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図書館で『江戸ペディア』という本を、手にしたのです。パラパラと覗いてみると、モノクロではあるがまさに図鑑のような装丁で・・・私の好きなビジュアル本なので、チョイスしたのです。【江戸ペディア】飯田泰子著、芙蓉書房出版、2021年刊<「BOOK」データベース>より品川は江戸ではなかった!二割に満たない土地に商人、職人、犬猫がひしめく町。象も駱駝もやって来る、両国と浅草の見世物小屋が大盛況!リサイクルは江戸人の基本技。江戸にもあった「百円ショップ」。シャンプーは月1回。江戸時代の税金事情 長屋の住人は無税!軽い病は売薬で、流行病はひたすら祈る。一攫千金!富くじは夢の宝くじ。お城には国会・内閣・裁判所が完備。江戸の町をパトロールしていたのは精鋭の町方同心たった十二人。火消の面々は半鐘が鳴れば飛び出すファイアーファイター…江戸時代に関わる蘊蓄を集めた豆知識の事典!6つのカテゴリーの300項目。すべて挿絵つき。<読む前の大使寸評>モノクロではあるがまさに図鑑のような装丁で・・・私の好きなビジュアル本なので、チョイスしたのです。rakuten江戸ペディア「第二章・地理」で関西と関東に触れたあたりが興味深いので、見てみましょう。p36~38■上方 京阪の地唄を江戸では上方唄というように、一般には上方は地方から京阪を指していう言葉。幕府においては直轄地の領地経営を任せる代官のうち三河(愛知)以東を関東代官と称し、西を上方代官といったが、京阪はもちろんのこと、中国、四国九州まで含む広域をさした。■関八州 今の神奈川、東京、埼玉、群馬、栃木、千葉にあたる、箱根峠の東に位置する関東の八ヵ国をいう。西から相模、武蔵、上野、下野、常陸、下総、上総、安房。 領国の支配は本来国単位で行うものだが、幕府は八州全域に権限を持つ米国の連邦警察のような役職を設けている。■武蔵国 戦国時代の覇権争いを征した北条氏に代わって徳川家康が入国したのが武蔵国、江戸。 関八州を統治する要の城が江戸城。武蔵国はいずれも譜代大名が治めていた川越、岩槻、忍、岡部、六浦の五藩。■上りと下り 各地から京へ向かうのが上りで逆は下り。江戸時代でも上方と一括りにされる大坂も京の都からは下坂という。上り下りはモノにも使い、下りものといって京坂から江戸へ運ばれた品々は質が良いと尊ばれた。代表が伊丹、池田、灘などから江戸に送られてくる下り酒。■江戸四宿 日本橋を起点とする五街道の最初の宿場が四宿。江戸からは出口、各街道からは江戸への入口にあたる東海道の品川宿、中山道板橋宿、甲州街道内藤新宿、日光街道と奥州街道の千住宿をいう。
2024.11.26
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くだんの大学図書館で、「未来世紀ブラジル」を観たのです。で・・・いつもの鑑賞フォーマットで書きとめててみます。【未来世紀ブラジル】テリー・ギリアム監督、H24.1.23観賞<大使寸評>未来は徹底的な管理社会で、金持ちはアンチエイジング(若返り)なのか・・・・誇張されているとは言え、お先真っ暗な未来に暗然とします。goo映画未来世紀ブラジル警護用に鎧すがたのロボットが現れたりして、日本人なら、おお大魔神や!と思うわけですね。町中いたるところでテロによる爆発があり、レストランでは爆発があっても営業はストップしません。そしてアパートの空調ダクトの修理を依頼したら、スパイダーマンのようなモグリの修理屋が銃を持って闖入してくるわけです。上流階級のご婦人方は、明けても暮れてもアンチエイジングに勤しむ様が滑稽でもあり、おぞましいのです。ネタバレになるので、ぼかして書きますが・・・・ラスト近くで、これでクレジットのシーンかと思いきや・・・・それから結構長く続き、ハッピーエンドとバッドエンドのくり返しがあるのです。さて、どう終わるのか?(キーワードはロボトミー)未来は管理されたディストピアということでは、村上龍の「歌うクジラ」を彷彿とします。階層化された未来では、上層階級はアンチエイジングに明け暮れるというところが同じですね。新自由主義を野放しにしておくと、かくもおぞましい社会となるのか・・・・作者はディストピアを描くことで現在に警鐘をあげているわけなので・・・・正しく鑑賞しましょうね。(大使、見方が堅いのでは?)【歌うクジラ】 BOOK ashahi『歌うクジラ』より『歌うクジラ』は人間が不老不死を手に入れた2117年の日本を舞台とし、流刑地「新出島」から来た少年「タナカアキラ」の壮絶な旅を追うことで、「理想的な」管理社会の暗黒部を徹底して描く。2022年、クジラから不老不死の遺伝子が発見される。移民内乱の鎮圧後、日本は「文化経済効率化運動」と、「最適生態」の理念による上・中・下層の棲(す)み分け政策を推進。遺伝子操作による医学的賞罰(功労者は不老不死に、犯罪者は「生命時計(テロメア)」を切断されて死ぬ)や、精神薬による人心統制、性と記憶のコントロールが行われる。アキラは父の託した人類の秘密をある老人に届けにいく。なお、近日中の鑑賞、感想としては以下の予定とします。・パンズラビリンス・ミリオンダラー・ベイビー・許されざる者
2012.01.24
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今日から29日ころまで、四国の田舎に帰省します。デジタルデバイドの鄙の地なのだが、Eモバイルの通信環境は改善されただろうか・・・ダメな場合、例の如く公民館にでかけてブログ更新をトライします。田舎では介護施設の父母を見舞い、あとは場所こそ違っても晴走雨読になることでしょう♪ところで昨日は、図書館にでかけて年末年始用のスペシャル本を借りてきたのです。*************************************************************<図書館大好き20>今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「テーマなし」でしょうか。<市立図書館>・リヴィエラを撃て・ソーシャル・ドキュメンタリー・中国はこうして国際秩序を破壊する:WEDGE11月号<大学図書館>・草間彌生、たたかう *************************************************************【リヴィエラを撃て】高村薫著、新潮社、1992年刊<「BOOK」データベースより>国際政治の楽屋裏を発狂させた男〈リヴィエラ〉。夥しい諜報戦士たちの血を吸込んだこのコードネームは、一人の天才ピアニストに死を賭した東京公演を決意させる。顔のない東洋人スパイをめぐって、東京・ロンドン・ベルファストに繰り広げる、流血の頭脳ゲーム。<読む前の大使寸評>タイトルがかっこいいので気になっていた本です。ぶ厚い本なので躊躇していたけど、年末スペシャルということで、この本を借りたわけです。Amazonリヴィエラを撃て【ソーシャル・ドキュメンタリー】萩野亮著・編集、フィルムアート社、2012年刊<内容紹介より>アクティビズム、システム、郊外、ケア、私(わたくし)……ドキュメンタリー映画を通じて、現代社会の変容するリアリティを捉える90年代以降、デジタルビデオの機動力は飛躍的に向上し、いわゆる「社会派映画」の中にも「個」の視点を基にするものが現れました。声高に反体制のメッセージを叫ぶのではなく、より軽快に、身の丈に合った空間感覚から社会の矛盾を提議すること。この本ではそうした映画の試みを、と名指します。<読む前の大使寸評>ケイタイやデジカメによりドキュメンタリー映像の制作が劇的に手軽になったけど・・・USTREMやyoutubeの映像がすばやくアラームを揚げるので、既成メディアも後追いで動きだす、あるいは動かざるを得ないんだそうです監督どうしのツイッター対談なんかもあったりで、最新メディアを含んだ新しいタイプの本です。Amazonソーシャル・ドキュメンタリー【中国はこうして国際秩序を破壊する:WEDGE11月号】雑誌、WEDGE、2012年刊<内容紹介より>■特集尖閣を語る前に日本人が知っておくべきこと 中国はこうして 国際秩序を破壊する ◎中国は被害者ヅラで「反日」続行:中西輝政(京都大学名誉教授)◎南シナ海の「占拠」既成事実化:飯田将史(防衛省防衛研究所主任研究官)◎独善的解釈で「海洋の自由」を崩す:小谷哲男(日本国際問題研究所研究員)◎日本の主権に公然と挑戦する中国:WEDGE尖閣問題取材班<読む前の大使寸評>特集の各タイトル(上記)が大使の怒りの火に油を注ぐことになるわけです。WEDGE中国はこうして国際秩序を破壊する:WEDGE11月号【草間彌生、たたかう 】ワタリウム美術館編 、ACCESS、2011年刊<「BOOK」データベース>より‘60年代のニューヨーク、世界で最も刺激的で熱気溢れるアートの中心地で、草間彌生はいかに闘ったのか。1957年に単身渡米し、アートシーンの最前線で前衛芸術家として時代を切り拓いた草間彌生。貧困や差別、自らが抱える精神の疾患、あらゆる困難を創作活動に打ち込むことによって克服し続けた―その魂を揺さぶる人生の軌跡を、本人の発言と当時の写真で綴る。 <大使寸評>功成りて、最近は個展でも多くの観客を集める草間彌生であるが・・・この本は、彼女の内面を吐露したような本です。畏れ多くも草間の美を一言で言い表せば・・・・「狂ったような水玉模様、狂ったような網目模様、狂ったような反復模様」というところか。実際、彼女はすこし狂っていて、終世、強迫観念に駆られているのです。(彼女自身が言うように精神病院の常連だったようです)しかし、この強迫観念のような確固たる拘りが彼女の真骨頂なのである。若き日の彼女は止むに止まれない自分の独創性は、説明抜きで世界で通用することを信じていたようだが・・・・その過信にも似た勢いで、ほぼアポイントなしでアメリカに渡航してしまうんですね。すごい!世界の評価はさておいて、その心意気はまさに「芸術家の魂」である。Amazon草間彌生、たたかう草間彌生の世界byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。12/12図書館大好き1911/8図書館大好き18
2012.12.24
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最近は、品が無くて騒がしいバラエティ番組が多いので・・・見るに耐えない大使は、即チャンネルをスルーしているのです。 一方で、知っている人は知っている「探偵!ナイトスクープ」という長寿番組があるんですが、関西の視聴率では3位~5位あたりをウロウロしていて健闘しているわけです。とにかく「探偵!ナイトスクープ」では、市井の民がおおらかな可笑しさを謳歌していて、ええでぇ♪ちょっと気に食わないのは、西田某という八方美人の異邦人を局長に据えたことであるが・・・まあいいとしよう。 この番組の黎明期(1991年)に、「全国アホ・バカ分布」を実地調査したことがあり、大うけであったことは関西人はよく覚えているが・・・・民俗学的なフィールドワークとしてもバッチグーであり、学者連中を唸らせたわけですね♪この番組によって結実した「全国アホ・バカ分布図」です・・・すご~い♪蔵書録を作っていたとき「全国アホ・バカ分布考」という本を見つけたので紹介します。なるほど傑作ノンフィクションですか・・・Amazonで買おうかと思っているところです。【全国アホ・バカ分布考】松本修著、新潮社、1996年刊<「BOOK」データベースより>大阪はアホ。東京はバカ。境界線はどこ?人気TV番組に寄せられた小さな疑問が全ての発端だった。調査を経るうち、境界という問題を越え、全国のアホ・バカ表現の分布調査という壮大な試みへと発展。各市町村へのローラー作戦、古辞書類の渉猟、そして思索。ホンズナス、ホウケ、ダラ、ダボ…。それらの分布は一体何を意味するのか。知的興奮に満ちた傑作ノンフィクション。 <大使寸評>番組に依頼した人の着眼がよかったのか、それを採用し追及させた松本修プロデューサーが偉かったのか♪Amazon全国アホ・バカ分布考ノンフィクション100選★全国アホ・バカ分布考|松本修ところで、同志社大学中退にして「永遠の0」の著者でもある百田尚樹さんは放送作家となった後、『探偵!ナイトスクープ』の構成も手がけていたそうです。やはり、どこかアホの雰囲気のある人なんでしょうね(詳しくは知らないけど)さきほど、Amazonに「全国アホ・バカ分布考」を発注したので、14日までに手元に届く予定です。読後の感想は後ほどに♪wikipediaでアホ・バカ分布図の成り立ちを調べました。wikipediaアホ・バカ分布図より 1990年(平成2年)1月、関東人の夫がよく「バカ」という言葉を使うのに疑問を持ったという関西人の女性(自身は「アホ」を使うという)からの「アホとバカの境界線はどこか調べて欲しい」といった内容の依頼が『探偵!ナイトスクープ』で紹介された。この依頼を担当した北野誠が、アホとバカの境界線を調べるべく東京駅から調査に乗り出したものの、名古屋駅前での調査では「アホ」でも「バカ」でもない第三の言葉として「タワケ」が使われていたため、急遽「アホ」と「タワケ」の境界線を探ることに変更。岐阜県関ケ原町の住宅街で「アホ」と「タワケ」の境界線と思われる地域を発見したため、岐阜県関ケ原町が「アホ」と「タワケ」の境界である、といった結論を出した。 ところが、当時局長だった上岡龍太郎は、「では、バカとタワケの境界線はどこなんですか?」と問いかけた。また他の探偵からも「大阪の西の境界線はどうなっているのか」などの質問が相次いだため、上岡は「今年一杯かかっても、きちっと地図に境界線を入れてください。」と北野に継続調査を行うことを命令。こうして、本格的なアホとバカの境界線の調査に探偵局は乗り出したが、視聴者からの情報投稿を元に第一次、第二次の分布図を作成した後、しばらくこの件に関する調査は休止状態となった。・・・・ 追加予算を得た番組スタッフは、言語学者の徳川宗賢のアドバイスを受けつつ、それまでの予算規模では困難だった地方自治体の教育委員会への大規模なアンケート調査を行い、1991年(平成3年)5月に「日本全国アホ・バカ分布図」が完成。アンケート結果に基づく追加ロケを行ったうえで特番として放送された。 そして、1991年(平成3年)日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞受賞・第29回ギャラクシー賞選奨・第9回ATP賞グランプリを受賞した。
2012.07.12
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図書館で『日本の異国』という本を、手にしたのです。この本の目次を見ると以下載っていて興味深いのです♪足立区のフィリピンパブ、埼玉県川口市の多文化共生、西葛西のリトル・インディア、新大久保の未来など。【日本の異国】室橋裕和著、晶文社、2019年刊<「BOOK」データベース>より2017年末で250万人を超えたという海外からの日本移住者。留学生や観光客などの中期滞在者を含めれば、その数は何倍にもなる。今や、都心を中心に街を歩けば視界に必ず外国人の姿が入るようになったが、彼らの暮らしの実態はどのようなものかはあまり知られていない。私たちの知らない「在日外国人」の日々に迫る。<読む前の大使寸評>探検家・高野秀行さんがこの本を高く評価しているので、きっと面白い本なんでしょう♪rakuten日本の異国足立区のおじさんたちに愛されるフィリピンパブが報告されているので、見てみましょう。p13~19<竹ノ塚 魅惑の癒しスポット、リトル・マニラ>■リトル・マニラは朝5時から営業「足立区のおじさんたちは、口は悪いけど目が優しいんだよね」 アニーさんはそう言って笑う。「『このヤロ』『バカヤロ』でまず始まるけど、言っていることは正しかったりする。接客のマナーや態度についてよく怒られたけど、勉強になりましたよ」 そんな足立区を拠点に、日本で働くこと25年以上。アニーさんはいま、東武スカイツリーライン竹ノ塚駅のそばにあるフィリピンパブ「カリン」のママだ。 店はなんと朝5時から営業している。「タクシーの運転手たちから、夜勤が明ける朝方に店を開けてほしいって言われて」 運転手たちだけではない。夜の仕事を終えた日本人のホステスやホストたちも飲みにくる。夜が明ける頃になると、今度は年金暮らしのおじいちゃんたちが訪れる。雑多というか、もはや意味不明な客層かもしれない。朝方に飲める店はほかにもあるだろう。でも、足立の人々は老若男女、ここにやってくるのだ。 朝5時から11時までは、飲み放題、歌い放題で、さらに和定食がついて3時間2000円。一般的なアジアンパブだと、1時間3000~5000円というところが多いだろうか。早朝だからか、やたらに安いのである。それにフィリピン人がパブの台所で和食を仕込むという姿もまた足立区ならでは、かもしれない。「あまりお金がなくても、ここに来れば友達がいて会話して、好きな歌を歌って楽しめる。朝や昼のお客さんは増えてますよ」 店内に漂うのは、南国そのままのほどよい脱力感だ。扉を開けたとたんに、ゆるい空気に包まれる。そして出迎えてくれるのは、熱帯の花のような笑顔。いきなり温度と湿度が上がったような気さえする。 そして妙に距離が近いのだ。エッチな意味ではない。お店のフィリピーナたちは、会ったとたんに友達感覚というか、やけに気安いというか、ぜんぜん気を遣わせてくれないのである。かっちり身構えて緊張感すら漂わせながら接客する日本スタイルとはぜんぜん違う。テキトーにがちゃがちゃ水割りをつくり、ほかのフィリピーナとタガログ語でなにやらバカ笑い」をして、かと思ったらじっと目を見つめてきて「オツカレサマ」なんて言ったりする。くだらない冗談ひとつにケタケタと笑い転げてお腹を抱えたり、「ほらほら」とスマホで故郷の農村や家族の写真を見せてきたりする。 どのテーブルもこんな感じで、なんだか女子高の教室にお邪魔しているようなかしましさなのである。彼女たちももちろん仕事だからこうやって接してくれるのだろうが、それにしたって距離が近い。仕事とプライベートの区別がぜんぜんついていない。「みんな一緒に遊んでいるだけだから」 とアニーさんは笑うが、脚とホステスという垣根を取っ払ったような友達感覚は日本のキャバクラやガールズバーとはまったく違う。 客もだんだん、染まってくる。 明るいうちから泥酔して寝込んでいるおじさん。外出したかと思ったらハンバーガーとチキンを買ってきて店にいる人々に振る舞う人。流暢なタガログ語でカラオケを熱唱しては、ギャルたちをどっかんどっかん盛り上げているおじさん。そして家で作ってきたという故郷の料理を持ち寄るフィリピーナたち・・・。 いい意味で弛緩したアットホームな空気と、常連でなくともすぐになじめる親しみやすさは、アジアそのものだ。ひと昔前の淫靡なフィリピンパブのイメージは、あまりない。 フィリピンパブというと誤解されがちだが、お客の多くが求めているのは性的なサービスではない。フィリピーナの大らかさと、ホスピタリティに甘えに、癒されにやってくるのだ。彼女たちとひとときバカ騒ぎをして、腹の底から笑うことで、救われている日本のおじさんたちがいる。■黎明期は1980年代 昭和の昔に一世を風靡したフィリピンパブ。その黎明期は1980年代初頭であったといわれる。当時はまだ貧しかったフィリピンなどの東南アジアから、高度経済成長に沸く日本を目指す女たちの流れがあったのだ。彼女たちは「じゃぱゆきさん」と呼ばれた。 背景はいくつもある。まずフィリピンでは「海外への出稼ぎ」というものが一般的であったこと。アメリカの植民地だった経験もあって英語力が高く、フィリピン人の労働力は世界中で歓迎された。男は建設現場などの肉体労働、女は飲食やメイド。そして夜のサービスに従事する(あるいは十字させられる)こともあった。 国外で働くフィリピン人はOFW(Overseas Filipino Workers)と呼ばれ、現在では一億の母国人口のうちおよそ一割を占める。彼らからの送金は貴重な外貨獲得源であり、故郷の家族を支える。フィリピン人にとって、海外で働くハードルはもともと低いのだ。
2024.10.06
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コンセプトボードって何?…横文字を和訳せずに、そのまま使ってほしくないんだけど。コンセプトボードという業界用語を「新海誠アートワークス星を追う子ども 美術画集」という本で知ったので、紹介します。<コンセプトボード>p156 コンセプトボードとは監督の持つ作品のイメージを、ひと目で他者へ伝えるために作成されるものである。企画案のプレゼンテーションなどで用いられることが多く、ストーリーの流れや、世界観などが分かりやすく表現されている。今作では新海によりおよそ100枚のボードが描かれ、水彩画のような色彩により世界観が美しく表現された。完成版とはまたひと味違う『星を追う子ども』の世界である。なんだ、絵コンテを代表して表すプレゼン用画像なのか(大使、また横文字が出ましたよ)コンセプトボードってきれいで、挿絵のようで、まるで大人の絵本みたいなものですね♪前置きはこれくらいにして・・・コンセプトボードの極めつけを紹介します。コンセプトボード自体が絵本の絵のようなテリー・ギリアム監督は別格ではないでしょうか♪やっぱり上手い!鬼才テリー・ギリアムの直筆絵コンテ公開より独自の映像を生み出すギリアム監督の絵コンテは、非常に明確で美しい。ラフなものから色付けされた緻密なものまで多種多様。アニメーターの仕事をやっていただけあり、確かな画力が作品世界を物語っている。ここまで、書いてきて、はたと気づいたんですが・・・・コンセプトボードとは、要するに絵本のようなものなんですね。大使幼少の頃は貧しかったので、買い与えられる絵本は無いに等しいぐらいで・・・そのまま絵本なしで暮らしてきて、絵本をながめる余裕ができたのが退職後となったわけです。この状況は、団塊世代ではあまり珍しくないケースなんでしょうけどね。【テリー・ギリアム映像大全】ボブ・マッケイブ著、河出書房新社、1999年刊<「BOOK」データベースより>「モンティ・パイソン」から「未来世紀ブラジル」「12モンキーズ」、そして最新作まで、テリー・ギリアムのすべて。ギリアムの全面協力により、詳細な「初公開資料プラスロングインタビュー」を満載。 <大使寸評>アカデミー賞に相手にされないギリアム監督ではあるが・・・・・ぶっ飛んだお話や、玄人はだしの絵コンテがええでぇ♪「映画を作ること自体がファンにとっては事件。妙なタイミングで、妙な映画を作るという事件性が、不思議なことにいつもある」と爆笑問題の太田が言っています。Amazonテリー・ギリアム映像大全
2012.09.27
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今ではテレビで『カンブリア宮殿』というインタビュー番組を持っている村上龍であるが、小説家のなかでは経済的なセンスはぴか一なんでしょうね。コンビニで『村上龍の質問術』という文庫本を買ったのだが・・・とにかく、対談した経済的成功者の顔ぶれがすごいので、思わず衝動買いした次第です。(消費税値上がり初日に衝動買いするアホな大使でおま♪)・・・ということで、村上龍の対談を集めてみました。・村上龍の質問術(2013年刊)・村上龍(群像日本の作家)(1998年刊)R1:『村上龍(群像日本の作家)』を追加し、全体見直し*****************************************************************************【村上龍の質問術】村上龍著、日本経済新聞出版社、2013年刊<「BOOK」データベース>より人気番組「カンブリア宮殿」のインタビュアーとして、300人以上の経営者と対話し、その人間的魅力と成功の秘訣を聞き出してきた村上龍。対談相手や企業の歴史を「文脈」として把握し、本質的な疑問、質問を発見する作家ならではの手法とは?著者初の文庫書き下ろし。 <読む前の大使寸評>『カンブリア宮殿』という番組の構成、台本なんかは、製作スタッフと村上や小池栄子との共同作業で成り立っているとは思うのだが、メインキャスターたる村上の鋭い洞察力が反映されていると思うわけです。amazon村上龍の質問術この本から、ユニクロの柳井社長との対談を、紹介します。昨今はブラック企業と叩かれているが、わりと欧米的なマインドで勝ち進む柳井社長の秘訣が知りたいわけです。<核となる質問>よりp229~231村上:柳井さんの本のタイトルは『一勝九敗』(新潮社)ですが、相撲でいえば完璧な負け越し、野球だったら二軍落ちです。柳井:そうですね。村上:経営者の場合はどうなのでしょう。柳井:反対に皆さんに連戦連勝だと思われているんですよ。でもどんなに優秀な経営者でも、連戦連勝なんてことはあり得ないでしょう、新しいことをやっていたら、失敗して当然です。1勝9敗でもいいくらいでしょう。実は連戦連勝というのは、自分たちが新しいことをやっていないということであり、失敗した原因を分析していないということなんです。商売をやっていたら、いかに冷静に失敗した原因を追究していくか、それが次の成功につながると思うのです。ですから優秀な経営者は連戦連敗だと僕は思っているのです。小池:失敗ということでいうと、昔はスポクロ、ファミクロというのがあったんですね。柳井:スポクロというのはスポーツウェアとシューズに特化したユニクロみたいなもの、ファミクロというのはファミリーウェア、お父さん、お母さんの服と子供服に特化した店です。小池:ユニクロとは別に?柳井:ええ。売れなかったですね。ユニクロと区分けしたので、同じ地域に3店あると、三つ行かないといけない。そんな面倒なことしないですよね、普通。村上:その前に広島にユニクロの1号店を出されるんじゃないですか。これは失敗できなかったんじゃないですか。柳井:ええ、できないです。村上:もちろん失敗していい事業というのはないのかもしれませんが、1号店とスポクロ、ファミクロではリスクが違うんじゃないかと思うんです。柳井:それは全然違いますよ。村上:スポクロ、ファミクロのときはもうすでにユニクロがあった。その中で、どのくらいの分量で勝負していくわけですか。柳井:3分の1くらいでしょうね。ですから僕は、失敗しても会社が潰れなかったらいいと思うんです。そして失敗するんだったら早く失敗しないといけない。ビジネスというのは理論通り、計画通りには絶対いかないんです。だったら早く失敗して、早く考えて、早く修正する。僕はそれが成功の秘訣だと思います。*****************************************************************************<村上龍(群像日本の作家)3>図書館で『村上龍(群像日本の作家)』というムック本を、手にしたのです。ちょっと古い(群像日本の作家)シリーズであるが、写真も多く、切り口も多彩であり、なかなかのシリーズである。【村上龍(群像日本の作家)】ムック、小学館、1998年刊<出版社>よりドラッグ・セックス・ロック世代の青春を描き颯爽と登場した村上龍。いまデッドロックにのりあげた世紀末日本を根源から問い直す、もっとも先鋭的な作家のすべてを、同時代の作家・批評家が検証した初めてのアンソロジー。<読む前の大使寸評>ちょっと古い(群像日本の作家)シリーズであるが、写真も多く、切り口も多彩であり、なかなかのシリーズである。amazon村上龍(群像日本の作家)中上健次との対談「存在の耐えがたきサルサ」を、見てみましょう。<ジャズと快楽幻想>p211~213村上:ビートというと、ジャズとかロックというけど、モーツァルトにもありますからね、フッとした瞬間とか。もちろんバッハにもある。だから極端に言うと、メロディーも、リズムのあり方もビートから追っていく、そういうのが昔からあったんですよ。中上:だから、音楽をメロディーラインで追うんじゃなくて、リズムで追っていくという感じだな。村上:そうです。坂本からいつもバカにされるんだけども、メロディーは甘ったるいのが好きなんですよ、ほんとにもう感傷的なやつがね。中上:坂本龍一に関しては、もうちょっと後で言いたいね。 俺はクラシックとジャズという、しかもクラシックの一番古いものとジャズがぶつかった、そしてもう一つの俺の背景として、紀州の土俗的な世界とぶつかったというところがあるんだけどね。 日本の作家の場合、龍でリズムというのがはっきり出てきたんじゃないのかな。リズムということをすごく気にしているよね。気にしているというか、それが音楽の第一主義みたいなさ。ロックっていうのはまさにそうだよね。村上:ええ。中上:ロックのメロディーラインなんてバカみたいだよ。ロックのリズムは若くなくちゃできないようなあれだろ。村上:絶対そうですね。中上:絶対そうだよな。年取ったらあんなのは・・・。村上:心臓が丈夫でなきゃね。中上:そうだよな。ジャズは違うけど、ロックなんてさ。それをもって表現したというのは、君が初めてだからさ。村上:そうですかね。中上:うん。それはやっぱり地殻変動を起したよね。それは俺にもないところだったよ。俺はものすごく面白いと思った。村上:それはあれとは違うのかな。中上さんから最初に言われた、「」とか、「」って。あれとは違うんですか。中上:あれとは違う。村上:俺、いまでも気になるんだよね。リアリズム好きだから。映画でも小説でもリアリズムが好きなんですよ。中上:それと違うよ。俺、対談を読み直したら、「これラリって書いたの?」と訊いたら、「中上さん、ヌーヴェル・ヴァーグの画面あるでしょ。こっち側があって、向こうがあって、全く等価に見えるみたいのがあるじゃないですか」って、君はちゃんと切り返しているよ。村上:ちゃんと言ってますか。中上:言ってるよ。あれは25歳ぐらいか。村上:まだ24歳かもしれないですよ。中上:それが悪いなんて言ってないぜ。君の小説はこうだって一応措定する、君はこういう書き方している、村上龍という新しい作家はこういう書き方している、つまり俺にはこう見えるということを言う。それはいいか悪いかとは別なんだよ。俺はそういうことで言ったんだけどさ。ちゃんと答えている。村上:言われたから言うわけじゃないけど、ああいうところはあんまり自分でも好きじゃないんです。たとえばあるところを描写するときに、きれいな映画のパンというのはきちんとビーンといくんですね。ダメなやつというのは、変に凝って、ホッと止めて、スッとズームしたりするの。小説の描写でも、そういうのってあんまり好きじゃないの。中上:ゴダールなんていうのはきれいに撮れるのをもう十分知ってて、つまりアップしたままパンをして、全部平面的に並べて撮るとか、そういうことをやったわけじゃない。村上:ゴダールは知ってたんですか。中上:知ってるよ。そう考えなきゃ面白くないもの。村上:そうですね。中上:そうだよ。村上:でも案外映画ってハードに拠るところが多いというか、状況に左右されるから、たとえばジム・ジャームッシュなんかでも、フィックスが多いったって、フィックスしかできないです、全部ロケ撮影だから。そういう中で、ゴダールにとって、あれしかなかったんじゃないかな。中上:そうだとしても、新鮮だった。それは言ってみれば機械の力だよ。ハードガソフトに影響を与え、どうしても新手法を発見させてしまうみたいな、そういうあれだからさ。村上:あ、そうか。中上:それはひとつもマイナスじゃない。(後略)
2019.02.15
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トランプさん率いる米国vs軍拡と経済優先の中国という対立が世界的な難問となっている昨今であるが、『日本の「中国人」社会』という本を読み直してみようと思い立ったのです。*********************************************************図書館で『日本の「中国人」社会』という本を、手にしたのです。著者・中島恵は中国人関連本ばかり書いている人で、中国を探るには欠かせない人のようです♪【日本の「中国人」社会】中島恵著、日本経済新聞出版社、2018年刊<「BOOK」データベース>より日本の中に、「小さな中国社会」ができていた!住民の大半が中国人の団地、人気殺到の中華学校、あえて帰化しないビジネス上の理由、グルメ中国人に不評な人気中華料理店ー。70万人時代に突入した日本に住む中国人の日常に潜入したルポルタージュ。<読む前の大使寸評>著者・中島恵は中国人関連本ばかり書いている人で、中国を探るには欠かせない人のようです♪rakuten日本の「中国人」社会「第2章 日本に持ち込まれた〝コミュニティ〟の構造」から中国人コミュニティを、見てみましょう。p55~58<血縁がなければ、地縁に頼る>「30年近く前、来日したばかりのころは、空港から直行で友人のアパートに転がり込み、そこで暮らしながら、徐々に日本の生活に慣れていったものです。だからそのあとも友人のアパートの近くに住みました。他に頼りになる人は誰もいなかったので」 川口市や横浜市の話を、ある50代前半の中国人に話したところ、彼は「うん、うん」と深くうなづきながら、自らの来日当時のことを懐かしそうに振り返った。六畳の木造アパートで友人と将来の夢を語り合ったという。「両親への国際電話はテレホンカードを使って月に一度だけ。事前に時間を決めて公衆電話から掛けました。週に一回くらい手紙も書きました。携帯電話もない時代でしたから」 当時、日本と中国の精神的距離はとても遠かった。そんな時代から現在まで、彼らは常に独自ルートで、生活や仕事が潤滑が回るようにお互いに協力してきた。 中国人のコミュニティといえば、まず血縁、そして地縁(同郷、土地に基づく縁故関係)やビジネスの縁(仕事関係、同業など)、学縁(学閥や子弟関係)などがあり、これらを日本人以上に重視するといわれる。中国国内だけでなく世界中どこに住んでも同様だ。 これを華人・華僑ネットワークと表現することもある。 血縁とは、家族や親戚関係のことだ。鄧小平氏の改革・開放政策により、1980年代から本格的に来日するようになった留学生にとって、見ず知らずの国に親戚がいたら、何よりも心強かったに違いない。 といっても、留学生がそれほど多くなかった時代は、冒頭の男性のように、親戚はおろか同胞自体も少なく、中国人の間に明確な「コミュニティ」は存在しなかったし、人間関係も今よりシンプルだった。 法務省入国管理局の統計によると、1984年の在日中国人総数は、留学生を含めて約7万人。それが90年になると一気に約15万人にまで拡大した。その後、95年には約22万人、2005年には約52万人、17年の73万人へと伸びていく。 日本で中国人の数が増え、目立つようになってきたのが地縁による結びつき。中国の同じ地域から来日した人同士のつながりだ。本国では知り合いではなかったケースも多い。 北京人、上海人同士など大都市出身者はそうでもないが、それ以外の地方都市、とくに内陸部の中小都市の出身ならば、来日する人数が少ないので欠測はより強くなる。海外で東京都の出身者同士が会ってもそれほど感慨はないが、それ以外の地方都市や市町村の出身者同士などが出会うと、かなり親近感が湧くのと同じだ。 広大な中国には無数の方言があり、生粋の上海人は上海語を使う。上海に留学した日本人には「みんな上海語を話すので、中国語が上達しなかった」という人もいるほどで、外来者に話を聞かれたくない場合には、あえて上海語で話すこともある。 広東省や香港で使われる広東語も同様で、都市ごとに方言があるといってもいい。自分の方言が通じるだけでも心を開き、海外ではとくにその縁を重視する。私が知るかぎり、東京在住の中国人の多くが、同郷会のような少しオフィシャルなものや、カジュアルな同郷人同士のコミュニティに参加している。 東京生まれ天津育ち、北京大学卒業後に来日し、現在は都内の大手ホテルに勤務している佐々木芳邦氏によれば、都内には天津同郷会、吉林同郷会など、地方ごとにたくさんの同郷会が存在するという。佐々木氏が参加する天津同郷会の会員は約400人。20年ほどの歴史があり、毎年春節の時期に新年会を行っている。『日本の「中国人」社会』3:埼玉県のケース『日本の「中国人」社会』2:プロローグの続き『日本の「中国人」社会』1:プロローグ 日本の中国人は、高知県民とほぼ同数*********************************************************■2024.10.13XML『日本の「中国人」社会』4https://plaza.rakuten.co.jp/foret/diary/202410130000/
2024.11.26
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<「このバカタレが!」と言いたいことが多い>最近「このバカタレが!」と言いたいことが多いが・・・・この本によれば「バカタレ」は関西弁なんだそうです。で、「バカタレ」のルーツを知りたいと思うわけですね。<「バカモン」「バカタレ」は関西弁>p248~252 報告書にまとめたいと思ったのは、分布図23語に含まれなかったその他の語彙や、都道府県別の語彙集だけではなかった。「フムリン」や「ホンジナシ」の調査結果についても報告したいし、さらにもうひとつ、果たさねばならないことがあった。それは「バカ」という、日本を広く支配する言葉の謎に少しでも迫ることである。実は「バカ」について、私は早い時点からひとつの大きな疑問にとりつかれていた。 その疑問とは、「バカ」には、「戯け者」「惚れ者」「惚け者」「あやかり者」、あるいはほとんど文献にしか残らない「痴れ者」「空け者」と同じように、もとは「者」が必用だったのではないかという疑問である。現に「バカ」は、今も「馬鹿者」という言い方が一般的であるのに対して、「アホ」の場合、「阿呆者」という言い方はしないのが普通である。 疑問の発端は、近畿の周辺部からの回答に「バカ」ではなく、「バカタレ」が多いことに気づいたこと、さらに図に見るように「バカタレ」と「バカモン」が東北の北部や九州に数多く見られたことにある。「タレ」や「モノ」など接尾語つきの「バカ」こそが、古い形を残しているのではないか? 近畿地方で「バカタレ」が回答されたのは、次の15の市町村であった。 滋賀県・・・・余呉町・甲南町・中主町 京都府・・・・舞鶴市・亀岡市・伊根町 兵庫県・・・・新宮町・美方町・温泉町・朝来町・洲本市 三重県・・・・阿山町・伊勢市 和歌山県・・・美浜町・那智勝浦町 一方、「バカモン」の回答はわずか数件にとどまった。滋賀県甲南町の回答者・真泉善常氏は、「バカモン」「バカタレ」などは若い世代はあまり使わなくなったとし、その代わりに台頭しつつあるのが「アホ」「バカ」であると指摘しておられる。 こうした回答を眺めて、ある日私は胸を突かれた。うかつにも今までまったく意識していなかったが、「バカモン」「バカタレ」が、実は今に生きる関西弁であったことにハタと気づいたのである。上記の地域だけではない。「バカモン」「バカタレ」は、京阪神でもよく耳にする言葉だった。「バカ系語」は関西弁ではない、という確立された常識に対して、それはコペルニクス的な発想の転換を強いる、衝撃的な事実であった。 回答が近畿周辺部からにのみ限られたのは、近畿中央部よりももっと使用頻度が高いからか、あるいは回答者の方言に対する意識の鋭さからだろう。 「バカモン」「バカタレ」が関西の言葉であることを意識してから、私は仕事場で、改めてまわりの人たちが使う言葉に注意してみた。すると京都・大阪・神戸、どこの出身者もやはり「バカモン」「バカタレ」を使っているのである。男性ばかりでなく、短大を出てきたばかりの年若い女の子たちも、ときに威勢よく使うことがある。上方漫才のやりとりの中で、これらが使われるのはごく当たり前のことのようでもあった。 ある日、京都の室町で育った友人が訪ねて来た際に、子供のころどんな言葉で叱られてきたかを尋ねてみた。 「うちの家系はずっと京都人ですが、親父から『アホ』と言われたことは、一回もないですね。いつも『バカモン』『バカタレ』で叱られてきました」 納得のできる答えだった。「アホ」や「ドアホ」「アホンダラ」「ボケ」「カス」などでは子供の喧嘩のようであるし、父親の権威で堂々と叱りつける場合は、やはり「バカモン」「バカタレ」でなければならないということだろう。 京都や大阪では普通、「バカ」という言い方はしない。だから東京人が、関西に出向いて「バカ」などと言ったら、非常に当惑され、気分を悪くされる可能性がある。「バカ」は耳慣れない言葉であり、不当に蔑まれたように思えるのである。これは逆に東京人が、関西人から「アホ」と言われて、耐え難い不快感を覚えるのと似ている。 しかしながら関西人は、「バカモン!」「バカタレ!」と言われても、そうした類いの不快感を示すことは絶対にあり得ない。 横浜で育った女性ディレクターに聞くと、関西に来て面白く思った言葉のひとつが「バカタレ」だったという。 「関西の人は『バカ』は絶対言わないのに、なぜ『バカタレ』は使うんだろう?」 関東人から見ても「バカタレ」はやはり関西弁なのだった。ここまで、読んできて大使は「番組プロジューサーといえばルポルタージュはお手の物だから、構成も文章もなかなかのもんだ♪」と思ったのだが・・・・巻末の解説で俵万智さんが、松本さんの文章を絶賛しています。曰く「著者は、映像の人であると同時に、言葉の人でもあるのだ。テレビ界の人にしておくのは、もったいないかも、とさえ思われた」ちなみに、相手をののしる場合の「アホ」「ボケ」「ドアホ」などの使用例を中島らも著「西方冗土」より紹介します。〇:なんやと?おのれ誰に向かって口きいとんじゃ、このドアホ!▲:あははは、いや冗談でんがな。〇:冗談?寝言は寝てからぬかせ、このボケ!▲:えろうすんまへん。〇:“すんまへん”ですんだら警察はいらんのじゃ、このカス!▲:・・・・なんもそこまで言わんかて・・・・〇:やかまっしゃい、ミソ汁で顔あろて出直してこい、このスカタン!(このような関西人には、「アホ」は親愛の言葉で、効き目はない。「ボケ」「カス」ときて、初めてムッとするのである)【全国アホ・バカ分布考】松本修著、新潮社、1996年刊<「BOOK」データベースより>大阪はアホ。東京はバカ。境界線はどこ?人気TV番組に寄せられた小さな疑問が全ての発端だった。調査を経るうち、境界という問題を越え、全国のアホ・バカ表現の分布調査という壮大な試みへと発展。各市町村へのローラー作戦、古辞書類の渉猟、そして思索。ホンズナス、ホウケ、ダラ、ダボ…。それらの分布は一体何を意味するのか。知的興奮に満ちた傑作ノンフィクション。 <大使寸評>番組に依頼した人の着眼がよかったのか、それを採用し追及させた松本修プロデューサーが偉かったのか♪Amazon全国アホ・バカ分布考ノンフィクション100選★全国アホ・バカ分布考|松本修全国アホ・バカ分布図「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#1「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#2「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#3「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#4「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#5
2012.07.29
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<『神戸の花街・盛り場考』1>図書館で『神戸の花街・盛り場考』という本を、手にしたのです。我が町・神戸の歴史にうといことに思い至り・・・まず花街の歴史を見ていこうと、思った次第です。【神戸の花街・盛り場考】加藤政洋著、神戸新聞総合出版センター、2009年刊<「BOOK」データベース>よりデータ無し<読む前の大使寸評>我が町・神戸の歴史にうといことに思い至り・・・まず花街の歴史を見ていこうと、思った次第です。rakuten神戸の花街・盛り場考三宮~元町間の花街を、見てみましょう。p75~82<元町と《花隈》の意外な関係> 開港にともなう市街地の形成過程で、兵庫側に《新川》の遊郭と《柳原》の検番が成立した。他方、居留地側の新しい市街地には、すでに見た《新福原》にくわえ、《花隈》に、元町6丁目にという検番が成立している。つまり、明治初期の神戸には二つの遊郭、そして三つの「花街」が存在した。 のある元町といえば、明治・大正期を通じて、ミナト神戸の発展と歩みをともにした商店街である。そこは江戸時代までは参勤交代の大名が行き来していた、旧西国街道にほかならない。維新後、旧市街の兵庫と一定の距離をおいて居留地が建設されたことで、おのずと両者の間に位置する土地が都市開発の焦点となり、なかでも東西に走る旧西国街道は、いわば都市の幹線としての大きな役割を果たすことになる。(中略)■元町通6丁目の 街道から商店街へと発展する過程で、街に花が芽吹いたということか。すでに見たとおり、神田県令の散娼政策によって、元町とその周辺には多数の妓楼が立ち並ぶとともに、芸妓の営業地はもともと制限されていなかったことから、かなり早い段階で街道の一部が花街となっていたようだ。 集娼に転じて、妓楼が《新福原》へ移転した後の明治12(1879)年には、早くもの存在を確認することができる。このことから、妓楼の移転によって芸妓と娼妓の分離が強制的になされた後に検番が組織され、元町に狭義の「花街」が成立したものと見てよい。(中略) ここでは、6丁目にあった花街の存在を裏付ける、貴重な証言を引用しておくことにしたい。東西にゆるやかな曲線を描く元町には、昭和初年の段階で山側に32本、そして海側に28本の小路があり、それら小路の裏通りには「スケベ・バー」などと称される飲み屋街が形成されていた。 そうした飲み屋街の端緒として、花街の存在が語られるのである。■花隈二つの花街 この元町通6丁目にあった旧の北側に位置するのが、戦後にいたるまで神戸では一流とされた《花隈》の花街である。「神戸の上層階級の慰安の巷」と称されただけに、市民一般になじみがあったというわけではないだろうが、「大神戸新八景」では、第2位に入選していた。 一般的には、花隈の町域が花街として認識されていいるものの、実際には周囲の下山手通5・6丁目と北長狭通5・6丁目を含んでいた。しかし花隈の町域外に立地する兼業を含む料理屋・席貸約百十軒は、別個に「中央料理席貸組合」を組織している上に、花隈のから分裂したが「中央料理席貸組合」と取り引きしていたので、花隈とその周辺は、隣接しながらもそれぞれ別の「花街」と考えるべきだろう。■元町から花隈へ 勾配のある土地に、まさしく「狭斜の巷」をなすように立地する《花隈》も、最初から「花街」だったわけではない。もともとこの地には、伊藤博文が県令時代に住み込んでいたというある人物の別邸があり、伊藤が兵庫県を離れた後、そこは料亭(鳴松亭)として営まれた。この料亭の開業をきっかけにして、それまで元町に密集していたという置屋や料理屋までもがこの地に移転してくるようになる。 こうして、旧来の「花街はだんだん元町から花隈に移って来た」のだ。そして、ついには元町(6丁目)の「花街」が消滅し、逆に《花隈》は市内随一の「花街」に発展する。 元町の商業面における濾過現象(フィルタリング)を通じて、元町が純粋な小売商店街をかたちづくり、濾されて転出した置屋と料理屋が《花隈》に一廊を形成したわけだ。<三宮神社界隈と境内のにぎわい> すぎし名残の居留地、其北三宮神社の裏、社内の盛り場に隣りしてある花街。東検に擁する芸妓の数43。福原の殷盛、花隈の静雅なく、神社の裏の辺りに三弦の音もかすかなり。(太田毎文「扇港花街集録」) 現代の神戸市の中心は、三宮である。駅名としては「三ノ宮」などと表記されることもあるが、文字通り、この地に祀られている三宮神社に由来している。 地元の人が「さんのみや」と聞けば、駅周辺の繁華な商店街である「三宮センター街」の付近を想起するにちがいない。逆に、かつてこの地のにぎわいの中心がじつは三宮神社にあったということなど、あまり知られていないのではないだろうか。■三宮の花街 先に引いたガイドブックには、同じく「三の宮神社」の項目に「神社の付近にはまた東検番芸妓ありて、遊客の招きに応じ一箇の歌吹境を現出せり」とある。《新福原》や《花隈》にくらべれば「神社の裏の辺りに三弦の音もかすかなり」というくらい小ぢんまりとした下級の「花街」であったものの、都市中心部にあって盛り場としての三宮を彩る重要な要素であったと言えるだろう。 検番や置屋のあった三宮神社の北側には、明治30年前後まで、大規模な製紙工場が立地しており、その周辺には「チャラ」ないし「惣嫁」と呼ばれる、港湾労働者などを相手とする私娼が出没していた。もともとそのような場所であったためか、製紙工場が移転した跡地にが設立されたのである。必然、周囲には料理屋や席貸が集積し、「毎夜三味線太鼓の音で喧噪しく大繁盛」するところとなった。この本も神戸の散策にR1に収めるものとします。
2017.12.14
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図書館に予約していた『イラク水滸伝』という本を、待つこと8ヶ月半ほどでゲットしたのです。著者の高野秀行という人は、角幡唯介さんとともに今の日本ノンフィクション界の先陣を走るような人なんですね。「探検本あれこれ」という括りを設けているんですが、高野秀行さんの作品を5作ほど取り上げていて・・・個人的には探検家トップの地位を築いておるわけです♪*********************************************************【イラク水滸伝】高野秀行著、文藝春秋、2023年刊<「BOOK」データベース>よりアフワールーそこは馬もラクダも戦車も使えず、巨大な軍勢は入れず、境界線もなく、迷路のように水路が入り組み、方角すらわからない地。権力に抗うアウトローや迫害されたマイノリティが逃げ込む、謎の巨大湿地帯。中東情勢の裏側と第一級の民族誌的記録ー“現代最後のカオス”に挑んだ圧巻のノンフィクション大作!<読む前の大使寸評>この民族誌的記録は“現代最後のカオス”ってか・・・ワクワクするでぇ♪<図書館予約:(1/06予約、副本3、予約86)>rakutenイラク水滸伝イラクのマーシュアラブ刺繍布「第7章 謎のマーシュアラブ布を追え」で謎の刺繍布を見てみましょう。p376~379<3 謎の刺繍布の作り手と会う> ホドルの街中にあるセルマさん宅に到着したのは正午近かった。街中にもかかわらず、周囲には生ゴミが投げ捨てられたドブとも水たまりともつかない「湿地帯」が広がっており、すさまじい悪臭がする。チバーイシュ町の今日の最高気温は41度と予測されていたが、ここはもっと高いだろう。悪臭と猛暑で耐えがたい。 夫は姿を現さず、黒いアバーヤをまとったセルマさんが直接迎えてくれた。ついにアザールの謎が明かされるのかと私はさっきとは別種の興奮にとらえられた。 居間兼客間には彼女の作った布が置いてあった。観光のお土産として買う分には可愛らしくてよいのだろうが、どうにも粗い作りで、コレクションの対象になるような作品ではない。私はひそかに、現在でもアザールの技術が連綿と伝えられていることを期待していたのだが、あっさり打ち砕かれた。しかし嘆く暇はない。ジャーシム宋江が倒れる前に訊くことを訊かねば。 早速インタビューを始めた。セルマさんは本名セルマ・エドベ・ダメジェ・ターイー。1959年ホドル生まれ、良心ともターイーという氏族である。彼女は布作りのグループを束ね、ワークショップを主宰するだけのことはあり、判断が早く、頭のよさそうな人だった。 布作りを始めたのは11歳のとき。つまり1970年頃で、習ったのは近所の人だった。母は作り方を知らず、セルマさんが上手になると逆に教えてあげた。習い始めた理由は「お金になるから」。当時、住んでいた地区には250人ぐらい女性がいたが、そのうちアザールを作れるのは5、6人だけだった。しかも彼女たちは「プロ」だったようだ。ただ、職人というより「内職」という感じではないかと思う。 なんと、今から50年前の時点で、新婦もしくは新郎の母親がアザールを作るという習慣はとっくに失われていたことになる。彼女の母親までは知っていたそうだから、女性の誰もがアザールを作る習慣が残っていたのはせいぜい1950年代くらいかもしれない。 セルマさんは18歳で結婚したが、そのとき自分で新婚用のアザールを作った。 氏族は関係なく、ホドルではみんな同じスタイルのアザールを作っていた。 布地と染料は市場で買い、羊毛はベドウィン(遊牧民)から買っていた。自分で糸を紡いで染めていた。作るのは一人。というのは、刺繍のリングは大きくて同時に二人で仕事はできないし、アイデアもちがうから。 セルマさんに刺繍のやり方をほんのちょっと実演してもらった。 やり方は基本的に日本や世界の他の国で行われている刺繍と同じだ。まず、刺繍したい箇所に丸い「刺繍枠」をはめて、布をピンと伸ばす。日本ではこの輪は大きくても直系30センチ程度のようだが、セルマさんが使っていたのは直径60~70センチもある自転車の車輪フレーム。(中略) 刺繍枠が巨大であることを除けば、特に変わった作り方ではないようだ。セルマさんは体を揺らしながらスピーディーに同じ作業をくり返す。思ったより早く刺繍が布の上に展開していく。刺繍の密度は低く、図案も単純なものが多いので、これなら一枚の布を仕上げるのにさほど時間はかからないだろう。 アザール作りの概要はだいたいわかった。次は「本物のアザール」、つまり伝統的な用途で作られたアザールについて訊きたい。と思ったら、また障害が現れた。 イラク名物、不滅のホスピタリティ。インタビューは突然中断され、なんと昼食になってしまった。もちろん鯉の円盤焼きだ。1秒でも時間が惜しいこのときに。「イラク食、怖い!」という気持ちが久々に甦った。だがジャーシム宋江はセルマさんの手前、辛そうな顔を一切せず、楽しそうに食事をする。ほんとうにこの人はすごい。尊敬する。 ようやく食維持を終えてから、私の布を見せた。セルマさんは思わず息を飲んで、一言「カディーム(古い)・・・」。続いて「ヘロー(素晴らしい)」。 質の高さに驚きを隠せないようだ。 いつ頃のものかと訊くと「わからないけど、70年から90年前のものじゃないかな」。作られた場所は「ホドルかもしれないが、よくわからない。」。 やはり、そんなに古いのか。できれば、この布の製作者を探し出したいと思っていたが、ほぼ不可能だろう。『イラク水滸伝』6:マーシュアラブ刺繍布『イラク水滸伝』5:イラン国境の水滸伝(続き)『イラク水滸伝』4:イラン国境の水滸伝『イラク水滸伝』3:続き(その2)『イラク水滸伝』2:続き(その1)『イラク水滸伝』1:はじめに
2024.10.05
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図書館で『中国人は見ている。』という新書を、手にしたのです。中国といえば、中国共産党政権の脅威に日々脅かされている昨今であるが・・・日中の異文化ギャップが述べられていて興味深いのである♪【中国人は見ている。】 中島恵著、日本経済新聞出版社、2019年刊<「BOOK」データベース>より日本人の「あたりまえ」が、中国人にはこれほど異様に映る!飲み会で豹変する上司にいら立ち、会議後の同僚の「ある行為」に感心。大阪に親しみを覚え、寿司店の「まかない」に衝撃を受けるー。日本を訪れた中国人は、この国の何に戸惑い、何に感動するのか。日中の異文化ギャップを多くのエピソードから探る。<読む前の大使寸評>中国といえば、中国共産党政権の脅威に日々脅かされている昨今であるが・・・日中の異文化ギャップが述べられていて興味深いのである♪rakuten中国人は見ている。「第1章 食文化」から日中のラーメンを、見てみましょう。p50~52<中国人が日本で食べたい、もう一つの「別もの」> 多くの日本人も知っているだろうが、中国人が絶賛しているもう一つの「別ものが日本のラーメンだ。漢字表記すると「拉麺」。「中華そば」などと書くこともあり、中国との関係が深いことは誰でも知っているだろう。 中国では小麦粉などの材料を麺のように延ばしたものはすべて麺条と呼び、拉麺はその一種。その呼び名は陝西省、甘粛省などのシルクロードに近い地方で伝統的に食べられるラグマンという料理に由来するという説もある。 日本人が想像するのとまったく同じようなラーメンは、もともと中国には存在しない。 近年、東京にも出店が相次ぐ蘭州拉麺のように「拉麺」という同じ呼び名の料理もある。 しかし、中国人は日本のラーメンを「日式拉麺」と呼び中国のラーメンとは違う食べ物だと思っている。 ラーメンは日本で独自に進化、発展を遂げていくうちに日本を代表する料理となり、今や中国人観光客をも魅了、熱狂させるほど特別な存在になった。彼らは日本のラーメンのどこにそれほど魅力を感じるのだろうか。 日本に住む中国人や、観光でやってくる中国人の多くが口を揃えるのは「日本のラーメンはスープがおいしい」という点だ。 ラーメンを食べるとき、まずスープを一口飲むという日本人は多いが、中国人観光客もそれを見習って同様の行動を取る。「あの濃厚な豚骨スープの味がたまりません。中国でも地方によって似た味はありますが、日本の豚骨はとにかく深みが違う。ラーメン職人がスープの出汁づくりに丁寧に時間をかけているところが中国との違い。まさに中国人が憧れる職人の技、匠の仕事です」 こう絶賛するのは上海在住の40代男性だ。彼は大のラーメン好きで、4、5日程度の日本旅行の際、少なくとも三回はラーメンを食べ歩く。豚骨ラーメンが大好きで、来日した際に行くのは東京・新宿の『一蘭』や銀座の『一風堂』だ。 彼が育った上海には「陽春麺」という「中国ラーメンの一種」はあるが、「ネギを乗せたしょうゆベースのあっさり系の麺で、朝食のときなどにさっと食べたりするもの。日本のような一品料理のラーメンとは違う」という。 私は陽春麺を食べた経験はわずかしかないが、上海のスーパーで半生の麺が売られているのを見かけたことはある。過程で作る以外、比較的安い食堂で食べられる軽食だ。 中国各地には日本でも最近よく名前が知られるようになった山西省名物の刀削麺や、同じく山西省のオーツ麦を使ったヨー麺、北京や山東省などでよく食べられる炸醤麺、字画が58画もあり中国で最も難しい漢字を使うビャンビャン麺、四川省の担々麺など、実にさまざまな麺料理があり、麺の材料の違い、麺の延ばし方や切り方、調理法の種類を見ると、日本より圧倒的に多い。 都内に住む30代の中国人男性も「日本のラーメンは大好き」といいつつも、中国との違いを冷静にこう分析する。「日本人はスープと具に異常にこだわりますよね。でも中国では麺にこだわります。地方によって材料や切り方に特徴があり、上に乗せる具や料理で数十倍のバリエーションが生まれます。 日本では具のチャーシューの作り方にもとことんこだわりますが、中国ではそこまで具にはこだわりません。中国人から見ると、日本人の餃子やラーメンに対する拘り方は〝本末転倒〟。中国人とは全然違うところを重視しています。 でも、日本のラーメンはとにかくおいしいから、これはこれでいいんですが・・・」デジタル朝日に、世界に愛されるラーメンが載っていたので紹介します。パリで「TSUKIJI」を再現したラーメン店を営むフランス人より 元民間航空会社のパイロット。15年ほど前、社員割引で航空券を購入して、初めて訪日し、人生が変わった。 「この素晴らしい食べものは何だ!」 東京で食べた豚骨ラーメンのスープのうまさに衝撃を受けた。 以来、毎年4回ほど、家族らと日本を訪れてはレンタカーで地方のラーメン店を回り、平らげたラーメンは300杯に上る。知人を介して、東京や大阪の店舗のシェフから作り方を習い、パリで店を開くことを決めた。 東京の築地市場も毎回訪れた。歴史を感じさせる古い店構えや、働く人々の息づかいが好きで、閉鎖を知り、市場の雰囲気を残したいと思った。 5年前、ルーブル美術館から歩いて5分の古びた建物の一階に「KODAWARI RAMEN TSUKIJI」を開店した。テーブル席やカウンター席が30以上ある店内には、来日時に集めた「築地場外市場」の文字が入ったポリ袋や、魚を入れる発泡スチロール、軍手などが所狭しと飾られている。市場で録音した競り人の声や鐘の音、ウミネコの鳴き声をBGMとして流し、自家製麺に、イワシやタイなど魚介ベースのラーメン(約2200円)が人気だ。 6日で市場の閉鎖から6年が過ぎた。「とても恋しいけど、築地のエスプリはパリに残っている」。TSUKIJIには一日約650人が訪れ、行列が絶えない。
2024.10.08
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師走ということで新聞紙面には年の瀬題材が並びますね♪おおきに10年!と題して「勝手に関西遺産」というのがありました。朝日デジタルから、そのあたりを紹介します。グレゴリ青山さんが描いている「河原町のジュリー」は知らんなー…エピソードがディープ過ぎるがな。12/17「おもしろがり」ますますより河原町のジュリー 先週に引き続き、10年続いた「勝手に関西遺産」の総集編です。記者たちとイラストを担当するグレゴリ青山さんが、「関西遺産魂」たっぷりに語り合いました。 ◇■「へーそうなん」と「あるある」とデ:10年続く企画ってなかなかない。そもそも何で始まったんだっけ。河:始まった2004年は京都や奈良に続いて熊野古道が世界遺産になったころ。「ユネスコが登録しない、裏の世界遺産をやろう」という狙いでしたね。向:道頓堀を歩いても、大阪っぽい土着の文化が薄れてきている。「当たり前と思ってたけど面白い」「あった、あった」って思い出してもらえるようなものを意識しています。河:関西出身じゃない私は「へぇー」と感じるかが取材のとっかかり。今:実は、担当する記者に関西出身が意外といないんですよね。デ(東京出身):ロシア民謡調の製菓会社のCM曲「パルナスの歌」(05年9月掲載)で関西の人は盛り上がるけど、残念ながらわからないなあ。中(大阪出身):「キダ・タロー氏のメロディー」(06年2月掲載)はわかるでしょ。とーれとれぴーっちぴちカニ料理~。安(神奈川県出身。4月から大阪勤務):知らない……。中:うそー!?(笑)後(北海道出身):飲み屋で知らないって言うと、どっかのおっちゃんが歌ってくれるから知ってます。デ:関西出身者は体験で、関西以外の出身者は異文化への驚きで書ける。グ:テーマは無形のものから近代もの、自然系まで多彩。中には本物の世界遺産になっていいものも。言葉をテーマにした回も多かったですね。渡:テーマ選び、文章だけでなく、写真、イラストも重要です。「日本のへそ」(10年4月掲載)では、日本の中心をアピールする兵庫県西脇市で、おへそを出す子供たちが印象的でした。今:イラストでは、京都市のホームレス「河原町のジュリー」(11年10月掲載)のインパクトが強烈だった。デ:「イカ京(いかにも京大生)」(11年6月掲載)の回に初登場。あれでどんな人かわかった。グ:レトロっぽいイラストになるネタは、好みなので気合が入ります。あとアホみたいなものもうれしい。渡:10年続いたのは何ででしょう。今:笑いをとる、面白がらせる関西だからでしょ。その精神が企画に宿っている。篠:ネタはまだまだあります。渡:「勝手に関西遺産」が「関西遺産」なんですね。オチがつきました!■紹介した「遺産」(大使がたまたまスクラップしているもののみリストアップしています)《2010年》・串カツ(大阪)《2012年》・高座のお茶子・大峯山の山伏修行(奈良)・播州弁(兵庫)《2013年》・大原女(京都)・二人称の「ワレ」(大阪)・動くカニの看板(大阪)・大阪言葉の「ん」《2014年》・六甲山系の夜景(兵庫)・雷さまのへそ(奈良)・よういわんわ・暗峠(くらがりとうげ)の夜景(奈良・大阪の境界)大使がたまたまスクラップして溜めていた記事のなかから、【播州弁】を紹介します。播州弁の凄みには、神戸人はおののくわけです(笑)2012.10.4【播州弁】わがイチ推し 押しの強さより 播州弁は、そのアクセントからか「日本一押しが強い方言」と言われる。 私の祖母は兵庫県太子町出身で、時々、播州弁をしゃべった。「まだ寝とみないのか(寝たくないのか)」「おやつし(おしゃれ)」など。ふざけて「なんどい(何ですか)」と言われた時は、「オッサンか」と思わずツッコミたくなった。 福崎町出身の同僚(38)によると、高校時代、女子も「ごうわく(腹立つ)」と言っていた。男子は「おんどれ(おまえ)」と呼ぶことも。母親に「使わないで」とクギを刺され、大学進学後はあまり播州弁を使わなくなった。 「ざ行」の音が「だ行」に聞こえるのも、播州弁の特徴だ。あぜ道は「あで道」。ぞうきんは「どうきん」。質問の語尾に「こ」がつくこともある。「もう昼こ? 飯食うんこ?(もう昼? ご飯食べる?)」を「お昼を食べたら、すぐうんこ?」と勘違いしたという話も聞く。 そんな播州弁に復権の動きがある。市民がつくる「播州弁研究会」が、昔ながらの播州弁を人気順に番付表にしたり、かるたを作ったりして話題になっているのだ。 かるたの絵を描いた姫路市の漫画家、前田賢一さん(36)は「多くの関西弁と違い、播州弁は『はる』を使わない。それで荒っぽく聞こえるのかも」と言う。「先生いてはる?」は「先生おってか?」など。「でも尊敬する気持ちはちゃんとあるんですよ」 研究会の井上四郎会長(86)は「一口に播州弁といっても、姫路城下、海辺、農村地帯など、地域によって様々。京言葉や古語に近い言葉もあります」。米作りが盛んで都に献上していたことから、京都とのつながりも強い。「おてし(小皿)」「ずつない(苦しい)」といった播州弁は古い京言葉がルーツという。 意外にやわらかくもある播州弁。日本民俗学の創始者、柳田国男は福崎町出身。「故郷七十年」で、故郷では「クニョハン(国男さん)」と呼ばれていたのに、13歳で長兄が住む茨城県に移り住むと、子どもたちが互いの名を呼び捨てにしていて驚いたと回想している。 姫路市出身のエッセイスト、池内紀さん(71)は「柳田さんの本には『わが播州では』という言葉がよく出てきます。播州の体験は、柳田民俗学を完成させる礎になったはず」と言う。播州弁を聞くと、故郷に戻って来たことを実感するという池内さん。街がどこも同じ表情になってしまった今、ぜっぺ(是非)残したい言葉である。(田中京子) ◇メモ:代表的な播州弁○べっちょない(大丈夫)▽せんどぶり(久しぶり)▽だてこく(いい格好をする)▽たいていやない(簡単ではない)▽さんこ(散らかす)▽らっきゃ(いいですよ)▽めげる(壊れる)▽なんじゃかんじゃ(いろいろ)
2014.12.25
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図書館で『世界の文字とことば』という本を手にしたが・・・・この本では、言語が文字の系統ごとにまとめられているという、一風変った本になっています。お札、街中の看板、パソコンのキーボードなど多数の写真で、各文字の書体が見えるのが楽しい本である。まず、最古の文字ヒエログリフを見てみましょう。p78【最古の文字ヒエログリフ】 エジプト発祥のヒエログリフ(聖刻文字)は、メソポタミア発祥の楔形文字と並んで世界最古の文字に位置付けられています。しかし、言葉を体系的に表記することのできる象形文字としては、エジプトのヒエログリフが世界最古にして世界最長の歴史を持ちます。 もっとも古いヒエログリフの資料は、ファラオの出現より数百年も早い紀元前3500年頃と言われ、またもっとも新しい資料はエジプト文明が滅亡してローマ帝国の属州となった紀元後4世紀末のものになります。 ヒエログリフが象形文字と呼ばれるのは、その文字の形が何らかの対象をかたどっているからです。エジプト人たちは建物、地形、天体、道具、人物、動物、植物など彼らが目にした森羅万象をくまなく文字にしました。それゆえヒエログリフの一覧を見ていると博物図鑑を眺めているような気持ちになります。 文字の数は時代によって異なりますが、ピラミッドが建設されていた時代で750文字ほど、有名なロゼッタ・ストーンが作成された時代には、6000文字まで増えていたと言われています。 さて、この象形文字として作られたヒエログリフですが、文字の使い方においては表音文字の用法がもっとも多いということを読者の皆様方はご存じでしょうか。象形文字は文字の作り方に関する用語であり、これとは別に文字の使い方を指す用語には、表語文字、表音文字、限定符などがあります。 確かにヒエログリフには表語文字の用法があり、たとえば「山」の象形文字を書いて「山」の意味になったり、また「月」の象形文字を書いて「月」の意味になったりします。しかしながら、このような用法は全体の10パーセントにも満たず、用法の半分以上が表音文字なのです。 アレクサンドロス大王やローマ皇帝カエサルなど、外国人の名前を記したヒエログリフの碑文が残されているのですが、そのようなことが可能だったのも、ヒエログリフが表音文字を兼ね備えた文字体系であったからだと言えます。漢字にも表音機能があるのですが、アレクサンドロスやカエサルを漢字で表記しなさいと言われたら、ちょっと悩んでしまうところです(永井正勝)ビルマ文字の書体が見えるところを紹介します。p102~103【ビルマ文字・ビルマ語】より ビルマ族は9世紀頃、現在の中国の雲南省から南下してきてイラワジ川の流域に住み着いたと考えられます。ミャンマー南部でモン人が使用していた文字を借り、工夫を加えて自分たちのことばを書き表しました。 ビルマ文字は、ビルマ語のほかに上座部仏教の経典語であるパーリ語のお経を書き表すためにも用いられます。形は丸形を基本とした、なんともかわいらしいものです。 碑文のやや角ばった字から、貝葉に文字が書かれるようになってしだいに丸みをおびるようになり、現在の形ができあがりました。パやガ、ンガーなど、まるで視力検査表のように、丸の上下左右の一部が欠けた文字があります。数字も独自のビルマ数字を使用し、車のナンバーや店頭での価格表示などに見ることができます。 ビルマ語は、日本語に比べ数多くの母音があり、また音の高低や抑揚の違いによって表す意味が異なってきます。一方、日本語にある音でビルマ語にないものもあります。日本語のキャ、キュ、キョにあたる発音はビルマ語にはないため、「東京」は「トーチョー」と発音されます。 語順は日本語とほとんど同じです。そのため、日本人にとって文法は比較的学びやすいといえるでしょう。(井上さゆり)【世界の文字とことば】町田和彦著、河出書房新社、2009年刊<「BOOK」データベース>より優美な文字、かわいらしい文字、不思議な文字と世界の言語。【目次】ギリシア文字の系譜(ギリシア文字ーギリシア語/キリル文字ーロシア語 ほか)/アラム文字の末裔たち(ヘブライ文字ーヘブライ語/アラビア文字ーアラビア語 ほか)/ブラーフミー文字の子孫たち(デーヴァナーガリー文字ーヒンディー語/デーヴァナーガリー文字ーネパール語 ほか)/漢字の一族(漢字ー中国語/漢字とかな文字ー日本語)<大使寸評>お札、街中の看板、パソコンのキーボードなど多数の写真で、各文字の書体が見えるのが楽しい本である。rakuten世界の文字とことばところで、志麻ハーフの結果であるが、2時間25分台という凡庸なタイムでした。その言い訳は、3月、4月を寒波と長雨にたたられて、練習不足だったことです・・・・、いいわけはさておいて、練習不足でハードなこのコースを2時間25分台なら御の字であるという言い方もできるのだ♪ラップタイム等詳細はのちほどに。
2015.04.19
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図書館の本を手当たり次第に、借りている大使であるが・・・・なんか慌しいので、この際、積読状態の蔵書を再読しようと思い立ったのです。・・・再読シリーズの一貫として、以下のとおり取り上げてみます。【日本語と韓国語】大野敏明著、文藝春秋、2002年刊<「BOOK」データベースより>二千年の交流関係をもつ日韓両国には同じことばが少なくない。むかしから共通だった固有語(たとえばカマ)、近代に生み出された漢字語(たとえばヤクソク)、日本統治時代に残してきたことば(たとえばワリバシ)、そして近年、韓国から流入して日本に定着したことば(たとえばキムチ)。その一方、韓国に行って安易に「朝鮮」ということばを使うと、とんでもない目にあいかねない。なぜ南は「朝鮮」を忌避し、北は「朝鮮」に固執するのか。そこには、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて存在した「大韓帝国」に対する認識の差があった…。日本と韓国の同質性と異質性をことばを通して、多角的にあぶりだす。 <大使寸評>図書館の本を手当たり次第に、借りている大使であるが・・・・なんか慌しいので、この際、積読状態の蔵書を再読しようと思い立ったのです。Amazon日本語と韓国語韓国演歌「カスマプゲ」を見てみましょう。p44~46 <渡辺さんの先祖> 日韓で似ている言葉です。「わた」。かつての日本では海のことをこう呼びました。「わたの原」「聞けわだつみの声」の「わた」です。韓国語では海は「パダ」です。「タンシン(あなた)グァ(と)ナ(わたし)サイエ(間に)チョ(あの)パダ(海)ガ(が)オプソッタミョン(なかったならば)・・・」。ご存じ韓国演歌「カスマプゲ」の歌い出しです。「カスマプゲ」とはカムス(胸)アプゲ(痛む)という意味です。この曲に唄われている海は朝鮮海峡と対馬海峡のことです。日本に渡ってしまった兄弟を偲んだという説と、釜山あたりから航海に出る恋人か兄弟を思って唄ったものという説があります。 本当に海峡がなかったならば、日本のことばはもっと半島の影響を受けて変わったものになっていたかもしれません。 海は渡るものです。渡辺(渡部)は海を渡って来た部族という意味ではないでしょうか。姓に関する事典の中には渡辺を「渡し部」などといって、かつて船をつかさどっていた人々の姓などとありますが、船をつかさどっていた人がそんなに多いはずはないのです。日韓とも「わた」「パダ」には特別な思い入れがあるのです。 くま(熊)=コム、くも(蜘蛛)=コミ、こおり(郡)=コウル、はた(畑)=パッ、むら(村)=マウルなども本来、韓国系のことばといわれています。故・朴正キ大統領が始めたセマウル運動とは新しい村運動という意味です。 日本にはいない虎(ホランイ)。虎は韓国の古語で「ツルポオム」といい、「ツル」は縞模様を、「ポオム」は猛獣を表したといいます。その「ツル」が「ツラ」となり「とら」となったという説もあります。カチ かちがらす。これは佐賀を中心とする地方の方言で、かささぎのことです。韓国語ではそのままカチです。このカチは韓国では日常的によく見かける鳥で、カンチェギとも言います。このカンチェギがかささぎの語源ともいわれています。かちがらすは方言ながら、広辞苑にも出ていますよ。 方言ついでにもう一つ。「おいど」。これは大阪弁で尻のことですが、韓国語では「オンドンイ」です。発音が似ていますよね足(タリ)だけでなく、おいども韓国系のことばではないかと疑っているのですが、どうでしょうか。 <火の足を持つ虫> 固有語で韓国系のことば、もうちょっとみてみましょう。 日本では「火」は「ひ」、韓国では「プル」。これも関連があるゆです。このプルが日本に来て「ぽ」となり、現在の「ほ」になったという説があります。「炎」も本来は「火の穂」です。平安時代以前は「はひふへほ」は「パピプペポ」と発音されていました。「火照る」「火垂る」などは「ポテル」「ポタル」だったのです。 「ホタル」は通常、「火が垂れているように見える虫」ということで名が付いたとされています。ですが、前に触れたように「足」は韓国語で「タリ」で、それが「たる」となったとも考えられますから「タル」は「垂れる」ではなく「足」とみるっこともできます。だとすると「ホタル」は「火の足を持つ虫」という意味になりますが、どうでしょう。ホタルで光るのは実際は足ではなく、尻ですが。『日本語と韓国語』1
2020.05.15
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図書館で『不謹慎な旅』という本を、手にしたのです。副題が「負の記憶を巡る「ダークツーリズム」」となっているのだが・・・ぱらぱらとめくると、戦中から戦後にかけての不幸なエピソードが並んでいて、ついチョイスしたのです。【不謹慎な旅】木村聡著、弦書房、2022年刊<「BOOK」データベース>よりそこを訪ねてみなければわからないことがある。忘れてはならない戦跡や被災地、公害・差別・事故現場で耳を澄ませる。現地の人々の声を写真とともに伝える渾身のルポ!!<読む前の大使寸評>副題が「負の記憶を巡る「ダークツーリズム」」となっているのだが・・・ぱらぱらとめくると、戦中から戦後にかけての不幸なエピソードが並んでいて、ついチョイスしたのです。rakuten不謹慎な旅麻薬大国としてのニッポンが語られているので、見てみましょう。<麻薬大国ニッポン>p122~127■国産アヘンとケシ畑 そこは1年のうちほんの数日だけ、囲む二重鉄柵の外側だけが解放される。入って見えたのは魅惑的な白い花々。柔らかそうな質感の大きい花弁が重なり合い、そよぐ風にときおり小さく揺れていた。 ただし、けっして触れることは叶わない。内柵は閉ざされたままで、上には鉄条網。監視カメラもあり、常に侵入者を許さない厳重な管理体制が敷かれている。理由は柵内の花々が許可なく植えてはいけない、所持してもいけない植物だからだ。しかも単なる栽培禁止の植物ではなく、アヘンやヘロインといった麻薬製造へとつながる成分を持つ「ケシ」。存在自体が「あへん法」による厳しい取り締まりの対象下にある。 東京都薬用植物園(小平市)は合法的に研究用のケシ栽培が許された場所で、毎年五月初旬の短い開花期には一般公開され間近に鑑賞もできる。こうしたケシの研究圃場は現在国内に五ヵ所。すべて合わせても10アール程度で、田んぼ1枚分もない。だから、やにわに想像しがたかった。過去の日本でケシの栽培が盛んに行われていて、そして、それが麻薬であるアヘン生産のための広大なケシ畑だったなんてことも。(中略)■“阿片王”のふるさと ケシからアヘンを作り、さらにアヘンから成分を抽出、精製して得られるモルヒネやヘロイン。それらの生産量において、1930年代の日本は世界の半数以上を占めたとの資料がある。もちろん世界一位。ほかにもコカの木から作る麻薬コカインの生産量も世界一位。この時期この国は、世界有数の麻薬大国だった。 でも勘違いしてはいけない。これはあくまで生産量であって、使用していた量ではない。アヘンなどの麻薬は製造から消費まで国が管理していた。日本国内ではいっさい使わせなかった。では、なぜそうまでして大量の麻薬を作っていたのか?それはアヘンなどの麻薬が、当時日本が進出していた台湾や中国で売ると莫大な利益を生んだからである。そして、手に入れた金はそのまま植民地経営に使用され、続く戦争の戦費を賄った。 麻薬であるアヘンを使った日本の政策は日清戦争後の台湾統治からとされる。当初はアヘンの原料はすべて輸入に頼っていたが、ここで「国家財政を助けるために国内自給すべし」と東奔西走する人物が現れる。大阪府三島郡福井村(現茨木市)出身の二反長音蔵。彼によって、薬用植物として栽培されていたがすでに廃れていたケシの国内栽培が一気に復活。 のちに「阿片王」と呼ばれる彼の郷里はケシの花で埋め尽くされた。最大の栽培地は大阪府から和歌山県に移ったものの、戦前この二府県にケシ畑は集中し、最盛期は1万軒を超える農家がケシを植え育てていたという。阿片王のケシ栽培については「尊農・二反長音蔵」の白い花が興味深いのです。『不謹慎な旅』1:吉野川の防災資源
2023.07.01
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図書館で『日本の「中国人」社会』という本を、手にしたのです。著者・中島恵は中国人関連本ばかり書いている人で、中国を探るには欠かせない穂とのようです♪【日本の「中国人」社会】中島恵著、日本経済新聞出版社、2018年刊<「BOOK」データベース>より日本の中に、「小さな中国社会」ができていた!住民の大半が中国人の団地、人気殺到の中華学校、あえて帰化しないビジネス上の理由、グルメ中国人に不評な人気中華料理店ー。70万人時代に突入した日本に住む中国人の日常に潜入したルポルタージュ。<読む前の大使寸評>著者・中島恵は中国人関連本ばかり書いている人で、中国を探るには欠かせない穂とのようです♪rakuten日本の「中国人」社会「プロローグ 日本の中国人は、高知県民とほぼ同数」の冒頭、見てみましょう。p3~7<中国人の、中国人による、中国人のための料理店> 2018年7月。東京・高田馬場駅で下車し、早稲田大学方面に向かって少し歩いたところにある真新しい中華料理店『沙県小吃』に入った。 メニューは数種類しかなく、中華系ファストフード店といった感じだ。「ねぇ、中国の人ってさ、毎日こんなにおいしいものを食べているの? うそー、ヤバーい」「すごく大勢並んでいるね。ここは中国でも人気のあるお店なの?」 券売機で一杯480円の看板メニュー、ワンタンのチケットを購入し、狭いカウンター席に座ると、大学生らしき女性数人の会話が聞こえてきた。その発音から、一人だけ中国人らしいことがわかる。「こんなにおいしいもの」という言葉を掛けられて、ちょっとうれしそうな表情を浮かべている中国人女性は「パンミョン」と呼ばれる和え麺について、流暢な日本語で解説していた。 高田馬場といえば都内屈指の学生街だ。早稲田大学をはじめ、日本語学校は40校以上あり、専門学校も多い。近年はミャンマー人街と呼ばれ、ミャンマー料理店が多いことで有名になったが、ここ1~2年は急速に中華料理店の勢力も増しつつある。 その新興勢力の多くは中国人経営による店だ。私が見たかぎり、店員はすべて中国人、客も多くが中国人。店内の会話もほとんど中国語だった。 私が訪れた『沙県小吃』は、中国福建省三明市沙県という人口約30万人の()小さな街で発祥した料理を出す店だ。沙県小吃集団という地元企業がチェーン展開し、その店舗数は中国全土で約6万店にも及ぶ。中国国内ではよく見られる平凡な軽食店だが、この高田馬場店は同チェーンの海外進出第一号店だった。 高田馬場の店は福建省福清市出身の起業家、王遠輝氏が経営する。1987年に来日してITビジネスなどを手掛ける王氏は、「中国文化を日本に伝えたい」と沙県小吃集団に持ち掛け、フランチャイズ方式で開業した。看板のロゴやレシピも本国と同じだ。 オープン当初から、日本の中国人社会の間で情報が駆け巡ったせいか、周辺の留学生らが押し寄せ、連日行列ができていた。その噂を聞きつけて、私もオープンから1ヶ月後に足を運んでみたのだが、そこはまさしく〝中国〟だった。 近隣を歩くと、『張亮麻辣湯』『本格熊猫』『蘭州牛肉麺』など、以前は見かけなかった中国語の看板が目立つ。いずれも2017年以降にオープンした料理店だ。 おそらく王氏のような人が、日本に増え続ける〝同胞〟の需要を見込んで開店したのだろう。取材を進めていくにつれ、中国人による中華料理店が東京に増えているのには、他に私が創造もしていなかった理由があった。<急カーブで増え続ける中国人たち> 高田馬場だけではない。今、中国人コミュニティが日本社会にすっぽり入り込んでいるかのような地域がいくつもできている。 東京でいえば、新宿、池袋、亀戸、錦糸町、葛西あたり、大阪では西成地区など。これらの街のある一角に足を踏み入れると、自分のほうが異邦人になったかのような感覚にとらわれる。中でも象徴的なのは埼玉県川口市と神奈川県横浜市だ。 詳細は第1章で紹介するが、人口約60万人の川口市には約2万人の中国人が住み、その多くが西川口と蕨というJRの駅周辺に集中している。自治体別の在留中国人数では、川口市は全国で第五位。東京都、大阪市などの大都市を除くと、川口市の多さはひときわ目立つ。 西川口には新興のミニ中華街が出来上がっており、蕨には芝園団地という中国人率が圧倒的に高い集合住宅もある。 一方、横浜市にある横浜中華街は神戸や長崎と並び「日本三大中華街」と呼ばれ、古くから〝中国人比率〟が高かった。そこには老華僑(1978年の中国の改革・開放以前に来日した中国人)が住み、何世代にもわたって中華料理店を営んできた煌びやかなストリートがある。いわば観光客向けのチャイナタウンだ。 しかし、そこからわずか数キロ離れた横浜市南区にある〝ごく普通の住宅地〟には、近年になって新たに流入してきた若い世代の中国人が集住している。その学区内にある小学校は、児童の約四割が中国人なのだという。その学校を訪れ、休み時間に廊下を歩くと、元気よく響く児童たちの多くが中国語だった。 なぜ、この二つの地区に中国人が集まるようになったのか。 近年、とくに2000年以降、日本に住む中国人の数は急カーブで増え続けている。総務省の統計によると、2017年末時点で、約73万人(台湾、香港を除く)に上り、在日外国人全体(約256万人)の約三分の一を占める。
2024.10.07
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「なんどい ダボ!」神戸や摂津の住人にとって播州弁ですごまれたら・・・怖いでぇ。でも播州弁や河内弁は、けんかの時は断然優位に立つわけで・・・その口調を覚えておくべきかと思ったりする(笑)冗談はさておいて・・・最近、我が娘が播州人に嫁いだことや、このところの「軍師官兵衛」の放映に触発されて、播州が気になるのです。図書館で「播磨気質」という本を借りたのだが、播州が面白くレポートされています。<ダボ、ワレ・・・>p13より レシーバーの奥から、どすのきいた声が響く。ぶっきらぼうに「〇〇は何番どい?」。問い返す間もなく「ワレ、はよ調べんかい」の追い打ちだ。答えにまごつけば「オンドラ、ドアホ」ととどめの一撃をくらう。 聞きしにまさる播州弁の迫力だ。姫路電電局の番号案内「104」と「105」にかかる問い合わせ電話は1日2万本余り。そのうちの何本かは「理由もなくののしられる」という恐怖感を交換嬢に与えて切れる。「一生懸命調べているのに、親にも言われたことのないような言葉で口汚くののしられて・・・。よほど逃げて帰ろかと考えた」とは、但馬の浜坂から出てきて勤続27年というベテラン職員が語る初出勤の思い出だ。播州の中心地といえば姫路であり、姫路のシンボルと言えば姫路城となるのだが・・・・播州人はこの姫路城を誇りに思っているかといえば、この本の刊行時1989年は、そうでもなかったようです。<あてがいぶち>p29~31より 「せめて年1回でいい。気分を新たに登閣してもらえたら・・・」 姫路城管理事務所で、香山宏所長が嘆く。姫路市のシンボルであり、市民の心のふるさとであるはずの姫路城。その天守に市民がさっぱり登ってくれないというのだ。姫路青年会議所が58年(1983年)8月に行った調査では全登閣者のうち市民はわずか5.1%、年間登閣者約85万人からはじくと4万人余りに過ぎない。さんざんの数字だ。 登閣者だけではない。裏側の姫路公園は碁、将棋をする老人や散歩の親子連れがちらほら見られるだけ。同じ播州ながら、明石城の早朝体操、散策、スポーツなど市民あげてのフル活用ぶりとは対照的だ。 世界に誇る名城がたったの23円50銭―。明治新政府が出した廃城令に伴い姫路城が売りに出された時の落札値(明治十年)だ。米価に換算すると今の約20万円ぽっち。市民の反対運動も起こらなかった。後でことの重大さに気づいた陸軍省幹部が動き、すんでの所で命運を今日につないでいる。 対する明石城は市民運動に救われた。小学校建設用材に転用が決まったが“落城”寸前に地元藩士らが総決起し、現存する東西二櫓(やぐら)を守り抜いた。保存運動、現在の利用状況ともまさに市民の城である。 二つの城の間になぜこれほどの差が生じるのか―。播磨の民衆史などに健筆を振るう作家の寺林峻さんは「姫路城があてがいぶちの城だったからではないか」とみる。 確かに、池田一族が百万石の財力と威信をかけて築城した堅固な連立式天守閣は徳川政権の押し付け。豊臣方の本拠、大坂をにらみ、西国の外様諸侯を封じ込めるのが狙いだった。輝政の死後、池田家は転封され、代わって本多、松平、榊原、酒井など譜代大名が入国したが禄高は15万石程度。城は国力に不似合いの飾り物となり、藩主のめまぐるしい交代は領民から活力を奪っていった。 「播州は古くから権力にあらがった政治犯などが流されてきた地。長いものに巻かれることを潔しとしない気骨があった。が、“第二江戸城”に匹敵する巨大な城郭の出現で気力がなえ“寄らば大樹のかげ”というべき播磨気質ができてしまった」と寺林さん。 お上の意向に唯々諾々と従い、あてがいぶちで満足する気質を播州人に植えつけたとすれば、お城の罪は大きい。どんな時代であれ、権力や権威に抵抗し、反発する精神が独自の文化と創造性を生む源泉であったはずだからだ。 精神風土の甘さゆえの“あてがいぶち”はまだ続く。姫路を軍都に変えた第十師団も国からの授かりもの。鉄道誘致の夢破れた丹波・篠山町が起死回生策として町をあげて運動、歩兵70連隊誘致に成功したのとはまったく事情が異なっている。<前進基地>p55~56より 西日本一の豊かさを誇る播磨国は事が起きるたびに、外部の勢力から狙い撃ちされる。古代には朝鮮半島から渡来人が大量に入り、鎌倉政権誕生後には、いわゆる地頭として関東御家人が次々と入国。さらに南北朝の動乱期には、山陰、北陸諸国から悪党の群れがなだれ込み、そのまま居座った。その他、海を渡って上陸した四国人、明治維新後、職を求めて移住して来た西日本、九州人。播磨人は東西の血が色濃く混じり合い、類がないほどの混血民族と評判されるゆえんだ。 あとがきに、神戸新聞の播磨版に掲載されたこのシリーズの裏話が載っているけど、ええでぇ♪<あとがき>より 「播磨国の風俗は、知恵があって、しかも義理は知らない。親は子をだまし、子は親を欺く・・・」 「姫路人は利害関係に敏感で、自分本位の行動に走る。あるいは打算的な行動をとるため、諸集団の連帯性とか、統一性が持続しない」 いずれも、本書の中で幾度か引用した文章である。ご記憶の読者も多いだろう。というより、これだけ手ひどくやられては播州人の一員として記憶に残らざるを得ない。なぜ、我々はこれほどまでに悪しざまにののしられなければならないのか? 前者は江戸中期の「人国記」の記述。後者は昭和の時代に信金総合研究所がまとめた地域特性の研究報告書の一節だ。二つの文章の間には、ざっと250年の歳月がある。時代の流れを超えてなお、二つの播州人論は、なぜ、これほど似てしまうのだろう? 播州人を語るのに、悪口の例は事欠かない。既に本書で紹介したように、利己的、打算的、排他的・・・。あるいは、言葉が汚い、柄が悪い、気が荒い・・・。が、これらの言葉は、本当に播州人像を言い当てているのだろうか?よしんば思い当たるふしがあったとしても、それは播州人の本来の気質にゆえんするものなのか?企画「播磨気質」は、まさしくこうした疑問符の積み重ねから生まれたといえる。(中略) 全体を通じて、もっとも力を入れたのは「播州人よ、もっと自信を持とう!」「大国播磨の末裔として、胸を張って播州人と名乗ろうではないか!」という呼びかけである。その意味では、シリーズそのものが一種のキャンペーンであったと言えるが、実は第一部の掲載当初はビクビクものであった。「みな盗賊」「ダボ、ワレ」「あてがいぶち」「殿様商法」「腰くだけ」など刺激的な言葉の連続に「読者から反発の電話が殺到すのではないか」と本気で心配したものである。が、結果は予想に反して「なかなかおもしろい」「よう書けとる」との声をいただいた。連載途中には、播磨という地域の奥の深さ、とらえどころのない多様性に直面し、つい“腰くだけ”になりそうな時期もあったが、そんな時には「次のシリーズはまだか」「早く始めろ」と励ましの言葉まで数多く頂戴した。播磨の人々のおおらかさ、度量の広さのおかげで、完結できたようなものである。【播磨気質】神戸新聞社編、神戸新聞社、1989年刊<内容紹介>よりデータなし<大使寸評>「なんどい ダボ!」神戸や摂津の住人にとって播州弁ですごまれたら・・・怖いでぇ。rakuten播磨気質
2014.06.19
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朝日の(三谷幸喜のありふれた生活)シリーズをスクラップしているのだが・・・デジタルデータとダブルで保存するところが、いかにもアナログ老人ではあるなあ。三谷さんが、脚本の「当て書き」について語っているが・・・興味深いのです。<(三谷幸喜のありふれた生活1080)僕が考える「当て書き」とは>2022.03.31より ここで何度か書いているが、僕は「当て書き」の脚本家である。演じる俳優さんに当てて、その人がどんなことをしたら面白いか、どんな台詞を言ったら恰好良いか、などを想像してホンを書く。だからキャスティングが先行していないと、何も思い浮かばない。脚本家としては失格の部類に入るのかもしれない。 この「当て書き」が、間違えて捉えられる。俳優さんの普段の性格を踏まえて、その俳優さん自身の個性を役に反映させるのが「当て書き」と思っている人が多い。そうではない。そこまで僕は俳優さんたちを知らない。 「鎌倉殿の13人」で言えば、もちろん劇団時代からの仲間も出てくれているが、例えば源義経役の菅田将暉さんとは、パーティ会場のトイレで一度挨拶しただけだし、八重役の新垣結衣さんは、クランクイン前にNHKの会議室で15分ほどお話ししたに過ぎない。この目でその人を見ておいた方がイメージは掴みやすいので、先日もドラマの後半に登場する若い女優さんと、局の控室でお話しする機会を作って貰った。 そんな程度である。だから役の個性イコール演じる俳優のキャラでは決してない。豪快な和田義盛役の横田栄司さんは、本来は真逆の物静かな紳士なのである。 登場人物を淡々と殺して回る恐怖の善児を演じる梶原善。30年近く知っているが、普段の彼に「殺し屋」の面影は一つもない。綺麗好きでお洒落で頭の回転が早い。それが本来の彼。でも「殺し屋」の印象が皆無の彼だからこそ演じて貰いたくなった。彼なら無の表情で殺戮を繰り返す善児を魅力的に演じてくれるに違いない。そしてそれに気づいたのはきっと世界で僕だけ。つまりこれが本来の「当て書き」なのである。 でもたまに、想像で書いたのにそれが演じる俳優さんの普段の姿に似てしまうケースもある。「三谷さん、よく見抜きましたね」と言われたりもするが、それは僕の洞察力が優れているわけではなく、たまたまである。 以前、「総理と呼ばないで」というドラマで、居眠りばかりしている副総理役で出て頂いた藤村俊二さんが、「あの役はまるで僕だった」とおっしゃっていた。嬉しい偶然。(三谷幸喜のありふれた生活984)答えのない問いの中で2020.03.24(三谷幸喜のありふれた生活964)先輩、仲間、「育ての親」2019.10.17久々の封切り映画:記憶にございません!2019.10.09NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』2022.03.08
2022.03.31
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図書館で『不謹慎な旅』という本を、手にしたのです。副題が「負の記憶を巡る「ダークツーリズム」」となっているのだが・・・ぱらぱらとめくると、戦中から戦後にかけての不幸なエピソードが並んでいて、ついチョイスしたのです。【不謹慎な旅】木村聡著、弦書房、2022年刊<「BOOK」データベース>よりそこを訪ねてみなければわからないことがある。忘れてはならない戦跡や被災地、公害・差別・事故現場で耳を澄ませる。現地の人々の声を写真とともに伝える渾身のルポ!!<読む前の大使寸評>副題が「負の記憶を巡る「ダークツーリズム」」となっているのだが・・・ぱらぱらとめくると、戦中から戦後にかけての不幸なエピソードが並んでいて、ついチョイスしたのです。rakuten不謹慎な旅 昨今では、高い気温、梅雨前線がもたらす湿気で記録的な降雨が発生して、防災インフラの能力ではおっつかないケースが頻発するようになりましたね。この本で、吉野川の防災資源が語られているので、見てみましょう。<川には矛盾が流れる>p47~49 そこは“暴れ川”のほとり。高い台座の上に石地蔵がいた。近所の人が「うつむき地蔵さん」と呼ぶそれは、少し目線を下げてほほ笑み、ポツンと道端に座っている。 江戸後期の文化8(1811)年造立とある。聞けば、洪水のたびに地蔵が水に浸かり流されてしまうのがかわいそう、申し訳ないとの思いから、当時の人々が高所に据え直したのだそうだ。ちょっと高みから土地の暮らしを見守る地蔵尊の姿は、阿波徳島の人たちとの心やさしき情景である。■堤防を築かなかった川 台座に乗った独特の「高地蔵」は、吉野川の下流沿岸では数多く見られる。上流の高知県の山に大雨が降ると、中下流の徳島平野を鉄砲水が襲い、一挙に氾濫を起こす吉野川。流域はくり返し洪水に苦しめられてきた歴史を持つ。高地蔵の由来にひそむのは、そうそうやさしい物事ばかりじゃない。 高地蔵が建てられた時期は記録的な洪水被害が出た江戸後期から明治にかけてが多く、また地形的に土地が低く浸水しやすい場所ほど台座が高いという。台座高1メートル以上の高地蔵は190ヵ所。地図上に並べると、国土交通省作成の「洪水浸水想定区域図」とピタリ一致する。徳島大学環境防災研究センターの上月康則教授は、「水害の警鐘として、高地蔵は現代人も理解しやすいシンボル」と話す。 もっとも高いものは先のうつむき地蔵(徳島市国府)だ。約3メートルの台座、全高は4メートル超。想定される浸水水位が2~5メートルの洪水常襲地区にあって、その高さはいまも洪水時の目安になる。点在する高地蔵それぞれは、先人が遺してくれた貴重な“ハザードマップ”と言えるかもしれない。 吉野川の洪水は、長らくこの川に堤防が築かれなかったことも要因だ。江戸時代、徳島藩は台風襲来と収穫時期が重なる稲作より藍の生産を奨励した。藍の栽培は地力を奪い連作を嫌うが、吉野川の氾濫は沃土を運び、いつでも藍が育つ豊かな土壌に流域を変えた。莫大な富を生み阿波国の経済を支える藍生産のため、藩はあえて川の水をあふれさせる「無堤防政策」を続けたのである。 吉野川中流、美馬市の舞中島地区は毎年のように吉野川の濁流にのまれ、ゆえに阿波国有数の藍産地となった。対岸の脇町は吉野川の水運も利用し阿波藍の集散地として栄える。災害を運ぶ一方、人力およばぬ恵みをもたらす川。背反する事象がそこに流れていることを人は知る。無堤防政策は暴れ川を前になすすべのない藩の「言い訳」だったとも語られるが、ただ無意味に無抵抗に自然災害を受け入れていたのではなさそうだ。
2023.06.30
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図書館で『疑史世界伝』という本を、手にしたのです。おお 清水義範さんのパスティーシュ短編集ではないか♪フェイクが混じるかもしれないが、軽く読み飛ばす分には許されるだろう♪・・・ということでチョイスしたのです。【疑史世界伝】清水義範著、集英社、2007年刊<「BOOK」データベース>よりソクラテスとオリンピックの意外な関係(「戦場のソクラテス」)、超スピードで語り尽くす中国三千年の歴史(「あわただ史記」前編・後編)、あの十字軍遠征をイスラム社会側から見てみると…?(「フランクが来た」)などなど、おもしろ世界史短編全19編。<読む前の大使寸評>おお 清水義範さんのパスティーシュ短編集ではないか♪フェイクが混じるかもしれないが、軽く読み飛ばす分には許されるだろう♪・・・ということでチョイスしたのです。rakuten疑史世界伝「中国三千年の歴史の後半」が語られているあたりを、見てみましょう。宋と金とに分裂して戦っていた時代の史記なんですが。p267~271<あわただ史記・後編> やれって言われりゃなんとかやってみるけれど、中国三千年の歴史の後半を、原稿用紙30枚にまとめるってのは暴挙だよなあ。前半では、唐が滅んだところまでを語った。それって10世紀の初頭のことだよ。そこからあと千年分を語らなきゃいけないのだよ。 千年を30枚ってことは、計算してみたら1年分を12字で書かなきゃいけないわけなんだが、やめよう、そんな計算をして愚痴をこぼしているからそれだけでもう10年分ぐらい使っちゃったじゃないか。 中国の歴史だけを語ろう。 さて黄巣の乱がきっかけとなって唐は907年に滅びたのだが、すぐさまそれに代わる大きな王朝が始まるわけではない。50年ばかりの間、華北では王朝が五つ入れ替わり、そしてそのほかには小国が十ばかり乱立した時代があったのだ。その50年あまりを、五代十国の時代、という。 華北の五つの王朝を順に並べると、後梁、後唐、後晋、後漢、後周である。地方政権である十国の名は省略しよう。とにかく、互いに戦いに明け暮れ、次々に王朝が入れ替わる争乱の時代だったのだ。 そうしてようやく960年になって、趙匡胤が後周を倒して、宋を建国したのである。趙は初代皇帝となり、太祖と呼ばれる。 宋の時代は、新しい社会システムが作られた時代である。宋は、唐などにくらべると、国を外に向かって広げていくだけの国力を持たず、かろうじて現状を守るのが精いっぱいという王朝だった。中国東北地方に遼(契丹)という別の王朝があったが、これを倒して全中国を平定することはできず、条約を結んで並立していたくらいだ。 しかし一方では、国内を整備し、学問を盛んにし、芸術も花開いた。三大発明として知られる火薬、羅針盤、印刷術の発明は宋代のものとされているのだ。 宋では、中央集権的な官僚の支配システムがつくられ、軍制も整備され、道路網も完備されていった。科挙の制度はますます重要なものになり、学校教育の初歩のものが始まったと言ってもいい。 芸術のほうを見れば、庭園の造営が盛んになり、絵画では、山水画や文人画が発達した。 だから宋は決して弱小王朝だったわけではない。日本の平清盛は大いに日宋貿易をしたぐらいである。 だが北方に悩みの種を抱えているのが宋であった。遼のほかに、ウイグル地方にも西夏という王朝ができたが、討伐することはできなかった。(中略) かつて5世紀に、五胡十六国時代の後、北に北魏、南に宋があって並行する時代があり、6世紀末に隋によって統一されるまで分裂していた頃を南北朝時代と言っていた。今、12世紀になって、北に金、南に南宋のある時代もまた、もうひとつの南北朝時代と言うべきかもしれない。 南宋は、宰相たちの時代である。それはつまり、皇帝たちの権力が弱かったということである。初代の高宗にしても、正式な譲位なしにどさくさにまぎれて帝位についているので、正当性に疑問を持たれていたのだ。そんな中で、なんとかふんばって南宋を成立させたのである。南宋のほうが米がよく稔る豊かな土地だったことが幸いしたのだ。
2024.11.24
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『漢字とアジア』という文庫本を読んでいるが、この本では思いの外、ハングルについて語られているわけで・・・ 『韓国が漢字を復活できない理由』という本を復刻して読み直してみようと、思い立ったのです。*********************************************************たとえ不自由はあろうとも「日本隠し」を続ける意地はすごいけど・・・隣国の民として「漢字・ハングル混じり文」だけは復活してほしいと思うのだ。豊田さんのこの本を読んで、切にそう思ったのです。【韓国が漢字を復活できない理由】豊田有恒著、祥伝社、2012年刊<「BOOK」データベースより>韓国はもともと漢字の国だった。中国への従属関係から公文書はすべて漢文であり、世宗王が創製したハングルは蔑まれ、知識階級が使うことはなかった。日本統治時代、日本製の漢語が大量に流入する。韓国で使われた漢字熟語の七、八割は和製漢語なのである。なぜ、韓国は、漢字を廃止したのか。その後、復活論がわき起こるたびに潰されてきたのはなぜか。韓国研究で名高い著者が、その深い謎に迫る。 <大使寸評>豊田有恒と言えばSF作家とばかり思っていたが、著者の著述分野の多彩さにまず驚いた次第です。この本も書店で衝動買いした1冊でおま♪(Amazon豊田有恒参照)Amazon韓国が漢字を復活できない理由内容の一部を紹介します。<李承晩大統領が出した「ハングル専用法」>p50~52 1945年8月15日、韓国で言う光復の日から、すでに67年、その間、韓国の漢字政策は、朝令暮改、試行錯誤の連続だった。 戦前の日本教育世代の多くの方々は、漢字・ハングル混じり文の効用を知っているから、日本語の言い換えと並行して、国語を再編成するに当って、漢字語の重要性を説いたが、李承晩大統領は、ハングル優先政策を採った。日本統治を逃れて、アメリカに亡命していた李大統領は、アメリカ人の夫人を伴い帰国し、大韓民国初代の大統領に任命されると時を同じくして、正式な建国の1948年に早くも「ハングル専用法」を公布し、公文書のハングル表記を命じた。「大韓民国の公文書はハングルで書くものとする。ただし、当分のあいだ必用な時には漢字を併用することができる。 付則、この法律は公布の日から実施する」 この「ハングル専用法」は、公文書のみを対象としたものだが、それでも漢字の併用を認めている。終戦後3年、韓国も大韓民国を称して独立したものの、いまだに言語そのものが、日本語の影響から逃れなかったのである。 李大統領は、日本漁船を拿捕するなど、反日をむき出しにした。ハングル政策も、その反日の一環だったのだが、必要な場合は漢字を併記することも認めざるをえなかった。やはり漢字抜きでは無理があると、考えたからであろう。 日本統治時代、植民地ではなく、併合していたのだから、国語といえば日本語だった。朝鮮総督府は、台湾でも同様だったが、日本語を国語とし、国語常用家庭を表彰するなど、日鮮一体化政策を遂行したが、必ずしも漢字・ハングル混じり文を、禁止したわけではなかった。慶応義塾に籍を置いたことのある筆者は、呼び捨てにしにくいので、あえて福沢諭吉先生と呼ばせてもらう。すでに併合以前、福沢諭吉先生は、王朝時代の漢文至上主義を批判し、みずからハングル活字を作らせ、漢字・ハングル併用を、推進しているほどである。こうした経緯については、のちほど詳しく説明する。 ただ、第二次世界大戦後、このことが仇となり、漢字・ハングル併用は、日本帝国主義の残滓のように誤解され、排斥の対象とされるようになった。その一方で、ハングルは、民族のシンボルの域にまで祭り上げられることになった。<朴正熙は、なぜ漢字追放に踏み切ったのか>p52~54 ここで、ハングル派の言い分にも、耳を傾けてみよう。たしかに、ハングル派の努力によって、ハングルは、韓国社会に定着している。韓国は、日本と同様、識字率の高い国だが、日本時代の初等教育の普及と、ハングル教育に負うところが少なくない。ハングル派の言い分は、要約すれば、漢字論者への反論である。「ハングルは、韓国語の表記に適している。また、文字の機械化にも適している。それにもかかわらず、せっかく定着しているハングルに、漢字表記を加えることは、歴史の歯車を元に戻すようなものである」と、言うのだ。 これに対して、漢字混用論者は、こう主張する。まるで人体実験のように、韓国語の70%を占める漢字語を排斥した結果、相当数の教養欠落者を出した。教育効果を増進する漢字を、ただちに復活すべきである。 その後も、折に触れて、日本時代の教養を有する知識人たちは、ハングル至上主義による知識、教養の低下を憂え、漢字復活を建議し続けた。中には、漢字復活を訴え、ハングル至上の国粋派の指弾を受けて、大学の職を追われた教授すらあった。 韓国中興の祖とされる朴正熙大統領は、いわゆる第三共和国の一時期(1968~72年)、教育カリキュラムから、漢字を追放した。大邸師範学校を卒業した朴大統領自身は、必ずしもハングル至上主義ではなかったのだが、日本統治時代に奨励された漢字・ハングル混じり文が、いわゆる日帝のシンボルとして槍玉に挙げられたのである。 朴大統領は、日本の軍歴を持ち、日本寄りと見做されることも少なくなかった。朴大統領は、国民の大反対を押し切って、日韓基本条約を締結した。国民のポピュリズムに迎合しない姿勢は、高く評価されるべきだが、その代償のように漢字がスケープゴートにされたわけである。
2024.08.25
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<『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』3>図書館で『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、おお「アラビアのロレンス」にも触れているではないか・・・これが借りる決め手になったのです。【サイクス=ピコ協定 百年の呪縛】池内恵著、新潮社、2016年刊<「BOOK」データベース>より百年前の「秘密協定」は、本当に諸悪の根源なのか?いまや中東の地は、ヨーロッパへ世界へと難民、テロを拡散する「蓋のないパンドラの箱」と化している。1916年、英・仏の協定によって地図の上に無理やり引かれた国境線こそが、その混乱を運命づけたとする説が今日では専らだ。しかし、中東の歴史と現実、複雑な国家間の関係を深く知らなければ、決して正解には至れない。危機の本質を捉える緊急出版!<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、おお「アラビアのロレンス」にも触れているではないか・・・これがかりる決め手になったのです。rakutenサイクス=ピコ協定 百年の呪縛協定区域地図の上に無理やり引かれた国境線こそが諸悪の根源だともっぱら言われるが、果して?p19~21<第1章 サイクス=ピコ協定とは何だったのか>■分かった気にさせるマジックワード「結局、サイクス=ピコ協定が諸悪の根源だ」 近頃、こういったフレーズをよく聞くようになった。中東の混迷の原因は何なのか。一帯誰が悪いのか。誰もが自然に思い浮かべる素朴な義憤に、単純明快な答えを見つけたような気にさせてくれる万能のマジックワードが「サイクス=ピコ協定」である。 要するに、中東の混乱の原因は、イギリスとフランスが、サイクス=ピコ協定によってアラブ世界に不自然な国境線を引いたからである。だからシリアやイラクなど、民族や宗派が違う人々が同じ国に住まされて、まとまりがなく、争いが絶えないのである…云々。にわか仕込みのテレビ・コメンテーターなどが急にこの言葉を用いるようになった。 確かに、こう言ってしまいたくなる気持ちは分かる。「アラブの春」以来、中東情勢の混迷は一向に収束する気配がない。「イスラーム国」が行なって誇示する処刑やテロなどの蛮行の数々は、一般的な感覚からは到底理解が不可能だろう。何か一つのキーワードで「要するに…」と大雑把にまとめてしまってスッキリしたい、という気持ちは分からないでもない。 そして、実際に「サイクス=ピコ協定」は重要な文書である。現在の中東の成り立ちの、ある根本的な部分を基礎づけている。確かにサイクス=ピコ協定は「悪い」。帝国主義・植民地主義の時代にイギリスやフランスやロシアなど「西欧列強」が、そして冷戦時代はアメリカとソビエト連邦など超大国が、中東に介入し、影響力を競ったことで、どれだけ大きな混乱が、戦争の惨禍が、中東を襲ってきたことか。 しかし同時に、「サイクス=ピコ協定が悪い」と言っているだけでは、現実を理解するという意味でも、将来を見通すという意味でも、そして解決策を見出すという意味でも、先に進めない。 これは東アジアに置き換えて考えてみれば少し分かりやすくなるかもしれない。例えば、北朝鮮の核兵器・ミサイル開発の問題について、「そもそも日本が朝鮮半島で帝国主義・植民地支配をしたから悪い」とだけ言い続ければどうなるだろうか。日本が植民地支配をした挙句、太平洋戦争で敗れて朝鮮半島から撤退したから、朝鮮半島は米ソ冷戦の最前線となって、南北に国家は分断された。 いつ戦争が再開されてもおかしくない緊張状態が続き、北朝鮮は独裁化し、核兵器やミサイルを開発して威嚇する。悪いのは日本の植民地支配だ…と主張したら、どうだろうか。確かに、日本が朝鮮半島を併合して支配していなければ、朝鮮半島は今のような状態にはなっていないかもしれない。おそらく、現在の朝鮮半島の政治情勢に、日本のかつての植民地支配は、多くの日本人が現在意識しているよりももっと大きく影響を及ぼしているだろう。 しかし植民地主義の時代から現代までの間には長い時間が経っており、その間の、より大きな影響を与えた多くの出来事が生じている。もし日本による統治の時代がなければ、もちろん朝鮮半島の歴史は大きく変わっていただろうが、日本の統治下に入る以外の可能性がどれだけあったかとというところが定かでなく、しかも別の可能性がよりましなものであったとも言えない。ロシアや中国に併合されて、現在独立国でいることができなかったかもしれない。それを現在の南北朝鮮の国民の感覚からは、到底受け入れられないだろう。 さらに言えば、現在の朝鮮半島の国家や国際関係が抱える問題に日本が責任がある、ということであれば、「日本が責任を取ってもう一度朝鮮半島に介入して今度はきちんと問題を解決するべきだ」ということにもなりかねない。もちろん、そんなことを現在の日本で本気で主張して実行しようとする人は皆無に近いだろうし、朝鮮半島の民族も決して求めないことだろう。 同じように、「結局、サイクス=ピコ協定が悪いのだ」という議論も、中東の歴史を方向づけた非常に重要な歴史の事象に触れているのだが、それだけでは現在の中東を読み解き、将来を展望するのに十分ではない。『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』1:アラビアのロレンス『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』2:20世紀は難民の世紀
2017.11.29
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サン=テグジュペリがいいというか・・・砂漠と飛行機という取り合わせが好きなわけです。「サン=テクジュペリ 伝説の愛」という本を図書館で借りたこの際、サン=テグジュペリについて、集めてみました。・星の王子さまへの旅・Le Petit Prince・砂漠で渇きを癒す井戸・サン=テクジュペリ 伝説の愛 <星の王子さまへの旅>「星の王子さまへの旅」という素敵な本を図書館で借りて読んでいるが・・・西サハラのカップジュビーという辺鄙な町で、27歳のサン=テクジュペリは飛行場長として1年半暮らしたそうです。この本のp140~156から抜粋して紹介します。 彼がサン=テクジュペリと交流があったのは11歳の頃のことだ。最初は彼の記憶が信用できるものかどうか不安もあったが、老人の確かな受け答えに、信用に足るものだという確信が湧いてきた。「アントワーヌ・サン=テクジュペリ。勿論覚えているさ。彼はとっても上手なパイロットだった。昼間は空の上を飛んでいて、夜になると着陸する。だから、私たち砂漠の人間は彼を“夜のパイロット”と呼んでいた」老人は記憶の糸を手繰り寄せながら、ひとつひとつサン=テクジュペリの思い出を語っていく。「よく、村人を飛行機に乗せて村の上を旋回してくれた。私も乗せてもらったことがある。それで、私も彼に憧れて、大人になってからカナリア諸島の飛行場に勤めることにしたんだ」時間が言葉とともに、ゆっくり逆行していくのを感ずる。「あるとき、村人を乗せて砂漠に不時着したことがあった。彼は壊れた飛行機を修理して何とか戻ってきた。一緒にいた村人はスペインの執政官に言った『この人は偉大な人だ!砂漠の真ん中でたいした工具もないのに飛行機を直してしまったんだ』とね。飛行機はブレゲだった。忘れるもんかね」老人は一息つくと、空を仰いだ。「あの人は常に“神”に守られているようだった。“神に守られた男”それがサン=テクジュペリだった」 老人は最後にゆっくりと言葉を噛みしめるようにそう言った。 サン=テクジュペリは、ここで自分の殻に閉じこもるのではなく、進んで先住民と交流し、伝統や風習を理解しようと努めた。砂漠をただの空虚なものとして拒絶するのではなく、ひとつの世界として知ろうとした。そしてその砂漠から物語を聞きだそうとしたのだった。 渦巻く風が砂を巻き上げ、砂丘に風紋を描き出す。沈みかけた太陽から伸びる陽光が舞い上がる砂の粒子を、キラキラと輝かせる。モニターに映し出される映像はとてつもなく美しい。しかし、それとは裏腹に、渦巻く砂と風の中に身を置き撮影している僕たちは泣きそうだった。砂は靴のなかにも、衣類のわずかな隙間からも容赦なく侵入し、素肌に違和感を与える。瞼は瞬きするたびにゴリゴリと音を立て、鼻にも耳にも髪の毛の間にも砂がたまっていく。砂除けにと撮影機材に被せたビニールも、ほとんどその役目を果たさない。風がひと吹きするたびに気温が下がっていく。砂漠がその本当の姿を見せ始めたのだ。「あっちの風紋がきれいだ!」「いや、こっちのほうが光がいい!」 僕たちは大声を出し、砂丘を登り降りし、砂まみれになりながら撮影を続ける。ワンカット、ツーカット―、カットが積み重なっていくうちに、全身に降りかかってくる砂も、下がっていく気温も気にならなくなってきた。シャルレーのカメラも的確に砂漠の表情を捕らえていく。どうやら、やっと僕たちは砂漠のルールを認識したらしい。 海と砂漠が重なり合う、この一見不毛と思われる土地で、サン=テクジュペリは砂漠に分け入り、そこに生きる人間たちと触れ合うことで、豊な稔りを手にした。責任とは・・・。愛とは・・・。人間が人間であるための誇りとは・・・。作家として書き続ける主題は、この土地で彼の心に宿ったのだ。そして、その主題の源泉こそが、砂漠に潜んでいる目には見えない井戸だったのだ。 激しさを増し、世界中を包み込む戦火のなかで、子供たちに向かって物語を紡ごうとした時、彼の心はこのサハラ砂漠に戻って行ったのだ。意識のなかで、もう一度、砂漠に潜む井戸を探すために。その井戸が何であるかを子供たちに託すために・・・・。だからサン=テクジュペリは、王子さまの舞台を砂漠にしたんだ。 王子さまの物語に登場する、王様、うぬぼれ男、呑み助、実業家、地理学者、点灯夫―といった色々な星の住人、地球で出会う転轍夫、薬売り、そして大切なことを教えてくれるキツネ、最後に王子さまを星に帰してくれるヘビ・・・。それから何よりも、王子さまが星に残してきたバラの花。考えてみればこれらはみな、サン=テクジュペリが空の上から見つめ、時の流れのなかで瞑想することで見つけた、地球という遊星に暮らす人間たちの姿だったのである。【星の王子さまへの旅】狩野喜彦著、東京書籍、2002年刊<「BOOK」データベース>より空に消えたサン=テグジュペリは最期に何を見、何を伝えようとしたのか。青春時代のフランスからスペイン、そして名作を生んだ北アフリカへ、「空に生きた作家」の足跡を追い、3500キロにわたる空の旅と現地の取材によって辿られた、まったく新しい「星の王子さま」誕生への道。 <大使寸評>ヘリコプターに乗って、サン=テグジュペリが通った北アフリカの航路をたどる内容がわりとハードボイルドであり、上空からのカサブランカの写真もあったりで・・・・砂漠のカラー写真がきれいです。辛かったサウジの仕事を思い出すぜ♪北アフリカの砂漠、それにパイロットというサン=テグジュペリの経歴がロマンティックですね。Amazon星の王子さまへの旅 <Le Petit Prince>Le Petit Princeという本が積読状態であるが・・・暇になったので、フランス語の復習にもなることだし、読んでみたいと思っているが、いつになるやら。【Le Petit Prince】Antoine De Saint-Exupery著、HEINEMANN EDUCATIONAL、1968年刊<「BOOK」データベースより>ふるさとの星を出発した星の王子さまは、命令好きの王さまの星や、うぬぼれ男の星などを旅します。最後に地球にやってきて、サハラ砂漠で飛行機を修理中のパイロットに出会います。心をとらえて離さない不思議な物語。 <大使寸評>私が買ったのはHEINEMANN EDUCATIONAL社(英国)のハードカバーであるが、さすがにこの本はアマゾンで出なかったので、アマゾンのMariner Books社の情報を載せました。AmazonLe Petit Prince <砂漠で渇きを癒す井戸>「星の王子さま」という本のメインテーマは「砂漠で渇きを癒す井戸」ではないかと思うわけです。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリよりアントワーヌにとって空を飛ぶことは水を飲むことと同じことでした。墜落という危険が伴うことを除いては。それはちょうど20世紀という砂漠で渇きを癒す井戸であったかのように。実際、彼は幾度も墜落し、そして墜落することで、星の王子さまと本当に出会うことになったのです。王子さまも星から墜落してきた男の子でした。彼は試乗しなかった飛行機がなかったほどの飛行機好きでした。飛行機は何万年もの間、地上に縛り付けられてきた人間を解放し、アントワーヌを時代から解放しもしたのでした。本当は墜落の人だったのです。奇しくも墜落することで彼は自分の人生を救い出していたのです。そして彼の墜落は僕たちの人生をも救い出すことになったのです。.............レオン・ウェルトからの手紙 しかし、このサイトの拘り、充実ぶりがすごいですね。 <サン=テクジュペリ 伝説の愛> この本『サン=テクジュペリ 伝説の愛』から引用します。「サン=テクジュペリは自分で『庭師』になるのが向いていると認めていた。普遍的な子ども時代の輪郭を永遠に伝え、花となった女性のシルエットを私たちにまで愛させた魂の庭師。その女性はこの本の各ページにわたって類いまれな存在感を示している」【サン=テクジュペリ 伝説の愛】アラン・ヴィルコンドレ著、岩波書店、2006年刊<「MARC」データベース>より「星の王子さま」の作者には、エキゾチックで不思議な魅力を持つ妻コンスエロがいた。彼女の手記のほか、2人が交わした山のような手紙、写真、デッサンなど、誰も知らなかった過去を物語る数々の遺品をまとめた一冊。 <大使寸評>まさにサン=テクジュペリの世界という本になっている。よくこれだけの資料を集めたものです。パイロットで詩人、更に美しい妻が加わるのか♪「南方郵便機」で行った異国の地アルゼンチンで、砂漠のバラともいえる女性(当時は未亡人)が現れたのです。・・・彼女が亡命先のニューヨークから持ち帰った大型トランク。2000年に初めて開けられると中には、手紙、写真、デッサンなど数々の遺品がつまっていた。amazonサン=テクジュペリ 伝説の愛
2013.08.04
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図書館で『古代東アジアと文字文化』という本を手にしたが・・・・大使積年の研究テーマといえば聞えはいいが、関心事といえるのが「漢字文化圏」でおま♪・・・ということで借りたのです。【古代東アジアと文字文化】小倉慈司著、同成社、2016年刊<「BOOK」データベース>より中国で生まれた漢字は、どのように東アジア世界に広がり受容されていったのか。文字文化伝播のありようを、政治や呪術、食文化など多様な切り口から描き出す。【目次】漢字文化と渡来人ー倭国の漢字文化の担い手を探る/中国秦漢・魏晋南北朝期の出土文字資料と東アジア/古代韓国の木簡文化と日本木簡の起源/古代の「村」は生きている/文字がつなぐ古代東アジアの宗教と呪術/正倉院文書の世界ー公文と帳簿/沈没船木簡からみる高麗の社会と文化/資料からみた日本列島と朝鮮半島のつながり<読む前の大使寸評>大使積年の研究テーマといえば聞えはいいが、関心事といえるのが「漢字文化圏」でおま♪・・・ということで借りたのです。rakuten古代東アジアと文字文化紙の伝来あたりを見てみましょう。<平安貴族が用いた高麗の紙>よりp185~188 大宝2年(702)の遣唐使以降、中国文化の直接摂取が始まる。それによって日本の漢字文化に与える朝鮮半島の比重は以前に比べ弱まったが、かといって皆無になったわけではない。新羅仏教が8世紀の日本仏教に与えた影響は大変大きく、新羅の高僧元暁は仏教界のみならず日本の文化人にとっても忘れられない存在であった。正倉院宝物のなかにも新羅との交易によってもたらされた物品が多く含まれていることが明らかになっているし、9世紀の東アジア交易において新羅商人が果たした役割は高く評価されねばならないであろう。 以上のように、朝鮮半島との文字文化交流を物語る資料には事欠かないが、紙数にも限りがあるので、ここでは平安貴族文化に与えた朝鮮半島文字文化の影響の一こまを紹介することにしたい。 平安時代の日本文学を代表する物語として『源氏物語』がある。これはもちろん紫式部による創作であるが、そこには当時の宮中の様子が豊かに描き出されている。源氏物語 全54帖のうちの32番目梅枝巻では光源氏の一人娘である明石の姫君の着掌(女子の成年儀礼)、そして東宮(皇太子)への輿入れの準備の様子が描かれる。婚礼調度の一つとして準備される草紙の書写を諸方面に依頼するために、光源氏は最高級の墨や筆、そして紙を選んだ。そして「高麗の紙の薄様だちたるが、せめてなまめかしき」として、息子の宰相中将(夕霧)や紫上の父式部卿宮の子息である兵衛督、内大臣の子息である頭中将(柏木)ら青年貴族に、葦手(水草など絵の中に文字を書き込んだもの)や歌絵を思い思いに描くよう命じる。朝鮮半島の薄くて優美な紙を渡したということであろう。 同じ巻のなかでは「唐の紙」と「高麗の紙」「ここの紙屋の色紙」とがそれに記された書体とともに対比的に記されている。それによれば、「唐の紙」はこわばっている堅い紙であり、やや硬めで一字一字の独立性の高い草書体を記すのがふさわしかった。これに対し「高麗の紙」はきめが細かくやわらかな雰囲気で、色は派手ではなく優美な感があり、おっとりした連綿体の仮名を整えて心を配って記してあるのが、たとえようもなくすばらしいという。 さらに「ここ(日本)の紙屋の色紙」は色合いが華やかで、自由闊達な草書体を筆にまかせて乱れ書いたのが、見どころ限りないという。なお、『源氏物語』の明石巻では「高麗の胡桃色の紙」も登場する。 東アジア世界において紙は交易品の一つであった。豊富な原材料を背景とした質の高い和紙は、中国や朝鮮半島でも高い評価を受けていたが、一方で、日本にも中国や朝鮮半島から紙が輸入され、記す内容に応じた使い分けがなされていたのである。「漢字文化圏」への惚れこみについては、「漢字文化圏の成り立ちについて」でも、述べているので、ご参照あれ♪『古代東アジアと文字文化』1
2016.05.18
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図書館で『実録アヘン戦争』という新書を、手にしたのです。かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。【実録アヘン戦争】陳舜臣著、中央公論新社、1971年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データ無し<読む前の大使寸評>かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。amazon実録アヘン戦争東インド会社の退潮を、見てみましょう。p66~69<選手交替> イギリスの対中国貿易は、東インド会社に独占権が与えられていた。その免許状は20年ごとに切りかえられる。1834年が免許状切りかえの年にあたっていたが、1832年のイギリス国会は、免許状の期限の延長を認めないという決議をした。 長いあいだ対中国貿易を独占してきた東インド会社が、舞台から退場するのである。 それにはいろんな理由があった。 まず産業革命後に起こった産業都市の市民が、選挙権を獲得したことが挙げられるだろう。それまでは、十ポンド以上の税金を納めている「家持ち」だけが、世襲的に選挙権をもっていた。それが改正されたことは、貴族時代が終わって、商工市民の時代を迎えたことを意味する。 世襲と保守と領地の時代はすぎて、自由と進取と工場の時代が、それにとってかわった。新興商工市民は、対外貿易についても自由競争を主張した。彼らにとっては、独占権などもってのほかのことだったのだ。 つぎに、東インド会社の対中国貿易が、きわめて非能率的なものになっていたことも、免許状取消しの大きな理由になった。 東インド会社の商船は千二百トンから千三百トンで、一航海で広州においてあげる純益が、米ドルにして平均三万ドルから四万ドルにすぎない。ところが、アメリカの商人は、平均僅か三百五十トンという小型商船を操って、毎船四万ドルから六万ドルの純益をあげていた。 東インド会社は官僚化して、小回りがきかず、「親方日の丸」的になるのであろう。アメリカ商人の場合は、利益のあるところには、ためらわずに突っ込んだ。彼らはアメリカの農産物をヨーロッパにはこんで、スペイン銀貨に換え、インドからアヘンをマカオへ運搬し、広州で中国の茶葉や絹を仕入れて帰米した。 イギリスの商人がアメリカの商人に劣るとは考えられない。それは機構の差による。とすれば、ここは特許会社の独占を廃して、商人の自由競争にまかせたほうがよいのではあるまいか。・・・イギリス国会の1832年の決議は、そのような判断を背景にしていたのである。 東インド会社が独占していたといっても、プライベート・トレイダー(個人貿易商)と呼ばれる連中が、その下請けのようなかたちで、対中国貿易にかなり活躍していた。ジャーディン・マセソン商会やデント商会などは、その代表的な商社だった。 東インド会社は広州に特派委員を出していて、清国側ではそれを「大班」と呼んでいた。会社が対中国貿易の舞台からひきさがれば、このような会社の代表者もいなくなるわけだ。しかし、貿易の指導や監督をする仕事はなくならない。それどころか、かえって強化する必要があった。なにしろ大資本とがっちりした機構をもった東インド会社のかわりに、資本も組織も弱いプライベート・トレイダーばかりになるのだから。 そこでイギリス政府は、新たに駐清商務監督の職を設けることになった。領事のことである。会社の代表の代わりに、政府の代表が広州に派遣されることになったわけだ。 これはたんなる交替ではない。 大班は会社が派遣した社員にすぎないが、商務監督はいやしくも国家を代表する正式の官吏なのだ。女王陛下の官吏は、それ相応の処遇を受けねばならない。 初代商務監督はウィリアム・ジョン・ネーピアであった。47歳。海軍大佐。サーの称号を持つ。 しかしながら、清国側にすれば、東インド会社であろうが大英帝国であろうが、そんな選手交替は、こちらの知ったことではないのである。「世界史の窓」というサイトで、ジャーディン=マセソン商会について見てみました。ジャーディン=マセソン商会より 1832年、広州で設立されたイギリスの貿易商社。アヘン貿易などで大きな利益をあげた。 中国では怡和洋行(いわようこう)という。1832年に広州(の近くのマカオ)で、スコットランド人のW.ジャーディンとJ.マセソンが設立したイギリスの貿易商社で、茶や生糸の買い付け、アヘンの密貿易などに従事し、いわゆる三角貿易で大きな利益を得た。 1834年に東インド会社の中国貿易独占権廃止によって、民間の商社として急速に活動範囲を広げ、船舶を所有して運輸業を行い、建設や銀行業にも進出した。 アヘン戦争の最中に、当時ほぼ無人島だった香港に本店を移転し(香港で認可された最初の外国商社となった)、さらに上海にも支店を開いて大陸に進出(上海租界で最初に土地を取得し、建物を建てた。1920年に改築された同社ビルは現在も残っている)、清朝政府に対して借款を行うまでになった。 その後、中華民国となってからも鉄道の敷設権や営業権を得て、深くその経済に関わった。中華人民共和国成立後は活動を香港だけに限定していたが、中国の改革開放以降は本土との取引を再開し、現在でも活発な貿易、金融活動、ホテル経営などを展開している。【Episode 幕末日本でも活動】 ジャーディン=マセソン商会は横浜にも支店を出し(日本で活動した外国資本の最初。その商館は山下町の現在のシルクセンターのところにあって「英一番館」と言われていた)、幕末の日本でも活動した。1863年、長州藩が井上聞多、伊藤博文らをロンドンに留学させたときはそれを支援した。坂本竜馬もジャーディン=マセソン商会から支援を受けている。長州藩など討幕派に協力する一方、幕府に対してアームストロング砲などの武器を提供し、利益を上げている。 19世紀から現代に至るイギリス商人の代表的な存在であり、大英帝国の典型的な「尖兵」的商社だったといえる。この本も陳舜臣アンソロジーR7に収めておくものとします。『実録アヘン戦争』1:貿易品としての茶とアヘン
2018.07.28
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<『アシェンデン』1>図書館に予約していた『アシェンデン』という本を、待つこと2日で超速ゲットしたのです。諜報員としての経歴を持つモームの描くスパイ小説とは如何なるものか・・・期待できそうである。【アシェンデン】サマセット モーム著、新潮社、2017年刊<「BOOK」データベース>より時はロシア革命と第一次大戦の最中。英国のスパイであるアシェンデンは上司Rからの密命を帯び、中立国スイスを拠点としてヨーロッパ各国を渡り歩いている。一癖も二癖もあるメキシコやギリシア、インドなどの諜報員や工作員と接触しつつアシェンデンが目撃した、愛と裏切りと革命の日々。そしてその果てにある人間の真実―。諜報員として活躍したモームによるスパイ小説の先駆にして金字塔。Star Classics名作新訳コレクション。<読む前の大使寸評>諜報員としての経歴を持つモームの描くスパイ小説とは如何なるものか・・・期待できそうである。<図書館予約:(10/22予約、10/24受取)>amazonアシェンデンこの小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p58~60<第3章 ミス・キング> しかしそのとき、ヒギンズ男爵夫人が夕食を終え、ハンカチとハンドバックを手にすると、両側にいたウェイターがおじぎをするなか、広い部屋をこちらに歩いてきて、アシェンデンのテーブルの前で立ち止まった。いかにも堂々としている。 「うれしいわ。今夜、一緒にブリッジをしてくださるんですってね」夫人がドイツ語の訛りのまったくない完璧な英語でいった。「ご用意ができたら、わたしの部屋でコーヒーでも召しあがってください」 「素敵なドレスですね」 「ひどい代物よ。着る物がないんですもの。パリにいけなくなって、どうしようかと思っているところなの。ほんとに、ドイツ人ったら」声が高くなると、rの発音がドイツ語風になる。「わたしの国をこんなひどい戦争に引きずりこんだりして」 男爵夫人はため息をつくと、まぶしい笑みを浮かべて立ち去った。アシェンデンは最後のほうまで残っていたので、ダイニングルームを出るときには、ほとんど人はいなかった。アシェンデンはとてもいいい気分だったので、そばを通りかかったとき、ホルツミンデン伯爵にこっそりウィンクをしてみた。ドイツ側についている伯爵は気がつかなかったかもしれないが、もし気がついていたら、いったいどんな陰謀が隠されているのか頭を悩ましただろう。アシェンデンは三階までいくと、男爵夫人の部屋のドアをノックした。 「どうぞ」夫人はフランス語で答えてドアを開けた。 夫人は親しげにアシェンデンの両手を握り、部屋に招き入れた。ブリッジをするほかのふたりはすでに到着していた。アリ王子と秘書だ。アシェンデンは驚いた。 「殿下、アシェンデンさんです」夫人は流ちょうなフランス語で紹介した。アシェンデンは会釈をして、差し出された手を握った。王子はアシェンデンをちらっとみたが、何もいわなかった。ヒギンズ男爵夫人は続けた。 「パシャ・ムスタファとお会いになったことは?」 「お目にかかれてうれしく思います、アシェンデンさん」王子の秘書はそういいながら、力をこめてアシェンデンの手を握った。この本もモームあれこれに収めておくものとします。
2018.11.06
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図書館で『短編小説より愛をこめて』という本を借りて読んだのだが・・・阿刀田さんが、いかに短編小説を愛でているかよくわかります。阿刀田さんはダールの「女主人」という怖い短編小説にめぐりあったが、大使も図書館でダールの絵本に偶然めぐりあったのです。(手当り次第という大使の方法もたまには大当たりするのです)・・・ということで、ダールについて集めてみました。・『飛行士たちの話』・『物語の旅』4・『The ROALD DAHL Treasury』・『キス・キス』・『短編小説より愛をこめて』R1:『飛行士たちの話』を追加<『飛行士たちの話』1>図書館に予約していた『飛行士たちの話』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。この短編小説集のなかでは、『あなたに似た人』が載っているそうで・・・狙い目でおます。【飛行士たちの話】ロアルド・ダール著、早川書房、1981年刊<商品の説明>より飛行士たちの話 (ハヤカワ・ミステリ文庫 22-2) [文庫] ロアルド・ダール (著), Roald Dahl (原著), 永井 淳 (翻訳) 出版社: 早川書房 (1981/7/31)<読む前の大使寸評>この短編小説集のなかでは、『あなたに似た人』が載っているそうで・・・狙い目でおます。<図書館予約:(11/05予約、11/09受取)>amazon飛行士たちの話 『飛行士たちの話』1:あなたに似た人『飛行士たちの話』2:スピットファイア機<『物語の旅』4>図書館で『物語の旅』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、和田さんのカラー挿絵がええでぇ♪この挿絵のために紙質を選んだと思われるが、この本を持つとずっしりと重たいことに驚いたのです。54作品のうちロアルド・ダールの「南から来た男」を、見てみましょう。p142~144<南から来た男> とにかくダールはぼくの好きな作家の一人である。学生時代に雑誌で短篇の一つか二つは読んでいたのだが、卒業してまもなく早川書房から「異色作家短篇集」の第1弾として出た「キス・キス」を読んだのが、ダールを認識する第一歩だった。 ダールのような作風をジャンル分けすると、「奇妙な味」ということになる。犯罪ものであっても、通常なら犯人が捕まって解決するところを、誰も犯人に気がつかない、という終わり方になり、それまで読んでいたものとは確かに異なる味だった。(長くなるので省略、全文はここ)【物語の旅】和田誠著、フレーベル館 、2002年刊<「BOOK」データベース>より書物の国からの絵はがき。著者が選んだ54作品。カラー挿絵とともに四方山ばなし満載!子どもの頃に初めて読んだ「かちかち山」から現在に至るまでの“読書体験”の数々。本好き・装丁好きの著者がその思い出をふり返る。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、和田さんのカラー挿絵がええでぇ♪この挿絵のために紙質を選んだと思われるが、この本を持つとずっしりと重たいことに驚いたのです。amazon物語の旅【The ROALD DAHL Treasury】ロールド・ダール著、Puffin、1997年刊<カスタマーレビュー>よりこどもの本とくにロールドダールの本を多読したい大人向きです。英語はやさしくて、どのお話も短いので、ひとつひとつ読み進むと、読み応えがあります。挿絵もとってもかわいくて、いいですよ! 洋書を試したい初心者の大人の方にお勧めします。<読む前の大使寸評>この本は絵本でもあるわけで・・・当然、カラーの挿絵が満載で、見るだけでも楽しい本になっています。amazonThe ROALD DAHL Treasury『The ROALD DAHL Treasury』3:Survival『The ROALD DAHL Treasury』2:「The Enormous Crocodile」『The ROALD DAHL Treasury』1:「The Owl and the Pussy-Cat」【キス・キス】ロアルド・ダール著、早川書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より予期せぬ出来事が日常の扉を開きあなたをさり気なく訪れる。<読む前の大使寸評>ロアルド・ダール著の短篇小説集であるが、阿刀田高さんが推薦していたので図書館に予約していたのです。巻末に阿刀田高さんの解説が載っていて、解説自体が面白い読み物になっています。<図書館予約:(5/08予約、5/12受取)>amazonキス・キス『キス・キス』1:阿刀田高さんの解説【短編小説より愛をこめて】阿刀田高著、新潮社、2008年刊<「BOOK」データベース>より読書はすばらしい。何より楽しい。安価で、どこでもいつでも一人で楽しめる。なかでも、読者に時間をとらせず負担をかけない短編は、「礼儀正しい文学である」。著者は作家デビューから30余年、手がけた短編は800編を超える、自他共に認める短編のスペシャリスト。「心中してもいい」とまで言う短編ファンによる、愛のこもったエッセイ集。“私の愛した短編小説20”を収録。<読む前の大使寸評>“私の愛した短編小説20”というリストがええでぇ♪もちろん、ダールの「女主人」もリストアップされています。なお、借りたのは2006年刊のハードカバーでした。rakuten短編小説より愛をこめて阿刀田高さんが『陽気なイエスタデイ』2でロアルド・ダールの短編小説の魅力を語っています。
2018.11.13
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<『えんとつ町のプペル』1>図書館で『えんとつ町のプペル』という本を、手にしたのです。おお 一時期探していた絵本ではないか・・・ということで、即借りたのでおます。【えんとつ町のプペル】西野亮廣著、幻冬舎、2016年刊<商品の説明>よりペン一本で描いたモノクロ絵本で世界を圧倒したキンコン西野が、業界の常識を覆す完全分業制によるオールカラー絵本!「信じぬくんだ。たとえひとりになっても。」<読む前の大使寸評>おお 一時期探していた絵本ではないか・・・ということで、即借りたのでおます。rakutenえんとつ町のプペルネットで著者:キンコン西野の大サービスを見つけたので、紹介します。大ヒット中の絵本『えんとつ町のプペル』を全ページ無料公開します(キンコン西野)より「ねえ、プぺル、『ホシ』って知ってるかい?」「ホシ?」「この町は煙でおおわれているだろ? だからぼくらには、みることができないけど、あの煙のうえには『ホシ』と呼ばれる、光りかがやく石っころが浮かんでるんだ。それも一個や二個じゃないよ。千個、一万個、もっともっと」「そんなバカなはなしがあるもんか。ウソっぱちだろ?」「……ぼくの父ちゃんが、その『ホシ』をみたんだ。とおくの海にでたときにね、ある場所で、頭のうえの煙がなくなって、そこには光りかがやく『ホシ』がたくさん浮かんでいたんだって。町のひとはだれも信じなくて、父ちゃんはうそつき呼ばわりされたまま死んじゃったんだ。でも、父ちゃんは『煙のうえにはホシがある』っていってね、西野亮廣さんの「えんとつの町」であるが・・・『ブレードランナー』で観た酸性雨けむるロサンゼルスを彷彿とするわけです。また、松本大洋「鉄コン筋クリート」で観た宝町に似てなくもないのですこのように大使の場合は、画像、映像つながりで輪が広がっていくのでおます。
2018.11.16
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図書館で『歴史の中で語られてこなかったこと』という新書を手にしたのです。おお、「もののけ姫」のエボシ御前の正体ってか・・・これは読むしかないだろう♪【歴史の中で語られてこなかったこと】網野善彦×宮田登著、洋泉社、1998年刊<「MARC」データベース>より名作アニメ映画「もののけ姫」のエボシ御前の正体は? 女が支えた養蚕と織物の歴史の意外な事実、自由主義史観・教科諸問題まで、歴史学と民俗学の両雄が描く「列島社会」の歴史の深層。98年刊の単行本を新書化。<読む前の大使寸評>おお、「もののけ姫」のエボシ御前の正体ってか・・・これは読むしかないだろう♪amazon歴史の中で語られてこなかったことアジールという観点で『もののけ姫』を、見てみましょう。p16~19<タタラ集団・巫女・エボシ御前> 網野:ともかく、宮崎さんないしその周辺のプロデューサーの鈴木敏夫さんなどが非常によく勉強して、その成果の上に先ほど宮田さんがおっしゃったようなイメージで、つまり平地を切り捨て、山地や森に舞台を設定した。さらに「山地のアジール」と、タタラ場の都市のアジールとを対立させることになっています。意識的にこうした場面を設定したらしいですね。宮田:タタラ集団の所在地は山中で、砂鉄や鉄鉱石の鉱脈がなければいけない。そういった場所に都市を建設することが可能な立地条件だとすると、湖の畔しかない。網野:もちろんこの映画は創作で、あんなに多くの女性集団が山の中にいることはちょっと考えられないですね。宮田:それも女房中心でしたね。網野:ただ、タタラ場の周辺には女性がたくさんいることもあり得ると思いますね。今も掘ってますが、現在の島根県にある石見銀山の周辺には鉱山町ができて都市が形成されています。慶長ごろ(16世紀末~17世紀初頭)の院内銀山(秋田県)には傾城(遊女)や鍛治屋やたばこ屋の集住する町ができあがっていましたから、これはまったくあり得ない話ではありません。ただ、女性だけでタタラを踏むことはないでしょうね。宮田:タタラの集団や鍛治屋の信仰は、大分県の国東半島にある宇佐八幡信仰の源に当たるらしい。国東半島には「六郷満山」の修験道が入っていて、その周辺の山民集団は仁聞菩薩を崇拝していた。その仁聞菩薩の縁起を見ていくと、最初は女性神なんです。その女神に仕える巫女は、朝鮮半島との関係からシャーマンとして位置づけられていた。八幡はヤハタとも読みますが、朝鮮半島との関係で出てくる外来集団を指しています。 彼らは六郷満山のような山岳を支配し、そのトップにシャーマン的な女性を置き、その下に鍛治の翁がいる。翁はもちろん男性で、それを原型とした修験者が集まり、天台系の寺院を造っている。神仏混交の世界を基本に、非常にまとまりのある集団だった。『もののけ姫』を観ていて、なんとなくそういう世界を想像しました。古代の修験たちは朝鮮半島と往来していて、仏教公伝よりもはるか以前に日本列島に入っていた。つまり、密教的あるいはヒンズー的な呪術を持った集団が、頻繁に半島と列島の間を往復していたわけです。 そして彼らが、山間部に入って王国を作り上げる条件があるとすれば、製鉄業を基盤にしてもおかしくない。最近の研究では、古代吉備の国は製鉄の技術を持った渡来人の子孫が作った国だったようですね。 製鉄のためには、山の木々を大量に伐採し山を破壊する。地域開発センターのタタラ場のまとめ役のエボシ御前は、山の世界を守ろうとする山の精霊たちとの戦いの先頭に立つ。一方で彼女はあらゆる職能集団を包括し、平地民にとっては桃源郷のような理想の土地を作ろうとする。 柳田国男の『遠野物語』は、山人集団の存在を想定し平地民を震撼させた。同書のマヨイガ伝説は、山中の隠れ里を彷彿させ、平地民に山人たちへの憧れと畏怖の念をイメージさせていた。『もののけ姫』には、大勢の登場人物がいますが、人気投票をしたら、おそらくエボシ御前がトップになるのではないでしょうか。網野:しかも被差別民を集めたところは、「考えたな」という気がしました。これについては、どこからも抗議されることはなかったそうです。私は、この映画のパンフレットの文中で私の意見としてはと断って「非人」という言葉を使ったのですが。宮田:この映画の舞台はやはり中世ですか?網野:中世後期を素材にしたことは確かです。宮崎さんもそう言ってました。宮田:主人公の一人であるアシタカという少年は蝦夷の血をひいているということになっていますが、中世後期に蝦夷がいたんでしょうか?網野:実際はいないでしょう。もうアイヌだったはずです。しかし柳田国男が若いころに行った東北の『遠野物語』の世界を連想できます。宮田:強いていえば、焼畑民や狩猟民も登場しているはずですね。網野:マタギもいますね。そういう意味では、ともかくよく勉強されて、総合的に映画のイメージを作っているのには感心しますね。宮田:学生たちにこの映画の印象的シーンを聞いてみますと、いきなり冒頭にタタリ神になった巨大なイノシシのすさまじい突進があり、イノシシの全身にヘビが絡み付いた場面が強烈だったようです。網野:あのときの音響と映像は凄かったですね。宮田:体が腐っていくような感じになる。網野:そのタタリ神に矢を撃ち込んで殺してしまった蝦夷の少年の腕にヘビが巻き付き、アザとして残る。宮田:タタリを象徴するスティグマ(聖痕)になるわけですね。
2019.10.27
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<『カレーの世界史』1>図書館で『カレーの世界史』という本を手にしたのです。ぱらぱらとめくると、世界各地のカレーや、日本発祥のカレーライスなどが見られます。最近はインドカレーの店に通う太子としては、奥深いカレーが気になるのでおます。【カレーの世界史】井上岳久著、SBクリエイティブ、2020年刊<「BOOK」データベース>よりゴロッとした肉と野菜にかぶさる褐色のルウ、そして立ちのぼる強烈なスパイスの香り…。私たちが普段何気なく口にしているカレーは、数奇な運命をたどって日本にやってきた。だが、その道のりから見えてくるのは、決して明るいストーリーだけではない。差別と被差別、支配と隷属、禁忌と戒律など、さまざまな要因から強い影響を受けながらその姿を自在に変えてきたカレー。歴史と地理を縦横の糸にして編み込んだ、料理と人との壮大な物語。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、世界各地のカレーや、日本発祥のカレーライスなどが見られます。最近はインドカレーの店に通う太子としては、奥深いカレーが気になるのでおます。rakutenカレーの世界史辛みがクセになるカレーであるが、辛みのもとトウガラシのルーツを見てみましょう。p68~71<世界を席巻したトウガラシ> 1492年、イタリアのジェノバで生れた探険家コロンブスは、コショウを安価で取り引きできる場所を求めて、スペインの港を出港しました。彼が目指したのは、西回りの航路。西に向かえば、「インド」に到達できると信じていたのです。 ところが、彼が到達したのはインドではなく、カリブ海の島でした。ここでコロンブスは、見たこともない香辛料で辛く味付けした料理を食べている人たちを目にします。 その香辛料は、「アヒ」と呼ばれていました。 これが、のちにカレーに強烈な辛さを与えることになる香辛料、トウガラシだったのです。 コショウを追い求めていたコロンブスは、このアヒのことをコショウと勘違いし、ペッパーと名付けました。当時の航海日誌には「アヒは先住民にとってコショウのようなものである」と記されています。 トウガラシは医学的な特性があったことで注目をあつめました。1570年代のスペインの医師による文献には、ガスを解消するため、胸にとっても良く、冷え性の体質にもよく効くといったことが記されていたそうです。 コショウも医学的な特性があるとされていますし、辛味があるという点でもよく似ています。コロンブスがコショウの一種だと思い込んだのは無理もないでしょう。 トウガラシがヨーロッパに普及する上で、大きな役割をはたしたのがチャンカという名の医師です。1493年の2回目の航海時にコロンブスに同行し、帰国後に西インド諸島のあらゆる部族が食べていたものを記録。根ショウガやパラダイスプラム、トウモロコシといった食べ物を記していく中で、トウガラシに注目します。 トウガラシが魚や鶏肉に辛味を加えるために使用されていたことや、トウガラシの種類が無数に存在していたことなどを記していました。 また、コロンブスは前述した航海日誌に、「私たちがリンゴを食べるようにして、カリブ族やインド人はこの果実を食べている」と記しており、いかに彼がトウガラシから強いインパクトを受けていたかがうかがえます。<世界中に広まったトウガラシ> コロンブスが新大陸から持ち帰ったトウガラシは、いったん、忘れ去られてしまいます。しかし、その後、ポルトガル人がブラジルから持ち込んだ別の品種がヨーロッパに受け入れられ、その後、ポルトガルの交易航路を通じて世界に広がっていきました。 中国の四川料理では麻婆豆腐に、朝鮮半島ではキムチにトウガラシが使用されていますが、すべてはこの時代に伝わったといわれています。 インドにトウガラシが伝わったのも、この時期です。トウガラシが伝わる前、インドではコショウを使って辛味を出していましたが、料理に辛さを追求する素地がもともとあったのでしょう。トウガラシは料理に不可欠なスパイスとしてインド人の食文化に一気に浸透していきました。今やトウガラシがカレーに必須のスパイスになっていることは、ご存じの通りです。 では、東南アジアにはどんな経路で伝わったのでしょうか。 先述したように、ポルトガルは1510年にインド南西部のゴアを占領しました。その翌年の1511年、ポルトガルはアユタヤ朝(現タイ)に外交使節を送っています。トウガラシは、このときに伝わったと考えられています。 トウガラシはアフリカでも普及していきましたが、その伝播のスピードは非常に速かったといわれています。 その理由は、「奴隷制度」です。 ポルトガルの奴隷商人たちは、奴隷の代金の一部をトウガラシで支払っていました。16世紀末頃、奴隷商人たちは、遠方まで積極的に行動範囲を広げていきますが、その結果、トウガラシも急速にアフリカ全土に広まっていったのです。(中略)<日本にはジャガイモとともに…> 1543年、種子島にポルトガル人を乗せた中国船が漂着します。いわゆる鉄砲伝来です。これは、日本人とポルトガル人の最初の接触でした。それから10年も経たないうちに、ゴア、マカオ、長崎を結ぶ定期航路が開かれます。
2020.11.11
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図書館で『カレーの世界史』という本を手にしたのです。ぱらぱらとめくると、世界各地のカレーや、日本発祥のカレーライスなどが見られます。最近はインドカレーの店に通う太子としては、奥深いカレーが気になるのでおます。【カレーの世界史】井上岳久著、SBクリエイティブ、2020年刊<「BOOK」データベース>よりゴロッとした肉と野菜にかぶさる褐色のルウ、そして立ちのぼる強烈なスパイスの香り…。私たちが普段何気なく口にしているカレーは、数奇な運命をたどって日本にやってきた。だが、その道のりから見えてくるのは、決して明るいストーリーだけではない。差別と被差別、支配と隷属、禁忌と戒律など、さまざまな要因から強い影響を受けながらその姿を自在に変えてきたカレー。歴史と地理を縦横の糸にして編み込んだ、料理と人との壮大な物語。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、世界各地のカレーや、日本発祥のカレーライスなどが見られます。最近はインドカレーの店に通う太子としては、奥深いカレーが気になるのでおます。rakutenカレーの世界史チキンティッカマサラ料理が不味いとの定評が根付いてしまったイギリスであるが・・・同国のカレー「チキンティッカマサラ」を見てみましょう。p68~71<イギリスの国民食「チキンティッカマサラ」> イギリス人の食卓から姿を消しつつあったカレーですが、まったくなくなったわけではありませんでした。 それどころか形を変えて、イギリスの食文化に根付いていったのです。それが、1960年代にイギリスのインド料理店で生れたといわれるている「チキンティッカマサラ」です。 “ティッカ”とは、スパイスに漬け込んだブロック肉のこと。これをタマネギと一緒に炒め、トマトやバターでつくったソースで煮込んだものが、チキンティッカマサラです。 酸味がありつつもクリーミーな味わいは、どこかバターチキンカレーに似ています。 チキンティッカマサラは、イギイスでは国民食といえるほど親しまれている料理です。2001年、当時のイギリスの外相ロビン・クックは、チキンティッカマサラについて「真のイギリスの国民料理だ。それは、一番人気があるというだけでなく、イギリスが外部の影響をどう吸収し、適応させるかを完璧に体現しているからだ」と語り、話題になりました。 当初はカレーに親しんだイギリス人ですが、それが人々の好みに合わせて形を変えていき、その最終形がチキンティッカマサラになったということでしょう。 多様な文化を柔軟な姿勢で吸収するイギリス人ならではの料理だといえるかもしれません。<カレーはなぜイギリスに定着しなかったのか> それにしても、日本にカレーを伝えたイギリスでは家庭でカレーが食べられなくなり、一方の日本ではカレーは国民食となって老若男女に親しまれている…。 この違いは一体どういうことなのでしょうか? イギリスでカレーが衰退したのは、上流階級の食事のパターンが変化したしたことが原因だという見方があります。 週単位で食事のパターンが決まっていたとされる上流階級の習慣には、日曜日に巨大なローストビーフを焼いて食べるというものがありました。 しかし、あまりにも大きいローストビーフはどういても食べきれずに余ってしまいます。そこで、残り肉はカレーに使うのが効率的であり、経済的だとされていました。 ところが、牛肉の値段が高騰して、ローストビーフ自体が入手しづらくなったのです。その結果、次第にカレーを食べる機会も減ってきました。肉が余ってこそのカレーだったということでしょう。<イギリス最初のインド料理店の顛末> 一説によれば、今、ロンドンには1000軒を超えるインドレストランがあるといわれています。 価格もかなりリーズナブルなので、カレーを食べたくなったら近くのインド料理店へ出向けばいいわけです。わざわざ家庭でつくる必要は、もうなくなったのでしょう。 今ではイギリス中にあるインドレストランですが、最初の店は大成功とはいいがたいものでした。 イギリスで初めてのインド料理店は、デイーン・マホメッドというインド人が、1810年にロンドンのジョージストリートに開店した「ヒンドスタニー・コーヒーハウス」です。 マホメッドは、カレーをはじめとするインド料理の本格的な味わいや店の雰囲気といったものを、インド本国のスタイルで忠実に再現しようと試みます。 新聞に広告を出すなど積極的な経営を展開しますが、なかなか振るわずに、1811年に惜しくも閉店。 理由についてはいろいろな意見がありますが、当時はまだ外食文化が十分に根付いていなかったこと、また、彼がターゲット層としていた裕福な顧客たちの興味が薄かったことが大きいのではないかと考えられています。『カレーの世界史』1
2020.11.11
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<東インド会社あれこれR3>図書館で『スパイス戦争』という本を借りて読んでいるところです。太子はこれまでに、東インド会社や倭寇や海上覇権にからむ本を読んできたわけで、ツボのようなそれらを集めてみました。・ハイパー世界史用語集「香辛料」・ハイパー世界史用語集「イギリス東インド会社」・『スパイス戦争』(2000年刊)・『ラッフルズ』(2019年刊)・『東インド会社とアジアの海賊』(2015年刊)・『紅茶スパイ』(2011年刊)英メネシス号の中国兵船砲撃R3:「ラッフルズ」を追加***********************************************************************ハイパー世界史用語集「香辛料」ハイパー世界史用語集「イギリス東インド会社」『スパイス戦争』1:プロローグ『スパイス戦争』2:探検隊の悲劇『スパイス戦争』3:日本人海賊の登場『ラッフルズ』2:ラッフルズがもたらしたもの『ラッフルズ』1:イギリス東インド会社や私貿易商人『東インド会社とアジアの海賊』1:東インド会社の特徴や商品『東インド会社とアジアの海賊』2:徽州海商と後期倭寇『東インド会社とアジアの海賊』3:ポルトガル人や後期倭寇の海賊行為『東インド会社とアジアの海賊』4:オランダ東インド会社の登場『東インド会社とアジアの海賊』5:オランダ東インド会社のダークサイド『東インド会社とアジアの海賊』6:清朝に雇われたイギリス海軍『東インド会社とアジアの海賊』7:アヘン戦争と清朝水師『紅茶スパイ』1:プロローグ『紅茶スパイ』2:庭園を愛でるイギリス人『紅茶スパイ』3:1848年東インド会社本社『紅茶スパイ』4:1848年チェルシー薬草園『紅茶スパイ』5:中国への再渡航『紅茶スパイ』6:アヘン貿易『紅茶スパイ』7:フォーチュン余話***********************************************************************ハイパー世界史用語集「イギリス東インド会社」より(1)1600年、ロンドンの商人がインド以西のアジア各地との貿易を独占するため、エリザベス1世の特許を得て設立した。1601年からアジア貿易を開始したが1航海ごとに資金を集める形態であったため、1602年に始まるオランダ東インド会社に後れをとるようになり、東南アジアの香辛料貿易からは撤退し、インド経営を主力とするようになった。 イギリス絶対王政の最盛期、テューダー朝のエリザベス1世は、1600年12月31日、正式に「イギリス東インド会社」、つまり「東インド諸地域に貿易するロンドン商人たちの総裁とその会社」を法人と認める特許状を下付した。従って「東インド会社」East India Company というのは通称であるが、EICの略称は広く世界に知られるようになった。 最初の東インド会社船4隻がロンドンを発ったのは1601年3月であった。500人以上が乗り組み、大砲を110門備えた武装船団であった。翌年10月にスマトラのアチェに到着、さらにジャワ島のバンテンに立ち寄り、マラッカ海峡ではポルトガル船を襲い、積荷の胡椒などを略奪、1603年9月に無事イギリスに戻り、103万ポンドの胡椒を持ち帰った。ロンドンに入荷した胡椒はそこからヨーロッパ各地に売りさばかれた。■オランダ東インド会社との競争イギリス東インド会社は、国王から貿易の特権を与えられた特許会社であり、それ以後、オランダ、フランス、デンマーク、スウェーデンといった西ヨーロッパ諸国が競って設立した東インド会社の最初のものである。その手本となったのは、すでに存在していたロンドン商人による地中海での東方貿易のためのレヴァント会社であった。それは一航海ごとに資金(株)を集め、船が帰国した後にその輸入品またはその販売代金を、投資額に比例して利益を分配するという株式会社の形態を採っていた。しかし、航海ごとに利益は分配されたため、恒常的・組織的な株式会社としては不十分なものであった。イギリスより遅れたが1602年に発足したオランダ東インド会社は、1回の航海ごとではなく、永続的に資金を集め、組織的な会社を組織し、利益を配当する形式をとったので、実質的な最初の株式会社と言うことができ、イギリスの東インド会社はその競争では後れをとることになる。 イギリス東インド会社は一時、オランダ東インド会社との合同も考えたが、反対も強く、とくに1623年のアンボイナ事件での両国の対立から、イギリスは東南アジア地域から撤退し、インド亜大陸経営に方向を転じる。1643年には現在のイラクのバスラに商館を設け、西アジアにも進出した。***********************************************************************【スパイス戦争】ジャイルズ・ミルトン著、朝日新聞出版、2000年刊<「BOOK」データベース>より香料残酷物語。アジアの片隅の小さな島々が歴史の流れを変えていく!黄金より貴重なスパイス、ナツメグの支配権をめぐって血なまぐさい戦いを繰り広げるイギリスとオランダ。埋もれた史料から、その渦中にいた人々の勇気と知略、残虐さと陰謀を活写して、英米でベストセラーになった傑作歴史ノンフィクション。<読む前の大使寸評>イギリスとオランダの戦いに日本人傭兵もからむという、波乱にみちた南シナ海を描くノンフィクションが、興味深いのである。rakutenスパイス戦争***********************************************************************【ラッフルズ】坪井祐司著、山川出版社、2019年刊<「BOOK」データベース>よりシンガポールの建設者ラッフルズは、フランス革命でヨーロッパが激動した時代、自由主義の理想に燃えてアジアに赴いた。ラッフルズは、ジャワでは農民を封建領主から解放し、シンガポールでは海賊や奴隷制を排除して自由な交易空間をつくろうと試みた。彼を迎えた東南アジアには、豊かな海の交易世界と華人やムスリムなど多様な人びとからなる折り重なったネットワークが広がっていた。ラッフルズがもたらした「近代」は地域や人びとをどのように変えたのだろうか。<読む前の大使寸評>ラッフルズは英国・東インド会社の社員だったが理想主義であったことが特異なんですね。インド、東アジアを舞台に暴れ回った東インド会社が興味深いのです。rakutenラッフルズ***********************************************************************【東インド会社とアジアの海賊】東洋文庫編、勉誠出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より誰が海賊だったのか?海賊の多様性を歴史から読み解く。17世紀初頭にヨーロッパで誕生した東インド会社とその海上覇権の確立にあたって大きな障壁となった現地の海賊たち。両者は善と悪という単純な図式では表せない関係にあった。東インド会社もまた海賊であったー。東インド会社と海賊の攻防と、活動の実態を明らかにする。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、アジアの海賊、国姓爺、アヘン戦争とか興味深い史実が見られます。要するに、清朝末期の列強の大陸侵食が興味深いのでおます。rakuten東インド会社とアジアの海賊***********************************************************************【紅茶スパイ】サラ・ローズ著、原書房、2011年刊<「BOOK」データベース>より19世紀、中国がひた隠ししてきた茶の製法とタネを入手するため、英国人凄腕プラントハンター/ロバート・フォーチュンが中国奥地に潜入…。アヘン戦争直後の激動の時代を背景に、ミステリアスな紅茶の歴史を描いた、面白さ抜群の歴史ノンフィクション。<読む前の大使寸評>ちょっと硬い視点かもしれないけど、アヘン戦争当時のイギリスの帝国主義、植民地主義を知りたいわけでおます。rakuten紅茶スパイ
2021.10.11
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図書館に予約していた『ぜんぶ、すてれば』という本を、待つこと〇ほどでゲットしたのです。〝中野流・逆輸入型広報戦略〟によって構成されたようなこの本であるが・・・面白そうである♪【ぜんぶ、すてれば】中野善壽著、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2020年刊<商品説明>より【隈研吾 推薦】「ビジネスとかアートとか、結局のところ「切れ味」だということを、日本で唯一中野さんだけが直感的に理解し実践している!」"今日がすべて。颯爽と軽やかに、ぜんぶ捨てれば""人の評価は気にしない。 自分自身が納得できるか""準備万端の日は一生来ない。 何も考えず、思い切ればいい"<読む前の大使寸評>〝中野流・逆輸入型広報戦略〟によって構成されたようなこの本であるが・・・面白そうである♪<図書館予約:(11/07予約、副本?、予約?)>rakutenぜんぶ、すてればSNS嫌いの大使であるが、著者はスマホをどう見ているか、見てみましょう。p76~79<スマホを捨てる。ぜんぶ、自分を失くしたくないから。>街を歩いていると、皆スマートフォンを見つめています。僕も昔、スマホを使ったことがありました。でも、1ヶ月で嫌になって、やめました。何が嫌だったかというと、乗法が多過ぎて余計な時間を撮られてしまうこと。画面を開けば、ネットもできるし、アプリは無限にある。結果、自分が処理できる以上の情報をついつい扱うことになってしまいます。すると、いつの間にか自分を失くしてしまう。これはよくないとすぐに気づいて、スマホ生活を捨てました。今持っているのは、ガラケー。正確に言うと、2018年に復刻したau「INFOBAR」というシリーズで、赤、白、水色の配色デザインが気に入っています。どうです? 可愛いでしょう。自己満足かも・・・。ゆったりと情報を見たいときには、iPadで。自分のペースを守るには、このスタイルが一番です。<スマホで観る貧しい映画は文化じゃない。五感で本物を受け止めよ。>一見便利なものが、実は僕たちの心を貧しくする危険をはらむことはよくあります。これまで大切にしてきた文化を、失いかけてはいないか。それは文化なのか、ただの文明の利器なのか。いつも注意深くしていなければなりません。例えば、映画鑑賞。僕は映画館で観る映画こそが映画だと思っているので、飛行機の中で観て「いい」と思った作品は、もう一度映画館で観るようにしています。大画面でのストーリー展開、迫力の音。作り手が想定したとおりの環境で観て初めて「映画を観た」と言えるはずです。しかし、最近はスマートフォンの小さな画面でも簡単に観られるようになって、映画館に行かない若者も増えているようです。それは本当に映画と言えるのか。自分の五感でしっかり受け止めた感動というのは、確実に自分のものになる。「他人のレビューに左右されてばかりで、自分の感想がうまく言えない」と密かに悩んでいる人がいるとしたら、「まず本物を見なさい」と助言したいですね。大画面で観れば、自然と感情が沸き立つものです。『ぜんぶ、すてれば』1:プロローグのような辺り
2024.11.20
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図書館に予約していた『ぜんぶ、すてれば』という本を、待つこと〇ほどでゲットしたのです。〝中野流・逆輸入型広報戦略〟によって構成されたようなこの本であるが・・・面白そうである♪【ぜんぶ、すてれば】中野善壽著、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2020年刊<商品説明>より【隈研吾 推薦】「ビジネスとかアートとか、結局のところ「切れ味」だということを、日本で唯一中野さんだけが直感的に理解し実践している!」"今日がすべて。颯爽と軽やかに、ぜんぶ捨てれば""人の評価は気にしない。 自分自身が納得できるか""準備万端の日は一生来ない。 何も考えず、思い切ればいい"<読む前の大使寸評>〝中野流・逆輸入型広報戦略〟によって構成されたようなこの本であるが・・・面白そうである♪<図書館予約:(11/07予約、副本?、予約?)>rakutenぜんぶ、すてれば著者の過激なライフスタイルを、見てみましょう。p44~45<捨てる以前に、持たなくていい。家もクルマも、時計さえも>「捨てる」ことについての話を進める前に。僕は捨てる以前に、モノをできるだけ「持たない」ライフスタイルを選んできました。言えは台湾に一応ありますが、賃貸暮らし。家具もごく限られた最小限のものだけで、日本で仕事をするときには、ホテルなどに滞在しています。クルマもなし。高価な腕時計にも興味はなく、仕事の打ち合わせを時間内で終えるための液晶時計が一つあれば十分です。日用品も決して高級品ではありません。服は通りすがりのアジア各地でパパッと、いつでも捨てられるくらいの気軽なものを。食べ物はコンビニの新商品を選ぶのが一番楽しい。御馳走は会食でいただくだけで満足。「経営者としての収入を、家財に費やせばそれなりものが手に入るでしょうに」と不思議がる人も多いのですが、僕はまったくモノに執着がありません。持たなければ、生活がモノで埋め尽くされないし、土地や家を売買する上での繁雑な手続きもしなくていい。何よりも災害での心配が一つ減る。何より身軽な生き方が好きなのです。ところで、斎藤新知事が19日の初登庁に際して「ワンチームで、謙虚に」と、クレバーな発言があったが・・・どうしても胡散臭いのである。公選法の不備をつくようなSNS重視の戦略と、県民に分断を持ち込んだ自己中心には驚くのです。今後ものっけから百条委員会とのヤリトリが予定されていて・・・罪は深いのではないか?また、にわかに斎藤氏を応援した県民の反応の幼稚さ?も想定外であったし、普段からSNSには近付かない私に落ち度があったのか?『ぜんぶ、すてれば』2:スマホを捨てる『ぜんぶ、すてれば』1:プロローグのような辺り
2024.11.20
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図書館で『疑史世界伝』という本を、手にしたのです。おお 清水義範さんのパスティーシュ短編集ではないか♪フェイクが混じるかもしれないが、軽く読み飛ばす分には許されるだろう♪・・・ということでチョイスしたのです。【疑史世界伝】清水義範著、集英社、2007年刊<「BOOK」データベース>よりソクラテスとオリンピックの意外な関係(「戦場のソクラテス」)、超スピードで語り尽くす中国三千年の歴史(「あわただ史記」前編・後編)、あの十字軍遠征をイスラム社会側から見てみると…?(「フランクが来た」)などなど、おもしろ世界史短編全19編。<読む前の大使寸評>おお 清水義範さんのパスティーシュ短編集ではないか♪フェイクが混じるかもしれないが、軽く読み飛ばす分には許されるだろう♪・・・ということでチョイスしたのです。rakuten疑史世界伝「あわただ史記・後編」の続きが語られているので、見てみましょう。宋と金とに分裂して戦っていた時代の史記なんですが。p271~273<あわただ史記・後編> テムジンは1206年、40代後半か50歳ぐらいでいきなり歴史の舞台に登場する。チンギス・カンと称するようになり、まずは華北への侵入を始めるのだ。 西夏を攻め、その次は金に襲いかかった。そして、その二国をほぼ制圧すると、1219年からは西征を開始する。もしチンギス・カンが金を攻めたあとすぐに南宋に襲いかかっていれば、宋王朝の滅亡はもう少し早かったかもしれない。しかし、チンギスは中央アジアへと向かったのだ。遊牧民族であるモンゴル人には、農業地帯である南宋よりも、乾燥した遊牧の地、中央アジアのほうが魅力的で」あったのかもしれない。 モンゴル軍は恐るべき強さを見せ、西域で戦線連勝した。騎馬による戦闘が得意であり、敵軍の人数がたとえ倍以上あったってひるむことなく突き進むのである。また、攻め落とした城や街で、住民をみな殺しにし、財宝を根こそぎ奪ってその地を消し去ってしまうようなやり方をし、心理的にも大いに恐れられた。そんなこともあって向かうところ敵なしという具合だったのである。 中央アジアでホラズム・シャー王国をほぼ滅ぼした後、チンギス・カンは華北に戻り、まず西夏を完全につぶした。ところが、その直後に彼は急死してしまうのだ。1227年のことである。 チンギス・カンの跡を継いだのはオゴデイ・カアンであった。 西アジアの方面でも、モンゴル軍は暴れまわり、オゴデイ・ハーン国や、チャガタイ・ハーン国、イル・ハーン国などが建国されていくのだが、ここでは中国についてのみ見ていくとしよう。 1234年、オゴデイ・カアンは金を完全に滅ぼす。それにより、中国の北半分はモンゴルのものになり、あとは南宋を残すだけとなったのだ。 皇帝の代替わりだけを見ていくと、オゴデイと、弟のチャガタイが相次いで1241年に亡くなると、1246年にグユクが三代目皇帝に即位した。皇帝不在の期間が5年もあるところに、モンゴルの内情の複雑さを見るべきであろう。 グユクは1248年、モンゴル内の紛争によって刺客に殺された。そこで、1251年、第四代皇帝に即位したのがモンケ。 モンケが亡くなったのが1259年。そこで1260年に、モンケの七つ年下の弟、クビライが即位する。クビライはチンギス・カンの孫であった。 クビライ・カアンは、1271年中国に大元ウルスという王朝、通称元を建国した。そして、主都として大都を建設した。それが現在の北京の始まりである。 クビライはずば抜けた天才だったと言われている。彼には、モンゴル人によって世界帝国を実現するのだ、という明確なヴィジョンがあったのだ。これまでならば、滅ぼした国の都を破壊しつくすことはあっても、都市を造る、ということをモンゴル人はしなかった。彼らはどこへ移動しようが、天幕を持って進んでその中に住むので、都市など必要なかったのである。 なのに、クビライは大都を建設した。そこに、これまでにない帝国を造るのだ、という意思を見ることができる。 『疑史世界伝』1:宋と金とに分裂して
2024.11.25
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このところの外食は、コスト重視のサイゼリアか、カレーか、ラーメンとなっています。カレーといってもカレーライス(日本発祥)とインネパのインドカレーがあるわけで・・・以前読んだ『カレーの世界史』という本を復刻して読み直そうと思い立ったのです。*********************************************************図書館で『カレーの世界史』という本を手にしたのです。ぱらぱらとめくると、世界各地のカレーや、日本発祥のカレーライスなどが見られます。最近はインドカレーの店に通う太子としては、奥深いカレーが気になるのでおます。【カレーの世界史】井上岳久著、SBクリエイティブ、2020年刊<「BOOK」データベース>よりゴロッとした肉と野菜にかぶさる褐色のルウ、そして立ちのぼる強烈なスパイスの香り…。私たちが普段何気なく口にしているカレーは、数奇な運命をたどって日本にやってきた。だが、その道のりから見えてくるのは、決して明るいストーリーだけではない。差別と被差別、支配と隷属、禁忌と戒律など、さまざまな要因から強い影響を受けながらその姿を自在に変えてきたカレー。歴史と地理を縦横の糸にして編み込んだ、料理と人との壮大な物語。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、世界各地のカレーや、日本発祥のカレーライスなどが見られます。最近はインドカレーの店に通う太子としては、奥深いカレーが気になるのでおます。rakutenカレーの世界史チキンティッカマサラ料理が不味いとの定評が根付いてしまったイギリスであるが・・・同国のカレー「チキンティッカマサラ」を見てみましょう。p68~71<イギリスの国民食「チキンティッカマサラ」> イギリス人の食卓から姿を消しつつあったカレーですが、まったくなくなったわけではありませんでした。 それどころか形を変えて、イギリスの食文化に根付いていったのです。それが、1960年代にイギリスのインド料理店で生れたといわれるている「チキンティッカマサラ」です。 “ティッカ”とは、スパイスに漬け込んだブロック肉のこと。これをタマネギと一緒に炒め、トマトやバターでつくったソースで煮込んだものが、チキンティッカマサラです。 酸味がありつつもクリーミーな味わいは、どこかバターチキンカレーに似ています。 チキンティッカマサラは、イギイスでは国民食といえるほど親しまれている料理です。2001年、当時のイギリスの外相ロビン・クックは、チキンティッカマサラについて「真のイギリスの国民料理だ。それは、一番人気があるというだけでなく、イギリスが外部の影響をどう吸収し、適応させるかを完璧に体現しているからだ」と語り、話題になりました。 当初はカレーに親しんだイギリス人ですが、それが人々の好みに合わせて形を変えていき、その最終形がチキンティッカマサラになったということでしょう。 多様な文化を柔軟な姿勢で吸収するイギリス人ならではの料理だといえるかもしれません。<カレーはなぜイギリスに定着しなかったのか> それにしても、日本にカレーを伝えたイギリスでは家庭でカレーが食べられなくなり、一方の日本ではカレーは国民食となって老若男女に親しまれている…。 この違いは一体どういうことなのでしょうか? イギリスでカレーが衰退したのは、上流階級の食事のパターンが変化したしたことが原因だという見方があります。 週単位で食事のパターンが決まっていたとされる上流階級の習慣には、日曜日に巨大なローストビーフを焼いて食べるというものがありました。 しかし、あまりにも大きいローストビーフはどういても食べきれずに余ってしまいます。そこで、残り肉はカレーに使うのが効率的であり、経済的だとされていました。 ところが、牛肉の値段が高騰して、ローストビーフ自体が入手しづらくなったのです。その結果、次第にカレーを食べる機会も減ってきました。肉が余ってこそのカレーだったということでしょう。<イギリス最初のインド料理店の顛末> 一説によれば、今、ロンドンには1000軒を超えるインドレストランがあるといわれています。 価格もかなりリーズナブルなので、カレーを食べたくなったら近くのインド料理店へ出向けばいいわけです。わざわざ家庭でつくる必要は、もうなくなったのでしょう。 今ではイギリス中にあるインドレストランですが、最初の店は大成功とはいいがたいものでした。 イギリスで初めてのインド料理店は、デイーン・マホメッドというインド人が、1810年にロンドンのジョージストリートに開店した「ヒンドスタニー・コーヒーハウス」です。 マホメッドは、カレーをはじめとするインド料理の本格的な味わいや店の雰囲気といったものを、インド本国のスタイルで忠実に再現しようと試みます。 新聞に広告を出すなど積極的な経営を展開しますが、なかなか振るわずに、1811年に惜しくも閉店。 理由についてはいろいろな意見がありますが、当時はまだ外食文化が十分に根付いていなかったこと、また、彼がターゲット層としていた裕福な顧客たちの興味が薄かったことが大きいのではないかと考えられています。『カレーの世界史』2:イギリスのカレー『カレーの世界史』1:トウガラシのルーツ*********************************************************■2020.11.11XML『カレーの世界史』2https://plaza.rakuten.co.jp/foret/diary/202011110001/
2024.11.25
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