全539件 (539件中 51-100件目)
森田寮に入院した人のなかに河原宗次郎氏という方がおられました。この方は額縁商として成功されて25人くらいの社員がいたそうです。その方のお話です。商店組合の幹部に選ばれたりしたとき、履歴書を書くのですが、どうも「小学校卒」とは書きたくないのですね。何とか多少の学歴はあるかのように、てらって書きたいのですね。私は広島の生まれなんですが、広島に明道中学という、すでに廃校になった中学がありますので、「明道中学卒」と書いたりしました。これなら、ウソであることが人にはわかりませんからね。また、あなたの生家のご商売は何ですか」と聞かれると、ほんとうは「うどん屋」だったんですけれども、「食料品販売業です」とか答えていました。こういう、表と裏の食いちがったような生活をしながら、ごまかしをやっていますと、神経症にひっかかります。それはあるがままではなく、ごまかしでありインチキですから、いつも人から真相を見破られはしないかという不安がつきまとい、日常生活が防衛的にならざるを得ませんからね。水谷先生が私の一生を「草土記」という本にまとめてくださいました。よく売れた本です。それで隠しようがなくなりました。今ではさっぱりしたといいますか、ありのままを話せばいいわけですから、非常に気持ちがいいです。また、「私は小学校卒だ、うどん屋のせがれだ」とありのままをいっても、人びとからバカにもされないで、むしろ「その割には成功しやがったな」ということでほめてくださいます。水谷先生に「草土記」を書いていただいたおかげで、私の気持ちがきれいに洗われたといいますか、表面的な見せかけをかなぐり捨てて、自己本来のあるがままの姿にしていただいた、ということが言えるんじゃないでしょうか。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)9月号 37ページ)誰にも人にはとても話せないような、秘密にしておきたいようなことはあります。ことさら取り上げて公開する必要はありませんが、これを隠す、ごまかすことにエネルギーを投入することになりますと問題が起きます。うまく隠したとしても、どこかにほころびが見え隠れしています。そのほころびが気になり、さらにそれを隠すために、多量の時間やお金をかけて隠蔽工作をしなければ今までの努力が水の泡になってしまう。すべてがみんなの知るところになりますと、信用は地に落ちてしまいます。自分の恥部はできる限り隠さないと、みんなから仲間外れにされて孤立してしまうという強迫観念があるからだと思います。事実は反対です。事実を勝手に誤認しているのです。自分の恥部を隠さないで、さらけ出す人ほど人が近づいてきます。たとえば学校のテストで平均点が60点くらいの時、30点くらいの答案をみんなに公開できるような人は、「こんなところで間違えたのか」とからかわれながらも、人との距離はぐっと縮まります。集談会でも体験発表で感極まりながら、自分をさらけ出す人はほとんどよくなっています。反対にあたりさわりのない、自分の都合のよいところばかりの体験発表は、いま一つというところがあります。ただしこれは別に問題があるということではありません。さて、私たちは森田で「事実唯真」ということを学びました。この言葉は森田理論の中でも重要なキーワードです。これは自分の恥部を隠さすための工夫をやめると、エネルギーの無駄使いがなくなる。その貴重なエネルギーの温存が可能になる。問題のある事実にしっかりと足場を固めると、今度はそこを出発点にして「生の欲望」の発揮に向かって切り替えることが可能になる。つまり逆転人生の幕が切って落とされるということになります。すぐにはできなくても、そういう方向に向いていることが大事になります。集談会などで切磋琢磨していると、次第に身についてきます。
2023.03.17
コメント(0)
3月号の生活の発見誌に次のような記事がありました。10年ほど前に本部の基準型学習会に参加して、思想の矛盾というのを初めて教わりました。その後になり、私は長い間「かくあるべし」に縛られていることに気が付きました。症状は対人恐怖で、人としらけてはいけない、話は続かなければいけない、失敗してはいけないなどということです。この思想の矛盾はどうしたらなくすることができるのでしょうか。この方は森田理論学習によって「思想の矛盾」が、人間関係の葛藤や苦悩の原因の一つになっていることに気付かれました。それだけでも森田理論を学習したかいがありましたね。森田理論学習に出会わなかったら、辛い人生で終わった可能性が高いです。「思想の矛盾」は、自分の立ち位置を雲の上に置いて、地上にいる自分を非難・否定しているようなものです。自分という一人の人間のなかに、理想主義や完全主義に凝り固まった人間とさまざまな問題を抱えて悪戦苦闘している二人の人間が同居しているのです。解決策は雲の上にいる自分が、地上に降りてきて、さまざまな問題を抱えた自分に寄り添うことです。つまり観念優先から事実本位に軸足を移すことで問題は解決します。私はその方法は9つあると思っています。1、「かくあるべし」の弊害と事実本位の利点について理解を深める。2、自分の中にいる二人の自分を一つに統一する。3、事実観察を徹底する。事実を具体的、赤裸々に取り扱う。4、早合点、先入観、決めつけ、思い込みを封印する。5、物の性を尽くすことに専念する。自分の性を尽くすことです。6、「あなたメッセージ」を「私メッセージ」に切り替える。7、両面観、多面観のものの見方を身につける。8、純な心の実践をする。直観、第一の感情、初一念の感情から出発する。9、否定語は封印して、肯定語を意識して使うようにする。2021年7月11日~22日まで具体的に詳しく紹介しています。「思想の矛盾」は理論学習で理解しただけでは何も変わりません。これらのうちから、一つか二つを取り上げて、真摯に取り組むことが肝心です。また思想の矛盾の打破は、野球でいえば打率のようなものです。油断をすればどんどん低下してくるのです。成長の過程で身にまとってきた「かくあるべし」はかなりの難敵です。一歩前進2歩後退というようなことは絶えず起こります。私はこの部分を忘備録として持ち歩いています。時々取りだして読んでいます。意識づけしているのです。それでも、いつも「かくあるべし」が出てきて自分を苦しめているのです。でも進むべき方向性がはっきりしているのは安心感があります。なお観念優先から事実優先の態度を身につける方法は他にもあるかもしれません。それらは付け加えてさらに理論を進化させてください。
2023.03.10
コメント(0)
「窮鼠猫を噛む」という故事があります。これは窮鼠だけではありません。人間も絶対絶命の窮地に追い込まれると、時としてそれを跳ね返すだけの爆発的なエネルギーを発揮する場合があります。これと同様な言葉で「火事場の馬鹿力」という言葉もあります。大きな絶望は、臆病者を一転して勇者に変える場合があるということです。今日は「窮鼠猫を噛む」という故事から、どうすれば最悪の状態から、心機一転できるのかを考えてみたいと思います。「ダメだ、最悪だ、最低だ、イヤだ」という言葉が口癖になっている人がいますが、そういう人は、自分の言葉に影響されて、ますます落ち込んでいくのではないでしょうか。心機一転というわけにはいかないように思います。そういう人は、本音としては、まだ切羽詰まってはいない。まだ十分ゆとりがあるといえるのかもしれません。なんとかなるはずだという気持ちが心の奥にあると思います。きっと誰かが助けに入ってくれるかもしれないということかも知れません。このような状態では、絶体絶命にはなれないと思います。ではどうすればよいのか。最悪の状態を予測して、それをしっかりと受けとめるという覚悟を固めるというのは如何でしょうか。どん底まではいくらかまだゆとりがあるわけですから、さらに事態が悪化することを予測して、それを受けとめる。最悪の事態に至っても許容するという態度に出るのです。なかなかできないことですが、事実に反旗を翻さないで、事実に服従するという態度で対応するのです。そんなことをすれば自分はますますダメになるのではないか。頭で考えるとそういう事になります。しかし実際はそうなりません。なぜなら、その状況は第3者的な立場から自分を眺めているからです。客観的な立場に立って、最悪の状況を許容していることになります。慌てふためいて、すぐにその状況に対応しているわけではありません。主観的ではなく、客観視しているということがポイントです。その過程で、反発のエネルギーが醸成されてきます。どん底に至るまでじっと待っていると、蓄積されたエネルギーの有効活用が可能になります。ひざを折り曲げて、力を溜めて大きく飛び上がれるように準備しているということになります。反転攻勢に打って出ることができます。これが心機一転です。「谷深ければ山高し」ということになります。森田先生は不眠を訴える人に、今夜は一睡もしないで、起きていなさいと言われています。絶対に寝てはいけないというのは、いわば逆説療法です。翌日その時の状況を詳しく説明するようにと言われました。そのあとで不眠についての対策を教えてあげると言われたのです。ところが不眠の患者さんは、その日に限ってすぐに熟睡したというのです。この現象は、鎖につながれた犬は人が近寄ると盛んに吠え立てます。ところが繋がれた鎖が何かのはずみで外れたとたん、所在の悪さを感じて吠える気力が萎え、すごすごと後ずさりするようなものです。こうしてみると「ダメだ、最悪だ、最低だ、イヤだ」という言葉を、安易な状態で使っている限り、益々みじめになっていくということです。最悪を受け入れるという気持ちを持つことが、自分を救う道だと自覚することが肝心ということになります。
2023.02.26
コメント(0)
五木寛之氏のお話です。生きていれば誰しも、不幸な出来事や死にたくなるような情けない局面に直面することがあります。また、「泣きっ面に蜂」とはよく言ったもので、トラブルや不幸というものは重なるものです。そんな弱りきったときに「人生には無限の可能性がある」「夢は必ず実現する」といったポジティブ思考は何の役にも立ちません。五木さんは、12歳の時、北朝鮮のピョンヤンで、敗戦を迎えました。頼りにしていた母親を失い、それまで正しいと思っていたことはすべてくつがえされ、目を覆いたくなるような悲惨な状況の中、九州に引き揚げてきました。引き揚げても住む家さえなかった。それを身の不幸と思いました。でも考えてみれば、自分よりも不幸な子供たちはたくさんいた。私はそんな時、徹底したネガティブ思考でしのいできました。「人生とは苦しみの連続である」と覚悟を決めたのです。そうすると、その諦念の底から、かすかに湧いてくる力がありました。「それしかないなら、引き受けるしかないな」という、「居直りのエネルギー」です。私は、これこそ、真のポジティブ思考なんじゃないかと思うのです。ネガティブ思考を突き詰めていくと、いつか底を打ちます。するとそこから、新しい力が生まれてくる。このように、ネガティブ思考から生まれたポジティブ思考は相当に強いものです。捨て身で覚悟を決めたこころから生まれてきているのですから。もしあなたに、次々と不運が襲ってきたら、無理にそれに対抗しないことをお勧めします。むしろそれを柔らかく引き受け、そして居直ってください。居直るということは覚悟を決めたということです。すると、ちょっと味わったことのないようなパワーが湧いてくると思います。それが仄かなものでも、あなたの覚悟という基盤から生まれた新しいエネルギーです。そのエネルギーを使って、あなたなりのポジティブ思考をしてみてはどうでしょうか。(ただ生きていく、それだけで素晴らしい 五木寛之 PHP 44ページ参照)稀に最悪の状況に追い込まれながらも、発奮材料に変えることができる人がいます。そういう人は、ミスや失敗、最悪な環境や境遇がエネルギーの供給源になっているのです。そういうネガティブ要素がなかったなら、普通の人で終わっていた可能性が高い。これは、森田でいう最悪の事実にきちんと向き合うことができたからこそ可能になったと考えられます。多くの人は、最悪の状況に追い込まれて、なすすべもなく没落していく傾向が高い。それは、理不尽で自分の思いどおりにならない現実を、非難、否定しているからだと思います。事実をあるがままに認めることができれば、葛藤や苦悩はなくなります。その結果、貴重なエネルギーの無駄使いがなくなります。事実にしっかりと足場を築いて、夢や目標を見上げることができれば、そのエネルギーを使って、逆転人生の始まりとなります。これが五木氏の言われている「居直りのエネルギー」の発揮のことです。このことを森田では「生の欲望の発揮」と言います。森田では神経症を克服した人は、生の欲望に目覚めて見違えるほど活動的になります。
2023.02.20
コメント(0)
矢作直樹氏は、穏やかな生活を送るために、次の6点を挙げておられます。1、知足(足りていると知る)2、必然(それ以外になりようがないと知る)3、中今(今この瞬間こそ真実と知る)4、無常(あらゆるものは常に変化すると知る)5、覚悟(迷いを断ち切ることこそ最善と知る)6、御陰(大いなる存在に守られていると知る)(身軽に生きる 矢作直樹 海竜社 70ページ)これらはほとんど森田理論で目指していることと重なっています。今日は、これを基にして、森田理論を深耕してみたいと思います。1、少欲知足のことです。我唯足知とも言います。欲望は追い求めると暴走を始めます。それが生きる目的となります。欲望は無制限に追い求めないようにすることが肝心です。求めすぎると無理をしてしんどくなります。他人と争うようになります。森田では、過大な欲望は不安によって制御することが大事だといいます。サーカスの綱渡りのように欲望と不安を上手にコントロールすることを心がけるようにしなければなりません。2、森田では、「ものの性を尽くす」と言い換えてもよいと思います。これが「必然」のことだと思います。非難、否定、不平不満をぶちまける前にすることがあります。現在あるもの、持っているものの価値を再評価し、居場所や活動の場を与える。すべてのものや人は、存在価値を持っているという視点を持つということです。これを実践すれば自分も他人も平和になります。3、過去の自分のしでかした不始末を後悔することは誰でもあります。自分を自己否定していると、みじめになるだけです。否定するのではなく、その事実を認めて反省すればよいのです。そこを出発点にして、同じような失敗は繰り返さないようにすれば、過去の不始末は許されると思います。後悔にとらわれていると、目の前のことから注意や意識が離れてしまいます。森田では目の前のことに注意や意識をフォーカスして行くことをお勧めしています。そのために、規則正しいルーティンワークを作り上げて実行していく。凡事徹底を心がけることです。雑事に一心不乱に取り組むことです。その中から気づきや発見を見つけ出すことが生きがいにつながります。4、諸行無常のことです。鴨長明の方丈記や平家物語に書いてある通りです。どうにもならない神経症的な不安は、持ち抱えたままにする。変化を読み、変化の波に上手く飛び乗って行くことを心がけることです。変化対応を軽視すると未来は開けてきません。不安は谷あいを流れる水のようにどんどん流して行くことを心がける。5、神経症の克服、神経質性格者の人生観の確立はすべて森田理論の中にあります。森田理論学習に取り組むことでものにすることができます。せめて1年間だけでも真剣に森田理論学習に取り組んでみましょう。その方法は生活の発見会の先輩会員が教えてくれるはずです。確実にものにするためには、仲間と一緒に学習していくことです。森田理論はそんなに難しいものではありません。理解できたら、自分の生活や仕事に活用・応用していくことです。くれぐれも宝の持ち腐れになりませんように。6、この世の中の出来事は何か偉大な大きな力が働いているように思います。そう考えている人は「サムシング・グレート」の存在を感じています。そういう人はとても謙虚で、「生きていること」「生かされている」ことに感謝しています。大自然や大宇宙に抱かれて悠然と生きていらっしゃるように感じます。こういう死生観をもつことで、その人の生き方が変わります。この考え方は、樹木希林さんや遺伝子研究の村上和雄氏から教わりました。
2023.02.18
コメント(0)
萩本欽一さんのお話です。いろんな大スターに会ってきたけど、大スターほど言うのはね、「俺ね、本当は駄目なんだよ」ってこと、楽屋でよく言うんだよ、小さな声で。「俺、こんな欠点がある、ほんと駄目なんだよな」「うそ!」あれ? おかしいな。スターほど「できない」と「駄目」が多すぎて、自分の短所をよく知っている。その駄目をね。でも、もう駄目なんだからって半分ぐらいあきらめて、そこのところは無理しないでさりげなく出していく。駄目なところがあっても、逆にそれをいいって言われる。それがスターなんだよ。昔から大スターの逸話とか伝説ってあるじゃない。僕は、ああいうのが好きなんですよ。すごいなあって思う。(ユーモアで行こう 萩本欽一 KKベストセラーズ 108ページ)大スターは歌がうまくて、演技力抜群です。ユーモアのセンスもある。さらに容姿端麗の人が多い。あるいは強烈な個性を持っている。だから大スターになれたのだと思っていました。萩本氏の印象では、その見方は間違っているといわれる。大スターほど、自分の弱点、欠点、ミス、失敗を自覚している。それらを決して隠そうとしない、捻じ曲げようとしない。言い訳をしないで、むしろ周りの人におもしろおかしく公開している。人間はどんなに立派に見えるような人でも、醜悪な面を持っている。これだけは秘密にしておきたい過去を持っている。長生きしている人ほどたくさん持っています。それらが他人に知れると、人から軽蔑されるような気がする。できれば一生涯隠し通してしまいたいと思っています。この態度が自分を窮地に追いやっていることに気づかない。萩本さんはこんなことも言っている。オーディションではみんなうまく演技して、何とか受かろうとする。だけど、努力して受かったやつがそのまま芸能界でやっていけるかっていうと、そう簡単なものではない。芸能界ではうまいからって使われてることはほとんどないよ。昔は実力の世界なんて言われてたけど、それはもう古い言葉。今は性格なの。僕は長いことテレビをやってて、「あいつはうまいから使おう」なんて話、聞いたことがない。一番使われるのは、「あいつはいいヤツだから使おう」っていう、この言葉が多いんですもん。だとすると、演技なんかよりも性格を磨いた方がいいよ。(同書 117ページ)萩本さんの言ういいヤツとは、裏表のない人間のことではないでしょうか。事実を隠さない、ごまかさない、言い訳しない、責任転嫁しない人のことです。自分の醜いところを上手に隠して、実物以上にかっこよく見せようとしていると、相手に警戒心を起こさせる。そういう相手と一緒にいると、緊張状態を強いられます。その点、過去の忌まわしいミスや失敗、自分の恥部、弱点、欠点、ミス、失敗を赤裸々に公開するような人は安心できます。自分もその人の前では全部をさらけ出しても大丈夫だという気持ちになれる。事実を捻じ曲げて実物以上によく見せるというのは、詐欺師の常套手段です。一度は上手に相手を騙せても、長い目で見ると信用を失います。一旦失った信用は二度と取り戻すことは出来ません。森田先生は言い訳や責任転嫁の言葉を大変嫌われています。ウサギが突然入ってきた野犬にかみ殺されてしまうという逸話が残っています。そのときウサギ小屋の世話をしていた入院生は、これは入り口の扉の作り方が悪かったので起きた事件ですと言い訳をした。自分の立場を擁護するために責任転嫁されたのです。森田先生は、自分の立場を正当化する言い訳や責任転嫁ではなく、かみ殺されたウサギの気持を察する気持ちがどうして出てこないのかと言われています。事実を素直に認めることができると、失敗を次に活かすことができるようになります。事実をごまかしてしまうと、もう二度とウサギ小屋の世話はまっぴらごめんだということになります。自分の都合の悪い事実を素直に認めることは難しいです。そしてそれを周りの人に公開するというのはさらに難しい。森田理論の「純な心」という考え方は、最初に湧き上がってくる素直な感情を前面に押し出していくことだと言われています。この考え方を指針にして、自分の言動を点検していけば、事実をごまかすことが少なくなると思われます。
2023.01.02
コメント(0)
樹木希林さんは自分の身体や財産などは自分の所有物ではないという考えを持っていました。これらは神様にお願いしてレンタルしているものだといわれているのです。使用者は自分であるが、所有者は自分ではないという考え方です。この考え方を採用すると、自己否定感がなくなるかもしれません。あまたある生き物の中から、自由に動くことができ、さらに高度に進化した脳を持っている生き物を貸与していただいたと考えるのです。貸与物にたとえ重大な瑕疵があったとしても、クレームをつけるような気持にはなりません。貸していただいたことに、ただただ感謝あるのみです。少々物足りないものがあっても、備わっている物を精一杯活用するだけです。自分の身体は自分の所有物と思っていると、そのようには考えられません。どんなに手荒に扱っても、自分の勝手でしょうという気持ちになります。粗末に扱っても構わない。乱暴に扱かっても文句をいわれる筋合いはない。自分自身が気に入らなければ、いくら非難しても構わない。最終的にどうにもならなくなれば自死してもよい。欠点や弱点だらけの容姿、能力、境遇、環境、疾患、生まれた国や時代などを目の敵にして自己嫌悪、自己否定している人もいます。神経質性格も些細なことが気になるので否定するような事にもなります。貸してもらったものと自分の願望が対立して葛藤や苦悩が生まれています。所有欲が強すぎると、自分の身体を慈しみ、いたわる気持ちが希薄になります。レンタルといえば、リース車両、事務機器、建設機械などがあります。その他賃貸住宅、宿泊施設、市民菜園などもそうです。必要な人にとっては、貸してもらえたということは大変ありがたいことです。感謝して、傷つけないように慎重に取り扱う義務が生じます。樹木希林さんは人間の体や財産も同じだといわれているのです。貸してもらったものを自分勝手に乱暴に取り扱うことは許されません。ましてや貸主に許可なく改造などをすることは許されません。現状変更はご法度です。そのままの状態で使用していくしかないのです。経年劣化は仕方ないとしても、善管注意義務が生じます。貸していただいたものを活用して、人様に役に立つものを生み出していく。貸主からすれば、貸してあげた時よりも一回りも二回りも立派な状態で返してもらうとうれしいはずです。また貸してあげたいという気持ちになるはずです。使用料金を安くして、もっと性能の良いもの、好条件の生き物を貸与してあげたいと思うようになると思います。私は仏壇の前で手を合わせて自分の信条を宣言するのが日課になっています。そうすると、自己否定感が消えて、不思議と感謝の気持ちが出てきます。自分の身体は私の所有物ではありません。神様にお願いして、この世で一時的にお預かりしているものです。貸していただいたこの身体を精一杯活用させていただきます。自分やってみたいことや人様に役立つことを手掛けてまいります。そして借りたものはいずれお返ししなければなりません。お返しする時は、借りた時よりもさらに磨きをかけてお返しするつもりです。その時がくるまで、どうぞよろしくお願いいたします。
2022.11.18
コメント(0)
山鳥重氏のお話です。形を見るにせよ、空間を見るにせよ、視覚はあくまで自己の過去を支えとし、自己の今を基準とした構造世界であって、個別の世界である。つまり、けっして客観的な能力を備えた世界でないことを知っておかねばならない。この目で見たのだから絶対に正しいとは言えないのである。(脳からみた心 山鳥重 NHKブックス 137ページ)森羅万象に人間的な解釈を適応しようとする心の動きは原始人も現代人も変わるものではない。いろんな現象に別の現象の徴候を見るのは人間の変わることのない本性である。人を見るときもそうである。相手を等身大の、そのままの存在として見ることはもっとも苦手なことである。逆に相手を分類し、ラベルを貼るのはわれわれの得意なことの一つである。つまり自分の尺度に合わせて、相手を解釈し、記号化してしまう。(同書 228ページ)山鳥氏は、事実の取り扱いについてはもっと慎重であるべきだといわれている。いかに事実を事実のままに正確に見ようとしても、事実全体を正しく見ることは出来ない。事実の確認には限界があるといわれているのだ。また人によって事実の見方は千差万別である。穴のあくほど事実を見たので、間違いないと判断しても、それはその人の見方でしかない。他人は別のところに焦点を当てて事実確認している場合がある。事実確認をして、相手の人物評価をしても、人間はプラス面とマイナス面を同時に持っている。醜悪硬軟併せ持っているのが人間の姿だ。ポジティブな面、ネガティブな面の両面を見ないと見誤ることがある。さらに置かれた状況や時間の経過とともにその人の状況は変化している。ある時点で下した評価は、いつまでも普遍性のある正しい判断とはいえなくなる。いつまでも以前の事実にとらわれていると、問題が生じる。十分事実確認して、これで間違いないと思っても、事実に対してはもっと慎重になる必要があるといわれているのではないでしょうか。私たちは森田理論の学習によって、観念優先で事実を軽視する生活態度が苦悩や葛藤をもたらしていることを学んだ。事実確認が不十分な状態のとき、先入観、決めつけ、早合点で分かったつもりになって対応することは間違いが多い。他人から聞いた情報は、すぐに鵜呑みにしない。面倒でも実際に現地に足を運んで自ら事実確認を行う。森田先生は、五高時代には実際に幽霊屋敷の探検をされている。また、熱湯に手を入れるパフォマンスを見たあとは、自分で実験をして真偽のほどを確かめておられます。自分の主張を相手にぶっつける前に、まず相手の気持ちや考え方を確認する。事実関係がよく分からないうちに、あいまいな対策を立てて実行した場合は、後で取り返しのつかないことになる。さらにその間違いを取り消そうとすれば、ますます混迷の度を深めてしまう。かって日航ジャンボ機が群馬県の山中に墜落したことがあった。事故機は以前に尻もち事故を起こした機体であったという。その原因究明をあいまいな推測で決めつけてしまったために大惨事となった。事実に対してもっと謙虚であるべきだったのではないか。森田理論を学習した者としては、事実を観念で捻じ曲げてしまうことは決して許されないことだと肝に銘じておきたい。
2022.11.17
コメント(0)
今は定期券を使うことはありませんが、以前は使っていました。そのときの話です。定期券が切れていることを知らないで、毎日、電車に乗っていた人がいました。それを忘れて堂々とふるまっていたときは、何も問題は起きなかったのです。ところが、ある日期限が過ぎていることに気づきました。その日の帰宅途中、たまたま定期券を買うお金を持っていませんでした。翌日定期を買うつもりで、切れている定期で通り抜けようとしました。今まで一度も見つからなかったのに、初めて改札係の人に呼び止められました。(人を許すことで人は許される 中谷彰宏 ダイヤモンド社)これは後ろめたいこと、人に知られたくない欠点や弱点、ミスや失敗などをごまかし、隠そうとする行為は、いくら上手に工作しても相手に簡単に見破られてしまうということだと思います。夜薄手のカーテンを引いた家の中は、外からは丸見え状態になります。ところが本人はそのことに気づいていないことが多いです。外にいる人からプライバシーが筒抜けになっているとは夢にも思いません。これと同じようなことが起きているのです。人間性を疑われて、後々人間関係に悪影響を及ぼします。例えば、大切な商談の時間に遅れてきて、「交通渋滞に巻き込まれて遅れてしまいました」と言い訳をするようなことがあります。極端な例では、「出かける前に急用が入りまして、そちらの方で時間がかかりまして、遅れてしまいました」などと言う。実際にそうだったかもしれませんが、相手からすると、「それを見越してどうして早く出発しなかったのか」という気持ちになります。「私よりもそちらの方が大事だったのか。ぬけぬけとよくそんなことが言えるものだ」と思われてしまいます。そういう人に限って同じ過ちを何度も繰り返しています。言い訳が2回、3回と重なるとお互いの信頼関係はなくなります。あるいは友人と一度は約束したことなのに、気が変わって直前になってドタキャンすることもあります。相手はスケジュール表に書き込み忘れないように細心の注意を払っています。あるいは宿泊や食事の予約を入れていることもあります。それらを自分の気分で、いとも簡単に反故にするというのは、信頼関係も何もあったものではありません。偽装工作をする人は、自分を正当化しようと、精一杯の言い訳を考えて発言しているのですが、その発言が報いられることはありません。むしろ反対にあの人は全く信頼のおけない人だ。要注意人物だとみなされます。今後の付き合いは見合わせよう。さらにそういう噂は仲間内で拡散されてしまうのです。みんなが懐疑的になってしまいますので、人間関係がうまくいかなくなります。本人はどうしてだろうと思っていますが、自業自得とはこのことです。森田先生は、都合の悪い事実をごまかす、ねじまげる、隠蔽する、報告を遅らせる、責任転嫁をすることを極端に嫌われています。事実唯真という考え方を大切にされているわけですから当然のことです。先生が大切にされている骨とう品などをつい落として割ってしまった場合、すぐに素直に報告して謝った方がよいのです。そのときにはひどく叱られても、一時的なことで済みます。すぐにその後の対応策に向かうので、精神的な葛藤や苦悩はなくなります。叱られることを恐れて、強力な接着剤でくっつけてしまう。誰かほかの人のせいにしてしまう。見つからないところに隠す。そっくり捨ててしまう。開き直って「弁償しますから許してください」と発言すると大変なことになります。また、そのことが後で分かったときには、ただでは済まないでしょう。壊してしまったこと、さらに事実を捻じ曲げたことに対して、二重の叱責が待っている。人間性に問題があり、森田適応外と判定されると、再起は難しくなります。この場合、自分にとって不都合な事実を認めることは、注射針を打たれるようなものだと思います。その瞬間は痛みが走りますが、その後の結果に思いを馳せて我慢して耐えることが得策です。事実を包み隠さず素直に認めて公表することは、精神的な葛藤や苦悩を抱え込まない方法となります。
2022.11.12
コメント(0)
私は長らく自己否定感で苦しんできました。自分の容姿、神経質性格、逃避的態度、能力、境遇、自己中心的態度などです。長らく森田に関わってきて、最近やっと自己肯定感、自己信頼感、自己許容感が持てるようになりました、今まで自分という一人の人間の中に二人の自分がいて、いつもけんかをしていたのですが、なんとか一人の自分にまとまってきたような感じなのです。これには、樹木希林さんの話が役に立ちました。樹木希林さんは、自分の身体は自分の持ち物という考え方は、なんだかおかしいという考え方をされている。自分の身体は神様から一時的に借りているものだといわれている。そこに自分の意識のようなものが入り込んでいると考えられている。借りたものはいずれ返却しないといけないものです。借りたものを乱暴に扱ってはいけないです。壊してしまうと損害賠償をしないといけません。また自分がお願いして借りたものにケチをつける人はいませんね。ありがたく利用させていただくという気持ちが大切でしょう。この考え方に立つと、自分の容姿、神経質性格、能力、境遇などを非難・否定することは筋違いということになります。自分では決して作ることのできない知的生命体を貸していただいたことに感謝しかないです。不平や不満を爆発させていると、そんなに不平不満があるのなら、すぐに返却してくださいと言われますよ。あるいは強制返上させられますよ。そしてまたどこかの惑星で生まれ変わることになった時、もうあなたには知的生命体を貸し出すわけにはいきませんといわれるでしょう。どうしても言われるのならゴキブリや蛇やムカデのような生命体でどうでしょうか。反対に貸していただいたことに感謝して、とことん活用し貸してもらったときよりもさらに良い状態にした人には、大きな評価点をつけられることでしょう。そして次はもっと優れた環境の下で、優れた能力を兼ね備えた知的生命体を貸し出してくださることでしょう。樹木希林さんのお話はあくまでも仮説です。死後の世界を経験した人はいないわけですから、仮説しか立てようがありません。でもこの考え方を採用すると、この世での生き方が変わってきます。自分を非難・否定することがなくなり、あるがままの自分を素直に認めて、精一杯生き切ることに転換することが可能になると思います。森田理論でいうと「かくあるべし」を封印して、事実本位の生活態度に近づくことが可能になります。樹木希林さんは個性派女優でしたが、私は優れた哲学者だと思っております。・一切なりゆき 文芸春秋・この世を生き切る醍醐味 朝日新書この2冊の本は私が大切にして何度も読んでいる本です。読むたびに感動と納得の気持を味わうことができます。
2022.10.26
コメント(0)
藤井英雄医師は、「マインドフルネスの教科書」(clover出版)という本で、マインドフルネスの全貌を詳しく紹介されている。私は今までマインドフルネスというと瞑想というイメージしか持っていなかった。それは完全に間違っていたことがよく分かりました。藤井医師は、マインドフルネスとは「今、ここ」の現実にリアルタイムかつ客観的に気づいていくことだと言われています。たとえば今現在一心不乱に本を読んでいる。それはマインドフルネスではありません。今一心不乱に本を読んでいる自分がいるということに気付いているというのがマインドフルネスだと言われている。ストレッチをして背中の筋肉が伸びているのを感じている。これもマインドフルネスではありません。背中の筋肉が伸びていることを感じている自分に気付いているというのがマインドフルネスだと言われています。音楽を聴いて楽しんでいることがマインドフルネスではありません。音楽を聴いてリラックスしている自分がいるということに気付いているというのがマインドフルネスです。少しわかりにくいですが、今の自分の心身の状態に気付くということだと思います。私たちは生活している中で、ネガティブな感情や思考にとらわれます。そしてミスや失敗をしたという現実、事実を否定しようとします。自分を支配している偏った信念に振り回されています。森田でいえば素直な感情、最初に湧きあがった感情が上の空になり、「かくあるべし」を含んだ二次感情に振り回されます。過去のネガティブな体験を通して得た予測、予断、執着に翻弄されています。事実を軽視して、今までの習慣、常識や先入観や決めつけで行動しようとします。マインドフルネスは一言でいえばそこに待ったをかけるエクササイズなのです。1、神経を「今、ここ」に集中させる。2、素直にあるがままに感じる。3、一歩引いて第3者的な視点から客観的に気付いていく。これは森田理論でいうと、次のように言い換えられます。1、ものそのものになる。目の前のことに集中する。一心不乱に取り組む。2、事実を価値批判しないで、あるがままに受け入れる。最悪を受け入れる。3、事実をよく観察する。両面観、多面観で見る。先入観、決めつけ、早合点を避けて事実を正しく見る。事実本位を徹底する。これらの考え方は。森田理論の核心部分ばかりです。私たちは、怒りや悲しみ、不安や恐怖などのネガティブな感情にとらわれています。その瞬間にもし「自分がネガティブな思考やネガティブな感情にとらわれていること」に気付けば、そのネガティブな思考や感情、自分を取り巻く現実や自分自身を支配している偏った信念から一瞬だけ自由になれます。そのためには、森田理論学習で認識の誤りを理解しておくことが大切です。マインドフルネス認知行動療法というのが広く知られるようになりましたが、これを機会にマインドフルネスを森田療法に応用できないか検討してみたいと考えています。
2022.09.30
コメント(0)
ヨーロッパでは、火薬を使った「発破」で鉱物資源の採掘やトンネルの採掘をおこなっていたのですが、日本ではそうしませんでした。火薬による発破を日本に伝えたパンベリーは、火薬の使い方を知りながら、日本人が石の採掘に応用しなかったことを不思議がったといいます。高い技術力を持ちながら、それを自然を征服するために使わなかったからです。それはなぜか?自然を破壊するなんて美しくないからです。じゃあ、何に使ったのか。みんなが楽しめる花火に使ったのです。これがもともとの日本人の感性なのです。日本人は、お茶を道にして茶道を生み出し、剣は剣道、書は書道、弓は弓道、華は華道、なんでもそれを道にしてきたのです。道とは、勝ち負けを争うのではなく、美しさの追及です。勝つか負けるかじゃない。損か得かでもない。美しいかどうか。かっこいいかどうか。これは突き詰めれば、みんなが笑い合えるかどうか、より多くの人を幸せにするかどうかです。(人生最後の日にガッツポーズして死ねるたったひとつの生き方 ひすいこたろう A-Works)これは、日本人が、便利か不便か、役に立つか役に立たないか、よいか悪いか、正しいか間違いか、勝つか負けるか、仲間か敵かという対立的な価値判断とは全く違う価値観を持っているということを説明していると思います。どんな価値観なのか。それが美しいか醜いか、調和がとれているか崩れているか、感動するか嫌悪感を催すか、味わい深いか無味乾燥かという価値観を持っているということだと思います。日本人はことさら対立をあおるのではなく、それを乗り越えて、調和、平和、幸福、感動を希求する習性を持った民族と言えるのではないでしょうか。外国では宗教が違えば、戦争も辞さないという考え方をします。是非善悪の価値判断が絶対的な物差しになります。征服するか征服されるか二者択一の世界で生きているのです。日本人も欧米人並みに是非善悪の価値判断という物差しを振り回す人もいますが、それとは違う価値観も根強く日本人の心の中に息づいているともいえるのではないでしょうか。森田理論に是非善悪の価値判断をしないで、事実を事実のままに見ることが大切であるというのがあります。この善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事ができれば、それが大学卒業程度のものでもあろうか。「善悪不離・苦楽共存」ともいうのもこの事である。(森田全集第5巻 653ページ)森田理論学習の中で、神経質者は二分法的な見方や考え方をする傾向が強いと学びました。これは完全主義という観念にとりつかれて、葛藤や苦悩でのたうち回っているというものです。100点でなければ、仮に90点、80点、70点という高得点であってもすべて0点とみなすというような極端な考え方の事です。白か黒かのどちらかに決めつけてしまうのは破滅的な考え方です。このような考え方を是正する一つの方法として、それが美しいか醜いか、調和がとれているか崩れているか、感動するか嫌悪感を催すか、味わい深いか無味乾燥かという見方を心がけるというのは如何でしょうか。一般的には、100点か0点に決めつけてしまうのではなく、事実をよく見て、20点から90点の間の正しい評価づけを行うというのが基本です。森田理論は相対立する考え方をことさら際立たせるのではなく、対立する考え方の調和を目指すという考え方なのです。どんなに悲惨な事実であっても、どんなに理不尽な事実であっても、最終的にはその事実を受けいれて、止揚していきましょうという考え方です。
2022.09.27
コメント(0)
カーネギーの「道は開ける」という本に次のような逸話が紹介されています。弁護士のジェオリ・ルアナ氏はウィーンからスウェーデンに移り仕事を探していた。貿易会社で働こうとさまざまな会社に手紙を出した。そんなとき、ある会社から手紙が届いた。「私どもの仕事について、貴殿は愚かな思い違いをしております。新しい方の採用予定はありません。仮に必要でも、スウェーデン語を満足に書けない方は採用しません。貴殿の手紙は間違いだらけです」ジェオリ・ルアナ氏はその手紙を読んで、短気なドナルドダックのように怒った。このスウェーデン人はどうして自分が字も満足に書けないというのか。このスウェーデン人の手紙こそ間違いだらけなのだ。そこでジェオリ・ルアナ氏は、さらにその男の怒りを煽る手紙を書き始めた。やがて手を止めて、自分自身に問いかけてみた。「ちょっと待て。この男が正しくないと、どうして言い切れるのか。私はスウェーデン語を勉強してきたが、母国語ではない。知らずに間違えているかもしれない。それなら、仕事に就くためには、もっと勉強しなければならない。そのつもりはなかったかもしれないが、結果的にこの男は私に良いことをしてくれた。不愉快な手紙だったが、借りができたことは事実だ。だから、彼の好意に対し、お礼の手紙を書くことにしよう」ジェオリ・ルアナ氏は、それまで書いていた痛烈な内容の手紙を破り捨て、別の手紙を書き始めた。「採用を予定されていない中、わざわざお手紙いただき感謝いたします。御社について思い違いをして、申し訳ありませんでした。・・・私の手紙の文章に文法的な間違いがあったことには気がつきませんでした。大変お恥ずかしい限りです。お詫び申し上げます。これからは、スウェーデン語を一層熱心に勉強し、間違いを治そうと思います。改善のきっかけをつくっていただき、ありがとうございます」数日もたたないうちに、ジェオリ・ルアナ氏に再び手紙が届いた。そこには面接に来るようにと書いてあった。そして仕事をもらうことができた。この逸話を森田理論で分析してみたいと思います。最初に自分を非難する手紙を受け取って激怒しています。森田でいうと、怒りの感情は二次感情、初二念の考えと聞いたことがあります。その感情に従えば、事態は悪化して、欲求不満に陥ります。ジェオリ・ルアナ氏は、今一歩間をとって、一次感情、初一念、純な心を見つめ直しています。相手の態度に激怒したが、自分の方に非があるのかもしれない。それをわざわざ知らせてくれたのは、感謝以外の何物もない。そのことに対して感謝の手紙を送ろう。不快な事実をあるがままに受けいれて、今できる最善の手を尽くしたということです。森田理論の眼目の一つは、「かくあるべし」の押し付けをやめて、事実本位に移行するということです。事実本位に移行すると、エネルギーの無駄遣いが無くなります。そして冷静になり、そのエネルギーの有効活用を考えられるようになります。マラソンでいえば過酷な国内予選を勝ち抜いて、オリンピックのスタート地点に立つことができるようになるということです。惨敗することもあるでしょうが、スタート地点に立たないと、その後のドラマが生まれることはありません。悶々とした人生が延々と続くことになります。なお事実本位に近づく方法として、2021年7月11日から7月23日まで投稿していますので、興味のある方はご参照ください。
2022.09.21
コメント(0)
「荘子」「知北遊」篇には、「人間の肉体は誰のものでもない、ひととき預けられたものである」とある。人間の身体も皆、自然界からの借り物であって、いずれは返さなければならないものである。(菜根譚 ナツメ社 156ページ)これは人間の身体は、市民菜園、レンターカー、事務機器、コンサートホールなどと同じように、レンタルしているようなものだという考え方です。借りているものは、期限がくれば返却しなければなりません。棄損したものを返すことになると、損害を弁償しなければなりません。人様のものですから、返却日まで細心の注意を払って大切に取り扱うことが欠かせません。はたして人間は自分の身体をそのように取り扱っているでしょうか。自分の身体は紛れもなく自分の所有物だと思っていることが多いのではないでしょうか。そう考えていると、不平不満が生まれてきます。理想と現実のギャップ気づくと自分を否定するようになります。たとえば、もっとイケメンや美人に生まれてくればよかった。スポーツ万能、頭脳明晰、能力が高く、リーダーシップのある人間に生まれてきたかった。家柄も立派で、戦争とは無縁な時代や国に生まれてきたかった。絶えず理想と現実が言い争いをするようになります。山崎房一さんは、「自分の最大の敵は自分」であると指摘されています。自分にとって、一番恐ろしいことは自分が他人の目で自分の欠点を責めたてて自分の存在を否定すること自分にとって、一番心強いことはどんなことがあっても自分が自分の味方になって自分を守ることです(心がやすらぐ本 PHP 70ページ)森田理論の学習の中で、「かくあるべし」という観念的、理想主義的な態度で、現実や現状を否定している態度が葛藤や苦悩を招き寄せていると学びました。私は、現状に不平や不満、グチ、自己嫌悪、自己否定の感情が湧き上がった時、次のように考えるようにしています。まずいい、上から下目線で「かくあるべし」を押し付けているぞ。自分の悪い癖が出て来たよ。自分に寄り添うことが一番大切だ。森田の基本は、事実に寄り添うことですよ。事実に寄り添って、下から上を見上げるようになりたいね。最悪な事態を想定してそれをあるがままに受け入れてみよう。キーワードは一休禅師の「大丈夫。心配するな。なんとかなる」です。次にマイナス感情にばかり浸っていると、未来に希望が持てなくなってしまう。バランスが崩れると、存在基盤が崩れて、空中分解してしまうのが宇宙の法則だ。森田の両面観や精神拮抗作用を思い出そう。マイナス感情が湧き上がったとき、ポジティブな感情を考えてバランスをとる必要がある。キーワードは「サーカスの綱渡りのイメージで生活しよう」です。集談会では、お寺の住職さんから「ほどほど道」という生き方を教えてもらいました。私たちはイヤのことが発生すると、それを大きく膨らませて、自分の人生に致命的なダメージを与えてしまうと考えてしまいます。それを周りから見ると、「悲観上手な天才」に見えてしまうのだそうです。実に滑稽で精神的に幼いピエロを演じているかということです。中庸の考え方、見方を身に付けるためには、集談会などで切磋琢磨する必要があると思います。ここでのキーワードは、「白と黒の間には無限の灰色の世界がある」ということです。灰色の部分に注目できるようになった人は、包容力を持った心の広い人に見えます。
2022.09.11
コメント(0)
先日NHKの「ダーウィンがきた」という番組を見た。南アフリカの南端ではイワシが大量に発生する。そのイワシが群れを作って南から寒流に乗って北に大移動するという。そしてある場所で向きを変えて、今度は暖流に乗って南下してくる。これをサーディン・ランというそうだ。その過程で様々な命の営みが繰り返されている。イルカは仲間同士で協力して、イワシを海面近くに移動させて捕食している。その後ろには獰猛なサメも控えて、おこぼれを狙っている。空からはカツオドリの襲撃がある。カツオドリの雛は海に出て飛行訓練をする。その雛が海に落ちると、すぐにオットセイの餌食になる。オットセイの子育て中は大量の食料が必要になるという。イルカがイワシに夢中になっているとそれを狙って近づいてくるシャチがいる。海のギャングと言われるシャチは仲間と連携して、イルカに体当たりしてくる。弱ったイルカはなすすべもなくシャチに捕食されます。そのほか、ニタリクジラもやってくる。一口で数1000匹というイワシを一飲みしています。弱肉強食の世界とは言え、こうした営みが日々繰り返されているのです。イワシはいつも逃げ回ってヘトヘトになっています。イワシを人間に置き換えてみるとどうでしょうか。イワシは弱者で常に命を狙われています。それも一方的です。長生きして子孫を残したいと思っていても、予期せぬ形で命が尽きてしまいます。こんなに理不尽なことが許されてもよいのか。イワシの胸中察して余りあるものがあります。私たち人間も天災と隣り合わせで生活しています。また思わぬ事故に巻き込まれて命を落とすこともあります。蓄えた財産を無くしてしまうこともあります。そして愛する人たちとの別れも待っています。他国から理不尽な戦争を仕掛けられることもあります。この世で生きていくことは、こうした理不尽な出来事に常に囲まれているということではないでしょうか。ここで肝心なことは、それらを受けいれていくことだと思います。好むと好まざるとにかかわらず、その道しか用意されていません。それを受けいれて、目の前の自分のできることに精一杯取り組んでいく。不安を抱えながら、前進することが大切になります。森田ではこのことを「生の欲望の発揮」と言います。もし人間の創造主がいるとすれば、そこに焦点を当てて、厳しく査定しているのではないか。私はそう思えてなりません。
2022.09.10
コメント(0)
ある料理人のエピソードをご紹介しましょう。彼のお母さんはいわゆるネグレクト(育児放棄)で全然家事などをせず、彼自身、子どもの頃から家族のために料理を作らされていたそうです。しかも、小学生のときには彼が作った料理を食べて「まずい!こんなものを親に食わせるのか」とお皿を投げつけられたこともあるそうです。しかし、彼は両親やきょうだいにおいしいものを食べさせたくて必死に料理を頑張り、やがてそれを職業にしました。そして、腕を認められ、若くして店を持ち、人気店になり、賞をとったのですが、彼はその授賞式でこんなスピーチをするのです。「私はただ家族に、そして、目の前の人においしい料理を食べてほしくて必死だっただけです。そのうえでこの賞をいただけるのならば、私を料理人として育ててくれたお母さんに真っ先に感謝を伝えたいと思います。お母さん、ありがとう」(7日間で自己肯定感をあげる方法 根本裕幸 あさ出版 159ページ)普通親からこのような育て方をされたら、一生親を憎み続けると思います。とても「お母さん、ありがとう」という気持ちにはなれないと思います。ネグレクトのお母さんは、料理をしないだけではなく、掃除、ゴミ出し、洗濯、整理整頓、子どもの世話、近所付き合いもしていないと思います。そして家を空けて遊びまわっていたのではないでしょうか。そういう母親に育てられるとまともに育つことはほぼ不可能です。いさかいが絶えなくて、最悪の養育環境で成長することになります。そして親に反抗して、早晩家を飛び出すことになると思います。この方はそうはならなかった。最初はイヤイヤ、仕方なく料理をしていたのかもしれません。必死にやっているうちに、少しずつ腕を上げ、料理の面白さが分かってきたのでしょう。家族が喜んでくれるようになり、店を持ってからはお客さんに喜んでもらえるようになった。これは自分の置かれた境遇をあるがままに認めることができたからこそ可能になったのだと思います。非難、否定していると現実を素直に認めることは出来ません。相手を憎み、攻撃するエネルギーはどんどん蓄積されていきます。事実を素直に認めることができるようになると、エネルギーの無駄遣いはなくなります。理想と現実の乖離もなくなりますので、葛藤や苦悩もなくなります。そして、有り余ったエネルギーを現状改善ために使うことが可能になります。森田理論でいうと「かくあるべし」を振りかざして、現実を否定することがなくなり、地に足を着いて、生の欲望に目覚めて行動を開始したということだと思います。人間は大脳の前頭前野が高度に発達し、言葉をあやつり、観念優先の世界にどっぷりと漬かっています。それが人間に葛藤や苦悩、神経症を生み出していると教えてくれました。森田理論は事実の世界を優先する必要があるのではありませんかと問題提起してくれています。事実の世界を観念の世界の上に持ってくる。これが森田理論の目指している世界観です。森田理論学習で自分のものにしていきましょう。
2022.09.07
コメント(0)
まずこの絵を見てください。なんに見えますか。白い部分に注目した人は花瓶のようなものに見えませんか。黒い部分に注目した人は二人の人間の顔に見えませんか。2つの見方ができるようになるためには、自分一人では難しいです。一旦決めつけてしまうと、別の見方はできなくなります。他人から指摘されると、「そういえばそうだ」と別の見方ができるようになります。あるいは、最初にこの絵は2つに見えます。どんな絵に見えるか探してみてくださいと言われると、見つけることが可能になります。私がとっている新聞の日曜版に「7つの間違い探し」というのがあります。この間違い探しはとても面白いです。5つか6つは比較的簡単に見つかりますが、あとの一つがなかなか見つからない。妻に「ここにあるじゃない。どこに目をつけているのよ」といわれています。これは何回も挑戦していると、だいたいコツが分かってきます。長さが違っている。黒い部分が白になっている。あるべきものがない。本来ないものが付け加わっている。位置が違う。などを基準にして、間違いを探すのだという意識や意欲があれば、比較的早く探しだすことができます。しかし夫婦で競争していますが、いつも妻には負けます。妻は5分。にやにやしながら私を見下しています。私は10分くらい経っても見つけきらないで、そのうち放り投げてしまう。妻は自分の考えに固執しないで、多面的な見方ができる能力を持っているのかなと感じています。視点を何処に置くかによって、見えるものが全く違ってくるということです。一つの見方に固執するようになると、他の見方をすることができなくなります。そして別の考え方はありえない。間違いだと判断するようになります。自分の考え方に固執すると、相手の考え方を非難、否定するようになります。人間は自分の考えたことは、絶対に間違いないと考えがちですが、もしかしたら別の考え方もあるかもしれないと一呼吸置く必要があるのではないでしょうか。森田理論の中に「認識の誤り」というのがあります。劣等感的差別観、部分的弱点の絶対視、劣等感的投射、防衛単純化、手段の自己目的化などです。認知療法や論理療法の中には、「認知の誤り」というのがあります。拡大解釈と過小評価、過度の一般化、二分法的思考、恣意的推論、選択的注目、個人化、結論の飛躍、自分の感情を根拠に決めつける、「かくあるべし」思考、レッテル張り。など。これらは頭の中が井戸の中の蛙状態になっていると考えると分かりやすい。自分では別の考え方見方が存在しているとは、全く気付かない状態です。私は集談会で自分の考え方や行動を包み隠さず公開することで、他の参加者から「その考えはちょっと違うような気がする」「こんな見方もありますよ」と教えてもらい、ハッと目が覚めるようなことを何回も経験しました。認識の誤りや認知の修正は、大切なことですが自分一人ではできません。集談会の仲間、先輩の智恵を借りることが手っ取り早いです。スマホやパソコンのトラブルが発生したとき、詳しい人に聞けばすぐに解決するのと同じことです。ただしこれは、自分の考え方や行動が否定されることですから耳が痛いことです。そこをじっと我慢して、受け入れるという態度になれば、自分の認識が大きく広がる可能性が高まります。
2022.08.22
コメント(0)
このテーマは、6月12日にその5まで投稿しました。その続きになります。①問題ある困った出来事、不平不満あなたはデパートの婦人服売り場の新人の店員です。あなたは見込み客の接客をしていましたが、最終的にお客様が購入の決断がつかず、そのまま店を出られました。それを見ていた先輩の店員が、その人に次のように言いました。「ああ、買う気満々のお客様だったのに、接客態度がまずくて取り逃がしたね」「あなたが接客をするとほとんどダメになるよね」「挨拶もきちんとできないし、商品説明もろくにできないのだから当然かもね」②そのときのネガティブ感情、二次感情なによ、その人を見下したような言い方は。怒りが湧いてきた。そんなこと言われるくらいなら辞めてしまおうか。③その時の「かくあるべし」、上から下目線の考えは。私はこの春短大を卒業したばかりの新人なのよ。OJTで手取り足取り基礎から教育するのが当たり前じゃないの。社員教育もろくにしないで、ミスや失敗を非難してばかり。その態度は絶対に許せない。だから今までどんどん人がやめていったのよ。だいたい先輩だって売上0の日があるじゃないの。それをどう説明してくれるのよ。④ネガティブ感情のラベル貼り激しい怒り、腹立たしい気持ちでいっぱい。⑤その時の様子を実況中継する。今日の午後、お客様が何人もお見えになり、そのうちの一人を私が担当することになりました。笑顔で挨拶を済ませて、お客様の後ろをついて回りました。お客様は手慣れた様子で、何着かをセレクトされて、試着室に入られました。試着室から出てこられて、どれにするか迷っておられるようでした。そのうち、急に気が変わったのか、「また今度にします」といって帰って行かれました。私はどうすることもできませんでした。ここで、間をとる、一歩引く、第三者的な立場に立つ、客観的な立場になって考えるというマインドフルネスの応用です。⑥まず、一次感情、初一念、純な心を思い出す。惜しい、残念、ショックだった。どこに問題があったのだろう。私には分からない。⑦両面観で今一度事実関係を確認する。挨拶、お辞儀、笑顔、髪型、服装などに問題はなかっただろうか。接客のタイミングはあれでよかったのだろうか。何度も来られるお客様だと言われたがその予備知識がなかった。お客様の好みや要望を聞き出すことができなかった。商品の適切な説明ができなかった。お客様と打ち解けた会話が不十分だった。価格交渉に対応できなかった。決断を促すクロージングの言葉が出てこなかった。⑧最悪の事態を想定する。そこを基点にして、今できる最善の手を考えて実行に移す。販売はほとんど失敗すると言われる。だから売れなかったことをいちいち気にしていたら身が持たない。先輩の言葉を真に受けて、反抗的な態度になると、人間関係は悪化して退職せざるを得なくなる。ここはひとまずネガティブ感情は収めておこう。それより今日の失敗を明日に活かすことを考えた方が得策だ。自分の⑦で上げた課題に対して、自分なりに整理して、先輩の時間が空いたときに、先輩のアドバイスを聞いてみよう。接客や販売士の基礎の勉強や資格試験があるので、勉強して身に着けたい。そして、職場に欠かせない戦力になるように頑張りたい。できたらライバルにも勝ちたい。
2022.08.08
コメント(0)
大橋秀行さんのお話です。「将来、世界チャンピオンになれる選手かどうかわかりますか」大橋さんの返事は、「わからない」でした。しかし、そのあと、こう付け加えています。「世界チャンピオンになれる選手は分からないが、なれない選手ならわかる。周囲に不満を持つ選手は、どんなに素晴らしい素質があってもチャンピオンには絶対なれない」これはご自身の体験を踏まえたものです。大橋会長は、小学生のころからボクサーを目指し、子供ながら1日2食を通したほどの意志の人です。けれど、「150年に一人の素材」といわれながら、ここ一番の勝負になるとなぜか勝てません。何となく勝てそうな格下の相手にも負けてしまう。そんなことが続き、「なぜだろう」と自分に問いかけた大橋会長は、思いがけない答えを見つけます。「結果が悪い試合を振り返ってみると、そういうときは決まって指導者や環境に対して、不満を持っていた」そのことに気づいてから、その不満をなくすように努力したといいます。「不満」の反対は、「感謝」です。不満を感謝の心に置き換えるようにしたときから、「不思議に結果が出るようになった」と大橋会長はいいます。このお話を脳科学的に解釈すれば、不満というストレスのために否定的な脳になっているときは、体のキレが悪くなり、判断力も低下する。しかし「ありがたい」という感謝で脳を肯定的にしたら、脳の機能が格段に上がったということです。(NO.1メンタルトレーニング 西田文郎 現代書林 74ページ引用)この話は、最新の脳科学の知識があればすぐに分かります。グチや不平・不満は不快な感情です。扁桃体が不快と判断した感情はノルアドレナリンという神経伝達物質によって青斑核に送られます。ここから大脳全体向かって、自分の心身の安全や安定を維持するために、守りの態勢に入るようにという命令が下されます。いざという事態を想定して専守防衛態勢に入るわけです。そのとき、ドパミン主導の報酬系神経回路は休眠状態に入ります。いざこれから試合というときに、脳の働きが後ろ向きになってしまうのです。精神状態が否定的なことばかりを考えるようになるのです。相手が闘志満々で脳の中を報酬系神経回路が駆け巡っている時に、「負けたらどうしょう」「惨敗したらこのまま国には帰れない」という悲観的な感情で覆われていたとすれば、戦う前から大きなハンディを負っているようなものです。それを払拭するために、大橋氏は不満を感謝の心に置き換えるようにしたといわれています。感謝の言葉は、毎日唱和することが肝心です。私は毎日仏壇に手を合わせています。そのとき先祖様、親、子供、仕事仲間、友達、集談会の仲間に感謝しています。それから今日一日無事に過ごせたこと。三度の食事をいただいたこと。最初は感謝の気持ちが湧き上がらなくても、感謝の言葉を口にすることでいつの間にか、感謝の気持ちが持てるようになります。形から入るということです。グチや不平不満を口にしているのとは、雲泥の差がついてしまいます。そういう習慣が少なからず、精神の安定に役立っているのではないかと思っております。
2022.08.03
コメント(0)
引き続き落語家の立川談四楼氏のお話です。修行時代の落語家は理不尽なことばかりだという。雀の涙ほどの薄給で、師匠や高座に上がる師匠の世話をする。機嫌を損なうと小言を言われる。引き上げてもらえない。そうなると、稽古をつけてもらえない。稽古をつけてもらえなければ二つ目に昇進できない。つまりプロの落語家として独立できない。万年前座で終わってしまう。師匠の立川談志は、とても理不尽な上司でした。どこの会社でもやりにくい上司はいるでしょう。ワンマンで自分勝手な上司です。談志師匠は創業者で、人気者ですから、反抗すればいつまでも冷遇される。下手をすれば、すぐに破門される。その談志師匠が、「矛盾に耐えろ。そこからエネルギーが生まれてくる」と言いました。談志師匠は、弟子が付き人や前座の仕事にどう立ち向かっているのかを注意して見ていたのです。付き人や前座の仕事を無理やりやらされていると思っているような人は、徹底してこき下ろしました。逆に貴重な体験をさせてもらっていると思って、ていねいに取り組んでいる人は、引き立ててくれるのです。実際そういう人がどんどん伸びていくのを目の当たりにしました。ある時こんなことを言われました。薬局がとっくに閉まっている真夜中に、「今すぐ、風邪薬を買ってこい」と命じる。店主を叩き起こして買うもよし。いさぎよく諦めて、談志の小言を受け止めるもよし。身に降りかかった理不尽に、どう取り組むのか。弟子がどう対応するかをじっと見ているのです。普通、理不尽で非常識な師匠の言葉に対して、精一杯反抗するでしょう。言い訳を考える。感情を爆発させる。出かけて、時間稼ぎをしてごまかす。こんな師匠についていては、自分の将来はないと師匠の下から逃げ出す。談志師匠にとっては、そんな弟子には用はないわけです。落語家の場合、理不尽なことだらけ、矛盾だらけです。そこを経験して逃げ出さないで、落語家になる夢を追い求めている。それが落語家としてなんともいえない人間味、味わいを作り出す。そこをクリアーしていない落語家は、面白みのない噺しかできない。そういう落語家は一人たりとも立川一門からは、世の中に送り出さないという固い決意の表れでもあったわけです。落語家になるための登竜門として、「矛盾に耐えろ、そこからエネルギーがうまれる」と言い放っていたのです。この話は、森田理論に通じる貴重な話です。どんな理不尽な出来事であっても、最終的には事実に従うということです。自然に服従し、境遇に柔順に従うということです。さらに、事実に対しては、いい悪いと価値判断、価値評価をしてはいけない。事実そのものになるということですが、森田先生はこの段階は大学卒業程度と言われています。一時的な安心を求めて、観念優先で事実を捻じ曲げる、否定する、逃げ出すことがいかに多くの葛藤や悩みを作り出してきたのか。理不尽な出来事を価値批判しないで、そのまま受け入れることができる人に出会った人は、それだけで貴重な経験をされていると思います。そういう人が生活の発見会の会員の中に存在しているということは素晴らしいことだと思います。立川談志師匠は、いろんな評価はされていますが、森田の神髄をついていらっしゃる人だと思います。
2022.07.16
コメント(0)
集談会で自己肯定感の話がよく出ます。自己肯定感をことさら問題にするということは、現在自己否定感に取りつかれているということではないでしょうか。自己否定感について藤井英雄先生は次のように説明されています。小さい子供のころ、私たちは一人では生きていけませんでした。身近にいた大人たち、特に親がいなければ生命と生活を守ることはできませんでした。だから大人たちが望む自分になろうとして大人たちの価値観をうけ入れ、自分の欲求を我慢して生きてきたのです。そのころは親の言うことを聞き、先生たちの価値観をうけ入れ、友達に好かれて集団にうけ入れられることが求められました。自分の欲求を我慢して他者の欲求に従うことは自分を守るうえでとても大切なことだったのです。いわば自分を守るヨロイです。幼いころは自分を守るヨロイでしたが、大人になって自立した今では、その役割の大半は終わっています。それどころかこのヨロイは使えば使うほど、自己肯定感を弱くするという諸刃の剣です。自分の欲求を我慢し、他者の欲求に従ううち、やがて自分を否定するようになります。自己否定的な信念はそのころから潜在意識に深く染み込んで私たちの人生を支配してきました。やがて長じるに従い、自分一人でも生きていくことができるようになっても、この自己否定的な信念は残りつづけます。その信念に従う間は他者に嫌われてしまう危険が少なくなり、うけ入れてもらうことができるからです。しかし、うけ入れてくれたと思った他者は、実はあなたを見下しています。うけ入れてもらうために自分の欲求を我慢する人は尊敬されないからです。また、自己を否定するたびに自己肯定感はどんどん弱くなってしまいます。そのうち何が好きなのか、何をしたいのかもわからなくなります。(マインドフルネスの教科書 藤井英雄 クローバー出版 79ページ)大人の人間として自立するためには、子供の頃のように他者に全面的に依存・服従する態度から脱皮することが大切だといわれています。自分の素直な気持、素直な感情、自分の意志、欲求や欲望を前面に押し出して生きていくことが大事になります。その際、子供の頃に潜在意識として身につけたヨロイは脱ぎ棄てることが大切になります。しかし習慣化されたヨロイは簡単には脱ぎ捨てることはできません。コールタールのようにべったりと体に張り付いているのです。この切り替えは可能なのでしょうか。可能ならばどのようにして切り替えていけばよいのでしょうか。今日はこの問題を考えてみましょう。問題ある困った出来事や欲求不満は次々と発生します。そのとき、自己肯定感の弱い人は、ネガティブな感情が湧き起こってきます。そして不安、恐怖、不快感に振り回されます。その感情に振り回されて積極的、創造的な行動は出来なくなります。消極的、逃避的な生活に流されてしまいます。また、「かくあるべし」を含んだ考えが湧き上がります。「かくあるべし」という観念を優先して、事実、現実、現状を否定するようになります。観念と事実の乖離のことを、森田理論では「思想の矛盾」と言います。そのとき事実を優先すれば問題とないのですが、どうしても観念優先の態度になってしまうのです。事実を軽視・無視して観念に合わせようとすると、葛藤や苦悩が発生します。その生活態度が神経症を引き起こします。そのとき、藤田先生は、マインドフルネスでは、一歩引いて、第三者的な立場から、客観的にネガティブ感情や観念優先の考えを見つめることが大切であると説明されています。どうすれば、一歩引くことができるのか。ここが最も肝心なところです。その一つとして、自分の心のなかに、よりどころとする先生や師を持っておくことが有効です。たとえば、森田先生、水谷啓二先生などです。そのほか集談会などで自分の尊敬している人でも結構です。問題に遭遇したとき、この場合、森田先生ならどうお考えになるだろうかというふうに考えるのです。水谷先生ならどうお答えなるだろうと考えるのです。あの尊敬する先輩だったらどう対応されるだろうかと考えてみるのです。このとき今まで積み重ねてきた森田理論の学習が大いに役立ちます。すぐに分からなければ、今まで学習してきたノートなどを見直してみることです。項目別に整理していると、すぐに考えがまとまります。ですから森田理論学習では、学習内容は聞くだけではなく、ノートなどに整理していく作業が大切になります。それが後でものを言うのです。この方法で、いつまでも自分の観念に固執するのではなく、一歩引いて、第三者的な立場から、客観的にネガティブ感情や観念優先の考えを見つめることが大切になってきます。ですから森田理論は症状を治すためというよりも、自分の生き方を左右しているものだと思います。この後ろ盾を持っていると生きることに自信が持てます。これが生涯森田といわれるゆえんです。
2022.07.11
コメント(0)
野村監督の下で選手、コーチを経験した橋上秀樹さんのお話です。野村監督はヤクルトや楽天などの弱小集団を、優勝、もしくは優勝争いをするまでのチームに育て上げました。そのためにまず取り組んだことは、選手たちに「自分たちは弱いのだ」という現状認識を持たせることでした。優勝とは縁のないチームという認識を変化させることに心血を注いだのです。問題だらけの現状を正しく認識する意識改革に取り組んだのです。そのためにキャンプの時から、夜に2時間程度のミーティングを行ってきた。野球に取り組む前に人間としてどう生きるべきかという話が多かったという。その内容は多岐にわたっている。ある選手は大学ノート8冊にもなったという。大切な宝物だ。それがその後の野球人生に生きている。ところが阪神では成果は上げることはできませんでした。最下位に低迷した。それは阪神の選手たちは自分たちは弱いと思っていなかったという。変化することを好まなかったのだ。野村監督の話に興味を示す選手はあまりいなかった。むしろそんな話を聞くことは煩わしい。イライラするばかりだ。それより生活を楽しみたい。筋トレや技術の向上に取り組みたい。現状維持でよい。今のままで満足している。何を変える必要があるのですか。楽ができる。居心地がよい。この状況や環境をずっと維持したい。無視、馬耳東風、言い訳、弁解、責任転嫁の言動が目立つ。それがチームの和や結束力を乱す。優勝という目標を共有できない。(野村の「監督ミーティング」 橋上秀樹 日本文芸社参照)この話は、問題のある事実、現実、現状から目を背けないで、正しく向き合うことがいかに大切であるかを教えてくれている。問題ある現実を上から下目線で見るようになると、現実を非難・否定するようになります。非難・否定していると、事実、現実、現状の方から猛反撃されます。森田では「思想の矛盾」で葛藤や苦悩でのたうち回るようになると言います。エネルギーの消耗を招くばかりで得になることはありません。観念中心で事実を非難・否定する態度はできるだけ封印しなければなりません。実際には難しいことですが、やってしまったら反省するという気持ちを持つことが肝心だと思います。事実、現実、現状を正しく認識して、そこに足をつくことができれば、そこが「生の欲望」への出発点に変わります。課題や目標に向かうスタート地点に立つことができるようになるのです。生の欲望に向かって力強く歩きはじめることができるようになります。
2022.07.06
コメント(0)
マインドフルネスとはネガティブな感情や思考に陥っている自分を客観する技術でした。とらわれている自分を第3者的な立場から冷静に見つめるということです。たとえば、自動車を運転中に急に割り込みされた場合を取り上げてみましょう。乱暴な運転で割り込みされた場合、恐怖心や憤りで一杯になります。「危ない」と口走り、すぐにブレーキを踏み込むのではないでしょうか。冷や汗ものです。これは森田でいうと初一念の感情です。森田では「純な心」と言われています。ブレーキが作動して、なんとか危険を回避できました。「やれやれ、事故にならなくてよかった」と安堵します。通常ここで気持ちが治まることはありません。「かくあるべし」を含んだ第二の感情が湧き起こります。乱暴な運転をして割り込んできた相手に対して怒りが湧き起こってきます。「なんと乱暴な運転をする奴だ。けしからん」憤懣やるかたないマイナス感情で一杯になります。「警察に通報して逮捕してもらおうか。幸いドライブレコーダーに録音していることだし」などとマイナス感情はどんどんエスカレートしていきます。ここでマインドフルネスという手法を使って、自分を第3者的な立場から客観化できれば、その後の展開がどんなことになるか検討してみましょう。ぶつかりそうになって、「あぶない」「ケシカラン」と考えたことや、「恐怖」や「怒り」の感情に対して、第3者的な立場から客観的に気付くことができれば、その思考・感情から一歩離れることができます。その結果少し冷静になれます。恐怖や怒りへのとらわれから自由になれます。私たちは「人様に迷惑になる行為はしてはならない」という信念・信条を持っています。森田ではこれを「かくあるべし」と呼んでいます。多くの「かくあるべし」という信念・信条をもって、是非善悪の判定を行いながら生活をしているのです。観念主導の「かくあるべし」を前面に出すと、事実や現実と乖離が生まれて、葛藤や苦悩、生きづらさが生まれてきます。これは、森田理論で学習した通りです。ここで第3者的な立場から客観的に気付くことができれば、「他人に迷惑になるようなことはしてはならない」という信念・信条に支配されていた自分に気づくことができるのではないでしょうか。言い換えれば、「かくあるべし」という信念・信条から少し自由になれるということです。自らの意志で正しいことを考えて選択できるようになるのです。「かくあるべし」を含んだ習慣化されたネガティブな自動思考により、行動に歯止めがかかり、手も足も出ないという姿勢や態度が、マインドフルの考え方を生活の中に取り入れることで変化をもたらすとすれば何としても身に付けたいものです。(マインドフルネスの教科書 藤井英雄 クローバー出版参照)
2022.07.03
コメント(0)
6月8日から6月12日まで、「かくあるべし」から「事実本位」への移行について投稿しました。①から⑧の手順に沿って考えると、移行できることが分かりました。私の実践では、完全に「事実本位」に移行できなくても、ネガティブ感情や二次感情による短絡的な行動は控えることができるように思います。それは短絡的な言動が、人間関係の悪化や後悔の原因を招くことがあらかじめ予想できるからです。短絡的な言動の弊害は身にしみてわかっています。それを抑制することができるのですから、こんなにうれしいことはありません。④にネガティブ感情のラベル貼りというのがあります。今日はラベル貼りに使う言葉を紹介しておきます。嫌気、悲しみ、恐れ、怒りの4つがあります。嫌気・・・退屈、つまらない、うざい、むかつく、嫌悪、復讐心、モヤモヤする、不機嫌、期待を裏切られた、ふさぎこむ、うんざり、もどかしい、ソワソワする、反感悲しみ・・・悲観的、わびしい、落胆、残念、孤独感、みじめ、寂しい、むなしい、つらい、悲惨、意気消沈、みじめ、ふさぎこむ、不幸恐れ・・・おびえる、落着かない、怖い、恐れる、心配する、面食らう、驚き、青ざめる、当惑する、うろたえる、危惧する、怖じ気づく、おっかない、脅威怒り・・・攻撃する、憎しみ、腹立たしい、あ然とする、イライラする、神経が高ぶる、激怒、キレる、カッとなる、投げやり、不愉快、失望する、鬱憤がたまる、憤り(感情マネージメント 池照佳代 ダイヤモンド社 109ページ)私は①から⑧つの項目と、このネガティブ感情のレッテル張りを持ち歩いて、問題が発生したときは、ここに立ち戻るようにしています。生活に定着して良い結果が出ているように思います。
2022.06.21
コメント(0)
カーネギーの「道は開ける」という本の中に、「最悪の状態を受けいれたとき奇跡が始まる」(新潮社)という章があります。問題解決の簡単な方法がある。エアコンの発明者キャリア氏が考案した「魔法の方法」だ。3つのステップで行い、魔法のような効果がある。起きたことを否定せず、受け入れてみよう。事実の把握は、状況を変える第一歩だ。ステップ① 起こりうる最悪のことを考える。ステップ② 最悪のことを受けいれる。ステップ③ 最悪のことを改善する。(同書 33ページ)普通ミスや失敗の事実を認めると、非難、叱責されるので、報告しない、逃げる、ごまかす、責任転嫁する方法をとる人が後を絶ちません。事実に向き合わないと、坂道を転がる雪だるまのように問題はどんどん大きくなります。最後に問題が公になると、自分や会社に対する信頼感は地に落ちてしまいます。重要案件の場合、退職や倒産に追い込まれる可能性があります。自分の不注意で発注ミスを起こした例で考えてみましょう。私の場合、学校の舞台幕の注文をもらい、パソコンで加工して、工場に送りました。ところが、袖幕の色と寸法を間違えていました。エンジの色がブルーの色合いになっていました。寸法が30cmも短いものが届きました。急いで再制作しても、卒業式に間に合わない可能性が出てきました。この注文には、施主、学校関係者、得意先、取り付け業者、営業、担当部署、業務、工場など多くの人が関係しています。ステップ① 起こりうる最悪のことを考える。取り付け業者から誤商品の連絡があります。その後次々と関係者から電話が入ります。非難と叱責の嵐です。「どうしてくれるのだ。すぐに作り直して注文通りの物を持参しろ」「この注文をもらうのにどんなに足を運んだのか分かっているのか」「発注前に慎重にチェックはしたのか」「お前には今後仕事を任せられない」これらすべての批判を受けいれて、謝罪するしかない。急いで再制作にかかるが、今年の卒業式にはもう間に合わない。誤制作、誤発送した商品はすべて廃棄処分となる。何十万円も純損失を出しているので、始末書を書く必要がある。卒業式は袖幕なしで執り行ってもらうしかない。関係者には、多大な損失、ご迷惑と心労をかけることになる。非難や叱責は甘んじて受けるしかない。この件で、自分に対する信頼感を大きく損ねた。他部署への移動、退職勧奨を受けるかもしれない。これらが考えられる最悪の事態だ。ステップ② 最悪のことを受けいれる。起こったことは潔く認めるしかない。ここで、自分のミスをごまかす。他人のせいにする。報告を怠り、逃げたりしてはいけない。「俎板の鯉」になったつもりで、焼くなり煮るなりいかようにでもしてくれという良い意味での開き直りが必要になる。最悪を受けいれると、次の対策が立てられる。ステップ③ 最悪のことを改善する。上司へすぐに報告する。関係者に謝罪の電話をする。急いで再発注の処理をする。工場に電話をして、急いで再制作をしてもらうように交渉する。その交渉内容や結果を随時関係者に連絡する。とくかく被害を最小限に抑えるために、上司や営業と連絡を取り合いながら、最善を尽くす。最悪の事態を素直に受け入れるということは、森田でいう事実本位に近づく有力な方法になります。
2022.06.20
コメント(0)
アメリカの精神分析医のメニンジャーは、「おすきな方をどうぞ」という非常に面白い随筆を書いている。彼は、人間には2つのタイプがあって、1つは幸福が欲しい、幸福が欲しいと、幸福を求めるタイプであり、もう1つは真実を求め、現実を直視するタイプだという。結論として、幸福を欲しがる者は、現実にはなにも努力をせずに腕をこまねいているので、幸福がやってくるわけではなく、結局そのような人には幸福は与えられない。一方、真実を求める人は、自分が置かれた現実と自分の本当の姿を知っているので、次々と直面する苦悩こそ世の中の真実だと認めている。そこで、ひとつひとつの苦悩の対象を解決するように努力し、それを乗り越えて新しい境地を拓いていく。その結果、ひとつの苦悩が終わり、次の苦悩がやってくる間隙に、真の喜びが、真の幸福が訪れる。「おすきな方を」自由にお選びなさいというのである。(人はなぜ悩むのか 岩井寛 講談社 192ページ)森田理論学習を続けている方は身に染みて理解されているのではないでしょうか。観念主義、理想主義、完全主義に凝り固まってしまうと、どうしても上から下目線で現実や事実を見てしまう。そして非難・否定することが習慣化してしまいます。事実と理想が敵対関係に陥ります。理想の方が力が強いのが一般的です。事実や現状を否定して、変更を画策するようになるのです。多大なエネルギーやお金をかけて努力するのですが、思惑外れで疲労困憊することが多いのです。特に神経症的な不安は欲望の反動として発生していますので、欲望から目を離して不安に振り回されると収拾がつかなくなります。事実に寄り添っている人は、エネルギーの無駄使いが起きません。事実や現状にしっかり足をついている人は、そこから一段ずつ階段を上っていくことが可能になります。下から上目線で目標を追っていくと強迫観念で苦しむことはなくなります。自己嫌悪や自己否定がなくなり、小さな目標を達成するたびに自己信頼感・自己肯定感が強まります。人間としての器が大きくなります。森田理論でこのからくりをしっかりと理解して、森田の正道を歩んでいきましょう。
2022.06.14
コメント(0)
今回は上司と部下の人間関係を取り上げてみました。①問題ある困った出来事、不平不満あなたはラインの中間管理職をしています。部下が7名います。その部下が申し合わせて暑気払いを企画して実行しました。自分には声がかかりませんでした。それを翌日の朝知りました。②そのときのネガティブ感情、二次感情憤り、カッとなる、腹立たしい、仕返しをしてやる。③そのときの「かくあるべし」、上から下目線の考えは何か部下は上司の私を無視して勝手な行動をしてはならない。組織としてまとまりのある行動をするべきだ。そんなことをすると組織がバラバラになる。部下が上司を立てるのは当たり前のことだろう。こんな気持ちで対応すると、部下との人間関係は一挙に崩れる。④ネガティブ感情のラベル貼り不機嫌、憤り、憤懣やるかたない気持ち⑤実況中継昨日の夕方のことです。いつもは残業する部下が、申し合わせたように定時で退社した。珍しいこともあるもんだと思っていた。その後、部下たちは全員居酒屋で暑気払いを行い、そのあとカラオケに繰り出した。自分だけが仲間外れにされていたことが分かった。やり場のない怒りで一杯になりました。マインドフルネスでは、間をとる、一歩引く、第3者的な立場、客観的な立場に立って考えるということでした。⑥まず、一次感情、初一念、純な心を思い出す。仲間外れにされて悲しい。みじめだ。落胆した。⑦両面観で今一度事実関係を再確認する。怒りを抑えて、係長に「昨日はみんな盛り上がったか」と聞いてみた。係長はバツが悪そうに「普通でした」という。「誰の発案だ」と聞くと、「僕です」という。「どうして俺には声をかけてくれなかったのだ」聞いてみた。「強引にお誘いするよりも、今回は若手中心で無礼講でやろうということになりました」という。そういえば俺だけみんなと歳が離れている。⑧最悪の事態を想定して受け入れる。そこを基点にして、今できる最善の手を考えて実行に移す。上司である自分のことをないがしろにされた。憤懣やるかたない気持ちを爆発させるとどうなるか。上司と部下の人間関係が一挙に崩れる。課として統一性が崩れて、課の目標達成が困難になる。上からマネージャーの資質なしとみなされる。こんなことでは部長に昇進することなど夢のまた夢となる。ここは感情の法則1を活用した方がよい。「感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである」(森田理論学習の要点 生活の発見会編 10ページ)さらに、「(神経症的な不快感や)不安が生じるのは関連する欲望があるからで、欲望がなければ不安もありません。両者は同一の事柄を表裏両面から見たものである」という。(同書 13ページ)ラインの課長としての自分の欲望は何か。一つには課をまとめ上げて、課としての数値目標を達成していくこと。次に一人でも多くの優秀な部下を育てることこと。最終的には、優れた管理職として評価されること。初心を思い出して、その目標を達成するために精進していきたい。自分にお誘いがなかったということは、普段から部下にきついことばかり言っているからではないか。口では部下を育てると言いながら、実際には非難、否定、叱責、指示、命令、強制、脅迫の言動が多かったのではないか。これを教訓にして、部下との付き合い方を今一度見直してみよう。そのために、管理職としての役割や心得を再度学習していきたい。⑦の事実関係を再確認するというところですが、森田理論の両面観が役立ちます。先入観で決めつけていることが多いので、意識して別な正反対な考え方をすることが大切になります。言い換えれば、多面的な見方をすることです。「かくあるべし」から「事実本位」への移行を「その1」から「その5」まで連続して投稿してきました。これでひとまず連載は終わります。以上を参考にして、読者の皆様に「問題ある困った出来事、不平不満」が発生したとき、①から⑧の手法で自分に当てはめて検討してみてください。「かくあるべし」という観念の押し付けから、多少なりとも現実、現状、事実本位に切り替わる体験が生まれてくることを願っております。
2022.06.12
コメント(0)
今日は自動車を運転中に無理な割り込みをされたという例を取り上げました。昨今マスコミでよく取り上げられる事件です。①問題ある出来事、不平不満の具体例車間距離がないにもかかわらず、横から来た車が無理な割り込みをしてきた。ある程度のスピードが出ていたので、追突しそうになった。なんとか間一髪で事故は回避できた。②そのときのネガティブ感情、二次感情「けしからん。なんという乱暴運転をするのだ」怒り心頭に達し、クラクションを鳴らし、ライトを点灯して不満を表した。③そのときの「かくあるべし」思考、上から下目線の考え事故を招くような乱暴な運転は絶対に許すことはできない。時々、追い越し車線をすいすいと走行してきて、一車線になる手前で割り込みをする車がいる。みんながルールを守っているのに、割り込みをしてくるのはいかにも虫がよすぎる。他県ナンバーの車の場合は道路状況が分からないから仕方ない。同県ナンバーの場合は、ある程度道路事情も分かっているのだから、割り込みするのは如何なものか。「そうだ、ドライブレコーダを搭載しているので警察に通報して危険運転で逮捕してもらおう」「テレビ局にこの画像を提供して、事を公にしてもらおう」④ネガティブ感情のラベル貼りを行う「怒り」「非難」の感情が発生しました。⑤実況中継を行う。前の車との車間距離を保ちながら、ドライブを楽しんでいました。2車線から1車線になる手前で、後ろから来た車が、急に車線変更して無理やり割り込んできた。追突しそうになったが、急ブレーキを踏んでなんとか事故を回避できた。助手席で寝ていた妻が驚いて飛び起きた。腰が抜けて脂汗が出てきた。ここからマインドフルネスの、「間をとる、一歩引く、第三者的な立場に立つ、客観的に考える」の応用です。⑥一次感情、初一念、純な心は何か「あぶない」とっさに急ブレーキを踏んでいた。次に「ああ、事故にならなくてよかった」と安堵した。⑦両面観の立場から今一度事実関係を再確認する。この先で二車線の道路が一車線になっている。それで無理な割り込みをしてきたのかもしれない。私はこういう場合、極力走行車線を走るようにしている。でも私自身うわの空で運転しているとしまったと思うことがある。今回も誰も割り込みさせてくれないので強引に割り込みしてきた可能性がある。⑧万が一に備えて最悪の事態を想定して受け入れる。そこを基点にして、今できる最善の手を考えて行動に移す。割り込みされるのを警戒して、前の車との車間距離を詰めていると、追突する恐れがある。ある程度の車間距離を保たないと大変危険である。スーパーなどで合流する時は1台ずつ交互に譲り合っているのに、一般道路ではつい向きになって競り合ってしまう。友人の中にも、普通は穏やかな人が、ハンドルを握ると急に人が変わったような乱暴な運転をくり返す人がいる。一旦事故を起こしてしまうと、多額な費用と後始末に莫大な時間を取られる。車は移動手段としては大変便利なものだが、凶器にもなるという意識を持つことが大切になる。考えてみれば、自分も割り込みさせてもらうことは多々ある。また往来の激しいところで、相手の厚意に甘えて右折させてもらうこともある。高速道路では混みあっている時に、合流させてもらうこともよくあることだ。お互いに意地を通すよりも、事故を回避して安全走行に徹する方が気持ちがよい。精神的な緊張感にさらされるよりも、寛容な気持ちで譲ってあげたいものだ。反対に、自分が譲ってもらった時は、お礼の意味でハザードランプを点灯して感謝の気持ちを伝えたい。
2022.06.11
コメント(0)
「事実本位」の生活態度の習得は森田理論学習の核心部分ですので、さらに投稿を続けてみます。①問題ある出来事、不平不満の具体例あなたはスーパーのレジに並んでいました。急いでレジを済ませて、すぐに仕事に戻ろうとしていました。前に並んでいた年配の人が、いざ清算という時、財布から小銭を一つ一つ探しています。もたもたして時間がかかっています。他のレジに並ぼうかと思いましたが、どこも混んでいます。そのうち、小銭の何枚かを地面に落としてしまいました。②そのときのネガティブ感情、二次感情「何をやっているんだよ。イライラする」と思いました。③そのときの「かくあるべし」、上から下目線の考えは何かレジに並んでいる時は、小銭は財布の中で100円、50円、10円、5円、1円と整理していつでもすぐに支払えるようにしておくと小銭がたまらないのにと思っています。自分がそうしているので他人もそうすべきだと思っているのです。④ネガティブ感情にラベル貼りを行う「イライラする」「腹立たしい」⑤実況中継を行う現在レジに並んで清算待ちをしています。前にいる人がモタモタしているために、待たされています。小銭を区分けしていないでレジに並んでいることは許せない。もたもたするなら紙幣で払ったらどうなのと思っています。マインドフルネスでは、問題行動を起こしそうになった時、いったん間を取り、一歩引いて、第3者的な立場から、客観的に見つめてみるということでした。⑥一次感情、初一念、純な心を改めて思い出す早くレジを済ませて仕事に戻りたい。あまり時間がないので、イライラしていました。この列に並んだ方が一番早くレジが終わると思っていた。かご一杯に商品を入れている人が少なかったからである。⑦両面観で今一度事実関係を確認する。年配の人がモタモタしていて思惑が外れた。私はレジに並んでいる時、小銭を財布の中で、100円玉、50円玉、10円玉、5円玉、1円玉ごとに仕分けしている。紙幣で支払うと小銭で財布が膨れ上がるのでなるべく小銭で支払いたいからだ。清算の時は手早く小銭を出すようにしている。そうしておかないと、レジでもたもたすることになるからだ。もたもたすれば、レジ係や後ろに並んでいる人から、常識のない人だなと軽蔑されることになるという思いが強いからだ。だから他人がもたもたしているのを見ると、心の中でその人を非難しているのだ。寛容な気持ちで「ゆっくりでいいですよ」という気持ちにはなれない。⑧万が一に備えて最悪の事態を想定して受け入れる。それを基点にして、今できる最善の手を考えて行動に移す。自分のやり方を他人に強要するやり方は、あまりにも自分勝手だ。人それぞれのスタイルがある。レジでコインを一つ一つ探している人を見るとイライラするが、それは自分の「かくあるべし」を相手に押し付けているに過ぎない。その態度が人間関係を悪化させていることに気付く必要がある。特に年配になると動作が緩慢になるのは仕方ないことだ。それを考慮しないでこのレジを選んでしまった自分の責任だ。また歳をとると誰かに助けてもらうことが多くなる。高齢で寝たきりになれば下の世話までお願いすることになるのだ。仕方ないことだと観念して、寛容な気持ちで待ってあげよう。こんなことでイライラしていてはいくつ体あっても足りない。そうだ、落としたコインを探してあげよう。この①から⑧の手順は、「かくあるべし」から「事実本位」に近づくための有力なツールとなります。興味と関心のある方はぜひ習得してください。
2022.06.10
コメント(0)
昨日に引き続いて、別の例を取り上げてみました。問題ある困った出来事、不平や不満の具体例母親が小学校へ上がる前の子どもを連れて大型ショッピングモールに行った。買い物をしながら、ふと気付くと、子どもが見当たらなくなっていた。ネガティブ感情、二次感情腹立たしい。むかつく。うんざりだ。おっちょこちょいで、何かと親に迷惑ばかりかける。「かくあるべし」、上から下目線の考えお母さんから離れて動き回ってはいけないと注意していたのに何を考えているのか。厳しく説教、叱責しないと、自分勝手な行動は治らない。犬のように紐をつけておけないので、言葉でしつけるしかない。この時の感情に「ラベル貼り」を行う。むかつく、うんざり、腹立たしい、怒り、イライラがたまる。実況中継を行う。家から5分の大型ショッピングモールに食料品の買い物に来た。母親と未就学児童2人である。母親は子どもを監視しながら、食料品の品定めをしていた。ふと気が付くと子どもの姿が見えなくなっていた。そのうちかえって来ると思って、そのまま買い物を続けていた。5分くらい経ってもまだ帰ってこない。あちこち探し回ったが、見つからない。そのうち店内放送で、「迷子のお子様をお預かりしております。服装は・・・」と店内放送があった。まさしくうちの子だ。急いでインフォメーションに迎えに行った。ここでマインドフルネスでは、間を取る、一歩引く、第3者の立場に立つ、客観的な立場に立って考えるということでした。一次感情、純な心、初一念は何だったのか。心配だ。めそめそして泣いているかも。途方に暮れているかも。気が動転してパニックに陥っているのではないか。今一度事実の再確認を行う。子どもと再会したとき、すぐに怒りをぶつけるのではなく、どうしてお母さんを見失ったのと聞いてみる。面白そうなおもちゃがあったので、そこに行った。他の子もたくさんいた。そうだったの。でも行く前にお母さんに、伝えてほしかったといった。あのおもちゃを買ってほしいなどと言う。万が一に備えて最悪な事態を想定して受け入れる。そこを基点にして、今できる最善の手を考えて行動に移す。そこら中を走り回り、人様にぶつかって危ない。商品を棚から取りだして持ち運ぶ。包装紙を破り、中身を出してしまう。食べたり、その辺に撒き散らす。商品を傷つけ壊してしまう。勝手に店の外に出てしまう。おっちょこちょいなのは分かっているので、名札を首からぶら下げておく。家で、今日は欲しいものがあっても買えないけど、それでもついてくるかと聞いておく。お母さんから離れる時は、必ずお母さんの了解をとる。店内を走り回らない。勝手に商品にはさわらない。迷子になったら、近くの店員さんに助けを求める。勝手に店の外にでてはいけない。両面観で考えると、うちの子は好奇心旺盛、行動力があるということだ。その点は大いに評価できる。その芽を摘み取らないで、大きく伸ばしてあげることは忘れないようにしたい。
2022.06.09
コメント(0)
マインドフルネスは「今、ここ」の現実にリアルタイムかつ客観的に気付いていることでした。この考え方を応用して、森田理論の「かくあるべし」から「事実本位」に近づく方法について考えてみました。この方法は今では「事実唯真」に近づく一番の早道のような気がしております。早速ご説明します。問題ある困った出来事、不平や不満の具体例として、中学生の娘が夜9時を過ぎたのにまだ帰宅していない。連絡もない。親にとってはいてもたってもおられない状況です。そのときのネガティブ感情、二次感情は、娘の勝手な行動はどうなっているのだ。許せない。親に心配ばかりかけて。どうして電話をしてこないのか。普段から嫁が甘やかせてばかりだからこんなことが起きるのだ。そのときの「かくあるべし」、上から下目線の考えは何か小学生や中学生の女の子は、日が暮れる前に家に帰っているべきだ。親に内緒で、夜一人で勝手に外出することは、絶対に許さないぞ。取り返しのつかないことになっても、親は責任を取らないぞ。ここではネガティブ感情や上から下目線のままで対応すると、問題は収束しないで益々こじれてくるという認識を持つことが肝心です。森田理論の学習をしている人は、踏みとどまることができるようになります。これがその後の展開を大きく左右します。つぎからはマインドフルネスの応用です。まず、ネガティブ感情のラベル貼りをおこなう。ここでは、「怒り」「イライラ」「激怒」などです。ラベル貼りは、「恐れ」「悲しみ」「嫌気」の感情を表す言葉を整理していると役立ちます。これは後日投稿します。次に、実況中継を行います。中学生の娘が夜9時になっても帰宅していません。電話もありません。心当たりの友達の家に電話をしてみましたが、見つかりません。真相が分からないまま、時間だけが過ぎていきます。そのうち、娘が何ごともなかったように帰宅しました。私は、遅くなった理由を聞かずに、つい叱りつけてしまいました。娘は反発して自分の部屋に駆け込んでいきました。気まずいことになりました。ここでマインドフルネスでは、間を取る、一歩引く、第3者的な立場、客観的な立場に立つということでした。次の3点について、客観的に考えることができれば、「かくあるべし」という観念優先の立場から、「事実本位」優先の方向に切り替えができます。まず、一次感情、初一念、純な心を改めて思い出すことです。娘の身に何かあったのではないか。交通事故や事件に巻き込まれたのではないか。最初は「心配だ」「青ざめた」「うろたえた」はずです。それは一瞬で消え去り、二次感情で覆い尽くされてしまったのです。次に、今一度事実関係を再確認する。事実の早合点、事実を先入観で決めつけることは厳禁です。これは「かくあるべし」から、「事実本位」に立ち返るということです。帰ってきた娘に遅くなった理由を、怒りを棚上げにして聞いてみるしかありません。友だちの家でゲームで盛り上がっていた。カラオケに行っていた。勉強していた。その他いろんなケースがあるでしょう。悪い遊びをしていたら正直に説明してくれないかもしれません。連絡しなければと思っていたが、そのうちうっかり忘れていたのかもしれません。万が一に備えて最悪の事態を想定して受け入れる。そこを基点にして、今できる最善の手を考えて行動に移す。交通事故や事件に巻き込まれたかも・・・この場合交番などに届ける学校で配布された友だちの連絡網で問い合わせる。通学路や隣近所を家族で手分けして探し回る。冷静になった時、娘と緊急時の連絡方法について取り決めておく。今後は夜道を一人で歩かないで、駅やコンビニなどで待っていれば、必ず車で迎えに行くことを約束する。この手順を踏めば、娘との人間関係が一挙に壊れることもなく、むしろ親子の関係が強固なものになる可能性があります。ネガティブ感情や上から下目線のままで対応した場合と比較すると雲泥の差です。「かくあるべし」から「事実本位」への切り替えは、人間関係を大きく改善させるものなのです。
2022.06.08
コメント(0)
藤井英雄先生は「慈悲の瞑想」について説明されています。泣き叫んでいる子供を見て慈悲の心が芽生えれば、たちまちマインドフルとなり、その場で必要なのが傾聴であることを思い出させます。ところが、泣いている子供が自分を非難しているように感じたり、イライラしている時などはとても傾聴を思い出せません。また思い出したとしても「傾聴などしてやるものか!」と意固地になってしまうこともあるでしょう。そんな時こそ慈悲の瞑想が効果を発揮します。自分と相手の幸せを祈り、自分と相手の悩み苦しみが癒されることを願うとき、心は徐々に穏やかになってマインドフルネスに導かれます。その結果「少し話を聞いてあげようか・・・」と心が動く可能性もあるでしょう。(マインドフルネス「人間関係」の教科書 藤井英雄 クローバー出版 206ページ)慈悲の瞑想は次の言葉をマインドフルに唱えることです。私が幸せでありますように私の悩み苦しみがなくなりますように私の願いごとが叶えられますように私に悟りの光が現れますように私が幸せでありますように(この部分は3回繰り返す)私の親しい人々が幸せでありますように私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように私の親しい人々の願いごとが叶えられますように私の親しい人々にも悟りの光が現れますように私の親しい人々が幸せでありますように(3回繰り返す)生きとし生けるものが幸せでありますように生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように生きとし生けるものが幸せでありますように(3回繰り返す)私の嫌いな人々も幸せでありますように私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように私を嫌っている人々も幸せでありますように私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように生きとし生けるものが幸せでありますように(3回繰り返す)慈悲の瞑想は4段階に分かれています。慈悲の瞑想は、「今、ここ」で自分が慈悲の瞑想を唱えていることに気付きながら唱えます。別のことを考えながら唱えては効果は半減してしまいます。(同書 211ページ)私は森田理論を学習する者として、次の言葉に置き換えて唱えています。私は観念中心の「かくあるべし」を自分自身に押し付けることはしません。私は観念中心の「かくあるべし」を、家族、友人、集談会の仲間に押し付けることはしません。私が嫌いな人、私を嫌っている人に、観念中心の「かくあるべし」を押し付けることはしません。生きとし生けるものの存在価値を尊重し、できるだけ活躍の場と居場所を確保するようにします。生きとし生けるものがみんな幸せになりますように
2022.05.24
コメント(0)
依存症に陥っている人は、それがよくないことは分かっています。アルコール依存症、ギャンブル依存症、ネットゲーム依存症、薬物依存症、ネットショッピング依存症などです。やめようと思っていたのに、ふと気が付くとまた手を出していた。問題が起きて、ハッと我に返ったら、また手を出していた。ということは、ふと気づくまで、ハッと我に返るまでは、依存症がその後の生活や人間関係に悪影響を及ぼすことを真剣には考えていなかったということになります。それよりは快楽神経系が制御不能に陥っていて、なすすべがないという状態です。この場合は、専門医の治療を受け、自助組織に参加して、時間をかけて依存症から抜け出すことが必要になります。依存症に限らず、やめようと思っていたのに、ふと気が付くとまた手を出していた。問題が起きて、ハッと我に返ったら、また手を出していたことはよくあります。たとえば、短気な人が、もう怒りを爆発させることはやめようと思っていたのに、また暴言を吐いてしまった。仕事はサボらないようにしようと思っていたのに、ふと気が付いたらまたサボっていた。神経症の人が、森田理論学習で不安と格闘してはいけないことは分かっていたはずなのに、ハッと我に返ったら、また不安を取り除こうとしていた。なすべきことから逃避してはいけないということは分かっていたのに、ハッと我に返ったら、また逃げていた。問題が起きた後に、ふと気が付く、ハッと我に返ったというのでは遅すぎるのです。問題が起きる前に、ふと気が付く、ハッと我に返ることができれば、その後の展開が大きく違ってきます。はたしてそんなことが可能なのか。精神科医の藤井英雄先生は、マインドフルネスの手法を身につけることで可能になると言われています。マインドフルネスとは「今、ここ」の現実にリアルタイムかつ客観的に気付いていることです。怒っている時、自分が怒っているということに気付いていること。嬉しい時、自分が喜んでいると知っていること。悲しい時、自分が悲しんでいると気付いていること。問題が起きた時や欲求不満の気持ちが湧き上がってきたとき、普通は怒り、不満、不安、恐怖、悲しみ、嫉妬などのマイナス感情で頭の中がいっぱいになります。このとき、一歩引いて、第三者的な立場から、客観的にそのマイナス感情を眺めることができたら、その後の展開は大きく違ってくると言われているのです。どうすればそんなことができるのか。私は、私の中に第三者的な立場から、客観的にその感情を見つめることができる人を持っておくことが有効だと考えています。何のことは分からないかもしれません。もう少し説明します。このブログでは「森田生涯」というハンドルネームを使っています。この森田生涯さんに、自分のマイナス感情や「かくあるべし」を含んだ考え方を客観的な立場から見つめてもらうのです。感情のラベルを張り、実況中継をしてもらうのです。たとえば、「いま、ここ」の感情に不安というラベルを張ってもらう。問題ある出来事、それに対して湧き起こってきたマイナス感情を実況中継してもらうのです。こうすれば、いったん間を取り、一歩引いて、第三者的な立場から、客観的にその感情を見つめることができるようになると考えています。これを身につけると、衝動的な感情の取り扱い方がすぐに変わります。藤井先生は次のように述べておられます。今、気付く直前まで怒り心頭に発して烈火のごとく怒っていたとしても、はっと我に返った瞬間にその怒りのパワーは半減しているはずです。取り返しがつかない状況でどうしようとクヨクヨしている時でも、自分がつまらないことにとらわれていたことに気付いてほっと一息つけることもあります。そんな時には、別の解決策を思いついたりします。「はっと我に返ったらまた怒っていた」「ふと気が付いたらまたクヨクヨしていた」その「はっと我に返った」「ふと気付いた」瞬間は自分と自分を取り巻く現実を一歩引いた視点から、冷静な気持ちで見ることができます。その瞬間がマインドフルネスです。(マインドフルネス「人間関係」の教科書 藤井英雄 クローバー出版 165ページ)
2022.05.23
コメント(0)
昨日の続きです。自分を客観化する手法として「ラベル張り」というのがあります。マインドフルネスとは、リアルタイムかつ客観的な気づきです。客観的とは何でしょうか。それはネガティブな感情や思考に対して、善悪、好悪の評価をしないということです。「ネガティブな思考はイヤなものだ」「悪いもの、避けるべきものだ」「ポジティブに考えるべきだ」「ネガティブな自分ではダメだ」そのように評価してしまった瞬間、もうマインドフルネスではありません。マインドフルネスとは、あるがままの現実をあるがままに感じることです。この場合のあるがままの現実とは、「ストレスやプレッシャーのもと、ネガティブ思考してしまった」ことです。この場合、ネガティブ思考してしまうという現実を、あるがままに感じればよいのです。たとえば、友人にメールしたのに返事がこない。友人は私のことを大切に思っていない。嫌われているかもしれないという気持ちになった。自分が悲しんでいるという感情に気付いたら、早速「悲しみ」「不安」「怒り」などとラベリングするのです。それでどうなるでしょう。ラベリングはマインドフルネスを強めます。悲しみや不安や怒りから一歩引いた視点に立ち、少し冷静な見方ができるでしょう。注意点として、ラベリングは3秒以内に行うことをお勧めします。悲しみ、不安、恐れ、嫉妬、イライラ、怒り、自己嫌悪、同情、刹那的な喜びなどのラベリングは3秒以内に行うのがコツです。どんなネガティブな感情が生まれたとしても、その感情が生まれたことはあなたの「あるがまま」の現実です。その現実から目をそむけ、こんな感情をもってしまった自分を責めることなく客観化することは「あるがまま」の自分を受け入れることにつながります。「あるがまま」の自分を否定するのではなく、肯定するのでもなく、感じ、理解し、そして受け入れるのです。(マインドフルネスの教科書 藤井英雄 クローバー出版参照)これは森田が目指している観念優先の態度を事実本位の態度に切り替えるために、大いに役立つと考えていますが如何でしょうか。
2022.05.19
コメント(0)
藤井英雄先生のお話です。マインドフルネスは自分を客観化する技術です。キーワードは「今、ここ」です。「今、ここ」の現実にリアルタイムかつ客観的に気付いていくことがマインドフルネスです。この考えは、新鮮でした。今までマインドフルネスは瞑想のことかと思っていました。森田理論の「事実本位」に近づくための方法として活用できるように思いました。さて、神経症で悩んでいる人は、観念優先の態度が強い傾向があります。その結果次のようなことが起きています。・不都合で理不尽な出来事に対して、ネガティブな感情やネガティブな思考が湧きあがってきます。・事実を軽視、無視、捏造することが多くなっています。早合点、先入観、決めつけ、常識、ルール、規範、習慣を優先して事実を詳細に観察することがおろそかになっています。・強力な「かくあるべし」で事実、現実、現状を受けいれることが困難になっています。私の場合でいえば、他人からバカにされるような弱点、欠点、ミス、失敗を隠そうとします。他人が高く評価してくれることに取り組んで結果を出さないと、孤立してしまうという恐れがあります。森田では、観念優先の態度から、事実本位の態度に切り替えることをお勧めしています。しかしこれは言うは易く、実行は難しいというのが本音です。藤井先生の説明では、マインドフルネスに取り組めば、そのことが可能になると言われています。どうすればそのことが可能となるのか。まず瞑想があります。呼吸瞑想、歩行瞑想、眺める瞑想、身体を感じる瞑想、腕の瞑想、皿洗い瞑想、食べる瞑想、感謝瞑想、レーズン瞑想、慈悲の瞑想などを説明されています。その他アファメーション(自己肯定宣言)なども説明されていました。(マインドフルネスの教科書 藤井英雄 クローバー出版)その中でも私が注目しているのは、自分の気づきにラベルを張る、実況中継をするというものです。特に実況中継はとても優れた手法になると考えています。上司にみんなの前で罵倒されたという例で実況中継を簡単に説明してみます。ただいまレポーターの私○○が事件現場に到着しました。私が手配ミスをして間違った商品がお客様のところに届きました。これは完全に私のミスでした。直属の上司が逆上して、みんなの前で私を叱責しております。「どうしてくれるんだ。大事なお客様を怒らして。この責任は必ず取ってもらうからな。うわの空で仕事をしているからこんなことになるのだ。お前はうちの会社の足を引っ張ってばかりだ。サッサと辞めてしまえ」これに対して○○(自分のこと)は、大きく動揺しています。恐ろしさで、いたたまれない状態です。さらに自己嫌悪に陥っています。一刻も早く逃げ出したい気持ちになっています。上司に対して、何もそこまで言わなくてもと思っています。めらめらと反発・怒りの感情が湧き起こってきました。以上事件現場からの実況中継でした。その後また新しい情報が入り次第報告します。このように実況中継ができれば、上司の態度に腹を立てて反撃することは少なくなると思います。なんとか踏みとどまることができるような気がします。動揺が早く収まります。気分を切り替えることができます。そして、次に問題解決ためにどんな方法があるかを考えることができるようになります。実況中継は、ネガティブな感情や考え方に対して一旦立ち止まり、第3者の視点から、客観的に振り返って気づくことが可能になるのです。これは問題が生じた生活場面で、実際に試してみることが必要になります。今まで売り言葉に買い言葉で対応していたことが、間をとれるようになれば、その後の展開は大きく違ってくるように思います。
2022.05.18
コメント(0)
人間関係をよくしたいと思っている人にとっておきの本を紹介します。「人間関係にうんざりしたときに読む本」(杉本良明 日本実業出版社)です。「どんなきつい相手とでもうまくいく対人心理術」という副題がついています。「それを早く言わんか、バカモノ」「だから、お前はダメなんだ」「そんなんじゃ話にならん、やり直しだ」「作業に時間がかかりすぎているのは、君の努力が足りないからだ」「何回言えばわかるのだ。真面目に仕事をしろ」上司からこんなことを言われると、普通の人は反抗的な態度になります。問題点としては、行為の指摘と人格の批判がごちゃ混ぜになっていることです。やり方の問題点や改善点だけを指摘されると、言われた方の受け取り方は違ってくるのではないでしょうか。例えば、「納期がないから、もう少し急いでやってください」「ミスや失敗は誰にもあります。すぐに報告してください」「仕事のやり方が間違っています。基本にのっとってやってください」「仕事は会社で決められているマニュアル通りにおこなってください」これらは仕事の改善指示・命令です。相手の人間性や存在価値を否定しているのではないのです。杉本氏は、相手の人格や存在価値を否定する言葉は、たとえそれが間違っていなくても、厳に封印する必要があると言われています。相手に向かって、批判、否定、叱責、脅し、罰を与える、暴言を吐く、暴力をふるう、無視する、バカにする、からかうなどは慎むことが大切です。人間関係がうまくいかない人に限って、これらの手法を多用して、墓穴を掘っている。幼児並の言動ですが、習慣化していて、本人は制御不能に陥っている。そんな人に対して、杉本氏は次のように助言されています。自分の不快な感情を払拭したくなっても、その前にやるべきことがある。それは一旦相手の感情を肯定する、承認するということです。「分かる、分かる。その気持ちはよく分かります」「そうおっしゃるのも無理はない」「すみません。全くおっしゃる通りです。まことに申し訳ございません」感情を承認するとは、相手の話をほめたり、賛同することではありません。また相手の考えや意見、見解を肯定、同意する必要はありません。相手の感情を承認するだけの事ですから、間違えないでください。これを身に付けるためには、まず自分の感情や自分自身を自己承認する必要があります。自己承認ができない人は、他人を承認することはできないといわれる。自分の不安、恐怖、違和感、不快感をあるがままにうけ入れる。「かくあるべし」を封印して、事実に素直に寄り添うようにする。自分の感情や思考、ミスや失敗、欠点や弱点などを受容・許容する態度を養成することです。そのためには、誰でも自分という一人の人間の中に、二人の自分が住み込んでいます。葛藤や苦悩している自分と、その自分を絶えず非難・否定しているもう一人の自分が同居しているのです。雲の上の方に居座っている自分が地上に降りてきて、事実や現状に寄り添うようになると、問題は解消してきます。このようにして自己肯定感が育ってきた人は、同時に他人の感情を肯定・承認することが可能になると言われているのです。これを身に付けるためには、森田理論学習の「事実本位の態度の養成」が大いに役に立つと思いますが如何でしょうか。
2022.05.16
コメント(0)
自己肯定感を持ち、それを高めていくためにはどうすればよいのですか。集談会でこういう質問をよく受けます。その方は自己否定感で、自分を否定することが多くて、自分が好きになれないのだろうと思います。自分を好きになるためにはどうすればよいのでしょうか。どんな人間でも現実の自分とその自分を雲の上のようなところから眺めて非難・否定している自分がいます。観念が現実の自分を批判・否定しているのです。一人の人間であるにもかかわらず、二人の人間が住み着いているのです。この二人の自分を一つに統一することが必要になります。雲の上にいる自分が、現実で苦しんでいる自分に寄り添うことが大切です。自己肯定感の強い人は、理想の自分が現実の自分にすぐに寄り添うことができる人です。現実の自分がどんなに心もとなくても、ミスや失敗をしてみんなから笑いものにされていても、いたわり励ますことができている。どんな事態になってもあなたを守り抜いて見せますという態度が強い。そういう人は観念よりも、現実・現状・事実の方を優先できる習慣が出来上がっています。叱責、非難、否定していた自分がいなくなると、葛藤や苦悩がなくなります。そのためには森田理論学習をすることです。「かくあるべし」の弊害と事実本位の大切さをしっかりと学習しましょう。つぎに、神経症に陥るような人は、不安や恐怖にとりつかれて、生の欲望の発揮という本来の目標を見失っている傾向が強いようです。不安や恐怖を取り除いてからでないと、生の欲望に向かうことはできないと考えてしまうのです。しかし神経症的不安や恐怖はなかなか取り除くことができません。一旦不安にとらわれると、精神交互作用でどんどん増悪して神経症として完全に固着してしまいます。固着してしまうと自分一人ではどうすることもできなくなります。自分はダメ人間ではないか、生きていく気力も勇気もわいてこない。いっそのことこの世とおさらばした方がいいのではないかと考えるようになります。自己肯定感を持つためのポイントは、生の欲望の発揮を無視しないということです。そこに絶えず焦点を当てて欲望を見失わないようにすることが重要です。その中でも、日常茶飯事に丁寧に取り組むことです。凡事徹底のことです。雑事を軽視、無視している人のなかに、自己肯定感の高い人はいません。そうすれば一方的に自己否定の方向に向かうことがなくなります。つぎに自己肯定感が持てない人は、小さい頃から成功体験の少ない人です。何かに挑戦して、目標達成感や成功体験の思い出が少ない人です。これではいつまで経っても自己信頼感が育ってこないのです。成功体験は自信や勇気となって、人間としての器が大きくなります。自己肯定感は雑多な経験の積み重ねによって獲得できます。過保護に育てられた人や親の指示通り行動することを強要された人は、好奇心に促されての行動が少なくなります。こういう方は、今からでも遅くはありません。自分のやりたいこと、挑戦してみたいこと、好奇心のあるもの、興味や関心が持てるものに積極的に手を出していくことです。いきなり大きな目標を目指すのではなく、少し努力すれば達成可能な目標に挑戦していくことが大切です。この経験によって、小さな自信を積み重ねていくことです。私は集談会の世話活動によって、自分を肯定し、自分に自信が持てるようになりました。「自分もまんざらではない」と思えるようになった時、自己否定感はどんどん縮小し、自己肯定感が拡大していくようになるのです。
2022.03.27
コメント(0)
森田先生の言葉です。我々の日常生活は、実際において、まず第一に、時と場合における「感じ」から心が発動し、種々の欲望が起こる時に、それに対して、理知により、理想に従いて、自分の行動を調整して行くのであって、すなわち第一が「感じ」で、次に理想が働くのである。これを反対に、理想を第一にして、それから感じを出そうとするから「思想の矛盾」となり、主義の色合いにかぶれて、純白無垢の行いができなくなるのである。例えば時間がたてば腹がへり、御馳走を見れば食べたくなる。これが「感じ」である。(森田全集第5巻 405ページ)ここでは感情の事実を第一優先順位とすることが大切だといわれている。「好き」「挑戦してみたい」「食べたい」「行ってみたい」という感情や欲求が湧き上がってきたら、その気持ちを大切にすることが出発点になります。ここで「感じ」というのは、最初に湧き上がってきた素直な感情のことです。森田理論の中に「純な心」というのがありますが、まさにこの素直な感情のことです。ところが神経質者に限らず多くの人間は、高度に大脳が発達してきたために、感情の事実を軽視・無視してしまうようになった。森田先生が理想と言われているのは、観念優先の態度と読み替えられます。今や人間は観念を最優先してプライドだけが高い鼻持ちならない生き物になってしまった。自分の主義や思想や主張を他人や自然に押し付けるようになってしまった。さらに自分自身も、辛辣に批判や否定する生き物となっている。人間が人間を殺し合う戦争も平気で行う生き物になってしまった。このままではいずれどこかで核戦争が起きるのは時間の問題だ。核戦争が始まれば、相手も対抗措置をとってくる。そして人類は滅亡する。せっかく高度な文明や文化をはぐくんできたのに残念なことです。感情の事実を無視して、観念を優先する態度の弊害は計り知れない。森田理論はこの問題に警鐘を鳴らしているのである。感情の事実、人間同士の争い、自然災害、理不尽な不幸な出来事などを観念で是非善悪の判定をする態度はやめようではありませんか。それよりも、受け入れられない事実を受けいれる態度に切り替えませんか。事実から出発して、問題のある現状を少しでも改善できるようにみんなで力を合わせて努力することが大切なのではありませんか。言われてみれば当たり前のことですが、現実は観念が第一優先順位で、事実は第二優先順位どころか軽視・無視され続けているのです。森田理論は神経症を克服する理論として産声を上げましたが、今後の人類史を左右する理論としてとらえ直す必要があると考えています。
2022.03.24
コメント(0)
後悔するということは、過去をクヨクヨ思い悩むことです。反省するということは、過去から何かを学びとることです。何かをするたびに後悔をすれば、今も、未来も暗い気持ちで過ごすことになるでしょう。反省をすれば、明るい未来をより良く切り開いていくための知恵が生まれます。常に前向きにチャレンジする人は、後悔でなく、反省をするのです。(魔法の言葉 中井俊已 汐文社)この言葉は、まさに「魔法の言葉」だと思います。過去の不祥事、恥ずかしい思いをしたこと、他人に対して思いやりのない態度をとったこと、ミスや失敗などが悪夢となって自分を責めたてている人はいませんか。その状態は、森田理論でいうと、いつまでも過去の出来事を非難・否定しています。それだけではありません。そんなことをしでかした自分自身を否定して許せないのです。それらは悪夢となっていつまでも怨霊のように付きまとっているのです。森田理論学習で「かくあるべし」の弊害を何度も学習しました。そして現状や事実を素直に認めて受け入れるという事実本位の態度になれば、葛藤や苦悩から解放されると学びました。でも実際には「かくあるべし」が強くて、過去の忌まわしい事実を受けいれることができていないのです。こんな状態のまま生きていくのはしんどいばかりです。この感情をなくすることはできないでしょうか。結論からいうとそれは可能だと思います。後悔という言葉を別の言葉に置き換えることです。その方法は反省材料として活かすことです。後悔はしたくないと思っても、後悔の感情は自然に生まれるものです。それがエピソード記憶、長期記憶としてしっかり格納されています。決してその記憶を取り去ることはできません。一生付き合っていくしかありません。しかし後悔との付き合い方を変えていくことはできます。私たちは後悔は不快な感情ですから、それを目の敵にしています。後悔という不快な感情に対して、敵対していることが問題です。過去はもうすでに過ぎ去ったものです。いくら後悔したところで帳消しにはされません。でも後悔を今後のために活かすことはできます。反省材料として、反面教師として活用することはできます。そのためには、不快な感情と敵対しないことが大切になります。味わうと言ってもいいでしょう。とことん味わい尽くす。それだけでよいのです。それ以上のことをしてはいけません。これを森田では事実に従うと言います。事実に従うと「かくあるべし」で自分を責めたてることがなくなります。これだけでも精神的に楽になります。それだけではありません。そのエネルギーを他に転用することが可能になります。事実に従うと、そこを出発点として課題や目標に向かうことが可能になります。後悔を反省材料として活かすことができるようになるのです。後悔を補って余りある行動に転嫁することができるようになるのです。後悔は反省材料として活用することで初めて陽の目を見ることになります。人間はいくら後悔の多い人生を送ってきたとしても、責められることはないと思います。そもそも人間が生きていくことは後悔だらけです。ですから何ら恥じることはありません。後悔ではなく反省材料として取り扱うことです。その気持ちを持ち続ければ、夜中に悪夢でうなされることはなくなるはずです。もし自分をこの世に送り出してきた創造主がいるとすれば、その態度をきびしく査定しておられるのではないでしょうか。ですから過去の忌まわしい出来事はいくら抱えていても許されるということです。それを払拭して余りあうものに取り組んで来たかどうかが肝心です。後悔するより反省材料として今後に活かしていこう。これが結論です。どうか自分を責めることだけはしないようにしてください。
2022.03.23
コメント(0)
劣等感は自分と他人を比較して、自分の方が劣っていると判断している。しかも、実態以上に致命的なハンディキャップだと思い込んでいます。これは一面的な認識の誤りを犯している可能性があります。本人の劣等感的な見方は果たして正しいのか。本当に一生を左右するほどの致命的な欠陥なのか。今日はこの問題を深堀してみましょう。たとえば薄毛やハゲでウィングを装着して取り繕っている人がいます。ケース1本人が大きな劣等感を感じています。それを実際に隠そうとしている。他人はその姿を見て、大きな違和感を持っている。隠すことで、他人は自分の弱みに気づいてくる。あの人はウィングでごまかそうとしているとうわさするようになる。欠点を隠すという態度を笑い話のネタにしている。苦労しているにもかかわらず全てが裏目に出ている。哀れとしか言いようがない。ケース2他人は確かに薄毛と言えばそうかもしれないが、気にするほどでもないと思っている。したがって、そのことに注意や意識を向けてはいない。しかし本人は、深刻に悩みこの状態では人前に出て行くことはできない。ごまかせるものなら何とかしたいと思っています。他人は気にかけてはいないのですが、本人は不安や恐怖にとりつかれている。これは神経症で苦しんでいる状態とよく似ています。小さな不安を自分の一生を左右するような大きな一大事と認識している。ここで不安をどう取り扱うかによって、大きく二つに分かれる。不安と格闘して劣等感と格闘するか、不安を抱えながら仕事のほうに集中するか。ここでの選択がその後の展開を大きく左右します。ケース3劣等感で苦しむ道に入ると、2つに分かれます。一つは髪の毛のことは放りぱなしにしてしまう。投げやりな人です。畑でいえば雑草が生え放題である。蛇などが住み込んでいる。火をつけられでもすると、山火事になることもある。本人はそれでよいかもしれないが、周囲の人はせめて身だしなみをきちんとしてもらいたいと思っている。もう一つは、ウィングや植毛で上手にカモフラージュしている。本人は時間と大金を投入して、うまく誤魔かせたと有頂天になっている。しかし、周囲の人はほとんどの人が気づいていて、その事には触れないように気を使っている。隠蔽やごまかし体質のために、人間関係は気まずくなっている。本人は頭の中が劣等感で占められていて、これ以外のことには無関心になる。そのうち、ばれたりすると、自暴自棄になり手に負えなくなる。ケース4積極的な生き方になっている人も2つのタイプに分かれる。ウィングを装着しているが、周囲に告知(カミングアウト)している。周囲の人も隠し事がないので、話題として取り上げることもある。結構似合っていると本人も他人も認めている。雰囲気に応じていろんなタイプを使い分けている。一つのファッションとして生活の中に根付いている。特に女性の人でうまく使いこなしている人がいる。それ以外の身だしなみもきちんとしている。もう一つは、薄毛やハゲの自分を受けいれている。その状態を自分の個性としてとらえて、正々堂々としている。薄毛やハゲのことで不安や悩みを感じていない。人間の歴史は脱毛の歴史だなどと言う。数100年もたつと全員がスキンヘッドに進化するという。また整髪の必要がない。洗髪の必要もない。清潔に保つことができる。汗が出てもタオルで拭くだけで事足りる。実に爽快である。日照りの時は格好のよい帽子をかぶればよい。寒い冬にも防寒すれば済むではないか。何ら支障がない。「スキンヘッドの○○さん」と認知されていることに誇りを持っている。それをむしろアピールしている節がある。さらにスキンヘッドの有名人のモデルを持っており、その域に近づこうとしている。あるいは高僧のような雰囲気を醸し出している人もいる。女性に手を出しても相手にされないので、不倫とは無縁である。それが結果的には、家庭の平穏に役立っている。スキンヘッドの悪役俳優は数が少ないので、仕事にありつける。事実を素直に認めているので、エネルギーの無駄遣いが起こらない。そのエネルギーを仕事や夢や目標の達成に向けて努力している。劣等感を類まれな長所に転換している人です。これは人間としても最高レベルの人だと思います。
2022.02.24
コメント(0)
人間はどんなことに劣等感を持つか。薄毛、ハゲ、老化、身体的欠陥、地位、学歴、境遇などたくさんあります。特徴としては他人と比較している。劣等感的差別観を持っている。劣等感を持っている人は、それは致命的な欠陥だと思っています。自分の将来を左右するほどの決定的な欠陥であると思っています。隠す、取り繕うことが必要で、そうしないと人生に希望が持てない。そして、孤立し、時間の無駄遣い、お金の無駄遣いをしています。でも苦しさは取り除くことができないばかりか、精神的な苦痛を背負い込んでいるのです。いかに馬鹿げことに取りつかれているのか。しかし本人にはその自覚がないというのが一番の問題です。そういう人は本当に将来に夢や希望が持てないのか。世の中には、ハゲの人、皴やシミだらけの人、入れ歯の人、慢性的な身体欠陥を持っている人、学歴のない人、結婚していない人、ひとりぼっちの人、仕事のない人、地位や名誉のない人などたくさんいます。そういう人が全員自分で自分を否定しながら生活をしているのか。そんなことはありません。むしろそれに発奮して運命を切り開いている人はたくさんいます。たとえば、中学しか出ていない人が、大卒の人を追い抜いてやるといって、立派なシェフになった人がいます。そういう人が、経営者となり、有名大学を卒業した人を使いこなしている。貧乏で劣悪な環境で育った人が、大人になって悠々自適な生活を楽しんでいる。収入が少ない人が、お金のかからない自給生活を極めてうらやましがられている。ハゲを逆手にとって、極悪非道な役者として欠かせないという人もいる。ヘレン・ケラーという人は、目が見えない、耳が聞こえない、話ができないという大変な障害を抱えていました。でも彼女はそれを逆手にとって、89歳で亡くなるまで、世界中の障害者を励ます活動を続けたではありませんか。この人たちと、劣等感にとりつかれた人との違いは何でしょうか。森田理論学習を続けている人はすぐに分かると思います。そういう人との違い・事実をしっかりと認めている。その事実を否定しない。ないものを求めても仕方がない。自分が持っている能力や可能性にかけていくしかない。きちんと発想の転換ができた人たちです。劣等感に取りつかれていると、死ぬときに後悔してしまう。それよりも持っているものを活かして、人生を楽しみたい。事実のままに生きていくという覚悟を固めている。むしろ発奮材料として利用している。国内予選を勝ち抜いて、マラソンの出発点に立つことができた人です。自分にないものに劣等感を感じる間がないほど、目線を上に向けている。自分が持っている能力や可能性に照準を合わせている。ここが劣等感に取りつかれている人との決定的な違いです。事実本位という態度を身につけることは、観念が優位になった人間にとって、とても大きな課題です。しかしこれを乗り越えないと精神状態は安定しない。森田理論はそこに特化して、人生観を確立しようとしているのです。
2022.02.22
コメント(0)
薄毛やハゲで悩んでいる日本人は1200万人から1500万人だそうだ。4人に1人の割合になる。実は私もその仲間である。世界で見ると、スペイン42.6%、ドイツ41.24%、フランス39.1%、アメリカ39.04%、イタリア39.04%、続いてポーランド、オランダ、イギリス、カナダ、ロシア、オーストラリア30.39%と続いている。つまり先進国ほど薄毛とハゲが多い。日本はその意味でまだ後進国だ。現在薄毛やハゲの人も幼少期は髪が多かった。寝癖がついて直すのに苦労していた人も多い。ところが成長するうちにいつの間にか薄毛になり、ついにハゲてきた。徐々に進行するというのが曲者である。手を打つのが遅れる。最初のうちは手当をすればなんとかなるはずだと思っていた。ところが、ある日風呂場で洗髪するたびに髪が抜け落ちる。新陳代謝でも起きているのだろうと思っていたのが誤解の始まりだった。そうなると、みんな必死になって薄毛やハゲと闘ってきたに違いない。ところが、どんな手立てを講じても無駄な努力であった。そういう意味では神経症の蟻地獄に陥って、もがいているのと同じである。森田理論学習をしていると、薄毛やハゲを隠したり、ごまかそうとしているから悩みが深くなる。その事実を受けいれていけば、葛藤や悩みは霧散霧消すると学んだ。それは言葉では分かっているが、実際にはそんな自分は受け入れられない。薄毛やハゲという現実をとことんまで嫌悪し否定している。そのうち、人ごみを避けるようになる。薄毛やハゲを抱えたままではこの世で生きていくことはできないと深刻に悩むようになる。残念だがもう自分の人生は終わったも同然だと投げやりになる。他人はそんなに気にしていないというデーターがあるが、何の気休めにもならない。ここに一つの光明を与える本がある。ハゲを着こなす 松本圭司 WAVE出版である。この方は自分自身がハゲている。しかしかっこよく見える。ハゲを隠す・増やすのではなく、ハゲを魅力的に見せるということに特化した研究を行っている。神戸大学でその研究成果を発表して最優秀賞に輝いたという。そして2016年、株式会社カルヴォ(スペイン語でハゲ・薄毛)を興す。薄毛ハゲの人に体験者として寄り添った活動をしている。you tubeの動画もあるので、関心のある方はのぞいてみてください。この本で感じたことを紹介してみよう。薄毛とハゲの人は必死になって隠す・取り繕っているが、周りの人は、ほぼその事実を見抜いている。自分の欠点を隠そうという態度は、他の全ての面にわたり、隠蔽体質が強い人間だとみなしている。詐欺事件などを起こす要警戒人物と同一視している。フレンドリーには付き合えないので、距離をおいて観察している。他人に不快感を与えないように、細工をしていることがことごとく裏目に出ているのです。しかしそのことに対して本人の自覚がない。薄毛・ハゲの有名人はたくさんいる。たとえば「家族に乾杯」の鶴瓶さん、ダイハードのプルース・ウィリスさん、俳優の高橋克実さん、片岡鶴太郎さん、所ジョウジさん、渡辺謙さん、中島誠之助さん、落合博満さん、王貞治さん、松山千春さん、小椋佳さん、竹中直人さん、サザエさんの磯野波平さん、田中角栄さんなど。この人たちは、とても個性的で魅力がいっぱいである。薄毛やハゲという言葉そのものが不要である。むしろ自分の個性として、前面に出してアピールしているようだ。悩みに磨きをかけて、いつの間にか個性として目立たせている。もし鶴瓶さんがフサフサのカツラでもかぶってテレビに出たとしたら、イメージが崩れてしまう。その方が嫌悪感を抱く。ありのままの姿の方が好感が持てる。私たちは自分と波長の合う人の顔写真を机の前に貼っておくことだ。松本さんによると、「薄毛・ハゲといえば○○さん」と思い出してもらうような意気込みで生活するのがよいという。顔の横幅と立幅の比率は、1対1.3から1.5ぐらいになるとかっこよく見えるという。そういう方面に力を入れるとよいという。それから眼鏡、サングラス、髭、ネクタイ、スカーフ、帽子の活用でいくらでも改善が図られるという。あきらめて、ハゲをとり散らかすというのはいただけないという。理容店できちんと身だしなみを整えることが欠かせない。要は欠点、弱点を逆手にとって、他人に「私もあの人のような薄毛やハゲになりたい」と思わせるように切磋琢磨していくことが肝心であると教えてくれている。
2022.02.21
コメント(0)
リッツカールトンの創業者ホルスト・シュルツ氏のお話です。アトランタのバックヘッドにオープンした最初のリッツカールトンでは午後の時間にお茶を提供した。地元のご婦人方は、友だちとホテルに立ち寄り、お茶を飲みながら、おしゃべりをしたり、ピアノの生演奏を聴いたりできる雰囲気を気に入ってくれた。とりわけ、美しいウェッジウッドのカップとポットがお気に入りのようだった。カップは1客100ドルのものを使い、気品と優雅さを演出した。ところがちょっとした問題があった。出されるお茶が冷めているという苦情がやまなかったのだ。私は飲料部のマネージャーを呼んで叱りつけることもできた。「なんでこんなことが起こったのかね。二度と冷めたお茶を出さないでください」そうすると、マネージャーは、持ち場の部下たちに「何とかしろと」号令をかけるかもしれない。しかし、そんなやり方では一向に問題は解決されず、全員に後味の悪さを残すだけだったろう。従業員はやる気をなくしてしまう。良い方法はないかと考えて、私はスタンドアップ・ミーティングの最後に、スタッフにこう呼びかけた。「私たちはお客様の期待に応えるだけでなく、それを上回るという高い目標にコミットしています。だから、アフタヌーン・ティーが冷めた状態で提供されてしまう原因を調べてみましょう」この問題は、現場のスタッフが原因を発見した。ティーカップが製氷機の真上に保管されていたのだった。お茶が冷めるのも不思議ではない。ということで、保管場所を変えることでこの問題は解決した。それとは別に、ティーポットには頭の痛い問題があった。注ぎ口が頻繁に欠けるという問題が発生していたのだ。1個200ドルもしたので、買い替え費用はばかにならなかった。この問題も現場のスタッフたちに取り組ませた。食器洗いチームがその原因を見つけた。ティーポットはベルトに乗って食洗器に近づいていき、あるポイントに来るとバーが下りて止まる。その時、たまたま注ぎ口が前を向いていたらアウト。あっけなく破損した。そこで彼らは、柔らかいゴムで、注ぎ口を保護するホース状のガードをつくった。それ以降、注ぎ口の破損はぴたりとやんだ。マネージャーも私も、この解決策を自分で考えることはできなかった。経理担当者からは、「なんでこんな高価なウェッジウッドのカップやポットを使う必要があるのか。10ドルのポット、2ドルのカップで十分ではないか」と問題提起されたかもしれない。もしそれに妥協してしまうと、この街で最高のティータイムを提供するというリッツカールトンのミッションから外れてしまう。誰も好き好んで冷めたお茶を出したくないし、ティーポットを壊したくない。また、お客様に最高のおもてなしをしたいと思っている。仕事を効率的に行い、経費を節約する必要も分かっている。問題解決のためには、彼らを叱責するのではなく、問題の把握と分析と解決のために、彼らに考えて動いてもらう必要があったのだ。(リッツカールトン最高の組織をゼロからつくる方法 ホルスト・シュルツ ダイヤモンド社 166ページより要旨引用)問題があると、すぐに担当者を呼んで叱責して、改善命令を出すことが多い。しかし当事者が問題意識を持たないと、問題解決には至らない。彼ら自身が事実をよく観察して、問題や課題に気づかせるという方法をとることで、彼ら自身がやる気になって問題解決に向かう。回りくどいやり方だが、本人がやりたいと思わなければ、成果は継続しない。どうしてもやる気が出てこない。意欲的になれないという人がいる。そういう人は目の前のことに注意が向いていない。注意が向いていないので、問題点や改善点が発見できない。課題や目標がないので、工夫やアイデアが湧き上がらない。給料をもらうために、人から指示されたことをイヤイヤ行っているだけだ。人生の3分の1を占めている仕事がこんな状態では退屈でむなしい人生になる。そして自己嫌悪、自己否定で心身の不調を抱えるようになる。
2022.02.17
コメント(0)
ヴィクトール・フランクは、三年間にわたりアウシュビッツ強制収容所で過酷な体験をしました。フランクルはその極限状態を何とか生き延びました。しかし、その間、妻や両親、弟は亡くなっていました。彼は過酷な運命に翻弄されながらも、最後までその危機を乗り越えて力強く生き抜きました。何が彼の心の支えになったのか。彼は、日々の生活の中で生きる意味や生きがいを見つけることが大切だと述べています。その方向は次の三つの視点から見ていくことが重要になるという。1、創造的価値。これは新たなものを生み出していく中で生まれてくる。2、体験的価値。楽しみや学びの機会を持つことによって生まれてくる。3、態度的価値。苦難や試練に出くわしたとき、その人がどういう態度でそれを受け取り対応していくか。この三つの中で一番重視しているのは、態度的価値である。過酷な運命に翻弄されて、たとえ創造的価値や体験的価値の実現が遮断されたとしても、態度的価値をしっかりと持ち続けられると生き延びることが可能になる。過酷な運命を呪い、自暴自棄になった時点で、生き延びていくという意欲は急速に失われてしまう。フランクルはともすれば、自暴自棄になり、折れそうな気持を、今まで取り組んでいた作品に取り組むこと、すぐに病院での仕事に復帰することで乗り越えていったという。そして過酷な体験を反面教師にして、精神科医として心の危機に陥っている人に、解放されるための提案をまとめ上げていった。これは森田理論でいうと、「かくあるべし」という観念優先の態度で現実や現状を非難・否定してしまうと、逆に事実の方から愛想をつかされてしまう。大量のエネルギーを投入して精一杯抵抗しても、取り返しのつかないしっぺ返しを受けてしまう。そして運命を呪い、自己否定で苦しむようになる。苦難の人生の始まりとなります。そして生きる意欲が萎えてきて、ただ単に生命を維持することで精いっぱいになる。「かくあるべし」を自分や他人の押し付けないで、どんなに理不尽な出来事であっても、価値判断しないで素直にその事実を受けとめると事態はまったく変わります。まず事実と闘うことがなくなりますので、エネルギーの無駄遣いがなくなります。そのエネルギーを生の欲望に投入できるようになります。事実をより深く把握できるようになると、しだいに問題点や課題が明らかになります。今まで上から下目線で見ていた態度が、下から上目線に変化してきます。こうなりますと、気づきや発見、興味や関心、アイデア、創造力がコンコンと湧き出てくるようになります。やる気や意欲が出てきます。小さな目標の達成は自信になります。生活に張りが出てきます。そして弾みがついてさらに大きな課題や目標が見えてくるようになります。フランクが生きる意味や生きがいと言ってるものは、このようにして生み出されるものだと考えています。
2022.02.01
コメント(0)
白石浩一さんは、美しく生きるために3つのポイントをあげておられます。1、自分の人生に目標を持つこと。この目標は、観念的抽象的なものではなくて、ひるがえる旗のように具体的で鮮やかでいきいきしたものでなければならない。2、自分の世界というものを持っていること。趣味でも、学習でも、社会活動でもいいから、無我夢中で打ち込めるもの、張り合いを実感できる、自分の世界を持っていること。3、「心にゆとりを持っていること。あるがままを受けいれる、許容の気持ちである。現状をあるがままに受け入れた上で、やるべきことを、ゆっくりと一歩一歩自己実現を図っていく。そういう悠然とした心境である」(生涯森田のすすめ 生活の発見会編 5ページ)この3つは、森田理論で学習した内容そのものですね。みなさんは、日常生活、仕事などに無我夢中で取り組まれていますか。このことを一言で表現すれば「凡事徹底」ということになります。目の前のことに寝食を忘れるほど真剣になって集中するということです。このことを森田では、「ものそのものになる」と言います。ものそのものになれば、気づきや発見が生まれて、感情が流れていきます。課題や目標、夢や希望に向かう気持ちを投げ捨てて、怠惰な生活に陥ってはいませんか。怠惰な生活は、休憩をとってエネルギーをため込むための充電期間が習慣化しているような人です。充電期間は次の行動のためにあるという認識が必要になります。「退屈だ。何か面白い事はないかな」という言葉が浮かんでくるようになると要注意です。日常生活の中で小さな課題や目標に取り組んでいくと、楽しい生活に変わってきます。小さな成功体験で小さな自信がつき、さらに大きな目標への足がかりになります。このことを森田では「努力即幸福」と言います。「生の欲望の発揮」とも言います。この2つの方向に向かうことを、邪魔するものがあります。それは「かくあるべし」という観念優先の思考回路です。「かくあるべし」は、理想主義、完全主義の立場から現実や現状を否定しています。一人の人間が二人に分かれて不毛な争いを繰り返しているようなものです。エネルギーが戦いのために費やされているので、「凡事徹底」「努力即幸福」の方面に振り向けることができないのです。もし事実を「あるがまま」に認める態度になれれば、その時点で葛藤や苦悩がなくなり、逆転人生が幕を開けるようになるのです。森田理論の活用で、観念優先の態度を事実優先の態度に変えていくことが大事になります。
2022.01.17
コメント(0)
辛い人生を送っている人の特徴を考えてみたいと思います。1、問題や課題、目標や夢がない人。あっても意欲的になれない人。2、自己肯定感が持てない人。自己嫌悪、自己否定で苦しんでいる人。3、仲間として受け入れられていない人。仲間内から追い出されて孤立している人。この3つが重なっていると、人間として生きていくことが苦痛になってきます。楽しい人生を送りたい人は、この逆を行うとよいと思います。そのヒントを考えてみました。1、日常茶飯事に丁寧に取り組んでいる人は、小さな問題や課題を見つけて、興味や関心を高めている人です。それらはやがてもう少し大きな課題や目標へと膨らんでいきます。目標をとらえてそこに注意や意識を向けている人は、人間の宿命に沿った生き方をされている人です。自己内省に過度に傾斜することなく、注意や意識を絶えず外向きに持っていくことが大切です。観念中心で思考するだけではなく、河井寛次郎氏の言われるように、「手考足考」で体を動かすことを優先しなければなりません。しんどい、めんどうだ、つらいなどという気分を優先して、楽をする、休むという道を選択していると、人間はどんどん堕落してきます。2、自己肯定感が持てない人は、自分の中で二人の自分が対立している人です。観念中心で問題点を抱えて苦しんでいる自分を、空の上から見下ろして軽蔑の目で眺めている人です。本来一枚岩になって、外から押し寄せる課題に対して対処しなければならないときに、内部で権力闘争をしているようなものです。傍から見ると、これではとても良い方向に向かうはずがないと思えます。観念優先の生活態度を、事実優先の態度に変えていく必要があります。そのためのお手伝いを森田理論学習が行っています。それと自己肯定感は、小さな成功体験を積み重ねて、自信の数を増やし続けた人が獲得できるものです。小さな成功体験不足の人に、自己肯定感は育ちません。凡事徹底に取り組むことが不可欠となります。3、仲間として受け入れられない人は、孤立します。それでもよい。仙人のような天涯孤独を貫くという人もいます。しかしそれはどうも本心ではないようです。多くの人と付き合いながら、楽しい時を過ごす方がよほど豊かな人生になります。他人から嫌われている人は、自己中心が前面に出ている人です。この世の中は自分を中心に回っていると錯覚している人です。別の言葉でいえば、わがままな人です。融通の利かない人です、自分の思い通りに事が運ばないと、すぐに他人と対立してしまう人です。交渉して、調整や妥協点を探るという考え方ができない人です。こういう人は、挨拶さえもきちんとできない。他人に自分の気持ちを押し付けることは得意ですが、反対に他人から非難、否定、強制、指示、命令されることを受けいれることができない。しぶしぶ受け入れても、本音の部分でいつも強く反発している。他人は信頼できない、いつ危害を加えてくるか分からない。絶えず防衛態勢を敷いて、スクランブル発進に備えているのですから、心労が絶えないのです。こういう人は、親との間で信頼関係を築くことができなかった人です。遅まきながら、親以外のところで「心の安全基地」を作る必要があります。配偶者、祖父母、友達、カウンセラー、集談会の仲間など。一人いるだけで安心できます。批判しないで自分を受けいれて、よく話を聞いてくれる人です。いつも会っていなくても、いざというときにはあの人に相談してみようという人を持っておくことです。私は集談会のなかでそういう人を見つけました。それから森田理論では、人間関係のコツとして、「不即不離」を学びました。つきず離れずの人間関係です。自己中心的な人は、広く浅くをモットーとすると生きやすくなります。深く狭く親密な人間関係を目指していくと、いずれ破綻するかもしれません。コップ一杯の親しい友人を数人創るという考えは、大変危険です。人間関係は付き合いが始まると、かならず対立するようになります。付き合っている人が数人しかいない場合、犬猿の仲になると始末が負えなくなるのです。対立したときは距離を置くことが肝心です。こういう時に幅広い人間関係を心掛けている人は、気持ちが落ち着きます。その他人と仲良くなる方法はたくさんあります。私が心がけていることは、1、挨拶はきちんと行う。2、人の関心や喜びそうなことを見つけて、役に立つ情報を教えてあげる。3、自分の気持ちを伝えるときは、「あなたメッセージ」ではなく、「私メッセージ」で伝える。その他、皆さんもいろいろと研究してみてください。
2022.01.16
コメント(0)
スーパーなどで鍵をかけるのを忘れて、自転車を盗まれることがあります。こんな時、猛烈に腹が立ちます。相手のことを許せないと思ってしまいます。これは、盗まれたという事実を認めることができないからです。事実を否定すると、頭が固まってしまい、今後の対応策は考えることができなくなります。反対に、事実を素直に認めて受け入れると、今後の対応策を考えることができるようになります。事実を認めた人から耳寄りな対策を聞きました。鳥の糞をの形をしたシールがあるそうです。それをサドルのところに貼っておく。または「呪」「県警本部」というシールを目につくところに貼っておく。これらは忌避剤のような効果があるそうです。そういえば、私はマンションの管理人をしていますが、鳥が解放廊下にやって来て糞をするので、居住者から掃除を依頼されます。鳥の糞で廊下が汚いのは実に見苦しい光景です。鳥の糞がサドルに貼ってあると、盗もうとする意欲がそがれてしまう。こういう工夫は、自分ではなかなか思い浮かびませんが、集談会などでみんなで知恵を出し合えば、あっと驚くような提案が出てくることでしょう。田舎ではよく蛇が出てきます。家の周りに忌避剤を撒いていますが、これもさらに良い方法があるかもしれませんね。今度田舎に帰ったら近所の人に聞いてみたいと思います。男子トイレの周りが汚れていると、そこでは用を足す気になりません。汚されないように、きれいに使っていただきありがとうございます。もう一歩前に出てご使用ください。とか書いてあります。でもそれはほとんど効果がありませんね。老人ホームの慰問に行ったとき、次のような標語がありました。「東や西に飛ばしなさんな、南さまが北なしとおっしゃるので」これは面白いと感心しました。思わずその標語をメモしました。関西国際空港では、一番飛び散りにくい場所に◎をつけてあるそうです。これだと的を射るイメージで用を足しますので、あまり汚れません。誰が考えたのか「座布団3枚」と叫んでしまいました。他人にこんなことはしないでほしいことはたくさんあります。そんなことをされた場合、相手を非難、否定、叱責、禁止、軽蔑するような対応をとると思います。これらは、目の前の事実を素直に受け入れていないと思います。事実と敵対関係にあります。けんかをすると、お互い消耗します。一方事実を素直に認めて受け入れると、対応策を考えることができるようになります。その際、相手が自発的に行動する仕掛け作りを考えることは大変意義のあることだと思います。もう一つ例を出してみましょう。埼玉県の川越祭りにキュウリの串刺しの漬物の屋台があるそうです。そこでは食べ終わった串をその近辺に投げ捨てられていたそうです。そこで店主は、串を入れるための箱を用意しました。その箱が面白い。縦横に仕切り板がある。全部で25のマスがある。横には、10代、20代、30代、40代、50代以上に分けてある。縦には、有名になりたい、金持ちになりたい、幸せになりたい、結婚したい、何も考えていないに分かれている。自分の該当するところに串を入れてもらう。食べ終わるとゲーム感覚で串を入れてくれるようになった。みんな楽しい事、面白い事には目がないのですね。不快な事実を受けいれて、それをゲーム感覚で楽しみに変えてしまうことができる人は、森田の達人のレベルだと思います。
2022.01.13
コメント(0)
集談会で自己否定感、自己肯定感の話がよく出てきます。今日はこの言葉の違いについて考えてみたいと思います。劣等感が強く、自己肯定感が持てない。これは「自己受容」ができないということだと思います。「かくあるべし」が強くなると、あるがままの自分を認めることができない。自分のなかにいる2人の自分が反目して、絶えず言い争っている。精神的に心休まるときがない。葛藤や苦悩でのたうち回る。精神交互作用で悪循環のスパイラルに巻き込まれると始末に負えなくなります。他人と比較して、薄毛やハゲ、メタボ、背が低い、容姿が悪い、歯並びが悪い、家がらが悪い、学歴がない、方言が抜けないなどと劣等感に苦しめられると自己否定するようになる。人生はあっという間に終わってしまうのに、そこにとらわれ続けるというのは実に残念なことです。ほかに楽しいこと、やりたいことはいっぱいあるというのに。樹木希林さんは、自分の身体は神様から預かっているものだといわれました。自分はその身体を借りて利用させてもらっているのだ。レンターカーや市民菜園を借りているようなものです。その身体を利用させてもらっていることで、人生を謳歌できているのではありませんか。それなのに、リースやレンタルしているものに、ケチをつけている。ないがしろにしている。粗末に扱っている。手入れをして、預かったものを、よりよくしようなどとは考えない。預かった時よりも、もっと良い状態にしてお返ししたいとも思わない。その考え方はお互いに不幸なことではないの。預けられた身体の方も、踏んだり蹴ったりで粗末に取り扱われるのだから、あなたに愛想をつかしてしまう。気に入らないかもしれませんが、もう少し大事に取り扱ってもらえませんかと、涙ながらに訴えているのです。もしそんなことが続けば、今度生まれ変わるときには、あなたとは金輪際コンビを組むことはしませんからね。預かった方は、こんなものを押し付けられてはたまったものではない。どうして自分だけがこんなにつまらないものを預からなければならないのか。理不尽だ。もっとかっこいいものに取り換えてちょうだい。もしそれができないのなら、あなたとは縁がなかったことにしてしまいたい。もう永遠にお別れよ。死んだってかまわない。その方が清々するわ。こうしたやり取りを神様はじっと見ておられるのかもしれませんよ。天国であなたに貸してあげた身体をどう取り扱っているのか、査定をされているかもしれません。良い査定の人は、また別の星に生まれ変わるときに、もっと大きな役割や課題を与えられて、今まで以上の活躍の場を提供されるのではないでしょうか。査定のよくない人は、あなたにはこの地球上で、せっかく知的生命体を貸してあげたのに粗末に取り扱いましたね。今後あなたには高度に発達した知的生命体としての身体は、もうお貸しすることはできません。毒蛇やワニのようなみんなに嫌われるような生き物になって生まれ変わってもらうしかありませんね。残念ですが地球上での実績が悪すぎて、知的生命体としての生まれ変わりは保証できませんね。樹木希林さんのような考えになると、常に自分持っているものを最大限に活かすことになるので、そもそも自己肯定感という言葉自体に意味がないということになります。森田ではこのことを「己の性を尽くす」と言います。自分だけではなく、所有物も、他人も、時間も、お金も、元々持っている価値以上に高めていくことを目指しているのです。全ての人がそういう気持ちになれば、世の中から争いごとや貧富の差がなくなり、真の平和が訪れます。森田理論というのは、神経症をなくするというところから始まりましたが、人類の輝かしい将来を視野に入れた人間学としてその真価を問われているものなのです。(この世を生き切る醍醐味 樹木希林 朝日新書参照)
2021.12.26
コメント(0)
相田みつをさんは、困難に出会って打開策が見つからないで、つまづいてイライラする自分を責めてはいけませんよと言われています。つまづいたっていいじゃないか にんげんだものつまづいたり ころんだり したおかげで物事を深く考えられるようになりましたあやまちや失敗をくり返したおかげで少しずつだが人のやることを 暖かい眼で見られるようになりました何回も追いつめられたおかげで人間としての 自分の弱さと だらしなさをいやというほど知りましただまされたり 裏切られたり したおかげで馬鹿正直で 親切な人間の暖かさも知りましたそして・・・身近な人の死に逢うたびに人のいのちのはかなさといま ここに生きていることの尊さを骨身にしみて味わいました(にんげんだもの 相田みつを 文化出版局)世の中は自分が考えている通りに事が進まないことがほとんどです。思い切って挑戦しても、行く手を大きな壁に阻まれて立ち往生することあります。挑戦していく中で、取り返しのつかないミス、失敗をすることもあります。他人から無視、非難、否定される場面も避けて通ることはできません。他人から攻撃される、騙される、裏切られることもしばしば発生します。これらの「つまづき」に対して、自分に愛想をつかして、自己嫌悪することがあります。自分のなかに住んでいる観念の世界の自分が、現実で苦しんでいる自分を攻撃しているのです。これは戦争の時、最前線で闘っている兵士が、形勢が不利になって後ずさり始めたとき、後ろに控えていた味方が、「撤退しないで、死ぬまで戦え」と銃で脅しをかけているようなものです。目の前の敵とも戦わないといけない。背後から脅しをかけている味方のことも無視できない。注意が分散し、右往左往して混乱しています。精神が錯乱状態に陥っているのです。両方の敵に囲まれて責められていると思うようになると、破れかぶれになり、自滅してしまいます。意欲的に行動しなさいと言われても、エネルギーが枯渇しているのでどうにもなりません。これは神経症と格闘している状況とよく似ていると思います。この場合は、観念の世界の自分が、現実でのたうち回っている自分に寄り添って、「大丈夫だよ。いつも近くにいて見守ってあげる。いざとなったら自分があなたを守り通してあげる。だから、防御することは考えないで、目の前のことに精一杯取り組んでください」と言って励ましてあげることが大切です。人間は欲求、欲望、課題、目的、目標、夢、希望を持って努力精進していくことが宿命づけられた生き物です。でもそれらが自分の思い通りにすんなりと達成されることはほとんどありません。困難な壁が必ず立ちはだかっています。その壁を見極めることが大切です。冬山登山では、天候が回復しないで、8合目まで登ってもう少しで登頂できるときでも、勇気ある撤退を余儀なくされることがあります。万が一にかけて、無理やり強行すると命を失う確率が高くなります。今までの努力や資金が無駄になっても、一旦は撤退することが大切になります。撤退して、態勢を立て直し、再度時期を変えて再チャレンジすることが大切になります。その時、天候を恨み、運のなさを嘆き、自分の能力や勇気を否定することは、百害あって一利なしです。チャンスはまたいつか来る。その時を待とう。そのチャンスが来なければ失意のうちにあきらめるしかない。でも努力精進した今までの生き方は、満足できるものであったし、これからの人生に活きてくるはずだと考えることです。これは森田理論でいう「努力即幸福」、プロセス第一の考え方です。相田さんの「つまづいたっていいじゃない」というのは、どんなにいたらない自分であっても、決して見放し、否定してはいけない。観念の世界から見下すようなことをやめて、現実の世界に降りて行き、付き添い見守る態度がいちばん大切ですよと言われているような気がします。
2021.12.03
コメント(0)
甘やかされた子供、無視され続けた子供は、困難な人生を歩むことになります。甘やかされた子供は、自己中心的になります。依存的になります。自分の犯したミスや失敗の責任を取ろうとしなくなります。家族や社会のルールや秩序には従わなくてもよいと思うようになります。我慢し耐えることができません。自立することが難しくなります。成功体験が少ないので自信が持てません。自己否定感が強くなります。興味や関心を失って、無気力になります。人生の問題や課題に対して、不安が先行し、解決のために挑戦することができなくなります。親から無視され続けた子供はどうでしょうか。親から十分な愛情を与えられることもなく、軽視され拒否され、極端な場合には、憎まれたり虐待されてきた人です。親を信頼できなくなるのです。他人は自分を守ってくれる存在ではなく、時には危害を加える存在だと認識するようになります。自分の身の安全を自分一人で守るしかないと思うようになります。他人と交わるよりも、他人から距離を置いて、自分の身の安全を確保することを優先するようになります。他人を愛することもなく、協力して何かを成し遂げることが難しくなります。「世の中は敵ばかりだ」と思うようになると、他人の動向ばかりが気になります。疑い深くなり、駆け引きばかりを考えるようになります。他人の役に立つことで信頼感を高めようなどとは考えなくなります。人ができないようなでかいことをして信頼感を高めようと考えるようになります。こうした生きづらさを抱えていると、親を憎むようになります。成長すると早く家を出て、親から離れて生きていく道を選ぶようになります。仮に伴侶を見つけて、やり直そうと思っても、この生き方が強固に身についてしまっているために、今度は配偶者や生まれてきた子供に対して同じように接するようになります。考えて見れば、自分の親も祖父母からそのように育てられてきた被害者なのです。その親を恨み続けることは、自ら墓穴を掘っているということになります。この生きづらさを何とかしたいと思っている人はどうすればよいのでしょうか。自己中心的で依存性が強いという傾向。自己否定感が付きまとうという現状。他人は自分を傷つける恐ろしい存在として立ちはだかっているという思い。これを何としても解消して、性格改造を行おう、認識の誤りを正そうという気持ちを捨てて、そういう人間であると認めて受け入れるようにするようにしたらどうでしょうか。そういう人間が怒涛渦巻く社会の中で生き抜いていこうとしているのだ。ハンディキャップを抱えながらも、人生を放り投げることもなく、懸命に生き抜こうとしている一人の人間がいる。とてもけなげでいとおしく見えてきませんか。そういう人間を総力を挙げて応援したくはありませんか。森田理論では、「かくあるべし」で自分のことを非難・否定しなくなり、現実を素直に受け入れることができるようになると、そこが逆転人生のスタート地点に切り替わるということを学びました。スタート地点に立つと、目線を一歩上にあげて、課題や目標が明確になるのです。生の欲望の発揮に向かって切り替えることができるようになります。さらに森田理論学習で知り合った仲間の応援を得て、困難を乗り越えていけることができるようになると、味わい深い人生の幕開けとなります。自分が自分の最大の味方になり、集談会で心の安全基地を見つけた人はなんとか人生の荒波を乗り越えていけるように思います。
2021.11.25
コメント(0)
全539件 (539件中 51-100件目)