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いつぞや──あれから一年ほどが経つか、小夜と墓場で出会った後も、相変わらず学校のない日の早朝は墓守(はかもり)のような仕事を自ら任じている豊も、その日はそこにいた。 だが、あまりに村人がうようよしてきたので、孤独を愛する彼は早々に退散しようとしていた。 その時、小夜と目が合ってしまったのである。 合った途端、小夜はこの場から豊が逃げ出そうとしているのを敏感に感じ取り、それを非常に彼らしく思った。 少しいたずら心が起きて、彼女はためらいもなく両腕で弓矢をたがえるようなかたちにつくり、それを豊に向けて‘ひゅん’と射かけるそぶりを見せた。 そのあとしばらく、豊は小夜を見つめていた。 その目がゆっくりと閉じられ、次いで両の手が左胸を押さえると、豊は枝からころりと一回転して落ちてみせた。 うまい冗談だった。 小夜もそれを受けて、さっそくもんどりうって落下したまま動かないでいるその身体をゆすぶって、目を覚まさせようと駆け寄った。 このちょっとしたやりとりが新たな親しみをつくりだし、ふたりのあいだに和やかな空気が流れはじめようとしたその刹那、とつぜん、 ──ゆた! と一喝する声が聞こえ、豊と小夜は同時に飛び上がった。 本日に日記--------------------------------------------------------- 【魔法使いの男の子はなぜいないの?】 西洋のお盆、ハロウィンですよ! キリスト教の死者の月(11月)を控えた10月31日は、万聖節(ばんせいせつ)と呼んで一年の365日では足りない数の残りの聖人の祝日の日として祝ったのが始まりで、よろずの聖人ならば死者も入るだろうということで、いわゆる‘ゴースト’まで参加するお祭りに変化していきました。 最近は日本でもカボチャのお化けやコウモリの飾りが街をにぎわせていますね。私も今日までに三回パーティがありました。日本人ではない友人を持つと、こういうことになります。 この私にカボチャになれってか!? どちらかというと、魔女っぽいというツッコミが入りそう・・・。 ところで、魔女って何者なんでしょう。 15世紀から約400年も続いたヨーロッパの「魔女狩り」について、聞いたことがある方もいるかもしれません。 そもそも古来から、魔女は病を治す知識に富み、産婆や占星術師として活躍する、賢い女性たちでした。ところがキリスト教の広がりと共に異端と見なされ、迫害が始まったのです。 隣家の牛乳を呪(のろ)いで盗む牛乳魔女、悪天候をもたらし農作物に害を与える天候魔女。そのほか夫婦の不和、財産や職能の争いなど、狭い共同体のなかの憎しみや疑い、恨みを一身に負わされたのが魔女であるのです。 年老いて、厄介者になった女性たちが突然裁判にかけられ、ドイツだけでも3万人以上が火刑などに処されたそうです。 木曜日の晩に集会を開き、気の向くままに魔法の杖を振るう魔女たち。陰惨な歴史をどこかに秘めつつ、伝説を受け継ぐ魔女。ドイツ語の魔女=Hexe(ヘクゼ)の語源は、「垣根を自由に超える」という意味があるそうです。 でも、なぜ魔女は女だけ? 魔法使いの男の子の話は「ハリー・ポッター」があるけど、私としては、やっと出たかという印象でした。しかも、ドラクエみたいな物語の展開で、あんまりのめり込めなかった。 著書の女性が貧しくて、原稿を喫茶店にある紙ナプキンに書いたのだけど、それが今は世界的なビリオンセラーだという逸話のほうが、なんだか魔法のようで私は興味ひかれました。 男の子の魔法使いを主題とする文学って(いや、漫画でもいいけど)──考えてみるとあまり見かけないですよね? それってなんでだろ。深い意味がありそうだなぁ。 男の子を主人公にすると、『星の王子さま』みたいに、魔法使いというよりなんだか本人が魔法をかけられているような存在になってしまうからかな。 それとも、男の子という存在がすでに魔法なのか──。 ‘少年のような心’という考え方を別とすれば、実際の男の子って、期間限定で、はかないものなんですね。 明日は●守宿多さま●です。すくのおおいさま、と読みます。 それが誰のことかは、もうおわかりでしょう。 タイムスリップして、このそこはかとなくなまけ者の少年が、やっと本領を発揮する場面に居合わせにきなんせ。 明日、よんどころない理由の面接がありまして、それが朝の九時からなので、更新がもしかしたら遅れるかもしれませぬ。その場合でも明日の午後には更新できますので、お許しください! 結果について語らなかったら、誰も聞かないでね・・・。
2005年10月31日
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その夜、季節のはじめの雷雨が訪れ、長さ2キロにもおよぶ前衛が、雷鳴のうつろな轟きと、枝分かれする稲妻の光線を押し立てて行進してきた。 それとともに、雨が巨大な波打つカーテンとなって相生の大自然を洗い、生きとし生けるものすべてを隠れ家に追いやった。雨粒が家々の四方の壁を打って、幾千万の石つぶてが発する砲弾のような音をたてた。雨季の始まりだった。 やがて嵐は行き過ぎていった。 空の白さが増していき、東の空が赤くなり、早朝の太陽が全身をあらわした。すると、灰色と黒だけだった地上は、一気に鮮やかな若葉色を取り戻した。 村人たちは、楽しげにさえずるひばりの声に目覚めさせられた。雨が相生の自然の隅々まで生き返らせ、すいかずらのつるが伸び、花の甘い香りがあたり一面に漂っていた。 事の起こりは、その後日に信心深い里の人が、嵐で汚れてしまった先祖の墓石を清めに行ったことから始まった。 ──あれぇ! 掃除に来ていた村人の一人が、突然すっとんきょうな声を上げた。 なんだなんだと集まってきた人々に彼が言うには、なんでも墓の中に整然と並んでいるはずの骨壷が、ばらばらに移動しているのだそうだ。 それはまたけったいなと、その場に居合わせた人はわれもわれもと自分たちの先祖の墓石をどかして調べ始めた。相生の墓石は天然の石を使っているので、一抱えもすれば充分なほど小さい。内部をお清めする際に墓石を動かすことは、誰にでも出来た。 やがてあちこちで驚きの声があがり、ほとんどの墓において骨壷がもとあった場所から移動していることを自分の目で確認した人々の声で、墓地は一時騒然となった。 知らせを聞きつけて、小一時間もすると集落のあらかたの人が現場に集まってきた。 喜平じぃの後継である村長(むらおさ)や不二一族から呼ばれてきた複数の呪師(まじないし)たちは、これはなにかの予兆かもしれないと、緊張の面持ちで立ち尽くしていた。 子供たちも、忽然として現れた「徴(しるし)」に立ち合おうと、普段の遊びをほうりだして墓場に駆けつけてきた。 その中に、小夜ももちろんいた。 だが小夜は疑問符が飛びかっているような下界から、ふと気がついてそこらで一番高い樹の梢を見上げた。 豊と目があった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 今日はしょっぱなから墓場の写真でぎょっとなさった方もいらっしゃるかと思います。びっくりさせてしまって、ごめんなさい。 ですが、↑この写真はとても清浄な場所のものですからご安心ください。 さて、本日は、 【たたりについて】祟りは神のシグナル 「たたり」とは、ご存知のように神仏や怨霊などが人の行為をとがめて禍(まが)をなすこと、またはその災厄をいいます。 古代社会において祟神(たたりがみ)は恐ろしく、なるべく鎮まってもらいたいと必死に祈りました。 相生の呪方(まじないかた)は、「遷却祟神祭(たたるかみをうつしやるまつり)」の祝詞(のりと)を現在に伝えています。祟神とされた神にたくさんの供え物をして祀り、「祟り給ひ健(たけ)び給ふ事無くして山川の広く清き地に遷(うつ)り出で坐(ま)して、神奈我良(かみながら)鎮まり坐(ま)せ」と祈るのです。 つまり、禍を為したり荒れ猛ぶことなく、山川の広く清らかなところにうつり鎮まって下さいと祈念したのです。清らかなところにうつると祟神でなくなると考えられているのです。 この「たたり」の語源は、眼に見えない世界からもたらされるが、実にはっきりとした現象であることから、「顕(た)つ」の系列の語と考えられています。 「顕(た)つ」とは、幽なるものが、現実にその姿を顕わすこと。おおむね禍害を為すときにその姿を顕わすので、「顕(た)たるもの」を指すようになりました。この「顕たる」ものが祟(たたり)です。「たたり」の顕われるような土地を「たたり地」ともいいます。 祟りとは、人間による侵犯、反意、祭祀の怠慢(←豊、耳が痛かろ?)などの行為を原因として、神霊が「とがめ」としての災異を発動するようになる状態、およびそのときに働く超越的な力をいいます。 祟りの本来の語義は、神意の示現にありました。 一般に祟りは、災疫の起きた際に、いかなる神霊的存在が、なにゆえに祟りとなったかが託宣などで明示されて人々に認識されます。そして、もとの過失・侵犯を償うことによって祟りをしずめることができると考えられていました。 「たたり」とは、神霊が人々にその過ちを知らせるシグナルだというわけです。祟と思ったら、その原因を探り、解消することが肝心です。 いや、ここでこんなことを言うのはなんですが、私自身、あまりタタリというものは信じておりません。 けれども、美術史の世界に身を置いているとしぜん、文部科学省の社寺仏閣の調査やら、大学の研究機関に依頼される個人蔵の貴重な文化財などに触れる機会が多くなるわけです。そこで、私だけの経験にとどまらず、諸先輩方の体験談などを聞くにつけ、仏教美術よりも、神像に関する遺品──つまり神社の収蔵品のほうが圧倒的にタタリが多いことに気づかされます。 ここで事細かく説明するにもはばかれるようなタタリの事例は、私が知っているだけでもある特定の地域に限らず、全国的に確かにあります。 おそらく、神道の神々の方が力が強いのかな・・・。 この場合の力の強さとはご利益のことではなく、自己顕示の力というか・・・。あまり滅多なことは言えませんが。 テレビ番組でも、夏などには幽霊よりもタタリ関連の特集をした方が面白いのにとか思いますが、制作側の方もしゃれにならなくなることが体験的にわかっているのでしょう。 私はですね・・・個人的なタタリにあったことがありますよ。 でも、それは気づかぬうちに触れてしまったものではなく、全面的に私に非があったからなのです。 権現さま(女性の神)の聖域で、そこは女性の神が祭られているがゆえに女人禁制であって、そこが開かれて以来、女性は誰も入ったことがないという山があるのです。 しかも、その山を貫く随道が一本通っていて、それは女神のご神体の一部なのであるから、なおさらに女性が通ることが許されない聖域中の聖域があるのです。 実は、私はその場所の調査がしたくて、長く伸ばしていた髪を切り、少年に化けて随道に入り込んだことがありました。 開祖以来、一度も女性が足を踏み入れたことのない神域に、御祓いも受けずに入ったのです。 その後、私に起こった事柄は、非常に個人的な事なので、この場では公表できないことをお許しください。 けれどもここまで書いてきたことなので、メールでその旨お伝えいただければ、いかなることが起きたか個人的にご説明させていただきます。お話すること自体はなんでもないのですが、ここに書くとなると少し気が引ける事柄なので、たまにはこういう交流の仕方もいいかな。皆さまにはお手数かもしれませんが──。どうぞぜひ、どしどしメールをお寄せください。 なお、メールはトップページの右上にある「メールを送信する」というところをクリックするとメールフォームが現れます。 いずれにせよ、私も体験的に畏れているのです(涙)。 明日は、●豊、小夜に射落とされる●です。 豊も木から落ちる、というわけです。 タイムスリップして、タタリから遠く離れてのんきにしているこのふたりの様子を見にきなんせ。
2005年10月29日
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綾一郎の尽力が功を奏したおかげで、小夜の命名するところの‘相生文字’はすぐに集落の子供たち一帯に使われるようになった。 もともと言葉というものは、自分たちだけで通じる言葉を作ると、より仲を深めることのできるツールともなり得る。いわばグループの中でのみ通用する‘仲間語’というわけである。 日本語の共通語は、明治維新のころ東京の方言をベースにして、山口、鹿児島、京都など様々な方言を寄せ集めてできたものだ。だが共通語が公式の言葉であるのに対して、お国言葉を持つ人々が使い分ける共通語と方言では、語られる内容に建前と本音ほどの違いがある。 また、メールなどない当時でも、子供であればお互いの通信にふだんから話す言葉で書くため、地方では方言をわざわざひらがな表記しなくてはならない手間がある。 お国言葉を教科書的な日本語表記に書き改める際に、いつもどうもしっくりこないと感じていた子供たちは、言葉の雰囲気がそのまま文字にできるこの相生文字に飛びついた。 集落の子供たちに限られた通信も、暗号をかねてこの文字を使った。 少々排他的であることは否めないが、これは同胞意識を高めるためにおおいに役立つ結果となった。 相生の子供たちは、言葉を私物化せんとする欲求を、その時代にぞんぶんに充たした。 文部省から与えられた言葉を使っての日常生活。彼らは逆にそれを支配し始めたのだ。 これは創造性を含んだよい意味での自己主張であり、文化的な面においてもその後の自律的な展開の可能性を秘めたものだった。 ただし、これは小夜という立場の者だからこそ、その土地に根づく禁忌の概念にとらわれることなく、見い出し広めることのできた文字であったといってもいいかもしれない。 豊にしてみても、相生文字と呼ばれる神聖文字の広まりはとやかく言えた筋合いではなかった。 自分が不二屋敷のお蔵で見た巻物は本来は見てはならぬものであったのだし、曾祖母の言い伝えによると、神聖文字を見て記憶している者はもはや鬼籍に入って久しいのだ。ならば、神聖文字を神聖文字と認識する者も、相生には今はいないことになる。 豊が本来の由来を話して咎めないかぎりは、神聖文字が子供たちの間に広まるのを止める者はないはずであった。そして、彼はその文字が広がるにまかせた。 豊は常なる静観姿勢のうちに、こうとらえていた。 それが神々の為せる自然の流れならば、人がその流れを止めることはできない──。 綾一郎から大将命令として再三再四にわたって申し渡されていたが、豊が小夜に声をかけることはなかった。もちろん、神聖文字に関しての話題をあえて自分からほかの者にふることもなかった。 実際、豊は小夜からの返歌を表向きは受け取ったことにはなっていないのであり、小夜もそれを知りながら、同じ文言を重ねて寄越すことはなかった。 自分が豊に宛てた文が、なんらかの偶然が重なることによって本人に渡らなかったのであるなら、それは精霊がこのやりとりの中断に介在したということ──小夜は二度とふたたび豊に文を宛てないことを心に決め、神々が思い描く自然の流れを自らの手で強行に動かすことを慎んだ。 ただ一度だけ、相生文字が広まり初めた頃に、こんなことがあった。 まだ新しい文字に慣れない仲間たちのために、小夜がそのそれぞれの名をすらすらと相生文字に直して配布しようとしていたおりのことだった。 小夜の机の横を行きかかった者が、なにやら熱心に帳面に書きつけている彼女の手元にふと目をやって、ぴたりと足を止めた。 誰かが通りすがりざまに自分の席に片手をついてきたのに気づいて、小夜は驚いて顔を上げた。 豊だった。 豊はそのまま小夜の席にかがみこんできて、開いてあった帳面の端から端につーっと左手の薬指をすべらしていくという、謎めいた行動をした。 それをじっと魅入っていた小夜は、後頭部をぽんと叩かれたのを感じて、反射的に首をすくめた。 ──小夜。 まるで昔からずっとそうしていたかのように屈託ない調子でその名を呼ぶと、豊はふたたび首を傾けてきて小夜の顔をのぞきこんだ。 そしてにこっとすると、そのまま教室のうしろに歩いてゆき、ふだんと変わらぬ様子で自分の席に腰をおろした。 あとには、電撃にうたれでもしたかのように身体を痺れさせ、莫迦みたいに呆然と前を見据えている小夜が残された。 小夜と豊の連歌(注:恋歌では断じてない)は、それきりだった。 なぜあの書きつけが読めたのか、豊が小夜に問うこともなかった。 ただし、もしその問いかけがあったにせよ、小夜自身、それに明確に答えることはできなかっただろう。見えたから、読めたのだ。いずれにせよ、この一言に尽きるのである。 しかし、これらのことすべてが今後起こってくる物事の布石となっていることに、小夜が気づく由もなかった。 彼女が豊の沈黙を尊重しようと決心しているか否かに関わらず、相生の民のなかに長くうずもれていた豊という存在、希釈されないこの土地本来の血を身体に流す豊と、相生村という小規模ではあるが現実に在る社会──このふたつの存在を、互いに意味のあるものとして結びつけるための架け橋として自らを任じる準備は、小夜の中に自覚のないままに、だが何とも知れぬ者の働きによって、しっかりと作られていたのである。 相生文字。 いつしか小夜が見い出した文字は、彼女と豊とだけが分かち合う内緒の歌遊びの範疇を超えて、その後もずっと使用されていく子供たちの特有文字に発展し、固有名詞でそう呼ばれるような一人歩きを始めていた。 ─── 豊が指をすべらせた箇所に、やがて浮き出た文字があることを、鳥取時代の小夜が気づくことはついになかった。 しかし、小夜が席から離れたおりに、精霊たちがそれを見ることを欲して一陣の風を送り、彼女の持つ帳面のとある一頁が意志をもって開かれるのを、訝しげに見た者があるかもしれない。 そこには、小さく小さく、しかし流麗な文字でこう書かれていた。 ξФШЩζ λησδΠιη∠Ψι∝ζ Θф」Плзб ησδιηΨι このくにの 山に咲くとき悲しめよ 風は東へ 散るは紅花(べにばな) ──紅く咲いたからといって(わたしがあなたを知っているからといって)、 嬉しいことがあるでしょうか。 あなたはいつか東へと散ってしまうのでしょう・・・ この章のおわり 本日の日記--------------------------------------------------------- 【小夜子の幼稚園時代】 私は五~六歳の二年間(ばりばりの早生まれだったために二年保育)を、横浜の実家からほど近い、‘自由学園’系列の幼稚園で過ごしました。 この自由学園の教育方針は今でこそ知られていますが、四半世紀も前の当時としては実にユニークなシステムの幼稚園で、私はこの園を選んで入れてくれた母にとても感謝しています。ちなみに、私の母は性格でいえば完全主義者なのですが、よくもこのような自分とは正反対の教育を施す幼稚園に入れたものだという感嘆の意を込めて感謝しているのです。 まず、今の多くの幼稚園で見られるような、「ごあいさつがよくできる子」などのモットーはまったく掲げられていません。 私の母などは、幼稚園に通う前から私に「おはようございます」ときちんと頭を下げて言えるようにしつけていましたが、ある日、園長先生であるお爺ちゃん先生に呼び出されて、こう言われて固まってしまったそうです。 「子供が‘おはよう’と言いたくなるまで、待っていてあげてください」 通園カバンも、園児が自分で作ります。 自分でデザイン画を起こし、先生が材料を揃えて完成まで根気よく手伝ってくれます。 クラスもあってないようなもの。しかも縦割りです。 このクラスの名前がケッサクで、「のんき組」「ゆうき組」「やるき組」「げんき組」「にこにこ組」「どろんこ組」というように付けられています。 私は二年間で、「のんき組」と「どろんこ組」でした。ここからも幼稚園時代の私について、推して測ることができると思います(笑)。 毎日屋台のようにして「毛糸で三つ編屋さん」「ダンボールのおうち屋さん」「とびばこ屋さん(とびばこの中に入って様子をうかがっている子も可)」などのイベントがあり、それぞれの興味にしたがって取り組みます。 自分でしたい遊びを見つけてきた子は、それを一日中やっていてかまいません。私のクラスメートの中には、ミニカーの高速道路を木工で作るために、二年間、作業場から出てこなかった男の子もいました。 かくいう私もひとつの作品を数ヶ月にわたって仕上げたりして、(しかも徒弟制度まで考案していた)、ここの幼稚園でなければ相当に‘変わった子’であったことは否めません。 なにをそんなに夢中になって作っていたかといえば、紙に穴をあけるパンチってありますよね。穴をあけたあとに残るあの小さな丸いものだけを集めて糊で貼ってゆき、モザイク画のようなものを毎日熱心に作っていたのです。 最終的には、模造紙三枚分にわたる、お城とお姫様とニョロニョロの大作が出来上がりました。 今の私には、なにはなくとも、集中力だけは備わっています。 ブログを毎日更新することを一度決めたら、わき目もふらず、そこにすべての情熱を注ぎ込むようにと、私の脳にはインプットされています。 終局を見るまで、集中力が途切れることはありません。 これはとりもなおさず、橘幼稚園で得ることのできた、何ものにも代えがたい財産だと思っております。 さて、半月にわたって書き綴った「相生文字の章」がようやく完結をみることができました。 これも皆さまからの応援のおかげさまと心に深く刻んでおります。 毎日、めくるめく量のフィードバック。 豊饒な連鎖に私も否応なく巻き込まれ──これほどの励ましがなければ、ここまでたどり着くことができなかったと思います。責任ということも、教えていただきました。 今後ともどうかお力を貸してくださるよう、よろしくお願い申し上げます。 明日は第四章のはじまり●動く骨壷●です。 なんだかミステリアスな題名ですね。豊の真骨頂というか、いわゆる‘らしい’お話です。豊と小夜も、以前よりずっと仲良しになります。 この章が終わるまで、もう少しだけ全速力で駆け抜けようと思います。 それからちょっとコーヒーブレイク。番外編で息抜きさせていただきたく、お願い申し上げます。番外編では小噺のような楽しいお話が続きます。 では皆さま、また明日に。 タイムスリップして、相生村らしい神霊奇譚を目撃しにきなんせ。
2005年10月29日
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──これは、なんしておまいが持ちようだ。 豊は平静を装ったまま、綾一郎にそう尋ねた。 だが、それは語るに落ちたも同然の言いぶりだった。 そして、この計画に全神経を傾けている綾一郎がそのことに気づかないはずはなかった。 豊はこの文字のことを知っている。 これを確信すると同時に、綾一郎は豊が小夜と似たような問いかけをしてきたことにも、好ましい兆しを見てとっていた。今や、彼はすべてのことが腑に落ちていた。 暗号文字──これはとりもなおさず、豊と小夜がふたりだけの秘密の交信に使っていた文字であったのだ。綾一郎は今日、同じ精神をもつふたりの人間を、期せずして目の前に見ていたのである。 急展開とも呼べる事の運びではあったが、綾一郎はそこまで思い当たった新事実については、ひとまず胸の内にしまっておくことにした。それを切り札として持ち出すのは、自分の計画するところの相生村文化振興事業に豊の協力を要請するという当初の目的を遂げる折で、充分遅すぎるということはない。 最終的に、豊は自白のうえ協力せざるを得なくなるだろう──綾一郎は、証拠のとれた刑事のような気持ちになっていた。 そして、とりあえずは今日あったことのあらましから告げていき、豊を袋小路に追い込んでやろうと、今度は証人を尋問する弁護士のようなはっきりとした口ぶりでその名を告げた。 ──ねねだが。 ──なにて? ──ねねだっちゃ。小夜だいや。小夜がこれを書いたとや。この書きつけは昨日、おまいの席の下から拾ったもんだが。おおかた、おまいに遣ろうとした文(ふみ)だっちゃ。 豊は押し黙り、そして二度とは言葉を話さなかった。 この文が自分に宛てられたものであるとの綾一郎の言が本当のことならば── 豊の頭の中には、ただひとつのことだけが席巻していた。 醇風や 乙女こもごも 春の膳 あなたは醇風の中、春の膳をともにとったその少女なのですか──。 音寧と聞いて 誰とも知らぬ 吾亦紅 今年ばかりは 墨染めに咲け 私のことをねね(紅い花)とわからないのなら吾亦紅よ、今年ばかりは墨色に咲くがいい。 曖昧な好意に対する苛烈な糾弾。 豊はこれほどに強烈なことばの羅列をこれまで目にしたことがなかった。 愛するのも憎むのも、この者は同じ激しさでするのだろう。 この句を神聖文字を解さない綾一郎が目撃したこと自体はたいしたことではなかったが、書き手の少女が自分に直接に渡そうとしていた文ではないかと思うとひどく心が動き、それが彼の顔色にも表れた。 自分の顔色が変わるところをだれかに見られたのではないかと、豊は頬を熱くした。あたりの様子をうかがおうとして顔をあげて、さらに耳まで熱を帯びるにいたった。 綾一郎が彼を見ていた。 鼓動が早鐘を打つのを感じながら、豊は必死に気を鎮めようとした。 綾一郎の顔が近づいてきた。 ──今日はもう、小夜と話はせんだか? 彼はそう尋ねつつ、疑わしげな目を向け、豊は内心たじろいだ。 ──せんわ。 返事をできるだけ短くすることで、なんとか声を平静にたもとうとした。 だが綾一郎の目のなかにある、詮索するような表情は消えなかった。 ──わしは・・・、(小夜っちゃなんは、よう知らんわ) 豊は言葉を継ごうとして、呪(しゅ)にかかったように自分の口が動かなくなるのを知覚した。 ──わたしを誰だかわからないと言うのなら・・・。 小夜の呪だ──。 豊は小さく身をふるわせた。 だがそれは彼を寒からしめるものではなく、未来への期待と憧れに高揚する気持ちがさせた、武者震いのごとく熱い身体の震えであった。 綾一郎はそんな豊の様子にじっと目を留めていた。 概して言うと、やみくもな感情にすっかり混乱している少年にすれば、彼は可能なかぎり自制心をたもっていた。 それでも、ほとんど綾一郎の目はごまかせなかった。 人が抱くある種の感情がはた目にどう映るものか、それがわかる程度に早熟であった綾一郎は、豊と小夜の顔に同じものが表れているのを見てとっていた。 綾一郎は、たとえ誰であれ、人がその感情を抱くのをとがめる気にならないような器の大きな少年だった。彼らの感情が村の子供たち全体になんの面倒ももたらさないであろうこともその気持ちの決め手であった。 このふたりが互いに興味を持つのは必然性のあることだと綾一郎は心から認めていた。 なんといっても、彼らは異分子同士なのだ。 それになにより──と、綾一郎は心の中で誰に向けるともなく笑顔を見せた。 こういう話はいつだってええことじゃなくってよ? そして、豊の肩を引き寄せると、彼が聞いているか否かに関わらず、楽しげな調子で大将命令をその耳に吹きこんだ。 ──あすは話をしてもらう。おまいたちはもっと、自分のことを話さねばならん。 本日の日記--------------------------------------------------------- 【男性を格好良いと思うポイント】 この日記だけでも軽めのコーナーにしたいとは常々思っているのですが、あまりに本文とのトーンが変わってしまうのも困るし・・・。 でも、たまにはこんなテーマなどいかがでしょう。ほんとにたまですが(笑)。 小夜子の独断と偏見による「男性の格好良くみえる仕草」について ・車をバックさせるとき、助手席に手をかける仕草(これは案外定番かもしれない)。 ・受話器を肩に挟んで電話する姿(これも賛同者が多いと思う)。 ・ふだんは「ぼく」とか「わたし」と言っている人が、「おれ」と言い間違えた時。 ちなみに、このマイセオリーはある特定の男性に限ったことではなく、「男性であれば誰でも、この仕草さえすれば格好良いと思える」というのがポイントです。 格好良さを演じる男性がカッコ良く見える年齢は過ぎました。 今は演出された格好良さにはもうひっかかりません。 逆に、男性が期せずして自然に女に垣間見せる‘男性を感じさせる’仕草というものに、惹かれるようになりました。 格好をつけない大人の男性の余裕というものを、私も理解できるようになったかな(笑)。 明日はこの章の終わり●相生文字の隆盛●です。 前章からの長い長い一章が完結します。 皆さま日ごとに応援くださり、ありがとうございました。 やっとやっと、ふたりが直接に出会うことが叶います。 タイムスリップして、豊と小夜の接近遭遇をはるか高みから見物にきなんせ。
2005年10月28日
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帰宅の途を綾一郎に呼び止められた豊は、はじめこの少年たちの騒然とした輪の中に入ることに気乗りがしないふうであるのが、ありありと周囲からも読み取れた。 だが、綾一郎には切り札があった。 小夜に捨てるよう言われていたあの和紙は、実はまだ綾一郎の手の内にあったのだ。 綾一郎はまず、豊の肘を引いて自分の傍らに無理やり座らせた。 豊と綾一郎は春先から初夏にかけてぐんぐん背を伸ばしており、今ではもうどちらも五尺(165cm)に届く身長を誇っていた。 このふたりがすんなりとのびた足を折って座り込んでいる姿は、ほかの子供たちからすれば小学生にはとても見えない大人びた様子に思えた。 彼らは傍目からはまるで、神が同じ精緻な型で素材の違う色違いの人形を作って、面白がってそこに並べているかのように見えた。 さて頃合いというとき、綾一郎は手に握りこんでいた紙片を慎重に扱うふりをして全員の視線を集めたあと、折からの風をはらんで紙片が開かれ、中身が誰の目にもあらわになるよう仕向けた。 果たして、綾一郎の右の手にあって風にひらめいている紙切れの内容がふと目に飛び込んできた途端、ほかの者に先んじて思わず身を乗り出していたのは、豊その人であった。 ──な。まこと目を引く文字やろが。 綾一郎はこの紙切れがめずらしく豊の興味をひいているようであるのを敏感に感じ取ったが、これから始める提案について不必要に警戒されないよう、よけいな詮索をすることなく、鷹揚にうなずいてみせるだけにとどめた。 そして、豊の行動に奇妙に勇気づけられたかのように、一気に宣言した。 ──わしはこの文字を今のひらがなに替えて、相生に広めようと考えよるだが。今、うちの連中とその話をしてたのに。おまいはどう思う。 ──・・・・・・。 豊からの答えはなかった。 その切れ長の目は、綾一郎の手の中の書きつけに釘付けになっていたのだ。 そこには見紛うかたなき神聖文字──豊にあっては、不二屋敷の蔵と精霊の森でしか目にしたことのない文字が、はっきりと書つけられていた。 Θфлзб 」ПЭБэ¬∂ ∠Ψι∝」 ねねときて たれともしらぬ われもこう ЖЛξФШЩζ λησδΠιη ことしばかりは すみぞめにさけ 音寧と聞て 誰とも知らぬ 吾亦紅 今年ばかりは 墨染めに咲け 豊はこれを読むあいだ、ずっと自制をたもっていた。 だが心は激しく騒いでいた。 ねねと聞いても 誰だかわからなかったのなら 吾亦紅の花よ 今年ばかりは墨色に咲くがいい── 書きつけに記された言葉の数々が、豊の心をこじ開けんとして置かれた爆薬の火花のようにスパークして飛び散り、長いあいだ閉めきられていた何万もの感情の扉が次々と開いていく。 豊の心身は自分の感情を解放することへの慄(おのの)きを覚えていた。 彼の内心の激しい動きは、周囲の空気をびりびりと震わせ、それは綾一郎にもその場に居合わせた少年たちにも感じ取ることができるほどの峻烈さで彼らの胸に迫った。 だが、こうしたすべては、綾一郎の部下たちの耐えられる理解の限度を超えていた。 豊が動揺を見せながらも黙したままでいるので、生徒に休憩させる頃合いを知る教師のように、綾一郎は部下たちに今日の話はこれだけだと声をかけた。 少年たちは豊の様子を気遣わしげに見やりながら、けれども大将のいいつけに従ってすぐさまその場から散った。 自分のまわりの動きも知らぬげに頭を落して紙片の書きつけを読み込んでいた豊が、ややあってあたりに静寂が落ちた折に、ふいに顔を上げてきた。 そして、綾一郎の目をひたと見つめ、いつにない鋭い声でこう尋ねた。 ──これは、なんしておまいが持ちようだ。 本日の日記--------------------------------------------------------- 【女性天皇を容認】 机上の空論じゃああああ! と思っているのは私だけ? 皇太子や紀宮の例をひくまでもなく、皇族の結婚は難しいのです。 誰よりも宮内庁がそのことを骨身に染みているのではなかったのでしょうか。 このデンでいくと、敬宮が127代天皇になるわけです。 果たして20年後、この女性にわが国の歴史上経験したことのない夫が得られるのか、さらには子供がちゃんと誕生するのかまで考慮しての決定なのでしょうね! 天皇の夫なんてどこから捜してくるの? というわけで、少々こじつけながら、本日は天皇の語源について知るところを述べたいと思います。 天皇の訓読みは「すめらみこと」、「おおきみ」、「みかど」などがあります。君(きみ)は元来地方豪族の尊称に用いられましたが、偉大な君という意で、大君(おほきみ)といえば天皇を示しました。「みかど」は御門の意で、御所の大きな門から象徴的に天皇を示す語となりました。「すめらみこと」の語源は、「清ら」(すめら)であり、一般的に考えられている「統ら」(すめら)は俗説です。 天皇はその性格から本来は祭祀主であり、神々を祭る最高位者であったわけで、神々への奉仕の条件は清らかであること、穢れのないことから、「すめらみこと」の語が生まれたと考えられます。 ちなみに、「すめる」の語は、サンスクリット(梵)語の、至高の意で蘇迷盧sumeruと音韻・意味が一致しています。また、最高の山を意味する蒙古語のsumelとも同源であることが考えられます。また、仏教の宇宙観でいう世界の中心にある山は須弥山であるのは周知のところだと思いますが、これはとりもなおさず、梵語のスメルを音訳した言葉です。 天皇が「清らみこと」であるならば、その生活は禁忌に満ちたものであり、とくに祭祀においてはいっさいの穢れを遠ざけることが何よりも重要になってきます。 仮に天皇が女性であった場合、毎年の正月行事から新嘗祭にいたるまで、あらゆる祭祀的行事に対してその体調をいかにしてもっていくのか、また妊娠中の祭祀などはもってのほかであるわけですから、その期間は天皇に代わって祭祀を行なう斎宮(さいぐう・いつきのみや)を、これまた天皇家の身内の中からたてなければなりません。 これひとつ挙げただけでもそれに伴う問題は山積みなわけで、宮内庁はさぞかし頭が痛いだろうなぁと、私などは心からお察し申し上げる次第です。 なによりまして、女性天皇が誕生する頃には、今回の会議に名を連ねたお歴々は皆自然消滅しているわけであり、これはとりもなおさず「とりあえず繋いだのちは使命の外」と宣言しているに過ぎません。 ひとりの女性の人生が、この一度の会議で決まってしまったことに、私は同じ女性として疑問に思わざるを得ません。このような流れは、キャリアとして名を馳せた皇太子妃がいちばん望んでいないものであるように、どうしても感じてしまうのです。 では解決策はあるのか──と問われれば、ないと無責任に言うしかないのですが・・・。 オカルトチックな話をするならば、やはり戦後の宮家廃絶がなんらかの神の怒りに触れているとか。男子皇族が40年に渡って生まれないなどというのは、自然界の摂理に鑑みてもありえないわけで、私などはそこになんらかの作為を見てしまいます。ひるがえって、廃絶した宮家からはこれ見よがしのように相当数の男子が次々に生まれています。ですが、これはもう議論しても詮のないこと。 現実味のある策としては、来月に結婚する紀宮に皇籍を離脱させず、婿養子をとるという形で皇居に居残ってもらうという手があると思います。 彼女が男子を産んだ場合、そのまま天皇決定ということでもよいのでは? この方が女性天皇誕生よりも、はるかに現実的で納得できるような気がするのです。 だいたい、紀宮が結婚に向けて動くたびに新潟(最初の婚約会見予定日)・スマトラ(婚約会見当日)・北九州(結納の儀)と、次々に大きな震災が起こるわけであり、神職の最高位にあたる天皇家の人々がそれを気にしていないわけがないのです。(←ちなみに、この話は宮内庁侍従から身内が直接に聞きました。天皇皇后両陛下の古希記念のデパート展に、美術史の観点から関わったものですから)。ですがこれはあくまでも災害で苦しんだ方の感情を思いやった考え方はなく、深慮に欠けた物言いであることは否めません。 いや、市井の人間の戯言として、お聞き流しくだされ。 明日は●小夜とは誰か●です。 思春期を前にした豊の名状しがたい慄きに共感して心を寄せる綾一郎。 タイムスリップして、彼が豊にかけた言葉にうなずきにきなんせ。
2005年10月27日
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その日の放課後、綾一郎と尚敦、そしてほかの数人の相生の少年たちが、分校からの帰り道の途中で道草をしていた。彼らは不二屋敷の所有する池のほとりに円座を組んで座り込み、なにやら喧々諤々と話し合っているのだった。 この池の所有者の家の子である豊の姿が見えないとわかると、綾一郎は小隊を送り出して彼の捜索に当たらせたが、それはいつものことであって大きな問題ではなかった。そして彼らがなんの報せも持たずに戻ってくると、綾一郎はこの件を後回しにするべく頭から締め出した。 結論から述べると、この日の会合では、少年たちの間に確固とした団結が生まれることとなった。 綾一郎はまず手始めに、小夜が自在に操るところの暗号文字について自分の知る限りをあますところなく語り尽くした。 ただちに相生文字を学びたいという部下たちの要望は、まったく綾一郎の首尾ようであった。 だがこの計画をつつがなく実行に移すにあたって、まずは準備期間として一週間かけて小夜に相生文字を公表するよう要請し、最終的には彼女に新しい文字の普及のための講義させることを目指すまでの流れが考えられた。 綾一郎がその説得に当たることになったが、より彼女を袋小路に追い込める確かな保険として、小夜より年上の少年たちも皆それに加わることになった。 この暗号文にもなり得る秘密文字の普及という大将の提案には、部下からも大きな関心が寄せられ、さらに相生の集落のなかで異分子ともいえる少女が彼らを導くということもあって、このところ静かであった相生村の子供たちの日常に、大きな変化が生じる気運が見えてくるのを綾一郎はその場で直接的に感じていた。 綾一郎は全員の意見が一致するのを見て、心おきなく相生文字普及計画に全神経をかたむけられるようになった。そうなると、彼は部下である少年たちのひとりひとりに、自分はこの計画に欠くことのできない重要な一員なのだと感じさせるすべを心得ていた。 やんちゃで人間味にあふれ、少々強引なところもあるがそこがまた陽性の魅力となってどこか心を惹きつける──そんな綾一郎がひとたび口を開けば、少年たちは次々に感化されていった。 感化といっても会議が始まったばかりのうちは、新しい文字を使うというのはどのようなものになるのだろうとぼんやり思いめぐらすくらいのものだった。しかし最後には、少年たちの皆が自分も相生の代表として、新しい文化としての暗号文字を使いこなす道を歩きたいという強い欲求にとらえられるようになった。 だが、綾一郎の心の中には、もう一つの計画があった。 実は、部下たちに立て板に油の勢いで語るあいだにも、彼は辛抱強く豊が現れるときがくるのを待っていた。放課後に何度か教室で声をかける機会はあったものの、いざその瞬間となると、豊の存在はいずこへと見えなくなっていた。それは豊にあってはよくあることであったが、綾一郎は今日という今日はゆずらないつもりでいた。彼の屋敷にほど近いところを道草の場所に選んだのも、このためだった。 会議にあらかた結論が出たのを見て、綾一郎は胡座したまま部下たちが熱意のある意見交換をし始めたのに耳を傾けるふりをしながら、内心ではひとりじっと池のあるあたりを見据えていた。 果たして、ややあってから綾一郎の緋色がかった瞳にお目当ての少年が像を結び始めた。 ──ゆた! 綾一郎は、せっかくに見い出したその姿がまわりの風景に溶けて消えないうちに、先手の一声をあげた。口角泡を飛ばしていた部下たちが、いっせいに大将の方をふり返った。 豊からは返事がない。 ──おまいに用がある。こっちゃ来(こ)。 不二屋敷の敷地のなかにある池のほとりにたむろっている少年たちには目もくれず、その存在でさえ知らぬげであった豊が、その大音声(だいおんじょう)にようやく視線をめぐらせてきた。だが綾一郎はそんなことには慣れっこだった。綾一郎にかかっては、豊の常なる関心の薄い態度などは計画を消沈させる原因にもならなかった。 綾一郎はいつもながら自分だけかやの外を決め込んでいるふうの、この風変わりな同級生を巻き込むべく、傍らの地面をぽんぽんと手のひらで叩いて示した。 彼は今や小学校最高学年の大将として相生村の子供たちを率いていたが、副将はその一つ年下で勇気はあるが経験の浅い尚敦なのであり、この大将は実はこのところの日頃から、同い年の参謀を欲していた。綾一郎はこの先必ず顕われるはずの予期しない前兆を読み取るという役割で、自分の大将としての道行きの同行を、この呪(まじない)の子に命じるつもりだった。 綾一郎はいつまでたってもこちらに赴きそうにない豊の様子に、焦れたように叫んだ。 ──ええけ、来いや! 相生の大将が自分になに用なのかは知る由もなかったが、断る理由もないので、豊はその声が耳に届いてからは素直に指示に従った。 豊はゆっくりと綾一郎のほうに近づいていき、部下の少年たちは何事が起こるのかとすこしずつ大将のそばから身を引いていったため、彼は最終的は自分に声をかけた人物のかたわらにいた。 綾一郎はすかさず豊の腕をつかみ、ぐと自分の方に引き寄せた。 ──おまいと話がしたい。 話だと? 豊は思った。 なにかよくないことでもあったのだろうか。 彼は綾一郎の目のなかに手がかりを探そうとしたが、どこにも曇りは見つからなかった。 そこで、尋ねて言った。 ──いつ。 相手は答えた。 ──いますぐ。 本日の日記--------------------------------------------------------- 本日は、メールでのご質問の多い事項について、知るところをご説明させていただきます。 すなわち、 【呪方(まじないかた)は普段どんな服装をしているのか?】 基本的に、日常においては浴衣のような簡易的な着物です。 彼らは針を通した衣を嫌うので、浴衣も袖や脇を糊で貼ったものを着用します。針を通した衣は、神々に対して礼を失するそうです。なぜなのかは聞きませんでした。今度聞いてみましょう。 一回の洗濯でもちろんバラバラになってしまうので、また糊で貼りなおして着られるようにします。大変な手間ですね。 神祀(かみまつり)を行なうときは、大人の男性はいわゆる神主の装束。 女性、子供であれば男女の別なく巫女装束をします。 十三参(じゅうさんまいり)を終えていない十三歳未満の少年は、神子(みこ)と呼ばれてやはり巫女装束をします。 巫女装束とは、針を通さない純白の白衣に濃色(こきいろ)の袴ということです。 私などは最初見たとき「巫女なのに袴の色が朱じゃない!」と思ったものですが、相生の呪方の袴は濃紺です。 この濃色の袴は、男女ともに第二次性徴を迎えていない、いわゆる清童のみに着用を許されます。逆に清童ではなくなった場合に朱色の袴に変わります。このあたりの判断は微妙なものがあるように思いますが、実は申告についてはけっこう厳密で、今後本文中でもどこかで触れることになりますが、自己申告を基本とします。 申告漏れがあった場合、神の祟りがあるので結局バレてしまいます。それで、自分の袴の色を変えなければならない事情が身の上に生じると、すぐに家長に自己申告し、この場合に限ってお咎めはないことになっています。周囲にも袴の色が変わったことで、暗黙のうちに了解され、その後このことが皆の話題に上ることは厳に慎まれます。少しでも話題にすると、今度はその者が神から祟られます。 けれどもこれはあまりに個人差がある話なので、それとわかる日時をあまりにはっきりと人に知られることを疎んじて、十三歳の誕生日を境に緋袴(ひばかま)に変えてしまう子もいます。 さて、袴にも女性が穿くスカート状の行灯袴(あんどんばかま)と、男性が穿く股のある雄袴(おばかま)があります。 大人の男性では階級によって袴の色が決まっており、白柄入→紺柄入→紺→濃紺→純白となっています。袴の左右にはほぼ膝丈までの深いスリットが入っていて、袴に付いているひだ状の折り目は全部で八枚。折り目は前後にありますが、前の方が多くなっています。 袴の帯は前側から帯を結び、つづいて後側の帯を前へまわして結びます。 前で結ってある結び目(通称巫女結び)は、後ろ側からの帯を締めたものです。お正月のバイト巫女さんでちょうちょ結びをしてしまっている方がいたりしますが、巫女結びは別です。実際はちょうちょ結びの輪がひとつ少なく、さらに複雑で美しい過程を経て、後ろから前に長く一本の端を垂らします。 また、神子(みこ)の装飾品として、一番に大切にされているのが「髪」です。髪の美しさは呪方にとっては非常に大切にされるもので、女性ならば必ず長く伸ばして紙縒りと水引でまとめ、男性であっても俗に言う‘天使の輪’が四つもできるほどに美しく手入れがされているので、あまり見かけない人でも「あ、この人は呪方だ」とすぐに所属がわかります。 この巫女装束の上に、寒い季節は千早(ちはや)という被り物をします。 呪の子とはいえ、分校に行くときや市内に買出しに行くときなどにはもちろんシャツにズボンという普通の洋装をします。けれども、屋敷に戻るや、すぐに着替えてしまいます。彼らにとって、洋装は通学などに際して世間と足並みをそろえるよう便宜上着用している、いわば制服みたいなものなのです。着慣れているのは、やはり着物ということになるようです。 呪方の普段の装束について、少しでもおわかりいただけたでしょうか。 今回は本文よりも日記の方が長かったりして(笑)。 明日は●豊、綾一郎に詰問す●です。 小夜が豊に宛てた文の意味が、ようやくはっきりします。 タイムスリップして、豊が思わず声を荒げた理由を推理しにきなんせ。
2005年10月26日
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次の日、綾一郎は授業をそっちのけで、他集落の子供たちに流れるどんなささいな信号をも見逃さないようにじっとまわりを伺っていた。 田中綾一郎は何をか勘付いている──そう思わせるだけでも、充分に相生襲撃という既存の計画を狂わせる要因となるだろう。 しかし、その日の昼近くになって、彼は自分に課したこの相生の命運をかけた重要な使命を惜しげもなくほかしてしまった。綾一郎の勘は、彼にこの教室に不穏な動きは別段ないようだと告げていた。 しかし、暗号が存在することは確かだ。 暗号を要するほどの通信内容とは何なのだろう。 一抹の不安は残ったが、綾一郎はこの問題が今日明日で解決できるものではないことはよくわかっていた。ともかく、これからは少し気をつけていくことにするとしよう。 ところが、その‘気をつけていくこと’は、案外とすぐに気のつくことになった。綾一郎は五校時(五時間目)の授業中に、自分の斜め前の席に座っているあまっちょの帳面の落書きに、その文字を見たのだった。 ──ねねよ、なに書きよるだ。 放課(休み時間)になると、すぐに綾一郎は小夜をつかまえた。 ──なにって、ここの言葉だが。 小夜は別段秘密にするふうでもなく、大将に即答してきた。 ──うちが勝手に見つけたん。 ──??? 綾一郎は、焦れたようにして小夜の小さな肩をグと引いた。 ──おまい、昨日も紙切れにそがなもん書きよったな? 小夜は綾一郎の言を聞くや、つと眉を寄せて糾弾の構えをとった。 今度は小夜が詰問する番であった。 ──大将は、なんしてそれを知っとんさるの? ──昨日の掃除の時間だかに、そこいらに落ちとったのをわしが拾ったのだが。 席に座ったままでいる小夜が三白眼を閃かせて睨み上げてきたので、綾一郎の口調は多少弁解めいたものになった。 ──あ。それで今朝方はあのお兄やぁから返事が来んかったわけか。 小夜はしたり顔に戻ってあっさりと理解すると、 ──で、その紙はほかしといてくれたんえ? と念を押すように言った。 ──ああ。 綾一郎は小夜の顔色をうかがうつもりで、まずはそう短く答えた。 だがそれ以上の詰問はなかった。その返事を聞くや、小夜はもはや大将に用はないとばかりにガタンと音をさせて席を立ち、みくまりたちを追って教室を出ようとした。 が、行く手を綾一郎に立ちはだかれて、引き戸の前で立ち止まった。 ──それでおまい、その文字でなにを書きよるだ。 小夜はただの一言でそれに答えた。 ──相生のこと。 綾一郎は頭の中にかかっていた霧がぱっと消えるのを感じた。 もともと、綾一郎は武人よりも人間臭い大将だった。あまっちょにはちょっかいを出す、雛流しでは部下のばちあたりな悪さも放任、自らも掃除をさぼる。 しかし、彼には芸術を愛する資質が備わっていた。彼自身は芸術家ではなかったが、芸術の持つ力を信じているような子だった。 その綾一郎は、常々から武力だけでなく、文化的な面からも相生の名を子供たちの間に轟かせたいと願っていた。武力は自分がいればなんとかなる。もと斥候としてその名を轟かしていた綾一郎には、そのあたりの自信はおおいにあった。しかし、彼は集落の子供たちの中で、文化的な資質を持つ子はまだ見抜いてはいなかった。 誰が臥竜か──綾一郎はここのところ、焦りと感じ始めていた。 それだけに、小夜の相生文字というべき記号の実用化には、綾一郎は感嘆の思いを禁じえなかった。これは新しい文化だ。ぜひ取り入れなければ。 教室から去ってゆく小夜を、綾一郎はもはや追うことはしなかった。だが彼は、この文字を相生の集落のすべての子供に知らしめるべく、尽力を惜しまないことをその場で固く心に決めていた。 本日の日記--------------------------------------------------------- 昨今、色々な宗教が神の名を騙ってテロや戦争を行なっています。 昨夜もバグダッドで大きな爆発があったようですし、先日に友人宅に集まったおりには、スペインや英国までもがテロに遭ったことを鑑みて、日本も可能性を見越して行動したほうがよい──などの話題が出ました。 それぞれに自分の宗教があって然るべきだと思います。 けれども、そのそれぞれの神が、人々になにを望んでいるのかを考えることは重要なことです。そこで、 【いのち──ひとの成長にともなって変わりゆくもの】 今日は、私たちにとって最も大切なものである「いのち」の語源について知るところを述べましょう。 「い」は息、「ち」は霊。 したがって、わが国では生命の直接的証(あかし)である息づかいを以て、生命の義としています。生命は息をしているうちに在るからです。これは各民族語の間で共通する観念で、spiritやanimalは、みな「息するもの」を意味しています。 生命の不思議は、科学の進歩にも関わらずいまだに解明できていません。 男女の生殖の結果、新しい生命の宿ることは太古から経験上知り得たとしても、その生命はどこから何のために生まれてくるのか、実はいまだに科学的には理解されてはいません。むしろ、クローン技術などの開発によって、現代人は生命についてますますわからなくなってしまったのではないでしょうか。 ところが、現代にあっても相生村の人々には生命や人間観に明確なイメージがありました。産声をあげ、息を始めたときから「いのち」がはじまり、「ものごころ」がついて「もののあはれ」がわかるようになって、初めて「ひと」になることができたのです。 人の語源は、「霊(ひ)の留(と)まるところ」だと考えられています。 やがて、人はある目的を持って生きていくことになります。漢字の「命」を「みこと」と訓読みすることは周知のことですが、命(みこと)は、神のことば(命令)を奉じて、その実現のために努力するものを指し、これを「みこともち」と呼びます。 相生村から離れて暮らす私たちも、本来は神の「みこともち」として自らを培ってゆかなければならないのかもしれません。 相生の神々は、「万民和楽」を求めていました。 明日は●綾一郎、豊をつかまえる●です。 綾一郎の行動を見るにつけ──男性は少し強引な方が、意識していないにせよ彼の人生において得をすることが多くなるようです(笑)。 明日もタイムスリップして、神々によって閉ざされていた豊の世界を、綾一郎が実に彼らしく力技(ちからわざ)でこじ開けてくるさまを、高みから見物しにきなんせ。
2005年10月24日
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その日、綾一郎は教室掃除の当番だったので、早速とんづらしてしまおうと荷物をまとめていたところ、自分の右足が何かを踏んでいることに気がついた。 見ると、それは和紙の切れっぱしだった。 これを捨てたら一応掃除したことになるかも、などといいかげんなことを思いついた綾一郎は、裸足の足でそれを器用に拾いあげた。 紙にはなにか書いてあるらしかったが、彼は他人の手紙を読む趣味はなかったので、そのままゴミにしてしまおうと、その手に握りこんだ。 そして、掃除当番の要員たちにさとられないように帰り支度を終えた綾一郎は、いかにしてこの場を抜け出すかという対策に熱中してしまい、手にした紙きれはそれからしばらく彼の脳裏から忘れられた。 ─── 掃除当番とんづら計画は、まったく綾一郎の首尾ようだった。 身も心も浮き足立っていた帰り道、彼はだがその手だけ緊張が解けないのに気がついた。 そこではじめて、手に握りしめたままでいた紙切れを思い出したのだ。 今ここで道ばたに捨てるか、それとも律儀に家まで持って帰るか、そのちょっとの思案は、無意識に紙にいった彼の視線を捉えて、それに気づかせるに充分な時間だった。 紙には、何か、書いてあった。 いや、もうそれは先刻承知のことだ。ところが、それは本当の意味での‘何か’だった。 ──・・・・・・? 綾一郎はたいそう驚いて、その紙をつまみあげて自分の目の高さにまで持っていき、しげしげと時間をかけて眺めた。 何度見ても同じだった。 紙には字は書かれていなかった。絵も描かれていなかった。 しかし、確かに何か書いてある。 記号、と形容すればよいのか──なんともはや不可思議な文様が、律儀な様子で四角に切り揃えられた小さな紙面の上に、整然と並んでいたのである。しかも黒々とした墨書きの筆跡で。 綾一郎はすぐさまそこらの道ばたに座り込み、初代あばれはっちゃくのごとく‘ひらめき’があるまで、今ここで本腰を入れて頭を回転させることにした。 綾一郎はその大きな目をさらにまんまるにして、今いちど紙片を見込んだ。 」ПЭБэ ∠Ψι∝ζΘф 」Плзб ¬∂Бэ¬∂η σδιη¬∂Э それは、ぜんぶで三十一文字。 よく見ると同じ記号が何回となく使われていたりもする。 綾一郎は思った。 これは何か意味のある羅列だ。 そしてこうも思いを巡らせた。 ──誰ぞ、暗号でも考えて作戦でも練ってるのやろか。 作戦──それは他集落への攻撃の作戦を意味する。 そして、どこかで秘密裏に出来上がった作戦は、田中綾一郎という新大将の様子見をしているがために、いまだに他の集落から戦がしかけられていない相生がこうむるに決まっている。 いよいよ打って出てきたか。そこまで考えて、綾一郎はこのところ忘れていた自らの大将という立場というものをはたと思い出し、さっと緊張した。 暗号まで考えているのならば、これは意外と手ごわいことになりそうだ。 まずは暗号の出所と、極秘計画の内容、進み具合を調べなければ。 本日の日記--------------------------------------------------------- 【屋号について】 本文に出てくる登場人物は、みな屋号を持っています。 屋号とは、端的にいえば家の称号のことです。 本日は、この屋号について少し説明させていただきます。 「屋号」とは一般的には‘伊勢屋’や‘成田屋’のたぐいの商家や俳優などの家称を指しますが、相生村においても、その者がどこの家系に属すのかを示す呼び名のことを指しています。 「屋号」の多くはその家を特徴づける生業や外観から付けられたもので、たとえば、三年生編の大将日野西武人は、「あぶらやのいしきな」と呼ばれています。同じように、不二豊も三年生編の第十一章で他の集落の子供たちから「さわのゆた」と呼ばれています。 相生村には同姓世帯が多く、田中家、中村家、山根家など、同じ名字の一家がたくさんいます。名字だけでは、どこの家の人なのか区別がつかないため、名字ではなく屋号と組み合わせて呼んでいるのです。 屋号には、「あぶらや」「すみや(米倉家)」などの生業(なりわい)を示すものと、「さわ」などの住んでいる家の特徴を示したものなどがあります。「さわ」は不二一族のうち、本家に属す者の屋号です。本家が一族の住まいのうち最も奥にあり、それが沢に接していたからこの名が付きました。一族の人々は、ほかに「門」(かど)、「炊」(かしき)などの屋号をそれぞれ持ち、家の所属を明確にしていました。 このほかに、その者を特徴づける性質などを屋号のようにして呼ぶこともあります。ちょうど綾一郎がこれに当たり、赤銅色の髪を持つ彼は、「月毛(つきげ)のすせりな」と呼ばれていました。 そこで、小夜の山口家といえば、横浜からやって来た者という意味をこめて、「みなとまち」という屋号で呼ばれていました。他の集落の人は、「みなとまち」と聞いて「境港」から来た者だと思っていた人もいたようです。 最近はとんと聞かれなくなった屋号ですが、一見しただけでその人を‘特徴づけられる’、あるいは‘端的にあらわしている’ものを屋号と定義するならば、もしかしたらブログのHNなどが現代のそれに当たるのかもしれません。 皆さまの素敵な屋号を見て、「ああ、この人はきっとこういう感じの方なんだろうな・・・」などと想像してみるのが、私の楽しみだったりもするのです。 明日は●綾一郎、小夜をつかまえる●です。 ナイショのことですが・・・当時からこの大将はけっこう人気がありました(笑)。小夜にしても、なにかで集まっている際に、子供たちのなかに彼の雄弁な瞳がないと、なんだか落ち着かない気持ちになったことをここに白状するべきでしょう。 タイムスリップして、この相生の少年らしい大将が小夜に何を見い出したのか、教室の扉に寄って眺めにきなんせ。
2005年10月24日
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翌日、いつもの遊びを終えて家に帰っていく子供のさりげなさで楡の木の前に現われた小夜は、その木の腹に新しい書きつけを見い出して、ぴたりと足を止めた。 そして、かすかに顔をしかめた。 それは小夜が凝視によってのみ見ることのできた書きつけと比して、あまりにもはっきりと読み取れるものだった。 まるで、 ──読むなら読むがいい、 と威嚇するかのように。 小夜は自分のふるまいが過ぎていたのではないかと心を曇らせた。 たとえば、ひとめでこの森のなかでも重要な地位にあると目される楡の木に、断りもなく文を結んだこと──それに、たとえ書きつけの主が豊であると推測できていたとしても、彼がおそらくは秘密裏に行なっていることを面白半分に暴いたことなどを省みれば、自分は少し・・・否、かなり無遠慮であったかもしれないという思いが、今更ながらわき起こってきた。 小夜は楡の木の下でとぐろをまいているような無数の根を踏みつけないよう細心の注意を払いながら、おそるおそる書きつけのもとに近づいていった。 自分は不幸な結末を招いてしまったのではないか。 この土地が隠す大切な秘密に深入りをしたばかりに、何者かの叱責を受けるのではないかと怯える気持ちがのしかかってきた。 書きつけに目の焦点を合わせることができないまま、小夜はこれまでの‘相生文字の解読’という自分の行為は、たとえば言語学者の調査のような、単なる研究の域を超えないものだったのだと思いこもうとした。 それ以上のものにしてはいけない──自分の心のなかでさえ。 もう終わりにしなくては。 そうやって罪の意識に目をすがめる小夜の瞳に、否応なく眼前の書きつけが像を結んだ。 Θфлзб 」ПЭБэ¬ ∂∠Ψι∝ 醇風や 乙女こもごも 春の膳 何秒か、小夜と書きつけとは互いに見つめあっていた。 小夜はぴくりともしなかった。そのうち楽しげにさえずるアトリのしつこいような声にようやく正気をとりもどした。 彼女の精神的危機はすでに去り、それは楡の木に残された書きつけの効果がもたらしたものであることは間違いなかった。彼女はすっかり生き返り、生気に満ちあふれていた。 小夜は今、無意識のうちに恭しく楡の木の端に跪き、顔を仰のかせて新しい書きつけをうちながめていた。そして、この実に魅力的な不思議文字の書き手と、ほんとうの接触を果たせたことが腑に落ちて、今度は逆に昂揚した気分を抑えられなくなってきた。 彼女は書きつけのある幹に顔を押しつけ、深々と樹木の匂いを吸いこんだ。 小夜はこれまでのひとりの時間、家に帰ってからの相生村とは隔絶された、家族だけとともに過ごす時間でさえも村の子供として充実させてきたつもりだった。妹と台本を作り、相生村を舞台にした劇も公演した。彼女は自宅にあっても、相生村の流儀にすがりつこうとしていた。そうでもしないと、不安に──自分は本当の意味ではこの村に受け容れられていないのではないかという煩悶の重荷に苛まれた。 それがいま、消え失せた。確かにこの地に存在するものの手によってとり払われた。 小夜は楡の木から返歌を受けた。 もうひとりではないのだ。 だが、なぜそんなことがいえるだろう。 この楡の木に見える文字は二百人からの相生の民が古来より隠し伝えてきたもので、彼らの呪詞(まじないことば)といえば、その意味の半分も聞き取ることができず、その信仰はいまも、おそらく今後とも小夜には謎であるはずなのに。 けれども、この時から小夜は、たしかに書き手と自分とのあいだで行き来がはじまったのを感じていた。 楡の木を介在させて、彼らは今や互いに意思を通じ合っていた。 小夜がこの考えに至ったわけは、樹肌に書きつけられたこのうたが、たったひとり自分に向けられているメッセージであることを読み取ったからという一言に尽きた。この稀有な言伝とはすなわち、 あなたは醇風の中、春の膳をともにとったその少女なのですか──。 ‘醇風’とはそのままおだやかな風という意であると同時に、小夜たちの分校の名にかけてあるはずであった。 小夜は昨日、醇風小学校分校でお弁当を食べた時のことを思い出した。それは、雨の日に買出しに行った人員を名を思い出すことよりも、ずっと容易であった。 昨日、分校でお弁当を囲んでいた班の中に、女の子は自分ひとり。 この句を書きつけた者は、もはや小夜のことを描写したとしか考えようがない。 そして、その中にいた者は、相生のおのこではただひとり・・・。 豊──。 自分への書きつけの送り主がはっきりしたところで、これ以上の滞在は意味がなかった。 なによりもすばらしいのは、楡の木にある小さな言伝だった。彼女はそれをしっかりと頭の中に覚えこみ、けっして忘れたりするまいと心に決めた。この村の人々とともにある未来のなかへと、彼女を導いてくれる呪文の、これは最初の一句なのだ。今後の可能性は、無限に開けているだろう。 それを確信すると同時に、小夜にはある別の考えも浮かんでいた。 小夜と同様、豊もまた孤独であったのだと──。 自分だけがこの村のなかで異質な者だとの思いに囚われていたとき、小夜は豊について思いやることができなかった。 けれど今、その目は豊への共感に大きく開かれていた。 小夜が知り得るかぎりのその人となりをつぶさに鑑みても、間違いなく彼はその身のうちに多くの秘密を隠している。 生まれは不二一族であるのだろうが、それ以外はほとんど精霊といったたぐいの存在と変わりのないように小夜からは思われた。神々のことばを、まるで母国語のようにらくらくと作り出す。ひるがえって、人間界にあって彼は寡黙である。人語は彼にとって異質なことばなのだ。それでいて自分が特別な身であるのだというそぶりは一度たりとも見せていなかった。けれどもそれは、自分が人外のものであるような気配を、かけらも感じさせないようにふるまっているからなのだ。 小夜は‘神に最も愛される者’に生まれついてしまった者としての豊の慎みと威厳を、そして彼の痛みを思った。 同時に、豊が自分という特異な存在をあつかうのに慎重であることを思い出し、小夜は今後はそれを尊重しようと決心した。 小夜はもはや文を結ぶことなく、そのまま精霊の森から離れ去った。 その胸のうちには、ひとつの返礼のことばがあった。 豊よ、明日の朝、私は伝えるべき思いを伝えよう──。 本日の日記--------------------------------------------------------- ↑とはいえ、物語の構成上、明日の朝すぐにというわけではないかもしれないのですが(笑)。 【十月は神在月?】 日本では、明治5年12月3日(明治六年1月1日)に太陽暦を採用し、一年を12ヶ月(365日)として、四年に一度うるう年をもうけることにしました。 それ以前は、太陰暦で月齢(30日)を数えてひと月とし、より誤差が大きかったので閏月(うるうづき)を設けて調節していました。だから一年が13ヶ月の場合もありました。 陰暦では、季節の移ろいに従って一月から十二月までさまざまな月の異名が生まれました。たとえば今月が「神無月」(かんなづき)と呼ばれることは、ご周知のとおりだと思います。 一般には、全国の神々が出雲大社に集まり、他の地域では「神無し」の状態になるため、「神無月」といい、出雲地方では逆に「神在月」(かみありづき)というとの説が信じられています。しかし、この説は中世以降、出雲の御師(おし)によって広く流布されたもので、当て字に過ぎません。 「かんなづき」の「な」は上代では連体助詞であったのですが、平安時代になると一般に使われなくなったので、「無し」の「な」と曲解され、「神無月」の俗説を生じたものと思われます。 では、「神の月」とするならば、なぜそのようにいうのか理由がなければならないわけですが、これを相生村の伝承にてらしてみると、「かみなし」の語は、「醸成」(かみなし)に当たることが言われています。その理由は、「翌月ノ新嘗ノ設ケニ、新酒ヲ醸ス月ノ義ナリ」と古文書に説明されているのです。翌月の新嘗祭を迎えるにあたり、神事に専念したから、「神の月」との名がつけられたのです。 さて、不二一族では、今月である「神成月」に子供が多く生まれることで有名でした。豊の母さまも、ちょうど昨日の22日がお誕生日ですし(←よく覚えてるな)、父である小角さまも旧暦の八月下旬──つまり今月の生まれだと聞いています。もちろん、豊も今月に生まれました。 相生村にいたときは、この十月のみに誕生する一族についてすごーく不思議に思ったものですが、今から考えるとこの現象は案外と単純に理解できます。おそらく、不二一族には子供を成すにもなんらかの掟があって、正月に子供を作るべしとのルールがあったのでしょう。なんといっても「神成月」に生まれてくる子なのですから、「子を成す」ことを「神を成す」の意に合わせて幸(さき)わったのでしょう。 さて、本日は神成月鬼日(かみなさりつきたまほめのひ)。 今日でこのブログを開設して二ヶ月になります。この間に出会うことが叶った多くの方に感謝を──毎日ご投票くださる方にも。 私も隣人のために手を動かせる人間になりたい。 明日は●綾一郎、神聖文字を見い出す●です。 新大将が皆さまに久しぶりにご挨拶します。 タイムスリップして、この活気あるガキ大将に会いにきなんせ。
2005年10月23日
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楡の木のたもとで物思いする豊の回想は、おそろしく最近に立ち戻っていた。 実はその日の昼に、豊はその少女とともに食事の輪を囲んでいた。 橋本先生は、集落ごとの分裂を避けるために、お弁当の時間にはくじでグループを決めて一緒に食べさせるようにしていた。 そして、今日は偶然にも豊はその少女と同じグループであったのだ。 ただし、くじ運のいたずらで、今回のグループに女の子はその少女しかいなかった。豊は同じ集落の者として、この少女に声をかけてやるべきかとも考えたが、少女が自分ひとりがあまっちょであることなど気づかない様子で他の集落の少年とも楽しげに会話しているのを見て、べつだん手助けすることもないことをさとり、そのまま静かにしていた。 実に少女はよくしゃべった。この子は二度と話をやめないのではないかと豊が感じたほどだった。なにかの物真似もして、そのときには同じ輪のなかにいた神生(かにゅう)の大将までが笑った。めったにないことだった。 だが、このときには少女はすでに豊と不思議文字の関連を意識していたのであり、彼女の大仰とも呼べる振る舞いが、逆に身のうちに隠そうとする思いを雄弁に語ってしまっていることにまでは、豊は今にいたるまで思い至らなかった。 こうしてその日の昼までのことを思い出すと、豊はこの少女が書きつけた紙片を懐に投げ入れた。 そして、立っていき、結び文があった楡の大木と対峙した。その幹に過去に綴った歌のいくつかが書きつけられているのに気づき、豊はそれにひとつずつ目を留めはじめた。自分の書いたうたの中身にときどきは笑わされたものの、読んでいくほどに奇異な感じがした。それは古く遠い、過去の暮らしの遺物だった。まるで楡の木が、奇妙な方法で彼になにかを告げようとしているかのように、これらの記録は自分が書きつけたものであるのに、今の豊の目からはまったく別のなにかに映った。 樹肌へ一句を奉じることは単なる記録のたぐいで、彼の未来に意味を持つものではないことが、今や豊にははっきりと腑に落ちていた。 豊はこの時期の少年にままあるように、残酷なほどあっさりと神聖文字に対する興味を捨てた。 そして、ふと目を転じたときに折りよく楡の幹にいくらかの空白を見つけ、ここに最終章を記すのがふさわしいのではないかという気まぐれな思いが浮かんだ。たぶんなにか、気がきいて謎めいたものを。 だが、うたをひねり出そうとして目を上げたとき、褐色の無骨な幹の上にはその少女の姿しか映らなかった。彼はなにを書くべきかさとった。それがうたとなって命を吹き込まれるのを見ると、深い満足感が湧き上がった。 豊の左の薬指がすいと上がった。指が樹に触れ、それをすべらせる先から不可思議な文字が次々とその樹肌から浮かび上がってきた。 Θфлзб 」ПЭБэ¬ ∂∠Ψι∝ それは、精霊の森に結び文を残した者があの少女ならば、きっとそれとわかるような内容にしぼったものであった。存在を消す呪はほどこさなかった。あまた書きつけられたうたのうち、これだけが誰の目にもとまるよう、いっさいの呪を慎んだ。 豊は左手をゆっくりとおろし、後世への謎としてこれを残していこうという気まぐれな考えを楽しんだ。 立ち上がったとき、楡の木の歌声が消えているのに気がついて、豊はほっとした。もう二度と彼のうたを聞くことはないだろうことを悟り、祖父たる古霊に祈りを捧げ、彼に残された年月が良いものであるように願った。 それから身支度を整えると、神々のことばでさよならと叫び、全速力で森を駆け抜けていった。その声は原生林の隅々にまで響きわたり、豊は自分の声がふだんよりずいぶんと低くなっていることに気づかされた。 樹上の結び文を見つけてからわずか半時しか経っていないのに、すでに豊の身体には神々からその成徴を幸(さき)わう様々な烙印が押されていた。 もう二度と、子供の刻(とき)には戻れないのだ──。 豊は心と身体を灼く、ちりりとした割礼のごとき痛みとともに、これらのことをすべて受け容れた。 そうやって森を往く豊の耳元で、ふいに古丹の囁きが肌をかすめ、過ぎ去った。 ──ゆけ、醇(まったき)風よ。 彼が驚いて肩ごしに楡の木を振り返ったとき、そこにはもう、枝々の波打つ森の影しか見えなかった。 豊という一陣の風が古代からの風景を切り裂いて去ったのち、楡の大木にはひとつの詩(うた)が永遠に遺された。 Θфлзб 」ПЭБэ¬ ∂∠Ψι∝ 醇風や 乙女こもごも 春の膳 この章のおわり 本日の日記--------------------------------------------------------- またまた手前味噌な話題で申し訳ないのですが、本文中の‘受け容れる’ということば──この「受容」ということばは、くだんの祖父の造語なのです。 祖父の著書である『西洋文化受容の史的研究』(←もちろん絶版☆)という題名から‘受容’ということばが広まったものと聞いております。 で、このことばを造った本人いわく、 ──受け容れるとは、自らのかたちを変えてしまうこと。 他(た)に価値を見いだしたならば、自分をつくり変えてでも受け容れよ。 これぞ、‘創造的愛’なのだそうです。 さて、祖父の熱弁は止まりません。 ノアの箱舟からギルガメシュ叙事詩まで、世界には100ほどの洪水伝説がありますが、日本は古代国家のあった国のなかで、唯一洪水神話のない国だそうです。 これは何を意味しているのかというと、バビロンの捕囚やユダヤ民族の散逸などに例を挙げられる、大きな破局に対しての耐性が我々日本人にはないことを示唆しているのだそうです。 祖父の持論では、日本は太平洋戦争まで民族的な破局を体験したことがないため、民族の再創造、言い換えればわが身の創造の更新に長けていないのです。戦後処理などの数々の問題への対応が遅れに遅れて今にまで至ってしまっているのも、これが所以です。 けれども、一時的な破局を機として善いものを受け容れ、さらなる調和をめざして自らを創りかえていくならば、そこに実に豊かな実りが得られるはずである──これは、太古の翁の戯言として聞いてください。 さて、明日でこのブログをはじめてちょうど二ヶ月目になります──私はもうずっと前から皆さまにお会いしているかのように、思いっきり錯覚しておりますが(笑)。 皆さまからの応援にあずかり、私の文章は日々、再構築、再創造をおそれることなく進んでおります。皆さまが寄せてくださる愛情によって、この物語もより深い文章に作りかえられてゆくのを感じております。 出会うべくして出会う人々との交流は、実に豊かな実りがあります。 明日は第三章のはじまり●小夜、豊を見いだす●です。 豊の書きつけを見た小夜は──。 実は、明日からの第三章は本当は第二章の中に入れるつもりでした。ですが、あまりにもトーンが違うので章を分けることに致しました。 前章を引き継ぎながらも、明日、物語は新たな展開を迎えます。 タイムスリップして、小夜と一緒に森に誘われてきなんせ。
2005年10月21日
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さて、魂依(たまより)の木の傍らにあって、豊は今、今生では自分しか知り得ぬはずの神聖文字の秘密を暴き、あまつさえそれを使いこなす者がほかにあることを知った。 しかも、この結び文に書きつけられた文字列の意味するところについては、神々からの言伝などではなく、れっきとした自分に宛てたメッセージとして受け取ったわけであった。すなわち、 ζλληδ Πιη」ПЭБ э¬∂∠Ψ 傘さして ぐみをつむなり 町育ち とは、 ──樹肌の神聖文字の書き付けの主は、この句を書いたあなたでしょう。 という何者かの謎かけである。 考えてみれば、あの句を一字一句覚えている者があるとすれば、それはとりもなおさず、そこに描写されたところの「傘」の持ち主であろう。他の者ではあり得ない。 しかしそれが誰だったのか──驚くべきことに、豊はまったく思い出せないのであった。 豊は自らを過去へと向かわせ、きっかけの場所を思い出しはじめるための心の準備を整えた。 結び文に綴られた神聖文字の句を見続けるうち、すこしずつ頭が冴えてきた。彼は楡の樹の前に胡座したまま、幹に背をもたせかけた。そして、着衣の裾をたくしあげて、樹上から吹きつける涼しい風が腿をくすぐるのにまかせた。やがて、豊は目を閉じ、記憶を呼び起こす作業に没頭しようとした。 だが、自分の句に連想されるべき者の残像については、すべてが空白だった。いくら集中してもなにひとつ頭には浮かばず、豊の過去をおおった靄は晴れるどころか、深い霧のように濃くなるばかりだった。 豊は結び文を握りこんだまま、両手をあげて疲れた目の上に掌をあてた。 そうして双眸をこすっているあいだに、その映像が訪れた。 あざやかな色彩の洪水に見舞われたような衝撃があった。 脳裏に浮かんだ映像は、今は遠い去年の夏の終わりのこと、転校生がこの村に来ていることを知らされたときのものだった。ある朝、彼の母親が屋敷の廊下で行き会ったときに息子に告げたことば──おまえは同じ学校だし、二つ歳上だけ、仲良うしてやりんさいよ。 それから、何度か豊はその子供に出会ったような記憶がある。墓掃除に精をだしているおりに、だしぬけに現われたその少女。馬に乗ってどこかに移動中のさなかにも、なぜか泣いているその少女の顔が見えた。小川の蛍の淡光の向こうに少女がいた。だが、このいくつかの映像は明瞭ではなかった。 しかし、その後にあらわれた映像は、驚くほどはっきりとしていた。 それは鴉の濡れ羽色の、この年頃の少女の持ち物としては似つかわしくない真っ黒な傘であった。おそらくは、前に所属していた、ほかの地方の学校規定のものなのだろう。黒地に小さな蔦の輪が縁取られ、中心には十字となにごとかの文字が添えられ、それらが金色に輝いていた。 黒曜石を流したような色彩の傘の向こうには、目を射るばかりの真っ赤に熟したぐみがたわわに実っているのが見えた。 そうしたすべてがまた、原生林のなかで無類の調和をつくりだしていた。 一枚の生きた壁画のなかにとらえられた、大いなる対照。豊は一個の人間というよりも、ただ純粋にふたつの目と化して立ちすくんでいた。 だが傘の持ち主の記憶は、しだいにしだいに、まるで流砂にとらわれたかのように、心の奥底へ沈んでいった。そしてついには完全に見えなくなっていた。 今日という日、こうして無理やりにも過去をふり返ることになるまでは。 豊はいっとき深い霧のなかに包みこまれ、それがふっと晴れた。 すばらしく鮮明な回想だった。 豊はしばし、これらのことを思い込むように腕組みをしていた。 霧が晴れたところで、傘の持ち主である少女と、この文を書いた者が一致しているかは、いまだ謎であった。 謎は謎のままでいい──との絶対的な価値観を有するこの少年であるが、だがめずらしく今回に限ってはやはり結び文の出所(でどころ)をはっきりと確かめてみるべきであるとの結論に至った。 豊は周囲をぐるり見渡し、それを実行するにちょうどよい平地をみつけて歩みよった。 そして、俳句の書きつけがあった紙を地に落とすと、片膝をつき、自らを楡の古木の霊気と一致させる呪言(まじないごと)を早口に唱えるや、上からその左手のひらを、そばに人がいればすくみあがるほどの峻烈な音をさせて叩きつけた。 ──こを綴る者、我が意に当たれ。 ぱん、と柏手を打ったような小気味よい音があたりの静寂を破り、豊は目を瞑った。 と同時に、豊の意識は地中に縦横無尽に張り巡らされた植物の根をたどって、相生の村のすみずみにまで流れ込んでいった。まず彼の父と母の姿が脳裏に浮かんだ。ふたりは情熱的に愛を交し合っていた。女の高くて甘やかな、くすくすと笑う声が聞こえた。それから男の、低くてやさしい声が漂ってきた。次いでその光景が過ぎ去り、まわりじゅうで耳を聾する、人々の暮らす無数の音が響き去った。 そうやって植物の根を伝っていく豊の意識は、今やとっぷり日も暮れてきた里の径の途上にある小幅な足元まで瞬時に行きついた。その瞬間、豊は古代の矢じりのようなその目を開けた。彼の透徹した緑の瞳はすべてを見ていた。 その少女は、おさげの髪を左右に揺らし、家路をいっしんに歩いていた。 薄いくちびるを引き結び、何事かを‘してやったり’、というような奇妙な満足感を、その杏仁形(きょうにんぎょう)の眦にたたえたまま──。 すべてを見通した豊は、紙から手を離して片膝についた土を祓い、 ──なんとま、 とのんきな声を出して立ち上がった。 どこかで予想していた気がする。世にふたつとない、この少女の顔を。 豊はわりと素直にそうひとりごちた。 しかしなぜ、かの少女が神聖文字を使いこなすにいたったのか──しかも、あまつさえ常人の目には映らないように呪(しゅ)をかけているはずの文字を見ることができたのか。 これについては、さしもの想像力に長けた豊も皆目見当がつかないのだった。 さて、彼女の残した結び文をどうしたものか。 返歌、あるいは沈黙──それについては、もう少し考えるとしよう。 それから豊はしばらく立ち尽くしていたが、ふと地に落ちたままであった紙片を拾い上げ、手の中に握りこんだまま、その場でさらに頭をめぐらせはじめた。こんな時、とらえどころのないほどに柔和なその横顔に、内側からふっ・・・と賢さがにじむ。まるでこの地の神そのものの表情が浮かび上がってきたかのように。 豊の思考の回転に呼応するかのように、幾千の木の葉がつむじ風を帯びて、その身のまわりを舞い散りはじめた。 本日の日記--------------------------------------------------------- 今日は「永遠」ネタで──。 科学のパラドクスでいちばん重要なものは、ハインリヒ・オルバースの名がつけられる「オルバース・パラドクス」というものだそうです。すなわち、そこらにいる子供もよく訊いてくるであろう質問── どうして夜空は暗いの? 夜空の暗さというのは、科学的にはひどく不可解なことだそうです。 宇宙は無限に広がっていること。 星はその宇宙全体に無作為に分布していること。 このふたつを前提にして考えると、おかしな結論が出てくるのです。 つまり、どの方向を見ても、視線の先には何らかの星がなければならない。夜空は暗いが、本来は明るいはずなのだ──。 詳しい説明は省きますが、宇宙が無限に広がっているなら、夜空は無限大の明るさになるはずです(同じ明るさの恒星が無限に存在することになるから)。 星が一様に分布する無限大の宇宙なら、任意の視線はいずれは何かの星に行き当たります。夜空は暗いのではなく、太陽のようにまばゆいはずなのです。夜空の明るさで目を開けていられないほどになるはずなのです。 このパラドクス(逆説)をどう解決できるか。 これは天文学者による非常に劇的な発見によって説明されることになります。すなわち、 宇宙の年齢は有限である。 無限大と思われた宇宙にも、やはり終焉があるのです。 「夜空は暗い」という事実は、「宇宙には終焉がある」という条件に基づいて推論した場合にのみ、パラドクスを生まないことがこれを証明しています。 さて、現在の物理学では理論上、この宇宙が誕生してから10のマイナス45乗年から、10の100乗年の世界まで予想できるそうです。 せわしない日常にあっても、どうか少しだけ想像してみてください。 ──時がたち、やがて陽子すらも崩壊する世界。 だんだんとエネルギーを失い、暗くなっていく宇宙。 それでも生命は存在しうること。 ブラックホールでNADN回路を形成し、それによってコンピュータが作成可能であることを、現在の物理学者たちは推論しています。 生命と物質──永遠に繰り返される「終焉」の物語──。 それはそうと君よ、 きみは“そこ”にくりかえし私と一緒にいてくれるか? 生命が物質化していく過程の、宇宙の終わりのような闇の中で。 明日はこの章のおわり●ぼくの声が変わる夏●です。 皆さま、この章の長文におつきあい下さり、お疲れさまでございました。 明日、豊と小夜と一緒にお昼ごはんを食べましょう。 タイムスリップして、息抜きしにきなんせ。
2005年10月21日
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豊が自分の蔵で見たものが相生の神聖文字だと知ったのは、曾祖母であり現世守宿(すく)である不二室(はつゐ)がその日の夕餉の時につぶやいた一言からだった。 ──あれはほんにどこに消えただろうか。相生の神聖文字の解説(げせつ)のある、‘不二文書’(ふじのもんじょ)と呼ばれる巻物だが。あれは守宿多君(すくのおおいぎみ)の誕生とともに姿をあらわし、その者唯ひとりに読むこと適って授けられ、世の理(ことわり)に通じる知恵をもたらし、薨去とともに世から姿を消すという。先代の守宿多君が生きておんさった時分に、わしは一度だけ見たことがあったが。やはり多君は、まだ生まれておらんということだっちゃが・・・。 そして、自身の孫であり、竜骨を持つ小角(おづぬ)の方からこの度九番目の子供が生まれても、そこに多君どころか守宿の徴さえも現われなかったことを、相も変わらず嘆き始めた。 ところが、その場でともに夕餉をとっていた豊は、曾祖母の至極もっともな嘆きなど、ろくすっぽ聞いていなかった。彼の注意は、「先代の守宿多君の薨去とともに巻物が消えた」ということばに一心に向けられていた。 豊は自分が見てはいけないものを見たのだと思い、家人にこっぴどく叱られるのを恐れてその日のうちに件の巻物を自らの手で封印し、存在自体の気配を消す呪(まじない)をかけて、もとの人目につかぬ蔵の片隅に奉った。 ただし、神聖文字の不思議な美しさを忘れ得なかった豊は、自分の左の薬指に呪(しゅ)をかけて神聖文字の上にすべらし、文字列のすべてをその指の中にちゃっかり封じ込めていた。それから、現代文に対応する古語を、すべて頭の中にしまい込んだ。 ここまでは、なにもかも完璧にことが運んだ。 いまや、豊は神聖文字を自分のものとした。神聖文字を現代文字に対応させて覚えるのは造作もなかった。 それになにより、すべての顛末において家人に出くわさずにすんだ。 しかしまだ、気をゆるめてはいなかった。神々は不思議な業を行なう──とりわけ怒ったときには。 おそらくは意味があって封印されていたであろう巻物を、勝手にひもといてしまった咎(とが)はやはり自分にあるものとの自覚は、このだらず者にもかろうじてあった。 こうなると、神聖文字を無断で自分のものにしてしまったことに対する神々からのお咎め──最悪の場合はお怒りを買わないためにも、神々を鎮める祀事としてなにごとかを奉ずるべし、と豊は考えた。 それからというもの神々の森では、朝な夕なに出向いては、里の暮らしぶりを短い句にしたためたものを、せっせと神々に奉じる豊の姿があった。 封印を解いて神聖文字を自分のものにしてしまったものの、かくのごとく清く正しく使っておりますという態度を示す行為が結界となり、しかもその上から更に気配を消す呪をかけておけば、もはや誰にも知られないまま神々の怒りを封じ込められる──というのが豊の魂胆だった。 しかし、祀事を奉じていると考えているのは当人だけであった。 この横着者の結界のやり方といえば、頭の中から自作の俳句をひねり出し、それを優劣のべつまくなしに樹肌に‘写しとらせて’いるだけなのであって、このたぐいの呪にはつきものである犠牲行為もこれといって自らに課してはいないのだった。 ここで‘樹肌に写しとらせて’──とわざわざいったのには意味がある。 豊が樹肌に一句を‘写す’とは、彼が木の幹にその左の薬指を縦にすべらせてゆくとき、心に浮かばせた文字列がそのままに幹の表面に現われる現象を指す。 文字を作るのは樹液であるのか、はたまたなんらかの成分が滲みだした樹脂であるのか──それは豊にもわからない。 けれども、呪(しゅ)を封じ込めた豊の指にひとたび触れられれば、いずれの木であってもいつもつややかにはっきりと、その脳裏に浮かんでいる句を神聖文字に変えて、正確に樹肌に浮かび上がらせるのであった。 ─── さて、豊がいかに十二歳にしては神をもおそれぬ素っ頓狂な人格を持つ少年だったにせよ、この破天荒な大物を手のひらの上で自在に動かせるほどに、神々の方が一枚も二枚も上手(うわて)なのだった。 すべてが首尾ようだとほくそ笑んでいたのは、他ならぬ神々の方であったのだ。 もちろん、豊が不二文書の封印をただ破ったのだけであったなら、神の怒りに触れて、あのまま蔵の梁から落っこちて、骨の一本や二本折ることになっただろう。だが、豊はこの地において最も神に愛された者であった。 巻物は丈の高い祭具の中に横たわったまま、百年が過ぎて次の守宿多君に発見されるのを待ちつづけた。豊が守宿であるのかそうでないのかは、別のところに述べた──だが、仮にそうであったとしても、彼が守宿‘である’こと自体は、この地で千年を生きる神々にとってはもはや些末な問題であった。 不二文書の出現は、ただ次世の守宿に世の理(ことわり)とも呼び得る真理をもたらすだけにとどまらない、相生の地にとってのある重要な意味を担っていた。 すなわち、この巻物の出現によって、神々と豊、そして彼らが接触する相生の民で構成された様々な事柄からなる連鎖が、ひとつの円となって完成されたのである。 神の俯瞰した目でしか見ることのできないその円は、次にこの精霊の森にやってくる少女を囲んで閉じた。 もはや孤独のままでいられる者は誰もなかった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 突然ですが、昨夜は近所の‘李香苑’で焼肉とにんにくオイル焼きをしこたま食べたので、エネルギーをものすごくチャージできたはず。 でもね。李香苑に行こうという時にかぎって、‘牛角’の割引券を駅前でもらったりするんですよね。こういうとき、皆さまは初志貫徹で李香苑に向かいますか? それともなにかの縁があったと思って牛角に変更? 私自身は牛角の方に揺れてしまうタイプです。 が、初志貫徹派がいた場合、それもなにかの流れかと思って新しい選択肢の方は強行しないかな──つまり私の深層としては、「初心貫徹派に初志を強行して欲しい派」かな(笑)。 さて、季節の語源を探索する日々も、今日の冬をもって完了です。 明日からは本文の重さに比例して(笑)、上記のごとく少し軽めの日記にするつもりですので、しばしのご辛抱を。 「ふゆ」は「冷ゆ」を語源とする説は前述のとおりですが、いまだ明確ではありません。 そこで、相生村に伝わる「ふゆ」の語源を申し述べさせていただきます。 相生村の伝承によると、「ふゆ」は「ふる」(振)と同源の語のようです。「ふる」とは、ものごとを小さくふり動かす、ゆり動かすことによって、その生命力が目覚め、発揮されるという意から成り立ったことばです。呪方(まじないかた)は、招魂のことを「みたまふり」、神霊のあらわれることを「みたまのふゆ」というように言い表します。 相生村ではちょうど「露隠端月(つゆこもりのはづき)」つまり、毎年の年末に行なわれる収穫の祀りを「みたまのふゆ祀り」と呼びます。「冬」の語は、これの省略形と考えられています。 この祭祀のご神体は何かというと、種籾(たねもみ)の入った俵なのです。この種籾俵は、祀りが終わると家の天井に吊り下げられて、冬の間、大切に保存されます。 そして翌年、春になるとこれを下げてきて、稲種(いなだね)として苗代に蒔くのです。すなわち、人々が祀りを終えて冬籠もりをしている間に神霊たちが種籾(たねもみ)の中に入り、それらを小さくふりゆるがすことによって、春の生命力を目覚めさせることを、「ふる籠もり」。 よって、この「生命のふる籠もり」の季節を、「ふる」=「ふゆ」(生命よ、目覚めよ)との言霊が生まれました。 明日は●豊、小夜をつかまえる●です。 つかまえる──といっても、豊はじつに彼らしいやり方で‘つかまえる’のです。 タイムスリップして、この底なしの不思議少年のあとについてきなんせ。
2005年10月20日
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和歌とは一般に三十一文字の短歌をいうが、『古今和歌集』仮名序にあるごとく、「力をいれずしてあめつちを動かし、目に見えぬ鬼(霊)神をもあはれと思はせ、をとこ女(おみな)のなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむものなり」と、古来より特別な力を認められており、いわば呪詞(まじないことば)とも呼べるものである。そして、俳句もこの和歌の概念に連なるものである。 それゆえに、豊は自ら新しい歌を作り、日々それを神に奉じることで、神々を鎮めるための結界呪(しゅ)としていたのだった。 豊が森にせっせと結界を張らなければならなくなったのには、わけがある。 そもそも、豊が毎日のように精霊の森に通って、かくのごとく樹肌に俳句日記(ブログ)を更新しているのは、自宅である不二屋敷の蔵に封印されていた古文書を偶然見つけたことを発端とする。 去年の暮れに、小夜が ‘雪山讃歌’ に明け暮れている折に、豊はまったく別の世界に直面していた。 毎年の大晦日が近くなると、不二屋敷では大晦の祓(おおつごもりのはらえ)──端的に言うなら‘大掃除’があるのだが、怠け者の豊はその騒然とした雰囲気をおそれて、自分ひとりで掃除をすると宣言しては蔵の中に逃げ込んでいるのだった。 そして、もちろんなにをするともなく梁の上に寝ころんだまま、埃の上に点々とついている座敷わらしの小さき足跡なぞをぼんやりと眺めながら過ごしていた。 だが、去年の暮れのこと、豊はこの謎の足跡の向かう先の蔵の隅に、なにやらいわくのありそうな古い巻物を見い出し、それをひもといてしまったのである。 そこには、いまだ豊が見たこともない書巻の世界が展開していた。 意図したわけではなかったが、豊の古文書をひもとく仕草は、高度な儀礼にのっとったものになった。大祓のために豊は白装束していたし、また手元をのぞきこむたびに伸びすぎた前髪が落ちてくるので、彼は手をのばしてそこらにうち捨ててあった懐紙ですばやくこよりをつくり、髪を結わえた。 それから巻物に上体を傾けてゆくと、ほかのものすべてを頭からしめ出した。 はじめにその目に入ったのは、婚姻の歌だった。 呪(まじない)の一族の子としては、見慣れた古事記の一節が書き写されていた。 夜久毛多都 やくもたつ 伊豆毛夜幣賀岐 いづもやへがき 都麻碁微爾 つまごみに 夜幣賀岐都久流 やへがきつくる 曾能夜幣賀岐袁 そのやへがきを これは呪方の婚姻に際して特別に唱和される、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の古歌であるので、豊はそれを目にするや、すぐに自分の聞きなれたものであることが知れた。 歌にするための言葉が、頭のなかで形をとって現われた。彼が口を開くと、まるで入念に下稽古をしたもののように、力強くしっかりとした歌がとうとうと流れ出てきた。 霊音の鳴り響く、見事な歌いぶりだった。 それは荒ぶる男神が、新妻とふたりでともに暮らす日々を幸(さき)わい歌ったもので、豊は誰かに向けて歌い聞かせるのとは違ったかたちで、この年の少年にしてはあり得ないほどの情感を込めて歌いつくした。細部の調声にかかずらうことなく、それでいて恋情のうねりはあますところもなかった。 ──ゆた、うたって。 ──もっとうたって。 蔵のそこかしこから、この世のものならぬ声が集まってさんざめきはじめた。 豊はその声のざわめきに、無理やり我に返らされた。 そして、中途でぷつりと歌い止めると、ちらと蔵の小隅を一瞥したなり、照れたように顔をぐっとうつむけ、急用を思い立ったといわんばかりのせわしい様子で巻物をさらに左へと広げた。 すると、つぎには、同じ歌の日本書記における一節が書き連ねられていた。 夜句茂多兎 やくもたつ 伊弓毛夜覇食岐 いづもやへがき 刀磨語昧爾 つまごみに 夜覇我枳都倶廬 やへがきつくる 貝廼夜覇食岐廻 そのやへがきへ この呪文のような詩文は前述のとおり、スサノオが櫛名田比売(くしなだひめ)と契りを結んだときに詠んだ歌で、これが和歌の初めとされるものである。 これを解釈するならば、雲が幾重にも湧き上がるように、幾重にも重ねた垣を作ろう、新妻を迎えるその新居の垣を──という、妻を大切に思う気持ちのあふれた、いわゆる恋歌である。 だが、かねてからここに不可思議なことがある、と豊は漠然と感じていた。 相生の呪方(まじないかた)に祝言(しゅうげん:婚姻)があるとき、祝言の前に、先ず「いずもう」という発声が次々行われ、その後に唱和される歌詞がこの「やくもたつ」の古歌なのである。 この歌詞の意味としては、一般的な民間伝承ではイズモが出雲とされ、ヤエガキが八重垣とされて久しいが、果たして、スサノオほどの大神の祝言の歌が今日に伝えられるにあたって、ことばのとおりに解釈するだけで事足りると結論づけることは、豊にとっては甚だ疑問であったのだ。 そもそも、わが国における古来よりの聖地である「出雲(いずも)」の語源は旧来不明であり、定説のないまま現代に至っている。 これまでに、雲が出る、藻が茂る、など色々に解釈されていたが、雲が立ちたつ、藻が茂り張るというのはどこの土地にも見られる現象であって、わざわざこれをわが国最大の聖地の語源に当てるには、いかにも根拠に欠ける。 ゆえに、豊の古語の響きに関する卓抜した感性からしても、常々より納得のいかない感が否めないのであった。 では豊自身はこの古歌をどう解釈しているかというと、 ──相生の伝承・習俗から鑑みるに、ヤクモタツは、多くの蜘蛛族が穴居を止め、転場生活に変わったことを表しているのではないか。また、八重垣とは呪方に伝えられる、守宿の秘密などを説いた門外不出の八つの掟と考える方が妥当ではないのか。 相生の呪方は、古来神々からの特別な加護を与えられるかわりに、その特異な現象が歴史の表に現われないように、神々からは蟄居(ちっきょ)を迫られる。それゆえに、彼らは自らを「蜘蛛」と称して、現世においてかそけく息づくことを厳しく守ってきた。 ならば、イズモは出蜘蛛(イズクモ)であろうから、蜘蛛族(相生の呪方)が出る=穴居を止めるという意味である。 また、ヤエガキが呪方が蜘蛛の手脚になぞらえた八つの掟の意味であるならば、転場生活に変わるに際しても掟を守り続けることを命じる意が、この古歌には込められているのであろう。 すなわち、婚姻に際してこの歌が唱和されるのは、呪方を継承する新夫婦が一家を為すに際して、古来の掟を守ってゆかんとするその宣言であるのであろう。 唱和の前に「いずもう」というのは「(婚姻のために穴から)出てこい」という新しい夫婦(めおと)に対する呼びかけであり、同時に「居住まいを正せ」という神々の宣命でもあるのであろう。 ここで古歌の意味をまとめると、 ヤクモタツ………多くの蜘蛛族(呪方)がこれまで穴居を止めてきた イズモヤエガキ…穴から出るに際して掟を定めて守ってきた ツマゴメニ………妻を得て独立するに際して ヤエガキツクル…夫婦の掟を作り コノヤエガキヲ…古来の掟と共に守れ という意味であると考えられるのである。 かねてから考えあぐねていた呪詞(まじないことば)が、巻物のかたちを借りて自分の目の前に自ら姿を現したことは、豊にとっては自らの打ち立てた説に対する大いなる自信につながった。 すなわち、古(いにしえ)にクニを作った大和(やまと)たちは、同族の呪をよくする者たちを山人(やまと)と名づけてこの地方に隠した。やがて時代に翻弄されて大和の記憶が散逸しても、山人がそれを語り継ぐことを願って──。 歴史の表舞台に立ち続ける陽の部分を担う者と、世の生業(なりわい)に穢されぬよう陰に籠もってあめつちの秘儀を守り続ける者とは、実は同根であったのだ──これぞ陰陽(おんみょう)の理(ことわり)。 そして、葉隠れの蜘蛛のように諸山に点在して生きる山人たちは、いつしか自分たちの住まう土地を出雲(出蜘蛛)と呼びならわして子孫繁栄の言霊とし、そのあやふやな運命を統率するために、この古歌を歌い継いできたのだ。 自分の解釈はおそらくは間違っていない。 では、なぜ自分の前に現われたのがわざわざこの婚姻の歌であったのか──だが、年齢もあり、豊はそれについては思いを至らせなかった。 とはいえ、思惑という点においては、この巻物を豊の目の前に出現させた神々と、出現を受けた豊とはまったく対照的だった。 豊がこの巻物の出現について、自らの解釈に神が是であると宣言したものとして受け取ったのに対し、神々はそれよりも、すぐれて暗喩に長けていた。 これは彼らの運命、一族の運命における重要な瞬間であった。 豊にとっては、この時がまさに新しい未来のはじまりであり、彼は彼自身の歴史に立ち会おうとしているのだった。 そんなことを知る由もなく、豊は心の逸(はや)るままに、一気に巻物を最後まで広げ散らした。 だが、書紀のつぎにあらわれた文字を見て、その弓なりの眉は訝しげにひそめられた。 Θфлзб 」ПЭБэ¬∂ ∠Ψι∝ζ Бэ¬∂ησδ ιηБэ¬∂Э これはいかな呪の子の知識と想像力を総動員しても、理解できる文字ではなかった。 だが、文字数から鑑みるに、これもまた「やくもたつ」の古語に対応した文字なのであろう。そして、さらに驚くべきことに、巻物のそれから先には「いろは歌」が記述され、その傍題として件の不思議な文字が、一字一句写し取られていたのである。 さて、この不思議文字。 これを自分のものにするべきだろうか。 せっかく自ら姿を表してきた文字である。 自分のものにしたなら、いずれ呪(まじない)として強い力を放つかもしれない──。 少年らしい征服欲を覚えて、豊はいつまでもじっとその巻物を見込んでいた。 本日の日記--------------------------------------------------------- うわ。長っ! 今回が今までの本文で一番長いんじゃないかな。 しかも、呪文だらけだし──皆さま、ついてきて下さってますよね?(涙) さて、季節の語源を探索する日々も、今日をもって完了だったはずなのですが、本日の日記まできちんと入れると範囲内の文字列(全角で5000字)を超えているとの指示が楽天から来ましたので(笑)、それはまた明日に──。 明日は●豊と神聖文字●です。 この静かなるいたずらっ子は、その後いかに始末をつけたのでしょうか。 タイムスリップして、現世の守宿である豊の曾祖母にも会いにきなんせ。
2005年10月19日
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果たせるかな、次にそこに現われたのは、豊その人であった。 豊が森の中の楡の木の枝に結ばれた文を見い出したのは、小夜が去ってから半時ほど経った後のことであった。 この森は、呪方(まじないかた)にとっての聖地だった──相生の土地に棲まうすべてのものにとっても。 この場所から、精霊たちが新しく生まれるのだといわれている。 森の木々が、‘大いなる神々’の創り出したあらゆる動物を棲まわせる。 彼らは命のはじまるときにここで生まれ、また絶えずして誕生したこの場所にもどっていくのだ。 豊がここに来るのは昨日ぶりのことであった。 彼が近づくほどにその森は圧倒的な力を持ち、懐深くに入りこんだとたん、豊は自分が小さき者であることを全き安心感とともに意識した。 だが、周囲から間近に樹々が迫ってくると、豊はなにかがおかしいことに気づいた。 ──森がにおう。 息の詰まるような静寂のなか、豊は猫のように一心に感覚をすまし、精霊の森の奥深くに分け入っていった。 強烈な緑のにおいがする──人間を拒むような森の息づかい。 たまさかによそ者が入った時などに、森はこのようなにおいを発することがある。 豊は歩みをとめて、しばし自分の鼻をたよりにあたりの様子をうかがった。 だが今はもはや自分の他に人の気配のないことが確かめられると、踵を返してまっすぐ楡の大木に向かった。 豊はなにがあったのか、この森の中心に在る老木に訊ねてみるつもりだった。 なかでも楡の老木は、豊が‘魂依(たまより)の木’として格別に拝している樹木であった。魂依とは、精霊の宿ることを言う。 幹の魂に触れようとして手を差し伸べかけて──そこに豊は見たのだ。 広葉樹の枝のひとつに、そこだけ輝き出でているかのような真白き文が結ばれている。 豊は片手を宙に浮かしたままの恰好で、目の前のそれをしげしげと眺めすがめつしていたが、しばらく見つめた後に、 ──神さんの落とし文かもしらん。 と思うに至った。 そうなると、この子馬のように好奇心旺盛な呪の子は、森の異変についてのお伺いについてはさておくことに決めた。 豊は落し文の方にしぜん子供らしい興味を覚えて、まずはそれを手に取ってみることにした。 だが、楡の木の枝に手を伸ばして固く結ばれた文をひもとき、更に幾重にも折りたたまれた和紙を開ききらないうちに、豊の手が止まった。 その耳は、はるか幽玄の境から響きわたる、楡の古老の厳かな囁きを聞き取っていた。 豊は手にした紙片を握りこんだまますぐさま膝をつくと、楡の木にもたれるようにして胡坐して座り、瞑目して拝聴の姿勢をとった。 楡の木が歌っている。 幾世代を超えてきた古霊にしては、高音の歌声だった。ときおり声が割れてきしんだ。だが、そこにはこの世ならぬ美が、そしてひとの耳にあっては甘やかな響きがあった。 春の雨夜に誘はれて おぼつかなくも咲き出でじ くれないの花よ心あらば 一句を以て告げよかし 木隠れに祈(ねぎ)を書きめぐる 守宿(すく)の子 今宵も来たりなば 君をば恋ふる者ありと── この詩篇の意味に関しては、豊にとってまったくの謎でしかなかった。 はじめ豊は落し文をなかば開いたままで木霊の詩(うた)に聞き耳を立てていたが、その稀有な調べは枯淡(こたん)の老爺(ろうや)が若者を揶揄しているかのように軽妙、けれども慈愛に満ちた響きのあることにまでは、思いが至らなかった。 聞く者の耳のないことを知るや、木霊の歌声は急速に遠ざかり、やがては梢の触れ合うざわめきの中にかき消えた。 時間があれば豊はこの歌を耳にしたことの重要性に関して、なんらかの結論を引き出すことができたかもしれない。しかしもはや日没も近く、いまはそれをじっくりと考えるひまはなかった。 けれども、なぜか豊は自分の聞いた詩歌の響きに、これから自分が始めようとしている行為に対して神々の賛同を得たかのような、そんな勇気づけられるような思いがした。 豊は目を開くと、胡座したままの姿勢で、文を広げる手の動きを早めた。 だが、ただ興味に促されるままに落し文の書きつけに目を通さんとしていた豊の視線を凝視に変えたのは、楡の木の言う「一句を以て」の指すものとして、その後にあらわれた句の内容であった。 ζλληδ Πιη」ПЭБ э¬∂∠Ψ かささして ぐみをつむなり まちそだち そこには、かつての自作の句が一字一句損なわれないまま、黒鉛の筆跡も誇らかにしたためられていたのである。 しかも、現世にあっては豊のみが知るはずの、相生の「神聖文字」によって。 本日の日記--------------------------------------------------------- 春、夏の語源を想像してきたところで、次に今の季節、「秋」について考えてみます。 どの民族の語でも「秋」は農耕の収穫と関連する名で呼ばれています。 その収穫物で生計(なりわい)が立てられるので、「商ふ」というのです。 「秋」については、弥涼暮月(いすずくれつき:六月)の晦(つごもり)の大祓(おおはらえ)にみえる速開都比売(はやあきつひめ)は、もろもろの穢れを「呑みつくす」神であり、これが「あき」の語源であるともいわれます。また、「稲や草木がアカル(赤らむ)」ことに基づくという説もあるようです。 相生村の伝承においては、「あき」は前述の速開都比売の神名と同根であることは言うまでもなく、さらに「はやあきつひめ」の「あき」は、飽き(四段)の意であり、この季節、たくさんの収穫物を充分に満足して食べる「飽」の言霊が含まれるとされています。 「あき」という言葉を口にするたびに、私たちは深層において豊饒を連想し、そうなりますように、そうでありますように──と祈っているのです。 明日は●不二文書●です。‘ふじのもんじょ’と読みます。 そもそも豊はなぜ樹肌にせっせと書きつけをしていたのでしょうか。 タイムスリップして、彼らしいその理由を探りにきなんせ。 追:はじめましての方へ──本文中の「傘さして ぐみを摘むなり 町育ち」の句に関しては、本ブログの過去ログきみよ、あるがままにその詳細がございます。
2005年10月17日
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小夜はその日から、妹の古都子を助手として、にわかに豆言語学者の道を歩むこととなった。 小夜は書き写して持ち帰った文字を「相生文字」と名づけ、その解読に邁進することを心に決めた。 幼稚園生の妹も「相生文字の解読計画」にのってくれて、平仮名よりさきに「相生文字」をすぐに覚え、小夜の前で音読してみせるまでになった。 「相生文字の解読」については、妹との言葉遊びの範疇でしか扱っていないものであったが、ある晩に日付の部分だけでなく、七五調の部分の解読が進んだおりに、意味のある言葉の羅列が一句を為して忽然として表出し、小夜は自分の解読方法に絶対の自信を持つにいたった。 それによると、小夜がはじめに目をつけた、あの一番新しいとおぼしき書きつけには、こう書いてあるはずであった。 ζλησδ Πιη」ПЭБ э¬∂Ψι∝ あめのひに かわずとびこむ ひゃっかてん ЖЛξФШЩ ΘΘξ えとりはつき ちちり 雨の日に 買わず飛び込む 百貨店??? 苦労して解読した暁に、この内容が出現したときの小夜の落胆ぶりを想像していただきたい。 けれど、ひとつ確かに収穫であったのは、この書きつけの内容が実際に「あったこと」を詠んでいるという点であった。 事実、得鳥羽月井日(えとりはつきちちりのひ:4月22日)、村の人々は週末の恒例となっている市内への買い出しに出かけ、いつものごとくダイエーの割安な駐車場に車を入れて、行き先は大丸デパートに向かったおり、突然の雨に降り込められた。 しかし、駆け込んだ大丸にはお目当ての品がなくて、村の人たちはそこで雨宿りしただけで、すぐにダイエーにとんぼ返りした。 ──つまりこの句は、しゃれのバカバカしさはどうあれ、確かに実際に起きたことを描写している俳句であったのだ。 小夜はいそいで思い巡らし、あの時に買い出しに出ていた人員の顔を脳裏に浮かべようとした。 だが、車を連ねて相当な人数で行ったこともあり、誰が誰とははっきりと思い出せなかった。 そうなると、小夜の頭にはごく必然的に、かくのごとく雨に関連した俳句をよくする者の名前が浮かんだ。 傘さして ぐみを摘むなり 町育ち── あの日、豊は買い出しの列にいたのだろうか。 いや、いたかどうかは重要ではない。雨に降りこめられてデパートに雨宿りした話を誰かに聞いて書きつけたにしろ、この不思議文字を豊が書いたかどうかが問題であるのだ。 そして小夜は、もしこの書きつけの主が豊であるのならば、自分たちにだけわかる、とある暗号を残そうと思い立った。 小夜はとっておきの半紙を取り出すと、なにごとかを書きつけ、あの精霊たちの森の木立の中でも枝ぶりがよく、薄暗がりにあっても生き生きと生気を発しているような、ひときわ大きな楡の大木の枝に結んでおくことにした。 事は首尾ように終わった。 小夜は結び文の出来映えに満足を覚えると、この時は足早にその場を立ち去った。 果たせるかな、次にそこに現われたのは、豊その人であった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 雨といえば・・・よく降りますなぁ。 トウキョウは今日も雨です──。 さて、季節の名に込められた言霊について昨日よりお話しさせていただいておりますが、今日は春に続く夏について考えてみたいと思います。 「夏」の語源は、よくわからないのが実状のようです。 「暑」(あつ)から「なつ」、「冷ゆ」(ひゆ)から「ふゆ」という言葉が生じたとされていますが、これも少し無理があるような気がします。 四季の名は朝鮮古語と同源とする説がありますが、私は相生村のことばから鑑みれば、いずれも動詞的な語から出ているように感じるのです。 つまり、夏の場合には、この季節に行なわれる「撫づ」の意のある祭祀「大祓」(おおはらえ)と関連があるように思うからです。 これは、夏越(なごし)の祓(はらえ)とも弥涼暮月(六月)祓(いすずくれつきのはらえ)とも称される行事で、呪方(まじないかた)が茅(ち)で作った輪をくぐって厄除け祓いをするという内容の祭祀です。 この後、祓に用いる人形(ひとがた)で身を撫でることにより、罪穢れをそれに転嫁して、川に流して祓をする、春の雛流に似た風習を納めて「大祓」の行事はおひらきとなります。 ここで用いられる人形を、とくに「撫物」(なでもの)と呼ぶのですが、「なつ」はこの「撫づ」に由来するのではないかと相生村では言われています。夏越の祓が無事に終わると、いよいよ夏を迎えることになるからです。 また、一昨日の日記にも述べましたように、「撫づ」は「打つ」の忌み詞でもあります。荒々しい夏の気候を和らげるために、「撫」の音をわざと当てて「飼い慣わす」ようにしたのです。 皆さまも最近まで、猛暑の戸外に出る折などに、「ああ夏だなぁ」とつぶやくことがあったかと思います。 あなたはその瞬間にこそ、猛々しい季節を言霊で撫でて、鎮めていたのです。 「なつ」と発音してなぜか「清涼感」を感じるのは、この言霊の作用のためです。 明日は●受け取った者●です。 小夜からの言伝を受け取った者は、そこに何を見、何を感じたのでしょうか。 タイムスリップして、まだまだ木陰に隠れていなんせ。
2005年10月17日
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だが、小夜の目の前にあったと思われた木肌の書きつけは、ぼんやりと眺めやるうちにふっと消えかかった。 あわてて、にらめっこをするかのように眼に力を込めると、またあらわれる。 これらの文字列は、その摩訶不思議な様子にふさわしく、かつ消えかつ結びつつ像をあらわすことに小夜は気がついた。 そして、見る──という強烈な意志を持った凝視のみ、この稀有な書きつけを目撃することが許されるようだった。 この凝視に関しては、小夜は特別に有利な特徴を持ち得ていた。 小夜は、あまり瞬きをしないのである。 家族や友人とおしゃべりに興じているおりにも、「瞬きをしてよ」といぶかしがられるほどに。 また、小夜は視力検査では両目とも裸眼でいつも2.0以上を誇った。 ただし、視力がよいのとは違う。極度の遠視なのである。 遠視とは、一般的な焦点の結び方とは異なったやり方でものを見る。 要するに、実際に見えている木肌に焦点を合わせられるだけではなく、そのさらに奥にまで焦点を持っていき、そこで像を結んだものを見ることができるのである。 かくて、小夜の瞬きをしない瞳と遠視の裸眼とが相俟って、ともすればその姿を隠そうとする木肌の文字列を、おもしろいように追うことができるのだった。 ζλησδ Πιη」ПЭБ э¬∂∠Ψ ЖЛξФШЩ э¬∂∠ さて、しばらくの間、これらの樹肌にあらわれた文字列と焦点の鬼ごっこをしているうちに、小夜にはぴんと来るものがあった。 これは、七五調の文字列ではないか。 そう──ちょうど俳句のような。 となると、五七五の文字列の脇に書かれている七五調の規格外の文字は、日付であると考えていいだろう。 小夜は推理する頭をめぐらせた。 いまは四月。相生の月でいう‘えとりはつき(得鳥羽月)’である。 すると果たせるかな、日付と推測した文字列「ЖЛξФШЩ」には、「えとりはつき」の文字がぴたりとおさまった。 こうなると、あとは日の名前を当てはめていけば解読はずいぶんと楽になるはずであった。 小夜は一番新しそうな書きつけを探した。 すると、すぐに斜め向かいに立っている潅木に、墨も濡れたような黒々とした新しい書きつけを見い出した。 ЖЛξФШЩ ΘΘξ 相生の日でいえば、今日は‘鬼’である。これは、鬼と書いて‘たまをめ(魂誉め)’と読む。 だが、最初の六文字を「えとりはつき」とすると、「たまをめ」では字が足りない。すると、今日の書付ではないことが推測できる。 小夜は、ちょうど週末の日曜日にあたっていた昨日の名を思い出した。 ちちり──。 これになぞの三文字を当てはめると、果たせるかな、最初と真ん中の二文字は同じ文字である。 また、「えとりはつき」にも「り」の音が三番目にくるはずであるから、それを構成する六文字の羅列にもこの「り」に相当する文字が三番目に書きつけられているがゆえに、この文字は「ちちり」と読んで差し支えないはずである。 少し前と思われる書きつけの、月の名前の部分には、七文字の羅列が多く見られた。そして、語尾の二文字は、「えとりはつき」と同じであった。 つまり、この七文字は、先月の「くれのはるつき(暮春月)」を表わしていると考えられる。 そうなると、もはや五十音のうち、半分の二十文字ほどが解読できたことになる。 小夜は、必然的にその横に書き付けられた七五調の文字列の内容を思った。 しかし、そればかりは一見しただけでは読み取ることができないことくらい、小夜にも理解できていた。 小夜はランドセルの中から帳面を取り出し、時間を忘れてありったけの書きつけを写し取って、その日は家に帰ったのだった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 本日の内容で、相生村特有の月の呼び名と日にちの呼び名がたくさん出てまいりましたが、おそらくすぐにはわかりにくいこともあるかと思います。 そこで、ご参考までにフリーページにてそれぞれの呼び名を明記してありますので、よろしければご覧いただければと思います。 さて、昨日、「夏」が「撫」と同根であることを申し上げましたが、今日は相生村では季節をどのように認識しているか、私の知っているかぎりをお伝えしたいと思います。 まず、春。 「春」は天候が「晴る」と関係があるとされていますが、確かなことは知られていません。 季節名がおそらく農耕に関したものであると予想をつけるならば、春に田畑の仕事が始まるので、耕し、開墾するの意として折口信夫説、荻生徂徠説の「墾(は)る」が有力です。 また、草木の芽が「張る」の意、気候の「晴る」の意からとも言われています。しかしながら、これらの説は日本語のアクセントからして成立困難とも思われます。 相生村では、「春」の語源を、「冬籠り祓る」としていました。すなわち、「冬籠もりを祓(はろ)ふ」のです。ゆえに、「はる」。 いずれにせよ、これらの言葉からは春の原点、原風景が見えるような気がします。 石(いは)ばしる 垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の 萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子『万葉集』巻八 一四一八 明日は●小夜からの言伝●です。 小夜が森に言伝を残します。そこに現われた者は──? タイムスリップして、木陰に隠れて見てなんせ。
2005年10月16日
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ある日の遅い午後のこと、小夜は家人に夕餉の手伝いに呼ばれたみくまりと別れ、ひとり、夕飯までの散歩を楽しむことにした。 小夜は原生林の内懐の深くを通り抜け、相生村の中心から南東の方角へ半時ほど歩みを進めた。 そしていつしか、このまま下っていけばあと数メートルで沢に達するという、呪方(まじないかた)の不二屋敷のある広い斜面の上に立っていた。 ‘吸い込まれるように’などという自覚は、そのときの小夜にはなかった。 小夜はしばらく目を奪われていた。 五から六軒の大型の屋敷が流れに沿って建ち並んでいる。 いずれも街なかにあれば、神社とも称し得るほどの堅牢な作りの民家である。屋敷の最奥にしつらえられている鳥居の向こうに見える建物など、普通からいえば拝殿と呼ぶべきだろう。 京の御所かなにかのように、きれいな玉砂利の敷いてある前庭が続いている。 それらは午後の陽射しのなかで暖かく平和に見えたが、その投げかける影のせいか実物よりも大きく、まるではるか古代の建造物がいまだに息づいているかのようにも見えた。 もともと相生村は周囲をすれすれまで迫った山の断崖に囲まれていて、隠れ里めいた雰囲気で満ちてはいるが、さらにその懐にあって息をひそめているような不二屋敷と呼ばれる棟々。 不二とは「ふたつとない」ことを意味する。 まさに、ふたつとない光景を前に、小夜は立ち尽くしていた。 けれども今、夕餉の刻を前にして、家のまわりでは人々が立ち働いていた。屋敷と屋敷のあいだを行きかう家人の声も聞こえる。 ふとほがらかな笑い声が耳にとどき、なぜか小夜は驚かされた。屋号となっている沢のほとりには洗いものをする人の姿があり、子供たちの何人かは渓流の中に入っていた。 さらに目を転じてみると、不二屋敷を砂洲にして東と西の二方向へと延びている沢が認められた。 小夜がその源流の方を見わたすと、だが忽然として流れの根本が消えていた。 巨大な森に視界をさえぎられていたのだ。 とにかく樹木の背が高い。文字通り林立する木立は何里にもわたって続いているように見えた。その壮大さは、村を囲む雑木林のようなまばらな木立とはいちじるしい対照を成していた。 なにか不思議な精霊が作り出した、架空の森のようだった。 だが、そこはエデンの園のように、人の入った形跡があった。 その証拠が、ふらふらと森に招かれるかのようにして近づいていった小夜の目の前に、忽然と現われたのだ。 小夜は何度か、目の前の蜃気楼を消そうとでもするかのように、まばたきをした。 目の前の潅木の肌に、なにか書きつけがしてあったのだ。 ЖЛПФШЩЦЮ それは、墨で黒々と書きつけてあるかのごとく瑞々しくはっきりと読み取れる、文字のようなものであった。 だが、実際に墨滴を使ったものとは少し趣が違う──松脂(まつやに)が凝(こご)って偶然に文字を為したような、なんとも奇妙な形状をしているものだった。 縦に列をなしているが、漢文でもない。もちろん英語でもない。 小夜は幼い頃から英語に関しては覚えがあったが、それにしても大文字にも小文字にも、このような形状をなす文字は見たことがなかった。 ゆえに、それがいったいなんの目的で書かれたのか、小夜には皆目想像がつかないのであった。 Θфлзб 」ПЭБэ¬ ∂∠Ψι∝ ζλησδ Πιη だが、よくよく目を凝らして見ると、それは一箇所だけでなく、同じ規格の文字が多くの木の幹に小さく書き付けられているのがわかった。 ζλησδ Πιη」ПЭБ э¬∂∠Ψ ιη」ПЭБ э¬∂∠ 今は失われた、古代文字ですらこの土地には息づいているというのか。 小夜は目の前につきつけられた、時代さえもたやすく超えて生き残ってゆく文明の持つ力に圧倒されていた。太古からの、けれども完全に手つかずのままの文化。 それを目の前にして、小夜は立っていた。 想像の域を超えた世界を知ると同時に、このために自分はここに来たのだ、相生の人々のなかに抗いがたい魅力を感じる気持ちの核には、これがあったのだとさとった。 それまでは意識しなかったものの、これこそ彼女がこの目で見たいと願ってやまなかったものだった。 本日の日記-------------------------------------------------------- 忌詞(いみことば)について。 そらみつ大和の国は皇神(すめがみ)の厳(いつく)しき国、言霊の幸(さき)はう国 『万葉集』巻五、八九四 すべてのものに霊が宿ると相生の人々が考えていることは、もう充分におわかりいただけたと思います。 さて、本日からは、彼らの言霊(ことだま)信仰について、私の知っているかぎりをお話したいと思います。 相生村では、日常の意志伝達に使うことばの中にも霊が存在し、とくに呪方(まじないかた)などの力ある者から発せられたことばは、そのことばの霊力により、実現されると信じられていました。 これが言霊信仰で、祝詞(のりと)、寿詞(よごと)、呪詞(まじないこと)、和歌、あいさつ詞などの言語の内面に言霊がひそんでおり、そのために、呪方が言語を発するには、相当の用意が必要とされました。 それゆえに、言霊の作用でよくない結果が生じることを畏れて、呪方の人々は「忌詞」(いみことば)を多く使っていました。 「終わる」を忌み嫌って使用する「おひらき」や、猿が「去る」に通じるため「得手」(えて)と呼び代えたり、すり鉢や硯箱を「あたり鉢」「あたり箱」、するめを「あたりめ」と言い代えることは一般でも聞かれます。 けれども、厳しい物忌みの生活をもって、徹底的に穢れを忌む日常を送る呪方は、もし必要があってそのことばを使わなければならない時のために、忌詞を多く持っていました。その一部として、以下に挙げるようなものがあります。 ご神体:中子(なかご)。ご神体は厨子や拝殿の中に安置されているので中子という。 お金:染紙(そめがみ)。紙に色で印刷されているために染紙という。 にんにく:阿良良伎(あららぎ)。にんにくは「人肉」に通じるのでにんにくの古名を使う。 守宿:髪長(かみなが)。守宿(すく)という詞はそれだけで強い呪力を持つ。髪を結ぶ呪を行いやすいよう、守宿が肩以上までは髪を切らないことから、髪長をもって守宿を呼び代えた。女性の守宿は女髪長(めかみなが)。 食事:御斎(おとき)。片膳(かたじき)は午前中にとる食事のこと。午後は日が沈むまで食事をしないことを定められている。ゆえに呪方(まじないかた)の食事は午前と日没の一日二回とるのが普通。 死:奈保留(なほる)。死は禍(まが)の極致と考えられたので、その反対概念の「なおる」で示した。禍津日神(まがつひのかみ)が生まれると、その禍を直そうとして直毘神(なおびのかみ)が生まれた故。 病:夜須美(やすみ)。病気の反対概念。「安しと同根、気を楽にして、事の進行を一応止める」意。 泣く:堅塩(きたし)。涙を流すことを忌み、涙を塩と言い換える。 血:阿世(あせ)。人間の体内の液体を血・乳(ち)と呼び、活力のもとである霊威も「チ」とよんだ。汗も体内から出るゆえに、血の隠語として用いられる。 打(うつ):撫(なず)。慎みの生活の中で乱暴なふるまい「打つ」「殴る」は最も忌まれたので、反対語の「撫」を用いた。「撫」は「夏」と同根。荒々しい夏の気候を和らげるために「撫」の音を当てて呼び慣わしたもの。 宍(しし):菌(くさびら)。神事には肉は用いないために、呪方も肉食を慎む。肉の味や食感は、椎茸などと似ているため、きのこを意味する「くさびら」の語を言いかえたもの。 拝殿:香燃(こりたき)。最も重要な建物の名を口にすることを慎んで、拝殿で香をたき拝礼することから言いかえた。 以上の忌詞からは、「世に属するもの」と「神に属する者」を徹底して峻別し、呪方の純血を守ろうとする意志が見てとれます。 神に属するものであり続けること──これは呪方の戒律の根本です。世の平安と生々発展をひたすら祈念するために、常に清新な心で神に奉仕しなければならないからなのです。 まったき余所者(よそもの)である小夜が相生村で日暮らすこと──それはまるで天皇家に平民が名を連ねているようなもの。相生の神々は、このよその子をその懐深くまで招き入れてくれるのでしょうか。 明日は●相生文字の解読●です。 けれどもこの文字は、子供の心をもってすれば、案外と素直に読めるのです。 タイムスリップして、不思議の文字を読みこなしにきなんせ。
2005年10月15日
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村に夕暮れが訪れる。 夕闇がせまるにつれ、外で遊んでいる子供たちに、次々と家から「呼び子」の声がかかる。 しかし夕暮れになってそれぞれの家に帰ってからも、すぐにご飯が待っているわけではない。その前に子守や家畜洗い、膨大な量の野良着の洗濯などのてご(手伝い)を、一家の要としてこなさなければならないのだ。 だが、核家族で暮らす小夜には、自宅においてはそこまで重要な仕事は任されなかった。 皆が家人に呼ばれていなくなってしまわぬうちに、小夜も遊びを切り上げて帰ってきてはいたが、家の中でもまだまだ遊んでいられた。 そして家にあっては、いつも小夜は内気で病弱な妹の古都子(ことこ)と遊んでいた。 古都子は本来は幼稚園生のはずだったが、生来の病気がちの性質ゆえに家にこもって暮らしていた。 だが体質はどうあれ、最近は小夜の遊び相手になるくらいの知恵をつけてきていたので、小夜は自分の考え得るかぎりの二人遊びをあみだしては、姉妹で仲良く遊んでいた。 よくする遊びとしては、小夜の自作の脚本の劇や、歯科医である父方の祖父からもらった口腔鏡やカルテなどを使った本格的な歯医者さんごっこなどがあった。 脚本で快心の作などができあげると、父の日や母の日などに姉妹ふたりだけで上演した。 また、病気がちでふせっている妹のために、小夜はクロスワードパズルを作ったり、国語の教科書に載っている「てぶくろをかいに」などの物語の続きの話を自分で創作したりと、小夜はそういった家遊びも得意だった。 さて、それがこうじて、小夜はある日とんでもないアイディアを思いついた。 小夜は相生の言葉である御詞(みことば)を苦心のすえ聞きこなせるようになると、今度は心から気に入るようになった。 古語というべき言葉の響きは、小夜を魅了した。また話し方といい言い回しといい、相生の人々は本当にゆっくりと語るのであった。 語尾も、高低に三音階ほど変えて、少なくとも二秒は伸ばすこともある。 「してくれ」というのにも、「してやってくれ」というように、必ずクッションのある表現が用いられた。 相生の人々のお呪(まじな)いである御詞に近い方言──そんな不思議な言葉を、小夜は文字にして書き残したいものだと考えるようになった。 小夜は家にこもりがちの妹に、自分が家の外でどんな暮らしをしているのかを話し聞かせるために、相生を題材にした物語もよく創作した。 だが、横浜育ちの妹は、小夜の文章を見て必ずこう尋ねるのだ。 ──これはこう読むの? ──少し語尾が違う。 相生の会話文をそのままに読ませるために、小夜は方言をできるだけ忠実に聞き取っては、作文上に書き写していた。しかし、それだけに、妹とはこんな質疑応答が繰り返された。 そうした末に思いついたのが、相生の言葉をまだよく知らない妹に、発音記号のようなかたちで文字を考案してやったら、いちいち小夜に語音を尋ねなくとも、その雰囲気で相生の物語を読むことができる、ということだった。 だが発音記号を作ることは、至難の技のように思われた。訴(うたい)方にしろ呪(まじない)方にしろ、その文言は口頭でのみ継承されていく。すなわち、御詞(みことば)は文字を持たないのだ。 ゆえに小夜はまず、自分で発音記号を勝手にあみだすことを考えた。 はじめ、発音記号をゼロから作りだすことは至難の技に思われた。 だが、その問題は意外なところで解決を見るに至った。 本日の日記--------------------------------------------------------- 突然ですが、鳥取県外にお住まいの方、とちもちって食べたことありますか? 鳥取では毎年九月にとちの実拾いが解禁になるのですが、何度もアクをぬいて臼でついて作るとちもちは、秋の味覚としてはマツタケなどは足元にも及ばない美味さなのです。 お土産物屋さんなどの、餡をくるんだとちもちではいけません。 それすら予約しないと手に入らない幻の餅だそうですが、とちもちはやはり囲炉裏端で素焼きしたものに砂糖じょうゆをたらしたものを食べなければなりません。 とち餅とは香り高い金茶色をした角のない丸餅なのですが、これが何度おかわりしても食べられる。まさに胃袋に底がなくなったかのように食べられます。 今日の分はもうおわり、と母から宣言されて、幾度落胆したことでしょう。 ともかく飽きるまで食べられるようにと、小動物の冬支度のごとく必死でとちの実を集めたものです。 マツタケなぞは、相生村ではどこの山にも見つけられることができました。まるで今の金木犀の香りのように、この時期には里全体に漂ってくるのです。どびん蒸しなど、毎日のお味噌汁代わりです。マツタケのありがたさを微塵も感じることのできなかったあの頃、私にはとち餅のほうが珠玉の食べ物でした。 さて、食べ物といえば・・・相生村では、食べ物のことを「賜ぶ物(たぶもの)」と言います。食べ物は「賜(たまわ)り物」に他ならないのです。 これは、人々が口に入れて栄養となるものを、神々からの贈り物と実感してきたからなのでしょう。 いうまでもなく、人は毎日、タベモノを頂いています。 そして確かに、とちの実やマツタケなどは、ある時期から突然に山から「賜う物」です。 食べることは食べられることにも通じています。 けれども、食い食われることは罪悪ではなく、自然の基層です。 過酷だけれど、豊饒。 そういう連鎖は、現代にあっても時々刻々と起きています。 裏山で生きものを見つめていたあの日の目をして、今日のさんまを頂いてみませんか。 これぞ豊饒の海。 明日は●森からの言伝●です。小夜が精霊の森で目にしたものとは──。 タイムスリップして、あなたも言伝を受け取りにきなんせ。
2005年10月14日
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たいこうがなるが、春色に笑っている。 雪に埋もれた長い春休みを終え、小夜たちは新学年を迎えて久しぶりに学校へ登校する途中にあった。 その行く道すがら、子供たちには山桜をたずねて山野を歩き、春の気配をさぐるという遊びがあった。 満開のソメイヨシノの並木を歩くもいいが、山桜のにおいに惹かれてたずね歩くうち、ふとほのかに白く花のありかが見えるのがまたいい。 まさしく探桜(たんおう)である。 ‘におい’という言葉は、もとは赤色の染料をあらわす‘丹’(に)からできた。 この色と香の重なり合う独特な意味を持つ言葉は、日本語ならではのものであろう。 「朧月夜」の歌の、「夕月かかりて、におい淡し」には、夕暮れの色と黄昏時のにおいがひとつの言葉に歌い込まれているのだ。 そういうわけで、相生の子供たちはこの「におい」という言葉をとくに好んで、春の小川」などの唱歌も、 「春の小川はさらさら行くよ 岸のすみれやれんげの花に すがたやさしく色うつくしく 咲けよ咲けよとささやきながら」と教科書にあるところを、わざわざ、 「春の小川はさらさら流る 岸のすみれやれんげの花に においめでたく色うつくしく 咲けよ咲けよとささやくごとく」と歌い直していた。 さて、登校時の遊びはまだまだ無限にあった。 今朝は三年生にめでたく進級しても、ぜんぜん成長の見られないめっかちが、相も変わらずいち早く道草をし始めた。 いそいそと小川に近寄っていって、めだかやこぶなを捕まえるのに興じはじめる。 そのうち、誘惑に負けて他の子たちも気がついてみればみんな川に入って遊んでしまっている。 まさに、どじょっこだのふなっこだのが子供たちの水あそびに天井が抜けたと思う季節である。 さて、その小川には、やがてはウシガエルに変身するはずのおたまじゃくしがたくさん生息していた。そして、あまりにその図体が他のおたまじゃくしと比べて大きいので、みんな「どたま」と上品に呼びならわしていた。 ──うわ。どたまがようけおる! ──つかまえて、池で飼うだ。 どたまはその図体に見合って鈍いので、子供たちにもすぐ捕らえられてしまう。 ところが、池から連れ去られたそれら難儀などたまも、自らの食用という運命を知ってか知らずか、すぐに足から手から生やしてとっとと自分たちの誕生の地に帰ってしまうのだ。 そんなこんなで小川の中で大騒ぎしていると、向こうの岸から、春休み前の登校時間にはいつも顔を合わしていた山菜取りのおんちゃが現われる。 懐かしい顔ぶれを認めて、おんちゃが子供たちに呼びかけてきた。 ──春休みは、長かっただなぁ。 第一章のおわり 本日の日記--------------------------------------------------------- ここは金木犀の香りが漂う街。 ふと、恋をしよう──と思った。 ・・・っちゃなんでよ! おはようございます。小夜子です。 早朝からこのテンションです。 私は朝に強く、起きてから40秒以内にHPを立ち上げて書き始められます。 自分では完全に思考がクリアーになっているつもりなのですが、一節を全部書き込んでから、登録するボタンをクリックする前になにかのはずみで管理画面に戻ってしまって、また全部消えた・・・とか一週間に一度くらいはそういう血も凍るミスをおかします。 ですから、最近はまずあらすじを登録してからくり返し編集画面から入っていって、誤字脱字を直しています。 そういうわけで、最初の更新があってから、30分以内は内容が変わることがありますので、お手数ですが何か文字列でおかしなところがあれば、ページを更新しながらお読みいただければと思います。何回かで、きれいに直されていると思います。 あ。匂いのお話でしたね。 私、河童の匂いをかいだことありますよ。 鳥取時代、友達と遊んだ帰りに家路を急いでいると、渓流のそばを通りかかったんです。 清流ですから、よどみなどありません。 けれども、その時はものすごく水がにおったのです。 なんというか、水族館でペンギンの柵の前にいるようなにおい? もう少し日常的にいうなら、金魚の水槽の水の取替え時のようなにおい──。 相生村には河童が棲息していて、私などは会う人ごとに河童の話が出るくらいでした。 なにしろ、医術もする不二屋敷では河童が教えてくれたという傷薬をつくっているし、門口などに下がっている木の縄掛けを指して「昭和30年ごろまでは、ここに河童が魚を吊るしておいてくれた」などと懐かしく語る老人たちもいました。それが一軒や二軒ではないのです。 さて、小川を通りかかった私ですが、その異様なにおいに直感的に「これはふつうの生きもののにおいではないな」と感じて、転がるように駆けて逃げたことを思い出します。 果たして、それから一刻もしないうちに、「河童が出た」と村中大騒ぎになったのです。 村の誰だかが、久しく現われなかった河童をたった今、目撃したというので、皆して見たがって渓流に集まったらしいのです。 夕暮れ時だったので、渓流までとんぼ返りしませんでしたが、私にはわかっていました。 先ほど自分がかいだのは、確かに河童のにおいだったのだと──。 それからは、私にとって「におい」とは「存在」と同意語になったのです。 明日から第二章●相生文字の解読●です。 小夜がいよいよ相生の深淵に近づきます。 タイムスリップして、まずは小夜の妹に会いに来なんせ。
2005年10月13日
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喜平じぃのお弔いからしばらくたって、村が一様に落ち着いたころ、相生では雛流(ひいなながし)が催された。 地方によく残っているように、相生でも行事はみな旧暦に基づいて行なわれる。ゆえにこの祀りも毎年三月の下旬か四月の上旬に行なわれている。 さて、この雛流とは、桟俵(さんだわら)という稲の藁で編んだ直径七寸(20センチ)ほどの船に千代紙で作った雛人形を乗せて川に流す、いわゆる厄払いの祀りである。 その日は、各家で新しく雛を交換する。 そして、一年間自分を守ってくれた古い雛に、川のほとりでその年のよくなかった出来事を囁き、そうすることによって悪霊を吹き込んでから、そのまま川に流してしまうのだ。 この地方の雛流は、全国的にもかなり有名であるから、耳にしたことのあるむきもいるかもしれない。お土産品にもなるので、地元では民芸品として手遊(てすさ)びに作っては、市内の店に卸している老人などもいた。 誰も知るように、雛流は桃の節句に相当するので、これはあまっちょの祀りである。 小夜たちあまっちょは、おのおの晴れ着を着せてもらって、桃の枝を手にその日をしゃなりしゃなりと過ごすのだ。ちなみにこの季節の節句にちょうど合わせたように咲く桃の花とは、字のごとく「兆」(きざし)を予知して魔を防ぐために、辟邪の意味もあって飾られるようになったものである。 さて、この日の小夜は仲良しのみくまりと手に手をとって、春のやわらかい光線を浴びながら、小川に雛を流そうとのんびり径(こみち)を歩いていた。 小夜の翠色の着物と、みくまりの浅黄色の着物が折からの陽光によく映えた。 相生のあまっちょには、機転のきく芳子もいて、小夜は利発な彼女も好きだったが、彼女は無類のおのこまさりだったため、雛祀なんざ参加希望の気配すらなかった。 そういうわけで、自然小夜は今日も今日とてみくまりと一緒に遊んでいた。 ──やーい、あまっちょ! そんな折り、小夜たちはおのこの一団と遭遇してしまった。 いつものじゃじゃ馬が急にぱっとお姫さんのように変身する──世の習いとして、とかく男に性別が分類される者は、こういう現象に弱いのだ。 あれこれとまとわりついてからかうのを、この日ばかりは小夜もみくまりも心得たもので知らんぷりを決め込む。 おかめうどんだのおたふくまんじゅうだのとはやされても、ゆめゆめ戦ってはならない。かんざしをしたつむりをちょいとひねり、にっこり笑ってやればいいのだ。 申し遅れたが、みくまりはとっても愛らしい、くりくりした目をした子だった。顔立ちもよければ、気立てもよかった。一歳年上らしく、背はわずかに小夜より高く、心に芯の通ったこの少女は、初めの頃から小夜の守り神だった。 小夜はおのこにからかわれて困ったように笑っているみくまりの柔和な横顔を見ながら、──この子のこと好いとるおのこはようけおるだろうに・・・と、ひそかに拝察していた。 と・・・。 ──あーっ。何しよるだぁ! ふと小夜は、清二郎とてつが川にかかった丸木橋の上で何か見覚えのあるものを手にしているのを遠目にとらえ、みくまりを置いて大声をあげて走り出した。 小夜はそのままそこへすっとんでいって、来た来たといわんばかりの表情をしている二人の前に仁王立ちして、断固として詰問した。 ──あんたたちやぁ、何とっとったん。見せて。 ──これぇ。 清二郎は観念したように、それを小夜の目の前にぶらさげた。 ──これ、流雛だがな! 何しとんの。 ──雛に菓子乗せるやろ。それ食っとるんだが。 彼らは下流で雛が流れてくるのを待ち構えていて、たもでたぐりよせ、上に供えてあった菓子類を軒並み失敬していたらしい。 ──あきれたが。それには一年分の不幸がつまっとるんえ。それをそんな食べてもうて、あんたたちやぁ、今年がどがなことになっても、うちは知らんよ。 これがおそれおおくも畏くもあの喜平じぃの孫か、と小夜は驚愕の思いでてつを睨みつけた。一同の悪びれた様子もないところにも、余計腹が立った。 ──なぁんでえ。お姫さんの化けの皮がはがれたが。 ──鬼ばばじゃい。 おのこたちに口々にはやしたてられて、小夜は処置なしといったぐあいに、ぷいとふくれて横をむいた。 ──じぃ、怒ったってぇな・・・。 小夜の見上げる大空から、一陣の風が吹き降りて、その結い上げた鬢の毛を、なつかしげにすいていった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 流し雛とは、鳥取では平安時代から続く春の行事で、現在では無形民俗文化財となっています。 紙雛を流し、一年間の罪、けがれを払い、無病息災を願うのですが、人形(ひとがた)に厄災を吹き込んで流すのですから、流し雛も呪術の一種・・・というか、流し雛という行事に名を借りた呪(まじない)そのものですよね。 鳥取では特に用瀬町の千代川原(せんだいがわら)の流し雛は有名で、毎年旧暦三月三日に執り行われます。 十年以上も前に一度訪ねたおりに、「流し雛館」?があったような・・・。 清流に架かる橋の真ん中で、なぜか突然に横断歩道を渡るときにかかるような電子音の音楽が鳴ったような・・・。 ちなみに、次は平成18年3月31日(金)午前10時よりだそうです。 あ。 今、相生のだらず者のお話を書いていて、なんか突然に思い出したのですが、鳥取には‘三木’姓の方とか、名前に‘幹’を戴いた方が多いように思いますが、相生では‘三木’やら‘幹’は‘見鬼’(みき)の音に通じるので、見えないものが見える才を持つ人にその名が与えられていました。 なんでこんなこと思い出したんだろ? いたずらっ子の中に、本名がミキという子がいたからだ! 明日はこの章のおわり●探桜●です。たんおう、と読みます。 相生の子供たちの、風流過佐(ふりゅうかさ)な遊びが続きます。 タイムスリップして、一緒に魂を遊ばせにきなんせ。
2005年10月12日
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相生の春は、さながら巨大な生きた絨毯であった。 あたりは鮮やかな春の色彩にあふれ、あるところには深い黄緑色に、あるところには淡い桃色に、またあるところは濃い緑に輝きわたった。それは萌えいずる命の輝きだった。 ──見なさい、こんな小さな新芽にも命が宿っている。 小夜は大自然の声を聞き、地上にこれほど多くの生命が存在し、人間と共有してきたのかという事実に圧倒された。 ─── その年の相生の春は、喜平じぃのお弔いで始まった。 そして、この厳粛な死者送りの儀式には、子供がそれなりの働きをさせられるのであった。 なぜなら、相生の信仰では、子供はこの世の人間というよりも、あの世の魔物に近い存在であった。こと子供は容易に命を落としたり、神隠しにあったり、病にとり憑かれたりする。 反面、大いなる摂理と通じ合っているところもある。それゆえに、お弔いに子供がかりだされるのは当然のことであった。 かりだされるというより、ことこれらの神事にかけては、ほとんど子供たちの独壇場であるといってよかった。 子供であるというのがひとつの資格であり、その道の子ならば大人よりも神がかりの能力にかけては一人前とされた。 ──われらのひととなるみうせぬ はなはだこれをいたみをしみてかむあがりましし つかさつかさつらなりてあまねくをがみたてまつりて あまつかみのひつぎとよむ 訴(うたい)の家の子が、白装束して唱和している。 小夜が探すと、みくまりもその中にいて、兄姉たちと一緒に一生懸命、訴(うたい)上げている。 その間に、大人たちは墓石となる石を拾いに行くのだ。 墓石となる石、とわざわざ言うのにはちょっとしたミステリアスなわけがある。 たいこうがなるのふもとの一角に、山が裸になったような土もあらわな崖があるのだが、その崖は相生の民の死に備えるかように、数年に一個ずつ墓石のような楕円形の石を産み落とし続けているのだ。 詳しく説明すると、この崖の岩肌の土が少しずつ風や雨によって削られて、あたかも胎に孕んでいる石が産み落とされるように見える。‘子産みの崖’と呼ばれているこの崖は、子産みどころか死を予兆する魔性の崖なのだ。 相生の人々は、古来からここを神聖な場所として、人が死んでからしか近寄らないようにと、固く戒められていた。 その日も大人たちが行ってみると、果たして崖は石を一個産み落としていた。高さ二尺ほどのその石を有難く持ち帰り、村人は喜平じぃの墓標にした。 こうして喜平じぃは、鳥取の大地に還っていった。 すべてが終わったのち、村人が米倉家に集って各々で余韻をかみしめているとき、不意に語(かたり)のひとりがなにかにつき動かされたように、喜平じぃを語り始めた。 ──ひととなるにいたりてみことばすぐれてあきらかなり。 わきわきしくしてかどます。ふみつくることこのみたまふ。 しふのをこりひととなるよりはじまれり・・・ 人々は物音させずに、じっと聞き入った。 またひとつ、相生に語り継ぐ物語が生まれた。 本日の日記--------------------------------------------------------- 今日から四年生編のはじまりです。 鳥取と聞いて、砂丘しか思いつかない人たちがいます。 彼らの思考は単純です。 鳥取とは、砂丘はあれども田舎で、新幹線の駅もない陸の孤島──。 けれども、鳥取の、ことさらに相生村に住む人々の世界は単純ではありません。 それは数えきれない神々や精霊たちがうごめき、動物や植物にも、雨や風にも、あらゆるところに象徴が満ちている世界です。 また、ここは人々が想像だにしない現象が、日常的に在る不思議のクニでもあります。 写真にははっきり写るが、裸眼には知覚されない植物があるのを知っていますか? 「心霊写真」の多くは、この植物の現象です。 正常の遠近法を歪め、どんなに近くても遠くても同じ大きさに見える植物もあります。 森で迷うのは、このためです。 碁の定石で、白と黒の双方の力が完全に拮抗する究極の対局順序がただひとつだけあるのですが、その対局の進行に完全に合った状態で新芽を出していく植物の群生があることを知っていますか? 植物だけで、私はこれしきのことも知りませんでした。 では、そこに動物や蟲さえも属すのなら──。 目には見えないけれども、たまさかにその実体を現すモノ。 鳥取は、それらが今も息づいている世界です。 秘密なんかじゃない。 神秘なんかじゃない。 もっともっと私たちが知らなければならないこともあるかもしれません。 ですから、私が体験した、そのうちでもほんのひとにぎりの物語を、この四年生編でもできるだけ忠実にお話しできたらと思います。 明日は●雛流●です。 鳥取の無形文化財を、一度は目にしにきなんせ。
2005年10月11日
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うさぎ追いし かの山小ぶなつりし かの川ゆめは今も めぐりてわすれがたき ふるさといかにいます 父母つつがなしや 友がき雨に風につけても思いいずる ふるさとこころざしを はたしていつの日にか 帰らん山は青き ふるさと水はきよき ふるさと 誰もが知っている、こののどかな「ふるさと」と題されたうた。 これは、「春の小川」「春がきた」などの多くの優れた文部省唱歌を作曲した岡野貞一が残したうたであるが、彼が鳥取の出身であったことは意外に知られていない。 歌い込まれている「かの山」にあっては、もちろん久松山を思い描いて作曲したことであろう。 「かの川」を特定するには鳥取にはあまりにそういった清流が多いのだが、きっと鳥取中を縦横に流れているそこらの小川を想像したであろう。 もし君よ、目を開いたまま相生村を想像してほしい。 幼いころ、あんなに憧れた天空。 風わたる草原。 夕日の向こう側に駆けてゆく子供たち。 月影は森を照らし、水上は遠く遥か。 里のどの軒先にも、小さな物語が隠れている。 大自然のなごりと人間の暮らしの余波が落ち合って、穏やかにうずを巻いているところ。 鳥取よ。 国のまほろばよ。 日本人の最後のふるさとよ。
2005年10月10日
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自分の身体に竜骨が発現した意味については、それは彼の想像の域を超えていた。 豊はすでに何事にもあてにされない子であったし、彼もまた自らそういう存在に適う性質を持っていたのであまり手放しに誉められた経験がないのであるが、ただひとつ御詞(みことば)の発音だけは、確かに歯医者の言うとおり、一度聞いたものは生涯忘れないという、霊音(れいおん)が聞こえると讃えられていた。 霊音の響きとは、豊ひとりが声を出しているのに、高音で別の声が聞こえてくるというものであった。 常に短く言葉を話す豊であるが、一言二言ではそれは聞こえない。 彼が長く御詞などを唱えたときに、‘ぁー’と、えもいわれぬ不思議な響きのする高音の小さな声が、どこともない場所から響いてくるのだ。 その声を聞いた病者はたちまちに力が戻り、余命の尽きた者ならば、朝刊を読み、大便をして、たえなる平安のうちに死ねた。 彼の声変わりを期待して、ひとたび男性としてのその声を聞いてみたいという目的だけで寿命を延ばしている年寄りもいた。 だが、彼が誰よりも長けるとの誉れ高い御詞の発音をらくらく身に付けられたのも、病者に治癒を促すほどの力ある声の響きを持ち得たのも、思えばこの口中の竜骨の響きの助けであったのかもしれない。 いかな執着心のうすい豊であろうと、次代が守宿多君(すくのおおいぎみ)であることはよく聞き知っていた。 守宿多君──それは大自然、この土地でいう神々に最も愛された者を意味する。 呪(まじない)の一族の中でも、守宿がもっとも正確に神々の声を聞く。 けれどもそれは、あくまでも卦(占い)によって得るものである。それを自分の身に照らしてみるならば、守宿多君とは、卦を使わずとも神々から直接に人の生き死にの刻(とき)を知らされ、天災の頃合いを告げられ、さらには癒しの力を与えられて人々を援け導く者ということか──。 その役割が自分に与えられていたことは、豊にとってはまるで謎だった。 豊は現世の守宿である父を思った。 守宿として郷里にしばりつけられ、毎日の呪(まじな)い事をこなしていくだけでも充分に忙しく、さらには子を産むことだけに気をかける生──。 少なくとも、豊の透き通った緑色の目からは、彼らの生き様はそう見えていた。 また、彼の曾祖母も祖母も父も、守宿の徴を持った者は、生後すぐから相生の民に崇敬され、敬称をもって呼称されていた。 これを自分の名に引きつけてみると──。 たたらさま。 ──うわ。 ようやらん、と豊は頭をひとふりして、その身の竜骨のことを決して誰にも明かすまいと心に決めた。 様々な疑問が豊の中に湧き起こってはいたが、豊はそれも却下することにした。自分たちの一族において、謎なことはいくらもあることをこの少年は知っていた。 これもその大きな謎の一部であるのだろう。 だが、豊のこの身勝手な選択は、彼が文字通り口を割らないかぎり、相生の民が次世の守宿を戴くことはもはや絶対にないことを意味していた。 教室へと戻る間、けれども豊は無意識のうちに喉元に手をやっていた。 それはあたかも、エデンの園に生える知恵と禁忌の果実を喉にひっかけてしまった、人類の始祖のうろたえのごとく──。 ─番外編のおわり─ 本日の日記-------------------------------------------------------- 霊音(れいおん)とは、ある周波数の音のn倍の周波数を持つ音をいいますが、主として可聴域の音に使用される言葉です。倍音が多い音ほど「豊かな」音になると言われています。 私たちがこの音を人工的に作り出したい場合、自分と同じトーンの声を持つ人を(同性の兄弟姉妹など。双子ならば尚よろしい)向かいに座らせて、同じ音(いわゆるラの音が最も適します)を同時に「あー」と息が続く限り出し続けます。ふたりは真向かいに対峙して座り、ほとんど顔を寄せ合わんばかりに正面からくっつけて、互いの口の中に流し込むようなつもりで声を出すのです。 このとき、部屋の天上の隅くらいから、「あー」という高音の声が小さく響きおろしてくるはずです。声を出しているふたりにも聞こえますが、そば近くにいる人にも聞こえます。 私はこの方法を、学生時代のサークルにいた音大生から聞き、一つ上の先輩に私と同じトーンの声の人がいたので──私たちは完全無欠の低いアルト声なのですが、何度となく聞き間違われるほどに似ていたのです──その先輩を引っ張ってきて、合宿の部屋で試してみることにしました。 「あー」 いっせーのーで!で始めた私たちの声の上から、本当に、 「ぁー」 と聞こえてきたとき、周囲に集まっていたみんなは聞いてはならぬものを耳にしたかのように、悲鳴を上げはじめました。 それはどこか幼く、はかなく弱々しく、まるで座敷わらしが歌っているかのような気味の悪い声だったのです。 私自身もぞっとするような戦慄をおぼえた記憶があります。 なぜなら、このとき私は思い出したのです。彼がひとりでこの音を出していたことを。 つまり、豊があの霊音を奏ではじめるとき、彼の前には彼と寸分違わぬ声を持つ、目には見えない誰かが座っていた? それを思うと、私は今でも総毛立つような思いにかられます。 ただし、豊の身体から出る霊音は、私たちが実験的に出したものとは似ても似つかない、奇妙に美しく、どこか甘く、聞いている者が戦慄するどころか、ぼぉっとしてしまうような、不思議な陶酔感を覚えるような声でした。 さて、番外編としてお話ししてきた豊の物語は、これでひとまずおわりです。 豊にも日常生活はあります。彼は普通の小学六年生であり、来年は市内の中学に通うことが決まっているのです。 守宿としての生き方を選ばなかった彼と、彼を愛するがあまりにそれを許した神々とが、今後どのようなかたちで相生の命運に関わるのでしょうか。 四年生編もご期待ください。 明日は●まくあい●です。 明日はまさに鳥取への私の想い・・・ということで、本日の日記の部分はお休みいたします。
2005年10月09日
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相生の伝承──常人より骨が一本多く生まれる守宿(すく)の話は別としても、実は過去、豊は数々の伝説を作ってきた少年であった。 ある時、豊がまだ寝返りもうてない赤ん坊のおり、だれもいない屋敷でその母が土間で昼餉を作っていると、引き戸を閉めた向こう側から、カリカリカリカリと小さな音がするのに気がついた。 何かの小動物かと思って戸を思い切り引くと、そこにはにこにこ笑いながら桟を小さな爪で引っかいている豊の姿があって、母は思わず声を上げたという。 豊を寝かせていたのは、二間も離れた、しかも猫などを避けるための高い柵に囲まれた揺りかごの中であったはずなのだ。 また、その生後八ヶ月の頃、母が抱いていると、いきなり小さな指で壁を指さして、 ──おんどけい。(←なぜ?) とだけ一言はっきりと言ったという。これが豊のはじめての言葉で、以降、彼は三歳になるまでまったく言葉を話さなかった。 物心がついてからというもの、豊の心には自分だけが知っていることがたくさんしまってあるようになった。 彼は何時間も前から人や家畜の出産の時刻を寸刻たがわずぴたりと感じ取ることができた。 もう少し成長すると、人の生き死にに関わる日付もその脳裏に正確に浮かぶようになった。病を得た人があるなら、その身体から発する匂いによって、病気の部位と進行状態をかぎ取ることもできた。 豊の口からこれらのことが漏れることはなかったが、それでも豊がふいに訪ねた翌日に人が死んだりすることが重なったために、人々から薄気味悪がられたりしたこともあった。 だが、むかし神童いま唯(ただ)の人とはよく言ったもので、これらの伝説は、今となっては豊が横着者で通っている性質からすれば、人々から二の次三の次に思い出されることであって、もはや囁きかわされることも絶えてひさしい噂話のたぐいと成り果てていた。 それゆえに今、自分の身体に竜骨が発現した意味については、それは彼の想像の域を超えていた。 本日の日記-------------------------------------------------------- 突然ですが、古事記には名に「耳」の字を含む人物がくり返しあらわれます。それが何故なのかはわかっていません。‘耳’という不思議な語感だけが、現代に伝えられています。 私は中国語が読めません。 中国留学を経て、現地で死なない程度には話すことができますが、自分が今話している言葉を紙に書けといわれれば、書けないのです。それが、「ムダムダ」「びっくりした」などの簡単な表現であっても、です。 自慢にもならないんだから、そのくらい勉強しろよとも自分で思いますが、留学当初は語学習得にかけては、自分の耳だけが頼りだったのです。 日本で出回っているような語学教材なんてどこにも売っていません。テープやCDに入った会話文をくり返し聞いて練習することもできないのです。 そこで私が考えついたこと。 友達になった中国人の女子学生を、毎日のように寮の自室までナンパしてきて、それから五時間ほど徹底的に中国語で話しかけてもらうのです。 私は彼女の言葉に耳をそばだて、できるかぎり会話になるように努力します。 彼女「あーあ。喉渇いちゃった」 私「冷蔵庫に、コーラが住んでるよ」 彼女「住んでるんじゃないよ(笑)。コーラが入ってるよ、だよ!」 私「このあいだ、ニンジン大学の構内を散歩して・・・」 彼女「人民大学だよ! ニンジンなんて大学行かないよ!」 私「トイレ、欲しい?」 彼女「トイレ、行きたい? でしょ???」 そんな具合で、この五時間後、私の心づくしの手料理を食べたというのに、彼女はへとへとになって帰るのです。 おかげで、私は留学が始まって三週間後から以来、会話した中国人に日本人と気づかれたことはただの一度もありませんでした。 これは、鳥取時代に私自身が会得した、語学習得のノウハウを中国語に応用したものです。 すなわち、方言は外国語学以上に教材がありません。 鳥取弁を理解し、自分も話せるようになるために、私は当時、友達の言葉を一言も聞き逃すまいと必死でした。 私のブログへのコメントを下さる鳥取の方々の書き方に、‘ぁ’、‘―’などの言葉を伸ばす表現が多いことに気づかれると思います。鳥取弁はとにかく言葉を‘伸ばす’のです。語尾は‘だの’一語だけでも\_/と三段階にイントネーションが上下するのです。 そして、私が鳥取弁をしゃべれるようになった時に思ったこと。「相手が‘おまいにならしゃべってもええだっちゃ’という義侠心ほどの気持ちを抱くまで、本物の鳥取弁は聞き出せない」 明日は●神々の隠す子●です。 人々が手放しで讃える豊の声とは? タイムスリップして、このお話の最終章に立会いにきなんせ。
2005年10月08日
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豊の心のうちの静かなる動揺を知るよしもなく、歯医者はたて続けにこう言った。 ──きみは舌の付け根のところ、ちょうど軟口蓋と呼ばれている部分の奥に、骨が飛び出しているんだ。うまく生えているから食べ物を飲み込むにも喋ることにも邪魔はしていないようだが、さっき口を開けたときのきみの声が普通より響くような感じに聞こえたのは、この骨のせいだったのかもな。 その言葉をぼんやりと聞き流しながら、豊は他に人がいないかと医者に頤(おとがい)をとられたまま、目をすがめてあたりを見た。 さいわい、皆その時分には教室に戻っていて、近くにこれを聞いた者はいないようだった。 また、豊の口の中の骨をそんなふうに言う医者も、町医者であって相生の伝承を知る者ではないようであった。 ──もしかしたら、普通にはない骨に反響して、音に振動がおこって人の耳には聞こえない声すら出せるのかもしれないよ。それを耳にした人は、あたかも超音波に当たったかのように、それとは知らずに気分よくなることもあるかもしれない。 だが、医者がなにを言おうが、豊にとっては、今日までこれが普通の人体の造作であると信じているところの骨であった。 もちろん、豊は自分にその骨があることをずいぶんと昔から知っていた──口を精一杯開けたとき、舌の消えていく喉の最奥に、逆三角形のわりと大きなふくらみがあることを。 けれどもそれは、常人にはありえないものだったのだ。 ──逆鱗といってね、竜の喉もとの逆さに生えたうろこに触れると大いに怒って天災が起こることから、竜に譬えた天子の怒りを指す言葉があるんだ。これを蜃気楼の蜃と怒という字で蜃怒(しんど)とも書くんだよ。これはどうみても逆鱗にしか見えないな。そうなると、きみのこの骨には誰も触れちゃあいけないなぁ。 この医師はなかなか知識が豊富なようで、豊に向かってそんなふうに軽妙な調子で話していた。 だが、聞かされている豊にとっては、それらのどの言葉も軽口には聞こえないものであった。 ──歯医者が一生をかけて一度見るか見ないかの骨だが・・・いいものを見せてもらった。ありがとう。 そんなふうにお礼まで言われたのに、豊は無言のままぼんやりと歯科検診の席を立った。 本日の日記--------------------------------------------------------- バリ島の事件があってから、今日で五日が経ちました。 本日は戦争の世紀と呼ばれた二十世紀を越えて、新世紀を迎えてなお、テロに苦しむ私たちの世界について、この五日間で考えあぐねた私見をこの場をお借りして申し述べてみたいと思います。 わが国の一般人から武器を取り上げた歴史上の事例としては、豊臣秀吉の刀狩と明治政府の廃刀令のふたつが上げられます。 特に明治政府の出した廃刀令に従って、各地の農民から自主的に出された武器は、およそ530万本にのぼったと記録に残されています。 これは、当時の農民の三世帯に一世帯は帯刀していたという計算になります。提出を拒んで隠し持った刀も当然あると考えれば、あるいは二世帯に一刀。つまり、ほとんどの農民が帯刀していたことになるのです。 武士が丸腰と思っていた農民は、実は全然丸腰ではなかったのです。 けれども、日本の農民はこれだけの武器を持ちながら、自らの意思で何百年もの間、その使用を自制することができたのです。 このことから、私がつくづく鑑みるに男性の本能とは本来、戦闘に関するものではないということです。 闘争本能はあると思う。 けれども、同じ種族を殺し合うという、戦闘に関しての本能を持つことは、種の保存の法則からいっても本来ありえないはずです。 しかるに、牙や爪などの武器をその身に備えるオオカミなどの肉食獣は、武器を持って生まれてくるがゆえに、その武器を自制する本能も持って生まれるのでしょう。だから、同種同族内での殺し合いは、代替わりなどの極端な例以外には見られないのです。まして数十万数百万単位の同種内での殺し合いなど、自然界では本来は起こるはずもないことなのです。 人間は牙や爪を失ったために、それらを自制する本能も失ってしまったのに違いありません。 けれども、歴史上の日本人が自らの意思で武器を自制していたことも忘れてはなりません。 武器を持ち、かつ自制せよ、と私は言っているのではありません。 事実、武器使用の自制を知っていた日本人は、廃刀令の後、軍部に武器を持たされて幾多の戦争に突入していきました。つまり、武器を持った途端、殺し合いをするのでは動物にも劣る、と言いたいのです。 人間は身体から武器を失くし、武器を自制する本能も失ってきました。けれども人間であるだけに、知性をはたらかせて武器を自制することもできるはずです。 歴史上の日本人が、それを証明しています。 せっかく武器を失うように進化してきたのだから、私たち人間はそこに意味を見い出すべきです。失ったことに意味のあるものを、自然に反してまた得ようとするから、脳や身体が混乱するのです。 明日は●守宿の能力●です。 上記に語った戦闘本能からは東と西ほどに遠いようにみえる豊くんの、幼い頃に実際にあったお話です。 タイムスリップして、その不思議な話を聞きにきなんせ。
2005年10月07日
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さて、相生の民と、なによりも嗣子を待ち望む現世の守宿であるおづぬさまに嘱望されているところの蜃(みつかけ)は、ある時たったひとりにのみ、その報せがもたらされることとなった。 それは、この80年代に見合った、たいへんに現代的なやり方で発見されたものであった。 ある日、分校にて歯科検診があった。 例によって歯科検診のあることをとんと忘れて、昼の放課の後にのんびりと教室に入ってきた豊は、黒板に「五校時は歯科検診」と大きく書いてあるのを目撃して、はたと思い当たった。 そうと気づくと、豊は遅れたことを先生にどやされないうちに、準備室の前に皆が並んでいる最後尾にこっそりと身を置いた。 当時一年坊主だった豊にとって、‘しかけんしん’とやらは、生まれて初めての経験であった。 赤ん坊の頃から風邪ひとつひいたことのない豊は、医者に喉を見せたこともなかったのだ。 ──はい、あーんしてごらん。 ──あー。 順番のまわってきた豊が小さな丸椅子に座り、慣れない様子でおぼつかなくも口を開けたとたん、医者がその口中を見て破顔した。 ──やあ、これはめずらしい。 そして、言った。 ──きみは、ひとより骨が一本多いんだね。 豊の心の臓が、どきんと一回大きく拍を打った。 本日の日記--------------------------------------------------------- 私の母方の祖父は、明治生まれの大学の先生でした。 日本史の先生だったのですが、これが、人類を‘常人’と‘奇人’の二つのジャンルに分けるならば、必ずや奇人の項の筆頭に分類して遜色のないたぐいの人間で、毎日ぼろぼろの着物になぜか帯だけは由緒ある総絞の帯をしめ、ロザリオをふりまわしながら近所を徘徊して(認知症ではない)、近くにある商店街の店番をしているような人でした。 この爺さま、50年前に次々と新設された新制大学の関係者ならば誰でも知っているほど奇人としてその名を轟かしていた人で、同じく奇人の誉れ高い江上波夫先生を自分の研究室に棲まわせていたとか、授業はすべて古語で講義したので、神武天皇は‘ずんむてんのう’あまつさえマッカーサーですら‘松笠’などと言っていたので、私は今でも祖父の孫であることが知れると、当時の学生の方から、「毎回、何を言ってるのかぜんぜんわからなかった!」「授業料かえせ」 と慰謝料まで請求されるほどの、すさまじいばかりの奇人的講義だったようです。 この爺さま、あるとき「ふんづまりになった!」と叫んで病院に連れて行かれました。 それから二週間ほどたったある朝、酸素吸入器の口に当てる部分をおでこにくっつけ、「わしは鞍馬テングじゃ!」 と突如ひとこと言い置いて、大きな放屁をしてそれっきり。 医師、看護師はもちろん、その場を囲んでいた私たちも唖然として見送るよりほかはない、まことにとんでもない死にっぷりでした。 この爺さま、私が小学生に入ったくらいから「遊び」と言っては藤原宗忠(1062-1141)の日記である「中右記」やら、江戸時代の「かわら版」などを手ずからひもとかせたのです。 私はこの祖父の初孫でした。 祖父からこのような非常に偏った教育をされたせいで、私は決定的な文系人間に育ってしまいました。 明日は●誰も知らない●です。 なんかそんな題名の映画があったような・・・。 それはさておき、歯は大切ですよ。皆さまもタイムスリップして、歯科検診に来なんせ。
2005年10月06日
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うみやめとは、これ以上は生み止めること──すなわち守宿の誕生を神々が告げるものであった。 父宮であるおづぬさまは喜びにあふれ、嬉々としてゆたの身体に神々からいただいた徴(しるし)を捜した。 しかしながら、ゆたの身体のどこにもその徴は見えなかった。 ──なぜ生まれぬ、なぜ生まれぬ。 と、おづぬさまは並み居る皆の前で、おのれの不甲斐なさを悔いて涙すら流された。 余談ではあるが、このおづぬさまは、包衣出水、秀骨清像と謳われる、常人が目を合わせられないほどの優れた容姿にめぐまれた方であった。 すなわち、包衣出水(ほういしゅっすい)とは水から上がってきた者の衣が身体にぴたりと貼りついてなまめかしいさまからとった、艶のある人を称える言葉である。また、秀骨清像(しゅうこつせいぞう)とは、読んで字のごとく、体躯がすらりと清々しく、美しいさまを指す。 このおづぬさまに生き写しと囁かれたのは、他ならぬこのゆたであった。 けれども、彼はあるものが決定的に不足して生まれてきてしまったのである。 もちろん、ゆたが長じてからも、おづぬさまはあきらめがつかぬ様子で、その関節という関節、肋骨、背骨の一本一本から指で触れて確認した。生えてきた歯の数も何度も数え直した。 だが、いつも同じ結果に終わった。 おづぬさまはゆたを見るたびにことさらに肩を落とし、ゆたはしだいに一族のなかでも見えない子供になっていった──。 本日の日記--------------------------------------------------------- 更新できたっちゃ! さて、本日はお手数ですがお時間の許す方は── このブログを開いていただいた後、アドレスバーをいったん消し、下記のソースを↓をコピー&ペーストして入れなおしてEnterを押してください。JavaScript:with(document.body)innerHTML=innerHTML.replace(//g,'フゥーーー!!').replace(/。/g,'フゥーーー!! ').replace(/」/g,'オッケ~~!!」').replace(/w/g,'セイセイ');focus() 今日、発表だから・・・景気づけ! では行ってまいります! 明日は●その徴を持つ者は●です。 やっとその徴を持つ者が顕現します。 タイムスリップして、相生の秘密を共有しにきなんせ。
2005年10月05日
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竜骨を持つもの──守宿(すく)は血が継承するものであるから、必然的に守宿を約束された者は成人すると自分の血を分けた子供をたくさんもうける。 それによって、竜骨を持つ次代の守宿が生まれる確率を確実にするのだ。 ゆえに守宿の嗣子の子作りは、竜骨を得た子供の誕生を見るまで続けられる。 三世のおづぬさまは、顕現する守宿の徴(しるし)を持つなかでも唯一の男子で、さらには現在三十代前半の青年の盛りでもあったために、子供の数はいや増すばかりであった。 おづぬさまはお子が生まれるたびに、それこそ裏表をかえす勢いで竜骨と呼ぶべき徴を見い出そうと躍起になった。 それだけでなく、すでに竜骨の見つからなかった子供たちの身辺も調べなおしては嘆息していた。 だが、相生の民が首をながくして待つ第四世の守宿となるべく徴を持ったお子は、とんと生まれる気配がなかった。 実は一度だけ、長じて唯多(ゆた:横着者)という不名誉な仮名で呼ばれることになる男児が生まれたときに、「唯星(たたらぼし)の加護のもとに危(うみやめ)」の卦(宣旨)が出た。 うみやめとは、これ以上は生み止めること──すなわち守宿の誕生を神々が告げるものであった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 今日10月4日が、その誕生の日なのです。 最近、本文が短めでごめんなさい。 実は、今日という日に内容を合わせようと思って文章量を調整していました。 それにしても。 楽天って、‘今日がお誕生日!’というコーナーとかって作らないのかな。一日ずつ、プロフに登録してある誕生日の人がだーっとリストアップされていくというコーナー。で、訪ねてお祝いしたい方はお祝いの言葉を置いていく・・・ほのぼのしていていいじゃないですか。 誕生日を知られたくない人は非公開なんだし、誕生日を入れている人はそれなりにアピールしているわけだから、‘誕生日コーナー’登録制を作れば登録してくる人はたくさんいるんじゃないかな。自分と同じ日に生まれた人にも出会いたいし。どんな人で、ブログでなにを考えていて、これまでどんな人生を歩んできたのかな、とか。 こういうの、すごく浪漫を感じるのは私だけ?! えと。 本日六時半から十時半の間にご訪問下さった方、本当にごめんなさい。 本日は内容を大幅に変更しております。 日記に書かなければならないことをすっかり忘れていたことに気がついたものですから・・・でも、今後はこのようなことがないよう、気をつけます。先ほどまで公開していた日記は、明日かまた後日アップいたします。 明日は●生まれ出づる悩み●です。 意味深なタイトルが続きますね。 タイムスリップして、生み初(そ)めた子に会いにきなんせ。(明日、更新が遅れるかもしれません。学会発表に相当する予定が朝から入っているのです。朝に更新できなければ、夜遅くになりますが、明日中には更新いたしますので、どうかご容赦くださいませ)。
2005年10月04日
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さらに詳しく言うならば、相生村では朔望月──つまり太陰暦に基づいた生活を営んでおり、各々の月の名も日の名前も太陽暦とは異なった呼び方をしている。 すなわち、ひと月のうちには二十八日が定められているのであり、そのひとつひとつに星の二十八宿が付けられている。 これは太陽の道である赤道と異なり、月の運行の道である黄道に沿って天球を青龍(東)・玄武(北)・白虎(西)・朱雀(南)の四宮に分け、さらに各宮を七分して二十八に区分し、星宿(星座の意)の所在を明瞭にしたものである。 太陰ではおよそ一日に一宿ずつずれながら、二十八宿をもって天空を一巡するように月が運行するゆえに、ひと月に二十八日が定められる太陰による日の名前を呼びかえるに最適とされたのである。 さて、守宿(すく)の誕生もこの星の運行と綿密に関わっており、一宿のもとにひとりの守宿が生まれるとされ、それゆえに、それぞれの守宿に与えられる名は四宮二十八宿をもって一巡した。 また、一宮につき七代をもって最大の守宿を得るとも言い伝えられ、そこから鑑みると、記録に残る先の二十七代の守宿のうち、守宿多君(すくのおおいぎみ)と奉られた方がこれまでに三人おられたことになる。 そして、吉祥の方位が北に移った現在、おづぬさまの次世がちょうど七代目の北宮守宿多君に相当した。 古くからの宣旨(預言)によれば、北宮守宿多君は、人類が不和と災害に苦しむ戦世(いくさゆ)にあって、その右の手に自然神との調和の力をもつ御詞(みことば)を、左の手に人心を一致させる力をもつ呪(まじない)を武器として戦い、かの地の民を守り導くという。 次の宮を待ち望む、おづぬさまをはじめとする相生の民の嘱望がどれほどのものだったか、想像がつくだろうか。 本日の日記--------------------------------------------------------- 我こそは守宿である! という猛者はいらっしゃいましたか? 私は額の真ん中に尖りがあるどころか、へっこんだところがあるのです。 出生直後にしまるといわれる、‘大泉門’がしまらなかった? ひょっとして脳にさわれる? さて、本日の話題ですが、相生の伝承を語る上で私にとって興味深いのは、この地に住む人々が古くから星の運行に対する精緻な知識を持っていたということです。 私の名前は、父がそれこそ万葉集オタクだったためにその中の歌からとられたものです。 そういうわけで、万葉集に関しては幼い頃からよく目を通していたのですが、そこに星の記述が極端に少ないことに気づいたのが、私が大学生のおりでした。 言の葉を尽した──と称えられるがゆえに、万葉集は万葉集と呼ばれているのです。それなのに、星に関する言葉が見えないというのはどうしたことなのでしょう。‘夜’‘月’などの言葉は相当見ることができるのに。 つまり、これはあえて避けたと考える方が正しい──と私は判じました。 古来、日本人は‘星’を忌み嫌っていた? けれども、鳥取物語を書きすすめる上で、私は思い当たったのです。 かの地の人々は、決して星を忌むものとは考えていなかった。むしろ、星座の巡りを崇拝するような伝承をもっていたことを。 もちろん、古来より中国(ほか、占星術をもつ古代諸国)において、星の運行はまつりごとをすすめていく上でも大変に参考にされるものでした。けれども、日本に限っては、星の巡りが重要視された史実はありません。 おそらく、古代のある時期からなんらかの理由で日本人は‘星’に忌むべきものを連想するようになったのでしょう。そのきっかけは今では知る由もありません。 ただ相生の民だけが、俗信の潮流から孤立して、上代以前の古い古い伝承を守り伝えていったのです。 明日は●産み止めの卦●です。‘うみやめ’と読みます。 タイムスリップして、この意味深な言葉の意味を見い出しにきなんせ。
2005年10月03日
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村の人々は、これを竜骨と呼んで敬う。 くわしく説明するならば、先々代の守宿は不二室(ふじはつゐ)さまと言って、左胸の肋骨が一つ多い。それゆえに心(なかご)さまと呼ばれて相生の民の崇敬をかっている。 また、はついさまの嗣子である壁(なまめ)さまは尾(あしたれ)と呼ばれる尾をお持ちになる。 なまめさまの嗣子である現世守宿の角(すぼし)さまは、その名のとおり、眉間の中央に小さな尖りを持っておられ、小角(おづぬ)さまとも呼ばれている。 つまり、今では知られているだけで三世の竜骨が現存するのであり、これはつまり、はついさまを竜として、あしたれさまが蛟(みづち:これはミが水、ヅが助詞でチは霊で水の霊の意)、おづぬさまが蚪(ひきつ)と呼ばれる角を持つ竜の化身であると見做されるのである。 ただし、蚪の下には蜃(みつかけ)という竜がひかえているはずなのであった。ちなみに、蜃気楼を起こすのはこの竜である。 だが、いまだこの蜃にあたいする子供が、不二一族には見当たらなかった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 中国の吉祥文(その2) さて、中国における最高の吉祥文は、“龍”とされていることは周知のとおりです。 龍には階級があり、下位から、下品下生(げぼんげしょう):水中に棲む“蟠”(はんち:翼がなく天に昇れない下級の龍)。中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう):“蜃”(みつかけ)という四本足で翼を持ち蜃気楼を吐くもの。中品上生(ちゅうぼんじょうしょう):“蚪”(ひきつ)と呼ばれる角をもつ龍。上品中生(じょうぼんちゅうしょう):四足あって大水を起こす“蛟”(みずち)。上品上生(じょうぼんじょうしょう):最高位に翼が火焔になり体表に鱗があり五爪をもつ“龍”。 中国において、皇帝は五爪の龍を文様として使用し、臣下は四爪として皇帝の威信を避けました。 文様上でも、五爪を龍、四爪を蟒と呼んで区別します。 礼服では公、侯以下は龍の数も八から五匹までと身分によって決まっていました。 同様に、皇帝御用の器物が下賜される時は、龍の爪を削り取って四爪にすることも行われたのです。(その3につづく) 明日は●守宿多君●です。‘すくのおおいぎみ’と読みます。 守宿にはまだまだ秘密がありそうです。 タイムスリップして、不思議の民の謎解きにきなんせ。
2005年10月02日
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不二一族(ふじのいちぞく)は、相生村では唯一の呪(まじない)方の役割を担う集団であった。 相生の人々は、病気のおり、神祀りのおりはもちろんのこと、衣類裁ち、かまど造作、種まきにいたるまで、それこそ生活のすべてを呪方の託宣に依っていた。 これら日常のこまごまとしたお伺いに対する託宣を、一族が分業して行なうのであるが、こと神々と直接に会話をすることができる役柄に、守宿(すく)という名が据えられていた。 守宿は一世一代が継承し、現世の守宿のとむらいをもって継ぎの世に受けつがれる。 そして、この守宿宮(すくのみや)には、ある謎めいた秘密があった。 守宿の霊力を持つ者は、生来から決められて生まれてくるのだ。 古くから相生において呪方に竜が宿ると伝承されるとおり、守宿を継ぐべき子供には常人にはないある特徴が見られた。 守宿は、骨が一本多く生まれるのだ。 本日の日記--------------------------------------------------------- 本日から番外編開始ということで、まずはプロローグ・・・と書き込もうとしたら、「風呂道具」と書いてしまっていて慌てて削除編集しました。 呪の子の風呂道具って・・・なに? 寝ぼけてる? さて、本日より日記の場をお借りして、中国の文様について書いてみたいと思います。堅苦しい文章ではないので、どうぞよろしくおつきあい下さい。 中国の吉祥文について(その1) 中国美術を研究していると、壁画に描かれた仏像の着衣のちょっとした意匠にも様々な意味があることを知るようになります。 かつて文様には邪悪を遠ざける僻邪の役割りや、吉祥を呼ぶ力があったのです。身分を示す文様もあり、季節や自然の情緒の形象の中に、立身出世や子孫繁栄などの願望を込めたものもありました。 たとえば、古来より中国人は縁起の良い言葉と音を同じくする語を吉祥と考える習俗があるのですが、そのなかでも有名な吉祥文といえば“倒福”の意匠でしょう。 これは、中国に興味のある人なら誰でも一度は目にしたことがある“福”の字が逆さまになって門前や部屋の中に飾られるもので、“到福”(福が来る)と音を同じくするために、このモチーフが好まれているのです。 他にも、鹿の図像は福禄寿の“禄”(ルー)と音が同じであるがゆえに吉祥文とされているし、魚は“余”(あまる:イー)と同じ発音であるために、福のシンボルとして陶磁器などに多く描かれています。また蝶は中国では八十歳を意味する“耋”(ティエ)と同じ発音であることから、長寿を表す吉祥文となりました。 これと似たもので、蝙蝠は“蝠”(フー)が“福”に、“蝙”(ビエン)が“遍”に通じるので、福が何遍も訪れるとして吉祥文とされます。蝙蝠は現在、ラーメン鉢の文様としておなじみです。 (その2につづく) 明日は●あともうひとり●です。なんか、前にもそんなタイトルがあったような・・・(笑)。 タイムスリップして、不二一族の秘密を見い出しにきなんせ。
2005年10月01日
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