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感情の法則の3は、「感情は同一の感情に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである」です。この理論を分かりやすい例で説明します。たとえば、湯船に浸かるとき、最初は少し熱いなあと思って、水を入れてお湯の温度を下げることがあります。しばらくすると、今度は反対に少しぬるいと感じることがあります。冬場などはまたお湯を足したりします。最初に熱いなと思った時、そのまま我慢することができれば、その熱さに慣れてストレスがなくなるということではないでしょうか。この法則の活用方法について考えてみました。私は毎日自転車に乗っています。チェーンが緩んでカバーに当たって音がするようになりました。最初の感情を大切にして、すぐにお店でチェーンを張ってもらえれば解決したはずです。私は、何とか乗れるのでそのままにしていました。すると感情の法則通り、違和感に慣れてしまいました。最初は急いで修理に行くつもりでしたが、そのうち急いで修理に行くことは考えなくなりました。それが当たり前になってしまったのです。2ヶ月くらい経ってたまたま販売店に行くと、もっと大切に扱ってくださいと言われました。そのまま乗っていると、チェーンが外れて自転車が壊れますよ。最悪事故につながりますよ。最初に気づいた時点で相当緩んでいますから、次はすぐに寄ってくださいと言われました。そういわれて初めて、シマッタと思いました。森田理論でこの部分は何度も学習していたのに、活用していなかったのです。問題があるのに、それを放置していると、最初の貴重な感情は薄まってしまう。問題が深刻化して、切羽詰まって相談したときはすでに手遅れと言うことがあります。理論として知っているだけで、活用していないのは片手落ちです。特に、重大な病気の場合はそういうケースが多いようです。最近は会社勤めの人以外は、年1回の健康診断も受けていないという人もいます。私の身内や友人たちも、最初は頭が痛い、食べ物が飲み込みずらい、胃が痛むことがあると感じていたにもかかわらず、たいしたことはないだろうと市販の薬などを飲んでいた。いつまでも治らないので、病院に行くと重大な病気だった。そのときはかなり症状が進行していたということがあります。最初の違和感があった時、万が一というふうに取り扱っていれば、なんとかなったのではないかと思うことがあります。私たちは森田理論で、最初の小さな感情や気づきを大切に取り扱うことを学んでいるわけですから、理論に従って行動するようにしたいものです。
2022.06.17
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萩原一平さんのお話です。脳の中にある情報には、生まれた時から本能的、遺伝的に脳に組み込まれている情報と、経験や学習によって後天的、文化的に脳に蓄積された情報があります。脳はこれらの情報を活用して意思決定を行い、身体各部に指令を出して行動につなげ、外部の変化に対応しているのです。(ビジネスに活かす脳科学 萩原一平 日経プレミヤシリーズ 162ページ)ここで大切なことは理性的な脳である前頭前野は、ゼロから思考しているのではなく、すでに脳に蓄えられた様々な情報を取り出して、それと突き合わせながら意思決定をしているということです。過去に同様の事例に関する成功や失敗の情報が全くない段階では、適切な意思決定はできません。そのときは恐怖に身がすくんで固まってしまうことになります。ここでいう情報は、長期記憶して大脳に格納されているものだと思います。永久保存されているために思い出すことができる記憶のことです。長期記憶には、主として運動記憶と体験記憶があるといわれています。学習記憶もありますが、これはすぐに忘却の彼方に消え去ってしまう短期記憶が多いようです。運動記憶は自転車の乗り方や水泳のクロールの泳ぎ方など体を使って覚えた記憶のことです。一旦覚えてしまえば、長期記憶を取りだして、いつでも活用できます。体験記憶は、エピソード記憶と言われています。自分が過去に体験した記憶のことです。私はこの記憶に注目しています。この長期記憶には、成功体験と失敗体験が大きな影響を与えています。成功体験は目指していた目標が達成できたこと。予想よりも事態の展開がうまくいったこと。思わぬ幸運が舞い込んだ。他人から評価されたことなどです。快の感情や達成感をもたらしてくれた楽しくてうれしい体験です。失敗体験は、ミスや失敗をしたこと。他人から仲間外れにされたこと。親や他人に叱責・非難されたこと。生命の危険を感じたこと。恥ずかしかったこと。悲しい思いをしたこと。後悔したこと。などの体験です。成功体験や失敗体験が同じような割合で長期記憶として収納されているわけではありません。成功体験よりも失敗体験の方が何倍も多く保管されています。ほぼ後悔や失敗体験のエピソード記憶で占められていると思っていた方が無難です。それは太古の昔、安全を確保して生き延びるための知恵だったからです。成功体験も役に立ちますが、それよりも失敗体験をより重視しないと生き延びることができなかった時代が長かったということです。以上の知識をもとにして私たちが問題視している不安、恐怖、違和感、不快感について考えてみましょう。それらはほとんどネガティブで否定的な長期記憶と結びついています。たとえば人が怖いという対人恐怖症の人はどうでしょうか。過去に冷たくあしらわれた。仲間外れにされた。一人ぽっちになり心細かった。人前で叱責、非難、否定された。過保護、過干渉、放任状態にされた。腹が立った。恐ろしかった。そういうエピソードが夢にも出てくるような状態ではありませんか。新しい人間関係に直面する時、脳の中では、それらのネガティブなエピソード記憶を取り出してきて、対応策を検討しているのです。これではよい結果は出てこない。どうせまた他人に冷遇されるに違いない。対立してイヤな気持ちになるのが目に見えていると判断するようになるのです。こうして、扁桃核で不快に分類された感情は、ノルアドレナリンによって青斑核に送られ、そこから防衛系神経回路を経由して脳全体に送られるのです。他人は自分をイライラさせる恐ろしい存在だ。この回路が作動すると、脳は自分を守ることに専念するようになります。積極的、建設的、創造的な行動には向かわなくなります。いくら言葉で叱咤激励しても、脳が自己内省的に活動しているので体が動かなくなるのです。この悪循環は何としても断ち切ることが大切になります。これは明日の投稿課題とします。
2022.05.30
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脳神経科学者の伊藤浩志氏は「情動」と「感情」は違うと言われている。私たちは感情については学習しているが、情動については学習していない。どのような違いがあるのでしょうか。情動とは、主に外からの刺激に対して自動的に、そして大部分が無意識のうちに起きる一過性の生理反応のことで、発汗、血圧上昇、表情や行動の変化などの身体的変化が急激に起きる。農作業中に蛇が出てきて急に身がすくむ。自動車を運転中に急に子どもが道路に飛びだしてきて肝を冷やす。情動には喜び、悲しみ、怒り、恐怖、嫌悪、驚きなどがあります。この情動が前頭前野で意識化された時点で初めて感情になると言われる。ただし情動は前頭前野に到達する前に、直接扁桃体に届くようにもなっている。扁桃体は情動に基づいて、反射的で身体的な変化を起こしている場合がある。そのために感情と情動を区別しているのである。情動反応の特徴を見てみよう。扁桃体の特徴は、届いた情動に対してどんな意味があるのかを問題にしていない。決めつけ・先入観をもとにして条件反射的な対応をとっている。とりあえず危険と判断して即座に反応する。見切り発車で防衛反応をとっているのだ。そのために取り越し苦労に終わる確率が高くなります。どうして情動反応による素早い反応が必要になるのか。たとえば、山道を歩いている時に、目の前に細くて曲がったものがあったとする。扁桃体はそれが棒切れか蛇か見分けがつかない。つける必要がないと言った方がいいかも知れない。しかし、たとえ取り越し苦労に終わったとしても、危険性が少しでもあったならば、即座に防衛反応をとる方が生存にとっては有利になる。この場合は、蛇である可能性は少ないかも知れない。でも蛇と判断して素早く反応した方が身の安全を確保できることになります。この機能が進化の過程で淘汰されずに受け継がれてきたのである。では、情動が前頭前野に送られて感情はどのように作り出されているのか。前頭前野はその情動に対して分析・検討をくり返して感情を作りだしている。その部所は前頭前野の腹内側部(VMPFC)と言われている。腹内側部には、次々と情動が送り届けられている。腹内側部は無数の情動を分析・検討して、それぞれの情動の軽重の評価を行っている。つまり情報のランク付けを行っているのである。急いで対応すべきものや無視してもよいものなどを選別している。感情を作りだすとともに、その後の対応方法をも同時に決めているのです。検討・分析に際しては、その人の普段の認知や思考パターンの影響を受けます。先入観や決めつけ、観念的で「かくあるべし」の強い人は否定的な感情がより多く生み出されます。また普段の生活の中で、成功体験を数多く積み重ねていると、積極的で前向きな感情を作りだします。失敗やミスの体験が多い場合や未知の体験の場合は、消極的で後ろ向きな感情を作りだします。情動に基づく条件反射的な行動は人間の意志の自由はありません。感情に基づく行動は、習慣化されたその人の認知や思考パターン、過去の成功体験、失敗体験の積み重ねが大きく影響を与えているのです。森田理論が観念優先ではなく事実優先で物事をよく観察するということ、小さな成功体験を積み重ねることを重視しているのは理にかなっているのです。(復興ストレス 伊藤浩志 彩流社 第2章 脳神経科学から見た「不安」参照)
2022.05.29
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柏木哲夫医師の話です。橋を架ける工事の現場の責任者の男性がいた。その人は48歳の奥さんを卵巣がんで亡くされた。ちょうど大切な橋の工事をしておられた。たまにしか奥さんの見舞いに来られなかった。奥さんが亡くなった時、葬儀だけを済ませて、すぐに現場に戻られた。仕事が忙しくて悲しんでいる暇がなかったのだ。ところがその後3~4か月で工事が終わり、ホッとした時から急速に悲しみと落ち込みが始まった。ものすごく悲しく辛く、全く会社に行けなくなった。そして半年くらい会社を休まれた。結果的には元の生活に戻るのに、2年くらいかかった。本当に悲しむべき時に悲しむことができなかったので、あとから悲しみが出てきたのである。「あの時にきちんと看病してやれなかった。きちんと悲しんでやれなかった」という罪悪感のようなものも加わり、ぐっと病的に重い状況になってしまったのである。悲しいとき、辛いときに、十分に泣いた人は比較的早く立ち直っている。ところが十分に泣かなかった人は、ずるずるとまだ悲しみを引きづっている。うつ状態が残っていたり、不安に思ったり、ちょっとしたことでイライラしたり、とすっきりしていない。(人生の実力 柏木哲夫 幻冬舎 99ページ 80ページ)森田先生は一人息子の正一郎さんを亡くされたときは、出棺の時に人目をはばからず大泣きされたそうです。しかしその後は何ごともなかったかのようにふるまわれたので、形外会の香取会長は大いに驚いたと報告されています。悲しいとき、辛い感情が湧き上がった時、むせび泣きをすることがあるだろうか。家族が亡くなった時に、涙も出てこなかったという人はいないでしょうか。大勢の前で泣くのはみっともない。こういう時こそ悲しみを抑えて気丈夫にふるまってしまうということはあるでしょう。でも泣きたいような気持が湧き上がってこないのは不自然です。普段から感情をより深く味わうということができなくなっているのかもしれません。特にマイナスの感情を目の敵にしている。大切に扱っていない。森田理論では感情は一山駆け上って、下り坂に向かうと言います。そしてどんな激しい感情でも時間の経過とともに鎮静化してくると言います。ここでもし一山登らなかったらどうなるでしょうか。その感情は下り坂に向かわないで、くすぶり続けるのではないでしょうか。悲しみ、辛い、不安、恐怖などのマイナス感情が生殺し状態で放置されると、心身に計り知れない悪影響を及ぼします。それを回避するためには、マイナス感情を味わい尽くすのが正しい対応方法となります。できれば思い切り泣いて、涙で洗い流すようにする。その方がより早くマイナス感情を手放すことができるようになります。
2022.05.15
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些細なことで、すぐに不安になる。不機嫌になる。腹が立ってしまうことはありませんか。たとえば、相手と話をしていた時、少し沈黙した時間が続いた。自分のことを面白みのない、付き合うに値しない人間だと思われてしまうのではないかと不安になる。相手にこれくらいのことは暗黙の了解で、自分の気持ちを察して欲しいのに、鈍感な態度で無視された。あるいは「こうしてほしい」と思っていることをいつも無視される。その結果、ふてくされて、つい不機嫌な言動をとってしまう。会社で朝の挨拶をしました。ある同僚は、みんなに笑顔で挨拶しているのに自分にはそっけない態度で挨拶してきたので、急にムカッとして腹が立ってきた。このような気に障ることは毎日次々に発生します。些細なことで、感情が高ぶり、不安、不機嫌、怒りで一杯になり反発する。特に自分より格下と思っている人にはその傾向が強くなる。この問題はどう取り扱ったらよいのでしょうか。・このような不快な感情は、他人からよく思われたいという欲望の裏返しとして湧き上がってくるものです。森田理論では神経症的な不安には手を付けないでそのままにしておく。そして、不安の裏返しである生の欲望に焦点を当てて行動することをお勧めしています。人から評価してもらえることを見つけて行動することです。・感情は一山駆け上れば、つぎに必ず下り坂に向かい鎮静化してきます。どんなには激しい感情でも、多少時間は長くかかりますが、しだいに収束してきます。冬の田んぼの畔の枯草を燃やす時、燃え尽きてしまえば自然に火は消えてしまいます。私たちは、ほかに燃え広がらないように注意して見守るだけでよいのです。・相手の言動にとらわれ、些細なことで、感情が高ぶり、不安、不機嫌、怒りで一杯になるという人は、注意や意識が他人が自分をどう取り扱ったかに向いています。本来、他人の気持ちを忖度する前に、自分の気持ちをはっきりさせる必要があります。自分は今何を感じているのか、どんな気持ちになっているのか、どうしたいのか、欲望や欲求などを明確にすることが肝心です。自分は人と仲良くしたいのか、人から高い評価を得たいと思っているのか。何を手に入れたいと思っているのか。興味や関心を持っていることは何か、目標や夢は何か。等々。自分の気持ちが、課題、目的、目標、夢、希望をしっかりとらえているときは、人の思惑に振り回されることが少なくなります。他人を思いやることはよいことですが、その前に自分を思いやるということが先にこないと、他人の思惑に振り回されてつらい人生を送ることになります。
2022.04.04
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萩原一平さんの話です。私たちの意思決定や行動の多くは脳の指令によって無意識に行われています。95%の意思決定は無意識に行われているといいます。もちろん、すべてが初めから無意識でできるわけではなく、たとえば、自動車の運転方法を習い、教習所で教官に怒られながらも何回もブレーキを踏むタイミングや強さを学習しているから、とっさの場面で迷わず対応をとることができるわけです。もしブレーキを踏むという方法を学習していなければ、脳は的確な判断ができず、身体が動かなくなってしまいます。実際に、皆さんもとっさに身体が固まって何もできなくなってしまうという体験はありませんか。それでも、多くのことは、最初は意識しながら行っても、何回も反復しているうちに、無意識に行うことができるようになります。そして、私たちは生まれてから毎日、いろいろなことを経験し、反復して学習し、その結果、多くのことを無意識に行うことができるようになっているのです。(ビジネスに活かす脳科学 萩原一平 日経プレミアムシリーズ 36ページ)私は行動する時は、100%前頭前野で検討していると思っていました。萩原さんはそれはわずか5%に過ぎないといわれています。反復して手順を覚えたものは、前頭前野を経由することなく、記憶中枢から直に指示が出されているということです。つまり私たちの日常生活は無意識に行われているものがほとんどであるということです。無意識にまかせて日常生活を送っているということをもっと意識した方がよいと思います。たとえば、私は老人慰問活動でアルトサックスを吹いています。運指はとても複雑です。ところが何10回、何100回と練習を繰り返しているとそれは記憶として定着してきます。それに任せていると、意識しないで、無意識のうちに指がテンポをとって正確に動いているのです。それは経験するととても不思議な感じがします。なぜなら、私の頭の中には、前頭前野から指示命令されたことが、行動のもとになっているはずだという先入観や決めつけが頑としてあったからです。この考えは、脳の機能から見ると完全に間違っています。もっと無意識の行動を評価してあげることが必要だと思います。時々本番でうまく演奏できるだろうかと不安が湧き上がってくることがあります。そういう時は、出てこなくてもよい前頭前野がしゃしゃり出てくるのです。前頭前野がその不安をどうしようかと考え始めるのです。すると、ここで間違えてはいけない。なんとか無難に乗り越えたいと思うようになります。その結果、練習の時のような、無心な気持ちが遠のいて、手がぎこちなくなり、考えた通り間違えてしまうのです。その対策ですが、・練習段階では120%の成功確率に高める。・本番前には、「よし、これで大丈夫」と士気を高める。・そして自分を鼓舞するいつものゼスチャーをとる。・拍手喝さいを受けてさっそうと退場するイメージを持つ。・イチロー選手や羽生結弦選手のようにルーティン作業を黙々とこなす。この5つを、しっかりと持って臨むようにしております。
2022.03.03
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宇野千代さんの言葉です。面白い事がある。自然治癒力というものは、みな、自分の気持によって、或いはその力が強くなったり、全く失くなったりする。自分の気持というのは、自分の心にかける暗示のことで、この病気は治る、と思えば自然治癒力が強く働くし、この病気はとても治らない、と思えばその力は弱くなるか、全く失くなるかするものである。自分にかける暗示。これくらい強く、また他愛もなく、困ったものはないのである。(幸福の法則 一日一言 宇野千代 海竜社 49ページ)身体が弱く、精神も弱い人は、生き方が消極的になる。様々な局面で「私は体が弱いので、それは出来ないのです」という言い訳をくり返す。身体が弱くても、精神の強い人は、「やれるだけやってみましょう」という前向きの意志を示す。どちらが体を活性化させるかは一目瞭然である。すべて、健康は精神の在り方にかかっている。(同書 51ページ)宇野千代さんは、ダメだ、無理だ、できない、最悪だ、失格だ、不幸だ、能力不足だ、荷が重い、絶望的だ、煩わしい、逃げたい、閉塞的だ、将来性がない、ヘトヘトだ、やる気が出ないなどの否定語を頻繁に使っていると、精神状態が悪くなる。そして心身症になって重篤な病気にもなる。「病は気から」という言葉がありますが、まさにその通りになる。神経質性格の人はこのような否定語を頻繁に使っているのではないでしょうか。たとえば採点付きカラオケなどでも、もうダメだ、悪すぎる、自分には歌唱能力がないなどという言葉を使って、自分を否定している。終いには、カラオケを毛嫌いするようになる。人生の楽しみの一つを自ら放棄している。これではいつまで経っても楽しみを見つけることはできない。何よりも自分を否定していることが情けない。樹木希林さんは自分の身体は創造主から借りたものですといわれていました。そういう意味では、貸してくれた人に失礼なことだ。うれしい、楽しい、できるかも、面白そう、おいしそう、行ってみたい、見てみたい、やってみたい、ドキドキわくわくする、挑戦したい、大丈夫、絶対にできる、成功したいなどというポジティブな言葉を使う習慣を持っている人は精神状態が積極的で前向きです。カラオケでは、今は80点くらいだが、努力すれば90点くらいは出せるかもしれない。自分に合った曲を探してみよう。どんな曲がいいかな。早速楽譜を取り寄せて研究してみよう。歌手の歌唱力を研究して、節回しのコツを掴もう。発声練習をしてみよう。腹式呼吸を身に着けよう。歌うときの姿勢に気を付けよう。マイクの使い方はどうか。そうだ、歌唱レッスンを受けてみよう。音程はどうかな。自分の歌唱を録音して、問題点をつぶしてみよう。こんなふうにドンドン積極的になる。「森田では外相ととのえば内相自ずから熟す」と言います。気分がいくら悪かろうが、否定語は使わない。肯定語を書き連ねた紙を持ち歩いて、すぐに訂正するようにする。家族や友だちとの日常会話を録画して自己点検する。否定語を使っていれば、一つでも二つでも少なくするように努力する。日常会話の中で、肯定語が少なくとも60%以上になることを目指していくというのは如何でしょうか。あなたの運気がよくなるはずです。
2022.02.07
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今日はプロスペクト理論について説明します。この理論は本来は投資と感情の関係を説明するための理論です。私は感情の法則に置き換えて説明させていただきます。この理論から導かれる感情の法則 その1この線は交差点を基点にして、上は快の感情と考えてください。下は不快の感情と捉えてください。横軸は時間、縦軸は快不快の強さと読み替えてください。快の感情と不快の感情を比較すると、快の感情は勾配がなだらかです。不快の感情は勾配が急になっています。これが何を意味するかと言いますと、同程度の快の感情の体感よりも不快の感情の体感の方が何倍も強く感じるということです。快の感情よりも不快の感情のほうに何倍もバイアス(片寄がある)がかかっているということになります。脳は快よりも不快のほうによく多く強く反応しやすいのです。アフリカの東海岸にルーツを持つ人間の先祖は、他の肉食獣からの生命の危険にさらされていました。そのためリスクを回避するために不安や恐怖の感覚がより鋭くなりました。過去の不安や恐怖にまつわる長期記憶の方が、成功や快楽記憶よりも多いのです。その名残が遺伝子として引き継がれているのだと考えられます。一旦不安や恐怖、違和感や不快感にとらわれると自分の思っている以上のダメージを受けやすいということです。特に神経質者の場合は、不安や恐怖にとらわれやすいのかもしれません。この特徴が理解できれば、快の感情を意識してできるだけ多く作り出すように心がけることが大切になります。「好き」「うれしい」「楽しい」「愉快だ」「ウキウキする」「わくわくする」「気持ちがよい」「幸せだ」「満足だ」「できた」「成功した」「達成できた」こういう言葉を意識的により多く使うようにすることです。反対に「ダメだ」「無理だ」「悪すぎる」「できない」「イヤだ」「苦しい」「イライラする」「不安だ」「怖い」「恥だ」「みじめだ」などと言う言葉はできるだけ封印する。こうした気持ちを維持することで、バランスがとれてくるはずです。この理論から導かれる感情の法則 その2感情の発生直後はどちらも急激に上昇していますが、時間の経過とともにその曲線はなだらかになっていきます。時間が経過してその感情に慣れてしまうと、慣れてしまって感情が薄れてしまうということになります。これは最初に湯船に入るときはとても熱く感じるが、そのまましばらくすると逆にぬるく感じるようになるようなものです。これが何を意味するかというと、最初にいくら良いことを思いついても、そのままにしているとその素晴らしい思いつきは忘れ去ってしまいやすいということです。ですから意識して、最初に感じた感情をきちんとキャッチすることが大切になります。そうしないとよいアイデアはすぐに忘却の彼方に忘れ去ってしまいます。気が付いたことはきちんとメモしておくという習慣をつけることが大切になります。神経質者の場合は、細かいことによく気が付くという特徴があります。この特徴を最大限に活かすことを考えた場合、きちんと掴まえられるかどうかはその後の展開を大きく左右します。次に不快の感情は急激にしかもより強く高まります。不安や恐怖の感情は一挙に山を駆け上るという特徴があります。しかし時間の経過に任せていると、快の感情ほどではありませんが、しだいに鎮静化してきます。しだいになだらかになってきます。ですから売り言葉に買い言葉のような衝動的な言動は差し控えることが肝心です。そうしないと後で後悔を招くことが多くなります。3~4日考えて、どう考えても理不尽だと思えば、準備を整えて論争してもよいと思います。これは夫婦げんかの時の対応として森田先生が説明されています。いつも言いたいことを我慢していると、最後には相手になめられてしまいます。自己主張できないとストレスで心身ともにダメージを受けることになります。
2022.02.06
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今日は感情の特徴と対応方法について考えてみました。今とらわれている感情は、時間の経過とともに、形を変えていきます。同じところに留まることはありません。動きながら変化しています。しかし神経症の人は、いつまでも不安などの感情を手放そうとしません。感情の特徴に反発しているのです。感情は行動に伴って、全く別の感情が湧き上がってきます。凡事徹底に取り組んでいると、感情はスクリーンを見るように常に流れていくのです。つまり感情は、シリトリゲームや連想ゲームのように、いつまでもどこまでも流動変化しているものなのです。いつまでも一つの感情にとらわれていることはできません。これは宇宙の仕組みに連動しています。宇宙という大自然は常に流動変化しています。これに逆らうことはできません。もし逆らえば、宇宙そのものが成り立ちません。感情は、人間の意志の力で、引き留めることはできません。自由に操作することもできません。ドパミンかいっぱい出て、めくるめく恍惚感で一杯になった感情も、このままいつまでも続いてほしいと願ってもすぐに逃げて行ってしまいます。そんな虫のよいことを考えていると、いずれ何らかの依存症に陥るでしょう。反対に、不安や恐怖でいたたまれない感情に取りつかれても、そのままにしておくと、一山登って、すぐにピークアウトして下降線をたどります。不安や恐怖にとっては、相手が戦いの場に出てこないかぎり、試合にはならないのです。空気の抜けた風船のように、すぐにしぼんでしまいます。反対に相手がけんかを売ってくると、不安や恐怖にとっては、働き場所を与えられて、うれしさを隠しきれなくなります。勝負に持ち込めば、最後は勝てるという自信満々なのです。それは今まで敗北したためしがないので、負ける気がしないのです。それなのにあえて勝負を挑むことは、ドン・キホーテの愚を選択するようなものです。感情は過熱したときの水のようなものだと思います。鍋に氷をいっぱいに入れて、加熱するとどうなりますか。氷が解けて水になります。そして暖かい水になります。そのうち沸騰してブクブクと泡立ちます。そのままにしておくと、熱湯は蒸発してなくなります。氷ー冷たい水ー暖かいお湯ーグラグラ煮えたぎる熱湯ー水蒸気というふうに次々と変化していきます。その変化を見極めて、その状態のままありがたく利用させえもらえば万事うまくいきます。氷は水割りなどの飲み物を冷やす。かき氷を作る。冷たい水は、暑いときやのどが渇いたときは何よりのごちそうになります。暖かいお湯は、シャワーやお風呂に使っています。トイレの洗浄にも使っています。グラグラ煮えたぎるお湯は、うどんやそばやパスタを茹でる時に役立ちます。レトルト食品を解凍するときにも役に立っています。水蒸気は蒸気機関車を動かすことができます。タービンを回せば発電もできます。変化を見極めて、その状態のままで活用方法を考えれば、いくらでもアイデアが湧いてくるのです。感情も同じです。これはいい感情、これは悪い感情と価値判断していると、非難・否定するばかりで活用することができなくなってしまいます。感情は選り好みをしないで、良いも悪いもそのまま素直に受け入れて、仲良くしておくことがセオリーなのです。感情をあるがままに受け入れることができるようになると、生の欲望に向かう出発点に立つことができるようになるのです。感情の取り扱い方は、国家試験にして、合格した人には、「感情の取り扱い有資格者」として厚遇してあげるだけの価値があるものなのです。試験には理論編と実技編の2科目をクリアする必要があります。森田理論学習は感情の特徴と活用方法を教えてくれる有難いものなのです。
2022.01.18
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ジェームズ・ランゲ説という理論があります。これは森田先生も触れておられます。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだたとえば、お姉ちゃんがお母さんから叱られて泣いている。その泣いているお姉ちゃんを見て、側にいた妹もいつの間にか泣き出す。お姉ちゃんの行動を見て、妹の感情が動いたのである。普通の考えでは、目の前の出来事を見て、まず悲しみや怒りや不安や恐怖などの感情が湧き上がってくる。つぎに、その感情に基づいて逃げるという行動を選択するという順になる。ジェームズ・ランゲ理論では、それは反対だという。逃げるという行動によって、悲しみや怒りや不安や恐怖などの感情が湧き上がってくる。行動が先で、それに基づいて不安や恐怖が発生しているというのである。ここで注目したいのは、問題ある出来事を見て、積極的、前向きに行動した場合は、不安や恐怖の感情は発生しないということです。普通私たちは、些細な不安や恐怖にとりつかれて取り除こうとするか逃げ回ります。精神交互作用でどんどん膨らませてしまうという特徴を持っています。そのような時、意識して積極的、前向きな行動をとると、不安や恐怖に振り回されないようになるということです。このことに注目すると、どのように行動するかは極めて大切になります。その一つとして顔の表情筋を利用する方法があります。顔の表情筋には、笑筋、頬筋、咬筋など実に32種類あるそうです。これらを組み合わせて、笑顔、喜び、感謝、思いやり、イライラ、不安、怒り、悲しみ、嫌悪などの表情を作り出しています。笑顔や嬉しさや喜びの場合は、口を開き頬を上げています。顔が全体的に開放的に広がっているはずです。そして顔が上向きになっています。逆に怒り、腹立ち、嫌悪、イライラの場合は、眉間にしわが寄っています。全体的に顔が縮こまっています。そしてどちらかというと、肩を落とし頭を下げています。不安や怒りで一杯の時、トイレなどに行って笑顔の表情筋の体操をするのです。これ以上ないくらいの笑顔の表情を作り10秒間キープします。つぎに5秒間弛緩させます。そしてまた笑顔の表情を作り10秒間キープします。これを5セット繰り返します。これらの表情筋を鍛えれば鍛えるほど、感情のコントロールがある程度はできるようになり、些細な感情に振り回されなくなります。関心のある方はぜひ取り組んでみてください。(小さなことで感情をゆさぶられるあなたへ 大嶋信頼 PHP 89ページ )
2022.01.02
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森田先生のお話です。人生観の第一の条件とする観点を、何に置くかということについて、自分の気分を第一におこうとするものを「気分本位」というのである。「気分本位」というのは、人生の事実・実際を無視して、いたずらに自分の気分を標準にして考えるものである。気分本位はマイナス感情に従う態度のことです。人間は、初めてやることに対して不安を感じる。以前に挑戦して苦労したことに対しては、予期不安を感じる。辛そう、気が進まない、面倒、嫌な思い、しんどい思いをしたくない。そのようなマイナス感情が湧き上がってきたとき、その感情に従う態度である。気分本の態度は一時的には安どの気持ちを味わうことができる。行動しないで、観念の世界にどっぷりと漬かることになる。暇を持て余すようになる。時間をいかに上手につぶすかが人生の目的になる。自然に湧き上がってくるマイナス感情は無くしてしまうことはできない。それは人間に「精神拮抗作用」が標準装備されているからだと思う。欲望や欲求の裏返しとして、必ずそれを制御するマイナス感情が生まれる。この2つは必ずセットになっている。そのことを理解していないと、気分本位に流されてしまう。私は大学卒業後に訪問営業をしていた。書籍の飛び込み営業である。これは難しい仕事である。ノルマに追われ、なかなか成果が出ない。断わりが多くなると、自分の存在が否定されているように感じられた。3Kの仕事よりも、さらにつらい仕事のように思えてきた。「どうせうまくいかないだろう」「どうしてみんな冷たい態度をとるのだろう」「嫌だ、こんな仕事はしたくない」「お医者さんのように病気を治すと感謝される仕事もある」「困った人を助けて感謝されるような仕事を探した方がよい」などとエスカレートしていった。気分本位に振り回されて歯止めが効かなくなる。遂に失意のうちに退職した。今振り返ってみると、気分本位に流されないためには、自分の本来の欲望や欲求から目を離さないことだと思う。この出版社には、有名な国立大学や私立大学を卒業して、どうしてこんな仕事を選択したのだろうという人たちがたくさんいた。送られてくるOB会名簿を見ていると、この仕事を貫いて定年退職を迎えた人が多数いらっしゃることが分かった。この人たちと私の違いは何だったのか。私はこの会社に就職した時の目標や希望を見失って、気分本位に振り回された結果であると思う。飛び込み営業はどうしてもつらい場面が多くなる。本来の目的を忘れてしまうと大変なことになるのだ。この仕事を天職としてとらえて、目標や夢を追い続けた人とは天と地の違いとなってしまった。森田理論を学習して、不安は欲望がある限りなくならない。不安は欲望が暴走しないように制御してくれている。不安はありがたい存在だ。でもその取扱いを間違うと惨禍をもたらす。不安に振り回されて、かかわりを持ちすぎると神経症になってしまう。本来の欲求、欲望、課題、目標、希望や夢を見失ってはならない。目標を見失わないためには、模造紙に書いて壁に貼っておく。一時的には、いくら横道にそれてもかまわないが、いずれは本線に立ち返ることが大切であったのだ。後の祭りだったが、そのおかげで森田理論にたどり着いたともいえる。捨てる神があれば、拾う神ありだと思う。不本意ながらも今はこれでよかったのだと思う。
2021.11.18
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森田先生は、幼い頃より好奇心旺盛な人であったという。奇術・奇跡・迷信などにも興味を持ち、呪咀・卜占・骨相・人相などの本も読み漁った。自ら筮竹をひねり。易者になるのではないかと父を心配させたこともあった。ある日、飼っていたニワトリが逃げた。森田先生はニワトリを追うことよりも、「なぜ逃げのか」に興味を抱き、しきりにオリをチェックしていぶかっていたそうである。これは父親の影響も大きい。父親も、飼っていた蚕が病気になると、他の蚕に桑を与えることを忘れて、病気の解明に熱中していたという。森田先生は患者をつれて、夜店をひやかして回ったそうである。手品師が手品をしてみせて、「種を明かすことができる人がいれば、道具をすっかり進呈する」というのを聞き、何日もその男のしぐさを観察し、種明かしをしてみせ、道具をもらってくることもしばしばあった。両手を切断した不具の芸人が、足で字を書いたり、口で竹を割ったり、色々な芸をするのを不思議がり、病院にまでわざわざ招いて芸をやらせ、患者とともに練習することがあった。その他、熱湯に手を突っ込むという芸をみて自分でも実験されている。55度の温度では2秒しか耐えられない。23度の水に1分間手を浸して、その後挑戦すると4秒になった。0度の冷水に30秒手を浸した後では、熱さを感じず、6秒耐えた。手を変え品を変えて様様な実験を繰り返した。熊本の五高時代に、新聞で幽霊屋敷の話を読んで、幽霊屋敷の探検を思いつく。昼間下見をし、情報を確認して、夜中に一人で探検している。その詳細は文章として残されている。関心や興味、好奇心のあることに対しては、バカげたことと排斥するよりも、自分の目で確かめる、行動や実験によって真偽のほどを見極めるという姿勢が貫かれているのである。森田療法を生みだす前に、あらゆる療法を試している。腹式呼吸、内観法、催眠術、暗示療法、生活正規法、説得療法、臥褥療法などを確かめられている。自分でこれはよいと確認したものでないと、治療の選択肢から外している。これは森田療法の治療方針にもなっている。神経症と格闘している人に対して、日常生活の中で、ほんの小さな興味や関心、好奇心に従って行動してみる。そうすると、感情が流れていく。行動に弾みがついてくる。生活が充実してくるにつれて、頭の中の大半を占めていた神経症の葛藤や苦悩の比率がどんどん小さくなっていく。症状は気になるが、それに振り回されるということが少なくなる。その時点に達すれば、主観的には納得できないかもしれないが、第三者から見ると、神経症を克服してきたと言える。そうなれば、森田理論学習によって、神経症の成り立ちやからくりを勉強していく。さらに森田理論を深耕していく。自覚が深まれば、残された人生を楽しむことができるようになる。森田理論によって人生観を確立した人は、再発することはない。考えてみれば、神経質性格者はとても好奇心が旺盛である。それは心配性であるという性格が関係している。つまり普通の人よりは、感じる力、別の言葉でいえば、感性が鋭いということだと思われる。それを自分の強みとしてとらえて、実際に活用して行けば、森田先生のようになるということだと思います。
2021.10.29
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それでは、「条件反射制御法」の実際についてみてゆきましょう。たとえば、人を見ればつい悪口を言ってしまうという「癖」を治したければ、「私は今、人の悪口を、言わない、大丈夫」と言いながら、最初に胸に手を当て、つぎに離して拳を作り、その後、親指を拳に握りこむ等の、簡単で特殊な動きをします。これをすることで、「ハマり」行動を意識、その精神活動の一部が作動し、大脳が刺激を受けます。この言葉付きの動作を「制御刺激」と呼びます。初めのうち、「制御刺激」をすると大脳は刺激を受け、「ハマり」の行動に向かって「第一信号系」の反射連鎖が作動します。しかし、「制御刺激」は意識的に行っているので、その「ハマり」行動を成功させません。失敗させるのです。定着していたある行動を司る「反射連鎖」を作動させ、しかし、失敗させることを反復するのです。そうすると、失敗する行動は進化を支えないので、徐々に弱まっていきます。そのうち、「制御刺激」をすると「ハマり」行動が止まる合図となります。つまり「ハマらない」条件付けができます。以後は、「ハマり」行動への「欲求」が生じても、条件付けされた「制御刺激」をすることで「欲求」が数秒で消え去るようになるのです。信じられないかもしれませんが、1日に20回以上、この作業をすれば、ほとんどの人は2週間ほどで、「制御刺激」とその後の「反応」が脳に条件付けられます。1日20回、「制御刺激」を行うわけですが、「制御刺激」と次の「制御刺激」まで、20分以上の間隔をあける、というルールがあります。つぎに注意点について説明します。1、「ハマり」行動をやめたいという希望や誓い、念じるものにはしません。「私は今、飲みに行きたくない、大丈夫」とか、「私は今、確認行為をしないようにしよう」とか、「私は今、キレませんように」はダメです。2、「制御刺激」の言葉は、自分が「ハマり」行動ができない環境にいることの確認、少なくともそれをしていない事実を確認するものにします。たとえば、「私は今、ガスの元栓の確認行為をしない、大丈夫」「私は今、アルコールは飲まない、大丈夫」「私は今、キレない、大丈夫」などです。3、もっともドキッとする「言葉」を探し、キーワードに選びます。「私は今、暴言をはかない、大丈夫」よりも、「私は今、上司であるAさんに暴言をはかない、大丈夫」の方がベターです。4、不安や心配ごとにとらわれている時よりも、比較的ほっとしている時間に「制御刺激」をすることです。ご飯を食べた後やきれいな景色を見ている時、友達から優しい言葉を言われたとき、犬と散歩している時、などです。5、「制御刺激」の言葉には、「私は」「今」「大丈夫」を必ず入れるようにしてください。6、「制限刺激」を行うときは、必ず目を開いて行ってください。第一ステージは以上です。ここでは要点のみを紹介しました。病院で治療として行う場合は、疑似と呼ばれる第二ステージ、想像といわれる第三ステージ、維持といわれる第四ステージがあります。ここでは詳細の説明は割愛します。くわしくお知りになりたい方は、下記の書籍をお読みください。(「やめたいのにやめられない 悪い習慣 をやめる技術」 小早川明子著 平井愼二監修 フォレスト出版)神経症で苦しむような人は、不安にとりつかれて生の欲望の追及は抑圧されるといわれます。しかし、その反動なのかどうかわかりませんが、ギャンブル、アルコール、ネットゲーム、過食、罵詈雑言、風俗などにはまる人も多いように思います、本能的な衝動的な行為に振り回されることがあるという自覚のある人は、その対策をしっかりと立てておかないと、森田以前のところで足もとを掬われてしまうということになりかねません。
2021.10.18
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今日はイヤな気分に振り回されない方法を考えてみたいと思います。本などを読んでいて、眠いなと感じると、すぐに横になって寝てしまう人がいます。私も昼食後、横にはなりませんが、机の上に頭をのせて20分から30分くらい仮眠をとります。また車の運転中に眠くなると、すぐにサービスステーションや空き地に車を止めて、仮眠をとります。仮眠をとると、眠気が取れて新たな気持ちで運転できます。時間的には20分以内です。それとは別に、会社が休みの日に、家の中にいると、昼間、急に眠くなることがあります。その気持ちのまま横になって1時間くらい寝てしまうことがあります。夜は6時間から7時間くらい、十分すぎるほど寝ているのに、どうして昼間睡魔が襲ってくるのでしょうか。睡魔が襲ってくるときは、精神が弛緩状態にあるときだと思います。休みの日にやるべきことに取り組んでいると、あっという間に時間が経ちます。これは精神が緊張状態にあるときです。精神が弛緩状態に入るとそういうわけにはいきません。特に急いでやるべきことは何もない。なんとなくテレビをつけてみている。本を読んでいても難しい本や興味のない本の場合は、緊張感がなくなり、その隙間を埋めるようにして、睡魔が忍び込んでくる。やけに体がだるいな、眠くて仕方がない。このままでは何も手につかなくなる。仮に手を出しても集中できない。その気持ちを大事にして、少し眠って、睡魔を取り除いて、すっきりして次のことに取り組むことにしたい。そういう気分に促されて横になってしまうのです。このように思うことは、もっともな考え方のようにみえます。森田理論では、こういう考えは気分を中心とした考えであり、気分に振り回されている態度あるといいます。森田先生は気分本位の態度はよくないといわれています。気分というのは「よい気分」と「悪い気分」があります。よい気分の時は、好奇心が強まり、興味や関心が高まり、ドパミンが出続けている状態です。ギャンブル、薬物、アルコール、ネットゲーム、睡眠、グルメ、買い物などに取り組んでいるような時です。気分本位の人は、良い気分についのめりこんでしまう傾向が強いようです。気が付いたときは完全に依存症に陥り、自分一人では抜け出すことができないことになります。悪い気分が湧き上がってくると、対処しなければならない問題点や課題があっても、回避してしまいます。予期不安が湧き上がってくると、右往左往するばかりで何ら対応しない。昼間睡魔が襲ってくると、その気分のままに横になって目が覚めるまでいつまでも寝ている。気分というのは感情ですから、人間の意思の自由はありません。しかしよい気分、悪い気分が湧きあがってきたときにどう対応するかという自由はあります。よい気分の時は、その感情が暴走しないように制御する必要があります。自分一人では制御できない場合は、他人頼んで制御してもらうことが有効です。いつまでものめりこむというのは、ハツカネズミがいつまでも糸車を回し続けているようなものです。本能的に行動しているだけで、行動自体にはほとんど意味はありません。悪い気分の場合はどうするか。森田理論に「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり」という言葉があります。昼間横になって寝てしまいたいと思った時、そのまま寝てしまうのは芸がありません。そんなときは心機一転、身体を動かすような別のことに取り組むようにするのです。同じことを続けていると、疲れがたまると同時に飽きがきます。つまり精神が弛緩状態に切り替わってくるのです。それを意識して切り替えてやればよいのです。別の課題に切り替えると、精神が緊張状態に切り替わり、気持ちの張りが生まれてくるのです。人間の生活は常に緊張状態と弛緩状態をくり返しています。その波に上手に乗って生活を維持することが大切になります。
2021.10.13
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自動車であおり運転をする人が増えています。気に入らないことがあると、すぐに切れて仕返しをするのです。怒りや恨みが暴走して自分一人では制御できなくなるのだと思います。問題行動は、あとでいくら後悔しても、元に戻すことはできません。傷害事件に発展すると、テレビ放映され、家族や親戚にも迷惑が掛かります。腹が立っても、しばらく我慢することが身を守ります。でもなかなか難しいのが現状です。この感情の暴走の原因は、食べ物にあると指摘している人がいます。ひと言でいうとミネラル不足が問題だといわれているのです。現代人はミネラルの摂取量が4分の1にまで減少しているそうです。ミネラルというのは、マンガン、マグネシウム、アルミニウム、ニッケル、鉄、カルシウム、銅、ナトリウム、亜鉛、塩素、コバルト、ヨウ素、硫黄、スズなどのことです。コンビニや薬局で、これらミネラルが、そのものズバリの名前で、販売されているのを見たことがあるかもしれません。私たちが怒ったり、興奮したりすると、左右の腎臓の近くにある副腎髄質からアドレナリンというホルモンが分泌されます。相手を攻撃したり、物を壊したりといった凶暴な行動に出るときは、大量のアドレナリンが血中に放出されているのです。そのアドレナリンの分泌を抑えてくれる働きが、ミネラルにあるのだそうです。これはネズミの実験によって証明されています。餌の中にミネラル成分を抜いたネズミの方は、凶暴になり、仲間同士で齧り合って、耳が取れたり、尻尾が切れたりしました。感情の調整が制御不能に陥ってしまうのです。飼育ケースの中を掃除するために人が手を入れると、一斉に群がって噛みついてくる。一方、ミネラル成分を与えられていたネズミの方に異常は見られず、ずっと穏やかで安定していたそうです。こうした現象が、人間にもみられるようになってきたのではないでしょうか。伝統的な日本食をしている人は、豊富な旬の野菜、小魚、青魚などからミネラルを摂取してきたのです。ところが最近は、外食、肉を中心とした洋食、スナック菓子、ファーストフード、清涼飲料水が多くなりました。どうしてもミネラル不足に陥ってしまいます。さらにふんだんに野菜を取っていても、今の野菜は窒素、リン、カリウムという三大栄養素だけの化学肥料で作られているのです。単一作物の大規模産地化された農地で作られているので、ミネラルの少ない野菜がほとんどです。その証拠に昔のトマトはミネラルを豊富に含んでいたため、水の中に入れると沈んでいました。ところが、今のトマトはぷかぷかと浮いているのです。現代はこの問題を解消するためには、サプリメントに頼るしかないのでしょうか。とても情けない話です。私はささやかながら自給菜園で様々な野菜を育てています。刈り取った草を集めて、米ぬか、牛糞、鶏糞、発酵材を混ぜ合わせたい肥を作っています。これを畑にまいて畝をたてるようにしています。畑がどんどん肥沃になっていくのを見ることはうれしいです。こうするとミミズが沢山増えます。多分微生物が豊富なのだと思います。こうして少しでもミネラル豊富な野菜を作りたいためです。自家用野菜つくりは、趣味と実益を兼ねた素晴らしい森田実践だと感じています。そういうYou tubeチャンネルがありますので、ぜひ参考にしてください。(いのちと心のごはん学 小泉武夫 NHK出版 96ページ参照)
2021.10.08
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不安のターゲットを一つに絞り、それにのめりこみ、格闘することで神経症が発症します。精神交互作用が強力に後押しして、アリ地獄の底に落ちてしまうと、自分一人では身動きがとれなくなります。逆に言えば、神経症に陥らないようにするためには、一つの不安に関わり合うことをやめて、広く浅く多くの不安に平等に関わり合うという姿勢を維持すればよいということになります。たとえば、対人恐怖症の人は、学校や会社で人の思惑ばかり気にしています。全神経を他人が自分をどう取り扱うか、どう取り扱ったかに集中しています。非難、否定、叱責、からかい、バカにされる、無視されることをものすごく警戒しています。他人の評価に一喜一憂しているわけです。それが生きていることのすべてになっています。考えてみてください。このとき他のさまざまな不安は全く蚊帳の外になっていませんか。たとえば、奥さんの仕事や家事の悩み、子供とのふれあい、親の健康状態、近所付き合い、仕事の問題や課題、家の掃除、洗濯、整頓、車の洗車、家の修理、畑の手入れ、集談会の手伝いなどに神経が向いているでしょうか。そんな不安にも平等にかかわりあっていれば、神経症にはならないと思います。自分の状態が、対人恐怖症で最悪の時に、そんなことに関ることなんてできないでしょうという人が多いのではないでしょうか。ふとん上げも奥さんにやってもらっているという人は最悪です。正直なところ、これは症状で苦しんでいた時の自分です。実はここで大きな認識の間違いをおかしているのです。悩んでいる本人は、対人的な不安に全エネルギーを集中して、不安を無くしたり、軽減させることが、何はさておき、一番肝心だと思っています。それ以外のことは考えられない。この方向は、対人恐怖症がなくなるのではなく、ますます取り返しのつかない迷路にはまり込むことになるのです。普通に生活している人は、不安は次々に沸き起こってくるようになっています。「浜の真砂は尽きるとも、不安の種は尽きることなし」と言われるように、不安や恐怖、違和感、不快感が湧き起こってこなくなったとしたら、それはまともな人間とはいえません。不安の取り扱いを少し変えるだけで、神経症とは無縁になります。それは一つの不安にとりつかれて、悪戦苦闘する方向ではありません。むしろその不安を掘り下げないで、それを抱えたまま次の不安に飛び乗っていくことです。そんな調子で次から次へと湧き上がってくる不安に飛び乗っていく。そして解決可能な不安には、その都度手を付けて処理する。手ごわいなと思ったら、その不安をメモしておいて、いったんは保留にする。あとで時間があったら、考えてみましょうという気持ちでよいのです。ここで肝心なことは、不安はたくさん湧き上がってくるので、いちいち引っかかっていては身が持たないと認識することです。その方向を目指すと容易に神経症をおびき寄せます。とにかく一つの不安にとらわれて、それを深堀してしまうことが問題なのです。時間はどんどん流れていきます。年配の人はお気づきだと思いますが、年を取るにしたがって、1年という時の流れはどんどん早くなります。今後20年か30年か、どれだけ生きられるか分かりませんが、いづれにしてもあっという間です。「夏草や 強者どもが 夢の後」という俳句がありますが、一つの不安に格闘していくよりも、次々に現れては消えていく不安に次々と飛び乗って、生活を前進させて、人生をより深く楽しむ方が有益ではありませんか。もし認識違いをしておられる方がいらっしゃいましたら、早めに認識を改めましょう。森田は意識化された症状を、水に流して無意識化させる理論になっているのです。
2021.09.14
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生活の発見誌に水谷啓二先生の記事がある。私どもは人生の向上的欲望に対して、つねに心がけ、あこがれながら、その目的を見失わず、焦るでもなく悲観するでもなく、その現在の及ぶかぎりのベストを尽くしている。これが「現在になりきる」ということの自然の状態である。しかもそのときには、自らは努力も苦痛も超越してこれを感じない。意識しないのである。これは、「生の欲望の発揮」のことである。森田理論で最後に行く着く先は、「生の欲望の発揮」であるといっても過言ではない。森田理論で神経症を克服し、さらに神経質性格者としての人生観を確立した人は、日常茶飯事に真摯に取り組み、課題や目標、夢や希望に向かって努力精進されている。つまり「努力即幸福」の世界に身を置いて、悔いのない人生を満喫されているのである。これは言うは易し、行うは難しという側面がある。2つの原因がある。一つは気分本位の態度に流されてしまうことです。もう一つは、観念優先の態度が事実を否定してしまうので、その出発点に立つことを拒んでいのである。この2つを排除できれば、「生の欲望の発揮」という出発点に立てることが可能になります。オリンピックで予選を勝ち抜いて、出場権を獲得するようなものです。出場権を得たからと言ってもメダルを獲得できるわけではありません。さらに過酷な戦いが待っています。でも、スタート地点に立てたということに大きな意味があるのです。今日は気分本位について考えてみたい。気分本位の態度は、しんどいことは避けたい。予期不安があるときは何もしない。乗り越えなければならない壁が立ちはだかると、すぐにやめてしまう。つまり、無駄なエネルギーを使わないで、休みたい、楽をしたい、さぼりたいという態度です。できれば本能的な快楽を味わって生きていきたいという考え方に流されています。これに流されると人生は堕落してしまうと考えています。気分本位に流されそうなときは、過去の経験を振り返ってみることをお勧めします。たとえば我が家から1時間ぐらいの山を登るハイキングコースがあります。出かける前は、運動になりよいことは分かっているのですが、いざ出かけようとすると気分本位が足を引っ張ります。そういう時は、過去の経験を思い出すのです。ひと汗かいた後の達成感、爽快感。頂上から見た美しい景色。貨物列車や瀬戸内海を眺めていると、悠久の時の流れを感じます。また、桜、さつきなど季節の花々に癒されたこと。鳥の鳴き声に癒されたこと。岩場に這いつくばって生えている松の枝の生命力に勇気をもらったこと。神社やお寺にお参りできたこと。最初は億劫でも、最後はイヤイヤ出かけたことが結果としてはよかったのだと思えるようになっていたのです。楽器の練習もそうです。最初は億劫でも、みんなと会えて話ができたこと。合同練習でいろいろなことを教わったことなどが思い出されて、出かけてよかったと思うことばかりです。気分本位は、過去の成功体験を思い出して、最初はおっくうなままに行動することです。そうすれば弾みがつきますし、時間の流れの中ですぐに気分本位は姿を消す運命にあるのです。是非体感してみてください。
2021.08.31
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8月10日の投稿の続きです。この投稿では本音と建前が一致していないと、無理やり行動してもよい結果に結びつかない。それは、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質が、「やる気の脳」といわれる側坐核や前頭前野を刺激して、機能不全に陥るからです。実働部隊が後ずさりしているような状態です。逆にドパミンという神経伝達物質が多く出るようになると、脳全体が自分の行動をアシストしてくれるようになる。少々困難なことでも勇気100倍になり、失敗をもろともせずに成功するまで挑戦することができるようになります。ダメだ、自分には無理だ、能力不足だというよりも、どうしたら目標に近づくだろうかという未来志向的な脳に変身しているのです。努力即幸福という森田理論の考え方を実践しているわけですから、周りから見ていてとても好感が持てます。周囲の人に感動を与えます。どうすればドパミンがより多く出るような脳になるのかを考えてみたいと思います。現在普段の生活の中で愚痴や否定的な感情や気持ち、自分や相手を非難する感情や気持ちがどれぐらいの割合で湧き上がってきていますか。部下や配偶者や子供を叱責する。友達を軽蔑する。無視する。腹を立てる。避ける。自分に対しては、ダメ、できない、無理などの愚痴を言うなどの感情や気持ちです。もし否定的、非難するような感情ばかりが数多く湧き上がっているとすれば、これは大きな問題ではないでしょうか。ノルアドレナリンが脳を支配しているというのは、親のしつけや子育ての影響があると思います。それが現在の生き辛さになっているのです。でも今更親を恨んでもどうしようもありませんね。自分が苦しくなるばかりです。別の方法を考えてみましょう。これを改善するために一つの提案があります。愚痴を言いたくなったとき、否定的な感情や気持ちになったとき、自分や相手を非難する感情が湧き上がってきたとき、まずは「あっ、また来たな」とその気持ちをしっかりと受け止めるのです。意識するということです。認識したら、それをもとにした言動はできるだけ慎むように気を付けるのです。次に、自分の周りには、とりとめのないことで感謝すべきことはいくらでも転がっています。たとえば、「今日も元気に目覚めてありがたい」「今日も食事がとれてありがたい」「今日も元気に歩けてありがたい」「花が綺麗に咲いてくれてうれしい」「畑に野菜がいっぱいできてありがたい」「汗いっぱいになったがシャワーを浴びて気持ちがよかった」「トウモロコシやスイカがおいしかった」こうした小さな取るに足らない出来事をできるだけ大きく喜ぶようにするのです。それを「今日の3つの感謝」として日記に書くというのは如何でしょうか。次に目の前のことを肯定的に見るようにするのです。ダメ、無理、できない、難しすぎるという言葉は封印することが大事です。やたらと愚痴を周りの人に吹聴するのも差し控えましょう。もしネガティブな言葉がでたら、「ちょっと待て」をキーワードにすることです。いきなり肯定できなくても、形だけでも「大丈夫、なんとかなるはず。ダメで元々、成功すればもうけもの」と口にすることです。形から入るということですが、これは意外と大きな効果があります。現状を認めて受け入れ、希望を見出だすことができれば、多少なりともドパミンが出てくると思います。ここが肝心なところです。たとえば、私は麻雀が好きですが、配牌を見た瞬間、これはダメだとイライラすることがあります。勝負を楽しむよりも、「なんでこんな配牌なんだよ」と否定して憂うつになっているのです。しかしよく考えてみると、点数の高い役満というのは、悪い配牌の中から生まれてくるのです。こういうときは、嘆き悲しむのではなく、それを逆手にとって、プラスに受け止める。思い切ってそちらのほうを狙って勝負することを考える。途中で相手がリーチをかければ、そのときは悠然と撤退を考えれば、振り込むということは少なくなります。そういう戦法をとるとたまにですが、大きなあたりが来ることがあります。それは望外の喜びとなるのです。最初から配牌の悪さを嘆いていてばかりでは、自分がみじめになるだけです。困難な状況の中から、発想を変えて、小さな希望を持つ。そして事実を肯定的に解釈するという態度になれればよいと思うのです。事実は同じことでもどう解釈するかが、その後の展開を大きく左右します。愚痴、否定、非難の言葉を、承認、肯定、感謝の言葉に置き換えるという意識で生活していると、多少なりともノルアドレナリンが減少し、ドパミンが増えるように感じています。これが人生を楽しみ、何事にも挑戦する勇気をもたらすのだと思っております。こういう生き方を身につけた人に、数多くの幸せが近寄ってくるのではないでしょうか。これをキャッチフレーズにして、机の前に貼りつけて、日々努力して習慣化する。すると、生産的、建設的、創造的な味わい深い人生に変化してくるはずです。
2021.08.15
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プロ野球で、ツーアウト2、3塁で、バッター8番という場面があったとします。次9番バッターがピッチャーで、状況から考えて代打はあり得ないとき、ベンチから申告敬遠で満塁策を指示される場合があります。ピッチャーは打てないだろうから、得点は入らないだろうと誰もが考えるのです。たしかにピッチャーはバッティング練習を本気でしていないので、そういうケースが多いようです。ところが対戦するピッチャーの心理は複雑です。普段通りの心理状態であればよいのですが、万が一という感情に支配されるとパニックになります。アウトをとって当然の場面では、「これでチェンジになるだろう」と、守っている味方選手もベンチも、そしてファンも信じて疑わない。ピッチャーは、みんなの期待を一身に背負って、「何が何でも抑えなければならない」という気持ちが強くなるのです。これが大きなプレッシャーとなり、精神的に大きな負担となるのです。そういう気持ちが前面に出てくると、ここはなるべく慎重に投げようと思うようになる。必要以上にコーナーを狙ってみるようになる。ストレートにしようか、それとも変化球にした方がよいのか配球にも悩むようになる。疑心暗鬼になり、自分が信じられなくなるのです。もう一人の自分が、パニックに陥っている自分を否定するようになるのです。すると手元が狂ってなかなかストライクが入らなくなる。ボールが先行すると、その不安はますます高まる。3ボールになると、パニックになります。自分のふがいなさを嘆くようになると始末に負えない。1割にも満たないバッターでも、偶然にあたる事はあるはずだ。ポテンヒットを打たれたら、たちまち2点はとられてしまう。フォアボールで押し出しになると目も当てられない。監督、コーチ、ファンに合わせる顔がない。叱責される。ヤジられる。つまり精神交互作用でネガティブな考えが次々に頭をよぎる。こうなると頭で考えていた最悪のシナリオが、現実のものとなる可能性が高まります。これだけは絶対に避けなければいけないと思っていることが現実になるのです。何とも歯がゆいことですが、最悪の事態を自分自身が引き寄せているのです。最悪の現実を目の当たりにして、やはり自分の見立ては正しかった。以後、怖気づいて、バッターとの駆け引きを忘れてしまうと、どうにも止まらなくなります。この心理状態は、どんな仕組みになっているのか。この現象は脳の仕組みを観察するとよく分かります。ネガティブな感情や気持ちは、まず扁桃体に入ります。扁桃体は、神経伝達物質のノルアドレナリン等を使って、不安や恐怖の情報を脳全体に伝えます。すると「やる気の脳」と言われる側坐核の機能が上がらなくなります。沈黙するのです。さらにプラスの行動をとるために、本来なら全力で試行錯誤を繰り返している前頭前野も機能停止になります。一大事の時に休眠状態になっているのです。自分はなんとかしなければと思っていても、脳が機能不全を起こしているのでどうすることもできないのです。脳全体が、委縮して、慌てふためき、放心状態に追い込まれているのです。これでは成果が上がるはずもありません。もしこの時、「よし、この状況では何とかチェンジに持ち込めるぞ」というポジティブな感情や気持ちが湧き出たとしたらどうなるか。この場合は、神経伝達物質としてドパミンがどっと出ることになります。それはまず「やる気の脳」である側坐核に届きます。自信に満ちて、おのずからモチベーションが上がります。ピンチになると、本気モードになって、エンジンのギアが一段階上がるという選手がいますが、この部分が活性化しているのです。その情報は直ちに脳全体に伝えられます。特に前頭前野に伝えられて、その活動が旺盛になります。前頭前野は打者を打ち取るための方策をあらゆる角度から分析します。いくつかの選択肢からこれぞと思うものを、捕手と相談しながら選択します。あれこれ迷わず、これで勝負という建設的で前向きな気持ちになります。このように脳が緊急事態に当たり、総力を挙げて自分に協力してくれる訳ですから、火事場の馬鹿力がでてくるという仕組みになっているのです。最初にネガティブな感情や気持ちが湧き出てしまうと、最初からおよび腰になります。反対にポジティブな感情や気持ちが湧き出てくると、やる気に火がついて勇気百倍になります。でもこれは意志の力だけではどうにもなりません。そのためには、森田では形から入ることをお勧めしております。形から入るということは、普段から愚痴や否定語を使わないで、希望的な肯定語を使うように心がけていくのです。これを習慣化していくことが肝心です。一大事の時に、ドパミンが湧きだしてくるような仕組みを作り上げていくのです。これはピンチになればなるほど、効果が出てきます。例えば、自分に次のように語りかけるのです。「大丈夫。大丈夫。相手は9割の高い確率で凡打する。それは何よりもデーターが示している。掲示板を見ると打率が1割にも達していないではないか。自分は140キロ以上のストレートを投げることができる。スライダーも鋭く曲がっている。今の自分の力を持ってすれば抑えられるはずだ。自分の力を信じて、ここは腕を思い切り振って勝負してみよう」何の根拠があってそんなことを言うのかではまずいのです。自分は自分の最大の味方であって、どんな事態になっても、見捨てないで応援し続けるという気持ちが大切になります。このように自分と対話すれば、大事に至らない可能性が高まります。仮に失敗しても、自分を否定しないので、早く気分の切り替えができます。そして次の投球に専念できるので、勝てる機会が増えてくるのです。この脳のからくりは、神経質者も心得ておくといざというときに役立ちます。
2021.08.10
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スティーブン・R・コヴィー氏の言葉を紹介します。人は、物事をあるがままに、つまり客観的に見ていると思い込んでいるのが常である。しかし私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに(条件づけされたままに)世界を見ているのだ。物事を説明しようとすると、それは結果的に自分自身、自分の知覚、自分のパラダイムを説明しているに過ぎない。そして自分の意見に相手が賛成しないとなれば、すぐにその人が間違っていると思ってしまう。しかし、この演習から学べるように、誠意がありかつ知力に恵まれた人たちでも、それぞれの経験というレンズ(パラダイム)を通じて、同じ事実について異なる見方をするのである。これは、事実が存在しないということを意味するのではない。演習の中で違う条件づけを受けた二人が合成した絵を一緒に見る場合、その二人ともが同じ事実を見ているのだ。すなわち、黒い線と白いスペースである。二人ともこの事実は認めるが、その事実をどう解釈するかは過去の経験によって決まるということなのだ。そして、事実そのものは、この解釈を抜きにすれば何の意味もなさない。自分の持っているパラダイムとそこからもたらされる影響を意識すればするほど、自分のパラダイムに対する責任がとれるようになる。つまり、自分のパラダイムを現実に擦り合わせ、ほかの人の意見やパラダイムに耳を傾け、より客観的で完成されたものの見方ができるようになるのだ。(7つの習慣 キングベア出版 23ページより引用)ここでパラダイムという言葉は「価値観」に置き換えて読んでみてください。目の前の事象を見た場合、人それぞれ異なった過去の経験や習慣、見方や考え方のパターンに強く影響されて見ているのだと指摘されています。事実を事実のままに見ると言っても、頭で事実を解釈しようとしなければ事実は見えてこない。事実を見つめて主体的に解釈することで、初めてその事実は意味のあるものになる。解釈することで、新たな感情が生まれてくると言われているのです。その感情に基づいて、対応策を考えて、実践するようになるというのです。問題は事実観察を怠り、解釈に重きを置くと、事実とは違うものを事実として信じ込むようになるということです。これは基本的に森田理論の考え方と同じです。森田では目の前の事象をよく観察することで、気づきや発見が生まれてくるといいます。それに基づいて意欲的に行動を開始する。しかし、人それぞれ一つの事実に対して独自の解釈をしているということは、人が10人いれば10通りの解釈が発生する。その解釈の違いが人間関係に影響を及ぼします。場合によっては、他人の解釈を否定、非難、無視することになる、それを前面に出すと、人間関係はすぐに悪化してきます。事実の解釈や評価の違いによって、生きづらさを抱えてしまう事になるのです。自分の解釈が絶対的なものだと思う事は、大きな間違いだということです。他人の解釈を謙虚な気持ちで聞いてみるという姿勢を維持することが大切です。では事実に対してどう対応すればよいのか。まず人間は、事実に対して、解釈や是非善悪の価値評価をする生き物だと認めることが大切になります。次に、それは人それぞれで全く同じであることはあり得ないと認めることです。問題ある事実に対しては、事実をより深く観察する。できるだけ事実に近づく。そのうえで、人それぞれ価値観が違うという前提に立ち、すべての人が、自分の解釈や是非善悪の価値判断を述べあう。この段階では喧々諤々議論になるかもしれない。そうなった方がよいのです。その中から、最終的にはみんなで最善の方法を選ぶ。いったん決定したことは、少々不満であっても、みんなの意見に従って行動する。つまり妥協や協調性が欠かせないということです。
2021.06.25
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通勤途上で苦手な上司、同僚、異性を見つけた。電車の4人掛け椅子で見知らぬ人と同席する羽目になった。花見や会食の場でよく知っている人を見つけた。エレベータに乗ると苦手な人が乗っていた。朝のゴミ出しに行くと、不愛想な人と出くわした。こういう時、居てもたってもいられない、居心地の悪い感情が湧き上がってきます。このような状況に陥ったときどうするか。見て見ぬふりをして離れる。下車するふりをして、車両を移る。無視する。これで万事うまくいくのでしょうか。確かに一時的にはうまくいくでしょう。しかし次にまたこのような感情が湧きおこった時、同じような対応をします。イタチごっこになります。つまりこうした感情に対して、いつもやりくりをして逃れようとしているということになります。感情の事実をやりくりして楽になろうとすると、心身ともに疲れるだけです。また相手に負けたように感じて、自己嫌悪に陥ることもあります。こういうことが度重なると、なんとか対策を考えないといけないと思うようになります。つまり居心地の悪い感情に対して、その感情を避けるような工夫を考えようとするのです。こうした悩み相談が寄せられることがあります。この問題を森田理論で考えてみましょう。感情の法則では、感情は自然現象であるといわれています。天気や自然災害などと同じ自然現象だというのです。もともと人間の意志の自由が効かないものだというのです。このような居心地の悪い感情に対しては、仕方なくその感情を抱えたままにしておくしか他に方法はありません。イヤだなと思いながら会社に行く。いやだなと思いながら、本を読む。スマホを見る。寝たふりをする。軽いあいさつ程度をして、目の前の目的を果たしていく。この対応方法は、森田理論学習の中でしっかりと学んだはずです。ところが実際には応用・活用できていないということが問題です。居心地の悪い感情は、少し耐える、我慢することが鉄則です。時間が経ち、場面が変わればその感情は速やかに変化していきます。これも森田理論で学習しました。それを信じて従えば何ら問題は起こりません。少しの時間も耐えることができない。我慢できないという人は、幼児が駄々をこねているように見えます。今すぐに欲望が満たされないと、精神錯乱状態になって泣きじゃくる幼児と本質は変わりません。これも森田理論は理解できたが、応用・活用できていない場合があります。居心地の悪い感情に振り回されている人は、本来のなすべき目的のすり替えが起きています。つまり仕事をするために会社に行く。必要な場所に行くために電車に乗っている。食事や懇親会を楽しむ、ごみを出すという目的を見失っている状態にあります。こうした本来の目的の達成はどうなってもよい。それよりも居心地の悪い感情を消し去りたいという課題に注意と意識が向いている。森田理論ではこのことを手段の自己目的化と言います。本来の目指すべき目標をすっかり忘れて、別の目標を追い求めているのです。「二頭を追うもの一頭も得ず」という言葉があります。安易な目的のすり替えはあってはならないものです。ころころと目的や目標を変更していると、右往左往するばかりになります。迷路に入ってします。神経症を引き起こしてしまうということです。野球でもボールを投げる時には、最後までキャッチャーミットから目を離さないことが鉄則です。森田理論の感情の法則、生の欲望の発揮の注意点は実生活に存分に応用・活用することが大切になります。学習して分かったつもりで満足していては、実生活に活用できません。これは基本的には自分一人で身に着けることは難しいと思います。集談会に参加して、他人の援助を受けながら、軌道修正しながら、徐々に身に着けていくものです。何回も失敗しながら、そのたびに態勢を整えて、時間をかけて身に着けていくというものになります。習慣というのはコールタールが体にまとわりついているようなもので、自分一人の力で簡単に取り除くことは難しいのです。
2021.04.19
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集談会で劣等感と優越感について話し合いました。人は様々な劣等感を持っていることが分かりました。・ハゲてきた。歯並びが悪い。虫歯や歯槽膿漏で入れ歯をしている。・シミやソバカスが目立ってきた。しわが目立ってきた。・太っている。腹が出てきた。・顔立ちが悪い。鼻の形が悪い。・仕事ができない。遅い。うっかりミスが多い。・根気がない。何をしても3日坊主になる。・昔は勉強ができないことが苦痛だった。・鉄棒で逆上がりができない。・人には言えない持病を抱えている。・実家がみすぼらしい。・財産がほとんどない。多額の借金がある。・車の運転ができない。・生活保護を受けている。我々神経質者の特徴として負けず嫌いというのがあります。人と争って勝ちたいという気持ちがとりわけ強いのが特徴です。すべての面で相手を上回っていて、相手を見下ろすような人間でありたい。でも現実は理想通りにはいきません。すると、ことさら劣等感が目についてくる。絶えず自分と他人を比較して、劣等感の原因を探し続けているようなものですから、すぐに見つかります。それも2つも3つも見つかる。芋づる式に増えていきます。一旦見つけた劣等感を、寛容な態度で許容するほどの包容力はありません。なんとか人並みのレベルまでに引き上げようと悪戦苦闘するようになります。そのためにかなりのお金をつぎ込んでいる人もいます。経済的に生活が立ちいかなくなっても、劣等感を解消することの方がより重要だ。そうしないと気になって仕方がない。不安で不快な気持ちになっていたたまれない。とりあえず劣等感を無くさないと生きていけない。その次に初めて勉強や仕事、家事に手を出そうと考える。どうにもならないと思えば、今度はそれを隠すようになります。人前に出ることを控えるようになります。隠蔽工作や偽装工作をするようになるのです。これは対人恐怖の人が、精神交互作用で神経症の蟻地獄に落ちてしまうのと同じことです。森田理論は劣等感についてどう考えているのか。まず劣等感のない人はいないと思います。海があり山がある。谷があれば山もある。それが事実です。自然界はほとんど凸凹しています。劣等感と優越感の関係も同じです。まずそれを認めましょう。劣等感だけをことさらに拡大して敵視することは百害あって一利なしです。人より劣ったところがあれば、反対に人よりも優れたところがあるのが普通なのではありませんか。森田理論では、精神拮抗作用や不即不離の考え方で、バランスや調和の維持をことさら強調しています。劣等感に苦しんでいる人は、自分の長所や強みを棚卸する必要があります。いくら考えてもそんなものは一つもありませんという人がいます。でもあなたは、神経質性格を持っていますよね。細かいことによく気が付く、感受性が強い。これはあなたの強み、長所ではありませんか。神経質性格には、生の欲望が強い、反省する力がある。分析力がある。真面目で努力家である。責任感が強い。生の欲望が強い。これらのプラス面について考えたことがありますか。自分の強みや長所のことは評価しないで、劣等感ばかりに関わっていることはおかしくないですか。人間は強みや長所に磨きをかけて、勝負しないと負け戦になると聞いたことがあります。劣等感でひどく苦しんでいる人は、強みや長所もそれなりに大きなものを持っている。バランスや調和の考え方を推し進めていくと、その関係は正比例していると考えるべきです。劣等感で悩むときは、私には人が欲しくても手に入らない、とびぬけた才能や能力を持ち合わせているに違いないと信じる事です。そうでなければ、バランスを欠いて存在することさえかなわないのだと信じる事です。強みや長所の面に光を当てて、それを育てていくことが、劣等感に振り回されず、自己を活かすことにつながります。つぎに劣等感は悪いことだと決めつけていますが、必ずしもそうとは言い切れません。たとえば、イケメンで絶えず女性問題を抱えている人がいます。浮気や不倫で家庭が崩壊して、離婚に至る人も身近に何人もいます。本人たちが苦しむだけではなく、子供の成長に暗い影を落としています。イケメンでない人は、自分にそんな気持ちがあっても、もともと向こうから誘惑の虫が近寄ってこない。その時は、欲求不満になるかもしれないが、後で考えると3枚目だったため軽率な行動に歯止めがかかっていたのだと気が付きます。これは助かります。劣等感は、本能的、刹那的、享楽的な欲望が暴走することに対して、抑止力として働いているという視点をしっかりと持つことが大切になります。
2021.04.11
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森田先生のお話です。連想は絶えず暇なく流動活躍しているのである。これは覚醒時でも、少し注意して自己観察をしていれば、我々が如何にボンヤリしている時でも、決して全く無想念という事はないという事を知るはずである。これは心の自然であるから、この連想の流動を随意に拒んだり、否定する事はできない。(森田全集第5巻 648ページ)ここでいう連想は「雑念」と置き換えて考えると分かりやすい。雑念とは、読書に専念したいと思いながらも、とりとめのない、様々な感情が次々に湧き上がってくることを言う。こういう経験は誰でも持っていると思う。普通の人は読書に集中できないのでイヤだなと思う。理解できないので同じところを行ったり来たりしている。そのうち頭がもうろうとしてきて眠くなったりする。どうすることもできない。結果として無駄な時間を過ごすことになる。それが続く場合は、途中で読書はあきらめて、別のことを始める。頭を休ませて、身体を動かすことに切り替えることもある。試験勉強の場合は、しばらくは雑念にまかせて時間の経過を待つ。いつの間にか、雑念が霧のように消え去ってくることがある。また雑念だらけで読書に集中できない時でも、自分に興味や関心のある所に差し掛かると、急に読書にのめりこむことになることもある。ここで肝心なことは、雑念という不快な感情をやりくりしようとしていないことです。どんな不快な感情でも、自分が自由自在にコントロールできないということを自覚していることです。不安な感情も同じことが言えます。そういう邪魔な感情をやりくりするのではなく、そのまま受け入れていくことしか方法がないということだと思います。神経症の人は、感情は自由自在にコントロールができるものであると考えているのかもしれない。雑念は読書の障害になる。雑念が湧きおこらないようにしないと時間の無駄遣いになってしまう。時間は効率よく使わなければならない。強い意志を持って、感情を制御して、雑念を無くしてしまおうと考える。今後に影響することだから、この際雑念が湧きおこらないように対策を立てておきたいと考えるようになる。このような対応は、ますます読書に専念できなくなる。本来の目的から外れて、雑念という障害物の除去に向かうことになる。それは本来不可能に挑戦していることなので、不毛な戦いが永遠と続く。こういう人は森田理論の感情の法則を今一度学習し直すことが大切です。感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志によってコントロールできません。悪天候、台風、地震、津波などは、嫌なものですが、人間の意志の力でコントロールできません。雑念や不快な感情もコントロールできません。どちらも自然現象だからです。自然現象に対しては、基本的にはあるがままに受け入れるのが唯一の対処法です。森田理論は、どんなに問題ある感情が湧きおこっても、謙虚になって素直に受け入れましょうと言っているのです。感情と敵対するのではなく、感情をいとおしみ仲良くするという気持ちになればよいのです。そのためには、不安、恐怖、違和感、不快感の持つプラスの面を再認識するようにしたいものです。マイナス面を拡大して、対立しているようでは、ますます苦悩が深まっていきます。
2021.03.08
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形外会で坂本氏が次のように発言している。私はハラハラすると汗が出たりして苦しい。注射するときなど、一生懸命になるから手が震える。ついには汗が出てくる。時には堪えられないと思う事がある。私はやはり落ち着いた心境でなくては、うまくできないのではないかと思う。禅で「平常心是道」といいますが、平常心とは、そういう静かな心境だと思います。去年この平常心をつかみたくて、富士山の下へ行って、座禅を組んだことがあります。(森田全集 第5巻 639ページ)注射するときとありますから、この方は医者か看護師かと思われます。この方の話によると、ハラハラビクビクした不安定な心理状態で注射を打つとうまくいかない。手が震えてなかなか一発必中で血管の中に針を打つことができない。注射針を引き抜いてまた打ち直すようなことになる。あるいは、打った後血管を探してこねくり回すようなことにもなる。患者はたまったものではない。迷惑をかけることになる。だから普段からハラハラしない不動心を養成する必要がある。不動心を鍛えないと、注射をうまく打つことはできないと信じておられます。その手段として、座禅を組んだことがあると言っている。あるいは滝業のような事をして、なんとか不動心を身に着けようとされているのだろう。森田先生はそのようなやり方では、いつまで経っても注射は上手にならないといわれています。それは、注意や意識が自分の態度や手元の方に集中するからです。ただいたずらにハラハラしないように・手が震えないようにと意識を集中させると、手元はますますぎこちなくなる。それは物事本位にならないからです。注射の時は、ハラハラするまま手の震えるままに、ただ一心に注射の工夫のみに注意を集中すれば、2、3回の経験の後には、まもなくそのコツを覚えて上達し、手も震えなくなるのである。野球の投手でいえば、視線がキャッチャミットにきちんと向いていることが必要になる。その時、注意や意識が、自分の投球動作、球のにぎりなどに向いてしまうと、正確な投球はほぼ不可能になる。この場合は、先ず目的物に標準を合わせる。次に、前頭前野の働きを休ませて、無意識の脳の働きを作動させれば問題はなくなる。無意識の脳を作動させるためには、練習によって、脳の指揮命令系統を変えることです。つまり無意識の行動を習慣化して脳に覚えこませる。さらに、前頭前野を作動させないために、本番前は黙々とあらかじめ決めてあるルーティーンを繰り返すことが重要になります。さて、このハラハラ、ビクビク、ドキドキするときというのは、心が揺れ動いて不安定な状態です。そのような時は心が落ち着かない。不安です。不快な感情に支配されています。そんな状態で行動を起こしても、当初考えていたような成果を上げることはできないはずだ。何はさておいても、不安な気持ちを落ち着かせないといけない。取り去って、無くしてしまわないと、ミスや失敗を招いてしまうのは目に見えている。ミスや失敗をすればきっと後悔する。他人に馬鹿にされてしまう。行動する前に、心を落ち着かせて、間違いなくできるという心理状態を作り上げることが先決である。そのような状態になるまでは、軽率な行動をとってはならない。頭で考えるとこのような考え方は正しいように思えます。この考え方の誤りは、自然現象である不安、不快な感情を操作しようとしていることです。また自由自在に操作することが可能であると信じていることです。そもそも出発点が間違っているのです。森田理論学習の感情の法則をよく理解することが大切になります。感情の法則が理解できると、そのような不可能に挑戦することはしなくなります。ハラハラ、ビクビク、ドキドキの不安定で揺れ動く感情を受けいれることができるようになります。それしか方法がないと納得できるようになります。つまりマラソンでいえば、スタート地点に立つことができるようになるのです。あとはどうやってレースを組み立てていくか。他の選手とどう駆け引きをして勝負に勝つかという本来の目標に向かうことができるようになります。スタート地点に立つということは、大変な努力と実績がいります。何度も跳ね返されます。でもあきらめずに一度でもスタート地点に立つことができれば、そのコツと能力を獲得したことになり、以後とても戦いやすくなるのです。このことを森田では、「事実唯真」の態度を身につけるといいます。
2021.02.28
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小説家の宇野千代さんの生き方は、神経質性格の持ち主にとって大変参考になります。98歳でお亡くなりになりましたが、至極の言葉をいくつも残しておられます。さっそく紹介してみます。この生きて来た永い年月の間に、いろんなことがあった。私は辛いことがあると、その辛いと思うことに体ごと飛び込んでいった。そのうちに、そのことに体が慣れて来ると、あまりそのことが辛いとは思わなくなった。どんな生活にでも、慣れるまでの辛抱である。慣れるということが生活の全部である。これが永年の私の生活の術である。好き勝手に生きて来たように見えるが、私なりに、いやなことは何ごとも忘れるという私の特徴を生かし、何かおこるとすぐ一歩前に踏み出し前向きに歩いて来たのである。そして、その時その時の考え方によって、凡ての行動が楽しいものになったのである。いつでも、私は、その時の生活に夢中になった。そしてどうしても、どんなことがあっても、生きていたいと思った。夢中で生きることが生きて行く目的であったからである。(私は夢を見るのが上手 宇野千代 中公文庫 101ページ)森田理論の感情の法則の3に、「感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである」とあります。最初湯船に浸かるとき、お湯の温度に慣れていないので、やけに熱く感じることがあります。ところがしばらくすると、身体がお湯の温度に慣れてきます。そのうち、少しぬるいと感じることさえあります。ですから、最初は、熱いと思っても少し我慢して風呂に入る必要があります。その時、熱いと思って水を足して水温を下げると、しばらくするとお湯を足さないと寒くてお湯から出られないということにもなります。特に冬場はそうです。その場限りの安易な対症療法は、後で後悔することが多くなるということです。感情も全く同じことが言えます。感情の法則3は次のようになっています。イヤな感情が湧きおこっても、我慢して目の前の課題に取り組んでいると、その嫌な感情に慣れてしまって不感になるのです。いやなことがあっても、少し耐える、少し我慢する態度が大切になります。また慣れるという点では別の側面もあります。最初いくら鋭い感性で感情が動き出しても、それをきちんとキャッチしないと、慣れてしまって忘却の彼方へと飛んで行ってしまうということです。鋭い感情が、慣れてしまって鈍感になることがあるのです。これでは、鋭い感性を有効に活用することができなくなります。実にもったいないことになります。感情の法則の3は、使い分けをすることが大切になります。宇野千代さんは、イヤなことを少し我慢すれば、不感になるということが体験的に分かっておられたのだと思います。そして、「その時の生活に夢中になって取り組んだ」といわれています。森田では、不安を抱えたまま、目の前の課題に取り組むことの重要性を指摘しています。宇野千代さんは、そういう行動が自然体でできていたということが、素晴らしいと思います。私は宇野千代さんの一生にも興味があります。好奇心旺盛で、自由自在に生きた人はいないのではないかと思っています。いずれ紹介したいと思っています。
2021.02.07
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水墨の抽象画家である篠田桃紅さんは現在107歳だそうだ。この方が含蓄のある話をされている。森田理論を深耕するうえで参考になる話がいくつも出てくる。今日はその中から五感の活用について紹介したい。今の人は、自分の感覚よりも、知識を頼りにしています。知識は、信じやすいし、人と共有しやすい。誰しも、学ぶことで、知識を蓄えることができます。たとえば、美術館で絵画を鑑賞するときも、こういう時代背景で、こういうことが描かれていると、解説を頭に入れます。そして、解説のとおりであるかを確認しながら鑑賞しています。しかしそれは鑑賞ではなく、頭の学習です。鑑賞を心から楽しむためには、感覚も必要です。感覚を磨いている人は非常に少ないように思います。感覚は、自分で磨かないと得られません。絵画を鑑賞するときは、解説は忘れて、絵画が発しているオーラそのものを、自分の感覚の一切で包み込み、受け止めるようにします。このようにして、感覚は、自分で磨けば磨くほど、そのものの真価を深く理解できるようになります。(103歳になって分かったこと 篠田桃紅 115ページ)観念主導ではなく、感性主導で絵画を鑑賞することが大切なのではありませんかといわれています。私たち神経質者は、元々感性は強いものを持って生まれてきました。普通の人が感じないようなちっぽけなことでも、感じることができる能力があるのです。これは生まれた後で獲得したいと思っても、天性のものですから難しいのです。私たちは高性能なレーダーのようなものを標準装備して生まれてきたのです。その結果ノイズのようなものまで捕捉して、それに振り回されて神経症と格闘しいるのが現状です。そこで、こんな高性能のレーダーなんかない方がよかったという人もいます。それは他に欲しい人がいっぱいいるのに、自分の持っている物の価値を過小評価して廃棄処分を考えているようなものです。これは強い感性の取り扱い方が間違っているのではないでしょうか。神経症で苦しんでいる状態はまさにこのことなのです。五感によって得た感性を活用して、芸術に高めたり、生活をより良くするために活用することが大切なのではないでしょうか。そのためには最初に感じたことを右から左に流しては駄目です。感性は貴重な宝物として確実にキャッチすることが大切になります。そうしないと貴重な気づきは忘却の彼方に飛び去ってしまいます。メモなどを活用してきちんととらえる態度が後々絶大な効果を生み出します。きちんととらえたら、そこを基点にして考えて行動していくことが大切です。というのは、そのあとで必ずおせっかいを出すものがいるからです。人間だけに備わっている前頭前野です。前頭前野は「小さな親切大きなおせっかい」を仕掛けてくるのです。それが役に立つ場合もありますが、せっかくの感受性を否定するように働くことが多いのです。それに主導権を渡してしまうと、鋭い感性は活躍の場を奪われてしまうのです。実に残念な結果に終わってしまうことになります。つぎに鋭い感性は鍛えて磨きこまないと、さび付いて使い物にならなくなります。廃用性委縮現象が表面化してきます。一旦さび付いてしまうと、復活させることは極めて難しくなります。元々よいものを持って生まれてきたのに、無為の人で人生の最終章を迎えてしまうことになります。そうならないためにはどうするか。緊張感を持って動くことです。凡事徹底に徹する。リズ感のある規則正しい生活を続ける。夢や目標を追いかけていく。そうすると泉のごとく感情が湧き出てくる。その好循環に入ることで、感性はさび付くことなく、どんどん研ぎ澄まされていくのです。感性をさらに鍛え上げていくことで、自分にも他人にも、家族にも、子供にも好影響を与えることができるようになるのです。
2021.01.30
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上司、同僚、友人、配偶者などから罵倒される。喧嘩を売られる。叱責される。批判される。こんな時、誰しも悔しい、むしゃくしゃする、イライラする。できることなら仕返しをしたい。こうしたネガティブでマイナス感情が、突然泉のように湧きおこってきます。どのように対応すればよいのか、森田理論で考えてみたいと思います。その前に、こうした感情は何らの方法で解消しないと、怒り、恨みとなって心の中にしこりとなって固着してきます。精神衛生上大変問題です。よくありがちな方法は、相手のなすがまま、我慢する、耐える方法です。あるいは、売られた喧嘩を買うという態度にでることです。これらは実によく見かけるパターンです。こうした対応は後々禍根を残すことになり森田ではお勧めしていません。森田先生は、その時カッとなった感情のままで相手と言い争うことは控えた方がよいといわれています。怒りの感情をその場でストレートに出すやり方は幼児のやることと同じです。少し我慢する。なんか理由をつけて席を外すことがよいと思います。でも、いつも下手にでていると、相手になめられてしまいます。以後も同じようなことが繰り返されて、精神的に立ち直れないほどズタズタにされてしまう。なんとか言い返したい。仕返しをしたいと思うことは自然現象です。その対抗心・反抗心という感情は大事に取り扱いたい。そこで、理不尽極まる出来事の詳細を日記などに書きつけて、論争に備えて整理しておく。後日、お互いに冷静になったときに「少しお話しがあります」といって論争する。高知では3日間考えて、まだむしゃくしゃする場合は、自分の方に理がある事が多い。その時は後に引かないほうがよい。覚悟を決めて自己主張する。理路整然と。その日に備えて、態勢を整える時間を作ることが肝心だといわれている。このやり方は、夫婦や同僚などで力関係が拮抗している間柄では有効だと思います。圧倒的に力関係に差がある場合は、難しいかも知れません。反対にやり返されてしまうので、私はお勧めしていません。私は感情の法則を利用して、その怒りの感情を「実況中継」することをお勧めします。この場合も、売り言葉に買い言葉でその場で短絡的に行動をとることはできるだけ抑制します。「腹痛くなりました。先にトイレに行かせてください」といって、その場を離れる時間を作る。タバコを吸いに行く。缶コーヒーを飲みに行く。コンビニに行くことでもよいのです。冷却期間を置くのです。ここでの目的は、エンジンが焼き付いて使い物にならなくなることだけは避けることです。しかしここで無為に時間をつぶすだけではもったいないです。感情の法則を利用して、例えば次のようにアナウンサーになり切って「実況中継」するのです。ただいま怒りという大型台風が私の頭の中に上陸しようとしております。今年一番の大型台風で、風雨ともますます強まっております。これではどうすることも出来ません。ただいま緊急避難中です。しばらくは外に出ないでください。しばらくすると、足早に台風は日本海に抜けてしまうことが予想されております。今までの経験上、ずっとその場に居座り続けた台風はありません。必ずどこかに行ってしまいます。間違いありません。安心してください。落ち着いてください。仮に、外にいる場合は、枝を振り乱している柳の木の対応を見習ってください。怒りで気が狂いそうだ。仕返しをしてやりたい。それでいいのですよ。その感情のままに枝を振り乱して結構です。振り乱しても、なぎ倒されることはありません。むしろこの対応の方が身を守れるのです。間違いないところです。台風が通り過ぎたら、何事もなかったかのように元に戻ります。間違っても、松の大木のように台風に立ち向かうことだけはご法度ですよ。絶対にこれだけは守ると約束してくださいね。今回のような大型台風ではひとたまりもなく根元からなぎ倒されてしまいます。その証拠に日光の松の巨木が倒壊した姿を思い出してみてください。これだけのことができたら、ご褒美として今夜はおいしいビールが待っていますよ。それにあなたの大好きな焼き鳥もつけてあげますよ。おいしいビールを飲めるように精一杯応援していますよ。頑張ってね。私は定年までは、会社の対人関係で、こうしたマイナス感情に随分悩まされました。その時、この感情の法則をアレンジした言葉を紙に書いて持ち歩いていました。そして、そのような場面に遭遇したとき、席を外して、トイレに駆け込み、この紙を取り出し読み返していました。これによって何度救われたかと思うと今でも涙が出てきます。トイレで、怒りの感情がひと山かけ登り、つぎに下降するのをひたすら待っていたのです。森田理論は第一の法則でこのことを高らかに宣言しているのです。これは何回も成功体験をしました。間違いない考え方です。だから、森田理論の感情の法則は感謝以外ありません。森田先生ありがとうという気持ちです。ただ、残念なことに、このままでは実際にはなかなか使えないのです。感情の法則を自分なりにアレンジして、実生活の中で使いこなせる状態にしておくことが肝心だと思っております。皆さんも自分なりに加工して、自分のものにしてご利用ください。
2021.01.20
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今日は雑念恐怖について考えてみたいと思います。誰でも、読書や勉強をしている時、それに集中して、能率を上げて、早く理解したい、早く覚えてしまいたいと考えます。効率を上げて無駄なことを排除したいのです。ところが、ふとさまざまな雑念が割り込んできます。これを黙認していると、効率が悪くなり、本来の目的の達成が遅れてしまう。だから雑念が湧き上がってこないように対策を立てて実行しなければならないと考える。雑念恐怖の人はそのことにとらわれて、何とか雑念を無くそうと格闘し始めるのです。これに対して、森田理論では、放ったらかしにすればよいという。雑念が起これば、そのままに肯定して対立させておくとよいという。しかしそう言い聞かせても、無視することは難しい。放ったらかしにしようと考えることは、注意と意識をそこに固定することになるので、益々雑念にとらわれてしまうということになるからです。私はチンドン屋に入り老人ホームなどで慰問活動を行っている。パートはアルトサックスの演奏です。演奏前に、もし運指を間違えて演奏が台無しになったらどうしようという不安が出てきます。特に曲の最初をソロで演奏するときに不安が高まります。リーダーが曲目の紹介などをしている時に最高潮に達します。その時は、不安に感じている部分の運指を何度も繰り返して練習して安心感を得ようとします。そうすれば練習の時のように自信をもって演奏に入れると思うのです。ところが悲しいかな、指の動きが金縛りにあったような状態になり、不安が的中して運指を間違えて恥をかいてしまうのです。グループのメンバーにも迷惑をかけてしまいます。この精神的なからくりは、雑念恐怖と同じです。何とか不安を取り除きたいと考えて、悪戦苦闘することが、ますます注意と意識をそこに集中させて、心身を硬直させて固まってしまうのです。最初は何とか対策を立てて、無難に乗り越えようとしているのです。しかし恐怖が限界を超えてしまうと、闘う意欲がなくなり、投げやりになってしまうのです。この二つのエピソードで分かることは、気になる不安や恐怖に意識を集中させていることです。ですから解決法としては、意識の集中をやめて分散させることです。欲望や不安に意識を集中させないためにはどうするか。まず欲望です。読書や勉強を効率的に行いたいという欲望が過剰になっています。つまり完全主義、完璧主義、理想主義、コントロール至上主義に陥っています。これを弱めてやることです。60%できれば十分合格点を与えてもよいと考えることです。大相撲の世界では、8勝7敗(54%)の勝率で番付が落ちることはない。場合によっては、番付が上がることもある。失敗しても命を落とすこともない。人間性を否定されることもない。生活信条としては、「ほどほど道」を目指すということです。それから欲望は一つだけではありません。生活していると、次から次へと欲望が生まれてきます。その欲望の波に乗っていくというイメージを描くことが有効です。他の欲望の追及が蚊帳の外になったとき、葛藤や苦悩が生まれてくるのです。次に不安です。不安の数を増やしてやるということです。例えば運指を間違えてはいけないという不安ばかりではなく、その他の不安に思っていることにも心を配っていくということです。例えば、顔の表情は硬くなっていないか。衣装の乱れはないか。他の人との音合わせは終わっているか。楽譜の準備は完全にできているか。風で飛ばされるようなことはないか。リードの取り付けは、きちんと装着できているか。楽器の調子は万全か。各種のネジはきちんと止めてあるか。柔軟体操は終わっているか。腹式呼吸の練習は終わったか。忘れ物がないかチェックリストで確認したか。次の曲目の把握はできているか。他のメンバーの動向は把握しているか。舞台に立った時の並びはどうするか。マイクの設置に問題はないか。音は出るようになっているか。動作のチェックは行ったか。そしてこれらをルーティンとして淡々とこなしているという状況を作り上げているか。考えてみれば打席に立つイチロー選手やフィギュアスケートの羽生結弦選手もルーティンを大切にしています。行動に専念している時は、不安そのものとかかわりあっていないという事実を参考にしたいと思います。
2020.11.24
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森田理論では、目の前に存在する物や目の前の出来事を、先入観や決めつけをしないで「じっと見つめなさい」と言われます。見つめていると、普通は感情が動き出すのです。今までの感情の上に、さらに新しい感情が自然に湧き上がってくるのです。森田理論では、以前の感情が新しい感情にとって代わることを好ましい事だと考えています。山の谷あいを勢いよく流れる小川のようなイメージです。神経症というのは、不安な感情を流さないように、意識と注意というエネルギーを集中投下している状態です。どうしてその不安にかかわり続けるのか。その不安を解消しないと、いつまでも気になってイライラしてしまう。精神錯乱状態になることを恐れています。またこのままでは自分の将来の足元を掬われてしまう。自分の身の破滅を招いてしまうと考えてしまうのです。神経症的な不安が頭の中を占領してしまうと、生活が回っていかなくなります。これは認識の誤りです。森田理論によって不安の取り扱い方を学習する必要があります。この点に関して、疑問が寄せられました。以前の感情が新しい感情にとって代わるということは、古い感情はなくなってしまうのではないか。これは問題だというわけです。例えば、得意先から席空きの担当営業マンに折り返し電話をしてもらうように依頼を受けたとします。それを他の事に注意を向けていたために、すっかり忘れてしまうことがあります。こういうことは困りますね。これに似たことはたくさんあります。こうした気づきは宝物として大切に取り扱うことが必要になります。次々と湧きあがってくる気づきは、きちんとメモなどをしてキャッチしておかないと忘却の彼方に飛び去ってしまうことを忘れてはなりません。億劫でも面倒でもあっても紙に書いておくことが、神経質性格を活かすことにつながります。ここで言っているのは、どうすることもできない神経症的な不安は、どんどんと流してしまいましょうということなのです。次に、自分は気が付かなかったことを、人が気が付いて指摘してくれることがあります。そしてすぐに対応を迫られることがあります。例えば、私はマンションの管理人をしています。居住者の人が、エントランスホールのシャンデリアに、やぶ蚊のような虫の死骸が溜まっていると指摘されました。管理人としてこんなことにも気が付かないのか。仕事に身が入っていないのではないか。すぐに掃除するようにと叱責されました。自分が気が付くべきところなのに、全く気が付かず人から指摘されるということは、どういうことなのか。神経質なのではなく、鈍感そのものなのではないか。自己嫌悪してしまいました。こういう例もたくさんあります。これをいちいち取り上げて自分を否定するのは問題だと思います。こういう場合は、ありがたくその気づきをいただくことです。自分の気づきとして取り扱うことです。自分の気づかなかったことを教えてくれてありがとう。注意、忠告、叱責に対して、決して八つ当たりしてはいけません。肝心なことは、その気づきを得て、どう対応したかということです。素直に対応すれば、その過程でまた新たな気づきや発見をする契機となるのです。弾みがついて感情や動き出すということです。この路線に載せるということが森田理論の要なのです。自分自身の気づきだけではなく、他人から気づきを教えてもらうことによって、感情が流れて生活が前進していくことが肝心なのです。
2020.11.18
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私はチンドン屋に入っていて、アルトサックスを人前で演奏する機会があります。人前で楽器を演奏するとき、ことのほか緊張します。口の中がカラカラになります。その緊張感を持ったまま、無心になって、演奏している時はうまくいきます。よく演奏する曲は1000回以上も練習をしているわけですから、自然の流れに乗っていれば、うまくいくのです。しかも毎日少なくとも30分は練習を続けているのです。ところが演奏中に前ぶりもなく前頭前野が動き出す時があります。「まさか間違えて恥をかくようなことはないだろうな」という考えがふっと湧いてくるのです。そうなると金縛りにあったようになり、自由に指先が動かなくなるのです。その結果、普段は何でもないところで間違えてしまうのです。その時の意識は、間違えてはいけないという事に意識が向いています。過去に間違えて恥をかいたことなどが思い出されると、その気持ちに拍車がかかるのです。そして避けなければいけないことに注意や意識が吸い寄せられて、結果としてミスをおびき寄せてしまうということです。私は無我夢中になれば、問題なく演奏できることは分かっています。ところが、勝手に割り込んでくる前頭前野の悪魔のようなささやきはどうすることもできないのです。特にリーダーが曲目の紹介などをして、間が空く時が問題です。余計なことを考えすぎるからです。その時間違えないように運指を確かめたりしていると特によくない。突然振られて急いで、考える時間もなく、演奏を始める時の方が比較的うまくいく。森田先生は、そのように神経の集中が一点で起こってしまうのは問題だといわれています。注意の集中が起こると、心の自由な流転が妨げられる。これは拡大鏡を太陽に当てていると、下にあった紙が燃えだすようなものです。注意や意識の集中は恐ろしいものだと思います。火事になってしまうわけですから。神経が四方八方に働いている時の方が、注意の固着が起きない。神経が周囲の変化に臨機応変に対応して、心が自由自在に流転・適応していく。こういう状態になれば、演奏もうまくいく。例えば、お客さんの年齢層を確認する。年配者が多いか。子どもはいるか。舞台はどうなっているか。立ち位置はどうするか。動き回るスペースはあるか。マイクの調子はどうか。服装の乱れはないか。楽器の調子はどうか。演奏曲目とその順番はどうか。仲間との打ち合わせは大丈夫か。どこに力を入れて盛り上げようか。つまりルーティーンを確立して、それを淡々とこなすことで前頭前野が入り込まないようにするのです。注意したいのは、それを自分に言い聞かせるということは、注意がそこに張り付いているということなので、元の木阿弥になるということだ。淡々とルーティーンが繰り返される状態にしたい。それはバッターボックスに立つ前のイチロー選手や演技を始める前の羽生結弦選手の動作を見ているとよく分かります。
2020.11.07
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形外会で林さんという方が、森田先生に次のように質問されている。同僚が転勤するようなときに、平常は、その人を非常に悪く言っているような人が、送別会の席などで、その人をほめたてて、体裁のよいお世辞ばかりをいうのがあるが、それは虚偽で自分を偽っているのではないでしょうか。こんな場合はどうすればよいのでしょうか。(森田全集第5巻 555ページ)これに対して森田先生は、常に自分が自分の目的にかなうように、適切に工夫すればよいと返答されています。何のことかよく分からないので、掘り下げてみたいと思います。この話に出てくる方は、普段から、相手のやることなすことに対して、批判的、否定的な態度をとっているのです。こういうのを犬猿の仲といいます。誰が何と言おうと、嫌いなものは嫌いだという気持ちになっているのです。林さんは、その嫌いという気持ちは自分に対して素直な感情である。森田ではその素直な感情のことを、「純な心」と呼んでいる。その「純な心」を「かくあるべし」で捻じ曲げることがあってはならないと学んだ。嫌いだという感情を、抑圧するのではなく、堂々と打ち出す方が正しいのではないかと質問されているのです。もっともらしい考え方です。しかしこれを実行すると大変なことになります。この考え方を実行した場合どうなるか。まず、相手を非難すると、注意や意識がそこに固定されてしまいます。そして、火に油を注ぐような結果を招きます。不快感、憎悪感がどんどん増してきます。賛同者を集めて、相手を窮地に追い込もうと画策するようになります。暴力に訴えるようなことになれば、人間関係は破綻してしまいます。そこには不快感はすべて取り去らなければならないという「かくあるべし」があると思います。そうしないと、不快感で精神が錯乱状態になるかもしれないという気持ちがあると思います。不快感が湧き上がる前提として、すべての人と楽しく愉快に付き合うべきであるという「かくあるべし」に取りつかれているいるのです。森田理論では、人間関係は「不即不離」でいくべきであると教えてくれています。人間同士は、お互いにいつもいつも平和で仲良くできるわけではない。人間2人いるだけで、気持ちや考え方の違いが出てくる。人間関係は、その時、その場の必要に応じて、引っ付いたり離れたりしている。これはまずいなというときは、距離を置いて付き合いなさいと教えてくれているのです。そして、活動に伴って薄く広い人間関係を作りなさいと教えてくれているのです。対立関係に陥れば、双方の言い分を対等な立場で出し合って、調整していくほかない。自分の嫌悪感をそのまま相手にぶっつけるということは、相手を自分のコントロール下に置きたい。相手を抑圧して、自由自在に取り扱いたいという気持ちの表れだと思います。そんなことをすれば、当然相手も反抗的になって、対立するようになる。そこにエネルギーを投入することになると、本来やるべき仕事が雑になる。また、日常茶飯事も投げやりになる。目標や夢に挑戦する意欲もなくなってしまう。つまり精神的に閉塞状態に追い込まれてしまうということです。これらの事から考えられることは、嫌いという感情にのめりこまないことが得策です。あたらず触らず、距離を置きながら、最低限の人間関係を維持していく。この場合は、人間関係が破綻しないように気を付けるだけでよいということです。そのために、相手のことが嫌いという感情を、覆い隠して、表面的には、心にもない事をいっても構わないということです。映画やドラマの役者のようになり切って、相手に悟られないように、上手に演技をする方がよいということです。自分の気持ちに正直になることにとらわれて、相手のことを完全に無視する、批判する、否定するようなことがあってはならないのです。この態度は、第三者から見ると幼児の振る舞いに見えてしまいます。こういう相手が嫌がるあからさまな態度をとる人が後を絶ちません。そういう人は、反対に多くの人から敬遠されているという事実を認識すべきです。好きな人がいるのと同じように、嫌いな人・虫の好かない人は必ずいます。こういう時こそ、森田理論の「不即不離」の考え方を、大いに活用するときだと思います。
2020.10.18
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誰でも過度な依存症は何とかやめようとします。アルコール、タバコ、ネットゲーム、薬物依存症などです。しかし、その快感が脳細胞にしっかりと刻み込まれていて、抜け出すことは容易ではありません。完全に依存症になると、自分一人では治すことはできません。医師の指導の下に薬物療法、入院隔離、リハビリ、自助組織への参加などで回復を目指すことになります。家族崩壊、経済崩壊、健康破壊、人間関係などに悪影響を及ぼさない程度に、回復できればよしとしなければなりません。依存症に陥る前に何とかならないのでしょうか。今日はその方法について、森田理論の立場から説明したいと思います。今日はニコチン依存症について考えたいと思います。タバコを吸わない人は、どうしてあんなものがうまいのだろうと不思議です。私も大学生のころ、タバコを吸うと大人になったみたいでかっこいいので吸おうとしたことはありますが、煙で息苦しいばかりで、しばらくすると嫌いになりました。タバコを吸う人に聞いてみると、一仕事した後のタバコはうまいといいます。あるいは食事の後のタバコは、精神的な安定感をもたらすなどと言います。何かにつけて手持ち無沙汰になると、ニコチンを体内に取り入れて、精神的な安定感というか、高揚感を味わいたいのです。他人にどんなに嫌がられようとも、もともと好きなのです。好きなものは、どんなにタバコが高くなっても、やめることはできません。それを理性で、他人に嫌われるからタバコをやめようと言い聞かせても、自分の素直な気持ちに反することを強制しようとするのですから無駄なのです。むしろ止めようとすれば、意識がそこに張り付いてしまいます。そしてどんなに反対されても、意地でもタバコは止めないということになってしまいます。つまり他人の忠告は聞く耳を持っていないのです。そんな時は、むしろそんなにタバコが好きなら、一日1箱、2箱と言わないで、3箱、5箱と気のすむまで飲んだら良いじゃないですかとけしかけた方がよい。けしかけられると精神拮抗作用が働いて、むしろ自重する方向に働く場合もある。これは逆説療法ですが、森田先生もこの方法を説明されています。森田で言っているオーソドックスな対応方法は次のようなものです。タバコが好きでたまらないという気持ちを否定しない。そういう自分を第三者的な立場に立って、冷静に見つめるのです。それがいいとか悪いとか価値判断をしない。現実の自分をありのままに見つめる。原因追及もしない。「あなたはタバコが好きでたまらないのですね。今吸いたくてうずうずしていますね。分かりますよ、その気持ちは!」タバコを吸う前に、その感情をそのまま味わうのです。感じ尽くすのです。時間は10分ぐらいを目安とする。この10分間という時間は、ぜひとも意識してください。すると不思議なことが起きる。時間の経過とともに、吸いたくてたまらないという衝動的な感情が変化してくる。一山超えて下り坂に向かってきているのが分かる。衝動が落ち着いてきて、多少変化してくるのです。これは経験によってぜひとも検証していただきたいです。これは衝動的に腹が立った場合にも応用できます。感情が高揚したとき、10分間ほど間を置くという方法です。すると衝動的な怒りの感情はひと山登り、下降に向かうのが自然の流れです。森田理論の感情の法則で説明しているとおりです。神経質性格者はせっかちな人が多いのですが、間をとるということを意識してもらいたい。ただ、ここでじっとしていてはいけません。この先が肝心です。薄まった時に、目の前にある課題に取り組むようにするのです。日常茶飯事でもよい。仕事、勉強、家事、育児、趣味でも何でもよい。そのうち弾みがついたらものそのものになって取り組んでいく。気が付くとタバコを吸うタイミングを逃していた。自然に無理なく吸わないで済んだということになるのです。森田では、自分を破滅させるような、衝動的な感情に対してこのような対応方法をお勧めしているのです。ただし完全な依存症は、脳神経の異常によるものですから、効果はないでしょう。そのことはご理解いただきたいと思います。あくまでもこの対応は、依存症に陥る前の人に向けての提案です。
2020.09.21
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森田先生は、神経症を治すには、不安の特徴や役割を学習して、取り除こうとしない覚悟を養成することが大事だといわれている。ただその覚悟を持っただけではうまくいかない。不安や不快な感情が変化流転するように仕向けることが大切であるといわれている。それを「感情の流転」ということで説明されている。ある人が形外会で「女中が紅茶の入れ方が悪かったというような、ちょっとしたことが癪に障って、3時間も4時間も、不快な気持ちが治まらないことがあります」と質問された。これに答え森田先生曰く。恐怖や不安、憎しみや悲しみ、そういった自分にとって不愉快と思われるものをどうにか排除しようとする。それがかえってその感情に固着させることになり、その感情を引き起こす行動を避けるようになる。あるいは、それを打ち消そうとして余計な行動をする。「このとき癪に障るとか、気長くするとかいうような評価を離れて、その時々に起こる連想の波に、そのまま乗っていく。女中が紅茶を持ってきた。「どうしてこんなに遅いのか。飲んでみれば薄い。一体どうしたのだろう。いつでもあいつはずぼらだ。いっそのこと追い出そうか。しかし今日は雨が降るから明日にしようか。ずいぶんの雨降りだが、これでは桜散るだろう。家の盆栽の桜も咲きかけたが、桜の盆栽もよいものだ」というふうに、自由な心の流転にまかせておけば、連想は連想を引き出して、下手な作為を超越して、全く思いもかけぬ事に移り変わって、女中への腹立ちも、いつしか桜の風流に変化してくる」(森田全集 第5巻 653ページ)連想が連想を引き出すというのは、一つの感情にとらわれるのではなく、谷あいを勢いよく流れる小川のように変化させるということです。これを存分に応用する方法をご紹介します。例えば自家用野菜に取り組む場合のことです。まずは、野菜を植えるために、発酵鶏糞などを散布します。苦土石灰や肥料をまきます。その後土を耕し畝を作ります。マルチの必要なものは、マルチを張っておきます。苗や種を植えて水をたっぷりまきます。ハクサイやキャベツには虫よけネットを取り付けます。トマトなどには雨よけを取り付けます。成育期間中は、水やりや雑草取りをします。土寄せをします。間引きをします。脇芽をとり除きます。虫に食われていないか、病気になっていないか注意します。生育に応じて支柱を立て、ネットを張ります。生育の悪いものには成育促進剤をやります。万田酵素やHB-101などです。精魂込めて世話をすると3か月か4か月すると収穫できるようになります。つぎにいろんな料理法を研究するようになります。たくさん獲れると保存方法、加工技術を考えるようになります。あるいはおすそ分けや道端での販売を考えるようになります。それから次にどんなものを作ると連作障害が起こらないか考えるようになります。つまり輪作体系のことを考えるようになります。合わせてホカホカの土つくりについても考えるようになります。そして野菜の生育日記をつけて次回に活かすことを考えるようになります。このように取り組んでいくと、ただ単に機械的に野菜つくりをするのではなく、次々に注意や関心が移っていくことがお分かりだろうと思います。弾みがついて無我夢中になり、どんどん楽しみが増えていきます。世話をしながら、どんどんと成長する野菜を見守ることは、子育てと同じです。これが森田先生の連想が連想を生むということだろうと思います。一つの感情にとどまっているのではなく、とらわれる対象が次々と変化していくというイメージです。これが神経症のとらわれから抜け出す一つの方法となります。
2020.09.10
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森田先生は、神経症が治るということは、絶体絶命だけでは、ただ行きづまるだけで、まだ治らぬ。そこから、そこから心の流転が始まった時に、初めて治る。そこに微妙な心の流転がある。これは絶体絶命になった時に、初めて起こるものです。せっぱつまれば、必ずそれから、思想が変化するようになる。変化すれば、執着を離れるようになり、強迫観念が治る。(森田全集第5巻 422ページ)少し難しい説明かも知れません。森田先生は神経症を治すためには、まず絶体絶命になることが必要だといわれています。しかし、絶体絶命になっただけは神経症は治らない。感情が変化流転することで神経症は治るといわれています。神経症的な不安、恐怖、違和感、不快感などに対して、それらを取り去ろうと戦いを挑み続けてはならない。また気分本位になって逃げだしてもいけない。それらをどうすることもできない自然現象として受け入れていく覚悟を決める。感情の自然現象に服従するということです。これがスタート地点です。まずはスタート地点に立つことが肝心です。そのためには森田理論学習が有効です。これを丁寧に教えてくれる精神療法は森田理論が一番です。特に不安の役割や特徴は、十分に理解していく必要があります。ここから前に向かって前進していくことで神経症は治るのです。つまりとらわれている感情に固執するのではなく流していくことに注力していく。谷あいを勢いよく流れる小川のようなイメージです。気になることが次々と現れては消えていくようなイメージです。これは目の前のなすべきことに一心不乱に取り組んでいくことで、その流れに乗っていけるようになるのです。鴨長明の「方丈記」は次のような言葉で始まります。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、淀みに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。イヤな感情に対する対処法を森田理論で十分に理解する。そして次々と湧きおこってくる感情を速やかに流せるようになった時、いつの間にか神経症とは縁が切れていくのです。
2020.08.21
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私たちは、湧き上がってくる感情に対して、是非善悪の価値判断を下しているのではないでしょうか。よくない感情に対しては、無意識のうちに、なかったものとして取り扱う傾向があるのではないでしょうか。それを具体的に見てみましょう。例えば両親が、相互に愛し合っていない家庭に生まれたとしましょう。しかし両親は愛し合っているふりを続けていて、離婚しません。そうすると、その家では、両親が互いに愛し合っていない、ということが、最大の秘密になります。そのことにだけは、誰も気づいて言葉にすることはタブーになります。しかし子どもは、否応なしに両者の間の愛情の欠如を感じてしまいます。なぜならそれが実際に目の前に起きていることだからです。同時に子どもは、その事実が決して気づいてはならぬ、口にしてはならぬことだということも感じます。なぜならそういうタブーが現実に存在するからです。かくして子どもは、自分が抱いているこの感情は、決して抱いてはならぬものである、ということも感じます。自然な感情を知らず知らずのうちに抑圧するようになるのです。幼い子どもが、この事実に対応するには、そのことを感じてしまう自分は「悪い子」なのだと思い込む以外にありません。もしも自分が感じていることを口にしてしまえば、子どもが住む世界である家庭が崩壊してしまうからです。子どもにはそんなことはできません。そこで子どもは、親の無言の要請に応じて、「両親は愛し合ってなどいない」という厳然たる事実に基づいた感情を否定し、「そんなことを感じてしまう自分は、悪い子だ」というストーリーを組み上げ、自らの感情を封印してしまうのです。(生きる技法 安冨渉 青灯社 152ページより引用)この指摘は、森田理論の感情の法則を考えるヒントを与えてくれています。本来湧き上がってくる感情には、良いも悪いもないはずです。それを自分の都合によって価値判断を下して、悪い感情と判定したものは、封印しようとしているのです。このようにして湧き上がってくる感情を取捨選別しているとどうなるでしょうか。封印しようとすればするほど、注意や意識がそこに吸い寄せられてしまうようになります。そしてその悪い感情を、自分の体の中に勝手に入り込んだ異物として取り扱うようになります。異物は排除しないと自分に悪影響を与えますので、排除しようとするのです。不安や恐怖を敵とみなして闘いを始めることになります。どうにもならない相手と判断すると、今度は逃げ回ることになります。精神交互作用によって、神経症はどんどん悪化して、アリ地獄の底へと落ちていくのです。あらゆる感情は自然現象です。人間の意志の力ではどうすることもできません。土砂災害などに対しては、砂防ダムを造る。河川の氾濫に対しては、川底の土砂の堆積を取り除く。堤防を強固に補強し、できればかさ上げする。思いつく限りの対策を実施します。しかし、できる限りの対策を取った後は、基本的に自然現象を受け入れるしかありません。この謙虚な姿勢を持つことが肝心です。自然現象である感情の発生は、価値批判しないでまるごと受け入れる。最後まで抑圧しようとすると、感情が暴れ馬のように暴走するのです。自分や他人を巻き込んで悲惨な状態になります。感情の取り扱い方は森田理論で学習することが肝心です。学習すれば容易に分かるようになります。
2020.08.18
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第35回形外会で水谷先生が次のような話をされている。森田先生が庭でバラの木の葉に、小さい虫の糞が沢山あるのを示されて、これを見つけると、虫がいることが分かるといわれる。なるほど、よく見ると、その上の方の葉に小さい青虫が、一杯にたかっている。虫は保護色のために、容易に見つけることはできないが、糞は黒いから、すぐに見つかるのである。森田先生はこの時、患者たちに、次のように説明された。先生から、こんなことを指摘されて、たちまち「ハハアなるほど・面白いことだ」と感ずる人は、上等で、知識は「日に新たに、また日々に新たに」進歩するようになる。あるいは一方には、「今日は一つよい事を覚えた。書きつけて置かなければならない」というのは、下等であって、習った事よりほかの事は、何もできない人で、十を聞いて一しか働きのない人である。また他の人は、「アア自分は、こんなことにも気がつかない。もっと注意を働かすようにしなければならぬ」、とかいうのが最下等で「悪知」であり、心は内向的で、自分の事ばかりを考えて、少しも物を見ることができない。せっかく教えられたバラの虫取りに、手を出すこともできずに、外界から入ってくる知識の門戸が、全く閉鎖されてしまう。(森田全集第五巻 387ページ)3番目の自己内省ばかりして、自己否定してしまうことが問題なのは誰でもわかります。「かくあるべし」を持ち出して、自分を否定しているので、精神的には苦しいばかりだと思います。「かくあるべし」を減少させて、事実を認めて、受け入れるという方向に少しずつ切り替えていく必要があります。これは森田理論学習と実践で身につける必要があります。問題は1番目と2番目の違いの区別です。2番目のタイプの人ですが、今まで自分が知らなかったことを森田先生から教えられて、次に活かそうとしている。実行すればきちんと虫の駆除ができるようになるだろうと思います。それはそれでよいのですが、欲を言えば1番目のようになることが望ましいという事だと思います。1番目の人は、1を聞いて10を知るというような人です。一つのことをきっかけにして、感情が活発に活動を始める。精神が緊張状態にある人です。興味や関心、気づき、発見、工夫、アイデアが次から次へと思い浮かび、意欲的になってくる。他の花はどうなのか、野菜の場合はどうなのか、駆除の方法は、農薬はどんなものがあるのか、散布はどうするのか、人体に害はないのかなどに広がってくる。感情がどんどん流れ出し、行動の呼び水となっている。森田先生は、感情が一つのところにとどまるのではなく、谷あいを勢いよく流れる小川のようなイメージを持っておられるのです。感情が絶えず変化流転していかないと神経症からの克服は難しいという事を伝えたいのだと思われます。
2020.08.03
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森田先生のお話です。すべて世の中の事業でも商売でも、学問的研究にしても、これに成功するか失敗を重ねるかは、我々の純な心・自然な心で直観的に判断する方がよく的中するものである。直観力で思い出すことがあります。社会保険労務士試験を受けたときのことです。5つの選択肢の中から正解を選ぶというのが70問ありました。すぐに正解が分かるものは非常に少ない。最終的に正解の候補を2つぐらいに絞っても、最後にどちらかが分からない。ここで直観力に頼ることになります。迷った末に直観力に頼っているので、合格の基準点といわれている42問を超えているかどうかは全く読めないのです。合格発表は1か月以上も空いているので、不安な日々を過ごすことになります。ところが直観力というのは、よく当たっていたのです。しかし直観力が十分に働いてくれるためには、それ相当の学習が必要だと思いました。何しろこの試験は合格者を6%ぐらいに抑え込むことを目的としています。勘で当たるというようなわけにはいきません。過去問や模擬試験などを繰り返していく必要があるのです。合格するための学習時間は1000時間といわれていました。すると警察犬がにおいで犯人を特定するという現象がありますが、そんな状態が訪れるのです。はっきりと断定はできないけれども、どうもこれが正解ではないかとかぎ分けることができるようになるのです。私たちは行動するにあたり、それを思いとどまらせようとする考えが同時に湧き起こります。森田では精神拮抗作用が働くようになっているといいます。神経質性格の人は、石橋を叩いて安全が確認できないと、石橋を渡ろうとしない。そして、渡れない理由を頭の中で様々に考えていきます。終いには手も足も出ないという事になります。あれこれと思い悩まないで、直観力をもとに素早く行動するために必要なことは何でしょうか。私は雑多な社会経験を積み重ねることが大切だと思います。子供のころからいろんなことを体験していく。失敗やうまくいかないことを経験していくと後で役に立つ。では大人になった人はどうすればよいのでしょうか。緊張感を持った生活を心掛けることが大事だと思います。森田でいう「無所住心」を心掛けることです。昼間活動している時は、昆虫が触角を伸ばしてアンテナを張って、いろんな情報に敏感に反応している。人間でいえば、そろりそろりと忍び足で歩いているのではない。両手を大きく振って走っている状態です。こうなると気づきがドンドン増えてくるのです。しだいに直観力が鍛えられてくるのです。これを宝物にして大事に扱うことが大切です。
2020.07.10
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作詞家の西條八十さんは、大正12年9月に発生した関東大震災の時に上野公園に避難されました。大勢の人が着の身着のままに避難されていたそうです。そこで西條先生の生き方を変える出来事があったそうです。一人の少年が「船頭小唄」という歌謡曲をハーモニカで吹いたそうです。これは物悲しい演歌です。その時の情景を次のように書いておられます。一口に言えば、それは冷厳索莫たる荒冬の天地に、一脈の駘蕩たる春風が吹きいったかのようであった。山の群衆は、この一管のハーモニカの音によって慰められ、心をやわらげられ、くつろぎ、絶望の裡に、一点の希望を与えられた。(西條八十 唄の自叙伝)西條先生は、悲しいときに悲しい歌謡曲を聴くと心が癒される。絶望している時に絶望の歌を聴くと明るくなれる。歌謡曲には、人の心を動かす力がある事に気づかれたのです。それ以降は、童謡詩人から、人々に寄り添う歌謡曲の歌詞を作ることに方向転換されたそうです。古関裕而さんとコンビで数々のヒット曲を作られました。森田理論学習に取り組んでいる私たちに参考になることがあります。相手がつらくて悲しんでいるとき、「そんなことは気にしないで頑張れ」と叱咤激励するよりも、相手の気持ちに寄り添うだけでよい。つらい、悲しい気持ちを受け入れて、共感してあげるだけでよい。励まそうとする言葉を投げかけることで、相手は益々つらくなることがある。だだ側にいて「どうしたものか」気をもみながら見守ってあげるだけでよい。付き添ってくれる人がいるだけで、相手は十分いやされているのです。何か癒しの言葉をかけなければいけないと思っているとすると、それは大きな誤解です。精神的に苦しくなる時、理不尽な出来事でイライラすることは誰でも経験しています。そんな時に自分を奮い立たせるような勇ましい音楽を聴くと、意欲がみなぎってくるかというとそうではない。むしろ駄目な自分を責めて自己嫌悪に陥りやすい。つらくて悲しい気持ちに寄り添う短調の曲のほうが癒し効果が高い。そういう曲を普段から見つけておくことが重要です。それは歌謡曲、クラッシック、ジャズだろうが何でも構わない。私はそんなときはマーラーの巨人を聴きます。25分過ぎのところがお気に入りです。どれだけ救われたかわかりません。それから、映像を録画してそれを見ることで、癒し効果が得られるものがあります。私は、プロジェクト✕の瀬戸大橋の建設に携わった杉田秀雄さんのドキュメンタリー番組がお宝です。現場監督として重責を担い、その最中に奥さんをがんで亡くされて、男手一つで二人の娘さんを育てた人です。もう一つは、プロ野球界で優れた選手を育て上げ、その後高校教師に転身し、これからという時にがんで亡くなられた高畠導宏さんをモデルにした「フルスィング」というドラマがお宝です。くじけそうになった時、自暴自棄になった時、これらのDVDを見ると何とも言えない気持ちになれるのです。自分に寄り添ってくれて、癒し効果があるのです。精神的な危機を迎えたとき、こういうものを持っているかどうか、活用しているかどうかで、その後の展開が変わってくると思っています。
2020.06.20
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誰でも腹が立つことはあると思います。まず腹立ちはどんな時に起きるのか。他人などから苦痛や不利益を与えられる。理不尽なことを言われる。事実ではないことを指摘される。からかわれる、無視される。軽蔑される。否定される。などです。あるいは、快楽・幸福を奪われる。もしくは予想される場合です。これらは、それを抑え込もうとしてもどうにもなりません。天気などの自然現象と同じことです。こんな時に売り言葉で買い言葉で即座に反応してしまうことがあります。すると一時的には怒りの感情を解放したかに見えますが、そのあとがいけない。人間関係が悪化して今まで通りの付き合いができなくなってしまう。そして反目しあうようになります。それが昂じると犬猿の仲になってしまう。森田先生は、まず腹立ちはそのままに持ちこたえることが大切だといわれています。次に言葉は悪いのですが、腹が立つとき腹立ちを利用して何とか相手に仕返しをするように工夫することに尽きるといわれています。一口に言えば、癪にさわる。さわるままに、「うぬ、どうしてやろうか」とか、ハラハラ、ジリジリと考えればよい。こうしていると、初めのうちは頭がガンガンして、思慮がまとまらないが、そのうち相手はどう、自分はどうということが分かってくる。小さな腹立ちはそのうち霧散霧消してしまう。2時間も半日も続くような腹立ちは、容易な腹立ちではない。土佐では、「男が腹を立てれば、3日考えてしかる後に断行せよ」という言葉がある。十分に策を練って話し合いによって解決を目指せ。あるいは自分の感情や気持ちを私メッセージで相手に伝える。そうしないと相手になめられてしまう。今後いつまでも相手に適当にあしらわれてしまう。支配・被支配の人間関係が出来上がってしまう。これが問題なのです。ただ腹が立った時はすぐに言い返して楽になろうとしてはいけない。その腹立ちを一時保留して、どういう風に反論したらよいのかよく考えてみることだ。時間がたてば、冷静になれる。腹立ちも大したことではなかったと気づくようになる。相手と犬猿の仲にならなくてよかったということになる。腹立ちが3日も続くようであるときは、第三者の助けを得て、十分に策を練って自分の気持ちや考えを主張していかなければならないのである。そうしないと自分は相手から一方的に支配されることになってしまう。しいたげられたまま生きていくことは苦しみを生み出す。
2020.06.04
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形外会である方の日記の内容が紹介されている。地下鉄で浅草に行く。今日のように雑踏にもまれた事は初めてである。絶えず心がハラハラしていた。ハラハラしているほうが、落ち着いている時よりも、楽であることを知った。従来ならば、こんな時、落着こう落着こうと努力、腹式呼吸をやったり、人を見下していたりしたものである。人間の心は、風船玉のように、いつもフワフワ漂っているものと思う。空中を漂っている方が、風船にとって、安定である。風が吹いても、風の吹くままに、流されているから、なかなか破れない。これに反して、風船球を一定の所に固定しておくと、少しの風に会えばたちまち破れるのである。(森田全集第5巻 268ページ)この方は不安、恐怖、違和感、不快感などの感情が湧き起こってきたときに、それを取り除こうとやりくりしていたのです。神経症に陥る過程では、みんなこのような行動に向かいます。エネルギーのない人は、気分本位になって逃げ回ります。入院して修養が進むうちに、そういう方向は間違いだと気が付かれている。感情は一つのところに固定してはいけない。感情は風の向くまま、気の向くまま、自然発動に従って自由に泳がしておくことが肝心だ。感情は自然現象であって手出しできないものであることが分かった。正しい感情の取り扱い方を体得されている。感情を風船球に例えるあたりは名文といえる。そしてアンテナをいっぱいに広げて、その時、その場に応じて様々な刺激をうける。豊かな多くの感情が、次から次へと入道雲のように湧き上がってくる。一つ一つの感情に対していちいち丁寧に対応している余裕すらない。不快、不安、恐怖、悲しみ、嫉妬、怒りの感情が沸き起こっても、またすぐに次の感情が沸き起こってきて、以前の感情はすぐに流されていく。サーファーが波に乗って軽快に疾走しているイメージである。そのためには森田では「無所住心」の生活態度を養成することをお勧めしている。自己内省一辺倒から、外向きに注意や意識が転換するようにするのである。さらに変化に即座に対応する生活習慣を身に着ける。そして変化を予測して、いつでも対応できるように準備しておく。そういう生活習慣が身についたとき、神経症は跡形もなく消え去っていく。神経症の克服は、まず森田理論学習によって考え方を改める。それを実践・行動によって、自分の生活信条として継続していく。こういう方向で研鑽を積むことで初めて達成可能となる。
2020.05.24
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森田先生は「しゃくにさわるときは大いにしゃくにさわらなければいけない」と言われています。当然しゃくにさわるような場面で、その感情が沸き上がってこないということは、感性が鈍麻していることが考えられます。神経質性格の人は、発揚性気質の人から見ると、感性が鋭く豊かであるという特徴があります。この神経質性格はとても優れており、大変貴重なものです。この特徴が消えて無くなってしまうと、鋭い感性を活かすことができなくなってしまいます。神経質の最大の長所を自覚して、活かすことができなくなってしまうと、ただの人になってしまいます。感情には、不安、恐怖、違和感、不快感、嫉妬、うれしい、楽しい、爽快だ、悲しい、ゆううつだ、妬ましいなど様々あります。どれがいいとか悪いとか選り好みするのではなく、どんな感情であろうが、泉のようにこんこんと湧き出てくるということが肝心なのです。この点が自覚できるようになると、次にその感情の取り扱い方を考えてみましょう。注意すべき点がいくつかあります。まず、小さなことがしゃくにさわるような人間はダメだと考えるようになると、神経症になります。小さなことを気にしないような性格改造に取り組むことは、避けなくてはなりません。次に、しゃくにさわった時、自分を抑圧して、我慢する、耐えるというのも問題です。ストレスやうっぷんが蓄積されてきます。それを上手に吐き出すようにしたいものです。自分の気持ちは「私メッセージ」などの手法を使って相手にしっかりと伝える。あるいは、相手の理不尽な言動を日記などで整理しておき、いざというときに冷静に相手と話し合うようにする。さらに、気分本位になって、支離滅裂になり、すぐに言い返す人がいます。短気、瞬間湯沸かし器で、不快な感情をすぐに取り除こうとする。あるいは本能的な欲望を手っ取り早くかなえようとする。その手の行動がその後どんな結果をもたらすか、普通の人はよく分かっており、制御しているのです。自分は制御能力がないと思う人は、人の力を借りてでも、制御する必要があります。最後に、しゃくにさわるという感情にいつまでもとらわれ続けるという人は、森田理論学習で解決してもらいたいと思います。神経症は感情の固着から起きるのです。精神交互作用という言葉をご存じの方も多いでしょう。神経症で、イライラが昂じて、生活が後退するという蟻地獄に落ち込むときは、必ず一つの感情に対して固着現象が起きています。その感情を、山あいの谷間を勢いよく流れる小川のような状態に変えていくことが森田が目指していることなのです。さまざまな感情が次々と生まれては、すぐに流れて動き出す。一時的にとらわれるが、すぐに次のとらわれへと移っていく。それが身についたとき、神経症は影も形もなく、霧散霧消していくのです。
2020.04.26
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森田先生は対人恐怖の人が、人前に出ると恥ずかしいという心がなくなったら、それは図々しい「すれっかし」になるといわれています。「すれっかし」というのは、慣れてしまって、感情が鈍磨すると起こる。入院患者の中には、森田先生から、小言を言われても、ビクともしない人がいる。顔色が少しも変わらない。これは面の皮が厚くなったともいう。赤面恐怖が治るには、もっと細かく恥ずかしくなるようにならなければならない。(森田全集第5巻 221より要旨引用)当時大学の先生というのは、一般の人から見ると雲の上の存在だったのだ。その言動は誰でも一目置いていた。当然感情も高まり、敏感に反応した。しかし、入院患者の中には森田先生に叱られることに慣れてしまって、「カエルの面に小便」のように、平気になってしまう人がいたのである。森田先生は、目の前の日常茶飯事にものそのものになって取り組んでいくことで、豊かな感情が泉のように湧き出てくる。それが谷間の小川を勢いよく流れる水のように動き出す。今まで観念の世界で理屈をこねまわしていた人間を、凡事徹底によって、豊かな感情を発生させて、その感情が勢いよく流れることを目指していたのです。その視点から見ると、「すれっかし」というのは、慣れてしまって、当然湧き上がってくる豊かな感情が枯渇している状態です。目指しているところから見ると反対になっているのです。これではお手上げになってしまうのです。慣れてしまうというのは、実に恐ろしいことになってしまいます。これを防ぐには「純な心」を大切にした生活習慣を作り上げることが有効です。素直な心や直観や第一に湧き上がってくる感情を宝物のように取り扱う生活習慣を作り上げることです。例えば、学校行事で子供たちが遠足に行きました。ところが集合時間になっても帰ってこない子供がいた。先生は「何か事件に巻き込まれているのではないか」と必死になって探した。しばらくすると、探していた子供が何気ない顔で帰ってきた。そのとき先生は、「どこに行っていたの。勝手な行動をとってはいけないとあれほど注意をしていたでしょ。けがや事件に巻き込まれたらご両親にどう言い訳をしたらいいのよ」と叱責した。これは第一に湧き起こった感情ではない。それから出発すると、「無事に帰ってくれてよかった。先生は何か事件に巻き込まれたのかもしれないととても心配していたのよ」となります。第一の感情はほんの一瞬で消えていきます。そのあとに、「かくあるべし」を多分に含んだ、第二の感情が沸き起こるようになっているのです。それに基づいた言動は、叱責、批判、弁解、否定などになり、相手と対立するようになるのです。「純な心」から出発する習慣が身につくと、感情の事実をそのまま認めて受け入れることになります。感情はますます豊かになって、勢いよく流れていくようになります。「すれっかし」になって感情の発生が枯渇するということはなくなります。
2020.04.25
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鈴木知準先生は、強迫神経症の人に「動きを速く」するように言われていたそうです。これを心がけて生活することは、きわめて大切だと思います。なぜ大事なのかを説明してみたいと思います。動きが遅い人は、それが習慣になっています。飲み会、研修会、同窓会、会合などへの出欠連絡などもいつも遅い。報告や処理しなければならないことも、後手を踏んでいます。催促されて、連絡しなければと思っているうちに、すっかり忘れていましたなどという人もいる。そういう人は、動きが早い人と比べると目立ちます。取り纏める人は、連絡が来ないのでイライラします。本人はマイペースというか、ちっとも気にならないようです。実は、これは森田の世界では大変なことなのです。反対に動きの速い人は、フットワークがよいのでとても好感が持てます。集談会で尻軽く行動しましょうということを学んで実行する習慣がついた人は、顔つきや態度が生き生きしています。神経質な人は、小さなことによく気がつきます。それをため込むと、釣り糸のスジが絡まったような状態になります。そうなる前にすぐにできることはどんどん片付けてしまいたい、という気持ちになっているのだと思います。ため込むと、簡単なものが複雑に絡み合い、処理する時間がかかるようになります。手をつけないでいるうちに、処理すべきことが増えてしまいます。そのうち面倒になることもあります。そして投げやりな気持ちになります。いい加減に取り扱うこともあります。森田の雑事を丁寧にするという目標からはどんどんずれてしまいます。凡事徹底は絵に描いた餅になってしまいます。動きの速い人は、気がついたこと、やるべきことをメモしてよく整理しています。そして、たびたび確認しています。さらに納期や優先順位をつけています。そのために、手帳、スケジュール帳、メモ用紙、スマホを携えています。気がついたことを記録しないとすぐ忘却の彼方へと消え去ってしまうことの弊害をよく分かっている人です。動きの速い人は、昼間活動している時間帯は、アンテナやレーダーを張って、精神の緊張状態を保っています。四方八方に神経が行き届き、様々な感情が泉のごとくこんこんと湧き出ているのです。それはぼんやりと何も考えずにブラブラしているのではなく、競歩やランニングをしているイメージです。精神が弛緩状態ではなく、緊張状態を維持しているのです。こういう生活をしている人は、感性も豊かです。気づきや発見、工夫や改善点、アイデアや新しい発想が次々と生まれてくるのです。感情が外向きになり、神経症のことを考える時間が少なくなります。動きの遅い人は、精神が弛緩モードにあります。こういう人は、普通の人がすぐに気づくようなことも、まったく気づかないという現象が起こります。精神は内向きになり、悲観的、ネガティブになり神経症のことを考える時間が多くなります。動きとともに、精神も不活性化されているのです。精神が活発に動いていないので、普通の人がすぐに気づくようなことにも、感じることができないのです。反応できないのです。そういう人は、鈍感な人、人の気持ちを察することができない人だと嫌われます。実はもともとそうなのではなく、動きが遅いために。精神が活動を休止しているために起きている現象なのです。鈴木知準先生が、「動きを速くしなさい」といわれているのは、行動のみならず、精神を緊張状態に切り替えなさいといわれているのです。
2020.04.12
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森田先生は、「気分本位」という言葉について次のように説明されている。本位とは、物を測るのに、それを標準とする事で、人生でいえば、人生を観照して批判するところの、すなわち人生観の第一の条件とする観点を何におくかという事について、自分の気分を第一におこうとするものを気分本位というのである。(森田全集第5巻 169ページより引用)少し難しい説明である。ただこの気分本位の気持ちは誰でも持っているのではなかろうか。この点を私なりに説明してみたい。まず、どんな人を気分本位の人というのだろうか。自然に次々に湧き上がってくる不安、恐怖、危険、不快感などの感情に対して、すぐに回避的な行動をとること。どうしたらよいか考えないで、それらに振り回されて右往左往している人。イヤなこと、気が進まないことには、けっして取り組もうとはしない人。不快を避けたいという感情に振り回されてしまう生活習慣が身についてしまっている人。次に、人間には本能的な欲望があります。食べたい、眠たい、子孫を残したい、安全を確保したいなどの欲望です。それらを努力しないで、他人に依存して得たい。自分では何もしない。自分でやるべきことを、人に肩代わりしてもらおうと考えている人も気分本位の人だと思います。後先考えないで本能的欲望が暴走してしまう人です。さらに、所有欲、名誉欲、自己顕示欲などを際限なく追い求めているような人も気分本位の人だと思います。本来欲望には抑制力を働かせて、バランスをとる必要があります。バランスがとれていない。欲望の追及が独り歩きしているような人です。気分本位になると、自分が自分の人生を主体的に生きているとはいいがたい。感情に振り回され、本能的欲望のままに生きているような人です。そして欲望の制御機能が失われている人です。人間というよりは、どちらかというと野生の動物の生き方に近い。気分本位の生活習慣はなんとか避けたいものです。森田でもその方向を目指しています。まず不快感は自動的に回避したいという問題についてはどのように考えたらよいのでしょうか。この場合は、森田理論の「生の欲望の発揮」の学習が役に立ちます。人間はたとえ小さな目標や目的であっても、それは食料と同じで生存には不可欠なものです。そのエサがない状態ですと、人間らしく生きていくことはできないと思います。森田では、日常茶飯事、仕事や勉強はイヤイヤ仕方なしにでも手をつけなければならないといっています。気分を優先するのではなく、形を整える。生活を丁寧にものそのものになって取り組むという習慣を作り上げることが大切です。次に、身体や頭を使わずに他人に依存して楽をしたいという気持ちは誰にでもあります。それに流されると身体は衰えてきます。精神は弛緩状態に陥ります。廃用性萎縮が一旦起きてしまうと、細胞が壊死したようなもので、なかなか元に戻すことは困難になります。森田では依存した生き方から、自立した生き方を目指しています。基本的には自分のことは自分で取り組むという態度を維持することです。また、無所住心と言って、精神を緊張させて生活することを目指しています。本能的欲望、所有欲、コントロール欲求などは、森田理論の「不安と欲望」の単元が役に立ちます。欲望を追い求めることは別に悪いことではない。むしろ人間にとっては大切なことである。問題は欲望が一人で勝手に暴走してしまうことにあります。それを抑制するために、人間には不安、恐怖、違和感、不快感が自然発生するようになっているのです。人間の進化の過程でなぜ淘汰されなかったのか考えてみる必要があります。神経が体中に張りめぐらされているのと同じことです。そのおかげてどんなに助かっているのか考えてみる必要があります。神経症になるとそれらを取り去ろうとする愚行を繰り返しているのです。そういうやり方は間違っているというのが森田理論学習でよく分かるようになります。不安の役割や特徴を理解すると、不安は貴重なものであることがよく分かるようになります。不安を人間に備わった貴重な宝物のように思えるようになり、不安を欲望追及の際の制御機能として活用しようとするようになります。不安と欲望のバランスを意識するようになった人は、気分に翻弄されて、自分の人生を台無しにしてしまうことはなくなるものと思います。私も森田理論学習に取り組む前は、気分本位で後悔の多い人生を送っていました。
2020.04.10
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森田理論の中に常に、「感じから出発せよ」というのがあります。森田先生曰く。我々の日常生活は、実際において、まず第一に、時と場合における「感じ」から心が発動し、種々の欲望が起きるときに、それに対して、理知により、理想に従って、自分の行動を抑制していくのであって、すなわち第一が「感じ」で、次に理想が動くのである。(森田全集第5巻 405ページ)たとえばテレビの料理番組を見ていると、自分でも作って、食べたいという気持ちになります。食べたいという感情が湧き起こったのです。これを基にして、買い出しに行き、実際に作って食べるという行動につながっていくのです。この時に生活習慣病で糖尿病の疑いがあると指摘されていれば、甘さを控えるために、砂糖は少なめにしようと理知が働くようになります。この流れは無理がありません。ところが、感じの発生がないのに、理知から出発するととんでもないことになります。糖尿病になると目が見えなくなるかもしれない。また足の細胞が壊死して、片足を切断することになるかもしれない。それを防ぐためには、甘味料の入った料理は食べてはならない。糖をたくさん含んだごはんやパスタなどもダメだ。味の薄い、美味しくない糖尿病食を特別に作って食べていくしか方法はない。それが病気を増悪させない唯一の道だ。理知というのは、理屈、原理原則から入って、食べたいという感情を無理やり押さえつけているのです。理知を第一に押し出して、感情を抑圧している態度です。これは自然に反していて無理があります。この考え方は対人関係にも応用することができます。たとえばインターネットなどで森田の自助グループをみつけて学習会に参加される人がいます。見るからに森田適応者と判断できるような方です。でもそういう方が続けて集談会に参加されるかというとそうではありません。継続参加される人は10人に1人か2人といったところでしょう。そういう人にこの森田の法則を活用してみたいものです。最初から集談会に継続して参加してください。あなたは森田に向いています。私たちの会は会員が減少して会の運営が心もとないのです。入会して会員になって一緒に森田理論を学習しましょう。ぜひとも会員になってください。これを第一に押し出して、継続参加を訴えかけることは、理知を前面に押し出したやり方だと思います。相手はこの会はどんなところか。怪しい会ではないのか。薬物療法や認知行動療法などの精神療法と比べてメリットはあるのか。どんな人がいるのか。どんな症状の人がいるのか。本当に神経症を克服しているのか。これらを鵜の目鷹の目で見ているのです。相手の感情に訴えかけて、相手の感情を動かすことにエネルギーを投入することが必要だと思います。たとえば会社の中での人間関係で苦しんでいる人がいます。そういう人に対して、今現在も対人関係で苦しんでいる人はその状況を具体的に話してあげることです。今は楽になっている人も、苦しんでいた時のことを具体的に話してあげることです。ここには私と同じ仲間がいると思ってもらうことです。自己紹介は始めてきた人に対して自分の症状について具体的に話すことが大切です。自己紹介はそういう目的志向を全員が持つことが肝心です。私の症状は「対人緊張が強いことです」だけでは、相手には何の感情も湧き起こりません。症状を克服した人は、この会に参加して、仲間との交流による精神的支え、仲間意識の高まり。さらに症状克服に役に立ったことを1つか2つ具体的に話してあげることです。それを集談会に参加した人が一枚岩になって取り組んだ時、初めて参加した人が、「この会はいいかも」という感じが湧き上がってくるのではないでしょうか。様子見できている人が多いのですが、このように感じを発生させて、高めるという活動を地道に続けていくときっと定着する人は増えてくると思います。このように、かすかに集談会に参加することのメリットを感じた人には、つぎの段階に進むことも必要です。継続参加を促す理知の活用です。たとえば、この会はしばりはありません。入会も退会も自由です。政治とか宗教は持ち込んではならないことになっています。会は1か月に1回、しかも日曜日の午後からの半日だけです。会場は公共機関を利用しています。テキストは400円です。その他分かりやすい独自のテキストも無償で用意しています。立ち直った仲間、今現在苦しみの真っただ中の人と話ができます。集談会後、喫茶店や居酒屋での交流もあります。特に優れた書籍、DVDなども紹介しています。森田に詳しい精神科の協力医、臨床心理士もご紹介しています。ご希望で世話役を引き受けると、それが社会体験につながり、会社で活かすこともできます。その他、著名な森田療法家の心の健康セミナーという案内も行っています。神経症の克服に役立つ会誌を毎月発行しており、会誌を読むだけでも立ち直りの手助けになります。仲間の行動から、症状克服のためにどういった行動が有効なのか分かるようになります。会員の書いているブログなども紹介しています。その他、参加する人のメリットはたくさんあります。ご自分でも考えてみてください。それらをチラシにするなり、言葉で伝えるようにするのです。ここで注意したいことは、先に「少し継続してみようか」という感じを発生させることが先です。いま紹介したことは、感じが芽生えた人に、行動を前向きにスムーズにアシストするための理知の部分にあたります。順序を逆にしては元もこうもありません。感じから入って理知で調整するという原則は厳密に守る必要があります。このように考えると、この森田の考え方は人を動かすための奥義でもあるのです。
2020.01.23
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今日は「人間のロボット症」について考えてみたい。「人間のロボット症」とは、人間が人間らしさを失ってロボットのようになってきているというものである。アメリカの社会病理学者のルイス・ヤブロンスキーが提唱している言葉である。ロボットの特徴を改めて確認してみよう。まず夢を持たない。問題を背負うこともなければ、したがって悩むこともない。困っているロボットなど見たことがない。問題意識もなければ、疑問も持たない。やる気もなければ、さぼる気もない。自発的に動くことはなく、他力を加えないと動かない。教えられ続け、説明され続け、指示され続け、世話をされ続けないと動かない。力を加えてさえいれば、それが作用する範囲内でいつまでも動く。感情が湧き起こることがなく、飽きるということとは無縁になる。いつまでも指示・命令どおり完璧に動く。間違いなど起こさない、というよりも起こせない。頭で分かっていることだけをやり、分かっていないことは何一つやらない。状況が変化しても、決してそれには対応しない。人間のロボット化とは感情を抑圧するようになる。その結果、感情が希薄になる。あるいはなくなる。うれしい、楽しい、つらい、苦しい、イヤだ、悲しいなどの感情が湧き起こらなくなってくる。他人から言われたことだけを淡々といつまでも機械的にこなすだけとなる。つまり感情が湧き起こること自体がじゃまものになってくるのだ。これで喜ぶのは人間を自分の思いのままにコントロールしようとしている人達である。産業革命以降は、人を原材料、資本、情報と同じ材と扱ってきた。反発しないで、言われたことをきちんと責任を持って、やり遂げる人間を求めるようになってきたのだ。つまり創造性、問題解決力を発揮する人は不要な存在となったのである。これに対して、本来の人間の特徴は何か。まず、夢を持たずにはいられない。問題を背負って悩みは果てない。困っている日々のごとしだ。問題意識もあれば、頭の中は疑問でいっぱいだ。やる気もあれば、さぼる気もある。他力によって動くとは限らず、しかし自発的に動く。指示・命令どおり完璧に動くのは難しい。よく間違いを起こす。頭では分かっていないことでも、やらざるを得なくなればやる。状況が変われば、即それに対応する。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン 76ページより要旨引用)人間は感じて動く生き物なのだ。家の中で火災が発生すれば、足が悪い人でも必ず逃げる。ロボットは逃げない。大火事になってもその場にとどまる。目の前の物を観察していると、感情が湧き起こる。問題点を発見する。それをなんとかしたいと考えることが出来る能力を持っているのが人間である。その特性に沿って生きていくことが人間の宿命である。今の世の中は、その人間力をできるだけ発揮しないように仕向けているのかもしれない。そして人間力を弱体化し骨抜きにさせようとしているのかもしれない。教えられ続け、説明され続け、指示され続け、世話をされ続けることは、一見合理的な生き方のように見えるが、生きがいを見失い、いつの間にか人間のロボット化に拍車をかけているように思える。私は感性を大いに刺激して、感情豊かな人間として生きていきたい。関連記事を2016年3月27日に投稿していました。再録記事としてお読みください。
2020.01.12
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神経症の不安や不快感などは、いわば自己の内部での葛藤といえるかもしれません。取り除いてすっきりしたという気持ちに突き動かされて、やりくりしているうちに、次第に蟻地獄に落ちてしまうというものです。日常生活、社会生活、対人関係などで悪循環に陥ります。ただし、そのために直接周囲の人を攻撃して危害を加えるということはまれです。それに対して、怒りや悲しみ、本能的な情動を直接周囲の人にぶっつけてしまう人がいます。気に入らない情動や本能的な情動を外部に吐きだしてしまう人です。些細なことで過剰反応したり、極端な言動となって現れたりします。その変動の激しさが、時として、周囲の人を巻き込んでしまうのです。こういう傾向は、「境界性パーソナリティ障害」の特徴とされています。情動がコントロール不能となり、暴走してしまう人の特徴は2点あります。第1点として、気分や感情の微妙なコントロールがうまくいかず、気分のアップダウンが激しいということです。2点目として、とても傷つきやすく、一間些細に見える出来事に対して、過剰な情動反応を起こすということです。神経症に境界性パーソナリティ障害が同居しているととても厄介なことになります。日常生活、社会生活が後退し、対人関係が不安定になります。絶えず周囲の人を巻き込んで、トラブルをまき散らすということになります。皆さんの場合はどうでしょうか。私自身はこの傾向が強いと感じています。普段は人に嫌われないように細心の注意を払って、耐えたり我慢しているのです。ところがその我慢の限界を超えてしまうことがあります。ダムの貯水量が小さいので、少しの大雨ですぐにあふれ出てしまうのです。あるいは決壊して、後で修復困難という状態に陥ります。それの繰り返しでした。すると次第に他人が寄り付かなくなるのです。孤立して味気ない人生を過ごしていかざるを得なくなります。まずは自己診断でこういう傾向があるかどうか自覚することが必要です。アメリカの精神医学会の診断基準(DSMーⅣーTR)が役立つと思います。こういう傾向が強い人は、医療面での治療が必要となります。薬物療法、認知療法、行動療法などがあるようです。医師やカウンセラー、自助グループの助けを借りることです。次に、こういう傾向が時々現れるという人がいます。一般的にはこちらの方が多いと思われます。日常的には問題はない人です。ところが、お酒を飲んで酔いが回ると顕著にその傾向が出てくるという人がいます。こういう傾向のある人は、みんなと一緒の飲酒は控えることが賢明です。どうしてもというときは、親しい人に訳を話して制御機能をお願いしておくことです。注意されたら素直に従うことです。また気分や体調を理由にして、途中退席することです。寄り道しないで、タクシーでまっすぐに家に帰ることです。情動の暴発というトラブルを回避するためには、この方法が一番だと思っております。情動の暴発を抱えている人には、参考図書として、「境界性パーソナル障害 岡田尊司 幻冬舎新書」をお読みになることをお勧めいたします。
2020.01.09
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森田理論では、気分本位の生活態度は弊害だらけであると指摘しています。気が重い、億劫だ、やる気がしない、楽をしたい、現状維持に甘んじる、無駄なエネルギーを使いたくない。こういう気持ちを優先して目の前のやるべきことを放棄する態度のことを気分本位と言います。こういう生活態度は依存体質になってしまいます。自立して生きていくことが難しくなります。そしていつまで経っても生きがいを持つことができなくなってしまいます。次から次へと目の前に立ちはだかっている課題や問題点に、いくら気持ちがついていかなくても、ボツボツとイヤイヤ仕方なしに手をつけていくことが大変重要です。そんないい加減な気持ちでやると、手掛けたことは中途半端ででたらめになるかもしれない。今までにそういう経験を積み重ねてきた人は多いと思います。これは顕在意識の部分では「やらなくてはいけない」と思っても、潜在意識が足を引っ張っているのです。いつも潜在意識の方が顕在意識をリードしていますからそういう結果を呼び寄せてしまうのです。しかし、もう一方の側面を忘れてはなりません。ボツボツとイヤイヤ仕方なしに手をつけていくうちに、その気分本位の気持ちに変化が生じてくるという側面です。たとえば、読書をしていても最初の50ページぐらいはとてもしんどいです。本の内容によっては、眠くなったりもします。そこで読書を中止してしまうこともあります。ところがよい内容の本にあたると、ついつりこまれて、眠気も吹っ飛び、集中して無我夢中になっている自分を発見したりします。最初は気がのらなかったのに、我慢して読んでいるうちに、弾みがついてきたのです。気分本位になって、途中で投げてしまわないでよかったという体験をすることができます。土曜日や日曜日を過ごした後の月曜日は誰でも憂鬱になります。そこで仮病を使って有給休暇をとってしまうこともあります。私もありました。まさに気分本位の態度です。でもパジャマのままだらだらとそのまま寝ていても、気分はよくなりません。それどころか不快な気分を持ちこしているので、火曜日に出勤するあたっては、さらに不快な気分に押しつぶされるようになってしまいます。ずる休みしてしまった。同僚に迷惑をかけてしまったという自己嫌悪の気持ちでたまらなくなってきます。他の人も月曜日にはそういう気持ちになっているのですが、気分本位を打破して、イヤイヤ仕方なく出勤してきたのです。そうすると、午前中ぐらいはどうも調子が上がらない。ところが昼ごはんを食べた午後ぐらいになると、エンジンがかかり始める。火曜日ぐらいにはだいぶ仕事のほうに順応している。ところがずる休みをしていた人は、みんなと同じような月曜日を過ごしていないわけです。自分一人だけ、火曜日になって月曜日の不快な時間を過ごすことになるのです。当然同僚たちとは波長が合いません。最初からリズムがずれているのです。これを回避するためには、月曜日にイヤイヤ仕方なしに準備をして出勤することなのです。決して気分本位の気持ちに合わせてしまってはいけないのです。気分本位の気持ちは誰にでも湧き起こってきます。それに追随することのメリットは、ほんの一瞬だけです。後に長く残るのは、自己嫌悪と後悔だけになります。森田では気分本位の生活態度は真っ先に改める必要があると考えています。森田先生はこの態度が身について時が小学校卒業程度であると説明されています。今でいえば中学校卒業程度でしょう。明日は理知本位の生活態度の誤りについて考えてみたいと思います。これが理解でき、実践できるようになったときが中学卒業程度であると森田先生は言われています。今の時代でいえば、高校や大学卒業程度になると思われます。その二つの誤りを理解して、物事本位、事実本位の生活態度を身につけたとき、あなたの人生は光り輝くものとなるでしょう。
2019.12.29
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数年前に韓国で旅客船が沈没して多くの若者が亡くなるという痛ましい事件がありました。この時は、沈没する船から一目散に海に飛び込んだ人が助かりました。一方、「慌てて動かないでください。船内でそのままお待ちください」という船内放送に従った人は残念なことに命を落としました。亡くなった人たちは、危機一髪にもかかわらず、船内放送を信用したのです。最初のうちは少しの傾きで収まるのではないか。何とかなるはずだ。船長をはじめ乗組員が適切な処置をしてくれるはずだ。たとえ危険な事態になっても命を守ってくれるに違いないと思っていたのです。まさか大型客船が沈没するとは夢にも思わなかったのです。そのうち船室に徐々に海水が入りこみ、パニックになった時点でもうなすすべはなくなっていたのです。最初の時点で危機感がなく、何とかなるだろうという楽観的な考え方が命取りになりました。自分の命を守るという感性が湧いてこなかったのではないでしょうか。この事件から学ぶことは、自分の命にかかわるような出来事に遭遇したときは、即座に危険を察知する感性を普段から鍛えておくことが大事だということです。そして、そのような事態に直面したとき、自分の命を守るために、躊躇することなく、勇気を持って危険回避の行動をとることです。今日は最初の問題について考えてみたいと思います。感性は鋭い人と鈍い人がいます。神経質者はもともと鋭い感性の持ち主が多いと思います。普通の人が気がつかないようなことにどんどん気がつくというのが、神経質者の特徴です。集談会に来る人で、私は感性が鈍いと公言する人がいます。それは症状に注意や意識を集中しているために、感性が鈍いように見えるだけのことです。神経質者は、元々鋭い感性を持っているのです。それが他の人と差別化できる長所なのです。それは高性能のレーダーや高性能のソナー(魚群探知機)を標準装備しているようなものです。これを大いに活用しようではありませんか。問題は普段から操作方法を訓練して使えるようになっているかどうかということです。危険を察知する感性は普段から鍛えていないと、とっさに働いてくれないと思います。そのために心がけることは、緊張感を持って生活しているかどうかにかかっています。昼間起きているときは、精神緊張状態を維持しているかどうかです。森田理論でいう「無所住心」の生活態度のことです。森田先生の話の中に、騒音のない静かな山奥に行けば、勉強に集中できるだろうと考えるのは軽率だ。そういう刺激のないところでは、神経が弛緩状態に陥って、かえって勉強がはかどらない。街中でいろんな騒音で神経が緊張状態にあるときの方が、勉強がはかどるものだといわれています。神経が緊張状態にあると、鋭い感性がどんどん高まり、気づき、工夫、アイデアなどが昏々と泉のように湧き出てくるのです。集談会や会社でも、素晴らしいアイデアを出してくれる人は、生活自体が活性化している人です。俳句や短歌などでもいいものを作りたいと考えているだけでは、決して斬新なものは出てきません。普段、生き生きと生活して、次から次へとやるべきことを抱えている人が、精神が緊張して新しいこと、面白いことをはっと思いつくようになっているのです。緊張感を持って日々生活している人は、生命の危険に遭遇しても、感性がきちんと働いてくれるものと信じています。
2019.11.28
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アドラーは、「怒りは第二次感情である」と言っています。人は不安や恐怖、嫉妬、寂しさ、無力感、自己嫌悪など、自分の中に受け入れがたい「一次感情」があるときに、それを隠すように怒るという言動をとるものだという考えです。例えば、幼い子供が危険な行動をとり、ヒャッとさせられた親が「危ないじゃないの」と言って怒ることがあります。このような言動の前には、そんなことをすると子供がケガをするかもしれない。大事故に巻き込まれるかもしれない。命を落とすようなことになるかもしれない。こうした第一次感情が隠れているという考えです。現実には子供に怒りをぶっつけているのですが、前提として「びっくりした、ハッとした、心配だった」という第一次感情があるのです。これは森田理論でいう初一念という直観的な感情のことです。第一次感情は、心配だった、不安になった、恐ろしかった、寂しかった、悲しかった、がっかりした、嫉妬したというようなものです。素直で直観的な感情です。ところがこの第一次感情は、意識することもなく、すぐに消えてなくなるという特徴があります。そして人間には引き続いて第二次感情が出てくるようになっているのです。そしてつい、これに基づいた言動をとってしまうのです。この感情は目の前に起こった出来事や事実に対して、弁解、言い訳、ごまかし、隠ぺい、逃避、否定が含まれているのです。相手に対しては叱責、非難、拒否、無視、抑圧、否定などがあります。観念や理性に基づいた「○○しなければならない」「○○であってはならない」などという「かくあるべし」が多分に含んでいるものです。「かくあるべし」を優先した言動は、現実や事実と激しく対立します。すぐに自己嫌悪、自分否定、他人否定で対立関係に陥ります。怒りはこの第二次感情に基づいての言動ということになります。第二次感情に基づいた言動は、弊害だらけというのはお分かりだと思います。突発的な怒りの感情は6秒でピークに達し、それをやり過ごすことができれば次第に沈静化するといわれています。その6秒さえやり過ごせば、怒りに任せて他人を傷つけたり、人間関係を悪化させる行動を控えることができやすくなります。それに加えて、第二次感情を見極める習慣を作ることが大切になります。自分や他人を批判、否定するような気持ちはすべて第二次感情です。そんな時は第一次感情に立ち戻ることが肝心です。危険な行為をしている子供に対して「だめだ、すぐにやめなさい」ということも時には大切です。でももっと大切なことは、第一次感情に立ち戻れるかどうかです。この例で言えば、「お父さんはびっくりした。とても動揺した。でも何事もなくてうれしかった」ということになります。その言い方のほうが子供との関係はよくなってきます。これが森田理論で学習している「純な心」の生活面への応用ということになります。
2019.10.27
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