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今日は結婚について考えてみたい。見ず知らずの男女が一緒になり、ひとつ屋根の下で生活するようになる。これは考えてみれば、大変な冒険である。うまくいくのか失敗するのか全く見当がつかない。私の周囲には離婚に至った夫婦がそこかしこにいる。中には3回結婚して3回とも離婚している人もいる。そういう人は恋愛やセックスが目的なのだろうか。たかが夫婦、されど夫婦。縁あって結婚したのだから、よい人間関係を築くに越したことはない。結婚すると衣食住、家事、育児、子育て、仕事などを分担しながら、お互いに協力する態度が必要になる。結婚生活をうまく乗り越えるためには、お互いが協力し合う気持ちを持って生活しているかどうかが問題となる。相手に家事や子育て、親戚や町内会などの仕事を押し付けてばかりではいつか夫婦の人間関係は破綻してしまうと思う。夫婦はそれぞれ別の人格を持った人間であるから、大なり小なり意見の衝突は必ず起きる。将来必ず繰り返される事実である。離婚に至る夫婦に二通りのタイプがある。意見の衝突が起きない夫婦は、夫婦関係が支配者と被支配者に分かれている。表面的には波風の立たない夫婦のように見えるが、実際には支配される側には不満や怒りが蓄積されていく。それが少しずつたまっていくと、いつか何かをきっかけにして大爆発を起こすことがある。意見の衝突が起きないもう一つのパターンは、相手のこと無視している夫婦である。子供や世間体や年金のことを考えての仮面夫婦のことである。食事も別。寝室も別。家計のやりくり、普段の生活も別々。これでは結婚している意味がない。むしろ夫婦生活が精神的な苦痛を増加させる。こうなると夫婦の人間関係はほぼ修復不可能となる。離婚か家庭内別居という状態に陥る。この問題を森田理論ではどう考えるのか。まず結婚する前にお互いに確認しておくことがある。それは、結婚すると、婚約中の時のように、いつまでもラブラブという状態が続かないということである。お互いにエゴを出し合って喧々諤々といがみ合うことがたえず頻発してくるということである。そうした事態に陥ったとき、どういう風に対応していくのかということを話し合っておくことだ。結婚前に意見交換して、一致したときは統一契約書にサインして額に入れて掲示しておくことが肝心である。軌道に乗れば取り外してもよい。一方が相手を抑えこんでいくのか。たまにはそれでもいいと言う人がいるかもしれない。私はあなたの言う事には何でも従いますから、問題ありませんという人だ。しかし、実際にはそういう人は10人に1人もいないのではないか。私の気持ちや意思ははっきりと口に出して言いますという人が多いのではないか。結婚当初は控えめなひとであっても、そのうち我慢できなくなって、自分の気持ちや意思を表出させる人も多い。その時に問題になるのは、相手が持っている気持ちや意思の取り扱いである。自分の気持ちや意思を表出した後で、じっくりと相手の気持ちや意思を聞く用意ができているかどうか。ここが肝心なところである。そして自分の気持ちや意思と相手の気持ちや意思の違いを確認する。そしてお互いに調整や妥協を図る用意を持ち合わせているかが肝心である。これはWINWINの人間関係である。一方がいつも自分の思い通りに相手を言い負かす事ではない。時には自分の主張を押し通したり、あるいは別のときには相手の言い分を取り入れたりする。話し合いによって、調整や妥協を繰り返して、譲ったり譲られたりしながら、なんとか夫婦の人間関係を存続させている状態である。うまくいっている夫婦でも、危ういバランスの中でなんとか家庭を維持しているのが普通である。もう一つ、夫婦の人間関係でぜひとも活用してみたいことがある。「私メッセージ」の活用である。これは発言する時に、「私」を主語にすることである。「私は・ ・ ・このように思う」「私には・ ・ ・このように感じられる」これに対して、「あなたメッセージ」というものがある。これは「あなた」を主語にして相手と話すことである。「あなた」を主語にすると、「あなたは・ ・ ・こうすべきだ」「あなたは・ ・ ・こうすべきではない」という方向に向かいやすい。相手に指示、命令、禁止、叱責、説教する発言が多くなる。つまり、相手に「かくあるべし」の押し付けとなるのである。これは森田理論で勉強したことだ。 「私メッセージ」の活用は、「かくあるべし」を少なくして、事実本位に近づく1つの方法である。このことを夫婦の会話に取り入れることを提案したい。
2018.07.17
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ダイコクネズミを、仲間から1匹だけ離して飼うと、 4~6週間後には神経質になり、行動はイライラと粗暴になる。さらに1~2週間経つと、支離滅裂な行動となり、皮膚には炎症ができ、解剖して内臓を調べると、内分泌性に異常が起こっているという。このようなネズミでも、1日にわずか5~10秒間、他のネズミとスキンシップの機会を与えるだけで、心身の異常の現われ方を大幅に遅らせることができると言われている。(内向的性格はこんなに得をする 斎藤茂太 文化創造出版 56頁より引用)プリンストン大学で感覚遮断実験という面白い実験があった。この実験は、完全防護の小部屋に、アルバイト学生を被験者として閉じ込め、眼には目隠し、手には木綿の手袋、肘から手先までボール紙の筒で覆い、食事とトイレ以外は、耳がすっぽりと覆われるようなU字形の枕をして、ペットに横たわっているように命じた。この実験に多くの人はせいぜい2日くらいしか耐えられなかった。被験者たちは、ベットに横たわるとまず眠りに入るが、起きてから鼻歌を歌ったり、筒で覆われた腕を叩き合わせたり、口笛を吹いて、自分自身に刺激を与えようとする動作をする。そのうち、 実験中の彼らにいろいろなテストや質問をする。だんだん時間が経つうちに小学生レベルの簡単な算数や文章構成問題も成績が低下していく。思考様式も子供っぽく筋道の立たないものとなってしまった。 (同書 125頁より引用)最初の実験で分かる事は、対人関係を遮断していくと、短期間のうちに精神の異常が現れるということです。対人恐怖症、引きこもり、登校拒否、出社拒否で全く他人と話をしなくなる。田舎で一人暮らしをしていて、 1日中誰とも話をしなかった日が続くような人がいる。これらは、身体と精神に大きなダメージを与えてしまうのである。私も対人恐怖症でアリ地獄の底に落ちていたときは、周りに人はいたが、話すことを拒否していた。イライラして精神病のような状態に陥った。立ち上がったリ座り込んだり、いつも動き回って気が狂いそうだった。体調が悪くなり、胃がキリキリと痛むようになった。病院に行くとうつと胃潰瘍だと言われた。うつと胃潰瘍を治すためにその後、 2年ぐらいかかった。そんな私を救ってくれたのは、病院での治療と生活の発見会の集談会の仲間であった。特に集談会の仲間は、 1週間に1回会ってくれて、自分の悩みをよく聞いてくれた。そして励ましてくれた。私はそれを頼りにして会社勤めを続けた。そして危機を乗り切ることができたのである。集談会の仲間たちは今や私の貴重な財産となった。2番目の実験は、体の自由を束縛して、行動を抑えこんでしまうという実験だ。この実験に対して、立正大学の山下富美代教授は「あまりにも刺激が乏しく、しかも限定的であっては、正常な精神活動は不可能だということになります。ある程度の一般的な相当量の刺激があってこそ、私たちはあるものに対して打ち込むことができ、集中することもできるのです」と指摘されている。 (同書 124ページより引用)神経症の人は、観念的で頭の中では色々試行錯誤するが、手足は全く動かないという傾向がある。 行動をしないと、頭や身体に刺激を与えることができないので、その働きは次第に落ちてくる。人間の体は活用していかないと、とたんに廃用性萎縮を起こしてくる。後で気づいたときは手遅れになっていたということも多い。それを避けるためには、せめて日常茶飯事を丁寧にこなしていくことがとても大切である。それらを人任せにして楽をしていると、暇を持て余すようになるのである。危険な兆候だ。その次には、やるべきことや、気づいたこときちんとメモしていく習慣をつけることである。それらに真剣に取り組むことによって、心と身体は活動的になって、好循環を始めてくれるようになるだ。これらはすべて森田理論学習で学んだ。
2018.07.15
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2000年以降、熟年離婚は約6万件前後で推移しているそうです。熟年というのは、 50歳以上の夫婦のことを指しています。この1つの理由として、 2007年から始まった年金分割制度の開始が挙げられます。その他に熟年離婚の理由は次のような原因は考えられます。・とにかく一緒にいるのが苦痛である。・親の介護の問題がある。・すでに子供が自立したから。・やることなすこと価値観が違う。・女性の自立・相手の浮気や不倫の問題・セカンドライフプランが異なる。熟年離婚というのは、妻の方から夫に対して切り出す方が大半を占める。1986年に結婚した森進一さんと森昌子さんはその後離婚しました。森昌子さんは、結婚を機に芸能活動を休止していましたが、 2001年に再開しました。その時に森進一さんはジョイントコンサートを提案されました。これは森昌子さんにとっては不本意な活動だったようです。さらに、子供の教育方針においても埋められない考え方の違いがあったようです。その結果、最終的に森昌子さんは2人の子供連れて自宅を出ることになりました。熟年離婚の問題を、森田理論を使って考えてみましょう。熟年離婚の原因は、自分は正しい、相手は間違っている。だから相手をコントロールして、自分の思う通りになってほしいという考え方があります。これは森田理論で言う「かくあるべし」を相手に押し付けていることです。こういう時にどう対応するのかが、その後に大きく影響するのです。小さな夫婦のすれ違いを放置して積み重ねるほど、溝は広がり、さらに深くなってきます。そして、ある日突然、妻の方から熟年離婚を持ち出されて、夫の方が右往左往することになるのです。森田理論では理想と現実は大きく乖離していると考えています。その時の自分の立ち位置が問題になります。 「かくあるべし」という完全主義、理想主義に自分の身を置いて、問題の多い現実の自分や他人を否定することは、溝を広げ、最後には修復不可能となってしまうのです。相手を自分の思い通りに変えることはできません。出来る事は、相手の言い分をよく聞くことです。そして、自分の考えや意見をしっかりと述べることです。この段階では、 2人の間にどんな考えや意見の相違があるのか、きちんと整理するのです。次の段階では、お互いに交渉して、どうすれば、ほどほどのところで折り合いをつけられるのかという作業に取り組むのです。ここでは、お互いの力関係はほぼ拮抗しています。自分の思い通りに相手をコントロールしたいという欲望を抑えて、いかに自分の考えや意見を相手に伝えられるのか。その事に注力していくのです。夫婦生活はいつも波風がたっています。それはお互いの利害関係が絶えず衝突しているからです。そんな口げんかがいやだから、熟年離婚を選択して自由気ままに生活したいという人もいるでしょう。しかし1人の生活は、元気なうちはいいと思いますが、歳をとってくると、孤独や寂しさが増してくる人も多いでしょう。雨降って地固まるではないですが、絶えず繰り返される衝突に真摯に向き合い、お互いにwin winの関係を目指すのが夫婦の人間関係作りの基本ではないでしょうか。皆さんは、朝起きたとき、夫婦で「おはよう」と元気よくあいさつはされていますか。恥ずかしくてそんな挨拶はしたこともないという夫婦もおられるかもしれません。そんなところから夫婦の人間関係のほころびが始まっているのかもしれません。(考・熟年離婚 鳴門教育大学 浜崎隆司教授の新聞記事参照)
2018.07.05
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先日参加した集談会で、上司との人間関係で悩んでいる人がいた。今度上司と2人だけで三日間一緒に仕事をしなければならない。考えれば考えるほど憂鬱になってくる。その上司はいつも高圧的で、自分に色々命令をしてくる。自分のことを端から毛嫌いしている。同僚たちの前で、自分のことをからかう、無視する、軽蔑する。他の同僚達と上司の関係はそうでもない。どうしたら、上司との人間関係がよくなるでしょうかという質問だった。私は、上司との人間関係が気まずくなった原因で思い当たることがありますかと聞いてみた。これといった原因は思い当たらないということだった。長年の付き合いの中で、自然発生的に、そうなってしまった感じがする。仕事をするのがつらい。できることなら、他の部署にかわりたい。それができないなら転職をしたい。でも転職をしても、今より条件が良くなることはないだろう。やめるにやめられない。八方塞がりで、悲観的なことばかり考えてしまう。その人は対人恐怖症で、もともと他人に対してはいつも緊張していた。目の前に他人がいると、なんとなく恐ろしい、怯えてしまう。いつも臨戦態勢をとって、自己防衛をしている。相手が自分に対して、暴言を吐いたり、危害を加えるのではないかといつもびくびくしている。その態度は相手にもすぐに伝わるようで、相手も売られた喧嘩は受けて立つというような雰囲気になる。だから人と接触することはできるだけ避けるようにしてきた。そのほうが自分としては、精神的に楽なのである。本当は他人と和気あいあいと付き合っていきたいのだが、自分にとってはそうすることは無理だと思う。朝、会社に行った時に、みんなに「おはようございます」と挨拶をしているのかどうか聞いてみた。したりしなかったりだという。その上司に限っては顔を見るのも嫌な上司なので、しないことが多い。すぐに自分の席に座って仕事を始める。営業の仕事は順調なのかどうか聞いてみた。一応ノルマがあり、毎月、それを達成することが求められている。自分の成績は、ノルマに対してだいたい80%から90%ぐらいな達成率だ。あまりノルマを達成すると、次第に目標数値を上げられてしまうので、良くもなし悪くもなしと言うところで抑えている。いつも目標数値に対して未達なのだという。目標数値が達成した月は、その月に計上しないで、翌月の実績に回すのだという。それに対して、上司はいつも叱責をする。課としての目標数値を達成することを考えているので、ノルマを達成したことがない自分のようなものをターゲットに定めて叱責をするのである。ノルマを達成したからといって、歩合制ではないので給料にそんなに差は出ない。 だからガツガツ働くような仕事はできないのである。課の中に1人だけ飛び抜けて営業成績を出す人もいる。他の人はドングリの背比べで、目標数値に届いたり届かなかったりする人が多い。大体は目標数値の90%から100%くらいにおさまる人が多い。そういう意味では自分の場合は、それよりさらに低く、最低ランクの営業マンである。そこまで話してきたところで、彼は何かに気がついたようだった。確かに会社の中で挨拶も出来ないような人間が、得意先に言ってきちんとした対応はできないかもしれない。挨拶を軽視するような人間を、可愛いと思うような上司はいないかもしれない。対人恐怖症があるけれども、 「おはようございます」 「お疲れ様です」 「承知いたしました」 「ありがとうございます」という挨拶はその気になれば自分でもできる。挨拶は積極的にするようにしたいと言われた。しかし、営業の仕事についてはどうも積極的になれない。このたびの同行営業も、営業成績を上げるために計画されたことだった。課の営業成績の足を引っ張ってばかりいる自分を軽蔑しないでくれというのは虫がいいかもしれない。人から一目置かれ、チヤホヤされるような人間になりたいという気持ちはあるが、そのための努力をすることを避けているのだから自業自得なのだ。自分の場合は、ある程度の営業成績が上がるとすぐに喫茶店や木陰で休む癖がある。サボらないで営業をすれば、ある程度の成績は出せる自信はある。上司との人間関係を良くするためには、サボらないで仕事に専念することかもしれない。そのためには携帯の位置情報を活用した営業活動にするしかないかもしれない。自分は自分で行動を律することができない人間なので、他の人の力が必要だ。私はこの話を聞いて、上司との人間関係を良好にするためには、挨拶をきちんとすることと、営業成績をもう少し上げていくことが肝心なのではないかと思った。今は上司の思惑ばかりに気をとられて、外堀を埋めることがおろそかになっているように感じた。
2018.06.16
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精神科医の神谷美恵子さんの話です。精神的苦痛は他人に打明けることによって軽くなる。聞いてくれる相手の理解や愛情に触れて、慰めや励ましを受けるということもあろう。しかし何よりも苦しみの感情を概念化し、言葉の形にして表出するということが、苦悩と自己との間に距離を作るからではなかろうか。 「いうにいわれぬ」苦しみをいいあらわそうとするとき、人は非常な努力によって無理にも苦しみから自分を引き離し、これを対象として眺めようとしている。その時、自分1人ではなく、誰か他の人も一緒になって、それを眺めてくれれば、それだけでその悩みの客体化の度合いは大きくなる。悩みというものは少しでも実態がはっきりするほど、その圧倒的なところが減ってくるものらしい。したがって、いい加減な同情の言葉よりも、ただ黙って悩みを聞いてくれる人が必要なのである。そういう聞き手がだれもいないとき、または苦しみを秘めておかなくてはならない時、苦悩は表出の道をとざされて心の中で渦を巻き、沸騰する。胸がはりさけんばかり、という言葉はそれをあるがままにあらわしている。これはまさに危険な状況で、 ・ ・ ・精神的破局をきたす恐れがある。どうしても苦悩を打明ける人がいない時には、文章に書くというのも安全弁の役に立つ。苦悩をまぎらしたり、そこから逃げたりする方法はたくさんある。酒、麻薬、賭け事その他。仕事に異常に没頭することもその一つであろう。しかし、ただ逃げただけでは、苦悩と正面から対決したわけではないから、何も解決されたことにはならない。したがって、古い生きがいは壊されたままで、新しい生きがいは見出されていない。もし、新しい出発点を発見しようとするならば、やはり苦しみは徹底的に苦しむほかないものと思われる。(生きがいについて 神谷美恵子 みすず書房 127頁より引用)ここで神谷さんは苦しみに陥った時の対応方法について述べられている。自分の苦しみを自分ひとりで抱えているよりは、信頼できる人に口に出して吐き出すことが大切であると言われている。信頼できる人というのは、反論しないで、じっと受け止めてくれる人である。adult childrenの自助グループに参加している人は、言いっ放し、しゃべりっぱなしであると言う。私は幸運にも集談会の中でそういう人を見つけた。その人は直接的なアドバイスはされない。また、自分の性格やしぐさの良いところを発見しては評価してくれるのだ。こういう人の側にいると、とても心が安らぐ。一般的に、普段の生活ではグチはあまり言わない方がいいという。でも集談会では、心の中のもやもやは吐き出したほうがよいと思う。私も集談会に参加し始めた頃は、会社での人間関係に問題を抱えていたので、人間関係の愚痴を喋っていた。集談会で自分の気持ちを吐き出すとだいぶ気持ちがラクになった。自分ひとりで抱えていたら、どんどん八方塞がりになってつぶれていたのではないかと思っている。そのうち森田的な生活を続けているうちに、次第に愚痴を言うことが少なくなかった。仕事や生活面での気づきや工夫を話す割合が増えていったように思う。集談会では、他人の愚痴を聞いてあげることも大切だと思う。ともすると、相手の話を遮って、みんなでよってたかってアドバイスをする。あるいは仕事や生活上の問題点を取り上げて、相手のことを批判・否定する人もいる。これらは百害あって一利なしに終わることが多い。自分も悩みを聞いてもらって楽になったのならば、謙虚な気持ちになって悩んでいる人たちの話を最後まで聞くという態度を持ち続けることが大切であると思う。
2018.06.12
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先日参加した集談会で雑談恐怖の話が出た。その人は仕事で初めて面会する人に対しては実に堂々とした話ができるという。ところが、会社の中で同僚達と雑談をする段になると、急に借りてきた猫のようになるという。自分としては、その雑談の輪の中に入りたくて仕方がないのである。ところが、どんな話をしていいのか皆目見当がつかない。また、同僚たちは自分のことをある程度知っている。長所や強み、仕事で成果を上げた時のことも知っている。問題は、自分の欠点、弱み、ミスや失敗のことも知っていることだ。雑談の場で、急に自分のことが話題になり、面白おかしく取り上げられてはやり切れない。そんなことになるくらいなら、雑談の場から離れ、いかにも仕事が忙しいと言うような態度で仕事をしていた方が気が楽だ。でも、みんなと同じ行動をとっていないので、心の中は穏やかではない。雑談もできない自分のことを、同僚たちはどう思っているのだろうか。そのうち、昼休みの時間になっても外食で誘われなくなった。自分は1人寂しく会社の中で食事をとっている。この人の場合は、本心はみんなと和気あいあいとした会話を楽しみたいのである。ところが、同僚達から拒否、無視、批判、否定、からかわれるという予期不安が強く、雑談を楽しむという自然な行動が出来ないのである。本人は人間関係がうまくいっていない。どうしたらよいでしょうかと相談されているのである。この人の場合は注意や意識が自己内省的に働いている。本来は仕事に向かうべき注意や意識が、自己防衛一辺倒に偏っているのである。そのことばかりにとらわれているので、仕事ではうっかりミスがでるという。そして精神交互作用によりどんどん増悪している。それは苦しみ以外の何物でもない。仕事をするのも、会社に出るのもイヤで仕方がない。生きていくのも投げやりになってきた。本来雑談というのは、どうでもいいような話、意味のない話、目的のない話、価値のない話、役に立たない話、いい加減な話、面白い話、スキャンダラスな話、面白半分の話である。責任を負わなくてもよい話。まとまりのない話。気の置けない話である。つまり、親しい人とリラックスして、相手をけなしたり、自分がけなされたりして、たわいのない話をすることである。自分のこと包み隠さず開陳して、会話自体を楽しむことである。雑談は本来人間関係における潤滑油のようなものだが、その役目を果たしていない。自己防衛に偏っていると、雑談の中で、自分のことに話題が及ぶことに耐えられないのである。今までの経験から、雑談の中では自分のことがちやほやと評価され、一目置かれるような会話にはならないことがよくわかっている。雑談を面白くするためには、相手のミスや失敗、欠点や弱点を必要以上に大きく拡大してまな板の上に乗せたほうが、よほど面白いのである。雑談恐怖の人はそのことが身にしみて分かっている。これは将棋で言えば、攻めることを忘れて防衛一辺倒になっていることである。そして自分の弱点や欠点をとりつくろい隠すことばかり考えているのだ。事実をありのままに認めることを拒み、捻じ曲げようとしているのだ。だから雑談恐怖の人で言えば、自己防衛一辺倒を修正する必要がある。自己内省一辺倒を改めて、専守防衛以外のものに注意や意識を向けていく。森田理論では、そのことを「生の欲望の発揮」と言っている。雑談恐怖を持ったまま、自分の欲望と向き合うことが大切なのだ。雑談恐怖と生の欲望のバランスを意識することが大切なのである。そう考えると打開策を思い浮かべることができる。できるだけ雑談に加わって、話すだけではなくむしろ聞くことに専念する。面白ければ笑う。雑談の場にいることは、「私はみんなと友好的な関係を築きたい」という意思表明なのだ。そして自分から雑談の話題を毎日用意しておく。例えば、報道ステーションや新聞を見て、毎日2つ3つは雑談のネタを用意しておく。また人の役に立つことはないかと常日頃から探して、見つかればメモしておく。そして少しずつでも実践をする。さらに、自分の欠点、弱点、ミス、失敗の事実を隠したり、捻じ曲げたりしないようにする。10個のうち1つでも2つでも素直に認めることができるような態度が身につけば、雑談はそんなに苦にならなくなる。とにかく雑談恐怖の人は、注意や意識が自己内省的に偏っているということをよく認識し、それを打破していく実践・行動が大切になる。
2018.06.08
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神経質者の場合、社会に適応してうまくやっていけるのかどうか自信がないという人が多い。特に、良好な人間関係を築くことに対して自信がない。あるいは、目の前の仕事や課題に対して、目的を達成するまでできるかどうか自信がないという。今日は、この自信について考えてみたい。第一の点であるが、社会に放り投げられた時、 防御一辺倒になり、自分の気持ちや意思を表現することができない。他人や社会はいつも自分を攻撃する存在であると思っている。その攻撃から自分を守るために、常に自分に対する相手の言動に注意を払っている。自分のことを非難、叱責、拒否、無視、抑圧、脅迫、否定されることに神経過敏になっている。少しでも予期不安が発生するとすぐに身を守ろうとする。貝がすぐに固い殻を閉じるようなものだ。逃避欲求に従ってすぐに逃げる。良好な人間関係作りに自信がない人は、注意や意識の方向が内向き一辺倒で、外向きになっていない。この原因は、生後1年6ヶ月の間に母親とのあいだで形成されるという愛着の形成が不十分であることにあると考えられている。しかし今更親を憎んでも、益々自分がみじめになるだけだ。(これについては、岡田尊司氏の「愛着障害」の本を参考にしていただきたい)愛着障害の人は、無条件で、他人に信頼をよせることができないのである。さらに他人を信頼することができない人は、自分も信頼できない。だから常に社会的な死ばかりを警戒しながら防衛的な生活しているのである。私の場合も全くその通りである。その苦しみや生きづらさは大変なものであった。このような問題を抱えている人は、森田理論学習を始める前に、遅まきながらても、「愛着の形成」に手をつけることが必要である。特定の人との間で、信頼され信頼できる人間関係を作る必要があるのだ。配偶者、師、友人、上司、趣味の仲間など、どんな関係でもよい。心の安全基地となるなる人ならどんな人でもよい。ただ利害関係目当ての人はまずい。私の場合は、森田理論学習の集談会の中で見つけてきた。それも支部研修会や懇親会に出席することで可能となった。学習から少し離れたところで見つかった。精神的なピンチに陥った場合、一時的に緊急避難する場所が確保できていることは本当に心強いものだ。自分の苦しみをわかってくれて、共感し受容し励ましてくれる人のことだ。自分の存在を信頼できるようになるためには、他人からのサポートが必要だと思う。そしてできれば自分も相手の安全基地となるべく努力していくこと。次に、目の前の課題や目標に対して、達成できるかどうか自信がないということについて考えてみよう。当然、初めて挑戦することに対しては、うまくいくかどうか自信がないのは当然だ。普通の人は、どっちに転ぶか分からないけれども、やるべきことから逃げずに見切り発車している。自信がないなりに挑戦して、成功したり失敗を繰り返しているうちに、いつの間にかやれるという自信をつけている。神経質者は、ミスや失敗を極度に恐れるがために、いつまでも頭の中でシュミレーションを繰り返す。頭の中で納得し、これならできるという確信を得てから初めて取り組もうとする。試行錯誤しているうちに、チャンスが逃げていく。また、悲観的に考えすぎて、そのうち手も足も出なくなる。そうなると、実際に行動しないから、ミスや失敗の経験を積み重さねることができない。結局成功の足がかりがつかめない。1人前の大人になるまでに3000回の失敗をする必要があると聞いたことがある。我々は、ただの1回のミスや失敗も許せないのである。ミスや失敗を重ねていると、次に挑戦するときに、その失敗は繰り返さないようになる。次第に成功へと近づいていくのだ。考えるばかりで行動力の少ない人は、目の前の日常茶飯事に丁寧に取り組んでみることだ。できれば自分の得意な分野、好きな分野にも積極的に取り組んでみる。頭の中で試行錯誤を繰り返すよりも、実践・行動力をつけることで、少しずつ自己効力感を身につけていくことが大切である。
2018.06.02
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本日は薄くて広い人間関係を作るために、その一つの手段として「名刺」について話してみたい。会社勤めをしているときは誰でも会社の名刺を持っていたと思う。名刺交換していないと、連絡をしようと思っても連絡がつかない。私は現在、会社勤めの名刺の他に、森田理論学習の関係の名刺、老人ホームの慰問の名刺を持ち歩いている。これらは全て手作りである。パソコンで作って、名刺専用の用紙を買ってきて印刷している。いつも20枚程度作り、配り終わればまた補充している。森田の関係の名刺は、例えば他の集談会などで講話をしたりするときに渡すことがある。これには生活の発見会での役割、所属している集談会での役割、心理関係の資格、住所、氏名、電話やfax 、メールアドレス、このブログの紹介などが入っている。これが大いに役立ったのは森田療法学会に参加した時だった。少し話をすると、名刺交換になる。持っていないと、一方的にもらうばかりで、自分の紹介はできない。ブログは現在、平均すると 1,000人近くの人が訪れてくれるようになったが、この名刺を渡すと、 「ブログをやられてるんですね」と言う人が少なからずおられる。この名刺はブログの宣伝効果にもなっているのだ。次に、老人ホームの慰問活動で渡す名刺である。森田関係の名刺とは全く異なる。老人ホームの慰問は、主としてチンドン屋としての活動がメインになる。写真付きで、それを前面に出している。その他に、私の持ち芸であるサックスの演奏、どじょうすくい、浪曲奇術、獅子舞も紹介している。これに近々腹話術を加えるつもりである。これは、訪問先で渡すと同時に、初めて出会った他の慰問仲間に渡すことになる。この名刺を見て、慰問先以外の人以外でたまたま参加していた人が、慰問を依頼してくることがある。また同じような活動している慰問仲間に渡していると、人間関係が広がってくることがある。数打てば当たるではないですが、それでも少しは人間関係づくりに役に立っていると思う。私は、花を育てたり、家庭菜園、果樹、加工食品づくり、魚釣り、小動物を飼うことに興味がある。田舎にそのための畑も持っている。作業場も農機具や道具もある。仕事を退職した後は、そちらの方面に力を入れたいと思っている。将来は、それらをアピールした名刺も作りたいと思っている。その名刺を持って、すでに楽しんでいる人や、そうしたグループを訪ね歩いて親交を深めたいのである。自分ひとりで取り組むのもよいが、もっと面白いのは、同好の人たちとの交流そのものである。私は森田理論学習で、人間関係のコツは、広く薄い人間関係を幅広く作り上げていくことだと学んだ。それに向けて、自分独自の名刺を作って自分を自己アピールして、幅広い人間関係を楽しみたいと思っているのである。夢はどんどんと拡がっていくようである。
2018.05.10
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プロ野球をテレビで観戦していると、今の球はストライクではないのかと思うことがよくあります。あるいは反対に、どうも外れているような気がすることもあります。審判も大変なのでしょう。ストライクゾーンにボールが半分、あるいは3分の1入ったか、入っていないかなとをその都度判定しているのです。これでは審判によって差が出るのは当然のことでしょう。ボール気味の球でもストライクという人もいれば、とにかく厳しくやるのがアンパイアだときわどいところはほとんどボールという人もいます。走塁での微妙な判定はリプレイ検証というのが始まりました。ビデオ検証により判定が覆ることがあります。しかし、当然ですがストライクやボールの判定のリプレイ検証はありません。だから、個々の審判の特徴をあらかじめ知っておく事は大切です。プロ野球の選手は、自分のストライクゾーンを自分の体に覚え込ませています。自分がボールであると判定した球を、審判がストライクと判定した場合、選手によって様々な反応があります。審判がストライクというのだからストライクなのだろうとおとなしく引きさがる選手もいます。不満はありながらも、そのケースがほとんどでしょう。なかには、腹を立てて「なんで今のがストライクなんだ。お前の目は節穴か」などと悪態をつく選手もいます。あまりにもしつこすぎて、退場させられる選手も出てきます。こうなりますと、審判を敵に回すことになるので、後々まで悪影響がついてまわります。この点では、落合選手の対応はとても参考になります。落合選手は現役時代、試合前に、とにかくよくアンパイアと喋っていました。また試合中、本人がややボールと思ったものを仮にストライクと言われても、顔に露骨に不満を表したり、高圧的に「今の低いだろ」などと声に出したりはしません。そんな時、落合さんはゆっくり振り返って、そのアンパイアに向かって、いたって優しい口調で、 「ちょっと広めに取っているように思えるんだが、今日はそこまで取っているんだよな」と事実確認をします。決してお前の判定は間違っているなどという事は言いません。あくまでも事実の確認をしているのです。ところがこういうことを続けていると、審判たちの間には、 「やはり落合さんはきわどいところがすごくよく見えている」というイメージが定着するのです。落合さんは元々選球眼のよい選手です。それに加えて、ある種の威厳のある確認行為を繰り返すことで、ただでさえ良い選球眼がそれ以上によいような印象を審判の方々に植え付けられるのです。そうこうしているうちに、落合さんが狙い球を外して甘い球を見逃したとしても、審判が「ボール」と言うようになりました。時として落合さんに有利な判定をするようになったのです。(古田式・ワンランク上のプロ野球観戦術 古田敦也 朝日新聞出版 85頁より引用)この話は森田理論に通じる話です。審判に文句を言う選手は、自分の「かくあるべし」を審判に押し付けているようなものです。その結果、ストライク、ボールの判定が覆ることは全くありません。それどころか反対に逆襲を浴びて、自分を不利な立場に追い込んでしまいます。もしそれが仮に正しくても、百害あって一利なしです。落合選手は、納得できない理不尽な判定にクレームをつけることは行いません。その審判の判定の事実の確認作業を淡々と行っているのです。そのためには、試合前からざっくばらんな話をしながら、試合中でも確認作業程度の話ができる人間関係を作り上げています。そして、受け入れがたい事実の確認作業を積み重ねることによって、最終的には自分がその事実に対応しようとしているのです。変化に対応しようとしているのです。審判は是非善悪で自分たちを非難したり評価してしないので、落合選手の世界に自然に引き込まれてしまっているのです。これが落合選手の審判を味方につけるということだと思います。こういうことを継続していると、全体が丸く収まっていくのです。この話は私たち神経質者にとっても、とても参考になる話です。他人に対して「かくあるべし」を押し付けて、改心させるようなことを言うには及ばない。相手の実際の行動・実践に対して見たままの事実だけを述べる。事実の確認作業を行う。その事実に対して、「私はこのように思ったのだが、その見方は間違いないのかどうか。教えてもらえないだろうか」と低姿勢で聞いてみる。そのような対応を繰り返すことで、相手との関係が険悪な関係に陥ることなく、双方にとってメリットが出てくるのではないでしょうか。そこには批判、強制、否定、拒否、無視、脅迫など相容れない相互信頼の人間関係が構築できるのではないでしょうか。これが森田理論から導かれる、人間関係のコツだと思われます。
2018.05.02
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他人の思惑が気になって仕方がないという人は「愛着障害」を起こしている可能性がある。「愛着障害」を起こしたままで対人関係を維持することはとても困難である。しかし「愛着障害」はその後修復が可能であるという。共感的で安定した、支えとなってくれる第三者とのあいだで愛着を育み、愛着の傷を修復し、最終的なゴールとして母親との関係も安定したものにしていくというのが現実的である。まずは、母親から適度に距離をとって、中立的だが、思いやりを持った存在との関係において、自分の中の不安定な愛着を克服していく。信頼でき、関心や価値観をある程度共有し、何でも話すことができる存在に安全基地を見出し、受け止められることで、この作業を進めていくのだ。集談会の仲間であってもいいし、パートナーであってもいいし、師であってもいいが、思いやりとともに、いつも変わらない安定性をある程度備えていることが必要になる。医師やカウンセラーのような専門家についても、同じことが言える。親から適度に距離を取るためにも、また、自分で自分の問題に取り組み、それを乗り越えていくためにも、そうした存在の支えが不可欠だ。安全基地によってバックアップされるからこそ、人は新たな可能性に挑戦してみようと思えるし、課題を克服し、自立を成し遂げることもできる。安全基地となって支えてくれるパートナーに出会えた人は幸運だと言える。ただ、せっかく良いパートナーに出会っても、それを安定した関係に育んでいくことができなければ、散々相手の愛情や献身を無駄遣いしただけで最後は、ギクシャクした関係となって終わるということにもなりかねない。愛情は相互的なものだということを忘れず、自分だけが一方的に甘えるのではなく、自分も相手の安全基地になるように努力することが大切だ。それによって、いっそう相手はあなたの安全基地となってくれるからだ。愛着が不安定な人では、つい甘えが出て依存しすぎたり、感情的になりやすいのだ。特に自分の弱点を指摘されたりすると、自分を責めていると受け取ってしまい関係自体がギクシャクすることにもつながる。(母という病 岡田尊司 ポプラ新書 283頁より引用)私の場合は、集談会の中で安全基地となる人を何人も見つけてきた。そういう人は、自分の悩みやグチをよく聞いてくれる。傾聴、受容と共感の気持ちを持った暖かい人ばかりであった。例外もあったが、基本的には否定や非難されることはほとんどない。困った時は親身になって相談に乗ってくれた。そういう後ろ盾があれば、心の中にゆとりが生まれてくる。困った時は、集談会で知り合った仲間に相談してみようという気持ちになった。それが会社での人間関係の中に生きてくるのである。安全基地となる人は1人ではない。 3人ぐらいはいたほうがよい。そういう人は体験交流や懇親会、集談会を離れた支部の1泊学習会などで発見できた。井の中の蛙状態ではなかなか心の安全基地の見つけることができないのではないかと思う。思い切って、懇親会、 1泊学習会、支部の1泊研修会などに積極的に参加することが大切であると思う。
2018.04.27
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作家の三島由紀夫は、東大を出て大蔵省に入るほどの優秀な人であった。しかし、晩年楯の会を結成し、若衆組を思わせる愛国集団での同性愛的な関係に傾倒し、ついには自衛隊への乱入と自決という事件を起こしている。常人には考えられない生涯であった。その一端は幼少期からのいびつな育てられ方あったように思われる。彼の祖父は、原敬内閣の懐刀などと言われ、福島県知事から樺太庁長官を務めた人物だった。エネルギッシュな活動家であった。その後疑獄事件にからみ失脚している。祖母は士族の出身で、気位と虚栄心に満ちていた。絶えずヒステリーを起こしていた。そんな母親を罵倒する父親とのあいだで、夫婦喧嘩が絶えなかった。そのうち祖父は、家に帰らなくなったので、実質祖母が家長の役割を果たしていた。三島由紀夫の父親は一人っ子だった。父と母の険悪な関係の中で、いつも他人の顔色を伺い、自分の意志を持たない人間に育っていった。母親に依存して、自分の意見を述べるようなことはなかった。そして父親の活動的でエネルギッシュな面は全く持ち合わせていない。無気力、無関心、無感動、無作法な人となりであった。ただ学力は優秀であり、東大から、農商務省に入った。しかし、その働きぶりは無気力そのもので、人望にも欠けていた。三島由紀夫の母親は、開成中学の校長先生の娘であった。そんな夫婦が姑と一つ屋根の下で暮らしていた。その頃、三島家ではすべてが姑の指図によって回っていた。夫婦の問題もすべて祖母の指図によっていた。祖母は、三島由紀夫が生まれると、母親から子供を取り上げ、自分で育てようとした。母親は3時間おきに母乳を与えるときだけ、面会を許された。これはイスラエルのキブツの子育てを連想させる。キブツでは子供は母親から引き離されて、保育士がまとめて育てていた。しかし母子関係を遮断されて育てられた子供はその後重篤な精神障害を発症している。偉大な作家三島由紀夫も同様だったのである。祖母は孫の遊び相手にまで口を出して、男の子は危ないと言って、年上の女の子だけと遊ばせた。のちに、男性的なものに強く固執することになる三島は、幼少期はまるで女の子のように育てられた。情けないことに、こうした事態に母親はもちろん、父親も祖母に対して何も言えなかった。また祖母に逆らって、妻や子どもを守るという精神的な強さはもともとなかったのだ。三島由紀夫は母親に甘えそこなった。その反動として成人してからもその空白を埋めるかのように母親べったりの親子関係であったという。身近な父親と同一化することにも失敗している。その後、東大法学部から大蔵省に入省している。夜は徹夜をしてまで小説を書いていたため、健康が危ぶまれた。父親は日本一の作家になるという条件付きで、勤めを辞めることに同意した。大蔵省に在籍したのは9ヶ月である。三島由紀夫は、生まれてすぐに母親から切り離されて成育している。愛着が形成されるという生まれてから1年6ヶ月間の部分が欠落しているのである。また、父親が家を取り仕切っている自分の母親に全く頭が上がらず、父親として、わが子に接することができなかったと言うことが、三島由紀夫という歪な人間を作り上げたと断言せざるを得ない。子供の成長にとっては、まずは母親が愛情を持って愛着の形成していく。父親はその母親をサポートしながら、しつけや外に向かって活動力をつけるなどの役割を十分に果たすことが、子どもの生育にとっては不可欠であると考える。(父という病 岡田尊司 ポプラ社 89ページから94ページ要旨引用)
2018.04.24
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子供が行動範囲を広げていくためには、安全を確認できる存在が必要だ。その一番の安全基地となるのが、自分を生んでくれた母親なのだ。小さな子供を連れたお母さんが、街角などで友達とばったり出会って立ち話、こうした光景はよく見られる。子供はお母さんの足に隠れるように抱きつき、時々顔をずらしてお母さんの友達を見上げる。「あら、恥ずかしいのかしら」などと声をかけられると、またお母さんの足に隠れてしまう。少しするとお母さんの足から離れ、お母さんの友達を観察しているようなしぐさをする。そのうち、お母さんから離れ、その友達に興味を示して触れたりするが、 「あら、なに」と声をかけられると、再びお母さんに抱きついてしまう。よく見かけられるこのような行動は、子供にとってどのような意味を持っているのだろう。実は、この子供は別に恥ずかしくてお母さんの足に隠れているのではない。お母さんとお買い物という子供にとっては魅力的な状況のなかで、子供なりにアンテナを張り巡らせ、探索行動をしているのだ。お母さんの友達という見知らぬ人の突然の登場により危機を感じた子供は、お母さんのところへ戻ったり抱きついたりして自分の安全を確認しているのである。そこに帰れば安心だとわかれば、先ほどよりもちょっと冒険を試みる。これを繰り返すことで子供の活動の範囲は広がっていくのである。母親が子供の安全基地としての役割を果たすためには、お母さんは子供の不安を解消し、安心を与える存在であることが不可欠である。それは母親と子供の間の、心の絆を元にした安定した関係の上に成立している。安心できる安全基地があるからこそ、子供は不安や危機を覚えても、それを乗り越えて新たな行動を起こしていくことができるのである。 (発達心理学 山下富美代 ナツメ社 108ページより引用)子供の成長にあたっては、生後1年6ヶ月の間に、母親との間に愛着の形成が行われないと、その後重篤な精神障害を引き起こすと言われている。その後、行動が拡大するにつれて、父親も含めて両親が安全基地の役割を果たすことが重要になる。その後は、親は子供の身近なところにいて、好奇心を刺激したり、少し危ない遊びも経験させたりして、内に引きこもるのではなく、外に向かって探索したり、挑戦したりする体験が必要となる。これはどちらかというと父親の役割である。いずれにしても、子供を育てるという事は、核家族の夫婦が闇雲に取り組むことは問題が大きい。独りよがりになって、ポイントをつくことができなくなるからである。子供の成長と育て方については、多くの先人の知恵が蓄積されている。学問でいえば、発達心理学といわれる分野である。子育てに取り組む人は、親業などの自助グループに両親そろって参加することが必須である。そこでみんなで助け合いながら、きちんと子育ての基本を学んでいくことが必要だと思う。仕事や趣味などにうつつを抜かしてスポイルしていると、そのしわ寄せは、思春期以降に解決困難な問題として親と子に襲い掛かってくることを肝に銘じておかなくてはならない。
2018.04.18
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玉野井幹雄さんは、人間関係について次の様に説明されている。人はだれでも、自分自身に対するように人にも対するものです。ですから、自分自身を大事にするのと同じ程度に、他人を大事にすることができる、ということになります。逆に言うと、自分自身を大事にすることのできない人は、他人を大事にすることができないということです。同じことですが、ありのままの自分を受け入れることができない人は、他人を受け入れることができないものです。また、自分の欠点を許すことができる人は、他人の欠点を許すことができますし、自分の欠点を許すことのできない人は、他人の欠点も許すことができないものです。ですから、人間関係を良くするためには、まず自分自身の中の折り合いをつけることが先決だと言うことができます。つまり自分の中が「現実の自分」と「それを批判している自分」に分かれて争っている状態の和解を図ることが先決だということです。そのためには、まず「現実の自分を受け入れる」ようになることが先決であると申しているのでありまして、それができるようになれば、無駄な抵抗をしなくなりますから、悩みも少なくなり、孤立感からも解放され、人間関係も良くなるのであります。(いかにして悩みを解決するか 、玉野井幹雄 自費出版 160頁より引用)玉野井さんによると、平気で他人を脅迫、無視、批判、否定するような人は、自分で自分のことを脅迫、無視、批判、否定するような人であると言われている。自分という1人の人間の中に、葛藤や悩みを抱えて苦しんでいる人間がいるのですが、それを見て軽蔑している別の人間が住みついているのです。力関係から言うと、批判や否定を繰り返している自分が常に主導権を持っており、葛藤や悩みを抱えながら、懸命に生きている自分はいつも服従させられているのです。このような力関係が継続していると、生きることに何の意味も見いだせず、生きること自体が苦悩となります。1人の自分の中にそのような対立関係を抱えていると、虐げられている自分はなんとかその苦しみを解消しようともがき苦しむことになります。 1つには本能的で刹那的な快楽を追い求めるようになります。もう一つは、自分よりも弱い他人をいじめることによって解消しようとします。自分と他人との間が対立関係になりますので、人間関係がうまく行かなくなるのです。いずれもストレスの発散の仕方としては決してほめられたものではありません。これを解消するには、 2つに分かれてる自分が1つになればよいわけです。実際には批判や否定を繰り返している自分が、そんなことをやめて、理不尽なことにさらされ、葛藤や悩みをの中で生きている自分に寄り添うようにすればよいわけです。そうなれば矛盾が解消され、葛藤や悩みはなくなるものと思います。これが森田理論で言うところの、事実本位の生き方ということになります。そのためにどうすればよいのか。「かくあるべし」 にがんじがらめになっている自分を自覚することから始めなければなりません。森田理論学習を継続している人は、そのことの弊害は頭の中で十分に理解されていることと思います。次に取り組むべき事は、実際の事実本位の生活態度の修養です。そのためには、まず先入観や決めつけを止めて、事実をよく観察するということです。そしてその事実を具体的に詳細に話したり書いたりすることです。簡単なことのようですが、大変むずかしいことです。これに徹するだけでもかなり違ってきます。事実を隠したりねじ曲げるようなことがあってはなりません。正直に赤裸々に公表することが大切です。次に、事実は両面観、多面的に見る必要があります。自分の都合の良いように片面から見た場合は、ほとんど間違っています。そこから安易な行動をとると、どんどん横道にずれていってしまいます。次に、森田理論の「純な心」や「私メッセージ」を体得する必要があります。私たちは「かくあるべし」 にどっぷりと浸かっている状態です。それを突破する入り口は、自分の素直な感情から出発する態度を身につけることです。純な心、私メッセージ、 win winの人間関係については何回も投稿していますので、過去の投稿をご覧ください。これらは事実本位の生活態度を養成するために私が取り組んでいる内容です。これ以外にも有効な方法があるかもしれません。もしその他の方法を実践しておられる方があれば、教えてほしいと思っています。
2018.03.18
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憑依(ひょうい)現象という言葉があります。これは自分の体の中に他人や動物の霊が入ってきて、自分を意のままに支配するということだそうです。自分自身が他者にのっとられて支配されているような状態を言います。森田先生は高知に伝わる犬神憑きの研究をされていました。精神異常をきたした人の研究です。昔は精神病になった人は、その人の中に悪霊が入り込んだと思われていたのです。その悪霊を祈祷などによって追い出さなければならないと考えられていたのです。森田先生は、それは迷信だと発表されています。ヨーロッパでも魔女狩りというのがありました。これもその類です。そこまでいかなくても、神経症で悩んでいる人はなにか悪霊のようなものがとりついたように見えることがあります。例えば対人恐怖症の人は人の思惑がとても気になります。人の思惑を気にして、自分の意志を前面に押し出した自由自在な行動が極端に制御されています。これは周りから見ると、金縛りにあった一種の「憑依現象」に見えるのではないでしょうか。自分という1人の人間の中に、他人が入り込んでいるような状態です。しかも元々存在していた自分を押しのけて、勝手に入り込んできた他人がすべてを取り仕切っているようなものです。他人が支配者で、元々存在していた自分はその子分のようです。そのような状態が継続すると、ストレスがたまり、生きていることに意味を見いだせなくなってしまいます。私はその原因を「かくあるべし」という思考方法にあるとみています。販売の仕事をしている女性が、自分が商品説明をしている途中で、お客さんが視線をそらしてしまうと、 「このお客さんは私の事をたいした人間ではないと思っている」に違いないと感じてしまう。そうすると、急に商品説明をする意欲がなくなり、上の空になって商品説明がしどろもどろになる。すると、お客さんはこの店員は商品知識が全くないのだ。その上接客態度がおどおどしてみっともない。その店員から離れたくなる。 「もういいです。自分でゆっくり見てみたい」などという。するとその女性は、 「やっぱりあのお客さんは自分を馬鹿にしていたのだ」と感じてしまう。このような考え方をする人は、「他人から馬鹿にされたり、批判されるような人間であってはならない」という強い「かくあるべし」が居座っていることが考えられます。別の表現をすれば、かけがいのない自分の中に、他人がしっかりと居場所を持っている「憑依現象」が起きている状態と理解しても差し支えないと思うのです。自分では分からなくても、症状を持った人の言動を見ていると、そのように見えてしまう。そのような人はどうすれば本来の自分を取り戻すことができるのでしょうか。森田理論では、事実を無視した「かくあるべし」という完全主義、理想主義の考え方が神経症を作り出す原因になっていると指摘しています。理想と現実のギャップに翻弄されて、格闘したり、苦悩するために神経症に陥ってしまうという。その状態は、他人という第三者が、自分の頭脳を占拠して、傍若無人な要求を自分に押し付けているようなものではないでしょうか。赤ちゃんや幼児だった頃は、まだ第三者である他人が自分の頭の中に乗り込んではいなかった。それが成長するとともに、元々いた自分が片隅に追いやられて、第三者である他人が我がもの顔ですべてのことを取り仕切り始めたのだ。本末転倒状態です。そういう人は、よそから入ってきた第三者が、元々いた自分に「かくあるべし」を押し付けるのは、なんかおかしいと認識することが大事です。自分はもともと自由でのびのびと生を謳歌して人生を楽しみたいと思っていたのだ。もし「憑依現象」が自分の中に起きているのならば、何とかして自分の中に入り込んできた他人という第三者を追い出すことに取り組まなければならない。自分自身が自分の主人公としての誇りを取り戻すべく努力する必要があるのです。森田理論では、相手の思惑が気になったとき、自分の素直な気持ちを見つめてみることだという。これを純な心といっている。いつもそこを出発点にするという気持ちを失わないことだ。あくまで自分が主人公なのだ。例えば、自分の仕事で手一杯な時に上司から、 「これを急いでやってくれ」などと言われる。それを優先して無条件に引き受けるとなると、自分の仕事を一時中断することになる。でも、本心では素直に受け入れている訳ではない。本当は急ぎの自分の仕事を優先したいのだ。その「本心」に立ち戻れば、 「すみませんが、私の仕事の納期が迫っているのですぐにはできません。他の人に頼んで頂けませんか」という言葉が出てくる。それでも 「つべこべ言わずにすぐにやれ」と言われれば、 「それでは今の仕事を急いで処理しますので、少し待っていただけませんか。納期はいつまでですか」と返答する。自分の本心を偽って、いつも上司の言いなりになっていると、上司はこの部下は使いやすい部下だと思って、無理難題の仕事を次にも押し付けてくる。すると自分は精神的に苦しくなって、自滅してくる。負のスパイラルに入り込んでしまう。「純な心」「私メッセージ」「winwinの人間関係作り」などを応用して、険悪な対立関係を避けながらも、上手に自己表現をする方法を身につけなければならない。これは他人本位の生き方から、自分中心の生き方に転換することになる。自分の心の領域に勝手に土足で入り込んできた他人を追いだすことが、森田理論学習の大きなテーマである。「かくあるべし」を少なくする方法は、よく学習してぜひとも身につけていただきたいと思う。
2018.01.08
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会社の中で、人間関係の悩みを抱えている人が多い。何かにつけて自分のこと無視される。からかわれる。軽蔑されていると思っている人。仕事のスピードについていけない。能力的に自分はだめな人間だと思われているのではないか。いつもノルマは達成できないので、グループのお荷物扱いされている。ミスや失敗をすると、上司や同僚から激しく叱責される。こういう予期不安でいつも針のむしろに座らされているような気持ちを持っている。会社の中での言動はいつもビクビクハラハラしている。こういう人の特徴は、自分で自分が好きになれない。専守防衛で、注意や意識が自分にばかり向いている。まったく自己主張ができない。心の中では相手と違う気持ちを持っていても、言いたいことを我慢している。耐えてばかりいるので、ストレスが溜まりっぱなしである。アルコールやギャンブル、ネットゲームや風俗、買い物やヤケ食いで憂さをはらしている。そんな自分を見て、会社の仲間たちはますますけむたがっているようだ。女子社員にさえ、 「本当に大学を出ているんですか」とか「転職をされた方がいいんではないですか」などとあからさまに言われる。いつも退職のことを考えている。でも生活のことを考えると、やめるにやめられない状況だ。薬物療法を受けているが、胃がキリキリと痛む。夜中に眠れない。死ぬことを考えることもある。こういう状態は、注意や意識が会社の人間関係にばかり向いている。本来は注意や意識の大半は仕事に向いている必要がある。仕事をする上において良好な人間関係を築くことは大切ではあるが、それが最大の目的ではないはずだ。最初は仕事について自立することが目的だったのだが、そのうち対人関係を上手にこなすことに目的はすり替わってしまった。いまや「自分は月給取りという鳥である」という考え方には立てそうにもない。精神交互作用でアリ地獄の底に落ちたようなものだ。もがけばもがくほど深めに落ちていってしまう。このことをまず自覚することが必要だと思う。次にすることは精神科の医師の療法を受けることである。さらに臨床心理士によるカウンセリングを受ける。そして生活の発見からの集談会に参加する。集談会にはこうした悩みを持った人たちがたくさんいる。これは岡田尊司氏が言われているところの、「心の安全基地づくり」にあたる。グチや悩みを吐き出したりできるグループを見つけ出すことがとても大事なのである。それが配偶者であればよいのだが、そのような関係ではないことも多い。その点集談会はうってつけである。その他、祖父母、いとこ、同級生、以前勤めていた会社の同僚、昔の仲間などもその候補である。会社の人間関係だけで凝り固まり、四面楚歌状態で孤立することは避けなければならない。次に、仕事以外で自分の好きなことや、自分の得意なことに取り組んでみることである。旅行、観劇、スポーツ観戦などを思い浮かべる人も多いようだが、自分の頭や手足を動かすようなものがよい。花を育てたり、家庭菜園を始めるようなものだ。そうすることで、仲間づくりにもつながればもっとよい。趣味や夢や目標を持つことで、会社での人間関係一辺倒を避けることができる。人間関係にとらわれていると、仕事が上の空になっている。ますます仕事が停滞し、ミスや失敗を繰り返すという悪循環になっている。そういう人は、仕事をしている中で、どんな小さなことであっても気づいたことをすぐにメモする習慣を作った方がよい。むしろ小さければ小さいほどよい。できてもできなくても、ストックを沢山貯めることだ。それを1つずつ片付けて線を引いて消していく。できれば他人の役に立つことなども積極的にメモするようにするといい。簡単な物や納期の急ぐものから片付けていく。注意することは、完全主義に陥ることなく、 6割から7割程度を目指すことだ。会社での対人関係で悩んでいる人は私生活が乱れていることが多い。毎日規則正しい生活を続けることが大切である。森田理論では、外相を整えることを大切にする。形が整っていれば心はおのずから整ってくるのである。当面、会社の人間関係では朝夕の挨拶はきちんとする。仕事の上で必要な話だけはきちんとする。それ以上の付き合いはしなくても構わないと思う。最後にもう一度繰り返すと、会社勤めは生活費を稼ぐことが一番の目的です。人間関係をよくすることはその手段に過ぎない。そこに振り回されてはならないのだ。会社の人間関係で破綻していると思っている人は、当面は「月給鳥という鳥」になって安易に辞職しないことをお勧めしたい。
2017.12.27
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対人恐怖症の人は、人からの依頼事項を断ることをためらうことが多い。それは根本的なところで人を信頼することができないことからきている。他人の依頼事項を断ると、あからさまに相手が嫌な顔をする。あるいは、面と向かって自分のこと非難する。すると、自分は孤立して仲間はずれにされるのではないかということを恐れているのだ。そういう不快な場面が予想されるので、はっきりと自分の意思を伝えることができない。相手の理不尽な要求でも、自分の意志を捻じ曲げて耐えているのだ。これは一見すると、八方美人に見える。反対にそういう人は、相手に自分の意思を伝えて、何かをお願いするということができない。例えば集談会でも、世話役候補の人に「世話役になってください」と依頼することができない。ダメでもともとという考えが持てない。特に対人恐怖の人は、一大決心がいるのである。世話役をすることが相手の神経症の克服にとって重大な意味を持っていることは分かっている。しかしなんだかんだと理由をつけられて断られることが恐ろしいのである。予期不安でがんじがらめに支配されているのだ。注意や意識が外に向かわずに、内へ内へと向いている。常に否定的。ネガティブに考えるのだ。自分の事を悪く思われても、それは相手の自由なのだ。自分の依頼事項を相手が断っても、それは相手の自由なのだ。そういう風には体質的に考えられない。相手が自分の人格を否定していると受け取るのだ。あるいは自分の人間性に問題があると考える。本来はうまくいかなかった理由を考えればよいのだが、そんな余裕は持ち合わせていない。あまりにも飛躍しているのは頭の中ではわかっているが、行動としてはとても怖くてできないのだ。最近、私はこんな経験をした。マンション管理人の仕事をしている棟で、居住者のある女性の人から宗教の勧誘を受けた。私はそのつもりはないのだが、私のところにやって来て、お祈りをさせてくださいという。3分ぐらい目を閉じてください。今からお祈りをします。きっといいことがありますなどという。そんなことが2回あった。すると、次には本部の道場に行ってくださいという。詳しい内容説明は何もない。私はいいカモとみたのか、本部まで送り迎えをしてあげるという。都合がいい日を選んで電話をして下さいということだった。私は即座に断りたかったが、そこで働かせてもらっているという手前もあって即答できなかった。それから数日間、どうすれば当たり障りのない断り方ができるのか悩み必死で考えた。お布施はいらないのか。信者として勧誘されることはないのか。いつでも中止することができるのか。などなど。でも、これらはいくら考えても断るための口実である。相手に言い訳を与えるようなものだ。そんな折、名案が思い浮かばないので、会社の営業マンに相談してみた。するとよいヒントもらった。会社からは、仕事以外のことで、個人的に特定の居住者と接触を持つことは禁じている。政治活動、宗教の勧誘、物品販売、カラオケや飲食などの関わりは、過去に重大なトラブルに発展したことがあります。会社は、居住者との付き合い方は挨拶程度にとどめておくように決めています。特定の居住者と親しく世間話を5分以上にわたって続けてはいけません。管理会社に雇われている管理人は全員そういう誓約書にサインしています。そういうわけで、ご期待にお応えすることができませんと伝えたらどうかと言われた。それにヒントを得て、早速その居住者が受付を通りかかった時にお断りの話をした。相手は予想外の事を言われたので、一瞬驚いた様子であった。そして「勤務が終わった後も、会社に拘束されているのか」などといわれる。でも最終的には「わかりました」とぶっきらぼうに言って立ち去られました。相手に不快な感情が渦巻いているのが分かったが、この1件はこれで落着した。それ以来お祈りの話はされなくなった。これをいつまでも先延ばしにして、うやむやにしていたとすれば、後々までイライラ感が続いていたことであろう。思い切って断ることができてほっとしている。今まで夜寝不足になるほど悩んでいたのはなんだったのだろう。自分でどうしたらよいのか分からないときは、信頼できる人に相談することが一番だと感じた。自分一人の判断は間違いが多いという認識は持っておいたほうがよさそうだ。特に対人関係の面では、集談会の仲間は、適切なアドバイスをしてもらえることが多い。信頼できる人のアドバイスを参考にして、自分の意思をはっきりと相手に伝える事は大切だなと感じた。そうしないと、相手の思うつぼで、自分の意志に反した行動をとると苦しみはずっと続くことになる。
2017.12.24
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形外会で次のようなやりとりがあった。篠崎氏が、「私は神経症が治らないときは、家の人に乱暴な事は言わなかったが、神経症が治ってからは、ちょっとのことで、弟と言い争って乱暴な口をきくようになった。これはどういうことでしょうか」と質問した。これに答えて森田先生曰く「根治法」の中に、陸軍中尉は、退院してから、以前と違って、よく部下を思うがままにしかり、また可愛がるようになったと言っているのと同じである。いたずらに自分を善人ぶらずつくろうわず、自分のありのままをさらけ出すからである。兄弟・朋友でも、いたずらに道学者流に礼儀正しく、常に慇懃であると言うことが、必ずしも親密であり、愛情があるということはできない。われわれはお互いに少々無理なことを言っても許され、自分の欠点をも知ってくれるのでなければ、本当の平和は得られないのである。これに対して篠崎氏は、 「そう言われれば、私と弟は現在、喧嘩はするが、以前よりもかえって仲がよくなっています」と答えている。(森田全集第5巻 145ページより引用)私はこの話を聞いて、あの夫婦のことを思い出した。老人ホームの慰問に行く時、この夫婦の車に同乗させてもらうことが多い。車内でこの夫婦はよく口喧嘩をする。しないことのほうが珍しい。例えば、助手席に乗っている奥さんが主人に向かって「右から車が来たよ」「交差点に人がいる」などと伝える。すると主人は、すぐに頭に血が上って「そんなことはいちいち言わなくても分かっている。黙っててくれ」と反発する。一瞬険悪になり大きな喧嘩に発展するかと見ているが、すぐに収まる。拍子抜けをする。私の家のようにお互いに小さな対立を根に持って、しばらく口を聞かないということがない。2人のやりとりを見ていると、コミュニケーションの一環として口喧嘩を楽しんでいるように見える。この夫婦は自由業なのでずっと夫婦で仕事をしてきた。一心同体で四六時中いつも身近に接触しているのである。私から見ると、お互いに顔も見たくないということもあるのではないかと思うのだが、全くそんなことはない。ただいつも意見の衝突はあったそうだ。その時、 2人とも耐えたり我慢するというやり方ではない。言いたいことを言い合う。あるいは一方が他方を支配するというやり方でもない。お互いに平等な力関係で調和がとれているようなのだ。この夫婦のやり方は、基本的には自分の感情や気持ちをそのまま相手に伝えるというやり方である。相手が反発すれば、いったんは引き下がる。そしてまた別の提案をする。つまり双方の意見の違いを見つけ出して妥協点を探るようなやり方である。奥さんに聞くと、「うちのお父さんは手先が器用で何でも手作りする。好奇心が旺盛で、思いついたことは何でも手を出す」などと主人を認めて評価をしている。何かにつけて夫自慢をしているのである。ご主人は、「うちの母さんには若い頃から苦労をかけさせた。今は旅行が趣味なので、できるだけ行きたいところに行かせている」などと思いやりのあることを言う。普段の口喧嘩を見ていると考えられない。その奥さんは、現在友達と連れ立って日本全国あらゆるところに旅行に出かけている。いわば旅行三昧の最中である。私はこれは森田理論学習で言うところの、「不即不離」の人間関係をそのまま具体化している夫婦ではないかと考えている。形外会で森田先生が言われているように、 「かくあるべし」で自分を善人ぶらず、自分のありのままをさらけ出すことができれば、人間関係ではとても楽な生き方につながると思う。
2017.12.21
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昨日の続きです。相談者にそのことを理解してもらうことが先である。そこまでくれば、あとは森田療法によっていかにしてして対人恐怖症をいかに克服していくかという話をすることになる。傾聴、共感、受容は大切であるが、信頼関係ができたあとは、適切な助言に進まないと相手に不安や不満が残る。まず、どんな不安や恐怖も時間が経てば、それが薄まったり、消えてなくなってしまうということを理解してもらう。これはどんな人でも経験されていることだ。学生時代に友達とけんかなどをした経験があっても、いまだに腹が立って感情が高ぶっているといることは、まずありえない。時間が怒りを自然に解決しているのだ。また、場所や環境を変えるだけでも不安は変化して、消長してしまうことも理解してもらう。いわば感情の法則の理解を深めるということだ。次に新しい行動を起こすと、以前の不安や恐怖は次第に収まってくる。新しい行動をとると、新しい感情が発生するという事を理解してもらう。これは意外と見落としがちであるが、不安や恐怖の解消に一役買っている。対人恐怖症の不安に取りつかれているときは、不安を1つに絞って格闘しています。新しい感情が生まれると、以前の不安にばかり関わってはおられなくなります。たとえば仕事中に何か問題が発生した場合、神経症の悩みは横において、問題解決に注意や意識を集中することになる。これを意識して行うことができるようになればいいのだ。不安が2つになれば、以前の不安の悩みは、極端に言えば2分の1になります。行動に弾みがついてくれば、以前の不安は変化してくるということが体験的に分かるようになります。注意と意識を対人不安だけに向けるのではなく、目の前の仕事や日常茶飯事、興味や関心に向けるようにするとよいのです。この時、対人恐怖症の人は、特に人の役に立つ行動が有効になる。意識や注意が自己内省的、自己中心的に働く傾向が強いので、それを打破することにつながる。自分のできるちょっとしたことで、人の役に立つことを見つける習慣を作ることだ。この事を森田療法では、「生の欲望の発揮」と言っています。その基本は、規則正しい生活をする。日常茶飯事を丁寧に行うということです。興味や関心があれば、好奇心を生かしていろんなことに手を出してみるということです。そういう習慣が身についてくると、次第に活動的になり、日常生活が好循環してきます。それに伴ってもともとあった不安は次第に小さくなってきます。この体験の後で、不安や恐怖がどのように変化してきたかを振り返ってみてください。きっと、元の対人不安や恐怖はなくなることはないにしても、ずいぶん変化していることでしょう。不安や恐怖をすべてなくすることを目指すことは不可能だということも理解する必要があります。それはあなたに、人と仲良くしたい、人によく思われたいという強い欲求があるからです。そのような強い欲望のある人は、強い対人不安が生まれるのは当然のことです。不安と欲望はコインの裏と表のような関係にあります。欲望の強い人は不安も強くなるのです。それは避けることのできないものなのです。肝心なことは、不安に振り回されるのではなく、「生の欲望の発揮」に注意や意識を向けることが大切なのです。サーカスの綱渡りのように、欲望と不安のバランスをとりながら、生活を前に進めていくことが大切なのです。人と仲良くしたい、人からよく思われるたいという欲望の達成のためには、人に役立つことをどう手がけいくかということを常日頃から実践することが大事なのです。
2017.12.11
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会社で小さなミスが相次ぎ、女子社員にも同僚にも上司にも馬鹿にされているようで、会社に出勤するのが苦しいという人がおられます。なんとかこの苦しい状態を解消したいとインターネットで探して集談会に参加した。話を聞いてみると、できるだけ言いたいことを我慢しているが、時々我慢しきれずに爆発することがある。会社では、できるだけ話をしないようにして人を避けている。最近は昼ご飯も1人で食べることが多い。ストレスを発散するために、仕事が終わるとパチンコやネットゲームにはまっている。精神科にかかり、抗不安薬を処方してもらっている。その他、認知行動療法などを受けたが改善にはつながらなかった。こういう方が集談会来られたどのように対応していけばよいのだろう。まずはその人の話を共感的によく聴いてみることが前提だ。その人は対人恐怖症を改善するために精神科にも通い、認知行動療法などの心理療法を受けられている。それ以外にも対人恐怖症の改善のための自助努力をされているかもしれない。でもそれらの涙ぐましい努力は、ことごとく自分の期待する成果には結びつかなかったという事を「自覚」してもらうことが必要だと思う。不安を直接取り除くという対症療法は、ことごとく失敗したという事実をはっきりと認識できれば森田療法に取り組む前提条件が整う。まだ不安を直接取り除くことに期待をかけているのならば、それらを先に試してみる方がよいと思う。でもやはり対人恐怖症の改善には結びつかなかったという絶望の体験が必要なのである。いろいろ試してみれば、直接不安を取り除くという方法ではうまくいかないという諦めがつく。背水の陣で森田療法に取り組めるのである。他の療法と二股かけているようでは、森田療法は即効薬ではないので途中で脱落してしまうことのほうが多い。森田療法の最大の特徴は、直接不安を取り除くという療法ではないということである。こういう方法をとる心理療法は、基本的には存在しない。森田療法では不安は不問にする。不安と正面から向き合って取り去る療法ではない。別の言葉で言えば不安をかわす。不安をすみやかに流してしまう療法なのである。そういう療法であるが故に、回り道をとる。急がば回れ的な療法なのだ。だから、人によっては症状と正面に向き合わない中途半端な療法に見えるのだ。これは大いなる誤解なのだが。でも、よく思い出してほしい。対人恐怖症を直そうとして注意や意識をそのことにばかり集中してどういう結果が待っていたのか。注意と感覚の悪循環によって、症状が治るどころかますます悪化して、会社の中で孤立を深めていったのではないか。さらに不安と行動の悪循環で仕事が手につかなくなり、さらにミスを連発し、その結果女子社員、同僚、上司から軽蔑され続けたのではないのか。地図上で直線で100キロ先に宝物があるとする。でもその直線上に5,000メートル級の山脈が横たわっているようなものだ。さてあなたならどうするか。他の療法は、なんとしてもその山を乗り越えて、短い距離で直接的に手っ取り早く目的を達成しようとする。つまり不安に直接働きかけて、不安を取り去るという対症療法なのだ。森田理論は、そんなことは勧めない。たとえ目的は達成できたとしても大きな痛手を受けると教える。つまり、再発しやすくなるとみているのである。またこれでは生きづらさは全く解消できない。森田理論は、目的地に到達するまで500キロかかろうが、 1000キロかかろうが比較的平坦な道を迂回する方法をとるのだ。そのほうが安全で確実だからだ。つまり人生観までを視野に入れた療法なのである。不安を取り去るのではなく、不安を放っておいて、目の前の関心や仕事などに手を出していく療法なのである。そして不安の持っている重要な役割に気づくようになる。不安を敵視する態度が改められて、不安を欲望の相棒と見れるようになる。不安と欲望のバランスを意識して生活に取り組むことができるようになるのである。
2017.12.10
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山崎房一さんの講座の受講生に杉山文子さんという主婦の方がおられたそうです。姑は彼女の手料理や掃除、洗濯のこと、娘の教育までこと細かくいちいち口出しをする。そのイヤな姑のことを夫に話しても取り合ってくれない。姑と別居したい。それがだめなら離婚してもいい。と考えておられたそうです。山崎さんは即座に杉山さんに言ったそうです。「杉山さん、おばあちゃんを殺したいくらい憎んでもいい。自分の気がすむまで思う存分憎みなさい。いくら憎んでも、憎しみが心の中にある間は罪にはなりません。しかし、おばあちゃんに少しでも具体的な意地悪をすれば罪になるから、どんなに悔しくてもそればかりは絶対やってはいけません。」そして、「帰りに、おばあちゃんが一番好きなお菓子を買ってください。こういっておばあちゃんに渡してみてください。おばあちゃん、お留守番してくれてありがとう。いつまでも長生きしてくださいね。やさしく笑顔でいいながら、そのお菓子を差し上げてください。」このアドバイスは森田理論で学んでいることを具体化した適切な対応です。まず、憎しみはそのままにしてとらわれ尽くしてもよいのですよといわれています。普通一旦怒りなどの感情に点火されると、すぐに燃え広がります。自分の意志の力では、どうすることもできません。黙って成り行きに身を任せるしかありません。味わい尽くす。その不快な感情に浸りきることがポイントです。しかし、普通はそのイライラ、不快感をすぐに鎮火させないと気が済まなくなる。我慢したり耐えたりすることは、戦う前から相手に負けたような気にもなります。また、その不快感を放っておくと、怒りがどんどん増悪して、とんでもない暴言を吐いたり、暴力に訴えたりするのではないかと考えたりします。そのためにもすぐに鎮火させないと大変なことになると考えます。怒りの感情は手に負えない暴れ馬のようなものだと考えています。ここで大切なことは、どんなイヤな感情でもつつきまわさないということです。一旦発生した感情は山を一挙に駆け上ってきます。感情の法則1にあるとおりです。その勢い付いた感情を途中で邪魔をしてはいけません。上りきらせてしまうことが大切です。弾みがついて昇っていくイヤな感情を味わい尽くすということです。暴れ馬のような感情を何もしないで見守っていくことはとても苦しいことです。自分の頭がパニックになって混乱してしまいそうです。普通はその不快感に耐えかねて、まだ感情が上りつつある状態で、間違った対応に走ってしまうのです。怒りの感情が上りきるまでは、どんなに苦しかろうと、一旦上りきるまで持ちこたえなければなりません。それができないと怒りの感情は蛇の生殺しのような状態になります。もしそれができれば、怒りの感情は山の頂にたどり着き、今度は山を下っていく運命にあるのです。山を下り始めると、暴れ馬のような怒りの感情が変化してきます。薄まったりとるに足らないものに変わっていくのです。そんなのは理屈だと思われるでしょうか。このような経験はどなたでもお持ちなのではなりませんか。このような感情の変化を促進するものがあります。怒りの感情を持ったまま、新しい行動を起こすことです。その場を離れる。トイレに行く。深呼吸をする。コーヒーを飲みに行くなどでよいのです。イヤイヤ仕方なしの行動でも構いません。杉山さんのように心にもない行動を演技することだってかまいません。新しい行動には新しい感情が生まれやすくなります。すると以前の怒りの感情に加えて別の感情が付け加わることになります。怒りの感情だけにかかわっている状況が変化していくことになります。速やかに怒りの感情を流すことにつながるのです。イヤで仕方のない姑に対する山崎さんのアドバイスは極めて的を得ていると思います。
2017.11.29
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森田先生は神経質同士の結婚はよくないと言われている。神経質者同士は、お互いに心持ちが分かり、心の底まで見通しているから、お互いにその欠点を挙げ合って、相手にばかりそれを改良させようとするぐじぐじといつまでも、しつこく言い争をする。また、ヒステリー同士でもいけない。喧嘩が早くて始末に負えない。およそ、結婚は気質の違った人が、うまく組み合わされるとよい。神経質な人は、気の軽い大まかな人と結婚するのがよい。するときの軽い人は、あの人はどうせ気難しいがり屋だからといって大目に許し、また神経質な方では、どうせあれには、難しいことを言ってもわからないといって、あまりやかましくはいわなくなる。お互いに許し合うから円満になる。結婚について最も大事な事は「調和」ということです。たまにいとこ同士で結婚している人がいる。この場合は、遺伝子がよく似通っているので、優性遺伝が強く現れるととてつもなく素晴らしい能力を持った子供が生まれることがある。私の知ってる人でも、夫婦は日雇いのような仕事をしている人だか、生まれた女の子供は最高学府の学校出ている。その話を聞いた人は誰でも嘘をついているのだろうと思うそうだ。だから自分の娘の卒業写真を常に携帯していた。語学に堪能で大きな会社に入り、世界中を飛び回っている。キャリアウーマンになった。その子供が結婚する時、そのお相手もまた経済力や能力のある人で、結婚式で相手の出席者は国会議員を始めとしたそうそうたるメンバーを揃えていたそうだ。自分のほうは、親族や2人の友人のみでとてもみすぼらしくて肩身の狭い思いをしたとと言っていた。いとこ同士の結婚で一番問題になるのは、劣勢遺伝が強く現れた場合である。この場合は先天的な身体や脳の機能の異常という場合がある。いとこ同士の結婚は、結果が極端によいか悪いかということになりやすい傾向があるということである。集談会でもよく集談会でお相手を見つけて結婚する人がいる。私はそれが必ずしも悪いとは思っていない。森田先生は、神経質気質同士は、性格がよく似通っているので、それがプラスに出ればお似合いのカップルとなる。反対にマイナスに出た場合は、収拾がつかなくなるということを言っているのだと思う。お互いに細かいことが気になり、自己内省性が強く、執念深いという特徴がある。また、一般的には「かくあるべし」が非常に強い。それが自分に向かった場合、神経症に陥りやすい。そして葛藤や苦悩で苦しむ。また相手に向かった場合、そのうち支配被支配の関係になりやすく、油の切れた機械を動かすような摩擦を生みやすい。もちろん、感受性が強いという面を生かして、お互いの思いやり絆を深めていけばよいのだが、ちょっとしたことをきっかけにして、それらがすぐに瓦解してしまうという危険性は持っている。神経質者同士の場合でも、強迫神経症の場合と不安神経症の人の組み合わせは比較的よいようだ。それは、強迫神経症の場合は、森田理論で言うところの自己中心性がとても強い。端から見ると自分のことしか考えていないように見える。活動は自己抑制的である。ところが、不安神経症の人は、基本的には自分の周囲の人の事を大切にする。それは自分がパニックに陥った時に、誰かに助けてもらえないと死んでしまうかもしれないという気持ちがあるからだろう。活動は神経症が回復した時点では、人間が変わったように活動的で、リーダーシップをとったり、人を取りまとめたりする力を発揮することがある。そういう意味で、神経質の中身が多少違うのである。異質な特性を持った人が一緒になると、磁石で言えばマイナスとプラスを近づけるようなものになる。近づけるだけで自然にくっついていくようになる。ところがプラスとプラスを無理矢理引きつけようとしても反発するばかりである。マイナスとマイナスをつけようとする場合も同じである。だから、お互いの人間関係においては、異質な性格や能力を持った人同士が協力し合うというのが、自然の摂理にかなっているということだ。頭の中だけで考えると、性格や能力、趣味や目標が似通った人同士の方がうまくいくように考えられるが、事実は決してそうではないということだ。短い期間で見ていると気心もしれ対立することもないので、その方がよく見えるのだ。ストレスがなくて楽なような気がするのだ。趣味や考え方が似通っているので、この人とずっと死ぬまで相思相愛で争うこともなく楽しく生活できるはずだと思うのは、あまりにも短絡的な考えかたである。何十年という単位で考えてみると、自分の持っていない面で相手に助けてもらい、相手の持っていない面で相手を助けるという関係が理にかなっている。会社などの組織で考えても、同じような考え方、行動の仕方をする人よりも、考え方、行動の仕方、年齢も性別も違う人同士が集まっているほうが、長い目で見るとプラスに働くようである。確かに、いろんな人がいるとたえず摩擦が発生する。嫌な思いをすることも多い。しかし、その問題を話し合いによって乗り越えようとする努力が、結局自分たちの組織を強くしているのである。そういう意味では、我々の神経質者の自助組織においても、異質な傾向を持った人が多く関わりあうことが、組織の維持と発展には欠かせないものであると考える。
2017.11.19
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今日は西日本新聞に載っていた記事を紹介します。横浜に住む男性が50年以上連れ添ったてきた妻が亡くなりました。葬儀を済ませ、妻のお骨を佐賀県の唐津市のお寺に納めるために羽田から飛行機で九州に向かいました。機内にお骨を持ち込むことはできますが、バックがかなり大きくなります。その男性は搭乗手続きの時、お骨である旨を伝えました。やがて彼は機内に入り、バッグを上の棚に入れて席につきました。すると、客室乗務員がやってきて、こう言われたそうです。「隣の席は空けております。お連れ様はどちらですか? 」搭乗手続きで彼の言ったことが客室乗務員に伝わっていたのです。男性は、 「あの棚の上です」と言いました。すると、客室乗務員は棚からバックを隣の席におろして、バッグごとシートベルトで締めてくれたそうです。そして飛行中も、飲み物サービスの時、 「お連れ様の分です」と隣にも同じ飲み物が置かれたそうです。この男性は暖かい気配りに対してとても感動したそうです。この話を森田理論で解説してみましょう。お骨を機内に持ち込むことに関して問題はありませんので、搭乗窓口では許可します。普通はこの1件はそれで終わってしまいます。ところが、搭乗窓口の担当者は、手続きで忙しい中、そのことを客室乗務員に伝えました。客室乗務員も顧客サービスという考えが希薄な場合は、 「わかりました」で終わってしまいます。この客室乗務員は隣の席が空いていること確認した上で、上記のことを思いつき実行したのです。この男性にとっては、考えてもいないサービスであったのです。これは会社が一丸となって、顧客サービスという方向に向いていないと、とてもできることではありません。意識や注意が会社ぐるみで常にお客様のほうに向いています。その結果、お客様に喜んでもらい、今度また飛行機に乗るときはこの会社を指名してくれることでしょう。お客様に喜んでもらうという事は、サービスを行った人たちにとってもとても感動的なことです。自分の存在意義を再確認することができるからです。我々神経質者は、神経症で苦しんでいる時は注意や意識が常に内向化しています。いつも他人が自分のことをどう思っているのか気にしているのです。そういう意味では自己中心的です。他人に注意や意識が向かないので、他人を感動させるような行動はとることができません。そのくせ人間関係を良くしたいという気持ちはとても強いものがあります。その欲望を満たすためには、この新聞の記事から、教訓を得ることが大切です。人に好かれる事はただ1つ。他人のために役にたつことを見つけて実行するということです。それも小さければ小さいほどよい。それを数多く実行に移すということが大事です。そういう態度を、普段の生活の中で実践していけば、自然に人が集まってきます。すると温かい人間関係の中でとても快適に生活できるようになります。
2017.11.03
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対人恐怖症の人は、他人を心から信頼できなくて怯えまくっているのだと思う。他人は少しでも隙を見せると、すぐに再起不能になるまで自分を攻撃してくると思っている。人は決して自分の味方になってくれるようなことはない。それはあたかも、アフリカのサバンナでチーターやライオンなどの肉食獣に狙われている草食動物のようである。圧倒的な力の差があるために、対等な立場で話すことができない。自分の出来る事は専守防衛のみだと思っている。そうやって自分を守ろうとしてきたのである。将棋でいえば守り一辺倒だ。守りを固めることは大事だが、攻撃をしないと勝負にはならない。それは解り過ぎるほど分かっているが、そんなことをすると、社会から放り出されてしまうという観念から抜け出せないのだ。自分の弱点や欠点を見つけると、それらを目の敵にして、修正したり隠したりする。ミスや失敗をすると、能力のない奴だと馬鹿にされたり、批判や叱責を受けるのでごまかしたり隠したりする。弱点は欠点、ミスや失敗はあっても構わないが、それらを人目に晒すという事を極端に恐れている。人の目に晒すと、自分が無視され、否定されるので、うまく立ち回らなければならないと考えている。しかし、いくら完璧に防衛ができたとしてもどこかでボロが出てくる。逃げたり隠そうとすればするほど話が噛み合わなくなる。また逃げたり隠そうとすればするほど、他人はすぐに見破ってしまう。その結果、ますます人から軽蔑され無視されいじめられ仲間外れにされるようになる。専守防衛にばかり注意や意識を向けていると、生きていくことが辛くなってくる。一人でいることは味気ないが、そのほうがまだ精神的には楽だという風に考えるようになる。これは長らく対人恐怖症で苦しんできた私の姿である。私は幸いにも、森田理論学習を続けて、対人恐怖症をどのように修正していけばよいのか学んだ。そのうちの何点かを紹介してみたい。まず、対人恐怖症の人は、多くの人が愛着障害を抱えている。愛着障害については、過去に何回も投稿しているので、読んでみてほしい。問題は愛着障害の修復である。これには、心の安全基地を作るのが有効だ。対人恐怖症に陥っている人は、その安全基地を持たずに孤立している人が多い。安全基地とは、自分の苦しみや悩みを吐き出すことのできる仲間を持つことである。神経症の人はまずは集談会に参加している人たちだ。これは貴重な安全基地となりうる人たちである。その他家族、同窓生、趣味やスポーツの仲間、近所の人たち、カウンセラーなど、人間関係の幅を広げることも有効である。幅広い人間関係を築いていると、躓いたときに誰かに相談に乗ってもらうことができる。そういう安心感というか、心の後ろ盾を持っておくとつらいときに踏ん張ることができる。日常生活が破たんするまで、落ち込んでいくことはなくなると思う。私は所属集談会と支部研修会を通じて知り合った人の中から、貴重なバックボーンを得ることができた。これがなかったら定年まで会社生活を続けることは難しかったかもしれないと思っている。こんな貴重な人間関係を見逃していることはもったいないと思う。注意点として、その中での人間関係のあり方としては、森田理論で言うところの不即不離を心がけることである。人間関係は必要に応じて必要なだけ付き合えばそれで充分なのである。あまりにもくっつきずぎることは避けたほうがよい。人間関係の基本は、広く浅くを基本としたほうがよいようだ。発見誌でも、コップ一杯の人間関係を数個というよりも、コップに少しだけの人間関係をたくさん持っていたほうがよいとあった。次に弱点や欠点、ミスや失敗は誰にでもある。普通の人を見ていると、ごまかしたり隠したりすることは少ない。すぐに自分の非を認めて、全てをさらけ出している。そうすることで、精神的苦痛を回避し、すぐに事後処理に専念できている。私たちも少しでもその人たちを見習って行動したいものだ。私は、ごまかしたり隠したりしたくなったときは次のように自分に言い聞かせていた。「清水の舞台から飛び降りたつもりで」「まな板の鯉のようなつもりで」「注射針を刺されると痛みがあるが、その痛みを我慢するとインフルエンザにかからない」以上の3つのキーワードとして、できるだけごまかしたり隠したりしないように戒めていた。全部はできなかったけれども、10個のうち2つでも3つでもできるようになると、成功体験ができるのだ。成功体験があると、対応の方向性がわかってくるようになる。最後に専守防衛という生き方は自分を閉塞状態に追い込んでいく。高良先生は、人間関係を良くしようと思ったら、これだけは誰にも負けないというものを持てと言われた。仕事、趣味、スポーツ、習い事など何でもよろしい。ある寿司屋のおやじは、ゴルフはダメ。カラオケは歌えない。麻雀をすればカモにされる。でも寿司を握らせると自分の右に出るものはいないと言うぐらい自負心を持っていた。それだけの努力や精進を重ねてきたのである。雑談の場で自分のこと面白おかしく取り上げられても、笑って聞いていたという。人間は10年ぐらいひとつのことに取り組んでいれば、たいていその分野ではエキスパートになれる。自分の得意な分野を持っていると、人から少々馬鹿にされたりからかわれたリしても、ムキになって反論しなくなる。それが心の強力な後ろ盾となって、笑って済ますことができるようになるのだ。専守防衛から、生の欲望の発揮に向かって舵を切りなおすことが、対人恐怖症を克服するには有効なのである。
2017.11.01
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あなたには次のような傾向はないだろうか。「暗がりで後ろから足音が聞こえてくると、自分に危害が加えられるのではないかと命の危険を感じる。そのような心理状態が私の日常である」「私は人に合わせる事しか出来ない。合わせることをやめることができない。人に合わせなくても受け入れてもらえることがあると言うのは、私にとっては推測で、私の体験している世界は、合わせないと拒否されて、自分がなくなるという恐怖の世界。合わせなくても受け入れられることがあるということが信じられない」「追い詰められるような調子で言われると、すぐに攻撃されているようで不安になってしまう。批判的に何か言われたとしても、自分の人格が指定されているのではなくて、ある1部について、もう少しこうであったらいいと言う意味で言われていると受け止められたら、自分がダメだと全否定されていると感じなくてすむのに、そういう感じ方ができない。何か批判されると自分が全部否定されているように感じてしまう」こういう人たちが感じるのは、 自分自身に対する「存在レベル」の安心感の欠如です。世界は脅威に満ちていて、常に怯えています。周囲に対して「自分のありのまま」を出しても受け入れてもらえるという信頼を持てません。自分の存在に何か「負い目」や「罪悪感」を感じ、他人の期待に応え、他人に合わせることによって、なんとか自分の居場所を確保し、存在を許されるかのように感じています。自分の気持ちを尊重し、ノーと言うことができません。ちょっとしたことで自分が攻撃され否定されているように感じています。(生きづらい時代と自己肯定感 高垣忠一郎 新日本出版社 42ページより引用)これはかっての私の状況をうまく説明されていると思います。いつも自分の気持ちや自分の言いたいことを我慢していていました。他人から理不尽なことを言われても最初のうちは耐えて我慢しています。耐えきれなくなると、活火山の噴火のように突然爆発してしまいます。将棋で言えば、攻めることを忘れて、最初から最後まで防御のことばかり考えているのです。本来攻めることと防御することがバランスがとれていないので勝負にはなりません。また完璧に防御したかのように見えても、どこかほころびがあり、攻めることをしないので、最後は負けるのを待つばかりです。この状態は、森田理論で言えば、 「生の欲望の発揮」に邁進することがとても重要なのですが、それに全く手付かずの状態です。他人から承認されないと、この世の荒波は乗り越えていけないといって、人に合わせることばかり考えているのです。不安にばかり注意や意識を集中させているのです。守り一辺倒の人生を歩んでいます。それでは、どうすればよいのか。人の思惑が気になるという特性は変えることはできないと思います。だから、これには手をつけない。生の欲望の方に手を付けるようにするのです。そして不安と生の欲望のバランスを取ることを意識するようにするのです。 実際には「生の欲望の発揮」に100%のエネルギーを注いでいくことだと思います。決して実現不可能なことではありません。規則正しい生活をする。生活のための日常茶飯事に丁寧に取り組んでいくこと。イヤイヤ、仕方なしにでも仕事や勉強に手をつけていくこと解決しなければならない問題や課題があれば、しぶしぶながらも向き合っていく。やってみたいことや夢や目標に向かってチャレンジしてみること。人の思惑が気になるという不安と「生の欲望の発揮」のバランスをいかに取っていくか。このことを絶えず意識する。曲がりなりにもバランスがとれてくると、なんとか形になると思う。これだと不十分だと思う人がいるかもしれないが、これ以上に苦しみや葛藤が大きくなるということは防げる。また、この体験によって対人関係の苦しみの大きさが縮小してくると思う。そのうち、森田理論で学習した、「純な心」や「私メッセージ」を応用して、多少なりとも自分の気持ちを相手に伝えることができるようになればしめたものだ。この状態にまで行けば、不安と欲望のバランスがとれてくる。重苦しい気持ちが少なくなる。次に相手から追いつめるような言い方をされると、すぐに自分の全人格を否定されたような憂鬱な気持ちになることについてどう考えるか。これも私がいつも感じていたことです。小さなことで批判や叱責をされると、それがすぐに自分の一生を左右するかのような大きな問題に発展させてしまう。小さなミスや失敗をすると、周りの人たちは自分のこと軽蔑して、もう相手にしてはくれないはずだ。もうこの会社での居場所がなくなった。このまま退職してしまおう。こんなミスをしてしまう自分は何をやってもダメだ。もう生きていく資格がない。死んだ方がマシだ。などなど。目の前の処理すべきミスや失敗を放り投げて、意識や注意がネガティブに内省化してしまうのである。極めて気分本位な考えである。森田ではこういうのを自己中心的だという。そういう場合は、よく事実を見ることである。そしてその事実をごまかしたり隠さないですぐに認める。たとえばミスや失敗を、上司や同僚に報告して、事後処理を相談する。その時は批判されたり叱責を受けて、注射針を刺されるような痛みは感じるが、すぐに事後処理のほうにエネルギーを注ぐので、その痛みはすぐに沈静化してくる。そのような態度で仕事をしていれば、小さなミスや失敗が自分の一生を左右するような大きな問題には発展しない。大きな問題に発展させてしまう人は、嫌な事実を隠したり、捻じ曲げて、一時しのぎの心の安らぎを得ようとする人である。そういう習慣のある人は、このブログで取り上げている「事実本位・物事本位の生活態度の養成」の学習をして、認識を改める必要がある。想像上の不安や恐怖を掻き立ててはならないと思う。
2017.10.28
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自分が相手にこうしてほしいという思いと、相手が自分はこうしたいというズレはいつも発生しています。例えば、夫が「自分は働いて経済的な面で家族を支えている。だから家事や育児は妻が責任を果たしてほしい」と思っているとする。それに対して、妻が、 「夫は父親であるのだから、育児については半分は責任を持つべきだ」と思っている場合がある。これらをお互いに話し合う事をしないで、放置していると、そのズレはどんどん広がっていく。そして何かにつけて衝突するようになる。最初のうちは対立したり平行線をたどっている。しかし、そのうちあの人には何を言ってもダメだ。なにしろ、聞く耳を持たないのだからという気持ちになる。そして側にいるだけでうっとうしい。お互いに沈黙するようになる。相手のことは関知しない。関心も持たなくなる。そのうち顔も見たくない。食事も別々 。寝室も別々ということになる。こうなると1つの屋根に住んではいるが、家族はバラバラということになる。その心の不安を打ち消すために、趣味や家族以外の人間関係を求めるようになる。それを見て育つ子供には、当然悪影響が出ることが予想される。だから相手の気持ちと自分の気持ちの間にズレがあると感じた場合は、初期のうちに対応することが必要である。まず、相手の言い分をよく聞く。他のことをしながらついでに聞くという態度ではなく、真剣に相手の話に耳を傾ける。そして自分の思いと相手の思いのズレをはっきりさせる。お互いにしっかりと確認しあうことが大事である。そして、自分の気持ちを相手にしっかりと伝える。その際、役に立つのは「純な心」と「私メッセージ」である。これは森田理論学習の中で何度も学習したことである。「私はこう思う。あなたが○○してくれたら嬉しい」などの発言である。ここで肝心な事は、自分の意向を相手に押し付けてはならないということだ。つい、相手を脅迫したり、指示命令して、自分の「かくあるべし」を押し付けたりする。つまり、相手を自分の思い通りにコントロールしたいという気持ちばかりが前面に出てくるようになる。相手と言い合って勝ちたい。相手を意のままに支配したい。自分が上で、相手が下という序列を確固たるものにしたい。これが夫婦の人間関係をますます悪化させる原因となる。夫婦の人間関係で悩んでいる人は、同時に会社での人間関係にも問題を抱えている人である。夫婦の人間関係に限らず、学校や職場での人間関係でも同様のからくりが働いているのだ。前提としては、人間が2人以上集まると、絶えずこうしたズレがつきものであるという認識が不可欠である。対人恐怖症で人の思惑が気になるという人は、こうしたズレを話し合いによって解決しようという気持ちがない。そんな面倒なことは最初からやろうとしない。そんなことにかかわりあう事はまっぴらごめんだと考えている節がある。弱い相手には喧嘩を売って自分に服従させようとし、強い相手と見ると渋々相手に従うという態度である。自分の思いどうりにいかなくて、精神的にはとても苦しい。相手と自分の間にあるズレを明確化する努力は全くしない。自分の態度を見ていれば、自分が何を考えているか、相手はわかるはずだと思っている。そんなことがわからない相手には、自分の方から無視して引導を渡してやろうという思い上がった態度である。これでは対人恐怖症がますます悪化してくる。人間関係はうまくいかないのが普通の状態である。そういう認識を普段から持つことが必要である。そういう認識がしっかり持てていれば、後は話し合いによって妥協・調整するするようになる。人間関係がうまくいく人を見ていると、双方にズレが生じた場合、相手の意向をよく聞いている。十分に聞いた後は、自分の意思も分かりやすく相手に伝えている。そして、そのズレを明確に意識している。その次にそのズレをいかにしたら埋められるかを2人して話し合っている。必ずしも自分の意思に相手を従わせるという気持ちはない。また、自分を殺して相手に一方的に合わせてしまうという気持ちもない。妥協や調整を繰り返し、譲ったり譲られたりしながら中間どころで折り合いをつけているのである。自分の意思からすると、不満足ではあるが、 相手があることだからこの程度でよいのだと思っている。対人恐怖症が治るという事は、森田理論の学習と実践により、この能力を身につけるということに他ならない。
2017.10.18
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私が管理人をしているマンションで騒音問題が起きた。騒音でノイローゼになりそうだと言って奥さんが相談に来られた。その方が言われるには、上の階の子供が飛んだり跳ねたりしている。それは土曜日、日曜日、祝日に限られている。何とかしてくれないかと言われた。早速、管理会社の営業マンに伝えた。するとその営業マンは、騒音問題は当事者同士が話し合って解決すべき問題であるという。管理会社が直接仲介の労をとることはしないという。ただし注意勧告の文章を作るので掲示してくれという。それから20日ぐらい経ってまたその奥さんがやってきた。掲示文章だけでは全く効き目がないという。直接先方に出向いて、面と向かって注意をしてほしいという。自分からは先方に出向く事は恐ろしいのでできないという。その労を私にとってもらいたいという気持ちがありありであった。私は、管理会社からも見放され、被害居住者からも丸投げされ、板挟みになった。でも、このまま放置しておくことはできない。そこで騒音を発生させている居住者にポスティングする文章を作り、担当営業マンにfaxした。すると営業マンはポスティングすることを渋々認めて後は管理人に任せるという。その文章は、「お知らせ」という形にした。被害居住者の訴えられたことそのまま文章にした。最後に、事実関係を確認もしていないので、事実誤認の恐れがある事をお詫びた。すると次の日に上の階の方から丁重なお詫びの挨拶があった。それによると、土曜日、日曜日は娘が孫を連れて遊びに来る。4歳と2歳の男の子で、 1日中部屋の中を飛んだり跳ねたりしているという。その方は最上階に住んでおり、階下の人にそんなに迷惑をかけているとは思いもしなかったという。以後、気をつけて、注意をしますということだった。ただし、階下の人とは面識がないので出向いていって謝る事は勘弁してくれという。そこのところは管理人がうまくやってくれという。私は早速被害居住者のところに行ってその旨伝えた。多分これで騒音問題は解決するのではないか、と思っている。今振り返ってみると、管理会社の営業マンにしろ、被害居住者にしろ、トラブルに首を突っ込むことを最初から嫌がって逃げている。でもいずれ何らかの方法で解決しないと、問題はいつまでも先送りされる。その間、ずっと騒音問題に悩まされることになる。解決したい問題があるにもかかわらず、その後の展開を恐れて行動しないからノイローゼ気味になっているのである。私たちの場合も、予期不安があると行動することに二の足を踏んでしまう。熟慮に熟慮を重ねた上、これはと思った解決策に向かって手足を動かしてみることが大切である。頭の中で様々な試行錯誤を繰り返すことは、 一害あって一利なしである。その間イライラ感と相手を憎む気持ちはどんどん増大していく。この場合は、自分たちが階下の人に迷惑をかけていたことを改めて教えてもらって目が覚めたようなことを言われていた。指摘をされて、ありがとうございましたと反対に感謝された。案ずるより産むがやすしとはこのことである。このような問題は思い切って対応していかないとダメだと思う。森田では「不安は安心のための用心である」ともいう。不安はすべて「あるがまま」に受け入れのではなく、積極的に動くことも必要なのだと思う。それは将来の状況が好転する場合と真の意味で相手のためになる場合であると思っている。それ以外は基本的には森田理論の言うように、不安はあるがままに受け入れることが肝心である。
2017.10.16
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アドラー心理学の研究をされている野田俊作さんは次のように述べている。我々の悩みというか、問題は、人間関係の悩み、対人関係の悩みだと思うわけです。実際にアドラーは、 「人間関係の問題とは全て対人関係の問題である」と言っております。良い人間関係を持つという事は、健康な生活、幸福な生活の絶対的に必要な条件なのです。では、よい人間関係はどのような人間関係なのか。それを一言で言うと、タテの関係をやめて、ヨコの関係に入ることだというふうにアドラー心理学では言っております。ところが、このヨコの人間関係を作ることが、なかなか容易ではない。すぐに、怒りや不安といった感情が出てきて邪魔をするからです。例えば、子供は朝なかなか起きてこなくて、お母さんがイライラして、つい感情的になって叱ってしまう。野田さんは、この怒りの原因をタテの人間関係、ヨコの人間関係から説明されている。この場合、お母さんは子供が自分の言うことを聞いてくれないから怒っているのです。本当は、怒りという感情を使って、子供を自分の思う通りに動かしたいのです。もっと言うと、子供を自分の意のままに「支配」したいという強い気持ちがあるわけです。子供にそのように接するということは、夫や姑などの人間関係も同様な関係になっている可能性が高い。また、学校や職場などでも同様な行動をとっていて、人間関係が悪化している可能性が高い。こうゆう支配、被支配という人間関係は、アドラー心理学ではタテの人間関係と呼んでいます。怒りという感情を使うと、子供を威圧できるし、また自分自身に「今は感情的になっているから、何をしても許されるんだ」という言い訳が出来るのです。だから、感情というのは、ある目的のために作り出される手段に過ぎない。怒りという感情を作り出して、子供を自分の意のままにコントロールしたいという目的を達成するために利用しているというふうに考えられます。こういう人間関係を作り出しているから、対人関係がぎこちなくなり、最後には孤立するようになるのです。問題はタテの人間関係をヨコの人間関係に変えるにはどうしたらよいのかということです。まず子供がどんなに自分の頭で考えていいることと違う行動をとっても、その現実をそのままに受け入れるということです。いったんは時間になって子供を起こしにいきます。でも、子供はなかなか起きてきません。お母さんは、いてもたってもいられないほどイライラします。もう一度、 「これ以上遅れると、学校に遅れるわよ」と声をかけます。でも起きてきません。普通はここでお母さんが切れてしまって、子供に怒りをぶつけてしまいます。ここで腹が立つというのは、子供が自分の思い通りに行動しないということがあります。もう一つ重要な事は、子供が間違ったことをしているという認識があるのです。子供の行動を見て、いつも正しいか間違っているかという善悪の判定をしているのです。子供の行動は間違っていると決めつけてしまうと、とたんにタテの人間関係に陥ってしまうのです。お母さんが支配者で子供が被支配者になってしまうのです。アドラー心理学で言うヨコの人間関係は次のようなものです。人間関係の在り方を考えるうえでとても参考になります。・無条件に相手を尊重し、接することをいいます。子供も自分と同じ意思を持った人間として接します。・基本的に子供を信じて、子供がどんな行動をしようと、どこまでも相手を信頼することです。そして子供には基本的に問題を解決する能力があるのだというふうに信じることです。・子供が困って助けを求めてきた時のみ協力する。それ以外は子供の側にいて見守るという態度を貫く。・子供と感情で付き合うのではなく、より理性的に話し合いでもって付き合うことを重視します。調整の必要があればたえず話し合おうと、そして合意に達しようとする態度を重視します。・是非善悪という自分勝手な価値判断を相手に押し付けない。・子供の存在価値を尊重して、相互に自分の気持ちや意思を口に出して伝え合うという態度を持ち続ける。安易に批判、叱責、脅迫、否定という手段を使わない。
2017.09.26
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今日は怒りの感情について考えてみたいと思います。夫が夜遅く酔っ払って帰ってきたとします。妻は夫の姿を見て、 「あなたは今まで何をしてたのよ。子供が受験勉強で大変な時だということはわかっているでしょ」と、怒りを爆発させます。妻は自分の憤懣やるかたない感情を発散させようとしているのです。また、怒りを爆発させることによって、夫の行動を改めさせようとしているのです。しかし、このような形で感情を爆発させると、夫との人間関係は悪くなります。こんなことが繰り返されると、意思の疎通が全く図れなくなります。夫の行動を改めさせる事は難しくなり、ますます夜遅くまで飲むという行動に拍車がかかります。かりに、妻の事を恐ろしく思っている夫はしぶしぶ従うかもしれません。しかし、それは妻は恐ろしいからであり、自分の本心から反省した上のことではありません。感情というものは、相手を動かすために使われているのがほとんどです。この場合、妻が激高して怒ると夫は言うことを聞くだろう。優しく言うと全然効き目はないだろうが、頭から湯気が上がるような怒り方をすると、夫は反省して行動を改めてくれるに違いないということを知らず知らずのうちに確信しているのです。優しく言うと聞かないだろうと思うと、心はちゃんと自動的に怒りを作り出してくれるものなのです。怒りという感情は、相手を支配することと深く関係があります。他人を自分の思い通り動かそうと思う人は怒るのです。森田理論でいう、相手を自分の思い通りにコントロールしたいという気持ちの強い人は、相手が自分の意に反する行動をとるとすぐに怒るのです。普段の人間関係を見ていると、短気でちょっとしたことですぐに怒る人がいます。こういう人は、自分の頭で考えた理想や完璧の状態とは程遠い自分や相手が許せないのです。すぐに自分や相手を理想や完璧の状態に引き上げようとするのです。つまり現実を否定してかかっているのです。ですから、怒りというのは「かくあるべし」をなくすると、その数は激減します。思想の矛盾を解消することが精神衛生上とても役に立ちます。では、相手が自分の意に沿わない行動をとった場合、どのようにすればよいのでしょうか。「純な心」や「私メッセージ」を活用するといいと思います。夜遅く酔っ払って帰ってきた夫に、 「私は早く帰ってきてほしいの。 1人で待っているのはとても寂しいから。あなたは早く帰ってきてくれると本当に嬉しいの。連絡もなしに遅くなると何かあったのではないかととても心配なのよ」夫が夜遅くになって帰ってくるという事実に対して、最初に沸き起こってきた感情をそのまま言葉にして表現するのです。これには夫に対して批判や否定の言葉は全く入っていません。自分の希望や気持ちを伝えて、なんとかそうしてもらえないだろうかと提案をしているのです。それに対して、夫がその先どのように行動するのかは分かりません。気持ちを切り替えて早く帰ってくるようになるのか、あるいは連絡を欠かせないようになるのか。あるいは今までと変わらないか全く読めません。しかし、この対応の良いところは、夫と妻の関係が対立関係にないということです。縦の人間関係ではなく、横の人間関係であるということです。つまり、どちらか一方が相手を自分の意のままに操つろうとする人間関係ではありません。お互いに相手を尊重し、信頼し、協力関係の人間関係を構築したいという気持ちが双方にあります。そのような関係にあるとき、 2人の間にちょっとした問題が起きたとき、まず双方が自分の気持ちや考え方を穏やかに述べ合います。次に双方で2人の気持ちや考え方のギャップを確認し合います。この確認作業が大切です。ギャップがわかれば、 2人で話し合って、その食い違いを埋めようとします。調整や妥協などです。こうなれば「雨降って地固まる」と言われるような、愛と信頼に満ちた人間関係がますます強固になってくるものと思われます。森田理論を発展していけば、「かくあるべし」を少なくして、このような人間関係を作り上げていくことができます。
2017.09.25
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私は老人ホームの慰問活動や祭りなどのイベント活動を行っている。私の披露する演目は、楽器演奏、獅子舞、どじょうすくい、浪曲奇術などである。慰問依頼の受付と日程調整、出し物の構成や出演者交渉を一手に担っておられる人がいる。その方は、 80代のおばあさんである。自分では三味線教室の師匠をされている。1回見ただけでは60代ぐらいにしか見えない。多分この方は痴呆症になることもなく、 100歳以上まで長生きをされるだろうと思う。とても好奇心が旺盛で、しかも人と交流することがとても好きな人だ。特に若い人と話をすることが大好きなようだ。リズム感がよく、カラオケが好きで、踊りも上手だ。私はその人と話をしていると、いつも人間関係のあり方について考えさせられる。その人の他人との交流を見ていると、とにかく相手の優れたところに常に注意を向けて観察している。見つけ出すとすぐに口に出して褒めている。「すごいね、えらいね」が口癖である。これは誰でも簡単にできそうであるが、実際に実行している人は少ない。相手はそんなに褒められるようなものではない、と思いながらも悪い気はしない。しかも、人が集まっている場で褒めてくれるので気分がよくなる。その反対に、人の悪口や人の批判をしているのを聞いたことがない。人間だから多分気に入らないことや腹が立つことは頻繁にあると思う。特にこの方は他人と接触する機会が多いので、その頻度が高いと推測される。それらは心の中に留めておくだけで、言動として表面化することはない。多くの人と温かい人間関係を保ち、お互いにざっくばらんな信頼関係が成り立っている。だから少々強引な依頼事項もたまにはあるが、それが嫌味にはならない。誘ってみてうまくいけば儲けもの、ダメなのが当たり前というスタンスで、とりあえず軽い気持ちで、当たって砕けろという態度である。また依頼されたことを断っても、 「わかった。じゃあ、またね」とすぐに引き下がられるので、とても気が楽である。そのような人間関係の中にいると、なんとか依頼されたことに対してできるだけ協力したいという気持ちにもなる。日程的にどうしても無理な場合を除いて基本的には協力するようにしている。かたや対人恐怖症で人間関係がうまく行かないと言っている人は、観察していると、これと反対のことばかり行っている。他人の欠点や弱点、ミスや失敗を必要以上に大きく取り上げて、相手を批判したり否定して罵倒している。いったん相手を避けるようになると、相手のいやなところをどんどん拡大解釈して、まったく寄り付かなくなる。先入観や決めつけが多く、結局は自分で自分の首を絞めているようになる。それを基にして人格否定まで行うのだから、相手にとってはとても苦痛である。最後には人が寄り付かなくなってくると思う。その反対に、相手の存在自体、優れた点や能力、努力している姿については何ら関心を払わない。その程度のものでは評価や賞賛には値しないと思っているかのようだ。ことさら取り上げて言動として表面化させるのは馬鹿馬鹿しいという態度である。つまりやることなすことが、そのおばあさんとは反対のことばかり行っているのである。このような事ばかり行っていて、良好な人間関係を築きたいと思うのはちょっと無理があるのではなかろうか。もし、対人関係でいつもトラブルを抱えて悩んでいる人がいるとすると、自分はどちらのタイプに属するのか調べてみた方がよいと思う。良好な人間関係を築いていきたいと思うならば、このおばあさんのやり方を真似することが大事なのではなかろうか。意識や注意を向ける方向を変えて、実践してみるだけでよいのだ。その結果大きな果実をもたらすに違いない。多くの人間は「かくあるべし」を持っているので、どうしても欠点や弱点などを見つけると、それらをなくしたり、人並みのレベルにまで改善しようとする。そんなことにエネルギーを投入するよりも、自分の元々持っている存在価値や能力を活用して、さらに前進させていく方向に舵を切り替える方がよいと思う。
2017.08.26
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森田先生は、友達や親戚の不幸のお悔やみに行った時は、決して余計なことを言わない方がよいと言われている。自分で経験もないものが、当て推量に、いろいろなことを言うのは大間違いの元である。例えば、早く悲しみを忘れる方法とか、人間は誰でも死んでいくものだから気にしないほうがいいとかくどくどとお悔やみを述べる事はやめた方がいい。 「死んだ人はもう帰ってこないから、早くも諦めた方がいい」などは余計なことだ。お悔やみに行った時は、お辞儀の仕方も、投げかける言葉も簡単なほどよい。常に相手の人の時と場合に気をつけて、同情し、共感するように心がけ、決して余計なこと言わないのがいいのである。形外会に参加されていた馬場さんという女性の方が次のように話されている。昨年、主人が急に亡くなった時、他の人たちから、様々に慰められた時、私は「諦められるものではないですが、諦められないままに、時が解決してくれるのです」と言いました。以前ならば、この人達の言うように、どうしたら、諦められるか、どうすればこの悲しみを忘れることができるかと、様々に苦しんだことでしょうが、森田先生のおかげで、そんな考えはなくなり、大変楽で、悲しみや苦痛もひどくはありませんでした。お悔やみに来られた人が、おとなしく挨拶してくれれば、私も「ありがとうございます」と言って済ますことができます。しかし、あまりにもくどくて、しつこくお悔やみを述べられると閉口してしまいました。森田先生は先に子供さんや奥さんを亡くされたが、お悔やみも、簡単ならば、 「ありがとう」ですむが、しつこく言われるときには、私は黙って返事をしない。これによって相手に反省させるつもりである。それでも反省しない相手には反発することになる。(森田全集第5巻 285頁参照)確かに葬儀に参列すると、葬儀前の慌ただしい時間にやってきて、喪主に対して長々と話をしている人がいる。そういう人は、自分がいかに相手の身になって同情しているのかをアピールしているようである。小さな親切、大きなおせっかいと言うような状態だ。親切の押し売りをしているようにも見える。また、相手から聞かれてもいないのに、葬儀の段取りなどを説明している。いかにも自分が親身になって相手のことを思いやっているのかを押し付けているように見える。こういう人は、自己中心的で、時間や場所をわきまえるという気持ちがさらさらないようである。喪主の人が親しい人であればあるほど、お悔やみの前に様々に投げかける言葉を考える。できるだけ相手の心に響くような哀悼の気持ちがこもった言葉を用意するのである。しかし実際には、相手も放心状態でそれどころではないのだ。なかには参列してくれたこと自体を忘れていることもある。 「この度は大変ご愁傷様でした。心からお悔やみ申し上げます」というような簡単な挨拶で引き下がった方がよい。お悔やみに来ましたよと、顔を見せるくらいでよいのかもしれない。葬儀に参列し、香典を渡すことに意味がある。これが本当の思いやりというものである。当たり前の礼儀作法であると思う。これは葬儀だけに限らないと思う。集談会でも相手から聞かれてもいないのに、親切心でいろいろとアドバイスをすることがある。こちらから話をするのではなく、相手から話をしてもらうことに力点をおいたほうがよいようである。
2017.08.22
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日本理化学工業という会社がある。この会社はチョークを作っている会社である。この会社の特徴は、従業員のほとんどが知的障害者であるということである。この会社の社長さんは、 「この人たちに幸せを提供できるのは、福祉施設ではなく企業である」という考え方を持っておられる。先日テレビで仕事ぶりを紹介されていた。これによると、知的障害者の人はとても人懐っこい。社長さんが従業員達に、 「今日もよく頑張ったね、ありがとう」と声をかけると、知的障害者の人たちは、心から嬉しそうな顔をするという。また同じ単純作業を2時間程度は、苦もなく繰り返すことができる。ただ喋り方はたどたどしく、動作は普通の人のように俊敏にはできない。言われたこともすぐに理解できないこともある。そのためか整理整頓は、言葉ではなく絵や色分けで表示されていた。言葉の意味の理解ができなくても、絵や色分けされた収納で支障なく仕事ができていた。何よりも知的障害者の人が自立できていたことが素晴らしい。本来は福祉施設で生活するしかないような人が、働いて得た給料で自分の生活を成り立たせるていることに感動した。自立した生活を送っておられるのだ。この会社の社長さん曰く。「人間の究極の幸せは4つあります。 1つ目は、人に愛されること。 2つ目は、人に褒められること。 3つ目は、人の役に立つこと。 4つ目は、人に必要とされること。だから障害者の方達は、施設で大事に保護されるより、企業で働きたいと考えるのです」人は仕事をして褒められ、人の役に立ち、必要とされるから幸せを感じることができる。仲間に必要とされれば、周囲の愛し愛される関係も気づくことができる。だから、障害者達はあんなに必死になって働こうとするのだ。この社長さんの言葉と森田理論の接点について考えてみた。まず人間は毎日の仕事や家事などを持っているということがとても大切だということだ。お金さえあれば仕事をしなくてもいい。お金さえあれば家事や育児を外注してもいいなどという考え方は、本来の人間の生き方に反する。本来の人間の生き方に反することをしていると、身体の健康のみならず、精神的にもおかしくなってくる。仕事や家事は煩わしいものではありますが、それらを放棄して、他人に依存してしまうということは、何としても避けなければなりません。森田理論では自分の気になる症状1点のみに注意や意識を向けるのではなく、目の前にある仕事や日常茶飯事に目を向けて、丁寧に取り組む事を勧めています。マズローの人間の欲求の5段階説によると、人に愛される事は3番目の欲求、人に褒められる事は4番目の欲求と言われています。人間は生理的な欲求、完全への欲求が満たされると3番目、4番目の欲求を満たす方向に向かうと言われています。対人恐怖症の人は、人に愛されたいという欲求は非常に強いのですが、その半面、人に受け入れられなかった場合のことを考えて、取り越し苦労ばかりしているという面があります。特に仕事の面では、お互いの意見が衝突する場合が多く、仕事すること自体がつらいといって、逃げるようになります。それでは対人恐怖症の人が、人から愛されるためにするべき事は何か。それは人に役に立つこと見つけて実践していることだと思います。大きな事を1つするよりも、普段から小さな事を数多くのすることが、神経質性格の持ち主には性があっているように思います。仕事や日常生活の中で、周りの人にやってあげたらよいなと思うのは数多くあります。それは神経質性格の持ち主だからこそ気づくことができることです。例えば、バスに乗るときは事前に小銭があるかどうかを確かめておく。このような些細な積み重ねが、大切なのです。常日頃、人に役に立つことを見つけて実践していると、症状自体からも離れることができ、人にも喜んでもらえ、人間関係が改善し、ひいては自分の存在意義を確認することにもなるのです。
2017.08.19
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嫌な性格の人とどういう風につきあっていったらいいのか。森田先生は次のように言われている。人と交際するときに、性格が違がおうがなんであろうが、自分の感じのままに、好きは好き、憎いは憎いで、そのままに交際していけばよい。嫌いだからといって、必ずしも「私はあなたが憎いから、お断りしておきます」とか、いちいち挨拶をする必要もない。当たらず触らず、会釈笑いでもしていればよい。この会釈笑いというものは、我々の人に対する社交的な自然な反応であって、自分の心に不快があっても、人と応対すれば、これを隠そうとして、かえっって著明に現れることがあるという事は、誰でも自覚することであろう。その自然なままでよいのである。それで、憎いままに、じっと自分の心を持ちこたえていることを、私は「自然の感じたままに服従する」と称します。しかし同時に相手は、同窓生であるから、挨拶くらいはしておいたほうがよかろうと考えて、お世辞の1つも言うのを、私は「境遇に従順」と称するのであります。たったそれだけでよろしい。この際に、自分は「人を憎んではならない」 「人は愛であれ」 「敵を愛せよ」とか、いろいろな教訓を引き合いに出して、われと我が心をため直そうと反抗するのを、私は「自然の感情に服従しない」と称する。これと同時に、自分は、あの憎たらしいのが、不愉快だから、彼に会うところへは行かないとか、話しかけられても、対応もしないとか言えば、それはわがままであり、 「境遇に従順でない」と称するのである。 (森田全集第5巻 568から570ページより引用)人間は誰でも好きな人と嫌いな人がいる。普通の人は嫌いな人に対して、 「虫の好かない奴だな」と思いながらも、なんとか最低限の付き合いをしている。挨拶をする。必要最低限度の付き合いをする。神経質な人は嫌いな人に対して、どうしてそんなことをしなければいけないのかと思っている。嫌いな人に愛想を振りまくのは、自分の気持ちに嘘をついていることだ。嘘をつくのは苦しい。だから挨拶もしない。仕事で必要なこと伝えなければならないことがあっても、同僚に頼んで伝えてもらう。あるいはメールで済ませる。つまり嫌いな人とは全く付き合いを持ちたくないのである。このやり方は本人は問題ないと思っているが、思い上がりも甚だしい態度ではあるまいか。そのくせに、心の中では、自分を理解してくれる人を強く求めているのである。さらに自分のすべてを受け入れて、自分のわがままを許してくれる人を探しているのである。犬猿の仲のような、そんな姿は第三者から見るとどんなふうに見えるのだろう。誰の目から見ても、その人とその人が嫌っている相手の人との人間関係がぎくしゃくしているのがすぐにわかる。大人なのだから、相方が歩み寄って妥協して付き合えばいいのにと思っている。喧々諤々の態度を私たちにこれ見よがしに見せつけるのはやめてもらいたい。周りの人たちを巻き込んで、みんなが必要以上に気を使っているのが分からないのだろうか。当事者本人を呼んで話を聞いてみると、最初は自分のことを無視されたとか、からかわれたとかちょっとしたすれ違いが原因となっている。そんな態度とる相手に対して怒りを感じたのである。森田理論で言うと、それは自然現象である。その怒りは行き着くところまで味わいつくせばよいのである。ボタンの賭け違いが起きたのか。それは、不快な感情を味わい尽くす前に、すぐに相手の理不尽極まる態度に対して対抗しようと思ったのである。この相手なら、我慢しなくても、自分の力で相手に勝つことができるかもしれない。いや、絶対に勝てる。不快な感情を相手に倍返しすることによって、自分の怒りの感情を鎮めることができると考えたのだ。それが1番正しい怒りの感情の処理方法だと思っていたのだ。では、実際に楽になったのか。または思惑通りに進んだのか。そうではありませんね。最初に考えていたこととは大きく食い違ってきました。寝ても覚めても相手のやることなすことが気に食わない。今や悩みの大半は、相手との人間関係のことである。これではいけないと思いながらも、それ以外の事は考えらる状態ではない。憂鬱だ。つらい。誰でもいいから何とかしてくれ。上司に自分の想いを聞いてもらうと少しだけは楽になるが、すぐにまた元に戻る。今や解決方法としては、相手が会社を辞めるか、自分が会社を辞めるか、 2つに1つしかないような気がする。会社を辞めるのは簡単だが、その後の生活が心配だ。生きていくのが嫌になってしまった。そのうち家族との関係もちょっとしたことで言い争うようになった。こんな結果を招いたのは、最初に感情の取り扱い方を誤っていたためであると思う。相手どんなに理不尽な態度をとられて怒り心頭なっても、対症療法で、その感情を相手に吐き出すことは短絡的であった。森田理論では、どんなに腹が立っても、まずその感情を味わうということが大切なのである。ちょっとだけ味わうという事では不十分だ。骨の髄まで味わい尽くすことが重要なのだ。相手にその不満を倍返ししてやろうと思ってもよい。極端な話相手を殺してやろうなどと考えてもよい。よく考えると、すぐに軽率な行動をとる人は、怒りの感情を味わうということが不十分な人である。軽率な行動をとることからは将来何も生まれてこない。人間関係は悪化するばかりである。それに対して感情をとことんまで味わいつくす人は、そのときは注射針を打たれた時のようなチクリとした痛みは感じるが、すぐに流れ去って、後々まで悪影響を及ぼすことはないのである。
2017.07.24
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平成7年8月号の生活の発見誌に職場の人間関係の悩みに関する記事があった。3 点ほど挙げられていた。1 、自分は周りの人たちから良く思われていないという悩みです。他人の思惑や評価が気になるタイプの人に多い悩みです。2 、仕事の空き時間や休憩時間に同僚達と接するのが苦痛という悩みです。対人緊張の強い人に多く見られます。話の輪の中に入りたいが、うまく話ができなくて苦しいと訴えられます。3 、上司との人間関係です。上司が地位や権力を利用して、無理難題をふっかけてくる。ミスや失敗を許してくれない。時には自分の人間性を否定してくる。私も対人恐怖症だったので、この3つはすべて当てはまります。森田理論を勉強して、仕事の中に応用してくる中で気づいたことを整理してみたい。1番目についてですが、他人思惑や評価を気にしているときは、頭で考えることのほとんどは、自己防衛のことです。目の前の仕事のことはほとんど考えていない。自己防衛にエネルギーを使うことで、自分が楽になればいいのですが、楽になるどころか、ますます精神的に追い詰められていく。森田理論で言うところの精神交互作用で増悪し、アリ地獄の底へ真っ逆さまに落ちていく。そして、仮の自分、見せかけの自分を取り繕うということばかりに力を入れるようになる。自分はミスや失敗の多い人間ではあっても構わないが、他人から能力の無い人間だと見なされてはならない。自分は悪い人間であっても構わないが、人から悪く思われることは嫌だ。自分は気が変であっても構わないが、他人から根暗で気が変なやつだと思われる事は避けたい。仕事で成果をあげることは関心がなくなる。人のために役立つことをすることもなくなる。日常茶飯事に丁寧に取り組むこともしなくなる。こうした悪循環からどうしたら抜けてることができるか。私が取り組んできたことを整理してみたい。気になる事は気になるままに持ち続けて、普段の日常生活を丁寧に規則正しくするように形の方を整えていく。そして、目の前の仕事の能率を上げるように注意や意識の方向を変えていく。ちょっとした小さなことで、人に役に立つことをどんどん実践していく。また、会社では、利害関係ですぐに対立的になりやすいので、会社以外での人間関係づくりを心がけいく。1番目については、不安と欲望のバランスが崩れてしまっているということが大問題である。こういう場合はどんなに苦しくても不安のほうはそのまま放置して、生の欲望の発揮という方面に最大限の力を入れることであると思う。 2番目の問題は対人恐怖の人で言えば雑談恐怖という事だと思う。雑談恐怖症の人は、他人が自分のこと非難したり軽蔑したりからかったり、無視されることをとても恐れる。自分の容姿やミスや失敗、身内の悪口を言われること恐れているのである。恐れているとそういうものを隠そうとする態度が出てくる。他人にとっては隠そうとすればするほど、そのことがよく見えてくる。また雑談恐怖の人は目的のない会話と言うのが苦手である。目的がある会話は自分が主導権をとって、意欲ややる気のある発言をすることができる。だが雑談恐怖の人は雑談は意味があるとは考えていないのである。しかし私は雑談と言うのは、しっかりとした目的があるように思う。それは味気ない人間関係の中に潤いをもたらすという目的である。歯車と歯車が噛み合っている所には必ず潤滑油が流れている。潤滑油がなければ、金属と金属がこすれてギクシャクしてくる。雑談をそのように捉えれば、雑談に参加することこそ意味がある。中身のある話をする必要は無い。私はあなた方を拒否してはいけませんよ。良好な人間関係を維持して行きたいと思っていますという意思表示をしていることと同じことなのです。人気のある人を見ていると、自分の容姿やミスや失敗などの話が出てくれば、はにかみながらも笑いの提供者となっている。自己防衛に汲々としている人を見ると、相手のほうも自然と攻撃してやろうと対立的な関係になっていくのではないだろうか。そういう人間関係は自他共に不幸になる。 3番目の人間関係ですが、上司との人間関係が全く問題がないという人はいないと思う。もし、そんな人が存在するとすればイエスマンだろう。上司は自分の課に与えられたノルマや責任を果たしたいと考えている。進捗状況が思惑通りなら問題は起きないが、ほとんどの部署では問題が山積しているのではなかろうか。ノルマや責任が果たせなければ、上司の責任問題になるので、上司も必死なのである。どこの職場でも、上司が冷静さを失い、言いたい放題で部下を追い詰めることになる。これでは、上司にとっても部下にとってもお互いに不幸である。では、どうしたらいいのか。私は1つの手がかりを見つけた。上司の理不尽極まる言動に対して反発ばかりしていても何の解決策にもならない。それに対して私のとった対策は、理不尽な言動をあらかじめ封じる作戦だった。上司の机の上には未決と既決の箱があり、未決の箱の中には、これから我々に指示命令へするであろう案件があった。その内容を上司がいないときに見て、事前につかんでおき、自分の意見や対策を立てておくことが大変有効であった。また、本社からの直属上司に対する指示命令事項はあらかじめ私宛にもメールしてもらうように依頼していた。これは、多くの人にとっては参考にならないかもしれないが、上司の抱えている課題や問題点を事前に察知して少しでも対策を立てれば、自分が楽になると思う。また上司と部下の人間関係は、短ければ1年、長くてもいずれは解消されるものである。そのことを理解していれば、理不尽な上司の下で1時的な感情のもつれでやぶれかぶれになって喧嘩を売ることはなくなると思う。上司と対立して退職された方を多く見てきたが、実にもったいないことだと思う。会社に在籍する1番の目的は、生活の糧を得ることである。そのためには、優柔不断、臨機応変に振る舞うことが最も大切なことである。
2017.07.08
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嘘にはつかないほうがよい嘘と、ついたほうがよい嘘があるような気がします。加計学園問題については、菅官房長官が嘘をついていたことが明白になりました。今になって、民進党が指摘していた文部科学省の秘密文書が存在することが明らかになりました。するととって返したように、改めて徹底的な再調査を行うことにしたという。再調査を行わないと、東京都議選に悪影響を及ぼしかねないという世論の動向を無視できなくなったのです。実際に都議会自民党には国政レベルの逆風が吹き荒れました。こういう嘘は早晩追求されればされるほどすぐに明らかになります。そして、明らかになった時点では反論できなくなり自分の方が窮地に追い込まれます。それでも言い訳や反論を繰り返していると今まで積み上げてきた信頼は地に落ちてしまいます。それはいずれ真綿で自分の首を絞めるように効いてきます。こういった嘘は自分たちの立場や利益を都合の良いように守ろうとしており大変見苦しいと思います。最初から否定するのではなく、再調査を約束すれば済むことですが、力に任せて闇に葬ろうとしたのでしょう。考えてみれば、この世の中は嘘で満ちあふれています。インターネットを見ていると、 「株をやっている人に絶対に儲かる銘柄を教えます」という宣伝がやたら多い。そんなに儲かるのなら、人に教えないで、自分ひとりでやっていれば、今や億万長者になっているはずだ。自分が億万長者になっていないのに、どうして明日の儲かる銘柄がわかるのだろうか。銘柄教えてその銘柄が思惑から外れて値下がりしたとしても、その人が責任をとる訳ではない。すべて自己責任である。せっかく高いお金を支払って教えてもらった銘柄が下がったとしたら、踏んだり蹴ったりである。こんなことは冷静になって考えると誰でもわかることだが、だまされて財産を失う人が後を絶たない。最近田舎に住んでいるお年寄りを狙っての訪問販売業者が多い。家の床下にもぐりこんでシロアリの検査をする。そしてシロアリがいるのでシロアリ駆除しないといけない。駆除しましょう。あるいは喚起を良くするために、送風装置をつけないといけない。などと言って高額な商品を売り込むのである。あるいは、水道水の検査をして、不純物除去を目的として30万円以上もするような浄水器を売り込むのである。その手の訪問販売業者が多く、昼間は家でゆっくりしているととんでもない目にあうという人もいる。オレオレ詐欺は今や日本の風物詩となっている。どうしてあんなものに騙されるのかと思うが、やっているほうは電話1本で100人に1人、500人に1人がひっかかってくれれば充分にやる価値があるのだろう。でもこんなことで人をだましていると、自分の将来は次第にじり貧になっていくのではなかろうか。私達は嘘や詐欺に引っかからないように注意しておく必要がある。だいたい働かないで宝くじが当たるような不労所得が入ってくるような甘い話があるわけがない。親の遺産を受け継いだり、生命保険や損害保険で思わぬお金が入る事はあるが、それ以外は考えにくい。儲けたいと思う気持ちが強ければ強いほど、嘘や詐欺に引っかかりやすくなる。それは自分の頭の中で客観的な考え方が出来なくなっているのだ。しばらく時間をおいて考えると容易に判断できることが、気持ちが高揚しているために冷静さを失っているのだ。そういう時はいくら気持ちが高ぶっていても、即決してはいけない。しばらく決断まで時間を置くことである。そして、冷静になったときにメリットとデメリットを書き出して比較してみるのである。あるいは第三者の意見を聞いてみることである。短絡的に即決をするとあとでバカを見るのは自分である。一般的に神経質者は取り越し苦労が多く、様々な角度から比較検討してみることが多いようだ。迷ってばかりでチャンスを逃すことが多い。しかし、いったん弾みがついてしまうと、猪突猛進でどこまでも突っ走ってしまうとこともある。では、普段の生活の中で嘘は絶対についてはいけないかというとそうでもないと思う。私たちは小さい頃からウソをついてはいけないと教育を受けてきているので、何でも正直に話さなければならないと思っている。そういう「かくあるべし」を前面に出してしゃべっていると、人間関係が円滑に進まない。例えば、ちょっと濃いめの化粧をしている女性に向かって、ちょっとけばけばしいなと思っても 、「きちんと化粧されていますね」というのが常識である。「気持ち悪いですね」というのは非常識だ。あまり趣味がよいとは言えないようなバッグを自慢された場合、 「希少価値のあるバックなんですね」と返答をする。これらは、ついてもよい嘘だと思う。むしろ人間関係を円滑にするためには、つかなければならない嘘だと思う。自分の身を相手の立場に置いて考えれば、言っていいことと、言ってはいけない事はおのずから明白になる。森田先生は、 「かくあるべし」から出発するのではなく、人情から出発した方が良いと言われている。虫の好かない相手であっても、知らんぷりをするのではなく、せめて挨拶くらいはする。自分の信条に合わないから、無視するというのは潤滑油が切れた歯車を無理矢理に回すようなものである。ついてもいい嘘というのは人間関係を豊かにして潤いをもたらす。だだし、その嘘も度が過ぎると、相手に「イヤミ」という嫌悪感をもたらすので注意が必要だ。
2017.07.06
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天皇陛下の心臓の手術をした天野篤医師は、順天堂大学で後進の指導にあたっている。指導に当たっては、山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」を座右の銘としている。まず手本を示した上で、次に同じ作業を第一助手にやらせてみるそこで、欠点や改善点を見出し、場合によってはもう1回やらせて見せてから、再び同じ作業をさせてみるそれをフェイスツーフェイスで繰り返して、相手の手の動きや視線の配り方を観察しながら実地に技術を教えていくわけです。第一助手に任せても大丈夫だなという段階になったら、今度は第一助手と、さらに経験が浅い第2助手とでやらせてみます。私は要点を指摘するだけで、トラブルが生じたりしない限り手出ししません。そういったプロセスで様々な症例を経験させることで、必要な技術を若い医師たちに習得させるわけです。経験の浅い第2助手を第一助手に起用して、マンツーマンで指導してみたことも過去にはありました。すると、多くの場合、私が目の前にいることで緊張してしまい、本来の力が出せなくなってしまうのです。下手をすると、自信喪失につながったり、研修医であれば落第点を付けられてしまう可能性もある。それを避ける意味もあって、経験の浅い者には、私の下の世代の第一助手に指導させるようになりました。そして若い医師が成長し、簡単な手術を任せられる程度になったら、思い切って突き放す。私の感覚で言うと、 1人前まで行かなくても、 0.7人前ぐらいになったら、巣立ちをさせる時期です。そして残りの0.3人前に必要な力は、自分で獲得させるように仕向けるのです。「何かあったら自分の責任のもとに対処するんだぞ」とあらかじめ宣言してから、決まったとおりのことをやれば確実に成功できるシンプルな施術の機会を与えてあげるのです。私は手術室には入りません。最初は手術の経過が気になって、 医師室のモニターで見ていたりもしますが、そこまで育った医師なら、まず基本的なミスを犯すような心配はないものです。(この道を生きる、心臓外科ひとすじ 天野篤 NHK出版新書より引用)この話は集談会や子育てに応用できる話だと思う。集談会では、実際に森田理論を応用して、普段の日常生活をいかに過ごしているかについて、自分の経験を話すことが大切である。できれば現物を持っていって見せる。あるいは実際に実演したり演技してみせる。それに影響を受けて、初心者が自分の生活の中に取り入れたり、考え方を見直す事は十分にあり得る。そして相手が考え方や生活の変化を見せた時、 「それは素晴らしいことですね」と言って評価をしてあげることだ。次に集談会では森田理論に精通し先生と呼ばれるような人がいる。その人が集談会の重鎮として崇められて、大学のゼミの先生と学生のような関係になってしまうことがある。天野先生はそれでは学生があまり成長しないといわれている。それよりは、先輩会員が後輩会員を指導したりアドバイスすることの方がより大事であると言われている。森田理論学習は本来、相互学習と言われており、先生といわれるような人はいないはずである。このことは、ある特定の人が先生のような指導的な立場にたって、集談会を運営してはならないということ言われているのだと思う。年に何回か奥深い講話を聴くことは刺激になるが、本来先生と言われるような人は、集談会には参加しない方がよいのかもしれない。最近は子育てにおいては、児童虐待の他に過保護や過干渉が問題になっている。特に親が子供を自分の所有物のように考えて、自分の考え方を子供に押し付ける場合がある。「どうしてできないの」 「やるって約束したじゃない」 「あなたのために言っているのよ」 「何をぐずぐずしてるの。早くしなさい」などの言葉を連発していると要注意である。天野先生の話からすると、 0.7人前になったら子供の自由に行動させてみる。親は傍で見ているだけにする。口を挟みたくなっても我慢する。そして失敗や成功を繰り返しながら、子供自身がが自立する方向に向かわせることが最も大事だと言われているように思う。
2017.06.07
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多くの若者は、結婚することや子育てにも関心を失ってしまい、大変な苦労を背負い、自分のために使える時間や費用を犠牲にしてまで、そうした面倒なことに取り組みたいとは思わなくなった。無理をして家庭を持ち、子供を産んだとしても、喜びよりも負担ばかりを感じるようになった。その影響は、結婚や子育てだけではなく、それ以外の対人関係にも及ぶ。人々は友人や隣人に対して心からの親しみを感じたり、困ったときに助けあったりすることが少なくなった。なぜなら、そうすることが喜びをもたらすよりも、煩わしさや苦痛や負担しかもたらさないからだ。社会はそれぞれがバラバラに孤立した、とげとげしく、パサパサの殺伐とした場所になりつつある。それぞれの人が、交流を最小限にとどめて、個人の殻に閉じこもり、それぞれの生活を楽しむようになる。もはや他者のために生きる事は喜びをもたらさず、自分のために生きることでしか、本当の満足を味わえない自己実現の追求こそが価値であり、真の生きがいとなる。そのためには、お金や時間やエネルギーを、できれば自分のためにだけに使いたい。我が子といえども、時間を奪われすぎる事は、煩わしく、邪魔者に感じられる。子育てという、本来最も重要な行為よりも、自己実現や自己の快楽追求が優先されるようになる。子育てはもはや、子供のための行為ではなくなり、母親が主人公の、母親のための行為になっていく。教育も、子どもの現実的なニーズではなく、親や大人側の期待が優先され、子供たちはそれに踊らされたあげく、自立の失敗というツケを払わさられる。遊びや対人関係も、人との交わりを楽しむのではなく、自分が主人公で、自分が楽しむものに変わっていくことになる。こういう社会に急速に確実に移行しているとすれば空恐ろしいことである。岡田尊司氏は、この現象は脳内のホルモンの変容から説明されている。下垂体後葉からオキシトシンとバソプレシンというホルモンが分泌されている。今まではこれらのホルモンの分泌が盛んで、これらのホルモンを受け取る受容体が脳内にしっかりと形成されていた。ところが現代の人間にはその仕組みが徐々に壊されていると指摘されている。その仕組みが壊されると、親子の関係や人間関係が全く変わってくる。詳しく見てみよう。これは北アメリカに住むハタネズミの研究で明らかになった。プレーリーハタネズミは、 一夫一妻のつがいを形成し、子供たちとともに大勢の家族をなして巣穴で暮らす。それに対して、サンガクハタネズミはつがいを作らず、不特定多数の相手と交尾し、別々の巣穴で暮らす。生まれたばかりの子ネズミを母親から離して1匹だけにすると、プレーリーハタネズミは悲鳴を発して助けを呼ぶ。サンガクハタネズミは、特に反応せず、ストレス・ホルモンの上昇も見られない。つがいの形成が起きたプレーリーハタネズミでは、オキシトシンやバソプレシンの受容体は、側坐核と言う快感を感じる中枢に多く存在していた。つがい形成が起きないサンガクハタネズミでは恐怖などの情動の中枢である扁桃体などに多く存在していた。プレーリーハタネズミでは大家族で生活することに快感を感じ、それが強化される仕組みが出来上がっていた。反対に、サンガクハタネズミでは、そういうことに快感を感じることは全くない。それよりも自分だけが好きなことをして、単独行動を好むようになる。家族や他人が近くにいると煩わしてく気が散って仕方がないのである。人間の社会でこうした事態が進行すると、社会全体が自己愛的で、自閉症的風潮が蔓延してくることになる。現在、マンションでも隣の人とは没交渉、また孤独死、無縁社会が社会問題となりつつある。今後、周囲の人と関わりを持たないで、個人個人の孤立生活を楽しむ生活様式が進展すれば、それらの問題は、ますます拡がってくるだろう。問題点を指摘しておこう。0歳から1年6ヶ月の生育期間中に、父母との間に愛着の形成が行われなくなると、追い討ちをかけるように、オキシトシンとバソプレシンの受容体が形成されなくなるということである。愛着の形成は本人のその後の対人関係に影響するのみならず、社会全体としての共同体の維持、無縁社会の形成に拍車をかけるということである。子育ての中でで愛着の形成をいかに確立していくかということは、現代社会に突き付けられた大きな課題となっている。(愛着崩壊 岡田尊司 角川選書より引用)
2017.05.30
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何でも話せて、自分の弱い面や未熟な面を見せても非難されることがない相談相手を、1人持つだけで、自殺のリスクは半分に減少すると言われている。日本的な言い方で言うと、甘えられる人間関係を持っておくことが大事なのだ。甘えられる存在が身近にいると、危機や試練を乗り越えやすい。岡田尊司氏は、そういう人のことを「安全基地」と呼んでいる。では、自分が「安全基地」の役割を果たすためにはどうすれば良いのだろう。安全基地の第一条件は、まず相手の安全を脅かさないということです。安全を脅かす最たるものは攻撃だ。相手の非を責めたり、感情的に怒ったりすることが多すぎると、その関係は安全基地ではなくなっていく。いくら本人のために言っているつもりでも、結果は同じだ。ポイントは、ネガティブな反応を減らし、ポジティブな反応を増やすということだ。ネガティブな反応をする癖がある人は、相手が言ったことに、 7割まで同意でき 3割だけ違っていても、違うと考えてしまう。相手から何か言われると、まず「いや、違う。 」と反応する。何かアドバイスや注意をされると、 「でも」と言い訳を考えてしまう。そういった思考が、その人の幸せや可能性を邪魔している。「でも」とすぐ言い訳をしてしまう人にとって、人生を変える良い方法がある。その方法は実に簡単で、効果抜群だ。誰かから何か気に食わないこと言われたら、 「私もそう思っていたんだ」と答えるだけで良い。「もう昼の12時よ。いい加減に起きたら」と文句を言われたら、 「うるさいな。休みの日ぐらい寝かせてくれよ」と言う代わりに、 「僕もそろそろ起きようと思っていたんだ」と答えるのだ。これは機械的に行うことが大切だ。心の中では反発したくなっても、「実は私もそう思っていたんだ」というのだ。努力すれば誰でもできる。これだけで人間関係が大きく改善する。次に、応答性を高めるということだ。応答性とは、相手が求めてきたら、答えるということである。相手が何かしたら、こちらもリアクションする。相手がしていることにまず関心を向け、一緒に反応することだ。応答性とは、あくまでも相手が求めてきたときに答えるということである。求めてもいない事を、こちらから一方的に押し付けたり、やらせたりすることは応答性では無い。それは過保護で相手の自主性を切り取って、依存性を強める。支配やコントロールに近い。3番目は、共感性を高めるということだ。共感性を高める秘訣は、結果ではなく、プロセスに目を注ぎ、プロセスを評価する言葉を使うように心がけることだ。「 100点はすごいな」ではなく、 「一生懸命勉強していたのはすごいな」のほうが共感的な言い方なわけだ。「今回はうまくできなかったけど、あなたが努力していたのはよく知っているよ」たとえ60点と結果が振るわなくても、共感的な言い方は、変わらずに使える。それは結果に左右されないと言うことであり、逆境から守ることにつながる。この3つを心がけて、できるだけ周囲の人の「心の安全基地」になってあげられるように努力してみよう。自分が相手の「心の安全基地」となろうとする努力は、相手に「心の安全基地」としての役割を果たしてもらうことに役立つと思う。(ストレスと適応障害 岡田尊司 幻冬舎新書 204ページより引用)
2017.05.06
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人間の体にウイルスや細菌などの異物が侵入した場合、免疫細胞はこれらを攻撃して処理しています。免疫細胞の主力を担うのは白血球です。白血球にはマクロファージ、リンパ球、顆粒球があります。マクロファージは体内に侵入してきた細菌や異物などをキャッチすると、それを体内に取り込んで処理しています。さらに発見した異物の情報をTリンパ球やBリンパ球へ伝えます。Bリンパ球はその情報を元にして抗体を作ります。この抗体がウィルスを撃退するのです。がん細胞などはナチュラルキラー細胞が攻撃しています。このように、私たちの体内では、日々刻々白血球がウィルスや細菌と戦っているのです。私たちは意識はしていませんが、けなげにも白血球たちは命をかけて私たちを守ってくれています。もし白血球が闘いを止めて、免疫機能を発揮しなくなると、ウィルスや細菌に負けて死んでしまいます。白血球の働きから分かることは、自分の生命を危機に追いやる相手に対して、何もしないでやられっぱなしではダメだということです。生命は闘いづけることで、生き続けることが可能となるように宿命づけられているのです。これは基本的には人間と人間の関係でも同じことだと思います。力の強い人間は、力の弱い人間を力で征服して服従させようとします。いったん支配されるようになると、自分たちの築いた富や財産は収奪されてしまいます。また行動の自由はきかなくなります。支配する人の欲望の充足に奉仕させられるようになります。いつも支配者の顔色を見ながら、びくびくしながら生活するしかなくなります。そういうことにならないように、普段から対等な力を身につけておく努力が欠かせません。力関係のバランスがとれていれば、緊張感はありますが、対等の立場で話し合いをすることができます。国と国の関係もそうだと思います。ある国が武力でもって、自分たちの国を攻撃した場合、対抗手段を持たないで無抵抗だとすると、すぐに制圧されてしまいます。戦争で負けた国は悲劇です。殺されたり飲むや食わずの生活を余儀なくさせられます。被支配国になってしまうと、すべての物を失うことになることを忘れてはなりません。ですから、基本的には相手国と同じだけの力関係を保つための努力が必要です。同盟関係といっても、力の差がある場合は対等ではありません。支配-被支配の関係です。また、自分たちの生命の源となる食料を他国に依存するということは、容易に被支配国に陥いるということを肝に銘じておかなければなりません。他のものはともかく食料の国内自給の向上は安全保障上生命線となります。そうしないと自分たちの国の主権と独立を維持することができません。こういう視点で日本を見てみると、外交、軍事、食料などででアメリカに支配されています。日本とアメリカの関係は、力の弱い国同士が助け合っているということではありません。アメリカが親分で日本は子分の関係です。つまり支配国がアメリカで日本は被支配国です。外交交渉では常にアメリカが主導権を発揮していて、基本的には日本はアメリカの言いなりです。アメリカは日本を守ってやっているのだから、アメリカの命令に素直に従うべきだという考えです。今から本格的に始まる貿易の二国間交渉は、アメリカの要求に屈することになるでしょう。食料の自給率では、日本は先進国中最下位です。食料は今後、世界の人口の増加による争奪戦が始まります。安定的に今後も食料が確保される保障はありません。またいつ何時気象変動による不作に見舞われないとも限りません。それが現実となって目の前に突き付けられた時ではもう遅いのです。日本国民はその時点ですぐに生命の危険にさらされます。さらに簡単に外国に支配されるようになります。対等な立場で外交交渉する力を持ち、自分たちの国を守るということができなくなります。国の方針が間違っているとしか思えません。私たちの体内で日々行われている免疫機能に学び、人間関係や国と国との付き合い方を、今一度再検討してみる必要があるのではないでしょうか。贅沢三昧の生活に浮かれている時間はないのです。
2017.04.27
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アスペルガー症候群と診断される子供たちがいる。この子供たちは、身の回りのことをするのを覚えるのに時間がかかる。いつまでもぐずぐずして取り掛かることができない。ちょっとの間もじっとしておられず、絶えず落ち着きがなく動き回り、手当たり次第に物を掴み取っては、引き裂いたり、壊したりする。他の子供に関心を持ったり、遊びに加わったりすることがないそれどころか、周囲の子供をイラつかせる。自己中心的で、一方的に自分の主張を繰り返し、それが受け入れられないと暴力を振ったりする。相手を喜ばせようとか気に入られようとかは思わず、周囲から親しいふれあいを求められても、拒否してしまうこともある。こだわりや情緒不安定、常同行動から、奇声、逃避、自傷、パニックや暴発に至ることもある。こういう子供がクラスの中に1人でもいると先生は対応に苦慮する。親はつい「やらないといけないのに、どうしてできないの」と叱責してしまう。アスペルガー症候群の子どもたちに、親や先生が普通の子供のようになってもらいたいと考えて、接触を図るとうまく行かないようです。それよりも、その子供たちの現実を受け入れて、その子供たちの特徴を生かした教育やしつけをした場合、思わぬ能力を発揮するようなことになる。アスペルガー症候群を抱えていた人は、普通の人には無い特殊な能力を持っている場合がある。有名な人では、アインシュタイン、ビルゲイツ、エジソン、ジョージ・ルーカス、ヒッチコックなどがいる。エジソンは小学校に入学するが、学校での評価は散々なものだった。校長先生は、エジソンが「注意散漫で、空想にふけってあり、奇異な行動ばかりしている」ことを問題視していた。ついでに業を煮やし、クラスメートの前で平手打ちを食らわせて罵倒した。すっかり打ちのめされた。エジソンは泣きながら家に帰り、その後学校に行かなくなった。話を聞いた母親は、息子を連れて校長先生に会いに行くと、 「自分の方がこの子のことわかっているので、自分で教えます」と言い切って退学させた。家庭で行った教育は、 「形式的な教授法でエジソンをしばるのではなく、何でもやりたいようにやらせて、子供の想像力が存分に発揮させるようにやらせた」という。母親は時間を決めて、読み書きや算数のレッスンをしたが、それ以外は本人の興味をうまく刺激しながら、本人の自主性を引き出していった。エジソンは読書が好きで、母親が買い与えた「自然・実験哲学概論」という本は、エジソンを虜にした。挿絵が満載のこの本には、電池の作り方や簡単な実験の仕方が絵入りで紹介してあった。エジソンは、台所から実験材料をこっそり持ち出して、実験にふけるようになった。すると、母親は地下室を実験室としてエジソンに提供した。エジソンはそこで自ら学んでいたのである。これを見るとアスペルガー症候群を抱えた子供の教育は、親や先生の「かくあるべし」を押し付けるような教育ではうまくいかない。アスペルガー症候群を抱えた子供たちの特徴をよく観察し、そして何よりもその子供たちの置かれた状況を受け入れていくという基本姿勢は欠かせない。そしてその子供たちの中に眠っている隠れた能力を見つけ出して、伸ばしていくという教育に切り替えなければならない。その子供たちの問題行動にばかり目を向けて、子供を叱り付けたり排除するやり方では、その子自体も苦しいし、親や先生にもストレスが溜まるばかりである。森田理論では「かくあるべし」を少なくして、事実本位に生きていくことを学んでいくが、アスペルガー症候群を抱えた子供たちに応用できる考え方である。(アスペルガー症候群 岡田尊司 幻冬舎新書参照)
2017.04.26
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小学校5年生の男の子が、髪の毛を抜いてしまうと言うことで、精神科医岡田尊司先生のところにやってきました。最近は、それだけでなく、こっそり親のお金を持ち出したり、嘘をついたりするようになった。もともと落ち着きがなく、考えもなくパッと行動してしまうところがあり、忘れ物が多かったり、先生が言ったことを聞き逃して困ることが多かったのだが、近頃では母親が注意しても、素直に耳を貸すどころか反抗的になるときもあり、手に負えなくなっている。家庭だけでなく、学校でも、先生や友達とトラブルになることが増えている。生活は投げやりで、言わないと宿題もやらない。注意されれば渋々やるか、やりたくないという態度が露骨である。この男の子の場合、症状から診断して、一般的には 「抜毛癖」 「素行障害」 「虚言癖」 「注意欠陥・多動性障害」 「反抗挑戦性障害」などの診断が下されることが一般的である。岡田医師は母親との面談の結果、一連の症状は親子関係に問題があったと判断した。この男の子は、両親は専門的な仕事をしていたため、小さい頃から保育園に預けられて育った。ただ、保育園に預けっぱなしにしていたというより、両親ともにとても教育熱心で息子にかける期待は人一倍大きかった。小さい頃から習いごとをたくさんさせてきた。保育園に迎えに行くと、その足で習い事に直行するという生活が1週間のうち、多くを占めていたのである。愛情がないわけではないが、世話や関わりは人任せになる一方で、習い事をさせたり指導や注意をしたりすることには熱心だったのである。干渉ばかりが多く、時には厳しく叱ることもあった。その結果、この男の子にとって、親は心からの関心や親しみを覚える対象と言うよりも、口を開くと命令するか、否定するかの、うるさくてめんどくさい存在となっていた。自然な情愛的な結びつきは弱く、親に甘えたり、困っている事を相談したりすることもない。愛着という点から見ると、共感的な結びつきが希薄であるだけでなく、いつも強制され支配され無理やり服従させられていた。親の一方的な押し付けと、評価に縛られた子供は、主体性をを奪われるばかりか、逃げ場所を失ってしまう。家庭は、安全基地とは反対の、危険基地や強制収容所のようなものになってしまう。これは直接暴力を加えているわけではないが、指導という名の虐待に他ならない。行動上の問題を直そうとして厳しく指導したばかりに、問題行動がさらにエスカレートし、反抗や思考が激しくなることも多いし、行動上の問題は改善したかに見えても、もっと厄介な問題を生じてしまう。例えば、無気力や自己肯定感の欠如などである。ここで気になるのは、医学モデルによる診断と治療もひとつ間違えば虐待と同じ構造になってしまう危険がある。医学までもが、その子供を異常と診断することは虐待に加担することにならないだろうか。医学モデルによる診断は、生育環境や親子関係などの細かい事情を覆い隠し、病名があたかも実体で、それが症状を引き起こしているような錯覚を生む。(愛着障害の克服 岡田尊司 光文社新書より引用)私はこの話を聞いて、神経症で悩む人も、その原因が親子関係などの人間関係にあるのではないかと考えるようになった。私たちは、神経症から回復するために、森田理論学習をしているわけですが、その前に親との関係で愛着障害を抱えているのではないかと考えるようになった。そこで愛着障害という本で愛着障害の診断テストをしてみた。すると不安型愛着障害に該当していた。不安型いうのは、親との信頼関係が築かれていないために、大人になって見捨てられ不安が付きまとい、常に他人の思惑に振り回されて生きていくことがつらい状態である。そういう人の場合、いきなり森田理論学習をするのではなく、愛着障害からの回復をまず第一に考える必要があるのではないか。幸いなことに愛着の再形成は大人になってもある程度可能である。心の安全基地を作ることが優先されるべきことではないのかと考えるに至りました。
2017.04.23
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和歌山県白浜にアドベンチャーワールドがある。ここで絶滅危惧種のパンダが飼育されている。アドベンチャーワールドでは15頭のパンダの繁殖に成功している。パンダは世界各地で飼育されているか、途中で死んでしまうのが2割もあるという。パンダの飼育に最も成功しているのがこのアドベンチャーワールドなのだ。パンダは200グラムという小さな体で生まれてくる。母親が踏みつけてしまうことがあるので、一般的には生まれるとすぐに親から隔離して人間の手で育てられる。母親に授乳をさせないで、人間が哺乳瓶でミルクを与える。これは、一見してパンダの生育には理にかなっているように見える。ところが、そのようにして育てられたパンダは大人になって好奇心がなく積極的にならないという。また、子育てをしなくなるという決定的な問題が発生する。クローズアップ現代+では、アドベンチャーワールドでのパンダの出産から子育てを紹介していた。母良浜(ラウヒン)が、子供結浜(ユイヒン)を生んだ。最初、母親は出産で疲れたのか、まったく授乳をしなかった。それでもアドベンチャーワールドの飼育員は、注意深く見守るだけで子供パンダを母親から引き離すことはしなかった。すると、しばらく経ってから、母親は子供を抱きしめるようになり授乳を始めた。これは産毛のような状態で生まれてきた子供の体温の低下を防いでいるのだという。その後、しきりにお尻を舐め始めた。これは排泄を促しているのだという。そのせいで肛門が赤くただれていた。その時だけは治療のため一時的に母親から引き離した。その時母親は気が狂ったように飼育室の中で暴れていた。母性が強いというのがよくわかった。治療が終わった子どものパンダは母親の元へと返され、その後は順調に成長していった。パンダの成長は早い。3ヶ月ほど経った時点で歩き回るようになり、好奇心旺盛で盛んに動き回るようになった。ここまでくると、一安心である。順調に大人のパンダに成長していくことであろう。この話は人間の子育てにとっても大変参考になる話である。人間の場合は生まれてから1年6ヶ月の間は母子密着が欠かせないという。この間、何らかの理由で母子密着が阻害されると、その後愛着障害が発生する。基本的な人間関係である他者への信頼感が得られなくなるのである。いつも他人の目を意識しておどおどしたり、好奇心を発揮して様々なことに挑戦することができなくなる。対人恐怖症の人は、自分では判断できないかもしれないが、この愛着障害がその原因となっている可能性がある。現代社会では、生活のために出産が終わると、子供を保育園に預けてすぐに職場復帰をする場合が多い。これは子供の人生において、大きな重荷を背負わせることになるという認識は持っておいた方が良い。その認識がないと子供とのかかわり方が暗中模索になる。不幸にして愛着障害を抱えた人はどうすればよいのか。愛着障害という生きづらさは大人になってからも修復可能であると精神科医岡田尊司氏は言われている。「心の安全基地」となるような人間関係を自分の生活の中で築いていくことである。集談会に参加する意義の一つはまさにこの点にある。
2017.04.07
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最近「忖度」(そんたく)という言葉がニュースでよく聞かれる。森友学園の国有地払い下げ問題ではこの言葉は連発された。普段聞きなれない言葉なのでよくわからない。さっそく調べてみた。「忖度」とは 他人の心をおしはかることだという。たとえば元大阪府知事の橋下さんが、大阪に株式会社が経営する私学を誘致したいと考えている。大阪府の職員は府知事の意向を酌んで、最大限にその気持ちを尊重して仕事をする。忖度によく似たような言葉で「斟酌」(しんしゃく)という言葉もある。これも、相手の事情や心情をくみとることとある。あまり違いはないが、あえて言うと、単純に相手の心情を推し量るのが忖度。推し量った上で、それを汲み取って何か処置をするのが斟酌だと思われます。いずれにしても、トップの方針に対して、批判や意見を言うのではなく、それを無条件に受け入れて、粉骨砕身目標が速やかに成就するように行動することである。そのように行動すれば、いずれ自分の将来が安泰になるだけではなく、出世につながる。本来はトップの方針に対して、無条件に追随するのではなく、十分な議論を尽くしたうえで、最終的な合意を取り付けて取り組んでいくことになる。そうでないとトップの思いつきの方針に盲目的に従うだけになってしまうことにもなる。これは親分と子分の関係である。親分は子分が自分の役に立っているあいだは引き立ててくれる。しかし、役に立たない。あるいは自分のやり方に不満を持っているのではないかと、疑心暗鬼になるとすぐに排除されるようになる。このことを強く感じる出来事があった。核兵器禁止条約の制定に向けて、日本の高見沢軍縮大使は、アメリカの意向を忖度して、不参加を表明した。岸田外務大臣は、以前会議そのものには参加を表明していたが取り下げた。岸田外務大臣は原爆が投下された広島市選出の国会議員である。被爆者、広島市長、広島県知事などが反対する中で、トランプ大統領が、日本が勝手に会議に参加することに強烈に批判したため、忖度して引き下がったのである。日本はアメリカの同盟国としてアメリカの核の傘に入るのだという。アメリカ政府の言いなりである。これでは主権をもった独立国といえるのだろうか。これから貿易交渉は二国間で行われるが、アメリカの理不尽な要求を次から次へと受け入れて、最終的には国民生活が破壊されていくのをみすみす放置していくことになるのか。森田理論を学習すると、人間関係は主従関係になるのではなく、対等であることが大切であると学んだ。国家と国家も対等な立場で話し合いをすることが大切なのではないかと考える。
2017.03.30
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対人恐怖症の人で症状を完全に乗り越えましたと言われることがある。でももしそれが、人の思惑を全然気にしなくなったとしたら、その人のもともと持っていたよい点がなくなってきたということではないかと思うことがあります。対人恐怖症は口で言うほど簡単に乗り越えられるものなのでしょうか。また乗り越えないと人生真っ暗になるのでしょうか。そもそも対人恐怖症の人は、人への信頼感が欠けており、人に会うことが恐ろしいのです。人に会うことに、ものすごく怯えているのです。それは小さいころから骨の髄まで貫徹されているのです。これは対人恐怖の人が、人と仲良くしたいという気持ちがあるということを否定するものではありません。でも基本的には、みんなでワイワイ楽しく盛り上がるよりも、一人で自分の好きなことをして過ごすのが性に合っている人間ではないかと思うのです。そういう個性を持った人間なのではないでしょうか。そのように自覚すると、無理して人間関係に四苦八苦して苦しむことが少なくなるのではないでしょうか。そういう自覚を深めると、決して無理をしなくなります。自分を偽ってまで、無理やり人前に出ることをしなくなります。背伸びをしなくなります。悠々自適、自分のぺースに合わせた生活をおくれるようになります。また、そんな自分を社交性のない、ダメな人間だと自己否定に陥ることはなくなると思うのです。本当の意味で、今のままの自分でいいのだと納得できるようになると思うのです。そういう覚悟を持てれば、人から危害を加えられるような場所には、最初から出入りしなくなりますので、危険に遭遇する確率は少なくなります。人に迷惑をかけないような同窓会、OB会などは、出席するのが嫌ならどんどん断るようになります。自分の意志に従って、臨機応変な対応がとれるようになります。これは、森田でいうと「不即不離」の人間関係となります。気が進まない会合には参加を見合わせる。反対に趣味などを通じた交友関係などは、楽しいと判断すれば、積極的に参加するようになります。町内会の付き合い、親せき関係の付き合いは、むげに断るわけにはいきません。葬儀、法事などの冠婚葬祭は必要最低限の付き合いをすればよいと思います。次に仕事ですが、これは人に会うのが嫌だからといって、勝手にキャンセルすることはできません。気分本位で、さぼってばかりいると自分も面白くないし、いずれ解雇されてしまいます。仕事の第一の目的は生活費を稼いでくることです。目的を明確にして割り切ることです。仕事の人間関係は、必要に応じて、必要な時に、必要なだけの付き合いを心がければよいと思います。無理は禁物です。「必要最低限」「ほどほど」というのをモットーにされたらどうでしょうか。対人恐怖症の人は、好奇心が強く、感性が豊かな人が多いように思います。ですから、対人関係で苦しんでいる人は、対人関係の改善ばかりに注力するのではなく、その比重を下げていくのはどうでしょうか。自分のやりたいことを棚卸して、その中からいくつかピックアップして、それらのいくつかに取り組んで見られたらどうでしょうか。私は、対人関係の改善に取り組むことの比重を落として、集談会の世話活動や一人一芸の習得に力を入れてきました。その結果、対人恐怖症の泥沼に入り込むことを回避できたように思います。仕事の人間関係以外の利害関係のない、別の方面の人間関係が幅広く広がってきました。10年ぐらい一つのことに取り組んでいると、その道では専門家となります。すると自信がついて、人間関係については、あまり気にならなくなるものだと高良武久先生は言われていました。そういう取り組みで人の思惑が気にならなくなるという解決方法も確かに存在していると思います。
2017.03.21
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父性と母性の役割の違いは、ホルモンレベルでの生物学的な仕組みの違いでもある。子供との愛着や育児を支える仕組みは、オキシトシンというホルモンである。子供ができると、女性にはこのオキシトシンというホルモンが放出される。母親の場合、分娩の際に大量のオキシトシンが放出され、陣痛を引き起こすと、同時に、母親を激痛から守る。授乳や抱っこの際にもオキシトシンが活発に分泌され、母性的行動を引き起こす。オキシトシンは心を落ち着かせ、活動を鎮静化し、じっとしていることに耐えやすくする。こうしたオキシトシンの影響を受けて、母親の脳自体が変化する。娘の脳から母親の脳変わる。母性が誕生するのだ。人間の場合でも、女性は出産すると、それまで社会で活発に活動していた人でも、 1 、 2年の間は、子育てに専念することが多いが、そうした生活の変化に苦痛を感じず、子育てに没頭するためにも、オキシトシンの働きは重要だ。授乳をしなくなり、オキシトシンの働きが弱まると、母親は子育てに縛られていることを苦痛に感じやすい。外で何かしたくてうずうずしてくる一方、父親では、バソプレシンというホルモンが重要な役割を果たしている。実際、父親が育児に熱心な場合、バソプレシンが脳内に豊富に存在する。バソプレシンは活動を高め、外敵から母子を守るために探索や攻撃を活発にする。父親が育児をしなければならなくなったとき、母親以上に苦痛を感じやすいのは、そうした仕組みの違いによる。本来的な役割としては、父親は直接的な育児を担当すると言うよりも、攻撃性や行動力によって母子の安全を守るという面が強い。この攻撃性の強さは、父親に2つの顔を与えることになる。 1つは強く頼もしい庇護者としての父親であり、もう一つの顔は、恐ろしい畏怖の対象である父親だ。父親の2つの顔は、父親の2つの役割でもある。外敵から母親や子供を守る存在としての父親と、枠組み機能や抑止力としての父親だ。父親のいない子供は、一方で幼く誇大な万能感を持ったまま成長しやすいが、同時に、傷つきやすさや安心感の乏しさを抱えやすい。母親に飲み込まれずに、外の世界へと歩みだし、自立の一歩を踏み出すのを父親は助けるが、それが可能となるのも、強く頼もしい庇護者としての父親が、エスコートして連れ出してくれるからだ。そのために必要なのが、父親との愛着であり、子供は父親に理想像を見出し、それと同一化しようとすることだ。父親のこの役割が弱いと、子供は安心して冒険に踏み出して行けない。母親という安全基地がしっかりしている事は、子供の探索行動をバックアップするが、現地をガイドする導き手としての父親は、その過程をさらに容易で安全なものにする。愛着が不安定な父親では、備わった攻撃性や行動力が、母子を守るという機能をうまく果たせないだけでなく、子どもを社会へと導くガイド機能も果たせない。バソプレシン活性の高い父親は、子供の興味や活動性を刺激するような関わりを好み、子どもの関心を外界の対象物に向けようとする。安心させるというよりも、子供を新たな冒険や興味で刺激し、現場にとどまるのではなく、外界へと関心や行動を向けさせる。オキシトシンとバソプレシンの働きには、他にも対照的な違いがある。その一つは、オキシトシンは関心を人に対して向けようとすることに関係が深いのに対して、バソプレシンは事実に関心を向けることに関係していることだ。関心の性質も異なっている。オキシトシンは共感的な関心に関わっているのに対して、バソプレシンは、敵を見定めるための冷徹な関心に関わっている。動物実験で父親と関係を持たなかった子供では、父親と関係を持った子供に比べてじゃれあったり闘って遊んだりすることが少なく、バソプレシンを生成する細胞の数が視床下部で少なかった。こうした傾向は、社会性の発達や、将来親となった時の行動にも直結すると考えられる。父親と母親が協力して子供を育てる場合では、父親は、父親独自の役割を担っていると考えられる。(父という病 岡田尊司 ポプラ社 43ページより引用)こうしてみると、人間が成長して大人になったとき、精神疾患や生きづらさを変えるというのは、幼い時に母親と父親が子育てとしての役割をバランスよく果たしてこなかったと言えるのではないかと思う。今まで子育てについては先人たちの知恵が蓄積されているにもかかわらず、その成功や失敗に学ぶことなく、自己流で子育てにあたっていることは大きな問題である。母親と父親が愛着の形成と自立に向けて子育てにあたることは大変重要なことである。しかし不幸にして、愛着の形成が不十分で人生の諸問題について立ち向かっていく勇気を持つことができずに大人になった場合はどうすればよいのか。この場合は、茨の人生が待っているが、岡田尊司氏はその処方箋も提案されている。明日以降、紹介してゆきたいと思う。
2017.03.08
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2003年の暮に名古屋で、ドル紙幣をばらまくという事件があった。これは当時26歳の元銀行員の男性が、名古屋市のテレビ塔から約100万円の紙幣をばらまいて職員に取り抑えられたという事件です。この男性はインターネット上の短期的な株取引で利ざやを稼ぐ「デイトレーダー」でした。彼によれば、事件の動機は「瞬時に大金を手にしたが、悦びより空虚さが残った」との事でした。男性は株取引でかなりの利益を上げていましたが、その生活は引きこもり同然だったといいます。終日、誰とも口を聞かず、パソコンに向き合うだけの毎日に孤独感を募らせていきました。彼が警察から厳重注意を受けたとき、 「自由な半面、市場から利益をもぎ取るだけで、世間に何のプラスにも生み出していない。この世界に自分がいてもいなくても同じと思うと、たまらない気持ちになった」と言ったという。このことは金融工学を駆使してマネーゲームを繰り広げている人たちにも同様のことが言えるのではないでしょうか。社会的孤立の状況についてOECDによる調査によると、先進20か国中、日本は15.3%で1位であった。続いて、メキシコが第2位であった。 (世界価値観調査 1992年から2002年 OECD調査)孤独感というのは、実際に1人でいる孤独とは違う。主観的な孤独感のことを言う。孤独であっても精神的に健全で、孤独感を感じない人はいる。反対に、たとえ多くの人と繋がりはあっても、対立的な人間関係の中で、自分はいつ見捨てられるかもしれないという気持ちが強ければより強く孤独感を感じる。孤独感がもたらす影響は深刻です。慢性的な孤独感は人を不安定にさせ、他者に対する被害感を抱かせ、自虐的・自滅的な志向や行動に陥らせるという。さらに深刻なのは、身体に与える影響です。孤独な人は脳血管や循環器疾患、がん、呼吸器や胃腸の疾患などで死ぬリスクが高まります。つまり孤独感には、高血圧や肥満、運動不足、喫煙などに匹敵する悪影響があると言われています。(「社会的うつ病」の治し方 斎藤環 新潮選書参照)考えてみれば、人間は生まれてから親の保護なしには生きて行くことができません。親のお世話になって20年経ってやっと自立して生きていけるようになるのです。自立してからも食べ物から身の回りの必需品まで他人のお世話になっています。つまり、生まれてから一生、他者の世話になり、他者との関わり合いの中で生きているのです。ですから、他の人間から完全に孤立して1人で生きていこうとすると、それは肉体的にも社会的にも死に向かって突き進んでいくといことになります。孤独感を感じるという事は、生命の危機と結びついておりとても危険なことです。対人恐怖症の人は、人の思惑が気になり、自分の自尊心やプライドを傷つけられるような場合、他人との接触を避けるようになります。そうしますと、一時的には楽になりますが、長い目で見ると孤独感や孤立感に苦しむことになります。引きこもり状態になり、外出することがなくなると、家族以外には接触する機会がなくなります。すると急に孤独感に襲われてしまいます。精神面だけではなく、身体面ににも大きな影響が出てきます。そうならないためには、外出を心がけ、小さな人間関係を日ごろからたくさん作っておくことが必要になります。夫婦の人間関係、親子の人間関係、隣近所の人間関係、集談会での人間関係、親戚の人間関係、仕事の人間関係、学校での人間関係、趣味の人間関係、同窓生などの人間関係など。いずれかに偏ることがなく、日ごろから幅広く、薄い人間関係のネットワークを作り上げておくことが必要です。これは森田理論でいうと「不即不離」の人間関係といいます。私の場合は、家族の人間関係、集談会での人間関係、町内会での人間関係、親戚との人間関係、仕事仲間との人間関係、趣味の活動を通じての人間関係、同窓会などの人間関係を幅広く築いています。インターネットやメールなどを通じての付き合いもありますが、 face to faceの付き合いでないためか、あまり心の寄りどころにはならないようです。広く薄い人間関係を築き、臨機応変にその時その場に応じた付き合いを続けています。これが私の精神面と身体面の健康に大きく寄与しているのではないかと思っています。
2017.02.24
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先日テレビを見ていたら、職業で額縁の制作をしている人の紹介があった。額縁といっても絵を飾る額縁ではない。本人や家族などの思い出の品を収納する額縁である。だから、その額縁はかなり厚みがある。その中で、娘さんがお父さんに贈った額縁があった。お父さんは、若いころ自動車の修理工場を立ち上げ、多くの従業員を雇い、一心に働いてきた。そのお父さんがガンになり、余命いくばくもない状況であった。娘さんがお父さんに贈った額縁は、現役の頃仕事で使っていた帽子とスパナなどの道具類が入っていた。このプレゼントをもらった闘病中のお父さんはとても感激していた。娘さんの感謝の気持ちがこもっていたからだ。それから2ヶ月後お父さんは旅立っていった。家族に見送られて、さぞかし穏やかな気持ちで旅立つことができたのではないかと思った。続いて紹介された人は、理髪店を営んでいる人であった。その人の父親も田舎で理髪店を営んでいた。昔の田舎の理髪店は近所の人たちが集まり、情報交流の場であったという。その方は家を出て、別の理髪店の師匠について修業された。今では若い人たちにその技術を伝えている。その方は、父親が使っていた道具、亡くなった師匠が使っていた道具を額縁に収めた。これを店の玄関に飾った。これを見ると初心を思い出すという。この額縁が自分を励ましてくれる。その他、自分の子供が生まれて初めて履いた靴をとって置いて額縁に収めた人もいた。それを子供が結婚するとき、プレゼントとして贈るのだ。ほとんどの親は子供が生まれると、とても嬉しい。子供を一人前に育てようと決意を新たにする。しかしその感激も、子育てで奮闘しているうちに、次第に薄れていく。そんな時、子供は果たして自分は望まれてこの世に生まれてきたのだろうかと疑心暗鬼になることがある。でも、両親が自分が生まれて初めて履いた靴を保存しておいて、結婚式の時に額縁に入れてプレゼントしてくれたらどうだろうか。わだかまりが一挙に融解して、何とも言えない感謝の気持ちが湧いてくるのではなかろうか。この額縁は家族の人間関係がどことなくぎくしゃくしている人にとって、取り組んでみる価値があるのではないかと感じた。どんなに憎み合っている親子であっても、所詮は親子である。生まれてきた子供の幸せを願わない親はいないはずだ。老人になった人、誰に聞いても、一番にかわゆくていとおしいと思うのは子どもたちのことなのだ。さて、この額縁は自分が自分に対して贈ることも効果がある。苦しい時に歯を食いしばって頑張っていた時の思い出の写真や品物。自分が勉強やスポーツで頑張っていた時の思い出の品。初めて就職して希望に胸膨らませて仕事に取り組んでいた時の思い出の品。あるいは、初めて家庭を持って頑張っていた時の思い出の品。などなど。私で言えば、初めてトライアスロンの大会で完走した時の完走賞やメタル、ゼッケンや写真。自転車の部品などである。また国家試験の合格を目指して頑張っていた時のテキストや合格証。会社で大きなプロジェクトを任され、大きな成果を上げた時の感謝状と副賞の思い出の品。子どもの誕生時の子供の手がたと足がた。これらは困難な状況で苦しい時に、額縁の中に収められ、いつも目のつくところに展示されていれば無言で自分を励ましてくれる。私の知っている人で、奥さんの誕生日に、100個の感謝の言葉をしたためて、それを額縁に収め、プレゼントした人もいた。いつも夫婦けんかの絶えない人ではあったが、この時ばかりは奥さんが泣き崩れたという。このようなことをしようと思うと、相手のことを思い続けたり観察することが必須である。注意や意識は自己内省することはなく、常に相手や物事に向けられる。外向きになるのである。こういう気持ちで生活をするということは、神経症の悪循環のスパイラルに陥ちいらないコツであると思う。相手を気持ちよくさせて、人間関係が好転してくる。
2017.02.08
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今日の集談会で親子の人間関係、夫婦の人間関係、親友とは何かなどについて話し合われた。 それによると、テレビドラマに見られるようななんでも話し合えるような和気あいあいとした人間関係現実にはあまりないということが分かった。 それぞれにぎくしゃくした人間関係で苦闘しておられるケースが多かった。 親子の場合は、全く会話がない、離れて暮らしていて音信不通という人もおられた。 夫婦の場合は全く無干渉という場合があった。実質破たん状態にある人もおられた。 また意外にも友人関係の少なさが浮き彫りになった。友人関係の場合は、交際範囲がとても狭く偏っているように感じた。 これらは幼少期から、あるいは結婚当初から始まっている場合が多かった。 親子の場合は、過保護、過干渉、放任などが原因となっている場合が多かった。 特に子供を自分の思い通りにコントロールしようとしている場合、幼少時は問題がなくても、大人になって、対立関係に陥りやすいことがわかった。 夫婦の場合は、自分の意見を無理やり押し通そうとするとうまくいかないことがわかった。 腹が立った時など、ストレートに相手にぶっつけているような場合はすぐに溝ができてくる。なかには奥さんが寝静まったころを見計らって帰宅する人もいる。 仲良くしている夫婦でも、四六時中べったりひっついている人間関係では息苦しいという話が出た。特に女性からは、旦那がいつも家の中におられては息が詰まるという話が出た。 「亭主はいつも元気で留守がいい」というのだ。 夫婦の人間関係は、森田理論で言うところの、「不即不離」の人間関係が望ましいという話が印象的であった。 また、夫婦の人間関係で大事な事は、いくら腹が立ってもその感情はそのままにしておくこと。そして家事や親せき付き合いなどは、その時その場で為すべき事を着実に実行していくことが大事であるということがよいという話であった。 次に親友であるが、いつもべたべたと引っ付きあっている関係ではなさそうだということが分かった。親友はいつも動向を気に留めていて、何かあったときに何かと相談に乗ってくれるような関係。つまり困ったときに何かあったらあの人に相談すればよいという「心の後ろ盾」のような関係ではないか。確かにそういう人なら私にも3名ほどいる。 そして友達関係はコップに少しだけの人間関係をたくさん作り上げておいて、臨機応変に、そのときその場で軽めの付き合いを継続していくのがよいと感じた。
2017.01.16
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「神経質の無神経」と言われることがある。それはどういう意味なのだろうか。神経質性格の人は細かいことが気になります。そのことに注意や意識を集中させていると、普通の人が当たり前にやっていることがお留守になってしまうということではないでしょうか。特に神経症に陥って苦しんでいる人ほど無神経だとみなされてしまうことがあります。たとえば、甥や姪の結婚式などに招待されても赤面恐怖が気になって欠席したりします。親戚の葬式なども神経症を理由にして取りやめたりします。あるいは大勢の前でプレゼンする予定の日になって、突然症状のために仮病を使い休んでしまう。身体的欠陥を気にしてひきこもり生活を続けている。飛行機に乗ることがイヤなので、いろいろ理由をつけて海外出張を断る人がいます。納期が無いのにいつまでも仕事を抱えて、次に回さないで迷惑をかけている人がいます。叱られることを恐れて、ミスや失敗を隠蔽し、発覚したときは修復困難な状況に追い込まれている。知っている人と会ったのに全く挨拶をしないで知らん顔をしている。雑談の場などに、一人だけその輪に加わらないで苦虫をつぶしたような態度をとっている。自分のことを否定されたりすると、すぐに不機嫌になり感情を爆発させる。このようなことが度重なると、あの人は普通の人とは違うという見方をされる。無神経で他人の気持ちが読めない要注意人物だというレッテルを張られてしまう。自分はそんな気持ちはない。本当はみんなと仲よくしたいと思っていても、その思いが空回りしている。どうしてこのようなことになるのか。1、 神経症に陥ると意識や注意が自分の気になる症状一点に絞られて、周りの物は見れども見えずという状態になる。2、 症状と言う大きな問題を抱えているために、周りのことが気にはなっても手をつけずにそのまま放置してしまう。3、 苦しみや葛藤に耐えきれなくなって、つい破れかぶれな衝動的な行動で解放しようとする。どれも症状のために霧の中で車を運転しているような状態です。周りの状況が見えていないのです。また症状を解決しないと他のことに手がつかない状態になっています。そしてどうにもならない苦しみを和らげるためについ衝動的な行動をとりがちです。これでは人間関係が壊れ、仕事や生活が回ってゆかなくなるのも無理はありません。その状態を他人がみれば、普通の人と違う無神経な人とみなしてしまうのです。症状をやりくりする。症状からすぐに逃げ出してしまうことが裏目に出てしまっているのです。神経質性格はよい面を活かしていけば全く問題はありません。むしろ神経質性格を持っている人はたぐいまれな素晴らしい素質の持ち主だと言えます。その性格を仕事や生活に活かしていけばこんなに育みあいのあるものはありません。神経質性格を活かして仕事等で大きな成果をあげている人もたくさんいます。また鋭い感性を活かして音楽、絵画、書道等の分野で認められている人もいます。でも一歩活用の仕方を間違えるとこのように無残な状態になってしまうのです。無神経というのは自分も苦しいし、他人にも迷惑がかかります。神経質性格のこまやかさ、感性の豊かさを殺してしまうものです。無神経という汚名を返上するためには、森田理論を学習して、生活面に応用していくことだと思います。特に不安、恐怖、不快な気持ちを持ったまま、日常生活や対人折衝を続けていくという森田の基本は是非とも身につけてほしいものだと思います。
2017.01.02
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最近は3組に1組が離婚しているという。家庭内別居状態にある人を入れるとその予備軍はまだまだ多い。こういう状態だと家庭に安らぎはなくなり、生きていくことがつらくなります。夫婦の人間関係が悪化している人は、職場などでも躓きやすい傾向があります。さて離婚の具体的な原因にはこんなものがあります。・配偶者が親の言いなりになってしまい、自分の気持ちを無視する。・相手の両親、親族が受け入れられない。・嫌いな食べ物を毎日食卓に出す。得意料理が少ないし美味しくない。・食器の片づけ、洗濯、掃除、整理整頓をしない。協力しようとしない。・一方が几帳面で、一方がルーズである。お互いの習慣に我慢できなくなった。・浪費癖がある。ギャンブルに凝る人である。酒癖が悪い。暴力を振るう。・自分ことを拒否する、否定する。批判する。けんかをふっかけてくる。・生活費を入れてくれない。・お互いに出歩いてばかりで家のことはほったらかしにしている。・生活リズムが違うため、すれ違いの生活になった。連絡もしない。・カレーやスープを食べる時にスプーンをガチャガチャと音を立てる。・漬物を食べる時の音に我慢ができない。・食事中に平気で鼻をかむ。・テレビは自分勝手に好きな番組ばかり見る。・たびたび電話で長話をする。自分の話は上の空で聞いている。・子供との触れ合いがない。子育てに無関心。教育方針が合わない。これらを一言で言うと「性格の不一致」と言うそうだ。最初は小さな気に障ることでも、一緒に暮らしていると、どんどんと癪に障ってくる。そのうち相手の人格そのものを受け付けられなくなる。顔を見るのもイヤになる。そうなると離婚の危機が身近に迫ってくる。神経症が精神交互作用で悪化していくのと同じ現象が起きている。子供のことや老後の生活を考えると、籍だけはそのままにして家庭内別居などがよさそうに思うが、当事者にしてみればきれいさっぱりと別れたい気持ちになるのだろう。でも見ず知らずの他人が一緒になるということは、最初からそのことは分かっていることではないのだろうか。いまさらどうしてそんなことを言うのだろうか。あるいは、そのことは十分に分かっているが、それでもなんとかして、相手を自分の思い通りにコントロールしたい。そうしないと気がすまない。でも相手が猛烈に反発して自由にコントロールできない。こんな状態では、もう一緒に生活している意味がない。いっそのこと別れてしまおうということになるのだろうか。二人とも、あるいはどちらか一方に強いエネルギーがある場合に即離婚に発展しやすいようである。森田で言う「かくあるべし」が強いのである。こういう夫婦には次のような特徴がある。・問題を解決するときに自分の考えを優先させている。・相手の意見を十分に聞いてみようという気は最初から無い。・夫婦二人の話し合いの場を持とうという気がない。・あるいは意見の食い違いがあると、すぐに感情的になって口論になる。相手を自分の支配下に置こうとする。こういう夫婦はもともと赤の他人が一緒になるのだから、衝突やトラブルはたびたび起こるという前提に立っていないようだ。結婚するときはあばたもえくぼに見えてのぼせあがっていたのだろうか。結婚する前はいろいろと気を使って相手の立場を尊重している。いったん結婚してしまうと、自己主張ばかりで相手を思いやるということがなくなる。釣った魚に餌はやらないという関係になっている。だから結婚するときに「あなたを幸せにします」「娘さんを幸せにしますから是非結婚させてください」等と軽々しくいうのはどうかと思う。耳触りがいいだけで、実現不可能なことではないかと思う。相手を一方的に幸せにするというのは、自分を犠牲にして、相手の喜ぶようなことを第一に優先していきますということを宣言しているようなものだ。そこには、将来待ち構えている課題や問題点に、二人で協力して乗り越えていくという視点が欠けている。だいたい人間というものは、誰でも自分の欲望の充足や目標に挑戦していきたいという希望を持っている。自分自身が一番大切なのだ。結婚とはそんな二人が一つ屋根の下で生活するということなのだ。いろいろと意見が対立することがあるはずである。そんな時は話し合いで二人が納得できるような答えを出し合っていく。二人で生きていく時には、対立することが多いいと思うが、なんとか妥協点を見つけて助け合って乗り越えていくように努力していく。けんかをすることも多いと思うが、乗り越えていくように精一杯努力してゆきますということをお互いに宣言するのが結婚するということではないのだろうか。味わい深い人生は夫婦の人間関係の改善から始まる。
2016.12.22
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職場の中である特定の同僚とうまくいっていない人がいる。お互いが意識して拒否しあっている。双方が無視して毛嫌いしている。できるだけ近づかないように距離を保っている。そのことは周りにいる人もみんな知っている。腫れものに障るように注意している。その状態は本人同士も憂うつだが、職場全体がいつもピリピリしていて窮屈だ。どうしていがみ合うようになったのか。その理由は些細なことからはじまっている。・ノルマを果たさない。仕事をさぼる。仕事が遅い。ミスや失敗が多い。・仕事を手伝ってくれない。分担した仕事しかしない。分担した仕事も放棄してしない。・身勝手な行動が目立つ。付き合いが悪い。反対ばかりする。・上司にゴマをする。女子社員に手を出す。男性営業マンにこびる。・よく遅刻する。よく休む。・お金に汚い。・挨拶をしない。などなどその他多数ある。最初はちょっとした気持ちのズレから始まっている。そのうちあいつにはいつもムカついてイライラさせられる。この憤懣やるかたない不快感をなんとかしたい。あいつが挨拶をしないのなら自分も無視しよう。遠くにいるその人の姿を見るのも我慢できない。できるだけ離れて仕事をしている。そのうち会話する必要のある時は誰かに頼んで代行してもらっている。相手がミスや失敗をすれば鬼の首をとったように非難して周りの人に吹聴する。事あるごとに嫌がらせを仕掛けている。それが高じて相手の対応の倍返し、3番倍返しを考えるようになる。これは注意と感覚の悪循環、つまり精神交互作用で神経症の蟻地獄に陥っていく過程とよく似ている。相手を攻撃しているようで、結局は自分の精神状態が益々悪くなっていく。行き着くまで行ってしまうとどちらかが根をあげて退職するまでいがみ合いは永遠と続く。だからそうなる前に手当てすることが大切である。そのヒントを森田理論から探ってみよう。森田理論ではイヤな気持ちはどうにもならない。自然現象だと言う。雨や雪が降る。台風が来る。地震が来る。雷が鳴る。竜巻が来る。土砂災害が来る。そういう自然現象と同じことが起きている。そんな自然現象が来た時私たちはどうしているか。どうすることもできないので通り過ぎるのを待っている。つまり自然に服従しているのだ。イヤだと思う相手もそうすればよさそうなものだ。どうして不快な感情については取り除こうとして闘うのだろうか。相撲のようにがっぷり四つにまともにぶつかり合って勝ち負けを決めようとしているのか。その結果いつまでも勝負がつかず、エネルギーの消耗だけを招いている。そういう人は、是非とも台風が来た時の柳の木に学んだほうがよい。柳の木は台風が来た時は枝が引きちぎれんばかりにとりみだしている。ところが次の日台風が通り過ぎた後は何事もなかったかのようにたたずんでいる。その横で大木の松がポキンと折れて無残な姿をさらしていることがある。ある一定の風には耐えたのだが、限界を超えた自然の猛威の前にはなすすべもなく破れ去ってしまったのである。また雪が降った後の竹を見てほしい。竹が雪をまともにかぶってしまうとすぐに折れてしまう。雪をかわして自分の身を守るということができないのである。職場である特定の人とうまくいかないと言う人はそれと同じような対応をとっているのだ。こうしてみると、不快な感情とまともに勝負しないというのは一つの能力かもしれない。誰もができそうでできないことだ。森田理論学習をしている人は、その能力を是非とも身につけてもらいたいと思う。心の中では相手のことを憎むだけ憎んでもよい。殺してやりたいほどに憎んでもよい。それを言葉にしたり、動作に表したりすることが抑えられればよいのだ。心の中と外観が違うというのがまともな大人だと思う。そのためには役者のように演技力を身につけることが必要だ。できればサイコドラマに挑戦してみる。芝居のサークルにでも入るというのはどうだろうか。イヤな気分を抱えたまま、目の前の課題に取り掛かれるようになると、まともな人生を送ることができると思う。
2016.12.15
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