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森田先生の話に、悲しいから泣くのではない。泣くから悲しくなるのだという話がある。小さい時お姉ちゃんが泣いていると、それを見ていた妹がつられて泣くということがある。悲しいという感情が先にありきではなく、泣くという行動が悲しいという感情を誘発させてきたと見るのが順当なところだろう。為末大さんがブログでこんなことを書いている。表情筋の研究で、割り箸を口にくわえて、コメディドラマや漫画を読むと、何割か面白さが増すという実験がある。口角があがり、笑っている時と同じ表情に近くなり、それを人間の脳は楽しいのだと認識し本当に楽しくなるのだという。さらに笑いを引き起こす大きな要因の一つにつられ笑いがある。つられて笑い、笑ったから楽しいと認識する。楽しいという感情も認識することでうまれるのかもしれない。これらのことから、つらい時、悲しい時、不安な時、恐ろしい時、不快な時の対応方法が分かる。それらの感情に合わせて、行動、実践を抑制してしまうと、双方がシンクロして益々増悪の一途を辿ってしまうということだ。感情と行動の波長を合わせてしまうということが精神衛生上は問題であるということだ。精神的につらい時何もすることが無くて退屈だ。今日はどうやって時間をつぶしていこうか等と考えているとまずい。それらの感情を抱えたままで、行動、実践だけは自分のやりたいこと、目の前の日常茶飯事に手をつけていく方向が望ましい。たとえばお笑い番組を見る、カラオケを歌う、スポーツをして汗をかく、コンサートに行く。家では掃除をする。整理整頓をする。料理を作る。そのために買い出しに行く。友人を誘って居酒屋に行く、旅行に行く、釣りに行く、趣味に手をつける。森田ではいったん起きた感情は取り消すことはできないという。でも新しい行動実践によって新しい感情を作りだすことができると言っています。絶えず新しい感情が湧き起ってくるようになれば一つのことだけでいつまでも悩むということはなくなります。その態度は流れと動きの中に身をおいて、あるがままの生き方をしているということになります。
2017.01.08
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宮本武蔵の「五輪書」にはこんな一節があります。「太刀にても、手にても、ゐつくという事をきらう。ゐつくは、しぬる手也。ゐつかざるは、いきる手也」これは、敵や相手と戦う時に、相手の刀の先や手などに、自分の視線や意識を「居つかせて」しまってはダメだということです。剣先の動きだけにとらわれるのではなく、視野を広く大きくとって、「その場全体」をふあーっと捉えなければならないということなのです。なにしろ戦いと言うのは、いつどこから刺客が襲ってくるのか分からない。周囲ばかりに気をとらわれていると、その隙をついて、目の前の相手が思わぬ動きに出るかも分からない。つねに「その場全体」をとらえ、さまざまな気配の変化に注意を払う必要があります。もし変化にとっさに反応できなければ、命を落としてしまうこともあります。その危険予知能力の高さが、勝敗のゆくえ、命のゆくえを握っているわけです。(龍馬脳のススメ 茂木健一郎 主婦と生活社 112ページより引用)このことを森田では「無所住心」と言っている。我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転しながら、音楽を聞く。ナビを見たりしていても、車線変更もでき、赤信号ではとまる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。誰でも最初自動車教習所に通い始めて、初めてハンドルを握った時はとても緊張したと思います。初心者のうちはウインカーやバックミラー、シフトレバー、ブレーキ、アクセルなどが気になり、あちこちに注意が向いて固定してしまいます。車を操作するということが精一杯で、安全に車を動かすための注意の気配りはできていません。バックをしていて横にぶっかったりして、不安定な走行になります。でもその段階を乗り越えると、自分の不安や動作にばかり向いていた注意はまんべんなく行き渡るようになります。他の車の動き、歩行者の動き、道路の状態、天気、交通検問、スピードの監視などに向くようになります。また目の動きも適切になり、危険を回避しながらスムーズに車線変更も出来るようになります。いくら不安な問題を抱えていても、注意の大半は安全走行のために緊張しているのです。緊張感がなく弛緩状態で車を運転していると危ないことこの上もありません。「無所住心」という森田の考え方は、症状のみに注意を向けるのではなく、車の運転の時のように、四方八方に注意が向いてくるような生活のことをいいます。
2016.12.30
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怒りの感情を爆発させずに押さえつけた。我慢した、耐えた。その結果相手と気まずい関係にならずに済んだ。でもこれが生活習慣となってしまうと、よかった、よかったと喜んではおられません。なぜなら、しだいに怒りの感情は沸き起こらなくなるのです。つまり感性が退化してくるのです。感性は、怒りのようなマイナス感情だけではありません。楽しさ、嬉しさ、喜び、感動を味わうといったプラスの感情もあります。それらが全体的に同時に退化してくるのです。これらの感情中枢は扁桃体にあるといわれています。しだいに扁桃体が機能不全に陥ってしまうのです。脳細胞が機能しなくなると再生することはありません。廃用性萎縮現象が引き起こされるのです。特に10歳から12歳の頃の第2回目のシナプスの刈り込みが行われた後は大変なことが起きます。無気力、無感動、無関心な人間が出来上がってしまうのです。あとからこれはまずいと気が付いて修復できるものではないのです。だから感情は基本的には適度に吐き出してやることが必要です。ため込む、蓄積していくことは避けなければいけません。それが感情に対する正しい対応方法です。怒りを吐き出すことなくため込んでいると、その正体が分からなくなり、漠然とした不快感として体内に蓄積されてしまいます。イライラしてきて、自分が何に対して怒っているのか訳が分からなくなってくるのです。嫉妬、羨望、軽蔑、偏見、被害妄想、劣等感、恐怖心、怯えなどと結びついて体の中を駆け巡っているような状態となります。ですから怒り、腹立たしさの感情は自分の体から外に出してやることが大切です。一番いいのは口に出して吐き出す。次には紙に書いて吐き出す。これをまず心しておくことです。吐き出し方は注意が必要です。これも森田理論が教えてくれています。(怒る技術 中島義道 PHP参照)
2016.10.09
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普通腹が立っていると顔の表情や溜息などの態度に表れます。ところが小さい頃に、親から「そんな小さいことでぐずぐず言わないの」「みっともないねえ」などと言われ続けて成長する人がいます。自分の不快な感情を否定され続けると、無意識に解離という現象が起こります。解離というのは人間の防衛反応です。人は耐えがたくつらい感情が喚起されるような状態にさらされると、無意識にその感情を感じないように防衛するのだそうです。その結果、すごくつらい、しんどいという気持ちが強いのにもかかわらず、反対に明るく元気そうに話したり振る舞ったりするのです。つまり心の中と表面上の言動の不一致が起きているのです。しかしネガティブで不快な感情をそのまま抱え込んでしまうので、しだいにストレスがたまってきます。葛藤や苦しみを抱えたままになるのです。いつかははけ口を求めてさまようことになります。そしていつか噴出してきます。例えば、家ではいつもにこにこして穏やかに過ごしている子供が、学校に行くと、些細なことできれて、暴発し、喧嘩沙汰をおこしたりするのです。PTSD(心的外傷後ストレス障害)という症状があります。これはこの解離が原因と言われています。この障害の特徴はフラッシュバックです。つらい思いをした身体感覚や激しい怒りや悲しみ等が一挙によみがえり、一種のパニック状態になるのです。どうしてそんなことが起きるのか。我々が経験する出来事は、認知、感情、身体感覚、イメージ、音などの情報がストリーとして記憶されています。一連の流れとして記憶しているのです。ところがあまりにもつらい経験があると、認知、感情、身体感覚、イメージ、音などのまとまりが切り離されてしまう。解離した状態で記憶されるのです。つらさを弱めたり、感じないようになっているのです。人間がつらい体験をいつまでも引きずらずに生き延びるためなの適応手段なのです。普通のPTSDは激烈な戦争、災害、事件、事故、喪失体験等が原因です。最近は複雑性PTSDということが言われます。複雑性PTSDは、主に家庭の中での親の育て方が原因となっています。特にネガティブで不快な感情を認めて受け入れてもらうことがなかった子どもたちがその犠牲者です。そうした感情を持ちこたえることができない。次の行動に向かうことができない。いつまでも不安、不快な感情にとらわれて、取り除くための格闘をしてしまう。あるいは困難に出会うとすぐに逃げ出してしまう。ですからどんな感情も価値判断しないですべて無条件に受け入れるということはとても重要なことなのです。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2016.04.11
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ショーン・コヴィー氏がこんな話をされている。パレスチナには2つの湖がある。一つはガリヤラ湖だ。きれいな湖で、魚も泳いでいる。その土手を緑が彩っている。木々は土手の先へと枝を広げ、癒しの水を吸い上げようと渇いた根を伸ばす。・・・ヨルダン川がなだらかな山を下り、この湖にきらめく水を注ぎ込む。だから、湖は日差しを浴びて笑っている。人はその近くに家を建て、鳥は巣を作る。この湖がそこにあるから、どんな生き物も幸せなのだ。ヨルダン川は南に下り、もう一つの湖にも注いでいる。ここにはしぶきを上げる魚も、風にそよぐ葉も、鳥の歌声も、子どもたちの笑い声もない。旅人はよほどの急用がない限り、別の道を選ぶ。空気は水面に重く垂れこめ、人間も獣も鳥も、ここの水は飲まない。この湖は死海という。隣り合った湖のこの大きな違いはなんだろう。ヨルダン川のせいではない。両方の湖にいい水を注いでいるのだから。湖底の土でもない。まわりの土地でもない。違いはここにある。ガリヤラ湖はヨルダン川の水をもらうが、ためてはいないのだ。一滴注げば、一滴が流れ出る。等しい量の水を与え、受け続けている。死海は一滴もらえばすべてため込む。つまり外に向かって流れ出るということはないのです。(7つの習慣 ショーン・コヴィ キングベア出版 51ページ引用)私はこの話を聞いて、すぐに森田理論の「感情の法則」が頭に浮かびました。どんなに不安で不快な感情もため込んではいけないということです。つまり一つの嫌な感情にいつまでもとらわれ続けてはならないということです。とらわれ続けると死海のようにみじめな人生に甘んじることしかできなくなります。感情の一番の特徴は、時間とともに変化流動しているということです。私たちはその変化の波に抵抗しないで、素直に乗っていれば、一番安心です。そうはいっても嫌な感情はなかなか頭から離れてはくれません。そういう時は、次の言葉を思い出してください。いったん湧き起った嫌な感情を取り消すことはできませんが、新しい行動をとることによって新しい感情を作りだすことができるのです。すると以前に湧き起った嫌な感情は、どんどんその力を失っていくのです。
2016.03.29
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森田先生の言葉です。「もともとわれわれの身体と精神の活動は、自然現象である。人為によって、これを左右することはできない。ところが人々は常識的に、すべてこれを自己の意のままに、自由に支配することができるものと信じている。特に精神のことについてその通りである。自分の身体を空中に持ち上げることの出来ないことは、だれも知っているけれども、精神的のことは、自分の心は自分よりほかに知るものがないとか、自分の心で思う通りに物を感じ、または考えることができるように思いちがえている。」(森田正馬「精神療法講義」、森田正馬全集第1巻 白揚舎)新版森田理論学習の要点に、「感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志によってコントロールできるものではありません」とある。そのことをよく理解して、どんな不安、恐怖、不快な感情も抵抗しないで受け入れていくことができれば、痛みはあるが苦悩でのたうちまわることは無くなる。人間は心の中に恨み、憎しみ、呪い、嫉妬、復讐など、いかに極悪非道な考えをおこし、それを持っていたとしても、心にとどまっている限り、それは罪悪ではない。むしろエネルギーが充満しており、強くてよいことである。私は若いころ異常に性欲が強く淫乱なことばかり妄想していた。でもそれはすべて無罪である。安心していい。理性が発動して具体的な被害を誰にも与えなかったのだから。感情は自然現象、台風、地震、火山活動と同じです。責任はとる必要はありません。それなのに、我々は心にそんな醜悪な感情が湧き起ったことに対して責任をとろうとしているのです。自分を許せないのです。また不快な感情を取り去ってスッキリとしたいのです。これは台風を人間の力で封じ込めようとするのと一緒です。人間に勝ち目はありません。それどころかさらに大きな問題を作り出してしまいます。台風が来たら柳の木のように枝を振り乱し取り乱すことしかありません。苦しさになりきって、通り過ぎるのを待つだけです。被害があれば仕方なく受け入れることです。松の大木のようにまともに受けてしまうと、ある限界を超えると折れてしまいます。
2016.02.27
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(学習テーマ) 感情の法則を生活に活かす(学習のねらい)この部分の内容は森田理論学習基礎編、「感情の法則」にあたります。(内容説明)感情の法則1 感情はそのまま放任し、その自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなしひと昇りひと降りして、ついに消失するものである。感情は基本的には、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、やがて小さくなり、ついには消失してゆきます。ですから不安、恐怖、不快、怯え、悲しみなどの感情はそっとしておくことが肝心です。その感情を刺激しないいでやり過ごすことを心がけることでよい結果になります。感情の法則2感情は衝動を満足すれば、急に静まり消失するものである。不安、恐怖、不快、怯え等の感情を持ちこたえられなくて、そのまま相手に向かって掃き出してしまうことはよくあります。その時は少しだけ楽になります。ところが交通事故と同じようなもので、その後は長きにわたって償いをしなければならなくなります。それらの感情はイライラしてとても苦しいものですが、持ちこたえることが特に大切になります。感情の法則3感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである。この法則は実際に生活に応用していただきたいと思います。感情は同じ行動を長時間にわたり続けていると、体自体が疲れてきます。また飽きが来ることもあります。刺激が無くなって精神が弛緩してきます。マンネリ化して緊張感が無くなってしまうのです。それを回避するためには、時間を区切って、時間がきたら次の行動に移ることです。森田先生はそのことを「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」と言われています。勉強していて眠くなってしまった時は、散歩したり、体を動かしたり、お風呂に入ったりすると、また頭が冴えてくるということがあります。岩田真理さんは30分おきに仕事の内容を変えていくという心構えで生活されているそうです。感情の法則4感情は、その刺激が継続して起きるときと、注意をこれに集中する時に、ますます強くなるものである。これは感情を強める場合の法則です。継続的に刺激を受ければ、必然的に意識と注意がそこに集中することになります。実際には、強く意識すればするほど注意が集中し、注意が集中すればするほど強く意識するという関係が成立して、両者が交互に作用しあって感情を強化することになりますが、森田理論ではその働きを「精神交互作用」といっています。たとえば、視野の中にある特定の部分だけを「見ないようにする」ことは、結果的に、そのものに注意を集中することになります。さらに進んで「見てはならない」ということになれば、ますますそのものを意識し注意を集中することになります。「絶対に見てはならない」ということになれば、絶えずそのものが見えることを恐れるようになります。そうなると、注意は常にそのものに向けざるを得ないのであって、こうして注意の固着が発生します。そうなりたくなければ、どんなに嫌でも「見えるものは見る」「感じるものは感じる」「聞こえるものは聞く」ようにすればよいのであって、素直にその時の事実に従っていれば、決して注意の固着などは起きないのです。感情の法則5感情は新しい経験によって、これを体得し、その反復によって、ますます養成されるものである。これも感情が強化される場合の法則です。新しい経験というのはプラスの経験とマイナスの経験があります。神経質の素質を発揮して小さい雑事を丁寧にこなしてゆくことによって、建設的な感情や社会的な感情も育ってきます。とらわれてきた人は、マイナスの経験を積み重ねているようです。森田先生は、神経質者はなにごとにも逃げ腰であり、また悲観上手であるといわれています。「思うようにできなくて悔しい」、小さい失敗をすると「ああ、自分はダメだ。会社を辞めなくてはいけない」などと考えます。こうゆう態度や姿勢で生活していると、どんどん内向し、主観の世界にどっぷりとつかってしまいます。感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志よってコントロールできるものではありません。この部分の理解と実践は特に重要です。悪天候、台風や地震、津波、土砂災害等の自然現象を人間の意のままにしようとする人はいません。ところが自分に湧き起ってきた不安、恐怖、不快、怯え等の感情は自由自在にコントロールしようとするのです。イヤな感情はどうすることもできない。そのままに受け入れていくしかないということをしっかりと認識することが大切です。これができるようになると、自分に対しても、他人に対しても「かくあるべし」という考え方を押しつけて、自分の思うがままに、コントロールしようという気持ちが少なくなってきます。自分や相手の存在価値を認めて活用していこうという方向に変化してきます。森田でいう「あるがまま」の態度で生活できるようになってきます。感情は意志によってコントロールできないが、行動、実践することによって新しい感情を作り出すことができる。私たちは「発生してしまった感情は、意のままに変えることはできませんが、行動することによって、新しい感情を作り出すことができる」ということを、決して忘れてはいけません。新しい行動を起こすことによって、新しい刺激を作り出し、新しい感情を作り出すことができます。新しい感情が発生してきますと、とらわれていた古い感情にいつまでもかかわっておられないという状況が生まれます。でも、気になることは、ふとした瞬間にまたぶり返すでしょう。その時、行動実践を怠らないで、イヤイヤ仕方なしでも手をつけていると、そのとらわれた感情は時がたつにつれてしだいに薄まってゆき、ついには森田先生のいわれる「無意識的注意」の状態になってきます。つまり症状から解放されてくるのです。(話し合うテーマ、課題)・感情の法則の活用方法で疑問点があったら出しあってみましょう。・自分の生活の中でどんなことを取り入れてみたいと思われましたか。
2015.12.28
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生活の発見誌2015年11月号に高良武久先生の記事がある。14、15ページより引用します。昔、学校の先生が来まして、「私は生徒を平等に愛すべきだと思うけれども、どうしてもそれができないで悩んでいる。教師たる資格はないように思う。」そういうことをしきりに訴えておりましたが、私は平等に愛すべきだという、そういう観念論が間違いのもとだと思うわけです。まあここに50人の児童がおるとすれば、それはいろいろな子どもがいるんだな。実にもう汚い子どももいるし、可愛らしいのもいるし、なんか憎らしいようなのもいるし、それは様々なんだ。人好きのするようなのもいるし、なんか意地の悪そうなのもいる。それはできるもんじゃないんですね。ですから、そういう気持ちは自然に受け入れて、憎らしいと思ったっていいんだ、ということです。ただしかし、教師としてこれを預かって教育しなくちゃならん、とにかく嫌でもこれを世話していこうと、世話をしていく。世話していくうちにだんだんに、その子どもに対する愛情を覚えるようになる。これが自然の人情であります。好き嫌いというものははじめからあるものです。なんとなく好きな人だとか、気の合う人だとか、あるいは反対の人もあるわけですけども、仕方なしに付き合っておればですね、思ったほど嫌いな人でもなくいいところもあるということが、だんだんにわかってきます。母親は馬鹿な子ほどかわいいというようなことがありますが、世話を焼いていきますからして、どんな子供でもたいてい愛情をもつことができ、またそれが自然であります。ここで言われていることは、好きとか嫌いとかいう感じは自然現象でどうすることもできない。その感情を拒否、無視、否定することはできない。またしてはならない。それらはどんなに不快であろうとも受け入れることしかできない。そういう不快な感情を持ったまま生活をしていくという態度が好ましいということです。そういう感情を持ったままイヤイヤ仕方なく最低限の付き合いをしていく。あるいは世話をしていく。すると不快な感情がしだいに融解して変化してくる。時には嫌いなものが、世話をしているうちに好きになってくることもある。嫌いな感情は今も将来も固定しているものではなく、時間とともによきにつけ悪しきにつけ変化してくるものです。その変化する時の流れに身をゆだねて生活するということが、人生そのものであるといわれているように思います。
2015.11.09
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赤ちゃんを抱きしめたりおんぶすることはとても大切なことだそうだ。おんぶは身体が不安定になりますから、子どもは自分の腕を使ってしっかりとしがみつく。その時前庭感覚(重力・平衡感覚)や固有感覚(筋肉・関節など)が刺激され、大人の身体からの振動・呼吸が伝わり、親子が皮膚を接触させリズムを共有した。あるいは顎を肩において、親と同じ視線で見た。物を一緒に見ることで言葉を覚える訓練もできたのです。一つ一つは小さいことですが、こうした子供の身体の基本的な発達を促してきた育児の形が、今、どんどん失われているのです。現代の子どもたちは、見る、聞く、臭う、味わう、触れる等の五感を使った感覚体験もどんどんと少なくなっています。これは昔と違って遊びそのものが変化してきた影響が大きいようです。今の遊びは家の中でテレビを見たり、ゲームをして過ごす。バーチャル世界での遊びが中心だ。あとはサッカー、野球、水泳、音楽の教室に行くぐらいが関の山である。自然の中で身体を鍛えたり、五感を育てたりする機会はどんどんと失われている。五感を軽視しているとどうなるのか。神経症でいえば強迫行為と関係がある。強迫行為は、ガスの元栓、玄関戸のカギ、手を何回も洗うなどが気になり生活に支障を起こしている状態です。この方たちは五感の感覚をほとんど信用できない人たちです。目や耳等で確認したにもかかわらず不安に取りつかれてしまうのです。これは小さいころから五感を鍛えることが少なかったことが関係しているのではないだろうか。記憶としてしっかりと定着していない。五感を信頼するという体験が希薄であるために、信用できないのだ。小さいころから実際に現地に足を運んでよく観察する。実際に鳥の声や小川のせせらぎを聴く。スポーツ会場で実際の試合を見る。実際のコンサートを聴きに行く。花の匂い、食べ物の匂いを嗅いでみる。実際に釣り上げた魚をさばいて料理してみる。そして味わってみる。野山を遊び場とする。泳ぎの体験をする。等の実体験があまりない。あっても普通の人と比べると圧倒的にその体験が少なかったことが考えられる。実際に自分の五感で感じた感覚は、人から聞いただけ、テレビで見た感じ、ゲーム等で体感することとは質も量も大きく異なる。それらが膨大な感覚記憶として蓄積されていくのである。そして大脳の中で、その人の好き嫌いや、価値観、信念などと統合されていく。統合されることでその人のアイデンティティを形作っていく。新たな考え方、新たな行動へと駆り立てられるのである。もし五感がとても貧弱なものでしかないとすると、知覚統合ということから見ると、とても心もとない。森田理論では、感じ、五感というものをとても重視します。感じの発生。感じを高める。すると気づきや発見がある。すると意欲ややる気が出てくる。それに基づいて行動すればいくらでも成長できる。その出発点は五感を鍛えるということなのである。それは今からでも遅くはない。実体験を基本とする生活を送ることである。(五感の故郷をさぐる 山下柚実 東京書籍参照)
2015.11.05
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韓国政府の日本政府への批判が止まらない。従軍慰安婦、歴史問題への謝罪と賠償要求である。2014年4月セォール号が沈没して多くの犠牲者を出したが、その時日本は救助の協力の申し込みをしたが韓国政府は断ってきた。切羽詰まった状況でも日本の助けは借りたくない。日本は決して許すことができないという考えなのである。中国は閣僚が靖国神社に参拝すると途端に猛烈に反発する。また中国政府はユネスコ(国連教育科学文化機関)に対し、第二次世界大戦中に日本が関わったとされる「南京事件」や「従軍慰安婦」に関する資料の世界記憶遺産への登録を申請した。中国人をないがしろにしたという歴史問題は決して忘れてはならないという気持ちなのだろう。その気持ちは当然だろう。理解できる。日本の政府が戦時中したことはひどすぎる。日本国民にも多くの戦死者をだし、わが故郷の広島ではアメリカの一発の原子爆弾によって、その年末までに14万人もの人が命を落としている。その後も多くの人が白血病やガンなどの病気で苦しんで死んでゆかれた。戦時中の日本は隣国では悪事のし放題であった。侵略戦争だったのである。とりわけ韓国、中国国民に対しては本当に申し訳ないことをした。悔やんでも悔やみきれないところである。今日はこの問題を森田理論で考えてみたい。現在の状況は、韓国、中国政府はそこにばかり注意を向けていて、森田でいう精神交互作用が繰り返されて蟻地獄の泥沼に入り込んでいるように思える。絶えず刺激を与え続けているので、坂道を転がる雪だるまのようにどんどん日本に対する嫌悪感が大きくなっている。ついにどうにもならない神経症として固着していった状況ではないだろうか。神経症が重症化すると普通の生活はできなくなる。どんな策を弄しても抜け出すことは難しい。さらに多額の賠償金が絡むので問題が複雑化しているように思われる。この問題を仮に個人の問題だとするとどうだろうか。自分に非はないのに理不尽な相手の行為によって大きな被害をこうむった場合である。とても許せない感情はしばらく収まることはないだろう。森田ではその不快な感情を無くそうとしてはならないという。憎んで憎んで、憎み尽くせばよいのである。決して不快な感情を取り除こうと決闘を挑んではいけない。その不快な感情を持ったままでどう対応するか。日本、韓国、中国は隣人同士である。いつまでも友好関係を持たずに仲たがいしていてもよいことは何もない。イヤイヤ仕方なしに必要なことは付き合っていかざるを得ないのではないか。お互いにある程度譲り合い、妥協することが将来につながるのではないか。いがみ合い続けることは駄々っ子が自分の欲望が満たされずに、やりたい放題に暴れまくっているようなものだ。人間生きていれば、日々の生活を紡いでいかなくてはならない。いくら相手が許せないとは言っても自分たちが生きぬくためには目をつむってゆかなくてはならないこともある。森田理論はそうすれば感情は変化していくと教えてくれている。精神的に楽になると教えてくれている。感情は自然に変化流転していくのである。例えば小学校、中学校時代に憎くてしかたがなかった人と久しぶりに同窓会で会った時には、そんな気持ちがなくなっているようなものだ。そういう考え方を信じて、日本政府も中国政府も韓国政府も、森田理論から打開策を学んでほしいものである。
2015.10.28
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2013年テレビドラマ「半沢直樹」という番組があった。とにかく痛快で、特にサラリーマンに絶大な支持を集めた。「やられたらやり返す。倍返しだ。いや10倍返しだ」という言葉が評判になった。これは自分の父親が町工場を営んでいた。ところが経営不振に陥った。銀行につなぎ融資を申し込んだが断られた。資金難に陥りすぐに倒産。それを苦にして父は自殺した。その当時主人公はまだ小さかったが、取引銀行と大和田という担当営業マンに恨みを持つ。そして復讐を誓うのである。半沢は、その目的を果たすべくその銀行に入行。一方大和田は悪代官なみの手を使いながら、支店長、常務取締役にまで出世していた。今や飛ぶ鳥を落とす勢いで頭取を狙っていた。最後は半沢のほうが目的を果たし、大和田常務に土下座して謝らせたところで終わった。世の中のサラリーマンたちの溜飲を下げたのである。いかに会社勤めはストレスが多いかということである。あらすじとしては勧善懲悪の時代劇と同じなのである。半沢直樹が自分たちのストレスの発散をしてくれたのである。ところで日本人は元々自己主張が少ない。例えば最近日本への中国人観光客はうなぎのぼりである。爆買いの様子がよくテレビに出る。ところが日本からの中国への観光客はどんどん減っているそうだ。これは中国政府や一部の中国人の日本国民への敵対的態度、食品や大気汚染の影響が強いのだろう。これに対して日本人はデモなど面と向かってあからさまに行動はしない。でも関わりを持たないで突き放して無視し出したのである。自分たちの言い分を正々堂々と主張することはしないのである。その態度は表面上おだかかで何も問題はないように思える。しかしその嫌悪感、不平不満というものはどんどんと蓄積されているのだと思う。発散しないでそのエネルギーがどんどん蓄積されているというのは精神衛生上あまりよいやり方とは思えない。半沢直樹は怒りをどんどん膨らませて最後には復讐を果たした。一方日本人は中国に対しては付き合うことをやめて避けるようになった。どちらも怒りや恨みという感情に対してはからいをしているのである。これは森田のいう怒り、恨みという感情の取り扱い方とは違うように思う。森田では怒り、恨みという感情は基本的は自然現象であって意思の自由はない。コントロール不可能なものだ。そういうものは素直に受け入れるしかない。下手に手を出すと必ずしっぺ返しを食らうという。一方行動には意思の自由がある。怒りや恨みはそのまま抱えたまま実践、行動に目を向けていく。するとどうにもならないと思っていた怒りや恨みの大きさはどんどん変化してゆきます。感情は時とともに変化流転して小さくなり流れてゆきます。そういう生き方、生活態度を身につけて生きてゆきましょうといっているのが森田理論です。
2015.10.17
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私たちにはうれしい、楽しい、ワクワクする、気持ちがよいという感情があります。また、不安である。腹が立つ、悔しい、悲しい、恥ずかしい、嫉妬心等の感情もあります。これらの様々な感情がランダムに次から次へと湧き起ってきます。森田理論で学習しているように、本来はその時々に湧きあがってくる感情に身をゆだねて、その時の感情そのものになって生きてゆけばよいのだと思います。それがはからいのない自然な生き方となります。ところが、普通は不安、腹が立つ、悔しい、悲しい、恥ずかしい、嫉妬心等の感情はネガティブ、不快な感情としてない方がよい、存在してはならないものと考えています。でも次から次へと湧き起ってきて、いつもそれらと闘って敗北しているような状態です。苦しいので、なんとか解消するために次のようなさまざまな手段をとります。1、 抑圧。不安や葛藤の原因となる欲求や動機を無意識の領域に押しやろうとする。2、 投射。自分がある人が嫌いだとすると、その人も自分のことが嫌いであるに違いないと勝手に思い込ませようとする。3、 転移。お父さんからいつも叱られていると、そのストレスを学校に行って弱い子をいじめて発散しようとする。4、 反動形成 本当はある異性が好きなんだけれども、行動としては意地悪ばっかりをしてしまう。5、 否認。受け入れられなくなると、そんな事実はなかったのだと否定する。6、 合理化。どうしても欲しいものをたいしたものではないと思いこもうとする。自分の持っているものを本当の価値よりも数段価値があるように思いこませようとする。7、 逃避。事実を観察することをしないで、すぐに回避しようとする。8、 補償。つらいことが目をそらして、自分の好きなことをすることで苦しみを回避しようとする。9、 知性化。失恋したとき理性であきらめるように納得させようとする。10、 攻撃。相手を攻撃することで、不安等を解消させようとすること。これらはすべてはからいです。はからいは不安や恐怖等を解消するものではなく、どんどん増悪していくものだということは、森田理論学習で学習した通りです。私たちはなぜあるがままの感情をよい感情とか悪い感情とかに区分けをしてしまうのでしょうか。これは親の教育が多分に影響していると思います。親だけではなく学校でも、社会においてもそういう方向で教育されて、自分たちの思考パターンとしてしっかりと固定されてしまっています。親は子供に対して、子供の不快な感情を受け入れて受容しようとしていない。不快な感情に対して、叱ったり、非難したり、否定したりしている。すると子どもは、不快な感情を親の前で出してはいけないのだと受け取ってしまう。不安である。腹が立つ、悔しい、悲しい、恥ずかしい、嫉妬心等は表面上隠してしまう。表面上はそんな感情は湧き起っていないかのような態度をとる。自分の気持ちを偽っているのである。これは不快な感情を乖離させて表面上取り繕っているのです。でも無意識の部分では不平不満、ストレスはどんどんと蓄積されている。精神的に大変不健康な状態なのです。それが何かのきっかけで火山の噴火のように出てしまうのである。次にどうして悪い感情を抑圧したり、排除しようとするのでしょうか。これは不安や恐怖があると自分が押しつぶされてしまう。なにもできなくなってダメになってしまう。怒りがあって腹を立てると、人間関係が壊れてしまう。暴力を振るうようになるかもしれない。そうなると社会から排除されて生きていけなくなってしまう。悲しみに打ちひしがれてしまうと、生きる力がなくなってしまう。人に顔向けのできないような失態をしてしまうと、みんなから無能力者とみなされて、日蔭者としてしか生きていく道がなくなってしまう。実際にそうなったわけではないのですが、頭の中で勝手に悪い方に想像し、考えていることは絶対に間違いないと思っている。事実を重視しないで、観念遊びをしているようなものなのです。その結果、ネガティブ、不快な感情を抑えつけたり、無くしてしまおうとする。その行為は計り知れない悪影響をもたらしていることに後で気づかされることになるのです。
2015.08.17
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子どもを育てるにあたっては、子どもの育て方を学習する必要があるのではないでしょうか。その中でも最も大切なことは、子どもの感情を育てるということだと思います。大河原美以さんの本に「ちゃんと泣ける子に育てよう」という本があります。この本の副題には「親には子どもの感情を育てる義務がある」とあります。幼い子供たちの感情の発達は、確かに危機的な状況にあると言えます。そしてその危機は、決して他人事ではなく、一生懸命よい子に育てたいと思って、ごくふつうに子育てをしている親子関係のなかにも起こっているのです。思いやりのある子、やさしい子に育ってほしいと願えば願うほど、子どもたちは感情をコントロールできない子に育ってしまう。それが今の時代の子育ての現実なのです。この本は、わが子をよい子に育てたいと願っているお母さん、お父さんに、どうしても読んでいただきたくて書きました。もしかしたら、つらくなってしまうかもしれません。でも子どもたちのために、どうしても今、知ってほしいのです。片言の言葉を覚え始めたころから、子どもは親を困らせることばかりします。ごはんをきちんと座って食べられない。食事の時飲物をこぼす。スーパーへ行くたびにものをねだって泣くわめく子もいます。障子を破る。家のものを手あたりしだいつつく。そして壊す。家の中を走り回る。大声をだして泣く。思春期ではさらにエスカレートしてきます。困ったことばかり続くと、どうしても叱責したり、叩いたりするようになります。なんとかして、力で親に従うように抑圧しようとします。親が不快感に耐えられないということもあります。さらに我慢できる子どもになってもらいたいという気持ちもあります。でも考えてみてください。子どもは足りないところがあるのが当たり前です。親に迷惑をかけるのが当たり前です。まだ脳の発達が不十分ですから、欲望をコントロールできる状態ではないのです。それを叱りつけたりしては逆効果となるのではないでしょうか。そんなに困るのなら少し工夫をしてみたらいかがでしょうか。例えば食卓の床には、こぼしてもいいようにビニールシートを敷いておく。買い物に行く前にはきちんと、今日はおもちゃやお菓子は買わないと約束しておく。壊されたら困るものは、目に見えないところに片づけておく。その他人の迷惑になることは対策を立てておく。その上で子どもの好奇心、「生きる力」を見守っていく態度が大切だと思います。できるだけ子どもには自由にさせてあげたいものです。親はイライラハラハラするでしょうが、今一歩我慢しなければなりません。この本によると、小さいときに周りの気持ちを察することができる子どもは、20歳を過ぎたときにやさしい思いやりのある子には育たないとあります。つまり自分の素直な気持ちを我慢して、親の機嫌を見てコントロールしてきた子どもです。そんな子どもは成長して家庭内暴力、学校でいじめなどに加わるようになるかもしれません。では親が一番力を入れることはなにか。それは目を覆いたくなるようなわがままな態度を改めさせることではありません。子どもの体の中を突き抜けていくなんともいえない不快な感情をよく見てあげることです。その行動のもとになった感情を察して、言葉に置き換えてあげることです。不快な感情が言葉と結びつくことによって、絡み合った糸がほぐれてくるのです。子どもは自分の身体感覚にあった言葉がけをしてもらうと、不快な感情は不思議なくらいぱたっとおさまり落ち着いてくるものなのです。これを「感情の社会化」といいます。感情の社会化が行われると、他人への思いやりや共感の気持ちが共有化できるようになるのです。考えてみれば、森田理論も同じことを言っています。不安や恐怖等の感情は自然現象であって人間の意志の自由はない。自然現象に対して人間のとるべき態度は、謙虚に受け入れて服従していくことである。我々は「感情の社会化」という段階から卒業できていないのかもしれません。でも今からでも遅くはないと思います。親、兄弟、配偶者、子ども、友達、会社の同僚等の人たちに対して、ネガティブな感情を受容と共感の態度で受け止めてあげようではありませんか。この実践に取り組む方が、早く自分の不安や恐怖の感情に振り回されなくなると思います。早く森田本来の生き方に近づくのではないかと思っています。
2015.08.08
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私たちは不快な感情が湧き起った時、闘うか、逃げるか、うずくまってしまうかします。うずくまるというのは、恐ろしさのあまり身動きできなくなってしまうのです。不快な感情と向き合うということをしなくなります。そのときの注意は自分の身体の震え、動悸、心の胸騒ぎ、不安や恐怖に向かいます。その時のことは心的外傷として記憶されます。いわゆるトラウマのことです。普通記憶というのは、認知、感情、身体感覚、視覚、聴覚がセットになって記憶されています。例えば学校でいじめにあったとします。まずいじめを受けたと認知します。その時の感情は、恐ろしかった、悲しかった、つらかった、腹が立った等です。身体感覚としては、学校へ行こうとすると体が震える。腹が痛くなる等です。視覚としては、自分を見てにやにや笑っている友達、無視している顔がありました。聴覚とは自分をいじめる子どもの声、くすくす笑う取り巻きの声、チャイムの音、机を動かす音などです。これらの記憶がセットになって記憶中枢の海馬で処理されて、大脳新皮質に貯蔵されます。しばらく経つと記憶の多くは消去されて忘れ去られてしまいます。トラウマの場合の記憶方法はこれとは異なります。認知、感情、身体感覚、視覚、聴覚がまとまることなく個別に切り離されて別々に記憶されてしまうのです。このことを解離といいます。これは人間が心の危機を乗り越えていくために、自然に身に付けた防衛の仕組みです。これがあるおかげで、不快な感情が無かったことにすることができるのです。解離させることによって生き延びることが可能になるのです。ところがこのバラバラな記憶というものは、現在という時間のなかで自由にさまようことになります。すると、何らかの引き金によって、バラバラな記憶がリアルによみがえってくるのです。このことをフラッシュバックといいます。現実にはいじめはないのに、友達の雑談での笑い声などを聞くと、いじめられていた時の状況がありありと再現されてしまうのです。そして何度も容易にパニック状態が引き起こされてしまうのです。トラウマを経験された事のない人は信じられないかもしれません。神経症との関係では不安神経症というのがあります。発狂恐怖、孤独恐怖、高所恐怖、閉所恐怖、心臓発作恐怖、乗り物恐怖、広場恐怖等のパニック発作は解離現象と関係があるかもしれません。また神経症ではよく予期不安ということが言われます。これも現実には不測の事態が引き起こされていないのにもかかわらず、以前経験した精神の混乱状態が間違いなく引き起こされると思っているのです。これも解離の結果自然に湧き起こってくるのかもしれません。トラウマはどう対処していくといいのか。これはトラウマが引き金となってパニック状態が起きたときがチャンスです。その時にバラバラに記憶されている記憶を再統合させてやればよいのです。その時に必要なことは、その時のつらいネガティブな感情を受け止めて共感して受け入れてくれる第3者なのです。安心感を与えて癒してくれる言葉がけなのです。つまり相手のネガティブな感情を思いやり、寄り添ってくれる人の力が欠かせないということです。(ちゃんと泣ける子に育てよう 大河原美以 河出書房新社参照)
2015.08.06
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第2の対応です。それはネガティブな感情を放置できる人です。森田的に見て好ましい対応です。森田ではどんなに危険、醜悪、好色な感情であっても自然現象である。台風、地震、雷、ゲリラ豪雨等の自然現象と同じである。私たちに不利益を与えるものではあるが、基本的にどうすることもできない。コントロール不可能であるものは、謙虚に受け入れるしかない。こういうことがよく理解できている人だと思います。理解できているとともに、そのように対応できている人だと思います。つまりネガティブな感情を抱えたまま、次に進むことができる能力を獲得している人です。つらい感情に耐えたり我慢できる力を身につけている人です。そういう人は自然に逆らうことがない。たとえて言えば、風や水の流れに逆らわないようなものです。気流に乗って上昇してどこまでも飛ぶことができる。また水の流れに乗って、川下りを楽しんでいるようなものです。岩にぶつからないように微調整するだけで、あとは何もしなくても自然に任せておけばよい。ゆっくりと変化する景色を楽しんでいればよいのです。自然を受け入れる。自然に服従することは万事うまくいくようになっているのです。こういう生き方は葛藤がない。苦しみは次から次へとやってくるが、大きな苦悩にまで膨らむということはありません。これは注射を打たれるときは、ちっと痛いが、針が血管の中に入ってしまえば痛みがなくなるようなものです。その後我慢して注射に耐えてよかったという気持ちになります。こういう仕組みを理解して生活に応用できるようになるとよいわけです。できていない人はこれからその能力を獲得していけばよいのです。その方法は、森田理論がいくらでも教えてくれています。あと大事なことは次世代の子どもたちにもその仕組みを、養育者が身を持って教えていくことです。特段難しいことではありません。子どもの近くにいて、ネガティブな感情を読み取り受容して共感していくことです。そのためには、大人がまずネガティブな感情を受け入れることができる段階に到達することが大切です。第3の対応は、ネガティブな感情を放置できない人です。まずいい対応です。まず養育者がネガティブな感情の取り扱い方が理解できていない。つまり感情は人間がいくらでも操作可能であると信じて疑わない人である。あるいは理屈は分かっていても、今までの習慣でつい抵抗してしまう。それをもとに間違った対応をしているのです。子どもを叱る。怒る。けなす。存在自体を否定する。無視する。拒否する。抑圧する。等です。こういう人は、無鉄砲にしけの中に船を出して悪戦苦闘しているようなものです。あるいは自分の力を過信して積乱雲の中に飛行機を突っ込ませるようなものです。エスカレーターに乗って逆走しているようなものです。自然の流れに抵抗しているので大きな無理があるのです。最後には心身症になり、精神を病んでしまうのです。そういうふうに養育されると、自分でもネガティブな感情はいかようにも取り扱いが可能であるという錯覚を持ってしまうのです。そして骨の髄まで、ネガティブな感情をやりくりする。はからい続ける。あるいは、直面することを避けてすぐに逃避するようになるのです。最後には、ネガティブな感情、予期不安が湧き起ること自体を恐れるようになるのだと思われます。不安や恐怖の対応にはこのように3つの方法があるということを理解していただきたいと思います。その先どの方向を目指せばよいのかは自ずから分かることです。
2015.07.26
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理不尽な出来事、不本意な出来事に遭遇したとき、私たちにはネガティブで不快な感情が湧き起ってきます。不平、不満、不安、恐怖、怯え、怒り、憎しみ、悔しさ、悲しみ、嫉妬心、憂鬱、無力感等です。この感情をもとにして3つの異なる対応が生まれると考えています。順番に見てゆきましょう。第一の対応です。これは子どもの対応です。あるいは子どもみたいな大人の対応です。子どもは、すぐにキレてしまって、不快な感情をすぐに態度に出します。ぐずって泣く。暴言を吐く。暴力を振るう。でも子どもだから仕方ありません。成長するに従って改善されてきます。しかし大人がこんなことをすると大変です。後先を考えないで衝動的な行動は、反社会的な行動として厳しく責任追及をされます。一旦そういう烙印を押されると、危険人物とみなされてしまいます。そして社会から排除されてしまいます。それなのにどうして衝動的な行動をしてしまうのか。断っておきますが、決してその人のパーソナリティに問題があるわけではない。これは脳の機能不全にあります。普通、私たちはある欲望が湧き起ると、それを抑制する反対の感情も同時に湧き起るようになっています。森田では精神拮抗作用と言います。心理学ではアンビバレンス、両価性と言います。その機能をもとにしてバランスをとりながら生活してゆけばよいのです。この機能の獲得は親や養育者の教育のたまものです。抑制力が働かないのは、十分に成長を促すことができないで、置き去りにされてしまったのです。この脳の機能が十分でないと、社会に適応することが非常に難しくなってきます。本人のせいではなく、養育者の教育のせいで一生苦労を背負っていくということは大変残念なことです。対応方法は別途考察する必要があります。この点に関しては2015年5月9日の「理知」とは何かも参照してください。次に進みます。
2015.07.26
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感情の法則3に「感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである」というのがある。この法則はもっと掘り下げて、生活に応用できるまで深めていった方がよいと考えている。私は以前トライアスロンに取り組んでいたが、最初に完走してテープを切った時はとても感動した。努力が報われ、やればできるんだという自信も湧いてきた。その高揚感は1週間は続いた。ところがその後完走してもその時のような感動は味わうことができなかった。嬉しいことは嬉しいのだが、やっと終わったかという気持ちの方が強かった。この法則の意味するところは、どんな行動にもリズムがあるというということだ。つまり緊張感はずっとは続かない。反対に弛緩状態もずっとは続かないということだ。楽しいこと、嬉しいこともずっとは続かない。また苦しいこと、悲しいこともずっとは続かない。一山登れば次には必ず一山下る。海の波と同じだ。大波がくるとこのまま大きくなり、船が波に飲み込まれそうになるけれども、事実は違う。必ず波の上に持ちあげられる。いつまでも大波のままでいることはできず、次には大きな谷になる。だからいくら苦しくても、持ちこたえて普通の生活を心がけていれば、どん底は必ず脱することができる。これは自然の法則なのだ。弛緩状態になれば、自分を刺激して緊張感をもたせる。緊張感が強すぎれば少し気分転換をして弱める。つまり緊張感と弛緩状態は絶えず波のように繰り返されているのだから、その仕組みを理解して、緊張感と弛緩状態のバランスを心がけた生活をするということが大切なのである。この感情の法則3をどう生活に応用するか。例えばプロ野球でいえばローテーションに組み込まれたピッチャーの登板日はあらかじめわかっている。その日に身体と精神の緊張状態を最高レベルに持っていくとよいのである。例えば登板したあとは肩をアイシングしたり、マッサージをしてケアをしている。次の日はリラックスして体を休ませる。ときには気分転換をはかる。3日目にはストレッチや筋肉体操を始める。ランニング中心のトレーニングをする。4日目からキャッチャを立たせて肩を作り始める。自分の課題に取り組む。5日目次の対戦相手の研究をする。本格的に投球練習をして士気を高めていく。そしていよいよ登板日を迎える。元日本サッカー協会の専務理事だった平田竹男氏曰く。W杯などの国際大会の場合は、4年前から準備を始めた。監督は誰にするか。強化選手の人選はいつにするか。海外組の招集時期を見極める。戦い方の意思統一をはかる。チームとしての連携プレーを高めていく。そしてベストのタイミングにベストの相手との強化試合を組んでいく。目標の日から逆算して、いつ頃から、どんなチームと日本代表は戦うべきなのかを順次考えています。そしてしだいに日本チームのコンディションと士気の鼓舞を高めていくのだ。つまり緊張と弛緩の波を心得て、自分たちでその波を作り出しているということです。私たちも緊張感を持って昼は活動している。夜はたいてい11時までには寝て心身ともに弛緩させて休んでいる。つまりバイオリズムを持って生活しているのである。ネットゲームが好きだからといって2時、3時まで起きているような生活。反対に朝寝をしたり、昼間に何時間も寝るような生活はリズムがくずれて、心身とも不健康になる。私たちはただ単に緊張感という波、弛緩状態という波にうまく乗って生活していけばよいのである。極めて簡単なことである。それが自然に服従、運命に従うということにつながるのではないだろうか。
2015.06.25
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肉親の死に遭遇すること。理不尽な事故に巻き込まれてしまった。受験や資格試験に落ちてしまう。彼女や彼氏に交際を申し込んだのに断られてしまった。悲しいことです。それらにどう対処して行ったらよいのか。垣添忠生さんの話を紹介します。1、 涙を流す。涙には大変大きな癒し効果があります。泣いた後には脳内にエンドルフィンが増加することが確認されています。エンドルフィンには鎮静作用があり、リラックスさせたり、スッキリした感覚をもたらします。泣きたくなるのは私たちの心が癒えようとする働きの現れですから、我慢したり遠慮する必要はありません。大いに泣きましょう。2、 言葉にして苦痛を吐き出す。理解や共感を示してもらいながら聞いてもらうと、表現することに抵抗があった苦しみを無理なく言葉にして解き放つことができます。また、人に理解してもらおうとして話すときには、自分の考えを整理して説明しようと努力します。その作業をする中で、新たな気づきがもたらされることがしばしばあります。日記等に書くことも有効です。3、 一人で苦しまない。生活の発見会等のセルフヘルプグループに参加する。カウンセラー等に相談する。4、 生活の負担を減らしてしっかりと悲しむ。悲しみから目を背けたり、他のことで気を紛らわせたりしていると、悲嘆の経過が長引き、悪化することがあります。5、 区切りのセレモニーをおこなう。法事などのことです。6、 自分なりの死生観を持つ。死後の世界が存在するかどうかは誰にもわかりません。でもあると仮定して生きていくことは、人生そのものが全く違ったものになります。7、 身体を動かす。ウォーキングなどの有酸素運動がよいと言われています。8、 丁寧に暮らす。日常茶飯事にものそのものになって取り組んでみるという事です。これらは森田理論に通じるところがあります。悲しみは抱えているだけではどんどん増幅してしまいます。これらを参考にして悲しみを少しずつ流していくことを実践してゆきたいと思います。(悲しみの中にいる、あなたへの処方箋 垣添忠生 新潮社)
2015.02.24
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生活の発見誌10月号に「生き生き森田ワークショップ」の学習内容ついて書いてあります。ある方が「今日ゴミ出しをした時に人に合わなかったからよかった」といわれた。たぶんこの方は女性なのかもしれませんね。これを聞いた男性のAさん曰く。私なら「人に合うのは嫌だという感情はそのままにして、ゴミ出しをするという目的を果たせたのが良かった」と答えていたでしょう。これはまさしく森田理論学習をした人の模範解答のようですね。ここから、森田理論を深めておられるのが素晴らしいと思います。さて、ゴミ出しをされた女性の人は多分化粧をされていなかったのでしょう。だからだれにも会いたくない。女性なら当然そうですね。結果として人に合わなかったからうれしかったのです。素直です。この方の良いところは、沸き起こってきた感情に対して、是非善悪の価値判断をされていません。沸き起こってきた感情をそのまま味わっておられます。普通は沸き起こった感情に対して是非善悪の価値判断をしてしまいます。うれしい感情はあってもよいが、不快な感情や醜い感情、自分が感じたくない感情は沸き起こってはいけないなどと。本来感情は自然現象ですから、よいも悪いもないものです。したがってどんな醜悪な感情が沸き起こっても責任を負う必要のないものです。この文章を書かれたAさんは、人に合うのが嫌だという感情をそのままにして放置するといわれています。ということは、感情を是非善悪で選別しているということです。この感情は良い悪いでいうと、どちらかというと悪い感情だけれども、森田理論学習ではそのまま受け入れなさいと言われている。だからセオリー通り受け入れます。感情に対して是非善悪の価値判断はしましたが、そこを押しとどめて森田理論に従いました。何でもないことのようですが、ここが問題です。価値判断をするということが習慣になっているということが問題なのです。感情はそのままにしてゴミ出しという「なすべきをなす」という行動に手を付けました。それこそが神経症を治す正攻法だと教えられているからです。感情はそのままにして、本来の「なすべきをなす」という行動はそれでよいのです。特に森田学習に取り組み始めたばかりの人はそれでよいのです。ところがいつまでも感情に対して良いとか悪いとかの価値判断をしていては困るのです。ここで問題になるのは、感情をいかようにもコントロールしようとしているその態度が問題であるということです。どんな感情でも空に放された風船のように風の向くままに流れていく状態がよいのです。それを強いて抑え込もうとすると、風船は簡単に破裂してしまうことがあるのです。自然現象である感情はあるがままに認めて受け入れる。服従していくという態度が目指すべき方向です。
2014.10.31
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忠臣蔵が今でも人気があるのは、怒りを表現するのが困難であった時代に、2つの対照的対処の方法で実行したからです。一つは、浅野内匠頭が侮辱されたときに、殿中松の廊下で、それも勅使を迎える直前に吉良上野介に斬りかかるというストレートな怒りを噴出させたこと。それがいかに無謀なことであるか知りながら、我慢しなかったこと。姑息な手段で相手を打ち負かすのではなく、最も自己犠牲的な仕方で怒りを表現したことに同情が集まったのです。そして、もう一つは、この事件でお家断絶となった赤穂の浪士たちが大石内蔵助の指揮のもと、主君とは全く逆のやり方で、怒りを短絡的に発散させることなく、あくまでも「いきいきとした怒り」を保持しながら、その効果的放出の機会を持ち続けたからです。主君の仇をうつために、彼らはありとあらゆることを犠牲にした。親子の関係までも、妻子までも、恋人までも、世間の評判までも犠牲にしたのです。怒りを短絡的に噴出させずに、腐敗もさせずに、鮮度を保ったまま備蓄すること、そして忍耐強く機会を持って、効果的に放出することは、それほど困難であるからこそ、当時の人々は感動したのであり、今なお人々は感動するのです。(怒る技術 中島義道 PHP引用)怒りというのは、大人になると我慢したり、耐えたりするのが普通です。でも中島氏は、基本的には、ため込まないで吐き出してやるというのが正しい対処法なのだといわれています。そういえば私もこういうの経験をしました。駅の中のレストランに入り食事をしました。昼の定食だったと思います。代金は1000円以下だったと思います。あいにく1000円札がなく1万円札で払いました。すると丸々太ったウエイトレスのおばちゃんが、「うちは両替商ではないんだ。安くしてあげているんだから小銭ぐらい用意してから来い」と罵倒するのです。当然私はムカッとしました。ところがこれは日本では珍しい光景ですが、外国では普通のことだそうです。言いたいことや自分の意見があれば、双方が自分の主張を言い合う。自分を抑える。我慢する。引き下がる。というような考えはないのだと思います。これは確かに精神衛生上悪いことではありません。自分の怒りの感情を口に出して発散するので、後に残りません。ストレスが溜まり、根に持つということがありません。ただ問題なのはその後の人間関係に悪影響を及ぼすことです。でも最初から相手の機嫌を取っていると自分の頭のほうがどうにかなってしまいます。私は感情は口に出して吐き出す。その際森田理論学習で学んだ純な心と私メッセージをいかんなく活用する。出来ない時は日記などに相手の理不尽極まりない態度を書くことです。怒りを溜めないで、上手に吐き出す。これができるようになることは、「森田の達人」に近づいたということだと思います。
2014.10.02
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2つ目。では大きな犬が目の前に現れて吠えてきた場合はどうでしょうか。この場合は大脳新皮質の前頭前野が働きます。前頭前野は人間と動物ではその大きさ役割が大きく違います。前頭前野はまず、目の前の出来事に対して、状況の確認、把握をします。そして逃げた方が良いのか、闘ったほうがよいのか、あるいは棒切れで追い払ったほうがよいのか即座に状況判断を行い、比較、検討して結論を出しています。その際この長期記憶を活用します。検討するに際して有力な材料なります。そして総合的に判断します。その場に即した一番良い方法を提示できれば問題は起きません。不安に学び、不安を活かすことになります。ところが神経症の人はここで問題を起こすことが多いのです。それは一つには長期記憶に頼ってしまうことです。事実の把握をしないで、不快な感情である長期記憶だけで対応方法の結論を出してしまうのです。小さい時に犬に噛まれたことがある。あるいは襲われたことがある。そういう恐怖の体験は長期記憶として貯蔵されています。それに全面的に依存しているとどうなるか。現実をじっくりとみることをしなくなります。今は身体も大きくなり、昔の小さかった自分ではない。知恵もついてきている。その自分が目の前の犬に対しているのである。力関係からしてなんとかなりそうだという場合は増えているはずです。それなのに昔蓄えた長期記憶に振り回されているのです。こんな場合怯えて犬を見ないようにしているのです。これは森田理論学習でいう気分本位な態度です。大きな問題は事実を見ていないことです。これでは容易に注意が自己内省的に働き、自己嫌悪、自己否定につながります。2番目の対応としては、長期記憶を無くしようとすることです。長期記憶は嫌なつらい記憶ですから、犬と対決する前に、その長期記憶自体を無くそうと悪戦苦闘するようになるのです。目的外の行動に走ってしまうのです。そうしないと自分が不安に押しつぶされてしまうのではないかと思うのです。手段の自己目的化に陥っています。これは本末転倒です。強迫神経症に陥る人の典型例です。3番目には前頭前野だけで対応しようとするのです。理性だけで対応しようとするのです。せっかくの判断材料を無視するのです。そして観念の世界だけで、対応策を立てるのです。この場合も事実を見ていません。事実と観念は通常大きくかい離しています。森田でいうと思想の矛盾に苦しむことになるのです。この場合はもっとひどい強迫神経症に陥ります。森田理論学習はこうした脳科学の面から解説するとさらに分かりやすくなります。(脳の事典 成美堂出版参照)
2014.08.26
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神経症の人は不安、恐怖、不快な感情にとらわれて、日常生活に悪影響が出ています。それは現代の進化した脳科学ではどう説明されているのかを見てみたいと思います。これは森田先生が生きておられた時代では分からなかったことです。まず、五感で感じた不安、恐怖、不快な感情は大脳新皮質で処理された後、大脳旧皮質にある「扁桃体」に送られます。扁桃体は不安、恐怖、不快な感情、喜び、快感等を扱う司令塔です。それはさながら各省庁が集まっている霞が関を連想させます。伝達はドパミン等の神経伝達物質を使って行われています。喜び、快感は報酬系神経であるA10神経や淡蒼球などに送られます。快を伴うので積極性・やる気が出てきます。やりすぎは依存症に陥ります。薬物依存、アルコール依存、セックス依存症などです。不安、恐怖、不快な感情などは主に「海馬」に送られます。海馬はすべての記憶を司る器官です。しかし海馬自体は、短期記憶は関係していますが、長期記憶にかかわっていません。そういう情報を整理して、長期記憶の対象は大脳新皮質の側頭葉などに送り込んでいるのです。長期記憶は大脳新皮質で貯蔵されているのです。短期記憶は使用後すぐに消去されます。ここで問題となるのは、海馬はどのようにして、不安などの感情を短期記憶、長期記憶として区分しているのかということです。これについては、長期記憶として分類されるものは、まず命にかかわるようなもの、自分の一生に影響を与えるようなインパクトの強い刺激です。また何度も繰り返して刺激を受けると短期記憶から、長期記憶に分類されてしまいます。忘れてもいいような取り越し苦労を継続して刺激していると、短期記憶から長期記憶に格上げされて大脳新皮質に送り込まれるのです。また、わずかな不安に敏感に鋭く反応する神経質傾向のある人も、長期記憶を増やしてしまいます。次に長期記憶として蓄えられた情報が、同じような不安などに直面した場合に、どのように取り出されて利用されているのか。2つのルートがあります。まず一つ目。これには海馬が関係しています。海馬は必要な時に必要な情報を瞬時に取り出し、対応を指示する役目も負っています。たとえば、車を運転しているとき、人が飛び出してきた。とっさにハンドルを操作したり、ブレーキをかけるなどの指示は海馬が行っています。
2014.08.26
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台風11号が北上している。四国、中国地方直撃である。昨晩から風も強くなってきた。今からベランダのあとかたづけをしておこうと思う。余談だか私はこの11という数字がどうも苦手だ。何か重大な事件によくからんでいる。父親が亡くなったのも、義理の母が死んだのも、11日だった。思えば東日本大震災は3月11日。世界貿易センターでテロがあったのも9月11日だった。これは理屈ではないんですね。体が受けつけないのです。さて台風で思い出すのは柳の木だ。以前台風の時のことが忘れられません。そこには柳の木が何本もありました。全部の柳の木が取り乱していたのです。葉っぱが引きちぎれないばかりに荒れ狂っていたのです。苦しさになりきっていたのです。私はそれを見て森田理論と同じだと思いました。苦しさになりきって、通り過ぎるのを待っているのだな。これだよ。これでいいんだよと思わずつぶやいていました。台風一過の翌朝は透き通るような青天でした。柳の木は何事もなかったかのように頭を垂れています。心に迫るものがありました。よく頑張ったねと声をかけてやりました。新聞を見ると松の大木などが根こそぎ倒されたとのこと。松の大木はきっとこんな台風なんてどうってことはないと思っていたのでしょう。そしてある程度までは、実際に踏ん張って強かったのだろうと思います。柳の木はそんな松を見てなんと強い人なんだろうと思ったかもしれません。でもある一定の限界を超えると、もろくも折れて命を落としてしまったのです。感情には逆らってはいけない。いやな感情も抵抗しなければ、必ず時が解決してくれる。貴重な経験をしたことを思い出します。
2014.08.09
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感動する映画を見た時私たちは涙を流します。普段は泣かない大人でも自然に涙があふれてきます。これは我慢する、耐えるということから見ると反対の行為です。喜怒哀楽を我慢して、耐えたりしないでストレートに反応していることと同じです。この時体の中では何が起きているのか。涙を流しているときは副交感神経が優位になっています。極度に緊張した状態から、泣くことによって、一挙に副交感神経が優位な状態にシフトするのです。それが大きなリラックスの気持ちに切り替わっているのです。感動の涙を流したとき、無理にそれを押さえつけないで、そのまま泣いていると、とてもさわやかなすっきりした気持ちになることは皆さんも経験されていることと思います。ところが大人は、特に男性は人前で涙を見せることはみっともない、恥ずかしいことだと思っています。涙が出そうなときに我慢したり、耐えたり、押さえつけたりしているとどうなるのか。感動する映画を見た時、交感神経が高まったままで映画を観終わることになります。しばらくして、交感神経は収まってきますが、感情のわだかまりは残ったままになるのです。却ってそれがストレスに結びついてしまいます。夫婦や親子で問題を抱えている人、学校や職場での人間関係で悩んでいる人は、長いこと感動の涙を流したことがないのではありませんか。そして嫌な感情はできるだけ拒否したり、無視したり、抑圧したり、否定して我慢したり耐えたりされていることと思います。その方法はますます自分を窮地に追いやります。そういう方は発想の転換を図ってみてはいかがでしょうか。不快な感情は涙で洗い流してやるという気持ちの切り替えをされたらどうでしょうか。折に触れて感動する映画を見る。感動するテレビドラマを見る。感動する人の伝記を読む。感動する音楽を聴く。感動体験を経験してみる。そしてその時はできるだけ感動の涙を流す。それは嫌な感情をため込まないで吐き出してしまうので、人間関係の好転につながります。
2014.03.22
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皆さん、こういう体験はありませんか。ドライブ中、CDを聞いているとします。何度も同じCDを聞いているとすると、ある曲が終わって次の曲が始まる前に、次の曲のイントロが自然に口をついて出てくるのです。実に不思議です。口をついて出てくる曲は、間違いなくその曲なのです。15曲から20曲ある中で間違いなく、次に演奏される曲を口ずさんでいるのです。これは意識している部分ではわからないのですが、無意識の感情の部分でははっきりわかっているのです。無意識には恐るべき力があります。人によっては意識している部分は1割で、その裏に広大な無意識の部分が横たわっているといわれます。無意識の感情が我々の生活に大きな影響を与えているということです。顕在意識では、前に進まなけばいけないと思っても、体は自然後ずさりしているというのは、無意識の感情の反応です。無意識の部分は、意識で納得させることはできません。また無理やり、無意識の感情を意識化しようとすると問題が発生します。私はアルトサックスを吹いていますが、一番うまく演奏できるのは、指の動きを信頼して、無意識で淡々と吹いているときなのです。ところが途中、頭の中で前触れもなく意識化が起きるのです。大脳新皮質の前頭葉が動き出すのです。演奏中、一瞬上手く吹けるだろうか。ここはよく間違うこところだ。うまくいくだろうか。なんか不安がよぎることがあります。そんな時はちょっとしたパニックになります。それにとらわれているといってもよいと思います。そんな時は、ほとんど間違えてしまいます。イチローは、試合がある時は、ルーティーンの流れ作業をこなしていきます。起きる時間、いつものカレーを食べて、いつもの時間に球場につく。同じ時間にいつもの機械体操をして、打撃や守備練習をこなす。打席に入る時のストレッチ、打席に入るまでの歩数。打席でのしぐさすべて同じことを繰り返す。私には、これは無意識を意識している行動に見える。意識がししゃり出てくると、意識が分散して気が散ってしまうのだと思う。それがあるとヒットを打つための障害になる。イチローは無意識を意識している。それが打撃で成果を上げるために一番重要だということをよく分かっていると思う。これらのことから言えることは、意識化できていることを第一にして行動を起こすことは思い通りにはならないことが大きいということです。難しいことだが、無意識を信頼して行動していく。それが正道ではないのか。森田理論でいえば、「かくあるべし」ではなく、心の中の自分の本当の気持ちや感情、それを探し出して、その気持ちから出発していく。これが大事だということです。
2014.01.21
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今の自分をほめてみよう 平木典子著を参考にしています。ある女性秘書の話です。部長から与えられたメモをもとに、パソコンで書類を仕上げる仕事が多く、最初は自分なりに工夫して目立たせる部分を枠で囲ったり、書体を工夫して作っていました。ところが、「これではだめだ。書き直しなさい」と、たびたび部長から突き返されました。本当は自分の考えた通りにするほうが、会社にとってはベターだと思われるのに、その秘書の女性は反論できませんでした。自分の本位を曲げて、部長の言う通りにしました。そんなことを繰り返しているうちに、「だんだんと自分の中でああしたい、こうしたいという気持ちがなくなってきた」といわれるのです。「自分が思った通りに作っても、どうせ気に入ってもらえないのだから、もう何も考えずに、気に入れられることだけを考えて作るようにしました。」これは自分の意見を言いたいという気持ちを押し殺して、無理やり相手に合わせているということです。これは嫌な気持ちがどんどん蓄積されてゆきます。蓄積された嫌な気持ちはストレスとなり、どこかではけ口を求めるようになります。また、そのように自分の感情を押し殺していると、脳のほうはもう感性は必要ないのだなと判断してきます。すると感受性は鈍化してきます。麻痺してきます。腹立たしさ、怒りを感じられない人間になってしまいます。さらにそうしたマイナス感情のみならず、プラスの感情にも鈍感になってくるのです。感情のないロボットのような人間というのはとても気味の悪いものです。人間にとって、感性を拒否しないということはとても大事なことだと思います。
2014.01.15
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小さな不快な感情をたいしたことはないと抑え込んでいくと、自分の感情は次第に鈍化してゆきます。他人が自分に嫌がらせをしても、いつも我慢して押さえつけていると、自分が傷ついていることが分からなくなってくるのです。これは大変な問題です。感じる力が弱まってくるのです。感情を拒否、無視、抑圧、否定した結果、自分の本来持っていた鋭い感性が失われていくのです。もともと持っていた能力の喪失現象が起きるのです。恐ろしいことです。感性がなくなると、まず危機に対する反応力はなくなってゆきます。また感動する、うれしいといったプラスの感情も感じられなくなってくるのです。感性がなくなると、行動のもとになる気づきがなくなり、無気力、無関心、無感動な人間として生きてゆかなくてはなりません。感情を持たないロボットのようなものです。考えただけでも恐ろしいことです。さらに小さい不快感というものは、表面では何事もなかったかのように見えても、無意識の領域では不満が蓄積されているのです。それが長い期間にたくさんたまってくると、ひずみとして蓄えられます。地震の原因となる地殻のひずみの蓄積のようなものです。いずれ最後には耐えられなくなります。どうにも我慢ができなくなります。無意識の世界では、なんとかその不満を解消しないと気が狂いそうになるのです。人間は理性で動いているのではありません。感情で動いているのです。理性で動いていると思うのは錯覚です。無意識に蓄積された感情が、理性に優先して働きます。そして最終段階では、後先を考えずに大爆発を起こしてしまうのです。後で必ず後悔します。その責任のつけは大きいのです。こうした事態を避けるためにはどうしたらよいのでしょうか。これには何としても、小さい感情を確実に素早くキャッチすることが大切となるのです。さらにその小さい感情のうちに適切に処理してやるということが重要となります。その方法については今まで何度も投稿してきましたし、これからも投稿します。小さなボヤでしたらまだバケツで水をかければ消すこともできます。感情も同じです。ところが火の手が回ってしまうと自分の力ではどうすることもできないということを肝に銘じておくことが大切です。
2014.01.07
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不安、恐怖、不快などの感情を抑圧、無視、拒否、否定することの3つの弊害について書いてみます。まず、第一に不安、恐怖、不快感は、我慢を続けているとどんどんたまり続けてきます。自然に消えてなくなるというよりは、蓄積され大きく育っていくケースが多いのです。それらがちょっとしたことをきっかけにして爆発し、人間関係を修復不可能なほどに破壊してしまいます。だから不安や不快感は小さいうちに上手に処理してしまうことが大切です。第2の弊害は、自分の感情が鈍化してくることです。マイナスの感情を抑えていると、プラスの感情も感じられなくなってきます。自分のエネルギーが他人の思惑を気にすること、自分の感情の暴発を抑えることなどに消費されてしまい、感情をキャッチすることにまで回ってこなくなるのです。楽しい、うれしい、ありがたいという感情が全く湧いてこなくなり、毎日が憂鬱になります。第3に、自分の感情を無視していると、意欲、やる気、モチュベーション、生きがいが持てなくなります。森田理論でいっているように、物を見つめていると、自分の感情が自然に湧いてきます。さらに感情が高まってきて、積極的、創造的、生産的な行動につながってきます。ところが感情の発生を無視したり、抑えていると、意欲などの元栓が遮断されているわけですから、消極的、内向き、刹那的、刺激的、退廃的な生活に甘んじることしかできなくなります。自分の感情を大切に扱うことは、考える以上に、大きな意味があるということが分かっていただけますでしょうか。
2014.01.05
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もう一つは嫉妬心ということです。これは誰でもあります。同僚が早く出世した。あの人は才能がある。恵まれた家庭に生まれた。あの人は器量がよい。人と比較しては自分を否定してひがんでいる状態です。これは雨が降ったり、台風が来たりする自然現象と同じです。嫉妬心はなくそうとしたり、やりくりするものではありません。こういう時は、自分は誰それに対して猛烈に嫉妬していると心の中で叫んでみることです。日記に書いてみることです。それで嫉妬心が増進して、自分がめちゃくちゃになってしまうことはありません。これはあくまでも自分の感情を認めてやるためにすることです。自分の感情をいたわってやることです。出来たらその感情をアナウンサーのように、実況中継してやることです。感情を詳細に観察して、どんな感情が沸き起こってきたのかを事実だけを説明するのです。それは私メッセージの発信といいます。私メッセージは、相手に愚痴を言ったり、同情を求めるものではありません。自分を癒すためのものでなければいけません。
2013.12.25
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玄侑無宗久がこんなエピソードを紹介している。ご夫婦そろっての画家がいた。夫は悠々と画室にこもって絵を描いている。ところが妻は炊事、洗濯、育児で一日中目が回るほど忙しい。絵を描く時間はわずかしかない。それも台所の片隅でさっと描くしかない。ところが妻のほうが次々と賞を獲得する。悠々と構えている夫のほうはどうしてもそこまでいかない。当然面白くない。そんな気持ちが重なって、結局は離婚したというのである。面白い話である。森田理論と関連したことを書いてみたい。2つある。まず、妻のほうはいつも精神が絶えず活き活きと活動しているのではないか。そうだから絵にも命が宿っているのではないか。それにひきかえ、精神が引き立たない夫のほうは感情のほとばしりにかけているのではないか。森田先生も、短歌などをされていたが、気ぜわしく活動していて、その間に作る短歌のほうが出来が良い。心が弛緩状態で空っぽな時はいくら良いものを作ろうとしても感じが湧いてこないといわれています。芸術などというものは、心に浮かぶものを形にすることだと思います。すると心は常に活動して、緊張していないと良い作品には結びつかないということではないでしょうか。森田理論ではこのことを「無所住心」といいます。心が四方八方にとらわれている状態です。この心がけで生活することが大切です。
2013.12.25
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他人に対する怒りや腹立たしさ、怯えや恐ろしさなどの感情が湧いてきたとき、対人恐怖の人はがまんしたり、じっと耐えたり、格下の人に攻撃を仕掛けたり、格上の人からは逃げるのではなかろうか。これでは精神交互作用により、怒り、腹立たしさ、怯え、恐怖は収まるどころか、火に油を注ぐ結果となります。この対応はどこに問題があるのでしょう。それは不快な感情を素直にキャッチしていない。受け入れていない。向き合っていない。味わうことをしていない。目をつむって避けているということです。言い換えると、不快な感情を無視している。拒否している。否定している。抑圧しています。結局は自分自身を否定している。冒涜していることになります。森田理論学習的にみて正しい対応とは何でしょうか。それはまず不快な感情にきちんと向き合う。次にその感情を外に吐き出す、つまり表現するということです。すると嫌な感情を無理やりため込まないので「しこり」にならない。もう少し説明しましょう。1、 まず他人に対する怒りや腹立たしさ、怯えや恐ろしさなどの不快な感情としっかり向き合う。きちんとキャッチする。認める。受け入れる。味わう。2、 次に感じたままに表現してみる。これには可能なら「私メッセージ」で相手に発信してみる。不可能なら日記などに書いてみる。独り言として口に出して表現してみる。それ以上のことはしないようにします。こうした対応をとることが大切です。これができた後で初めて、ところであなたはどうしたいのですか。何をしたくないのですか。と自分自身に尋ねてみるのです。それから自分の欲求に従って行動を起こすのです。森田理論学習でいえば「なすべきをなす」ということです。振り返ってみると、今までの森田理論学習は、不快な感情に「きちんと向き合う」ということが曖昧であったと思います。それよりも、不快な感情には手を付けない。横に置いておくこととされていました。不快な感情は手を付けなければ、時間とともに変化して、いずれ流れていくといわれていました。その代りに「なすべきをなす」という行動が、不快な感情を消し去るのだという考え方だったのです。これは多少修正してみる必要があると考えています。私は「なすべきをなす」前に、感情はいったんきちんと受け止める。そして不快な感情を「私メッセージ」の手法などを使って、吐き出すという実践を取り入れるようにしたほうがよいと思っています。そのほうが我慢してため込まなくてすみますので、精神衛生上理にかなった方法だと思います。今後具体的な例で説明をしてゆきたいと思います。
2013.12.19
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山崎房一さんは、以前NHKの教育番組でこんなドラマを見たという。結婚適齢期になった仲の良い姉妹がいた。姉はやさしくてひかえ目。妹は活発で明るい性格。姉はひそかにある男性に恋をした。いつか彼と結婚したいと思っている。しかし妹もその男性が好きなようなので、姉は自分の気持ちを妹に打ち明けないで隠していた。しかしその後、その男性と妹が付き合っている事が分かった。姉は大変ショックを受けて、寝込んでしまった。妹はそんなことは全く気がつかないで、教会で彼と結婚式を挙げた。そうなっても姉は彼のことが忘れられない。ベッドの中でさまざまな思いに苦しんだ。姉の容体が急に悪化したのは、妹を素直に祝福できないどころか、「嫉妬や恨みを持ってしまう自分は罪深きもので、罪を犯している」と自分を厳しく責め続けているからであった。その悶々とした気持ちを妹に遠慮して誰にも告白できず、その苦しさに押しつぶされてしまったのである。これは悲しい話である。森田理論では、感情は自然現象であり人間が自由にコントロールできるものではない。受け入れていくしかない。反面どんなに心の中に、恨み、憎しみ、呪い、嫉妬、復讐、好色な極悪非道な気持ちが湧いてきたとしても全く責任をとる必要はない。心の中にある限りは無罪であるといいます。どんな感情も一山登って静まり消えていく運命にありますので、自然に任せてそっとしておけばよいのです。少し落ち着いたところで、行動は感情とは切り離して動き出すことが肝要です。
2013.12.07
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山崎房一さんの言葉です。人生はドラマ 人間はみんな役者 社会が舞台それは 本心に関係なく演技することだ 役者になることだ役者は気分がすぐれないときでもまた嫌な相手であってもいつも最高の演技を見せてくれる役は 本心とは違うこところにあるからです本心でない言動は嘘であり道徳に反するという考え方が人間関係をこわしてしまうのは役を演じることを忘れ本心をむき出しにしてしまうから本心で生きる人を世間では未熟で幼稚な人と見ます他人は私を 私の外面 即ち 言葉や態度で評価する今までは私は私の内面 即ち 心の動きで自分を評価していたそのような自分を自分の心の動きで評価する無意味なことはやめること人間関係を円滑にし 心の安定を願うなら言葉や態度を心の動きから完全に切り離し役を演じながら生活すればいいそうすれば人相もよくなるその妙を心得ている人物を私たちは円熟した人と呼ぶのではないでしょうか森田理論では心の中に浮かぶどんなに醜い感情でも、自然現象ですから人間は自由にコントロールすることはできません。ただその感情を受け入れるだけです。つらくてもじっと味わうことしかできません。やりくりしたり、逃げだせば苦しみは増すばかりです。今は苦しいし、悲しい気持ちがいっぱいだから仕事はしませんというのでは困ります。もしあなたが俳優や女優ならば、それまでのつらい感情は横において、立派に人を感動させる演技者として立ち向かわなければなりません。感情は感情。どこまでも開放状態にしておく。そして行動は感情とは切り離して考える。この考え方こそが森田理論の教えてくれている事です。
2013.11.25
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子どもがもたもたしていると、つい言葉としてでるのは、「だめです」「はやくしなさい」「何度言ったらわかるの」等です。これらは子どもによって、自分の気持ちがイライラして我慢がならないのです。いくら遅くても、間違ったことをしてもじっと待ってやり、失敗しても叱らずに「今度は頑張ろうね」というようにしたらどうでしょうか。子育ては「我慢」の連続だという人がいます。つい口を挟みたくなるのを、じっと我慢して、やさしく子どもを見守ることができる親は素晴らしいと思います。でないと子どもの将来に関わります。また自分の欠点などを気にする人も多い。容姿が悪い。身体に欠陥がある。能力がない。等です。これらが我慢できずに、自己改造しようと努力する人もいる。自分が気にしているほど、他人は気にしていないにもかかわらず、大いに気にしている。たとえ、重大な欠陥でも、これらはどうしようもないことである。どうしようもないことは永遠に受け入れていく方が得策だ。またよく観察していくと、欠点と同じだけの長所もあって釣り合いがとれている事が多い。それが自然の摂理だと思う。また欠点というのは、見方を変えると素晴らしい長所にも見えてくる。これは我慢するというよりも、認識の誤りを正してゆくのが先決ではなかろうか。親の死、子どもが先立つなどの不幸、また東日本大震災で犠牲なった方のご遺族の悲しみなどは当分消えるものではない。折に触れて、思い出すたび悲しみが襲ってくる。傷が癒えることはないかもしれない。時間がかかる。でも長い目で見ると、いずれは時間が癒してくれるのではないでしょうか。神経質者は欲しいものがあると、何が何でも手に入れないと気がすまないという特徴もあります。せっかちに向う見ずの行動をとることがあります。無駄なものを買ったり軽率な行動をとって後で後悔することも多くなります。この点も少し我慢して、時間をおいて再度検討してみるという姿勢が大切だと思います。つまり間をとるということである。これだけのことを心がけるだけでも、不安などに対する対応は大きく変化してくると思う。
2013.11.15
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神経質な人はせっかちな人が多いと思います。イヤな感情は時間がたてば、無くなるか、薄まっていく。少しぐらい耐えたり、我慢すればよいのに、それができない人が多い。そんなことをすれば、感情が暴走して大混乱に陥るという人もいる。実際は決してそんなことは起こらない。体験してみることが一番だ。そう思う人は、一刻も早く、不安の種を取り去ってスッキリしたのだと思う。昨日の投稿で不安、恐怖、不快感、違和感を取り去ってくれるのは、「時間の経過」しかないと書いた。それではどれぐらいの時間耐えればよいのだろうか。まず、神経質者は、腹が立ったらすぐに爆発する。あまりにも手ごわい人からはすぐに逃げる。その後はその人を避けて近づかないようにする。森田先生は3日我慢して、それでも腹が立つようなら腹が立つだけの理由があるのだから、論争を挑んでもよいといわれています。腹が立った時はせめて3日は我慢するようにしたらどうだろう。夫婦喧嘩というものは、小出しにするようなものではない。いつも腹を立てていると、あの人はああいう人で箸にも棒にもかからないつまらない人だと思われてしまう。森田先生のやり方は、理不尽な行動の数々をノートに書き留めておき、いざという時にまとめて大喧嘩をすればよいといわれています。それまでは心の中にしまっておくことだ。これは10日から1カ月ぐらいは我慢した方がよさそうです。
2013.11.15
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昨日の投稿の続きです。注意点を2点申し上げます。まずその1。不安、恐怖、不快感、違和感は「時間の経過」に任せてそのままにしておけば、いずれおさまっていくと書きました。9割がたそうだと思います。問題は残り1割です。これは「時間の経過」に任せてほおっておいはいけません。すぐに対応策を考えて、行動を起こした方がよいのです。行動を起こさなければ、将来大変な事態が予想されます。ラインハート・ニーバンは次のようにいっています。1、変えることができないものについては、それを「受け入れる平静さ」を2、変えるべきものについては、それを「変える勇気」を持つ3、そして、変えることのできないものと変えることのできるものを「区別する知恵」を持ちなさい変えるべきものとは、人のためになること、将来に明るい展望が開けるものの2点です。それ以外のことは、すべて受け入れる。やりくりしたり逃げたりしない。「時間の経過」に任せて、不安を持ちこたえたままなすべきことをなしていく。このスタンスで大丈夫です。
2013.11.15
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神経症は誰にでもある不安、恐怖、不快感、違和感などを、これがあってはいけないと思って取り去ろうとすることから始まります。それらのイヤな感情は取り去ることができます。取り去ることができなくても、気にならなくなったり、薄まってきます。どうしたらそうなるのか。その方法をお教えしましよう。その前に、自分で格闘している限り取り去ることはできません。取り去ろうとすればするほど症状は強くなってしまいます。最終的には日常生活、対人関係に支障をきたします。逆にいえば、イヤな感情は自分で格闘しなくても取り去ることができるということです。自分で解決しなくてもよい。する必要はない。関わることをしなくてもよいものです。他人でもできません。集談会などに参加して人に頼って、取り去ろうとしても無駄な努力です。お医者様に頼ったり、薬でもできません。SSRIなどで不安を一時的に軽くすることはできますが、対症療法ですから薬をやめれば再発します。信じられないかもしれませんが、不安、恐怖、不快感、違和感を取り去るのはただ一つ。「時間の経過」がその役割を担っています。「時間の経過」が解決してくれる。「時間の経過」に任せておけばよいということです。森田先生の言われている感情の法則1はまさしくこのことを言われています。どんなにつらい経験でも、どんなに腹が立っても、後で振り返ってみればたいしたことではなかったという経験は誰でもされていると思います。肉親の死などは、「時間が経過」しても折に触れて思い出すこともあるでしょう。でも亡くなった当時の感情と比べると、多少なりとも薄くなっていると思います。不安、恐怖、不快感、違和感との格闘をやめて、「時間の経過」に任せるという考えかたはとても重要です。そうゆう自覚があれば、一時的にとらわれることはあっても、とらわれ続けるということはなくなります。不安などに対する対応がはっきりしてきます。たとえてみれば、注射をするときはちょっと痛みがありますが、病気を治したり、血液検査のためと思えば、その時の少しぐらいの痛みは耐えることができます。そして、その時にやるべきことや興味のあることに目を向けて、建設的、生産的、創造的な生活に邁進することができるようになります。
2013.11.14
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森田先生は人間の感情について次のように言われている。人間の感情というものは、いつまでも同じ状態にとどまっているものではない。水の流れと同じで、絶えず流転している。またそれは、鏡に写る影のようなものである。明鏡止水というのは、鏡に影の写らないことではなく、写っては消え、写っては消え、止まらないさまをいう。悲しいときには悲しいままに悲しみ、苦しいときには苦しいままに苦しんでいれば、心は自然と転換されてゆくが、悲しむまい、苦しむまいと努力するから、何時までも悲しみや苦しみから抜け出せなくなるのである。宇宙の営みも絶えず流動変化しています。変化しないで固定していることが、安定しているように考える人がいますが、変化しないで固定するということは、存在すること自体不可能なことです。独楽は回転しているときが一番安定しています。自転車は前に進んでいるときが、倒れないで安定しています。常に動いて変化しているということが、安定するためには必要不可欠となります。不安、恐怖、不快な感情も流動変化を心がけて生活すれば、いちばん安楽な対応となります。
2013.11.05
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今月号の生活の発見誌30ページからです。池袋駅から丸ノ内線に乗ろうとしました。たまたま人がごった返していました。しかも悪いことに、私の目の前に、ゆっくり歩く足のおばあさんがいました。あまりにもおばあさんがゆっくり歩いているため「乗り遅れる」と思い、突き飛ばしたい気分になってしまいました。「足の不自由なおばあさんを突き飛ばしたい」とは不謹慎な発言だと思いますが、その時の私は瞬間的にそう思ってしまいました。ただ理性があるので突き飛ばすことはしていません。これは森田理論の教え通りの対応ですね。これでいいのです。でもこれだとイライラした気分が晴れないではないのか。と思われる方もおられると思います。理屈で考えるとそうなると思います。これは神経質者の考えそうなことです。これは気分をすっきりとさせて、一点の曇りもない心境になりたいという気分本位の考え方です。森田理論では気分本位の弊害についてくどいくらいに説明しています。この場合森田理論でいっている事は、不快な気分をすっきりとさせるのではなく、不快な気分を早く流すということを言っているのです。逃げたり、やりくりしないと遅かれ早かれ不快な気分は自然に流れてゆきます。とらわれるときは思い切りとらわれていいのです。そのとらわれに固執することなく早く流す。このことを森田理論は教えてくれているのです。
2013.10.02
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私は6月21日のブログにこう書いた。プロ野球の加藤良三コミッショナーが、統一球の変更を勝手にやったことに対して、「私は、これは不祥事だとは思っていない」といってバッシングを受けている。 私はこれを見て、これはコミッショナーの引責問題になる可能性が高いと思う。 というのは、この問題は欧米ならともかく、日本の社会には決して受け入れることのできない言動だからである。(一言断っておくが欧米では加藤さんのような対応をとらないと、必ず損害賠償問題に発展する。厄介なことになる。) 普通日本で不祥事があった場合、どんなに相手に非があることであっても、とりあえず、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんと謝るのである。日本の企業の危機管理としては常識である。 まずは真摯に反省して、真剣に謝るという姿勢を見せるべきだったのである。 自分が心底そのように思っていなくてもかまわない。世間の人から見て、反省して心から謝っているように見えるということが大切なのである。 先日加藤さんは、もっともらしい理由は付けていたが、事実上解任された。少し遅くなったが、火種は長らくすくぶっていたと思われる。我々森田を学習しているものは何を学ぶべきであるのか。感情と行動は全く別物として扱うということである。どうしてキャリア官僚経験者がそんな森田の常識、それも初歩的なミスに気がつかなかったのだろう。おごり、変なプライドに固執していたとしか思えない。このように感情と行動の分離はとても難しい。それができないから神経症に陥ったともいえる。でも、森田ではその方向に向いているということが大切である。あとは、自分一人では難しいのだから、集談会で切磋琢磨することである。
2013.09.25
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全集5巻397ページよりいま金が欲しくて、盗心が起きる。この心は否定してはいけない。この心はそのまま自由に解放させて、泳がせておけばよいのである。するといろんな考えが起こる。100円ぐらいのはした金は盗んでもしようがない。しかし1万円となると、ちょっとおっくうで気味が悪い。どれくらいの程度に見切りをつけたらよかろうとか、結局は盗んで罪を恐れる苦労をするよりも、我慢した方が得だとか、さまざまに考えている間に「心は万境に随って転ず」でいつの間にか、その悪心も流れ去って、安楽な気持ちになっているというふうである。強いて自分の心を、無理やりに押さえつける必要は少しもない。人を殺したいほどの憎しみの感情でも、人を押しのけてでも欲しいものを手に入れたいという欲望でも、どこまでもその感情は自由自在に泳がせておくことだ。その感情は放任するしか手がない。その時身体に少し異変があるかもしれない。ブルブルと震えながら、泣きながら、血走った表情をしながらでもよい。そして次に相手をやり込めたり、蹴落とすことを考えてみることだ。それも一つだけではなく4つも5つも案を出して、どれが一番有効だろうかと考えてみることだ。すると3分も経てば、最初の感情はひと山登って、下り坂。少し変化が起きているはずだ。少なくとも感情に引きずられて即思いつきの行動にはならないはずである。森田理論は感情は感情。行動は感情とは別物という考えなのである。行動は「生の欲望」に沿ってどこまでも貪欲に追いかけていけばよい。その時不安、恐怖心、不快感がうまく「生の欲望」の暴走に歯止めをかけてくれるようになっているという考えなのだ。
2013.09.09
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こんな質問をするのが神経質の特徴である。普通の人は、嫌いな人は不快であり、性格の異なる人とはソリが合わない。これを抑圧しようともどうしようともせずに、ただ我慢して境遇を押し切り、運命を切り開いていこうとしている。これに反して神経質者は、自己中心の功利主義から、自分の苦痛をもっとも少なくして、最も大なる幸福を得ようとする工夫から、楽々と愉快に、人と交際し、何事にも、自分の思う通りにしたいと考えるからである。我々は自分の直接の感じのままに、好きは好き、嫌いは嫌いでそのままに交際してゆけばよい。これを感じから出発するという。嫌いだからと言って、会釈笑いとか簡単なあいさつは当然しないといけない。それ以上のことはしなくてもよい。嫌いという自分の心を持ちこたえておけばよい。ダメなのは、直観から出発しないで、二念、三念から出発することである。「人を恨んではならない」「敵を愛せよ」とか、いろいろの教訓を引き合いに出して、我と我が心をため治そうと反抗することである。これと同時に、自分はあの憎らしいのが、不愉快だから、彼の合うところには行かないとか、話しかけられても、対応しないとかいえば、それは気分本位でありわがままである。これが森田先生の考えである。私はそれに加えて、虫が好かない人の行動はよく観察することをお勧めする。わがままな上司などは、気分がしょっちゅう入れ替わる。機嫌の悪いときは話かけるのは遠慮したほうがよい。気分が入れ替わるまで待ったほうがよい。よく見ていたらすぐに分かる。また上司が見えないところで仕事をしているのなら、近くにいる人に聞いてみることだ。私はややこしい話は必ず機嫌のよい時と決めていた。仮に機嫌の悪い時にややこしい話をすれば、火に油をかけるようなことになる。考えてみればこれは感情の法則ですね。
2013.08.13
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清水宏保は、日本の元スピードスケート選手。長野オリンピックで 金メダル1個、銅メダル1個、ソルトレイクシティオリンピックで銀メダルを獲得した。彼が筋肉について面白いことを言っている。「筋肉は結構賢いんです。それにずるいところがある。何度も負荷を与えていると、筋繊維に組み込まれた知覚神経が学習してしまって、それほど変化しなくなってしまう。だから毎年、トレーニングの内容は変えています。スポーツ選手が間違いを起こしやすいのは、自分に満足してしまって同じメニューを何年もずっとやってしまうとか、昔調子がよかったころのものをやってしまおうとするから、スランプに陥ってしまうのだと思う。常に新しいことに挑戦してゆくと、それが自信にもなる。トレーニングで一番大事なのは、やったことによる自信を得ることなんです。」つまり筋肉もいつも同じ鍛え方をしているとその刺激に慣れてしまい、筋肉の強化にはつながらないということです。だから違う鍛え方を考えてやると、新しい刺激に、感覚も鋭くなってきて、筋肉の増強に結びつく。これは森田理論の「感情の法則3」のことを言っている。「感情の法則3」は、「感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである。」最初は刺激があって精神が緊張して取り組んでいたものが、時間がたつに従って精神が弛緩してくる。疲れが加わると全く意欲が減退してしまう。そんな時清水選手はトレーニングの内容を変えるという。森田先生は「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」という。名言である。森田では家事などをするときは30分おきに仕事を変えていくと弛緩した精神が、また緊張状態に引き戻されて能率が上がるという。大学などの授業は90分となっている。これは講義などは、どんなに面白い講義であっても、90分で緊張の持続が終わってしまうということらしい。緊張、弛緩という生活リズムは、自然なものであって変えようがないので、自分の行動を変えてリズムを作るという考えである。
2013.08.01
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柿原美恵さんという入院生のお話です。ある晩、森田先生がまだお帰りになっていないのを知らないで、誰か門に鍵をかけてしまったらしい。疲れてお帰りになったろうに、締め出された先生はさぞ気分の悪いことだろうと思ってお顔を見ると、けろっとしておいでになった。そして、「人は癪にさわるようでなければいけない。癪に障る人は、気概のある人であり、気概のない人は駄目である」とおっしゃった。私は従来、癪にさわることの多い質で、自分で困ったことに思っていたので、この時少し不審な気がした。それにしても先生は少しも癪に障った顔をなさっていなかったからです。面白い話です。柿原さんはきっと癪にさわったら、そのまま態度に出されるのではないかと思われたのです。森田先生は、癪にさわるという不快な感情は、態度に出そうになる寸前まで高めたほうがよい。どんなにイヤな感情でも決して押さえつけたりしてはいけない。自然に湧き起こったままの感情はそのままにしておくしか方法はない。でもそれを態度にあらわしてはいけない。感情と行動は別ということだ。神経症の人は感情を抑えてから行動に移ろうとしてしまいます。これはやってはいけないこと。そのままにしていれば、その癪に障った感情はすっと流して行ってしまう。感情の法則の通りになります。
2013.07.31
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プロ野球やサッカーで自分の応援するチームが劣勢になって負けそうなとき、勝っている試合を途中で逆転されてサヨナラ負けを喫したとき、あるいは何連敗もしている時、不快な気持ちになることはありませんか。私は広島カープのファンですが、ここ何年もBクラスでいつも不快な気分に覆われています。思い出すだけでも腹が立ちます。テレビ観戦していても、劣勢になるとチャンネルを変えます。その日のプロ野球ニュースは見ません。たまたまプロ野球ニュースになるとまたチャンネルを変えます。カープが負けた時は新聞も見る気がしなくなります。友人と話していても、どうしてカープが弱いのかという話になります。みんなそれぞれに見解を持っています。監督が悪い、フロントが悪い。なぜもっと金をかけてよい選手をとらないのか。などなど。よいところは全然見ません。たとえば観客動員数が少ないにもかかわらず、ずっと黒字経営を維持している数少ない球団であるという。この努力はすごいことだと思う。でも赤字になってもいいからもっとよい選手を獲れ。これが本音ですが。なにはともあれまず勝ったという結果が欲しい。選手個人は努力するのは当たり前だ。その努力のプロセスよりもまず勝つことだと思っている。つまり不快な気分をなんとか取り去ろうとファンはみんな躍起になっているのである。気にしないようにしようとすればするほど、気になってますますカープの動向に注意が向いて、かわいさあまって、憎さ百倍となるのである。そうかといって、無視するという人も完全に無視しているのではない。試合があると途中経過を常に気にしているのである。悪循環である。このからくりは神経症の発症パターンと同じです。精神交互作用の打破、つまり不快な気分を抱えたまま、なすべきことに手を出してゆくことしか手がないようです。早く不快な感情を流してしまうのは、それが一番なのです。現在カープが弱いというのはまぎれもない事実です。その事実をみて、不快な気分に陥ってしまったというのも事実です。事実はどうすることもできません。事実を受け入れ、事実に服従することしか、とるべき手段はないようです。
2013.06.30
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幼児はかけっこをしていてよく転びます。擦り傷をつくりすぐに泣きます。そんな時親が子供に向かって、「あんたが走ってたからよ。そんなことで泣くんじゃないの。我慢するのよ。」あるいは「痛くない。痛くない。こんなことでワンワン泣かないの。男の子は泣かないの」ということがあります。子供はその言葉を聞くと、どう思うでしょうか。「痛くても、それをストレートに表現するとお母さんに叱られるんだ。どんなに痛くても泣いたりするのはいけない事なんだ。我慢しなければいけないんだ」と感じるようになるもしれません。何かにつけて、こうした対応を受け続けていると、感情を自由に人前で出してはいけないんだという事が自然に頭にインプットされないでしょうか。もし子供がそう感じたとすれば、大変悲しいことです。というのは、そんなふうに育てられた子供は、「感じたことをストレートに表現するのはよくない。自分の感情は押し殺して、意志の力でコントロールしなければいけない。」という「かくあるべし」人間になってしまいます。そして感じを押しころそうとやりくりを始める子は、イヤな感情を避けるようにもなります。そんな子供が大人になると、泣きたいときに泣けず、うれしいときに喜べず、笑いたいときに笑えず、怒りたいときに怒れない人間になってしまいます。いわゆる無気力、無関心、無感動の人間になってしまいます。森田理論ではどんな嫌な感情でも意思の力で押さえつけないこと、そのイヤな感情を持ちこたえること、味わってみるという態度を養成するように勧めています。これは我慢することとはちょっと違います。場合によっては行動は我慢することも必要ですが、嫌な感情は我慢する必要はありません。我慢してはいけない。腹が立つときは人を殺したいぐらいにいくら恨んでもよいのです。
2013.06.26
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人間の心は通常はいつも風船玉のようにいつもフワフワただよっていると思う。空中をただよっているほうが風船玉にとっては安定である。風がふいても風のふくままに流されているから、なかなか破れない。これに反して一定のところに固定してしまうと少し強い風にあえばたちまち破れてしまうことがある。これは森田先生のところに入院していた人が日記に書いていたものである。素晴らしいたとえである。森田先生はこれと似たようなことで、イソギンチャクとクラゲの話をしておられます。イソギンチャクは岩にしがみついて餌がやってくるのを待っている。クラゲは波のおもむくまま自由自在にいつも動き回っている。クラゲはふわふわ漂っている風船玉と同じだ。その生き方が最も安楽な生き方なのだと教えてくれています。森田理論では、人間の感情も風船玉やクラゲと同じように考えています。不安、恐怖、違和感、不快感にとらわれて、気になる一つのことに注意を集中してしまうと、神経症を引き起こすトラブルの元となる。自然現象が常に流動変化しているように、感情もアルプスの谷合を勢いよく流れる小川のようにいつも早く流すようになればよい。実にシンプルな考え方なのである。
2013.05.30
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石原加受子さんは「もっと自分中心でうまくいく」という本の中で興味深いことを述べられています。「感情を抑えたり、感情にフタをしたり無視したりすれば、確かに心の痛みから目をそらすことができるかもしれない。けれども、マイナスの感情をもたないですむ代わりに、プラスの感情にも鈍感になってしまう。どんなに論理的頭脳に優れていても、どんなに芸術的な感性にあふれていても、それを追及しているとき、楽しい、嬉しい、おもしろい、ワクワクするといった感情を味わうことができなければ、それを継続する意味を見失うだろう。喜びの感情があるからこそ、創造的な活動に没頭できるのである。」これは不快感、不安、恐怖、違和感などをやりくりしたりそれから逃げたりしていると、快の感情はしだいに鈍感になってしまう。そういうプラスの感情は我々の活動の源泉となっているのだから、活動自体が縮小してジリ貧に陥ってしまうと言っているのです。これは森田理論の学習をする人は心しておきたい言葉です。そのうえでプラスの小さな感情が自分を磨くという。「ちょっと苦しい。ちょっと苛立っている。今ちょっと傷ついた。ちょっと哀しい。ちょっと焦っている。今不安を感じた」などの小さな感情に気付くことが大切だ。しかしそれ以上に「ちょっと嬉しい、ちょっとほのぼのとした。温かい気持ちになった。楽しい。心が弾んだ。助かった。感動した。感激した。愛を感じた」といった「プラスの小さな感情」に気づいてほしい。考えてみれば、我々の日常は刻々と変化する小さな感情の連続である。その時々の感情を大切にして素直に味わう。すると不快な感情をやりくりしたり、逃げるといういつもの悪循環から抜け出して、感情を引きづらないことに喜びを感じるように変化してくるのではなかろうか。
2013.05.23
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森田先生は能率をあげて仕事や勉強をすることについても何回も説明されています。能率のことで一番大事なことは、忙しいときほど仕事がよくできるということです。和歌や俳句のようなものでも、暇になったら上等のものをたくさん作ってやろうと考えるのは大きな間違いだ。実際にそうなってみれば、気が抜けて、ちっともいいものができない。あれもあれもと神経が緊張しているときのほうが、ちょっと普通に考えると違うような気がしますが、そのほうがいい仕事ができるのです。これはなぜか。行動したり、いろいろと考えたり、工夫している時は、体も心もすごく活動的になっています。そうした状態のときは、弾みがついてあれもこれも気がつく。普段でてこないようなアイデア、思いつきがさまざまにでてくる。心も体も自由自在に躍動しているのです。一つの躍動は、次の躍動を誘発して好循環のサイクルで回っているのです。これはボーリングで、ストライクやスペアをとればとるほど得点が増して好循環になるようなものです。神経質な人は、観念で勉強は静かで、雑念が全くなく、勉強に集中していないと成果は上がらないと思っています。これは体験の乏しい人の机上論です。森田先生に言わせると、外部の刺激がないと精神も活動を休んでしまい、だらけて、ついには眠くなってかえって勉強に身が入らないと言っているのです。勉強は外部の刺激が適度にあるような環境が、精神を刺激して活性化させて勉強がはかどるようになっていると言っています。避暑地のようなところでは、外部の刺激がなく、それとともに精神が弛緩状態におちいってしまう。そうなると緊張感がなくなり、心身ともに活動が停止してしまうということです。これは「感情の法則」の単元を学習するとよく理解できると思います。ただ「新版 森田理論学習の要点」のみでは理解できないでしよう。補助教材でさらに深耕してゆくこと、集談会などのグループ学習や自分の体験談としてまとめてみることが不可欠です。森田理論学習では、応用編に入る前に基礎的学習を積んでおくことで、本丸の森田理論応用編の理解が格段に向上します。
2013.05.12
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どこの会社にも「お客様相談室」を設けてフリーダイヤルでクレームを受け付けている。お客様のクレームに対しては、森田理論の感情の法則を知っておくと役に立つ。どんなに大きな怒りの感情でも、ひと山越えておさまってくるという感情の法則1である。「バカ野郎」「どうしてくれるんだ」「責任をとれ」「すぐに謝りに来い」「弁償しろ」「上のものを出せ」そんな時は、「たいへんご不便をかけて申し訳ありません」「大変ご迷惑をおかけしております」とひたすら謝る。「謝ってすむことか」と言われれば、「本当に申し訳ございません。」と謝る。そんなふうに対応して20分ぐらいたつと、相手の怒りは感情の法則1に従って次第にさめてくる。怒りはいつまでも続かないのである。そのうち、「おたくに言ったってしょうがないんだけど」とか、「あんたもクレームばかりで大変だろう」とかいって次第に勢いが鈍ってくる。相手が冷静になったあとに、必要があればお客様との交渉を始めるのがセオリーとなっている。そうしたマニュアルがあるのである。ところがマニュアルを無視しては大変な事故を引き起こす。相手が怒り心頭のとき「そうはおっしゃいますけど、当社の商品はいまだかって・・・」などと反論しようものなら、「なんだお前の態度は。自分の会社の不手際をお客のせいにするのか・・・」などと切り返され、火に油を注ぐ結果となる。この対応は感情の法則4である。注意をこれに集中する時ますます強くなるのである。この感情の法則は自分の不安、恐怖、不快感の対処としてよく理解して、実際に確かめてみることをお勧めします。そして法則ごとに自分の体験を蓄積して自分のものにしてほしいものです。
2013.02.26
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