全527件 (527件中 251-300件目)
自然科学者は事実でないもの事実として公表することは許されません。いったんは間違いのない事実だと確信しても、何回も実験を繰り返して検証する必要があります。そして間違いのない確証を得た段階で、論文を発表するのが建前です。以前STAP細胞問題が大きな社会問題となったことがあります。STAP細胞は、リンパ球を弱酸性の液体に25分間漬けるだけで、いろんな細胞に分化する万能細胞ができるというものです。これを理化学研究所のある研究員が世界的に有名な科学雑誌に発表したのです。もしこれが真実であるとすれば、人間の手でいろんな臓器が作れますので、難病などで苦しんでいる人たちにとってはとても朗報です。ところが後に、この研究内容は真っ赤な嘘であったことが判明しました。この研究員は社会から大きなバッシングを受けて、退職に追い込まれました。また、直属の上司を自殺に追い込こんでしまいました。私たちは森田理論学習で、事実を自分の都合のよいように、勝手に捏造してはならないと学びました。事実をねじ曲げると、自分自身が精神的に窮地に追い込まれます。最悪神経症に陥ります。また、周囲の人たちを巻き込んで不幸な状態に追い込みます。どんなに認めたくない事実であっても、事実に服従するという態度が森田理論が目指しているところです。こういう態度が求められているのは、私たち神経質者だけではありません。自然科学者の場合は、事実を軽視・ねつ造することなどは絶対にあってはならないことです。本来の自然科学者は、あっと思うような発見をした場合、自分の発見が本物かどうか、納得がいくまで検証し、そして間違いなく新発見であることを確信した時点で論文にして公表します。ところが、事実を軽視する科学者はそのような検証作業を丁寧には行ないません。次のように見切り発車して考えるのです。「これはすごいネタだ。これが世間に伝われば、私の評判も高まり、研究費もたくさんもらえる。うまく特許がとれたら、その収入もすごいことになるだろう。それが何より大切なことだ。そのためには、先を越されないよう、ともかく一刻も早く発表しなくては。それもできるだけ華やかに宣伝して、世間の注目を浴びるようにしなくては」などと発想するのです。(出家的人生のすすめ 佐々木閑 集英社新書 一部引用)つまり本来の科学の目的である真実を解明するという態度が希薄になっているのです。確たる事実の確認よりは、世間に注目されることの方が優先されているのです。こんな気持ちになれば、事実の検証作業には手を抜くことが多くなります。その結果、実際には新発見でも何でもないことを、偉大な業績として発表する、などという失態を犯すことになるのです。その原因は言うまでもなく、科学者としての自覚の欠如、もっと言えば、社会的な肩書きや地位や名誉のことばかりにとらわれているエセ科学者の研究態度です。我々神経質者は、この事例から事実の大切さを反面教師として学んでゆきたいものです。
2018.07.11
コメント(0)
お釈迦様が2500年前に始められた正統派の仏教を踏襲しているのは、タイやミャンマーの僧侶たちである。この人達の目的は、出家して、自分自身で人生のあらゆる困難、生老病死などを解決することである。人間とは何か、よりよく生きるとはどういうことか、生きがいとは何か、苦しみや悩みとは何かについて考え続けている人である。その目的達成のため、一途に修行に専念している。生きるための仕事は全くしていない。食べ物は全てお布施によってまかなう。その他生活必需品は他人に依存しているのである。タイやミャンマーの人たちは、お布施をすると回りまわって自分たちに返ってくるという考え方をする人が多いので、お布施をする習慣が根付いている。だから、たくさんの修行僧がいるのである。修行僧たちはサンガと呼ばれる共同体の中で生活をしている。サンガを末永く維持していくために、「律」という何百という規則が定められている。修行僧たちは、この規則を厳密に守る必要がある。この規則を守らなければ、サンガを永久追放されてしまうこともある。例えば、自分で食べ物を作ってはいけない。他の仕事をしてはいけない。結婚してはいけない。財産を持ってはいけない。嘘をついてはいけない。等々である。「自分が悟っていないということを知っていながら、悟ったと嘘をつく」ことは、サンガから永久追放されます。最も重い罪です。なぜこのことが重罪に当たるのでしょうか。在家の信者さん達は、立派な僧侶で、あればあるほど、よりいっそうのお布施をするようになります。もしそのお坊さんが悟りを開いた聖人だとすると、われもわれもと、みんなが競ってお布施をしますから、衣食住のすべてにわたって、膨大な量の物品が集まってきます。ですから、もしもインチキで欲張りな心を持った僧侶がいて、 「信者からたくさんお布施をもらいたい」と考えたなら、 1番手っ取り早い方法は、 「私は悟った」と言いふらすことです。それだけで山ほどの食べ物、飲み物、着物や、豪華な住まいが手に入るでしょう。しかし、その僧侶は本当は悟っていないのですから、それは明らかに詐欺です。嘘で人を騙して、多くの物品、財産をだまし取ったのですから、正真正銘の犯罪行為です。このように、サンガでは、出家者が社会に対して虚偽の成果を申告することで、利得を得ようとする事は厳しく諫められているのです。(出家的人生のすすめ 佐々木閑 集英社新書 165頁より要旨引用)このように考えれば、日本で起こったSTAP細胞問題、日大アメフト問題、日本レスリング協会の問題、森友問題・加計問題などはどう考えたらよいのでしょうか。お釈迦様の正統派仏教では、こういった事実を隠したりねじ曲げたりする行為は重罪になることは明白です。仏教なら出家世界からの永久追放になるのですから、これらは科学の世界、教育の世界、政治の世界から永久追放になることでしょう。それらを許せば、お布施を基本にした僧侶の修行は成り立たなくなるのです。科学の世界、教育の世界、政治の世界でそのようなことを許せば、不正な自己利得を求めて、利権がらみ腐敗まみれになって国民の信頼感を失ってしまうのです。嘘をついて信頼を失った科学、教育、政治の世界がどういう行く末をたどっていくのか明白であります。証拠がなければ何とでも言い逃れがができると考えるのはいかがなものでしょうか。またほとぼりが冷めるのを待つという態度には嫌悪感さえ覚えます。人間はこんなにも愚かな面があるのでしょうか。我々森田理論学習をしている者にとって、事実を隠さない、事実をねじまげないことは大変に重要なことです。どんなにイヤなものであっても、どんなに理不尽な事実であっても事実をありのままに認めていくことは森田理論の根幹にかかわります。これらの事例から、反面教師として学んで、事実に対する自分の立ち位置をしっかりとしたいものです。
2018.07.10
コメント(0)
豊臣秀吉は駆け出しの頃、木下藤吉郎と呼ばれていた。木下藤吉郎は織田軍団の家老たちから徹底的に嫌われ、あらゆる嫌がらせを受けていた。木下藤吉郎はいじめられるために生まれてきたような人間で、尾張中村の田舎から出てきた成り上がり者であった。出目といい、猿のような容姿といい、いじめられる条件は揃っていた。しかし、木下藤吉郎は、卑屈なることなく、前田利家、丹羽長政などと親しくなった。柴田勝家や佐々成政などとは犬猿の仲であったが、総帥である織田信長には可愛がられた。その組織の長に可愛がられていたため、柴田勝家は苦々しく思いながらも、秀吉を認めざるをえなくなったという。学校で言えば、最初はみんなから嫌われ者であったにもかかわらず、リーダー的存在にのし上がっていった人である。普通、そのような状態になれば、友達が恐ろしくなり、あるいは自己嫌悪に陥って、不登校や引きこもりになる人が多い。それでは、秀吉はなぜそのようにならなかったのか。子供のイジメによくあるのが、身体や顔などの特徴をとらえて、揶揄をすることだ。秀吉の場合は「猿」である。これは秀吉も相当気にしていた。しかも百姓の出である。武将からしてみると百姓は1人前の人間ではない。むしろ動物に近いわけです。だから、そこから出てきて、しかも顔が猿に似ているというのは、武家社会では大変なハンディである。それは悔しいけれども仕方がなかった。しかしここからが我々と違うところだ。秀吉はそれを逆に取って、 「猿」と言って可愛がられよう、愛嬌を作ろうと考えた。そして、なんと自分で自分のことを「猿」というのである。 信長に「この猿めにお任せあれ」と言うようになる。普通は周りのものから顔のことを取り上げられて、軽蔑されたりからかわれたりすると、 「わしは猿じゃない。れっきとした人間だ」などと反発するのではないだろうか。秀吉は自己否定し、卑屈になっていると言うよりも、よい意味で開き直っているのではないだろうか。事実を見つめ、事実を認めていると言った方がよいかもしれない。事実を隠したり、捻じ曲げようとしていない。ありのままに公開しているのである。私の中学時代の経験であるが、テストで悪い点をとると、その答案用紙はすぐに机の中やカバンの中に隠していた。ある友人は、悪い点を取った時に限って、その答案用紙を級友たちに面白おかしく見せていた。級友たちはとても喜んで、「どうしてこんな所を間違ったのか。ばかだなあ」などとはやし立てる。そのうちその答案用紙は多くの級友たちにたらい回しされていた。その友人は、それを取り返そうともせず、されるがままにされていた。その友人は高校を卒業してある大手企業に就職した。同窓会で会って近況を聞いてみると、なんとその会社で部長職にあるという。大勢の部下がいるという。これには同窓会に参加していた人の度肝を抜いた。あの成績の悪かった友人が、今では級友たちを押しのけて1番出世していたのである。私はこの友人は、根回し、仲間づくりや対人折衝能力の賜物ではないかと感じた。その中でも、自分の不利な事実でも隠したりねじ曲げたりすることなく、事実のままに公開するという姿勢が良い結果を招いたのではないかと確信した。
2018.07.07
コメント(0)
今日は神経症克服のために、4つ目の「現実や事実の受容手法」の説明をしてみたい。森田理論で言えば「事実唯真」の話である。事実唯真の反対は、 「かくあるべし」という理想主義的考え方のことをいう。「かくあるべし」的考え方は、理想とかけ離れた事実を隠したり、ねじ曲げたりする。そのことが、自分や自分の所属する組織を不安定にする。また事実をごまかしていると、自分の思いとは反対に周りの人から信用されなくなってしまう。葛藤や苦悩を抱え、ますます生きづらくなってくる。このことを森田理論では「思想の矛盾」というのである。最近社会問題となっている日大アメフト部の問題や政府がもみ消しに躍起になっている森友問題、加計問題などを見ていると、そのことがよくわかる。私たちはこれらに学び、基本的には現実や事実を隠すことなくありのままに認めて行きたいものである。これらは森田理論学習を深耕することによって、能力として身に付けることができます。まずはっきりさせておきたいことは、事実にはどんなものがあるかということである。事実は次の4つに分けて考えると、わかりやすくなると思います。 1 、自然にわき起こってくる感情がある。これは雨が降ったり、地震が起きたりする自然現象と同じです。私たちに意思の自由はありません。ですから、裏を返せばどんなに嫌な感情であっても責任を取る必要はありません。2 、自分の容姿、性格、素質、能力などがあります。また、自分の欠点、弱点、自分が引き起こしたミス、失敗、過失などがあります。これらは自分にないものを探すよりも、持っているものを活かしていくことが大切です。また隠したりしないで事実をありのままに開示することが大切です。3 、自分に対する他人の理不尽な仕打ちです。その事実に対しては、状況をよく把握することが大切です。他人の容姿、性格、素質、能力、欠点、弱点、ミス、失敗、過失などについては、安易に批判しないで、その事実を正確に把握するにとどめることが大切です。4 、台風、地震、火山活動などの自然災害、経済的な危機、紛争、伝染病の蔓延などです。できるだけの事前の準備をしておく事は大切ですが、どうにもならないことは、最終的には受け入れていくしか手の打ちようがありません。それでは次に、事実本位の生活を維持するために大切なことを説明します。1 、事実を自分の感情を入れないでよく観察するということです。我々は自分の周りに起こった出来事を、よく観察もしないで、今までの経験をもとにして、先入観を持って決めつけてしまいがちです。それに基づいて行動を起こすので、とんでもない間違いを起こしてしまうのです。完全に事実を把握することはできませんが、できるだけ事実に近づこうとする態度が大切なのです。2 、私たち人間は都合の悪い事実を隠しがちです。事実を公表するのを遅らせる。ありもしない事実を捏造したりします。これらは自分と自分の所属する組織を守ろうとしているのですが、結果は周りの人からますます非難されたり軽蔑されるようになります。事実を受け入れるという姿勢を身に着けることが大切です。事実は、なるべく早く公開する。具体的に話をする。包み隠さず赤裸々に話をすることが大切です。事実の公開を遅らせる。抽象的な話をする。言い訳をする。ごまかす。責任転嫁をする。などということはご法度です。3 、起きてしまった事実について、自分勝手な是非善悪の価値判断をしない。価値判断は、時間とともに変わっていくものですし、 10人の人がいれば10人の価値判断があります。価値判断は絶対というものではありません。あやふやなものなのです。自分の価値判断に固執して、自分や他人に押し付けることは百害あって一利なしです。自分の価値判断に基づいて、相手を説教、批判、禁止、叱責、怒り、指示、命令していると、人間関係は悪化してきます。起きてしまった事実の原因究明をすることが、まず先に来なければなりません。4 、森田理論学習では、事実本位の生活をするために、「純な心」「私メッセージ」の活用をオススメしています。「純な心」は、自分の最初にわき起こった感情を思い出して、生活の中で応用していくことです。最初に沸き起こる感情は、すぐに「かくあるべし」を含んだ感情で塗り換えられてしまいますので、意識して取り組まないと、自分のものにはなりません。獲得のためにはグループ学習が効果的です。「純な心」の体得のための具体例は、何度もこのブログで紹介して行いますのでご覧ください。「私メッセージ」は、他人と話をする時、「あなたは・・・」から始めるのではなく、「私は・ ・ ・と思う」「私には・ ・ ・こう感じられた」と言うように、私を主語にして話す習慣を作り上げることです。この能力が獲得できれば、事実本位の生活態度に近づいてきます。
2018.07.04
コメント(0)
今年の3月27日、大阪府堺市で姉が弟を殺したのではないかという事件が起きた。弟で、建設会社社長の足立聖光さん(40歳)が、実家のトイレ内で、練炭を使った一酸化炭素中毒で死亡した。ドアの隙間は接着剤で埋められていた。遺書もあり、大阪府警は当初、自殺の可能性が高いとして、現場検証は行わなかった。足立さんの妻は、納得ができないとして司法解剖を要求した。結局、事件性はないとして司法解剖は行われなかったが、内臓の一部分を医師が保管していた。その後、納得ができない妻の強い要求により、保存していた内臓が調べられた。すると、なんと胃の中から姉の朱美容疑者が常時服用していた睡眠薬が検出された。弟の聖光さんはこれまでまったく睡眠薬は服用していなかったという。この事実が分かった時点で、朱美容疑者はかなり動揺したはずだ。大阪府警は、一転してこれは自殺ではなく、殺人事件に切り替えて調査に乗り出した。殺人事件として捜査を始めると、改めてさまざまな不思議な事実が明らかになった。練炭自殺をしたのに、トイレの中にライターなどの着火剤がない。自殺をほのめかした遺書には、姉に対する日頃の懺悔の気持ちが書かれていた。この文章はパソコンで作成されていたが、普段聖光氏は、パソコンは使わない人だった。これは、朱美容疑者のパソコンで作成されたものということがわかった。また朱美容疑者は、練炭自殺について、スマホでキーワード検索していたことが分かった。さらに、近所に聖光さんの関係者やフリーライターの名前で書かれた怪文書がバラ撒かれた。この文章は、兄弟仲がよかったことをうたい、朱美容疑者が犯人ではないということを、ことさら強調する内容であった。しかし、この怪文書も朱美容疑者の実家で作成されていた。さらに怪文書が撒かれていた時間帯の防犯カメラに朱美容疑者の車が写っていた。また、聖光さんが自殺されたとされる時間帯に、実の母親は朱美容疑者が飲ませたと言われる抹茶オレを飲んだ後、意識不明になっている。その他分かった事は、朱美容疑者が父親の後を継いで実家の水道工事会社の社長に収まった。聖光さんは別の建設会社を設立して社長になった。 2つの会社は同業種で競合関係にあった。ところが、最近は弟の会社が盛況になり、父の後を継いだ朱美容疑者のほうは仕事が減り、弟に仕事を回してもらうような状況になっていた。これらの事件の経過を追ってみると、一時はうまくごまかせるかに見えたが、結局は 朱美容疑者の思惑に反して、弟の死亡事件がすんなりと自殺として処理されなかった。これは姉にしてみればゆゆしきことである。このままでは自分が殺人犯にされてしまう。容疑をかけられた朱美さんは、推移を見守ることができず、自分を正当化するような手を次々と繰り出してきた。しかしそれらは事実をねじ曲げるものばかりであった。すぐにほころびが露呈した。嘘や言い訳はいつかどこかでつじつまが合わなくなってくるのだ。すると、それをごまかすために。またその場限りの嘘をついたり言い訳をせざるをえなくなる。それらは全く自分を擁護してくれるものではなく、自分への疑いを益々深める結果となるのだ。考えと事実がまるで反対になるのだ。森田では、このことを「思想の矛盾」という。逮捕された今となっては、マスコミの前に顔をさらして、自分を正当化した発言は何だったのか。事実を認めないで、事実を捏造する。事実をねじ曲げることがどんなに自分を苦しめ、世間の疑惑を招き、いかに好奇の目で見られるのかがよく分かる。私たちはこれを反面教師にして、どんなに隠したいことがあっても、絶対に事実には服従するという態度を貫きたいものだと思う。
2018.06.25
コメント(0)
水谷啓二先生のお話です。ある貿易会社の社長は長いこと不眠症に苦しんでいた。一見したところでは精悍なビジネスマンで、そんな悩みなど、ありそうもない人である。しかし、裏から見れば、やはり人間らしい人間であって、いろいろの苦悩もあるのである。医師に相談したところ、 「日本橋のような、騒音の激しいところに住んでいるのがいけない。事務所からかなり離れたところに住宅を作り、そこから通勤することにすれば、夜も眠れるだろう」という。なるほどと思って、大磯の松林の中に、 1,000坪くらいの宅地を買い入れ、そこに家を建てたのである。都会の窓から遠く離れた場所であるから、今度はぐっすり安眠できるだろうと思った。ところが、夜になると、松風の音がして、やっぱり眠れないのである。しゃくにさわって邸内の松の木を全部伐り倒してしまったが、邸外の松林は他人の所有物であるから、伐るわけにも行かない。船に乗ると、夜は安眠できるという話を聞いて、船を一艘買い求め、日曜日には必ずそれに乗ることにした。雨の降る日は傘をさして乗った。しかし、やっぱり眠れない。風呂に入ると血液の循環が良くなり、適度に疲れるから安眠できると聞いて、いつも風呂を沸き放しにしておいて、時々風呂に入るのだけれども、やっぱり眠れないのである。しまいには万策尽き果ててしまって、 「安眠のために身体が衰弱して、そのために死ぬようなことがあったも仕方がない」と観念したら治ってしまったとのことである。このように不眠は、なくそうとすればするほど、かえって強くなるのが、不安というものの、本来性である。だからわれわれは、それが起こる時は起こるががままにありながら、当面のやるべきことをやってゆくほかはない。そうするといつのまにか不安を意識しなくなるものである。 (あるがままに生きる 水谷啓二 白揚社 123ページより引用)不眠について森田先生は次のような実験をされている。不眠の人に、夜寝るとき、「今夜、自分で最も気持ちよく寝られる姿勢はどんなものであるか、臥位、足の位置、腕の置き所、枕と頭部との関係などを詳細に考えて、最も安楽に寝る工夫をしてみなさい 」と云いつけて実行させたところが、その夜は苦しくて全く安眠はできなかった。次に、その翌晩は、今度は、 「今夜は、はじめ、寝たままに、どんなに窮屈な気持ちの悪い寝方でも、そのまま忍耐して決して良い姿勢を選ぶことをしないで、夜通し眠らないでいる修業をしてみなさい」と云いつけてやらせた。翌朝、患者は喜びに満ちた顔つきで私のところに来て、昨夜は思わずぐっすりと眠って、初めてその気持ちが分かったと言って喜んだのである。つまり、患者の予期し思想することと、事実、すなわち、その主観的心境とは全く反対であるということがわかる。 (神経質の本態と療法 森田正馬 白揚社 141ページより引用)森田先生は、嫌な不快な感情を取り除こうとするのではなく、観念して不快な感情を持ちこたえ、不安との格闘を止めることが、神経症に陥らない方法であると述べられているのである。神経症は取り除こうとする限り100年経っても治らないが、不安を受け入れるという態度になればその日からたちまち治るのであるといわれている。不眠についても同じことである。
2018.06.21
コメント(0)
日本大学のアメフト部の悪質タックル問題は、、それ自体が嫌悪感をもたらすものである。しかしそれ以上に、国民を怒らせているのは、内田前監督やコーチ、大学の広報部や大学の経営陣が事実をありのままに認めようとしないことである。言い訳をすればするほど事実を隠蔽したり、ねじ曲げようとしているのではないかと思わせてしまう。事実をありのままに認めようとしない事は、他人にとってはとても腹立たしいことなのである。日大の問題は、詳細なビデオ映像が残されている。また、当該選手や他のアメフト部員の証言などもある。客観的な立場から見れば、事実はほぼ確定しているのであるから、その事実を認めようととしないことは自分たちの首を絞めるようなものである。森友問題では、総理の意向を忖度して、決済済みの公文書を偽造していたことが分かった。それ以前に、佐川前国税庁長官は公文書自体が廃棄されて存在しないと公言していた。これは大ウソだった。しかし、肝心の安倍総理側が、籠池氏の土地購入に際し、大幅な値引きのために便宜を図ったという確たる証拠はつかめなかった。加計問題では、安倍総理大臣と無二の親友である加計氏は、平成29年1月まで何回もゴルフや会食をしていたにもかかわらず、愛媛県今治市に開校した獣医学部新設については全く会話をしたことはないと公言している。常識的に考えて、無二の親友同士で、自分の仕事の近況について全く話さない関係というものがあるだろうか。そういう人のことを無二の親友だなどというのはおこがましい。愛媛県庁の職員が平成27年に東京に出張した際、安倍総理と加計氏が面会した話は、岡山理科大学の事務局長が捏造したということで幕引きを図ろうとしている。なにしろ証拠がないのだから、いかようにもごまかせると思っているのであろう。これが事実とすれば、安倍総理が加計氏に自分の立場を利用して、利益供与をしたことになるので絶対に認めることができないことである。だからのらりくらりとかわして事実を隠し通そうとしているのである。この状況は、薄いカーテンだと、夜部屋内から外のことはよく見えないが、外からは人の動きが手に取るようにわかるのと同じようなものだ。また上司は部下のことはよく分からないが、部下は上司のことはよく見えているのと同じことだ。どちらの場合も、事実を事実として認めないで隠そうと躍起になっている。証拠がないのでいくらでも言い訳ができると思っている。だが嘘を隠そうとすると、その嘘を正当化するためにさらに嘘をつかなければならなくなる。ご本人たちの心労はいかばかりかと察する。しかしもっと問題なのは、事実を隠くし通そうとすればするほど、それをテレビなどで見ている人にとってはとても見苦しい態度に見えてしまうのである。同情などする人はほとんどいないのではないか。自分たちはうまく事実をごまかして切り抜けてしまえば、そのうちほとぼりが冷めると思っているのだろう。しかし、国民にしてみれば、腹の中では嫌悪感でいっぱいなのである。証拠がなくて、そのまま忘れ去られるのではない。事実を隠すという態度が、体質的に相手のことをもう信用はできないと思ってしまうのである。ある優秀な営業マンが、 「得意先はコツコツと10個相手の役に立つことを積み重ねても、1個信頼を失うこと行なえば、今までの努力は無駄になる」と言っていた。事実を隠蔽すると言うことは、その1個の信頼を失う行為に当たるのである。私たち神経質者も、この人たちと同じように、ミスや失敗を犯してしまうと、すぐに事実を正直に公開してしまう事をためらう。特に証拠がない場合は、何とか責任逃れをしようとする。事実を隠す。ねじ曲げる。ミスや失敗を認めない。相手のせいにする。その他いろいろとやりくりする。最後に隠し通せなくなってやむなく認めてしまう。その時は自分の力では収拾できないほど大きな問題に発展している。そして自分の信頼はガタ落ちになる。以後、信用できない奴だとレッテルを貼られて、仕事がやりにくくなる。私たちは日大アメフト部や森友問題、加計問題に学ばなければならない。事実をありのままに認めず、隠したり、ねじ曲げたりすると、その後大変生きづらくなるのだという事実を反面教師として学ばなければならないのではなかろうか。そのせいで、あとから罪悪感や懺悔の気持ちで後悔することだけはやめたいものだ。
2018.06.03
コメント(0)
日本大学アメリカンフットボール部による悪質な反則行為がSNSによって拡散した。日大アメフト部、日本大学にとっては大変な不祥事である。テレビを見ていると、識者が大学側の危機管理が常識から逸脱していると言われていた。それでは常識とされている危機管理技術はどういうものか。・この場合は事実が映像によって重大な反則行為を犯しているということが誰の目にも明らかである。そういう場合、初期対応としては、すぐに自分たちの非を認めて誠意を持って謝罪するということが大切である。次に監督、コーチ、選手間でどういうことがあったのか包み隠さず状況説明をすることが大切である。これは1日か2日目で対応することが原則である。それを逃すと、問題はどんどん大きく膨らんでしまう。日大とアメフト部の対応を見ていると、 1週間ぐらいは放置していた。危機管理の常識から逸脱している。大学側は何もしないので、加害者である選手が謝罪と経緯について記者会見を開いた。これは事実をありのままに説明していたのでとても好感が持てた。すると次の日になってアメフト部の前監督とコーチが記者会見を開いた。これはこの場に及んでも、事実をありのままに説明することにはほど遠かった。見苦しい会見であった。言い訳ばかりで、事実の解明にはつながらなかった。これで火に油を注ぐような結果となった。この時点でもうすでに手遅れである。日大アメフト部は廃部に追い込まれるかもしれない。また、日大のイメージは大きく毀損され、今後の大学の運営は危機に立たされるかもしれない。・次に日本大学の対応を見ていると、日大広報部、加害選手本人、監督やコーチが矢面に立っていた。これは危機管理技術の基本から言うと逸脱していると言われていた。重大な不祥事が発覚した場合は、その組織の1番の責任者がマスコミの前に姿を現して謝罪することが不可欠である。日本大学で言えば大学の学長や理事長である。学長や理事長が誠意を持って事実を明らかにするとともに、謝罪することが欠かせない。組織を上げて取り組んでいない。日本大学の対応は間違っていた。・さらに内田正人前監督は、日本大学の人事権を持つ常務理事の役職にある。すでにアメフト部の監督は辞任したが、常務理事の仕事はアメフト部とは関係がないという。大学NO2としての職務は辞任するつもりは全くないようだ。今の時点では職務を一時停止して謹慎するという。あわよくば常務理事の役職に留まりたいようだ。危機管理技術では、不祥事を起こした責任者は辞任するのが常識であるという。 いつまでも職務にしがみつくことは、問題解決をさらに長期化させる。私はこれらの話を聞いて、自分の責任でミスや失敗をすることは多々発生する。それは仕事をしている人間である以上しかたがないと思う。ミスや失敗をした後の対応がその後の展開を大きく左右する。その時、明らかに自分に非がある場合は、すぐに謝罪し状況説明を丁寧にすることが大切である。なかなか受け入れがたいことではあるが、すぐにミスや失敗を事実のままに公開することが大切である。清水の舞台から飛び降りるようなつもりで、あるいはまな板の鯉のような覚悟を決めることが大事だ。決して嫌な事実から逃げては、後々のことを考えるとよくない。その際、言い訳、事実をねじ曲げる、事実を隠す、事実を捏造するなどはもってのほかである。その時は、周囲の人からパッシングを受けることであろう。でもそれは1時的なものだ。そうしなかった場合の弊害や精神的苦痛は、とてつもなく大きくなることを肝に命じておきたい。森田理論学習を続けている私たちは、事実の取り扱いについては特に誤らないようにしたいと思う。
2018.05.25
コメント(0)
森田理論の「事実本位」の大切さを考える2つの事件があった。1つは日大のアメリカンフットボールの悪質タックルの問題である。もう一つは「加計学園」問題の愛媛県提出の文章に対する安倍首相の答弁である。22日、日大の悪質タックルを行った宮川泰介選手が記者会見を行った。謝罪と事実をありのままに伝えるために、報道陣の前に名前と顔を公開した。この会見によって事件の一部始終が白日のものにさらされた。内田正人前監督や日大広報部が事実をねじ曲げようとしている中で、宮川選手の会見は非常に好感が持てた。また彼は事実を述べただけで、内田前監督や井上コーチを全く非難しなかった。宮川選手は事実を隠そうとする気持ちは全くなく、時系列で悪質タックルを行うに至った事実を淡々と説明した。これによると、悪質タックルは内田前監督と井上コーチの指示によるものだった。彼は試合で使ってもらいたい一心で、選択肢がなくなり、反則行為に及んだものだった。関西学院大学のクオーターバックを悪質タックルで怪我をさせれば、秋の試合に出られなくなることが狙いだったという。日大広報部は、内田前監督が 「相手を潰せ」と言ったのは、 「思い切って相手にタックルをしてこい」と言う意味で、相手に大怪我をさせてこいと言う意味ではないと言っている。しかし、その後の内田前監督やコーチの発言や対応を見ていると、そうではないことがはっきりとわかった。内田前監督はすぐに辞意を表明したが、事実をマスコミの前で明らかにすることはしなかった。そのふてぶてしい態度に多くの人が憤りを感じた。でも宮川泰介選手の勇気ある行動によって事実はほぼ明らかになった。これを見ていると、嫌な事実は隠したりねじ曲げたりする人が多いが、事実はすぐに素直に認めてしまう方がどんなにか精神的に楽になるのかということがよく分かる。「加計学園問題」に対する安倍首相や柳瀬元首相秘書官の答弁はいかがなものであろうか。安倍首相はこれまで29年1月になって初めて、加計学園が獣医学部新設に名乗りを上げていること知ったと答弁していた。それまでは加計孝太郎理事長と獣医学部新設の話をしたことはなかったと答弁していた。ところが、このたび愛媛県提出の文章によると、 27年2月25日安倍首相と加計孝太郎理事長が面会したことになっている。その時、加計孝太郎理事長の説明を聞いた安倍首相は、 「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」と答えていたと言う。この文章に対して、安倍首相は2月25日に加計孝太郎理事長に面会した記録はないという。愛媛県の文章にある事実を完全否定した。でも愛媛県庁の職員が東京への出張記録を改ざんすることがあるだろうか。誰が考えてもそのようなねつ造があるとは思えない。もし面会していたとすると、 29年1月になって無二の親友である加計孝太郎理事長が愛媛県今治市に獣医学部を申請することを始めて知ったという答弁はもろくも崩れてしまう。なんとしてものらりくらりと野党の追及を交わして乗り越えようとしている姿勢がみえみえである。しかし、政治家になる前からの親友である加計氏とはゴルフや会食を何度もしているのである。そんな付き合いのある友人から、獣医学部申請の話が全く出なかったということの方が不思議である。大多数の国民は安倍首相が言い訳をしているという事はお見通しなのではないだろうか。 1回嘘をつくと、その嘘を正当化するために、また嘘をつかなければならなくなる。でも今の時点ではもう嘘をつき通すしか方法がない。それは精神的につらいことだろうと思う。もし最初の時点で、安倍首相が加計孝太郎理事長に便宜を図ったという事実を認めてしまえばどうであったろうか。確かに、安倍政権の運営に大打撃を与えたに違いない。いったんは退陣を余儀なくされるかもしれない。しかしもし仮に、政権運営に失敗したとしても、現在の政界では安倍首相ほどの人材はいないわけであるから、必ず復活していたように思われる。そうすれば、事実を捻じ曲げて、何度も苦虫をつぶしたような答弁をする必要はなくなる。政治家は嘘をつくのが仕事であると言う人がいるが、事実を隠蔽したりねじ曲げたりするとどこかでほころびが出てくる。うまくごまかしているように思っているかもしれないが、嘘をついているのは国民は分かっている。その証拠がないから静観しているだけなのだ。森田理論で言うように、事実は素直に包み隠さず認めてしまうのが最も適切な対応である。みんなに知られたくない事実であればあるほど早く白日のものにさらすこと望ましいといえる。
2018.05.24
コメント(0)
30年ぐらい前はガンの告知をしない場合があった。つまり、医師も家族もガンになったという事実を本人に知らせないのである。事実を隠し通そうとするといろんな面で弊害が出てくる。まず闘病上の問題である。ガンになったことを本人は知っていると、自分の意志で納得いく治療を選択できます。もし本人に病名を知らせないと、ガンの最高の治療が出来る病院に行きたくても、本人にガンの専門病院だとわかってしまうので連れていけない。また、つい忘れがちな飲まなければいけない薬があるにもかかわらず飲まない。検査もなかなか受けない。手術や特殊な治療もなかなか取り組もうとしない。その他、食事とか睡眠、運動など生活の中でしなければならない闘病に真剣に取り組まない。伊丹先生の経験では、ガンを知った人はタバコをすぐに止める。ガンを告知していない人は、いつまでも吸われる。タバコを吸うと、ガンに対しての免疫力が低下し、ガンの再発率が非常に高くなる。ガンを告知しないと、家族は言葉の端々で、本人に病名は知られてしまうのではないかと1日中ビクビクしている。家族のエネルギーの半分ぐらいは、 病名を隠すことに注がれてしまう。病名を知っていれば、家族が心を合わせ、自由に話し合って闘病に取り込めるので、家族のストレスも減ってくる。次に実生活上の問題である。病名をきちんとしていれば、もしもの場合に備えて、今すべき準備をすることができる。例えば、遺書を書いておくとか、仕事上の引き継ぎとか、遺産の分配とか、ローンや保険を整理しておく。身の回りの不要なものも処分しておくことができる。また、生きている間に、ぜひともやりたいことを実行するチャンスが得られる。ガンの告知をしないと、やりたいと思うことも退院してからでもよいと安易に考えて、うかうかと毎日を過ごしてしまう。そのうち病状はどんどん悪くなる。退院もできない。結局亡くなる間際になって後悔することになる。次に、本人の知る権利を奪ってしまうという問題である。自分の人生の中の最大の問題を本人に告知しないで済まされるのであろうか。事実を隠蔽してしまうことは許されることではない。最後に、身体的利益の棄損である。自分がガンに侵されていることを知ってショックを受ける面は確かにある。しかし反面ガンに冒されていることを知って、ガン克服のために懸命に頑張ろうと決意する人もいる。そのようなファイティング・スピリットでガンに立ち向かった人の生存率はかなり高まることが分かっている。さらにガンになったことによって、今までの生き方を考え直す契機にする人もいる。どちらに傾くかは本人次第であるが、生きがい療法や森田理論はその対応の仕方にヒントを与えている。(生きがい療法でガンに克つ 伊丹仁朗 講談社 49ページより要旨引用)
2018.05.16
コメント(0)
元プロ野球の古田敦也さんは、キャッチャーには旺盛な観察力が必要だと言われている。観察力のないキャッチャーには、キャッチャーという責任ある仕事は任せることができない。キャッチャーに必要な観察力は、 目に見えたものを客観的にしっかりと捉える能力、今、どういう状況なのか冷静に見極める能力といえるでしょう。この観察力がなければ、その先に必要な洞察力や、的確なサインを出す判断力を働かせようがなく、結果として相手を打ちとっていくということにつながりません。日ごろからバッターをよく見る癖をつけておくと、狙い球に限らず、細かいところの変化が見えてくるということがあるのです。それでは、キャッチャーはバッターのどのようなところを注意して見ているのでしょうか。まずはバットの変化です。グリップの大きさが変わっていたり、形や色が変わっていたり、長さが変わっていたりする。同じバットでも先々週まで長く持っていたのに、指1本短く持つようになったなどということもあります。その時点ではどういう心理でそのようにしているのかは分かりません。しかし、野球にはその後必ず結果が出ます。その結果を見ると、相手の目的や意志が分かるのです。バッターボックスでの立ち位置も見ています。ホームベースから離れて立っているとか、いつもよりキャッチャー寄りに立っているとか、軸足の位置が変わったとか、またバットを構えた時のヘッドの位置が違うなどといったことも観察しています。バッターを見るのは、バッターボックスに入ってからだけではありません。バッターボックスに入ってくるのがいつもより遅い選手がいます。これは経験則からいって、たいてい不調な選手です。1球ごとに打席をはずしたり、時間をかけたりするような選手も調子がよくないという場合が多いのです。キャッチャーはランナーの観察も欠かせません。特に1塁にランナーがでて、ピッチャーがセットポジションに入ったとき、ランナーがどのように体重をかけるかなどに注目しています。同じ選手と何度も対戦していると、その選手の走る時の癖のようなものが見えてきます。このように客観的な状況認識、よく観察するという力をつけない限り、現象の裏にある本質や洞察力にはつながっていかないのです。このような多岐な観測をして、相手選手を客観的に分析し、ピッチャーとキャッチャーが一体になって相手打者と勝負をしているのです。(古田式・ワンランク上のプロ野球観戦術 古田敦也 朝日新聞出版 112ページより引用)私たち森田理論学習をしているものは、 「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生き方を目指しています。その際、最初の出発点になるのは、事実をありのままに詳細に観察するということです。これは簡単なようですが、とても難しいことです。実際には、事実をよく観察しないで、今までの経験則などをもとにして先入観や決めつけで判断する事が多いのです。それを元にして、対策を立てたり、拙速な行動をとるものですから、見込みちがいが多々発生します。原点に帰って、目の前の出来事や事実を改めてよく観察するという態度になることが大切です。例えば、新聞に水滴が落ちたとき5歳位の子供は次のように言います。「新聞に水が一滴たれたら、小さな水の小山ができて、そこに写った字が大きくなった。だんだん水の小山が小さくなってきたら、今度は横に拡がっちゃった。そしたら裏の字も見えてきた」私たちも小さい頃はみんなこのように事実をよく観察して、先入観や決めつけをしないで、見たままを表現していたのです。いろいろな経験や体験を積み重ねるに従って、知識過剰になり、事実を軽視するようになっていったのです。それと反対に、 「かくあるべし」的思考態度が増大していったのです。その結果、思想の矛盾に苦しみ、葛藤や苦悩が生み出されてきたのです。これが神経症の発症の大きな原因となっているのです。この悪循環を断ち切るためには、まず事実をありのままに観察するということが重要です。次に観察した事実を、歪曲しないで、具体的に包み隠さず赤裸々に話すという態度を身につけることが大切になります。
2018.05.04
コメント(0)
森田全集第7巻の中に、森田先生が語った 「大震災時における流言飛語の心理」という話がある。315ページから342ページにわたっている。これは関東大震災直後、いかに流言飛語が民衆を右往左往させていたのか、事実の記載である。これを読むと、詳細な事実の記載は人の心を打つことがよくわかる。事実の記載と言えば、岸見勇美氏の次にあげる伝記も、圧倒的な調査に基づく事実の記載である。森田療法に関わったそれぞれの人の様々な生きざまは、我々にとって生きる勇気をもたらしてくれる。これらの本の制作に取り組まれた岸見氏の迫力に圧倒された。・森田正馬癒しの人生 春萌社 森田療法を確立された森田先生の伝記である。・高良武久森田療法完成への道 元就出版社 森田先生の後を引き継いで森田療法の理論化に生涯をささげられた高良先生の伝記である。・ ノイローゼをねじふせた男 ビジネス社 森田療法によって神経症を克服し、生活の発見会につながる啓心会を作られた水谷啓二先生の伝記である。・我らが魂の癒える場所 ビジネス社 生活の発見会の集談会を全国に定着させ、森田理論学習の普及に尽力された長谷川洋三氏の伝記である。・運命は切りひらくもの 文芸社 胃腸神経症を森田理論によって克服され、私財を投じてメンタルヘルス岡本記念財団を作られた元ニチイ副社長岡本常男氏の伝記である。その他、私が読んだ本で、事実に圧倒された本は次の4点である。・神経症の時代 、渡辺利夫 TBSブリタニカ この本は倉田百三、森田正馬、岩井寛先生のエピソードが満載である。この本は開高健賞を受賞している。事実に基づく、的確な分析力には、読む人を感動させる。・森田正馬が語る森田療法 岩田真理 白揚社 森田正馬の普段の生活のエピソードが満載である。・森田正馬評伝 野村章恒 白揚社 これほどの森田先生の伝記を詳細に書いた本はない。・キュリー夫人伝 白水社 波瀾万丈のキューリー夫人の一生を娘さんが詳細に紹介している。これらの本は、事実本位を目指す我々にとって大きな示唆を与えてくれている。気に入った本を読むことをお勧めしたい。
2018.04.01
コメント(0)
子供が無理なダダッ子をいって泣く時に、どうすれば、これをやめさせることができるかと、判断ができず、見込みが立たないで、迷いながら見つめていると、いつの間にか子供が泣きやむ。こちらで解決の出来ぬうちに、子どもの方で自然に解決がつき、泣く時に対する最も正しき手段も、自らわかってくるのである。教育のない親、さては教育のありすぎる母など、でたらめにほめたり、叱ったりする。子どもは決して思う通りにならない。あまり自分の考えどおりにしようとするから、少しも子供の心理を観察することができないのである。(森田全集第5巻 323ページより引用)この間、 5つになる女の子熱海に連れて行ったが、感冒で熱が38度あまりも出たことがある。機嫌が悪くて、いろいろ駄々っ子をいう。寝ていなくてはならないといっても、 「抱っこ」と言って泣く。抱っこしてやれば、今度は、 「外へ行く、外へ行く」という。熱があって気持ちが悪いから、風に当たればよかろうと、子供ながらに考えるのでしょう。考えてみると、大人もこんな風で、いくらも違わないようだ。少し分けのわかった母親は、子供の駄々っ子は、いい加減にあしらって静かに寝かせておくが、気の軽い親は別に深い思慮も何もなく、子供のねだるままに、なんでもその思い通りにしてやって、決して病のためにはよくない。(森田全集第5巻 459ページより引用)これは子供が不快な気持ちを、親の力を借りてなんとかすぐにスッキリと解消したいのである。これは子供だけに限らず大人にもある。森田理論では気分本位な行動と言っている。不安、恐怖、違和感、不快感などが沸き起こってきたとき、それらを短絡的に取り除こうとするやり方である。気分本位が習慣化されると、イヤな気持ちを持ちこたえることができなくなってしまう。気分本位な人は、刹那的、本能的な欲望を見境なく追い求めるようになる。またしんどいことや面倒なこと、努力することを簡単に放棄して逃げてしまう。そして後で暇を持て余して、罪悪感や自己否定で何とも言えない気持ちになる。そういう行動パターンが習慣になってしまうと、目の前の問題や課題に目を向けることがなくなる。本来は、どうすることもできない不安や恐怖はそのまま抱えて、 「生の欲望の発揮」に注意や意識を向けていくことが大切なのだが、気分本位の行動の習慣化によって、その道が閉ざされてしまうのである。さて、子供や自分の周りの人が、気分本位な態度を見せたときはどうするのか。森田先生は子供の場合は、いい加減にあしらっておけばよいと言われている。気分本位な態度に同調したり、慰めて励ましたりなどしてはいけないのである。大人でも、気分本位になり、朝起きや気の進まない行動を起こすことをためらうことがある。そういう時に、「気分本位はダメです」とかくあるべしを押し付けたくなる。それは一害あって一利なしだ。ぐっと我慢することである。ましてや相手の態度に同情してはならない。気分本位な相手の態度を見て、どうしたらよいだろうかと工夫し気を揉んで、見守っていればよい。そうすれば時間が経過すると、気分本位の感情が流れて、相手のほうが勝手に折り合いをつけて収まってくることが多い。営業などの仕事をやっている人は、人が見ていないからといって仕事をサボることがある。気分本位な仕事ぶりである。そういう人は営業成績が振るわない。上司からガミガミ言われて、本人も相当苦しんでいるが、サボるのが習慣になっているために、自分ではどうすることもできないのである。私の経験からいっても、サボるのが習慣になってしまうと、自分1人の力ではどうすることもできない。この場合、気分本位はよくないと言って、本人にこんこんと説教したりして改善を求めても、気分本位が習慣になっているので何ら効果が発揮できない。そういう時は、私の経験からすれば、同行営業に切り替えてあげることが大切である。そうすれば他人の目があるので、サボることができなくなる。つまり、気分本位の行動が是正されてくるのである。これは説教するのではなく、相手に寄り添って一緒に仕事をしているだけである。その方が会社にとっても、本人にとってもメリットが大きい。とにかく気分本位の行動は、生の欲望の発揮を蚊帳の外に置いて、自分や相手の将来を閉塞させてしまうという自覚を持って生活することが大切だと思う。神経症の人も、気分本位な行動を繰り返す自分自身に対して愛想をつかしている人もいるだろう。そういう人は、まず気分本位な行動が習慣化しているのだと自覚する必要がある。それはもはや自分の力だけでは修正不可能な状態に陥っているのである。そういう場合は、集談会に参加する先輩会員の力を借りて少しずつ修正していくことが大切だと思う。アドバイスや日記指導をしてもらい、早く気分本位の習慣から抜け出すことが大事である。とくかく自分一人で孤立してしまうと、いつも気分に流されて生きづらさが拡大してしまう。
2018.03.04
コメント(0)
管理会社が管理しているマンションには、受付のところに「お客様の声」というハガキが設置されている。お客様が気づいたことを自由に書いてもらっている。感動を受けるサービスを受けたとき、クレームの事案がある時、このハガキに書いて投函してもらっている。このハガキを見ると、苦情やクレームの内容のものが圧倒的に多い。ある時、こんな内容のハガキが本社に届いた。管理人を見かけた時、ふらふらしながら歩いていた。これはきっと勤務中に酒を飲んでいるのではないでしょうか。タバコは注意しても、吸っているようです。エレベーターの周辺にまでタバコのにおいがして気持ちが悪いです。特定の居住者の人と仲良くなり長話をしている。そんな暇があるのなら、もっと丁寧に清掃をしてほしい。埃が溜まっているのに何日も放置されているところがある。このような管理人に給料を支払いたくない。こういうハガキが届くと、管理会社としては、そのような不満を持っている居住者がいるということを受け入れる。もしそれが事実ならば、管理人に改善要求をする。あるいは配置換えなどを行う。そのためにはまずハガキの内容が事実かどうかを電話で管理人に確認をとる。居住者の言い分と管理人の言い分が一致しているのかどうか、現地に出向いて事実確認を行う。上記の例で言うと、この管理人さんは酒は全く飲めない人だった。またタバコは全く吸わない人であった。つまり酒を飲んでフラフラしているとかタバコの匂いが充満しているという話は嘘であった。特定の居住者と長話をしているというのは、以前この居住者の方との関係に当てはまる事象であった。他の居住者の人と5分以上にわたって世間話をするという事はないということだった。清掃に関しても、点検して歩いても、おおむね会社から指示されている清掃は無難にこなされていた。管理人によれば、 可燃物のゴミ出しの時に灰汁のようなものを何回か開放廊下に撒き散らされたので注意をしたことがある。それ以来、それを根に持って何かにつけてクレームをつけられるようになったという。その居住者の人と管理人の人間関係が悪くなっていたのである。ただ、それは管理人の言い分であり、それが全く事実通りであるかどうかは疑わしい。そこで、管理会社はどうするかというと、理事長や理事さんにこのクレームの内容を伝えて果たして事実はどうなのかと確認をとる。つまり客観的に第3者の目で公平に判定するのだ。この場合、この居住者の人はマンションの中の人間関係で孤立していることが分かった。消防点検や排水管清掃、大規模修繕工事、来客専用駐車場の使用、ゴミ出しなどで他の居住者と言い合いになることが多数発生していた。理事長さんや理事さんは、ハガキの内容は事実無根の内容が大半であり、管理人さんに大きな落ち度はないという事だった。従って解雇などの事案には当たらないということだった。これがもし、管理会社が居住者のクリームを真に受けて、管理人はけしからんと改善要求をしたらどうでしょうか。管理人は自分の立場を無視されて、居住者の肩をもっている管理会社に対して不信感を募らせたことでしょう。中には腹を立てて、管理人の仕事を辞めてしまう人がいるかもしれません。実はお客様のクレームに対して、それを間違いないものだと先入観で決めつけて、従業員を責めたてるという事はよくあることです。それでは、従業員はたまったものではありません。こういう場合は、居住者の言い分をそのまま受け入れるのではなく、従業員の言い分もよく聞いてみることです。森田理論で言うと両面観にあたります。そしてさらに客観的に第三者の判断を仰いでみることも必要です。第三者は比較的公平で冷静な目で事実を見ています。この場合、事実を見極めるためには、クレームをつけた居住者、管理人、理事長さんや理事さんの三者の意見を価値判断なしに聞いてみることが必要です。そうすれば、本当の事実に限りなく近づきます。対策を立てたり指導、勧告をしたりするのは、そのあとにすべきです。言葉で言ってしまえばその通りなのですが、事実を確かめる前に、先入観や決めつけによってすぐに対策に走ってしまう場合が後をたちません。事実を無視すると、すぐに人間関係が悪化してきます。事実誤認の上に立って対策を講じることは、時間や労力が無駄になります。森田でいう事実本位の立場に立つということは、ぜひとも身に付けたいものです。これは他人との場合ですが、自分自身に対しても、すぐに自分はダメだと自己否定してしまう人は、事実誤認をしているのではないでしょうか。もっと両面観を活用してに事実を見ることが大事です。
2018.01.02
コメント(0)
森田先生のお話です。死刑囚の者が懺悔するときに、申し合わせたように必ず、自分は、これまでかくかくの悪いことをしてきたが、世の中の人はこれを戒めにして、悪いことをしてはならないという。すなわち、自分ではできなかったが、人は都合よくするようにという。これは懺悔に似て、実は本当の懺悔ではないのであります。自分は悪いことをした。自分は悪人である。善人になることができない。人に善を勧めるなど、およびもつかぬ事であるとかいうことを自覚すれば、単にそれだけで懺悔になる。自分の因果・応報を見本にして、世の中の人に善をさせて、それでいくらか自分の罪を軽減して、安らかに往生しようというのが余計なことである。またある時、森田先生のところに入院していた女性の患者さんが、森田先生のところへ手紙をよこしたことがあった。その内容は、何かにつけて主人から虐待を受けているので、どうか主人に教訓して、改心させてもらいたいという依頼の手紙だった。弟子の古閑先生は、その人は入院してあれほどよくなったのに、主人がそれほどまでにいじめるのはひどいと思ったといわれた。森田先生は、それは古閑先生の判断の仕方が悪いと言われた。森田先生は、古閑先生は言葉の見かけに、騙されていると言われた。なるほど、その奥さんの言うことをうのみにすれば、全く理由もないのに、非常識の乱暴をするその主人はほとんど精神異常とみなければならない。でも少し考えてみると、奥さんは、一方的にご主人の悪い事ばかりを誇張している。自分の欠点・短所は少しもかえりみていない。また自分がどんな事をした時に、主人が悪口を吐いたかという事はほとんど書いてないのであります。すなわち、この奥さんは、少しも自己反省の力がなくて、いたずらに相手のみを嫉視・憤慨するもので、ヒステリー性・低能性のものと鑑定しなければならない。少しも自分の悪いところや欠点を内省・自覚することなく、周囲を悪意にばかり解するときには、相当に見識があり、経験のある眼を持った人でなければ、その文章に欺かるる事はやむをえないのであります。死刑囚者、その他の悪人が懺悔するように、奥さんは自分の恥ずかしいことも、すべてその不運の一生を赤裸々に、世の人に発表するのは、懺悔に似て、実は懺悔と大いにその趣を異にしている。すなわち、本人は、自分がその悪を自覚して、これを悔いあらためて、天国に生まれるとするのではなく、これと反対に、周囲の境遇を恨み、世の人を呪い、自分の悪を弁護し、強い自信を持って自分の善意を主張するものであって、宗教家が神に準ずると同様に、いわゆる主義に殉じ、すなわち死んでも我意・我執を張り通そうとするものである。(森田全集第5巻 180、 181ページより要旨引用)少し難しいところもあるので、私なりに分かりやすく解説してみたい。私たちは、他人に暴言を吐いたり、危害を加えたときに、自分のことは棚に上げて、相手のせいにすることがあります。自分は何も悪くない。その原因を作ったのは相手の方だと言って、他人を攻撃し、他人に責任転嫁をする。そしていろいろと弁解したり、自己擁護ばかりしている。森田先生はそういう態度は、出発点からして間違っていると言われているのです。ここは「かくあるべし」の弊害、思想の矛盾について説明されていると思います。ここは森田理論の根幹にかかわる部分なので、よく理解してほしいところだ。死刑囚の話は、もっともの様に見えるが、実は重い罪を犯した自分を上から下目線で眺めている。つまり自分の立ち位置というものが、事実、現実、現状にはないのだ。ではその人の立ち位置はどこにあるのか。現実とは程遠いい雲の上のようなところにあるのだ。そこから重い罪を犯した自分自身を見下ろしている。見下しているといったほうが分かりやすい。そのような態度は、罪を犯した自分を他人事のように眺めてしまう。罪を反省して、懺悔するという気持ちにはならないのだ。ともすれば、自分のような過酷な境遇に育ったものは、重い罪を犯したとしても仕方のないことなのだ、許されるのだと弁解したりする。そして私のような者を、見本にして私のような不幸な人生を送らないようにしてもらいたいなどという。これは本当は自分にはあまり落ち度がなかったかという自己擁護以外の何物でもない。事実を軽視するとこのような状態になるのである。主人に虐待されているという女性の場合もそうである。その人は雲の上のようなところに立ち位置をとっている。決して地上にいる自分に寄り添っているわけではない。かわいそうでみじめな自分を上から下目線で眺めているのである。他人事のようである。そして主人のこのような理不尽な仕打ちは決して許すことはできないと考えている。なんとか仕返しをしてやりたい。でも、自分の力ではどうすることもできない。そこで、昔世話になった森田先生に助け舟を出してもらおうと手紙を書いたのである。森田先生のすごいところは、その女性が現実にしっかりと根を張らずに、雲の上のようなところに立ち位置をとっていることをすぐに見抜いていることである。現実に立ち位置をとっているとすれば、自分がどういう言動をとったときに、主人が理不尽な対応をとったのか、具体的、赤裸々に手紙に書くはずである。そうなれば客観的な立場から、自己内省力も湧いてくる。自分の言動を振り返ってみることができる。私の態度で改善するところがあればぜひ教えてほしいということになる。事実を出発点にすれば、問題がどこにあって、どう改善していけば、夫婦の人間関係が良くなるかという方向性が見えてくるはずだ。上から下目線で主人のいうことなすことを批判したり、否定するばかりでは、結局は家庭内別居、離婚は避けられないものと思われる。
2017.12.30
コメント(2)
私のいう「森田理論全体像」の4番目の柱は、「事実本位・物事本位の態度を養成する」ということです。これについてはすでに何度も説明している。詳しく知りたい人はキーワード検索で見てほしい。その中身として、事実をよく観察する。事実は隠しだてをしないで具体的に話す。事実は裏表があるので、両面観で見るようにする。「かくあるべし」を少なくするために、「純な心」や「私メッセージ」「winwinの人間関係作り」を活用する。他人と比較して違いを確認することはよいが価値判断をしないこと。それぞれの存在価値を認めて高めていくこと。他人への共感、受容力をつけることなどを提案してきた。確かにそのような方向に切り替えないと、いつまでも「かくあるべし」という理想と現実のギャップに葛藤して苦しみ続ける。そのためには、さらに掘り下げて、「事実本位・物事本位の態度を養成する」という単元を学習する必要がある。その方向に向かうための、基本的な考え方をしっかりと持つことだ。1、完全主義、完璧主義をやめて、60%主義、ほどほど主義、中庸、バランス、調和の考えたかを理解して生活に活かす。なぜ完全主義、完璧主義はいけないのかということをしっかりと自覚すること。完全、完璧を目指すことは構わないが、そのことに固執しすぎると、逆に現実、現状、事実を否定することがダメなのである。2、他人へのコントロール欲求、つまり他人を自分の思い通りに操作したいという態度を改める。かけがえのない存在価値を持った人間として評価して、互いに尊重しながら生きていく。アドラーのいうタテの人間関係から、ヨコの人間関係を重視する生き方に変えていくこと。これは人間が自然に対する姿勢にしても同様である。自然をコントロールしすぎてはならない。最近の異常気象は地球の温暖化、無制限なCO2の排出の結果である。人間の欲望の暴走が異常気象の原因である。無制限な欲望の暴走は、人類の滅亡に結びつくことを認識すべきである。アメリカのトランプ大統領はパリ協定からの離脱を表明したが、将来の人類の目指すべき方向性からは逸脱していると思わざるを得ない。3、自分もかけがえのない存在価値を持った人間として再評価していく。森田でいう唯我独尊の立場を明確にする。自分の身体はすべて自分のものという考え方が主流である。私はこれに対して、自分の身体は神様からの預かりものであるという考えに立っている。いわばリース物件である。持てる特性や能力を思う存分に花開かせてあげないと次にはつながらないと考えている。4、結果よりもプロセスに重点を置いていく生き方。努力する過程が幸福であるという考え方に立つこと。森田でいう「努力即幸福」という考え方をしっかりと理解する。自分の取り組んでいることに、今一歩真剣になって、興味、気づき、発見という宝物を見つけるように努力する。それ以上に味わい深い人生を送る方法はないと考えている。以上の4つを「事実本位・物事本位の態度を養成する」というベースの考え方として、学習していくことを提案したい。
2017.12.09
コメント(0)
先日の森田療法学会で岩木久満子先生の外来森田療法の話があった。その中で、事実をどう捉えるかという話があった。事実には次の4つがある。・身体の事実・ ・ ・自分の容姿、病気になったという事実・心の事実・ ・ ・不安や恐怖がわき起こってきたという事実・人生の事実、世の中の事実・ ・ ・自分の生まれ育った境遇や自然災害などを受けるという事実・己のあり方の事実・ ・ ・不安にとらわれたり、 「かくあるべし」を自分や他人に押しつけているという事実。早口で説明されたので、内容説明は若干間違っているかもしれないが、事実というものを4つに分けて考えられているということに共感した。私たちは、森田理論学習の中で 「かくあるべし」を少なくして、事実本位・物事本位に生きていく生き方を学んでいる。しかし十把一絡げで事実というものをとらえていると、事実というものが漠然としたものになる。このように事実を分けて、今の事実はどれに当たるのだろうかと考えながら、学習していく方が効率的である。一般的に森田理論では、心の事実についてのみ語られていることが多い。不安、恐怖、不快感、違和感などである。感情の事実に偏っていると、他の事実については考えが及ばなくなってくる可能性がある。そうなれば、事実を正しくとらえて、対処しているとは言えないのではないかと思う。私は、 「森田理論全体像」の中で、事実を4つに分けて考えると、より正確に分析できると述べている。・自然に湧き上がってきた。不安や恐怖などの感情の事実・自分の素質、容姿、性格、能力、弱みや欠点、ミスや失敗などの事実・他人の自分への理不尽な仕打ち、他人の素質、容姿、性格、能力、弱みや欠点、ミスや失敗などの事実・自然災害、経済危機、紛争など世の中の理不尽な出来事。不安、恐怖、不快感、違和感にとらわれて、精神交互作用によって神経症として固着するということを森田理論学習で学んでいる。しかし、事実にはそれ以外にもたくさん考慮しなければならない事実がある。それらにとらわれて、 「かくあるべし」で事実を否定してはならないのである。嫌な事実に直面した場合は、この4つのうちのどれに該当するのだろうかと考えて、如何にすれば事実に服従できるのかと考えていくことが肝心である。森田理論では現実、現状、事実にしっかりと根を張り、そこから目線を少し上にあげて前進していく生活態度を養成することを目指している。そのためには、事実をより正確につかむということが大前提となる。そのために岩木先生の言われたことや、私の分析した事実についての分析を参考にしてほしい。
2017.12.06
コメント(0)
赤塚不二夫の天才バカボンの口癖は「これでいいのだ」です。私たちも「かくあるべし」で現実、現状を否定したくなった時、いろいろと考えずに「これでいいのだ」と口ずさんでみることです。口に出すことがはばかられれば、心の中で口ずさんでみることです。この言葉を口ずさむと、現実を批判しなくなります。とりあえず現実を認めて受け入れることになります。具体例をあげてみます。たとえば、さあこれから食事という時、妻が炊飯器のスイッチを入れ忘れていたとします。妻に向かって「もう、いつもお前はヘマばかりするんだから」と不平不満をぶっつけたくなったときに、「これでいいのだ」と言ってみるのです。口に出すのが恥ずかしかったら、心の中で呟いてみるのです。感情は怒りでいっぱいでも構いません。感情は自然現象ですから意思の自由はありません。しかし行動には意思の自由があります。腹を立てて喧嘩を始めるのも自由です。相手のことを思いやって我慢するのも自由です。でもどちらかというと、相手の失敗やミスを許してあげるほうがいいじゃありませんか。「それでいいのだ」という言葉は、険悪の雰囲気を一転和やかな雰囲気に変えます。そして次に、ご飯が炊きあがるまで何をしようかと考えはじめます。メールを打っておこうか、掃除をしておこうか、好きな音楽やビデオでも見ておこうか。空いた時間の有効活用を考えるようになります。これは不快な感情を目の敵にして、不快感を取り去ろうとして妻を叱責することからみると大きな違いです。次の例です。仕事でお客様からFAXで注文をもらって、それをパソコンで加工して工場に制作指示をする仕事をしているとします。パソコンで入力ミスをして誤発注をしてしまいました。お客様のところに注文とは違った商品が届きました。お客様は烈火のごとく怒り心頭です。上司、営業マン、同僚からも軽蔑したかのような目で見られています。自分も自己嫌悪に陥っています。そんな時、「これでいいのだ。命まで取られることはないのだ」という言葉を自分にかけてあげるのです。すると、事態は少しも変わらないにもかかわらず、少し救われたような気持ちになりませんか。このやり方のよいところは、ミスを隠したりごまかしたりしなくなることです。すぐにミスをあからさまに公表してしまえばしめたものです。あなたの勝ちです。当然少しの間は叱責や批判の矢面に立たされて、いたたまれない気持ちになることでしょう。でも長いスパンで考えると、そのほうが傷も浅くて済むし、不快な感情を速やかに流すことができるのです。そして、ミスを帳消にして、迅速に事後処理に専念できるようになります。その対応いかんでは、ミスのおかげでかえって信頼感が増す場合もあります。営業マンによってはわざとミスをして、得意先からの信頼を勝ち取る戦略をとっている人もいます。お客様もミスをしたことのない人は誰もいないわけですから、その後の対応スピードと誠意に感動をもらうことになるのです。さて、自分に対しても他人に対しても不平不満は山ほどあると思います。「これでいいのだ。自分は自分なのだ。あなたはあなたなのだ」は不平不満があるけれども、それを認めてあげますよ。決して責めたりしません。許してあげますよという魔法の言葉なのです。この言葉は「かくあるべし」の世界から発する言葉ではなく、現状、事実を認めて、受け入れる言葉なのです。事実を肯定する態度は森田理論学習で目指しているところです。みなさんもこの言葉をキーワードとして生活の中にとり入れてみませんか。
2017.11.30
コメント(0)
今月号の生活の発見誌の64ページに次のような記事があった。自分を縛っている価値観「かくあるべし」はたくさんありますが、今まではそれを治そうとしてきたように思います。今回、学習会(これはオンラインによる学習会のことです)が進んでいくうちに、 かくあるべしに気づいて自覚するだけにしておいた方がいいと分かりました。よいところに気づかれていると思います。今日はこのことについて私の考えを投稿してみたい。森田理論を学習しない人は、 「かくあるべし」が悩みや葛藤を産んで自分を苦しめているということが理解できません。それだけではありません。自分の周囲の人たちに「かくあるべし」を押し付けて苦しみを与えているのですが、そんな事は思いもしません。また、自然を人間の都合のよいように自由自在にコントロールしていますが、その弊害についても無頓着です。その結果逆に自然から手厳しいしっぺ返しをくらっています。原子力発電所から出る核廃棄物、地球の温暖化、オゾン層の破壊、巨大台風、森林破壊、酸性雨などの問題はそうではありませんか。「かくあるべし」という自己中心的な考え方、完全主義、完璧主義、理想主義、コントロール至上主義の考え方を、前面に押し出した結果、もはや抜き差しのならない迷路に迷い込んだようなものです。森田理論では「かくあるべし」という上から下目線ではなく、現実や現状、事実から、目線を少し上にあげて、努力精進するプロセスが、人間が本来の生き方であると言います。「かくあるべし」については、森田理論学習によって、その成り立ちや弊害をよく理解することが必要である。これは神経症で悩む私たちだけではなく、人間に生まれたもの全ての人が理解する必要がある。自覚が深まれば、たとえ「かくあるべし」が出てきても反省することができるようになる。「かくあるべし」の弊害がわかれば、次に取り組むべき課題は、 いかに「かくあるべし」を減らしていくかということである。そのために取り組むべき事は次のようなことである。・事実をよく観察する。事実こそ私たちが行動する出発点である。・事実を伝える時は、できるだけ具体的に話すようにする。推測、先入観、決めつけはやめる。・「純な心」を応用する。一言で言ってしまえば、 「かくあるべし」が出てくる前の感情、いわゆる直観とか初一念と言われている感情を重視する。 「かくあるべし」が出てくれば、 「ちょっと待て」と自分に言い聞かせて、最初に感じた感情を思い出すようにする。改めて 「純な心」に立ち返ることが大事なのである。・相手との対話では、 「私メッセージ」を活用する。「私」を主語にした会話を心がけるようにする。 「私は・ ・ ・と感じた」 「私はあなたが・ ・ ・してくれたら嬉しい」・相手と意見の対立があるときは、まず相手の言い分をよく聞く。そして自分の思いも十分に伝える。そして双方が納得できる妥協点を見つけていく努力をしていく。とりあえず私が勧めているのは、以上5点である。これを自分の生活の中に取り入れて実践するだけで、 「かくあるべし」は相当減ってくる。生まれてこの方ずっと「かくあるべし」的教育を受け続けてきているので、急激に変わる事は不可能である。これが私が森田理論学習は生涯学習であるという理由である。2歩前進1歩後退の様に行きつ戻りつしつつ、生活をしていくことが肝心である。「かくあるべし」が少なくなってきた状態は、葛藤や苦悩が急激にその勢力を弱め、自分にも折り合いがつけられるし、他人との人間関係、自然との向き合い方も全く違ったものとなる。
2017.11.26
コメント(0)
平成7年2月号の発見誌の記事を紹介します。三重野悌次郎さんの書かれたものです。ちなみに私は三重野さんからも多くのことを学んだ。三重野さんは大分県在住で生活の発見会に多大な貢献をされた方だが、すでに亡くなられている。圧巻は、自書「森田理論という人間学」である。一般意味論から展開される言葉(観念の世界)と事実の世界をこれほどわかりやすく説明されている本はないのではないかと思っている。いつも「事実唯真」を突き詰めて考えておられた。「神経症は治すことはできないが、治る方法がある」というのが三重野さんの口癖であった。三重野さんは、物事を事実に即して観察し具体的に話すことが大切であるといわれている。我々は自分の見聞きしたことを、あるがままに見て、あるがままに話していると信じている。だが事実は決してそうではない。たとえば、私はいつも失敗するという人に、では最近の失敗がいつ、どのようなことであったか」と聞くとたいていすぐに思いだせない。事実は、何日か何か月か前に一度仕事上の失敗があった。その前にもいつか失敗をしている。ということであって、その後は仕事の失敗も家庭での失敗もない。でも本人は「私はいつも失敗する」と信じているのである。これは一例であるがこのようなことはよくある。一般に「いつも」とか「みんな」とか、「絶対に」とかいうときは、ちょっと立ち止まって「果たしてそうか」と自問する必要がある。ある人は「みんな」の名人であった。「みんなそう言っている」というのが口癖だった。そこで誰が言ったのかと聞くと、親戚の女の人が一人言っただけで、それに自分も賛成だと、みんながいっていることになるのである。このような具体的でない話は、本人の気持ちが入っているということだと思う。つまり「かくあるべし」が含まれているのである。抽象的な話は森田理論で学習する事実本位の生活からどんどん離れていく。「かくあるべし」から事実本位の生活に転換するためには、最初から難しく考えないことだ。まずは事実をよく観察することに徹したほうがよい。先入観や憶測、決めつけは三重野さんの言われるように間違いの元である。森田先生は、幽霊屋敷と聞けば真夜中に実際に確かめに行かれて裏付けを取ろうとされている。こういう生活態度はぜひまねてみたいものである。次によく観察した後は、それを具体的に説明する癖をつけることだ。「まとめて言うと・・・」「要するに結論は・・・」などと途中経過を飛ばして話してはダメである。また具体例がなく、抽象的な話だけでは聞いている人は分かりにくく、そのうちうんざりしてくる。観念の世界から離れて、事実の世界から出発する基本は、事実確認を怠らないことと具体的に話すということである。それだけでも大きな変化のきっかけとなるものである。
2017.11.21
コメント(0)
普段、私たちがよく使う言葉で、次のような言葉があります。雑事、雑務、雑用、雑仕事、雑念、雑誌、雑役、雑種、雑草、雑魚。これら言葉にはあまりよいイメージはありません。とるに足らないもの、無視してもよいもの、放っておいても支障のないもの、たいして役に立たないもの、金にならないもの、あると却って迷惑なもの、わずらわしいもの、適当に処分していいものとして認識しているものの総称です。これらは人間が、自分、他人、物を勝手に是非善悪の価値評価をした結果生まれた言葉です。もともと自然界にはそんなものが存在しているわけではありません。観念の世界で作り出されたものです。人間にとって役に立つ利用価値があるかどうか、経済的にお金が儲かるかどうか、人から高い評価が得られるものかどうか。「交換価値」「利用価値」「経済的価値」「評価価値」でもって自分の身の回りのものすべてをよい悪いと選別した結果作り出された言葉です。例えば家庭の炊事、掃除、洗濯、整理整頓、育児のような仕事を「雑事」とみなして軽視し、自分はもっと意味のあることをするべきだ。クリエイティブで創造性のあることを手掛けたい。あるいは「雑事」は他人に任せて、趣味や旅行、グルメ三昧の生活に軸足を置いて生活を楽しみたい。「雑仕事」は、細かい伝票整理のような仕事です。伝票がたくさんあると確かに煩わしいものです。これらをいい加減に取り扱って、整理することを怠っていると、調べ物をするときにとてつもない時間を費やすことになります。「雑仕事」を軽く見る人は、余計な仕事をたくさん作りだす名人です。また「雑草」という言葉があります。本来自然界に「雑草」という植物はありません。人間にとって存在していては困るものとして認識されている植物群のことを言います。そこで除草剤を振りかけたり、雑草をビニール製の寒冷紗のようなもので覆って、邪魔者扱いしています。それでも雑草はへこたれず伸びてくるので、ついに人間が敵視するようになったのです。青森のリンゴ農家の木村さんは、夏に雑草を刈り取りません。周りの農家は訳もなく雑草を刈り取ります。除草剤や草刈り機で刈り取ります。木村さんは刈り取ると夏の地表温度が30度を超えてリンゴの木の根がやられるといいます。根がやられないためにみんな水の散布をおこないます。木村さんに言わせればしなくてもよい仕事です。木村さんはいろんな植物を生やしたままにしているので、地表温度は20度台の前半です。水やりは必要ありません。またマメ科の植物は窒素を固定してくれるので肥料もやる必要もないのです。木村さんのリンゴ栽培では「雑草」というものはないのです。これこそ植物の「存在価値」を見つけ出して活用しているという例です。「雑魚」という魚は、鯛やヒラメ、マグロやハマチ、フグ、金目鯛などの高級魚と比べると見向きもされません。小さな魚やイワシやボラのような魚です。広島では瀬戸内海でとれた小イワシの刺身は人気がありますが、一般的には出汁をとったり、畑の肥やしにしています。それはまだいい方で、網にかかっても、経済的価値がないので、面倒な魚として、そのまま捨てられてしまいます。森田では雑事、雑用、雑仕事、雑草、雑魚などといった考え方はしません。すべての生き物には「存在価値」があるという立場に立っています。森田では人間の都合によって、安易に是非善悪の価値評価をしてはならないといいます。それぞれの「存在価値」を見つけ出して、最後の最後まで活かしてゆきましょうという考え方です。森田理論全体像の中で考えてみても、この段階は森田が目指している最終段階といえるでしょう。森田先生曰く。「善し悪しとか苦楽という事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきっていくことができれば、それが大学卒業程度のものでもあろうか。「善悪不離・苦楽共存」というのもこのことである」(森田全集第5巻 653ページより引用)森田先生が言われている大学卒業程度の段階という言葉はとても奥が深いように思います。神経症が治るという2番目に「思想の矛盾の打破」というのがあります。ちなみに1番目は「精神交互作用の打破」です。「思想の矛盾の打破」とは、「かくあるべし」に重きを置いた世界から離れて、事実、現実、現状を出発点にする生き方に転換できたときに身につくものです。この段階が実現できた段階では、神経症が治るだけではなく、神経質者としての本来の生き方を体得し、味わい深い人生を歩み始めた人の姿といえるでしょう。ここまでは森田理論学習に取り組んでいる我々が目指すべき確かな目標となります。森田先生は、その上に是非善悪という価値判断をやめて自然と一体となった究極の生き方があるといわれているのです。価値判断をやめればすべてのものには存在価値がある。生きとし生けるものは、意味もなくこの世に存在しているということは考えられない。自分も他者も、動物も植物も地球上に存在するものすべてに存在価値はある。それぞれが持つ存在価値を見つけ出して、思う存分最後の最後までその価値を実現していこうではありませんかと提案されているように思えてならないのです。森田ではむしろ「雑」をつけて呼ばれているものこそ、大切な宝物として取り扱う必要があるといっているのです。そういう考え方に思いを馳せれば、雑事、雑務、雑用、雑仕事、雑念、雑誌、雑役、雑種、雑草、雑魚という言葉は死語になってしまう。
2017.11.20
コメント(0)
森田先生の入院森田療法を受けられた早川章治さんの言葉である。「事実唯真」は、最も多く揮毫された先生の言葉と思われるが、科学者としての森田先生の物の見方、考え方、言動などのすべての生まれる根源を示している言葉のように感じられる。この言葉の本当の意味は、日常の生活体験を通じて理解されるようになれば、すなわち森田神経質のいわゆる全治であると言えるかもしれない。晴れた日はさわやかであり、雨が降ればうっとうしい。桜の花は美しく、毛虫はいやらしい腹がすくとひもじく、美人の前では恥ずかしい、これを「柳は緑、花は紅」という。森田先生はこんな調子で話をされた。そのあるがままであることが大切である、と言われる。こんな時、患者の誰かが、先生、それではあるがままにしていればよいのですね、と念を押すと、それを僕に問うてはいけない。そうですか、なるほど、と頷けばよろしい。このリンゴは赤い、と僕は事実を言っている。これに対して、先生、それでは赤いものはリンゴですね、と言ったら、誤りである。赤いものといえば、トマトも赤いし柿も赤い。この辺の意味が、入院患者にはなかなか理解が難しいようであった。神経質の症状は病的異常のものではないから、治すに及ばない。そのあるがままであることが大事だと先生は教えられるのだが、患者は症状を治そうと焦るために、あるがままになろうとするわけである。「かくあるべしという、なお虚偽たり。あるがままにある、すなわち真実なり」と言うのも森田先生の有名な言葉である。(形外先生言行録 189ページより引用)森田先生は現実、現状、事実に立脚した生活態度を身につけることを、ことのほか重要視されている。その反対は、 「かくあるべし」を前面に押し出した生活態度のことを言う。なぜ「かくあるべし」という生活態度が身についてしまったのか。これについて森田先生は、 「教育の弊は、人をして実際を離れて徒に空論家たらしむるにあり」と言われている。これは森田全集第5巻の最初に出てくる言葉である。生まれてきてからずっと、 「かくあるべし」教育を受け続けてきたと言われるのである。人間は「かくあるべし」で骨の髄までがんじがらめに縛り上げられているという事を憂慮されている言葉である。人間は、言葉という便利なものを作り出した。そのおかげで、過去のことや未来のこと、抽象的なこと、複雑なことなどを自由自在思考するようになった。そのおかげで人間は今日の高度な文明を築き上げることができたともいえる。しかし、その半面で、それにあぐらをかいて、現実、現状、事実を軽く取り扱い、頭で考えたこととそれらが矛盾する場合、頭で考えたことを優先するようになった。それが、人間が葛藤や苦悩を抱えるもとになった。人間の不幸の始まりとなった。森田先生は、頭で考えたことを最優先するような生活態度は間違いである。どんなに問題があり、頼りなげであっても、現実、現状、事実にどっしりと根を下ろして、常にそこから出発するという生活態度に立ち戻る必要があると言われている。「事実こそが真実であり、人間が生きていく上での出発点とすべきである」という森田先生の考え方は、けだし名言である。これが森田理論の核心部分の考え方であり、 1人でも多くの神経質者がその生き方を身に付けることが肝心である。早川さんの言われるように、この部分が身につかないと、本当の意味で神経症は治らない。逆に言うと、この部分が真の意味で理解できるようになると、その人は神経症が治るだけではなく、その後葛藤や苦しみが激減して素晴らしい人生が待っている。
2017.11.12
コメント(0)
私たちは森田理論学習によって、不安、恐怖、不快感、違和感などは「あるがまま」に受け入れるのが一番よいと学びました。「あるがまま」とは、それらを取り除くためにやりくりをするのではない。すぐに逃げ出すのでもない。基本的にはその存在の認めて受け入れるということだ。そして不安などには手をつけないで、目の前の仕事や日常生活のほうに目を向けていく。そうすれば、時間の経過とともに不安などはどんどん変化して小さくなり、最後には消失してしまう。このことを、不安常住、不安共存の生活態度といいます。これは耳がたこができるほど学習されていることと思う。それではこれから取り上げることについてはどうだろうか。自分の容姿、性格、特徴、才能や能力、成績や実績、家柄や資産、自分の境遇、親や兄弟、子供、自分の周囲にいる人たちなどについては、あるがままに認めて受け入れているだろうか。例えば、容姿について言えば顔にほくろがある。シミやシワがある。白髪がある。円形脱毛症になっている。だんご鼻である。唇がタラコ唇である。背が低い。太っている。イケメンでない。不美人である。などにとらわれて、整形美容にかかる、整形手術をする、白髪染めをする、カツラをあつらえる、シークレットブーツを履く、無理なダイエットに励むような事はないだろうか。もし大なり小なり、そういうことがあるとすると、自分の存在自体をあるがままに受け入れるということができていないということではなかろうか。自分がコンプレックスに感じている部分を手術によって修正する。あるいは他人様の目に触れないように隠してしまう。これらは自分の不安などの感情を自由自在にやりくりしようとするのと、なんら変わりがないのではなかろうか。神経症の原因となっている不安だけをことさら取り上げて、それだけを、あるがままに受け入れるなどとという器用な事はどだい出来ないと思うのです。これらは同時進行であるがままの態度を身につける必要があるように思われます。自分自身の現状や存在が認められない原因は何なんでしょうか。最大の原因は、この世に生まれてからずっと「かくあるべし」的教育を受けていることにあります。「かくあるべし」的教育を受け続けていると、自分の生活態度も「かくあるべし」 に支配されてしまいます。例えば、コンクリートの割れ目に野草が生えています。「わあ、あの花きれいだね」というと、親が「バカだね、あれは雑草じゃないの。あなたは見る目がないね。あんな花を採ってはダメよ」「この服が気にいった。この服にする」 すると親が「お前はセンスがないね。それよりはこっちの方がよっぽどいいよ。こっちのほうにしなさいよ」と親の考えを子供に押し付ける。「お父さんあの犬が恐ろしいよ」 「どうしてあんな小さな犬が恐ろしいのだ。お前は臆病者か。思い切って犬の側に行って頭を撫でてみなさい」などと子供の感情を否定する。このような調子で育てられていると、自分が自由に、好きとか嫌いとか感じて、ストレートに表現する事はよくないと思うようになります。そのうち、自分の感情とは無関係に、お母さんが喜びそうな花を見て、 「お母さん、あの花は綺麗だね」と言いだします。母親が、 「そうだね」と同意してくれような発言を選ぶようになるのです。こうしていつの間にか自分の感情を横において、親が喜びそうな感情を先読みするようになります。自分の感情が親の感情とすり変わってきます。目の前にいる小さな犬であっても、子供にとっては恐ろしいのです。それなのにそんな素直な感情を無視して、「僕あんな犬なんか全然怖くなんかないよ。全然平気だよ」と心にもないことを言いだしたら末恐ろしいことです。子供たちはこうして次第に自分の感情を見失っていくのです。親の感じ方、価値観を子供に押し付けつけていく親は、こうして子供が感じる本来の感情を奪っていくのです。それが成長した子どもたちに、生きづらさを抱えさせることになるのです。自分自身の感情を奪われた子供は、自分自身を見失い、自分が不確かになり、自分を信頼できなくなります。自分の自然な感情よりも、その感情が親や他人に受け入れられるものであるとどうかばかりを気にするようになるのです。自分の言動が相手に承認されるかどうかばかり気にするような人間に成長していくのです。自分の気持ちを素直に表現できないということは、自分の人生を自由に生きていないということになります。自分を否定して抑圧して生きていくことは、人間本来の生き方ではありません。無理やりそうした生き方をすることはとても苦しいことです。何のために自分は生まれてきたのか。苦しむために生きているのか。とてもむなしい気持ちになります。人生を楽しむなどということは夢のまた夢になります。こうして親の価値観、さらには世の中の価値観に翻弄されて、自分自身の存在価値を見失って、自分自身の人格を否定していくようになるのです。とても残念なことです。「かくあるべし」的思考を小さくしていく方法は、森田理論が得意とするところです。森田理論学習を深めるとともに、実践によって自分のものにしていただきたいと考えています。森田理論はきちんと理論化されていますので、学習と実践によってものにすることができます。
2017.10.27
コメント(0)
神経症が治るということは、自分の悩みから脱するだけではなく、同じ悩みに悩む人に共感でき、その人たちが悩みから脱するために「手を差し伸べられる」ようになることである。森田先生も、神経症は治った後は、神経症で苦しんでいる人たちのために、 「犠牲心を発揮しなければならない」と言われている。集談会では適切に運営するために様々な役割分担がある。自分でできる範囲内の役割を引き受け、みんなのために役に立つ行動をとる事は神経症の克服に役立つ。また、集談会に出席して神経症で苦しんでいる人たちの話をよく聞いてあげることもとても大切なことである。さらに自分の神経症の症状や神経症を克服した体験を話してあげることも大切なことである。相手の話に共感し、受容してあげることも大切である。また自分のつかんだ森田理論や森田理論学習の環境について話してあげることも大切である。これらはすべて、人の役に立つ行動である。こういう活動を続けていると、自分にばかり向けられていた意識や注意が少しずつ外向きに変化してくる。小さなことにとらわれやすいという性格は変わらないが、いつまでもひとつのことにとらわれるということが少なくなっていく。人の役に立つ行動を継続することによって、新しい感情が生まれ、自分の症状だけに関わっていくことがなくなる。症状が気になりながらも、目の前の仕事や日常茶飯事に目が向くようになり、当たり前の生活ができるようになる。これは別の言葉で言えば、神経症が治ったという状態である。精神交互作用が断ち切られて、生の欲望の発揮に目覚めた状態である。神経症が治るという事は、まず精神交互作用を断ち切り、生の欲望の発揮に邁進する状態に持っていくことが肝心である。しかし、現実問題として、日常生活がきちんとできるようになり、仕事でも顕著な実績をあげられるようになっても、心の中は依然として重いし苦しい。これは森田理論に取り組み、苦しみを抱えながらも、目の前の仕事や日常茶飯事に取り組むことができるようになった人の多くが経験していることである。特に対人恐怖症を含む強迫神経症の人の場合は、身にしみて感じていることである。私もその1人であった。その原因は、 「思想の矛盾」の打破が手付かずの状態であるということである。このことを忘れてはならないと思う。「思想の矛盾」とは、自分の理想だと頭で考えている事と現実が乖離している状態のことを言う。そしていつも観念的な理想や完全な状態にこだわり、現実を批判的な目で見ていると、心の中の葛藤はいつまでも続くようになる。これが神経症の発症の大きな原因となっている。不安にとりつかれて神経症に陥る場合よりもより深刻である。どんよりと重い雨雲が垂れ込めた地上で生活しているようなものであり、重苦しい状態はずっと続く。これでは生きていくこと自体が楽しめない。精神交互作用を断ち切り、自分の生活がある程度軌道に乗った人は、次には「思想の矛盾」の打破に向かって取り組む必要がある。これは「かくあるべし」を少なくして、事実本位、物事本位の生活態度を身につけていくことである。「かくあるべし」の比重を下げて、現実、現状、事実の比重を上げていくことである。そうすることで、頭の中で考えている事と現実や事実のバランスがとれて、最終的には事実本位に統合されてくる。すると、自己否定や自己嫌悪がなくなり、自己受容ができるようになる。自己受容できるようになると、無駄な葛藤や苦しみがなくなるので、とても楽になる。濃い霧の中をビクビクしながら車を運転していた状態が、霧が晴れて、目の前の視界が広がってきた状態になる。あとは人生を思い切り楽しみ、目標に向かって疾走していけばよいのである。
2017.10.24
コメント(0)
神経症で苦しんでいる人はとても自己嫌悪、自己否定感が強い。こんな自分は人間として生まれてこなければよかった。生きていてもいいことなんか何にもない。死んだ方がマシだと自分の存在自体を否定している。そして自分が神経質性格をもって生まれたことも否定している。細かいことを気にしない気の大きな人間に憧れている。そんな自分を産んだ親を否定している。自分が生まれ育った国や環境、境遇を否定している。身体的なハンディキャップや経済的に貧困な我が身を嘆いている。自分を他人と比較して少しでも劣っていると、それを目の敵にする。容姿が悪いと、それを隠したり取り繕うとする。弱点や欠点は決して見逃すようなことはしない。強い実行力やとりたてた能力がない自分を情けないと思う。ミスや失敗をする自分は絶対に許すことができない。自分が自分を否定するということは、自分の中に相反する2人の人間が住んでいるということである。1人は現実の自分である。もう1人の人間は現実の自分をいつも批判している自分である。これは人間だけに備わっているもので、動物にはない。ここで問題なのは、 2人の人間の力関係である。現実の自分にしっかりと根を下ろし、視線を自分の外に置いている人は問題ない。目線を少し上に上げて、自分の立てた目標に向かって努力精進している人も何ら問題は生じない。ところが、天高く、理想の世界に我が身を置いて、様々な問題や葛藤を抱えている自分を見下ろして、軽蔑して批判や否定ばかりを繰り返している場合は問題だらけとなる。この事を森田理論学習では、 「かくあるべし」の弊害、完璧主義、完全主義の弊害、すべてのものを自分の意のままにコントロールしようとする弊害と見ている。私もかつては自己嫌悪、自己否定の塊であった。頭は禿げており、背は低い。腹は出ている。顔には皺やシミが増えてきた。でもそんな自分でも以前と比べて自己嫌悪や自己否定は格段に少なくなってきた。それよりも今は、自分の身体は神様からの預かりものであると考えるようになった。いわばこの身体はリース物件である。リース物件は自分の所有物ではない。納得して貸してもらっているのに、いろいろ不平不満をぶっつけているのはおかしなものだ。いずれ神様に「ありがとうございました。大切に使わさせていただきました。どうぞ問題がないかどうか点検してください」といってお返しするべきものなのだ。言葉を変えれば、市民菜園を借りているようなものである。自分が借りている間は、土づくりに励み、きちんと輪作体系を守り、自分が借りたときよりも、より良い畑にすればよい。そんな状態でお返しすれば貸してくれた人は望外の喜びである。余談だが、私は一生を終わるときに、借りていた身体から自分の魂はぬけ出るのではないかと思っている。これは仮説だが外れていてもなんら問題はない。しかしもし仮説通りだった場合は、その後の展開に大きく影響すると思う。その時、借りていた身体の方から、 「私は今まであなたと一緒に過ごしてきました。いつも私の味方になってくれてありがとう。またいつか機会があったら、ペアを組んでみたいですね」と言われるのが夢である。その夢を実現するためには、どんなに現実の自分が未熟で、もの足りないと頭の中で考えても、正面切って拒否、無視、抑圧、否定してはならない。それよりも、備わっているもの、持っている力や能力を少しでも伸ばすほうがよい。事実をあるがままに認めて受け入れ、自分にどこまでも暖かく寄り添っていくことだ。そのためには、 「かくあるべし」 、完全主義、思い通りに自分の周りのものをコントロールしたいという態度改める必要がある。森田理論で言えば思想の矛盾に陥っている状態から、事実を重視し、物事本位の生活態度に転換することである。そのための方法は森田理論の中で様々に提案されている。このブログでもたびたび取り上げている。森田理論を学習して実践していくうちに、二人の自分が折り合いをつけられるようになれば、自己嫌悪や自己否定は急速にその勢力を弱めてくるはずだ。集談会では多くの人が、自己嫌悪や自己否定で苦しんでおられる。ぜひとも森田理論の学習と実践で、事実、現実、現状にしっかりと根を下ろした生活態度を身につけようではありませんか。この能力を身につけると、人生は霧が晴れてとても視界がよくなると思う。
2017.10.23
コメント(4)
私の読んでいる新聞に次のような記事があった。これは小学校3年生の女の子が書いた文章である。題は「メダカの子生まれた」である。わたしの家には、メダカが8びきいました。何びきかに名前をつけていました。オレンジ色の子はマンゴー、黒い子はクロミです。その子たちが春にたまごを生みました。エサをあげているときに、たまごをおなかにつけているのに気づきました。たくさんメダカがふえるから、うれしいなとおもいました。何日かたってみたら、水草にたくさんたまごがついていました。大人のメダカにたべられないように、つまんでプリンカップに入れました。たまごは少しかたくて黄色っぽくて、ホクロぐらい小さいです。また何日かたつと、たまごの中に黒い目が見えてきました。わたしは、メダカが生まれたところを1どだけ見ました。「お母さん、生まれたよ」と言うと、お母さんとおねえちゃんが、すぐに来ました。それからもたまごをとりました。今では、赤ちゃんメダカが30ぴきぐらいになりました。多すぎて名前が付けられません。なんともほほえましい記事です。それ以上に感心したのが、事実を観察する態度です。毎日観察していると、大人には同じように見えるメダカでもいろんな違いがあることに気づきました。その違いをもとに、メダカに名前を付けています。また、卵からメダカが生まれてくる過程もよく観察してしています。この事実を観察する態度は、私たち神経質者がこの子から学ぶ必要があります。私たちは、事実を観察するという態度をあまりにも軽視しています。ひと目見ただけで、今までの経験から、すぐに「もう分かった」と思ってしまいます。それを基にして、自分勝手に解釈したり、先入観で決めつけたりします。以前経験したことであっても、目の前の状況は以前と全く同じということはあまりありません。だから、もっと謙虚になって事実を正確につかむという態度になる必要があります。その態度の習得が森田理論のとっかかりとなります。また事実は自分がつかんだ事実と他人がつかんだ事実は違っていることが往々にしてあります。そういう前提のもとに、相互につかんだ事実を出し合って、さらに本当の事実に近づこうとする態度が大切です。集談会などで話し合ってみると事実はとても奥が深いということがよくわかります。そういう方面に力を入れていると、 「かくあるべし」 に翻弄されて、「思想の矛盾」で葛藤や苦悩を抱えるという事は格段に少なくなると思われます。
2017.10.12
コメント(0)
プロ野球はどこの球団も8名程度のスコアラーがいる。ピッチャーの投げる球種やバッターのバッティングをスコア―ブックに記入しているイメージが強い。実際にはそれ以上の仕事をこなしている。スコアラーはだいたい、3つに分かれて仕事をしている。まずチーム付きのスコアラー。試合当日相手チームはもちろん、自チームの選手も観察してデータを採集している。次に先乗りスコアラーは、次のカードで対戦するチームの情報収集に当たる。さらに、次の次のカードに対応する先々乗りスコアラーがいる。 先乗りが見る試合で投げる先発投手は、次のカードではまず登板しないので、野手や中継ぎや抑え投手のチェックが主な仕事になる。先々乗りが、先発投手の分析に当たることが多い。 ネット裏に陣取り、調査するチームの各選手の動きを追って、ノートに逐一記録。ビデオ撮影をすることもある。チェックする点は30項目にも及び、そのデータが本拠地球場のスコアラー室に備えられたコンピュータに集められ、解析を加えて調査レポートが作成される。これが監督やコーチ首脳陣のミーティングに提供されて、具体的攻略法の指示やアドバイスになる。投手の場合は牽制や投げ方など、クセを見破るのが大事だ。これでチーム打率が5分上がるといわれます。野手では打球方向や変化球の対応を見る。さらにメンタル面を調べるために、家族や性格、交友関係まで調べることもあるという。広島カープの井生スコアラーはチーム付きのスコアラーだ。本拠地試合では日付が変わるまで球場にいることが多い。遠征先でも外出することはなく、ナイター後は監督と部屋で話し込む。自分が気が付いたちょっとした投手の癖などを話すと、監督は身を乗り出して聞くという。「このピッチャーはバント守備にスキがあります」と監督に話したことがあった。その後の試合では、選手が連続してバント安打を成功させた。こんな時がスコアラー冥利に尽きるという。スコアラーは、選手時代の経験だけでできるような仕事ではないという。野球関係の著書を読み、人間の心理を研究するなどが欠かせない。私はこの話を聞いて、スコアラーの仕事は神経質性格者向きではないかと思った。神経質者はちょっとした細かいことに引っかかる。それをほおってはおけない。原因が分かるまで、分析したり、どこまでも追及する。事実を基にして、その人の癖、特徴、傾向を隅から隅までまで調べあげる。最終的には相手チームのサインを研究して、サインの解読も行っているのである。事実が正確でその量が多ければ、次の行動が立てやすい。そして成功する確率が高くなる。現在、天気予報は9割以上当たっていると言われているが、それは気象衛星などを使って、気圧や偏西風、海水温の動向を正確につかめているからである。事実の裏付けがない予測は、闇夜に鉄砲を打つようなものであるということを忘れてはならない。神経質者はこのことを肝に銘じておく必要がある。事実を基に行動できるようになれば、思想の矛盾に陥ることはなくなる。つまり簡単に神経症に陥るということは防ぐことができる。
2017.10.11
コメント(0)
私は現在、マンションの管理人の仕事をしている。先日、田舎で近所の人の葬儀があり、有給休暇をとって休みました。その場合は、代行といって、私の代わりの人が業務をしてくれることになっている。それは別に問題はなかったのですが、その代行の人を見たある居住者の人が、私が退職して新しい管理人に交代になったと思って、「前の管理人は辞めて、新しい管理人に変わった」と他の居住者に触れ回っていたのである。代行の人が入る事は掲示板に掲示していたにもかかわらず、見ていなかったのである。次の日、5 、 6人の居住者の人が、本当に管理人が代わったのか、確かめるために受付にやってきた。「やっぱりそうか。またあの人の早合点か」といわれた。私もまたかと思って苦笑してしまった。というのは以前に、こんなことがあった。小学生の低学年の男の子が、 学校から帰ってきた。ところが、お母さんは外出していて、インターホンを鳴らしても応答がない。お母さんと連絡がとりたいという。私は早速居住者名簿を見て、お母さんに携帯で連絡をとった。すると、お母さんはあと30分ぐらいして帰るので、それまで管理人室で子供を預かってほしいと言われた。私は快く了承して、子供に宿題をやらせていた。断っておくが、これは男の子だからそうしたのである。女の子の場合は、決して管理人室の中で預かってはいけないことになっている。万が一、トイレ等を貸してくれと言われた場合は、丁重に断るか、断り切れない場合は、管理人が外に出て待っていて、女の子が管理人室から出てきて、初めて管理人室に入る規則になっている。その時、たまたま、先ほどの居住者の人が、男の子が管理人室に入っているのを見たのだ。そしたら次の日、「管理人が自分の孫を連れてきて、管理人室で遊ばせていた」という噂が立っていたのである。ご丁寧にも、管理会社に、「あの管理人はけしからん」と言ってクレームの電話をしていた。管理会社からは、すぐに確認の電話がきた。悪いことは重なるもので、80代のおばあさんが受付にやってきて、ベランダの網戸が外れて困っている。息子に見つかると、叱られるので、今のうちに直しておきたい。管理人さんお願いできないかといわれる。私はいいですよといって見てあげた。するとサッシのストッパがきちんとセットされていないことが分かり、すぐに直してはめ直してあげた。すると、解放廊下を歩いていた例の居住者に見られたのだ。また、「管理人が○○室から出てきた。泥棒をしているのでは」と触れ回っていたのだ。この居住者の人は、 「おやっ」と思ったことを自分の思い込みで、勝手に決めつけてしまう傾向が強いようだ。誰よりも早く、問題点を見つけだして、他の居住者の人にふれ回ることで自分の存在価値を高めようとしているように見える。この人が、最初に「おやっ」と思った事は、なんら問題はないと思う。そして、次に上記のような仮説を立てることも問題はない。しかし、その次に「そうであるに違いない」と自分勝手な先入観や思い込みで決め付けることが問題であると思う。「そうではあるに違いない」という先入観は、実際に事実であるかどうか確認や裏付けをとる必要がある。1番目の場合は、代行の人に、 「前の管理人さんは退職されたのですか」と確認をとれば、すぐに事実が判明する。男の子を管理人室で預かっていた場合は、私に「管理人室にいる子供さんはあなたのお孫さんですか」と聞けばすぐに事実が判明する。最後の場合は、 「○○室に何か用事でもあったのですか」と確認をすれば、すぐに謎が解ける。そうしないのは、相手に対して悪意を持って事実をねじ曲げようとしているようにも見える。事実誤認を繰り返して、それを基にして行動していると、自分が誤解されて、人が寄り付かなくなる原因を作ってしまうことをどう考えておられるのだろうか。これらはすべて、一言、相手に確認をとれば、大きな問題に発展することはない。事実を無視して、自分のネガティブな先入観で、相手の行動を悪いほうに決め付けることは、 2人の人間関係を悪化させる以外の何物でもない。私は、事実を無視する人は、次のような特徴があると思う。・事実を無視するために、考えることや行動することが実態から大きく遊離してしまう。そこから出発して、行動をとるために、どんどん問題が大きくなる。・第三者から見ると、考えることが無茶で大げさで、論理的に飛躍しているように見える。まるで幼児の言動と同じように見えてしまう。事実を無視する人は、信頼されなくなる。・事実を無視する人は、プラス思考、ポジティブ思考よりも、マイナス思考、ネガティブ思考に偏りがちである。・事実を無視する人は、完全主義、完璧主義、 「かくあるべし」思考に陥りがちである。私も、森田理論学習を深める前は、事実を無視して、先入観でネガティブな決めつけを行い、自分と他人に多大な迷惑をかけていたように思う。その時は、どうして対人関係は苦しいことばかりあるのだろうかと思っていた。今は事実に重点を置いた生活をしているためか、人間関係のトラブルは激減してきた。人との交流は楽しみの一つになってきたように思う。
2017.10.07
コメント(0)
森田先生は目の前の仕事に取り組む場合に、ふたつの違ったタイプの人がいるという。1つは、能動的に、自分から勇気をつけてやる人である。これはいわば、カラ元気の付け焼き刃であるから、することなすことが不自然になる。この場合は、自分の本心としては、できることなら仕事などやりたくない。経済的に恵まれた状態なら、仕事はしなくてもいいのに、自分や家族の生活の維持のために、やむなく取り組まざるを得ない。仕事は必要悪という考え方が根底にある。自分のイヤだという気持ちに反して、無理矢理、気持ちを切り替えなければならない。森田先生はこれは全く駄目というわけではないといわれている。神経症の蟻地獄に陥っている場合は、最初はそのやり方でもかまわない。ただ神経症の治療の段階でいえば、これは軽快にあたるだけだといわれている。そのやり方は徐々にステップアップしてゆかないと、完治には至らない。もう一つは、受動的に、やむをえずにやるというタイプの人である。これは背水の陣をひいて取り組むことである。この場合は、自分は弱いものと覚悟して、自然であるから、談判でも擬勢がなくて、勝たなくても、少なくとも負けることはない。この場合には、勝てば喜び、負けても当然のこととして、がっかりするような事はないといわれる。能動的に空元気の付け焼き刃で仕事を始めるのと、受動的にやむをえずに仕事を始めるのはどこに違いがあるのだろうか。私が思うには、カラ元気をつけて仕事をする場合は、イヤだという感情を否定していると思う。その感情を認めることをしないで、すぐに否定して排除しようとしているように見える。不快な感情への向き合い方としては、大いに問題がありそうである。一方、受動的にやむをえずにやるというのは、 「仕事に行くのはおっくうだ、嫌だなぁ」という自分の心に沸き起こってきた不快な感情を否定していない。あるがままに認めている。その不快感に抵抗しないで十分に味わっている。大した違いはないのではと思われる方がおられるかもしれない。しかし、ここは森田理論の核心部分にかかわる極めて重要なところだと思う。不快感に対して、とことん味わい尽くす。安易に否定したり排除しない。これは神経症の完治を目指すに当たっては、ぜひとも身につけたい重要な考え方なのだと思う。この話は森田全集第5巻の283ページで説明されていることである。この部分をさらっと読んでいるだけでは、森田先生が我々に何を伝えようとされているのかよくわからない。森田先生は、いろんな具体例や多方面の視点から森田理論の真髄を伝えようとされているのである。この部分は私たちに森田理論の中のどこの部分を理解させようとしているのか。そうした視点がないと皆目見当がつかないことになる。宝をみすみす見逃してしまうことになる。余談だが、私は、森田理論全体像を作り上げて、森田理論を俯瞰することができるようになった。いわば地図を広げて、森田理論全体の地形を判断することができるようになった。この地図をもとにして森田先生のお話を聞くと、話の内容と森田理論の焦点がぴったりと合うようになった。すんなりと森田先生の様々なお話がより深く理解できるようになった。森田理論を学習する人たちには、基礎編の学習が終了した後は、ぜひこの森田理論全体像を学習して、森田理論の枠組み、スキームを理解して欲しいと思う。内容はこのブログでも何回も取り上げてきた。私は森田理論がよくわかるようになったと感じるのは、この森田理論全体像を試行錯誤の末に作り上げた時からであった。あれから約10年経つ。その思いはますます強くなっていくばかりである。それまでの20年は正直言って森田理論を学習すればするほど、出口が見えない迷路に入ったようなものであった。今では森田理論全体像という地図を頼りにして、 迷路から脱出して、曲がりなりにも人生を楽しむことができるようになったと感じている。
2017.08.25
コメント(0)
森田先生は次のように言われている。何かにつけて、思想に馳せ、空想に耽りやすい青年の特徴として、一つ一つの事実を具体的に見ないで直ちにこれを抽象的に思想しようとする。事実をありのままに見ないで、直ちに人生は面白くないとか、時代はままにならぬとか、大げさにいいたがる。ただ素直に、おとなしく、一つ一つの事実について、いえばよいけれども、僭越に不従順に、大げさな言葉を弄するのがいけないのである。 (森田全集第5巻187頁より引用)森田理論を学習していると、どんなに理不尽な出来事があろうとも、それに反発はしないで、事実そのものを土台にして生きていくことが1番安楽な生き方であるということがわかる。しかし頭で理解できても、実際に実行することはなかなか難しい。普段の生活態度としては、事実からかけ離れ、先入観や決めつけで、悲観的でネガティブになりやすい。どうすれば、 「自然に服従し、境遇に従順な生き方」ができるのであろうか。われわれは言葉を使って過去のことや未来のこと、論理的、抽象的なことも様々に考えることができる。人間はそのような生き物であるという事を把握して、事実本位の態度を貫くことが重要である。さて我々は事実をありのままに正確に捉えようとしているのであろうか。ここが出発点であると思う。多くの人は事実をより深く知ろうとはしないし、たとえ見たとしても、見た瞬間に頭で解釈してしまうのである。初めて体験することが驚きや感動があるが、すでに体験した事は人の話を聞いただけで、推測してしまうのだ。大人になると、日常生活の中で経験したことが大半を占めるようになり、わざわざ事実を確かめなくても、わかったものとして、次に進もうとするのである。これが問題である。実際に事実を確認しない。観察をしない。現地に行かない。過去のデータに基づいて間違いないとすぐに断定してしまうのである。本来事実とは、人間による観念化、解釈や評価、あるいは感想など、人による処理がなされていないそのままの状態をいうのである。事実をありのままに見ることが出来ないと言う事は、事実と観念や解釈という人によって処理されたものとの区別がつかないということでもある。これが神経症の発症に大きくかかわってくる。いわゆる思想の矛盾にかかわる部分である。私は事実というのは、簡単にわかったつもりになってはならないと思っている。もっともっと事実を観察するために時間を割こう。また中途半端な事実にすがって、軽率な言動に走ってはならないと思っている。今までは事実を把握する時間があまりにも短かすぎる。だから、事実を誤認してしまうのである。もっと、もっと事実を観察して、本当の事実をつかもうとする努力が必要である。解釈や処理を考える前に、必ず間違いのない事実なのかどうかを確かめようとする態度を習慣化する必要がある。これが我々の森田理論の学習会で習得を目指していることである。今までは事実をつかみ取ろうとする時間を1とすると、解釈や処理を考える時間が9であった。これからは事実をつかみ取ろうとする時間を半分のせめて5ぐらいに拡大する必要がある。そして、解釈や処理を考える時間はそのあとに回しても遅くはない。そのような態度を養成することによって、先入観や決めつけが少なくなってくるものと思われる。そのようなことのできる人は、人間関係もうまくいくようになるし、葛藤や苦悩が少なくなってくる。
2017.08.17
コメント(0)
森田先生は「循環論理」について説明されている。神経質の患者で、自己内省の浅薄な人が、診察を受けに来ることがある。「どこが悪いか」と問えば、 「神経衰弱だ」という。「それではわからない。まず症状を言うように」と言えば、 「ものが気になる、いろいろのことが苦しい」と答える。「ともかくも、何が一番苦しくて、第一に治したいと思う事は」と反問すれば、 「神経衰弱を治してもらいたい」という。この場合、 「気になる」と「神経衰弱」とが循環するのである。この時に、何が気になり、それをどのように改良したいかという事を、具体的に実際に追求していけば、初めて循環がなくなって、ともかくも、ある一定の方向に、進路が見出されるようになる。赤面恐怖症の人の例で見れば、 「人前で恥ずかしい」と言うことと、 「大胆になりたい」ということが循環する。これは「苦しい」と「楽になりたい」ということが循環しているのである。これは、ある事実と、これを否定したいということの間に、循環する不可能の努力である。循環論理の人は、杭につながれたロバが、その不快感から逃れようとして、ぐるぐる回れば回るほど、ますます紐が体に巻き付いて動けなくなるのと同様です。これらは物事を、抽象的に漠然と考えて、事実を具体的に観察しないという思想の迷妄から起こるものである。(森田全集第5巻 517頁より引用)「循環論理」に陥った人は、ただ目の前の苦痛を取り除いて、楽になりたいのである。注意や意識が不快な気分にばかり向いている。これを続けていけば精神交互作用で蟻地獄の底に落ちてしまう。森田先生はこの悪循環を断ち切るため、苦しい状況を具体的に打ち明けることが必要であると言われている。抽象的に漠然と自分の不快な気分を打ち明けるだけでは、症状の発生原因が分からないので対応のしようがない。実際の出来事と、その時に感じた感情の事実を具体的で詳細に話すことが必要なのである。集談会でも自己紹介や体験交流の時に、そうした心がけが必要になってくる。「私は対人恐怖症です」と言うだけでは、他の出席者にとっては、どのような症状で悩んでおられるのかさっぱりわからない。集談会に来られるからには、対人恐怖症を治したいという強い意思はあるのだが、その思いは他の人に伝わる事はなく、自分の中で空回りしている。そんな時は具体的な例を挙げて、ていねいに説明する必要がある。そうするとみんなが真剣に話を聞いてくれるし、容易にアドバイスもしてくれる。そのためには集談会の開催日前には、自己紹介で話す内容を準備をすることが必要である。また体験交流で自分の話す内容についてはあらかじめ準備をしておく必要がある。私はこの2つについては、発表項目のリストを作っている。自己紹介では初回の方がお見えになったときは、自分の悩んできた症状について詳しく話している。初回者の人がおられないときは、ここ一か月間の生活について重点的に話している。また体験交流では、今、悩んでいること、生活上困っていること、森田を生活に応用して気の付いた事、森田の学習で気のついたこと、今月の発見誌を見て感動したこと、森田理論で疑問に思っている事、最近失敗したこと、うまくいったことなどである。その時、ここ1カ月間の日記を見ていると話したいと思うことがいくつか出てくる。その中から1つに絞って準備をして集談会に臨んでいるのである。そうなると集談会に参加することが楽しみになる。
2017.08.14
コメント(0)
森田先生の話です。今日、患者が、鋸で木を切っているところを見たが、ここの患者は、鋸の種類を選ばないうえに、いくら鋸が切れなくとも、平気でひいている。鋸の切れ味などはまったく無頓着である。職人は、道具は大事にして、常にこれを研いでいる。素人は、その研ぐ時間で、少しでも木をひいた方が、その時間に、余計に能率が上がると思っている。それは大きな間違いである。先日も材木屋で、木挽をみたが、鋸の目立てを、 1日に3回ばかりもやり、 一回に40分くらいもかかるということである。素人が考えて、無駄な時間が、実は最も大切な時間である。(森田全集第5巻 251頁より引用)鋸の切れが悪くなれば、普通は木を切るのを中断して、目立てを行う。職人さんは、木を切っているよりも、鋸の目立てに費やす時間の方がはるかに長いという。神経症で苦しんでいる人も、鋸の切れが少々悪いということには気がついていると思う。しかし、木を切るのを中断して、目立てを行うという方向にはいかない。切れが悪くてもイライラしながら無理やり木を切ろうとする。自分は大工で生計を立てているわけではないので、時間がかかってでも、言われたことさえすればよい。ましてや自分が進んでやり始めたことではなく、他人から言われてとりかかった仕事の場合には、早く終わらせてその仕事から逃げたいという気持ちが強いので、鋸の目立てには注意が向かない。なかには、この鋸はもうダメになってしまったから、新しい鋸を買ってくるしかないと考えてしまう。そして切れなくなった鋸が数多く放置され錆びてくる。最後にはまとめて処分してしまう。鋸にとってみれば、目立てをしてくれれば、新品と同じように切れ味が鋭くなるのに、どうしてそんなに簡単に見捨ててしまうのかという気持ちであろう。そういう人はものだけではなく、自分や他人も役に立たなければ拒否したり、否定するという考え方だ。うまくいかない現実に対してイライラしたり投げやりになってしまう前に、それらを改善する事は考えられないのか。森田理論では、その原因を見極めて、問題点を解消しようとする態度をとても重要視している。そのためには、不具合や問題点はそのまま放置すれば心身共に苦境に陥るが、それらに対して改善や問題解決の方向に舵を切っていくことがとても大切となる。エジソンは汽車の機関士をしていた時、いつも寝坊をして仕事に間に合わなかった。そこで投げやりになるのではなく、時間になったら起こしてくれる目覚まし時計を発明したという。これは自分だけではなく、多くの人にも役立つ発明品となった。神経症で苦しむ人は、注意や意識の大半を自分の症状一点に集中させている。そのために、目の前に与えられた仕事を機械的にこなすのが精一杯である。これでは、不具合や問題点に気づいたり、発見するということが殆どできない状態である。神経症から回復したいと思うなら、症状と格闘することやめて、目の前の仕事や家事などに今までよりも少しだけ身を入れて取り組むことである。そしてその中で気づきや発見、楽しみや面白みが出てくるという状態を作り出すことがとても大切なのである。そうして頭の中で症状1点に集中していた注意や意識が、少しずつ低下してくるということが、神経症が回復してくるプロセスなのである。
2017.08.10
コメント(2)
森田先生は周囲の人々に対して自己を「赤裸々に打ち出す」ことが大切であると言われている。自分の気にくわない容姿や性格、恵まれない境遇や自分の能力、弱点や欠点、ミスや失敗などを隠したりしないで、事実をそのまま他人の前に公開していくという態度である。神経質者の場合は、そんなことをすると、自分がますます惨めになり、ピエロを演じているような気分になると思っている人がいる。自分の周りに人が寄り付かなくなり、完全に孤立してしまう。そうなれば社会的には死んだも同然である。命に代えても絶対に人の目に付かないようにごまかしたり隠したりしなければならない。できれば、装飾して少しでも誤魔化してよく見せたい。 人並み以下に見られる事は、自分自身が許せないのだ。こういう人は確固たる「かくあるべし」を持っている人だ。頭の中で考える理想の自己像を持っている。「かくあるべし」を持っている人は、自分という1人の人間の中に、 2人の人間が住みついている。1人の人間は雲の上のようなところにいて、地上で様々な問題に直面して右往左往している現実の自分を見て、いつも批判をしている。存在を認めるということはなく、いつも自分の存在を否定しているのである。自分という1人の人間の中で、 2人の自分がいがみ合って喧嘩をしているような状態である。そんな状態で生活していると、本来は仕事、家事、育児などの日常茶飯事や、自分のやりたいことなどに向かうべきエネルギーを喧嘩の仲裁に投入せざるをえなくなる。自分も苦しいが、周囲の人も腫れ物を扱うかのごとき対応になる。これを打ち破る方法は、事実を素直に認めて、出来る限りその事実を他人に包み隠さず公開していくことである。中学時代テストの答案が返されると、普通の人はすぐに机の中に入れて、人の目に触れさせないようにする。まして、その点数が平均点をはるかに下回る場合、急いで隠さないといけないと考えてしまう。同級生に勉強のできない馬鹿な奴だ見られたくないのである。能力がない人間は人生の落伍者とみなされることがたまらないのである。しかし自分ではうまく隠したと思っても、他の人から見ると、すぐに隠すということは、あまり良い点数ではなかったのではないかと思われてしまう。そんな時、平均点を大きく下回る点数の人が、その答案用紙をみんなに見せている。そのような同級生は、あらゆる面において自分を飾りたてたりすることがない。正味の自分を事実のままにさらけ出すことができるのである。自分の欠点や弱み、家庭内の出来事、失敗などを、まるで手柄のように面白おかしく脚色して笑いを振り撒いているのである。彼の周りには笑いが絶えない。彼も相手も構えるということがないので、いつもリラックスして付き合うことができる。反対に、我々のように容姿や性格、生まれ持った環境、自分の潜在的な能力、弱点や欠点、ミスや失敗などを人目にに付かないように、隠すことに汲々としていると、周囲の人もそれを察知して人が寄り付かなくなる。自分の都合の悪い事を、どんな手段を使ってでも隠そうとしている人を見ると嫌悪感を催す。それは悪事を働いた政治家が、都合の悪い事実を隠そうとすればするほど、一般国民から見ると嫌悪感を催すのと同じことだ。次のの選挙では、そういう人には投票したくない。また、その人が所属している政党は絶対に支持したくない。これと同じようなことが、我々神経質者にも起こりうるのである。集談会で出会った人の中に、人前で自分が隠したいことを話すという事は、自分に対する自覚を深めることになり、自分のダメな事実に服従し、より自分のあるがままの姿になっていくことではないかと思いますと言われていた。自分のミスや失敗を面白く分かりやすく人に説明することは、工夫や準備もいるし、勇気もいる。そういうことに気が向いていく人は、神経症とは無縁の人だと思う。
2017.08.09
コメント(0)
株式投資で利益を出し続けている人の話は森田理論に通じるところがある。普通の人は、自分が買った株価が上がることだけを願って祈り続けている。しかし、株価は大空に放たれた風船のように風の向くまま気の向くままに勝手に動いていく。株価が下がって含み損が拡大してくると、本来は早く処分しなければならないが、いつか上昇してくるはずだと思っていつまでも持ち続ける。いわゆる塩漬け株である。反対に、株価が順調に上昇していても、ある日突然下げたりすると、自分の利益がなくなるという恐怖にとらわれて、少しの利益がある段階ですぐに処分してしまう。このパターンの繰り返しでは、利益は少なく、損失は大きいわけだから、長期にわたって、資産を増やすという事は夢のまた夢である。長期にわたって利益を出している人は、市場がどう動くかについては、全くわからないという。また自分の投資した株価が上がるか下がるかについても予測不可能であるという。そういう前提で株式投資をしているのである。マーケットは好き勝手に動いていく状況を認めなければならない。決して自分の期待通りに動いてくれることを期待してはならない。期待すると必ず裏切られる。負けたり裏切られると腹が立つ。恐怖や絶望が生まれてくる。自己嫌悪や自己否定する人も出てくる。マーケットはあなたに損をさせてやろうと思って意地悪を仕掛けてくる訳ではない。マーケットはあなたを毛嫌いしている訳ではない。適切に対応すれば、マーケットをあなたに利益をもたらすこともある。それなのに、マーケットが自分の思惑通りに動いてくれないからといって、投げやりになってしまうのはおかしなことだ。それでは、長期にわたって利益を出してる人はどう動いているのか。株価は動いてきた方向に素早く対応しているだけなのである。一旦買ってしまうと、株価の予想は全くしていない。「かくあるべし」を持たずに、マーケットによってつけられた今現在の株価こそが神様であるという考え方に立っている。そういう人は株を買った時点で、いくらまで下がったらロスカットをするということを決めている。たとえば100万円のお金を株に投資した場合、 2万円を超えて下がってきたらすぐにその株を売って損を確定してしまう。そうしないと、どんどん損失が拡大してしまう可能性がある。それはどうしても避けなければならない。次に、株価が上がってきた場合は、少しの利益が出た段階ですぐに利益を確定するということもしない。目標としては、 10%の利益を目指している。このスタンスで取り組んでいると5回失敗をしても、1回成功すれば、 プラスマイナス0となる。利益を出すためには、いろいろと研究して、その比率を少しプラスに持っていくという考えかただ。つまり、株価が上がるか下がるか予想はしないで、その変化に素早く対応するということにエネルギーを投入しているのである。現実を否定することから、将来に向かって何も明るい見通しは立たない。変化に全神経を集中して、その変化でいかに素早く対応するかということが、厳しい株式投資の世界で生き残る唯一の道である。株式投資の世界で成功するためには、これ以外にも、どういう銘柄を選べばよいのか。その株をどういうタイミングで仕掛けていったらよいのか。そして最終的にどういうタイミングで手じまいしていくのか。資金管理をどのようにしていくのかなど、いろいろと勉強しなければならない項目がある。普通の人は、それらを適切に行なえば、株式投資は必ず儲かるものであるという短絡的な考えかたを持っている。当然これらは徐々に勉強しなければならないことであるが、まず1番最初にきちんと理解しなければならないのは、マーケットは決して自分の思惑通りに動いてくれるものではないということである。それを理解したうえで、株式投資に取り組まないと、自分の大切な財産をドブに捨てるような結果となる。そのためには信頼できる人について正しい知識を身につけていくことである。自分独りよがりのやり方では決してうまくはいかないと思う。仮にうまくいっても長い時間がかかる。その方法は決して得策であるとは思えない。これは森田理論学習も同じである。私は信頼できる人に理論化された森田理論を正しく学んでいけば、約3年で森田理論を習得して、以後自分の人生は大きく花開いていくと考えている。
2017.08.01
コメント(0)
倉田百三氏は様々な強迫観念に苦しんだ。観照障害、不眠、耳鳴り、回転恐怖、計算恐怖、いろは恐怖などである。観照障害は、物事を見た場合に、部分見えるけれども、全体がつかめないという症状です。倉田さんが夕日を眺めていたところ、夕日の太陽の赤いところはわかる。目を他に移せば赤くなった雲はわかる。けれども、全体として夕焼けを知覚できないというものです。ものを見た場合、部分としては見えるけれども、全体としては見えない。ですから、感動が起こらないのです。木を見た場合も、木肌とかは部分的に見えるけれども、全体としては松の木と感じとれない。何か紙一重隔てて見ているような気がすると言うことで、これはいけない、こういうことではいけないから何とかして、物を全体として掴まなければいけないということで、非常に悩まれたわけです。この強迫観念に対して森田先生は次のように指摘されている。節穴から差し込む陽の光でも、これを平常心で眺めれば別にどうということもない。これを意識的に凝視すれば、そこにはあたかも天文の星雲世界のごときほこりの渦巻きがあり、さらによくよく観察すれば、さも一定の法則でもあるかのようなほこりの運動が見える。こんなささいな光線の中にも、思い定めれば、そこに宇宙を、そして宇宙の法則さえ発見できるかのごとくである。こういう意味の発見に、人は自己の精神機能の発揮の喜びを覚える。倉田さんが、 「池の水面によどむほこり、街路の風に吹かれて舞う反古」にも限りない美を感じるというのも、そういうことである。これを直ちに美と称するのは思い違いである。倉田さんが美ととらえたのは、対象そのものではなく、自然の凝視という意識的努力の成功の喜びである。自己の欲望を達成の努力に対する快感を持って、これを美と誤想しているに過ぎないのである。対象を如実に眺めてそこに美を感得しているのではなく、美と快を混同して、自分の快適な気分に陶酔し耽溺しているだけである。これはふとしたきっかけでこの気分は容易に反転する。人間であれば誰しもしばしば陥る不快な気分のときに、対象に陶酔し耽溺できないのは全く当然であるが、倉田さんはこのことに焦りもがき、自分から美の感覚が失われたと嘆き、俺に執着して計らい、ついに強迫観念陥っていいったのである。不眠症も耳鳴り症も、不眠や耳鳴りの不快な気分を思い捨てようとして、いよいよこれに執着しはからい、その計らいを打ち捨てんとする虚しい努力の結果である。倉田さんのすべての苦悩の根源は理想主義にあった。そしてこの理想主義は、彼の強い生の欲望、完全欲のあくなき追求の反映であった。生の欲望と完全欲を果てしなく満たさんとするがゆえに、その道程を妨げるもののすべてを意識的に排除しようとしたのである。そうした排除の心理は、己の理想の実現の障害になりうる。どんな小さなものであっても、これを振り払わずにはおられない。倉田さんの理想主義は、 「真理に服従するこころがけではなく、実は自分の都合のいいように、世の中のことをやりくりしようとする理想主義である」と見なしていた。迷妄から脱せよ、事実を事実のままに受け入れよ。そこから生まれるのでなければ、真の理想主義ではない。倉田さんから渡される日記を見て、森田先生はいつもそうつぶやいていたという。(神経症の時代 渡辺利夫 TBSブリタニカ参照)
2017.07.26
コメント(0)
島田紳助さんのある番組にお父さんがオカマであるという家族が登場した。そのお父さんには6人の子供がいた。島田紳助さんはその家族の日常を撮影したVTRを見て、次のように言った。「子供たちに感動した。ちょっと小汚いオヤジをもつ子どもたちは、普通はお父さんを友達に見せないんですよ。そんな家が多いのに、こんな爆弾みたいなオヤジを抱えた子どもたちが、親父と一緒にテレビに出る。しかもお父さんのことが大好きだという。(一家の長男に向かって)長男、普通の家庭なら、家に友達を呼ばない。キミはそれができるやろ。(うなずく長男に)それが偉いのだ。俺は君の立場だったら、友達には父親はもう死んでいないという。友達に、 「変なお父さんだね」と言われて、 「すごいお父さんだろ」と言えるの君が素晴らしい」(島田紳助の話し方はなぜ9割の人を動かすのか 久留間寛吉 あっぷる出版社参照)確かに自分の身になって考えても、もし自分のお父さんがオカマだったら恥ずかしくて、友達に見せることができないだろう。学校ではお父さんのことを必死になって隠して、お父さんがこの世に存在しないものとして対応するのではないか。それどころか家では家族みんなが寄ってたかってお父さんのことを非難したり無視するだろう。そして家族がバラバラになる。崩壊するかもしれない。この話は対人恐怖症で悩んできた私にとっても、とても考えさせられる話であった。私はかって、自分の弱みや欠点、ミスや失敗をすると、決して他人は見逃してはくれないと思っていた。それらは他人に知れ渡ると、みんなからのけ者扱いされて、 1人で寂しく生きていかなければならなくなる。所詮孤立して仙人のような生活をすることはできないわけだから、自分の弱みや欠点、ミスや失敗はあっても構わないが、人に見つからないように出来る限り隠さなければならないと考えていた。注意や意識の方向が常に他人の視線を意識して、自己内省するようになった。自分のやりたいことや夢や目標に向かって努力することがなくなり、必死になって防御することばかり考えるようになった。そうしていると気分がうつ的になり、生きることそのものが苦痛になってきた。しかも防御すればするほど、自分の思いとは反対に、自分の弱みや欠点、境遇や能力、ミスや失敗は相手に筒抜けになっていることがわかってきた。踏んだり蹴ったりの悪循環を繰り返していた。それは夜中に部屋の中で電気をつけると、部屋内から外のことはよくわからないが、薄手のカーテンだと窓の外からは部屋内のことが、手に取るように分かるようなものであると思う。学校で答案用紙を返されたとき、自分の得点が平均点以下であったとき、私はいつもすぐにカバンの中に入れて隠していた。友人に頭の悪い奴だとか能力のない奴だとかに見られないための精一杯の抵抗だったのである。人が見せてくれと言っても、なんだかんだと理由をつけて、決して見せる事はなかった。ところが反対に、悪い点を取れば取るほど、その答案用紙を周囲に見せる友達がいた。私には彼の行動の意味が全くわからなかった。自分を守ることをしなかったら、みんなからバカにされたり、時には仲間外れにされるのに、どうして自分の首を絞めるようなことをするのだろうと思っていた。ところが、実際では弱点や欠点、ミスや失敗を隠さずにすぐ公にする彼のほうにこそたくさんの友人がいた。隠し事がないと、相手が身構えることがなく、安心してざっくばらんに付き合えるのだ。その彼は、学歴はなかったが、定年前まで多くの部下を抱える大会社の部長をしていたという。中学の同窓会で聞いた。ガキ大将でいつも友達を何人も従えていた彼だった。片や、都合の悪い事を隠し通そうと懸命の努力をしていた私には、ほとんど友達ができなかった。そして会社勤めでは、中間管理職にまでにはなったが、部下の育成や教育はほとんど見るべき成果をあげることはできなかった。今になって思えば、小学生の頃からボタンの賭け違いをしていたツケが、その後大きな開きとなって現れたのである。森田理論では、事実を隠したり捻じ曲げたりすることを嫌う。どんなに自分にとって不都合な事実であっても、事実を事実のままに認めなければならない。そして事実に素直に服従しなければならない。その瞬間は注射針を打たれたような痛みはあるが、長い目で見れば、そうした生き方が1番安楽な生き方であるということを教えてくれている。私たちは事実を隠したり捻じ曲げたりしたくなった時に、そのようなことをすれば、自分の思いとは反対の方向に事態が進行してしまうということを肝に命じておくべきだと思う。
2017.07.22
コメント(0)
今日は平常心ということについて考えてみたい。弁護士で心臓神経症の人が森田先生のところに治療に来られた。その人は、 「自分は10数年禅をやっており、 100ほどの公案にもパスしており、座禅をするときには平常心是道となることができるが、電車の中で卒倒しそうになるときには、どうしても平常心になることができない、どうしたらいいものか」と相談された。これに対して森田先生は、あなたの言われる平常心は少し間違っているように思われると言われた。死は恐ろしい、腹が減っればひもじい、あなたならば電車に乗れば恐ろしい、それが平常心というものではないか。そもそも平常心というものは、作り出すものではなくて、そこにあるものである。恐ろしいならば恐ろしいままの心、恐ろしくないならば恐ろしくないままの心、それが平常心である。電車の中で心臓神経症の発作が起こったら、逃げ出したり交番に書き込んだりしないで、じっと受忍していれば、そのまま発作は経過して、苦悩は雲散霧消する。心臓に欠陥が無いという事は、あらかじめ分かっていることだから、苦しくなった時に、恐怖でパニック状態に陥ったら、そのままパニックになりきって時間が過ぎるのを待てばよいのだ。このようなパニックが起きると大変だと、その1点に注意を集中するとますますその感覚はますます増悪してしまう。そしてついにたえずそのことを予期恐怖するようになる。次第に電車に乗れなくなる。最終的には症状として固着してしまい、思考の悪循環、実生活上の悪循環が積み重なり生活が後退していく。平常心と言うのは、当然の心、あるべきはずの心、すなわち我々の心の事実である。夏は暑く、冬は寒い。心臓麻痺は恐ろしく、幽霊は気味が悪く、腹が減ればご飯が食べたい。木に登れば、ハラハラするし、畳の上に寝転んでいればハラハラしない。その当然のあるがままの心が平常心である。この患者は、電車に乗って、心臓麻痺を想像しながら、しかも畳の上で、座禅をするときと同じ心持ちになりたいと望み、それを平常心と思っているのであった。この方は高学歴がありながら、森田先生の言われることは全く理解できなかった。パニック障害が強すぎてなんとしても克服したいという気持ちが空回りしすぎていたのか。あるいは森田先生の助言を端から受け入れる気持ちがなかったのか。森田療法を受け入れるという素直な気持ちにならないと、一生涯苦難の人生を歩むしかない。現在パニック障害の治療法としては、精神療法の面では認知行動療法が主流となっている。認知の誤りを修正し、治療者が付き添いながら少しずつ不安に慣らしていく方法である。実際に効果はあるようですが、それだけでは再発する割合が高いのではないか。根本的に治癒しようとすると、森田理論を応用する必要がある。その中でも不安や恐怖の特徴とその役割は徹底的に理解する必要がある。森田理論では不安や恐怖を完全に取り去るという考え方ではない。不安や恐怖を抱えたままで、目の前のなすべきことを嫌々仕方なしにてもできるような人間に変わっていくような態度を養成することにあります。森田は不安や恐怖を邪魔者扱いにはしていない。不安や恐怖は人間にとってなくてはならないものである。そもそも、不安や恐怖がわき起こらない人は、危険な場面や大きなリスクを抱えた場合、それを乗り越えることができない。不安や恐怖の強い人は、強力なレーダーを標準装備しているようなものである。強力すぎるがゆえに取り越し苦労か尽きないのであるが、持っていない人にとってみればとても羨ましい装備なのである。また不安や恐怖は、問題点や課題を示してくれるだけではなく、夢や目標も明らかにしてくれる。このように考えると、不安や恐怖を取り除くためにエネルギーの大半をつぎ込む人を見ていると、水車に決闘を挑んで飛び込んでいったドン・キホーテを連想させる。
2017.07.12
コメント(0)
森田先生は事実には、「主観的事実」と「客観的事実」があると言われている。たとえば心臓麻痺恐怖の人がいるとする。医者が検査してあなたの心臓は問題はない、大丈夫だという。これは客観的事実である。しかし本人はやはり恐ろしい。医師の診断に納得できない。これは、主観的事実である。この時、患者は大丈夫だという客観的事実と、自分は怖がるものであるという主観的事実とを認めなければならない。神経症に陥っているような人は、客観的事実を無視して、主観的事実に重きを置いている。本来は客観的事実と主観的事実を天秤にかけて、調和のとれた考え方や行動をとることが大事なのである。バランスのとれた思考ができなくなって、主観的事実に振り回されている状況である。傍から見ているとなんでそんなに強情なのだろうと見えてしまう。でも本人は真剣である。真剣であればあるほど滑稽で異質に見えてしまう。もっとわかりやすい例がある。イソップ物語のすっぱいぶどうの話である。腹を空かせたキツネがぶどうの木を見つけた。ところがぶどうの木が高くて手が届かない何回ジャンプしてもぶどうを取ることができない。そこで狐は負け惜しみで、あのぶどうはきっとまずくて食べられるようなものでは無いはずだ。自分のぶどうを採って食べたいと言う気持ちを欺いた。そして自分はもともとぶどうは好きではなかったのだと思おうとした。また、そのぶどうを取る力がない自分に対して「自分は何をやってもダメだ」と自己否定をした。ここでの紛れもない主観的事実は、ぶどうを採って食べたいという気持ちである。しかし、努力しても、その欲望が叶えられないので、逆にその気持ちを抑圧しようとしたのである。森田理論では、腹が立つ、悔しい、嫉妬する、不安である、悲しいなどのネガティブな感情でも人間の意志の力でなくしてしまおうなどと考えてはいけないといういくら理不尽で嫌な感情であっても、感情自体に良いも悪いもない。どんな感情でも価値批判しないでそのままに受け入れることが大切なのである。この場合の客観的な事実は何であろうか。自分は背が低くて葡萄に手が届かないということである。それでもぶどうを食べたいという気持ちがあるなら、その障害を取り除くべく、なんらかの手立てをする必要がある。例えば、何か台のようなものを持ってくる。あるいは脚立のようなもの探してみる。いずれにしろ、目的が達成できるようにいろいろと工夫をするようになる。ただし、ぶどうが食べたいという主観的事実を無視していると、そのような建設的な方向には向かない。感情をねじ曲げたり、自己否定、自己嫌悪の方向に向かう。ここで大事なことは、主観的事実をありのままに素直に認めるといういうことである。これを無難に通過すると、客観的事実のほうに注意や意識が移っていく。するとそこに存在する問題や課題を解決するために、いろんな気づきや発見が生まれ、やる気やモチベーションが次第に高まってくる。そういう意味では、主観的事実と客観的事実は「かくあるべし」でやりくりをするのではなく、どこまでも事実に忠実に従うという態度をとることが大事になる。主観的事実と客観的な事実を、今の自分にとっての主観的事実とは何か、あるいは現実に目の前に立ちはだかっている客観的な事実は何かに分けて、どちらの方にも偏ることがないようにバランスを意識することが大切なのだと思う。
2017.07.10
コメント(0)
森田理論は事実をとても大切にする。そのためには事実をよく観察するという態度が大事である。このことをリンゴ農家の木村秋則さんから見てみよう。リンゴの葉っぱの中央部分に穴が開いていた。普通は虫に食われたのだろうと思う。でも真ん中だけを器用に食べる虫はいない。木村さんは葉っぱを観察することによって、虫が食べた穴ではないことがわかったという。ある時、この穴のあいた葉っぱの側に、斑点落葉病の黄色い病斑のついた葉を見つけた。そこで、その病斑がどうなるか観察をしてみた。すると、病気に侵された部分が、カラカラに乾燥していった。リンゴの葉がそこだけ水分の供給を絶って、病気を兵糧攻めにしているみたいに見えた。そのうち、病斑部がポロリと落ちて、穴があいた。この穴が開いてから、葉っぱの横に付いていた小さな葉がどんどん大きくなっていった。葉っぱを失った部分を補っているわけだ。スケールで計かったんだけれども、穴の大きさと葉っぱが大きくなった分はほぼ同じであった。穴がもっとたくさんあいて、それだけでは補えなくなると、今度は枝の先に新しい葉っぱを出すんだよこのリンゴ畑にはギリギリの栄養しかないから、りんごの木がもともと持っていた自然の力が引き出されたのだと思う。知れば知るほど、自然というものはなんとすごいものかと思う。(奇跡のリンゴ 石川拓治 幻冬舎 192ページより引用)なんという観察力でしょうか。事実をより深く知ろうとすると、感じが発生しより高まってきます。すると、気づきや発見が増えてきます。すると、しだいにやる気や意欲が高まってくるのです。このプロセスはとても大切なことです。森田先生も、事実を自分の目で確かめて、正確に把握しようとする生活態度が基本にありました。夜中の幽霊屋敷の探検、熱湯の中に手をつける実験、関東大震災の時の流言飛語の観察などがあります。私が物をよく観察するということでいつも引き合いに出す話があります。5歳位の子供が、新聞紙に水滴が落ちた時の事を次のように表現していました。「新聞に水が一滴たれたら、小さな水の小山ができて、そこに写った字が大きくなった。だんだん水の小山が小さくなってきたら、今度は横に拡がっちゃった。そしたら裏の字も見えてきた」事実に服従するということを体得することは大変難しいことです。その態度を身に着けることが森田理論学習の目指していることはよくわかりました。「具体的にはどうすればよいのですか」という質問を受けることがあります。なかなか的確に説明できません。その手始めとして、事実をありのままによく観察して、具体的に話したり書いたりするということだと思います。観念的、抽象的ではいけませんね。
2017.06.25
コメント(0)
りんごはバラ科りんご科に分類されている。原産地はコーカサス山脈の山麓一帯と言う説が有力だ。この野生のリンゴは一般的に小さくて、酸味や渋みが強く、現代人にはとても食べられたものではない。19世紀に入ると、メンデルの遺伝の法則を活用して、りんごの品種改良がなされるようになった。特にアメリカではリンゴの新品種が続々と生み出された。現代人は食べている大きくて甘いリンゴはこのような過程を経て造り出されたのだ。日本では明治時代に日本中で栽培されるようになった。「りんごの木1本から米16俵ぶんの収入がある」と言われ、りんごの栽培面積は飛躍的に拡大し、明治20年代には第1次リンゴをブームが到来したしかし長続きはしなかった。甘いリンゴは、虫たちの標的になった。特にリンゴワタムシが大発生して、花や葉を食い荒らす。さらにフラン病というリンゴの幹を腐らせる病気が流行して、りんごの木を回復不能なまでに傷めつけた。明治時代が終わる頃には、ほとんどの県がリンゴ栽培を放棄してしまった。リンゴ栽培を止めて養蚕へと舵を切った。ところが、青森県は気温の関係で養蚕は不可能だった。青森県の農家にとってりんごの栽培を諦めてしまうわけにはいかなかったのだ。青森県の人は甚大な被害を及ぼす害虫を人海戦術で駆除していた。しかし明治40年代に入りモリニア病と褐斑病の相次ぐ蔓延によって窮地に追い込まれた。この絶体絶命の危機を救ったのが農薬であった。特にボルドー液という農薬は、強力な殺菌作用を持ちリンゴ栽培の救世主となった。人間が栽培する作物の中でもリンゴは圧倒的に病気や害虫が発生しやすい果樹だ。ボルドー液やその後に開発された多種多様な農薬によって、りんご農家はかろうじてその脅威に対抗しながらリンゴを生産しているというのが現実である。青森県ではリンゴ用の防除暦が作られている。季節ごとに散布すべき農薬の種類とそのノートなどが詳細に書かれている。多量の農薬を使用するために、農薬散布をする人が健康被害を訴えるケースもある。またそれを買って食べる消費者は少なからず残留農薬に汚染されたリンゴを食べざるを得ない状況にある。リンゴの歴史を見ると、人間が自分たちの嗜好に合わせて、人工的に作り変えてきたと言える。ところが、リンゴ産地という単一作物の大量生産を行うようになると、虫や病気が大量発生するようになる。人間はその原因を調べて根本的に解決策を探ろうとはしなかった。虫や病気を一網打尽に押さえつける農薬の力を借りて、対症療法で対応しようとしたのである。その結果、自分たちの健康を害し、残留農薬に汚染されたリンゴしか提供できなくなった。反対に、農薬や肥料を販売する会社は多額の利益を計上できるようになった。このことはリンゴの栽培だけに限らない。米や野菜の生産についても言えることである。自分たちの都合の良いように自然を作り替え、そこで問題が出れば、対症療法で対応していく。自然の仕組みを観察し、自然の摂理を活かしていくというふうには考えないのである。自然と人間との間で問題が発生したら、自分たち人間の要求は一時的に棚上げにして、自然の動向に合わせていくという考え方がなぜできないのだろうか。森田理論では、人間は自然に服従して生きていくという考え方である。どんな不快な感情が起きてきても、それに対してやりくりをしてはならない。不快な感情を受け入れ、よく味わう。そして自分の生の欲望に従って生きていく。それはただ単に感情だけについて言えることではなく、人間のやることなすことすべてについて、自然と調和し、自然に服従するという態度で生きていくことが大切なのである。
2017.06.21
コメント(0)
生活の発見会の集談会で「生の欲望の発揮」というテーマで学習会をした。そのとき、みんなに自分の欲望について語ってもらった。ところが、あまり意見は出なかった。これはどういうことだろう。「生の欲望」は考えたこともないのだろうか。そんなことはないはずだ。それが生きがいにつながるからだ。私はその意味を考えてみた。もともとこの「欲望」という言葉はあまり良いイメージがない。衝動的な行動、自分の欲望を満たすためのえげつない行動。欲望に取りつかれている人は自己中心的な人である。欲望に取りつかれている人は私利私欲の塊のような人である。欲望にいったん取りつかれると、欲望が欲望を産んで収拾がつかなくなる。自分の欲望を達成するためには、他人から搾取したり支配するようになる。つまり、欲望の追求は他人を不幸に追い込む場合がある。だから、欲望の追求は歯止めをかけて、ほどほどにしないと自他共に不幸になる。欲望の追求というのは、無意識的にこのようなイメージがあり、欲望という言葉を忌避する傾向がある。これに対して、森田理論で言うところの「生の欲望」というのはどういうことか。目の前の気づきに対して実践・行動すること。普段の日常茶飯事を丁寧に行う。目の前の問題点や課題、夢や目標を自覚して、それに向かって努力することを言う。このように考えると、私たちは持っている欲望という悪いイメージとはかなり違うものである。それを表す適当な言葉がないために、やむなく誤解しやすい言葉を使っているが、その真意は違うところにある。生活の発見誌の6月号の学習会シリーズ、「欲望と不安」の単元でもそのことを指摘されていた。だから、 「あなたの欲望は何ですか」と聞くよりも、 「人から言われて1番嬉しい言葉はなんですか」と聞いた方が答えやすい。この方は学習会の時にみんなにそのように質問をしてみたという。すると、 「よくやっている」 「ありがとう」 「立派だよ」 「かわいい」 「素敵」 「大丈夫だよ」 「泣いてもいいよ」などの言葉が返ってきたという。これは「自分が自分自身に対して言われて1番嬉しい言葉はなんですか」と置き換えても良い。1人の人間の中では、 2人の人間が住みついていると言われている。 1人は現実の世界でアップアップしている自分。そしてもう1人の人間は、そんな自分は見て批判や否定を繰り返している自分。現実の世界でのたうちまわっている自分が、もう1人の自分から 「どんな言葉をかけてもらえると嬉しいですか」と聞いてみるのだ。「苦しみながらも、よく頑張っているじゃない」 「私はいつもあなたの味方だよ」 「今のあなたのままでいいよ」 「あなたは何も変えなくてもいいよ」 「決して無理はしないでね」 「ほどほど、ぼちぼちやっていこうよ」などの言葉をかけてもらえると、つい嬉しくなってしまう。自分の中にいる2人の人間が手を携えて、協力し合っているようでなんだかほほえましい。その上で、この方は次のように分析されていた。男性の場合は、職場などで、上司や同僚などから、「すごいですね」などと言って評価をしてもらうことがうれしいという傾向がある。女性の場合は、 「笑顔が素敵ですね」 「やさしい」 「明るいね」など、自分の容姿や性格に関することが多い傾向にある。1番嬉しい言葉というのは、考えてみれば自分の「生の欲望」につながっているものであるようだ。正面きって「生の欲望の発揮」と言われるとなんだか堅苦しいし、少々うんざりする。そんな時に、視点を変えて、 「人や自分自身から言われて1番嬉しい言葉」という題で話し合ってみることで森田理論学習は深まっていくのかもしれない
2017.06.19
コメント(2)
ジャングルや山岳地帯に住む少数民族は、我々の目から見れば、貧しい暮らしをしているように見えます。それは私たちが高度に文明化された世界と比較しているから感じることではないでしょうか。彼らは毎日畑で働き、家族とともにつつましい生活をして、近所の人たちと助け合いながら生活をしています。比較していないので、それしかないという生活です。森田でいえば、なりきっている状態です。比較しないで、なりきった状態にあると、苦しみはありますが、悩みは発生しません。私たちは自分の容姿、性格、能力、存在価値、境遇、環境などについて、常に人と比較しています。人と比較して、自分の価値は上なのか、下なのかを推し量っているのです。上なら安心して人を見下したりします。劣っていると劣等感を感じて落ち込んでいます。落ち込んでいるだけではなく、劣っている点をなんとか人並みに押し上げようと悪戦苦闘します。これは劣っている点はよくないと価値判断して、否定しているからです。これは他人を否定するか自分を否定するかの違いはあっても、どちらも否定しているのです。本来自分と他人との違いは、その人の個性です。その人の持ち味です。いいも悪いもありません。そこに厳然と存在している事実です。大切なことは、自分に与えられているその個性を見極めて、はっきりと自覚することです。よく観察して他者との違いを認識することがとても大事だと思います。そういう意味で比較して違いを知ることは大変に意味があります。比較しなければ自覚できません。問題は、その先にあります。比較して分かった事実に対して、自分の不確かな物差しで是非善悪の価値判断をしてしまうことです。すぐに価値判断に結びつけてしまうと、事実、現実、現状を無視するようになるのです。森田でいう「かくあるべし」で事実を非難したり否定するようになるのです。優越感を感じて他人を否定する。劣等感を感じて自分を否定するというのは何とも愚かなことです。比較して自分が勝った、負けたと一喜一憂することは、自分を苦しめるだけだと思います。比較して違いを発見するだけにとどめていると、自己洞察が深まり、将来への自分の進むべき道がおのずから見えてくるようになります。だから他人との違いにはいいも悪いもないのです。次に、自分勝手な価値観という物差しで、優劣の判定ばかりに終始していると、好きか嫌いか、苦楽、快不快の感情が育たないということになります。それは自然に湧き上がってきた感情を是非善悪で選別しているからです。快の感情はいくらあってもよいが、不快な感情はすぐになくそうとしているのです。これは自然現象に反旗を翻しているようなものです。その努力は不毛な努力となり、エネルギーを消耗するばかりとなります。普段からあるがままの自分を認めていれば、プラスの感情も自然に湧いてきます。いいなあ、楽しい、うれしい、ここちよいという感情を味わうことができます。他人と自分を比較して、すぐに価値判断してしまう癖がついている人は、自分の劣った部分を目の敵にして、人生の楽しみを逃しているということだと思います。
2017.06.17
コメント(0)
森田理論の講話などを聞いていると「人と比較しないこと」が大事だと言われる。今日はこの問題について考えてみたい。私たちは普段誰でも、容姿とか、性格とか、能力とか、資格とか、地位とか、立場とか、権力とか、実績とか、名誉などといったものを他人と比較しています。そして一喜一憂しているのではないでしょうか。人と比較するからこそ、自分のことが、より深く理解できます。比べるものがないと、自分の特徴や能力を正しく認識することは難しいと思います。これは海外旅行に行って感じることとよく似ています。海外旅行に行くと、好むと好まざるとにかかわらず、日本という国や日本人と外国人を比較することになります。そしてお互いの違いについて考えるようになります。例えば、ハワイに行くとなぜアメリカの人は半端でなく太っている人がいるのだろうか。貧しいと言われている国の子どもたちの目が、どうしてあんなにキラキラと輝いているのだろうか。どうして外国には犬のフンを人間が処理するという習慣がないのだろうか。どうして飲み物を注文すると入れ物のサイズがバカでかいのだろうか。私がシンガポールへ行ったとき感じた事は、ホテルを出るときは必ずベットの上にチップを置いておくこと。また、街中でチューインガムを道端で吐き捨てると逮捕されるリスクがあるということだった。シンガポールでは自分の家で料理を作るよりも、外食した方が安く上がるということだった。外国に行くと珍しいことばかりで、唖然とすることによく遭遇します。私は他人と比較して自分の特徴や能力を再認識するということはとても大事だと思います。他人と比べて優れている点や、自分にもともと備わっている能力は、他人と比較しなかったらわかりません。しかし反面、他人と比較するということは、大きな弊害があります。それは他人の長所や優れた能力と、自分の短所や自分の持っていない能力等を比較して落ち込んでしまうということです。比較して、自分と他人の違いを明確にするだけなら良いのですが、その次にどちらが良いとか悪いとか価値判断をしているのです。普通他人の優れた点と自分の劣った点を比較して自己嫌悪したり、自己否定しているのです。自動思考で比較した後に、どちらが良いとか悪いとか価値判断することは問題です。この2つの明確に切り分けることが必要です。他の動物や他人と比較することは、自己洞察や自覚を深めていくために必要なことです。ただし比較する場合は、違いを認識するだけにとどめておくことが大切です。それから先、是非善悪の価値判断をするということになると、途端に葛藤や苦しみの原因を作り出してしまいます。森田で言うところの「かくあるべし」で、物事を価値判断して、理想や完全主義を自分や他人に押し付けるということになります。これが神経症を作り出す原因にもなっており、何としても避けなければなりません。そのために森田理論では、 「かくあるべし」を少なくして、事実に基づいた考え方や生き方を推奨しています。事実の観察、事実に基づいた言動、「純な心」の活用、私メッセージの活用などがあります。放っておくと、人と比較してすぐに、是非善悪の価値判断をしてしまうのか人間の性ですので、よほど注意して生活することが大切です。
2017.06.04
コメント(0)
三重野悌次郎さんは、頭の中で考えたり思索することを重要視している人は、現地を無視して地図を信頼して生活するようなものだと言われています。私たちは、自分が考えたり話したりすることは、事実そのままだと信じていますが、実際は事実の1部分か、あるいは、ありもしないことを、あると信じて、考えたり話したりしているのです。それが神経症の苦しみです。ある人は専門の医者が否定するのに、心臓に疾患があると信じて、発作を恐れて電車にも乗れない。ある人は胃ガンになったと思って勤務を休む。ある人は人前で緊張するのは自分の精神が弱いからだと考えて、精神強化のために座禅をしたりする。これらはいずれも自分の考えたこと(観念や思想、つまり言葉)を事実と見間違えて対応しているのです。これは間違った地図によって現地を旅行しているようなものです。迷ったり行けずまったりするのは当然です。だが、このような誤りは神経質者に限らず、一般の人も同様な誤りを犯します。例えば、 「近頃の若いものはなっていない」とか、 「女だからダメだ」と言うのは、いずれも自分の考えを事実と混同しているのです。このような誤りを犯さないためには、つねに事実をあるがままに見る事、できるだけ具体的に話すことが大切です。事実は無数の要素から成り立っています。言葉はその一部分を語るだけです。どんな精密な地図でも、現地の複雑さに比べれば簡単なものです。「言葉は事実を言い尽くせぬものではない」ということをよく知ることです。地図はその時の目的によって、必要な要点さえ示せればよいのです。会場案内の地図であれば、土地に不案内な人でも会場に着けるように、必要な目印を示すことです。言葉は次々に抽象化できます。それによって複雑で高度な思考もできて、文化も発達します。しかし抽象化の度合いが高くなるほど、誤解も多くなり、意思の疎通が困難になります。話は具体的であるほどわかりやすく、誤解も少なくなります。車のナビゲーションはとても便利なものです。これを信頼して車を走らせれば、ほぼ間違いなく目的地に到達します。しかし、目的地に近付くと、駐車場を探したり、目的の建物の中に入る入口を探したりするのは、自分の目で行うことになります。 1から10までナビゲーションに頼ることができません。私は以前、普段よく通っている道なのですが、ナビを信じて車を走らせてみようと思いつきました。すると、ナビが一方通行のところへ誘導し、パトカーに捕まり、反則キップを切られてしまいました。ナビは、 「かくあるべし」と一緒で融通が利きません。例えば、新しい道がどんどん出来ていますが、古いナビゲーションだと道のないところを進んでいくことになります。また、よく知っている道で、この道の方が車が空いていて、早く目的地に到達できると思っても、ナビは最初に設定した道路に強引に何回も引き戻そうとします。それを見ているとイライラします。これが、いちど通った道は新しく書き加えるとか、運転者の意図を汲んで素早く道路変更するなどの対応ができれば問題ないのですが、ナビゲーションはプログラム通りにしか動かないので、仕方がありません。こういうことが人間の場合に起こったらどうなるでしょう。「こうあるべきだ」 「こうでなければならない」などと頭で考えたことを優先して、行動しようとしたり、他人に押し付けたりすると摩擦が発生します。これがこうじると、自己否定したり、人間関係に問題が生じてきます。それはあまりにも観念や思索、つまり言葉を信頼しすぎているからです。これに対して森田理論では、事実、現実、現場、現状を重視しています。それらが頭で考えたことと違ったり、対立したりするときは、必ず事実に立ち戻って、そこを起点にして出発するという生活態度を養成することが目標となります。神経質者や神経症に陥った時は、それが逆になっています。言葉を全面的に信用し、観念や思索から出発しようとしているのです。そうなりますと、ほとんど頭で考えたことと実際に起こっていることにギャップが生じてきます。それへの対応として、事実のほうを、頭で考えたことに合わせようとするのす。森田理論とは反対です。その結果、事態は悪化し、ますます葛藤や苦しみが出てくるのです。これを頭で考えたことを重視するのではなく、事実、現実、現場、現状に沿って生活するようになると、苦しみはあるかもしれませんが、葛藤や悩みに苦しめられることはなくなると思われます。 (森田理論という人間学 三重野悌次郎 春萌社参照)
2017.05.23
コメント(0)
作曲家の久石譲さんは、第三者のようにさめた視線で冷静に物事を判断することを重視している。つまり、自分の感情だとか先入観などを取り払ったところでものを見て判断するのである。このような第三者の脳の機能が働いていると、人や物事の本質を見誤ることが少ないといわれる。確かにそうだ。これは森田理論でいうと「純な心」で見るということだと思う。普通最初に物事に遭遇したとき、直観ともいうべきものが働く。それが「純な心」だ。ところがそれは次々に湧き上がってくるもろもろの感情によって消し去られてしまう。直感が働いていたことすら思い出せない。久石さんは、最初の第一印象は間違いなくその人の本質を突いているといわれる。初対面の人と会ったとき、第一印象は「この人は軽そう。ペラペラよくしゃべるし、何だかあまり信頼できそうな感じがしない」だったとする。しかし、しばらく付き合っているうちに、 「いや、そうでもないかな。意外に考え方がしっかりしている。仕事もきちんとやるし、そんなにいい加減じゃないかもしれない」と感じるようになる。最初の印象を改めて再評価する。大抵の人は、ここでその人の本質を見た気になってしまう。だが、しかしである。もっと長く付き合って、その人が土壇場に追い込まれた時を見たらいい。必ず、最初の印象に戻る。 「なんだ、いざとなったらやっぱり軽かった」と言ったことになるケースが多い。久石さんは、これを「サンドイッチ理論」と名付けている。サンドイッチというのは、パンと中身の具を一緒に食べるから、サンドイッチとしておいしさがある。人を見るときもサンドイッチだと思ってみればいい。最初にパンの耳の部分だけ食べ、いまいちおいしくないと思い、次に中身の具材を食べて、割といけるじゃないか、と思ったとしても、それはサンドイッチの本質を捉えていない。中に入るチーズでもチキンでもハムでも野菜でも、もともとそれだけで食べることができる。しかし、具をはさんでいる両側のパンがなかったらサンドイッチにはならない。パンだけの味、具だけの味で何を語っても、それはサンドイッチという全体を見たことにはならない。だから、パンだけを、中身だけを食べて、つまり1部分だけを見て、主観でいろいろ言っても、それはその人を冷静に見ているとは言えない。人だけでは無い。物事や現象でも同じことが言える。(感動を作れますか 久石譲 角川書店 61頁より引用)要するに、久石さんは物事や現象、他人を見るときに最初に感じたこと、いわゆる第一印象や直観力をもっともっと信頼したほうがよいといわれている。森田理論も同様のことを言っている。我々は第一印象や直観力から出発すれば間違いないのだが、それらを無視してしまう傾向がある。事実を無視してすぐに「かくあるべし」で物事を判断したり、他人を評価してしまうのだ。「かくあるべし」が出てきたときに、「ちょっと待て」、最初の第一印象、直観的に感じたことはなんだったのだろうと振り返ることができる人は、相当森田の修養が進んだ人だと思う。
2017.05.17
コメント(0)
禅に「求めんとすれば得られず」ということがある。そうかと思うとバイブルには、 「求めよ。しからば与えられん」と言っている。この2つは反対のことを言っている。どちらを信じたらよいのか。森田先生は次のように説明されている。「求めよ。与えられん」と言うのは、例えばあの人にいくら会いたいと念願したとしても、訪問しなければ面会ができるはずはない。 「求めよ」ということも、珍しいものが欲しければ探しにいけ。 1円が欲しければ、それだけ働けと言うことである。手を出さなければ得ることはできないぞ、ということの奨励の意味である。すなわち実行における事実を表現したものである。次に、「求めんとすれば得られず」というのは、これと比べて、思想と事実との相違であり、思念と実行との相違である。眠らんと求れば寝られず、思わないようにと欲すれば忘れられず、気を落ち着けようとすれば、ますます不安になる、と言うようなものである。私はこれを思想の矛盾として説明しているのである。 (森田正馬全集第5巻 白揚社 709ページより引用)この話と同じようなことを、玉野井幹雄さんは次のように説明されている。昔、武士が茶会に招待されたとき、茶室に入るのに刀を持っていては失礼になると思い、刀を持たずに入ったところ、師匠から「武士たるものが刀を肌身から放すとはなにごとか」と言って叱られたそうです。そこで次に参加するときには、刀を持って入ったところ、今度は「茶室に刀を持って入るとはなにごとか」と言って叱られたと言うのです。 (神経質にありがとう 白揚社 264ページより引用)玉野井さんの話では、その武士は、何の言い訳もせず、師匠の言う通りにしたと言うのです。常識で考えると、 2回目に叱られたとき、 「この前刀を持って入れといったではありませんか」と言いたくなるところですが、それでは「目の前の事実に反抗することになって」素直だとは言えないのです。それは、過去のことにこだわった態度だということになるわけです。武士のとった態度は「過去のことに関係付けないで、目の前の事実に従う」というものでした。相手が自分の意見と違うことや、関心のないこと言う時に、それを素直に聞くのは難しいものです。その場合に、なるたけ過去や自分を含めた他のことと関係付けないで、相手の言うことを素直に聞くことができれば、相手も喜ぶし、自分も負担がかからず助かるのです。このように、過去のことや自分を含めた他のことと関係付けないで目の前の事実に従うという事は、幸せな日常生活を送る上でとても大切なことだと思っています。こういう事は会社でもよくある。会社の上司が朝の朝礼で、訪問回数を増やさないと営業成績は上がらないと発破をかける。その日の夕方、営業目標の未達の報告を上司にした。するともっと営業戦略を練ってから訪問するように叱責される。朝指示したことと夕方指示することが首尾一貫していない。このような朝令暮改的な上司の元では仕事をする意欲がわいてこない。一体この上司は何を考えているんだということになる。上司の言葉を表面的にとらえれば確かに誰でも腹が立ちます。これを玉野井さんのように、朝と夕方、どちらも場合も目の前の事実に従うとどうなるでしょうか。まず朝の指示について。新規開拓の仕事は、見込み客を選り好みしないで、ローラー作戦で隈なく訪問して営業をかけないと思ったような成績は叩き出せません。新規営業は何度断られても粘り強く訪問を継続することが必要です。続いて夕方の指示。御用聞きのような営業活動を永遠に続けていて、営業目標を達成できるでしょうか。そういう戦略のない営業スタイルでは、継続的な成果を叩き出すことはまず無理でしょう。優秀な営業マンは、営業戦略やセールステクニックを常日頃研究して磨いています。会社で優秀営業マンとして表彰されるような人は、どちらの面でも優秀という場合が多いのではないでしょうか。一見矛盾するような話でも、その真意を事実に沿って具体的に考えてみて、事実に従うということが森田理論でいわれていることではないでしょうか。
2017.05.10
コメント(0)
先日の集談会で、排尿困難の話が出た。男子トイレに行ったとき、自分1人の時は問題はないが、横に他人がいるときは、用を足すことができなくなる。そこでプロ野球を観戦時は、自分のひいきのチームがチャンスを迎えた時に用を足しに行く。その時は大勢の人が試合に夢中になっているので、トイレに行く人がいない。安心して心置きなく用が足せるのだ。反対に、攻守の切り替わりの時は、みんなが一斉にトイレに駆け込むのでトイレには行かない。たちまち排尿困難になるのが分かっているからだ。また後ろに何人もの人が並んでいて、早く済ませるように急かされているようでとても不安になる。その方は以前、ある偉い先生にそういう時は逃げてはいけないと言われたそうだ。逃げてばかりだと、いつまでたっても排尿困難は治すことはできない。排尿困難の時は、用が足せるまで便器から離れてはいけないと言われたのだ。そのようにしてみたが、一向に排尿困難は改善することができなかった。集談会で相談したところ、反対にそういう時は逃げてもいいと言われたそうだ。そして、こうも言われた。用を足すということが目的であるので、人がいないときを見計らってトイレに行くのも1つの方法である。水を流しながら、用を足すほうがやりやすいのなら、その手を使ってもよい。また、大のほうの便器で用を足しても良い。大きなビルであれば、違う階に行って用を足してもよい。手段はどうであれ、用を足すという目的が果たせばよいのではないか、と言われた。その人は排尿困難について生活の発見誌に投稿した。すると、何人もの排尿困難の問題を抱えている人たちから手紙が来たという。その人たちとの意見交換では、用を足すことが目的であるので、それが達成できれば問題はない。排尿困難になったとき、逃げてはいけないということにとらわれて、 じっと耐えているほうが問題だという結論に達した。次に、その方から排尿困難を引き起こす心理状況について話があった。その方は排尿困難だけではなく、食事恐怖症、吃音恐怖症もあった。食事恐怖症というのは、人前で食事が出来なくなるという症状である。吃音恐怖はどもりである。矯正院に通ってもなかなか改善しない。これらは同じからくりによって引き起こされるそうだ。これらは、人が自分のことをどう見ているのかということが気になり、何とか気にしないようにしようとやりくりをしているうちに症状として固着してくる。そういう人は負けず嫌いである。人から気の小さいダメな人間に見られる事を極端に恐れる。正々堂々として、立派な人間としてみられなければならないという「かくあるべし」が強いといわれる。そのことにとらわれるあまり、増悪して症状に発展していくのだ。その人は排尿困難、食事恐怖症、吃音恐怖症は、現在すべて克服されている。どうやって克服されたのか。興味がある。それは森田理論を学習したからだといわれる。その中で、「事実唯真」の考え方がとても役に立ったと言われる。特に事実をよく観察するということだ。例えば食事恐怖症は、たまには他人から「どうして食べないのか」と指摘されることはあったという。ところが、そんな事は稀であり、周りの人は自分のことはほとんど見ていない。というよりも無関心であるということに気が付いたそうだ。自分の食事のことで頭がいっぱいで、人を観察するゆとりはないのである。それなのに自分は、周囲にいる人みんなが自分に注目して動向を見守っているはずだと思っていたのだ。自分は1人相撲を取っていたのだと気がついた。何回も観察するうちにそれは確信に変わった。すると、気持ちが楽になって落ち着いてきた。次第に宴会の席から参加できるようになった。宴会の席では飲み物があるので、とっかかりとしては良かったと言われていた。吃音恐怖症の人も、目的の言葉がでないのにいつまでも何とかして発音しようとしている。でも、考えてみるとカラオケを歌っているときに、どもっている人はいない。あれはリズムに乗っているからだと言われる。またどもる時は、その言葉の前に別の言葉を付け加えて話すように心がけると、吃音恐怖症が改善できることがある。要するにこれらの症状に対しては正面切って治そうと思わずに、用が足せればそれで結構だという心構えで取り組んでいくことが必要だと言われていた。こういう話を聞くと今日も集談会に参加してよかったとしみじみと思える。
2017.05.09
コメント(0)
2017年4月号の生活の発見誌からの引用です。私たちは、ともすると先入観で物事を見てしまいます。そのほうが、事実を確認する手間が省けて楽だからです。その結果、安易に誤った価値判断で行動に走り、後から悔やんでしまうが多いと思います。1つの例ですが、 「LDL 」は、悪玉コレステロールと呼ばれています。なぜ「悪玉」かと言うと、肝臓で作られたコレステロールを各臓器(例えば血管壁)に運ぶタンパクだからです。これは動脈硬化の原因になるので、 「悪玉」なんですね。しかし、これは一方的な見方です。今が飽食の時代。誰もがダイエットにいそしんでいる世の中だから、 「悪玉」扱いされるのです。もし今が食糧難時代で、誰もが十分な栄養を摂取できない状態だとしたら、血管壁にコレステロールを運んで壁を丈夫にして出血を防いでくれる「LDL 」は、 「善玉」と呼ばれているはずなんです。私たちは多かれ少なかれ、このような「先入観」で勝手に価値判断して物事を解釈していること、よく自覚しておきましょう。先入観で物事を判断すると、事実とかけ離れてしまうことが多いように思います。会社などでは4月になると昇格人事、移動や転勤があります。私の元勤めていた会社では、管理職の個人的な進言(好き嫌い)が人事に大きく反映されていました。自分のお気に入りの部下を昇格させたり、自分の指示を無視したり、反抗的な態度をとる部下を移動させたり、転勤させたりしていました。それは日常茶飯事に行われていたように思います。卑近な例では、お中元やお歳暮をを欠かさない部下をかわいがるとかです。部長などのような人は、日々部下と接している訳では無いのですが、部下の人物査定は課長などから聞いて、いわば気分で行っていました。私は部長の秘書のような仕事もしていたのでよく知っているのですが、部長は噂話や課長の評価をそのまま信用して、人事に反映させる傾向がありました。本人に直接面接して、その人の能力や可能性を把握しているわけではないので、誤った人事をされた人は災難にあったようなものです。先入観でこのような人事をされると、モチュベーションが下がることはあっても、上がることはないでしょう。また、周囲の部下たちは、人事権を持つ上司の機嫌をとるイエスマンばかりになり、組織は硬直してくると思います。私が以前訪問販売の仕事をしていた時のことですが、訪問販売では見込み客というリストがあります。私はそのリストを見て、先入観でランク分けをしていました。そういう勘は鋭くなるのです。そして実際の仕事では、高ランクに位置づけた人のみを訪問していました。すると必ず買ってくれるはずだと思って訪問した人から、断られると大変ショックを受けました。次の見込み客を訪問する気力が湧いて来なくなりました。見込み客が10人いると、そのうち高い確率で成約になると勝手に自分が先入観でランク付けした人が3名ぐらいいます。その他の人は訪問しても買ってくれないから無駄骨を折るだけだと思ってしまうのです。無駄なことはしたくない。実際にそういう人は最初から訪問することはありません。このような先入観で訪問販売の仕事をしていると、実績を残すことはできません。低実績で、上司や同僚たちから攻められるようになります。針のむしろに座らされているようなものです。また残った時間をどう潰していこうかと、右往左往するようになるのです。実際に実績を残している人はどんな人かというと、ローラー作戦で営業をしている人です。見込み客であろうがなかろうか、しらみつぶしに多くの人に会って営業ができている人です。その人たちは先入観というものがありません。しっかりとした確率論によって支えられています。体験的に10人の人に面会すれば2人か3人は成約に結びつく。最悪の場合でも1回の成約はあると考えているのです。数多くの営業活動をこなしてゆけば、成約になる確率と断られる確率は一定の範囲に収まることを経験的に分かっているのです。それはサイコロを振るようなものです。1から6までの出る確率は、数多く振れば振るほど6分の1に近づいてゆきます。だから、成約になろうが断られようが、営業の質を上げるよりも数を上げることを重視しているのです。つまり先入観ではなく、確率論で積極的に営業活動を行っているのです。そのほうが、安定的な営業成績を長期に渡って出し続けることができるのです。先入観に支配されると、目の前の事実を確認するという基本的な態度を放棄しています。必要な事実を見ようともしないし、見た瞬間に勝手に決めつけて解釈してしまうのです。そして、頭の中で勝手に解釈したり評価したりしています。言い換えれば、事実をありのままに見ていない人は、「事実」と「観念や解釈という人によって処理されたもの」との区別がつかない状態にあるといえます。森田理論では、肥大化した 「かくあるべし」を、小さくしていくことを学びます。その際、先入観を排除して、人から聞いたことでも、実際に自分の目で事実確認して裏付けをとることが大切だといわれています。森田先生は、残された記録によると、実際にそのようにされていました。
2017.05.02
コメント(0)
作家の三島由紀夫は強い完全主義者であったと言われている。彼は約束事を重んじることで有名だった。自分自身、遅刻したこともなかったし、誰かが遅れてきたときには15分以上待つこともなかった。作曲家の黛敏郎とオペラの仕事をしたとき、黛敏郎の作曲が締め切りに間に合わなかった。黛敏郎は詫びを入れ、上演時期の延期を申し出たそうだ。ところが三島由紀夫は、そのその提案を無視して作品の上演自体を取りやめた。以降、三島由紀夫は、黛敏郎と絶縁した。最初、予定された通りでなければ、妥協してまで行おうとはせず、むしろ白紙に戻してしまうのである。約束を破る人を大目に見るということはできなかったのである。彼の完全主義は他人に向けられるだけではなく、自分にも向けられていた。彼は大蔵省に勤めていたとき、家では午前2時ごろまで執筆して、朝早く仕事に出るという生活だった。睡眠時間は3時間から4時間だったという。さらに、原稿の締め切りを1度も破ったことはない。どんなに酒席で盛り上がっていても、 10時になるとさっと切り上げた。極めて厳格的、禁欲的で、自己コントロールの利いた生活ぶりだったのである。三島由紀夫の小説家としての絶頂期は、 29歳の時に刊行した「潮騒」、31歳の時の「金閣寺」、 「永すぎた春」である。残念ながら、その後刊行した小説の売れ行きはよくなかった。三島由紀夫の不振とは裏腹に、大江健三郎など、次世代の作家の作品が世間の話題をさらい、売れ行きでも三島をはるかに超えるようになった。さらに追い打ちをかけたのが、川端康成がノーベル賞を受賞したのである。三島由紀夫自身も毎年ノーベル賞候補に挙がっていたが受賞することはなかった。40歳を過ぎた三島由紀夫の関心は、自分の人生をいかに劇的に締めくくるかに向けられていたようだ。自衛隊での自決当日に最後の作品が編集者に渡るように段取りしていたという。最後まで原稿の締め切りを守り、予定していたシナリオ通りに人生の幕もおろしたのである。完全主義といえば、ノーベル賞作家のヘミングウェイや川端康成もそうだった。不完全な人生に耐えられなくなって最後は二人とも自殺している。あまりにも完璧を目指す生き方は、順風満帆で成功している間は問題はない。でも人生山あり谷ありが普通である。完全主義者は谷の時につまずく。一度歯車が狂い、自分が思っているように事が運ばなくなると、不完全な自分を許せなくなるのである。長所も欠点の数だけあるという見方ができないのである。また人生には波があるという認識がないのた。歯車が狂うと全部が悪いような気がしてくる。考えてみれば、私たち神経質者も完璧を求める傾向がとても強い。完全主義者である。普通神経症の人はちょっとした体の不調を見逃すことができない。何度も病院で検査を受ける。対人恐怖症の人は、必要以上に他人の評価が気になり、人前に出ることが億劫になる。不完全恐怖の人は、取越し苦労だと分かっていても、戸締まりやガスの元栓にとらわれる。完璧を求めるあまり、日常生活が停滞し、自分を否定し、対人関係がぎくしゃくしてくる。岡田尊司氏は、完全主義に陥る原因は、一つには親の育て方に問題があると言われる。完全主義にこだわる人は小さい時から、優れた結果を残したときしか評価されなかった人である。優れていなければ、価値がないという親の価値観に縛られて育っていることが多い。つまり、それは本当の意味でその子の価値を肯定され、愛されたと言うよりも、優れているという条件付きで、愛情や承認が与えられたということなのである。親の要求水準に達しない期待はずれの子どもは、否定され叱られることが多かった。親から無条件の肯定という形で、承認を与えられてこなかったのである。それが、大人になっても完全・完璧な人間でなければ、自分は社会に受け入れてもらえない。他者から愛されることがなく、認めてもらえないと生き延びていくことはできないというトラウマになっているのである。岡田氏は、不完全な存在こそが安定したものであり 、それを受け入れ、さらけ出せることが、人から受け入れられ、愛されることにもつながるのだといわれる。うまくいかないことや、思い通りにならないことがあっても、それはそれで人生の醍醐味だと受け止める。うまくいかないことにも何か意味があるはずだと、そこから何か宝物を見つけ出す心がけが、その人を幸福にしていくことだろう。苦労や失敗もまた楽しめばよいのである。もちろんうまくいっているときには幸せを満喫すればよいが、うまく行かない局面では、またそれだけの味わいがあるものだ。後から考えれば、うまくいかないことばかりで苦しんでいたときは、 一番必死に生きていた時だという感慨を覚えるものである。成功する時の輝きもよいが、苦悩し悶々と過ごす日々は、もっと深い人生の味わいを教えてくれる。なんともいえない切なさや悲しみ、悔い、無念さ。そうしたネガティブな感情こそ人生を人生たらしめているものなのである。幸福なだけの人生など、甘いケーキばかり食べさせられるようなもので辟易してしまうだけである。幸か不幸か、誰の人生も良いことと悪いことがほどよく織り交ぜられているものだその人がどれだけ幸福かは、よい事が人より多く起きるということではなく、悪いことにもどれだけよい点を見つけられるかなのであるといわれている。この考え方は森田理論に通じている。(あなたの中の異常心理 岡田尊司 幻冬舎新書参照)
2017.04.19
コメント(0)
一緒に暮らしている義理のお母さんの介護を一手に引き受けている専業主婦の人がいました。夫は仕事で毎日帰りが遅いし、子供たちは受験や就職活動で忙しい。夫の妹も自分の家庭のことで手一杯の様子で、たまに顔を見せるだけという状態です。この女性は誰に頼るわけにもいかず、 「私がやらずに誰がやる」と前向きな気持ちで、献身的に頑張って家事や介護をこなしていました。ところがある日、たまたま遊びに来ていた夫の妹に、義理のお母さんがこんな愚痴をこぼしているの聞いてしまいました。「よくやってくれるんだけどね。やっぱり実の娘じゃないから、世話の仕方に優しさがないんだよね」この一言で、女性の心の糸がプツンと切れました。急転直下、何もかも虚しくなってしまったのです。「いったい私は何のために頑張ってきたのだろう。誰にも感謝されないなら、いっそ全部止めてしまおうか」と投げやりになりました。しかし、やめてしまうわけにはいかないのです。自分がお世話しなければ義理の母は1人でトイレに行くこともできません。夫や子どもたちが安心して外で活動できる様にする為に、家事一切をこれまでどおりこなしていかなければなりません。でもこの専業主婦の方は怒りはおさまらないようです。その怒りを発散して、もう義理の母の介護をしないという風に決めてしまえば、いったんは楽になります。ところが、それでは家庭の中がめちゃくちゃになります。森田理論では、こうしたケースの場合、どのような行動をとったらいいのでしょうか。森田先生は腹が立っても軽率にその怒りを相手にぶつけてはいけないと言われています。その後の人間関係が修復できないほど壊れてしまうからです。ただし、 2、3日経ってまだその人にその腹立ちは収まらないような場合は、もっともな理由がある、とも言われています。まず衝動的にならないで時間をおいてみる。次に、その理由をきちんと文章などにまとめて整理して、冷静になって正々堂々と自分の意見を相手にぶつけてもよいと言われています。この場合はそういう事例にあたると思われます。ではそれを誰にぶつけていくのか。トイレに1人で行けないような義理の母に八つ当たりしても火に油を注ぐようなことになるでしょう。その気持ちを吐き出す相手を間違えてはいけません。その相手は夫や夫の妹、自分の母親、ヘルパーさんなどではないでしょうか。この方は、義理の母の介護をほとんど1人で行っています。家事をこなしながら、その上での義理の母の介護です。それも休みなしです。無理をして、介護を行っている可能性があります。それでは継続的に行き届いた介護が難しくなります。手抜きになっていることも考えられます。介護の内容を細かく書き出して、家族や夫の妹、時々来られるヘルパーさんなどと相談して、自分の負担を少し少なくするように考えられてみてはいかがでしょうか。そのために役割分担の提案をするのです。自分の子供にも手伝ってもらうことがあれば依頼する。夫には帰宅時間を早めて協力依頼する。土日祝日などは、積極的に家事や介護の手伝いをしてもらう。夫の妹が近くに住んでおられるのであれば、 1週間に何回かは実家に来て手伝ってもらう。ヘルパーさんに依頼する事項について再検討してみる。それらがうまく噛みあえば自分の介護の負担がかなり減るものと思われます。そうすれば、義理の母との接触時間が少なくなり、少々のイヤミを言われても流せるようになるのではないでしょうか。森田理論では不安や恐怖、不快感などは、それを取り除いたりしようとすると、それらに振り回されて、ますます苦しくなるといいます。どうしようもない不安などはまさしくその通りです。そうした不安はそっとしておいて、生の欲望の発揮の方へ視線を向けるようにします。ところが、ここで言うところの不快感については、そのまま受け入れて、我慢したり耐えていては、事態は悪化するばかりです。この不快感は取り除くために積極的に動いた方がよいのです。つまり、今後の介護のあり方について周囲の人と相談しながら、より良い方向性をみんなで考えていくことが必要です。そうすれば、自分の負担が減り、 義理のお母さんも今よりは喜んでくれるような介護に変わっていく可能性があります。自分一人で抱えて、キャパオーバーの働きは肉体的にも精神的にもいずれ行き詰まります。森田理論で言う不安や恐怖への対応は2つの面があると思います。まず取り越し苦労には時間制限をして取り合わないほうがよいものがあります。もう一面は、不安や恐怖に学んで積極的に解決策を求めて手を出していくもの。予め不安が予想されるものに対して、早めに対策を立てて、将来困ったことがならないようにしておく。例えば自分が不慮の事故で働けなくなったときのことを考えて、生命保険に加入しておく。あるいは自動車保険に入っておく。近い将来に起こると予想される地震に備えて耐震化を進めておく。これらの不安は放置しておくと大きな問題となって、自分たちの身の上に降りかかってくることがあります。変えられるものは積極的に手を出していく。変えられないものは自然に服従して受け入れていく。そしてこの2つを区別する知恵を持つ。そうすることでその後の展開が全く違ってくるのではないでしょうか。
2017.03.02
コメント(0)
全527件 (527件中 251-300件目)