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只野の家には、只野も知らなかったのだが、成虫になりかけたセミがいつの間にか虫かごの中にいた。 ある朝、子どもたちが騒ぐのでのぞいてみると、そのセミは脱皮を始めていた。脱皮には時間がかかるだろうと只野は思っていたが、あっという間に抜け出てしまった。図鑑などで見たことはあったが、脱皮したての白いセミは只野の目にも初めてであった。貴重なシーンを見た思いであった。 その日、只野が帰宅して何となく気になったのでまたのぞいてみると、今度は期せずしてそのセミの悲哀に出会ってしまった。一言で言えば、羽にパーマがかかった状態である。虫かごの中で脱皮したセミはしっかりと木につかまっているわけでなく、半分腰を下ろした状態であった。この時点で「まっすぐにしてやらなければならない」という思いと「まだ白いから触ったらいけない」という思いが、家中で交錯していた。その結果である。 只野はその後、パーマのセミがどうなったかについて聞いていない。しかし家の中でセミが鳴いていないところを見ると、虫かごにはいないのだろうと思うことにしている。
2005年07月31日
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只野の家では、寝室の冷房が2年前から故障していた。先日それをようやく修理してもらい、快適な睡眠が帰ってきた。その間、扇風機が活躍したことについては以前述べたところである。 実はそれに加えてテレビも故障していた。只野はそれを修理する決意をようやく固めた。勢いというものが行動につながるというが、冷房を修理した勢いでテレビもやってしまおうという勢いが、現在の只野にはある。 只野は、寝室のテレビについて苦い思い出がある。その昔流行った大画面テレビ(今の大画面ではなく、巨大ブラウン管テレビである)を結婚の際に勢いで買ってしまった。まあ当時はステレオとつないで、ライブなどを臨場感溢れる感覚で見ていたものである。 ところがである。あるとき故障してしまうのである。巨大なブツは2階にある。修理しようとなると下ろして持っていってもらうことになる。しかももし直ったとして、また2階へ上げなければならない。只野は迷った末、引き取ってもらうことにした。それ以来大画面テレビには懲りている。 考えてみると、画面が大きい必要はどこにもないのである。見られればよい。漫才師の顔を大きくしたところで、おもしろくはならない。 ちなみに今只野が修理に出そうとしているテレビは片手で持てる大きさであり、電気屋に持ち込むのは容易である。 「いつか壊れたときに修理が容易であろう」と考え、小さなテレビにしたことが的中した只野は、少し「してやったり」の気持ちになっている。その割にすぐ直さなかったのは、単に只野の物臭さによる。
2005年07月31日
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・・・の衰退と書こうとして、只野はふと主催者側を考えてしまい、そこまでは書けなかった。 只野の町内においてもラジオ体操は行われている。どうも今年から週5日制になったようである。昔は休みなんてあっただろうか。もっともそう考えることが既に「ナミヘイ」世代への誘いであるような気もするところである。 ではラジオ体操は何が変わったのか。どうも運営の中心が親になったということである。土日ぐらい休ませてくれよという親の大人としての論理が働いている。子どもたち(少なくともウチのチビ助2名)は、週6日であろうと7日であろうと参加しようとするスタンスである。ここで子どもたちは何を学ぶのか。まぁ大半は、じゃ寝てよの一言かも知れない。そういう場合生活のリズムが崩れないよう祈るばかりである。 もっと子どもたちに任せてみては如何であろうか。少子化で人が減ってという理屈もあるが、まったく上学年がいないわけでもあるまい。一番問題なのは、これ幸いとばかりかかわらない上学年の子どもたちである。すでに「楽」を覚えている。面倒なことはご遠慮ということになる。それが人生の起点になってしまうのでないか。 只野は気がかりを隠せないのだが、そのことは自分の息子に対しても当てはまると思うと、あまり大きな声でこの話をできない。
2005年07月27日
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只野は最近になってふと気になったことがある。今シーズンはかたつむりを見ていない。いつも梅雨の頃には、家の前の紫陽花の葉の上に見られるのであるが。しかし今シーズンは見ていない。ちょっと気になっている。 かたつむりは生まれたときからカラを背負っているそうである。ヤドカリ説は間違いらしい。したがってカラも成長している。でないと生まれて早々あれだけ大きいカラは背負えるわけがない。しかしおもしろいのは一つの体にあって、あれだけ固い部分と柔らかい部分が同居しているのである。あの固い部分は触ることができるけれど、柔らかい部分は触ることができないという人を只野は何人も知っている。 「かたつむりはナメクジの仲間です。」と言い切ってしまうのは、只野の2番目の息子である。そう思う時期もあるかぐらいの気持ちで只野は見ている。そのうち正しいことを言わなければいけないとも思っている。しかしあまりにも堂々と人前で言うので、少しだけその感性は大事にしてもいいかななどとも思っている。
2005年07月26日
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只野の家では、ただいまエアコンが故障している。と言いながら実は1年前からである。昨年のシーズン始めとなる暑いとき、エアコンを入れて一斉に戸を閉めた。(この辺はエアコンの電源をつけたら、すぐに戸を閉めないといけないという感覚、言い換えればテレビをつけたら、画面からまっすぐ下がったところに正座してしまう感覚と似ている)ところが、いっこうに涼しくならない。しかし風が出ているところにすべてを賭けている。涼しくなるはずだと。 ところが彼(エアコン)は止まってしまった。そんなはずは・・・と思って繰り返したが同じであった。そこで只野は廊下に積んであった扇風機の存在を思い出した。彼(扇風機)が活躍するとすれば25年ぶり4回目ほどであろうか。生まれてこの方40年以上は経つ。 エアコンがなくとても暑い昨年の夜、彼(扇風機)は力強く回り出した。25年近く積まれていたのにもかかわらず。それでも寄る年波には勝てないはずで、只野はモーターの加熱とコンセント付近の出火を心配した。しかし只野の睡魔はその心配をすぐに消してくれた。 彼(扇風機)は朝まで回り続けていた。淡々としていた。見事な仕事ぶりであった。松下電器謹製の逸物である。 その後、1年を経た今も彼は毎晩活躍している。 ちなみにエアコンはそろそろ修理される予定ではある。
2005年07月25日
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只野の家では、夜にバタバタという音を聞くことが多くなっている。どうも幼虫からサナギを経て孵ったかぶとむしが騒いでいるらしい。 ただそう聞くと、単にバタバタやっているというようにしか聞こえなくなってしまう。自然の中に放してやりたいとも思う。それでも厳しい世の中である。自立していけようか。ちょっと老婆心である。それでは籠の中から放してやるか。などと思う。そう思うそばで観察し、うれしげに何か言うチビッコが見られる。放すなんてもってのほかである。そして放せば、別のハンターに捕まえられるのも必然である。 果たしてかぶとむしにとって何が幸せであるか。籠の中でバタバタやってるのが、結果的に幸せなんだよと言っても通じないのである、カブトムシには。 でも人だってそうじゃないかい?バタバタやってるときが、結果的に一番幸せだったんだなって、そのうち思うことになると思うよ。 只野はちょっとお茶目になっていた。
2005年07月22日
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只野は午前、高校野球の会場にいた。高校野球の会場にはスピリッツが感じられる。プレイをする選手たち、応援をする人たち、皆一生懸命である。人が一生懸命になるのは美しいものである。只野にとって美しいというのはその感覚に尽きると思っている。もちろん野球だけの話ではないが。 グラウンド全体に、感情が渦巻いている。ピッチャーの投げる1球に選手、観客のすべての期待と不安がのしかかっている。ヒットが出る。応援席からは心の底からの自然な感激が沸き上がる。打たれた方はこれも心の底からの祈りと応援が一層強くなる。 こういう時の心が揺さぶられている高校生は、実に素直で見ていても気持ちがよい。人として自然な姿である。そして全身でそんな気持ちになれるのは、多感なこの時期ならではのいわば彼らにとっての財産といってもいいのではないか。 只野は加えて「自分にもそんな時期があったかも知れない」とも思った。同時に「その財産をしまい忘れてしまった」とも思った。そして「この場所にいる大人も少なからず同じように思っているかも知れない」と思いながら、球場を後にした。
2005年07月18日
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只野は、このブログが「読書・コミック」のジャンルに属することについて、ちょっとした違和感を感じている。自分の趣味だから「趣味・ゲーム」としたこともあった。どれも当てはまらないので「そのほか」としたこともあった。今は「読書・コミック」で落ち着いているが、別に只野が読書をしているわけではない。 只野にとってこの日記は、恥ずかしながらもエッセイのつもりである。読む人が「そうだそうだ。そんなこともあるよな。」などと思ってくれれば、既に目的は達成している。「読書・コミック」というのは、これを読む人に読書の機会を与えているというのが正しい。「日々雑感」などというジャンルがあれば、今回の文章を書く機会はなかったと只野は思っている。
2005年07月16日
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只野がメッセージを打つときには、横で喪黒福造氏が名刺を出すフィギィアがある。ご存じの方は今さらではないが、「ココロのスキマ、お埋めします。」とある。なかなか味があってよろしい。只野は笑うセールスマンは好きなキャラクターである。ある意味尊敬に値するキャラクターでもある。 ところで最近只野は、ブログサーフィンなるものを覚えた。新着に載った自分の周りにアクセスするのである。ブログのよさはここにあるのではないだろうか。訪問してくれたから訪問してみる。気に入ったらコメントを書く。自分が新着を出さなければならないという制約はない。訪れてみるといろいろ、人生いろいろである。そこで只野は満足してしまう。それが自然でしょう。一人一人の人間にそうそう共通なことはないのである。 ところで、ココロのスキマ。ブログにはいろいろ書いてある。ココロのスキマ、埋めるのは自分しかいないんだな。でも大変だなって思ってしまう。っていうコメントを公開するのも無責任な気もする。 つらつら思いながら、そこに自分のココロのスキマがあることに気がつき、まぁ風通しがよいからいいかと思ってしまうところに、只野のストレス知らずの素因がある。
2005年07月11日
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小学校、中学校、高校の算数・数学の質問に只野が答えます。ただし、BBS・コメントで答えられる限界までです。(密かに結構答えられるのではないかと思っています。)すでにBBSで1件答えています。 遠慮なく聞いてみて下さい。
2005年07月10日
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ズボンの後ろのポケットに財布を入れると、どうもズボンの形が崩れてよくない。これはどうしたものかと只野は折に触れて考えていた。先日夏物のスーツを購入したときに店員に尋ねたところ、やはりせいぜい小銭入れくらいしか入れないとのことであった。 そこで只野はセカンドバッグを持つことにした。以前に一度持ったことはあるが、生まれながらの面倒がりには常に持ち歩くのが性に合わず、ズボンのポケットに必要最低限のものだけ持つようになっていた。 NINA RICCIである。別にブランド志向ではない。只野の妹の新婚旅行土産か何かでもらったことをたまたま思い出して引っ張り出した。ブランド品の価値がわからない只野にとって、それがブランド品であることにはまったく関心はない。ただちょっと気恥ずかしさがないわけでもない。自意識過剰であろうが。 入れるもの、財布、携帯、印鑑、家の鍵、免許証、名刺、カード類、ティッシュ、ペンというところか。入れてみると収まりが悪いんだな。整えて出勤し開けたら、すでにシェイク状態である。何とかならないものか、只野は熟考した。その結果、百円ショップでカードケースや小物入れを手に入れ、仕切り代わりにすることにした。このアイディアはヒットであった。300円で解決した。多少バッグが膨らみ気味になってしまったが、只野にとって気になる材料ではない。 というわけでセカンドバッグを持つ只野である。いつまで続くかということを今書くのはタブーである。実は既に面倒くささを感じている。
2005年07月10日
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只野も、仕事の解放後は世の大人と同じように酒を飲む。最初の1杯を飲む。ンマイ!(決して「ウマイ!」であってはいけない。感情が足りない。)以下、離陸直前のジェット機におけるエンジンの回転上昇、あるいは春先の焚き火におけるスンバ(杉の葉)への着火と同じように、勢いこの上なく酔いどれの世界に入る。つまみは枝豆、冷や奴、納豆を主役とする。煮物、お浸し、キムチ(韓国産に限る)があればよし。ちなみに酒飲みはつまみの消化についてタイミングを計っている。「あとコップ残り5cmだから、ちょっとつまみのペースを落とそう」などである。むろん、つまみが残っているときには、延長戦に入る。 酒飲みの言動はどうか。間違いなく気の大きさが伴っている。そしてそれを覚えていないか、断片的にしか覚えていないことにより、次の日後悔することもないわけではない。そういうときはまず自分の行動を信じることである。酔っているときの自分の行動は案外間違っていない。(泥酔は除く。また発した言葉については知らない。決定打を与えている可能性もあるとしておこう。)そして昨夜のことをうまく周囲から聞き出すのである。うまくやらないといけない。「え~、覚えてなかったの?」と言わせると負けである。(只野は負け越していると思うが。)まぁそれがばれたところで、「おばかさん」程度である。自分が思うほど人は思っていない。 酒の効用は「新しい朝が来た。希望の朝だ。」である。昨日のことは持ち越さない。言い朝である。多少別の意味で残ることもあるが。それでも新たな朝を迎えられるのである。社会人にとって、これは有り難いことだと只野は思っている。
2005年07月06日
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只野は、このことについて抵抗勢力になることが多い。あえて不便な道を選んで苦労しようというクチである。「じゃ、お前は目の前のゴールよりも脇道に行くか?」などと言われると、あえて脇道に入ることになる。たとえば100人中80人が脇道に入ると言えば、只野は逆にゴールを目指すかもしれない。 時間がもったいないから車に乗ると言う。それが徒歩と5分も違わない場合が結構ある。その5分で何ができるだろうか。カップ麺の食事さえも成立しない。(待つこと3分、残り2分でお湯を沸かして食べられるか?)あるいは30分歩くことは我が辞書にはないという絶対に近い感覚を持つ人もある。そのくせ適度な運動、体にいい食事などと言う。 要は便利さだけは失いたくないのである。なぜか。楽だからである。人は楽を覚えると進んで苦労しない。楽は絶対と考えることになる。何ごとも合理的なのが一番であるなどと考えるのが、日本の皆さんの大半だと只野は思ってしまう。 昔、小学校からの帰り道を思い出してもらいたい。寄り道をしたことがなかっただろうか。そこでいつもと違う風景に出会わなかっただろうか。探検をしなかっただろうか。妙にきれいな花に出会わなかっただろうか。(最近は寄り道で夜の花という手もないではないが)要はなぜそれができたかである。それは時間に敏感ではなかったからである。というより余裕を持った時間の使い方が自然にできていたからかもしれない。 では今はどうか。日本中があくせくしているように見える。只野は他人の生活を知らないので、それ以上踏み込めないが、時間はつくるものであるという言葉は正しいと思っている。無駄だって作るものではないかと思うわけである。 只野は、このエッセイを数学のカテゴリーに入れることにした。前回の数学のカテゴリーの話もそうであるが、何で数学なんだろうということになるだろう。まぁそう考えてみるのも、只野にとっての数学になると考えている。
2005年07月04日
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五月晴れが過ぎて、日に日に厚い雲が見られる。中途半端である。ポツポツと来る。いつの間にか雨が上がる。それでも空は中途半端である。晴れ間にはならない。あるいは明け方からシトシトと降っている。激しくないのだが、長続きしそうな感じである。やみ間は期待できない。ジトジトすることに気づく。湿度が高い。不快指数も高い。その状態がしばらく続く。やがて大雨になる。これでもかという感じで降る。しかしそのうちパッと上がる。久し振りに日差しが見えたかと思うと、蝉の鳴き声とともに真夏日となる。 といったところが只野のもつ梅雨時期のイメージである。ところがである。今年はおかしい。例年よりかなり遅れて梅雨に入ったといいながら、なかなか降らず、久々のと思ったときには、すでに梅雨末期のような大雨である。間に真夏日をはさんでいる。何だかわけがわからない流れである。まぁそのことで、只野の生活が何かしら変わるということではないので、こうやってのんびりしたためているが。 どうせならポンと梅雨が明けてくれたらいいなとも思っている。降るのか降らないのかという中途半端な天気は何とも言えない。もっともその中途半端さが、梅雨の真骨頂なのだが。
2005年07月03日
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