2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
全22件 (22件中 1-22件目)
1
最近本当にそう思う。ここで言う「頭の良さ」とはいわゆる学力の偏差値といったものでないことは言うまでもない。学歴がどうとかいうことは、本当の頭の良さとは殆ど関係がない(ただし「殆ど」関係ないのであって「全く」ないということもないと思うが)。人間が生きる上での「真の知性」ともいうべきものである。これを本当に身に付けている人は少ない。そして、これは死ぬまで上達できるものだと思っている。
2003.03.30
コメント(4)
風通しの悪い部屋は、きれいに片付いていてもどこか居づらい雰囲気がある。風が流れる様に窓をちょっと開けたり、家具の位置を変えたりするだけでがらっと雰囲気は変わる。人間も同じで風通しをよくしたいものだ。エネルギーが滞らずに流れていればよい。自分で溜め込まずに、外にエネルギーを出していくことによって、入ってくるのである。
2003.03.29
コメント(2)
脳は、現実に見た映像と頭の中で思い浮かべたイメージの区別をせず同じものとして処理するのだという。強力に思い描いたイメージは実現しやすくなるとも言われる。実際には、現実の世界によって形成されるイメージは、頭で思い浮かべるイメージよりもずっと強力だろう。当然ながら主に自分で実際に見て聴いて感じる情報によって、自分にとっての世界というものが形成されている。それでも自分の頭で他の世界を想像してみることは、人間を豊かにしたり、他人を理解したり、他の視点でものを観るのにとても役に立つだろう。例えば、小説を読んでみる。そのときに、自分がその登場人物になり、その場面にあたかもいるかの様に読んでいく。場面の描写から自分がいる場所もこと細かに思い浮かべていく。その場の雰囲気、気温、湿度、自分に当たる風の感じ、建物の様子、部屋の明るさ、照明の色、相手が話すときの表情、他の登場人物の性格・・・ これが、より精密にできるほど、もう一つの別の世界を体験したことになる。他人の脳の中の世界を借りてくる様なものかもしれない。文化や時代の違い等もあるだろうから、100%同じというわけにはいかないだろうが、習熟すれば30%でも40%でもかなり別の世界を味わえる様になるはずだ。強力に描ききれたら、普通の世界では体験できない、別の人生を生きたことになる。
2003.03.28
コメント(2)
たいして理解をしていないのに、強く愛していると思い込んでいることがある。自分のことを振り返ってみてどうだろうか。実は「愛されなかった」という思いは「理解してもらえなかった」という思いと殆ど同義ではないか。「愛」という言葉はとても甘美な意味合いもあるから、誤解されやすいかもしれない。本当に理解することは、盲目的な愛情などよりももっともっと大切なことである。そもそも自分と立場も生い立ちも親も性格も違う他人を本当には理解なんかできっこない。理解できっこないものをなんとか理解しようとする、それは長い年月と辛抱強い忍耐を必要とする作業だ。簡単には手に入らないだろう。でも、だからといって諦めてしまうよりも、ちょっとずつでも前に進みたいものだね。
2003.03.26
コメント(4)
人間は変わることができるのだという。自分の性格の欠点や、自分の心から願っている思いなどに気が付いたとき、それが大きな成長のきっかけとなる。逆に言うと自分のことは分かっている様で結構分かっていないことが多いのだ。では、気付くことができるようになるには、どうしたらよいのか。それには、やはり常に「気付こう」と思っていることだろう。自分の感受性のアンテナを研ぎすます。錆びない様にメンテナンスする。自分自身と対話してみる・・・常に気付きのきっかけは与えられている。そのチャンスをどれだけものにできるか。自分が自分自身や外の世界に対して開かれているかどうか。常に開かれている人にしてみれば、ちょっとした人のしぐさや、野に咲く花や、吹き抜けるそよ風などでも大いに気付くきっかけとなるだろう。
2003.03.25
コメント(2)
やっぱり自分を磨く努力を怠らない人だ。自分で玉を磨いているから光が当たった時に輝くのである。こういう人は、何歳になっても魅力がある。
2003.03.24
コメント(2)
実はこのタイトルで、今日の日記は結構気合いを入れて長く書いたのだったが、なぜかアップに失敗し、文章も消えてしまった(!)ので、短くまとめよう。今回アメリカは、イラク攻撃の大義名分として「自分達が理想とする『民主主義』を世界に広めるため」と言っている。それでは、民主主義とは何か。字面で解釈すれば「民衆」が「主体」となるということだ。おそらく、本当の意味での民主主義は歴史上どこにも実現されていない。これまで民主主義と呼ばれていたものは、結局力を持てる主流派が自分達の論理によって動かすものであった。民衆の声はどこかで切り捨てられてしまうとか、恐怖によって押さえ込まれたりする。権力者が「民のためを思って」やることが、民衆の本当の気持ちと大いにずれてしまうということはよく起こりうる。どうすれば、本当の意味での民主主義が実現するのか。これは難しい問題だが、やはり「対話と理解」しかないだろう。世界規模でみても軍事研究に膨大な費用が使われているが、「対話と理解」を進める研究には殆ど費用は使われていないのだ。強力な力を持つ強者が正義の名の下に、自分の価値観を押し付けるというのは、やはり「対話と理解」からは根本的にかけ離れていると言わねばならないだろう。
2003.03.22
コメント(4)
美しや 障子の穴の 天の川本当に美しい句だ。障子の穴から天の川を見ながらこの世を去ろうとする一茶。俳句は短い。本当に短いものだけに、一切の無駄は許されない。だからこそ、素晴らしい句にはとても大きなパワーが凝縮しているのだ。
2003.03.20
コメント(2)
どちらも見返りを求めないからである。
2003.03.19
コメント(4)
誰にでも、これまで生きてきたなかで、失ってしまったものがある。やむを得ず切り捨てなければいけなかったものがある。目をつぶって見ないようにしていたものがある。それに気が付いたら、取り戻す旅に出るときですね。
2003.03.18
コメント(2)
願いとは自分の中にとどめておくものであり、祈りとは手放すものなのだそうだ。願いには自分の思いがある。でも祈りは自分の手を離れ、自分だけのものでないところにフェードアウトしていくものだ。
2003.03.15
コメント(0)
(1)「簡単なことを難しく表現する」→これは最悪(2)「簡単なことを分かりやすく表現する」と「難しいことを難しく表現する」→これは普通何よりすばらしいのは。(3)「難しいことを分かりやすく表現する」である。相手のレベルや立場にあわせて最適な表現方法というものがある。それが出来てはじめて「表現した」と言える。奇抜な表現や難解な表現で「分かる人だけ分かってくれればいい」という態度もあるが、本当に伝えたい大事なことと思っていればいるほど、分かりやすく伝える努力をすべきではないか。
2003.03.14
コメント(4)
ある自然保護団体が、タマちゃんを捕獲し、故郷と思われるオホーツク海へ帰してあげようと試みたが失敗に終わったという事件があった。網やダイバーまで事前に周到に用意したかなり本格的な計画だったようだ。この団体の気持ちはよく分かる。普段何を食べているのかも分からないような、都会の汚い川の中で見せ物になって生活するより、北の大きな海で伸び伸びと暮らした方がよかろう、ということは僕もうすうす思っていたからである。でも、よく考えてみるとどうか。やっぱりこの団体の勝手な先走りなんじゃないのか。今回いきなり捕獲作戦に出た理由としては「事前に許可を求める正攻法でいったら、反対されるに決まっているから」とのコメント。そりゃそうだ。でも、あなたたちに決める権利もないはず。タマちゃんがかわいそうといっても、結局それはその人たちが自分の感情を投影しているのであって、アザラシのホントの気持ちなんて分かるわけがない。実は、いきなり北の海に帰されるというのは、当のタマちゃんにとっても結構つらいことかもしれない。姿を見せただけで喜ばれ、何をやっても拍手喝采というスーパーアイドル状態である。人間でさえ、こんな経験のできる人はめったにいない。それをいきなり厳寒のオホーツク海に解き放たれたら、いくらこれで自然に帰れたといっても、その寒さは結構身にこたえるんじゃないのかという気もする。自然保護、環境保護というだけならたやすい。でも、えてしてそれは「自分が正義で他が悪」という図式をつくりがちだ。極端になると、「あんなひどいことをするなんて人間とは思えない」ということになる。でも、結局は同じ人間がやっていることなのだ。
2003.03.13
コメント(0)
こんな人に覚えはありませんか。1ー何かにつけては自分の自慢話ばかりし、「俺ってすごいだろ、なっ、なっ・・・」とか言って相手に同意を迫り、相手が「うん」と言わなかったらとたんに不機嫌になるような人。(あんた何様のつもりやねん・・・)2ーはたから観るとそんなにたいしたことはないのに「私って不幸に呪われているの」とばかり、すっかり自分を悲劇のヒロインだと思っているような人。(そんなことないって・・・)3ー慈善事業なんかをやっている人に多いが「こんなに自分は自分を犠牲にし、世の中のために尽くしているのに、何で分かってくれないんだ」みたいなことを言う人。(分かってないのはあんただよ・・・)こういったナルシズムは結局どれも同じ症状である。自分の一部分だけを強力に自分そのものだと思い込んでいることから起こる。思い込みは強力なものだが、ある意味融通が利かなくなる恐ろしいものでもある。「自分はこうだ」と思い込んでしまうと後に引けない袋小路に追い込まれることもある。「自分は正義のために命をかけて戦う戦士だ」と宣言してしまうと、宣言した建前上どうしても敵を見つけだし、戦わなければならなくなってしまう。敵がいなくなったら、自分を保てなくなるから、難くせをつけて、わざわざ敵をつくりだすかもしれない。老子のタオの教えは、善悪でなく自然に従えと説いている。水に学べと教えている。水は高きから低きに流れ、自分を固定することがない。自分の性格も、与えられた役割も、たまたま今そうなっているというだけで、他人を見て今の自分からは考えられないほどかけ離れているような人でも、結構何年後かには同じようなことをやっていたりするものだ。
2003.03.11
コメント(0)
自分で自分のことは分かっているようでいて、実はあまり分かっていないことが多い。かえって他人を見ているときの方が「ああ、こうすればいいのに」と気付くことも多い。どうしても自分を見る目は主観にたよりがちになる。他人は客観視しやすいが。自分を客観的に観るにはある種の訓練が必要だろう。客観的に、あたかも他人が自分を観るように自分を観られるようになると、もっと考え方も柔軟になり、幅も出てくることだろう。自分Aと他人Bとはずいぶん違ったように見える。でもさらにもうひとりのCという人から見れば、AとBとは同じ「他人」としてかなり同じように見えているはずだ。
2003.03.09
コメント(2)
文字だけのメールであれば、かなりの文字数があってもファイルの容量はそれほどでもないが、画像の添付ファイルをつけたりするとその総容量は結構大きなものになる。動画は勿論だが、静止画でもかなり大きい。これは文字よりも、画像、映像の方が圧倒的に情報量が大きいことを意味する。それから、言葉だとどうしても時間的な制約がある。例えばある風景を言葉で分かるように説明しようとすると、「あそこに山があって、その形はどんなで、その側を流れている川はどんな様子で・・・」みたいな感じで結構大変なのだが、写真を1枚見せればあっという間に理解することができる。視覚に訴える画像、映像というのは、かように優れたものなのだが、でも言語の方にもいいところはある。それは、「情報量が少ないために、それを補うためイメージを働かせることができる」ということだ。映像で見せられてしまうともう頭の中にその像が強力に残ってしまい、それ以外の自由な解釈の可能性というのは乏しくなる。言語では自分でどんな様子なのかをイメージしなければならない。逆に言えば、言葉をたよりにしながら、自分の好きなようにイメージを働かせることが可能ということだ。同じエロでも映画よりも小説の方がずっと興奮したりするのはそのためだ(卑近なたとえですみません・笑)。小説の面白さはおそらくここにあるのだろう。自分でイメージを作り出せるというのは、芸術家だけではなくて誰にとってもとても大切な能力だと思う。未来の姿がきちんとイメージできていれば、それに従って自分をまとめることができるからである。ジョン・レノンは「イマジン」を作り、歌った。それは imagine=imageを作り出すこと、を意味している。自分でも社会でもそうだが、まずその理想とする姿がハッキリ描けているかどうかだ。自分で自分のイメージがどれだけ描けるかどうかということが、自立した人間としての指標になるかもしれない。
2003.03.08
コメント(2)
ドストエフスキーのこの大作を最近読み返してみた。以前に読んだのは10年くらい前だったが、ふっとまた読んでみたくなり、手に取ったのであった。前に読んだときはさっぱり分からなかったが、今回はとても面白く読めた。この小説の新潮文庫版の今店頭に並んでいるものには「本屋さんのおすすめ」といった帯がついていて、「この小説を超えるものは今後も出てこないでしょう」みたいなある本屋さんの店員のコメントが書いてあった。確かに、これを読むと小説というジャンルの一つの頂点、最高傑作という気がする。何か小説を読んでみたいという方にぜひおすすめ。かなりの長編ですが、一気に読ませてくれます。
2003.03.06
コメント(2)
それでは、こころを曇らせるものとは何なのか。仏教の考え方では、その大きな原因となるものとして「執着」とその対局にある「憎悪」があるという。ものごとに対する執着、こだわり、深すぎる愛着など、そういった感情を持っている時には確かに「周りが全く見えていない」状態になりやすい。そして、そうした感情がひとたび裏切られたり、かなわなかったりするや、えてしてそれは憎しみへと変化するのである。「私にはあなたしか見えない」みたいな感情が裏切られる(裏切られるというのも当人の思いであり、相手からすれば別の思いがある場合も多いだろう)と「あんな奴殺してやる」となってしまうのだ。では、どうすればいいか。そこで大事なことは「手放すこと」だという。執着にも憎悪にも留まらずに「手放す」。強い感情と同一化してしまうと手放せなくなってしまうので、感情と距離を置いて客観的に観る目を養うのである。そうするとその強い思いは離れていく。一人の人間の人生の中でも何回も思いは死に、そして新しく生まれる。常に死んでは再生するプロセスを人間は繰り返している。それが「無常」といわれるものだという。「無常」は「無情」ではない。冷たいものではなく、あらゆる瞬間に死に生まれるプロセスが繰り返されていることを現す言葉だ。
2003.03.05
コメント(2)
今年のNHK大河ドラマ「武蔵」は毎週欠かさず見ているのだが、今週はこんなシーンがあった。武蔵と武蔵の心の師匠ともいえる沢庵和尚との会話。ちなみに沢庵和尚は「たくわん漬け」を発明した人でもある。沢庵は武蔵を追って旅を続けている幼なじみの女性、お通の気持ちを察してやれと説く。武蔵:私は、自分の心すら分かりません。自分の気持ちの分からない奴が人の心など分かるはずがありません。沢庵:人の心の分からない奴に、自分の心など分かるはずがないぞ、武蔵(たけぞう)。タマゴが先かニワトリが先かみたいなところがあるが、人のこころは自分を映す鏡だ。おそらくは自分一人では、自分のことは何も分からないに違いない。人と交わることで、自分のことも見えてくるのだろう。鏡はきれいな方がよくものを映し出す。こころが清明であればあるほど自分も人もよく見えてくるだろう。
2003.03.04
コメント(4)
昨日TBS系の「ZONE」という番組で、99歳の山岳スキーヤー、三浦敬三さんが、モンブラン氷河20kmを親子3代で滑り降りたという偉大な記録を扱っていた。すごい。前にも書いたかもしれないが、こういう人は無条件に尊敬してしまう。だいたい、99歳まで生きるだけでもすごいというのに、スキーでアルプスを滑り降りるということは、並大抵のことではない。33歳の僕なぞ、ほんとヒヨッコである。人間の偉大な可能性を示してくれる人に対しては心からの賞賛を送りたいと思う。三浦さんは、99歳の今でも、家族の同居の申し出を断り一人暮し。トレーニングは毎日続けているそうだ。
2003.03.03
コメント(2)
といきなり宣告されたらどうしますか。ちょっと話は違うが、デール・カーネギーの『道は開ける』という有名な本で、太平洋戦争で潜水艦に乗った人の話が、出てくる。潜水艦搭乗中に、日本軍の軍艦に発見されてしまい。軍艦に搭載されていたありったけの爆弾を投下されたのであった。潜水艦のすぐそばで爆弾が爆発し続ける、直撃されたらひとたまりもないという状況は3時間も続いた・・・爆弾がそばで爆発し続ける絶体絶命の中、その人は「ああ、俺はこれまでなんて下らないことに不平を言いながら、つまらないことを気にしながら生きてきたことだろう」と痛切に思ったという。幸いにして爆弾は命中せず、この人は生きて帰ってこられたのだが、このことは彼にとってとても大きな価値観の転換をもたらす出来事であった。普通、自分の命はまだまだ続く、極端を言えば、人が死んでも自分は生き残るとどこかで思っているところは誰にでもあるだろう。ぶつぶつ不平を言えるのも生きているからなのだが、なかなかそのことには人は気が付かない。自分が死ぬ存在であるということをしっかりと受け止める。自分の死とはどのようなものなのか。自分が限りある存在であることを正面から見つめられた時、無限の存在への知恵も開かれる。
2003.03.02
コメント(3)
マージャンで無敗の伝説を持つ桜井章一さんという人が言っていたが、「『静の人』も『動の人』も恐くないが、『流の人』は恐い」そうだ。「水は方円の器に従う」という言葉もある。器が角張っていても丸くても中に入った水は柔軟にその姿を変える。
2003.03.01
コメント(2)
全22件 (22件中 1-22件目)
1