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私は宴会などに参加した時に、思わぬ深酒をしてどうやって家に帰ったのが全く記憶にないということが何度かありました。その時、カバンを紛失したことは1回もありません。みんなといつ分かれたのか。店を出た後にどこへ行ったのか。タクシーに乗ったのか、バスに乗ったのか、電車に乗ったのか、歩いて帰ったのかなど思いだしても全く分からない。勘定は済ませたのかも分からない。翌日、参加していた人に電話で確かめます。勘定は払ったか。迷惑をかけてはいなかったかなどです。そんな状態なのに、どうやって家にたどり着いたのか。家に帰った後、玄関はどうやって開けたのか。家族とどんな会話をしたのか。しかし実際には意識がしっかりしたときと同様、間違いない行動がとれていたということです。これは考えてみれば不思議なことです。なにしろ理性を司っている前頭前野や全く働いていないのですから。話は変わりますが、田舎に帰るとき車の中でお気に入りの音楽を聴いています。同じCDを何度も繰り返し聴いています。例えばクスコ、ジョージ・ウィンストン、ケニー・Gなどです。すると実に不思議なことが起きます。たった今聴いていた曲が終わります。そして次の曲がかかるまで少し間があります。普通は次にどんな曲が流れるかは、聴いてみるまで分からないはずです。ところが何回も繰り返すことによって、もう脳の中では次の曲が無意識に分かっているのです。その証拠に自然にその曲を口ずさんでいます。実際に間違いなくその曲がかかるのです。この謎が分かりました。人間の脳は良くも悪くも、何回も繰り返したことを、脳の奥底に、無意識の記憶として刷り込んでしまうということだったのです。そして万が一意識が働かなくなったときは、この無意識に刷り込まれた記憶が何も考えることなく、とっさの行動として反応してしまうのです。これは使いようによっては役に立つと思います。この無意識の考え方や行動が、ポジティブなものとして脳に刷り込まれていたら、どんなに素晴らしいことかと思っているのです。ポジティブな考え方、発言、行動をいつも繰り返してとっていると、前後不覚になったときでも、ポジティブな考えが浮かぶようになっているのです。そしてポジティブな発言、行動をとることができるのです。身に危険が迫ってきたようになったときこそこの真価が発揮されるのです。反対に日常生活の中で、ネガティブ、悲観的、否定的、攻撃的な考え方、発言、行動を繰り返して、それを習慣化していると、何かにつけてマイナスの考え方、発言、行動をおびき寄せてしまうということです。心の中では知らず知らずのうちに、自己嫌悪、他人否定を繰り返すようになるのです。普段の生活の中でいかにポジティブな考え方、発言、行動を繰り返して習慣化していくことが重要であるかが分かります。そのためにはせめて自分の強みや長所、能力などを紙に書きだして、壁に貼っておく。それを毎日読みあげるようにする。そして写経するように毎日紙に書く。そして同じ行動を繰り返していく。そうすれば、前頭前野が前後不覚になっても、やるべきことが習慣化されているので、滞りなく生活が進行していくということです。私の場合でいえば、次の言葉を机の前に貼る。毎日朝起きたら1回読みあげる。寝る前にはもう1回読みあげる。・神経質性格は類まれなよい性格だ。神経質性格に生まれてよかった。・感性が鋭いので、音楽や芸術、書籍や映像など楽しんでいく。・「凡事徹底」で日常生活を規則正しく、丁寧にこなしていく。・「一人一芸」の練習に毎日取り組んでいく。・どんな困難な状況に陥っても、決して自分を見捨てない。最後まで守り切ってみせる。・集談会活動では、傾聴、共感、受容に徹する。・ブログは毎日1つは投稿する。
2019.08.19
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昨日の投稿で、基本的には自然に湧き上がってくる感情は、手出ししないでそのまま受け入れることと言いました。果たしてこれで間違いがないのか。もう少し掘り下げてみたいと思います。相手に馬鹿にされた。否定された。相手のことは、自分の意志の力でコントロールできません。受け入れるしかありません。怒りや不快感を無くそうとして、行動すれば思わぬ対立関係に陥ります。しかし数日後にも腹が立つという場合は、相手に否があることが多いものです。森田先生は、そういうときは冷静に自己主張をしてもよいといわれています。そのために、相手の問題点をよく整理して、つじつまのある話をすることが大切です。怒りの感情で問題となるのは、その怒りが初一念だったのかどうかということです。森田先生のエピソードで、入院生が兎小屋で掃除をしていた時に、獰猛な犬が入ってきて兎をかみ殺してしまったという話があります。この時の初一念は、「ぞっとした。かわいそうなことをしてしまった」という気持ちです。ところがその入院生は、その気持ちはすぐに忘れて、これは入口のカギの取り付け方が悪いなどと他人に責任転嫁した。この気持ちから対応すると、いつまで経っても、事実本位の態度は身につきません。怒りの感情などの場合は、初一念と初二念の見極めをすることが大切です。初二念の場合は、ごまかし、隠す、取り繕う、責任転嫁が多くなりますので、そういうときは「ちょっと待て」という言葉を自分に投げかけて、初一念に立ち戻ることが大事です。これは「純な心」を身に着けるときのポイントとなります。また怒りの感情は、自己防衛という面から見てもとても重要な感情です。怒りの感情が湧き起こらない人は、容易に支配されて、従属させられてしまいます。つまり支配、被支配の関係に陥ってしまいます。服従してしまうと、自分の自由は効かなくなります。怒りの感情は、いくら燃え盛っても、いつかは感情の法則通りに沈静化することを忘れてはなりません。それまで時間をおくことが得策であると思います。その間目の前のやるべきことに取り組んでいれば、自然に流れていくことは誰しも経験していることです。不安については、不安に学んで一刻も早く対策をたてて実行することが必要な場合があります。例えば大地震に備えて、家具をしっかりと固定する。耐震構造にする。避難訓練をしておく。あるいは、不慮の事故に備えて生命保険、自動車保険、火災保険、地震保険に加入しておく。ガンや生活習慣病の検診を受けて、自分の身体の状況をある程度把握しておくことなどです。このように不安には、すぐに対処したほうがよい不安もあるのです。それ以外の不安、恐れ、不快感、違和感などは森田理論が教えてくれている通りです。例えば、嫉妬心、恥ずかしさ、自己嫌悪、罪悪感、絶望感、憂鬱感、逃げ出したい、無力感、無気力、無感動、弱音を感じることもあります。これらは「かくあるべし」を持ちだして、現実の自分を批判、否定してはなりません。現実の自分に寄り添って、「そんな気持ちになっているのだね」と言って、そんな感情を認めて受け入れることが大事です。しっかりと今現在の状況を受けとめることができれば、そこから一歩目線をあげて行動することができるようになるのです。「努力即幸福」の軌道にのって楽な生き方に変わっていくのです。
2019.08.01
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湧き上がってくる感情はいろんなものがあります。うれしい、楽しい、愉快だ、爽快、気持ちよい、心地よい、幸せ、満足、達成感などは、他人と共有できればこんなに素晴らしいことはありません。次に、私たちが、問題にしている心配、恐れ、おびえなどの不安の感情があります。イライラして、何も手につかなくなります。すぐに逃げ出したくなります。相手の存在、言動に対して腹立たしく思ったり怒りを感じることもあります。例えば相手にからかわれる。無視される。軽蔑される。批判される。否定される。こき使われる。服従させられる。脅迫される。指示や命令を受ける。また仲間はずれにされると、寂しくなり悲しくなります。憂鬱で苦しみます。身内の人が亡くなった場合も同様の感情が湧き起こります。それ以外にも、自分自身のふがいなさで、自己嫌悪に苦しむこともあります。他人との勝負に負ければ、くやしくなります。罪悪感で過去の不祥事で苦しみこともあります。自分の考えているような結果がでなくて、欲求不満に陥ることもあります。肉体的、精神的に落ち込んで無気力、無関心、無感動になることもあります。このように、好ましい感情、ネガティブな感情が次から次へと湧き起こっているのが現実です。森田理論では、感情は自然現象であってコントロールできないものであるといいます。台風が来た時の柳の枝のように素直に認めて受け入れるしかないと学びました。好ましくないと思う感情をごまかす、隠す、抑圧する、無視する、拒否する、いいわけをする、否定する、取り繕う、責任転嫁などの対応は、森田理論でいえば間違った対応となります。「かくあるべし」を持ちだして、是非善悪の価値判断をしてはならないものです。素直に認める。そのままに受け入れる。じっくりと味わうことが大切です。この方向を目指すことは、「事実本位の生活態度を養成する」ことだと思います。森田理論の核心部分です。すると「感情の法則」通りに、好ましくない感情も変化していくのです。どんなネガティブな感情であっても、時間が経てばどんどん小さく変化してきます。対応はオレオレ詐欺やワンクリック詐欺の対応と同じだと思います。基本的には何もしないで放置しておくことが正解です。ネガティブな感情をなくしようとしたり、逃げていては、逆に火に油を注ぐようなことになってしまいます。
2019.07.31
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今日は感性を鍛えることについて考えてみたい。感性は物事や出来事に直面したときに、どんなことを感じるかということである。これは、見る、聞く、匂う・臭う、味わう、触れるという五感によって発生する。その時に大切なことは、最初に感じたことである。これを直感という。森田理論では「純な心」と言って、ことさら重要視している。感じから出発すると間違いがない。感じを無視、軽視して、観念や「かくあるべし」を優先していると間違いだらけとなる。ハンバーガ屋に一人でいって、「ハンバーガー10個ください」と注文する。店員が、「全部お持ち帰りですか」と聞いてくれるならよい。「店内で食べられますか、それともお持ち帰りですか」などと聞いてくる。誰が10個も店内で食べるのだと反発したくなる。店のマニュアルどうりに対応することを強制されて、自分の感性は抑圧・無視しているのだろう。これではロボットと話をしているようなものだ。テレビでサスペンスドラマを見ていると、感性の鋭い刑事が出てくる。その人たちの特徴は、安易に観念や先入観で犯人を決めつけない。どう見てもあの人が犯人だと思っても、丁寧に本当の事実はどうだったのか検証していく。事実を丹念に洗っていって、少しのほころびから、真犯人の特定に結びつけている。事実こそが神様であるといった態度である。事実を確かめる態度が、感性を鍛えているのだ。感性の弱い刑事は、最初に観念や先入観で犯人を決めつけて、それを証明するような事実を恣意的に集めようとする。それはほとんど間違っている。安易な決めつけは、誤認逮捕につながる。感じる力は人によって差がある。神経質性格者は、もともと感じる力が鋭いようだ。鋭いレーダーを標準装備しているようなもので、普通の人が感じられないようなことでも、感じることができる。この鋭い感性のおかげで、芸術や文化をより深く鑑賞して感動を味わうことができる。また、仕事や生活場面では、気づきや発見、興味や関心が次々と生まれてくる。神経がピリピリとアンテナを張って絶えず、周囲を観察しているようなものである。これが高まってくれば、自然に動きだしたくなってくる。好奇心に沿って、行動するようになれば、自己内省するよりも、外向きの気持ちが強くなってくる。そういう態度で生活していると、感性はどんどんと鍛えられていく。神経質者が元々持っている感性は、どんどん鍛えていくようにしたほうがよいと思う。そのためには、先入観で決めつけたり、「かくあるべし」を前面に押し出す態度ではダメだと思う。事実を徹底して観察するという態度が、感性を鋭く鍛えているということを忘れてはならない。
2019.07.04
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怒りや腹立たしい感情は次の4つに分けられると思います。1、あおり運転をされた。注文した料理がなかなか出てこない。渋滞に巻き込まれた。年金相談や携帯の不具合の問い合わせ電話がつながらない。交通違反の切符を切られた。膝坊主を机にぶっつけて痛かった。これらは生活をしているとしょっちゅう出くわすものです。このようなことがあるとイライラします。フラストレーションがたまり瞬間的にカッとなるのです。ただしばらくするとすぐに収まります。2、差別を受けた。性別、年齢、国籍などで不当な扱いを受けた。貧富の差。戦争や紛争の発生。企業の不正。不当な法律の制定。政治の動向。森林破壊、環境汚染、海洋汚染、酸性雨、オゾンホールの拡大など。これらの怒りは放置するのではなく、現実をよく観察する必要があります。そして原因を明らかにする必要があります。そして怒りの原因を解消するために、自ら動いたり、みんなで学習会を開いたりする。私たちの子孫に暮らしやすい社会を残してあげることが大切になります。3、自分自身のふがいなさに腹が立つことがあります。人と比較して劣等感を抱く。ミスや失敗をするたびに、自己の存在や人格を全否定する。自分の性格、欠点や弱点を受け入れることができない。すぐに自己嫌悪、自己否定に陥る。自分という一人の人間の中に、二人の人間がいる状態です。一人は雲の上にいて現実の自分のやることなすこと、考え方に至るまで批判的な目で見ています。現実の世界で苦しんでいる自分は立つ瀬がありません。森田理論では、雲の上に住んでいる自分が、すっと降りてきて現実の世界に生きている自分に寄り添うことが大切だと言います。そしてどんなにふがいない自分であっても、一心同体になって守り抜くことができるようになれば、自分自身に腹が立つということは、なくなるでしょう。4、他人が自分の存在、人格を粗末に扱ったための怒りがあります。叱責、批判、無視、からかい、低評価、馬鹿にされた。否定、拒否、抑圧、脅迫されたために、傷ついた怒りです。相手が自分に「かくあるべし」を押し付けてくるので、支配、被支配の人間関係になっています。利害関係の散在する会社や社会、学校などで毎日のように見受けられます。相手の「かくあるべし」の押し付けに対して、自分も「かくあるべし」を押し付けていると喧嘩になります。そうかといって相手の言いなりになるばかりでは、精神的に参ってしまいます。相手が自分のことをどう取り扱うかはコントロールできません。こうした場合、自分がどう対応するのかは変えることができます。自分の感情、気持ち、要望、意志をはっきりさせて、相手に伝えていく態度が必要だと思います。そして次に、隔たりがあれば、それを埋めていく話し合いをしていく。他人中心の生き方から、自分中心の生き方に切り替えることです。そのために、純な心の体得、私メッセージの体得、アサーション(自己表現)の学習などが大切になってきます。
2019.04.02
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私は心の健康セミナーを企画・実施して、思っていた以上の参加者を集めることができた。振り返って考えてみると、この1年間の準備期間中は、なすべきことが泉のようにこんこんと湧き出て、実施日まで途切れることがなかった。この気づきやアイデアを忘れないようにメモして、一つずつ丁寧に処理していったことが成功の要因だったと思う。このことに関連して、森田先生は次のように指摘されている。走っているときは、足も手も緊張して素早く動かしている。精神状態も走っているときのように、緊張状態にあるときは、あれもこれもと気づきやアイデアが芋づる式に湧いてくるようになっている。決して雑念をなくして、精神を弛緩状態にして、誰も思いつかないような気づきやアイデアを得ようとしても無理がある。そんなことを考えていると思想の矛盾に陥る。騒然した町中よりも、温泉地などでのんびりとしている中で素晴らしいアイデアが生まれてくるように勘違いしやすいがそれは間違いである。あれもこれも気になるというような、精神が緊張状態にあるときにこそ、誰も思いつかないような気づきやアイデアが生まれてくる。独創的な創作活動にしても、精神が緊張状態にあり、四方八方に精神活動が拡がっているときに素晴らしい作品が生まれてくるのである。ですから、イベントなどの催し物を行うとき、目の前の問題を何とか解決したいと思うような時は、精神を弛緩状態から緊張状態に転換することが欠かせない。そのためには、目の前の仕事、勉強、日常茶飯事に丁寧に取り組むことだ。歩いている状態から走る状態へと行動力をつけていくことが有効になる。それに伴って、精神は弛緩状態から緊張状態へと徐々に切り替わっていく。よく素晴らしい発想力があって、次々と新しいアイデア、作品を生みだしている人を見て、あの人の頭の中はどうなっているのだろうという人がいる。例えばスティーブ・ジョブズ氏のような人だ。そういう人は活動量を増やすことで、精神状態を緊張状態に押し上げて、気づきやアイデアが生まれやすい環境を整備している人たちなのだと感じている。
2019.03.26
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精神医学で離人症と呼ぶ現象がある。離人症の特徴は、現実感の喪失と疎隔感であり、 「自分が自分でなくなった」 「何をしても自分でしているという感じがしない」などと訴えることが多い。当然、生き生きした感情も湧いてこなくなる。そういう人は想像力が決定的に欠如している。自分の言動によって相手がどんな反応をするのか、どう行動するのか想像できない。また、他人の痛みに共感することもできない。こういう状態を精神医学では「 「アレキシサイミヤ(失感情症) 」と呼ぶ。アレキシサイミヤは、想像力が乏しく、自分の感情を認識することも、表現することも難しい状態であり、心身症やうつ状態で時々出現する。つまり、アレキシサイミヤとは、自分の感情ときちんと向き合えない状態なのだが、 一種の防衛メカニズムという見方もできる。困難な状況に直面すると、ネガティブな感情がワーッと出てきて、どう対処すればいいのかわからなくなるので、すべての感情を否認したままフリーズするわけである。アレキシサイミヤには、しばしば成育歴が影響している。子供の頃、自分の感情を出しても、親にきちんと受け止めてもらえない子、 「怒っちゃダメ」 「泣く子は悪い子」などと、ネガティブな感情を出すことを押さえつけられているうちに感情を出せなくなる。やがて、そうした感情すら認識できなくなる。そういう人ほど、アキレシサイミヤに陥りやすい。(すぐ感情的になる人 片田珠美 PHP新書 46頁より要旨引用)アレキシサイミヤ(失感情症)は、親が子供に対して素直な感情を抑圧しながら育てていると、子供はそのうちまともな感情が湧いてこなくなるというものだ。ついに感情が枯渇してしまう。様々な感情が湧いてこないとまともな人間には育たない。森田には「見つめよ」という言葉がある。物事や出来事をよく観察していると、自然にいろんな感情が湧いてくる。気づきや発見がある。様々に前頭前野で考えるようになる。そして次第に感情が高まっていく。するとやる気や意欲が湧いてくる。実際に手足を出していくようになる。行動は生産的、創造的に発展していく。しかしアレキシサイミヤ(失感情症)の人は、身体は人間であるが、自然な感情が湧いてこなくなる。離人症のような感覚に襲われる。次第に想像力、判断力、創造性などを司る前頭前野が機能しなくなる。そして廃用性萎縮が起きてくる。アレキシサイミヤ(失感情症)になることは、とても恐ろしいことだ。こうなると認知症などの脳の機能障害が起きやすい。やる気も意欲もない、無気力、無関心、無感動な人間として、ただ生命を生きながらえているだけになってします。現代の子供たちにときどきみられる現象である。これは、家庭で親が子供たちに過干渉、過保護、放任の接し方をしていることに原因があるという。こういう点に留意しながら子育てに取り組むことが必要である。私たち神経質者は、不安、恐怖、違和感、不快な感情に対して、受け入れることをしないで、排除すべきものとして対立関係にある。そこに注意や意識やエネルギーを投入しているうちに、抜き差しならない蟻地獄のようなところに落ち込んでいく。それはそれで大きな問題なのだが、小さな感情を十分に感じることができるということは、高く評価したい。生の欲望の強い人が多いということは、あふれんばかりの感情がこんこんと泉のように湧き出る人間であるという証明である。
2019.03.23
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私たちは感情というと、イライラする、腹が立つ、怒り、悲しい、つらい、苦しい、恨み、憎しみ、不安、落ち込む、絶望的になるなどというネガティブな感情のことばかり考えているのではないでしょうか。でもよく考えてみると、感情には、うれしい、楽しい、しあわせ、気持ちがいい、わくわくする、うきうきする、すがすがしい、さわやか、安心する、ほっとする、感動する、うれし涙が出る、などというポジティブな感情も確かにあります。神経症に陥る人は、ことさらネガティブな感情を選び出して、精神交互作用でどんどん増幅させることが得意なのです。最終的に神経症として固着してしまうと、生活が停滞し、葛藤や苦悩でのたうち回るようになります。うつ病や心身症などで苦しむようになります。森田理論では、ネガティブな感情に対して、はからい行動をしてはならないと言います。また自然現象ですから、自分の思い通りにコントロールすることができません。そのまま味わい尽くすことです。そして一山超えるのをじっと待つことをお勧めしています。そうすれば、ほとんどの感情は、時間の経過とともに、収まっていくのがほとんどです。これは森田理論の感情の法則が教えてくれている通りです。今回はこれらに加えて、ポジティブな感情に注意や意識を向けて十分に味わうことをお勧めしたいと思います。誰でも夢や目標に向かって努力して、夢がかなったときや目標を達成したときは、心の底から喜びが湧き上がってくるのではないでしょうか。しかし、そういう大きな喜びは人生の中でも数は少ないと思います。反対に、日常生活の中では、とるに足りないような小さなしあわせ、よろこびは限りなくあるのではないでしょうか。例えば、掃除をした後のすっきり感、ビールを飲んだ時の爽快感、湯船に浸かったときのゆったり感、カラオケを歌ったときの解放感、食事をした時の満足感、運動をした後の喜び、森林浴をしたときの気持ちよさ・・・・などなどです。これらの感情を声に出してみることはどうでしょうか。あるいは日記に書いてみることをお勧めしたい思います。そういう感情は普段誰でも感じているのですが、あたりの前のこととして、湧き上がるたびにスル―させているのだと思います。そういう感情に、光を当てていると、ネガティブな感情にばかり振り回されることは少なくなります。また、小さな喜びなどの感情は、弾みがついてどんどんと好循環を生みだします。そちらに重点を置いた生活の方が、よほど味わい深い人生になるのではないでしょうか。宇野千代さんは、「幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人とがある。人が聞いたら、吹き出して笑ってしまうようなことでも、その中に、一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きて行きたい」といわれています。宇野千代さんは、今日紹介したことを、日ごろから実践しておられたのだと思います。
2019.02.23
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「気持ちを伝えるレッスン」 (石原加受子 大和出版 137ページ) に次のように書いてあります。恐怖や不安、心の傷や手放せない憎しみなどは、それを自分を中心にして表現し、その気持ちよさを実感したときに癒すことができます。心の癒しや浄化につながるのは、こうした自分の感情の表現と体感です。プラス感情だけでなく、マイナス感情でもそれは同様。自分のために流す涙、哀しみや怒りや憎しみを感じている自分、不安や恐怖を感じている自分、それを素直に認めて、そういった諸々の感情を自分のために味わうことができれば、それが癒しと浄化になるのです。その時々に起こる自分の感情や気持ちに気付いて、それらを丁寧に扱って味わう。そしてそれらを言葉で表現し、手放す。感じて表現しては捨てる。感じて表現しては捨てる・ ・ ・ 。そこには相手を支配したり、操作したりしようとする意識はありません。なぜなら、相手に無理やり理解を求めなくても、自分自身が自分の最良の理解者となれるのですから。私たちは神経症で苦しんでいる時、恐怖や不安、心の傷や手放せない憎しみなどは、なんとか取り除こうと悪戦苦闘しているのではないでしょうか。また、どうにもできないと判断して逃げているのではないでしょうか。その結果、自分の願いとは反対に、恐怖、不安、憎しみなどがどんどん増悪して、葛藤や悩みが大きくなっているのではないでしょうか。石原さんは、どんなにネガティブでマイナス感情であっても、それを十分に味わうことができれば、癒しと浄化につながると言われているのです。そして、最初に沸き起こってきた感情を言葉で表現して手放すことが大切だと言われています。そうすれば、ネガティブでマイナス感情を捨てることができる。大事なこと言われていると思います。この考え方は、私たちが日々学習している森田療法理論の考え方と全く同じことです。不安、恐怖、違和感、不快感などは、基本的にはやり繰りしたり逃げたりしないで、素直に認めて受け入れる。無抵抗で味わうことに専念する。すると、時間の経過とともに、不安などは小さく変化してくる。最後には霧散霧消していく。不安はレーダーのようなものである。これは危険や問題点を発見するのに役立っている。不安がなかったら人間の生存は難しくなるでしょう。だから不安はのけ者にしてはいけない。次に石原さんは不安などの感情を吐き出すことが大切だといわれています。森田では、「私メッセージ」などの処方で吐き出すことが有効だと言っています。また不安は欲望と裏腹の関係にある。だから、不安を持ちこたえたまま、欲望の達成に向かって努力した方が得策である。このことを森田理論では「流転」を促進することで、感情は早く流すことができると言っている。そうしないと精神交互作用によって、神経症として固着してしまう。
2019.02.21
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「あるがまま」の生き方は、自分自身、自然に湧き上がってくる感情、自分の気持ち、自分の意志、五感、身体感覚などを全て肯定することです。総力を挙げて自分を肯定して守り抜くということです。自分が自分の最大の味方であるということです。どんなことがあっても批判や否定をしないということです。自分の身体と心が一体となって、他人や物事に対応していくということです。この話をしていたところ、ある方から質問を受けました。その方は仕事をすることに苦痛を感じている。いつも辞めたいと思っている。でも生活するために辞めることができない。そういうジレンマがあるわけです。自分の感情と仕事を辞めてはいけないという「かくあるべし」が争っている。私の言い方だと職場に行くのがおっくうだという感じが湧き起こったとき、その感情を受け入れて、ずる休みをしてもいいということにはなりませんか。嫌だという感情が沸き起こってきたとき、その感情を受け入れるということは、自分の生活がめちゃくちゃになるじゃありませんかといわれるのです。確かにそうですね。自分のイヤだという感情のままに行動していると、職場から追い出されて、自分の生活は破壊されてしまいます。最悪の結果を招くことは、火を見るよりも明らかです。このことに対して、森田理論でどのように考えているのでしょうか。嫌という感情は自然現象ですからどうすることもできません。それは否定してはいけません。次に、その気持ちを持ったまま、起きて身支度や朝食をとり、イヤイヤ仕方なく家を出て会社に向かうしかない。不安を抱えたまま、次の行動に進むことです。そうすれば時間の経過とともに、イヤな感情は、変化して最後には霧散霧消していく。嫌な感情はやりくりしないで受け入れることが大切です。しかし受け入れて感情にもとずいて行動を起こすことではありません。嫌な感情に振り回されて仮病を使って会社を休むことは、森田理論では「気分本位」と言っています。不安や恐怖の感情が沸き起こってきたとき、それらに立ち向かわないですぐに逃げるという考え方です。気分本位の態度は、その瞬間だけは気持ちが楽になります。ところが、しばらくたつと、他の人に自分の仕事を肩代わりしてもらってるという罪悪感が出てきます。また、会社を休んで自由に好きなことができるにもかかわらず、心の底から楽しむことができません。明日会社に出社した時、みんなからどんなことを言われるのか不安になります。特に休み明けの出社日に欠勤してしまうと、仕事に対する弾みが先延ばしされることになります。他の人はすでに仕事に対するリズムが出来上がっているのに、自分はその時点で出遅れているということになります。一時的な不安を払拭するために、すぐに気分本位の態度を取る事は、結局自分を苦しめるだけということになります。自分が生きるということを考えてみた場合、自分ひとりで生きているわけではありません。ある意味では、ほとんど人に依存して生きているのです。それは、言い換えれば、自分も人に依存されている存在なのです。簡単に言えば、お互い分業して助け合いながら、 1人だけでは成し得ないような豊かで安全な生活を享受することができているのです。依存し依存されながら生を紡いでいるのが、人間の自然の姿なのです。そういう意味では、人に依存するだけでは片手落ちだといえます。自分も何らかの形で人様のお役に立つ責任のある存在なのだということを忘れてはなりません。
2019.02.13
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人間は、見える、聞く、 臭う、味わう、触れるなどの「五感」を使って外部のものを認識する特徴があります。現代社会はこの「五感」の働きが危機を迎えているという人もいます。その五感の働きが軽視されると、現実を無視した観念や思考中心の世界にどっぷりとハマり込むことになります。事実を無視して「かくあるべし」の強い人間になってしまいます。観念主義、完全主義、完璧主義、理想主義、コントロール至上主義に陥って、現実、現状、事実とのギャップで苦しむようになるのです。強迫行為などの神経症に陥る人は、小さい頃から五感の働きを軽視して生きてきたのではないでしょうか。そのツケが症状としてでてきているのかもしれません。五感には、不安や恐怖などの他、心地よい感情や嬉しい感情もあります。五感を軽視する人は、マイナスの感情を強く意識し、プラスの感情はほとんど気にも留めないという傾向が強いのではないでしょうか。五感を意識すると、思考は止まります。感じることと思考することは同時に行うことはできません。五感を鍛えて感性を磨く事は、観念中心の世界から抜け出ることにもつながります。まず自分がそのような状態にあって、強迫神経症に陥っていることを認識する必要があります。観念中心の世界に身を置いてがんじがらめになっている人は、五感を鍛えて育むことに取り組むことをお勧めしたいと思います。例えば、自然に涙が出てくるような評判のよい映画を見る。あるいは評判の文芸作品を読んでみる。自分の好きな音楽を聴いてみる。素晴らしい景色の場所に行ってみる。心が癒される場所に行ってみる。アロマセラピーをしてみる。評判の料理を食べてみる。加工食品づくりに挑戦してみる。温泉に行ってみる。料理に挑戦してみる。カラオケや踊りに挑戦してみる。簡単な運動に取り組んでみる。ヨガや気功やマインドフルネスに取り組んでみる。などなど。私は毎日、息を吐ききって、鼻から大きく息を吸い、少しずつ口から最後まで息を吐く。この呼吸法を5回ぐらい連続してやります。不思議とイライラがなくなり、心が穏やかになる経験をしています。その時は思考が止まり、自分の身体感覚が蘇ってくるように感じます。五感は特別なことをしなくても、意識するだけで、いろんなことを感じることができます。このようなことで、観念中心の世界から少しずつ抜け出して、五感が少しずつ回復し、感じる力が育ってくるのではないでしょうか。観念中心の人は、頭の中でああでもないこうでもないとやりくりをするばかりです。頭は過剰に動いていますが、体があまり動いていません。そういう傾向のある人はバランスが崩れているのです。足を使う、手を使う、体を動かす方面にも力を入れる必要があります。五感を使って感じる力を高めていく事は、 「かくあるべし」を少なくして、「事実本位」の生活態度に変えていくための出発点となります。観念中心の生活を送っている人は、それをいったん横に置いて、もともと備わっている五感を刺激して存分に味わうことを意識したほうがよいと思います。
2019.01.29
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以前に学習したノートを見てみると、次のように書いてある。愚痴を言う事は、行動をにぶらせ、仲間を困らせるだけである。愚痴を言う相手がいると、ある程度は気持ちが楽になります。でも、所構わず愚痴ばかり言っていると、愚痴を聞かされている相手は「またか」という気持ちになり、そのうち真剣に相談相手にはなってくれなくなります。また、自分にとっても、愚痴を言うことによって、過去の嫌な出来事が思い出され、怒りや恨みが増悪してしまいます。これは感情の法則が教えてくれている通りです。愚痴を言えば言うほど、相手が逃げていき、自分が惨めになってしまいます。「愚痴を言わない」という言葉をキャッチフレーズにして、生活を立て直して神経症を克服している人がいる。愚痴はできるだけ控えたほうがよさそうだ。今考えても確かにその通りだと思う。でも、ここで1つの疑問が湧いてくる。カウンセリングの基本技術では、信頼感の形成が欠かせないものとされている。傾聴、受容、共感の態度でクライアントに接しないとカウンセリングは前には進まない。ここでは、人間関係における問題点が愚痴として語られることになる。カウンセラーはその愚痴を永遠と聞くことになる。ロジャーズの来談者中心療法では、傾聴、受容、共感が大きな柱になっている。私たちの学習でも、傾聴、受容、共感の重要性が叫ばれている。しかし愚痴の弊害を考えてみるともうひとつすっきりしない面がある。愚痴を聞いているだけでは、何の問題解決にもならないのではないかという面があるからだ。積極的な問題解決のヒントを指示すことが大切なのではないかということだ。この問題に対して、石原加受子さんは、次のように言われている。悩みを相談すれば、誰かが私の話を親身になって聞いてくれると、私の気持ちはほっとする。その時間だけは相手に依存していられる。この関係ががっちりと確立してしまうのはまずい。石原さんは、この関係性を「同情の支配」といわれている。つまり相談者は自分の愚痴を永遠と述べる。相談された人は、相談に乗りながらアドバイスを繰り返す。2人の関係は共依存関係で、一方が心の傷を吐き出し、もう一方が傷を舐めるという相互関係が出来上がる。こういう関係は、相談者は、自分の話を聞いてくれる人が欲しいのです。ですから、本質的には自分の悩みを解決したいという欲望はないのです。むしろ悩みを解決すると、話を聞いてくれる人がいなくなるので困ってしまうのです。この時相談者は、自分自身を哀れみ、惨めな気持ちになっているはずです。自分自身を哀れな世界へと突き落とし、自分を愛することができない自分になっているのです。自己肯定感が持てなくなり、自己嫌悪、自己否定の悪循環に陥っているのです。石原さんは、他人中心の生き方から自分中心の生き方を提唱されています。そういう方向に転換しないと、人間関係の問題は解決しない。永遠と愚痴を繰り返す。この場合は、相手の言動に焦点を当てていくのではなく、自分の感情、自分の気持ち、自分の意思、自分の身体感覚に焦点を当てて、自分をかけがえのない人間として取り扱うことが大切であると言われています。これは、森田理論で言うと、「かくあるべし」を少なくして、事実の立場に立脚して、そこから一歩、視線を上に向けて生きていくという「事実本位」 「物事本位」の生活態度のことを言われているのだと思います。森田理論も外部の人の考え方と比較しながら学習していくと、より深耕できるものと考えています。(しつこい怒りが消えてなくなる本 石原加受子 すばる舎 124ページより1部引用)
2019.01.27
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私は県外に単身赴任をしていた時、その地区にある森田の勉強会に参加していました。その会では、後日会合の様子がメールで送られてきました。故郷へ帰った後は、遠方なのでその勉強会には参加することができませんでした。でも、そこで知り合った仲間とは離れ難く、メールの送信が必要かどうか聞かれたので、 「ぜひ送ってください」とお願いしました。それから10年間毎月メールで送られてきました。ところが最近、個人情報の内容が含まれているので、メールの送信は中止することにしたという連絡が入りました。送信してくれていた人は、メールを一方的に送るばかりで不安になられたのだと思います。それはちょうど、真夜中に不審者が自分の家の中を覗いているような気味の悪さだったのだろうと思います。誰だって相手のことが分からないと疑心暗鬼になり、不安でいっぱいになるでしょう。その不快感を払拭するために、私に対して一方的にメールの送信を拒絶されたのです。気味の悪い不快な感情を取り去ることに注意が向いていたのだと思います。私は、わかりましたと返事をしました。しかし、どうも納得ができませんでした。これは不気味な感情に対する短絡的な対応なのではないでしょうか。では、この場合は気味の悪い感情をどのように取り扱えばよかったのでしょうか。気味の悪い感情をそのまま受け入れて、はからいをやめるとどうなるでしょう。不快な感情に抵抗しなければ、それ以上に大きくなることはありません。また軽率な行動に走ることも避けることができます。この場合、不快な感情に対して、そこを出発点にしてどのように行動すれば、不快な感情をなくすことができるのか考えるようになります。ハンドルネームで書かれているけれども、個人情報も多々含まれているので、漏えいすることには最初から抵抗がある。これは誰でもあります。そこで、守秘義務違反はしませんという文章を作成してサインをしてもらうのはどうだろう。サインをしてくれた人にだけにメール送信を行うようにするのだ。さらに、一方的にメールを送るばかりで、相手はそのメールをどのように取り扱い、読んでいるのかわからない。これが不気味さの大きな原因になっている。その問題をどう取り扱うか。私なら、少なくとも3ヶ月か4ヶ月に1回は、その人の近況を必ず報告してもらうように義務付ける。そして、それを2回ぐらい怠った場合は、申し訳ありませんが、メール送信を打ち切ることをあらかじめ了解してもらう。そうすれば、自分と相手が双方向の交流ができるので安心である。また、他のメンバーも昔交流した人の動向がわかるので、交流の幅が広がって楽しい。なにより勉強会が井戸の中の蛙になることを防ぐことができる。そういう交流が深まってくれば、遠距離で学習会に参加できない人でも、なんとか工夫して1年に一回とか、2年に一回ぐらいは参加するようになるかもしれない。そうなればその学習会自体が活性化してくるかもしれない。不快な感情を払拭するために、相手に「かくあるべし」を押し付けるのは弊害が多い。反対に不快な感情を受け入れて、その感情を基にして、自分はどのように手を打てば良いのかと考えていけば、事態は好転していくのである。感情の取り扱い方は誤らないようにしてほしいものである。
2019.01.24
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私たちは職場において、普通腹が立つことがあってもできるだけがまんして、波風が立たないようにしようとします。これは感情のままに怒りを出してしまうと、人間関係がめちゃくちゃになってしまうという気持ちがあるからだと思います。あるいは相手の反撃で自分が傷つくことを恐れています。つまり、怒りの感情は我慢し耐えて押さえつけているということです。理性でマイナス感情をねじ伏せているということです。しかし、心の奥底では、それで納得しているわけではありません。なんとか反撃をして言い返して怒りの感情を解放したいと思っているのです。そうかといって子供ではない、理性のある大人なのだからと思って対応しようとしているのです。理性と感情のギャップで苦しむようになるのです。森田でいう思想の矛盾で苦しんでいるのです。でも、いつまでも解放できないと、精神交互作用で怒りの感情はどんどん燃え盛り、憎しみや恨みが怨念となってしまいます。普段から感情を抑圧している人は、心の中では多くの怒りが渦巻いています。それは、その人の顔の表情や口調などに表れています。目がつりあがり、体が硬直して、神経が極度の緊張状態にあります。感情を抑圧している人は、自分は感情的になっていないと思っていても、他人から見ると、人を寄せ付けないオーラを発しているのが、手に取るようにわかります。職場で感情を抑えることが習慣になっている人ほど、ますます感情的になっています。最初はできるだけ我慢していても、不快な感情はどんどん蓄積されて、いずれ持ちこたえられなくなります。そしてちょっとした出来事をきっかけにして大爆発を起こし、会社中の噂になってしまいます。感情を抑えつけることばかりに注意を向けている人は、腹立たしさや怒り、嫉妬心などは人一倍感じますが、嬉しいとか楽しいとかというプラスの感情は感じられなくなってしまいます。マイナス感情ばかりに振り回されていると、生きることはつらいことだらけとなってしまいます。そこで、食べる、飲む、寝る、ギャンブル、性欲などの刹那的欲望で埋め合わせをしようとします。感情と生活の悪循環が繰り返されることになります。これに対して森田理論はどう教えてくれているのでしょうか。感情は怒りの感情も喜びの感情も否定してはなりません。感情はすべて自然現象ですから、コントロールすることはできないし、してはならないのです。どんな感情でも行き着くところまで行きつかせて、成り行きに任せることが重要です。感情に振り回されている人は、感情を意のままにコントロールしようとしている人です。その結果自分の思いとは反対に、いつまでも感情で苦しんでいるのです。怒りの感情は、精神交互作用で刺激を与えなければ、いずれおさまってくることが多いものです。次に森田先生は腹の立つことがあってもすぐに売り言葉に買い言葉で対応してはならない。この腹の立つことを文章にして記録しておく。そして3日経ってもまだ腹立たしさが収まらないときは、すこし冷静になったときを見計らって、自分の気持ちを相手に伝えたほうがよいといわれています。つまり自分の感情は、いつまでも自分の胸のうちに持ち続けるのではなく、何らかの方法で吐き出すことが大切なのだと教えてくれています。できれば大火事になる前のボヤのうちに吐き出すとよいでしょう。自己表現を心がけていると、相手も言いたい放題ということは出来なくなります。自己表現するときは、「私」を主語にした「私メッセージ」の発信が重要です。それから、腹が立つ時は、「純な心」を思い出すことも大切です。腹が立つというのは、自分が相手を是非善悪で価値判断していることが多いものです。その前の「はっとした。びっくりした。どうしよう。心配でたまらなかった。悲しかった。つらかった」などという初一念は蚊帳の外になっていることが多いものです。そういう時は、 1番最初に感じた素直な感情(初一念)に立ち戻ることが大切です。例えば上司が、「何年その仕事やっているのだ。こんな簡単な事がわからないのか」と叱責した。最初の気持ちは、「しまった。またやってしまった。どうしよう」だと思います。そのうち、上司はどうして自分だけ叱責するのだ。無性に腹が立って仕方がないという流れになっていると思います。こういう時は、最初の感情に立ち戻ることが大切です。しつこく初二念、初三念の感情が湧き起こってきますが、そのたびに初一念の感情を思い出すことです。この態度は「事実本位」というのですが、そうすると他人に振り回されることが少なくなり、出来事の後始末のほうに向かっていくようになるのです。このことを森田理論では「物事本位」の生活態度になっていると言います。
2019.01.22
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森田療法理論を学習していると、どんな感情でもやりくりしないで受け入れなければならないと学んだ。すると、月曜日の朝になると会社に行くのが気が重い。休んでしまい。サボりたい。このまま寝ていたい。そういった感情のままに仮病を使って休んでしまいたい気持ちになることがある。実際にそのまま休んでしまう人もいる。これは感情の取り扱い方を誤解しているのだと思う。不快な感情のままにやるべきことを回避する態度は、気分本位な態度である。会社に入社するときは、自分が労働することによって、賃金を支払うという契約をしている。感情がいかに出勤すること拒んで居ようとも、嫌々仕方なしに出勤しなければいけない。会社に勤めているということはそういう責任があるということです。出勤してぼつぼつ仕事に手をつけていいるうちに、次第に仕事に対する意欲が高まっていくのである。行動をしているうちに弾みがついて、新しい感情が生まれてくる。感情と行動は切り離して考えることが大切である。ここで大事な事は、月曜日の朝になると会社に行くのが気が重い。休んでしまい。サボりたい。このまま寝ていたい。そういった感情のままに仮病を使って休んでしまいたい気持ちに、どう対応するかということである。2通りの方法がある。1つは、自然に沸き起こってきた感情に対して、あってはならないものとして観念で抑えこもうとすることである。「かくあるべし」で自然現象である感情を否定してしまう態度である。こういう気持ちで、会社を休んでしまうと、瞬間的には気が楽になるかもしれない。だがしばらくたつと罪悪感が出てくる。自己嫌悪や自己否定の感情も出てくる。会社を休んでいても、同僚や上司の鋭い視線が心の中に突き刺さり、いてもたってもいられなくなる。月曜日の朝の重い気分は、火曜日に繰り延べることになる。火曜日の朝も辛い感情を味わうことになる。火曜日も引き続いて休むということになると、次第に会社を辞めたいなどというネガティブな感情が出てくる。観念上で悲観的な考えが次から次へと悪循環を始める。こういう人は普段から人の目を気にして有給休暇の申請が全くできなくなる。忌引き休暇等に対しても申請すること自体罪悪感を感じて右往左往する。これに対して、月曜日の朝の不快な感情をそのままに認めて許すという人もいる。どんな感情でも自分の身に起こった事は正しいことだと思える人だ。こういう考え方をする人は、会社の仕事の状況を見ながら、思い切って有給休暇の申請をすることができる。他人の目を気にして、過労死寸前なのに無理をして出勤するということは避けることができる。罪悪感がないので、有給休暇をとった時は思い切ってリフレッシュすることができる。会社の都合よりは、自分を第一にして、自分もいたわって大事に扱うことができる。自然現象である感情に対して、観念で目の敵にして抑圧している人と、どんな感情でも認めて受け入れている人ではその後の展開が大きく違ってくる。私達は森田療法理論学習によって、どんな感情でも抑圧や否定をしてはならない。感情の事実に対して素直に受け入れていくということを学んで実践しようとしているのである。
2019.01.15
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「イライラする、腹が立つ、絶望的な気持ちになる、悲しい、つらい、苦しい、怒り、恨み、憎しみ、不安、落ち込む」などの感情ばかり味わっていることはありませんか。こんな感情ばかりと付き合っていると、扁桃体や海馬はたまったものではありません。脳細胞が常時緊張してオーバーワークになります。最終的には大きなダメージを受けて、うつ病などの病気になります。あるいは胃潰瘍、ガンなどの身体疾患もでてきます。感情には「欲望、うれしい、楽しい、幸せ、気持ちいい、ここちよい、楽な気分、すがすがしい、さわやか、安心する、ほっとする」などの感情もあります。マイナス感情ばかりではなく、プラスの感情も存分に味わうことが必要なのではないでしょうか。そのバランスが崩れると、脳細胞だけではなく、身体面にも悪影響を及ぼすということです。一般的に感情は自然現象であって、マイナス感情ばかりに翻弄されることはどうしようもないことだと思われているかもしれません。しかし、感情の発生や成り立ちを考えてみると、そうとばかりは言えません。感情は、物をじっと観察する。自ら行動する。他人から自分に対するなんらかの働きかけがある。様々な自然現象などが身の回りに起きることによって発生するものです。どこに注意や意識を向けて観察するのか。どのような行動を取るのか。自分の身の回りに起きる出来事に対してどのように受け取るのかによって、感情の発生は大きく違ってきます。弱点や欠点、ミスや失敗を防ぐことばかりに焦点を当てていると、マイナス感情を引き起こしやすくなります。対人関係でも自分を守ることばかりに気をとられていると、人の言動に神経過敏になり、マイナス感情を招いてしまいます。理不尽な自然現象に対して、「どうして自分ばかり。このような目に遭うのだ」と対立的に捉えていると、自然現象に怒りや恨みを感じるようになります。ではどうすれば、プラスの感情をより多く味わうことができるのでしょうか。まずプラスの行動をする習慣を作ることです。自分の好きなことをする。興味のあることをする。人の役にたつことをする。ものを作る。目標を持つ。人と仲良くする。これらのプラスの行動をすることによって、快の感情が湧いてきます。快の感情は快の感情を呼び寄せて好循環をもたらします。さらに日常茶飯事に丁寧に取り組むことによって、気づきや発見が生まれるようになってくると、プラスの感情の好循環が生まれてくるようになるでしょう。ここで注意したいのは、物質的に豊かな欲望を追い求めるやり方は行き詰まってしまうということです。欲望が欲望を生みだし果しがなく、それとともに鋭い感受性はどんどん減退してきます。小さな何気ない出来事にはプラスの感情が湧き起こらなくなり、欲求不満に陥ってくるのです。それから、プラスの感情をより多く受け取るためには、 「かくあるべし」を少なくして、事実に重きを置く「事実本位」の態度を身につけることが大切だと思われます。「かくあるべし」は、「○○してはいけない」「○○であるべきだ」などという考え方で、現実、現状、事実を否定する行為です。自己嫌悪や自分否定、他者批判や他人否定からはプラスの感情は湧き上がって湧きません。現実や事実を素直に認め、そこから前進するために、自分はどうしたいのか、何を改善したいのかという態度で望まないとプラスの感情を呼び寄せることができないのです。ちょっとしたボタンの掛け違いが、その後の展開を大きく左右してしまいます。
2019.01.07
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会社の中で同僚との人間関係で苦しんでいる人が多いようです。平気で自分の心の中に土足で踏み込んでくるような同僚は大きなストレスになります。最後にはその同僚のせいで、自ら身を引いて退職してしまうこともあります。とても残念なことです。これを森田理論で考えてみました。そういう人は同僚から自分のことを批判、否定、軽蔑、無視されたとき、あからさまに反発するのは大人げない。腹立たしい気持ちを無視して、我慢しておられるのではないでしょうか。その結果どうなるのか。無視しようとすればするほど、その同僚の言動が気になります。注意や意識が目の前の仕事のことよりは、その同僚のほうにばかり向いています。その同僚が上司や他の同僚と親しく会話をしていると、自分の悪口を面白おかしく話しているのではないかと疑心暗鬼になります。その同僚がミスや失敗を犯すと、 「ざまーみろ」という気持ちになります。もっといっぱい失敗をして、みんなから集中砲火を浴びればいいという気持ちになります。そのようなマイナス志向の気持ちは精神交互作用でどんどん悪化してゆきます。でもどうしたよいのか、自分では解決策が見つからず、心の中は憎悪の念で苦しいばかりです。そこで森田理論学習で学んだように、 「その同僚の言動によって、不快な気分になった。つらいな。嫌だなぁ」と、同僚が嫌いだという感情をよく味わってみるようにされたらどうでしょうか。同僚とウマが合わない、その同僚は嫌いだという感情を、抑圧してしまうということから、どんどん問題が大きくなってきたように思います。理不尽な言動に対して、 「不快な気分にさせた同僚は許せない。なんとかやり込めてやりたい。仕返しをしてやりたい」というのが、自分の素直な感情なのではないでしょうか。そのことをよく思い出してみることに解決策のヒントがあります。その素直な感情をすぐに否定して、 「そんなことを思ってはいけない」「思う事は現実になって暴言を吐いてしまう。なにしろ感情は暴れ馬のようなものだから」このようにすぐに素直な感情を否定してしまうのが、そもそも間違いなのではなかろうか。森田理論で学習したように感情は感情、行動は行動、別々のものだということがわかっていれば、理屈の上では暴言を吐く事は少なくなります。感情と行動を区別するということは、いろんな手法がありますから、それを身につけることも必要でしょう。しかし、ここで大事なのはその前段階のことです。感情はすべて自然現象です。その自然現象に対して、無謀にも自分の意のままにコントロールしようとしているのです。その態度は厳しいことをいえば自然を冒涜する態度です。世の中の問題の多くは、自然を意のままにコントロールしようとする態度から起きていることが多いのです。その同僚に対して殴ってやりたい、殺してやりたいなどという極端な感情が湧いてきても、すべてOKなのです。問題なのは、その感情を邪魔者の様に扱い、素直な感情に反旗を翻していることなのです。腹が立つ感情、憎悪の感情、嫉妬する感情は決して抑圧してはなりません。そういうマイナスの感情を認めることができるようになると、相手に集中していた注意や意識は次第に分散されてきます。そして、相手に自分の気持ちをどう伝えたらよいのか創意・工夫するようになると思います。自分でどうにもならないときは、信頼のおける上司や他の同僚、集談会の仲間たちに相談することになるでしょう。いつまでも、相手にコントロールされっぱなしでは、扁桃体や海馬などの脳の機能が損傷を受けてしまいます。一旦破壊されてしまうと、修復はとても困難になります。ですから、いつまでも続くストレスや理不尽な相手の言動は、適切な対処をする必要があるのです。その方向に進むためには、まずは最初にわき起こった感情をすぐに抑圧しないで、十分に味わい認めていくという態度がとても大切になるのです。そのことが精神的なストレスに巻き込まれない第一歩となるという事をよく認識する必要があります。
2018.12.27
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どんな感情も台風などと同じ自然現象です。人間の意志の力ではコントロール不能です。そんな感情とどう付き合っていけばよいのでしょうか。感情を「言語」にして表現できれば、感情を解放することができます。 私メッセージで、私はこう感じました。私は○○したい。私は○○したくない。と口に出して相手に伝えるのです。最初に感じた気持ちを打ち出すのです。これを森田理論では「純な心」と言います。夾雑物が入っていない素直な感情です。 たとえば友達から、明日の休日に飲み会に誘われたとします。激務で疲れているので、参加したくないという気持ちが強いとします。そんな時は自分の気持ちに素直になって対応することが大切です。 「どうしても明日は急用で、早起きしないといけないのです」 「誘ってくれたのはうれしいのだけど、どうしても明日は時間がとれない。今度は必ず参加させてもらうよ」 急用があるか無いかは、この際関係ないのです。「行きたくない」という自分の気持ちを素直に打ち出すということが肝心です。 自分の気持ちを無視して、次のように考えて対応しがちです。「断ると相手が二度と誘ってくれなくなるのではないか」 「仲間外れにされないだろうか。」 「嫌いな人がいるので行きたくないけど、今後のことを考えて参加しよう」 このように、「明日は家でゆっくり体を休めたい」などという感情を無視して、無理やり叱咤激励して、参加するということが積み重なると心の中にストレスが蓄積されてつらくなります。そこには自分の意志はありません。相手の思惑に左右されてイヤイヤ付き合っているだけになります。こんなふうにして生活していると、生きることがつらくなりませんか。自分の気持ちを否定して、人の言いなりになって生きていくことほど、みじめなことはありませんね。自分の気持ちや感情、意思を優先して付き合っていかないと、人づき合いは苦痛になってしまいます。まずは自分の感情をきちんと受け入れて、相手に対して「私メッセージ」などの手法を使って、「言葉」で自分の意思を伝えていくことが大切だと思います。それが自分の中に湧き起こってきた自然現象である感情に素直に対応することだと思います。感情はどんな感情にも素直に認める謙虚さが大切です。(「へとへとに疲れる嫌な気持ちがなくなる本」 石原加受子 中経文庫参照)
2018.12.24
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最近の脳神経科学では面白いことがわかってきた。今まで不安や恐怖に対して、扁桃体と海馬が重要な役割を果たしていると思われていた。とっさな危険を察知した時、すぐに身をかわすことができるのは、扁桃体が機能しているからである。 これは、ほとんどの動物にも存在しているそうである。これに加えて、抑うつや取り越し苦労などの不安に対しては、前頭前皮質腹内側部が大きく関係しているという。これは、名前の通り前頭前野に存在する。この部分が事故などによって損傷されるとどうなるか。不安、恐怖、喜び、悲しみ、怒りなどの感情がわき起こらなくなるそうだ。不安や恐怖が起こらないと、平気で猛犬や毒蛇などに近づいていくようになる。本来、不安や恐怖が起きると、心臓がドキドキし、手のひらに汗をかいたり、身構えたり、顔つきが変わって不安顔になるなど、急激な身体的変化が起きます。コルチゾールというストレスホルモンが分泌されます。免疫系も影響を受けます。ところが、この部分は損傷されると、不安や恐怖が湧き起こらないので、そうした生理反応が起こらなくなる。危険や自分に不利になる局面で警戒心が全く働かなくなる。これは安全や生存に不利に働きます。アメリカでこの部分を損傷したフィニアス・ゲージという人がいた。この方は事故の前は、鉄道建設現場で現場監督をされていた。それまでは、そつがなく、頭の切れる仕事人であり、非常に精力的で、あらゆる計画を忍耐強く遂行する優秀な人物と評されていました。事故の後も、驚くことに、注意、知覚、記憶、言語、知性は全く問題がなかった。ただ、人格が豹変してしまった。気まぐれで、無礼で、ひどく下品な言葉を吐き、同僚たちにはほとんど敬意を払わなくなった。自分の願望に反する束縛や忠告に苛立ち、時折どうしようもないほど頑固になった。移り気で、優柔不断で、これから先の作業をいろいろ計画するが、段取りするやいなや、やめてしまう人間になっていました。一言で言うと、注意力を欠いていて、計画を実行できない人間になっていたのです。感情が失われたために好きとか嫌いとか、良いとか悪いとかの判断力がなくなってしまったのです。合理的な意思決定に時間がかかり、結局何一つ自分で決断することができなくなってしまったのです。その結果、職を失い、社会生活が営むことができなくなくなったのです。よく感情が暴走すると理性が働かなくなるなどと言います。傍若無人の行動をとると言います。しかし、実際には感情が湧きおこらなくなってしまうと、理性的な判断能力が失われて、決断力がなくなってしまうのです。感情が発生するから理性が働いているとみたほうが正解なのです。神経症になると不安や恐怖などの感情は、忌み嫌うようになります。しかしこれまでに見てきたように、不安や恐怖は意思決定するうえにおいて、必要不可欠なものであるということを忘れてはなりません。不安の役割をしっかりと頭に入れた上で、森田理論学習に取り組んでいただきたいと思います。(不安は悪いことじゃない 伊藤浩志 イースト・プレス 参照)
2018.12.17
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台風も次々と沸き起こってくる感情もどちらも自然現象です。台風が来ると、私たちは外出を控え、家でじっとしています。テレビを見ると、台風が近づいている場所にはヘルメットをかぶり、カッパを着たレポーターが暴風雨の状況を説明しています。「昼過ぎから雨や風がどんどん強くなっています。現在は歩くのも困難な状況です。台風は今後ますます勢力を強め、この付近に午後5時ごろ上陸するものと思われます」テレビ画面には、海の波が防波堤を乗り越えている凄まじい光景が映し出されています。レポーターには、あとどれぐらいで台風が上陸してくるのか分かっています。それを踏まえた上で、波の高さ、風雨の状況を伝えているのです。そして、 「不急不要な外出は控えてください。増水した河川や高波が押し寄せる海には絶対に近づかないでください。注意勧告が出しているところは避難所に避難してください」と注意喚起をしています。これを見ると、台風という自然現象に対して、戦いを挑むという事は全く考えていません。台風の状況を的確につかみ、その被害から身を守るということだけに注意を向けています。人間は最初から台風という自然現象に対して完全に服従しているのです。そのためにできる事は、現場の近くにレポーターを向かわせて、台風の状況を客観的に伝えることだけです。自分の私情を交えずに、第三者の立場から冷静に事実を見つめているのです。台風という自然現象に対する態度は、感情の取り扱い方にとても参考になります。私たちに自然に沸き起こってくる不安、恐怖、違和感、不快感などはどうでしょう。同じ自然現象でありながら、対応方法はずいぶん違います。それらは、人間がコントロール可能な自然現象とみなしている人が多いと思います。人間の意志の力で、それらをやっつけて、すっきりとした気分に転換できると思っているのです。これがそもそも認識の間違いです。同じ自然現象ですから、人間の意志の自由はありません。森田理論学習によって、そういうことがわかってくると、あらゆる感情に対してやりくりをすることがなくなります。嫌で不快な感情に対しても、闘う相手ではない。仕方がないと諦めて、持ちこたえることができるようになるのです。しかし、議論は分かっていても、実際には体がそのように反応してくれません。その時に、台風を実況するレポーターのように、感情の変化の状況を第3者的な立場に立って口に出してみるのはどうでしょうか。 「先ほど得意先から誤発注のお叱りの電話がありました。泣きたいような、いたたまれないようなつらい感情がわき起こってきました。その感情がどんどん増悪しています。このまま進行していけば、頭の中がパニックになって倒れてしまうかもしれません。他の仕事が手につかなくなってきました。どうしようという事ばかりが頭の中を駆け巡っています。その場から消えてなくなりたい気持ちです。自分は何をやってもダメだ。この仕事は自分には向いていないのだ。これが上司や同僚たちに発覚したらすごく叱られるだろう。嫌だなぁ。担当営業マンに知れたらまたどんな嫌味を言われることやら。自己嫌悪や自己否定に走っております。ミスをしたことが、自分の一生を左右するような大きな問題になってきました。仕方がない。ここはひとつ、まな板の鯉になったようなつもりで、得意先、担当の営業マン、上司、同僚に自分のミスを報告しよう。それが今やらなければならないことだと感じています」こんなところでしょうか。このやり方は、沸き起こってきた感情に対して、コントロールのきかない自然現象として捉えている。自然現象は、人間の意思の自由はない。抵抗は無用である。その自然現象に対して、その変化の過程を詳細に観察して、実況中継しているようなものである。そうするとどんなことが起きるのか。自然現象に対してやりくりしたり逃げたりしない。風の吹くまま、気の向くまま、嫌な感情を素直に受け入れているという状況が訪れるのです。台風が来た時の柳の木は、台風の直撃を受けたときは、枝がちぎれんばかりに悶え苦しみます。しかし、台風はいつの間にか通り過ぎていきます。その時の柳の木は何事もなかったかのように、頭を垂れているいるではありませんか。えらいものです。湧き起こってくる感情に無抵抗でやり過ごすことができれば、我々も柳の木のような状況が自然と生まれてくるのです。柳の木は我々の先生のようなものですね。どうにもならない自然現象である感情に対して、すっきりしようと手出しするよりも、 1歩引いて第三者的な立場から感情の変化を実況中継するレポーターになるという方法をとることはできないものでしょうか。
2018.08.29
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他人の言動にカッとなりすぐに切れてしまう人がいます。これが夫婦の間で起きると、喧嘩が絶えなくなります。 私はカッとする性格は感受性が強い人だと思います。 感受性が強いということは、悪いことばかりではありません。 周囲のことに敏感に反応できますので、音楽や文化、芸術をより深く味わうことにもつながります。我々神経質者に備わった優れた性格特徴だと思います。 だからこの鋭い感受性はまだまだどんどん伸ばしていかなくてはなりません。 ただ人間関係ではこの鋭い感受性が裏目に出やすいということも事実です。 不快な感情にすぐに対応して、何とかしないと、自分の精神状態がおかしくなってしまうと思うのです。相手に負けてしまうことにこだわる人もいます。そんなことがあるといつも相手の言いなりになってしまう。 そんなことは自分のプライドが許さないなどと思ってしまうのです。 この問題の解決のヒントは森田理論学習が教えてくれました。 怒りの感情は自然現象なので、自分たちの意志の自由がありません。 怒りは行きつくところまで行きつかせるのが原則です。手出し無用です。 その間は不快感に対して我慢して耐えるしか方法がありません。 そういう態度をとったからといって、感情が暴れ馬のようになって収拾がつかなくなることはありません。むしろその反対です。穏やかな気持ちになれるのです。必ず時間が解決してくれるのです。 不快感は勢いよく一山登りますが、登りきると下るしかないのです。 それを信じて行動できるかどうかがカギです。その後の展開を大きく左右します。ただ森田を学習したからといって一挙にものにできるようなものではありません。一進一退を繰り返して身につくものです。 失敗している人を見ていると、まだ山を登り切っていないのに不快感の火消しをしているのです。 その方向は、不快感に向かってどんどん灯油をまいているようなものです。 それでは不快感が収まるどころか、どんどん火が燃え盛ってしまうのです。 後に残るは後悔と気まずい人間関係です。交通事故は一瞬で起こりますが、再起するためにはとてつもなく長い時間がかかります。それと同じことです。だから感情には深入りしてかかわらないことが肝心です。 ここでもう一つ大事なことは、不快感を何とか持ちこたえながら、目の前の仕事や日常茶飯事などにイヤイヤ手を出していくことです。そちらのほうに早めに注意や意識を切り換えることが大切です。 すると不快感で大やけどを回避できるのみならず、日常生活も前進していきますので、めでたしめでたしという状況が訪れるのです。 この2つがセットとして行動・実践として行われるようになった状態が森田が目指しているところです。これが身についた人は、森田の達人に一歩近づいている人だと思います。
2018.08.25
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鋭い感受性は強ければ強いほど、人生を楽しむことができると思います。好き、嫌い、美しい、醜い、嬉しい、感動する、悲しい、腹が立つ、妬みなどという感情は、強く沸き起こってくればくるほどよい。これらの感情がわき起こることによって、感情が発生し、次第に高まっていく。興味や関心が高まり、気づきや発見が次々と生まれてくるのです。それを元にして、自然に行動意欲、創作意欲などが発生する。意欲ややる気がみなぎってくる。自然に活動的となり、夢や希望が生まれる。生きがいを持って人生を楽しむことができる。神経質性格を持っている人は、普通の人と比べると、この鋭い感受性をより多く持っている。芸術家、音楽家、画家、小説家、解説者などは神経質性格でないと優れた作品を生みだすことができません。小さな心の機微を鋭くキャッチすることができる能力は、神経質性格者に与えられた特権です。天性のものですから、あとから鍛えて身に着けようとしても難しいものです。心配性であるということ自体が、鋭い感受性の持ち主であるという事を表しているのです。心配性であるという性格を、嫌な性格であるとみなす人がいますが、それは間違いです。微妙なことにすぐに反応してしまうという性格は、手に入れようとしても手に入れることのできない貴重な性格なのですから。私たちは、いくらお金を出しても手に入れられない鋭い感受性を持って産まれた事をもっと評価しなければならないと思います。そして私たちは、その鋭い感受性を日常生活の中で存分に活用していくようにしたほうがよい。活用に際して注意することがあります。例えば、自分たちの周囲には、しゃくにさわってとても好きにはなれない人がいます。そんな時、私たちは「かくあるべし」で、自分の周りに嫌いな人は存在してはならないと考える。周りの人全員に好かれたいのである。普通に考えるとそんなことはありえない。それなのに、嫌いな人にこびたりして、なんとか好かれようと涙ぐましい努力をしている。しかし結果は、ますます軽蔑されたり、馬鹿にされて、気まずくなるばかりである。この場合は、嫌だという感情が沸き起こってきたという事を評価したい。嫌な奴は嫌な奴だと感じる事はとても大切なことである。そう感じる感性が強いということだ。次に、嫌いな人を作ってはいけないという考え方は、 理想主義の考え方であることを自覚する。そこから出発していては、自分で自分を否定したり、自分が嫌いだと思う人に反発するようになる。ここでは、目の前に嫌な人がいるという現実から出発する。嫌だという感情は自然現象なのでそのままにしておく。忍受するということだ。感情が高まってなぐりたくなれば、その感情も否定しないでそのままに、味わい尽くす。自然に歯向かっても私たちに勝ち目がないことは、耳にタコができるくらい学習した。ここで肝心な事は、感情は行き着くところまで行きつかせるということだ。そうすれば、感情の法則で学習したように、どんな感情でも一山を超えると下ってくる。嫌いな感情も次第に薄まり沈静化してくるということです。肝心な事は、嫌いな感情が山を駆け上っている時、あるいは山の頂上付近で、じっと持ちこたえることができずに軽率な言動をとることです。これは、自分にとっても相手にとっても最もまずいやり方です。マイナスの感情と言われる、怒り、腹立たしさ、悲しみ、嫉妬などの感情の対処方法は皆同じです。私たちは鋭い感受性という高性能レーダーや魚群探知機を標準装備しているようなものです。ですから、その使い方を誤ると自分や相手を攻撃する道具に早変わりしてしまうのです。適切な使い方を森田理論学習によって学んでいくとともに、確実に身につける必要があるのです。そして私たちは、鋭い感性の持ち主という優れた面をさらに磨いて鍛えていく必要があります。そのために留意しておきたいことがあります。1つには、鋭い感受性は常に外向きに活動している中で生まれてくるものです。日常茶飯事、仕事、勉強、育児、課題や目標に向かって前に進んでいる時にこそ生まれてくるものです。自分の気になる症状1点に絞って試行錯誤している状態では、鋭い感性は鈍ってしまいます。2つ目には、見境なく欲望を追い求めている状況では、鋭い感受性は次第に失われてきます。欲望は適度に抑えながら生活しないと、感じる能力が落ちてくるのです。毎日運動もしないで宮廷料理のようなものばかり食べていると、味覚の感性は次第に失われてきます。「少欲知足」「我唯足知」という言葉があります。欲望と感性は正比例しているのです。欲望を抑制すればするほど、感性は次第に鋭くなってきます。このことを肝に銘じて、神経質に生まれたことを喜び、どんどん感性を磨いてゆきましょう。
2018.08.06
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今日は感情の取り扱い方について次の3つの視点から考えてみたい。まず 自然に湧き起こってくる「喜怒哀楽」などの感情への対応である。喜びや嬉しさなどの感情は、ストレートに表現してもよいものである。ただし、試験などに合格した場合、一方で不合格になった人がいる前であまりにもはしゃぎ過ぎるのはどうだろうか。自分ひとりで喜ぶのなら問題ないが、多少は他人の配慮も欠かせないと思う。次に森田先生は一人息子がなくなったとき、人目もはばからず号泣されたという。悲しいという感情は、人前で恥ずかしいとか言うのではなく、そのまま表出させた方がよいのではないか。悲しみの気持ちは素直に吐き出すことがよいと思う。問題は怒りの感情である。森田理論では怒りの感情は自然現象であるので、抑圧してはいけないと言われている。逃げたりやりくりしてはいけない。味わい尽くすことが原則だ。怒りの感情は、売り言葉に買い言葉で激しい応酬の繰り返しになることが予想される。しかし、肝心なことは怒りの感情はそのまま持ちこたえて放置しておくことだ。多分、なんとか仕返しをしてやりたいといろいろ試行錯誤するだろうが、怒りの感情を十分に味わい尽くすことが肝心である。しかし、決して軽はずみに反論したり、暴力沙汰を起こしてはならない。感情と行動は切り離すことが必要なのだ。感情の法則をよく学習して、普段の生活の場で確認していくという態度が大切になる。次に、「不安、恐怖、違和感、不快感」への対応である。もともと「不安や恐怖」はレーダーのようなもので、それらをそのまま放置しておくと将来大変な事態に遭遇するかもしれないことを教えている。例えば不慮の事故に備えて生命保険や自動車保険に加入しておく。地震に備えて耐震化工事をしておく。これらは不安に学んで、積極的に備えをしておくことが必要である。それ以外の神経症的な不安や恐怖は、やりくりをしたり逃げたりすることがよくないことは森田理論を学習している人は誰でも知っている。これらについては、森田理論学習によってそのカラクリをよく学び、適切な対応をとることが必要である。神経質性格を持った人は、ちょっとしたことに不安や恐怖を感じやすい。一つのことにとらわれやすい人である。そういう人は長い人生を生きていくにあたって、森田理論学習は必須であると考える。森田理論が自分のこれから先の生き方を明確に指し示しているのである。神経質性格を持ち、生きづらさを抱えている人にとって森田理論学習は大いに役立つと思う。その際このブログで取り上げているように、基礎編、応用編に分けて順序よく学習することが有効だ。特に応用編の「森田理論の全体像」はよく理解してほしいと考えている。最後に、人間は放っておくと、目の前の問題や課題にから逃避欲求に従ってすぐに逃げてしまう。楽をして、他人に依存して、自分は何もしないで安楽に暮らしたいとつい考えてしまう存在である。一方で燃えるような素晴らしい生き方を熱望しながら、逃避欲求に従った気分本位的な生き物という一面がある。このような安易な態度で生活していると、自分が惨めになるだけである。そういう怠惰な感情が沸き起こってきたとき、そのような感情とどのように対峙していくのか。森田理論では、努力即幸福という。問題や課題に対して安易に回避しないで立ち向かっていくことに意味があるという。そのためには、目の前の事実や出来事をよく見つめて観察をする。すると自然に感情が高まってくる。興味や関心が湧き、気づきや発見が生まれてくる。次第に行動したいという意欲ややる気が出てくる。それにつき動かされて行動・実践していけば、弾みがついていくらでも前進できるようになる。面倒なことはできるだけしたくないなどという怠惰な感情への対応はよく考えておく必要がある。感情については、以上の3つの視点から洞察を深めて、適切な対応をとることが重要であると考える。それに対して重要な示唆を与えてくれているのが、森田理論なのである。
2018.05.08
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大原健士郎先生が次のような話をされている。ある小学校の女性の先生が悩みを持ってやってきた。先生の悩みというのは、自分は教師としては子供達全員を平等に可愛がられねばならない、 「かくあるべし」という思想なんです。教師としては皆を平等に可愛がられなければならない。しかし、どうしてもそうはできない。意地悪する子供もいるし、鼻を垂らしている子もいるし、憎たらしい子の顔を見るのは嫌で嫌でしょうがない。叩いてやりたくもなる。かくあるという事実があるわけです。自分はその矛盾に悩んでいる。私、子供皆平等に愛したいと思うけどできない。教師失格ではないかということで神経症で悩んでいるわけです。森田先生は、それは当たり前だ、皆が好ましい人ばかりではない。嫌であっても嫌だなぁと思いながらも、嫌な顔をするのは、子供である。嫌だなぁと思いながらもニコニコ顔で大人の付き合いをしなさい。というようなアプローチをするわけです。自分はあるがままに受け入れてやるべきことをやれ、どうにもならない事実はどうにもならないと認めなさいと言われているのです。私なんかも非常に激しい性格ですから、友達も、先輩にしても、あの野郎早く死んじまえばいいなと思うのが、私何人もいるわけです。皆さんにもきっといると思うんですが、神経症にはそういう人が多いです。しかし、それをあの野郎早く死んでしまえ、と言っては非常に角が立つわけですね。その人の前でもニコニコしながら「おはようございます。今日はいいお天気ですね」と言うと、向こうは向こうで相手の心中は分かりませんから、 「あいつ、いい男だな」ときっと思ってくれているだろうと思います。そういうのも大人の付き合いだというわけです。(生活の発見誌2018年4月号9ページより引用)この話は、どんなに相手のことを嫌いで憎んでいても一向にかまわないということだ。嫌いであるとか、虫がつかないとか、憎らしいとか、腹が立つとかいう感情は自然現象であって、どうすることもできない。その感情をあってはならないと、拒否、無視、否定、抑圧しようとすると、思想の矛盾に陥り、神経症になる。感情の法則1にあるように、いったん沸き上がった感情は、山を駆け上っていく。我々の出来ることは、その感情を味わうことだけである。手出し無用である。その感情の影響を受けて、相手のことを無視したり、腹を立てて喧嘩を売ったりする人が後を絶たない。そういう対応をしている人をみると、大の大人のすることだろうかと思ってしまう。子供の対応に見えてしまう。でもうっかりすると自分自身でもそういう対応をしていることがある。たしかに全部が全部沸き起こってきた感情と行動を切り離す事は難しい。しかしそのような方向に舵を切っていく事は大切だと思う。私は、そのような時、俳優や女優を思い出すようにしている。私生活でどんなに問題を抱えていても、いったん撮影や舞台に上がると、苦しい感情は封印して、楽しい演技をしている。私たちもその人たちに学んで、とりあえず 10のうち1つや2つは感情と行動を切り離す演技を身につけたいものだ。
2018.04.28
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岩井寛先生のお話です。入院中のある高校生が、作業時間中に自室に閉じこもったきり外へ出てこないで、看護婦が促しても一向に言うことを聞かないと言うので、岩井先生がその高校生と面接をすることにした。彼は次のように言った。「先生、僕は先生の言われたあるがままに忠実に従っているだけですよ。僕は対人恐怖症だから、他の人と一緒に卓球をやったり、 中庭で雑草を抜いたりすることが嫌なんです。だから1人のときにはきちんと仕事をやっています。看護婦さんに非難される事はありません。僕は自分の気持ちに忠実に行動しているんです。人と会って緊張するのが嫌だから、おしゃべりをしながら一緒に作業はしたくない、という気持ちは僕の本心であり、その本心をそのままに認めるのがあるがままじゃないんですか。だから僕は自分の心をあるがままに認めて、それに沿った行動をしているだけです」 (森田療法 岩田寛 159ページより引用)この高校生は、 「あるがまま」という森田のキーワードを、自分の中で自然に沸き起こってきた感情のままに行動することだと理解している。不安、恐怖、違和感、不快感などが沸き起こってくれば、逃避欲求のままに行動すればよいのだと信じて疑わないようだ。今までも予期不安があるとすぐに逃げていたのに、「あるがまま」という森田のキーワードの学習で、確信に変わったのである。でもこれは「あるがまま」の誤解である。本来「あるがまま」というのは、不安や恐怖などがわき起こったとき、それをやり繰りしたり逃げたりしないで、その不快感をそのままに受け入れるということである。自然に服従することだ。そして目の前のやるべきことに注意や意識を向けて行動・実践していくということだ。この高校生の場合、嫌な感情がわき起こると、目の前のなすべき実践を回避するというやり方である。不快感をやりくりしてすっきりしようとしているのと同じことである。このようなやり方をとっていると、例えば本能的な欲望が沸き起こってきたとき、それを我慢することができなくなる。衝動的な行動を助長してしまうことになる。例えば、お金がなくてもものが欲しくなれば盗みを犯してしまう。満員電車の中で性的な欲望が沸き起こってくれば、痴漢を働いてしまう。これは動物のやり方と同じである。少し考えただけでも、正常な人間のやり方とは思えない。森田先生から神経症が治ったかと聞かれると、森田先生の気持ちを察することなく、 「今はまだ治っていません」などと発言して、先生の心証を悪くする。自分の正直な気持ちにとらわれて、その場が気まずくなるということには、無頓着である。自分の沸き起こってきた感情に素直に反応するということは、反社会的な行動にも発展することもある。こういうやり方は感情の一面しか見ていないのだ。普通の人は、盗みや痴漢をすれば、警察に突き出されてしまうかもしれないという不安も同時で沸き起こってくるようになっている。森田先生に対しても、先生が日夜自分のために努力してくださっていることが分かれば、その心証を思いやる気持ちが当然に湧いてくるものである。人間には、ある感情がわき起こると、それに対立する反対の感情がわき起こるようになっている。森田理論では、このことを精神拮抗作用という。その中で、その時、その場に応じた適切な対応をとりながら生活をしていく必要があるのである。どちらか片方に偏ってしまうということは、他人との対立を生んで生きにくくなるばかりである。あるがままというのは、沸き起こってきた感情に対してやり繰りをしないでそのままに受け入れるという意味は確かにある。これはどんなに否定して退けたいと思っている感情であっても、その感情と格闘してはいけない。安易に逃げてもいけない。その感情を十分に味わい、持ちこたえる必要があることを言っているのである。これがあるがままの姿である。そうすれば感情の法則でいわれているように、どんなに嫌な感情でも流動変化していくようになっているのだ。この高校生の場合は、十分に味わい、その感情を持ちこたえるという態度ではない。その嫌な感情をなくして、すっきりとして楽になりたいだけのことなのである。その方法をとって、暇を持て余し、退屈で仕方がない、孤立しておもしろくないなどという気持ちについてはどう考えているのであろうか。短絡的でその場しのぎの行動は、将来につながるものは何も生まれてこない。最初は注射針を打たれる時のようなちょっとした痛みはあるけれども、その気持ちを持ったまま、目の前のことに取り組んでみることの方がよほど意味のあることだと思う。
2018.04.06
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11月23日島根県浜田市のイベント会場に来ていた乗馬体験の馬が大暴れして10人の人がけがをした。その馬は、普段はとても優しい馬であったという。実際木につながれる前は、問題なく乗馬体験をこなしていた。そんな馬がどうして暴走したのだろうか。事件のあった時間、この馬は休憩時間に入っていたそうだ。ところがどういうわけか繋がれていた木が折れた。あり得ないことが起きたので、馬は気が動転したのか、突然1000人のお客さんで賑わっていた場所に突っ込んで暴れたのである。折れた木を引きずって振り回したのだから、多くの負傷者が出たのだ。でも乗馬のインストラクターが駆けつけて、止まるように声で指示をするとすぐに暴れるのをやめたという。馬小屋に戻ったその白い馬はなんかバツの悪そうな顔をしていた。見るからに優しそうな馬だった。処分されずに済んだので安心した。これを人間の場合に当てはめて考えてみたい。相手から理不尽で予期せぬ扱いを受けた場合、とても腹が立ってくる。例えば私の場合でいえば、楽器演奏中にリーダーがお客様の前で演奏を間違えた事を叱責する様な場合である。すると怒りの感情が一挙に山の頂上目指して駆け登っていく。そして最後には、演奏中にもかかわらず、リーダーに仕返しをしたくなる。罵詈雑言をはいたり、暴力に訴えてでも怒りの感情を鎮めたくなるのである。でも、そんなことをすればグループから弾き出されることは分かっている。またお客様の前で取り返しのつかない破れかぶれの行動で演奏が台無しになる。気分本位の行動は、人間関係に最悪の事態を招くのはよく分かっている。今までもそんなことで数多くの失敗を積み重ねてきた。分かっていても、その場では、不快な感情を直接速やかに取り除きたいのだ。反射的に相手に仕返しをすることによって、自分の怒りの感情を発散して楽になりたいのだ。これは理屈でどうのこうのといっても、瞬間的なことであり、自分自身では制御不能に陥っているのでどうすることもできない。これはちょうどブレーキの壊れた自動車を運転しているようなものだ。最終的には、スピードが出ていなければ、比較的安全なところにぶつかって車を止めるしかない。坂道を猛スピードで疾走していれば、大事故につながることは容易に想像できる。激情するタイプですぐにそのような態度に出る人は、他人にも迷惑かけるし、自分自身も自滅してしまうので特に注意が必要だと思う。そういう傾向にある人は、自分はそういう特徴があるという事を普段から自覚しておく必要がある。これは神経質性格の人であろうが、そうでない人であろうが関係のないことだと思う。自分はブレーキが壊れた車を運転しているという自覚を持っておくことが必要である。特にお酒が入ると罵詈雑言を吐いたり、暴力的になる人。満員電車に乗ると性的な欲情を抑えることができなくなる人。車の運転中、割り込みをされただけで煽り運転や無謀運転を繰り返すような人。そういう自分の傾向を自覚していれば、そういう場に自分の身をおくことをセーブするようになると思う。そういう危険な場所に身をさらさなくなる。そうしなければ、自分と自分の家族が崩壊してしまうのだ。これは依存症の人についても言える。アルコール依存症、薬物依存症、セックス依存症、 ネットゲーム依存症などは、その快楽経験が快楽中枢神経の中にしっかりと刻み込まれている。一旦しっかりと刻み込まれた快楽神経は取り除くことができない。一旦やめようと固く決心をしても、少しの刺激で元の木阿弥になるのである。再発事例が後を絶たないのが現状だ。だから、そういう誘惑のある場所には決して近づかないことしか方法がないのだ。もう一つ重要なことは、自分の行動を監視し、ダメ出しをしてくれる相棒を作っておくことである。それが配偶者ならもっともよい。仲の良い友達でもよい。自分が暴走しそうになった時、注意してくれたり、力ずくでも止めに入ってくれるような人が必要なのだ。そういう人と常に行動を共にしていると、感情の暴走はある程度防ぐことができる。もっともまずいことは、感情が暴走したときに一緒になって騒ぎまくるような夫婦や仲間である。火に油を注ぐような結果になり、最も危険なパターンだ。そういう意味では、自分とは気性の違う人と付き合って、冷静な時に自分の行き過ぎた言動に歯止めをかけてもらえるようにお願いしておくことだ。それで、人に迷惑がかからず、自分と自分の家族を守ることができたならば望外の喜びである。
2018.01.06
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第7回形外会(昭和5年11月9日)で香取会長は、森田先生ご令息の死去に対する哀悼の辞を述べられた。私も告別式の時は、先生の側におりましたが、納棺の時は先生も非常に悲しまれ、腸を立つように慟哭されました。出棺の時も、先生は門前で霊柩車を見送られましたが、のち二階に帰られた時は、はや風光せい月といった風に、他の事の話もされて、全く別人のごとき態度になられたのを見て、私も非常に感銘したのであります。こんなときに、先生がどうしてこのように急変されるのか、その心境を説明していただけるならば、甚だ幸いかと思います。これに答えて、森田先生は次のように話された。死んだ人の家に悔やみに行く人が、よく「死んだ人は、どうせ帰らないから諦めるよりほかに仕方がない」と言って慰めようとする人がある。大きなお世話である。そんなことを知らぬ人があろうか。しかし感情は、そのように簡単ではない。当然に死ぬべき病気でも、親の心は最後まで、これを死ぬとは思わず、奇跡的にも助かると思い、また死んでも帰ってくるような気がし、灰になっても、まだなくなったように思わない。否、そう思うのはあまりに恐ろしくて、ハッキリと理知で、そう認定することを避けて、我と我心をぼかしておくと言う風であります。「死んだ」ということも意味を明瞭にすることが恐ろしい。これは理知ではなくて、そのままの感情そのものである。こんな風であるから、その直情のままに、悲痛に迫っても、小児のように慟哭する。純なる感情であるから、日を経るままに、次第にその悲しみも薄くなり、忘れられるようになる。小児の感情が早く変化しやすいのもこのためである。普通、親族が亡くなって、喪主を務める場合、悲しみのあまり慟哭されるということはほとんど目にすることはない。淡々と喪主挨拶をされる場合が多い。割と落ち着いて対応されているようにお見受けする。しかし葬儀が終わった後、数日たってひどく持ち込まれているという話はよく聞く。なかには妻が亡くなった後、しばらくして後を追うように、気丈夫そうに見えたご主人も亡くなられたというケースもある。森田先生の場合は、告別式の場や出棺の時に人目もはばからず慟哭されたということである。そういう時は故人との思い出が走馬灯のように頭の中を駆けめぐり、悲しみに打ちひしがれるのが普通である。森田先生はその悲しいという感情を押さえつけようとしないで、そのまま味わい表出されている。しかし二階に場所を移動された後は、別人のような態度になられたのに香取会長は驚いたのである。香取会長は二度森田先生の行動に驚かれたのであった。私はここに森田先生の悲しみという感情に対する取り扱い方の真髄を見るのである。悲しいという感情はどうすることもできない。告別式ではその悲しい感情に人目をはばからず思いっきりひたりきる方がよいようである。これは怒りの感情と違って、人に迷惑をかける感情ではない。まず悲しみという感情は一山登るまで一切手を付けずとことんまでひたりきることが大切である。その悲しいという感情は人前で慟哭するという行動として表出してもいよいのである。1番問題なのは、そんなことをするとみっともない。大人げないことだと言って感情を抑えてしまうことである。実際は悲しいのに、悲しくないフリをするということは、悲しい感情を先送りすることになる。するとその悲しい感情はいつまでたっても自分の側から離れようとしなくなるのである。そしてその悲しい感情は、精神交互作用によってどんどん増悪していくのである。こういう対応は、悲しいという感情の取り扱い方を取り違えているのだと思う。森田ではどんな感情であっても邪魔者扱いをしてはならない。楽しい感情、嬉しい感情、怒りの感情、悲しみの感情、嫉妬する感情などなど、沸き起こってきた感情は行き着くところまでひたりきることが大切である。途中で、不快な感情を取り除こうとやりくりをしたり、手っ取り早く不快な感情から逃げるという事は最もまずいやり方である。感情は行き着くところまで行かせて味わい尽くす。その先は、他人様に迷惑をかけるような感情の場合は、表出することを避けて我慢する。そうすれば感情の法則1が教えてくれているように、後は流れに身を任せて、その感情は変化するのだ。じたばたしないで、台風が通り過ぎるのを待っていればよいのである。最初からうまくいくとは限らないが、そういう体験を積み上げることが、その後につながっていく。
2017.12.18
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世界的指揮者の小澤征爾さんは20代の頃ブザンソンの指揮者コンクールで1位になっている。また世界的名指揮者のバーンスタイン、カラヤン、ミュンシュに師事している。その人達から絶大な信頼を得て、海外では若き指揮者として評価が高かった。その小沢征爾さんが意気揚々と日本に凱旋し、 NHK交響楽団を指揮する機会があった。ところが、 NHK交響楽団員は指揮者小澤征爾さんを認めていなかった。実は当時のNHK交響楽団は、海野義雄氏がコンサートマスターを務め、東京芸大の出身者で固められていた。ところが、小澤征爾さんは桐朋学園の出身であり、 NHK交響楽団員にはランクが下と見られていたのだ。指揮を間違えるとか遅刻癖があるとか色々難癖をつけられて拒否されていた。でも大きな原因は、小生意気で学歴で劣る指揮者と共演はできないという気持ちが強かったようだ。ある日のコンサート当日、 NHK交響楽団員の全員が申し合わせて公演にやってこなかった。大人げない行動だが、これは事実だった。普通は突然このような理不尽な仕打ちを受けると怒り心頭となる。だれでもそうだ。その不快な気分を払拭するために、感情を爆発させるのが普通ではないだろうか。「いくら若いとは言え、世界で活躍している小澤だ。馬鹿にするのもいい加減にしろ」と。しかし小澤征爾さんは、感情を爆発させるような事はされなかった。ここがすごいことだ。逆に理不尽な行動をとった人たちに対して、いつかは見返してやりたいとめらめらと闘争意識に火がついたという。自分の居場所は日本にはない。それなら海外で努力精進して、世界で一流と認められるような指揮者になろう。そして名オーケストラを引き連れて日本に凱旋したいと強く思われた。当時日本人が世界で活躍するという前例のなかった時代である。野球界では野茂英雄氏がその扉を開いていったが、それよりもずっと前の時代であった。一人で飛び込んでいかれたのだ。小澤征爾さんは、世界で著名なベルリンフィルやボストン交響楽団など世界を代表する楽団で研鑽を積んでゆかれた。そしてクラッシックの本場のヨーロッパやアメリカで世界的な指揮者としてその地位を不動のものとされた。その後世界の三大交響楽団の一つと言われているボストン交響楽団を率いて日本で凱旋公演を行うことができた。賞賛の嵐であったという。その当時を振り返って小澤征爾さんは次のように言われている。もし、 NHK交響楽団が自分を暖かく受け入れてくれるようなことがあったら、私は日本に留まっていただろう。そうすれば、世界の小澤征爾と言われるような世界的な指揮者にはなる事は出来なかったであろう。その当時は腹が立って仕方がなかったが、今現在はNHK交響楽団に受け入れられなかったからこそ今の自分がある。逆境こそ私の出発点であった。だから拒否されたが、今となっては感謝しかない。この話は、流罪や迫害に合いながらも、北陸や関東で布教活動を続けられ多くの門弟を育てられた親鸞聖人を思い出す。一時の感情に翻弄されることなく、自分一人の力で運命を切り開いてゆかれた姿に共感を覚える。運命は耐え忍んでいてはつぶされてしまう。森田先生が言われるように、運命は切り開いていくしかない。正岡子規、後藤新平、エジソン、野口英世などもそうだった。ここが森田理論に通じるところである。
2017.12.15
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今日は感情の法則の3について考えてみたい。「感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである」私たちは生活の中で様々なことを感じています。・部屋の中がホコリだらけになっている。・車のボディーが水垢で汚れている。・そろそろチューリップの球根を植える時期だ。・そろそろ年賀状を予約しなければ。・パソコンの不具合を直さなければ。・最近お腹の調子がよくない。などなど、毎日いろんな気づきが次から次へと浮かんでくる。これらの気づきの発生は森田理論の立場から言うと、お金と同じようなものだ。あるいは宝の山であるとも言える。大切に扱わないといけない。神経質者の場合は特にそうだ。しかし神経質者の場合でも、これらを丁寧に扱う人と、いい加減に扱う人に分かれる。丁寧に扱う人は気づき、興味、関心、アイディアなどを忘れてしまわないようにすぐにメモする。そういうストックをたくさん持っている。いい加減に扱う人はメモなどはしない。そのうち気づきやアイディアなどは忘却の彼方へと忘れ去ってしまうのである。そして暇を持て余すようになる。退屈で毎日がつまらないなどと思うようになったら、要注意である。また最初に感じた気づきやアイディアを軽く取り扱っていると、次第に鈍くなり不感となるのである。例えば部屋の中が乱雑でホコリだらけだと思っていても、その中で生活していると感覚が麻痺してしまう。不潔極まる状況であっても、一向に気にならなくなるのである。他人が自分の部屋を訪れたとき、 「うわー、ゴミ屋敷の1歩手前だ」と思うような感覚が、もはやその人には湧き起こらなくなっているのです。これは鍋の中に飛び込んだカエルが、次第に体が暖まってきて温泉気分でいるうちに、その熱さに麻痺して、最後に茹で上がって命を落としてしまうようなものです。このように、最初に沸き起こってきた感情をいい加減に扱っていると、次第に豊かな感情が起こらなくなってくる。頭脳でも足の筋肉でも、普段から使っていないと廃用性萎縮を起こしてくる。その結果、認知症になったり寝たきりになったりすることもある。豊かな感情もいい加減な扱いをしていると、感情自体がどんどん廃用性萎縮を起こしてくるのである。廃用性萎縮を起こすと、気づきや発見、興味や関心などが少なくなってきます。豊かな感情がなくなり、人間らしさが失われてくるのです。これは森田理論の立場から見ると、とても由々しき問題です。人間は気づきや発見を通して、意欲ややる気が高まるようになっているのです。そういうエネルギー源がなくなれば、意欲ややる気はもはや湧き起こりようがないのです。好奇心や意欲のない人間は、生きる屍のようなものです。人間は「努力即幸福」と言って、自分の気づきや発見をもとにして、対象に働きかけていく永遠の過程こそが幸福の源となっているのです。でも人間には新しいことに取り組む時に、面倒だ、しんどそうだ、どうもやる気が出てこないなどと思いがちです。そういう安易な気分本位の生活に甘んじていると、人生の楽しみを自ら放棄しているようなものです。改めて言いますと、最初に沸き起こってきた気づきの感情は宝の山です。まずこれをしっかりとキャッチする必要があります。別に難しいことではありません。忘れないようにメモしておけばいいのです。メモ帳や手帳、スマホのメモ帳、カレンダー機能を活用すればよいのです。そしてやりやすい事、納期の急ぐことから手をつけていけばいいのです。行動していけば、また新たな気づきや発見があります。精神が次から次へと活性化してきます。最初の気づきを宝の山として捉え、その気づきを風化させないという姿勢がとても大事になってきます。
2017.12.03
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最近テレビなどで大きく取り上げられている事件がある。新聞によると、神奈川県内の東名高速道路で大型トラックがワゴン車に追突して、静岡市の夫婦が死亡した事件である。この事件は、 1.4キロ手前のパーキングエリアで駐車位置をめぐり、注意されたのを逆恨みした容疑者が関わっていることがわかった。容疑者は死亡した夫婦のワゴン車を追いかけて、なんども進路をふさぎ、追い越し車線に無理やり停止した。その後この容疑者は車から降りてきて、高速道路上でこの男性の胸元などをつかみ、車外に引きずりおろそうとしていた。そこに後続車のトラックが突っ込み、夫婦のワゴン車は、容疑者の車の13メートルも前に吹き飛ばされたという。その結果、夫婦が死亡した。 2人の娘は負傷した。不思議なことに、近くにいた容疑者と同乗者は助かっている。それが厳罰を求める世論の高まりにつながっている。高速道路の追い越し車線で乗用車を止めれば、死亡事故につながる事は、大人なら容易に想像がつく。この容疑者は、たぶん冷静なときならすぐに想像ができたであろう。少なくとも高速道路で車を停車させることはしない。ところが、怒りがどんどん大きくなった時点で、そういうことがわからなくなっていた。自分を見失っていた。これだから怒りの感情は恐ろしい。暴れ馬のようなものだ。制御不能で始末に負えない。わかっていても自分の怒りをできるだけ相手にぶつけたかったのである。怒りを振り払いたかったのだ。関係者全てを死亡事故に巻き込んでしまうということがわからないくらいに怒りの感情が高ぶっていたということである。いったん発生した怒りの感情は、普通は山を一挙に駆けあがっていくという特徴がある。精神交互作用で増悪の一途をたどるのである。これはちょっとしたタバコの火が大きな山火事に発展するようなものである。山火事になると自分の力だけではもはやどうすることもできない。多くの人の目に留まるところとなり、山火事を起こした本人は批判の的となる。新聞やテレビで報道される頃には、その人は犯罪者として取り扱われるようになる。この事件の場合も、小さな怒りが坂道を転げおちる雪だるまのように瞬間的に極限状態にまで膨らんでいる。こういう事は、この人だけにかわらず私たちの日常生活の中でも度々経験することである。自分自身もこれまでに数々の失敗を経験してきた。森田理論の感情の法則では、 「感情はそのままに放任し、又はその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、 ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである」という。この容疑者は、いったん発生した怒りの感情は、それを吐き出さないと沈静化することはないと思っているようだ。感情の法則を知っていれば何とかならなかったのであろうか。この容疑者がその怒りの感情を別の感情によって分断できたとすれば、自分自身が制御できない暴れ馬のような状態にはならなかったであろうと想像できる。たとえば、その場を離れてトイレに行く。顔を洗う。コーヒーなどを飲みに行く。新聞や雑誌などを買いに行く。何かを食べに行く。好きな音楽をかけてみる。新しい行動をとれば新しい感情が湧き上がってくると森田理論でも言っている。すると怒りの感情はたちまち変化したり薄まっていくようになっているのだ。森田理論の感情の法則4では次のように説明している。「感情は、その刺激が継続して起こるとき、注意をこれに集中するときに、ますます強くなるものである」この容疑者の行動はまさにこの法則通りである。高速道路ですぐに夫婦のワゴン車を追いかけまわした行動は、怒りの感情にガソリンを撒くようなものである。怒りという不快感を瞬間的に払拭するためには、それを相手に向かって喧嘩を売ったりして吐き出してしまえば、確かにその場ではなんとか少しは楽になる。しかし、その弊害はとてつもなく大きくなる。その後の人間関係に大きな影響を及ぼしたり、重大事故を引き起こすことになる。会社ではそれがもとで退職に追い込まれたりする。後で煮ても焼いても食えない社員がいたと後々まで笑いの種にされてしまう。ところが実際には、本人は暴言を吐いたり喧嘩を売ったりする行動を抑えることができないのだ。それが普通の人間の性であるともいえるのだ。私たちは「感情の法則」の表面的な学習にとどまらず、応用事例を学習する必要がある。そうすると「感情の法則」は実用的になる。感情の法則は、このように実際に生活の中で応用できるようになると、人間関係が円滑になり大変に役に立つ理論なのである。
2017.10.15
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集談会では上司や同僚から理不尽なことを言われて腹が立って仕方がない。どうしたらよいのでしょうかとい話題がよく出る。その腹立たしさを何日も抱えてイライラしている。なんとかいいかえしてやりたいがあとのことを考えると我慢するしかないのか。幼児のように泣きわめくことができればさぞかし楽になることができるだろうに。等々。森田ではどう考えているのか。森田先生は腹が立つときは殴ってやろうか、それとも嫌味の一つでも言ってやろうかとか、その感情をそのままにしておけばよいと言っています。腹立たしさは自然現象であって人間の意思の自由はない。そんなものをやりくりしてスッキリしようと思うこと自体が間違いである。不快な感情はそのまま味わうしか方法がない。そしたらパニックに陥ってしまうという方がおられるかもしれない。心配はいらない。感情の法則1では、どんなに腹立たしい感情でも、放っておけばひと山越えておさまってくるという。この法則を知っておけば、何もしないでじっとしておくことです。さらに早くしようと思えば、その腹立たしさは横に置いておいて、その時のなすべきことに手をつけることです。本来はこれでだいたい方がつく。その時にいくら腹が立っても、後で考えるとたいしたことではなかったという体験は誰でもしていると思います。これは実際に生活の中で実験してみることが大切です。次に精神拮抗作用の考え方も大切です。爆発したり、殴りかかったりしたい気持ちはやまやまだが、そのようなことをすればその後の人間関係が一挙に破壊されてしまうという気持ちも自然に湧き起こってくるようになっています。大人の人間の心の仕組みはそのようにできている。そのバランスをとる必要がある。どちらかに態度を決めてしまうと、融通はきかなくなります。臨機応変に動くことができなくなるのです。それともう一つは、3日たってもまだ怒りが収まらないようだと、それは腹が立つだけの理由がある。そういう時はたまには準備周到にして闘いを挑むことも必要だと森田先生は言っている。そうしないとストレスを抱えたままになる。また相手は自分を見限って、以後軽くあしらうようになるといっておられます。だいたい腹立ちは口に出して愚痴として発散すると割合小さくなる。その場合、「あなたメッセージ」ではなく、「私メッセージ」が有効だと思う。私メッセージとは、「私はこう思う」「私はあなたが○○してくれたらうれしい」などと「私」を主語にして自分の気持ちを伝えるようにするのだ。さらに「純な心」も生活の中に取り入れたい。注意点として、腹が立った時に、「ちょっと待て」その腹立ちは初一念だろうかと考えてみることである。よく考えてみると、腹立ちは初二念であり、その前に初一念が隠れていたという場合が多い。初一念から出発すればけんかになることはめったにないのである。
2017.09.08
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森田先生は、何か行動を起こす時、自分が好きか嫌いかを出発点にすることが大切だと言われている。たとえば、下戸の人がお酌をするときに、 「こんな辛いものをどうして飲めるかしらん」という心持ちで酒をつぐと、無理は行かないで、上戸も酒がうまく飲めるが、 「あの人は酒好きだから」というふうに、全く自分を離れて考えると、加減なしに、やたらに追いかけ追いかけ酒をつぐので、いくら上戸でもやりきれなくなるのである。自分の好き嫌いから割り出して考えるということは、相手の立場に自分を置き換えて考えることができて、思いやりと言うことができるけれども、女の人などがご馳走するときに、全くこの思いやりができないで、人と自分とが全く別々の立場になることが多い。神経質の苦痛も、自分に比べて人を推し量るとよいけれども、特に神経質は、自分と人との間に隔てをおいて、自分は勉強すると苦しいけれども、人は朗らかに愉快に勉強しているとか、人前で恥ずかしいのは自分ばかりで、人は皆気楽で羨ましいとか言う風に、人に対して全く同情と言うものがない。会の世話のようなことでも、人には無理な苦しい事をさせても、自分ばかりは楽にしようとするような人情になるのである。この話は面白いが少し難しいようである。私の感じるところを書いてみた。好きか嫌いかというのは人間に自然に湧き上がってくる感情である。森田理論では、瞬間的に湧き上がってくる感情は「純な心」であると言われている。たとえば田舎に行って農作業していると、よく蛇が出てくる。私は蛇を見ると、瞬間的に恐怖を感じる。これはTVを見ていて、毒蛇などが映し出される時にも感じることである。思わず目をそらしてしまう。森田先生はこの時に感じる蛇は嫌いだという感じから出発しなさいといわれているのだと思う。私の場合は、反射的に蛇を見るとすぐにその場から離れてしまう傾向がある。近所の人が蛇を見つけたとき、すぐには目をそらしたりはしない。とにかく蛇の頭を見ている。頭が三角になっている蛇は蝮という毒蛇なので、いくら嫌だと思っても駆除しないと人間に害を及ぼす可能性がある。毒蛇を放置していると、その周囲に毒蛇が増えてきて危険極まりない場所となる。田舎の人は蛇は平気なのか聞いてみた。実際には田舎に住んでいる人も蛇が嫌いだという人はとても多い。そのために、田んぼや畑に行くときは長靴を履いている人が多い。しかし蛇が嫌いだといって田んぼや畑に入るのを全く止めてしまう人はいない。蛇は嫌だという気持ちは、どうすることもできない。その気持ちを持ちながら農作業をしているのだ。これを森田理論で考えるとどういうことになるのだろうか。蛇が嫌いという感情は自然現象である。感情自体はやりくりすることはできない。仮にその感情をなくしてしまおうと考えると、どういうことになるか。蛇から目をそむけて蛇を見ないようにしていると、意識や注意が自分の恐ろしいと思った感情や体のこわばりや震えなどに向かってくる。意識の内向化が起きるのである。これが曲者なのだ。これは気分である。気分は事実とは無関係に、いつまでも自分に内在しているから、日夜その恐怖に悩まされるようになる。夜寝ていても夢にまで出てくるようになる。これは自分の心の中に住み着いた蛇だから、時に触れてたえず悩まされるようになるのだ。終いには緑豊かな田舎で暮らしたいという夢はあるが、蛇がいるために田舎では暮らすことができないという話に発展してしまう。心の中に住み着いた蛇は容易に退治することができないのだ。この場合、よくその蛇を見て、毒蛇の蝮なら手慣れた人を呼んで一緒に駆除する。そうでない場合は、蛇が通り過ぎのを待って、農作業を再開すればよいのだ。神経質者のように、嫌いなものに対して、全く目をそらして関わりを持とうとしない態度が、楽になるどころかどんどん自分を窮地に追い込んでいくのである。嫌いなものは嫌いだったという感情をそのままに認めて、その対象物から目を離さないで観察する態度を持ち続けることが大切なのだと思う。森田先生によると、そうしていると、嫌いという感情自体が変化してくるといわれる。中には、嫌いだと思っていた人の良い面も発見できたりして、仲良くなったりする。
2017.09.02
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森田先生のお話です。今日の皆さんの話を聞くと、思いっきり往生するとか、絶体絶命でよくなるというところまではでたが、まだ流転というところまではいかなかった。絶体絶命だけではただ行き詰まるだけでまだ治らぬ。そこから、心の流転が始まった時に、はじめて治る。そこに微妙な心の流転がある。これは絶体絶命になったときに、初めて起こるものです。切羽詰まれば、必ず、それから、思想は様々に変化するようになる。変化すれば、執着を離れるようになり、強迫観念が治る。 (森田全集第5巻 422ページより引用)森田理論学習では、神経症は症状と格闘することをやめた時に初めて克服することができるといわれている。それが、ここで言われている絶体絶命ということであろう。それを体得するだけでも大変なことだが、森田先生はそれだけではただ行き詰まるだけで神経症は治らない。心の流転が出てこないと治らない。心の流転があって、はじめて治ると言われている。今日はこの「心の流転」について考えてみたい。往生するとか、絶体絶命と言うのは、不安や恐怖に闘いを挑まない態度のことをいう。このことを、まずは頭の中で理解するということである。頭の中で理解したということと、生活の中で体験として身に付けた(体得)という事は違う。例えば、不眠障害の人が夜眠れないときに、苦し紛れにあちらこちらに体を動かすのではなく、苦しいままに体を動かさずにじっとしていれば眠れるようになると言われ、その通りにしているとよく眠ることができた。次の日に、苦しいままに体を動かさずにしていれば眠れるはずだと、自分に言い聞かせるようなことがあると、それが「かくあるべし」になって眠れなくなる。元の木阿弥になってしまう。往生する、絶体絶命というのも、それ自体は森田理論に照らし合わせて間違えはないのだが、それを言葉で理解して症状を克服しようと思っている段階では治る方向とは少しずれている。往生する、絶体絶命というのは、そうならなければならないという「かくあるべし」ではなく、普段の生活の中で自然に実行できるようになることが大切なのである。とは言え、神経症の蟻地獄にすでに落ちている人にとっては、そんなことを言われてもチンプンカンプンのことだ。最初のうちは、往生する、絶体絶命というのは、そんなものかなという程度に受け取られたらよいと思う。ではそんな時には何をすればいいのか。目の前の仕事や家事、育児などに精を出すことだ。日常茶飯事に丁寧にに取り組んでいると、気づきや発見がある。あるいは疑問がわいてくる。つまり、必要に迫られて行動を実践することによって、新しい感情が生まれてくるのだ。これがとても大事なところだ。新しい感情が生まれてくると、今までとららわれていた感情にいつまでも関わっておられなくなる。新しい感情に基づいて新たな行動実践が始まると、心の中はどんどん変化してくる。後で気が付いたら、症状のことは全く気にしていなかったという状態が訪れる。つまり、森田先生が言われている「心の流転」が自然に起きることになる。第一段階の神経症が治るという事は、森田理論学習によって不安や恐怖、違和感、不快感の正体を知る。あるいは欲望と不安の関係について理解を深める。そして次の段階では、それらの知識は一旦横に置いて、自らは目の前の自分に与えられた仕事や課題、日常茶飯事に丁寧に取り組んでいくということに尽きるのである。この二つが相まって、アリ地獄の底から抜け出し、第一段階の神経症の克服に結びつくのである。ちなみに、第2段階の神経症の克服は、「かくあるべし」を少なくしていくこと。森田理論でいう「思想の矛盾」の打破である。ここまで来ると、生きていくことはつらいことばかりではなく、味わい深いものだとしみじみと感じることができるようになると思う。
2017.08.20
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引き続いて感情の法則の活かし方を考えてみたい。3番目に、 「感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである」とある。これは、多くの人が経験されていることだと思う。例えば、部屋の中が少し散らかっているなと感じるとする。しかし、掃除をしないでそのままにしておくと、その汚い部屋にいても平気になってしまう。梅雨の時期、布団が少し湿っぽくなる。そう思いながらも、そのままにしておくと、次第に不感となってしまう。他人から見ると、異常な状態なのに、今や本人は感覚が鈍くなり、不感となっているのである。最初は素晴らしい感じがあったにもかかわらず、実に残念な結果となっている。森田理論では、直感、最初に感じた感情を大切にしなさい、と言われている。いわゆる「純な心」である。最初に感じた感情は初一念と言われている。これを簡単に見逃していると、引き続いて観念や理屈の入った初二念というものが出てくる。これは多分に「かくあるべし」が入っている。 「かくあるべし」的な考え方は、自分や他人を否定することになりやすい。森田理論を学習すると、時間が経っても、直感、最初に感じた感情を思い出すようになる。どんな人でも初一念の後に、初二念が出てくるのですが、この際初二念は無視して、初一念にフォーカスするのである。こうなれば観念上の理想と理想とかけ離れた現実が葛藤を起こし苦しむということがなくなります。しかし、この初一念は、ともすると見逃しやすいという特徴があります。この初一念をどうすればキャッチすることができるか。この部分は森田理論を生活の中で活かしていくために、とても大事なところです。ここで感情の法則の3番目はにわかに注目されます。どんなに素晴らしいアイデアを思いついたとしても、感情はその時の状況によって、どんどん変化していきます。つまり忘却の彼方忘れさられてしまうという特徴があります。ここで大切な事は、素晴らしいアイディア、素晴らしい気づきや発見をしたときは、それだけでとどまるまることなく、目標や課題の達成に向けて行動、実践するということです。この事で肝に銘じておきたい言葉があります。いったん発生した不安や怒りの感情は、取り消すことはできません。しかし、新たな実践や行動を始めることで、新しい感情を作り出すことができるということです。いったん発生した不安や怒りの感情は、やりくりしたり逃げたりしないで、とことんまで味わいつくすということが大切です。そして次に、目の前に立ちはだかっているなすべきことに、イヤイヤ仕方なしにでも取り組んでいく。そのうち、少しでも関心や興味が出てくると必ず新しい感情が養成されてきます。新しい感情が出てくると、相対的に以前にとらわれていた不安や怒りの感情の占める割合は少なくなってくるのです。森田理論には、 「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり」という言葉があります。これは昼間は四六時中休みなく動き回れという事ではありません。同じ仕事を続けていると、体も頭も緊張状態がなくなり弛緩状態に移行してきます。そういう時は、新たな仕事に転換をすると、体も頭もリフレッシュされて、再び、精神の緊張状態を作り出すことができる。この言葉は、マンネリに陥って、やる気も起こらなくなり、頭の回転が悪くなったとき、ぜひ生活の中に取り入れていただきたいと思います。マンネリに陥ったり、何もやる気が起こらたくなったりしている状態は、黄色信号が点滅しているのです。
2017.07.19
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森田理論の中に「感情の法則」というのがある。みなさんは「感情の法則」を生活の中で、どのように活用しておられますでしょうか。森田先生は、 5項目ほどあげておられる。それら全てを完璧に理解するよりも、 1つでも実生活の中で活用することの方が大切だと思われる。私の活用を挙げてみたい。感情の法則1、感情は山形の曲線をなし、 ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである。この法則を初めて聞いたときは大変驚いた。それまでは、例えば相手に理不尽なことを言われて腹が立ったときは、一気に怒りが頂点に達し、その怒りはよもや、時間の経過とともに収まっていくということは考えもしなかった。むしろ収拾がつかなくなりどんどん増悪していくと思っていたのである。憤懣やるかたない怒りが頂点に達した時、それを鎮めるために相手に喧嘩を売ってスッキリする必要があると思っていた。あるいは相手が強すぎて太刀打ちできない場合は、すぐに逃げ出していた。しかし、耐えたり我慢していてもストレスが溜まるばかりで一向に楽にはならない。この法則は、このような状況に遭遇した場合、山形の曲線の頂上部分で行動を起こす事は得策ではないと気づいた。頂上部分では普通はパニックでイライラして、そこで行動を起こす事は支離滅裂な言動になりやすい。他人から見ると、 「どうしてあの人はあのように取り乱すのだろう」 「あの人は感情のコントロールが全く出来ない人だ」 「あの人は人間的に未熟な人なのだ。距離を置いて付き合わないと将来大変なことになるかもしれない」などと思われてしまう。森田先生は、 「腹がたったからといって、それをすぐに解放させるような言動は、その後の人間関係がどのように破壊されるか、普通の人なら容易に想像ができる」と言われている。この法則は、感情の高ぶりが山の頂上にあるときは、決してすぐに行動として表面化させてはならないという事である。感情の波は昇りきれば必ず下り坂に向かう。これを生活に応用するにはどうすればよいのか。波が昇りきった所をやり過ごし、波が沈み込んだところ狙って行動を起こせばよいのである。そうすればやぶれかぶれで簡単に人間関係を破壊するような言動にはならないはずだ。パニックになって少しでもすぐに楽になりたいと思っても、しばらく時間を置いてみることが大切だ。せめて5分、10分程度の時間をあけてみる。案件によっては、 1日とか2日時間をとることが必要な場合もある。その間に、その怒りの感情がどういう変化を見せるか、客観的な立場から観察してみることができるようになれば、この法則を自分のものにできたということである。感情は、その時々の状況に応じてたえず変化しているのだ。森田先生の生まれ故郷である高知県では、腹立たしいことが3日も続くということは、腹を立てた人に理があるということであると言われている。そういう場合は、泣き寝入りをする必要はない。多少冷静になってきているので、相手の無理難題を客観的によく整理して再び論争をふっかけてもよいと言われている。なんでもかんでも、相手に頭を下げていると、普段の生活や仕事の中で自由自在こき使われるようになる。それでは人間関係が支配・被支配の関係になり、支配されるほうの人は、ストレスが次から次えとたまってしまう。これは精神面では不健康なやり方である。森田理論は理論として学習するだけでは不十分である。それよりも、その理論をいかにすれば自分の生活の中に根付かせていくことができるのかを考える方が意味があると思う。そうしなければ森田理論が絵に描いた餅になってしまう。
2017.07.18
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普段普通の人は腹が立っても、、人間関係に波風を立てないように、怒りそのものを抑圧しようとする。しかし、怒りという感情を拒否したり、抑圧したり、無視したり、否定すると、注意や意識がそこに集中し、イライラやモヤモヤがどんどん大きくなってきます。耐えたり、我慢していると、様々な場面で小さな怒りを溜め込むことになります。するとまた怒りが生まれ、それをまた我慢することになります。そして最後には、感覚が麻痺して耐えたり我慢するということが習慣になってしまいます。常にイライラやモヤモヤを抱えながら生活をしていくということになります。心の中はいつも曇天や雨が降っているような暗い気持ちになります。そして最後に土砂災害でてきたダムが決壊をして大災害をもたらすような大爆発することがあります。そうすると、今までなんとか周囲の人と人間関係を保ってきたのに、一挙に崩れてしまいます。怒りを一般的に定義すると「欲求充足が阻止されたときに、その阻害要因に対して生じる感情」ということになります。「こうしてほしい」 「こうなりたい」 「こうだといいな」といった欲求が満たされなかったり、裏切られた時に怒りの感情が生まれてくるのです。これには、自分自身に対する怒りと相手に対する怒りがあります。「かくあるべし」が強い人ほど現実や現状を認めることが出来ないので、怒りが発生しやすく、また怒りが大きくなりやすいという特徴があります。森田理論では、まず怒りという感情は自然現象であるので、人間がコントロールすることはできない。ただし、自由自在に操作できないからといって、怒りという感情を拒否したり無視したりすることはよくないといいます。まず最初にその怒りという感情に十分にとらわれる必要がある。別の言葉で言えば、怒りという感情をよく味わってみるということです。普通怒りの感情が湧き上がってくるとすぐにその感情を無きものにしようとしている。楽しい、嬉しい、感動する等といった感情と同じように、十分に味わうことが必要なのです。怒りという感情が制御不能な暴れ馬のようなものだから、すぐに抑圧したり耐えたり我慢することは間違いなのです。怒りという感情をいつもごまかしていると、相手に支配されているような惨めな気持ちになって永く続いてきます。森田先生は腹が立つ時は、腹を立ててもよいが、その腹いせを反射的に言動として相手にぶつけることは子供のやることだと言われています。でも3日考えてどうしても腹立たしさがおさまらないときは、あなたのほうに分があることが多い。そういう時は、冷静になって相手の理不尽な言動を書き出して整理してみる。そして正々堂々と自分の主張を相手にぶつけていくことが必要だと言われています。ですから、衝動的で不快なイライラやモヤモヤをもたらす怒りの感情を、いつまでも自分の心の中に仕舞いこんでしまうのではなく、上手に吐き出すことが必要なのです。例えば、会社の上司が今までのノルマの2倍の予算計画を提示してきたとします。こんなにモノが売れない時代に、こんな要求には腹が立つ人が多いでしょう。そこで 「こんな数字、達成できるわけ無いじゃないですか」と反発すれば、 「やりもしないでもこう言うな」と言われるのが関の山でしょう。そこでいきなり腹立たしさを相手にぶつけるのではなく、 「数字の根拠を説明してください」と質問するのです。また、夫に、 「お前は何をやらせてもダメだな」と言われれば誰でも腹が立ちます。「私だって一生懸命やっているのに、どうしてそんなこと言うの」と言って反発する人もおられるでしょう。その時、 「私の全部がダメなら具体的に詳しく教えてください」と質問したらどうでしょう。レストランへ行って、自分より遅く来た人の方が料理が早く出てきて、自分のオーダーした料理がいつまでたっても出てこないことがあります。その時ウエイトレスに向かって、 「どういうことなんだ」と言って怒りを爆発させる人もいます。その時、 「どうして遅く来た人の方が早く出てくるのですか。私のオーダーはどうしてこんなに時間がかかるのですか」と質問してみたらどうでしょう。腹が立つというのは、その怒りの感情を相手にぶつけて、高ぶった感情を抑えたり、なくしようとしているのです。そうする前に、怒りの基になっている出来事に対して、事実関係を確かめてみるということが必要なのではないでしょうか。(腹が立ったら怒りなさい 和田秀樹 新講社参照)
2017.06.13
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形外会で安田さんがこんな話をされた。子供が夜泣きをして泣くのがうるさくて、いつも家内に、そんなに泣かせなくともよさそうなものだと小言を言っていました。家内はそんな無理を言っても仕方がない。子供は泣くときは泣くものだから、放っておくほか仕方がないと言うので、なおさら癇癪を起こしてしまいました。森田先生のお話から、私がうるさいと思うのもやむを得ない。家内の心待ちもそれよりほかに仕方がないと考え、そのままじっとしていると、癇癪や気まずさもすぐ消えて、非常に安楽になりました。これに応えて森田先生曰く安田くんの、 「泣くのはうるさい。泣かさなければよいのに」というのは、我々の感情の事実です。母親のほうは、これまでいろいろやってみたが、泣き止ませることはなかなかできない。放っておくと、かえって早く泣き止むと言う事実を、経験によって知っている。だから母親でも、泣かれるのはうるさいことは同様である。けれども、仕方なしに我慢している。安田くんは、私の話によって、うるさいと思うのも、感情の事実であるから、なんとも仕方がないと、あるがままに我慢していると、自然に心が落ち着いて楽になるという。しかし、この場合には、まだ「事実に服従しなくちゃいけない」 「我慢しなくちゃならない」と言う格言を立てるところの努力があって、相当に骨の折れることである。いわばこれは小乗のやり方である。「我慢しなければならない」と、型にはまっていては、少しも進歩はないが、 「アアうるさい、どうしてやろうか」と、ああも思いこうも工夫して、子供を観察していると、泣くにもさまざまの泣きぶりがある。しかれば尚更憤慨して泣くとか、母に叱られて心細くって泣いているのを、端から父親が機嫌を取ると、こころ丈夫になると憤りとのために、かえってひときわ声を張り上げて泣くとか、あるいはいきがかり上、急に泣き止むわけにいかないで、こじれ泣きをしている、とか言うような、さまざまな場合を知ることができるようになる。小乗は、まだ「あるがままにならなければならない」という、 「思想の矛盾」から脱しきることができず、大乗は、我々の心の「心は日万境に随って転ず」の真の「あるがまま」の変化流転であり、そこに初めて「日に新たに日々に新たにまた日に新たなり」という進歩があり、運命を切り開いて、 「災いを転じて福となす」とか言うような働きも自ずからその間に現れてくるのであります。 (森田全集第5巻 白揚社 676頁より引用)難しいことを言われているが私なりにこの意味を考えてみた。私たちは普段イライラするようなことがたくさんあります。そんな時、ついイライラを取り除こうとしたり、その場から逃げてしまったりします。森田理論学習をすると、不快な感情は自然現象だからそのまま受け入れるしかないと学習します。抵抗しなければどんな感情も最終的には流れていってしまうのだと学習しました。だから行動としては、軽率に不快な感情に対して対応しないように耐えたり、我慢しようとします。安田さんの場合は、これが「かくあるべし」になって、「耐えなければならない」「我慢しなければならない」という思想の矛盾に陥っている。「かくあるべし」という考え方は、どんな場合でも葛藤や苦しみを生みだしてしまう。森田先生はこんな場合、しいて耐えたり、我慢する必要はない。そうすると益々不快な感情は増悪してしまうといわれているのだと思います。ではどうするのか。「かくあるべし」ではなく、イライラ、不快感が沸き起こってきたという事実から出発するのだ。別の言葉でいえば、イライラ、不快感という感情を受け入れてよく味わってみるということだ。そのイライラや不快感をいかにして軽減させたり、なくすることができるか、工夫したり試行錯誤してみなさいと言われています。いろんな対応策を思いつくままに、ああでもない、こうでもないと考えておればよい。結論が出ないままに迷っているうちに、イライラや不快の原因は収まっていることが多い。つまり何も手を打たないうちに、イライラや不快感が消え去ってしまうということになる。もし何日もその不快感が消え去らないということがあれば、それはあなたにも理があることだ。そういう場合は、その原因を落ち着いてよく整理して、理路整然と議論すればよい。慎まなければならないことは、一時的にそのイライラや不快感に耐えかねて、短絡的に行動を起こしてしまうことだ。その前にイライラ、不快感を受け入れて、味わってみるという過程が完全に抜け落ちて、原因がはっきりしないうちに対症療法的に対応してしまっていることが、致命的な欠陥である。そのように対応すれば、どんな感情も谷川を流れる小川のようによどみなく流れていく。短絡的な行動をとると、お城の堀の水のように、汚く濁って雑菌が繁殖していくようなものです。感情の取り扱いは、基本を押さえて実践すると問題は起こらない。
2017.05.18
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プロ野球の試合を見ていると、ピッチャーが相手打者に打たれて、選手交代を告げられたときや打者がチャンスで打てなかったとき、ダッグアウトに戻ってからクローブを投げつけたり、足で椅子を蹴り上げたりしている光景を見ることがある。自分自身に腹が立っているのだろう。その選手は悔しさや怒りの感情を抑えつけることができなくなったのだ。その気持ちは分かる。でもその後のプレイにまで影響するのではないかと心配になる。また、そういう選手は普段の日常生活においても、不安や不快な感情をすぐに表に出しているのではないかと想像してしまう。こうした場合、いつまでも悔しさや怒りの感情を持つ事はよくないので、終わった事はすぐに水に流して、気持ちを切り替えることが大事であると言われる。また、どんな結果であれ、 「クール」に受け入れたほうがいい。淡々と仕事をこなし、ヒットを打っても喜びを過大に表現しない。打てなくてもがっかりしない。そんな一喜一憂しない心の状態を持ち続けるのがよいと指摘する人もいる。これに対して、王貞治さんは、 「悔しいとか、怒るとか言うのは態度で見せなければいけない」と言われている。また、「あえて悔しがる」 「あえて怒る」ということが大切だといわれている。早速、このことを森田理論で分析してみたい。森田理論では、あらゆる感情は自然現象であって人間の意思の自由はないと言われている。悔しさや怒りの感情はまさしく自然現象である。それがどんなに激しいものであっても受け入れる事しか出来ないといわれている。しかし、その受け入れ方は、よくよく考えてみることが必要だ。悔しさや怒りを持ちこたえることができなくて、それを外に向かって発散することは、一時的には楽になる。しかしそれではまわりの人に迷惑をかけるし、悔しさや怒りの感情もますます増悪してくる。これは幼い子供のやることである。大人になると、一時的な感情の高まりをこのような形で処理すると、後々取り返しのつかない事態に至ることは容易に想像できる。しばらく時間をおいてみると、その感情は次第に沈静化してくるのが常である。その上で、王貞治さんが言われている、 「あえて悔しがる」 「あえて怒る」はどういう意味を持っているのだろうか。これは沸き起こってきた感情を、簡単に見捨てるようなことをしてはならないと言われていると思う。「クール」であると言うのは、悔しいとか怒りという自然現象である感情を、どちらかというと抑圧しようとしているのではないか。どんな感情も受け入れて自然に服従するということと、沸き起こってきた感情を否定したり、無視したり、抑圧してしまう態度はまるっきり方向性が違う。感情を否定したり無視したり抑圧すると、注意や意識は自分の存在自体を否定したり無視したりする方向に向かう。あるいは他者の存在否定などに向かう。悔しさや怒りの感情を否定したり、無視しないで受け入れて、その感情を十分に味わうとどうなるか。野球でいえば、打てなかった原因や打者を抑えられなかった原因を考えるようになる。そのミスや失敗を分析して、次に生かすことを考えるようになる。次こそはと、集中力ややる気、モチベーションを高めることができるようになる。悔しさや怒りの感情をプラス思考、未来志向で、次に生かすことができるようになるのである。そのためには、どんな不快な感情がわき起こってきても、その感情をあるがままに素直に味わってみることが必要なのである。感情に対して反抗的な態度では何も得るものがない。別の言葉で言えば、沸き起こってきた感情を爆発寸前まで高めて味わい尽くすことが肝心だと思う。(王貞治に学ぶ日本人の生き方 斎藤隆 NHK出版参照)
2017.05.14
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1962年9月20日の朝日新聞に粉ミルク事件があったそうだ。お母さんが赤ちゃんに粉ミルクを飲ませたところ、嫌がって飲まない。不審に思ったお父さんが飲んでみたところ、具合が悪くなり死んでしまったというのです。新聞の見出しには「粉乳に間違えて混ぜた洗剤飲んで急死 赤ちゃん嫌がり父親ゴクリ」と書かれてあったという。赤ちゃんは腹が減っていてもどうしても飲まなかったのに、お父さんは口に含んだとき、それが危険なものという味覚が感じられなかったのです。お父さんよりも赤ちゃんの感覚のほうが確かであったということです。お父さんはきっと自分の味覚に頼るよりも、これは「粉ミルクである」という知的情報を優先させたのだと思われます。その子供も小学生ぐらいになると、苦みや酸味はだんだんと鈍ってくるそうです。苦みが鈍る子供は情緒不安定になると指摘している学者もいるようです。さらに大人になるにしたがって五感がだんだんと衰えてしまう。それに代わって知的情報が多くなり理屈、「かくあるべし」で行動を制御するようになってくる。茶道をされている人は五感を味わうという意味があるそうだ。「無駄をそぎ落とした空間の中に際立つ茶花の色彩、お茶とお菓子の彩り、味わい、香り。口に含んだ感触や温度。お茶碗の重さや手触り。湯の沸く音。袱紗や茶杓、そして茶筅の音。炉にくべられた香の薫り。お手前に集中していく中に生まれる静寂。時には陽の光がちろちろと射し、風のそよぎ、鳥の声が聞こえるかもしれません。五感が研ぎ澄まされて、日常と異なる「今」という時間と唯一無二の「ここ」という空間が立ち現れるように思います。」(五感の力より) 見る、聞く、味わう、触れる、匂う、直感などがおろそかにされると、感じる力が弱くなり次第に感性が衰えてくるのではなかろうか。感性のない人間はロボットのようなものだ。言われたことはするが、自分から気づきに基づいて創意工夫することはなくなる。すると生きがいは持てなくなると思う。無気力、無関心、無感動な人間になってしまう。五感を鍛えて感じる力を高めてゆきたいものです。森田理論では感じを高めることで、気づきや発見が出てくる。それがやる気や意欲に結びついて生産的、創造的、建設的な行動へと結びついていくという。
2017.04.16
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会社で同期入社の人で能力はそんなに差はないと思われるのに、自分よりも他の人が先に昇進するということはよくあります。そうゆう人に限ってとんとん拍子で昇格して、気が付けば取締役になっていたという例もあります。そんな時、素直に喜ぶということはできないと思います。「どうして自分ではなかったのか」「だからこの会社はだめなんだ」「上司は見る目がない」「彼はごますり男だからな」「彼は上司からえこひいきされている」「自分は何をしてもダメだ。もうこの会社で居場所はない」このように相手を否定したり、上司を無能力者扱いしたり、会社のやり方を責めたり、自己嫌悪に陥ったりすることがあります。こういう時は妬みや嫉妬心でいっぱいになっています。イライラするとやるせない気持ちです。自暴自棄になるかもしれません。こんな人事は承服できない。納得できない。それらを拒否、無視、抑圧、否定しているのです。そちらに気をとられて、観念の悪循環が繰り返されてきます。そのうちに仕事に対する情熱をなくして、何かにつけて破れかぶれな言動をとることになりかねません。こんな時こそ森田理論の事実を認めるということを応用したいものです。この場合、事実を認めるということはどういうことなのか。同僚が自分よりも早く昇進したことに嫉妬してイライラしている自分がいる。また自分も他人よりも、いち早く昇進して評価されたいという気持ちが強い人間である。でも自分の場合は、今回は昇進は残念ながら見送られたという厳然たる事実があります。この不満が残る3つの事実を、あるがままに受け入れることです。受け入れがたい事実ですが、受け入れてその事実に服従することです。この道をとることが肝心です。その不快な感情を発散しようとしたり、無理やり妥協していては、精神交互作用で益々注意と意識が一点に集中してゆきます。その不快な感情に自分がどんどんみじめになってゆきます。事実を受け入れて、事実に従うということは、イライラするときはイライラしてもよいということです。妬んだり嫉妬してもよい。それ以外の道はない。それを押さえつけたり、ごまかすのが最もよくないと思います。いったん事実を認めてしまえば、ある程度落ち着いてきます。冷静になれます。しだいに内向きな気持ちや他者攻撃に向かわずに、目の前の仕事や生活のほうに振り向けられるようになります。内向していた気持ちが、外向きになり、現状の打開に向けて努力するようになります。つまり湧き上がってくる感情をじっくりと味わうことで、その感情へのとらわれが減少して、目の前のなすべき課題などに意識が移っていくということだと思います。不安、恐怖、不快感の対処方法としては、それらが生み出すイヤな感情を価値批判する前に、まずよく味わってみることがポイントだと思います。それを強力にサポートしてくれる一つの方法が3月17日紹介した方法です。
2017.03.22
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今月号の生活の発見誌に山野井房一郎先生の記事があった。その中に、デパートで買い物をした時、買い物を紙に包んで代金領収を示すテープでも貼ってくれるとよろしいのですが、ときには売り場から黙って持ってきたものかどうか分からないような包装もあります。そんな時には、店員がいますと、わざとテープの貼ってあるところを見せまして、 「万引きしたものではないよ」という姿勢を示すのですね。これは森田先生の教えてくださった裏づけがありますから、みなさんもどうかぜひそうなさってください。そんな心遣いをするのでは、どうも神経質の病気だなと、知らない方は思うかもしれませんが、それは正常な望まし心遣いであると、私はそう思っているわけでございます。私も先日ホームセンターでカラーコーンを買ったとき、包装をしないでテープを貼ってそのまま渡されたことがあった。店内を出て駐車場に行くまで心中穏やかではなかった。店員や買い物客がカラーコーンを支払いもしないで持ち出しているのではないか、と疑いの目で見ているかもしれない、と思ったからである。そうなると眼光鋭くあたりを見回す。また急ぎ足になって早く車に押し込みたいと思ってしまう。そのうち障害物にけつまずいてしまった。近くにいた店員が近づいてきて「大丈夫ですか」などという。私はそれには答えず、 「これは大きくて包装はしてないですが、ちゃんとテープを貼ってあります」といった。そんなことは店員が聞いていなかったにもかかわらず。私はしなくてもよいことまで気を回して心配になり、不快な気持ちになることがよくある。注意や意識が自己内省的に働き、泥棒ではないという自分を守ろうとしているのである。後で振り返ってみると、山野井先生が言われるように、テープの貼ってあるところ周囲の人によく見えるようにする。あるいはレシートを手に持って歩くようにすればよかったのだ。そういう気配りをしてなくて、一人相撲を取って苦しんでいるようなものだ。考えてみれば、中学生の頃、教室の中で財布がなくなったと言って大騒ぎした同級生がいた。みんなその生徒の近くに集り、どこに置いていたのか、いつなくなったのか、いくらぐらい入っていたのかなどと騒ぎ立てていた。私はその時、みんなから離れひとりでいた。その時考えていた事は、自分は盗んではいないけれども、自分が疑われるようなことがあってはいけないと思った。それでおどおどして、いたたまれずトイレに行ったことがあった。挙動不審な私を見て、教室の中では、 「ひょっとしたらあいつが盗なのかもしれない」と噂話をしていたということであった。ひょっとしたら自分が疑われているかもしれないと言う不安は誰でも感じることではないかと思う。その不安に一旦とらわれると精神交互作用でどんどんと深みにはまってしまう。自分を守ろうとすればするほど、態度がぎこちなくなり、周りの人からは他にそれらしい人がいないとなると、消去法でどうもあいつが怪しいと思われてしまう。損な性格である。自分に嫌疑がかからないようにしているにもかかわらず、自分の思いと反対の結果になるのである。不安をやりくりしたり、不安から逃げようとすると、どうも結果はよくない。森田では、どんなに不快な気持ちになっても、どうすることもできない。持ちこたえるしかできないという。ああ、イヤだなという気持ちをやりくりしようとしたり、楽になろうとして逃げてしまうというと墓穴を掘ってしまう。このような場合は、まず「今自分は疑われているかもしれない」という不快な感情の事実を否定しないということが肝心なのではないかと思う。不安、恐怖、不快感などは、すぐに対策を立てたり、解釈しないでその前に少しだけ味わってみる。言葉として口に出したり、行動する前にまず感情を受け入れるという段階を差し挟むということです。こんなことは自分にはできないと思われている人がおられるかもしれません。そんな時によい方法があります。今の自分の感情をアナウンサーのように実況中継するのです。「今私は盗んだのではないかと疑われているかもしれないと、いたたまれない感情に覆われています。今しばらく嵐が通り過ぎるのを待っております。以上現場から中継しました。」この利点は、一つには自分に沸き起こってきた感情を意識的に客観的に見れるようになるのです。「私は上司から理不尽なことで叱られて腹が立っています。以上現場からでした」「私は仕事でミスをして落ち込んで何も手につかない状態になっています。以上現場からでした」私に沸き起こってきた様々な感情をアナウンサーになったつもりで実況してみるという方法です。この方法でイヤな感情を多少なりとも受け入れることができれば、挑戦してみる価値はあります。
2017.03.17
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あるお医者さんがこんな実験をした。神経症で疲労を強く訴える患者さんの尿を採取して疲労の程度を科学的に調べた。すると患者さんの訴えとは異なり、少しも疲労していなかったのである。次は道路工事をしている肉体労働者に頼んで、尿を検査させてもらった。彼らは疲労感を訴えていなかったが、実際にはかなり疲労していた。神経症の人で、 「疲れた、疲れた。こんな生活をしていると、過労死になりかねない」とゴネている人が増えてきたような気がする。この種の人たちはおしなべて人生目標がしっかりしていない。ただ惰性で毎日を送っている。自分の好きな遊びや興味には意欲的であるが、仕事や勉強になるとすぐに疲労を訴える。自分の人生目標、生き方、そういったものを重視して、一生懸命、その日その日を頑張ると、他人はおろか、いろんな症状も消えていく。哲学者のニーチェは、 「人生の目標さえしっかりしていれば、あらゆる苦痛に耐えることができる」と言っている。疲労も同じだ。今の仕事や生き方に不満だらけの人は、ちょっと何かしただけで、すぐに疲れたと疲労感ばかりが強く感じられる。しかし、きちんとした人生目標がある人は、肉体的に少々疲労していても、それほど疲労感は持たないのである。(不安な心と上手に付き合う本 大原健士郎 、 PHP研究所 178ページより引用)五十肩や腰痛などの痛みで苦しんでいる人は、確かに器質的な疾患である。私も長らく五十肩で腕が上がらなかった。整形外科やマッサージ、鍼灸の治療を受けてきた。今振り返ってみると、肩の痛みをなんとかしようと四六時中やりくりをしていた。つまり、注意や意識を肩の痛みばかりに向けていた。その結果、目の前の仕事や、家の中の掃除、整理整頓、あるいは町内会の役割などを、痛みを理由にして逃げていたように思う。その結果、注意や意識はますます肩の痛みだけに集中してきた。肩の痛みは実際の痛み以上に、何倍にも膨れ上がっていたのである。これは私が精神交互作用で対人恐怖症が固着していった過程と同じであった。森田先生は、 「自分は退屈したことなど1度もない」とおっしゃっていたという。また、 「見るところ仕事あり」 「仕事を探すのも1つの仕事」と言われていた。人生にとても貪欲な方であった。森田先生が残された色紙に、次のような言葉もある。「休息は仕事の転換のうちにあり。仕事の中止にあらず」1つの仕事や家事を長時間続けていると疲れが溜まってくる。またやっている事自体に緊張感がなくなり飽きてくる。そういう時は、今やっていることを中断して、仕事を変えていけば、疲れが蓄積することがなく、新たな緊張感が出てくると言われているのである。人並みの生活を送っていれば、仕事や勉強に疲れたからといって、すぐに休息を取る必要ない。それは疲労感であって、本当の疲労では無い。仕事に飽きたり、疲労感を覚えたら、その仕事を中断して、寝転がって行いるのではなく、別の仕事をすればよい。目先を変えてやることによって、また新しい意欲が湧いてくるのだ、という意味である。私たちは気分本位で行動するのではなく、その時その場で必要なことに手を出すという姿勢が大切なのだと思います。
2017.01.26
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大原健士郎先生の話です。 動物は仮面をつけて仲間と接することはない。大人の人間として求められることは、この仮面をきちんとつけているということである。大人同士の付き合いは、仮面をつけた上で作られると言ってもいいだろう。 身近な例でいえば、赤の他人に対しては、家族に対するのとは違って、言葉遣いや振る舞いに十分気を遣うだろうし、ときには、自分の欠点をカモフラージュしたりもするだろう。また、会社では心を鬼にしてでも叱らなければならないこともあるが、そんな時は怒っている仮面をつけて厳しく接する。逆に、自分がむしゃくしゃしていても、にこやかに接しなければならないときは、笑顔で接しようと心がける。これらは、現実の生活の中では当たり前のことなのだ。皆それぞれ仮面を被っているのだが、その時に、 「自分だけが特別で、これは病気だ」などと思ってしまうと、非常に苦痛となって神経症の状態になってしまいかねない。仮面と言うとなんだか偽善的に思われがちだが、これは人づきあいには必要なものと知るべきなのだ。(「不安な心」と上手に付き合う本 大原健士郎 PHP 105ページより引用) 大人の対人関係は、人格と人格との付き合いである。人格を英語で表すと、パーソナリティーとなるが、このパーソナリティーの語源は、ラテン語の「仮面」(ペルソナ)である。ギリシア劇で俳優たちは仮面をつけて演技をしたと言われている。日本の能などでもそうである。人間は自分の欠点を隠し、長所だけを表面に表して仮面で対人関係を形成している。顔色の悪い女性は頬紅や口紅をつける。儀式に参加する人はそれなりの服装をする。あれもこれも仮面の1つである。 「仮面を拒否する」生き方は、人間関係を窮屈にするだけだ。自分の心をむき出しにするのではなく、隠してくれる「仮面を認める」ことで、人間関係はスムーズに運ぶのである。 (同131ページより引用) この話は、森田理論学習で言うと、感情と行動は別物として取り扱うと言うことだと思います。普通の人は人間関係において、明確に感情と行動を切り離している場合が多い。私たちはこの2つをなかなか分離して取り扱うことができない。つまり大原健士郎先生が言われるように仮面をつけないで、感情のままに行動していると言えるのではないでしょうか。たとえば、心の中で「あの人は嫌いだ」といったん思ってしまうと、その気持ちをそのまま相手にぶつけてしまう。不機嫌な態度をとる、挨拶をされても挨拶を返さない。こんなことが何回も重なると、相手は逃げていってしまう。また、こういう態度はあらゆる場面で発揮され、ついにはみんなから背を向けられて孤立してしまう。そうなってしまうと、人間関係が破綻してしまい、ついには会社を辞めざるを得なくなる。実に残念な結果となる。 森田ではどんなに相手のことを憎んでもよい。でも、その気持ちを態度としてあらわしてはいけない。役者のように演技をしてみるという気持ちをしっかり持っておくことが大切となる。
2017.01.19
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森田先生の話に、悲しいから泣くのではない。泣くから悲しくなるのだという話がある。小さい時お姉ちゃんが泣いていると、それを見ていた妹がつられて泣くということがある。悲しいという感情が先にありきではなく、泣くという行動が悲しいという感情を誘発させてきたと見るのが順当なところだろう。為末大さんがブログでこんなことを書いている。表情筋の研究で、割り箸を口にくわえて、コメディドラマや漫画を読むと、何割か面白さが増すという実験がある。口角があがり、笑っている時と同じ表情に近くなり、それを人間の脳は楽しいのだと認識し本当に楽しくなるのだという。さらに笑いを引き起こす大きな要因の一つにつられ笑いがある。つられて笑い、笑ったから楽しいと認識する。楽しいという感情も認識することでうまれるのかもしれない。これらのことから、つらい時、悲しい時、不安な時、恐ろしい時、不快な時の対応方法が分かる。それらの感情に合わせて、行動、実践を抑制してしまうと、双方がシンクロして益々増悪の一途を辿ってしまうということだ。感情と行動の波長を合わせてしまうということが精神衛生上は問題であるということだ。精神的につらい時何もすることが無くて退屈だ。今日はどうやって時間をつぶしていこうか等と考えているとまずい。それらの感情を抱えたままで、行動、実践だけは自分のやりたいこと、目の前の日常茶飯事に手をつけていく方向が望ましい。たとえばお笑い番組を見る、カラオケを歌う、スポーツをして汗をかく、コンサートに行く。家では掃除をする。整理整頓をする。料理を作る。そのために買い出しに行く。友人を誘って居酒屋に行く、旅行に行く、釣りに行く、趣味に手をつける。森田ではいったん起きた感情は取り消すことはできないという。でも新しい行動実践によって新しい感情を作りだすことができると言っています。絶えず新しい感情が湧き起ってくるようになれば一つのことだけでいつまでも悩むということはなくなります。その態度は流れと動きの中に身をおいて、あるがままの生き方をしているということになります。
2017.01.08
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宮本武蔵の「五輪書」にはこんな一節があります。「太刀にても、手にても、ゐつくという事をきらう。ゐつくは、しぬる手也。ゐつかざるは、いきる手也」これは、敵や相手と戦う時に、相手の刀の先や手などに、自分の視線や意識を「居つかせて」しまってはダメだということです。剣先の動きだけにとらわれるのではなく、視野を広く大きくとって、「その場全体」をふあーっと捉えなければならないということなのです。なにしろ戦いと言うのは、いつどこから刺客が襲ってくるのか分からない。周囲ばかりに気をとらわれていると、その隙をついて、目の前の相手が思わぬ動きに出るかも分からない。つねに「その場全体」をとらえ、さまざまな気配の変化に注意を払う必要があります。もし変化にとっさに反応できなければ、命を落としてしまうこともあります。その危険予知能力の高さが、勝敗のゆくえ、命のゆくえを握っているわけです。(龍馬脳のススメ 茂木健一郎 主婦と生活社 112ページより引用)このことを森田では「無所住心」と言っている。我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転しながら、音楽を聞く。ナビを見たりしていても、車線変更もでき、赤信号ではとまる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。誰でも最初自動車教習所に通い始めて、初めてハンドルを握った時はとても緊張したと思います。初心者のうちはウインカーやバックミラー、シフトレバー、ブレーキ、アクセルなどが気になり、あちこちに注意が向いて固定してしまいます。車を操作するということが精一杯で、安全に車を動かすための注意の気配りはできていません。バックをしていて横にぶっかったりして、不安定な走行になります。でもその段階を乗り越えると、自分の不安や動作にばかり向いていた注意はまんべんなく行き渡るようになります。他の車の動き、歩行者の動き、道路の状態、天気、交通検問、スピードの監視などに向くようになります。また目の動きも適切になり、危険を回避しながらスムーズに車線変更も出来るようになります。いくら不安な問題を抱えていても、注意の大半は安全走行のために緊張しているのです。緊張感がなく弛緩状態で車を運転していると危ないことこの上もありません。「無所住心」という森田の考え方は、症状のみに注意を向けるのではなく、車の運転の時のように、四方八方に注意が向いてくるような生活のことをいいます。
2016.12.30
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怒りの感情を爆発させずに押さえつけた。我慢した、耐えた。その結果相手と気まずい関係にならずに済んだ。でもこれが生活習慣となってしまうと、よかった、よかったと喜んではおられません。なぜなら、しだいに怒りの感情は沸き起こらなくなるのです。つまり感性が退化してくるのです。感性は、怒りのようなマイナス感情だけではありません。楽しさ、嬉しさ、喜び、感動を味わうといったプラスの感情もあります。それらが全体的に同時に退化してくるのです。これらの感情中枢は扁桃体にあるといわれています。しだいに扁桃体が機能不全に陥ってしまうのです。脳細胞が機能しなくなると再生することはありません。廃用性萎縮現象が引き起こされるのです。特に10歳から12歳の頃の第2回目のシナプスの刈り込みが行われた後は大変なことが起きます。無気力、無感動、無関心な人間が出来上がってしまうのです。あとからこれはまずいと気が付いて修復できるものではないのです。だから感情は基本的には適度に吐き出してやることが必要です。ため込む、蓄積していくことは避けなければいけません。それが感情に対する正しい対応方法です。怒りを吐き出すことなくため込んでいると、その正体が分からなくなり、漠然とした不快感として体内に蓄積されてしまいます。イライラしてきて、自分が何に対して怒っているのか訳が分からなくなってくるのです。嫉妬、羨望、軽蔑、偏見、被害妄想、劣等感、恐怖心、怯えなどと結びついて体の中を駆け巡っているような状態となります。ですから怒り、腹立たしさの感情は自分の体から外に出してやることが大切です。一番いいのは口に出して吐き出す。次には紙に書いて吐き出す。これをまず心しておくことです。吐き出し方は注意が必要です。これも森田理論が教えてくれています。(怒る技術 中島義道 PHP参照)
2016.10.09
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普通腹が立っていると顔の表情や溜息などの態度に表れます。ところが小さい頃に、親から「そんな小さいことでぐずぐず言わないの」「みっともないねえ」などと言われ続けて成長する人がいます。自分の不快な感情を否定され続けると、無意識に解離という現象が起こります。解離というのは人間の防衛反応です。人は耐えがたくつらい感情が喚起されるような状態にさらされると、無意識にその感情を感じないように防衛するのだそうです。その結果、すごくつらい、しんどいという気持ちが強いのにもかかわらず、反対に明るく元気そうに話したり振る舞ったりするのです。つまり心の中と表面上の言動の不一致が起きているのです。しかしネガティブで不快な感情をそのまま抱え込んでしまうので、しだいにストレスがたまってきます。葛藤や苦しみを抱えたままになるのです。いつかははけ口を求めてさまようことになります。そしていつか噴出してきます。例えば、家ではいつもにこにこして穏やかに過ごしている子供が、学校に行くと、些細なことできれて、暴発し、喧嘩沙汰をおこしたりするのです。PTSD(心的外傷後ストレス障害)という症状があります。これはこの解離が原因と言われています。この障害の特徴はフラッシュバックです。つらい思いをした身体感覚や激しい怒りや悲しみ等が一挙によみがえり、一種のパニック状態になるのです。どうしてそんなことが起きるのか。我々が経験する出来事は、認知、感情、身体感覚、イメージ、音などの情報がストリーとして記憶されています。一連の流れとして記憶しているのです。ところがあまりにもつらい経験があると、認知、感情、身体感覚、イメージ、音などのまとまりが切り離されてしまう。解離した状態で記憶されるのです。つらさを弱めたり、感じないようになっているのです。人間がつらい体験をいつまでも引きずらずに生き延びるためなの適応手段なのです。普通のPTSDは激烈な戦争、災害、事件、事故、喪失体験等が原因です。最近は複雑性PTSDということが言われます。複雑性PTSDは、主に家庭の中での親の育て方が原因となっています。特にネガティブで不快な感情を認めて受け入れてもらうことがなかった子どもたちがその犠牲者です。そうした感情を持ちこたえることができない。次の行動に向かうことができない。いつまでも不安、不快な感情にとらわれて、取り除くための格闘をしてしまう。あるいは困難に出会うとすぐに逃げ出してしまう。ですからどんな感情も価値判断しないですべて無条件に受け入れるということはとても重要なことなのです。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2016.04.11
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ショーン・コヴィー氏がこんな話をされている。パレスチナには2つの湖がある。一つはガリヤラ湖だ。きれいな湖で、魚も泳いでいる。その土手を緑が彩っている。木々は土手の先へと枝を広げ、癒しの水を吸い上げようと渇いた根を伸ばす。・・・ヨルダン川がなだらかな山を下り、この湖にきらめく水を注ぎ込む。だから、湖は日差しを浴びて笑っている。人はその近くに家を建て、鳥は巣を作る。この湖がそこにあるから、どんな生き物も幸せなのだ。ヨルダン川は南に下り、もう一つの湖にも注いでいる。ここにはしぶきを上げる魚も、風にそよぐ葉も、鳥の歌声も、子どもたちの笑い声もない。旅人はよほどの急用がない限り、別の道を選ぶ。空気は水面に重く垂れこめ、人間も獣も鳥も、ここの水は飲まない。この湖は死海という。隣り合った湖のこの大きな違いはなんだろう。ヨルダン川のせいではない。両方の湖にいい水を注いでいるのだから。湖底の土でもない。まわりの土地でもない。違いはここにある。ガリヤラ湖はヨルダン川の水をもらうが、ためてはいないのだ。一滴注げば、一滴が流れ出る。等しい量の水を与え、受け続けている。死海は一滴もらえばすべてため込む。つまり外に向かって流れ出るということはないのです。(7つの習慣 ショーン・コヴィ キングベア出版 51ページ引用)私はこの話を聞いて、すぐに森田理論の「感情の法則」が頭に浮かびました。どんなに不安で不快な感情もため込んではいけないということです。つまり一つの嫌な感情にいつまでもとらわれ続けてはならないということです。とらわれ続けると死海のようにみじめな人生に甘んじることしかできなくなります。感情の一番の特徴は、時間とともに変化流動しているということです。私たちはその変化の波に抵抗しないで、素直に乗っていれば、一番安心です。そうはいっても嫌な感情はなかなか頭から離れてはくれません。そういう時は、次の言葉を思い出してください。いったん湧き起った嫌な感情を取り消すことはできませんが、新しい行動をとることによって新しい感情を作りだすことができるのです。すると以前に湧き起った嫌な感情は、どんどんその力を失っていくのです。
2016.03.29
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森田先生の言葉です。「もともとわれわれの身体と精神の活動は、自然現象である。人為によって、これを左右することはできない。ところが人々は常識的に、すべてこれを自己の意のままに、自由に支配することができるものと信じている。特に精神のことについてその通りである。自分の身体を空中に持ち上げることの出来ないことは、だれも知っているけれども、精神的のことは、自分の心は自分よりほかに知るものがないとか、自分の心で思う通りに物を感じ、または考えることができるように思いちがえている。」(森田正馬「精神療法講義」、森田正馬全集第1巻 白揚舎)新版森田理論学習の要点に、「感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志によってコントロールできるものではありません」とある。そのことをよく理解して、どんな不安、恐怖、不快な感情も抵抗しないで受け入れていくことができれば、痛みはあるが苦悩でのたうちまわることは無くなる。人間は心の中に恨み、憎しみ、呪い、嫉妬、復讐など、いかに極悪非道な考えをおこし、それを持っていたとしても、心にとどまっている限り、それは罪悪ではない。むしろエネルギーが充満しており、強くてよいことである。私は若いころ異常に性欲が強く淫乱なことばかり妄想していた。でもそれはすべて無罪である。安心していい。理性が発動して具体的な被害を誰にも与えなかったのだから。感情は自然現象、台風、地震、火山活動と同じです。責任はとる必要はありません。それなのに、我々は心にそんな醜悪な感情が湧き起ったことに対して責任をとろうとしているのです。自分を許せないのです。また不快な感情を取り去ってスッキリとしたいのです。これは台風を人間の力で封じ込めようとするのと一緒です。人間に勝ち目はありません。それどころかさらに大きな問題を作り出してしまいます。台風が来たら柳の木のように枝を振り乱し取り乱すことしかありません。苦しさになりきって、通り過ぎるのを待つだけです。被害があれば仕方なく受け入れることです。松の大木のようにまともに受けてしまうと、ある限界を超えると折れてしまいます。
2016.02.27
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(学習テーマ) 感情の法則を生活に活かす(学習のねらい)この部分の内容は森田理論学習基礎編、「感情の法則」にあたります。(内容説明)感情の法則1 感情はそのまま放任し、その自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなしひと昇りひと降りして、ついに消失するものである。感情は基本的には、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、やがて小さくなり、ついには消失してゆきます。ですから不安、恐怖、不快、怯え、悲しみなどの感情はそっとしておくことが肝心です。その感情を刺激しないいでやり過ごすことを心がけることでよい結果になります。感情の法則2感情は衝動を満足すれば、急に静まり消失するものである。不安、恐怖、不快、怯え等の感情を持ちこたえられなくて、そのまま相手に向かって掃き出してしまうことはよくあります。その時は少しだけ楽になります。ところが交通事故と同じようなもので、その後は長きにわたって償いをしなければならなくなります。それらの感情はイライラしてとても苦しいものですが、持ちこたえることが特に大切になります。感情の法則3感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである。この法則は実際に生活に応用していただきたいと思います。感情は同じ行動を長時間にわたり続けていると、体自体が疲れてきます。また飽きが来ることもあります。刺激が無くなって精神が弛緩してきます。マンネリ化して緊張感が無くなってしまうのです。それを回避するためには、時間を区切って、時間がきたら次の行動に移ることです。森田先生はそのことを「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」と言われています。勉強していて眠くなってしまった時は、散歩したり、体を動かしたり、お風呂に入ったりすると、また頭が冴えてくるということがあります。岩田真理さんは30分おきに仕事の内容を変えていくという心構えで生活されているそうです。感情の法則4感情は、その刺激が継続して起きるときと、注意をこれに集中する時に、ますます強くなるものである。これは感情を強める場合の法則です。継続的に刺激を受ければ、必然的に意識と注意がそこに集中することになります。実際には、強く意識すればするほど注意が集中し、注意が集中すればするほど強く意識するという関係が成立して、両者が交互に作用しあって感情を強化することになりますが、森田理論ではその働きを「精神交互作用」といっています。たとえば、視野の中にある特定の部分だけを「見ないようにする」ことは、結果的に、そのものに注意を集中することになります。さらに進んで「見てはならない」ということになれば、ますますそのものを意識し注意を集中することになります。「絶対に見てはならない」ということになれば、絶えずそのものが見えることを恐れるようになります。そうなると、注意は常にそのものに向けざるを得ないのであって、こうして注意の固着が発生します。そうなりたくなければ、どんなに嫌でも「見えるものは見る」「感じるものは感じる」「聞こえるものは聞く」ようにすればよいのであって、素直にその時の事実に従っていれば、決して注意の固着などは起きないのです。感情の法則5感情は新しい経験によって、これを体得し、その反復によって、ますます養成されるものである。これも感情が強化される場合の法則です。新しい経験というのはプラスの経験とマイナスの経験があります。神経質の素質を発揮して小さい雑事を丁寧にこなしてゆくことによって、建設的な感情や社会的な感情も育ってきます。とらわれてきた人は、マイナスの経験を積み重ねているようです。森田先生は、神経質者はなにごとにも逃げ腰であり、また悲観上手であるといわれています。「思うようにできなくて悔しい」、小さい失敗をすると「ああ、自分はダメだ。会社を辞めなくてはいけない」などと考えます。こうゆう態度や姿勢で生活していると、どんどん内向し、主観の世界にどっぷりとつかってしまいます。感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志よってコントロールできるものではありません。この部分の理解と実践は特に重要です。悪天候、台風や地震、津波、土砂災害等の自然現象を人間の意のままにしようとする人はいません。ところが自分に湧き起ってきた不安、恐怖、不快、怯え等の感情は自由自在にコントロールしようとするのです。イヤな感情はどうすることもできない。そのままに受け入れていくしかないということをしっかりと認識することが大切です。これができるようになると、自分に対しても、他人に対しても「かくあるべし」という考え方を押しつけて、自分の思うがままに、コントロールしようという気持ちが少なくなってきます。自分や相手の存在価値を認めて活用していこうという方向に変化してきます。森田でいう「あるがまま」の態度で生活できるようになってきます。感情は意志によってコントロールできないが、行動、実践することによって新しい感情を作り出すことができる。私たちは「発生してしまった感情は、意のままに変えることはできませんが、行動することによって、新しい感情を作り出すことができる」ということを、決して忘れてはいけません。新しい行動を起こすことによって、新しい刺激を作り出し、新しい感情を作り出すことができます。新しい感情が発生してきますと、とらわれていた古い感情にいつまでもかかわっておられないという状況が生まれます。でも、気になることは、ふとした瞬間にまたぶり返すでしょう。その時、行動実践を怠らないで、イヤイヤ仕方なしでも手をつけていると、そのとらわれた感情は時がたつにつれてしだいに薄まってゆき、ついには森田先生のいわれる「無意識的注意」の状態になってきます。つまり症状から解放されてくるのです。(話し合うテーマ、課題)・感情の法則の活用方法で疑問点があったら出しあってみましょう。・自分の生活の中でどんなことを取り入れてみたいと思われましたか。
2015.12.28
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