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正法眼蔵の現成公案の中に次のような言葉がある。仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇(ごしゅくのきゅうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。仏教を学ぶということは、自分とは何か、私はなぜ死ぬのか、なぜ意地悪をしてしまうのかなどを学ぶことである。そして、自己がわかるということは、無我になることである。無我とはあらゆる物事の真実(万法)に突き動かされる(証)ことである。それは自分と対象との対立を忘れることである。その時、悟り臭さの跡がない(悟迹の休歇なる)という生き方があり、臭みのなくなった悟りをいつまでも、どこでも、だれにでも(長長出)働かせ行くのである。(道元百話 中野東禅 東方出版 152~154ページ引用)ちなみに「身心脱落」とは心底こだわりのない世界に安住することである。別の言葉に言い換えると、柔軟心を持つことである。柔軟心というのは、柔らかい心であるから、拘らず、自我に硬直せず、対象とつかず離れず接して行ける自由さのことである。(同書 119ページ)道元禅師の唱えた世界観と森田先生の目指していた考え方はほぼ一致している。つまり観念の世界を優先して、世の中のことや人間関係を推し進めようとする態度に疑問を投げかけているのである。頭で考えたことを現実に当てはめていこうとする態度をとり続ける事こそが、人間の心身に悪影響を与えている。葛藤や苦悩を生み出しているとみているのです。観念優先の世界観から、現実、現状、事実優先の世界に転換することが大切になる。事実にしっかりと足をついて、そこを出発点として実践・行動する態度を身に着けようではありませんかと訴えかけられているのです。「身心脱落」という言葉は、聞きなれない難しい言葉ですが、森田理論の「事実唯真」という言葉を別の言葉で表現したものなのです。森田理論の言葉は、別の考え方を学ぶことによって、さらに磨きがかかり、凄みを増してくるものと考えます。
2020.12.01
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今日は女優の芦田愛菜さんの「信じること」についてのコメントを考えてみたいと思います。これはSNSで発信されていました。ちなみに芦田愛菜さんは、現在16歳だという。次のようなコメントをすること自体、大変な驚きであった。1、「(私は)その人を信じようと思います」2、「(信じることでよくありがちなことは)その人自身を信じているのではなく、自分が理想とする人物像に期待してしまっている」3、「(相手から)裏切られたとか期待していたとか言うけれど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけであって、見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められる。揺るがない自分がいることが信じられることと思いました」4、「揺るがない自分の軸を持つことは難しいからこそ、人は「信じる」と口にして、不安な自分がいるからこそ、成功した自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」この考え方を材料として、森田理論をさらに深めていきたい。1番目では、最初から相手を非難、否定しないで、まず相手の理不尽な言動であっても、その事実を受け入れたいといわれている。森田理論では、「かくあるべし」を相手に押し付けることを封印して、とりあえず事実、現実、現状を素直に受け入れるという考え方です。2、相手を自分の持っている物差しで、安易な是非善悪の価値判断はしませんといわれている。普通は、相手が自分の持っている期待や理想からかけ離れていると、我慢できなくなってつい批判、否定してしまう。これは方向性が間違っていませんかといわれている。肯定、激励、評価、称賛することに重きを置かないのはどうしてなのか。そうすることで人間関係はうまくいくのに、実践・実行しない人が多い。自業自得に陥っている。3、相手の態度、性格、容姿、能力、言動などを、価値批判しないでそのまま認めていくことが大切だといわれている。そうした一貫した態度を持ち続けることが、自分を信じる事だといわれています。それが揺ぎない自分を作り上げることだといわれている。芯ができると、自信を持って生きていくことができます。そして「かくあるべし」に重きを置いた生活態度を、事実に重きを置いた生活に変えていきたいと高らかに宣言されています。4、そうはいっても、人間はどうしても、観念中心になりやすい。完全主義、完璧主義、理想主義、目標達成主義、コントロール欲求に流されてしまう。これは人間のサガのようなものです。でも、いつまでもそこに固執する態度は如何なものか。たしかに「かくあるべし」人間から、事実本位の人間に転換することは大変むずかしい。しかしそこを目指していかないと、「揺るがない自分の軸」はいつまで経っても確立することはできない。葛藤や苦悩から解き放されて、精神的に安定的で豊かな人生観を確立するためには、事実本位にこだわる姿勢を保ち続けることが一番であると思う。これは生涯森田で、森田理論にかかわりあうことで、徐々に近づいていけます。
2020.11.23
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形外会で、森田先生が高良先生に、西郷隆盛について何か面白い話はないですかと質問されている。これに対して高良先生は次のように返答されている。誰かが城山で、隆盛に、「もう腹をお切りになってはいかがですか」といったところが、隆盛は「腹を切ると痛いぞ」と言ったそうです。(森田全集第5巻 608ページより引用)詳しいいきさつは分かりませんが、西南戦争で負けたので、自死することを進言したのかもしれません。普通の人は、そのような提案に対して、賛同するか、反対するか自分の意見を述べられると思います。そして最後まで戦うか、あきらめて自死するか自分の態度を明らかにされると思います。西郷さんはそんな事は一切言っていない。「腹を切ると痛いはずだ」という将来の事実を述べているに過ぎない。この発言を聞いただけで、普段から私たちが目指している、事実本位の生活をされていたことがよく分かります。森田先生が高く評価されている人物であることは間違いないと思う。森田先生の言葉も紹介しておこう。西郷隆盛は、平常どんな場合にも、決して言い訳という事をしなかったようです。西南戦争も、決して隆盛の意志からではない。自分の学校の生徒が、暴動を起こした事から、行きがかり上、そのようなことになったので、後にその前後策に対する幹部会でも、隆盛は自分では、意見をいわず、成り行きにまかせたような風であった。(森田全集 第5巻 595ページより引用)西郷さんは、江戸城の無血開城を勝海舟との交渉で成し遂げた立役者である。ここで幕府と薩長同盟軍が内戦状態に陥ると、開国を迫っていた欧米によって日本は植民地にされてしまうということがよく分かっていたのである。欧米各国はそれをねらって、両陣営に武器や資金を供与していたのです。西郷さんは先見の明を持っておられたのです。華々しい表舞台には登場されていないが、日本の歴史に燦然と輝いておられる方です。森田先生は、その西郷さんは、持論を展開して、先頭に立って周囲の人を鼓舞していた人ではなかったといわれているのです。会社でいえばワンマン社長ではなかった。経営戦略会議では、取締役の提案をじっと腕組みをして聞いているような人だった。持論を展開して、大きな川の流れにあえて背くことは、後に大きな禍根を生み出すことをよく知っていたと思われます。特に著明なリーダーであればあるほど、経営戦略上の持論を展開すれば、部下は有無を言わず従わざるを得なくなる。部下はそれぞれの意に反したことを強制されるケースが出てくる。そういうことはあってはならない事だという意思が強かったのだと思われます。「かくあるべし」を部下に押し付けるよりも、部下たちの意向を反映して行動を起こす方がよほど意味がある。最終的にみんなの意見がまとまると、自分としては異論があっても、みんなで決めた方向で自分が先頭に立って果敢に行動をする人だったというのです。しかしいったんみんなで決めたことは、失敗したときにはリーダーである自分が全責任は負います。責任を取って会社の経営から手を引きますという覚悟を持っていた。ですからみなさんは、心置きなく自分たちの決めた課題や目標に向かって突き進んでくださいという気持ちだったのだ。私利私欲のない素晴らしい理想的なリーダーと言えます。森田理論の考え方そのものを、リーダーとして体現された方であったと言っても過言ではありません。たとえ失敗して自分が不利な立場に陥る事が予見されても、周囲の流れに逆らうという道は選択されなかったということです。これは大きな変化のうねりの中でできることに精いっぱい取り組むという姿勢になります。こういうリーダーに巡り合えた人は、己の性を尽くすことにつながります。西郷隆盛の生涯は森田理論の立場から、再度検証してみる価値があると思われます。いずれ取り組んでみたいと思っております。
2020.11.16
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形外会で野村先生のお話です。私の知人に、耳鼻科の医者で、飛行機の二等操縦士の人がある。飛行機に乗った時の心理を聞きました。雲が非常に恐ろしいそうです。雲に包まれると、とんでもないところを、飛んでいるのではないかと、実に不安だそうです。ある時は、雨が降ってきて雲の上に出た。ところが雲の切れ目がない。見渡すかぎり、茫々たる海原のようです。そのうちに、広い大洋の上を実際に飛んでいるような気持になってしまい、どこかに着陸する海岸はないかとあせった。島が一つ見えたので着陸したら、それは雲の上に出た赤城山で、そこに墜落したそうです。今までは、操縦者の感じに重きを置いていたが、誤りが多いのでこの頃は機械に従うように訓練しているそうです。これに関して、黒川大尉も、やはり機械に頼るほうがよいといわれています。飛行機に乗ると不安になって、なかなか落ち着かない。不安でないようにしようとしてもできません。それで飛行機の上では、難しいことは、全く考えられなくなる。込み入った計算などは、とてもできないので、進路なども前に精細に計算しておいて、飛行機の上では簡単なことしかやりません。私一人がそうかと思ったら、聞けば誰でもそうだそうです。(森田全集第5巻 528ページより引用)疑心暗鬼になると、事実が見えなくなる。パニックになって、自分の都合に合わせて、事実を捏造してしまう。事実よりも虚偽に身をゆだねてしまい、最後には自滅してしまうということだと思います。私は濃霧の中で車を運転したことがあります。10メートル先も見えないのです。ライトをつけて、ノロノロ運転です。それでも対向車とぶつかるのではないか。道路をはみ出して、谷底に転落するのではないかと疑心暗鬼になるのです。目隠しをして車を運転しているようなものですから、当然不安になります。そうなりますと、不安が憶測を呼んで、より悪い事態を想像してパニックになるのです。このように事実が見えない。事実が分からないことはとても怖いことです。そういう意味では、夜間運転も怖いのです。白いラインが消えかかっている道路はなおさらです。夜間で雨降りの運転はさらに恐怖です。知らない土地で悪条件が重なった運転は、生きた心地がしません。パニックがさらに大きなパニックを呼び寄せて、事故につながることもあるのです。こういう悪条件の重なった時は、運転をしないことが大切だと思います。そういうゆとりを持つことが大事です。翌日、快晴になって、視界がよくなってから運転すれば、不安もないし、事故も起きません。さらに一泊して出費が多くなっても、命には代えられません。これは、普段の生活の中で起きる不安に対しても同様です。あせり、慌てふためくことで、事実はますます混迷の度を増します。また事実を先入観や思い込みで決めつけてしまうことは大変危険です。森田理論では、事実をよく観察する。自分の目で確認する。事実かどうか実験して確かめる。他人の話を鵜呑みにすることは間違いが多くなる。自分が現地に足を運んで確認することが大切である。事実唯真というのは、「かくあるべし」が入り込む余地がないぐらい、それに注力することが求められるのだと思います。事実は軽々しく取り扱うことがあってはならないと思います。念には念を入れて、真実を知ろうとするその態度が、安楽な生き方につながるのです。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というのは、事実確認ができないときに、慌てふためくさまを的確に現しています。
2020.11.12
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森田先生の言葉です。なおいつでも、大事なことは、人はいたずらに強がり、負け惜しみで、頑張る事をやめる事です。そして弱気に徹すれば、常に安楽になり、結局これが最も強くなる結果にもなるのであります。(森田全集 第5巻 582ページより引用)今日はこの言葉を分かりやすく解説してみようと思います。私たちはスポーツでも、勉強でも、仕事でも、容姿でも、持ち物、出世でも人と比べて負けていることが許せない。ライバル視して何とか相手に勝ちたいと思う。生の欲望が強い神経質性格の場合は特にその傾向が強いように思います。それがプラスにでると、やる気の源泉になる場合があります。ところがこの生き方には大きなマイナス面がある。第一に「かくあるべし」が強化されてしまうことだ。・絶対に相手を倒さなければならない。・絶対に相手に勝たなければならない。・負けるようなことは許されない。負けてしまうと、自分のすべてがダメなように思えてくる。・相手を見下ろすような人間にならなければならない。など。「かくあるべし」という考え方が強化されると、葛藤や苦悩が発生する。苦しい生き方を受けいれざるを得なくなります。第二に、自分の欠点や弱点、ミスや失敗を隠蔽し、ごまかすようになる。そういうものはあってもよいが、人に知られてしまうことは絶対に許せないのである。事実を素直に受け入れることができないので、言い訳や弁解が多くなる。事実を捻じ曲げるために様々な工作を行うようになる。うそやほころびが出てくると、それをごまかすために、また別のうそを重ねる。そういうことに明け暮れる生活は、実に味気ないものです。森田先生は、弱気に徹するといわれていますが、別の言葉でいえば、地のままの自分で生きていくということだと思います。見栄を張って、相手と張り合わない。取り繕うとしない。誇張した自分、脚色した自分になろうとしない。つまり、どんなに承服しがたいことがあっても、事実を素直に受け入れて、自然体で生きていけば、精神的な葛藤や苦悩は生まれないということです。自然体と言えば、台風に遭遇した時の柳の木が参考になります。枝が引きちぎれないほど乱れまくっています。これを見ていると、人間に置き換えれば、心身の破滅を招くのではないかと思われます。ところが、事実は違います。台風一過の秋晴れの中で、柳の木は何事もなかったかのように、たたずんでいるではありませんか。とても感動的です。その一方で、巨大台風が来たとき、樹齢何百年といわれるような巨木が倒壊して無残な姿をさらしています。巨木は大型台風に対して、いつも張り合っていたのだと思います。これまでの小さな台風には、すべて打ち勝ってきたのです。力の差を見せつけてきたと言ってもよいと思います。ところが、今回の巨大台風には勝てなかったということです。事実を無視して、反旗を翻すということは、最後は負け戦になるということだと思います。体力が弱くなり、精神的にも気弱になると、形勢は一挙に逆転してしまうのです。それはちょうど水泳の上手な人が、川上に向かって泳ぐようなものです。すこしは頑張る事ができるでしょうが、エネルギーの消耗が激しすぎます。2m進んでも1mは流される。労多くして、実入りが少ない。精魂が尽き果てます。自然の川の流れに少しでも背くと、とんでもないことになります。反対に川の流れに沿って泳ぐと、自然の力の応援を得て、自分の実力以上の成果を出すことができます。心身ともに葛藤や苦悩が発生しない。これが森田理論でいう、素直に事実に従った結果なのです。
2020.11.09
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森田先生は実践・行動するときは、次の3つの点を考慮しないといけないといわれています。1、その出来事や事件の事実を観察して明確にすること。2、その時の周囲の状況に目を配ること。3、その時の自分の身体と精神状態を自覚すること。これを私の経験に当てはめて考察してみました。会社で昼休みに5、6人集まって雑談していました。急にある人が私の過去の仕事のミスを取り上げて、面白おかしく話し始めました。その場にいた人たちは、その人に同調して、はやし立てました。「あいつはそういううっかりミスをするんだよ」「この仕事はあいつには向いていないよな」私はいたたまらなくなった。そのうち相手に対して怒りがこみ上げてきました。顔はこわばり、身体は硬直した。午後からの仕事は上の空になりました。これはもっともらしい説明のように見えますが、事実が具体的ではありません。このミスの内容は具体的にはどういうことだったのか。私は当時中学校の卒業式で使うための舞台幕の注文をもらい、パソコンで発注書を作り工場に送信したのです。1週間ぐらい経って、商品が出来上がり学校に送られました。すると袖幕の色が違っていたのです。エンジの色のところが青色の商品が届いたのです。一文字幕などはエンジ色なのに、袖幕だけが青色ではバランスが悪いのです。得意先、施主、取り付け業者、営業マンからクレームの電話が入りました。謝っても許してもらえるはずもありません。卒業式に間に合わない。二度手間になる。損失が発生するなどの電話でした。私は、「取り返しのつかない事をした。どうしよう」と右往左往して、力が抜けてしまいました。ここでは、自分のミスや失敗を取り上げて批判するよりも、まず事実を過不足なく説明する態度が大切になると思います。そうなると、雑談の内容は個人攻撃から、ミスの発生原因に及ぶことになります。個人の能力や人格を責めるよりも、仕事の進め方の問題点を探る方向に向かいます。たくさんの仕事をこなしていると、誰でもミスは起こしているのです。人間のすることでミスは0にすることはできないのです。0にしなければならないということに意識が向くと、仕事をたくさんこなすことができなくなります。こなせばこなすほど、ミスの発生頻度が上がってくるわけですから、最後には手も足も出なくなってくるのです。事実にこだわる態度は、敵の攻撃をかわすことができると思います。雑談の場に加わっていた人たちも、面白おかしくはやし立てた。これはどうすることもできない。でもその人たちもミスをしている人です。人がミスをすると、「なんだこんなイージーなミスをして、馬鹿な奴だなあ」という人も、立場が変われば、今度は自分が矢面に立たされることになるのです。高額商品は、送信する前にチェックの方法をみんなで意思統一した方がよいのではないか。ミスに学んで仕事の改善をしていかないと、また誰かがミスを繰り返す。この件に関しては、私はすぐに関係カ所に事の顛末報告することが必要でした。そしてまずは丁寧に謝る。そして上司や営業に報告する。そして指示を仰ぐ。そして何よりも代替え品の発注をする。生地は何としても今日の発送とする。赤帽などを利用して工場に搬入する。工場に電話して、工程の変更を依頼し、大至急で制作してもらう。この際経費の事は二の次である。ミスという事実を素直に認めて、事後処理を急ぐことで、夢遊病者のようになって、仕事が手につかなくなる事態は避けることができたのではないか。むしろ雨降って地が固まる事になっていたのではないか。ミスや失敗は必ず発生します。その内容に着目して、事実を白日の下にさらしていくのだという態度の人は、ミスや失敗を自分が成長する糧として活用できるのだと思います。事実を軽視する人は、自己防衛、他人を怨む、自己嫌悪、自己否定の悪循環に振り回されることは間違いないようです。
2020.11.08
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森田先生が次のような歌にもならない文句を書かれた。憂しといふは何をいふらん。花は咲き雷ははためき木枯らし狂うこの歌の説明は次のごとくである。花が咲くのも散るを思えばとり越苦労であり、雷も気が引き立ち木枯らしも痛快である。人生の物事は時と場合とにより、見方によってはどうとも名状する事ができる。決して「憂し」とか、「人生苦」とかいう一定の標識はないのである。場合によっては「月みれば千々に物こそかなしくなる」のである。何が悲しいのか面白いのか、決して見当のつくものではない。ここでは「どう思え」とか、「思うな」とかそんな事は決して教えない。自由に思うままに思わせておく。それで苦楽好悪とか、思うとか思わぬとかいう事を超越し・無視し・放任する事ができるようになった時に、初めてすべての神経質の症状が解消するのであります。(森田全集第5巻 579ページより引用)ここは森田理論の中でも難しい部分です。私の理解の範囲で、かみ砕いて説明してみましょう。森田先生は神経症が治るということに関して3段階ある言われています。不安が強くて怖い。しかし苦しいままになすべきをなす。これができるようになれば小学校卒業程度である。次に「かくあるべし」から出発することをやめて、事実本位に徹する。これができるようになれば中学卒業程度である。ただ中学卒業の段階では事実にそのものに対して是非善悪の価値評価をしている。事実を自分の物差しで、いいとか悪いとか区分けをしているのです。これがまずい。事実そのものには、本来良いも悪いもないのです。それは本人が、自分の物差しを押し当てて、自分勝手に価値判断しているだけなのです。大学卒業程度というのは、自然な出来事(つまり事実の事です)を価値判断しないであるがままに受け取れるようになった段階の事です。価値判断しないで事実に素直に従う態度に至ることです。事実を価値判断する態度は、自分や他人を否定する方向に向かいやすいのです。価値判断することが特に問題になるのは、悪い、良くない、間違い、苦しい、辛い、悲しいなどと価値判定した場合です。これらを排斥しよういう態度が問題になるのです。つまり中学卒業以前の状態に、すぐに戻ってしまうことが問題なのです。でも普通の人は目の前の出来事に対して、是非善悪の価値評価をしながら生活しているのが現実です。ではどういう心掛で生活していけばよいのか。まず不安が襲ってきた時にする行動が、将来に明るい展望が開けるもの、あるいは他人のために役に立つものかどうかを見極めることです。そう判断できるものに対しては、積極果敢に不安の解消に向けて行動を開始する。その2つに当てはまらない不安に対しては、仮に価値判断しても基本的には無視する。しかし無視するといっても現実には不可能です。人間には価値判断するための前頭前野が発達しているので、現実問題として、それを無視することはできないのです。次善の策としては、どうにもならないことは、しぶしぶイヤイヤながら事実を受け入れるようにするしかありません。自然に服従するという態度、というか覚悟を持って生活をしていくということになります。それが事実として、大学卒業への道へとつながっていくものと考えています。しかしこれは言うは易く行うは難しいです。実際には難しい面があります。この段階は、理解にとどめる程度でよいのかもしれません。理解することは必須と考えています。事実本位の生活を心掛けたうえで、目の前のなすべきことに取り組んでいく。そして森田理論が教えてくれている「ものそのものになりきる」生活を続けていくことだと考えます。そうしますと、注意や意識が目の前の物事の方に向いていきます。行動することで、自分が価値判断していたこととは違う結果が出てくることが増えてきます。それを積み重ねていくと、頭の中で自己流に価値判断していたことは、必ずしも正しくはなかったという感覚をつかめるようになるのではないかと考えております。
2020.11.05
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森田先生の観察力というのは徹底している。1、自分が座敷に座っていて、そこを人が通ろうとする時、人に自分の前を通らせようとする人、15人。自分がちょっと身体を前にずらせて、人に自分の後ろを通らせる人、27人。2、自分の家にある蜜柑とか枇杷とかを食べるとき、悪いものから先に食べる人、20人。よいのを先に食べる人、22人。3、風呂に入るとき、ひと思いに飛び込む人、2人。ジリジリと、身体を沈める人、40人。4、同じく入浴するとき、惜しげなく風呂桶で湯を汲み出す人、8人。最小限度に倹約して使う人、34人。5、食事のとき、おかずを好きなものから、先に食べる人、22人。好きなものを後に残して、最後に食べる人、20人。6、外出のとき、お金を持たずに平気で出る人、2人。金を持たねば不安の人、40人。7、朝、顔を洗うとき、石鹸を使う人ね13人。石鹸を使わぬ人27人。(森田全集第5巻 541ページより引用)普通の人はこんなことには興味が湧かない。調査してみようとは考えない。森田先生は、おおよその傾向が分かればよいという態度ではない。仮説を立てたことは、実際に調査をしてみる。人の意見やうわさ話を事実として認めるということはしない人でした。先入観や思い込みで事実を捻じ曲げることがない。ほんとにそうなのか、間違いない事実なのか、事実に対するこだわりが半端ではない。「事実唯真」が森田の目指している態度ですが、これを徹底されています。次にここで注目したいことは、事実が分かったとして、是非善悪の価値判断をされていないということだ。例えば、風呂に入ったとき、惜しげもなくお湯を汲み出す人は駄目だとは言われていない。まず正確で客観的な事実を白日の下にさらけ出すことに注力されている。普通は、中途半端に事実を見てしまう。そして急いで、是非善悪の価値判断をしようとする。価値判断を急ぐあまり、事実を確かめる作業をおろそかにしてしまう。どちらかというと、事実はどうでもよい。それよりも、自分がどういう価値判断を下すかがより重要なのだと思っている。それが自分のアイデンティティの発揮だと思っている。森田理論学習は、その態度を逆転させることを目指しているのだ。完全に習得することは難しいが、その方向を向いているかどうかが決定的な違いとなる。
2020.10.12
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劣等感が気になる人は、優越感を意識する人でもあります。優越感とは自分が他人よりも優れていると思う気持ちの事です。自分は他人よりもイケメンだ、美人だ。自分は他人よりも勉強がよくできる。自分は安定的な仕事についている。自分のほうがりっぱな家に住んでいる。自分のほうが、動体視力が優れている。スポーツができる。自分と他人を比較して、自分のほうが勝っている。自分のほうが容姿、能力、実力、仕事面、境遇面で相手を見下す立場にいると判断して、自画自賛して悦にいっている状態です。優越感は精神的に安定感をもたらし自信を深めるものと考えがちです。自己肯定感を生み出すものと考えがちです。果たしてそうなのでしょうか。優越感の特徴は、相手と自分を比較することから始まります。そのあとで、是非善悪の価値判定を行っています。そして自分が優れていると思ったことに対して、優越感を感じているのです。反対に自分が劣っていると感じたことに対しては、劣等感を感じているのです。優越感を強く感じる人は、いつも劣等感で苦しんでいる人でもあるのです。比較することは、人間に生まれながら備わっていることだと思います。比較することが葛藤や苦しみを生み出しているので、他人と比較してはいけないといわれます。これは無理があります。自然の流れに反するようなものだと思います。また比較するということは悪い事だけではなく、良い面もあります。比較することで、自分と他人の違いがよく分かるという側面があります。違いを自覚できるようになると、自分の問題点や課題が見えてくることがあります。課題や目標に向かって努力精進する態度は、人間の本来性です。これは自分だけに焦点を当てて考えていても、なかなか見えてきません。大いに比較して自己洞察をプラスに活かすことは大切になります。ところが比較して事実、現実、現状を自覚した後で、自分のものさしで是非善悪の価値判断をしてしまうのです。これが後々問題になるのです。本来事実などにはよいも悪いもありません。これは天候などの自然現象を見ているとよく分かります。因果応報といって、何らかの原因があって、今の状態が起きているのです。それを自分の物差しでこれはよい、これは悪いと大岡越前のように裁定を下しているのです。物差しの目盛りは、人それぞれに違います。ある人にとっては良い事だと思っても、他人にとっては悪い事だと判定されることもあります。この自分なりの是非善悪の価値判断に基づいて方針を決定して、行動を開始してしまうのです。森田でいう「かくあるべし」という理想主義的な観念を優先して、行動を開始するようなものです。ここで問題なのは、事実、現実、現状には目が向かなくなることです。観念の世界に身をゆだねて、事実に寄り添うという気持ちは蚊帳の外になっているのです。すると自分の価値判断と事実、現実、現状との乖離が発生します。時間の経過とともに、そのギャップはどんどん大きくなります。これが精神的な葛藤や苦しみを発生させる原因となっているのです。こうしてみると優越感で悦に入り、劣等感で苦しいという人は、事実に寄り添うという考えが希薄な人ということになります。事実の世界に身を置き、事実を大切に取り扱うという人は、過度に優越感や劣等感を持つことがない。自己肯定観や自己否定観で苦しむということもなくなる。そういうことを問題にする事さえなくなるのです。「かくあるべし」という考え方から、事実本位への生き方に変える方法は、森田理論の得意とするところです。森田理論学習と実践により、ものにすることができます。このブログでも何回も取り上げていますが、取り組むべき課題は何項目もあります。これらは仲間と一緒になって生涯学習として深めていくものと考えています。そうなれば精神的にはとても楽な生活、生き方に変わっていきます。
2020.10.08
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劣等感で苦しんでいる人は多いと思います。今日は劣等感から解放される道を探ってみたいと思います。私は劣等感は、絶えず他人と比較して、自分が他人より劣っていると価値判断しているために発生すると考えています。比較や価値判断しないで、現在の自分の状態を動物のように、あるがままに受け入れることができれば、劣等感で苦しむことはないと思います。それは自分の個性、特性だと思うだけになります。良いも悪いもありません。そのありのままの状態で生きていくだけです。人間は脳の前頭前野が発達しているために、余計なことを考えるのです。ここでは分析できる能力がマイナスに作用しているのです。他人と比較することが身に沁みついていますから、それやめる事はできませんね。私自身もそうです。容姿、能力、学歴、境遇面で劣等感を感じることは多々あります。ここでは、他人と比較するということと、その結果について是非善悪の価値判断をするということを分けて考えてみたいと思います。まず他人と比較するということです。私は比較して自分と他人の違いをしっかり把握することは構わないと思います。むしろ比較しないと自分の状態がよく分からないと思います。事実に徹する人は、他人とどこがどう違うのか、あらゆる面から比較検討して、真実の事実に近づくだろうと思います。それは自覚を深めるために必要なことだと考えます。一般的には、人と比較することは百害あって一利なしと言いますがそれは違うと思います。問題は比較した結果について、自分独自のものさしで、是非善悪の価値判断をしてしまうことです。これが問題を引き起こしているとみています。事実、現実、現状は、本来は良いも悪いもないのです。そうなる必然性があって今があるのです。大雨、台風、地震、津波、噴火なの自然現象は大変イヤなものですが、これらは人間の手でどうすることもできません。こういうものに対しては、是非善悪の価値判定はしません。イヤなものだけれども、好むと好まざるとにかかわらず、受け入れるしかないからです。ところが自分の事になると、良いか悪いかを判断して、どちらかの立場に立つのかを明確に打ち出そうとするのです。そして悪いと判定したものに対しては、何とかしないといけないと考えるようになります。手っ取り早いところでは、劣等感を感じていることは、見つからないように隠そうとします。隠蔽工作です。また取り繕って問題は存在しないように脚色しようとします。最終的には、自助努力で人並みになるまで改善しようと考えるのです。借り物の自分、偽物の自分になるべくエネルギーの大半を投入するようになります。ところがその努力の多くは徒労に終わり、ますます劣等感を強めているのです。こうしてみると、劣等感を持っている人の特徴は、エネルギーが残っている人です。そして、強力な「かくあるべし」を前面に出して、是非善悪の価値判定をする人だと思います。その間違った価値観に従って、本能的に間違った行動へと突き進んでいるのです。第三者から見ると、どうしてそんなことをと思ってしまいますが、本人は真剣なのです。ひとり相撲を取って勝手に自分がずっこけているということです。そして葛藤が強くなり苦悩でのたうち回るようになります。神経症が固着して日常生活がままならなくなるのと同じです。では劣等感にどう対応すればよいのか。事実を価値批判しないで、イヤイヤしぶしぶでも受け入れるしかないということです。決して容易な道ではありませんが、その道しかないと思います。覚悟を決めて、森田理論学習と実践に取り組むしかないと考えています。森田でいう修養を深めていくということです。こういう方向に舵を切って生活することで、劣等感は減少してきます。具体的には、「かくあるべし」の弊害をよく理解する。「かくあるべし」よりも事実にこだわった考え方や生き方を身につけていく。事実をいい加減に扱わない。事実をよく観察する。実験によって確かめる。先入観や決めつけで事実を取り扱わない。人の話を聞いただけで、それを事実だと早合点しない。必ずみずから出向いて真偽のほどを確かめる。事実は片寄らないで両面観、多面観で見ていく。森田でいう「純な心」を生活面に応用していく。素直な感情を大切にして生きていくということです。私メッセージの発言を心掛ける。Win Winの人間関係を心掛ける。事実にこだわる生き方はとくかく奥が深いのです。このように事実に徹した生活を心掛けていると、どんなことが起きるか。他人と比較して、事実だけを見つめる作業を続けていると、自分の当面の課題や目標が見えてきます。森田理論でいう生の欲望の発揮に目覚めてくるのです。すると、注意や意識が劣等感ばかりに振り回されることはなくなります。気にはなるが、目の前の生活の課題や問題点、趣味や興味、関心ごとをこなすことが中心になり、結果として劣等感にかかわりあう時間がなくなるという状態になります。生活が好循環を始め、なおかつ劣等感が後ろに引っ込んでくる。劣等感に苦しんでいる段階では、生活が森田的に変化していないということです。ただし完全になくなることはありません。完全を目指すことは事実としてあり得ない事ですから、結果として不完全になります。ですから、劣等感をどうすればなくなるかという発想では、いつまで経っても劣等感はなくならないというからくりになっているのです。
2020.10.07
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親の我が子に対する接し方が、子どものその後の人生に大きな影響を与えます。そしてそれは次の世代にも伝播していくのです。これが恐ろしいです。ですから過保護、過干渉、放任、虐待などは避けたいものです。子どもができたら、夫婦そろって、仲間とともに、子育ての学習をし、情報交換することが大切だと思います。私は父親に叱責、非難、否定されて育ちました。楽しい思い出というものは、何も思い出すことができないのです。父親に叱られないように、顔色をうかがいながらいつもビクビクしていました。父親は自分を守ってくれるような存在ではない。自分に危害を加える、恐ろしい存在だったのです。その父親も自分の親から過干渉気味に育てられたので、自分の子供にどう接していいのか分からなかったのだろうと思います。そんな子供が大人になった時どんなことが起きたのか。何をしてもミスや失敗するのではないかと考えるようになりました。自分に自信が持てない。他人の視線を常に意識するようになりました。他人の思惑を気にして、常に他人に振り回されているような生活になりました。ミス、失敗、弱点、欠点があると、周りの人たちから、叱責、非難、否定されるに違いない。存在自体が否定され、集団から追い出されるようなことがあると生きていくことはできないだろう。媚びへつらってでも、なんとか命だけは助けてもらいたいなどと考えていました。人間は本来、目の前の日常生活、問題や課題、目標や夢などに向かって外向きに生きていくことが宿命づけられています。ところが私の生き方は、外に向かって発揮されるエネルギーが、常に内向化しているのです。しかも悲観的で否定的な考え方ばかりしているのです。将棋でいえばね専守防衛です。防御ばかりに力を入れて、相手と戦うという気持ちがないのです。これでは勝てるわけがありません。最後には自滅してしまいます。何ともつらくて、情けない。苦しくて仕方がないのですが。コールタールが体中にねっとりとこびりついているようでどうすることもできないのです。人間に生まれてきて、何かいいことがあったのか。いや一つもなかった。私はただ苦しむために生きているのかという思いが頭の中からなくならないのです。自己否定観に取りつかれている人から、どうすれば自己肯定観が持てるようになりますかという質問を受けます。私の経験から、酷なようですが、「それは無理です」と答えるようにしています。人から話を聞いただけで、体にこびりついたコールタールを洗い流すようなことは、とても難しい。困難です。少なくとも私にはできません。他人に助言するなどということはできません。私にできることは、みじめなようですが、そういうタイプの人間であると認めることだけです。一生涯他人の思惑が極端に気になる。それは根本的には修正不可能である。つまり開き直ってしぶしぶ、そういう人間として生きていくと覚悟を決めるしかない。これから一生涯人の思惑に振り回されながら、ビクビクハラハラしながら生きていくしかない。残念ながらこの道しか残されていないと思うのです。そのように覚悟を決めているのです。その出発点に立つことで、2つのことに注意を向けている。一つは森田理論で学んだ「不即不離」です。広く薄い人間関係を築いていく。必要な時に、必要に応じて、必要な人間関係を築いていく。特定の人と親密な人間関係を築いていくという方針は、私のようなタイプの人間にとっては、葛藤や苦悩を抱えやすい。そうかといって人間関係を遮断するわけにはいかない。そうすれば、それこそ自給自足で仙人のような生活を強いられる。引っ付きすぎず、離れすぎず適度の関係を幅広く構築していく。今までは、親密な人間関係を5人ぐらい持とうとしていましたがうまくいかなかった。それは人間2人いればすぐに対立する。親密な人間関係はカラスのコップのようなもので、落とせばすぐに壊れる運命にあるのです。反対に仮に100人ぐらいの人と薄い人間関係を広げて置いて、必要に応じて渡り歩いていれば、人間関係のトラブルは抱えにくい。結果として自己否定観で苦しむことは避けられるのではないかと考えているのです。もう一つは凡事徹底です。どんなにつらいことがあっても、日常茶飯事だけは手を抜かないということです。手を抜くと、つまらない余計なことを考える時間が増える。生活が常に外向きで、目的本位の生活になるためには、生活を維持して豊かにするための日常茶飯事に真剣に向き合うことです。それで充実感を味わうことになります。その基本は3度の食事をきちんと整えることです。たまには外食もいいでしょう。しかし基本は自分の力で整えていくことです。そのために私は事あるごとに家庭菜園をお勧めしています。食材を自ら作るのです。食を徹底すればそういうことになるでしょう。食材の調達、買い出し、料理、後片付けなどに力を入れている人は、自己否定観で苦しむことはなくなると思います。以上の2点を心掛けて生活しています。それで自己肯定観が育ってきたのか。これは正直上手に説明はできません。そのようなことを考えることがなくなったというのが真実です。毎日忙しく生活していますということだけはいえます。
2020.08.19
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交通事故などに遭遇した場合、客観的に見て自分は悪くないのに、「すみません」とすぐに謝る人がいます。これは大変問題がある対応です。自分に非がないにもかかわらず、非があるかのような言動が、相手につけ入るスキを与えて、相手を勢いづかせるのです。外国では、自分に非があっても、確たる証拠を突き付けられない限りは、相手に責任を押し付けるのが普通です。そして損害賠償をさせようとするのです。あるいは自分の損害賠償の責任を回避しようとするのです。こういう場合は、相手に「お怪我はありませんでしたか」と切り出すべきです。それ以上のこと、それ以外のことをぺちゃくちゃと発言してはならないのです。救急車を呼ぶほどのことがなければ、二次災害を防止して、会社、家族、警察、双方の保険会社に連絡することです。お互いの連絡先の交換も勝手にしてはなりません。相手が感情的になっても、決して安易に自分の非を認めるような発言をしてはなりません。実況検分は、双方の話を別々に聞きながら警察が公平に行います。損害賠償については、双方の保険会社が、事故報告書をみて過失割合を決めます。自分の非をすぐに認めてしまうような人は、事実軽視も甚だしいといわざるを得ません。このような対応では、森田理論で事実を正しく認めて受け入れることが大切だと学習しているのに、絵にかいたモチになっているのです。また事実認識に食い違いが見られる場合は、自分の考えをしっかりと相手に伝えることが必要です。強硬な相手の発言におじけづいて、相手によって捻じ曲げられた事実を少しでも認めてしまうと、後で捻じ曲げられた事実を覆そうとしても難しい。最初に反論していないので、相手も、周りの人も捻じ曲げられた事実が正しかったのだなという先入観を持っているのです。先進国の裁判を見ていると、誰が見てもあの人が悪いと思われる場合でも、かならず弁護士をたてて争います。それは検察の主張ばかりを信頼して、判決を出すと一方的で恣意的な結論が出るという可能性が高くなることが分かっているからです。そのようなやり方を無視して、一方的な裁判を強行している国は独裁国家といわれています。事実は両面観で見ていかないと見誤りやすい。一方的な事実認定で行動を起こすと、「迷いの内の是非は是非ともに非なり」という事になる。問題が核心からずれてしまい、収拾がつかなくなる。間違った事実をでっち上げたものが、同志を増やして、相手を一方的に攻め立てて誹謗中傷して、支配するようになるのである。事実を無視して、間違った事実を飲まされた人は浮かばれない。これは残念なことだが、日本の外交政策についても言えることである。どうして日本はここまで外国政府や外国人の言いなりならなければならないのだろうか。依存体質、自立心を目指さない人は、被支配者として生きていくしかない。
2020.08.06
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親鸞の弟子の唯円が書いたとされている歎異抄に次のように書いてある。善人なおももて往生をとぐ、いわんや悪人をやこれだけでは何を言っているのが全く分からない。唯円は次のように説明している。善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさらである。なぜなら善人は自分の力を過信しがちだが、自分の愚かさに悩み、絶望する悪人のほうが、大いなる力にすがるしかなくなるから、救われるのも当然なのだ。続いて、人は知恵や能力、努力だけでは、決して心の安らぎに達しない。その無力さを知り、自然のあるがままの仏の手に身を委ねた時、初めて人は救われる。私は仏教のことは何もわからないのですが、森田理論に通じるとこがあると思いますので、私見を述べてみたい。ここではっきりしているのは、善人よりも悪人のほうが先に救われるという事である。言い換えれば、悪人のほうが葛藤や苦悩が少ない生き方ができると宣言している。ここで言われている善人や悪人は世間一般に思われているイメージとは全く異なる。ではここでいう善人とはどんな人のことを言うのか。自分は世のため人のために役に立つ行動をとっていると自負している人のことだろう。確固たる理想主義的な観念優先の思想を身に着けて、それを自分にも他人にも振りまいている人のことをいうのではないか。森田でいう「かくあるべし」を前面に押し出している人のことをいうのではないか。無知で救いようのない人をなんとか立ち直らせてやりたいなどと思っている人である。いわゆる人格者といわれるような人である。次に悪人とはどんな人なのだろうか。悪人は俗世で罪深いことを繰り返してきた。謝っても謝り切れない。などと罪悪感を持っている。つまり自己内省する力のある人のことをいう。一般的には自己嫌悪、自己否定しながら生きている。また命を何とか繋いでいくだけで精いっぱいの人。夢や目標などには考えが及ばないような人。現実、現状、事実を認められないのは、善人と同じある。葛藤や苦しみは強い。だが善人と違って「かくあるべし」を自分や他人に押し付けていない人のことを言っているのではないか。そのようなことを考えるゆとりのない人なのである。悪人の場合は、「かくあるべし」を持っていないので、事実を素直に認めて受け入れるという事になると、それだけですぐに救われる。「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで救われるというのは、事実を否定するのではなく、事実をまるごと受け入れますよと宣言しているようなものだ。自分の性格、容姿、能力、環境など変革することができないものは、謙虚にすべてを受け入れて、そこを出発点として生きていきますと自分に言い聞かせているようなものだ。森田理論いうところの「事実本位」生き方が、葛藤や苦悩を軽減する生き方なのですという事を教えてくれていると思う。
2020.06.16
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先日滝川英二さんの「それでも前へ」というドキュメンタリーを見た。you tubeにアップされている。滝川さんは映画の撮影中に自転車から転倒して脊髄損傷を負った方です。首から下を動かすことができない。体幹の維持ができない。しびれや痛みがある。呼吸困難になる。感覚がない。体温調整ができない。自律神経失調症などの症状がある。事故の前はイケメン俳優として、ドラマ、映画、舞台で活躍されていた。「ファイト一発」というリポビタンÐのCMに出演されていた方である。事故後、支えてくれていた父親の死、愛犬パールの死、恋人との別れがあった。普通ならなぜ自分だけがこんなことになったのだ。運命を呪い、すべてを投げ出して、心を閉ざしてしまうのではないかと思う。滝川さんは、懸命にリハビリに取り組まれているが、その様子を隠すことなく公開されている。事故で全く変わり果てたありのままの自分を受け入れて生きていくのだ。そして、失ったものを数えるよりも、少しでもできることを増やしていきたい。そしてブログには「感謝」という言葉があった。感謝という言葉は、口に筆を咥えて書いたものだ。この考え方は森田そのものだと思います。こういう考え方や生き方は私たちに大きな感動を与えます。どんな困難な状況に置かれても、その境遇や運命を受け入れて、「それでも前へ」進んでいる人はかけがえのない人生を歩んでいる。森田的な生き方は、どんな無慈悲な親のもとに生まれても、どんな過酷な時代に生まれても、どんな貧しい国に生まれても、どんな過酷な運命に翻弄されても、すべてをあるがままに受け入れて、この世でどんな足跡を残して生きているかに尽きる。滝川さんは、現在俳優を引退して「アスリートプライド」という番組のMCをされている。不平不満や愚痴をいうよりも、現実を受け入れて、いまできる事に懸命に取り組んでいこうとされている態度に大きな感銘をうけました。
2020.06.10
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年金や医療費について次のようなことが公然と言われています。現在は4人の現役世代が1人の高齢者を支えていますが、これから先は3人の現役世代が1人の高齢者を支えていくようになります。そしてこのまま世界一の長寿が続いていくと、2人の現役世代が1人の高齢者を支えていかなくてはならない。これを放置していくと、日本国は経済破綻する。こんな話を聞くと、高齢者は肩身が狭い思いがします。長生きすることは悪なのか。病院に行くことは、現役世代に迷惑をかけていることなのか。高齢者は社会の邪魔者として、質素倹約に努めて、ひっそりと生きていくしかないのか。また我々高齢者は今まで給料の中から年金の原資を積み立ててきた。それを還元してもらっているのだから、別に迷惑をかけているわけではないと反論する人もいます。この話は本当なのか。真実を調べ上げてみました。事実はそうではありませんでした。確かに65歳を超える高齢者はこれからもどんどん増加していきます。人口ピラミッドを見ているとうなずける話です。さらに平均年齢も80歳を超え、100歳を超えている人も一つの市ができるほど増加しています。それに引き換え少子化で、15歳から64歳までの労働生産人口はどんどん減少しています。世代間扶養という視点から考えると、少ない現役世帯が増え続ける高齢者を支えていかなくてはならないという理屈が成り立ちます。現役世代から見ると、生活することで精いっぱいなのに、どうして高齢者の面倒まで見ることが可能なのか。いい加減にしてくれ。いつまでも長生きされては、我々の生活が破壊されてしまう。つまり国民年金、厚生年金、健康保険料、介護費用、税金などを増やしてもらっては、私たちの生活が立ち行かなくなります。しかし高齢者が年金、医療、介護などのサービスを受けているということは、日本のGDPを大きく押し上げているという事になります。GDPを押し上げないと国の成長はないわけです。現在の日本は世界全体から見ると最低水準です。ほとんど増加していない。ほとんどの国が大きく増加している中で、日本が一人蚊帳の外といった状態にあるのです。GDPの増加に大きく影響を与えているのは、個人消費、企業の設備投資、公共投資などがあります。これらは消費税の増税と緊縮財政のおかげでほとんど伸びていません。それがデフレの原因になっているのです。デフレというのは物価が安くなったといって喜んでいる場合ではないのです。自分たちの所得が減って、経済が停滞し、生活がどんどん負のスパイラルに陥ることになるのです。そして生産設備が老朽化して、最後には生産したくても生産できなくなる。そのよい例が農業です。農業機械が老朽化してくると、米さえ作ることができなくなります。生産設備を持たない国は後進国、発展途上国に分類されています。信じられないでしょうが、日本経済を見るとまさにその道を突き進んでいるのです。このままいけば日本は中国の属国となるかもしれません。中国の属国になれば、言論の自由、思想の自由、行動の自由は政府によって制限されるようになります。それを指をくわえて、容認するのですかという話になります。GDPを押し上げる個人消費、企業の設備投資、公共投資は減少あるいは横ばいですが、大きく伸びているものがあります。政府最終消費支出といわれている部分です。政府が否応なく支出している年金、医療費、介護費用などが大幅に伸びている。これが今の日本GDPを大きく押し上げているです。これが仮にマイナスになっていると、GDPはマイナス成長に落ち込んでいるはずです。極度のマイナス成長は、国としての将来は約束されないのです。ですから高齢者が医療や介護サービスを大いに消費しているという事は、決してマイナスではなく。経済成長に大きく寄与していると考えた方がよい。医療や介護の問題は、医療費や介護費用の高騰ばかりが問題にされているが、それは問題を矮小化させていると思う。真の問題は、増え続ける医療費や介護の需要に対して、供給が追い付いていないという事なのです。医者、看護師、介護職員、医療機器、介護用具の不足があります。稼働率の悪い病院などは統合やベッド数の削減の政策が行われています。高齢者が満足できるような医療体制、介護体制がまだまだ不十分という事です。経費の削減のために、むしろ質やサービスの低下を招いているのです。現在の医療従事者は懸命に働いておられるのですが、生産性の向上が図られていないという事です。どんどん新しいシステム、技術やサービスを開発し、充実させていく必要がある。つまり、この分野の生産性の向上が見られない。停滞して技術革新が止まったままになっている。どんどん高まる需要に対して、供給が追い付いていないととらえるべきなのです。それを外国人労働者によって穴埋めしようとしているのです。安易に外国人労働者に頼ると、医療従事者の所得は増えません。過酷な労働の割には所得が増えていかない。また、それに胡坐をかいてしまうと、医療や介護の技術革新は一向に進展しません。外国人労働力に依存すると、医療や介護の進歩はありません。あるいは混合診療、自由診療を拡大して、保険適応診療を骨抜きにしてしまうような手法はあってはならないことです。世の中の流れは、そういう方向を目指しています。将来国民皆保険は骨抜きにされる可能性が非常に高いのです。人の言っていることを鵜呑みにしてしまうのではなく、いったんは果たしてそうなのかと、調べてみることは大切なことです。一人でできなければ、大勢で手分けして真偽のほどを調べてみることです。そうしないとどんどん間違った方向に流されてしまいます。気が付いたらもう手の施しようがなかったという事態に追い込まれてしまいます。森田理論で学習した通りのことが起きてしまうのです。
2020.05.18
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この番組は自己否定について深く考えさせられる番組だった。役者を職業とする本木雅弘さんは、神経質性格で細かいことにこだわる人であると思う。そんな自分が好きになれない。そのためかどうか友達はいない。樹木希林さんの娘さんと結婚されている。家族の人間関係は良好で、家族からは尊敬されている。番組では、天下の悪役といわれる斉藤道山を演じていた。普通監督のオッケーが出ると、仕事から解放されて「やれやれ」と安心する役者が多い。本木さんは、ビデオを見て納得ができないと、監督と話し合い、何度も撮り直ししていた。共演者を巻き込んでの取り直しなので、大変なことになる。本木さんは自分の神経質性格をストイックであまり評価していないように感じた。「自分には愛がない、だから自分も 愛せない」と思い悩んでいたという。周りからみると一目おかれている、存在感のある役者なのに、完全を求めて現状に満足できない。自分は演技が未熟だ。もっと感動的で人の胸を打つ演技ができるはずだと自分を追い込んでいく。果てしなく完全な演技を追い求めているので、肉体的、精神的に疲れる。そんな本木さんに、樹木希林さんは「もっと 楽に生きたら?自分が疲れない?」と声をかけてくれたとのこと。そんな樹木希林さんに、「そんな生き方ができない人の気持ちがわかりますか」と常々反発していたという。これは取り扱いを間違うと、「かくあるべし」を自分に押し付けることになります。本木さんの場合は、自分の演技がまだまだ未熟だという現実を再認識するように作用している。現実に妥協することなく、問題点や課題を明確にする方向に向かっている。そして改善や改良すべきことを見つけ出して、自分を鼓舞して仕事に臨んでいる。生きるエネルギを生み出す源泉になっているのだ。生の欲望が強い人だ。努力の人だ。絶えず大きな問題や課題を抱えているので圧迫感で苦しいのだろう。その方向は森田でいう「努力即幸福」の世界であって、森田先生が目指されていた世界である。努力している最中は心中穏やかではないのです。でもそうするしか生きる道はないといったイメージでしょうか。そうした中、本木さんが大きく飛躍する映画がありました。「おくりびと」という亡き人を棺に納め、その魂を見送る「納棺師」を扱った映画です。周囲からは葬式の裏側を描いてもヒットしないと反対されたそうです。本木さんは本を読んで自ら提案し、実際に納棺師の仕事を体験された。「自分は現実を知っている、そこに触れたっていう自信ですかね、自信が圧倒的に違った。私にしては珍しく人間に愛情があったんじゃないですか」とコメントされていた。自ら納棺師のもとに足を運び体験されたというのがすごいですね。森田の考え方そのものですね。樹木希林さんが遺された雑記帳の中に、「美によって神に到達するこの道がもっともやさしく望ましい。虚飾なく、それでいて心を動かす何か一芸を観せるんではなく、心を込めて自分を出すんではなく無念な魂を鎮めていただけるよう演じる」という一文があったという。この言葉について、本木さんは「演じる時はまだ答えの出ていないあなたの自我は脇に置いといていた方がいいんじゃない?もう少し素直に祈る気持ちで演じるべきじゃないの…。自分という未完成な状態を晒しているっていう行為で、そうやって認めていくのね、そうやって諦めていくのねっていうことをまた突きつけられた」と述べていた。奥の深い言葉だと思います。正確にはその真意がわかりません。樹木希林さんの「美によって神に到達する道がもっともやさしく望ましい」という言葉ですが、私は次のように解釈しました。どんな理不尽なこと、どんなに不幸な境遇や事件が起きても、最終的には事実、現実、現状をあるがままに受け入れて、自分の出来ることに可能な限り精魂を傾けるような生き方が望ましい。決して「かくあるべし」を前面に押し出して、自己否定、他人否定、自然破壊という過ちを繰り返してはなりませんよ。広島の原爆慰霊碑の前には、「安らかにお眠りください。過ちは決して繰り返しませぬから」と刻印されている。しかし喉元過ぎれば熱さ忘れるではないですが、その固い決意はいとも簡単に忘れてしまうのも人間であります。
2020.05.14
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田舎のお寺の住職さんのお話です。1945年日本は戦争に負けました。その当時アメリカにいた日本人は全員収容所に入れられました。子供からお年寄りまですべての日系アメリカ人が対象になりました。アメリカはドイツやイタリアとも戦っていましたが、収容されたのは日本人だけです。日本人はアメリカ人から「ジャップ」と呼ばれて軽蔑・差別されたのです。突然真珠湾攻撃をつかけてきた卑怯な国とみなされていました。また黄色人種に対して根強い偏見があったようです。身からでた錆とはいえ、なんと不合理で、理不尽な扱いを受けていたことでしょうか。日系アメリカ人はその屈辱に耐えて、ひっそりと日本人であることを隠すようにして生きていたそうです。その艱難辛苦は想像するに余りあるものがあります。その日系移民たちが涙を流して喜ぶ出来事がありました。1963年全米ヒットチャートで3週連続1位に輝いた日本の歌です。坂本九さんの歌った「上を向いて歩こう」という曲です。しかし曲名は「スキヤキ」という名前に変更させられました。日本の歌謡曲が全米ヒットチャート1位になったことはそれ以降ないそうです。日系移民たちはラジオにしがみついてその曲を聞きました。坂本九さんのビブラートのきいたやさしい歌声は、のどの渇き切った砂漠の中でおいしい水をごくごく飲むような体験です。胸が張り裂けそうになり、泣きながらその曲を聞いたそうです。ともすれば卑屈になり、孤立しがちな当時の日系移民の人たちをやさしく包み込んでくれたのです。自分がどん底にいるときに、見捨てることなく、包容力をもって支えてくれる人がいることで生きる勇気が湧いてきます。この歌には、日系移民たちを精神的に支えていく力があったのです。上を向いて歩こう 涙がこぼれないように思い出す 春の日 一人ぼっちの夜幸せは雲の上に 幸せは空の上に上を向いて歩こう 涙がこぼれないように泣きながら歩く 一人ぽっちの夜この歌の歌詞を見ると、「事実唯真」の世界を歌ったものだと思います。事実を土台にして這い上がっていくという力強さを感じます。日系移民の置かれたつらい状況を受け入れて、そこから目線を上げて、目的本位に生きていきましょうと励ましてくれているようです。私は「青い山脈」の替え歌で、「森田とともに」という替歌を作って歌っています。「上を向いて歩こう」もレパートリーに加えたいと思います。この曲はサックスでよく演奏していますが、テンポがよく、ノリがよい曲です。森田に通じる歌詞だと改めて認識しました。
2020.05.09
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森田先生は、精神療法でもそのほかの通俗療法でも、機会さえあれば、なるたけ実験するという心掛けを持っている。前には酸素の注射が、喘息にも効くとの事で、妻に勧められて、連れて行かれた。第一回の時に、喘息は起こらなかった。その日は風呂に入ったから、そのために起こらなかったようでもある。すなわち次に風呂を試みたが、その時は起こった。次には注射ばかりして、すべてその他の条件の加わらないようにして実験をした。今度は喘息が起こった。これで注射も風呂も二つとも、直接に喘息には効かないという事が分かった。普通、迷信・妄信の起こるのは、ある療法で偶然に起こった事を、すべての他の条件を考えないで、そのままに効があったと信じる事から起こるのであります。(森田全集第5巻 210ページ)森田先生は事実の確認をとらないで、先入観や決めつけで物事を判断することを警戒しておられます。他人が教えてくれた情報をうのみにしてしまうやり方では、もしそれが間違いであったという場合どうするのか。データーの裏づけもないのに、自分勝手に否定的な結論ばかり出す。例えば、同僚が笑いながら雑談しているのをみて、きっと自分の悪口を言っているに違いないと決めつける。あるいは挨拶をしたら無視された。あの人はきっと自分のことを嫌いなのだろうと決めつける。多くの人から評判がよく、有能であると認められているにもかかわらず、たった一人からの評判をくよくよと悲観的に考えてしまう。それに振り回されるようになる。確たる証拠もないのに、悲観的な結論を出してしまう。例えば、あなたが大学の先生で素晴らしい講義をしていたとしよう。しかしあなたは居眠りしている学生を見つけました。実際には、この学生は前の晩コンパで飲みすぎて疲れていたのですが、あなたは「どの学生も私の講義を退屈がっているのだ」と決めつけてしまうようなことが起きるのです。事実を先入観によって歪曲してしまう人は、自分にも他人にも不幸の種をまき散らすようになります。観念優先の世界にどっぷりとつかっていますので、現実や現状を目の敵にして戦うようになるのです。その弊害を森田理論学習によって自覚して、生活態度の改善を図ることが、未来の生活が大きく花開くきっかけとなります。事実を無視する人は犬も食わない。分かりきった事でも、現地に出向いて自分の目で確認する。今までの経験でこうなるはずだという事も、一度は実験によって確かめてみる。森田の眼目である事実本位に徹すると、事実を軽々しく取り扱うという事はできなくなります。他人を平気で傷つけることはなくなります。事実こそが神様なのだという考え方のことを「事実唯真」といいます。森田は東の横綱を「生の欲望の発揮」とすると、西の横綱は、「どこまでもどんな時でも事実に寄り添う態度の養成」に尽きると思います。
2020.05.07
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神経質の人が嫁入り後、次のようなことから、神経症がますます悪くなることがある。それは自分が嫁として、良妻・賢母として、誰から見ても非の打ちどころなく、完全な善人になりたいという欲望を押し通そうとし、つまり理想主義にかぶれるために、舅・姑や小姑に対して、日常赤裸々の感情でなく、強いて心をまげてかかるから、周囲からも、かえって不自然なヒネクレのように見られ、自分が善人の義理立てを立てれば立てるほど、かえって周囲から虐待されて、反対の結果になり、その苦しみが重なり重なって、ついには神経症になるのであります。このような人は、入院して精神修養をなし、自然の人情にかえり、心機一転すれば、今までのように、自分が強いて善人になろうとする事をやめ、自分はこれだけのものである。無理に悪人と思われないように、骨を折る必要もないという風に、おうようになり、自然に心も安楽になり、心にこだわりがなくなって、日常生活が、自由自在になり、神経症が治るのである。(森田全集第5巻 205ページ)神経症になるような人は、「かくあるべし」という理想主義、完全主義、結果第一主義、コントロール欲求の強い人が多い。なかなか事実、現実、現状をあるがままに認めようとしない。特徴としては、弁解、言い訳、ごまかし、隠蔽、非難、否定、責任転嫁のオンパレードである。そういう体質の人は、普段からそのオーラを醸し出していて、敬遠されている。他人の行動に対していつも批判的、否定的に見ている人は人望はないのである。人と仲良くしたい、人から尊敬されるような人になりたいという強い欲望はいつまでもかなえられることはない。その悪循環を自覚することが重要である。次に、現実でのたうち回っている自分と、それを見下ろして非難や否定を繰り返して分断している自分を和解させることが必要となる。雲の上にいて、現実の自分を非難・否定ばかり繰り返している自分が地上に降りていく必要がある。つまり自分の中に存在している2人の自分が一人の自分になる事である。森田理論ではその手法については、何項目にもわたって説明している。全部に取り組まなくても、いくつかを心掛けて生活することで、少しずつ近づいていく。そうなれは神経症的な葛藤や悩みは、霧散霧消してくる。そのヒントをこのブログの「事実本位・物事本位」のカテゴリーから見つけ出してほしい。370本の投稿があるので、その中からあなたに合う手法が見つかる事だろう。主な項目を挙げておく。「かくあるべし」の弊害を理解する。事実を観察する。先入観や思い込みは事実から離れていく。真実かどうか実験によって確かめる。相手に伝えるときは具体的、赤裸々に話す。両面観で判断する。相手の話を十分に聞いて理解する。相手と対立したときは話し合いによって調整していく。安易な価値判定をしない。「純な心」から出発する。「私メッセージ」で話す。事実には4つの事実があるので、理解を深める。
2020.04.30
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2017年10月22日に書痙の行方幸吉氏の話を投稿をした。行方氏は、書痙を治すためにドクターショッピングを繰り返したが治らなかった。万策尽き果てて、最初は森田先生のところに入院された。よくならなかった。次に京都の宇佐先生のところに入院された。そこで森田の言わんとすることがよく分かったといわれている。行方氏は、森田療法で書痙そのものは、ついに治すことができなかったといわれている。かっこよく上手に字を書こうと思えば、いつも字が震える。しかし、書痙にとらわれて、仕事から逃げ出すことはしなかった。ここが肝心なところだ。与えられた仕事に一生懸命に取り組んだ。退院直後は、出世コースから外された。健康増進部に配属されたのだ。その時に思ったことは、字を書く以外の仕事で、人並み以上に働いてみようと思った。そして次々と成果を上げて、ついに朝日生命の社長にまで出世されたのである。もしあの時、私がいつまでも主観的な気分に支配されて、会社に出ることをしり込みしていたら、今の自分はどうなっていたであろうか。おそらく、生ける屍となって、一族の持て余し者になっていたであろうと思うといわれている。その行方さんが次のような話をされている。健康増進部の課長は、人の悪口などは決して言うことができない。産業医の診察の報告があまりにも簡単すぎで整理できないといつも愚痴をこぼしていた。課長は産業医に遠回しに訴えるけれども、産業医は全く気が付かない。私は課長からその話を聞いて、それは何でもない。私から言いましょうということで、産業医に実情をありのままに話しました。すると、「ああそうかなあ、なるほど、それは気がつかなかった。それで数年間、問題になっているとは思いがけなかった」といって、さっぱりしたものである。何の感情も害することもなく、改善できた。先日もある料亭で、社から沢山の名士に御馳走をしたことがある。私は課長と一緒に接待役を頼まれた。課長は、接待後のお客様の足を心配されて、タクシーを20台も待機させると言う。これを私が請け負って、お客様に一人一人伺って、「自動車はいかがでしょうか」と尋ねれば、「私はいらない」という人も多かった。また方向が同じという方には、同乗の段取りを取り付けた。その結果タクシーは6台で間に合った。僕は簡単である。先方もさほど悪くは思わぬらしい。行方さんは問題点や課題を認識されて、それを解決するためにどうすればよいかと考えられている。そして考えたことを実際に行動に移されている。かたや課長さんのほうは、観念の世界でやりくりするばかりで、一人で相撲を取っているようなものである。これは森田理論でいうと循環理論という。「こまった」「どうしよう」という考えが行ったり来たりするのである。これでは不安が増悪し、イライラして精神状態が悪くなるばかりだ。どちらが神経症になりやすいかといえば、当然課長さんのほうである。行方さんは、「こまった」状態を、解決するにはどうすればよいのかと考えられた。今の困った現状を明確にさせて、そこから目線を上げて考えておられる。このことを森田理論では、事実に立脚した生活態度という。観念一辺倒から、実践・行動に重きを置いた生活になっている。問題や課題が次々に解決して、仕事の好循環に入っている。神経症を克服すると、ことさら強調しなくても、結果として「事実本位」の仕事ぶりになっているのだ。これを別の言葉でいえば「物事本位」ともいうのである。
2020.04.29
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「馬鹿になれ」ということについて、森田先生が説明されているので、これを取りあげてみよう。森田先生は「馬鹿になれ」と教える代わりに、「偉い人になりたい者は、偉い人を見よ」という。そうすれば自然に、自分は馬鹿のように感じ、これではならぬと努力するようになる。偉い人を見つめよ、うらやめ、あやかれ、そして自分の馬鹿さ加減をよく知り分け、少しでも偉い人の模倣をして、馬鹿でないようになれ。(森田全集第5巻 195ページより引用)これだけでは何のことを言われているのか分からないと思う。早速説明してみよう。普通は偉い人を見ると劣等感を起こして、自己嫌悪、自己否定するようになる。自分の容姿、神経質性格、能力、境遇などを相手と比較して苦しむ材料として使っている。これでは比較すること自体が仇となっている。その弊害を意識して、しばしば学習会では、人と比較するなといわれる。唯我独尊を持ちだして、自分はこの世界でたった一人のかけがいのない存在である。他人のことは気にしないで、自分の信じた道を突き進んでいきなさいといわれる。人と比較することを忌み嫌っているのである。しかし他人がいれば、様々な面から比較しているのが普通の人間である。人と比較するなといわれても、それは無理だと思う。人と比較するのが人間の本来性とすると、比較のやり方を今一度再考してみる必要があると思う。自己嫌悪、自己否定する人は、自分の立ち位置を雲の上のようなところとっている。そこから現実の自分を評価しているのである。他人と比較して劣等感的な物差しをあてて、あれがダメ、これがダメと批判を繰り返しているのである。現実で苦労しながらなんとか生きている人にとってはたまったものではありません。かばってくれるべき身内が歯向かってくるようなものですから。こうなると人と比較することは弊害以外の何物でもありません。しかし他人と比較して自分の今の状態を把握するということは、見方を変えればこんなに役立つことはありません。自分の現在の状態が比較することではっきりと浮かび上がってくるからです。そこを出発点にして、発奮して這いあがっていくための材料として活用すれば、こんなにありがたいことはありません。自分で気づかなくても、他人と比較することで、正確に分析することができるようになるのです。そのためには、「かくあるべし」でがんじがらめになっていてはまずい。現実や現状を素直に認めて受けいれるような状態になっていないと、役立てることはできない。比較するということは、自分に刃を向けるものでもあるし、その役割を自覚しているものにとっては、貴重な発奮材料にもなるのである。森田先生が言われる「偉い人にあやかれ」といわれているのは、そのことだと思う。つまり自分の立ち位置をしっかりと現実において、上を見上げて大いに比較して現状認識を深めていきなさいという事だ。立ち位置が地上にあるので、あとは目標に向かって努力するのみになる。結果として事実本位の生き方になるのです。
2020.04.19
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森田全集第5巻の180ページに次のような話が紹介されている。元入院患者の奥さんから森田先生に、長文の手紙が届いた。その内容は、主人が私に悪口、乱暴、非人情、不品行なことばかりする。どうか主人に意見して、改心させてもらいたいと依頼する内容だった。森田先生はその手紙を一番弟子といわれる古閑義之先生に見せて、君の見立てはどうかと聞かれた。古閑先生は、この奥さんに同情して、入院してあれほどよくなったのに、奥さんをそれほどまでいじめるとは、ひどいご主人だと思った。森田先生にこのことを話したところ、「それは判断の仕方が悪い。言葉の見かけに騙されている」といわれた。森田先生の見立てはつぎのようであった。この奥さんの言う通りだとすれば、全く理由もないことに、非常識の乱暴をするので、その主人はほとんど精神異常と見なければならない。すなわち奥さんは、ただいたずらにご主人の悪いことばかりを誇張して、しかも自分の欠点・短所は少しも省みないで、自分がどうした場合に、主人が悪口したかという事は、ほとんど少しも書いていないのであります。すなわちこの奥さんは、少しも自己反省の力がなくていたずらに相手のみを嫉視・憤慨するもので、ヒステリー性・低能性のものと鑑定しなければならぬ。森田先生は、この奥さんは自省心がない。また話に具体性がないといわれている。強い自己内省性は神経質者の特徴の一つとされている。これが感じられない。ごまかしたり嘘を言わないで、具体的、赤裸々に自己のことを語ることは、神経症を克服するためには必ず通過する関所のようなものです。この奥さんにはそれが欠けている。森田先生は人を見立てる場合に、その人が事実とどう向き合っているのかを重視されている。その人の言動から、ごまかし、嘘をつく、弁解、言い訳、事実のねつ造、責任転嫁、他人批判、自己正当化、同情を得るなどが見られた場合は、甚だしく事実を軽視しているとみておられるのです。森田理論は、生の欲望の発揮と並んで、事実本位の生活態度の養成が核となっています。ですから事実を軽視している人は決して見逃すことはできなかったのだろうと思います。その点は入院生に対して大変厳しかった。この奥さんの場合は、入院してよくなったにもかかわらず、事実本位の面から見ると、まるっきり反対であった。つまり第一段階の治り方はしたかもしれないが、第二段階の治り方には程遠い。こういう人は、森田理論によって、神経質者としての人生観を確立するというところまで行きつくことはできない。いいところまではいったのに、実に残念な結果に終わったとみるべきであろう。
2020.04.17
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毎日テレビで天気を予想しています。まだ事実として雨が降っているわけではない。雪が降っているわけでもない。雷が近づいていない。台風が近づいてもいないうちから将来起こりうる事実を予想しているのです。これがとてもよく当たっている。95%ぐらいは当たっている。ここまでよく当たると、地震や火山の噴火も正確に当ててもらいたいという気持ちになります。ここはまだまだですね。つぎに、競馬の予想はどうでしょうか。予想が95%近く当たるようになると、そもそも競馬は成り立ちません。また、株式の上げ下げも天気予報のように、95%の精度で予想することはできません。株式投資の先生は、将来の株価を当てることなどは不可能だといいます。SNSなどで明日上がる銘柄指南をしている人の予想が当たることは少ない。ラグビーボールがどちらに転ぶか分からないようなもので、予想することは無意味だといいます。株式の変動は、横ばいか、上げるか、下げるかの3つしかない。その3つを予想して、どのような変化が起きても、素早く対応することしかできないといわれます。森田理論では、事実を観念で見誤ると神経症を招いてしまうといいます。事実でもないものを勝手に間違いないと決めつけて、それに基づいて行動することは時として取り返しのつかないことになると指摘しているのです。でも天気予報は事実でないものをほぼ正確に予想しているではありませんか。事実として目の前にないものを、正確に予想するためにはどうしたら可能になるのかという疑問が湧いてきます。その疑問を解決するには、天気予報がどのように行われているのか調べてみる必要がありそうです。天気予報を当てるためには、今現在起こっている現象を詳しく観察して分析しているのです。あてずっぽうで予想しているのではなく、今現在の事実の観察を積み重ねることで、自然に将来が浮かび上がっているのです。観念にたよっているのではありません。宇宙には、気象衛星ひまわりが雲の動きを観察しています。雨雲の動向は一目瞭然です。台風の発生はすぐに分かります。地上では「アメダス」があります。全国各地に840カ所もあります。これによって気温、日照時間、降水量、風速、風向きを正確に観察しています。それから気圧の配置図についてのデーター、偏西風の動向も正確につかんでいます。これらのデーターを気象庁のスーパーコンピューターに送って随時分析をしているのです。また目視観測も毎日14回行われているそうです。これは空の様子や、雨や雪などの大気現象を人の目で観察することです。例えば夜星がキラキラと輝いていると、大気が不安定になっており、天気が崩れやすい傾向があるそうです。またツバメが低く飛ぶと、雨雲が近づいているというふうに分析するそうです。それはツバメのエサとなる昆虫が湿気で重くなり、高く飛ぶことができなくなるからだそうです。その他、あの山に傘をさしたような雲がかかると雨になるというような昔からの言い伝えも参考にしているのです。これらの多くの事実をまとめて総合的に判断すると、つぎに起こりえる事実が高い確率として予想できているのです。そのためには多くの人の協力を得て気象情報を詳細に観察するという努力が不可欠なのです。大変な状況に突然出くわして、右往左往するよりも、将来を予想して、その変化に対応できるように仮説を立てておくことは、自分の身を守るためには大変重要になります。その仮説を立てるためには、今の事実を徹底的に観察していくという態度が欠かせません。そうでないと予測はただ単なる希望的願望に終わり、事実とは反対の現象が生まれるということになります。そういう予想は「かくあるべし」に近いものです。自分や他人を不幸に陥れるものであることを忘れてはなりません。天気の予想は、様々な観察を積み重ねることで可能になっていることを忘れてはなりません。私たちはこれに学んで、事実を観察し、実験によって検証するという態度を維持しなければなりません。
2020.04.09
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森田先生曰く。この形外会で、ある患者は、自分を赤裸々に打ち出すことによって、急に治ったこともあった。(森田全集第5巻 124ページより引用)形外会という公の場で、自分の症状のことを隠さないでありのままにしゃべることで、神経症は治すことができるといわれているのだ。ここでのポイントは、大勢の人のいる場で自分の症状を公開するということだ。今でいえば体験発表などの場のことである。これを時々思い違えて、入院患者が2~3人で部屋に集まって、コソコソとお互いの様態を話し合うことがある。これは森田先生が言う赤裸々に話すこととは全く違う。これはお互いの傷をなめ合って、少しでも苦痛から逃れようとしているだけのことである。人間は他人に知られるとまずいと思うことは隠します。ごまかします。弁解、言い訳、責任転嫁をする習性があります。例えば髪が薄いのを隠すためにかつらをつける。身長が低いのでシークレットブーツを履く。太っているのを隠すために、コルセットのようなもので身体を締め付ける。シミなどを隠すために厚化粧をする。こうした生活態度は、事実、現実、現状を決して受け入れないという信念からきています。弱み、欠点、ミス、失敗などはあってもよいが、他人に知られてはならない。他人に知られると、軽蔑される。馬鹿にされる。最後には軽くあしらわれて、仲間として受け入れてもらえなくなる。そうなるとこの社会で生きていくことができなくなる。そういう状況に陥ることは何とか回避したいという本能的な欲求があるのです。そのような行動をとることで、危惧している状況は回避できているのでしょうか。残念ながら、隠そうとすればするほど周囲の人は、隠していることに気づいています。それは夜間、蛍光灯をつけた部屋内は外からよく見えますが、中から外にいる人のことが全く見えていないのと同じことです。反対に、都合の悪いことをうまくごまかして、自分たちをだまそうと装っていることに対して、「この人は信頼できない人だ」「気を許しているといつか危害を加えられるかもしれない」などと、バリアを張るようになるのです。決して人間関係はよくなりません。私が小学生の頃、テストで平均点が60点ぐらいの時、30点ぐらいしかとれていない友達がいた。その友人は何を思ったのか、休憩時間に友達に見せていた。私にはできないことだった。すると、みんなが寄ってたかって「こんなところを間違えたのか。バカだなあ」と冷やかされていた。友達は、意気消沈するかと思いきや、むしろそれを自慢しているようだった。先日、同窓会があって、その方にどんな仕事をしていたのかと聞いてみると、誰でも知っている大きな会社の部長だったという。部下が大勢いたという。それをうまく束ねていたそうだ。彼は「運が良かっただけだよ」と言っていた。しかし同級生の中では出世頭だった。この友達は、自分をよく見せるために、隠したり、ごまかしたりしなかったことが、幸運をもたらしたのではないかと感じました。それだけのことなのに、人を引き付けることが自然にできるのです。自分の弱み、欠点、ミス、失敗などを隠さないでおもしろおかしく公開できる人は、「かくあるべし」を自分や他人に押し付けることをしない人です。いつも事実に寄り添い、事実本位の生き方が身についている人です。そういう人は肩ひじ張らず、楽な生き方ができています。さらに、自分の周りに自然に人だかりができているのです。赤裸々に自己を打ちだすことは、事実本位の生き方を身につけるための、ひとつの関門となっているのです。
2020.03.27
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森田先生は「具体的に話す」ことを指導されている。具体的ということについて説明すれば、たとえば「生活を正規にせねばならぬ」とか、「精神を常に緊張していよ」とか、そんなことは抽象的のことで、実際には何の役にも立たない。ここではその事を例えば、「7時間以上、寝てはいけない」とか、「終日戸外にいるように」とかいう風に、具体的に教えて、それで立派に生活正規、精神緊張の結果が得られるのであります。これを抽象的に言うようでは、私のいわゆる思想の矛盾で、かえってその結果は思うようにならないのであります。(森田全集第5巻 90ページ)森田先生は具体性を欠いて、抽象的な話をすることを大変嫌っておられた。これを循環論理と言っておられる。神経症の患者に、「どこが悪いか」と聞くと、「神経衰弱だ」という。「それでは分からぬ。まず症状をいうように」といえば、「物が気になる。いろいろのことが苦しい」と答える。「ともかくも、何が一番苦しくて、第一に治したい事は」と反論すれば、「神経衰弱を治してもらいたい」という。これを循環理論といって、果てしのないことである。この場合、「気になる」と「神経衰弱」とが循環するのである。この時に、何が気になり、それをどのように改良したいかという事を、具体的に実際に追及していけば、初めて煩悶がなくなって、ともかくも、ある一定の方向に、活路が見出されるようになる。(森田全集第5巻 517ページより要旨引用)学習会でも、自己紹介などで、「私は対人恐怖症です」などと抽象的な話をする人が多いのが現状です。話することが恥ずかしいのか、隠しておきたいのか、話すことが面倒なのか分かりませんが大変残念なことです。少なくとも森田が目指している方向ではありません。ある商工会で、県内の企業348人を対象に、言葉のイメージを調査したそうです。その一例を紹介しましょう。大勢とは何人ぐらいでしょうか。回答は、最多が1万人、最小が4人だったそうです。おじさんは何歳以上の人のことを指しますか。最高は78歳。最小は22歳。長電話の時間はどれぐらいのことを言いますか。最長は10時間。最小は2分。つまり会話の中で、大勢、長電話、年寄りなどの抽象的な言葉を使っていると、受け取る人によってさまざまで、発信者の正確な意図はほとんど伝わらないということです。「みんながそう言っている」という言葉をよく聞きますが、実態を確かめてみると友達の一人だけがそういっていた。私もその話に賛同した。すると「もうみんながそう言っている」ことになってしまっているのです。これを誰それさんが「こう言っていた」「私もその通りだと思う」「その考えを支持します」と具体的に話すればまちがって伝わることはありません。具体的に話すという態度の獲得は、事実本位の生活態度を身につけるための出発点となります。事実をよく観測する。具体的に話す。隠しごとをしないで赤裸々に話す。いいわけをしないで話すことは、事実本位の生活態度を身につけるための関門となるわけです。
2020.03.23
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人間は放っておくと、「かくあるべし」が前面に出てきて、自己否定をする生き物だと思います。自分だけならまだしも、他人、配偶者、子供、親にも「かくあるべし」を押し付けてしまいます。それが言葉を使い、大脳の前頭前野が発達した人間の宿命でもあります。森田理論学習では、「かくあるべし」の発生や弊害について学んできました。そして「事実本位」生き方の重要性について再認識しました。でも「かくあるべし」はなかなかしぶとくて、容易に「事実本位」を身に着けることができません。意識的に取り組んでいかないと難しいように思います。今日は自分を認めて受けいれるキャッチフレーズを考えてみました。これを机の前に貼りつけたり、メモするなりして意識付けをするというものです。参考になるのは、赤塚不二夫の天才バカボンの口癖の言葉、「これでいいのだ」です。これを脚色して自分なりキャッチフレーズを作りませんか。参考例をあげておきます。「あるがままの自分でいいのだ」「人間は裸で生まれてきたのに、これ以上何を望むのだ」「苦しいときは逃げてもいいのだ。うまく逃げたあんたはえらい」「時にはウソをついてもいいのだ。ウソをつくことは方便なのだ」「たまにはミスや失敗をしてもいいのだ。言い訳しないでユーモア小話のネタにするのだ」「弱点や欠点がいくらあってもいいのだ。見方を変えると弱点や欠点は自分の最大の強みなのだ」「勉強ができない。仕事ができなくてもいいのだ」「たとえ容姿が醜くてもいいのだ」「いつもおどおどする神経質な人間でもいいのだ。裏を返せば鋭い感性を持っているということなのだ」「引っ込み思案で自己主張ができなくてもいいのだ。そのおかげで大きな失敗はしないのだ」「ガンになってもいいのだ。健康のありがたさに気づくことができたのだ」「自分の配偶者、子供、両親、兄弟姉妹、友達は今の自分にぴったりなのだ」「どんな自分であっても今が最高なのだ」舌足らずのところは自分で改良してください。その他、本当は自分なりにピッタリする言葉を考えてみてください。いつも口ずさんでいると、その気になってくるのが不思議です。これらは、理不尽で不甲斐ない自分を嫌悪するよりは、まず開き直って現実を素直に認めてしまいましょうという戒めの言葉なのです。普通、あまりにも「かくあるべし」にがんじがらめにされているので、身動きがとれないのです。「事実本位」とのバランスをとるためには、少々手荒な手法も取り入れることが必要なのです。自分の気にいった言葉を机や日記などに書いて毎日唱和するのです。現実を上から下目線で否定するのではなく、事実、現状、現実の自分を素直に認めて受け入れていくことを目指しているのです。そしてどんなに問題を抱えていても、自分に寄り添って、自分をかばい護りきって見せるという決意の表れなのです。死ぬ時までその気持ちを持ち続けることが肝心です。すると次が開けてくるような気がするのです。自分にどんなことが起きても、自分の味方で庇うことができる人と、自分との果てしない戦いに明け暮れる人では格段の違いが生じてしまいます。人間の幸不幸というのは、自分がどちらの立場に立っているかに左右されてしまいます。素直というのは、理不尽で嫌な事実、現状、現実をあるがままに認めることができる人です。素直の反対は、屁理屈、弁解、責任転嫁、拒否、無視、抑圧、否定を繰り返している人のことです。これを信条として、自分、他人、子供、親たちに「かくあるべし」を振り撒いているのです。これで幸せになろうというのは思い違いも甚だしいと言わざるを得ません。
2020.03.15
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頭に浮かんだ「雑念」にとらわれて、家事や仕事に集中できないという悩みを持っている人がいた。一般的には、「雑念」のことは気にしないで、目の前のなすべき家事や仕事に集中しなさいということになる。しかし、実際に雑念恐怖の人はそれではい分かりましたということになるだろうか。私はまず無理だと思う。この方には、「雑念」はあってはならないものだという認識の誤りがあると思う。「雑念」があっては、目の前の家事や仕事に集中できない。「雑念」を邪魔な存在として忌み嫌っているのである。何とか「雑念」が頭の中に出てこないように様々工夫しているうちに、注意と感覚がその一点に集中して、イライラしてどうにもならなくなってきた。自分一人ではどうすることもできない状態になってしまった。どうしたら「雑念」を気にしなくなるのか。あるいはどうしたら取り除くことができるのかという相談です。解決法としては初心者のうちは苦しくても目の前のなすべきことをなしていくことでしょう。しかしいつまでもそこで留まっていてはまずいい。次に認識の誤りを正していくことも必要だと思う。この「雑」がつく言葉を探してみると、雑草、雑魚、雑誌、雑仕事、雑踏、雑種、雑木林、雑煮などいろいろとある。全体に共通するイメージとしては、不要なもの、邪魔なもの、存在していてはいけないもの、役に立たないというものだ。多くの人間がそういう共通のイメージを持っているものだ。これらは、人間が勝手に存在してはいけないものと評価をしたものの総称である。本来、「雑草」という植物がある訳ではない。人間にとって少しも役に立たない。それどころか種を撒き散らかして、本来人間が育てている野菜の生育の邪魔をしている悪しき存在物なのである。「雑草」取り除くためにどれだけのエネルギーや除草剤を使っているのだと思っているのかと言いたいのである。「雑草」は人間にとって不必要なもの、そして戦うべき相手なのである。「雑草」自体は、与えられた環境の中で精いっぱい生命力を発揮しようとしているだけなのだ。その点では私たちと同じ目的の基で生きているのだ。「雑念」はなくすることができるのか。人間は目の前の出来事に対応して、次々とたわいもない感情が湧き起こるようになっている。一つ一つの感情に対する注意の集中は少しの時間である。映画のシーンを見るようにどんどんと変化して移り変わっていくのだ。それが太古から繰り返されてきた人間の自然の姿である。目の前の出来事や刺激に対して、一時的にとらわれてはすぐに消え去っていくのが本来の姿である。「雑念」恐怖の人は、そんなとりとめのない感情の発生はなきものにしたいといわれているのである。感情を自分のコントロール下において、自由に制御したいといわれているのである。そのような自然に反することはできない。走るときに手を振らないで、垂らしたまま走ってくださいと言われるようなものである。自然の営みに反旗を翻しているようなものである。自然の変化に従う生き方のほうが、理に適っているし、楽な生き方ができる。仮に、雑念がなくなって、目の前の家事や仕事に集中するどうなるのか。神経がその一点に固着されるということになります。変化に対する感情の流れが止まってしまいます。水の流れを止めてしまうと、藻が生えて、雑菌が湧いて異臭を放つようになります。この状態は森田が目指していることとは真反対のことです。すると精神活動は緊張状態から、弛緩状態に陥ってしまいます。弛緩状態になると気づきや発見を思い浮かばなくなり、活動は停滞してしまいます。こういう状態で、神経症は発症しやすくなるのです。ですから、雑念はむしろどんどんと発生させたほうがよいのです。そういう状態を森田理論では「無所住心」と言います。昆虫が触覚を使って四方八方に神経を研ぎ澄まして生活しているような状態となります。一時的にとらわれても、すぐに流して、次々ととらわれる対象が変化していくことが望ましいのです。それが人間にとっても生き生きと生きられる道となります。雑念がつぎつぎと浮かぶことは、精神が緊張して活動状態にあり、喜ばしいことであるという認識を持つことが大切となります。
2020.03.13
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元広島東洋カープの選手だった衣笠祥雄さんは、1987年国民栄誉賞に輝いている。その理由は、当時の連続試合出場の世界記録を超えたからである。当時の記録は2130試合であった。衣笠さんはその後さらに2215試合まで記録を伸ばした。約17年間一日も休まずに試合に出続けたことになる。その間不振に陥り同僚の選手からも、「お前が打たなかったから負けた」と嫌みを言われることもたびたびあった。そんな時、衣笠さんは、決して腹を立てるようなことはしなかったそうだ。次の日は、バッティング投手に打ち取られた球種とコースを要求して猛練習をしていたという。ふがいない結果を受けいれて、気持ちを切り換えて、常に前進する気持ちを持ち続けたのであろう。その不屈の闘志は一体どこから生まれてきたのだろうか。最大のピンチは、1979年に巨人の西本投手の投げたシュートが肩甲骨に当たり亀裂骨折をしたことだ。連続試合出場が10年目に突入して、日本記録更新まで124試合に迫っていたときだった。その試合で西本投手は3連続死球を与えたため、大乱闘に発展した。倒れ込んだ衣笠選手に駆け寄ってきた西本選手に衣笠選手は次のように声をかけた。「来るな。大丈夫。危ないからベンチに帰っておけ」だったという。実際には大丈夫ではなかった。骨折して、激痛が走り、痛みで眠れなかったのだ。戦線離脱しても不思議ではない状況だった。自分が苦しんでいるにもかかわらず、よく相手のことを思いやる言葉が出たものだ。西本選手は、宿舎に帰ってから、すぐに謝りの電話を入れた。怒鳴られることを覚悟していた西本選手に信じられない言葉が待っていた。「心配するなよ。それよりも、勝てるゲームを落として損をしたね」その試合巨人は7対1で勝っていたが、最後には8対8の引き分けに終わった。涙が出るような、暖かい言葉であったという。さらに驚くことに、次の日、代打で出て、江川投手の速球に3球三振だった。すべてフルスイングだった。衣笠さんは、「1球目はファンのため、2球目は自分のため、3球目は西本君のために振った」という言葉を残している。バットを振った勇気と粋なせりふは、西本選手の胸に染みたという。「気にするな。そういってくれていると受け止めた。衣笠さんの気づかいがあったから、その後も思い切って内角を攻めることができた。(思うように投げられない)イップスにならずに済み、長らく野球人生を送れた」「もしあの時、衣笠さんの大記録が途切れていたら、おそらく僕の野球人生はその時点で終わっていたと思う」衣笠氏の励ましに力を得て、西本投手は、その後もひるむことなく得意球のシュートを投げ続けた。翌年から6年連続で2桁勝利をあげる投手へと成長した。さらに中日に移籍した1989年には20勝で最多勝に輝いている。普通なら自分を傷つけ、野球生命を奪いかねない死球を与えた投手に対して、憎しみ以外は何も湧かないような気がする。故意ではないにしても、損害賠償を要求したくなるような気がする。自分の苦しいことは横において、相手のことを思いやる気づかいは私にはできない。衣笠さんは、理不尽なこと、不幸な出来事に対してそのままの事実を受けとめる態度で貫かれている。どんなに承服しがたい事実であっても、素直に認めて受け入れるという態度が身についているからこその言動である。常にそこから這いあがっていくのが人生なのだと教えてくれている。この話は、実は森田理論が目指している世界であると感じた。事実本位の生き方です。森田理論の核となる考え方なのだ。森田理論を学習したことのない人が、それを身につけて、生活の中で活かしておられたことに驚きを隠せない。(2020年2月2日 中国新聞参照)
2020.03.12
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今日はサッカーのドリブルデザイナー岡部将和さんの紹介をしたい。逆転人生という番組で紹介された内容である。岡部さんは子供のころからサッカーのドリブルが上手だった。それに磨きをかけて世界一のプロサッカー選手になることが夢だった。小学校6年生の時に、横浜マリノスジュニアユースの入団テストを受けて合格した。300人の中で4人しか選ばれない狭き門だったのに合格した。しかしその後は不運が続いた。大学時代はチームメイトと接触して肩を脱臼した。その後、脱臼癖がついてしまった。サッカーの名門校だったが、プロからの誘いはなかった。大学卒業後は、Fリーグのフットサルのプロチームに入った。給料は勝利したときのみ支給された。当然生活は困難を極めた。そこでやむなく副業を始めた。子供たちにフットサルを教えるコーチのアルバイトを始めたのだ。そこで研究を重ねて、ドリブルで相手を抜く方法を、誰でも理解できるように理論化した。感覚ではなく、言葉で具体的に説明できるようになったのだ。それをビデオ撮影してSNSで毎日発信し始めた。ここから逆転の人生が始まった。この動画は再生回数が2億回を超えているという。現在は日本中を回ってドリブル理論の普及に力を入れておられる。依頼が止まらない状態になっている。SNSの拡散は世界中に及んでいる。番組では日本代表の小林祐希選手に指導を行っていた。元オランダ代表のエドガー・ダビッツ選手との親交もできた。尊敬していた元アルゼンチン代表のアルマール選手との面会も実現した。今やNBA、フェンシング、東芝のラグビー、ボクシングの選手に対しても指導依頼が舞い込んでいるという。みんなが間合いのとり方の指導を求めてくるのだ。岡部さんの言う相手を抜くドリブル理論とは何か。まず、相手とボールが届かない距離をとることが必要だ。距離を保って弧を描くようにボールを動かす。次に、シュートするときの相手との角度が大事だといわれている。ゴールと目の前にいる相手と自分が一直線の場合を180度とする。自分が右や左に動いて135度ぐらいに持っていく。シュートするときは、3度小さくボールを動かす。4回目に蹴る。その時軸足を前に出して蹴るようにする。その他ボールに足をつけたまま右左、上下に素早く動かすスクラッチという技がある。これらは理論を理解して、練習に励めば誰でも身に着けることができるという。ドリブルの上手な選手がいると、相手チームは2人3人と複数で対応に追われることになる。すると味方の選手がフリーになって比較的自由に動くことができるようになるというメリットが生まれてくるという。この話は森田理論学習の方法論として役に立つ。私は森田理論学習はまず基礎的学習を行うことから始める。その後、「森田理論の全体像」を理解して、4つの核になる部分を深耕する。これは何度もこのブログで取り上げている。その他森田理論のキーワードの学習、まとめを行う。それらを実際の生活に少しづつ応用していく。つまり理論と行動のバランスを意識して生活する。そのためには自分一人で学習や実践をするのではなく、仲間や先輩の力を存分に活用する。この流れを踏んで学習と実践に取り組んでいくと、真剣に取り組んでいる人は誰でも森田的な素晴らしい人生観を獲得することができる。これは一旦身につけると一生ものになる。こんな宝物をお金をかけずにものにできるのだから、放っておくてはないと思う。
2020.03.04
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人間は、「先入観、決めつけ、思いこみ」を事実と見誤る生き物である。事実を捏造して、それを基にして、自分の考えを述べたり行動する。他人をネガティブで悲観的なレッテルを貼るのが習慣になっている人が多い。こうした態度は、森田の事実唯真の立場から見ると、まるっきり反対の方向に向かっている。そして思想の矛盾に陥り、自他ともに葛藤や苦悩を招きよせている。これでは人間関係が改善することはないと思う。たとえば、以前このブログに対して、誹謗中傷をする人がいた。私がよく知っている人であった。昔は一緒に世話活動をしていた。自分の意見を臆することなく、大勢の前で正々堂々と述べられていたので、一目置いていた。今は集談会には参加されていない。森田理論の深耕にのめりこんでいる人である。会社を辞めたときは、ひどく落ち込むという経験を持っておられた。その方とメールでやり取りして分かったことは、このブログはほとんど読んではいないことが分かった。それなのに誹謗中傷を周囲の人にまき散らしていたのだ。私という人間を知っているので、森田理論学習の世界では大した実績もない。得るものは何もないはずだという強力な「先入観、決めつけ、思いこみ」を持っておられたのだと分かった。それを他人に向かって事あるごとに吹聴しておられたのだ。無視するだけならよいのだが、こき下ろすような言動があるので、無視できないのである。しかし何を隠そう私自身にもそういう傾向が強い。たとえばある人が会の責任者をしておられる。私は責任者はみんなの意見を取りまとめて、方向性や方針を出してリーダーシップを発揮してほしいという気持ちを持っている。しかし実際には名前だけの責任者である。ほとんど何もしない。このままでは会が衰退してしまうだろう。そうかといって責任者を変わりたいという気持ちはないようである。こうしたことが続き、あの人は責任者として不適格であるというレッテルを貼ってしまったのである。そういう考え方がゆるぎない信念として定着してきた。一旦「先入観、決めつけ、思いこみ」にとりつかれてしまうと、払拭することはとても困難だ。すると相手の言うことなすことが我慢ならなくなってきた。腹が立つのである。イライラして不快感で押しつぶされそうになった。言動も時折相手を責めるような雰囲気になってきた。困ったことになった。自分一人ではどうしようもなくなり、他の人に相談した。その人は、まずその現状を認めるしかないだろうという。今はそういう時期だ。でもその状況が永遠に続くわけではない。その人を非難するばかりでは事態は悪化するばかりだ。また意欲満々の時とやる気がない時は、波のようにうねっている。波の底にいる時は、上がってくるのを注意深く見守るのが賢明だ。それが現実、現状に寄り添う事実本位の実践になる。どんなに心もとなくても森田でいう原点回帰する必要がある。その人が責任者としていてくれることで、あなたも全部の責任を背負わなくて済んでいる。役に立っている面を見たほうがよい。そしてさりげなくその人が気がついていないことで、役に立つことを見つけて実行してみたらどうか。その人をサポートすることを見つけて実行してみたらどうか。現状を受けいれて、今の自分にできることを手掛けられてはどうか。そうすれば事態が多少なりとも好転する。さらにその方の評価も上がる。私はこの話を参考にして、イライラする気持ちを抱えたまま、その人のサポート役に回ることにした。今はどちらが責任者か分からない状態だ。ちょっと出しゃばりすぎている。その点は反省している。森田の「不即不離」の考え方を応用して、刺激を与えては、一歩下がって見守る。それの繰り返しを続けてみたい。相手の役割を全部取り上げて、自分がとって変わるようなことは、断じて避けなければと思っている。そのうち、その人が刺激を受けて、再び勢いを取り戻してくれるのを祈っている。
2020.03.02
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約束の時間に遅れてやってきて、「実は渋滞に巻き込まれてしまいまして、遅れてしまいました。自宅はゆとりを持って出たのですが」などという人がいる。事実はその通りなのかもしれない。あるいは、本人が嘘をついていいわけをしているのかもしれない。真相はよく分からないが、約束の時間に遅れてきたことは事実である。相手は、「それは大変でしたね」といってくれるかもしれない。そうなると、相手は遅れてきたことを許してくれたと安心するかもしれない。でもこのような対応は相手にしてみれば、なんか釈然としない。それはなぜか。それは相手が自分の行為を正当化しようとしていることに対して、無意識の反発を感じるからではなかろうか。遅れたのは、自分のせいではありません。交通渋滞が招いた結果です。だから私は悪くないんですと自分を正当化しようとしている。相手に与えた損害や迷惑に対しては無頓着なのだ。ですから、弁解や言い訳を付け加えてくどくどと説明することは、相手に嫌悪感をもたらすのです。「遅れまして、誠にすみません」の後で、自分を正当化しようとすると、相手の心の中に、この人間はいつも弁解やいいわけをする人なのだなという先入観を与えてしまう。拡大して、この人は人間性に問題がある。信用できない人だなと思われてしまう。これが商売などでは以後の交渉に大きな影響を与えてしまう。まだ指摘してくれればよいのだ。普通はすっと離れていく人のほうが多い。遅れてくる人を観察してみると、平気でドタキャンをすることがある。宴会や旅行や研修会が迫ったという頃になって、急に断りの電話がかかってくる。どうも参加する意欲がなくなりましてとは、まず言わない。ありとあらゆる理由を付け加えて説明される。「どうも風邪を引いたみたいなんです」「親戚の葬式が入りました」「急な打ち合わせに出席する必要が出てきました」「子どもに熱が出ました」「その日は別の用事が入っていました。参加したいのはやまやまなのですが、今回はどうしてもいけそうにありません」「その日は遺産分割の会合を開くことになりました」思いつく限りの理由を並べ立てて、ドタキャンを正当化しようとしている。本人はうまい理由を考え付いて、ドタキャンに成功したと喜んでいるのだろう。10のうち2つや3つは事実かもしれない。でもそのほとんどは嘘だということは、相手にとっては大体察しがついている。過去のその人の行動を振り返ってみれば大体読めるのである。同じようなことを何度も繰り返している。それが習慣になっているのです。カエルの面に小便のようなもので、心の痛みを感じる感性が麻痺しているのです。だから過去にそんな行動をとった人は、まともに信用しない方がよい。参加の意向を示しても、ドタキャンを想定して受け付けるとショックは少なくて済む。普通ドタキャンされた人は、理由が何であれ、苦々しく思うものだ。宿泊、食事、交通の手配、予算計画などをすぐに変更しないといけないのだ。当日になると変更できない。お金は後で払いますからといわれても、「はい分かりました」とすんなり納得できないのだ。そんなことはお構いなしに、自分の都合を優先してしまうその態度が許せないという気持ちになるのだと思う。弁解やいいわけをすることが常態化している人は、森田理論の「純な心」の学習をお勧めしたい。森田先生の逸話がある。うさぎ小屋の掃除をしていた人が、突然侵入してきた猛犬にうさぎをかみ殺された。その時、自分は悪くない。入口の作り方が悪いなどと弁解された。それを聞いた森田先生は烈火のごとく叱られた。弁解や言い訳は、事実に素直に向き合う態度を養成していることから考えると決して看過できない。神経症の治療からはますます遠ざかっていくことを指摘されたのだと思う。弁解やいいわけが常態化していると、事実本位の生活態度を身に着けることは永遠にできないと思う。
2020.02.25
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織田信長は桶狭間の戦で今川義元に勝ちました。その時の今川義元の軍勢は25000人といわれています。それに対して織田軍は4000人でした。軍勢では6倍強の差がありました。多勢に無勢、普通でしたら、今川軍の勝利は間違いないところです。ところが実際の事実は大どんでん返しが待っていたのです。最近の相撲でいえば炎鵬という小兵力士が、200キロ近い大きな力士に勝ったようなものです。しかも幕内で勝ちこしている。舞の海以来の痛快な出来事です。なにしろ大人と中学生くらいの体格の差があるのですから、どう見ても勝ち目はなさそうに見えます。普通でしたら相撲も柔道と同じように、体重別にしてくれと言いたくなるところです。炎鵬のその不利な事実を受け入れたうえで、果敢に勝負に向かう姿勢にとても好感が持てます。炎鵬は小さい体を活かして俊敏な動きで相手をかく乱すること、奇襲作戦を仕掛けること、相手の足を抱えて相手の動きを止めることに専念しているように見えます。織田信長もその不利な状況を認めたうえで、果敢に戦う道を選びました。すぐにあきらめたり、降参しないで、命をかけて闘う道を選択したのです。普通の人はこの段階で躓いてしまうのではないでしょうか。不利な事実を認めると、注意や意識は、勝つためにはどんな戦略を用いるかに移ります。まず敵の目をかく乱するために25000人の兵力を分散させることを考えました。自軍の兵力のないところに、たくさんの幟を立てたのです。つまり自分のいる場所の陽動作戦をとったのです。次に、信長は、今川軍の動向を探るために密偵を放しました。今川軍に隙が生まれる瞬間がないか情報収集させたのです。するとある密偵から、「今、今川軍は桶狭間という山の中で休息をとっている。兵は酒を飲んだり昼寝をしたりしている」という情報が入りました。「今が千際一隅のチャンスだ」と判断した信長は、すぐに奇襲攻撃をかけました。これが世に言う「桶狭間の戦い」です。チャンスを逃さずに即座に行動できた実行力にすごさを感じます。この行動によって、信長は奇跡的に今川軍に勝利し、天下人になる芽が出てきたのです。困難な状況から安易に逃げない。腹を据えて覚悟を持つ。不利な状況を受けいれた上で、どうすれば今の状況を変えることができるのかと考える。その戦略をいくつも考える。そしてこれはと思った戦略をいくつか選択する。最後に選択した戦略を果敢に実行に移す。このような生活態度の養成は、森田理論の学習で学びました。あとは、着実に実行していく勇気の問題になります。これが事実本位の生き方となります。
2020.02.17
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「逆転人生」というテレビ番組を見た。女性の人で100キロ以上の人がコンプレックスについて語っていた。ダイエットには何回も取り組んだが、リバウンドでやせるどころか益々太ってしまう。でもその人は、コンプレックスを乗り越えて、今はコンプレックスで結婚をあきらめている人たちを相手にしてカウンセリングの仕事をされている。さらに自分の体験を講演して全国を回っておられる。体重はあまり変わっていないようであったが、現在は結婚もされている。その結婚相手から、「あなたの脳が好きだ」と言われたのが、結婚に踏み切る動機となったそうだ。つまり相手は太った体型のことよりも、あなたの前向きな姿勢というか、考え方が気に入っている。そういう人だったらぜひ結婚したいという意思表明だったのだろうと思う。その方は、それまでは結婚はあきらめていたそうだ。そう言われたときに何かが変わったといわれていた。それは多分どうにもならないコンプレックスに振り回されることから解放された瞬間だったのではないだろうか。考えてみればコンプレックスのない人なんていない。でもコンプレックスで悩み苦しんでいる人は星の数ほどいる。それが自分の一生を左右しているとしたら何ともやりきれない。自分の弱みや欠点があると思うなら、強みや長所もきっとあるはずだ。この世の中の現象や仕組みはそのバランスで成り立っているのだ。バランスが崩れるとその存在は跡形もなく崩れてしまう。今現在コンプレックスで悩み苦しんでいる人は、自分に元々備わっている強みや長所を再認識しなければいけない。そして自分に元々備わっている強みや長所で勝負をかけなければいけない。今はやり方が間違っているのだ。もし神経質性格の人がいるならば、その性格こそが長所ではないのか。感性が強くて鋭い。強い生の欲望を持っている。粘り強い。責任感が強い。緻密である。まじめである。洞察力がある。・・・・。コンプレックスで悩む前に、この強みを生活、仕事、勉強にどう活かしていけばよいのか考えてみよう。そちらに自分の持っているエネルギーを投入していると、コンプレックスのことはすっかり忘れていたという時間が増えてくるに違いない。性格以外にも、容姿、体格、健康、能力、特技などで強みや長所を持っている人もいるだろう。そこにこそ光をあてて育むことだ。弱みや欠点はつらいかもしれないが放っておくことだ。発想の転換が起きない限り、いつまでも苦しくてつらい人生は続いていく。
2020.01.30
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弁護士の谷原誠さんは、会社が倒産したときの処理の仕事もされています。その過程で社長さんが自殺してしまったことがあるそうです。中小企業の社長さんは、自分で立ち上げた会社は自分の分身だと思っています。自分の人生そのものです。その会社が倒産するということは、人生も倒産するということです。莫大な借金を抱え、負債を処理して、家族を守って生きていくことは大変なことです。「解決できっこない」という気持ちになるのも無理のないところでしょう。そして、生命保険に家族の人生を託し、自ら命を絶ってしまったのです。その一方で、何億もの借金を背負いながら、その後必死に頑張って借金を返済して、不死鳥のように蘇る人もいます。またやむなく倒産して、転職する人もいます。さらに家族で力を合わせて一生懸命生き抜いている人もいます。自殺してしまった社長さんと復活を遂げた社長さんの違いは何でしょう。谷原さんは、それは自分への質問の違いだと言われています。自殺をしてしまった社長さんは、「なんで俺がこんな目に遭わなければならないんだ。これだけ負債を負ってしまったらもうどうしようもない。家族ももうおしまいだ」などとネガティブに考えています。負債の問題を解決できない前提で、家族を守るために自分の命と引き換えに生命保険金を家族に残す道を選びとりました。復活を遂げた社長さんは、「この負債を返済するには、どういう方法があるか。いつまでにいくらずつ返済していけばよいのか。誰に相談すれば解決策のヒントをくれるのか」とポジティブに考えたのです。問題が解決できる前提で、ではどうすればよいのかと自分に質問したのでしょう。この発想力というか、自分に対する質問がその後の明暗を分けたのです。シェイクスピアは、「この世の中には幸も不幸もない。考え方次第でどうにもなるのだ」と言っています。(人を動かす質問力 谷原誠 角川新書 211ページより要旨引用)この指摘は森田理論を学習している我々にはとてもよくわかります。雲の上に居座って、現実を目の敵にして、批判、否定、軽蔑、悲観していては、事態はどんどん悪化して、最後には悲惨な状態をみずから招いてしまいます。我々でいえば神経症に陥り、生活が悪循環を始めます。一方、どんなに困難な状況に追い込まれても、その事実をすべて受け入れことができた人は、それ以上悪くはなりません。そこが波の底です。そこから波は上昇していくのです。そこを出発点としてとらえることができるかどうかが問題となります。現状や現実を受けいれると、そこから何らかの打開策を見つけて、行動を開始できるのです。後悔、自己嫌悪、自己否定する時間的な余裕は全くありません。今できること、今からやるべきことに注意や意識が向けられているのです。絶体絶命の立場に立たされているので、一旦弾みがつくと、状況はたちまち好転することがあるのだと思います。「かくあるべし」の立場から、「事実受容、事実容認」の立場に転換できた人は、その後素晴らしい人生が両手を広げて待っています。この考え方、物の見方を身に着けましょうというのが森田理論学習の眼目なのです。
2020.01.26
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「お前はほんとにバカだね」と言われると頭にくるという人は多いと思います。けんかを売られているように感じてすぐに応戦する人もいるかもしれません。そこまでしなくても、心の中では、「そういうお前は何様なんだ」と反発します。「バカ」「バカ者」という言葉は、一般的には相手を軽蔑する言葉です。これに対して、北野武さんによると、芸人の世界では褒め言葉になるという。「こんなバカ見たこともないよ」という言葉は最上級の褒め言葉になるという。「たけしは相変わらずバカだね」と言われると、つい「ありがとう」といってしまう。また北野さんが育った東京の下町では、「おい、このバカ、元気か」などとあいさつ代わりの言葉であるという。「大丈夫か、バカ野郎」「久しぶりだな、バカ野郎、何やってたんだよ」「バカだね、この人は」「もう本当にこの人はバカで困っちゃう」・・・・。北野さんにとっては、「バカ野郎」という言葉は、相手を侮辱する言葉ではなく、親愛を込めて使う言葉であるという。「おまえ」とか「あなた」という別称である。いつもその人の動向が気になり、何かあると、すぐに駆けつけて何かしてあげたいと思わせるような人のことである。母性本能をくすぐり、放ってはおけないと思わせる人。つい思わず身の周りの世話をやきたくなるような人のことである。そういうオーラを身にまとっている人のことをいう。気を付けたいのは、バカの中には本当のバカがいることだ。たとえば、すぐに逮捕されるのが分かっているのに、飲酒運転で、ひき逃げ事故を起こして、そのまま逃げてしまうような人。出張費をごまかして、飲食代やギャンブルに使っている人など。最近も政治家が汚職事件を起こしながら、私は無実だなどと責任逃れの発言を繰り返している。自分のしたことを、ごまかす。隠ぺいする。いいわけをするような人だ。自己保身、自己中心的な人のことである。そんな人はテレビで毎日のように見かける。こんなバカは、北野さんの言うような、親しみが持てるバカとは対極にある人だ。北野さんの言う親しみの持てるバカを自分なりに分析してみた。ミスや失敗を隠さない。むしろそれを周囲の人を喜ばす貴重なネタとして活用している。弱点や欠点もあればこれ幸い、おもしろおかしく脚色してユーモア小話として提供する。自分が笑いものにされるかもしれない。損をするかもしれないということに頓着しない。それが分かっていても、積極的に開示する。そういう体質が身についている人だ。いわば風通しのよい家に住んで、窓を全開にしているようなものだ。良寛さんに「裏を見せ表を見せて散るもみじ」という句があるが、生き方自体がまさにそんな感じなのだ。すると、周りの人は、「あいつは救いようのないバカだね」と笑い飛ばす。笑い飛ばしながら、「自分はあいつよりはまだましなほうだ」とすこし優位に立ったような気持ちになる。そういう人が周りにいると、磁石のプラスとマイナスが自然とくっつくように親しくて和やかになる。精神的に楽な生き方ができるようになる。それは自分が、その人の影響を受けて自己防衛のバリアを取り払うことができるからだと思う。言い訳や弁解、隠しごとのない生き方は、事実本位の生き方となる。それがいかに精神的に楽な生き方になるか、自分自身で検証してみようではありませんか。(バカ論 ビートたけし 新潮社 参照)
2020.01.20
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森田では「かくあるべし」を少なくして、事実や現状に立脚した生き方を目指しています。これは言うは易く、実行は難しい。どうして難しいのかを考えてみたいと思います。1、私たちは不快な事実、不都合な事実に正面から向き合おとしない。目の前の事実を、ありありと、あますところなく見ようとしていない。ありありとというよりも観念的に見てしまう。あますところではなく、その一部をもって、全体を理解しようとする。目の前の事実よりは、今までの記憶や経験で安易に分かったつもりになってしまうということです。それで事実を正しく見たつもりになって対応しているということです。2、自分の都合で状況を見てしまう。人間は本能的に自分の持っているイメージに合わせて対象を見ようとする。つまり自分の合わないものを、意識的、あるいは無意識のうちに無視したり、切り捨てたりする。つまり色眼鏡をかけて事実を歪曲してしまっているのです。3、不安や恐怖、不快な事実から「遠ざかろう」とする。人間は誰でも、困る問題を見たり、聞いたり、抱えたりすることを避けようとする。それはまずいと思いながらも、「見ざる、言わざる、聞かざる」になっている。4、問題ある事実をもみ消そうとする。現れている現象は氷山の一角、その下にはそれらを生みだす原因ががっちりと根を下ろしていることを察知しつつも、とりあえずは「臭いものに蓋をする」という「モグラたたき」に走ってしまう。不都合な事実は、それを正確に知ろうとするよりも、その不都合な事実がなかったものとして細工しようとする。5、事実をごまかす。言い逃れをする。隠す。責任逃れをする。これらが習慣となっていて、とっさに言動となって表面化する。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン 201ページより要旨引用)事実本位の生活態度を身に着けたいと思っても、実際には周りを敵に囲まれたような状態になっているということです。ですから「はい、分かりました。今日からそうします」というわけにはいかないのです。ただ森田理論をコツコツと学習している人は、その重要性には気づかれていると思います。あとはどこから手をつけていくかということです。先入観や決めつけで事実を分かったつもりにならない。事実をごまかす。言い逃れをする。隠す。責任逃れをしないようにする。事実をより詳しく観察して、事実の裏付けをとったものを大切にして行動する。抽象的な話を避けて、具体的に話するようにする。包み隠さず、赤裸々に話すことを心がける。相手の話をよく聞く。自分の考え方に、事実誤認がないか謙虚な気持ちで周りの人に聞いてみる。「かくあるべし」が出てきた時は、「純な心」に立ち戻るように心がける。「あなたメッセージ」から「私メッセージ」の発信に心がける。これらは、取り組む気持ちがあれば、実行可能なものです。この中のことが1つでも習慣になれば、事実本位に近づいているといえるでしょう。
2020.01.08
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今日は事実を見る場合の4つの視点の話をしてみたい。1、事実にはまず様々な感情が自然発生的に湧き上がってくるというものがある。不安、恐怖、違和感、不快感などである。その他にも嫉妬、悲観することなどもある。億劫だ、やる気が湧かない、気が重いなどという気持ちになることもある。神経症に陥ると、不快な感情をことさら問題視して、それらを取り除いたり、逃げ回っています。あるいは気分本位が独り歩きして、人に依存して何もしないということも起こります。森田理論では、このやり方では精神交互作用が起きて、症状はますます悪化するといわれています。この方面の事実の学習はみなさんとても詳しくなっておられるのではないでしょうか。ただ事実の学習としては偏りすぎているのではないでしょうか。もっと視点を広げて考えてみる必要がありそうです。私が指摘したい事実について説明していきます。2、人それぞれ自分に与えられた素質、容姿、性格、能力、境遇などがあります。また自分が行動した結果として、ミスや失敗を引き起こしてしまうこともあります。人様に迷惑や損害を与えてしまうこともあります。これらの事実や現状に対して、どう対応しているでしょうか。人と比較してもよいと思いますが、事実を正しく認識して、事実を出発点にして対応しているでしょうか。それとも優越感や劣等感に陥り、自己顕示欲や自己否定の原因を作っていることはないでしょうか。3、次に他人を見た場合、人それぞれに与えられた素質、容姿、性格、能力、境遇などがあります。また他人が行動した結果として、ミスや失敗を引き起こしてしまうこともあります。他人が理不尽なことを私たちに押し付けてくるような場合もあります。自分に対して取り返しのつかない迷惑や損害を与えてくることもあります。他人の言動に対して、価値評価しないで、事実を事実のままに認めて受けいれているでしょうか。それとも「かくあるべし」を持ちだして、他人の存在、素質、容姿、性格、能力、境遇などを否定してしまうことはないでしょうか。他人の犯したミスや失敗に対しては、寛大な目で許してあげているでしょうか。むしろ法外な要求を押し付けて過大な責任をとらせようとすることはないでしょうか。4、最後に、地震や風水害などの自然災害、伝染病や食中毒、金融危機、経済変動、紛争などに見舞われることは日常茶飯事です。これらの事態に対しては、可能な限り日ごろから十分な対策を立てておくことが必要です。にもかかわらず、突然に私たちに襲い掛かってくるものばかりです。理不尽で納得できないことばかりです。良寛さんは、大地震に見舞われたとき、「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と言われています。我々凡事にはとてもそんな気持ちにはなれません。でもこういう理不尽な出来事に遭遇する可能性が非常に高い中で、生活していることを忘れてはならないと思います。以上4つの事実について述べてきました。神経症の蟻地獄に陥っているときは、感情の事実に振り回されていることと思います。しかし事実全般を取り扱おうとすると、他の3つにも広げて考える必要があると思います。4つの事実に対して、適切な対応がとれるようになれば、生き方が変わってくるものと思います。事実のアウトラインが分かるだけでも、明るい光が見えてくるように思います。感情の事実だけでなく他の3つの事実に対しても、「あるがまま」の対応ができるようになると、楽な生き方に変わっていきます。
2019.12.31
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キューリなど、どれもこれもひとつずつ形が異なっている。まっすぐなものもあれば、曲がったりひねくれたのも多い。土と水と太陽の中で、生まれたままの自由な形で自己表現を主張している。われわれ人間にも生来の素質があり、環境によっても性格に違いがあるように、植物にもいろんな差異と変形が生じるのであろうか。言わば遺伝的な性格の違いを、そのまま認めているのである。我々と違うのは、その曲がったまま、ひねたままで精一杯に堂々と成長しているところだ。無理にまっすぐなキューリになろうとはしていない。曲がったままで無心に生きている。私ども人間も生物の一員なのだが、そのかけがえのない資質や性格を排除したり無理に変えようとはしていないか。個性を埋没させ、矯正しようとしてはいないだろうか。生まれながらのありのままの性格を受けいれて、最大限に活かそうとしているだろうか。曲がったまま、ひねくれたままで「自然に服従し、境遇に従順に」生きていきたいものである。(1996年生活の発見誌 11月号より引用)禿げだ、デブだ、ブスだ、身長が低いなどと言うことにとらわれて、自己否定している人はいませんか。また相手をそういう目で見て軽蔑してしまうことはありませんか。神経質性格を持っている自分をいやな人間だと思うことはありませんか。神経質性格の人をみて、「どうしてそんな細かいことを気にしているんだ」と馬鹿にしていることはありませんか。親の悪い性格や容姿を受け継いだから、自分は不幸になった。親の育て方が悪かったから、他人の思惑に振り回される人間になってしまったなどと思っている人はいませんか。これらは、他人の長所と自分の短所を比較して自分を否定している態度です。否定することが生まれるものは、憎しみ、怒り、悲観、後悔だけです。ここに1万円持っている自分がいるとします。1000円しか持っていない人を見ると優越感を感じるかもしれません。ところが10万円持っている人と比較すると、劣等感を味わうことになります。ここで発想を変えて1万円持っている自分を受け入れて、それを活かしていく方法に切り替えることはできないでしょうか。これは自分の特徴のプラス面とマイナス面を過不足なく棚卸して、マイナス面はそっとしておく。プラス面に目を向けてそれを活かしたり伸ばしていくことを考えることだと思います。まずは今現在生きている。そして神経質性格を持っている。この二つに焦点をあてて、自分のできる精一杯のことに取り組んでみることはできます。特に神経質性格は、感受性が強い。好奇心が強い。生の欲望が強い。粘り強い。責任感が強い。物事をより深く考えることができる。分析力に優れている。など優れた特徴があります。それを日常生活、仕事や家事や子育てに存分に活用していくことに精力を傾けたらいかがでしょうか。自信にもなるし、生きることが楽しくなる。人様にも喜んでもらえるという体験ができます。誰もが分かる欠点や弱みを持っているにもかかわらず、自分の命や能力を最大限に伸ばそうとしている人を見るとささやかな感動を覚えるのではないでしょうか。私はそういう生き方をしていきたいと考えています。そういう方向に変えないとあっという間に後悔だけを残して人生は終わってしまいます。
2019.12.22
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外国人と日本人は事実の取り扱いに違いがあるようだ。ちょっとした行き違いや事故などでは、外国人は必ず、自分の有利な事実や状況を述べて、自分の方が正当であることを主張する。自分の不利なことはなかなか言わない。これに対して日本人は、明らかに相手が犯した問題行為を、わざわざ自分から指摘するのは、大人げないと思っている。気まずくなるいさかいは避けたい気持ちがあるので、「私も気がつかず、悪かったですよ」などと穏便にすませようとする。しかし相手は自分から非を認めない。仕方なく相手がしたことを指摘するときには、だいぶ形勢が悪くなっている。その結果、一歩的に相手が悪い状況なのに、フィフティーフィフティーのお互い様になってしまう。後味の悪い思いをすることになる。(いい加減力 竹村健一 太陽企画出版 57ページより引用)一般的に、外国人は事実を素直に認めずに、その責任を相手に転嫁する立場をとりやすい。自分の都合のよい情報や相手のミスや問題点をことさら大げさにしゃべる。日本人は、この一件が大きな対立を生むことを恐れて、あからさまに相手を非難することは避けようとする。事実を実際よりも過小評価するのだ。自分でも少しはその責任を負ってもよいと考える。けなげな気持ちを持っているともいえるが、事実への対応としては、お粗末というほかない。その結果として、いつまでも後悔していては、精神衛生上問題がある。例えばも交差点で出合い頭の衝突事故を起こしたとする。直進車優先なので、右折車は一時停止しなければならない。これは常識だ。ところが、右折車が間隙をぬって突然右折してくることがある。こんな状況で接触事故はよく起きる。直進者の人が車から降りてきて、開口一番「すみません。私がもう少し注意していたら事故はなかったかもしれません」などと謝ったらどうなるのか。右折車は最初「しまった。早まった」などと思っていても、相手がいきなり謝るものだから、「そうだ、相手もそれなりの非があった」過失割合は50%ぐらいだと勢いづいてしまう。ドライブレコーダがあればいずれ事実の詳細は明らかになる。事故直後にどちがかよいか悪いか言い争いをしても仕方がない。それよりもしなければならないことがある。相手のケガの確認である。「お怪我はありませんでしたか。私は今のところ大丈夫です」怪我があればすぐに救急車を手配する。自分できなければ周りの人に応援を頼む。次に警察に事故の連絡をする。勤務先や保険会社にも連絡する。それから巻ぞいになった人はいないか、二次災害が起きる可能性はないかの確認をする。そして適切な措置をとる。自分たちは安全なところに移動する。過失割合については、警察の事故処理に基づいて保険会社の決める仕事である。ここでは言い争わない。こういうのを森田理論では「物事本位」という。目の前の問題ある事実に対して、すぐに対処しなければならないことに手をつけることをいう。「気分本位」とは反対の態度のことだ。つい事実をねじ曲げたり、責任転嫁したいと思っても、事故を受けいれて、今できる最善を尽くすことをいう。そして事実認定は、客観性をもった第三者に判定してもらう。この方がのちに後悔することが少なくなる秘訣である。
2019.12.13
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先日親戚の法事があった。そこにやってきたお寺さんはまだ若い住職だった。頭は刈り上げてあり、青々としていた。法事の後の食事会でその真意を聞いてみた。すると、本当はふさふさの髪であるが、その状態で檀家を回るのは気が引ける。大体お坊さんは、剃髪しているか、もともとハゲの人が多いじゃないですかといわれる。職業柄、無理して髪を切って、坊主を装っているということだった。そうしたほうが、普段の生活態度や話す内容に重みが出てくるじゃないですかといわれる。なるほど、住職さんは我々ハゲとは逆の悩みを抱えていたのですね。いわばハゲを装うことにことさら神経を使っている人もいるというのが不思議だった。私たちがかつらをつけたり、植毛したりしてハゲをごまかしているのとえらい違いである。私は以前ハゲでそのことに劣等感を持って、人前に出ることを躊躇していた。特に写真を撮って後で見ると、情けなく、極力写真は見ないようにしていた。だから、この住職さんのように髪が豊富であることに不都合を感じている人がいることに大変驚いた。たしかに髪が多い人は寝癖がつくことがある。それを直すには時間がかかる。また出勤前にはハゲと違って整髪にそれなりに時間がかかる。15分から30分ぐらいかけている人もいるのではないか。髪を洗うとシャンプーやリンスもたくさんいるし、髪を乾かす時間も相当かかる。元々ハゲている人は、その時間は別のことに有効活用できる。またハゲている人は、それだけで大きな社会貢献をしている。存在そのものに大きな意味があるのである。ハゲていない人に、優越感を与えているのだ。その証拠にみごとにハゲ上がった私の頭を見て、ニヤニヤする人が時々いる。よくあんなハゲ頭で公共の席に出てこられるものだと思っているのかもしれない。ここでは相手に十分優越感を持ってもらいたいものだ。こうしてみると、ハゲを自分の個性としてとらえて、ハゲのまま生きていけばよいのだ。こういうふうに決意すれば、精神的にとても生きやすくなる。あとは別の方面で持てる能力を高めていけばよいのだ。そちらのほうにエネルギーを投入する。そうしないと人生はあっという間に終わってしまう。私は飲み会や会合などに行くと、「お寺さんがこられた。今日は数珠を持ってこなかったよ」などとからかわれることが多くなった。以前の私ならふてくされていたいた。今は違う。ハゲを逆手に取っている。時間があれば、お寺さんになりきって数珠をとり出して、一人一芸を披露する。だから数珠は必需品となった。お経を披露するのだ。これがみんなに受けるのだ。みんなが喜んでくれると私もうれしい。ニンジンゴボウ筑前煮ガンモや玉子はおでんにせい寒い冬にはブリ大根暑い夏には生ビール飲みすぎ食べ過ぎ即キャベジン精力減退養命酒疲労困憊アリナミン法事はたびたび開けお布施はたくさん包め寺への寄付を忘れるな寺の総代引き受けろチーン (ここで鐘の音を鳴らす)家 内 安 全火 の 用 心夫 婦 円 満交 通 安 全一同 合掌 礼拝 (おもむろに頭をさげる)私が頭を垂れると、多くの人が思わず礼拝するのが見てて面白い。これですっかり場が和むのだ。これはハゲという個性を活かしたパフォーマンスである。ハゲはこのように活かせば、世のため人のためになる。ハゲを隠そうと悩むよりそれを活かしていく道もあるということだ。猿から人間への脱毛の歴史や髪の手入れ無用の効用などを説明すると、髪のふさふさの人が自分もハゲになってみたいなどと不謹慎なことをいう。奇特にも、女性の中には私はハゲは全然気にならないという人もいる。今ではピカピカに磨いてツヤを出したいと思っている。よいワックスがあれば紹介してもらいたいものだ。ただしハゲになると帽子をかぶらないで、太陽の光を直に当てると気分が悪くなる。皮膚がんになるかもしれない。その点に十分に注意して日光に当たろう。これは太っていることに劣等感を持っている人も同じことが言える。自分ではうまくごまかして隠しているつもりでも、周りの人はすべて分かっているのだ。そうなら、太っていることを正々堂々と認めて公開して、それをネタにしてみんなを喜ばすことを考えてみてはどうだろうか。そのほうが自分周りに人は近づいてくるはずだ。それは他人を寄せ付けないバリアを取り払ったからであると思う。それが精神衛生の上でも大いに役立っているのである。
2019.12.05
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私たちは自分の持っているものはあってあたりまえとそのありがたみを感じないことが多い。したがって乱暴に取り扱う。十分役に立っているのに、その価値を評価しないで、すぐに新しいものに目移りしてしまう。便利な機能があれば、まだ十分使えるのに、買い替えてしまう。自分のことに親身になって寄り添っている人のことは、やってくれて当たり前だと思ってしまう。そんな人をぞんざいに扱って、そうでない人の関心を引こうとする。自分の性格、容姿、能力、欠点、弱点を、人と比較して、事実以上に過小評価してしまう。注意や意識を集中、拡大させて、悲観上手に陥っている。劣等感で苦しんでいる。そして客観的に見るととるに足らないようなことにことなのに、自分の一生を左右するかのような重大な事案とみなしてしまう。弱点や欠点が一つでもあると、もう生きて行けそうにないと落ち込んでしまう。反対に他人が持っているもの、他人の性格、容姿、能力、長所、強みなどは拡大解釈してしまう。隣の家の芝生が実際よりもより緑に輝いて見えるようなものだ。実際の事実よりも、顕微鏡でのぞいたように勝手に拡大しているのだ。あまりにも誇張した現実を見ているのです。次にあまりにも拡大した他人を物差しにして、自分の置かれている状態と比較するようになります。するとどんなことが起きるのか。自分が持っているものがとてつもなくつまらないように感じる。惨めな気持ちになる。実際の格差以上に、どうすることもできないほど大きく差が開いているように感じる。それをもとにして自己嫌悪、自己否定してしまうのです。悪いことに、拡大解釈と過小評価は対になっているので、一つの傾向がある人は、もう一つの傾向も持ち合わせているのです。その結果事実のとらえ方が、実際とはどんどん乖離していくことになります。拡大解釈や過小評価する人は、事実そのものときちんと向き合っていません。観念で事実を大きくゆがめてしまい、それを事実と誤認しているわけです。それに基づいて行動しようとしているわけですから、どんどん横道へそれていってしまいます。また、想像上の事実をねつ造しているわけですから、いかようにも拡散してしまいます。だから他人から見ると、そんなことで生きるか死ぬか悩むなんて馬鹿げていると思っても、本人はどうすることもできないのです。そういう習慣が身についているのです。この呪縛から逃れるためには、事実を事実としてみれるような態度を養成していくしかありません。そのためには森田理論学習が有効です。そして「かくあるべし」を少なくして事実本位の実践です。そのための方法はこのブログでもたくさん取り扱ってきました。10のうち1つでもできるようになると、だいぶ事実本位に近づいていると思います。
2019.11.21
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石原加受子さんは、自分を否定することと自分を認めることを分かりやすく説明されています。例えば、子供のころクラスの仲間からいじめを受けて、いつも馬鹿にされていた。それがトラウマになって、尾を引いている。いつか必ず、あいつらに仕返しをしたい。このような気持ちを心の中で何度も繰り返していると、たまらなくなります。ため息ばかりついて、ますます苦しくなり、夢にまで出てくるようになります。この状態は、自分の心を受け止めているのでなく、全面的に他者に向いています。では次のように、自分の心に注意を向けていくとどうでしょうか。「そうか。私はあのとき、あいつらを見返してやると誓ってしまうほど、悔しい思いをしたなあ・・・。ほんとだよなあ・・・。悔しかったなあ・・・。あのときは本当に傷ついたなあ・・・。つらかったなあ、苦しかったなあ・・・。よくあんな状況から立ち直れたなあ・・・。よくがんばってきたよなあ・・・」「あいつらに仕返しをしたい」というふうに相手に向かう意識状態になる前の段階の、自分の感情を丁寧に拾っています。そして十分に味わっています。「・・・」の部分は実感です。この「・・・」の実感こそが、自分の感情をいたわっている状態です。これが、自分を慈しみ、自分を大事にするということなのです。この「・・・」は、自分のどんな感情でも受け入れています。そして認めています。認めているからこそ、「・・・」と味わうことができるのです。これが「どんな自分であっても肯定する」ということなのです。そうやって充分に自分の気持ちを受け入れ、いたわり、慈しむ気持ちになることができれば、それだけで、あなたの人生の根底に、大変革を起こすことができるのです。(願いが叶う人の「無意識」の習慣 石原加受子 ぱる出版 176ページより参照)石原さんの本は一貫して、他人に自分の要求を押し付けるのではなく、自分の心の奥にある本当の気持ちや本音に焦点をあてて、その気持ちに寄り添っていく生き方を提唱されています。これは、上から下目線で相手を批判し、裁くことを止めて、自分の素直な感情を思いだしてそれに寄り添っていくというものです。この方法は普通とは力の入れどころが、まるっきり正反対です。相手を批判していると相手と闘う道に突き進むことになります。戦闘態勢の道は精神的に緊張して混乱を招き、肉体的にもとてもつらくなります。自分の感情に寄り添うという態度は、自分を癒してくれます。そしてそこから勇気をもらって、自分がもっと楽になれるように立ち上がることができるようになるのです。そういう出発点に立つためには、どうしても自分の感情を受け入れて、自分を癒すという作業が必要になるということなのです。これは森田理論では、「かくあるべし」を少なくして、事実本位に生きるということです。こうしてみると、森田の言葉は、具体的な実践例で示してこそ、初めて理解可能な理論になるということができるのかもしれません。
2019.09.29
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ある大手情報機器メーカーに勤務するAさんは、担当する携帯情報端末の商品企画分野では、自他ともに許すエキスパートで通っていた。他者からも「○○にAあり」と名前を知られ、数少ない成長分野の商品企画責任者として前途洋々の人生である。このたび新たな携帯電話を開発し、一挙にマーケットシェアを上げたいと野心を燃やして新機種開発に取り組んだ。彼は、ディスプレイに新しい技術を取り込んだ液晶を採用し、これによって他社との差別化をはかり、斬新な商品イメージを訴求しようとした。ところが、生産が始まろうという段階になっても新液晶が入荷しない。部品メーカーの担当者と連日の検討会議を行い、ひたすら督促しても納期に間に合わない。商品開発スケジュールに大穴をあけてしまった。すでに宣伝も開始し、販社あての事前告知もしている商品だから、Aさんの責任は大きい。事業部長から厳重な訓告を受けたのも無理はない。そして、彼が専権を奮っていた商品企画セクションにもう一人責任者が入ることになり、彼の立場は著しく不安定になった。「次の移動でどこに飛ばされるのか」と部内でも囁かれるきつい立場に追い込まれた。こんな時、悪い方に考える人は、部品メーカーの担当者を恨んだりする。あるいは、罪悪感で自分を責めたりする。そしてうつ病になる人もでてくるだろう。一方、よい方に考える人はどうするだろう。Aさんは迷惑をかけた担当者全員に謝罪した。自分の責任を明確にしたうえで、二度とミスをしない方法を考え始めた。部品メーカーの担当者を何度も訪ね、今後二度とトラブルが起きないようにするためにはどうすればよいのか徹底的に検討した。Aさんの心の中ではもちろん、「馬鹿なことをやってしまった自分」に対する厳しい責任の突き詰めがあったのはもちろんだが、その次に「でも、金銭がからむ大損害でなくてよかった」「辞表まで行かずにすんで幸運だった」と考えた。それを「今後の自分のための蓄積にして二度とミスを犯さないたたき台にしよう」とつなげた。今まで順風満帆のエリートコースを歩んできた自分であったが、「この挫折を自分自身の試練と受け止めよう」と思えることができた。最初は厳しい見方をしていた上司からも、失敗の中から生産技術の基礎をもう一度真摯に学び、二度とトラブルを起こすまいと努力している謙虚な姿勢が評価され、「もう一度チャンスを与えてみよう」と見直された。結果、彼は再び商品企画担当者の地位を維持できた。同業他社が、その後ソフトの不具合でたびたび回収騒ぎを起こしているのに、Aさんの商品には一度もトラブルが起きていない。(よいほうに考える技術 野口敬 すばる舎 147ページより引用)これはある会社員が大失態を犯した後、その事実を素直に認め、そこから再び信頼を取り戻していった実例である。我々は、目の前の不都合な事実を認めることができない。見ようともしない。いいわけを繰り返し、人に責任転嫁をし、自分を責めてしまう。これでは、決して事態は好転しないのです。不都合で理不尽な現実、現状、事実を素直に認めて受け入れるということは、自分のマイナスの立ち位置を確認することだと思う。たとえマイナスの立ち位置であっても、そこから這いあがっていくことができる。事実を認めるということは、次のとるべき行動が具体的に明らかになるのである。意欲やモチュベーションが高まっていく。一方、事実を認めないと、それをいかにごまかすかという方向にエネルギーを投入していくので、事態は益々不利に展開していくのである。自他ともに不幸を選択していくことになるのです。
2019.09.28
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ラグビーのボールは楕円形をしています。だから自分の思うところに転がすことはできません。転がる先はボールに聞いてくれということになります。この現象は自分の思い通りにならない私たちの人生とよく似ているのではないでしょうか。問題や課題、失敗やミス、災難や理不尽な出来事が次から次へと繰り返されています。いくら頭の中で、こうしたい、こうであるべきだと考えても、現実はつらく厳しいことばかりです。ことごとく裏切られてしまうのが常です。人生においては確実なことは何もないと思います。森田理論学習で学んだように、千変万化、理想と現実のギャップの中で、変化を受け入れて、現実に寄り添って生きていくしかなさそうです。これに関して私は次のように考えています。20回行動を起こせばそのうち13回から14回ぐらいは、自分の考えていることとは違う方向に進展する。ミスや失敗、問題や課題、相手との対立を招いてしまう。ストレスや不安・恐怖を招いてしまう。しかしそれは行動することを選択すれば、避けて通ることができないものなのではないか。だからといって、予期不安に振り回されて、行動することから逃げてしまっては、自分の人生は惨憺たる結果になる。これらは、逃避、言い訳、責任転嫁をしないで素直に自分の誤りを認めてしまう。これがストレスや精神的ダメージを最小限に抑制するコツなのではないか。こうやって乗り越えると、後で振り返ってみると、あの時は少しパニックに陥ったがいい経験になった。失敗やミスに学んで、乗り越え方が身についた。今の成功は失敗やミスのおかげだ。失敗やミスは少し高くついたが、授業料のようなものだった。あるいは必要経費のようなものだった。それらを支払わないと決して果実は手に入れることはできなかったのだ。あるいは失敗やミスは愛嬌のようなものだ。正々堂々と周囲の人に公開することで、人間関係の幅も広がってきた。馬鹿を言い合って人と交流することが楽しみだ。弱点や欠点、ミスや失敗の経験のない人はいない。しかし、それを人に気づかれないように細工をして隠そうとする人はたくさんいる。逃げることが習慣になっている人もいる。言い訳や責任転嫁する人もたくさんいる。そういう人は、自分の思いとは反対に、精神的には長くてつらい人生が待ち構えているのだ。失敗やミスへの対応としては、いかに自分へのダメージを少なくするか、他人へ与える被害をいかに最小限に抑えるかにかかっている。発想の転換が必要だ。そのためには、まずいと思ったらそのまま素直に非を認めてしまう。謝罪すべき点は謝る。そして急いで事後処理に着手する。そうしてこの問題に、早期に一旦きりを着けてしまうのだ。そして新たな気持ちで次の行動にチャレンジしていく。こうなれば、失敗やミスでいつまでも苦しまなくなる。次の行動への活力も湧いてくる。こういうからくりで、失敗やミスは乗り越えていけるようになっているのです。
2019.09.10
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会社で小さなミスや失敗をして、上司や同僚から叱責されることに注意や意識が向いている人がいます。社交不安障害の私がそうでした。すると会社に行くことが憂鬱になります。仕事をしていても針の筵に座っているようなものです。精神的につらい、苦しい。なんとかこの不安や苦しみを取り除きたい。こういう悩みを抱えておられる方は多いように思います。今日はこの問題に焦点を当てて打開策を考えてみたいと思います。まずそういう人の特徴は次のようなことが考えられます。1、ミスや失敗が発生すると、いいわけをする。他人に責任転嫁をする。他人が気づいていなければ、ミスや失敗をごまかす。小細工をしてもみ消そうとする。隠してしまう。2、一旦はうまく隠したつもりになるが、今度はそれがいつかほころびを見せて発覚するのではないかということにとらわれるようになる。そして今度はそのほころびを隠ぺいするための行動をとる。嘘を隠し通すためにまた嘘をつくようなものです。3、注意や意識がしでかしたミスや失敗に張り付いているので、目の前にある仕事の事がおろそかになる。いつもはなんということはない簡単なところで間違いを犯すようになる。ミスがミスを招いてしまうのです。4、ミスや失敗を恐れながら仕事に取り組んでいると、常に予期不安が付きまとうために、積極性が失われて、逃げ腰の取り組み方になってしまう。あの人はやる気がないお荷物社員だとレッテルを貼られてしまう。そのうち降格、窓際社員、左遷、出向、退職勧奨、リストラの対象とされてしまう。すべてが悪循環のスパイラルにはまってしまっているのです。精神的に追い込まれてしまうのは容易に想像できます。そのうっぷんを晴らすために、過度な飲酒、風俗、キャンブル、ネットゲーム、グルメ、買い物などに依存するようになるのです。では、普通の人はどうなのでしょうか。ミスや失敗はみんな嫌なものです。常日頃から他人の叱責に耐える強い精神力を持っているのでしょうか。私はそうは思いません。その人たちも憂鬱になっているのだと思います。でも考え方や行動のやり方に違いがある。人間は完全ではないのだから、ミスや失敗はつきものである。仕事をこなしている以上、これはどうすることもできない。問題はミスや失敗をした時に、すぐにその事実を認めてしまう。関係者にその顛末を正確に報告する。自分の非を認めて謝る。そして被害を最小限にくい止めるために対策を立てる。あるいは関係者と協議する。即実行に移す。このミスや失敗を教訓として、次回に活かしていく。一旦落ち着いたら、気分を切り換えて次の仕事にとりかかる。どうですか。対応方法が随分違いますね。肝心なことは、起こってしまった事実は事実として認めてしまう。そして受け入れということなのです。その時は叱責されたり、非難されると思います。注射針を打たれるときのようなチクリとする不快な気持ちになります。ところがそれを乗り越えてしまうと、精神的な苦しみは発生しないのです。自分のしでかしたミスや失敗の事実を認めて公開するということで、会社での居心地をよくするということを肝に銘じていただきたいと思います。
2019.08.18
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ここで今までの学習経験を踏まえて、「かくあるべし」を減少させるために役立つ方法についてまとめてみたいと思う。前提としては、「かくあるべし」で、自分、他人、身の周りの物を非難、否定することは、葛藤や苦悩を発生させて、生きづらさを抱えるようになるという認識をしっかりと持つ。そのための森田理論学習を継続することだ。またその弊害を仲間と話し合ってみる。これが希薄だと「事実本位」生活態度を目指すという出発点に立つことができない。1、普段の生活の中で「いいところさがし」をする。2、普段の生活の中で「感謝さがし」をする。3、必ず事実の裏付けをとる。4、事実に価値判断を持ち込まない。5、両面観で見る。6、「純な心」に立ち戻る。7、「私メッセージ」を活用する。8、win winの人間関係を目指す。1と2については、一昨日と昨日に投稿した記事をご覧ください。3については、事実に基づかないで決めつけることは間違いだらけになる。ある程度予測がついても、自分が現場に足を運んで、自分の目で確認する。刑事コロンボのように、「事実の検証こそが事態打開に結びつく」という気持ちで事実に向き合う。4については、事実はごまかす、隠す、逃げる、軽視する、責任転嫁、是非善悪の価値評価などをしてはならない。事実に正面から向き合う。事実は、具体的、赤裸々に取り扱う。NHKのニュースのアナウンサーのように事実だけを淡々と分かりやすく伝える。5については、ネガティブ、悲観的、マイナス思考に気づいたら、自分に対して「ちっと待て」という言葉をかける。多少無理してもポジティブ、楽観的、プラス思考の見方も取り入れるようにする。物事にはプラス面とマイナス面の両面が絡んでいることを肝に銘じておく。6については、感情には初一念と初二念があることをよく学習しておく。初一念から出発することが大切である。しかしこれは意識しないとすぐに忘却の彼方へ消えてしまいやすい。そして「かくあるべし」を含んだ初二念に振り回されることを肝に銘じておく。7については、「あなたメッセージ」は上から下目線で相手を自分の思い通りにコントロールすることにつながりやすい。つまり「かくあるべし」の押し付けになりやすいのである。「私メッセージ」の場合は、どう行動するかは相手に選択の自由が与えられている。8については、そもそも相手とは、何かにつけて考え方がずれているという前提に立つことだ。人間関係は面倒でもその溝を縮小してwin winの関係作りを築くことだと肝に銘じておくことだ。これらが私が考えている「事実本位」の生活態度を目指す人の取り組むべき課題となる。これ以外のことを思いついたり、実行しておられる方はぜひとも教えてほしい。次に取り組み方だが、これらすべてに取り組むと消化不良を起こしかねない。私の場合がそうだった。そこで提案です。1か月に自分が選択した1項目だけに意識的に取り組む。それを日記に書きつけていく。そして検討してみる。月が変われば、別の課題に取り組む。こうすることで意識的になり、マンネリに陥ることなく無理なく実行できる。全部の項目に取り組んだ場合、大きな変化に気づくはずです。学習会などで、取り組み課題と結果について発表するという習慣を作るとさらによい。
2019.07.24
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昨日は、「感謝探し」を習慣化することが、「事実本位」の生活態度作りに役立つことを説明した。その方法がもう一つある。自分自身、相手、自分がとりあっ扱っている物の、「いいとこさがし」をすることである。恵まれているもの、持っているものを改めて見直すのだ。この世に生まれたこと、存在自体、容姿、配偶者、親や兄弟、友人、身体能力、潜在能力、神経質性格、強み、長所、環境、境遇、所有物などを見る場合に、プラス面に焦点を当てて評価をすることである。あらためて見直す。認める。評価する。賞賛する。励ますことだ。意識して見つけ出したら、口に出して表現する。相手に伝える。日記に書く。これを一日3個ぐらい見つける習慣を作る。これが1か月、1年と積みあがった時のことを想像してみてください。マイナス面は特に意識しなくても、「かくあるべし」の強い人は、そういう体質になっているので無視してもよい。今までは、拒否、無視、抑圧、否定、批判することが習慣になっていた。「いいとこさがし」に重点をおいて生活することで、プラス面の見方が徐々についてくる。つまりプラス面とマイナス面の調和がとれてくるようになるのだ。例えば神経質性格で説明してみよう。神経質性格のマイナス面にとらわれているとどんなことになるのか。神経質性格者は心配性である。少しの心配事がすぐに自分の一生を左右するほどの大問題に発展する。また嫌なこと、嫌いな人がいるといつまでもとらわれてどんどん増悪させてしまう。ねちねちして執念深いのである。相手はヘビににらまれたカエルのようになる。意識が物事本位・外交的にならないで、内へ内へと向かってしまう。そして始末が悪いことに、自己内省が悲観的、ネガティブ思考一辺倒に陥りやすい。理想主義、完全主義、目標達成至上主義、コントロール欲求が強く、思い通りにならない現実との間で葛藤や苦悩を抱えやすい。では、「いいとこさがし」をしてみよう。豊かな感性の持ち主である。感受性が強いということは、高性能のレーダーや魚群探知機を標準装備しているようなものである。小さなことでもどんどん反応する。感性が強いので、音楽、絵画、景色、演芸、歌謡、舞踊、小説、料理などもより深く味わうことができるのである。また、人の気持ちも機微にわたるまで感じ取ることができる。心配性で苦しいので、この機能を取り外してしまいたいと考えることは、実にもったいないことだ。むしろ感性をもっともっと磨いて、人生を謳歌するのがまっとうな考え方である。私たちは何か事故や問題が発生すると、その原因をとことんまで調べ上げるという特徴がある。いい加減に放っておくことはしないのである。少々のことではへこたれない。努力精進する能力が身についているのである。粘り強い。分析力がある。論理的である。こういう人がいるからこそ、社会は成長発展していけるのである。いけいけどんどんの人は、見境なく行動することは得意なのだが、失敗した時のことは無頓着である。発想力、行動力は素晴らしいものだが、それだけでは不十分だ。会社でも、それに異議を唱えて警鐘を鳴らす人は必ず必要とされる。財政面、経理面の手綱をしっかりと取れる人とタッグを組んで、初めて会社経営はうまくいく。私たちは自己内省力が備わっているのだから、それを自覚して役割を果たしていけばよいのである。神経質性格者は、目的、目標、夢、希望を持って努力することが好きな人が多い。特に男性の場合は当てはまる人が多い。女性の場合は、子供を立派に育て上げたいという気持ちを持っている人が多い。私は森田理論学習で、「理想や目標は大きく、実践目標は小刻みに、小さな成功体験を積み重ねること」と学んだ。岩登りでもそうだが、地上からコツコツと努力して目標を目指すことは、生きる喜びにつながる。そういう人は、精神的にとても安らかになれると思う。「感謝探し」と「いいとこさがし」は、ご自分にぴったり合う方法をどちらか選択して、とりあえず1か月だけ取り組んでみてください。きっといいことが起きますよ。
2019.07.23
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森田理論は、「かくあるべし」を減らして、「事実本位」の生活態度を身に着けることが大切なのですが、その方法がまた見つかったのでご紹介したい。感謝探しを心がけることだ。日記を書くときに一日を振り返る。その時に他人に親切にしてもらったことを書くようにするのだ。最初は、「○○さん、ありがとう」から始めるとよい。野菜や果物のおすそ分けをいただいた。読みたかった本を貸してもらった。缶コーヒーをいただいた。笑って挨拶をしてくれた。メールをくれた。電話をくれた。自分のことを誉めてくれた。バスや電車で小銭ないとき貸してもらった。今日もおいしい料理を作ってくれた。ベランダできれいな花を咲かせてくれた。今日も元気に過ごすことができた。今日も愛犬がなついてくれた。カラオケに誘っていただいた。イベントに招待された。野球の観戦チケットをいただいた。こういうことを日記に毎日5つぐらい書く。とりあえず1か月間続ける。目立つ感謝探しでなくてもよい。ごく小さな感謝探しで十分だ。最初はこじつけでもよい。多少無理してでも見つけようとしていると次第に本物になる。すると次第に体質が変わってくるのだ。いつも相手の言うことややることに対して、頭の中で批判や否定ばかりしていたのが、プラスの面に目が向くようになるのだ。「あなたがいてくれてありがとう」「私のために○○してくれてありがとう」「あなたとお話出るだけで楽しい。うれしい」他人に食事をごちそうになると、その場で「今日はありがとう」という。次の日に電話で「昨日はありがとう」という。次の週になったら「先週はありがとう」という。来月になったら「先月はありがとう」という。しつこいようだが、それぐらいの気持ちで、感謝探しをするのだ。感謝探しを心がけていると、自分自身にも自然に「ありがとう」といえるようになります。また、自分の身の周りのものに対しても、感謝できるようになります。そして他人も、自分も、身の周りのものも大切にとり扱うようになります。その存在価値を目いっぱい広げて、活かし尽くしたいと思うようになります。自分も、他人も、身の周りのものもみんなが次から次へと幸せを招いてくれます。こうしてみると「ありがとう」という言葉は、魔法の言葉ですね。
2019.07.22
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私の以前勤めていた会社に、お金にはだらしない人がいた。会社の宴会や社員旅行の幹事をさせると、収支報告書を出したためしがない。噂では、残金はすべて自分のものにしているということだった。その上タダ酒にありつくのがうまい。他人におごるということはしない人だった。すぐに酔っぱらって、他人の肩を借りないと歩けなくなることが多かった。顔色は肝臓が悪いのではないかと思うほどどす黒かった。いわゆる三枚目に分類されるような人だった。普通は、周りの人が敬遠して、他人が寄り付かなくなるのではないかと思うような人だ。ところがいろいろと問題を抱えている人ではあったが、不思議と周りに人が集まっていた。人望があるのか、いつも人の輪の中心にいた。特に次から次へと女性を口説いては、同棲を繰り返していた。腹違いの子供が3人もいる。どうして、お金にだらしない、女性にだらしない、酒にだらしない、パチンコ狂いの彼が人間関係に恵まれていたのか。そのヒントが分かった。下町の金型職人の岡野雅行氏が教えてくれた。スキを見せない人間はダメだね。「俺は絶対、人に付け込まれたりしないぞ」などと、バリアをがちがちに固めているのがいるだろ。そんな人の周りに人は集まってこない。孤独な人生を歩むしかない。スキは愛嬌なんだよ。「あのヤロウ、馬鹿だね」と思うから、何か言ってやりたくなるのだし、「あいつ、しょうがないな」と感じるから、何かしてやりたくもなるのじゃないか。女性だって、オツにとりすまして愛嬌のカケラもなければ、いくら顔やスタイルがよくたって、男は相手にしないだろ。ご面相は多少イケてなくても、愛嬌があって親しみやすい方が、ずっと心惹かれるものなんだ。(人生は勉強より「世渡り力」だ 岡野雅行 青春出版社)強力な「かくあるべし」を持っている人は、自分の弱みや欠点は決して許すことができないのですね。うまく隠して取り繕っていると思っても、周りの人はみんなお見通しなのに、自分一人だけが気づいていないのです。また仕事でミスや失敗をすると、ごまかそうとするんですね。隠す、報告を先延ばしにする、いいわけをする。他人のせいにする。追い詰められると開き直ってしまうのです。そんな人に誰が親身になって近寄ってくるというのだ。何をやっても裏目に出て、生きることがつらいというのはそんな人だ。悪いなら悪いなりにその事実を認めて受け入れる。自分の弱点や欠点、ミスや失敗を面白い話に仕立て上げて、みんなに積極的に公表していく。笑いを提供して、みんなを楽しませる。こんな人だったら、話をしてみたい。付き合ってみたいと思いますよね。自分も苦悩や葛藤とは無縁になりますし、人間関係が楽しくなりますね。こういう人が、事実の世界に根を張って生きているということです。知ってしまえば、「なんだそんなことか」と思います。「かくあるべし」で羽交い絞めにされている状態では、10人に1人いるかいないかの世界なのです。
2019.07.21
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下町の金型職人の岡野雅行さんのお話です。情報収集能力がないと、会社の将来のかじ取りを誤ることになる。ちなみに、岡野さんの会社は6人だが、小泉元総理大臣も視察に訪れたという。例えば、「あの企業は中国に工場を出す準備を進めていて、3年後には大幅な値引きを要求してくるだろう」「あそこの企業は10年先を見すえて、こういう技術を求めている。それを開発したら、いくら高価でも買う用意があるらしい」「あの業界では、この技術は10年後には陳腐化することが見えているらしい。もうこの商売は見切り時だ」こういう情報は自分一人でいくら考えていても、出てこない。どこから出てくるのか。まず、大企業の第一線にいる人たちが持っている。技術がどんな方向に進んでいるか、最新の素材開発はどんな段階なのか。大企業の切実な悩みなども入ってくる。次に同業他社と付き合いのある仲間からの情報である。だから普段から密な付き合いをしておくことだ。ほんとうに貴重な情報というのは、あらたまった場で出てくることはまずない。遊んだり、飲んだり食べたり、ワイワイガヤガヤやっているときにぽろっと出てくる。例えば、「そういえば、この間A社に納品に言ったとき、ちょっと耳に挟んだけどさ・・・」などと言う極上な情報が出てくるわけさ。だから曲がりなりにも会社経営をしている人は、いろんな人と幅広く付き合って、情報収集を怠らないようにしなければいけない。自分の頭の中でいくら試行錯誤を繰り返しても、変化には対応できないのだ。手考足考が大事なのです。事実、現場、現実を基本にして、会社の方針を見つめていかないとすぐに淘汰されてしまうのだ。この事実、現場、現実の出来事を最優先する考え方は、森田理論と一緒です。そういえば森田先生は自分で直接足を運んで自分の目で確かめる態度をつらぬかれています。例えば、五高時代の幽霊屋敷の探検、関東大震災の時の被害や流言飛語の記録は驚くばかりです。高知の「犬神憑き」の調査。よく当たるという占い師のところにも直接足を運ばれて確かめられています。熱湯の手を突っ込むという芸をみて自分でも実験されています。55度の熱湯は2秒しか耐えられない。23度の水に1分間手を浸して、その後挑戦すると4秒になった。0度の冷水に30秒手を浸したあとでは、熱さを感じず、6秒間耐えることができた。エーテルを散布した後は5秒間耐えることができた。ワセリンは少しも効かない。40度の湯から、55度のものに手を移せば、普通よりも高温に感じた。森田理論というのは、どこまでも事実を大切にする考え方なのです。「事実本位」の反対は、観念や理想の産物である「かくあるべし」を自分や他人に押し付けることです。この辺りをよく学習して、実際の生活に応用できるようになるといいですね。
2019.07.20
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