動を決して許さない。表面的な面だけではなく、私の人格否定までするのだから途端にその場の雰囲気は悪くなる。これは私が娘を小さい時からそのように育ててきたので、自業自得という面がある。さて、これを私メッセージを使ってみたらどうだろうか。「お父さんはそう言うけど、光ちゃんは一生懸命書いたのよ。褒めてあげて欲しかった」「私はおじいちゃんに年賀状を出そうという気持ちが起きたことがうれしかったわ」こう言われば、「すまん。おじいちゃんの配慮が足りなかった。これからは気をつける」といえたかもしれない。もう一つ、娘には「かくあるべし」が強いのではないかと思う。小学校1年生の子どもを非難するようなことを言ってはいけない。どんな場合でも叱りつけてはいけない。よいところを見つけて褒めていかねばならない等。「かくあるべし」にとらわれていると現実はとても我慢がならなくなる。許せないのである。その態度は自然に相手を自分の思うがままにコントロールしようとすることにつながる。そこに待っているのは自分と相手のいがみ合いである。反面「かくあるべし」ではなく、事実を価値判断しないで、事実だけを受け取るようにしたらどうなるだろうか。ここでおじいちゃんの言動を価値判断なしにまず認める。するとおじいちゃんを拒否したり、無視したり、抑圧したり、批判することは無くなるように思う。そして次にどうしておじいちゃんがそんな行動をとったのだろうか。おじいちゃんはよく不用意な発言をすることがある。私もそれで傷ついたことがたくさんあった。私だけではなく、会社や親戚、友人関係でもそんなことをしているかもしれない。あとでそれとなくこんなことがあったと話してみてあげよう。それが今後の為になるかもしれない。そういうように展開していくのではないだろうか。私は腹が立ったり、相手を非難したくなった時は、一呼吸おいて、そこに「かくあるべし」はないか、是非善悪の価値判断をしてはいないかと自己内省することができるようになった。これは森田理論学習のたまものである。森田理論を学んでいなかったらとてもそんなことは思いつかない。これは誰でもその気になれは生活に活用できるようになれると思っている。
2016.01.12
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高額宝くじに当たる。親の多額の遺産が入る。死亡保険金が入る。市街地の土地が売れてお金が入る。自分の土地が道路や公共用地として買い上げられる。多額な補助金をもらえる。高額な退職金が入る。夫婦2人分の年金がもらえてゆとりある生活ができる。このようなことは誰でも好ましいことだと考えます。ラッキーだ。これからは仕事も辞めて、お金で買う消費中心の生活に入りたい。また思う存分人生を楽しみたい。お金があれば快適な住まい、食べ物、趣味ざんまいの楽しい生活が保障されると思ってしまいます。そしてしだいに今まで自分で行っていたわずらわしい日常生活の手を抜くようになってきます。思う存分好きなことをしたり、欲しいものを買いまくったり、食べたり、旅行を満喫した生活に安住するようになります。表面上はその願いは叶えられるでしょう。でもはたして、その人にとっては本当によかったと言えるのでしょうか。私は生活にゆとりが出てくることは好ましいと思いますが、日常茶飯事、雑事に手を抜くことは考えものだと思います。むしろ弊害が大きいのです。私の亡くなった母親は田舎で稲作りを中心とする農業をしておりました。しかし、交通事故に遭い、ついに田んぼを人に預けて引退しました。遺族厚生年金等を受給しており、生活費には困っていません。近所にも未亡人で一人暮らしの人が増え、毎日毎日、ダベリングの悠々自適の生活しておりました。食べ物は、近所に大きなスーパーができて、刺し身から天ぷら、お惣菜までなんでもそろっており、お金さえだせば何でも手に入ります。近所の人は、最近自家用野菜も作らなくなり、うめぼしなどの加工所食品も出来合いのもので済ませるようになりました。こうした生活は、夢でした。特に、戦中、戦後にかけて経済的に苦労してやっと掴んだ物質的に豊かな生活でした。牛や鶏も飼う必要がなくなり、何日も泊りがけで旅行も楽しむことが出来るようになりました。また、カラオケ教室をはじめ、趣味やスポーツ、文化講座にも参加して思う存分生活を楽しむことが出来るようになりました。今まさに料理のわずらわしさから解放されましたし、掃除や洗濯などもほとんど手がかからなくなりました。そんな何も悩むことがないような母親がよく言っていました。。旅行もたくさんしたし、もう行きたいところもないし、食いたいものもない。もういつお迎えが来ても思い残すことはないと。つまり、便利さと引き換えに、生きていてもおもしろくないのである。若いころのような充実感がないのである。なぜだろう。家族の食べるものを作り、料理するという日常茶飯事のわずらわしさから解放されて、浮いた時間でもっともっと生活を楽しみたいと思っていたことは間違いだったのであろうか。若いころは、自分の食べるものはほとんど自給自足でした。米、麦をはじめさまざまな野菜、味噌、しょうゆ、そば、うどん、団子、卵、鶏肉、つけもの、梅干し、ラッキョウ漬、ドブロク、ぶどう酒、栗、川でうなぎや川魚を取って生活していたのである。馬や牛、鶏も飼っていた。馬や牛は農耕にも使っていた。そうした雑事は、面白しろみがなく、わずらわしいものではありますが、生きがいずくりには役立っていたのではなかろうか。自分の必要なものを作るための日常茶飯事に真剣に取組むことは、気ずきや工夫が生まれ、その人の生きがいをつくりあげ、家族との絆を強固にし、近所の人たちとの交流が生まれ、心身とも活き活きと生活していたのではないでしょうか。このことから考えられることは、日常茶飯事や雑事を無視して、けっして人生は活性化しないし、反対に人に負担をかけたり、人に甘えることになるということです。便利で楽な生活にどっぷりとつかることは、自分の生きがいと引き換えであることをしっかりと認識しておく必要があります。
2016.01.11
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私は講話を頼まれるたびに対人恐怖症は克服しましたと言っている。それでは人の思惑が気にならなくなって、どんなことがあっても不安や不快感が無くなったのですかと聞かれることがある。そんなことはありません。そんなことはあり得ないことだと思います。人に悪く言われれば、不安な気持ちになります。そんな機会は症状に陥る前よりも増えたかもしれませんと言います。すると、それは治っていないのではありませんか。はったりをかませてかっこいいことを言っているのではないのですかと言われることがある。その方と私の思っている神経症の治り方のイメージがくい違っているのだと思った。そこのところを理路整然と説明できないと説得力に欠けると感じました。それでは質問した人が納得しない。私が神経症が治ったと言っているのは4つある。1、 以前は対人恐怖があるために逃げてばかりいた。仕事からも逃げてさぼってばかりだったし、苦手な人には意識的に近づかないようにしていた。今は対人恐怖を抱えたまま必要に応じて、やるべきことはイヤイヤながらでも行っている。馬が合わないなと思っても、必要最低限な付き合いはしている。これは大きな変化である。それをもって治ったと言っている。2、 次に私は「かくあるべし」思考方法をとっていた。人から後指をさされるような人間なってはいけない。常に他人から賞賛を浴びるような人間であらねばならない。等である。価値観の多くが対人的なところに集約されて、理想的な人間像を持って、そうでない自分、そしてそうでない他人を嫌悪し、否定していた。今ではどうか。人からよい評価をされたい。馬鹿にされたくない。等という気持ちは依然として強い。でもそうだからといって、そうでない現実の自分を否定することは少なくなった。他人も否定することが少なくなった。「かくあるべし」的思考方法をとることは今でもよくあるが、「ちょっと待て」その考えたかは思想の矛盾に陥っていないか反省できるようになった。しだいに上から下目線で現実の自分、現実の他人を見て批判したり馬鹿にすることは少なくなった。そして今現在の自分、今現在の他人に寄り添うことができるようになった。さらにそういう現実の自分や他人をよく観察できるようになった。そしてそこから今自分の出来ることを考えられるようになった。前向きに建設的に生きていくことができるようになった。これは自分ながら大きく変わってきたところだと思う。3、 現実、状況、事実をよく観察するようになるとともに、その事実に対してすぐに是非善悪の価値判断を持ち込まなくなった。いい悪い。正しい間違い。幸不幸。快不快。好き嫌い。等の価値判断をしだすと、ちょっと待てよ。その前にもっと事実を見つめてみようよと引き戻れることができるようになった。うまくいかないこともあるが、自己内省ができるように改善されてきた。価値判断をしなくなり、より深く事実の確認の方に目をむけることができるようになった。理不尽な出来事、仕打ちがあっても価値判断しないで、事実からその原因に思いを巡らせていると怒りの感情、恨みの感情がほとんど湧かなくなってきた。4、 以前は生きることがつらい。死んだ方がよほど楽になると考えていた。今は反対だ。何よりも生きていることが楽しい。やることなすこと、考えることすべてに意味があると思えるようになった。これは「生の欲望の発揮」に向かって邁進することができるようなったからだと思う。こうして毎日充実した生活を送ることに対して感謝できるようになった。以上を持って私は対人恐怖症を克服したのだと高らかに宣言したいと思うのである。
2016.01.10
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今日は老人ホームで獅子舞と楽器演奏を行ってきました。その他、三味線、手品、どじょうすくい、南京玉すだれの人もおられました。1時間の時間でしたが大変喜んでもらいました。獅子舞のあと、頭を噛むと運が向くといって何人もの人が並ばれました。
2016.01.09
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(学習テーマ)リズムに乗る生き方(学習のねらい)この部分の内容は森田理論学習の応用編「生の欲望の発揮」にあたります。(内容説明)森田先生は後年感情にはリズムがあるということを研究されていました。自分でもダンスをされ、ダンス教室にも関心を持っておられました。リズムについては、音楽の二拍子、三拍子、四拍子のことを思い浮かばれる人が多いと思う。音楽では強弱である。またはそのバリエーションのことを言う。そしてそのリズムは繰り返えされている。さらにリズムは繰り返しながら、元へと戻っているということだ。心臓の動きなどはその通りである。あるいは血圧なども昼間は高く、夜は低いこともそうだ。体温も日中は高く、夜は低い。交感神経は昼間優位で、夜は副交感神経が優位になる。ホルモンも昼間はアドレナリン優位だが、夜になるとセロトニン優位となる。人生はよく波に例えられる。波はうねりである。森田先生は全集第5巻の131ページで、守田宝丹の「身家盛衰循環之図」を説明されている。森田先生は、家系にも自然の波の中に身を任せていると、浮き沈みが繰りかえされているといわれているのだ。時化の海でいうと、船が波の上に打ち上げられると、次には必ず波の下に打ち付けられる。荒れた海では、大きなしぶきが甲板をさらう。難破するのかと思うと、次には波の上に出てくる。船酔いをしないという人を見ていると、船が沈む時は自分の体も沈む。船が浮き上がる時は自分の身体を持ち上げるように持っていく。つまり船の揺れと自分の体の動きを一致させているのである。船のリズムと自分の体のリズムを調和させるようにすれば決して船に酔うようなことはない。隣近所のブリキに釘を打ちつけるようなやかましい音も、その打ちつける金槌の音に同化するようにすれば不快感はすぐに消えてしまう。変化があるということは、人間にそれに対応する精神の活動を促すのである。リズムというのは自然のゆらぎととらえてもよいものである。ゆらぎは人間の心に安心感をもたらしているといわれる。このリズムがないとどうなるか。実に味気ないものになる。蒸し暑いときの自然の風は気持ちがよいが、クーラーや扇風機の人工の風は嫌がる人が多い。これはリズムがなく、変化がない強制的な風だからだ。そもそも我々の注意作用には、緊張と弛緩のリズムがあって、一つのことに対して、いつまでも同じ強さの緊張で、注意を集中し続けることはできない。視覚でも聴覚でも、ある一定の物あるいは音に対して無理に注意を集中していると、初めはそれに注意が向いているけれども、いつとはなしに注意は散漫かつ、漠然となり、無意識の状態になってしまうのである。森田先生は、我々の精神機能もまたリズムであり、たとえば注意という機能も、しらずしらずの間に、緊張と弛緩とが交代してリズム運動になっているといわれる。ものごとをリズミカルにするときには、それによってわれわれの生活機能を引き立たせる効果があるものである。われわれの心身の機能は、変化がなく無刺激である時は、いつとはなく弛緩して倦怠感を生じる。また、たとえ刺激は相当に強くても同じような刺激が長くつづくときには、いつの間にかそれに慣れて刺激を感じないようになる。だから、われわれの心身は、その機能が緩んでいる時には適度の刺激をあたえてそれを活動させ、またあまりに過敏になっているときには刺激を緩和して平静にするなど、よく生活機能を調節していくことが必要である。我々が仕事の能率をあげるのには、複雑な事柄を分類、整理、統一してリズミカルにしておくことが必要である。これは生活を規則正しく次から次へとへとこなしていくことだろう。いわゆるルーティンである。意識を介在させずに無意識で体が自然に動いていく状態は、無駄がなく自然である。例えば車の運転などがそうである。無意識に外部の状況に応じて適切な行動がとれている。無意識に行う行動にはリズムがあるのである。ものを記憶するにも、不規則なものを調子のよいリズミカルなものに直して利用するとうまくいくことがある。例えば歴史の年代を覚えるなどに活用した覚えがある人も多いだろう。いい国作ろう(1192年)鎌倉幕府等である。その他にも、土地を突き固める人々が「エンヤコーラ」のかけ声で調子をとるとか、歩くときに両手を振るとか、字を書くときに口をまげるとか、音楽の伴奏で踊り、あるいは歌うとか、いろいろある。(生の欲望 森田正馬 白揚社 106ページより一部引用)神経症から回復することは、リズム感を取り戻すことです。生活のメリハリを取り戻すことです。そのためには日常生活を規則正しく回転させていくことです。特に家にばかりいる主婦、定年後の人は意識して取り組まないと、いつも弛緩した状態になりやすいと思います。ここで森田の「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」という言葉を思い出してみてください。ある仕事に飽きた時、疲労がたまった時は弛緩状態にあります。意識してなすべき事を転換していけばまた緊張感を持った状態に転換できます。臨床心理士の岩田真理さんは30分ごとに家事や仕事を変えてみることを提唱されています。なかなかいいアイデアだと思います。緊張と弛緩のバランスを考えた生活態度をぜひ身につけてゆきましょう。例えばあと一カ月で大事なイベントを控えているとします。すると一ヶ月後には心身の状態、モチベーションを最大に持っていけばよいということが分かります。この弛緩と緊張のリズムを作り出してやればいいのです。例えば最初の20日ぐらいで徹底的に問題をつぶして準備をします。へとへとになるぐらい成功のためのシュミレーションを繰り返します。緊張感を保ち続けるのです。そして10日前ぐらいになると、急にそのことは一切忘れて他のことをするのです。そして3日ぐらいになってそろそろウォーミングアップを開始して本番を迎えるというものです。緊張状態をいったん落としてしまうということです。すると本番を迎えるころには、状態が自然にあがってくるというものです。これが反対に5日ぐらいまでに神経をピリピリさせて、ある程度成功のめどが立ってしまって、本番を迎えるころにモチベーションが下がってくるという局面を迎えるのは得策ではありません。とくにスポーツなどでは決してよい結果が得られません。ご自分でも生活の中で確かめて、取り入れてみたらいかがでしようか。私たちは緊張感を持って昼は活動している。夜はたいてい11時までには寝て心身ともに弛緩させて休んでいる。つまりバイオリズムを持って生活しているのである。ネットゲームが好きだからといって2時、3時まで起きているような生活。反対に朝寝をしたり、昼間に何時間も寝るような生活はリズムがくずれて、心身とも不健康になります。私たちはただ単に緊張感という波、弛緩状態という波にうまく乗って生活していけばよいのである。
2016.01.09
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心理学では「ピグマリオン効果」が知られています。これはある実験で、先生に「クラスの生徒の中でこの子は、本人が気がついていないかもしれないが、IQが非常に高い子なのです」と知らせます。実はそれはウソで、普通の子なのです。ウソの情報を先生に教えて、そうして、1学期、2学期の間過ごします。そうすると不思議なことにIQが高いとされた子どもの学力が本当に上がるのです。なぜかというと、先生が「IQが高い子なんだ」ということを思いこんでいるからです。もちろん先生としてはIQが高いかどうかにかかわらず、すべての生徒を公平に扱っているつもりです。しかし、「IQが高い子だ」という先入観を持っているので、気がつかないうちに、他の子よりも少しだけ手をかけるのです。そうするとその子は、「先生が手をかけてくれたので、ちょっとがんばろうかな」と思って頑張るわけです。そのことによって、先生は「ああ、この子は本当に頭がいいのだ」と思い込みを強くするわけです。それでますます手をかけるようになります。こんなふうにして、本当に成績が上がっていきます。先生が持っている先入観、思い込みによって、先生の行動が変わり、その影響を受けて相手が変わり、それで自分の思いがさらに強くなるのです。マイナスの思いこみ、否定的でネガティブな思い込みを持っていると、人間関係が悪化してくることがあります。例えば、新しく赴任してきた管理職が前管理職から引き継ぎを受けます。部下についての人事評価もあります。自分に何かにつけて反発して、営業成績もノルマ以下の営業マンについて、「彼はやる気が全くない。仕事に対する熱意のない最低ランクの営業マンです」といったとします。新管理者が前管理者は彼のことをそう思っていたのか。でも事実を確かめてみないといけないなと思ってくれると救いがあります。逆に新管理職がそれをまともにとってしまうと、彼は浮かばれません。昇進の道は断たれて、相互に悪影響を与えあって対立関係に陥ってしまいます。神経質者は事実をよく見ないで、先入観や思い込みで悲観的、否定的に考えることが多いように思います。そう考えたときには、その根拠となる事実はあるのか。間違いのない事実なのかと実際に確かめてみることが必要となります。(アドラー実践講義幸せに生きる 向後千春 技術評論社 82ページより引用)
2016.01.08
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今日は意欲ややる気について考えてみたい。私は大学卒業後専門書の訪問販売の仕事をしていた。ほとんど断られることが多かった。断られると自分の人間性を否定されたようでとてもつらかった。対人恐怖症があったので人が自分をどう扱ったかということにのみ、神経がとても敏感だったのである。ノルマ制ではなかったので、しだいに仕事をさぼるようになった。でも、成果をあげていないと、同僚や上司の軽蔑の視線が恐ろしかった。森田理論学習を30年もやってきて、対人恐怖症はほぼ克服してきた。それなら、今では訪問営業が抵抗なく出来るだろうかと考えてみた。とても出来るという確信は持てない。他人の思惑が気になるという傾向は変わっていないのである。これはどう理解したらよいのだろうか。私の仕事は、いい時で3軒訪問して1個の契約をとることができた。悪い時で10軒訪問して1個の契約に結びついた。成約以外はすべて無駄骨である。セールスマンに対しては断りの文句は手厳しい。その冷たい断りの言動に耐えなければならない。それに対してどう対応できるのかが問題だと思う。1軒の成約をとるためには9軒の冷たい断りの言動に耐えれば、確率的に1軒の成約に持ち込めるのだ。断りの言動は嫌だけれども、早く断りの言動を受け入れて1軒の成約を勝ち取ろうと思えるのかどうか。不快な感情はあって当然、それを数多くこなしていった先に成果が待っている。断りの言動は成果を上げるためにどうしても通過しなければならない関所のようなものだ。この仕事でなんとしても飯を食っていくのだ。そういう気持ちを持っている人は冷たい断りも乗り越えていける。そしてセールス技術もどんどん向上させていく。そう思える人は元々が営業向きのチャレンジ精神の旺盛な人だと思う。こういうことは大間の巨大マグロとりの仕事をしている人にも言えるかもしれない。テレビで年間1匹を釣り上げるかどうかという人がいた。釣りあげればいい時で300万円も400万円にもなるようである。でも、もし釣りあげることができなければ、燃料代はすべて赤字となる。そして仕事はすべて無駄骨に終わる。それに耐えることができるかどうか。野球の選手も同じようなものだ。100回打席に立って普通70回から75回は凡打に終わる。チャンスに打席が回ってきて凡打に終わると、意気消沈する。他の選手やファンの罵声を浴びることもある。第一年俸が増えてゆかない。そういうネガティブで悲観的な部分を抱えながら、打席に意欲的に立てるのかどうか。車の飛び込み営業をしている人の本を読んでみた。確率的には100件に1軒の見込客が見つかると書いてあった。保険のセールレディの成約確率はどんなものだろう。多分多くの断りに耐えている人ではなかろうか。それでも苦しさをはねのけて成約獲得に向けて奮闘努力することができる人なのだと思う。でも私はもともと無駄骨の多い、不快な思いが絶えず自分を襲ってくる仕事自体が向いていないのだと思う。頑張ればうまくやれる。十分にやれそうだという確信が持てないままに飛び込むことは無謀だったのではないか。私にはやった仕事が一つ一つ成果として積み上げられてくるような仕事が向いているのだと思う。一発逆転のホームランを打てるような選手ではないのである。それを無理して、ホームランバッターのような気になっているから自分の心身が病んできたのではないかと思う。職業の選び方が間違っていたのだと思う。それなのに仕事のできない自分は能力のないどうしようもない人間だと決めつけて自己否定していた。職業の種類は1万以上もあるのだから、自分合ったどちらかといえば、日銭を確実に稼げるような仕事を選択していく必要があったのである。それだったら自分でもなんとか出来るという確信が持てる。あとは神経質性格を活かしてコツコツと努力を怠らなければなんとかなったのではないかと思う。
2016.01.07
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高良先生は「性格学」という本の中で神経質性格についてこう述べられている。「第一に内向的性格である。これは自己内省、自己批判が強い性格である。このような人々のすぐれた点は、物事をするのに細心緻密で、用心深く、軽率に流れないことで、道徳的にも優秀であり、信用のおける人であるが、引っ込み思案になってぐずぐずし、決断がつかずにチャンスを逃すようなところが弱点である。また、自己内省に傾くので、自己の欠点、弱点を細かに調べ、それを重大視して劣等感に陥りやすい。そのため行動がにぶることがある。しかし、一方、神経質はけっして単純に内向的であるばかりでなく、これに反発するところの勝気、負けず嫌い、権勢欲、野心などの積極的な協力性の傾向も相当に強いものである。だから、自分の弱点を単純にあきらめることができず、何とかしてこれを克服しようとしてそのために心の葛藤を起こしやすい。神経質は向上発展の欲望が強く、単純な無力性素質者のように、消極的生活に甘んじられないから、神経質的葛藤を起こしやすいが、この葛藤を体験的に破壊すれば、その積極性がよく発現して優秀な素質者になることが証明される。また一般に、この性格者は意識的傾向に富み、知能も一般に普通または普通以上の者に多く、感受性も鋭く、意志も強く、努力家である。」私の性格をこれに照らし合わせてみるとほとんどすべてが当てはまっている。つまり典型的な神経質者である。森田理論学習をされている方もほぼ当てはまっている人が多いのではなかろうか。私はこの中で次のようなことを心がけてきた。まず細心緻密ということであるが、とにかく細かいことによく気がつく。それらをすぐにメモすることに努めた。そうしないとすぐに忘れてしまう。忘れると細心緻密な行動に結びつかない。出来るできないにかかわらず気のついたことはすぐに書きとめる。ストックを沢山ためることに注力した。すると気になって少しでも手をつけるようになった。細かいことが数多く出来るようになると、嬉しいものである。それに伴い注意が内向きから外向きに変わってゆき、神経症が玉ねぎの薄皮をはがすように軽くなってきた。向上発展の欲望であるが、私の場合は、人によい評価をされたいという気持ちがことに強い。といっても特殊な才能や能力があるわけではない。そんな折森田先生の「鶯の綱渡り」という宴会芸のことを知った。そのようなことだったら私も出来るかもしれない。人も喜んでくれるし一石二鳥であると思った。早速アルトサックスを始めた。今は老人ホーム、街のイベント、敬老会等年間30ぐらい出演するようになった。その他、安来節に乗せてどじょうすくい、獅子舞、浪曲奇術、ひっとこおどり、皿回し、しばてん踊り、替歌作り、ユーモア小話作りへと広がってきた。その過程で利害関係のない全く新しい人間関係の輪が大きく広がってきた。今ではこの人たちの交流が、集談会で知り合った人たちと共に、私の人間関係の大きな柱である。メンタルヘルス岡本記念財団の創設者の岡本常男氏は、「10の短所があれば、10の長所があると思いなさい。人生はその長所で勝負してゆきましょう」と常々おっしゃられていた。今しみじみとその言葉をかみしめている。
2016.01.06
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2016年1月号の発見誌に「慢性疼痛と森田療法」の記事があった。大変興味深い記事であった。この方は足を酷使しすぎ、足の細かい神経に障害が出て痛みとなったものである。定年退職して暇になり、家に閉じこもりがちになってきて、自ら痛みを修飾して増大させてきた。あまりにもつらい思いをしてきたので、痛みの記憶にとらわれて症状が悪化の一途をたどってきたのである。慢性疼痛は通常の痛み止めはモルヒネといえども全く効かず、ただ日本で開発された古い薬で、うさぎに炎症を起こさせ、その水ぶくれの中の液体を精製して作ったノイロトロビンという薬と、SSRIではなく三環系抗うつ薬のみが効くと書いてあった。この方はこの薬を飲み始めて2週間後に激痛がこなくなったと言われていた。これはなんらかのきっかけで、健康に不安を持った人が、それにとらわれて、心の中で不安を増幅させて、ついには家から出られなくなってしまう神経症と同じからくりではないだろうか。こういう人には森田的な治療方法が功を奏するのであるといわれている。全くのとおりであると思う。よく普通神経症の人はよく体の異変があるとガンではないだろうかと心配される。そして検査される。それも一か所の病院では納得できず何か所の病院に行って同じ検査をされる。病気を見つけるというよりも、不安をなくして安心感を得たいというのが真の目的になっている。こうなると体の病気以上に、とらわれによる心の持ち方の問題である。こういう方は森田療法の不安の特徴、役割、不安と欲望の関係、欲望を主にして、不安を活用した生き方をしっかりと身につけることが大切であると思う。この記事をきっかけにして、昨年9月号と10月号の記事を再度読み返してみた。心の健康セミナーで講演された平林万紀彦医師の記事である。私は永久保存版として切り離してファイルしている。平林医師は慢性疼痛には森田療法を取り入れておられる。その際、慢性痛の森田療法9カ条を提唱されている。1、 痛みが嫌なのは自分が健全だからこそ2、 痛みのコントロールは難しい3、 堪えがたい痛みをよく我慢してきた4、 痛みそのものが病である5、 怠けではなく頑張りすぎて苦しくなる6、 やりすぎないでほどほどのペースをつくろう7、 痛みとは闘わず自分が今できることに没頭する8、 身近にある小さな幸せ探しに励む9、 治療は一進一退があるが必ずうまくいくこの関連記事は2014年10月4日にも投稿しています。ご参照ください。
2016.01.05
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ブログをはじめて明日で丸3年になります。3年で6万人のアクセスを目標にしておりましたが、本日で節目の20万アクセスに達しました。閲覧者の皆様にはとても感謝しております。また個人的にメールや手紙などでご意見、ご感想などお寄せくださった皆様に対しましても厚くお礼申しあげます。ここまでほぼ毎日投稿することができましたのは皆様方のご支援のお陰です。今年は延べ30万アクセスを目指してみたいと思っています。それなりの努力をしないと達成できないかもしれません。今後も森田理論の魅力を私なりにお伝えしてゆきたいと思っております。よろしくお願いいたします。
2016.01.04
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2016年1月号の「生活の発見」誌に比嘉千賀先生と生活の発見会の市川理事長の対談が掲載されている。森田の将来について語られていた。勇気と元気がでる内容であった。比嘉先生によると、森田療法学会では森田療法の専門家を養成する活動を行っている。そこに参加される人の多くは、看護師や臨床心理士、精神保健福祉士、介護福祉士といった、いわゆるコメディカルの人たちです。ほかにも学校や企業のカウンセラー、ソーシャルワーカー、教育関係者といった職種も多くいらっしゃいます。お医者さんも、精神科以外にも口腔外科医、歯科医、皮膚科医、婦人科医、内科医等の方もいらっしゃいます。これらの方は、病名や診断名は様々ですが、症状としての耐えがたい痛みや、症状へのとらわれ、取り除きづらいつらさを抱えた患者さんやクライアントさんに対して、専門家がどう向き合うかといったときに、森田療法的アプローチが活用されています。またターミナルケアのガン患者さんや、身近の人の死を経験された方のように、どうしようもない出来事からどのように回復するかという場面でも応用できます。症状を完全になくするのが無理なら、不安やつらさを受け入れつつもよりよく生きていこうという、人間としての「生き方を示す」森田療法的アプローチは、神経症に限らず、いろんな症状に対応できるのです。惜しむらくは、森田療法は欧米の療法に比べるとエビデンスがなく、可視化できていないことです。言葉が理解しがたいということもあり、また、治療の効果判定等を含めて理論化できていないため、特に海外の専門家は、興味をもちつつも手をつけようとしない側面がある。これらは今後の問題です。ここで言われているエビデンスとは、森田療法が神経症に効果があるというデーターの公開、証拠、検証結果を医学的見地から公表することである。言葉の置き換えは必要であると思う。阿吽の呼吸で察知してくれというのでは世界では通用しない。世界の人が理解できる言葉に噛み砕いて伝えていく必要があるだろう。次に森田療法独自の考え方である、不安の特徴、役割、不安への対応方法や利用方法について他の療法との違いを明らかにしていく。さらに、私は神経症が治るということを4つに分類して、治り方を測定しているが、それらをさらに細かく分けて誰にも測定可能な状態にしておかないと、精神療法としての前途はないだろう。禅問答のような森田では自己満足はできるかもしれないが、神経症の治療とは縁遠い。さらに市川理事長は森田療法が世界で必要とされているのなら、発見会のホームページに多言語翻訳ツールを導入することも考えなければならないと言われている。私もこれは賛成です。日本語と英語の対比ソフト等がありますのですぐにでも取り入れることができそうです。早期に手をつけてもらいたいものである。
2016.01.04
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ガンになった人に周りの人はどう接していったらよいか。モンブラン登山をした鞍本恵美子さんは次のように言われている。鞍本さん自身乳がんと闘っていた人である。1、 ガンだと分かったら、本人が知っている否にかかわらず、本人のしたがっていることをやらせてあげるように周囲の人は援助していただきたい。無理かなと思うようなことでも、それがやれた場合の本人の喜びは大きい。本当にむりであれば、だれよりも本人がそのことに気づき、途中でやめます。2、 患者が「痛い」とか「苦しい」とか言ったら、「気のせいじゃないの」とか「少しぐらい我慢しなさい」などと言わず、「そう、痛いの」「苦しいのね」と受けとめてあげてください。患者は自分の痛みや苦しみが他人に理解されるとは思っていませんが、それでもだれかに訴えずにはいられないのです。3、 患者が「死」や「死後」のことを口にしたら、「そんなこと考えてはダメ」とか「死ぬわけないでしょう」などと空虚な慰めを言わず、黙って聞いてあげてください。もし、その人のそれまでの生き方で、褒めてあげられることがあれば、そのことを言ってあげてください。これを神経症に苦しんでいる人に当てはめてみよう。1、 いかに神経症で苦しかろうとも、自分の出来る範囲で必要最低限のことに手足をだして生活しましょうということだと思う。無理は禁物ですが、行動も考えることも内へ内へと自己内省的になることは、症状をさらに悪化させて、蟻地獄の底に落ちていくようなものだという認識を持つことが重要だと思います。2、 集談会などで神経症の苦しさを訴えられたら、最初から森田的なアドバイスをしてはならないということだと思う。まずは相手に苦しみを吐き出させることに注力する。聞く方としては、傾聴、共感、受容の態度を崩してはならない。3、 相手が破れかぶれになって、「もうどうなってもいい」「死んだ方がましだ」というような言葉をしばしば口にするようになった時。集談会では「そんなこと考えてはダメ」とか「死ぬわけないでしょう」などと空虚な慰めを言う人はいないと思う。私はこういう方は、すぐに信頼できる森田療法協力医に紹介することがよいように思う。我々には限界があることを肝に銘じておくことだ。(モンブランに立つ 平尾彩子 リヨン社 109ページより一部引用)
2016.01.03
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広島護国神社での初詣です。今年は暖かく人出も多かったです。ちなみにこの神社は広島カープが優勝祈願する神社です。今年は大型スーパーの新春売り出しの呼び込みで、私たちに声がかかりました。今回は4人で行きました。赤い帽子が私です。大勢の買い物客でごった返していました。終わった後、豪華料理をごちそうになり、温泉に入ってただ今帰宅しました。1月はあと2回の出演予定ががあります。
2016.01.02
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読者のみなさまへ明けましておめでとうございます。今年一年がみなさまにとりまして、輝かしい年になりますように祈念申し上げます。また私のブログを読んでいただきましてありがとうございます。読んでもらっているということが、励みになり丸3年間続けることができました。今年もさらに森田理論を深めてゆきたいと思っています。森田理論をご存じない方に広くその素晴らしさを知っていただきたいと思って始めたブログではありましたが、一番多くの収穫を得たのは自分自身でした。今後はそれをさらに還元したいと思っています。「森田理論は今一歩掘り進めば、その奥にとてつもない豊かな鉱脈が眠っている」これが私の実感です。森田理論のどこを、どのように掘り進んでいくのか。試行錯誤しながら、今年も私の新たな挑戦が始まります。今日はこれから初詣にいきます。明日は大型スーパーでの獅子舞、チンドン屋の初売り宣伝興業に行きます。この写真は我が家から見た初日の出。7時46分です。生駒山によく似た山から昇ってきます。夏至の頃は、この写真の左端よりさらに左から5時30分ごろに昇ってきます。考えて見れば2時間15分も違うのですね。ここでも諸行無常、変化流転を感じます。
2016.01.01
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