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森田理論学習をしている人は半年に1回か、1年に一回かは「まとめ」をしてほしい。森田理論を自分の場合に引き寄せて考えてみることである。そうすると現在の状況がよく見えてくるし、将来の学習の方向性も見えてくる。「まとめ」をおこなったらそれを集談会の場で発表したり、生活の発見誌の体験談に投稿してみるとよい。最初は今から述べる「まとめ」の全部を発表しなくても一部分でもOKです。いわゆる「ミニ体験発表」のようなもので十分です。すると、他の人の感想が寄せられる。それが励ましとなり生きる勇気をもらうことができる。次にアドバイスが受けられる。つまり自分を客観的に見れるようになるのである。軌道修正に役立つのである。特に認識の誤りなどは自分では気づきにくいので大変役に立ちます。最近は学習会でも体験発表が少なくなっているのはとても残念だ。それでは「まとめ」どのように行ってゆけばよいのでしょうか。早速見てゆきましょう。1、 まず自分のとらわれていること、症状について書いてみます。現在だけではなくその成り立ちについても振り返ってみましょう。2、 その結果、自分の生活にどのように支障をきたしていたのか。あるいは生きづらさはどんな状態であったのか。3、 次に視点を変えて、自分が望んでいる「生の欲望」はなんであるのかを考えてみましょう。4、 欲望があれば不安が発生します。生き方としては「生の欲望の発揮」を前面に押し出して、それが暴走しないように不安で制御することが重要です。そのバランス、調和がとれているかどうか考えてみる。特に「生の欲望の発揮」が蚊帳の外になり、バランスが崩れていないかどうかをしっかりと認識してください。5、 神経症に陥っている人は不安、恐怖、違和感を目の敵にして、取り除こうと格闘しています。あるいは気分本位になって逃避しています。精神交互作用を繰り返して、蟻地獄の底に落ちているか、落ちようとしています。その誤った努力方法をまとめてみましょう。6、 次に精神交互作用を断ちきるために、森田理論学習で学んだこと、自分が個別に取り組んでみたこと。その結果どのように変化してきたのかまとめてみてください。7、 さらに認識の誤りについて、自分の陥りやすい認知の誤りについてまとめてみてください。項目はキーワード検索で調べてもらえればすぐ分かります。8、 その中でも最大の認識の誤りは、「かくあるべし」です。自分の「かくあるべし」はどんなものがあるか。「かくあるべし」が神経症の苦悩の発生と生き方にどんな影響を与えているのか。森田理論学習の中で分かったことなどをまとめてみてください。9、 「かくあるべし」から脱却するのは、事実に反抗しないで、事実を受け入れることだといわれています。森田理論学習で気のついたこと、発見したことをまとめてみてください。そして現在事実本位・物事本位の生活実践がどの程度できているのかもまとめてみてください。10、 最後に、神経症が治るとは4つの段階があると紹介しています。自分の神経症の回復はその4つの視点に照らしてどのような段階にあるのかをまとめてみましょう。以上の点を参考にしてまとめを行ってみてください。何度も言いますが、最初から全部行う必要はありません。完全を目指さないでください。少しずつ、定期的に継続して行うことが大切です。それがあなたを成長させることになるのです。
2016.06.16
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私は集談会で行なわれている森田理論学習はまだ工夫の余地があると思っている。新版森田理論学習の要点はよくまとまっていると思うが、掘り下げて説明はされていない。そうかといってそれを補う副読本も用意されていない。現在10名以下の少人数で理論学習をおこなっている集談会が主である。学習を先導する先輩会員の参加がないという場合も存在する。これを読み合せている学習会でどれほど学習が深まっていっているのだろうか。マンネリ気味の学習会で人が寄りつかなくなることはないだろうか。テーマとしては、神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、行動の原則は森田理論の基礎的学習として申し分のないところである。内容も比較的よい。問題はそのあとである。まず認識の誤りについての説明がない。認知療法であげられている認知の片寄りの学習は是非とも取り入れてほしいところである。それから森田理論の枠組みを説明した学習内容が組み込まれていないのが残念である。森田理論のスキームがわからないので、思いつくままに手あたりしだい、森田のキーワードを学習している状態である。これは木を見て森を見ずという状態である。そうなると、個々の難解な森田の用語の意味はよく分かっているが、実際の自分の生活、生き方に跳ね返ってこないのである。学習のための森田理論学習ではあまり意味はないと思う。実践的で応用的な森田理論学習こそが重要だと思う。私は森田理論全体像が見えてきた時点で、目の前の霧が一挙に消えて視界良好となった。これが分かると森田理論の体得は、一段階も二段階もレベルアップできると思っている。私は、森田理論は4つの大きな柱からなっていると思う。生の欲望の発揮、欲望と不安の関係、認識の誤り(とりわけ「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり)、事実を受け入れる生活態度の養成である。学習方法としては、まず森田理論を俯瞰して森田理論の全体像をつかむ。そしてこの4つの柱の学習を深耕していく。またこれらは単独に存在しているのではなく密接な相互関係を形作っている。その関連性の学習こそが大切だと思う。基礎編の学習を終えた後は、応用編とも言うべきこれらの学習内容を基礎にすえるべきであると考えています。この内容はすでにこのブログで説明しているので、関心のある方はキーワード検索してみてほしい。(森田理論全体像など)その上で、森田理論学習のテーマ集を作って、この秋の研修会に提示しようと思っている。この内容は今のところ次のようなものを試作しており、原案はすでにできている。完成までにはまだ相当修正があるかもしれない。1、 生の欲望の発揮とは2、 認識の誤り、認知の片寄りについて3、 神経症が治るとは4、 感じを発生させる、感じを高める5、 リズムに乗る生き方6、 「かくあるべし」人間の特徴7、 事実は4つに分けて考える8、 事実に向き合う姿勢について9、 「純な心」の理解と体験学習10、 「私メッセージ」の理解と体験学習11、 神経症の克服に向けてその1 不安受容モデル12、 神経症の克服に向けてその2 事実受け入れモデルこれは森田理論全体像を学習した人が学習を深めるためのテーマ集である。その日の学習テーマが決まらないときにどれか一つを取り上げて学習する。どのテーマもA4サイズで4枚以内に抑えている。というのはA4サイズ1枚当たり読むのに約5分ほどかかる。2枚で10分。3枚で15分。4枚で20分かかる。これは以前作った「新版 実践的森田理論学習」と「すぐ役立つ 実践的森田理論活用法」というテキストの反省からきている。それぞれA4版で99ページ、66ページあり手軽に読むにしてはボリュームが大きすぎたのだ。渾身の作であったが、集談会などで十分に活用されたとは言い難い。そこで今回は主なテーマを決めて簡単に問題提起をし、後は相互学習で深めてもらうことにした。テーマごとに話合う課題を設けているので、感想、質疑応答、自分の体験談などを交えて30分程度話し合いをして学習してもらいたいと考えている。あとイラストも4枚用意しているので体験学習もしてもらいたいと思っている。特に少人数の集談会を意識して、学習会に参加して役に立ったという気づきや発見をしてもらいたいのである。2人集まればどこでも深まりのある森田理論学習ができることを願っている。
2016.05.26
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ここ2日間それぞれ1000人を超える閲覧者があった。私は1日500人ぐらいのアクセスが限度かなと思っていたので少し驚いている。新しい閲覧者の方にぜひお伝えしたいことがある。それは森田理論学習の意義についてである。森田療法は神経症克服のための心理療法で思っておられる方は多いと思う。それは少しはあたっているが、ほとんどはずれている。神経症で蟻地獄に落ち込みもがけばもがくほど深みにはまり深刻な状態を招いている人に言いたい。そういう人は治療の幅を広げたほうがよい。どんな治療法があるか。まず薬物療法がある。次にカウンセリングがある。精神療法としては30種類ぐらいある。その一つとして森田療法がある。心理療法全体から見ると極めてマイナーなものである。精神療法の主力は認知行動療法である。その他精神分析、論理療法、人間関係療法、内観療法等は有名である。これは私が説明するまでもなくみなさんがよくご存知かもしれない。さて、「森田理論学習」は神経症が少し改善したところで役に立つ代物なのである。それは神経症が改善し、なんとか生活できるようになったからといって精神的に楽になっていないからである。今や人生90年といわれている。その間悶々と悩み続け、苦しい人生に甘んじて生きていくことはしんどい。それに光をあてて光明を見出してくれるのが、「森田理論学習」なのである。だからここでは森田療法とは一線を引きたい。当面の神経症を治すというなどという次元の低い物ではないからである。「森田理論学習」での柱は大きく分ければ2つである。これが自分のものとなり血肉化できれば、神経質性格者のその後の人生は大きく変わる。人間に生れてよかった。神経質性格に生れてよかったということがしみじみと体感できる。その後は味わい深い人生を送ることができるようになる。その柱の一つは「生の欲望の発揮」ということである。注意したいのは無制限に突き進んではいけないということである。人間の特性として欲望があれば不安が発生する。「生の欲望の発揮」にあたっては、不安に学んで欲望を制御して調和を図っていくということが肝心である。二番目に基本的には「事実を受け入れていく」ということである。これにも注意点がある。すべてではない。一部は将来のことを考えて事実を受け入れるのではなく、対策を講じるという面もある。たとえば地震対策をしておく。生命保険、自動車保険に入っておくなどである。しかし、これは事実の面からみればほんのごくわずかである。基本姿勢は、どんな感情でも、理不尽な出来事でも「事実を受け入れていく」態度を作りあげていくことです。さて「事実を受け入れていく」ためには、事実をよく観察する。両面観で見る。先入観や決めつけは行わない。そして具体的、赤裸々に話すことが大切です。次に大きな障害となっている「かくあるべし」を少なくしていくこと。「純な心」や「私メッセージ」の体得はその手段となります。さらに比較検討することは必要ですが、「是非善悪の価値判断」をしないようにする。事実だけを見つめていく態度を養成していくこと。それ以外の価値判断は余計なことである。「森田理論学習」が目指していることは以上です。とてもシンプルな理論なのである。言葉でいえば簡単ですが、その意味する内容はとても深い物があります。生涯学習として取り組んでも次から次へと新しい発見があります。神経質性格の人が味わい深い人生を全うしたいと思われれば、是非とも深めていってほしいものだと思います。それは一人では大変困難だと思いますので、生活の発見会の集談会のような場で学習を継続することが必要だと思います。人生観を確立するために月1回定期的に集まり「森田理論学習」をしている集いは、私の場合、今のところ集談会以外では見出すことはできない。
2016.05.23
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私のところに神経症を克服したいと言って来られた場合どう対応するのか考えてみました。まず、相手の話をよく聞いて悩んでいる中身を把握します。対人タイプ、強迫タイプ、不安タイプ、普通神経症タイプのどれにあたるのか詳しく聞きます。それらに対してなんとか解消したいという気持ちを持っているかどうか。また自己内省力はあるかどうか。つまり森田適応者かどうか簡単なテストを受けてもらいます。またうつなどの他の精神疾患は併せ持っていないかどうか。そして神経症が日常生活にどの程度影響を及ぼしているのか。他の精神疾患を持っている場合、あるいは日常生活が全く滞っている人は信頼できる精神科医をご紹介します。私の力量の範囲以外です。私の場合は、神経症でとらわれたり苦しみから逃げながらもなんとか生活をこなしている人が対象です。現在よりも症状にかかわり合う時間を少なくしたい。すこしでも生きづらさを解消したいという人が対象となります。具体的にはどうかかわり合うか。日常活動記録表をつけてもらいます。森田でいう日記指導に当たります。2冊用意して1週間ごとに交換します。私は赤字でコメントをつけていきます。次に実践課題を作ってもらいます。布団あげ、食器洗い、靴磨き、部屋の掃除などです。これらが軌道にのると、つぎに気がついたことをメモしていく習慣を身につけてもらいます。そして出来たことを一つ一つ消し込んでゆきます。仕事、勉強、家事、家庭生活、趣味、人間関係などバランスを意識して生活してもらうようにします。最終的には、内向きな注意を外に向けて、規則正しい生活、物そのものになりきり、物の性を尽くす生活に切りかえていくように誘導してゆきます。ある程度の成果が上げてくると、次の段階として、基礎的な森田の学習をしてもらいます。あるいは日常活動記録表の開始と同時に並行して行う場合もあります。私の作成した森田理論のテキストを見て、自分の感じたことを簡単なレポートにして提出してもらいます。これに対しても赤字でコメントを入れてゆきます。これはいろんな認識の誤りに気づいてもらうことと、今後の自分のすすむべき道を見つけてもらうことが目的です。主な項目は、精神交互作用と神経症の成り立ち、神経質の性格の両面性、感情の法則、認識の誤り、不安の役割、不安と欲望の関係、生の欲望とは何か、生の欲望の発揮の手がかり、「かくあるべし」と神経症との関係、是非善悪の価値評価と神経症との関係、事実を受け入れるということ、純な心の習得、私メッセージの習得、治るとはどういうことか、森田理論全体像などです。一方では不安を抱えたまま行動の幅を徐々に広げていくこと。同時に認識の誤りや本来の人間的生き方について森田理論から学んでいく。そして自分の生活の場で活かしていくことです。これは一人では難しいので私がサポートしていくということです。これらをどれぐらいの期間やるのかというのは難しいです。学習項目から見て3カ月から4カ月ぐらいは必要だと思われます。その後は「生活の発見会」などの森田理論を学ぶ自助組織で交流を深めて、さらに森田を深めてゆかれたらよろしいと思います。
2016.05.06
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普通森田理論の講話を頼むと、講師が用意した原稿を時間の大部分を使って説明される。その後、わずかな残り時間を使って質問に答えるパターンが多い。これだと1週間もすれば講師がどんな話をされたのかほとんど頭に残らない。ノートにメモしていないと、忘却の彼方へと消えてしまうことが多い。そうならないために「ハロイ法」(CBA method)がある。どうするのか。まず相手に、そのことに対する質問を用意させることからスタートする。それが疑問であっても意見であってもかまわない。質問を考え始めると、人びとには自ずと問題意識がちょっと芽生えてくる。具体的には次のように進行する。1、 話す側は、話す内容の見当がつく程度のレジメを、出来れば数日まえ、やむをえなければ当日の早めに聞く側に渡しておく。レジメにするのができない場合は、同じ程度の話をしてそれに代える。2、 聞く側は、それを見聞きして質問を用意する。この時いくつ以上などと質問の数を指定するとよい。3、 次に、聞く側を4,5人の小グループに分ける。各グループは、一人ひとりの質問をまとめて、みんなで一覧一望し、それに基づいて、グループとしての質問を作る。質問の数は、全体の人数や時間にもよるが、一グループ3つか4つに絞っていく。この時質問内容が観念化や抽象化にならないように、また個々の質問の足し算にならないように気をつけたい。それが難しければ、グループとしての代表的な質問を選ぶとよい。4、 各グループは互いに、グループとしての質問内容を全員に発表し合う。5、 他グループから1質問でたら、自分たちのグループの中にあるそれと似た質問を、同時にその場に出すことにする。6、 話す側は、その質問の一つひとつに答えていく。7、 その途中で、質問する側と答える側が、その内容を往復し合う。普通の講話では講師が主役である。聞く人は頭を垂れてありがたく拝聴する脇役である。講話は、主役から脇役に一方的に内容説明されることになる。その方法は相互のやり取りを重視しないので、独りよがりにならざるを得ない。脇役が話の内容に関心があろうがなかろうが、頓着しない。自分がしゃべりたいことのみをしゃべっているので、時として一人相撲を取っている場合がある。聞き手は積極的にその内容にかかわることができないので上の空になってしまうことがある。それに対して「ハロイ法」では、脇役が主役である。講師は主役の質問内容を中心にして話す内容を変えなければならない。質問にないことを用意していても、そのことは特に説明しなくてもかまわない。ところが質問されたことについては、準備していなくても時間を割いて、丁寧に分かりやすく説明する必要がある。聞き手はその質問に対する回答に対して、積極的に関わることが格段に増加する。さらに互いの意見を交換することによって、双方ともテーマに対する見解が深まっていく。この手法は森田理論学習を行う、集談会で応用できないだろうか。例えば「純な心」の学習である。講師の簡単なレジメを参加者に渡す。しばらく時間をとって一人ひとり疑問や質問を考えてもらう。それを3,4人のグループで話してもらう。その疑問や質問を発表する。次にその疑問や質問を踏まえて、講師に講話をしてもらう。こうすれば、ありきたりの講話では得られない学習の成果がもたらせるのではなかろうか。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン321ページより引用)
2016.03.25
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森田先生のところに入院されていた人の話です。入院している間、先生からは一度も、話をするから集まれというような改まった講義なかったのであります。先生の話は、現実にぶつかって、例えば庭に出られてそこにいた患者の作業ぶりにぶつかって、やむにやまれない気持ちから話が展開するのです。・・・ここでの生活は、入院するまでは思ってもみなかった生活であります。赤面恐怖に対する処置は何らしてもらえませんでした。頭痛に対しても何ら問題にしてくれませんでした。・・・私たちは朝早くから起き掃除をして、ご飯を焚き、便所の掃除をしたのであります。これは普通の家庭での雑用仕事ということになります。・・・ここでの生活には緊張感があります。・・・なんの思慮もなくただ体を動かしておるという作業ではありません。そのようなお使い根性というか形だけの働きぶりは直ちに見破られて、先生あるいは奥様からやりこめられます。かくして、いつの間にか私たちは、対人恐怖も頭痛も消え、時間を惜しみ、物の性を尽くすという時々刻々の心の働きに、人生の感激と喜びを味わうようになるのであります。(回復の人間学 北西憲二 147ページより引用)森田先生の指導は、症状を不問にしておられたということです。とらわれを取り去るという治療方法ではなかった。そうすれば精神交互作用で益々とらわれていく。そのかわりに症状を不問にして、日常茶飯事等の作業をさせた。それを日記に書かせてコメントをされている。作業の中で小さな達成感や気づきの感情が生まれてくることをとても重視されていました。感情がどんどん流れ出し、しだいに日常生活が改善できるようになる。そういう状態になれば退院させた。家に帰ると、不安との格闘を棚上げにして、日常生活にものそのものになってくり組むことができるようになった。これは生の欲望の発揮に邁進できるようになったということです。これに対して、私は一つの疑問があった。理論的裏付けなしに、そのような作業療法だけではたして神経症が本当の意味で治るのだろうか。例えば不安を取り去ろうとしない。不安の特徴や役割。不安と欲望の関係。不安と欲望の生活面への活用などは、理論的にしっかりと学び、自分のものにないとすぐにすり抜けてしまいそうな気がする。何らかの理論的裏付けがないとすぐに元に戻ってしまわないだろうか。その答えは森田先生の略歴を研究して理解できた。森田先生が本格的に森田療法を始められたのは、1919年(大正8年)45歳の時と言われています。森田先生の代表作「神経質の本態と療法」は、1923年(大正12年)49歳のときに出版されている。さらに「神経衰弱と強迫観念の根治法」は1926年(昭和元年)52歳の時にものにされている。それ以外にも雑誌「神経質」をはじめ、森田先生は数多くの著作を残されている。私は入院生が退院した後、森田先生の数々の著作を読んで、個人個人で理論的に裏付けを行っておられたのではないかと推察している。さらに1929年(昭和4年)から毎月のように形外会が始まる。これは森田先生が亡くなる1年前の1937年(昭和12年)まで続いている。これが元入院生にとって大いに体験の理論化に役立っていたと推測する。つまり森田理論学習というものは、体験がラセン階段を昇っていくように、絶えず理論によって裏付けられることによって確たるものになると思う。
2016.03.02
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心療内科の平木英人医師の言葉です。痛みとは視覚神経を伝わって大脳の視床に到達します。これに対する反応として、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、血管の収縮や筋肉の緊張が生じます。この反応で局所的な貧血が起こります。貧血が起こると組織内の酸素が足りなくなるため、今度は内因性の発痛物質が生じます。こうなると、外因性の痛み刺激が消えても痛みを感じるようになるのです。又こんなふうにもいわれている。慢性疼痛の場合、通常の痛み刺激で活性化するはずの大脳視床ではなく、思考や感情を司る前頭葉の部分が活性化することが分かったのです。前頭葉というのは脳の思考を司る部分です。米ノースウエスタン大学のアプカリアン教授らが行った分析では、慢性疼痛の最中に活動しているのは前頭葉の中でも前部――ストレス不安など、ネガティブな感情を司る部分であることが分かりました。実際、慢性疼痛には、抗うつ薬など前頭葉に作用する薬や、思考を必要とする心理療法が有効です。(慢性疼痛 平木英人 ちくま新書 60ページ引用)これが事実であるとすれば、慢性疼痛の治療方法は根本から見直していく必要があるということです。つまり身体的痛みは、末梢神経から視床下部に伝わり、視床下部から下垂体、副腎系へ対応指令が出されていると思われていた。そのために、その方面の対症療法が中心となっていたのです。実際一過性の痛みはそれで解決できていた。ところが慢性疼痛の場合、その経路だけではなく、前頭葉が絡んでいる。むしろそちらの方の影響が大きいのではないかと言われているのだ。それは自分が作り出した架空の思いこみのようなものなのだ。だから痛みの原因がなくなっても痛みを感じるようになり、しかも増悪していく。このように問題をとらえると治療方針は全く違ってくる。薬物療法も薬の種類が違ってくる。それに加えて心理療法が重要になってくるのです。平木医師は、自律訓練法、交流分析、行動療法、認知療法、カウンセリング、絶食療法、森田療法、催眠療法、内観療法等が必要となると指摘されている。平木医師は絶食療法、森田療法にことに詳しい。それはご自身不安神経症を森田療法で克服したからだ。これは慢性疼痛の治療に限らず神経症の治療にも言えることであると思う。神経症で精神科にかかると、まずは薬物療法で様子を見ましょうということになることが多い。それが第一選択肢である。クライアントが苦痛を訴えれば、薬の種類や量を変えて、あくまでも神経伝達物質のバランスの崩れに違いないと決めつける傾向にあるのではないか。それでも改善が見られないときは匙を投げるか、薬漬けにしてしまう。患者にとっては大変なことである。病院にかからない方がまだよかったかもしれない。慢性うつ、気分変調性障害、神経症は治療の視点を変えることが必要だと思う。様々な心理テストを行い、そのクライアントにあった心理療法を取り入れて治療をしていく必要がある。平木医師によると、その心理療法は30種類くらいあるという。私自身は神経症には森田理論学習がよいという立場をとっている。不安の見方を変え、「生の欲望に邁進する」実行力を身につける。「理知本位」「気分本位」から「事実本位」の考え方を理解して、日常生活への応用力をつける。これが神経症克服の決めてであると思っている。ただこれは適切な指導者のもとに行わないと効果が少ない。ましてや自分ひとりで取り組むことは至難の業である。さらに時間ばかりが空回りして、途中で放り投げてしまい、森田には二度と寄りつかなくなってしまうのが残念なことである。「森田はもう少し掘り進めば、その下に豊かな鉱脈が静かに眠っている」これが私の実感である。
2016.01.25
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2月6日(土)15時から17時30分東京慈恵医科大学にて体験発表を行います。題は「私の森田理論の活用法」です。約30分。パワーポイントにて説明します。また3月26日(土)は岡山にて同様の体験発表を行います。近くの方で興味のある方はお越しください。なお詳しくは「メンタルヘルス岡本記念財団」のホームページをご参照願います。
2016.01.13
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森田理論の学習とその応用は車の両輪であるという。全くその通りである。理論の車輪が小さい時は、実践・行動の車輪は小さくてもよい。肝心なことは同じ大きさであるということだ。同じ大きさだと、前に向かって進むことができる。ところが森田理論学習は深まっているのに、森田理論の活用や応用面の進捗度合いが停滞すると問題が起きる。理論の車輪がトラックの大きさなのに、実践・行動・体得の車輪が自転車ぐらいだと想像してみてほしい。するとどうなるか。言うまでもないことである。前には進まない。自転車の車輪を起点にして、トラックの車輪がぐるぐるとその周りをまわり続けるようになる。こうした状態になると、症状が改善することはない。むしろ悪化の一途をたどることが十分考えられる。森田理論学習があだとなっているのである。またそれを自信たっぷりに吹聴するものだから、周りの人はたまらない。森田原著の学習に熱心なあまり、一字一句正確に理解しようとしている人は、この点十分に注意をしておく必要がある。また時々、「頓悟」と言って、急に目の前の深い霧が無くなり、視界が開けてきたと言って喜ばれる人がいる。これも理論と実践のバランス面からいって問題があるように思う。行動・実践・体得が「森田の達人」レベルに達している人が、森田理論を人間学的に深く研究していくことはとても意味がある。あるいはそう言う人が「悟り」の境地に達することは素晴らしいことだと思う。それでは、理論に見合った行動・実践・体得とは何か。これは神経症が治るというそれぞれの段階に対応していればよいのである。まず、初歩的な段階。規則正しい生活ができている。日常茶飯事、雑事を大切にしている。ものそのものになりって行動している。好奇心の発揮。一人一芸を身につけている。物の性を尽くしている。自分、他人、時間、お金等持っているものを活かしている。無所住心の生活をしている。変化対応の生活ができている。等である。次の段階。「かくあるべし」の弊害がよく理解できて、思想の矛盾が打破できていること。理想主義、完全主義、強いコントロール欲求、目標至上主義、自己嫌悪、自己否定の弊害がよく理解できていること。特に他人を自分の意のままにコントロールしたいという気持ちが乗り越えられていることが重要である。そして、行き過ぎたときでも、すぐに現実、現状、事実に立ち戻り、そこから再出発できる人。そして一歩一歩目標に向かって努力している人。さらに上の段階がある。自分、他人、出来事を是非善悪で価値判断しなくなった人。自然の流れのままに身をゆだねて、自然と一体となった生活を送っている人。そして、人の為に役立つ行動をとれる人。以上のように森田理論学習にあたっては、行動・実践・体得とのバランス、調和が大切なのである。それから外れていては「森田の達人」とは呼べないのである。
2015.12.31
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(学習テーマ) 素早く変化に対応する(学習のねらい)森田先生は周囲の変化に自分を対応させて生活することを述べられています。どういうことでしょうか。森田先生の言動から考えてみましょう。この部分の内容は森田理論全体像の1、「生の欲望の発揮」に含まれています。(内容説明)森田先生のお話をいくつか紹介しましょう。★森田先生がよく臨済録から引用されている一文は次の言葉です。「心は万境に随って転ず、転ずる処、実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば無喜亦無憂なり」とらわれのない心のままであるならば、万境にしたがって、心は刻々に流転してとどまるところがない。その流転していくありさまは、まことに不思議なくらいである。その流転していくままの姿が心の本来性であることを認得するならば、喜びも悲しみも超越することができる。不安、恐怖、違和感、不快感などにいちいち深く関わりあってはいけない。その時一瞬は関わりあっても、谷川を流れる水のように、絶えず流していくことが大切である。それが城のお堀の水のように淀んでしまうと、雑菌や藻が繁殖して、最後には魚の住めないような状態になってしまう。諸行無常、変化流転の世界観が森田の考え方なのである。★眠くなった時はケースバイケースで対応すればよい。時と場合に応じていろんなケースがある。その時と場合に合わせることが大切である。第1に、一人で用事もない時にはちょっと横になって寝る。第2に、お通夜とか説教を聞くとかいう時で眠い時は、周囲の人に無作法にならぬように、眠りながら起きているふりをする工夫をする。第3に、例えば電車を待つ時、急ぐ調べ物をする時などには、眠り込んでは都合が悪いから、外を歩き、その近辺を見物するなり何かをする。そうすれば気が変わって目が覚める。無理に座っていて目を覚ますことは難しい。★常に変化に対応できる姿勢をとる体操の時の休めの姿勢。片足で全身の体重を支え、他の方の足を浮かして、つま先を軽く地に触れている態度をとると周囲の変化に対して、迅速に適切に反応することができる。森田先生曰く。「わしは、電車の中で立っているときには、体操のときの休めの姿勢をとっている。つまり両足を開き、片足に全身の重みをかけ、他の方の足は浮かして、その足先で軽く床に触れるようにしている。これは不安定の姿勢であるが、この姿勢でいるときは、浮かした方の足先で鋭敏に体の動揺を感ずることができ、周囲の変化にたいして最も迅速に、しかも適切に反応することができる。それは不安定の姿勢の上に立って、しかも自然の心にしたがい、どこにも固着することがないからだ」休めの姿勢で立っていると吊皮などを掴む必要はなく、読書ができる。電車の動揺にも、決してじたばたすることはない。そのうえ、降りる駅や乗り換え場所を間違うこともない。スリに遭うこともない。手荷物を忘れたりすることもない。★捨て身の態度で変化に対処する柔道では、相手に対して強いて突っ張るとか、自分の技を無理にかけにいくという態度ではなく、自分を投げ出して、いつでも相手の変化に応じて、臨機応変の処置がとれるというのが捨て身の態度です。心をどこにも固着していないので、その時々に、自由に心が働く。相撲でも、四つに組んだ時は、全身の力を抜いて、相手の身体にぶら下がっているというふうで、相手が押しても引いても自由にくっついていく。そうすると、自分よりずいぶん力の強い人でも、いつしかくたぶれて、根負けしてへとへとになり、自然に先方が負けるようになる。この時にしいて踏ん張ると、相手にその力を利用されて、自分が負されるようになるのである。★行動は周囲の状況に従って決める。自分の思いから動くのではない。強行軍の時には、どんなにヘトヘトになってもついていかなければならない。地震で津波が発生すれば、どんなに熱がでていても高いところへ逃げなくてはいけない。自分の行動は周囲の状況によって左右されるのであって、自分の都合によって決めるのではない。★森田先生は人間の感情について次のように言われている。人間の感情というものは、いつまでも同じ状態にとどまっているものではない。水の流れと同じで、絶えず流転している。またそれは、鏡に写る影のようなものである。明鏡止水というのは、鏡に影の写らないことではなく、写っては消え、写っては消え、止まらないさまをいう。悲しいときには悲しいままに悲しみ、苦しいときには苦しいままに苦しんでいれば、心は自然と転換されてゆくが、悲しむまい、苦しむまいと努力するから、何時までも悲しみや苦しみから抜け出せなくなるのである。宇宙の営みも絶えず流動変化しています。変化しないで固定していることが、安定しているように考える人がいますが、変化しないで固定するということは、存在すること自体不可能なことです。独楽は回転しているときが一番安定しています。自転車は前に進んでいるときが、倒れないで安定しています。常に動いて変化しているということが、安定するためには必要不可欠となります。不安、恐怖、不快な感情も流動変化を心がけて生活すれば、いちばん安楽な対応となります。 ★柿原美恵さんが森田先生の自動車に同乗させていただいたときのこと。森田先生曰く、「電車に乗っている時は、片足に体重を乗せて、他の片足の力を抜いておくと、電車の大きく揺れた時にも転ばない」森田先生は以前、人力車に乗っていて、何かに衝突して放り出されたけれども、柔術の心得があったから、飛び下りて怪我をされなかったとのことである。また、「僕は冬の寒い時でも、決して右手の手袋は使わない。右手に手袋をはめていては、とっさの場合に右手を十分活用できないからだ。だからこの通り、右手は洋服のかくしに突っ込んでおく。ほれ、右手の手袋は一度も使ってないだろう」と言って見せてくださってから「柿原さんにやろう」といって記念に私に下さった。この2つのエピソードから学ぶことは、森田先生はいつもこれから予測される事態に備え準備されていたということである。いつも変化に対応した生活を心がけておられたということです。自分の思いどおりにならない出来事に対して、悲観したり、恨んだりするのではなく、自分から先にその変化を予測して、変化に合わせていこうとする態度です。これは「かくあるべし」を押し進めるのではなく、事実に積極的に従おうとする態度です。こんな身近なことから森田理論の本質に迫っていくことができるのです。こうしたことが自然に実践できるような態度を身につけてゆきましょう。★風邪をひくということを森田先生が説明している。風邪をひくというのは、必ず常に気のゆるんだときで、周囲の事情とこれに対する自分の反応が適応性を失った時に起きる。周囲と自分との釣り合いが取れていれば、そんなシクジリは起きない。暖かいところではゆったりし、寒いところでは気が引き締まっておればよいけれども、暖かいところから急に寒いところに入り、寒いところから暖かいところへ入る時に、これに対する心の変化が適応せず、気が緩んだところで風邪をひくのである。ゆえにうたたねのようなことがよくない。しかし精神が自然になれば、うたたねでも風邪をひかないようになる。(森田正馬全集5巻59ページ)ここで森田先生が言わんとしていることはなんであるか。これは周囲の状況に合わせて生活することを言われているのだと思う。寒いところから、こたつに入ると急に手足が暖かくなる。するとぶるぶる震えていた体が緩みほっとしてくる。収縮してきた血管が拡がり緊張状態が取れてくる。ふつうはここで心身ともにリラックスしてくる。ついうたたねもしなくなる。つまり心身の緊張状態が、急に弛緩状態に変化しているのである。こたつに入ったのだから、それでいいのではないかと思う人が多いのではないかと思う。それは自分のいるところはそうかもしれない。でも外は寒い。トイレに立つときも寒い。風呂に入る時も服を脱ぐと寒くてたまらないのである。そういう周囲の事情はお構いなしに、全くの弛緩状態に入り込み、リラックスしすぎてはいけないといっているのである。武士が轡の音にもすぐに目を覚ますのは、自分の置かれた周囲の状況に敏感になり対応しているからである。そんな時はうたたねをしても決して風邪をひくようなことはないといわれている。(話し合うテーマ、課題)どの話が一番興味がありましたか。自分が生活に応用するにはどんなことから始めますか。
2015.12.17
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(学習テーマ) 感じを発生させる、感じを高める(学習のねらい)感じを発生させて感じを高めることの意義とその方法について考えてみましょう。この部分の内容は森田理論全体像の1、「生の欲望の発揮」に含まれています。(内容説明)森田先生曰く。ここでの修養の出発点は、物事に対する「感じ」を高めてゆくことである。我々は、見るもの・聞くものなにかにつけて、ちょっと心をとめていれば、必ずなにかの「感じ」がおこる。かりそめにも、これにちょっと手を出しさえすれば、そこに感じが高まり、疑問や工夫が起こって、興味がわく。これを推し進めてゆけば、そこにいくらでも進歩がある。手をだすことが億劫だと思っても、イヤイヤながら仕方なく手をだしてみる。目の前のことに手をだしてみる。部屋の掃除、風呂の掃除、靴磨きなど。そこに何かの感情が生まれる。しばらく経つとどんな感情も流れてゆく。我々はすでに起きてしまった感情はやりくりすることはできませんが、手をつけることによって新しい感情を作り出すことができます。新しい感情が次から次へと生まれてくるようになれば、一つのことにだけこだわってはおられなくなります。感じの発生はやる気、意欲、モチュベーションの高まりのきっかけとなります。本来人間の行動は、まずそのきっかけとなる外部の出来事があり、次にそれに対して感情が湧いてきて、最終的に自主的、積極的な行動へとつながります。たとえば、1「火事になった」、2「身の危険を感じた」、3「急いで逃げる」という流れになります。また、1「腹が減った」という出来ごとに対して、2「ご飯をたべたい」という欲求が湧いてきます。それから3「食事を作るか食べに行く」という行動が発生します。つまり「食べる」という行動には「腹が減った」という動機が関わっています。でも動機が直接的に行動へと結びついているわけではありません。あくまでも「ご飯を食べたい」という「自分の感情の発生や意志の力」が介在しているのです。人間が生きていく上において、「動機の発生」、「感情の高まり」はとても大切なのです。自主的、積極的、創造的行動においては、必要不可欠なものといえます。「かくあるべし」でこうしなさい、ああしなさいと他人からの指示を受けて行動するということは、「動機の発生」もない、「感情や意志の力もない状態」で、いきなり「行動を押し付けられる」ということになります。本来は感情を介在させることで自主性や積極性が生みだされるのです。それが抜け落ちてしまうのです。感じを発生させるためには、日常茶飯事のことに手をだすのが基本ですが、仕事や勉強、自分のやってみたと思っていること、趣味やスポーツ、芸事などに拡がってくるとよいでしょう。その時森田先生は「ものそのものになりきる」と言います。この態度が大切です。わしは風呂を焚くときには風呂焚きになりきり、診察する時は医者になりきり、将棋をさすときには将棋さしになりきる。つまりなにをやっても全力をつくすのだ。この心構えが大切です。さらに感じを高める方法について考えてみましょう。四字熟語に「少欲知足」「吾唯足知」という言葉があります。あまりにも欲をかき過ぎてはいけないということです。食べ物も腹いっぱい食べてはいけない。欲しいものも多少我慢する方がよい。お金も多少不足するくらいがよい。仕事も不満がある方がよい。住むところも冷暖房完備の至れり尽くせりの家でなくてもよい。容姿も二枚目でなくてもよい。少し心配事がある。少し不安がある。少し腹が立つ。もう少し眠たい。少し病気がある。テストでもっとよい点数をとりたい。もう少し楽しみたい。もう少し飲みたい。もう少しゲームをしたい。そういう気持ちを持っていてもよいが、ほどほどのところで我慢することである。すると元々持っている感性や感受性が強まります。満ち足りた人が感じないような微妙なことを鋭くキャッチできるようになります。さらに意欲、気力がでてきます。そして困っている人のことを思いやる気持ちも自然に湧いてきます。このほどほど道という考え方は感性を鋭くさせる効果があります。(話し合うテーマ、課題)・感じを発生させ、感じを高めるとどんな効果があると思われましたか。・自分の生活の中に活かすとすると、どんなことに取り組んでみたいと思われましたか。
2015.12.15
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本日の土曜日(12/12 13時30分より)は、大阪にて第147回心の健康セミナーを開催 します。テーマは『外来森田療法についてー森田正馬の神経質概念とは』 と題して、顕クリニック院長の岩木久満子先生にお越しいただき、ご講 演いただきます。 ▼尚、当セミナーは同時生中継も行ないます。関西圏以外の方や当日参加で ない方は、インターネットを通じてこの講演会を無料で視聴できます。 お手持ちのPCかスマホがあればどこでも視聴可能です。 <心の健康セミナー> http://www.mental-health.org/seminar5.html <スマホ> http://www.mental-health.org/mobile/seminar5.html 別件です12月31日までオンデマンド配信があります。中村敬先生の「森田療法」です。時間は20分とちょっとです。森田療法の要点がよくまとめられております。URL http://msd-web.jp/psyIDはMSD04PWはMSD04
2015.12.12
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(学習テーマ) 精神拮抗作用について(学習のねらい)ここでは日々の生活の中に調和、バランスが崩れるとうまくゆかないということを学んでいただきたいと思います。森田理論の基本の考え方は、生の欲望の発揮です。でも欲望が暴走すると大変なことになります。普通は不安が欲望の暴走を止める抑止力として働いています。欲望と不安はどちらも大切なものです。欲望と不安はバランスをとって前進することが大切になります。この部分の内容は森田理論全体像の「欲望と不安の関係」に含まれています。(内容説明)森田先生は次のように説明されています。精神現象は常にある意向が起これば、必ずこれに対抗する反対の観念が起こって、我々の意志の行動が抑制されている。対立する純な心を、理知でもって調整することが大事である。例えば、時間がたてば腹がへり、ご馳走を見れば食べたくなる。これが純な心である。その時、今日は下痢をしているから人前で行儀を悪くすると笑われると考えるのが理知である。この純な心と理知の調整によって人はその行いが正されて、初めて理想にもかなうようになる。今日誰かの日記に「先生に叱られて、非常に恐ろしかった」と書いてある。ちょっと見ればなんでもないが先生に対する反抗気分と不従順を表している。先生に叱られて恐ろしいのは、当然であり、人情である。この純なる心そのままであると同時に、一方には、森田先生に接近し、話を聞き、指導を受けたいという心が対立している。この恐ろしくて逃げたいと、近づいて幸福をえたいという二つの心が相対立するときに、我々の心は、微妙になり、臨機応変、最も適切になり、いわゆる不即不離の状態となるのである。神経質者の考え方というものは、先生は恐ろしいという心を否定、圧迫し、一方には近づきたいという心に、いたずらにむち打ち、勇気をつけようとして、無理な努力を工夫し、その結果は、かえって神経の働きが萎縮し、偏りたるものになる。私の場合でゆうと、呉先生は私の恩師であるから当然最も恐ろしい人であった。もちろん取り入って先生に一目置かれたいと思うことはあったが、私から積極的に働きかけるというようなことはなかった。先生がお出かけのとき、車へ同乗を頼むことはなかったが、先生の方から「誰か一緒に乗らないか」といわれるときには、蜘蛛の糸にかかった昆虫に蜘蛛が飛びつくように、決してその機会を逃すようなことはなかった。患者とともに4、5人で町を歩いていると、私は息切れがするので、きわめてノロノロと歩いているのに、患者はいつまでも、ぴったり後ろからくっついてくる。私はじれったくて「いつまでも、僕のあとへくっついて来る人の気が知れない。」といったら今度は私の方からすっかり離れてしまって5、6間の間隔をおいてソロリソロリと歩いている。私はまた私の付き添いの娘をやって「離れてしまうような気のきかないものは、なんとも仕様がない。」と言わしてやった。患者はどうしてよいかまごついてしまう。私の話が始まる。犬を連れて散歩するときに、犬は主人のそばにばかりくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはサッサと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、またどこからともなく帰ってきて、主人の足元に絡みついてくる。これが犬の自然な心で、いわゆる不即不離の働きである。すなわち犬は退屈のために主人を離れるが、それかといって、絶えず主人を見失ないはしないかという事が気にかかるから決して離れてしまうことはない。しかるに君たちは先生の先に追い越してしまうと無礼になるという理屈にとらわれ、反対に離れてしまえばまったくよりつかない。(話し合うテーマ、課題)精神拮抗作用について気づいたことをお話しください。自分の生活の中でどういうふうに活用したいと思われましたか。
2015.12.05
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(学習テーマ) なすべきことに手をつける(学習のねらい)森田では神経症を治すためには、不安には手をつけないで、日常生活に注意を向けて「なすべきこと」を丁寧にすることを勧めています。どんなことに気をつけて取り組んでゆけばよいのでしょうか。この部分の内容は森田理論全体像の「生の欲望の発揮」に含まれています。(内容説明)レベル1 気が進まなくてもイヤイヤ、仕方なく手足を動かしていく。森田では月給鳥という鳥になったつもりで会社に出かける。家事では超低空飛行を心がける等といいます。レベル2 実践課題を作って取り組んでみる。布団あげ、部屋の掃除、靴磨き、風呂の掃除、トイレの掃除、車の洗車、ペットの世話、花等の手入れ、家庭菜園、地域の活動、趣味、運動等課題を作って取り組んでみる。レベル3 気づいたことを逃さないようにメモして課題のストックをためていく。できることから手をつけていく。雑仕事、雑事を大切にする。コツはものそのものになりきって行うということです。注意点は、今できることは一つしかない。完全にこなそうと思わず、6割できればよしとする。変化に臨機応変に対応して、優先順位を意識する。これは、森田では無所住心の考え方です。レベル4 規則正しい生活を心がける。自分の不安や心配事よりも仕事、勉強、家事、育児に力を入れていく。レベル5 物、自分、他人、お金、時間をできるだけ有効に活かして使う。森田では「物の性を尽くす」といいます。レベル6 人の役に立つことを見つけて行動する。レベル7 好奇心を活かして、やってみたい趣味等に取り組んでみる。仲間との交流の体験を持つ。一人一芸を身につける。レベル8 大きな目標、課題を設定する。コツコツと地道な努力を重ねていく。目標達成に向けてチャレンジしてみる。注意点があります。症状を治そうと思ってする行動は、かえって症状を強化してしまうということです。森田先生は言います。「便所が汚れたのを見かねて掃除するのは修養だが、修養のために便所掃除をするのは邪道である。」高良先生は言います。対人恐怖の患者さんが、作業用の竹を買いに行った時のことを日記に書いている。「竹を買いに行ったけれども、今日の竹買いは失敗であった。」なぜかというと「途中で対人恐怖を強く感じたから」だいたい竹買いが成功であったか失敗であったかは、思い通りの竹を買えたか、しかもよい竹を安く買えたかどうかであって、この患者は竹買いのことは全く没却されて、対人恐怖がでたかどうかが重点になっている。これらの事例は、行動することによって自分の苦痛を回避したいという野心があるのです。野心があると注意が症状に向いてゆく。症状に注意が向けば、ますます感覚が強まり症状が強くなるのです。「わしは風呂を焚くときには、風呂焚きになり切る。どうしたらゴミの整理がうまくできるか。どうしたら少ない燃料でもっともはやく風呂をわかすことができるか、真剣に研究し、工夫する。風呂を焚くときには風呂焚きになりきり、診察する時には医者になり切り、将棋をさすときは将棋さしになり切る。つまり何をやっても、自分の全力をつくすのだ。そこには価値批判はなく、風呂焚きも診察と同じように興味があり、張り合いがある。これがもし、下手な価値批判にとらわれ、風呂を焚くより原稿を書いた方が得だ、原稿を書くより診察のほうがもうかる、診察よりも病院の経営をやった方が利益が多い、という具合に損得を基準にして考えてゆくと、しまいには何もすることがなくて手をこまねいているか、あるいは詐欺をやった方が早道だ、というようなことにもなりかねない。風呂焚きでも、飯炊きでもなんでもよい。価値批判を抜きにしてとにかく手をつけさえすれば、いつとはなしに興味がでてきて研究と工夫を重ね、仕事はそれからそれへと発展して、社会に役立つ働きができるようになるのだ。」(話し合うテーマ、課題)あなたは今どんな段階ですか。できたらそこからランクアップさせてみましょう。行動することについて気がついたことを発表してください。「ものそのものになりきる」ためにはどうしたらよいと思われますか。
2015.12.04
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(学習テーマ) 神経症が治るとはどういうことか(学習のねらい)神経症が治るとはいくつかの段階があると思います。どの段階まで治したいかは人それぞれだと思います。まず治る段階について理解しましょう。この部分の内容は森田理論全体像の概要説明の中で取り扱っています。(内容説明)神経症が治る4つの段階は次の通りです。1、精神交互作用を打破する2、認識の誤り、特に「かくあるべし」の理解と脱却3、是非善悪の価値判断からの脱却4、「生の欲望」に沿った生き方をめざす 1、精神交互作用の打破神経症に陥った人は一つのことにとらわれて、症状以外のことに目が向かなくなります。注意と感覚の相互作用により、どんどん増悪してゆきます。そして観念上の悪循環、行動の悪循環が際限なく繰り返されるようになります。まず、その悪循環に歯止めをかけることが必要になります。それは、症状はひとまず横において、日常生活のなすべきことに手をだすということです。不安や恐怖をもちながらも、これができるようになれば、第一段階の治るということは達成されます。治った段階で「欲望と不安の関係」の学習をして、神経症の成り立ちについて十分に自覚を深めてください。キーワードは、生の欲望の発揮、欲望と不安の調和、精神交互作用と手段の自己目的化などです。2、認識の誤り、特に「かくあるべし」と苦悩の始まりの理解神経症に陥った人は、普通の人と比べて多くの認識の誤りを持っています。特に強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。森田では事実から逃げたり、ごまかしたりしないで事実をそのままに認めることができる。このように「事実唯真」の動かすべからざることを知れば、いまさらいやなものを朗らかにしたり、無常を恒常のものに見替えたり、相対を絶対にしたりする不可能な精神葛藤が無くなるから、ただそれだけで非常に安楽である。事実を素直に認めることは簡単なようで難しい。まずは学習によって、「かくあるべし」がいかに自分を苦しめているかを学習すること。そして実際に応用してみることが大切です。この段階では理論的な理解を深めていくという段階です。必ずしも事実本位、物事本位の生活になっていなくても、理解が深まればよしという段階です。こうした理解が進むと、第二段階の治るということは達成されます。3、次に第三段階の治るについてみてゆきましょう。森田先生は次のように説明しています。善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事が大学卒業程度ということであろうか。私たちは事実を見てたいていよいとか悪いとか是非善悪の価値判断を下しています。例えば人前に出ればあがる。それはよくないことだ。精神を鍛えて、人前でも物おじしない堂々とした人間にならなくてはいけない。等と普通は考えます。森田の学習が進むと、人前であがるというのは自然現象である。自然現象はどうすることもできないものである。あがるということをやりくりしてはいけない。そのまま受け入れて、事実に服従しなければならないというように考えることができます。ところが心の中では依然として、これが良いとか悪いとかの是非善悪の価値判断をしているのです。これでは本当の意味で「思想の矛盾」を打破して事実本位を体得することは困難です。この段階では、事実をよく観察する。事実をしっかりと正確に把握する。その事実を先入観や決めつけなどしないでそのまま認めるということが必要です。さらに事実を受け入れて、事実に服従できるようになるということです。事実は比較してその特徴や個性等の違いをしっかりと見極めることは必要ですが、決して是非善悪の価値判断をしてはいけません。これが身につくと、第三段階の治るということは達成されます。4、「生の欲望」に沿った生き方ができるようになる「かくあるべし」が小さくなり、事実本位、物事本位の生活態度が身についてくると、神経質者は強い「生の欲望」を持っていますから、不安というブレーキを活用しながら、自分に備わった能力をどこまでも活かし、運命を切り開いてゆくようになります。これが第四の最終段階です。この段階では、症状を治すということを通り越して、神経質者としてよりよい生き方を目指してゆくことになります。(話し合うテーマ、課題)・あなたは今どの段階にありますか。・また、どんな段階を目指しますか。・そのために力を入れたいことはどんなことですか。
2015.11.26
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森田理論学習の方法としては、生活の発見会の集談会に参加することが、今の段階では一番良いと思う。ただ将来的には集談会の数は少なくなっていくのではないかと思っている。しかしフェイスtoフェイスの勉強会は貴重である。少なくなっていっても、年に何回かは活発な集談会に参加することが望ましい。勉強会自体はインターネットを使ったものに変わる可能性がある。しかし、それだけでは肝心なところが補えない。次のようなことが考えられる。1、 本当の意味の共感の場が持てない。2、 自分の心のよりどころとなる集団に癒されるという体験が持てない。3、 親身になった十分なアドバイスが受けられない。4、 世話活動、幹事会などの体験学習ができない。5、 学習の継続性が持てない。すぐに安易に離れてしまう。その結果森田理論の神髄を習得できない。6、 生の人間的交流が持てない。苦しい時相談に乗ってもらうことができない。7、 突っ込んだ学習にならない。森田理論学習は難しくはありませんが、奥が深いと思います。8、 森田を十分に体得した人に接する機会が持てない。魅力ある人に接することができない。9、 貴重な講話などを聴くことができない。10、 傾聴、受容と共感、励ましたり、ほめるという経験が持ちにくい。11、 喫茶店や懇親会などの貴重な交流が持てない。12、 いろんな生活情報などの幅が拡がってこない。13、 自分の特技や自信のある芸などを披露する機会を持てる。14、 力を合わせて学習会やイベントを企画したり、実施する体験が持てない。そのほかにもまだいろいろメリット、デメリットはあると思います。自分のところの集談会へ行くのが苦痛という人は、距離はあっても他の活発で面白そうだという集談会に年に何回か訪問することをお勧めします。私は入会してすぐに世話活動を頼まれて、休みたくても休めないという状況が長続きして、気がつけば森田理論が体得できていたと思っています。また何よりも貴重な人々と交流できたことが財産になっています。
2015.11.24
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私はこのブログを始めて約3年になる。ほぼ毎日1つは投稿してきた。振り返ってみると私自身とても森田理論を深めることができました。それまでは本は気が向けば読むし気が向かなければ何日も読まなかった。月刊の機関誌「生活の発見」でさえも、正直なところ気に入った記事しか読んでいなかった。ところがこのブログを始めた途端読書欲が旺盛になった。森田のネタは生活の中にもあるが、最も多いのは先人たちの残してくださった本の中にある。その中からヒントをもらって自分なりに森田理論と照らし合わせているのである。現在は月曜日から金曜日までは約3時間程度は本を読んでいる。窓口での受付の仕事が多い。一日3時間程度は受付対応である。大きな声では言えないが、居住者や業者のお相手をする以外は何もすることがないのである。その時間や昼休みの時間を有効活用している。本は森田関連の記事を速読気味に読んでいる。200ページのやさしい本は1日で読みあげてしまう。300ページぐらいで、難しい本は2日で読み上げる。1カ月20日として15冊から20冊ぐらいは読んでいるだろうか。本はほとんど図書館で借りている。心理学、医学、教育、人生観、伝記、思想、生活などが中心である。読んでいて大事なところは付箋をつける。そこをあとで読み返して、ポイントをA4用紙に書き出す。その中から森田の琴線に触れるものを選別して、森田理論を使って自分の考え方をまとめ上げているのである。この作業を3年間ずっと通してやっている。今までの食い逃げ状態の森田理論の学習とは大違いである。自分が日々進化していることをひしひしと感じるのである。また自分が気づいていなかった森田理論の重要点が、にわかに意識されるようになることがよくある。例えば今一番うれしいのは、心理学者アドラーの思想を学習していてあることに気がついたことだ。アドラーはいろんなことを言っている。森田と関係あることもたくさんある。その中でも、特筆すべきことを発見した。アドラーは他人を自分の思うように動かしてはならないと言っている。他人を自分の意のままに動かしてはならない。支配被支配の関係になってはいけない。これはタテの人間関係であるという。これが森田とつながる考え方なのだ。私はアドラーの思想の中から森田理論に通じる考え方を発見したのだ。このアドラーの考え方を見つけたときにピンときた。森田では感情は自然現象だから人間の意思の自由はない。だから感情はコントロールすることはできないし、してはならないと言っている。この点に関して、アドラーは他人に絞って、自分の都合のよいように他人をコントロールしてはならないと言っているのだ。私はそこからさらに話を進めて考えてみた。森田理論でも感情は自分の意のままに操ってはならないと言っている。でもそれだけではない。相手の理不尽な行為に対しても、その事実を認識することは必要であるが、相手に対して仕返しをしたり、その行為を評価して是非善悪で優劣をつけてコントロールしてはならないと言っている。さらにそれだけではない。自分自身を自分で作り上げた「かくあるべし」に近づけるように叱咤激励することは、自分自身をコントロールしようとすることにつながっている。また自然現象、経済危機、紛争なども自分たち人間の思いのままに変えようとしている。つまり人間の不幸の始まりは、コントロールしてはならないものを無理矢理コントロールして、自分の都合のよいように支配しようとしていることにあるのではないか。あるいは人間の都合のよいように自然を支配しようとしていることにあるのではないか。この考え方を見つけたときはうれしかった。森田理論をさらに深めることができると確信できたからである。こういうことが年間を通じると何回かは訪れるのである。それは予期することはできないが、学習の過程で突如として出てくるものである。これだから森田理論の学習とブログは止められないのである。それがいくつか積み重なるとすごい思想に発展するのではないかと思っている。
2015.11.22
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(学習テーマ) 認識の誤り、認知の偏りについて(学習のねらい)森田では、「劣等感的差別観」「部分的弱点の絶対視」「劣等感的投射」「手段の自己目的化」「異物化のからくり」等を学習します。ここではそれ以外にも認知行動療法で取り上げられている認知の偏りについても学習します。森田理論全体像での該当場所は、「かくあるべし」の発生と苦悩の始まりです。(内容説明)まず森田でいわれている認識の誤りから見てゆきましょう。1、劣等感的差別観 他人と比べて自分だけが外からの刺激に対して特別に抵抗力が弱い。普通の人と比べて自分だけが特別精神的に弱い。あるいは身体的に劣っていると劣等感的に自分を見てしまう。2、部分的弱点の絶対視 自分のある不安や弱点を、自分の将来を左右する致命的な障害のように受け取ってしまい嘆き悲しむ態度のこと。3、劣等感的投射 自分の欠点や弱点にとらわれていると、他人はそのことに気がついて、自分に対して、反感、軽蔑、嫌悪したり、迷惑がってくるはずだと思いこむ。4、手段の自己目的化 不安や恐怖は、欲望達成の過程で欲望が暴走しないように制御機能を担っています。ところが一方的に不安や恐怖にとらわれると、生の欲望の発揮の方向へは向かわずに、不安や恐怖を取り除くことばかりにエネルギーを使うようになります。5、異物化のからくり 生活している中で不安はつきものですが、不安はあってはならないものと考える。不安を異物のように取り扱って、不安を排除しようとしたり、不安から逃げたりするようになること。次に認知療法で取り上げられている認知の偏りについてみてゆきましょう。全か無か思考、一般化のしすぎ、心のフィルター、よい出来事を悪く考える、結論の飛躍、拡大解釈と過小評価、自分の感情を根拠に決めつける、すべき思考、レッテル貼り、自分のせいにするなどがあります。主なものを説明します。6、情報を偏って選別する。たとえば、自分が話をしているときに、真剣に話を聞いてくれている人のことを見ようともせずに、あくびをしている人、よそ見をしている人、難しい質問や批判をする人のことだけが気になってしまう。ものの見方がマイナス面、悪い方に偏っている。7、根拠のない結論を下す。事実や証拠もないのに、先入観でそうに違いないときめつけてしまう。事実を実際に確認することができない。事実を確認しない場合間違いが多発する。8、自分のせいだと思い込む。自分の周りで起きたことに対して、「よくないことはすべて自分のせいだ」と思い込んでしまう。失敗やミスはすべて自分の責任だと思って落ち込む。事実を主観的にばかり見ている。客観的に見ることができない。9、よいことを過小評価し、悪いことを過大評価する。よいことは誰か別の人のおかげで、悪くいかないのはすべて自分のせいだと思い込む。マイナス思考、ネガティブ思考である。物事を否定的に見ることが多く、肯定的に見ることができないのでいつまでたってもバランスのとれた考え方ができない。10、たった一つの結果をすべてだと思い込む。例えば会議で誰かが時計に目をやっただけで「ぼくはみんなを退屈させている。」と思い込んでしまう。たった一つの出来事、たった一つの結果を、すべてだと考えてしまいがちなのだ。そして些細なごくわずかな失敗をすぐに人生を左右するような大きな問題にしてしまう。11、オールオアナッシングと考える。善か悪か、成功か失敗か、0か100か、白か黒かの極端な決めつけをしてしまう。現実にはありえないようなことに執着する。中間、灰色、中庸という考え方がない。これらの認識には共通点が見られます。1、 考えることが無茶で大げさであり、論理的に飛躍しすぎている。2、 マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。そして自己嫌悪、自己否定に陥っている。3、 事実を無視して、実態から遊離して勝手に決めつけをしている。4、 完全主義、「かくあるべし」思考に陥っている。「かくあるべし」は森田で特に重視している認識の誤りです。頭の中で「こうでなければならない」と考えた事と、現実がかけ離れて、それによって悩んだり、苦しみを抱えてしまうことです。(話し合うテーマ、課題)ご自分の問題だと思う認識の誤りはどんなことがありますか。そのためにどんな支障が起きていますか。自分を振り返って具体的にお話ししてください。次の手順によって、みんなで認識の誤り、認知の偏りの修正に取り組んでみましよう。1、 そう考える根拠はどこにあるのか。逆の事実はないのか。別の考え方はできないか。2、 結果について考える。自分の考えていることが本当だとして、どんなひどいことが起きるのだろう。最悪を予想して、覚悟を決める。3、 代わりの考えを探す。現実的で柔軟な考え方を見つける。
2015.11.18
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森田理論学習の応用編の最初の学習項目です。ステップアップ学習会はここから始まります。下の写真が見にくくてすみません。表示を200%ぐらいに拡大してみてください。森田理論全体像の説明は、2013年3月29日、2014年4月25日、2014年9月20日等を参照願います。上の赤字の1は、今現在の欲望(なすべきことややりたいこと)に取り組む。生の欲望の発揮です。左の上の赤字の2の1は、不安の活用欲望の制御機能として働く不安や恐怖本来欲望と不安はアクセルとブレーキ左の下の赤字の2の2は、不安との格闘強い不安、恐怖、不快感、おびえを感じる。神経症の苦しみの発生右の赤字の3は、認識の誤り、「かくあるべし」からの発想。理想の立場から、現実、現状を見てダメ出しをしている。(思想の矛盾)他人中心の生き方下の赤字の4は、現状、現実、事実を認めて受け入れ、そこから出発する。事実本位、物事本位の態度。認識の誤りの打破、「純な心」、私メッセージの体得自分中心の生き方の体得
2015.11.17
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最近生活の発見会の集談会に参加していて、森田理論学習の内容部分は改革の余地が残されていると思う。この部分をもっともっと改善していけば会員は増えていくように思えてならない。現状の学習テーマは、新版 森田理論学習の要点、生活の発見誌、森田関係図書からの抜粋等から幹事さんなどが用意されているのではなかろうか。内容的には申し分ないのであるが、今一つ学習が深まっていかない。「学習の要点」は見出しのようなものだから、あまりにも簡潔すぎて解説者がいないと学習が深まりにくいと思う。また学習内容がバラバラで統一性がないことも一つの原因だろう。つまみ食いのような断片的な学習は、木だけを見て森を見ないような学習になると思う。森田理論を俯瞰した見方がとても大切だと思う。現在系統的学習方法として、オンライン学習会、基準型学習会などがある。これに参加すれば表面的には系統的な正統森田理論学習ができるようになっている。これは新版 森田理論学習の要点に沿っている。苦労してつくられただけあって非常によくまとまっている。これが森田理論全体像にふれて、森田理論を系統立てて説明してあるともっと違った学習内容になるのではなかろうか。特に「あるがまま」と「純な心」、森田療法の人間観の部分は難しいように思う。でもなかなか内容の変更というのは困難な作業なのかもしれない。以上のような理由で、各地集談会では毎月の森田理論学習のテーマとして何を取り上げるかということに苦労している。そんな状況下で、私は「森田理論学習のテーマ集」のようなものを作ることを思いついた。なんとか役に立つ形にしてメール配信できるようにまとめ上げたいと思う。この機会に少しのその内容について考えてみたい。これは集談会で輪読して、その後参加者みんなで作業をしたり、議論できるようなものだ。輪読するのでA4サイズで2枚ぐらいが適当ではなかろうか。多くても3枚4枚が限度だろう。あまり長いと学習しようという意欲がわかない。これは私の作成した学習テキストを見た人の意見だった。でも要点のみでは人数の少ない集談会では学習の深まりは期待できない。最低限具体例などを取り入れた説明が必要である。「森田理論学習のテーマ集」では、まず、学習項目と学習のねらいを示す。そして森田理論全体像の中のどのあたりの学習になるのかを示す。次に内容説明。最後に課題をいくつか示す。場合によっては実際の作業シートもいくつか作成する。テーマとしては、まず森田理論全体像。これが要となる。1年に2回ぐらいは学習テーマとして取り上げたいものである。その他、このブログでよく取り上げているものをピックアップしてゆく。例えば、神経症克服のための4つの手法。治るとは何か。日常生活に森田を活かす。無所住心。変化対応力を身につける。リズム感とバランス感覚。精神拮抗作用。感じを高める。物の性を尽くす。不安と欲望の関係。「かくあるべし」と苦悩の発生。神経質の性格特徴。感情の法則。認識や認知の誤り。「純な心」と「私メッセージ」。自然に服従するとは。事実本位の体得。今ざっと思いつくテーマはこんなものである。まだまだ吟味してテーマを絞り込まなくてはならない。これらを手元に置いて、集談会で理論学習のテーマが決まらないときは活用していく。肝心なことは森田理論の学習体系の中のどの部分を学習するのかという視点をしっかりと持つことだと思う。こういうものを20テーマぐらい持っていると、参加者の少ない集談会でも森田理論学習を深めていけるのではないかと考えている。さっそく試作に取り掛かってみたいと思う。近いうちに試作品を投稿したい。
2015.11.15
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ipod(携帯型音楽プレイヤー)はアップル社の製品であるが、部品の半分以上は日本製であるという。日本のメーカーが部品を作らないと製品にはならない。それならなぜ日本人が作らなかったのか。CD、MD、カセットの世界の考え方から抜け出して物事を見通すことができる人がいなかったからである。また音楽業界と権利の調整をして音楽配信の協力を取り付けるといったことを思いつかなかったのである。それを思いついたのはアメリカのスティブ・ジョブズ氏だったのだ。すぐれた部品作りはそれとして、素晴らしいことではある。しかしもっと重要なことはその部品を組み合わせて新たな商品を思いつくという発想力である。世界のホームラン王の王貞治氏は、筋力が相当強そうなイメージがある。実際はそうではなかった。当時の巨人軍で腕相撲が一番弱かったのは、王さんその人だったのである。しかし王さんは一部の筋力の面では弱かったかもしれないが、全体としてみればメンバーの中では一番だったのではなかろうか。ホームランを打つための筋力がバランスよく発達していたのではなかろうか。868本のダントツの数字を叩き出したのはそのたまものだったのだろう。日本では一般的に専門分野一筋に鍛え、他の追随を許さない技術や能力を持っている人が尊敬される。それはそれで素晴らしいことではある。否定するつもりはない。しかしその態度はマイナス面もある。森を見ないで木ばかりをみている状態になるからだ。全体を俯瞰することができないで、専門性ばかりが野放し状態になるとまずい。まずその専門性を全体の中で有効に活用することが難しくなる。次に、例えば核分裂の研究の専門家が全体を見通すことをしないと人類破滅へと向かうことにもなる。何を言いたいのかというと、その道の専門性を高めていくことは、常に全体の方向性、人間の心身、人間社会、自然環境にどういう影響を及ぼすのかということとセットとして進めてゆかなければならないということである。これを森田理論学習に当てはめるとどういうことか。森田にはいろいろキーワードがあります。事実唯真、あるがまま、純な心、自然に服従、境遇に柔順、思想の矛盾、精神交互作用、精神拮抗作用、生の欲望、感じを高める、努力即幸福・・・。これらを個々に研究して理解していくことも必要であろう。それと同時に必ずしなければならないことは、森田理論の全体の理論のスキームを理解することだろうと思う。森田理論全体像とその中身である4本の柱をしっかりと理解することを怠れば、森田理論そのものが宇宙をさまよう浮遊物のような存在となり、ほとんど自分の生き方に影響を与えるものにはなりえないのである。このことを肝に据えながら森田理論学習にあたれば必ず成果は得られるはずだと思う。
2015.10.30
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2015年9月号の「生活の発見」誌に、長谷川洋三氏が森田理論学習のやり方について解説されています。初心者の人は以下の4点を勧められている。1、 人の話をよく聞くこと2、 生活の発見誌をよく読むこと。森田理論の解説書を繰り返し学習すること。3、 とにかく助言されたように実行してみること。4、 自分の進歩を仲間に報告すること。これは大変的をえた指摘である。私の意見を述べてみたい。まず第1番目です。集談会でも他人の発言に難癖をつける人は後を絶たない。本人は何気なく正直に話したつもりでも、言われた人はとても落ち込むことがある。それで集談会に参加しなくなった人を何人も見てきた。集談会では、「これはどうかな」と思う発言は多々ある。それにいちいち反論しない方がよい。それよりも傾聴、共感、受容の気持ちを持って参加することである。最初は共感できなくてもいいんです。相手の話をよく聞いて、まず「あなたの言われていることは、こういう事なんですね。」と話の中身をフィールドバックしてきちんと受け止めることが大切です。そして相手の気持ちを思いやった言葉が見つかれば投げかけてあげる。するとしだいに弾みがついて、共感や受容の気持ちが湧いてくるから不思議です。私はどんなことがあってもあなたの味方ですという態度が大切です。2番目です。発見誌や森田関連の単行本の読み方はコツがあります。まず重要なところは付箋をつけたり、マーカーで印をつけておく。それを簡単でもよいのでノートに書き出すのです。私のこのブログの分類のような項目をつけて、何月号、ページ数、内容、自分の意見や感想を3行ぐらいに書いておくのです。学習の深まりという点からすると、これをやるかやらないでは大きな違いとなります。読みっぱなしはほとんどあとには残らないのではないでしょうか。これは講師の話を聞いた時も同じです。メモをとってあとで自分の感想や意見と照らし合わせることが大変意味があるのです。3番目です。森田理論学習は生活への応用や体得が欠かせません。集談会でのアドバイス、生活の発見誌、単行本などで参考になることは実践課題として取り組んでみることがとても大切です。私は先輩のアドバイスに基づいて、布団あげ、風呂の掃除、部屋の後片付け等からはじめました。その後メモ用紙の活用などで行動力が格段にアップしました。さらに森田先生に学んで、一人一芸の習得に取り組みました。アルトサックスの演奏、獅子舞、どじょう掬い、浪曲奇術等の芸を持ち、この9月は5回も敬老会、老人ホームの慰問活動があります。4番目です。集談会で3番目の結果報告をしてみんなの意見を聞いてみてください。また私たちは認識の誤りを冒しやすい特徴があります。それを解決するのは仲間の力を借りなくては克服できません。自分の片寄った考え方は、仲間と学習する場を共有することで少しずつ可能となるのです。
2015.09.07
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集談会で苦しんでいる人にどう援助していくか。どうかかわってゆけばよいのか。難しい問題です。でも避けて通ることはできません。この問題を考えてみましょう。その前提として、最終的に神経症を克服していくのは悩んでいる本人です。考え方の誤りや行動の誤りを自分で気づいていく。発見していくのは本人です。たとえて言えば、馬を水飲み場までは連れていくことはできますが、水を飲むのか飲まないかは本人次第です。ですから私たちの役目としては、その人の気づきを促していく。きっかけ作りをしてあげることだと思います。そのためにはいろんな手法があります。数多くの刺激を提供してあげる。できることはこれだけです。またそれ以上のことをしてはならないと思います。まず森田先生はどうされていたのか。神経症者を入院させていた。一週間の臥褥ののち、生活に必要な身の回りの作業させていた。作業の中で気がついたことをその場で指摘されていた。そして夜になると日記を書かせていた。その中から考え方の誤りや行動の誤りを指導されていた。実際の作業や行動の中で、神経症克服のための物の見方、考え方、実践の仕方を教えられた。入院生は40日ぐらいの入院生活の中で、考え方の誤りに気がつき、神経質者の本来の生き方を身につけていった。今はネット時代です。それを利用しての援助が考えられます。つまり普段の生活ぶりや実践・行動ぶりをメールで送り、相談者に折り返しコメントをつけてもらう方法です。コメントの中に、気づきや発見があれば神経症の克服に役立ちます。ただ、顔が見えない分注意が必要です。事前に1回は直接面談していないと、感情面のトラブルが発生する可能性があります。いま私たちが行っているセルプヘルプ活動ではどうか。同じ神経症の人たちが1月に一回一堂に会して交流しています。これは癒し効果があると思います。同じような苦しみを持ちながら生活している仲間を目のあたりにすることができます。また、どん底から這い出して、社会適応力を身に付けた人も目にすることができます。これも大切な気づき、発見ですね。交流が進めば、それが後ろ盾となって神経症の改善に役立ちます。さらに集談会では森田理論学習を行います。学習の要点を読んだり、その他森田関連の図書も読みます。そして意見交換したり議論します。また他の人の体験談を聞いたりします。森田理論に詳しい人の講話も聞きます。これによって、自己洞察を深めていくきっかけ作りをしているのです。ですから、それらの活動から、気づく力、発見する力があるかどうかはとても重要です。効果を上げるためには、学んだことを、自分にあてはめて考えてみること。自分の場合はどうなのか、自分としてはどうしたらよいのか。絶えず自分と向き合いながら学習に取り組むことが重要です。そのためには学習内容、講話内容をノートに整理してみる。そして自分に引き寄せて考えてみる。考えたことをみんなの前で発表してみることです。このようにして相互学習を積み重ねていく。そういう人はどんどんよくなります。症状の克服だけにとどまらず、人生の指針も合わせて獲得することができるでしょう。私たちはそういう人たちに対して、コーチ、伴走者としての役目があると思うのです。自分の掴んだ森田理論を人に強制することは本意ではありません。それは闇夜に鉄砲を放つようなものです。努力は水の泡に帰してしまいます。指示的助言をする場合は、相手が困り果てて救いを求めてきたときは、大きな効果が期待できます。その時だけに限ることだと思います。私たちのできることは、気づきや発見を促すための機会をより多く作ること。そしてその中身を充実させていくことです。今一番気になっているのは、学習内容です。考え方の誤り、認識の誤り、認知の誤りの部分です。これにはべックの認知療法。エリスの論理療法を取り入れることを考えています。また森田理論の理論化を進めて分かりやすい学習内容にすること。以上2点は森田理論学習を進めていく上で、早急に手をつけるところだと思います。この2点を補強することで森田理論はかなり強固なものとなります。他の心理療法に比べて引けをとらなくなると考えています。そういう共通認識を育てること。そうすれば、苦しみにとらわれている人に、気づき、発見する選択肢が増えることになると考えているのです。
2015.07.02
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私は以前対人恐怖で仕事が手につかなくなりました。訪問営業に行くことができなくなりました。とうとう最初の仕事は32歳で退職しました。次の仕事は事務処理の会社に入りました。最初のうちは順調でした。ところが中間管理職になったころから苦しくなりました。同僚や部下との人間関係がうまくゆかなくなりました。また上司や営業から批判されたり、叱責されるようなことをしてはならないという気持ちが強くなり、いつもビクビク、ハラハラしていて心が休まるということがありませんでした。仕事は中途半端に取り組んでいました。また仕事以外のことでバランスをとってなんとか仕事を続けてきました。お酒、テニス、スキー、魚釣り、トライアスロン、資格試験等です。これは体が悲鳴をあげておりそれを鎮めるために役に立っていたと思います。うつ状態になり精神科にもかかって薬も飲んでいました。また内観療法も受けました。森田療法は30代後半からずっと学習してきました。森田療法の「なすべきをなす」という考え方で最悪期はすぐに脱出できました。ところがうつ状態や対人緊張はほとんどよくなりませんでした。正直森田療法には期待しなくなりました。ところが世話活動をしていたため、自助グループ活動は容易に退会はできませんでした。また、集談会活動を通じて中国、四国、兵庫等に多くの得難い友達がたくさんできており、これを失うことは死ぬより辛いことだと思っておりました。困った時はいつも助けてもらっていたのです。森田で一番役に立ったのはこの温かい人間関係です。仕事でどうにもならなくなれば、集談会の仲間が助けてくれるという気持ちはとても大きな後ろ盾となっていました。そのうち、森田の学習方法を見直しました。森田理論は理論として整備されていないということに気がついたのです。ちょこちょこいいところを食い逃げしているだけでは決して自分のものにはならないのではないか。自分で森田理論を整理して、「森田理論全体像」を作ってみました。間違っているかもしれません。でも私にとってはその後の学習や森田理論の見方が全く変わりました。この方向で進んでいけば間違いないなと確信しました。そこから実際に生き方そのものが大きく変わり、人生に大きな希望が見えてきた感じです。今考えていることは、神経質性格を持った人は何かにつけてとらわれやすい。とらわれないで気になることを流せるようになれば楽に生きられる。そのためには、森田理論は有効ですが、それだけにしがみついていてはもったいない。薬物療法、入院森田療法、外来森田療法、カウンセリング、認知行動療法、内観療法、ピア・カウンセリング、精神分析療法などいろんな神経症にかかわる療法があります。自分に合うやり方を早く見つけること。森田理論学習も他の療法でいいものは、どんどん取り入れる。現代の森田療法は認知療法の考え方は是非とも取り入れる必要があると考えています。認知の誤りの是正は避けて通ることができません。あと私たちは常に意識の大半が自分自身に向いていますので、内観療法も取り入れたほうがよい。自己中心が是正されます。森田理論は神経質者の生き方を変えて、人生を豊かにしてくれる。症状を超えてそこまで踏み込んで生きる知恵を授けてくれる療法は他には見当たりません。だから生涯学習として取り組んでいる人が多いのだと思います。信頼して学習するに足るものだと思います。それだけに他の療法のよいところは積極的に取り入れて、森田をよい方向に変化、成長させていくべきだと考えています。
2015.06.27
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剣道の修業には「守・破・離」という発展段階があるそうだ。「守」というのは、竹刀の持ち方や姿勢、背筋が伸びているかどうか。足の幅や踵、右足の踵は紙一重浮かして、左足の先端を右足のくるぶしあたりに持ってくるとかですね。そういうふうに一つ一つ形を身につけ、相手のどういう動きにも自然に対応できるように練習する。ところが最初のうちは形で規制されると非常に動きづらいわけです。ところが、やがて形が身についてくると、その形が一番動きやすいということが分かる。こうして先生の基本的な教えを一通り習得して自由に動けるようになると、つぎに「破」の段階に進む。無心に練習していると、このやり方でいいのか、自分に合っているのか、という疑問がわいてくる。今よりさらにいい動きとか形はないのかと考えるようになって、自分なりに創意や工夫をするようになるわけです。先生の教えを突き「破」って、自分なりに模索をはじめ、究極的に「離」の段階を目指すようになるわけです。それからは、もう先生の考えにとらわれることなく、自分自身のものの考え方や見方、また相手の心を読み、自由自在の動きが理合にもとづいてできるようになった段階が、本当の意味で一人前です。それを突き詰めていくと名人とか達人といわれる域に達する。(棟梁を育てる高校 笠井一子 草思社51ページより引用)これを森田理論学習に置き換えてみましょう。最初は森田先生の書かれた書物を読む。集談会で相互啓発学習を積み重ねる。森田に詳しい人から理論を学ぶ。本当によくなるのだろうかと思いながらも、ともかく一旦は信じてみる。1年という期間を設定してもよい。その間は素直に教えを請う。集談会で指示されることや森田の達人の生活ぶりを観察して実際に自分も応用してみる。ダメだと思ったら、その後に見切りをつけることだ。最初から批判ばっかりして、途中ですぐに見切りをつけることは慎むこと。すると次の段階に進む。ここでは森田の学習からは離れることだ。森田原著を10年、20年と読みこんでいる人もおられる。それはそれで尊いことではある。でも我々は学問として森田理論の学習をしているわけではない。実学のために学んでいるのだ。ある程度の学習を積んだあとは、森田で養った視点で自分の考え方や生活を見つめ直す。さまざまな社会問題を森田の視点から考えてみる。そのためには、森田から離れてみることだ。そして自分なりの森田理論を組み立てることだ。自分の森田理論を深耕していくことだ。私にとっての森田理論とは何か。私にとってのどこをどのように応用していくべきなのか。等を模索していくことだ。森田先生を乗り越えるぐらいの気構えでちょうどよいくらいだ。医者になるには、最初に医学の一般的なことを幅広く学習する。ところがそんなことで一人前の医者にはなれない。範囲が広くてとても使い物にはならない。次に自分の専門領域をきめる。外科、内科、脳外科、小児科、皮膚科、麻酔科、整形外科、眼科、産婦人科、肛門科等に分かれる。専門分化したあとは研修医として実際に指導教官のもとで研鑽をつむ。研修を終えると一人前の医師として臨床に当たる。それでもまだまだである。実際には自分でさらに研鑽をつまないと患者の信頼は勝ち取れないのである。これをT字型成長法という。まず謙虚に教えてもらう。幅広く学習して一応のことは学習して身につける。その後は自分の進むべき道を絞り込む。一旦方向性を決めた後は、独自にその未知の分野に向かって精進して、新しい分野を開拓していくのである。
2015.06.24
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たかが人生、されど人生という言葉があります。せっかくこの世に生まれてきたのです。どうせなら「されど人生」にしようではありませんか。先日そんな体験をしました。歌の上手な集談会で知り合いの人とカラオケに行きました。2人で2時間。交互にたっぷりと歌えました。私は初めて知ったのですが、いまのカラオケは全国のカラオケルームとネットで繋がっており、順位が出るようになっているのです。300人同じ歌を歌っていると歌い終わった時点で自分の順位が出ます。歌唱力、テンポ、リズム、音程、熱意、パブレーション、こぶしなど様々な視点から採点しているのです。歌好きが集まっているのか90点ぐらいでは250番以下です。100点というのはありませんが、1位とか2位は98点とか、97点台です。私は90点台はちょこちょこ出るのですが、順位は250番以下です。友人はほとんど50番以内です。場合によっては10番以内にランクされていました。何が違うのか全く分かりません。友人が採点方法を変えてくれました。今度は自分の歌唱の音程、熱意、リズム等6項目に分けて採点するのです。すると自分のよいところと悪いところが分かるのです。私はリズムが特に悪いということが分かりました。リズムと言われても自分ではどうしようもありません。友人のアドバイスとしては、よく音楽を聞いて演奏に合わせること。そのために、思い切り声を張り上げるのではなく、高い音は少しセーブしてやさしく語りかけるように歌ってみたらどうかということでした。そこで、思い切り声を張り上げるのをやめて8分程度で歌うように心掛けました。高音部分が上ずることが少なくなりました。それで歌ってみるとリズム感が20%ぐらいの評価だったのですが、途端に70%以上に跳ね上がり、全体のバランスがよくなってきました。友人のアドバイスに感謝しました。私は本日改めて感じたことは、「されど人生」にするためには、友人の力を借りたほうがよいということでした。人間それぞれ他人が不得手としていることで、自分は得意としていることがある。例えば、私でいえばアルトサックスが吹ける。獅子舞ができる。どじょう掬いもできる。運転免許のない人からしてみると運転免許も持っている。パソコンの操作方法もほぼ分かっている。黒鯛を釣る仕掛けや釣る方法を知っている。日本全国を旅行して観光案内がある程度できる。トライアスロンのアドバイスができる。ラジコンヘリも飛ばせる。資格試験のとり方の指南もできる。財産の安全な運用や保全方法も知っている。等々自分ができて相手が知らないことも多々ある。反対にホームページの作り方はわからない。野菜の作り方や防除の仕方は分からない。家の補修方法や保全方法もよく分からない。他人とのコミュニケーションのとり方がよく分からない。特に異性とは何を話してよいのか皆目見当がつかない。その他分からないことがたくさんあります。そういう時は、自分の分からないことをよく知っている人を早く見つける。そしてその方に謙虚に教えを請う。多少の謝礼を支払ってもよいと思う。すると教わっていくなかで、早く自分のものにすることができる。気づきもある。新たな発見もある。つまり比較的早期に能力を獲得したり、新しい自分に出会うきっかけとなることが多いのだ。こうして新たな自分に変身していくことはとてもうれしいことだ。これは自分一人でできないことはないかもしれないが時間がかかる。いつまでかかっても不可能なこともある。それを詳しい人に教えてもらえれば一挙に解決する。身近で自分を活性化してくれる人はいっぱいおられるのである。それぞれに今まで生きてきた経験から何らかの能力を身につけておられるのだ。それを意識していないだけなのだ。身近なところで宝の山が眠っていることを知ってほしいものである。実は森田理論もそうなのだ。信頼できる人を見つける目を養うことに注力する方がよほど役に立つと思う。
2015.06.22
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森田先生がもし今生きておられたら森田理論をどう変化させておられるだろうか。その前に、今は純粋神経症という人は少なくなっています。うつや人格障害等他の症状を併せ持った人が多くなっています。また治療法として、認知行動療法、薬物療法、内観療法、ピア・カウンセリング等様々な療法が出てきました。それを踏まえて推測してみたいと思います。森田理論は歴史的にみれば、医療としての森田理論から始まり、ピア・カウンセリングとしてセルフヘルプ活動として成長発展してきました。神経症治療、いわゆる医療としての森田療法の力はそんなに大きくはありません。そしてセルフヘルプ活動も、日本ではその役目を終えたかのような衰退ぶりを呈しています。でも時代的には、森田理論の神経質者に対する人間再教育の必要性はますます必要となされていると思います。時代的必要性はますます高まっているのが現状です。森田先生が今生きておられたらどう行動されるか。大変興味が尽きないところです。私は次のように推測しています。医療という森田療法よりも、教育としての森田理論の普及に力を入れられておられるのではないか。日本人で神経質な人は誰でも森田理論学習の必要性を認識している。そうした森田理論の普及活動に力を入れられているのではないか。さらに日本のみならず世界中の神経質に対して、森田理論学習の広報活動をされているのではないか。医療行為よりも神経質者の人間教育に精力を傾けられているのではないか。そう思っているわけです。その際、森田理論での言葉の見直しは考えられたのではないか。森田理論という言葉は使っておられないような気がします。そうかといって森田先生が言っておられた、自然療法、自覚療法とも違う言葉を使っておられるような気がします。純な心、あるがまま、思想の矛盾、事実唯真、精神拮抗作用、唯我独尊等の言葉は一般の人が理解できる言葉に置き換えられるのではないか。森田理論は禅だと言っている人がいます。有名な思想家でもその程度の認識なのです。次に森田理論でまだ弱い部分があります。その理論的補強をされていたと思います。まずは認識の誤りです。森田理論では劣等感的差別観、部分的弱点の絶対視、劣等感的投射、防衛単純化等を学習します。ところが認知療法で指摘しているように、神経質者が陥っている認知の誤りはその他に10項目ぐらいあります。いずれも重要な認識の誤りです。それらを基礎として学習して、最大の認識の誤りである「かくあるべし」につなげられていかれると思われます。そして次に最大の問題です。現在森田理論は理論化されているという人がいますが、私はそうは思いません。森田理論に述べられていることをそれぞれ人が、いろんな立場で自己流に解釈して勝手に伝えているだけです。羅針盤のない船に乗って太平洋を航行しているようなものです。右往左往しているのが現状です。理論というからには進むべき全体の方向性が明確に示されていなければなりません。今森田理論が問われている最大の問題点はここにあります。森田先生は森田理論を確立されました。いわば黎明期であったのです。志半ばで64歳という若さで亡くなられました。今森田先生が生存されていたとすれば、筋の通った理論としての森田理論を確立させておられるはずだと確信しております。でもそれは後世の人に託されたのでしょう。にもかかわらずそういう森田理論を全体から見て理論化に成功している人に出会ったことがありません。木を見て森を見ずという状況です。大変残念なことです。森田を学ぶピア・カウセリングを確立されたH先生の功績は素晴らしいものがありました。でも惜しむらくは森田理論の理論化も進めてほしかった。それが確立して、森田理論を自分のものにするのにかかる時間が、3年以内になっていたならば、セルプヘルプ活動の参加者は3万人を超えていたのではないか。以上個人的な雑感です。ご批判は多々あると思います。あえて投稿してみました。
2015.06.19
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現在メンタルケア心理専門士の学習をしている。森田以外の精神関連知識の習得と整理のためである。その中身は次のようなものです。体の仕組みと身体の病気が精神疾患に影響しているケースを学習する。これは今まで考えもしなかった分野ですが、学習する価値があると思いました。うつや統合失調症、躁うつ病等の精神疾患。そして我々が問題としている神経症の学習。人間の心の発達プロセス、人間関係におけるストレスと不安、傾聴の方法やカウンセリングの知識、医師の行う薬物療法、認知行動療法をはじめとした各種心理療法、国の行う精神衛生の施策と推進内容、職場環境におけるストレス問題。その他いろいろと魅力のある科目が並んでいる。学ぶだけで井の中の蛙状態から抜け出しそうだ。学習してまず資格取得として、メンタルケア心理士資格をとる。その資格がないと心理専門士の受験資格はないという。心理専門士試験は、学科試験、論文試験、面接試験があるという。試験会場も東京、大阪、福岡に行くしかない。学科試験、論文試験の合格者のみ面接試験に進めるらしい。結構手ごわいようだ。これは日本学術会議のメンタルケア学術学会が主催しているらしい。臨床心理士と比べるとマイナーな資格のようだが、私はカウンセリングを職業にする目的ではなく、幅広く心理学を学習するには手ごろで最適な講座である。この学習をしていて気がついたことがある。神経症関連では、不安障害、パニック障害、広場恐怖、特定の恐怖症、社会恐怖、強迫神経症、強迫性障害、心的外傷後ストレス障害、依存症、AC等を学習するようになっている。ところが治療法としては、薬物療法、認知行動療法(曝露療法)が主力である。その他論理療法、交流療法、分析療法、遊戯療法、家族療法、内観療法、ピア・カウンセリング、臨床動作法、サイコドラマ、意味療法、ヘルスカウセリングなどを学習することになっている。内観療法、ピア・カウンセリングを取り入れていることは好感が持てる。でも森田療法については1行の記載もない。これはどういうことなのだろうか。社会的認知度が低いのか、あるいは無視されているのか。そもそも心理療法に森田という個人の名前をつけていること自体、拒否反応があるのかもしれない。入院森田療法、外来森田療法を行っている病院もあるのだし、外国では日本以上に重宝されている国もあるのだから、日本で生まれた精神療法にもう少し光を当ててもらいたいものである。30年も学習してきたものからすると残念至極である。でもおかげで森田をもっともっと広めてゆこうと決意も新たにすることができた。私としては、森田理論学習は、神経質性格者のための生き方を見直す学習であると考えている。学習して体得、実践すればその後の人生を劇的に変化させる起爆剤になるものと考えている。こんなに役に立つものは最近ではめったにないのではないかと思っている。
2015.06.11
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サッカーでも将棋でも、試合や勝負の展開を客観的に全体像を認識する俯瞰性がないとダメだと言います。次の一手をどう打つかということもちろん大事です。でも、それよりも状況を上から眺めて全体像がどうなっているか把握して、大きな方針を定めることです。上空から見て、右へ行くか左へ行くか、どれくらいの速度で進むか。それら大筋の方向性を大づかみする。それが定まって初めて、地上へ降りて、何歩歩いて、どこへ曲がるか。その一歩一歩、部分部分を詳細に検討することができます。ですから、大局観をしっかり定めておくと無駄な指し手が省かれて読みや直感も冴えてきます。これを別な例で説明します。東京ディズニーランドに行った時、みんな施設のご案内を持っています。それを見て行ってみたいアトラクションを探すのです。ある程度の概要を知った上で行動を起こしています。もしそうした案内書を持たずに入館したらどうなるでしょうか。とめどもなく歩き回り戸惑うのではないでしょうか。そして自分にあったアトラクションにたどりつくのに時間がかかると思われます。森田理論学習もこれと一緒だと思います。全体の森田理論の体系を頭に入れて学習すれば、とても効率がよくなります。また、偏った学習が是正されて、全体をまんべんなく学習することができるようになります。私は森田理論の学習にあたっては、基礎編と応用編に分けています。応用編ではまず森田理論の全体像の理解から始めてゆきます。これについてはすでに何回も投稿していますので、検索に「森田理論全体像」と打ちこんで探してみてください。「森田理論全体像」を理解すると、次のようなメリットがあります。1、森田理論学習で神経症が治る過程がよく分かるようになります。2、自分の森田理論学習の理解の進捗状況がよく分かるようになります。3、各自この先どのように学習を深めていったらよいのか、そのポイントを見出すことができるようになります。4、自分の生活の中での実践目標の方向性を見つけ出すことができるようになります。5、森田先生の言われているキーワードの意味がよく分かるようになります。森田理論の基礎編(神経症の成り立ち、性格特徴、感情の法則、行動の原則など)を学習された後には、ぜひ「森田理論全体像」から応用編の学習へ進んでいただきたいと考えています。
2015.06.03
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「森田理論習得3カ年計画」で学習する項目について考えてみました。4月9日投稿の「私の森田理論学習の夢」と合わせてお読みください。オンライン学習で進める場合は、それぞれガイダンス・自己紹介が加わります。オンライン学習はそれぞれ3カ月で終わるものとします。出来ればその後1泊学習会でのまとめと懇親会。さらにその後は掲示板で交流を続けるというのは如何でしょうか。ではまず1年目。森田理論の基礎について学習する。1、 神経症の悩みとは何か2、 森田理論はどんな人に役に立つのか3、 今苦しみの最中にある人の対処方法4、 神経症の成り立ち5、 神経質の性格特徴6、 感情の法則7、 誤った認識や認知について8、 森田理論学習のツールと利用方法9、 医療と学習の連携と違いについて10、 森田理論学習と関連団体の連携続いて2年目。森田理論の真髄についての学習1、 森田理論全体像とはなにか2、 生の欲望の発揮とは3、 欲望と不安の関係4、 「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり5、 事実本位・物事本位の生活態度を養う6、 森田理論のキーワードについての学習7、 森田理論4本柱と相互関係の学習8、 横断的学習と最終まとめ3年目。実際に日常生活に森田を活かす。1、実践力、行動力を身につける2、「無所住心」の態度を身につける3、生活にリズム感を作る4、バランス感覚を身につける5、変化対応力を身につける6、人の思惑より、まず自分の「生の欲望」を優先する7、自分、人、物の価値や能力を最大限に引き出す8、「純な心」から出発する、「感じ」から出発する9、不安に学んで、「生の欲望」との調和を図る10、事実を受け入れ、事実に服従する11、ありのままの自分を磨きあげる12、他人の仕打ち、欠点、ミス、失敗を許す13、立ち直った人の生活を真似てみるということ各種学習シートを活用します。また日記指導なども取り入れるとよいかもしれません。つぎに森田理論を使って実際の日常生活の悩みを考えてみる。例えば次のようなことです。実際には各学習仲間からテーマを出してもらいますのでテーマは変動します。1、怪我や病気で自暴自棄になった人へ2、自分の生まれた境遇を呪っている人へ3、アダルトチルドレンと診断された人へ4、ガンや難病にかかったことのある人へ5、すぐに他人と比べて劣等感にさいなまれる人へ6、すぐに他人に「かくあるべし」を押し付けてしまう人へ7、虫が好かない人とどう付き合うか8、どんな人と結婚したよいか迷っている人へ9、他人の優柔不断な言動に腹が立つ人へ10、対人恐怖で仕事がこわい人へ11、子供のしつけと教育で苦労している人へ12、無気力で自分から動こうとしない子供を抱えている人へ13、いつも子供を甘やかせている人へ14、腹が立ちやすいと思っている人へ15、いつも他人の思惑が気になる人へ16、人から指示、命令されるとやる気がしなくなる人へ17、ワンクリックサギに引っかかってしまった人へ18、森田で原発問題を考える19、森田でTPP参加の是非を考える以上を真剣に取り組めば、3年でかなりのレベルに達することが可能だと思います。その後、各地の学習グループで交流を深めれば森田理論を自分のものにすることができるでしょう。
2015.04.20
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私の森田理論学習の夢について書いてみました。私は今後の人生は森田理論学習の普及に努めてゆきたいと思っています。というのは、神経質性格を持ち生きづらさを抱えた人はとても多いと思っているのです。それは海に魚釣りに行って、魚がたくさん泳いでいる状況に似ています。でも餌が悪いのか、釣り方が悪いのかほとんど魚が釣れないような状態です。餌を変え、釣り方を変えて日々悶々と生活している人に、森田の考え方のエッセンスを伝えたい。そして人生後半の生き方を実りあるものに変えていってほしい。そのためにはどうするか。まずこのブログは5年間は注力していく。あと2年半である。その後はそのあとで考える。読者の人が最初は50人程度だったが、今では300人前後である。今後さらに読者が増えれば森田の認知度も上がるのではないかと考えています。そのためには役に立つ、核心をついた記事にする必要がある。難しいところだが精一杯頑張るしかない。次に学習についてですが、私は「森田理論習得3カ年計画」を提唱している。これは森田初心者に3年間で曲がりなりにも、必要最低限のレベルまでに達してもらいたいと思っている。短期集中型が私のスタンスである。それは家でいえば基礎ができ、柱が立って屋根の骨組みができた状態である。ここまでできれば、あとは壁を塗り、内装、家具などを手掛けることができる。それは学習仲間やご自分で手掛けてほしい。その前段階が私の役目だと思っている。そのためには分かりやすいテキストがいる。そのテキストは3部構成である。まずは森田理論の基礎知識。次に森田理論の応用編。そして森田理論の実践編である。このテキストはもうすでに作っている。直接配布やメール配信してきた。すでに目にして、学習で使われた人の話もよく聞いている。しかし応用編、実践編になると実際に出向いて説明しないと十分に伝わらないような気がしている。今はこの考え方の賛同者、けん引役を発掘しているところである。断っておくがこれは非公式なものです。ただ自由裁量で学習するにはかまわないといわれています。実際の学習方法として、1年目はおおむね森田の基礎知識を学んでいく。これは今までどこの学習会でも行われていることである。2年目の応用編は森田理論全体像をまず学習していく。森田理論には4つの大きな柱がある。それぞれの柱を深耕するとともに、相互の関連性を学習していく。そして最後は森田理論のキーワードで補強していく。3年目は、実際に森田理論を生活に活かしていく手法を学んでいく。私は現在13点あげている。このテキストはどんどん更新していくものと考えている。主力はメール配信である。自分でプリントアウトしてファイルにとじ込む。A4サイズで約160ページである。この系統的学習をどう進めていくのか。今のところ主力はネットを使ったオンライン学習会になると考えている。レクチャーを読んで、参加者や進行役が自由に投稿して学習していく方法である。今のところこの方法がよいと考えている。基礎編で3カ月。応用編で3カ月。実践編で3カ月のオンライン学習会である。それを3年間の内に1年ごとに一つづつ受講するのである。これに代わるものとしてDVDやYou Tubeも可能性があるかもしれない。その方が認知度上がるのであれば検討する価値があると思う。一応3年間で基礎固めをしても、そこが出発点だと思う。実践力を高めるための日記指導の活用。掲示板での会員同士の交流。あるいは年に何回かの合宿学習。そして何よりも後輩たちへの援助活動。森田理論を使って社会のあり方、子育て、人間関係などを改めて考える活動。そして夢としては、森田を学習する人を最低でも3万人は作りたい。1万人になれば加速度的に広まっていくのではないかと考えている。最初は苦しい時期が続くだろう。というのは私のブログはその経過をたどっているからである。でも役に立つ必要なものは必ず大衆に受け入れられる。これを確信している。夢は実現に向かって進まなくてはならない。今は所属しているセルフヘルプグループもあるので単独行動は許されないので自重している。でも夢はいつか実現してみたいとひそかに思っている。
2015.04.09
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斎藤孝先生の話です。私が「明治維新がなぜ起こったのか」1時間の講義をしたとします。授業が終わったあとには、学生たち全員がその内容を話すことができて、自分の意見を話せるようになってもらいたい。漫然と講義を聴くだけではやった意味がないと考えておられます。そのためにはどうするか。先生が話す内容をメモさせます。それから、そのメモを記憶させる時間をとります。次に、ふたり一組になって、その内容を順番に話します。その間、聞き手はノートを見ながらチェックして、言い忘れていることを教えてあげる。それを交互に行う。これはお気に入りのテレビ番組を録画しておいて再生するようなものです。「考える授業」というのは、その基本に、先生の言ったことを理解して、自分の口からもう一度言える(再生できる)力がないといけません。再生できない人は自分で考えることはできないと思います。ここが重要なポイントです。ですから心の健康セミナーに参加する。支部研修会や集談会などで講師から森田の講話を聴く。その場合、メモをとって聴くことは大切です。そして整理して他の人に分かりやすく説明してあげる。聴いた人から説明不足の部分や抜け落ちている部分を教えてもらう。そのためには出来るだけ忠実に再生していく。これは森田で言うと事実をよく観察して、見たことを具体的に話すという事だと思います。先入観や決めつけで持って理解してしまうと、どんどん横道にずれて行ってしまいます。ここが基本になります。次にその中で自分の琴線に触れたものをピックアップしてみる。自分の気づきや発見、感想、理解したこと、新たに考えたことを整理してみる。それを集談会のような相互学習の場で、みんなの前で話してみる。あるいはノートに書き出して整理してみる。それは正しい考えなのか。誤解している部分は無いか。さらに発見できたり、発展できる部分は無いか。斎藤先生は、考えるというのは、手で考えることが大切だといわれています。頭の中で観念的に考えるのではなく、口に出したり紙に書いたりして考えることです。そしてまずは読解できる。人の言っていることが分かる。メモがとれる。自分のコメントができる訓練は、社会に出た時に、自由に考えていけるわけです。これは森田理論学習の進め方の中にぜひ取り入れてみたいものです。(池上彰が聞いてみた「育てる人」からもらった6つのヒント 帝国書院参照)
2015.04.03
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森田理論を早く自分のものにするには、将来森田理論をものにした時の明るいイメージを持つことが大切だと思います。例えば料理を作る時に、最終的にどんな料理ができるのか分からないのではもう一つ身が入りません。でも、先にこんな料理ができますよという、実際に出来上がった料理を見せる。あるいは出来上がった動画や写真などを見せる。するとおいしそうだ。自分も作ってみたい。どうしたらあんなおいしそうな料理ができるんだろう。是非作り方を教えてください。食材はなんだろう。下ごしらえは。調味料は。匙加減は。煮たり焼いたりする時間は。どういう順序で作るんだろうという気持ちになります。最初にイメージを持てたので、やる気や意欲が高まったのです。最初は先生に教わったり、レシピを見たりしてその通りに作ります。順序よく作れば多分同じようなものができるでしょう。出来上がればちょっとした喜びがあります。おいしければ家族が喜んでくれます。それを見て自分もうれしくなります。弾みがついてまた新たな料理に挑戦したい気持ちも湧いてきます。1回経験すればおおよそのことが分かります。それからは自分なりに創意工夫して、食材を変えたり、追加したり、作り方を変更したりいろいろとアレンジすることも可能になります。ここで強調したいことは、最初に最終段階のおいしそうな料理のイメージを持つことの大切さです。それがすべての始まりでした。これを森田に置き換えてみましょう。神経症に陥った時は、症状に振り回されて、なすべきことに手がつかない。心がいつもびくびくおどおどして生きるのがつらい。人間関係がうまくゆかない。八方塞がりの状況です。そういう苦しい状態で集談会に参加してみる。すると症状を持ちながらも、仕事や勉強、家事、育児、介護などに目を向けて日々生活している人がいる。毎日の生活の中で小さな楽しみを見つけて、生活を楽しんでいる人がいる。趣味ややりたい目標に挑戦している人がいる。森田の達人と呼ばれている人がいる。森田理論を生涯学習として深めている人がいる。そういう人を目の当たりにします。つまり自分が神経症を克服して活き活きと生活している最終的なイメージを持つことができます。刺激を受けて、自分もそうなりたいという目標やイメージを持つこと。これがすべての始まりではないでしょうか。目標やよいイメージが湧きおこらないのに森田学習をしなさいといわれても、意欲ややる気は起きてきません。途中で挫折する可能性も高くなります。そういう意味では信頼できる先輩を身近なところで早く見つけるということが大切です。最近の集談会は参加者も少なくなり、近くの集談会ではそういう人が見つからないかもしれません。そういう時は年に何回かは足を延ばして他の集談会に出かける。あるいは1泊2日の支部研修会、その他学習会に参加してみる。心の健康セミナーに出かけてみる。等に取り組んでゆけば間違いなく発掘できるでしょう。さらに先輩たちが森田理論基礎知識、さらに森田理論の全体像に沿って理論の解説をしてくれれば3年でほぼ森田は身につけることでできるものと確信しております。
2015.04.01
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私の最近の森田理論の学習について書いてみたい。現在はブログの更新そのものが森田理論学習になっている。3年目に入ったところだが、毎日のように更新している。現在は50ぐらいの投稿候補の原稿を持っている。この活動で森田理論はかなり深耕できたように感じている。最低5年を目標にしているのだが、まだ半分も経っていない。という事は5年経過したときどんな自分に変化しているのか今からとても楽しみである。かなり森田理論学習が深まっていくことは予想できる。これは今までのありきたりの森田理論学習では叶えられなかった夢が実現に向かって歩きはじめているような感じがしている。森田の恩恵を受けていない人にと思って始めた活動ではあったが、結局自分が一番良い影響を受けたのである。本当は、投稿内容について集談会のように意見交換すればさらに深耕できるのにとつい思ってしまう。どうして毎日いろいろと投稿できるのかという質問が時々ある。それは森田の事を頭において日々生活していることが大きいと思う。世の中で起きる事件、自分の身の回りで起きる出来事などを森田先生が生きておられたらどう考えられるだろうか。いつも森田の視点で見たり考えたりする習慣が出来上がっている。生活の発見誌、森田関係図書を読んで森田全体像のどこのところを説明されているのであろうか。あるいは森田以外の図書を読んで森田理論との関連記事はないだろうかと常にリサーチしている。現在の投稿記事の7割から8割は森田以外の図書からヒントを得ている。先人や立場の違う人の話は森田理論を考えるヒントの宝庫である。森田理論から離れて、森田理論を見つめているというところである。客観的立場に立って、宇宙から地球を見つめているようなものである。図書は町と市の図書館から借りている。2週間借りられる。それぞれ5冊ずつだから計10冊は常時手元にある。本はより好みしない。借りる本は手あたりしだい。5分ぐらいで決めている。一応ジャンルは心理、哲学、教育、医療、人生観,伝記、エッセイ、脳科学、精神衛生等においている。県立図書館は10冊貸してくれるのだが現在利用していない。新品の本を買う事は全くない。気に入った本はアマゾンの中古本を買っている。さらにブックオフで格安の本を物色している。原則として一日1冊の本を読んでいる。参考にならない本、内容のない本は途中でもすぐに中断する。土日、祝日は全く読まない。だいたい2時間から4時間で読んでいる。速読である。森田と関係あるなと思ったところは付箋を付けている。それを後でページ数と内容を簡単に抜き書きしている。これは必ずおこなっている。そして森田理論を活用して頭の中で整理したり考えている。最後に投稿原稿を書いている。投稿原稿の作成は朝7時から7時50分までと決めている。仕事があるからである。投稿するのは原則として、前日作った原稿を翌日の朝6時40分から7時の間と決めている。日中は仕事中心でブログはやらない。仕事から帰ってからコメント等がないか見ている。ブログ自体に関わっている時間は毎日1時間30分というところです。後は仕事とネタ集めをしているというところです。今はあまり熱くならないようにセーブしながら継続することを心がけている。
2015.03.21
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森田先生の森田療法と我々の取り組んでいる森田理論学習の違いについて考えてみました。森田先生は自宅を開放して神経症の人々の治療にあたられていました。診察費も入院費も高い時代でした。薬物はほとんど使われていません。自然療法とか自覚療法といわれていました。基本的には実際の日常生活の様々な場面のなかで行われていました。入院生には実践や実行のポイントを細かく、具体的に指導されていました。妥協という事はなく、厳しいものでした。一人の人に指導されるときは、他の人もその話を聞いているというようなやり方でした。内容としては、行動・実践によってそれぞれに感じを発生させて、感じを高めて、やる気や意欲を持たせる。創意工夫が次から次へと出てくるようになり、観念の世界から行動実践の世界にきりかわってくるともう退院です。その中で「かくあるべし」的な思考方法を、事実に基づいた事実本位の考え方も指導をされていますが、入院生にどの程度認知されていたのかは疑問だと思われます。とにかく神経症で生活が通常に行われていない状態を脱出するというのが目的でした。大正8年から始められた黎明期の森田療法はそういう方法をとられました。その後昭和4年から形外会が始まります。形外会では理論的解説がなされております。入院経験者は形外会や森田先生の書物、雑誌「神経質」等の学習によってしだいに理論的にも神経質者の本来の生き方を確立していったものと思われます。ですから実践・実行による体得が先で、森田理論は後で補強されていったのです。後を継がれた水谷啓二氏は啓心寮で同様の指導をされていました。現在では入院森田療法はほとんど行われていません。あっても薬物療法等と併用されています。そういう状況の中で、我々は現在森田理論学習をおこなっています。学習が先にあって行動・実践はその後に体験するという方法をとっています。この点黎明期の森田へのアプローチとは順序が逆になっています。これはいい悪いとかいう問題ではありません。指導者のいない状態ではそれしか方法が無いのです。でも森田理論の学習から入るというのは気をつけないといけません。我々は元々観念的、理知的です。観念で納得しないことには行動・実践に移れません。学習から森田にアプローチするという事はますますその傾向を助長することになってしまいます。そして森田を観念で理解することが目的になってしまいます。そこで留まってしまうと行動・実践がすっぽり抜け落ちてしまうのです。そういう状況極めて危険な兆候です。観念の空回りが起こります。森田理論を忠実に理解しようとして、森田理論をこねまわすようになります。思想の矛盾が起こり、葛藤や苦悩が発生します。むしろ森田理論を学習しない方がよかったという状況に陥ります。私は理論と実践は車の両輪だと思います。小さい車輪の時は両方とも小さい車輪でよいのです。すると前に進めます。バランスが大事なのです。ところが実践の車輪が小さくて、理論の車輪がとてつもなく大きいということになると大変です。前に進もうとすると実践の車輪を支点にして、理論の車輪がその周りをたえず空回りするということになります。学習するにあたってもう一つ付け加えることがあります。理論は筋が通っているから理論なのです。手あたりしだいに森田先生のキーワードを学習して納得するというのは、筋が通っていません。実際には森田理論の学習にはあまり役立たないと思います。ですから森田理論の基礎的学習が終わったあとは、森田理論の全体像(大きな4つの柱)をきちんと把握して、その深化と相互の関係を学習することがポイントとなると思います。このプログで声を大にして説明しているとおりです。さらに、それがある程度の段階に達すると、視線は理論から離れて、日常生活、仕事、家事、育児等に向いてこないといけません。生活への応用なくして森田理論学習は考えられません。
2015.03.19
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論語の中に「学ぶ」ということに関して次のように書いてある。「学びて思わざれば則ちくらく、思いて学ばざれば則ちあやうし」学ぶだけで、それを自分の身に即して深く考えなければ、漠然としてとりとめのないだけのこととなり、その知識は身につかない。さりとて、いくら自分があれこれと考え、思いつめたりしていても、学ぶことがなければ危うい。思い、学び、そして再び考え学ぶ。それが真に「学ぶ」ことなのである。(老いを生き抜く 森本哲郎 NTT出版 39ページ引用)なかなかうまいこと言うものである。本を読んだり、偉い講師の話を聞いて感心するだけでは「学ぶ」ということではない。その話を自分なりに考え、整理して消化しないと身につかないと言っているのである。森田先生は「修養」という事で次のように言っている。「修養とは、ともかくも実行である。私に接近し、私の気あいに触れねばならぬ。この感化を受けることを薫陶と言います。この気合いで神経症が治るのであります。」(森田正馬全集5巻191ページ)理屈を言う前に森田先生の言われるように行動・実践しなさいと言っておられます。また「修養という事は、実行の復習であって、思想の規定ではない。撃剣のようなもので考えると、最も分かりやすい。これは相手の隙間に打ち込み、受け止めるには、こうするとか思想判断する余地は少しもない。打つもはずすも、そこに間一髪もない。いわゆる電光石火の機がそれであります。つまり思想を排し、直覚と実行とから出発するという事を強調したい。」(同5巻70ページ)ここで言う思想というのは理屈、観念優先で頭で考えることだと思います。森田の修養とは、理屈や観念優先ではない。実行が伴わないといけない。行動・実践によって精神の働きや動きを体得することを言うのである。つまり森田理論を学ぶという事とそれを生活の中で応用して検証してみる。そして体得していく。この2つがセットにならないと森田理論学習はほとんど意味をなさない。そのためにわざわざ「修養」という難解な言葉を使っている。森田を深めておられる、ある方は「学修」という言葉を使われる。こちらの方が分かりやすいかなと感じている。そのものずばり、森田理論の学習と行動・実践による体得を意味しているのである。でもこの言葉を聞いた人が、そんな造語を勝手に作って学習会の場に持ち込んでは困ると言われた事があるそうである。そういう発言をされた方は、言葉にとらわれてその先の学習に進むことができないのだろうと思う。森田先生は、言葉は符牒と言われている。言葉はコミュニケーションをとるには便利なものである。でも言葉は反面いい加減なものである。その証拠に人間はその言葉を使って平気でうそをつく。心にもないことを平気で口にする。そういう面が多いという事を認識すれば、言葉は100%信用できない。おおよその見当をつけるぐらいにとどめておいた方がよい。言葉はその後事実を検証することによって真実となる。だから言葉そのものにとらわれるよりは、その奥に隠されている真意を探る方が、よほど意味があると思うのである。
2015.03.08
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森田理論学習を宗教のように見立てて、「森田教」というのは違うような気がする。森田を宗教のように見なすと盲従することになるからである。盲従は駄目である。今日はその説明をしてみたい。実は2013年2月9日の投稿で「柔順と盲従」の違いについて書いた。20歳の水谷先生が入院中の時、森田先生が、「今ここで三べん回って、わしにおじぎをして見給え」といわれた。女中さんなどみんなが見ている前で、犬のような真似をするのは、いくらなんでも恥ずかしい。しばらくためらったが、私は思い切って、不格好にもぐるぐると三べん回って、先生の前に頭を下げた。森田先生は苦笑いしていわれた。「それは柔順ではなくて、盲従というものだ。君は、わしが言ったことを取り違えている。柔順な人は、自分の心に対しても柔順なものだ。君はいま、こんなことをするのは恥ずかしい、という気持ちが起こっただろう。それが君の正直な気持ちだ。そして、その正直な気持ちを押しつぶすようにして、ええい、やっつけろ、という気でぐるぐるまわりをしただろう。」まったく図星で、返す言葉もない。「こんな場合、ほんとうに柔順な人であったら、困ってもじもじするか、あるいはそいつはどうもとかいって、頭をかくだろう。いくら柔順に実行するといっても、ばかげきったことで、先生の言葉に従う必要はない。」つまり柔順というのは、自分の気持ちを前面に打ち出すということである。盲従というのは、意に沿わないのを押し殺して相手の意向に合わせてしまう事です。こんな場合は押し殺す必要はないのです。森田先生は森田理論の学習はいくら疑いを持っていてもよいと言われています。その上で、森田先生は「神経質問答」の194ページでこうも述べておられます。「こんなことをして治るとは不思議なことだ、どうも納得がいかない」と思いながらも、もくもくとその通りに実行するのを「素直」とか「柔順」とかいいます。「素直」とは、自分にはよく分からないながらも、自分の信頼する人の教えるままに、仮に「そうかなあ」と定めて、ためしにやってみることであります。少しも難しいことではない。ところが、不柔順な人は「わからない」と断言して、少しも実行しようとしません。これが横着であり、強情であります。この素直と強情の区別が、治ると治らないとの分かれ道である。」ただ疑いながら、理解できぬままに、一定日数、森田療法を実行して試みればいいのである。反抗的で、もっと自分の病気を増悪させて、先生に見せつけてやろうと思ってもよい。どんなに反抗気分でもよい。真剣勝負のようにならないといけない。不得要領でノラクラしているのが一番悪いとも言われています。その点生活の発見会は入会も退会も自由である。その後森田学習を続けるかどうかを判断すればよい。1年でも真剣に学習すれば容易に判断がつくと思う。
2015.02.23
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形外会で松本さんが森田先生に次のように質問した。(5巻112ページ)「先生が絶えずハラハラした心持で生活していれば神経症がよくなるといわれたが、家でゆっくりしているときはそんな必要はないのではないか」また川上さんという方は次のように質問した。(5巻328ページ)「先生はいろいろと気をもんでハラハラしている時に、仕事がよくできると言われましたが、それは神経質ならばよいでしょうが、一般の人は、仕事に注意を集中して、他のことを考えないときに、最もできるのではないか。それも本当であって一概に言う事はできないと思う」お二人は森田先生のお話の疑問点を素直に発言しているようにも思える。でも学習にあたってはよく考えてみることが必要である。森田先生はここで無所住心の話をされている。それも通り一遍の話ではなく様々なたとえ話をされる。具体的な話である。その方がみんなが理解してくれるのではないかという気持ちである。中には適切なたとえでない話もあるだろう。それにいちいち引っかかって議論を吹っ掛けているのは如何なものか。そんなたとえ話の中で心の琴線に触れる人が中にはいるのだと思う。頓悟と言うのはそういうなんでもない話の中に隠れている事がある。こうした学習態度は厳に慎まないといけないと思う。二人の質問は森田先生の上げ足をとっているとしか思えない。すると森田先生は話す気力が多少なりともそがれてしまう。せっかくの問題提起を引っ込めてしまわれる。他の人も森田理論のポイントを考える機会を失われていい迷惑である。こういう人は反論することによって自己の存在をみんなに示したいのだろうか。あるいは少しでも自分の感覚とマッチしないものは完全に排除しないと落ち着かないのだろうか。少しの違和感も受け入れられないのかもしれない。とらわれの程度がかなり強いと見受けられる。質問した人にとっては、森田学習からどんどん離れて行ってしまう。言葉にとらわれて、森田を生活に応用することなどは考えも及ばないということになる。そういう人は「かくあるべし」にとらわれて、そもそも学習をするという姿勢ではなく、形外会をかき乱そうとしているのかもしれない。本人にはその意識がなくても結果的にそうなっている。せめて違和感を感じても、「その話では私はついていけない。でもそれを元に学習している人もいるのだからおとなしくしておこう」そういう気持ちを持って学習会には参加してほしい。こういう例は集談会でもよくある。上げ足をとる。反論のための議論を吹っ掛けてくる人である。例えばバランス、精神拮抗作用の説明のために大輔花子の夫婦漫才の掛け合いの話をした。するとある人は、漫才師は演技でやっているのであって、夫婦のバランスの例として持ち出すのはふさわしくない等という。話が前に進まなくなってしまった。私はもう話を進める気力がなくなってしまった。この例を持ち出すことによって、森田先生はみんなに何を勉強してもらいたいと思っているのだろう。森田先生は何を考えさせようとしているのだろう。この問題に対して森田先生だったらどう考えられるだろうか。絶えず森田のキーワードやポイントを確認しながら学習に取り組まないと、いつまでたっても成長は望めない。
2015.02.20
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森田理論を学習していると、さっき言ったことと反対のことではないのかと首をかしげたくなることがよくあります。たとえば、森田先生はマキ割りの話で、割ろうとするマキの中心部に神経を「集中」しなければ、マキは割れないという。その時意識や注意が自分の心身の状態、たとえば斧の持ち方はこの角度でよいのか、あるいは自分のマキ割りを見て周りの人はどう思っているのだろうかなどに向けてはならないという。ボールを投げるとき、ボールを受けるときも気持ちが内省化してはうまくゆかない。意識の外向化が起きないとうまくいかない。つまり今取り組んでいることに神経を集中しなさい。物そのものになりきって一心不乱になりなさい。と言われています。しかしもう一方で、「集中」ということでは、一つのことに注意を向けることではない。とらわれるときは、次から次へと、とらわれていくのがよいといわれています。たとえば、森田先生が講義をしている。すると講義内容が気になる。聴講している人の態度が気になる。机の上のものが気になる。野外の物音が気になる。同時にいくつものことを気にしながら講義をしている。このようにいろんなことが気にかかり注意が分散している状態が集中していることである。とも言われています。森田理論を学習している人はいったいどちらが、「集中すること」の説明だろうかと混乱されるかもしれません。この混乱に陥らないためには、森田先生の言葉そのものを理解するという学習方法を改めることが重要です。そして森田先生はこの話によって何を伝えたいのだろうと発想してゆけばよいのです。先ほどのまき割りの話では森田先生は何を伝えたいのか。人から言われたことだけを仕方なくやるという気持ちではいけない。それはお使い根性というものであるといわれています。なぜいけないのかというと、そこには感じ、気づき、発見、アイデア、感じの高まりが全く発生しないからです。森田先生は、森田の修養の出発点は、物事に対する「感じ」を高めていくことであるといわれています。そのためには「物そのものになる」ということが欠かせません。これは森田理論の核心に迫るところです。次に講義の時の話ですが、これは「無所住心」の説明をされています。「無所住心」とは、全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねく行き渡っている状態のことを言います。この状態にあって我々は、変化に即座に対応して、臨機応変、適切な行動でこれに対応することが出来るのである。この態度で生活していると、一つのことにとらわれるということがありません。新しい行動・実践によって、新しい感情が次から次へと沸き起こるようになり、一つの不安に固執するということがなくなります。この例のように、森田理論学習は言葉にとらわれると、訳が分からなくなります。もう一歩踏み込んで森田先生はこの話で何を言いたいのだろうかと考えてみてください。そうすると目の前に豊かな世界が広がってくるはずです。
2014.11.22
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森田理論学習の目的は何か。神経症を治すためだという人が多いと思う。でもそれは全体からみると20パーセントぐらいだと思う。本当の目的は、神経質性格の持ち主が、性格を活かして確固たる人生観を確立することにある。森田理論学習で症状が治ったというのは、人生観が確立できたために、副次的によくなっていたということである。森田でいう人生観の確立のためには何を学ぶ必要があるのか。これに対する答えは2つある。たった2つである。その1。例外も一部あるが基本的には、事実、現実、現状に対して反抗したりやりくりしないでそのまま受け入れる。服従する。そうした態度で生活できるようになる。その2。神経質者はもともと強い生の欲望を持っている。生の欲望を追い求めていく。常に運命を切り開いて、前進していく生活態度を学ぶ。森田理論をよく考えてみるとこれだけである。実にシンプルな理論である。でもシンプルイズベストなのである。本当にそれだけでいいのかと思われる人がいるかもしれない。そういう人は森田のキーワードを思い出してみてもらいたい。すべてこの二つのうちのどちらかの説明なのである。その1にあたるもの。事実唯真、あるがまま、自然に服従する、「かくあるべし」の打破、思想の矛盾、気分本位、理知本位、事実本位、物事本位、純な心、変化への対応。すべて1の説明である。中身はほぼ同じことを説明している。その2にあたるもの。生の欲望の発揮、物そのものになる、恐怖突入、不安常住、精神交互作用の打破、日常茶飯事を丁寧に、変化に対応しリズム感を作る、努力即幸福、無所住心、物の性を尽くす、唯我独尊、感じから出発する、境遇に従順になる、好奇心の発揮。そして生の欲望が暴走しないために精神拮抗作用、不即不離、両面観という説明がある。これらは全部2の説明である。つまり森田理論は1と2を理解してもらうために、あの手この手を使って説明しているのである。ですから学習にあたっては、まず森田理論学習の目的をはっきりさせることが大切である。その上で各論ともいうべき森田のキーワードを学習していくことである。いきなり各論に入ると、言葉に振り回されるようになる。そして自分の日々の生活とは無関係なところで学習が深まっていくのである。生活に影響を与えない森田理論学習はほとんど意味をなさない。
2014.10.25
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森田理論学習は森田先生の言葉にそって忠実に理解しようという方向が強い。森田原著読書会などはその表れであると思う。確かに森田先生の言われたことはなるほどとうなずくことは多い。でも森田先生が森田理論を確立されたといわれてから100年目を迎えようとしている。もうそろそろ、それらを基礎としながら、森田理論を大きく発展させても許してもらえるのではないかと思っていますが如何なものでしょうか。本来森田理論学習の目的は、神経質者の本来の生き方を確立するためのものである。その方面で役に立つものはどんどん取り入れてみてもいいのではないかと思う。私の考えでは、現在のところ内観療法、認知行動療法、親業の考え方は、森田理論をさらに発展させるためには大変に役に立つと思う。内観療法は神経質者の自己中心性の打破に役に立つ。私は内観療法を1日しか受けていないが、7日間の集中内観を受けた人に聞くと自然と「感謝の感情」が湧き出てくるそうである。過去を思い出して自己洞察を深めていく方法である。自然と相手を思いやることが出来るようになり、自己中心的な言動が収まってくるという。神経症の第一段階の治るという意味では精神交互作用の打破が必須である。その際自己内省力が少し弱まり、他人への思いやりがあると、不安を抱えながら「なすべきをなす」に手を付けやすい。認知行動療法は、何といっても10項目に及ぶ認知の誤りを詳しく紹介してくれていることである。これらは神経症に悩む人にとって該当することばかりである。森田理論は「かくあるべし」という認識の誤りを詳しく学習する。それはもちろん大切であるが、その前に認知行動療法でいう認知の誤りもよく学習して自覚を深めていくことが大切であると思う。親業は「能動的な聞き方」「私メッセージの発信」「勝負なし法」の3つが大きな柱である。森田理論でいう「受容と共感」を持った聞き方、純な心、「かくあるべし」の打破、事実本位、精神拮抗作用などの実際の「生活面での応用」ということを具体的に詳しく教えてくれている。きわめて実践的な考え方である。森田理論を基礎において、親業の手法を応用すれば理論と実践が結びついて大きな成果に結びつくと思う。以上の点については、私のブログの中で取り上げているので、興味のある方は検索のところにキーワードを打ち込んで検討してみていただきたい。理論のための森田理論学習から、応用・実践のための森田理論への飛躍のためにはぜひとも取り入れていく必要があると思うのである。
2014.10.22
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ポイント解説 応用編6 森田理論のキーワード今まで森田理論の全体像と、その中心的考え方の4本柱とその関連性を学習してきました。次は仕上げです。家でいえば骨組ができた後に、壁を塗るようなものです。1、 感じを高める。手をだすことが億劫だと思っても、イヤイヤながら仕方なく手をだしてみる。目の前のことに手をだしてみる。部屋の掃除、風呂の掃除、靴磨きなど。そこに何かの感情が生まれる。しばらく経つとどんな感情も流れてゆく。我々はすでに起きてしまった感情はやりくりすることはできませんが、手をつけることによって新しい感情を作り出すことができます。新しい感情が次から次へと生まれてくるようになれば、一つのことにだけこだわってはおられなくなります。2、無所住心我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって、注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。2、 純な心「純な心」は、混じりけのない純粋な心のことではありません。物に接して最初に浮かんだ感情、直感、森田では初一念などと言います。3、あるがまま、事実唯真、自然に服従し、境遇に柔順になる生き方森田的な生き方を一言でいうと、「自然に服従し、境遇に柔順なれ」ということになります。別の言葉に言い直すと「事実唯真」「あるがまま」です。同じことです。森田では核心的な大事な考え方です。4、変化に対応して自然の流れに乗る生き方。森田理論は、自然の変化に対して人間のほうから、自然の変化に合わせていくという考え方です。自然は常に変化流動している。その変化に合わせていくのである。これを推し進めていくと、変化を予測して、仮説をたててあらかじめ準備をする。もし仮説が間違っていたら、自分の行動を修正していく。これが自然と人間のかかわり方です。もっと言えばこれが人間と人間のかかわり方の基本となります。5、精神拮抗作用、不即不離精神現象は常にある意向が起これば、必ずこれに対抗する反対の観念が起こって、我々の意志の行動が抑制されている。対立する純な心を、理知でもって調整することが大事である。人間関係はその考え方の延長である不即不離を応用するとよい。6、気分本位、理知本位、事実本位不安や恐怖から逃げてしまうのを気分本位といいます。不安や恐怖を無くしてから行動しようとする態度は理知本位といいます。いやな気分のまま必要に応じて手を出していくことを事実本位といいます。7、唯我独尊、物の性を尽くす我々が自分の本生を認めて、これを礼賛し、ますますこれを発揮し、どこまでもこれを向上させていこうとするのを唯我独尊といいます。森田理論は今持っているもの、いわゆる存在価値を高めていく考え方です。今現在の状態を自覚して、そこを土台にしています。そこからどれだけステップアップしてゆけたか。それに磨きをかけて前進していくという考え方です。努力していくその過程が生きがいであるという考え方です。8、努力即幸福生きとし生けるものは、アメーバ―から人間まで、営々刻々とその本能にそなわった最善の方法で機能を発揮している。アメーバ―が動き、白ネズミが篭のなかで車を回す。その機能の発揮を人間にたとえて、「努力」という。機能を発揮することそのものが[幸福]である。努力はすなわち幸福であり、同時に人生の目的でもある。人生の手段も努力であり、人生の実際も努力である。実際を離れた観念のやりくりでは幸福はつくれない。
2014.09.25
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ポイント解説 応用編5 事実本位・物事本位の生活態度を養う神経症を克服するためには、認識の誤りを自覚することが大切です。特に「かくあるべし」を可能な限り小さくすることだと思います。「かくあるべし」を小さくすることができれば、不安、恐怖、不快感は小さくなってきます。「かくあるべし」がなくなり現実・事実中心の生活になると、不安、恐怖、不快感は「生の欲望」の制御機能として正常に役割を果たしてくるものと思います。そのためにどのようなことに取り組んでゆけばよいのか。1、前提として、事実にはコントロールできるものとできないものがある。できるものはコントロールしてもよいが、ほとんどは事実を受け入れ、服従するものが多いということをしっかり認識する。2、次に事実から目をそむけないでよく見る。観察する。事実はできるだけ具体的に、詳細に、赤裸々に取り扱う。3、事実は価値判断しない。事実を事実としてそのままに認識する。安易に実行しない。4、事実は悲観的、否定的な面ばかりでなく、楽観的、肯定的な面も見る。必ず両面観で見るようにする。5、事実を4つに分類してみる。 イ、不安や恐怖などの感情 ロ、自分の素質、容姿、性格、自分の起こしたミスや失敗 ハ、他人の仕打ち、他人の素質、容姿、性格、他人の起こしたミスや失敗 ニ、自然災害、経済危機、紛争など理不尽な事実6、常に直感、第一の感じ、初一念から出発する。森田理論でいう純な心の体得実践。7、私メッセージの体得と実践。
2014.09.24
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ポイント解説 応用編4 「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり森田では認識の誤りの最たるものが「かくあるべし」的思考です。長い間森田学習をグループで学んできて、目立った症状はないものの、なにかすっきりしない、マイナス思考から抜け切れていない。自分としては失敗と思われることがあると、そのたびにとことん落ち込み、生活も停滞している人は、「かくあるべし」という認識の誤りが大きく影響しています。これは「なすべきをなす」という行動だけでは解消することができません。「かくあるべし」は、○○してはいけない。○○しなければならないという思考パターンに振り回されている人です。現実、現状、事実を無視して、観念の世界を事実と見なして行動したり、理想を自分や他人に強引に押し付けることです。「かくあるべし」と「現実、事実」が食い違うことによって大きな葛藤が生まれてきます。その葛藤は激しく、かなり手ごわいものです。建設的な悩みなどではありません。それはいつまでも我々に付きまとい、どこまでも続く「苦悩」といったものです。このことを「思想の矛盾」と言います。「思想の矛盾」で苦しむようになった人は、際立った共通の特徴があります。一人の自分の中に二人の自分をかかえていること。すべてを自分のコントロール下におきたいということ。目的・目標至上主義。完全主義、理想主義などです。この単元では、「かくあるべし」はどうして発生するのか。どういう特徴があるのか。いかに神経症の発症に絡んでいるのかについて学んでゆきます。
2014.09.23
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ポイント解説 応用編3 欲望と不安の関係不安、恐怖、不快な感情は欲望の裏返しです。欲望があるからこそ出てくるものです。欲望のない人は不安もありません。神経質性格を持っている人は、もともと強い欲望を持っていますから、当然強い不安も起きるのです。本来は不安は、自分の本当の欲望は何かを探る手がかりにするものとして沸き起こっています。だから不安にとらわれるのではなく、不安を活用することが大切です。自分の欲望が見えてきたら、生の欲望の発揮に向かって邁進したらよいのです。その際、不安は黄色信号を点滅させていますので、これに従って、慎重に行動・実践していくことです。これは欲望と不安の調和を図り、バランスをとるということです。不安は私たちに様々なことを教えてくれています。1、 本来不安は、欲望を発揮する時に障害物として目の前に立ちはだかってきたものです。不安と格闘することに力を入れると、生の欲望の発揮はおろそかになります。それにもかかわらず挑み続けるということは、精神交互作用により、神経症として固着してしまうのです。これは本末転倒です。このことを手段の自己目的化と言います。2、 認識の誤り、特に「かくあるべし」という認識の誤りを抱えていると、不安はとてつもなく大きくて強くなります。考え方の誤りや偏りを、森田理論で学習し、自覚を深めていくことが大事になってきます。3、 不安には、積極的に手を出して行動しなければならないものと、安易に手を出して動いてはいけないものがあります。その見極めが必要です。その割合は松下幸之助によると1対9といわれています。「不安は安心のための用心である」という言葉があります。将来に展望が開ける事と、人のためになることは積極的に行動しなければなりません。それ以外のことは、不安をよく観察して、正しく認識すること。そして最終的には、不安を受け入れる、不安に服従する態度の養成が必要です。事実本位・物事本位の生活態度の養成のことです。
2014.09.22
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ポイント解説 応用編2 生の欲望の発揮生の欲望の発揮は森田理論の土台にあたります。これを抜きにして森田理論は成り立ちません。神経質者の生の欲望は強く、その範囲は幅広いものがあります。1、 生存や安全の欲求 生命を維持したい、安全を確保したい。子孫を残したいという欲求です。生きるために必要な食欲、性欲、睡眠欲、排泄欲などはすべてこれに入ります。この欲求はいちばん基本的なもので、以下の4つの欲求は、これが満たされてはじめて生じてくるものです。2、 社会的所属の欲求 温かい人間関係を築きたい欲求です。愛し、愛されたいという欲求です。家族の中にいたり、友人と話したりしていると気分がよいのは、この欲求が満たされているからです。これが満たされないと対人恐怖症などの原因となります。3、 向上発展の欲求 自分の能力を高めたいとか、人に認められたいといった欲求です。勉強をしたり、体を鍛えたり、地位の向上を望むのはこの欲求を満たすためです。4、 楽しみたいという欲求 経済的に豊かになると娯楽や趣味、レジャー、旅行、スポーツなどを楽しみたいという欲求を追及するようになります。5、 自由を求める欲求 自分の意志で行動したいという欲求です。人は束縛されることを嫌います。森田先生は、「人間は欲の深いものであり、中でも神経質は欲の上に欲の皮が突っ張っている」といわれています。また「欲のない人は哀れである」といっています。神経症に陥るような人は、この「生の欲望」のすべてにわたって、もともと強い人なのです。森田理論学習は、「生の欲望の発揮」に向けて精進し努力することを目指しています。この単元では、凡事徹底、物そのものになりきる、無所住心、好奇心の発揮、物の性を尽くす、唯我独尊、変化への対応、運命を切り開くなどの学習項目があります。
2014.09.21
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ポイント解説 応用編1 森田理論の全体像全体の森田理論の体系を頭に入れて学習すれば、とても効率がよくなります。また、偏った学習が是正されて、全体をまんべんなく学習することができるようになります。応用編ではまず森田理論の全体像の理解から始めてゆきます。森田理論全体像という略図があります。(テキストをお持ちの方はご覧ください。エクセルで作成しています。残念ながらブログでは表示できません。作り方は2013年3月30日、31日に掲載しています)森田理論は大きな柱が4つあります。1、生の欲望の発揮、2、不安の役割と苦悩の発生、3、「かくあるべし」的思考と現実との葛藤、4、事実本位・物事本位の生活態度を養うことの4つです。これらは矢印で示しているように、お互いに深い関連性を持っています。4つの柱をそれぞれに深めてゆくことと、相互の関係を理解してゆくことが大事になってきます。まず1、の「生の欲望の発揮」は森田理論の土台となります。生の欲望に基づいて、今現在のなすべきこと、やりたいことに取り組んでいくことをいいます。生の欲望の発揮にあたっては、必ず不安や恐怖が発生します。これは2の部分です。不安や恐怖は本来なくてはならないものです。邪魔者扱いすると、精神交互作用によって、最後には神経症として固着してきます。神経症に陥ってもがき苦しんでいる人は、まずこの精神交互作用を断ち切ることが大切です。次に3の「かくあるべし」は、○○してはいけない、○○しなければいけない等であらわされるものです。「かくあるべし」が強い人は、理想と現実のギャツブを抱えて苦しんでいる人です。この傾向の強い人は、独特な特徴を持っています。完全主義、理想主義などに代表されるものです。大きな認識の誤りがあります。「かくあるべし」が強い人は、「思想の矛盾」で苦しむことになります。その葛藤や苦しみはとても強いものになります。その結果、神経症を引き起こしてしまうことになります。「かくあるべし」が小さくなると、神経症の苦しみや葛藤は小さくなってきます。そのためには、現状、現実、事実を素直に認めて受け入れるという生活態度を作り上げることが大切になります。森田理論でいう「事実本位、物事本位」の態度の養成です。これが4です。4の態度を養成していくためには、まず事実をよく観察する。次に事実を正しく認識して、安易に対策を打たない。そして最終的には事実を受け入れ、事実に服従するということになります。
2014.09.20
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以前私は、森田理論の学習テキスト「新版 これで納得!実践的森田理論学習」と「すぐに役立つ!実践的森田理論活用法」を作りました。これは多くの集談会で森田理論学習がマンネリに陥っていたからです。また学習の要点にもっと具体例を取り入れて説明してほしいという声もありました。また森田理論の概要を分かりやすく説明してほしいという声もありました。これらに答えるつもりでテキストを作りました。出来たものはA4サイズで99ページと67ページありました。普通の本にすると300ページぐらいのものかと思います。その後読んだ人から大きな反響がありました。おおむね好感を持っておられるようでした。集談会でもテキストとして使用して学習されているところが何か所かありました。でも反対にページ数が多すぎる。全部はプリントアウトしていない。読んでいないという意見も何名かいただいております。つまり長すぎて利用価値が半減していたのです。最初から見向きもされていなかったのです。電気製品を買うと詳しい取扱説明書のほかに、とりあえず簡単に操作できるようにポイント解説書があります。A4サイズ1枚かあっても数ページほどです。私のテキストにもこれと同じようなものが必要なのかなと感じています。そこで「新版 これで納得!実践的森田理論学習」は、生活の発見会の「理論学習の要点」にあたるものを作ることにしました。これは基礎編と応用編に分けています。まず基礎編ですが、神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、行動原則(私のテキストでは今苦しみのどん底にある人へ)は、おおむね生活の発見会が出している「森田理論学習の要点」に準拠していますのでそれを参照してください。ただ基礎編の中に「認識の誤り」があります。これについてはポイントについて説明します。応用編については、すべての単元にわたりポイント解説をします。応用編については、森田理論全体像の説明。生の欲望の発揮、欲望と不安の関係、「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり、事実本位・物事本位の生活態度を養う。森田理論のキーワードです。ポイントのみですから、これだけでは森田理論を深めることはできないと思います。あくまでこのテキストのポイントを早くつかんでもらうだけの目的です。明日から順次ご紹介します。
2014.09.18
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中野浩一氏はかって世界自転車選手権のトラックプロスプリント部門で10連覇した。1977年から1986年のことである。22歳から31歳の時である。この中で1986年は最大のピンチに見舞われていた。5月22日に落車して大けがをしたのである。世界選手権開幕まであと99日であった。主治医の寺門氏はいう。「肋骨骨折などという生易しいものではなかった。左第3,4、5、6、7と5本の骨折、しかも第6、第7肋骨は2か所で折れ、そのうち一本が肺に刺さり、心臓のわずか1センチ手前で止まっていた。もし、止まらず心臓をついていたら、死に至っていた可能性もあっただろう。」ところがすさまじい回復力をみせて6月20日にはすでに退院して、練習を再開した。しかし7月29日に再び落車した。競輪選手は常に怪我と隣り合わせなのである。今度は肺には異状がなかったが、第6、第7肋骨は再び外れていた。世界選手権開幕まで31日だった。寺門氏は「もうここであきらめるしかないか。」と思った。しかし中野浩一氏は「やります」といったという。ここから懸命のリハビリが始まった。この時初めてトレーナーの世話になっている。シアトルの大学を出た鈴木祐一トレーナーだった。ここで鈴木トレーナーは驚いたことがある。「普通、世界の頂点に立つような男は、すでに自分のスタイルというものがガチガチに出来上がっているものです。だから、これをやろうとトレーニングを促しても、俺はそれはしないとまず否定から入る。ところが中野選手にはそれがない。すべて肯定から入る。それで自分に向かないと思うと、余分な水をギュッと絞るようにして、合わないものを捨てる。」中野選手は10連覇を達成した。ライバルも多く、体調も75%ぐらいしか回復していない中での快挙であった。中野選手はその時を振り返って、「動かしたときに痛みがあると、まず不安になる。ただ、その痛みがケガが原因なのか、それは心理面でも重大なんだけど、自分じゃ分からない。その痛みについての判断をしてもらえた。そこは多少痛くても動かしたほうがいいといってもらえたことで、自分は安心してウエイトに集中できた。さらに、方向性と角度を的確にチェックしてもらえたから、効率がものすごくよかった。」といっている。これは森田理論学習に対する心構えとしても同じことである。森田理論は疑いながらも素直に取り組んでみる。実践に移してみる。この気持ちが大切になる。森田理論の上っ面だけ学習して、早々に役に立たないときめつける。森田理論に反発ばかりする。そして実行、実践は何もしない。こういう人にとって残念ながら森田理論は無用の長物である。森田先生は、いくら反発をしてもよい。でもだまされたと思って、試しにやってみようと思ってもらいたいといわれている。「森田の達人」といわれる人はたくさんいる。疑いながらでも、そういう人から森田の宝物をぜひ手に入れてもらいたいものである。
2014.08.22
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森田理論学習には2つの大切なことがあると思う。一つは森田理論学習の中身や学習方法は、時代に合わせてどんどん変更し進化させることだと思う。森田先生の作り上げられた森田理論はそれなりに良いものがあった。1919年に完成した言われる森田理論はすでに100年目を迎えようとしている。森田理論はその理論の中に「変化への素早い対応力」の重要性をうたっている。その理論や学習方法が一向に進化しないというのは如何なものであろうか。企業ではいったん自己変革の手を休めるとその寿命は30年で終わるといわれてきた。現代のように変化の激しい時代はその寿命はどんどん縮まっている。森田理論も例外ではないと思う。それをセブンイレブンの鈴木敏文氏のように、強力なリーダーシップで引っ張る人が必要だ。元々森田理論をはじめられた森田先生はそういう人だったのである。森田先生の強引とも思えるリーダーシップにより森田理論は産声をあげ、そして完成した。また森田理論学習が全国的に知られるようになったのは、長谷川洋三氏の強力なリーダーシップがあったからである。それが無かったらこのように知られることはなかっただろう。真のリーダーのいない組織は残念ながら滅んでしまうと思う。もう一つ森田理論学習には大切な点がある。森田理論学習の目標の明確化だ。これがどうもあいまいであり、誤解されているように思う。森田理論学習は神経質性格を持ちながら、世の中に十分に適応しきれていない人たちに役立つ理論である。生き方、人生観の確立のための理論であるということだ。したがって症状克服が最終目的ではない点である。森田先生の時代は神経症を治療するというのが目的であった。ところが森田理論の集団学習運動として活動を始めた時点で目標は変わっている。森田理論学習は医療行為ではない。生き方の学習をすることが目的なのである。ここを取り違えているととんでもない道に迷い込んでしまうことになる。今でも森田理論は神経症の克服だけの理論であると勘違いしている人が大変に多いように思われる。そう考えると、森田理論の全体像、鳥瞰図にあたるものを指し示すことは非常に重要だ。森田理論の概要をまとめたものが必要だ。やみくもに森田先生のしゃべられたキーワードを奉るだけでは、却って理論に振り回されるだけになってしまう。このブログで森田理論は大きく4本柱から成り立っていることを示してきた。その4本の柱が相互に関連していることを説明してきた。これを取りまとめて議論して理論として提示することが必要だ。この森田理論の全体のスキーム、しくみを理解すると学習が格段に効率的になる。私はこれを作り上げてから、やっと森田理論がよく分かるようになった。その間悶々としながら学習を続けてきたのである。その期間は約20年も費やしてしまった。今では誰でも森田理論は3年でものにすることができると思っている。一旦ものにしてしまえば、一生涯に渡って役立つものを手にすることができる。早期に一定レベルに到達することが必要だと思っている。それ以上かかるとすると、初心者は森田理論学習から離れていってしまうと思う。
2014.08.16
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