全229件 (229件中 201-229件目)
(アガリ森のウタキ)「胡屋集落」と「仲宗根集落」は沖縄市中心部の地域に隣接しており、胡屋地区には一番街商店街、中央パークアベニュー、コザミュージックタウンなどの商業施設があり、仲宗根地区には沖縄市役所が存在します。そもそも「胡屋集落」と「仲宗根集落」は別々の集落でありますが、昔から2つの集落は「獅子舞加奈志」の伝統行事や文化面で協力し合い発展を遂げてきた、切っても切れない強い絆で結ばれているのです。(諸見小学校の東側にある胡屋の石碑)(石碑に刻まれた霊符)諸見小学校の東側の十字路に位置する「胡屋の石碑」は胡屋集落の西側にあり、悪霊などを防ぐ意味で大正9年7月13日に設置されました。石碑に刻まれている霊符は「鎮宅霊符縁起説」の鎮宅霊符七十二道と、新宮館発行の「神道神言妙術秘法大全」に掲載されているものと同じだと考えられています。霊符とは神社からいただく御札や御守りと同じようなもので、古くからご利益があるとして庶民の信仰の対象となっていました。(胡屋のガジュマル)(ガジュマルと共に建つ交通安全碑)胡屋集落の北側に「胡屋のガジュマル」があり胡屋集落のシンボルとして住民に大切にされています。「胡屋のガジュマル」は樹齢約100年、樹高7.9メートル、幹周3.2メートルの古木で「胡屋の石碑」と共に大正9年頃より胡屋集落を見守って来たのです。ガジュマルの木には「キジムナー」という精霊が宿ると沖縄では言い伝えられています。(ミーガー/ウフガー)「胡屋のガジュマル」に隣接する「胡屋コミュニティー広場公園」には「ミーガー」という井泉があります。俗に「ウフガー」とも呼ばれ、胡屋集落の中では最も新しく造られた井戸です。昭和6年にポンプ式に改修され、飲料水や馬の水浴びとして多く利用されていました。胡屋集落では旧暦8月10日に地域の平和と五穀豊穣を祈念して行われる「ウスデーク」という伝統行事で「ミーガー」が祈られています。(胡屋の石獅子/シーサー)(石獅子の隣にある霊石柱)胡屋集落の中心部にある胡屋自治会館に設置された「胡屋の石獅子/シーサー」です。集落の南側に向けて構えており、このシーサーは集落の南から来る悪厄を祓う重要な役割を持っています。胡屋自治会館はかつて「メーヌマチュー」と呼ばれる広場に建てられており、この場所は昔から「グングヮチモー」とも呼ばれていた聖地として住民に崇められていました。石獅子の隣には貝殻の化石が多数混在する霊石柱も魔除けとして一緒に佇み、胡屋集落を悪霊から守っています。(村根屋と呼ばれる拝所)(村根屋の霊石)胡屋自治会館に隣接した場所に「村根屋」と呼ばれる拝所があります。拝所の小屋にはウコール(香炉)や湯呑みが供えられていました。「村根屋」と言う名称から胡屋自治会館がある土地が胡屋村発祥の地だと考えられます。「村根屋」は村のヒヌカン(火の神)の役割として土地を災難から守ってくれる神が祀られていると思われます。また「村根屋」の霊石は魔除けの悪霊祓いとして設置されていると考えられます。(胡屋の御嶽)(胡屋の獅子舞安置所)コザ中学校の南西に位置する「アガリ森」にある「胡屋の御嶽」と呼ばれる拝所です。「アガリ森」は沖縄戦後に米軍の通信施設が建てられていましたが、この高台が胡屋集落に返還されると集落の獅子舞の安置所、御嶽、殿毛と呼ばれる神を祀る広場などが1980年に「アガリ森」に移設されました。旧暦8月10日の「ウスデーク」と旧暦8月15日の「十五夜」では「胡屋集落」と「仲宗根集落」の共同伝統行事として「獅子舞加奈志」が奉納されます。(フサトガー/ウブガー)コザ中学校の南東側に位置する「フサトガー」という井泉です。俗に「ウブガー」とも呼ばれ、胡屋集落では飲料水として利用したり、子供が産まれた時は「産水」てして利用され、正月の元旦には「若水」として水を汲んできました。旧暦8月10日の2集落共同行事で行う「ウスデーク」では水への感謝と五穀豊穣の祈りを捧げています。(沖縄市役所裏の歴史公園)(室川貝塚の丘稜)沖縄市仲宗根町には沖縄市役所があります。市役所の敷地は丘陵地帯になっており、一帯に室川貝塚が広がっています。縄文時代前期の標式土器である曽畑式土器やヤブチ式土器の発見により「室川貝塚」は6700年前の新石器時代前期の遺跡と推定されています。現在では歴史公園として整備され、沖縄市の指定文化財に指定されています。(仲宗根御嶽)(地頭代火の神)沖縄市役所の北側に「仲宗根貝塚」が広がっており、約3,500年前から600年前に渡り存続した遺跡です。「仲宗根貝塚」からは抜き歯された人の顎骨や動物の骨、祭祀に関係すると思われるガラス玉、中国製陶磁器や土器などが出土しています。「仲宗根御嶽」がある一帯の広場は「ウンサクモー」と呼ばれ、仲宗根集落では5月ウチマー(豊穣祈願)などで敷地内にある「地頭代火の神」と共に拝まれています。(胡屋自治会館にある自動販売機)室川貝塚や仲宗根貝塚の一帯は現在の胡屋集落と仲宗根集落に広がっていて、昔より人々が暮らしていました。現在は胡屋地区と仲宗根町地区に分かれていますが、縄文時代には同じ土地の住民として生活してきたと考えられます。2つの隣接する集落が昔から同じ伝統行事を共有して伝承している事も当然と言えます。今後も「胡屋集落」と「仲宗根集落」の強い絆を守りながら、古より伝わる伝統文化を積極的に後世に大切に伝える継承集落として発展して行く事を心より期待しています。
2021.03.08
コメント(0)
(喜舎場公の墓)沖縄本島中部の北中城村に「喜舎場集落」があります。喜舎場集落は北中城村のテンブス(ヘソ)である中心部に位置し、斜面緑地や集落の背景となる丘陵緑地といった豊かな自然環境や景観を残しています。また、中城湾や西海岸を見下ろす絶景なども数多く存在し、訪れる人々の心を癒してくれる集落です。(喜舎場の石獅子)喜舎場集落の南部に「喜舎場公園」があり「喜舎場の石獅子」がどっしりと構えています。元々この石獅子(シーサー)は集落の南西側に隣接する安谷屋集落にある"カニサン"と呼ばれる巨岩に向かって鎮座していました。この巨岩が喜舎場に災いをもたらすフィーザン(火山)であると信じられ、その返しとして石獅子(シーサー)が据えられたのです。巨岩に対する火除けと魔除けとしての村獅子として崇められていたのです。(喜舎場の殿)石獅子から見える場所に「喜舎場の殿(トゥン)」があります。「殿」は「神アサギ(神アシャギ)」とも呼ばれる神祭りを行う聖域で、4本柱で壁がない吹き抜け構造の小屋となっています。「喜舎場の殿」の祭壇には霊石が祀られており、御願に用いられるヒラウコー(沖縄の線香)が供えられていました。(喜舎場公の鳥居)(岩間に架けられた石橋)喜舎場公園を進むと「喜舎場公」と記された鳥居が建ち、その先には「喜舎場公之墓所」に向かう長い石段が続いています。94段の石段を昇り終えると巨大な岩に挟まれた通路があり、岩間の上には石橋が架かっていました。「喜舎場公之墓所」への天然の岩門からは神聖な聖域として空気が一変します。(喜舎場公の墓)岩門を潜った先に「喜舎場公の墓」が姿を見せました。琉球石灰岩の岩塊の中心には8段の階段があり、その上に宝珠が供えられた石の祠が建てられています。喜舎場集落の創建者である「喜舎場公」がいかに集落の村人から大切にされ敬われていた事が伺えます。また、琉球王国の正史として編纂された歴史書である「球陽」の外巻「遺老説伝」には「往昔、喜舎場公ナル者有リ、此ノ邑ヲ創建ス。因リテ喜舎場村ト名ヅク。是レ故ニ今ニ至ルマデ毎年二月、村長皆其ノ墓ヲ祭ル。墓ハ本村後岩ニ在リ」と記されています。(喜舎場公之子孫上代之墓)「喜舎場公の墓」の正面には更に大岩を上る石段があります。先ほど、鳥居から続く石段を昇り詰めた場所にあった岩間に架けられた石橋は、この「喜舎場公之子孫上代之墓」に続いていました。喜舎場公の子孫が眠る石造りの墓には霊石、花瓶、ヒラウコー(沖縄の線香)が供えられており非常に神聖な空気に包まれていました。(喜舎場村祖先御墓/アーマンチューの墓)「喜舎場公の墓」と「喜舎場公之子孫上代之墓」を後にして、更に先の急な石段を降ると左側に通路がありました。その奥には「喜舎場村祖先御墓」(アーマンチューの墓)があり、霊石、ウコール(香炉)、花瓶が供えられていました。現在、旧暦9月18日に例祭が執り行われており、ムラシーミー(字の清明祭)には「喜舎場公の墓」と「喜舎場公之子孫上代之墓」と共に拝まれています。(イーヌカー/上の井戸)「アーマンチューの墓」から更に石段を降ると右に昇る通路があり、薄暗い森の奥地に続いていました。その通路を進むと亜熱帯ジャングルと琉球石灰岩の巨岩が不気味な雰囲気を醸し出しており、辿り着いたのが「イーヌカー」(上の井戸)でした。横120センチ、縦60センチ、深さ75センチに琉球石灰岩で積み上げられています。ハチウビー(旧正月)やウマチー(旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日の豊穣祈願と収穫祭)に集落の住民により拝まれている神聖な井戸です。(仲間神屋)(喜舎場の火ヌ神)「喜舎場公園」の北側に琉球赤瓦屋根の「仲間神屋」があり、喜舎場村を創建した喜舎場公の直系にあたる家と伝えられています。集落の重要なウガンジュ(拝所)となっており「喜舎場公例祭」や様々な祭事で拝まれている重要な場所です。「仲間神屋」に隣接した場所には「火ヌ神」があり、喜舎場集落の住民の無病息災、幸福と安寧、繁栄を見守る役割があります。石垣に囲まれた「火ヌ神」には魔除けの石柱も一緒に設置されていました。(喜舎場のおもろの碑)(喜舎場のおもろの解説碑)喜舎場集落の南部にある「喜舎場のおもろの碑」です。歌碑には「一 きしゃは つくりきよ きしゃは おなりしや ゑけ はひ 又 よへ みちやるいめの まよなかのいめの 又 いめや あとなもの いめや うせなもの 又 おなり たちへともて つくり たちへともて」と記されており「喜舎場の美しいツクリ(人名)を抱いたと思ったものの、それは昨夜見た夢であったよ、夢はたよりないものよ」という高笑いを意図した狂言的な歌です。古琉球の人々は健康な笑いこそは共同体に世果報をもたらす力の根源だと考えたそうです。(ウフカー/大井泉)(洗濯ガー)(カーグムイ/井泉小堀)「喜舎場のおもろの碑」の西側に「喜舎場ウフカー(大井泉)」があります。ンブガー(産井泉)や共同井戸とも呼ばれる北中城村で一番大きな井泉で、敷地には「ウフカー」「洗濯ガー」「カーグムイ」があります。「ウフカー」は飲料水等の生活用水に、「洗濯ガー」は衣料等の洗濯に、「カーグムイ」は畑の帰りに手足を洗うために利用する事が義務付けられていました。正月にはワカミジ(若水)、新生児が産まれた時はウブミジ(産水)を汲み、旧5月のウマチー(収穫祭)には住民が水の恵みに感謝して祈願したのです。(王妃御墓の木札)喜舎場集落の北部に丘稜の森があり、その中腹に王妃御墓(ウナジャラウハカ)があります。王妃御墓には「EMウェルネスリゾート/コスタビスタ沖縄ホテル&スパ」に隣接する細い山道から行く事が出来ます。このホテルは沖縄が本土復帰前に開業して一時期は米軍関係者の宿泊客で賑わいましたが、その後はバブル崩壊と共に廃業に追い込まれました。隣接する王妃御墓がある丘稜の深い森が不気味な雰囲気を醸し出していた為、廃業後は「幽霊ホテル」として噂になるほどホテル周辺は人々から恐れられていました。(王妃御墓/ウナジャラウハカ)「王妃御墓」は舜天王統三代目である義本王の妃の墓と伝えられています。義本王は天災異変が相次いだことを理由に王位を英祖に譲って隠遁したとされ、国頭村辺土で没したとも、北中城村仲順で没したとも言われています。「北中城村史」には義本王の直系の子孫である花崎家の口伝として、墓内には義本王、真鍋樽按司、西之按司加那志、桜尚の厨子が安置されていると言われています。「王妃御墓」には霊石とウコール(香炉)が設置されており、集落の住民の神聖な場となっているのです。(喜舎場公園の入り口)北中城村喜舎場集落には、先人たちから受け継いできた多数の文化財が残っています。それぞれの文化財はいわば北中城村の歴史と文化の象徴です。喜舎場集落の大切な財産が次の世代へと大切に継承され、聖地である集落の平和と発展が末永く続く事を心から願っています。これからも喜舎場集落では琉球王国時代から続く素晴らしい旧暦行事が大切に継続される事でしょう。
2021.03.02
コメント(0)
(与儀遺跡)「与儀集落」は沖縄市南部の国道329号線沿いに位置し、北中城村渡口地区に隣接しています。「与儀集落」は先祖を敬う事を重んじている地域で、多くの御願(うがん)行事が昔から大切に継承されています。旧正月、五月ウマチー(豊穣祈願)、六月ウマチー(収穫祭)、六月カシチー(収穫感謝祭)、八月シバサシ(悪霊祓い)、九月菊酒(健康祈願)、十二月ウガンブトゥチ(火の神の昇天)など、一年を通じて琉球王国時代から続く旧暦の伝統行事が行われます。(シマカンカー)(シマカンカーの左縄)「与儀集落」に伝わる「シマカンカー」は沖縄市で唯一継承されている無病息災を祈る伝統儀式で、旧暦11月1日に集落の北側と東側の入り口2カ所に豚の皮を結んだ左縄(左撚り縄)を飾って疫病や厄災をもたらす悪い神が入らないように祈ります。"カンカー"とは見張る、見守るの意味で「シマカンカー」は「シマクサラシ」とも呼ばれる悪疫払いで、集落を悪霊から守る為に戦前から行われている大切な祭事なのです。(上殿)(上殿の祠内部)「シマカンカー」が行われる「与儀遺跡」の中に「上殿」があります。この地は「与儀集落」を創始した「仲加」の祖先が暮らした場所と言われています。「上殿」は旧暦の1月1日(旧正月)、5月15日(ウマチー)、6月15日(ウマチー)、6月23日(カシチー)、8月10日(シバサシ)、9月9日(菊酒)、12月24日(ウガンブトゥチ)の行事で拝まれます。「上殿」の祠には霊石、霊石柱、ウコール(香炉)、巻貝が祀られています。(与儀遺跡のガジュマルとデイゴ)(与儀遺跡の井戸)「上殿」がある「与儀遺跡」には樹齢が約100年のガジュマルと、同じく樹齢約100年のデイゴの古大木が集落を守っています。ガジュマルは神が宿る木で「キジムナー」という沖縄の妖精が住むと言われています。デイゴは言わずと知れた沖縄県の県花です。デイゴが見事に咲けば咲くほど台風がよく来る年になると言われており、その年のデイゴの咲き具合によっては、その年の台風の当たり年かどうかを占えるようです。更に「与儀遺跡」にはかつて遺跡で暮らした住民に利用された井戸跡が残されています。(神屋トニー)「与儀遺跡」の南側にある「神屋トニー」です。獅子舞を踊る神聖な場所とされており、拝所は旧暦の1月5日、5月15日、6月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝まれています。広場の奥側にはカミヤー(神屋)と呼ばれる神の祀る屋敷跡があり、ヒヌカン(火の神)などが祀られています。集落の住民はこの地を「ナーカアサギ」とも呼んでおり「仲加」の祖先が住居を構えた場所であると伝えられています。(与儀の石碑)「神屋トニー」の南部には石敢當のように畑地の隅に置かれている「石碑」があります。ニービ石でつくられた石碑には「◯◯◯ 西方 廣 ◯ 百難無」と記されています。何故この位置にこのような石碑が置かれて、石碑にどのような意味があるのかは未だに解明されていません。魔除けの意味が込められていると考えられていますが、多くの謎に包まれた「石碑」は今日も与儀集落の片隅に静かに佇んでいるのです。(ウブガー/産川)謎の「石碑」から道を挟んだ正面には「ウブガー(産川)」があり、集落の住民は「キヌガー」と呼んでいます。元旦の若水や子供が産まれた場合は、この井戸から水を汲む慣わしとなっていました。現在は8月10日(シバサシ)に拝まれています。この日は屋敷の御願をして、屋敷の神への感謝と家族の繁栄と安全が祈られます。また、周りと円滑な生活が送れるよう願いが込められるのです。(火ヌ神)(チナヒチ場所/綱引き場所)「与儀集落」の中心部にある「与儀自治会」の敷地内に「火ヌ神」があり、3つの霊石が祀られています。かつて集落の全員がこの場に集まり豚を殺して食べたと伝わっており、旧暦11月1日の「シマカンカー」の日に「火ヌ神」が拝まれています。「与儀集落」の「火ヌ神」は土地の守り神として、悪霊祓いの意味も込められている聖域として崇められ住民により祈られています。また「与儀自治会」の前の道は「チナヒチ(綱引き)場所」となっており「与儀集落」の大切な行事として多くの住民で賑わいました。(渡口の屋敷跡)(渡口の屋敷の祠内部)「与儀自治会」の南東側に「渡口の屋敷跡」があり、渡口の祖先に按司がいたと伝えられています。祠内には大型の霊石が3つ、小型の霊石が3つ、ウコール(香炉)が3つ祀られています。また「渡口の屋敷跡」の片隅には別の祠があり、地頭代の役人が暮らしていたといわれています。「与儀集落」の住民は「ジトーヤー」や「シルドゥンヤー」と呼び崇められています。「渡口の屋敷跡」は旧暦の1月1日、5月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝まれています。(クガニチュー)(クガニチュー祠内部)「クガニチュー」と呼ばれる拝所が「与儀集落」の南部の入り口にあります。「クガニッツー」や「クガニツー」とも呼ばれるこの拝所は、旧暦5月15日、6月15日、9月9日、11月10日、12月24日に拝まれています。戦前までこの拝所の左側に海石で造られたシーサーがあったという。それは「クガニチュー」と同様に「魔よけの神様」として信じられていました。特に11月10日の「シマカンカー」の行事は、祠を境に豚肉や骨がついた左縄を吊るす慣わしになっています。(ウルグチガー/下口井)「与儀集落」の最南端の崖の下に「ウルグチガー」があります。集落の住民はこの井戸の当て字を「下口井」としています。旧暦8月10日のカーウガン(井戸の拝み)の行事に拝まれ、水への感謝と家族の繁栄と健康を祈願します。ガー(井戸)には水の神様が宿る神聖な場所で、水と親しむ場であると同時に畏敬の念を持って接する聖地でもあります。(ヒーケーシー)「与儀集落」の東側にある「ヒーケーシー」と呼ばれる魔除けの石柱です。石敢當(イシガントウ)とも言われ、この古い石柱は南西側(集落の東側)を向いています。石柱の表面には「◯◯奉山石敢當」と記されています。現在は屋敷内にありますが、古より与儀集落を疫病や厄災から守る重要な役割があったと考えられます。また、集落の外部から悪霊が入らないようにする集落の守り神でもありました。(アダンジャガー)「与儀遺跡」の東側の坂道にある「アダンジャガー」です。「アダンヂガー」や「アカンジャーガー」とも呼ばれる井戸で、旧暦8月10日に行われるカーウガン(井戸の拝み)で祀られる井戸の一つとされています。井戸は神聖な拝所である為、周辺にゴミ等を捨てる行為は絶対に許されず罰当たりな行為になります。現在はコンクリートの板で蓋がされていますが、水源への感謝と水の神への祈りが捧げられる拝所となっています。(アナガー)「アナガー」という井泉が「与儀集落」の中北部にあり、住民は「クワガー」とも呼んでいます。初めて集落にやってきた与儀の祖先たちは、この湧水から生活の水を得たと言い伝えられています。現在の井戸は昭和52年に改築され、豊富な水源は主に農業用水として重宝されています。「アナガー」も同様に旧暦8月10日のカーウガン(井戸の拝み)に水への感謝と家族の繁栄と健康が祈願されています。(ヤマグヮー)「アナガー」の周囲には「ヤマグヮー」と呼ばれる聖なる森があります。森の西北にある拝所を「ウィーヌヤマグヮー」と呼び、南東にある拝所を「シチャヌヤマグヮー」と呼んでいます。これらの拝所は「琉球国由来記」(1713年)にも記載されており、旧暦の5月15日、6月15日、6月25日、12月24日に拝まれています。南東の拝所付近にある井戸は「ヤマグヮーガー」と呼ばれています。さらに、この森は与儀の人間が初めて住み着いた場所と伝えられ「ナコウジマ(名幸島)」と呼ばれているのです。(魔除けの石碑)「与儀集落」にはT字路の突き当たりにある現代の石敢當とは異なり、十字路の角に石柱の魔除けが設置されています。琉球王国時代から大切に継承される旧暦行事も住民の生活に根付いており「シマカンカー」と呼ばれる沖縄市に唯一残る有形文化財の祭事も残っています。井戸に宿る水の神様への祈りも受け継がれ「与儀集落」の繁栄と平和が保たれています。ぜひ、これからも集落の若者達が生まれ育った集落に誇りを持って、琉球の伝統文化を後世に引き継いで行く事を心から望んでいます。
2021.03.01
コメント(0)
(ビジュルのガジュマル)「古謝/こじゃ集落」は沖縄市の北東部にあり、沖縄本島東海岸に広がる中城湾を見渡す丘陵地から東側に広がる平地に位置する集落です。「古謝集落」には今でも琉球赤瓦屋根の古民家が点在し、数多くの遺跡文化財が集落の住民により大切に守られて、生活に欠かせない歴史と伝統文化が暮らしの中に継承されています。「古謝集落」には古き良き沖縄のゆったりとした時間が心地良く流れています。(カミヤー/神アシャギ)(古謝之殿)「古謝集落」では旧暦1日と15日に「チィタチ/ジュウグニチの拝み」が神聖に催されています。集落の無病息災と五穀豊穣を祈願する毎月恒例の行事で、まずこの「カミヤー/神アシャギ」から祈りが始まります。もともと神アシャギ(神を招き祭事を行なう場所)の建物があったそうで、現在は「カミヤー」の建物内部には火ヌ神、位牌、霊石が祀られ、集落の守り神である獅子も丁重に納められています。「チィタチ/ジュウグニチの拝み」ではカミヤーに続き「古謝之殿」で祈りが捧げられます。この「古謝之殿」は古謝集落の丘陵地の麓にある「アシビナー遊び庭」と呼ばれる集落の行事が行われる広場にあります。毎月旧暦1日と15日に無病息災と五穀豊穣が祈願される他に、旧盆には集落の有志が「アシビナー」でエイサーを踊ります。(イーウガン)(クモコウタキ/雲久御嶽)「古謝之殿」の次に「イーウガン」に移動して「チィタチ/ジュウグニチの拝み」が続きます。アコウの木の森の内部に佇む「イーウガン」には石造りのウコールに霊石が設置されています。現在は「イーウガン」の森のすぐ脇にはアパートや住宅が隣接しており、森は地域の子供達の遊び場になるほど、ウガンジュ(拝所)が住民の生活に当たり前のように溶け込んでいるのです。毎月恒例の巡礼は次に「クモコウタキ/雲久御嶽」に続きます。この御嶽は「ヒチャウガン」とも呼ばれ、隣接する美里集落のノロ(神女)が祈願する場でした。また、琉球王国の王府が編纂させた地誌「琉球国由来記」には『クモコ御嶽 神名 オソクヅカサノ御イベ』と記されています。石の祠にはウコール(香炉)に霊石が供えられています。(ビジュル)(地頭火ヌ神)毎月恒例の「チィタチ/ジュウグニチの拝み」は最後にこの「ビジュル」で祈りを締めくくります。樹齢約150年のアコウの木の下に石の祠があり、祠には宝珠が取り付けられています。「ビジュル」には創建時に海から流れ着いたとされる霊石が納められており、旧暦1日と15日の他にも妊娠祈願や過去1年間で村で子供が産まれたら、旧暦9月9日に「ビジュル」にて子供の健康祈願が行われます。「古謝集落」以外からも沢山の参拝者が訪れる聖地となっています。「古謝集落」の中心部にある「地頭火ヌ神」は沖縄戦後、一時的に「古謝集落」が難民収容所となり「地頭火ヌ神」が学校の敷地内に移動されました。現在の「地頭火ヌ神」が祀られる石の祠は戦後の混乱が終わった後、現在地に建てられました。「地頭火ヌ神」の祠内には霊石とウコール(香炉)が祀られており「古謝集落」の守護神として悪霊を追い祓う役割があります。(ソーリガー)(ジョーミーチャー墓)(ウブガー/産川)「アシビナー/遊び庭」の敷地内に「ソーリガー」と呼ばれる井戸があります。「古謝集落」で死者が出た際に、死者の身体を清める水をこの井戸から汲む慣わしがあります。ぬるま湯を使用して死者の髪や身体を清浄にする湯灌ですが、湯灌に使うぬるま湯は「逆さ湯」と言って水に熱湯を注いで温度を調節します。「ジョーミーチャー墓」と呼ばれる墓が「古謝集落」の東部にあります。この墓は「掘り込み墓」に分類され、墓口の前に3つの入り口を設けているのが特徴的です。3つの門がある事で村人は「ジョー(門)ミーチャー(3つ)バカ(墓)」と呼ばれ、更にこの墓は「模合墓(ムエーバカ)」とも言われています。「古謝集落」の中央にある「ウブガー/産川」です。村で子供が産まれた時、産湯に使う水をこの井戸から汲んできました。1935年頃、「ウブガー」付近に村共同の風呂屋が造られ、風呂の水源はこの井戸の水を利用していました。旧暦の8月15日の「カーウガミ」にカミンチュ(神人)は村人の健康と共に、集落の発展の祈願を行なっています。(アガリヌシーサー)(ニシヌシーサー)(イリヌシーサー)3つの石獅子(シーサー)が「古謝集落」に存在し、それぞれの石獅子がそれぞれの方位で集落を守っています。「アガリヌシーサー」は南側の津堅の海峡へ向けて設置されています。"アガリ"は沖縄方言で"東"を意味します。戦前は石獅子の後ろ側にクムイ(溜め池)があった為「火返し」の意味もあると伝えられています。「古謝集落」の北側にある丘稜地に位置する「ニシヌシーサー」です。"北"は沖縄の方言で"ニシ"と言います。石獅子は中城湾がある南に向けて設置されています。沖縄戦の後に設置されたと言われており、集落の北部から村に災厄をもたらす悪霊を追い払う魔除けとしての役割を持っているのです。「イリヌシーサー」は「古謝集落」の西側にあり、石獅子は「シシクェーモー」と呼ばれる西の森に向けられています。この森を火山と見立て「火返し」の役割を持っています。"イリ"は沖縄の方言で"西"という意味です。また、このシーサーは「ヤナムン(悪霊や厄神)ゲーシ(返し)」の意味もあると伝わっています。(古謝のガンヤー/龕屋)(古謝のアコウ)「古謝集落」の北側に掛かる「古謝大橋」の高架下の墓群に「古謝のガンヤー/龕屋」があります。集落で死者が出た際に遺体を墓場まで運ぶ輿を「ガン/龕」と呼び、この「ガン」を収める小屋を「ガンヤー」と言います。現在は使用されていませんが、赤瓦屋根の建物内部には「ガン」が今でも集落の文化財として大切に保管されています。また「古謝集落」のシンボルであるアコウの木は樹齢約150年、樹高約13メートル、幹周7メートル、枝張り約21メートル、露出した根張り約13メートルもあり、樹型も素晴らしく古木として大変貴重で価値があります。昔、古謝に津波が来た時、丘の上からはこのアコウの木の葉だけが見えたと言われています。
2021.02.23
コメント(0)
(平安座島)「平安座島(へんざじま)」は沖縄本島中部のうるま市勝連半島の北東約4km位置にあり、海中道路で渡る離島四島(平安座島、宮城島、伊計島、浜比嘉島)の玄関口にあたります。周囲は約7kmで面積は5.32平方キロメートル、標高は最も高いところで115.6mの琉球石灰岩におおわれた台地状の島です。方言でも「へんざ」または「ひゃんざ」と呼ばれ、地名の由来は「干潮」を意味する沖縄の方言、または平家の落人が島に安徳天皇を祀ったという伝説に因んでいます。(世開之碑)海中道路を4キロほど進み平安座島に入るとまず海中道路開通を記念した「世開之碑」が建てられています。海中道路が建設される以前の沖縄本島と平安座島の交通手段は、干潮時に浅瀬を歩いて渡る「潮川渡い(スーカーワタイ)」か、満潮時に利用する渡船のどちらかでした。1956年には干潮時の手段として海上トラックが運行を開始しましたが遭難事故も発生したのです。海中道路を心から望んでいた島民は一人一人が石を運んで積み上げる人海戦術で建設を開始し、本格的な工事を経て1966年8月に全長210mのコンクリート製の海中道路が完成しました。(海底にあった獅子)平安座島漁港の向いの「ホテル平安/レストラン平安」脇にある「海底にあった獅子」と呼ばれるシーサーです。琉球石灰岩で造られた石獅子は平安座島周辺の海底で発見されました。いつの時代のシーサーなのか?なぜ海底にあったのか?など未だに謎が全く解明されていない石獅子で、現在は県道10号沿いの小屋でひっそりと佇んでいるのです。(上段の井泉/イーヌカー)(下段の井泉/シチャヌカー)平安座集落の北側にある「ユタカガー」です。この井泉は水量が豊富で上下2階建ての非常に珍しい造りとなっていて、上下は石造りの水路で繋がっています。村ガー(共同井戸)として上の井泉(イーヌカー)は主に飲料水、下の井泉(シチャヌカー)は溜池で洗濯などの生活用水等に利用されていました。(与佐次河/ユサジガー)ユタカガーの隣に琉球赤瓦屋根が特徴の「与佐次河(ユサヂガー)」があります。この湧き水は"ユサンディガー"や"産井かー(ウブイカー)"とも呼ばれ、水飲み場や産水として利用され昔から神聖な場所となっています。旧暦1月3日に催される「ウビナディー」の行事では平安座島の各家の家族や親戚ウガンジュ(拝み場)となっており、子孫繁昌と無病息災を聖水に祈願します。(与佐次河の歌碑)日本でいう万葉集にあたる琉球最古の歌謡集である「おもろさうし」には、与佐次河(ユサヂガー)は神聖なる井泉として歴史的に崇拝されていた事が謳われています。石碑には「おもろさうし」の一首が記されています。「ひやむざ よさきかわて もちよす きいちへて くにてもち おぎやかもいに みおやせ」(国吉之河/クンシヌカー)「国吉之河(クンシヌカー)」と呼ばれる井泉が平安座集落の北西部にあります。このクンシヌカーは「平安座一番地」と名付けられており、井泉に番地が付けられる理由はクンシヌカーが島の根幹を示す事を意味しています。この井泉は1736年〜1799年に石造されたとされ、門中の氏河(ウジガー)として近隣の生活用水として活用されていました。ちなみに門中とは一般的に、沖縄で始祖を同じくする父系の血縁集団の事を言います。(クワディーサーの木)平安座島にある彩橋(あやはし)小中学校(旧平安座小中学校)の敷地内にある樹齢約300年の「クワディーサの木」です。クワディーサの木がある場所は「シヌグ」の行事で拝むウガンジュの一つであるため「シヌグ毛」と呼ばれています。「シヌグ」ではノロ(神女)達が島のイリーグスクとアガリグスクを拝んだ後に訪れて、島民の繁栄や無病息災を祈願します。(地頭火ヌ神)平安座集落の中心部にある「地頭火ヌ神」です。旧暦3月3日から5日までの3日間、平安座島の最大行事である「サングヮチャー」が催されます。女性が潮水に手足を浸して穢れを落とす「浜下り」に加えて、豊漁と漁の安全を祈願する祭祀が同時に行われる平安座島ならではの伝統行事です。サングヮチャー初日にカミンチュ(神人)たちがノロ殿内(ヌンドゥルチ)の「地頭火ヌ神」の前で杯を交わしながら次のように歌い、今日から三月節句であることを告げます。「くとぅし さんぐゎちや はちばちどぅ やゆる やいぬ さんぐゎちや ちゃわんうさ」(今年の三月節句はほどほどに 来年の三月節句は華やかに過ごしましょう)(ちょうの浜)「サングヮチャー」2日目は平安座自治会館裏手の通り「ちょうの浜」で女性神人たちによる豊漁大漁を祈願する紙事「トゥダヌイユー」が執り行われます。高級魚であるタマンとマクブが、海人からノロ(神女)に奉納される伝統行事です。奉納の際には女性神人たちが太鼓、手拍子を歌に合わせて囃し立て、まな板に置かれた魚を銛で突き肩に担いで歌い踊ります。「ちょうの浜」は普段から島民の神聖な場として大切にされているのです。(ナンザ/亀島)アダンの木の奥に見えるのは「ナンザ」(南座岩)という離れ小島で、平安座島の島民からは"亀島"と呼ばれています。「ちょうの浜」でのトゥダヌイユーが終わると、平安座島の東の沖合500mほどのところにあるナンザの岩を目指して道ジュネーが始まります。形はタマンで色彩はマクブを模した巨大な魚の神輿を担ぎ、人々は仮装しながら島を練り歩き東の浜に移動します。そのまま干潮の時間に合わせてナンザ岩に渡り、岩の頂上で東の海にあるというニライカナイに向け供物を捧げ豊漁を祈願します。ニライカナイの神がいるとされる東の海に向かい「魚群を平安座に押し寄せてくれ」と大漁豊漁の祈願をするのです。(濱之河/ハマヌガー)平安座集落のノロ殿内と平安座自治会の間にある「濱之河」(ハマヌカー)です。この地はかつて美しい浜と海が目の前に広がっていた場所で、漁から帰る男衆を乙女達が出迎えて魚を捌いていた場所です。また、このカーでは野菜を洗ったり洗濯をしていたので、常に乙女達で賑わっていたと伝わります。(不発弾で作られた警鐘)平安座集落中心部のノロ殿内にある「警鐘」です。この長細い鐘は沖縄戦で残されたアメリカ軍の不発弾を再利用しています。信管と火薬を抜きペンキで色付けして櫓に吊るしています。一緒に鐘を鳴らすハンマーも備え付けられていて、今でも現役の警鐘として十分に使用可能です。ひとたび警鐘を鳴らせば平安座集落全体に鐘の音が響き渡る事でしょう。(浜比嘉大橋)浜比嘉島から見た平安座島です。平安座島の海運業は全盛期の琉球王国時代には100隻近くの山原(やんばる)船を擁し、沖縄本島内の国頭地方と中南部の泡瀬、与那原、糸満、泊の各港を結んで交易したほか、遠くは先島諸島や奄美諸島まで出航していました。平安座島ではヤンバル船は「マーラン船」と呼ばれ、平安座島は沖縄本島各地の船乗りの寄港地として繁栄しました。ヤンバル船に関して、次のような琉歌が残っています。「船のつやうん つやうんなたくと まらん船だらんで 出ぢちて見れば 山原だう」(船が着いたよ 着いたと鉦が鳴っていたので 馬艦船かと思って 出て見れば 山原船であった) (竜宮門)平安座島は沖縄本島、宮城島、浜比嘉島を結ぶ重要な島であり、琉球王国からの伝統文化を大切に継承され続けています。平安座集落を歩いていると頻繁に島民とすれ違いますが、皆が笑顔で「こんにちは」と挨拶をしてくれます。静かでゆったりとした時間が流れていて、浜は潮の音がして山は井泉が湧く音が心地良く聞こえてきます。平安座島は間違いなく癒しの島であり、古き良き沖縄が残るパワースポットの島なのです。
2021.02.22
コメント(0)
(宮城島の宮城御殿)うるま市宮城島の中心部に「宮城集落」と「上原集落」が東西に隣接しています。宮城集落にある「宮城御殿(ナーグスクウドゥン)」は通称"カミヤグワー"と呼ばれていて、「観音堂」の呼び名でも親しまれています。一説には北山系の按司を祀っているとも言われています。昔、泊グスク近くのトゥマイ浜に大木が漂流しているのを知った村人が、総出で大木を引き上げようとしましたが全く動きませんでした。(宮城御殿/ナーグスクウドゥン)神のお告げを聞いた喜屋原ユタハーメーが「ノロ(神女)の仲泊ハーメーが音頭を取らなければ動かない」と言うので、仲泊ハーメーが大木に乗り音頭を取ると、不思議にも簡単に陸揚げする事が出来ました。村人はこの大木で現在地に神殿を造り、宮城集落の守護神として信仰してきたのです。(宮城ヌル御殿)宮城御殿の向かいには「宮城ヌル御殿」が建てられいます。沖縄のノロ(神女)はヌルとも呼ばれ「宮城ヌル御殿」には喜屋原ユタハーメーや仲泊ハーメー、更には宮城集落の歴代のノロの魂が祀られています。浜に漂着した神木一本で建てられた宮城御殿は、特に幼児の健康や発育に特にご利益があり、旧暦1月18日には「ウクワンニンウガミ」(御観音拝み)が行われ、島内外から沢山の参拝者が訪れます。(地頭火ヌ神)宮城中央公園内に「地頭火ヌ神」があり、琉球王府時代の地方役人(地頭)と結びついた火ヌ神を地頭火ヌ神と言います。火ヌ神(ヒヌカン)の祠には3つの霊石が祀られており、宮城集落の村人を厄災から守り健康を守ってくれる神様として崇められているのです。(世持神社)宮城御嶽の東側には「世持神社」があります。「世持(よもち)」とは沖縄の古語で「豊かなる御世、平和なる御世を支え持つ」との意味があります。「世持神社」農耕の神様で宮城集落の村人は五穀豊穣を祈り、収穫された農作物を神社に捧げて神に感謝しました。(泊グスク)宮城集落の東側、宮城島の北東に「泊グスク」がひっそりと佇んでいます。標高37.4メートルの琉球石灰岩の大地上に作られたグスクで、グスク内や周辺からは琉球グスク時代に属する輸入陶磁器や土器などが発掘されています。泊グスクは別名「トマイグスク」や「隠れグスク」とも呼ばれています。(泊グスクの階段)「泊グスク」の入り口から一直線にグスク中腹に登る階段があります。1322年、後北山王国の初代国王である怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた今帰仁グスクの仲宗根若按司の末っ子である志慶真樽金の一族が、宮城島に逃れた後に「泊グスク」を築いたと伝わります。また「泊グスク」は伊計グスクとの抗争に負け、生き残った樽金の子孫は後に「宮城村」を作ったと言われています。(泊グスクの中腹)グスク入り口の階段を登ると、グスク南側の琉球石灰岩の壁沿いに進む道が続いています。グスク内には拝所があるようで、年に数回ほど宮城集落のノロ(神女)が拝みに訪れて崇め敬われています。また、無闇に肝試しや遊び半分で立ち入ると厳しい神罰が下ると言われているので、普段から立ち入る者がいない「神山」となっているそうです。(アガリ世ヌ神)そんな畏怖の念を起こさせる「泊グスク」の奥地に、私は一歩一歩ゆっくりと足を進ませて行きました。深い森の内部に入ると辺りが薄暗くなり始め、ゴツゴツした琉球石灰岩と亜熱帯植物が行方を困難にさせて行きます。しばらく暗い細道を進むと突き当たりに拝所を発見しました。「アガリ世ヌ神」(アガリの御嶽)と呼ばれるウガンジュ(拝所)でウコールと霊石が祀られていたのです。(按司ヌメーの御嶽)「アガリ世ヌ神」の少し手前に更に細く薄暗い道があり、行き止まりかどうか半信半疑のまま足を踏み入れました。すると急に張り詰めた空気に一変し、四方八方から数多くの"何か"に見詰められている気配を強く感じたのです。私は恐怖心に襲われないよう、必死に森に話しかけながら心を落ち着かせて平常心を保ちました。そこから数十メートル先の突き当たりに「按司ヌメーの御嶽」が私を待ち受けていたのです。御嶽には巻貝殻やウコールが設置されていました。(上原集落のヤンガー)「按司ヌメーの御嶽」にお賽銭を供えて手を合わせて拝み、神罰が当たらない事を望みながら私は「神山」の泊グスクを後にしました。さて、琉球石灰岩と第三紀層泥灰岩(クチャ)の地質で成り立つ宮城島は、雨水を保水する理想的な地形で多くの湧き水があります。上原集落の「ヤンガー」は宮城島で一番の湧出量を持ちます。(ヤンガーの井泉)上原集落と宮城集落の村人の飲水としてだけでなく、毎年正月の若水や赤子が産まれた時の産水としても使用されており、日常生活に欠かせない貴重かつ神聖な水源となっています。「ヤンガー」は1849年に間切の地頭代が他の役人や住民と共に造られました。この改修工事の功績を称えた琉歌があり「やんがはいみじや いしからるわちゆる よなぐすくうめが うかきうえじま(ヤンガ走い水や 石からどぅ湧つる 与那城御前が 御掛親島)」と記された歌碑が建てられています。(上原ヌン殿内)「ヤンガー」から程近い場所に「上原ヌン殿内」があります。集落の祭祀を司る最高位のノロ(神女)はヌンと呼ばれ、ヌンの住居を「ヌン殿内」といい、ヌンや他の神人がウマチー(村の五穀豊穣や繁栄を祈願する祭り)などの祭祀を行う場でもありました。「上原ヌン殿内」の敷地には数本の魔除けの石柱が設置され神秘的な雰囲気を醸し出しているのです。(高離節の歌碑)上原集落の南西側にある「シヌグ堂遺跡」には「高離節の歌碑」が設置されています。歌碑には「高離島や 物知らせどころ にゃ物知やべたん 渡ちたばうれ」と記されています。歌の作者は近世沖縄の和文学者として名高い平敷屋朝敏の妻である真亀(まがめ)と伝わっています。歌は「高離島(宮城島)は様々なことを教えられるところです もう十分に思い知ることができました 私の生まれ育った地に願わくば 命あるうちに帰りつけますように」という意味で、悲劇的に宮城島に流刑された真亀の複雑な心情が歌われています。(シヌグ堂遺跡からの絶景)真亀は夫の平敷屋朝敏が薩摩に首里王府を告発する投書をしたことで政治犯として処刑され士族から百姓に落とされました。夫が悲劇の死を遂げ島流しにあう辛さ、寂しさと貧しさに耐えながら、優しく接してくれる島の住民への感謝の念と故郷への思いを募らせる真亀の心情が「高離節」の歌に込められています。「高離節の歌碑」は絶景が広がるシヌグ堂バンタに建てられています。(宮城島の浜)宮城島は面積が5.5kmで周囲が12.2kmの小さな離島でありながら、宮城、上原、桃原、荻堂の4つの集落に多数の遺跡文化財や井泉が点在しています。更に縄文時代、グスク時代、琉球王国時代、そして現代へと歴史の移り変わりの中で激動の時代を生き抜いてきました。現在でも石垣が積まれた琉球古民家が多く残り、優しい島人は生まれ育った宮城島を誇りに思いながら、伝統行事を大切に守り後の世に継承してゆく事でしょう。
2021.02.16
コメント(0)
(伊計大橋)うるま市に勝連半島から海中道路で繋がれた平安座島と伊計島の間に「宮城島」があります。宮城島は「タカハナリ(高離)」の名称でも知られており、写真は伊計島の入り口に掛かる伊計大橋から見た宮城島です。宮城島は「池味(いけみ)」「上原(うえはら)」「宮城(みやぎ)」「桃原(とうばる)」の4つの大字で構成されます。池味集落は島北東の漁港近くに、そして桃原集落は島南部の平坦な低地に位置しています。(桃原のウブガー)平安座島から宮城島に入ると桃原集落があり、桃原は琉球王府時代に首里の氏族等が移り住んで形成された宿取り集落です。この「桃原のウブガー」は桃原集落唯一の井戸で「ムラガー」や「共同井戸」と呼ばれています。昔は子供が産まれると、ここの水を産湯に使用していました。1876年(明治9)年に造られ、旧暦の元旦には若水を汲んで先祖に備え、一家の健康と繁栄を祈願してお茶を沸かして飲みました。(桃原のお宮)「桃原のお宮」は「桃原守護神」と呼ばれ、集落の各家の家族や親族は旧暦1月1日のハチウガン(初御願)、ジューグスージ(十五祝い)、旧暦9月9日の菊酒、旧暦12月24日のトゥミウガン(止め御願)の日に祈ります。また、桃原集落には「トウバルナンダギー(桃原南嶽)」と呼ばれる伝統の琉球古典舞踊が大切に継承されています。宮城島には次の琉球歌謡(おもろさうし)が残されています。「聞ゑ宮城(みやくすく) 選び出ぢへの真金(まかね) 島踊(しまよ)りや 勝り 鳴響(とよ)む宮城」"名高く鳴り響く宮城島よ 選び出された真金神女の島踊りは見事である"(ゴリラ岩)桃原集落の東側に「ゴリラ岩」があります。砂が堆積して形成された知念砂層と呼ばれる露岩(岩石)です。宮城島では親しみを込めて「ゴリラ岩」または「ライオン岩」といった愛称で呼ばれています。泥岩、凝灰岩、砂岩、石灰岩が重なった地層になっていて、筋状に見えるのはノジュール(団塊)と呼ばれ石碑などの材料に使われています。(タチチガー)宮城島の北部に「池味(いけみ)集落」があります。沖縄の方言で"イチミ"とも呼ばれており、18世紀の初めの頃に島外からも人々が移り住みました。池味集落の中心部にある「タチチガー」は中城ウメーという人により池味集落で初めて発見された湧水です。村ガー(共同井戸)として上(イーヌカー)は主に飲料水、下(シチャヌカー)は溜池で洗濯などの生活用水等に利用されていました。因みに、タチチガーの湧水にはザリガニが多数生息していました。(魔除けの石柱)タチチガーの東側にある「魔除けの石柱」です。沖縄の各地にはT字路の突き当りに「石敢當」などの文字が刻まれた魔除けの石碑や石標が設けられていますが、宮城島では魔除けの石柱や霊石が集落の至る所に設置されています。この「魔除けの石柱」は「石敢當」のようにT字路の突き当たりではなく、十字路の角に設置されていていました。もともとT字路だった場所が後に十字路になったのか、もしくは宮城島だけに伝わる魔除け方法に基づいているのか、未だに謎は解明されていません。(イークン御嶽)「イークン御嶽」は南山王の他魯毎の四男と上根(イークン)家の娘の間に出生した子孫を祀っていると言われています。池味と上原の2集落の神事の中心的な場所で、現在でも上原集落のノロ(神女)は「イークン御嶽」をまず先に拝んでから各地にある拝所での行事を巡ります。(ウンチカー)尚巴志に滅ぼされた南山王国最後の国王の他魯毎と家臣が宮城島の上根(イークン)グスクに逃亡したという言い伝えがあります。この井泉は「イークン御嶽」から西の山中にある「ウンチカー」です。他魯毎は民衆や按司たちに対し酷薄な王であったと言われており、尚巴志に南山の貴重な水源であった嘉手志川と金の屏風との交換を持ちかけられると何の考えなしに了承してしまい、金の屏風と引き換えに嘉手志川を利用していた人々の信望を失ったと言われています。(南グスクの入り口)イークン御嶽の北側に「南グスク(ナングスク)」があります。南山から逃れた宮城按司はイークン山に住んでいましたが、後に南グスクに移ったと言われています。南グスクには今でも自然の岩を利用した城門跡や石垣などが残っています。南グスクの入り口には琉球石灰岩の階段がありました。(ナンガー)入り口の石段を登り切ると石灰岩と亜熱帯植物か生い茂る森道に変わります。まず初めの二股に分かれた道を左に進むと「ナンガー」と呼ばれる井泉がありました。沖縄の線香であるヒラウコー(平御香)が供えられていました。水の神様を拝む24本の火をつけない線香(ヒジュルウコー)が残されていたので、旧正月に集落のカミンチュ(神人)が拝していた事が分かります。「ナンガー」はナングスクの貴重な水源として昔も今も大切にされていると考えられます。(南グスクの按司火ヌ神)先ほどの二股に道が分かれた場所に戻り、右に進んで自然岩の城門を抜けると「南グスクの按司火ヌ神」が現れました。このヒヌカンはグスクへの"お通し"の役割を持つウガンジュ(拝所)で、内部には霊石とウコール(香炉)が設置されています。私はお賽銭と共に自己紹介とナングスクを訪れた理由を告げ、手を合わせてウートートーしました。(宮城按司とその妻の墓)「南グスクの按司火ヌ神」から先に進むとグスク中腹に再び二股に分かれた道が出現しました。左に行くと巨大な岩が重なり合う神秘的な空間があり、二股の道を右に進み更にグスクを頂上近くまで登ると「宮城按司とその妻の墓」がありました。それぞれの墓にウコールが設置されており、宮城按司夫妻は仲良く寄り添いながら安らかに永眠している雰囲気が佇んでいました。(クカルンダガー)「南グスク」を後にして次に向かったのは宮城島北部にある池味漁港です。池味漁港周辺にはマングローブ群が広がり、マングローブの森に豊かな水源を供給するのがこの「クカルンダガー」です。池味集落と伊計島の間に隆起した丘陵の麓にひっそりと佇む「クカルンダガー」には蛙が多数生息していて水質も透き通った神水となっていました。(クカルンダガーのウコール)「クカルンダガー」の井泉にはウコールと巻貝殻が供えられており、非常に神聖な水源として崇められています。「クカルンダガー」の場所を見つける際に、うるま市が発行する資料を元に探し求めていたのですが、間違った地点が記載されており暫く浜を彷徨ってしまいました。浜に隣接する防波堤内部にはマングローブ群が広がり、そこに丘陵の麓沿いに進む暗く細い通路を発見したのです。その通路を進んだ結果、偶然に発見したのが「クカルンダガー」でした。(西原村の浜入り口)さて、宮城島には有名な「ウミガメ伝説」が伝わります。約250年前、上原集落に漢佐伊(カンサイ)という60歳余りのお爺さんがいました。ある日、サバニ(舟)で具志川に行った帰り急に舟が転覆し、宮城島から約6キロの沖で漂流してしまいました。その時、突然ウミガメが現れてお爺さんを背に乗せて宮城島西原村の浜まで送り助けてくれました。(西原村の浜)この浜はウミガメがお爺さんを送り届けたとされる西原村の浜です。この浜の周辺は「西原遺跡」が広がり、かつて西原村があった場所と考えられます。西原遺跡の山から流れ出る湧水がこの浜に流れ出しています。ウミガメに助けられたお爺さんは湧水を飲んで上原集落まで無事に帰る事が出来たはずです。(池味自治会の案内板)宮城島「桃原/池味集落」には豊富な水源の井戸や遺跡文化財が数多く点在しています。また、琉球石灰岩の石垣に囲まれた琉球赤瓦屋根の古民家も多数立ち並んでいて、古の沖縄にタイムスリップしたような錯覚に陥ります。さらに、集落内は細い路地が多く車を停める場所を探すのが困難な中、見ず知らずの私に民家の敷地を駐車場として快く貸してくれた宮城島のオジーやオバーに心から感謝したいと思います。
2021.02.15
コメント(0)
(中城若松の銅像)中城若松(安谷屋若松)は琉球組踊の創始者である玉城朝薫(1684-1734)の組踊「執心鐘入」の主人公「中城若松」のモデルとされている人物です。さらに時代をさかのぼると琉球王国時代の歌謡集「おもろさうし」にも登場しています。若松は第二尚氏初代国王尚円王と安谷屋ノロ(神女)との間に生まれた子と言われていて、父尚円王が即位してから中城若松は安谷屋城主となりました。(ユナハン丘稜)その後、尚真王が王位に即位し地方の按司(豪族)などを首里に集居させる「中央集権」により首里に上り、上間村(現在の那覇市上間)の地頭職に就きました。死後、中城若松の遺言により安谷屋の地に葬られたと伝えられています。「中城若松の墓」は「安谷屋集落」の北側の「ユナハン」と呼ばれる丘陵の山頂にあります。山頂は隆起した琉球石灰岩が剥き出しになっており、多くの樹木に覆われながらも比較的広い空間となっています。(中城若松の墓)ユナハンは現在「若松公園」として整備されていて北中城村や宜野湾市の住民の憩いの場になっています。ユナハンの頂上にある「中城若松の墓」は昭和57年3月18日に北中城村の史跡に指定され、墓の前方には琉球石灰岩の切石を積んで囲んだ墓庭があります。墓は岩土に宝珠が設置された塔型の祠になっており、宝珠の下部が墓の本体という説とウコール(香炉)の奥側が墓だという説があります。墓のある頂上からは南側の麓に広がる「安谷屋集落」から西海岸を見渡せる絶景が広がっています。(中城若松の母の墓)(中城若松の妻の墓)「中城若松の墓」から石段を降りてゆくと「中城若松の母の墓」があります。ユナハン丘陵の中腹にある洞窟を琉球石灰岩の岩石で蓋をする型の古墓で、洞窟内にはウコール(香炉)が設置されて安谷屋ノロであった中城若松の母が祀られています。さらに「中城若松の母の墓」の隣には「中城若松の妻の墓」があり、墓の前には石製のウコールが設置されています。中城若松の母と並んで祀られており、ユナハンの中腹から頂上に佇む夫である中城若松を見守っているのです。(中城若松の火ヌ神)(拝所/ウガンジュ)「中城若松の墓」から東に100メートルの場所に「中城若松の火ヌ神」があります。この祠はもともとユナハンの麓に建っていた中城若松の屋敷跡にありましたが、若松公園の広場建設に伴い屋敷跡が埋め立てられる事になり、1989年12月12日に現在地に移設されました。「中城若松の火ヌ神」の祠内にはウコールや神石が設置されてウガンジュ(拝所)の役割があります。「中城若松の火ヌ神」がある小高い丘の裏麓には別の「火ヌ神」があり、ウコールと3つの神石が祀られていました。こちらの「火ヌ神」は若松公園と安谷屋の地の守り神として設置されていると考えられます。(邊土大主之墓)(野呂殿内/ヌルドゥンチ)「ユナハン」の南側の麓に「邊土大主之墓」が建てられています。「大主」とは「按司」に次ぐ高い身分の称号で「邊土大主」は「安谷屋按司」に次ぐ権力者でありました。また「安谷屋集落」の中心部に「野呂殿内」の屋敷があります。ノロ殿内やヌルドゥンチとも呼ばれる場所はノロ(祝女)が集団で住み祭祀を行う聖域で、現在は安谷屋ノロの子孫が暮らす屋敷となっています。ノロ制度が存在しない現在でも多くの人々が「野呂殿内」を訪れて現代の安谷屋ノロに会いに来るのです。(安谷屋のおもろ碑)「野呂殿内」から南西側の安谷屋公民館脇に「イームイ公園」があり、敷地内に「安谷屋のおもろ碑」が建立されています。歌碑には安谷屋グスクと城主、その城主と村人が互いにふさわしい関係にあったと謡い、安谷屋に世果報をもたらす城主を讃える事により村の繁栄を願った「おもろ」が記されています。御さけやらはかふし一 あたにやの きもあくみの もりに 世かほう よせわる たゝみ又 くすくと たゝみと しなて又 たゝみと まなてすと しなて (「おもろさうし」巻ニ)一 安谷屋の敬愛されている杜に 世果報を寄せなさる城主又 安谷屋グスクと城主がつり合って又 城主と愛すべき村人が和合して(安谷屋グスク)「中城若松の墓」がある若松公園の東側には「安谷屋グスク」が隣接しています。北中城村に点在するグスクでは、この「安谷屋グスク」が最も古いと言われています。安谷屋按司は勝連グスク按司の阿摩和利を討伐した鬼大城を中心とする第二尚氏の転覆計画に加わりますが、クーデターが察知されて鬼大城は滅ぼされます。後難を恐れた安谷屋按司は身を隠し、その後に尚円王の子である中城若松が安谷屋グスク城主になりました。(根所の火ヌ神/ニードゥクルヌヒヌカン)「安谷屋グスク」は南北約80m、東西約110mの大きさがあり二つの郭からなる連郭式の構造です。北西側にあるグスクの入り口には「根所の火ヌ神」(ニードゥクルヌヒヌカン)があります。この火ヌ神は一帯に「安谷屋集落」に関わる家があった事を歴史的に示す拝所で、字の祭事行事があるたびに拝まれています。「安谷屋集落」発祥の神が祀られている土地の守り神の役割があります。(イーヌカー)安谷屋グスクの中腹にある「イーヌカー」と呼ばれる井泉跡です。現在は湧水は出ていませんが、琉球王国時代には「安谷屋集落」の大切な水源として住民は洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用してきました。また、旧正月の元旦には若水を汲んでヒヌカンや仏壇に供えて、新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈っていたと考えられます。水の神が祀られるこの井泉は地域住民の祈りの対象とされています。(上の御嶽)「安谷屋グスク」の山頂にはウコールと琉球石灰岩が並べられた「上の御嶽」というウガンジュ(拝所)があり、グスクの守り神だと考えられます。中城若松は有名な琉球組踊「執心鐘入」に主人公として登場します。美少年として名の知られた中城若松は、首里での奉公に向かうその途中に日が暮れてしまい山中の宿に泊めて欲しいと願います。その宿では若い女が1人で留守番をしていました。女は親が居ないときは泊められないと断ります。しかし若松が名乗ると女は有名な若松に憧れの思いを寄せていたので、これは思いがけない好機と態度を一変させて家に招き入れたのでした。(宿の女の銅像)若松公園の入り口に設置されている「宿の女」の銅像です。若松は眠りにつきますが、女は若松への思いを遂げようと若松を起こして関係を迫ります。「そんなつもりはない」と頑なに拒む若松に女は「これも運命ですよ」と激しく迫り、しつこく若松に詰め寄ります。身の危険を感じた若松は、女の手を振りほどき外へと逃げ出したのです。(遍照寺跡)首里の末吉公園にある「遍照寺跡」です。当時、遍照寺は万寿寺とも呼ばれ、現在はわずかな石垣の遺構のみ残っています。さて、若松は末吉の万寿寺に逃げ込み住職に助けを求めます。住職は若松を鐘の中に隠し、寺の小僧達に番をさせ「決して寺に入れるな」と言いつけます。そこへ若松を追って宿の女がやって来たのです。(遍照寺跡の敷地)遍照寺(万寿寺)跡に残る寺の土台の一部と敷地です。ともあれ、小僧達は女を追い出そうとしますが、女は強引に寺に入ってしまいます。 寺中を探し回る女のただならぬ気配に気付いた住職は、若松を鐘から連れ出して逃がします。逆上した女は鐘にまとわりつき、鬼に変身してしまいます。しかし、住職は法力によって鬼女を説き伏せ鎮めることができ、中城若松を助ける事に成功したのです。(劇聖玉城朝薫生誕三百年記念碑)末吉公園に「劇聖玉城朝薫生誕三百年記念碑」があります。記念碑には中城若松が主人公である組踊「執心鐘入」の様子も表現されています。沖縄の民俗文化の未来のために生誕三百年を記念して「執心鐘入」ゆかりの地を朴し、この記念碑は建てられました。中城若松は組踊の他にも琉球歌謡集「おもろさうし」にも登場します。(若松のおもろの石碑)若松公園には「若松のおもろ」の石碑があります。石碑には「あだにやのわかまつ あはれわかまつ よださちへ うらおそうわかまつ 又きもあぐみのわかまつ」と記されています。直訳すると「安谷屋の若松は枝を伸ばし村を守護する立派な松である」と言う松の木を褒める内容ですが、この歌には安谷屋の若松の根心と聡明さ、有望な未来を若さと豊かさを象徴する松の枝に託して謡われた「おもろ」が掛けられているのです。(中城若松の墓)おもろ名人として知られる唄三線の始祖「赤犬子」が安谷屋のあたりで「まつ」という一人の子供と出会い、その振る舞いを見て作った歌がこの「若松のおもろ」です。中城若松は遺言に託した通り、愛する生まれ故郷の安谷屋の地に母と妻と共に同じ丘陵に永眠し、ユナハンの頂上から沖縄の平和と繁栄を見守っているのです。
2021.02.09
コメント(0)
(赤犬子宮)沖縄県読谷村「楚辺集落」に「赤犬子宮」があります。歌と三線の昔始まりや"犬子ねあがりの神のみさぐ"と謳われるように「赤犬子」は琉球音楽の世界では唄三線の始祖として信仰されています。赤犬子は今からおよそ500年前、琉球王国が近隣諸国と親交や交易を深め、琉球文化の隆盛が築かれた尚真王(1477〜1526)時代に活躍した人だと言われています。(赤犬子宮入り口の石碑)「赤犬子宮」の入り口に石碑があり「歌と三味線の むかしはじま里や 犬子称阿がれ乃 神の美作」と記されています。「楚辺集落」の古老伝承によれば、赤犬子は大家のカマーと屋嘉のチラー小との子で、長じては三線を携え各地を巡り歩き唄三線を広めると共に先々の事を予言したり、唐から楚辺村に五穀(稲・麦・粟・豆・黍)を持ち帰った偉大なる人物と伝えられています。(赤犬子終焉之地の石碑)赤犬子宮には「赤犬子終焉之地」の石碑があります。晩年を迎えた赤犬子が生まれじまの「楚辺集落」に辿り着き、杖にしていたデーグ(ダンチク)を岩山に立て、聖なる光に導かれて昇天した聖地と言われています。毎年旧暦9月20日(昇天した日)に唄三線の始祖、五穀豊穣の神、村の守り神として崇めたて祀る「赤犬子スージ」が行われています。(赤犬子宮の殿)この地は昔から「楚辺集落」のウガンジュ(拝所)で「アカヌクー」と呼ばれています。赤犬子の母親であるチラーには可愛がっていた赤犬がいました。ある年、長い旱魃が続き村の井戸はすべて枯れ果てて村人は大変困っていました。ある日、赤犬が全身ずぶ濡れになって戻ってきました。赤犬はチラーの前で吠え立てて、着物の裾を口でくわえて引っ張って行ったのです。その赤犬は集落南側の洞窟に入って行き、暫くすると再びずぶ濡れになって戻ってきたのです。それから洞窟の中に水があることが分かり早魃をしのぐことができました。これが「暗川」発見の由来です。(米国陸軍通信施設/トリイステーション)赤犬が発見した「暗川」は現在、米国陸軍の通信施設トリイステーション(Torii Station)の敷地内にあります。さて、赤犬子の母親であるチラーはとても美しい女性で村中の若者の憧れの的でした。チラーには子供の頃からの許婿(いいなづけ)であった大屋のカマーがいて、二人の幸せそうな様子を妬んだ村のある若者が、嫉妬のあまりカマーを殺してしまったのです。チラーは愛するカマーを失った悲しさのあまり毎日泣いて暮らしていましたが、そんなチラーの悲しい心を慰めてくれたのが以前から可愛がっていた赤犬でした。チラーはカマーの子を身ごもっていたので、村の若者達は「婚約者だったカマーの子ではなく、赤犬の子を身ごもってしまった」という噂を村中に広めたのです。チラーは村に居る事ができず行方をくらましてしまいました。(赤犬子の案内碑)(赤犬子宮の敷地)その後、何ヵ年か後に両親はチラーが伊計島(現うるま市)に渡っているという噂を耳にして娘を訪ねて行きました。しかし、両親に逢うことを恥じたチラーは、男の子を残したまま自害してしまうのです。両親は悲しみながら我が娘をその地に葬って、男の子は一緒に楚辺村に連れ帰りました。この子は後に「赤犬子」と名付けられました。成人した赤犬子はポタボタと雨の落ちる音を聞いてひらめき、クバの葉柄で棹を作り馬の尾を弦にして三線を考え出しました。その後、赤犬子は三線を弾きながら唄を歌って各地の村々を旅して廻りました。これが赤犬子が唄三線の始祖と呼ばれる所以です。(北谷グスク)北谷町にある「北谷グスク」です。この山には赤犬子にまつわる僧侶「北谷長老」が祀られています。赤犬子は旅の途中、北谷村にさしかかった時に喉が乾いたので、水を乞うためにある農家に立ち寄りました。するとそこには4歳くらいの子供がいて「おまえのお父さんは何処に行ったか」と尋ねると「夜の目を取りに」と答えました。今度は「おまえのお母さんは何処に行ったか」と尋ねると「冬青草、夏立枯かりに」と答えたのです。(樹昌院)北谷グスクの東側には北谷長老が開山した「樹昌院」があります。さて、さすがの赤犬子もこの子供の答えの意味が分からずに、どういうことかと尋ねたら「お父さんは松明り(トゥブシ)取りに」「お母さんは麦刈りに」と答えたのでした。すっかり感心した赤犬子は再びその農家を訪ねて、両親に「あなた方の子は普通の子供より特に優れた知能を持っているから将来は坊主にしてやれ」と言い残して去って行きました。この子が後の僧侶「北谷長老」であったと伝わります。(嘉手納町)赤犬子は唐から麦・豆・粟・ニービラ(山蒜)などを持ち帰り、それを沖縄中に広めたと言われています。ある日、赤犬子が嘉手納地区を歩いている時に、道も悪く疲れていたので転んでニービラを落としてしまいました。それで赤犬子は「この土地にはニ-ビラは生えるな」と言ったので、嘉手納地区にはニ-ビラは生えなくなったと言われているのです。(中城若松の像)北中城村の若松公園にある「中城若松の像」です。この人物も子供の頃に赤犬子に出会っています。赤犬子が北中城村の安谷屋地区を旅している時に、大変喉が渇いたので近くを通りがかった子供に「大根をくれ」と言うと、持っていた大根の葉っぱも取り、皮も剥いで、食べやすいように切って赤犬子に渡したそうです。「この子供は将来きっと偉い人になるだろう」と言ったら、その子供は後の安谷屋グスクの城主「中城若松」になったのでした。(瀬良垣の海)これは恩納村瀬良垣の美ら海です。赤犬子が国頭方面を旅している時に、恩納村瀬良垣に差し掛かりました。その時にお腹が空いていたので海辺で船普請をしている船大工に物乞いをしたところ「あなたのような者に、私達のものを分けてあげることはできない」と冷たく断わられてしまいました。それで赤犬子は瀬良垣の船を「瀬良垣水船」と名付けました。(谷茶前節の歌碑)恩納村の谷茶前の浜には沖縄本島の代表的な民謡と踊りである「谷茶前節」の歌碑があります。赤犬子は瀬良垣を追い払われた後に谷茶に向い、そこでも同じように物乞いをしたのです。すると、そこの船大工は「ひもじかったら食べなさい」と丁寧に赤犬子をもてなしてくれました。それで谷茶の船を「谷茶速船」と名付けたのです。その後、赤犬子が予言した通りに瀬良垣の船はいつも海に沈んでしまい、谷茶の船は爽快に水を切って走ったのでした。(赤犬子宮の鳥居)瀬良垣の人達は「あいつの悪い願いで船が沈むようになった。どこを捜しても見つけ出して、あいつを打ち殺さないといけない」と捜して楚辺村まで来ました。そこに赤犬子がいると聞いたので、棒や刀をあげて皆で赤犬子を殺そうとしました。現在の赤犬子宮がある場所に行くと赤犬子は、急に煙となって天に昇っていったそうです。瀬良垣の人達は棒や刀を持っていながら赤犬子を殺すことはできなかったので、赤犬子は神の子であり精霊だったという話が残っているのです。(赤犬子之墓碑)赤犬子宮の西側には「ユーバンタ」と呼ばれる浜があります。ユータティバンタ(世立ちの崖)とも呼ばれ「楚辺発祥の地」とも言われています。戦前までユーバンタ南東側は風葬が行われる一帯だったようで、現在は「赤犬子之墓碑」が建てられています。石碑には「歌 三味線之始祖 赤犬子大主之墓碑」と記されています。また「ユーバンタ」は魚群を発見するイユミーバンタ、旅立つ者を見送るフナウクイ(船送り)の地であり「楚辺集落」の神聖な聖地となっています。(艦砲ぬ喰えー残さー之碑)「楚辺集落」で決して忘れてはいけない人物が「比嘉恒敏(ひがこうびん)」です。比嘉恒敏は「楚辺集落」に生れ、1939年に23歳で大阪に出稼ぎに行き、その後妻と次男を大阪に呼び寄せました。1944年に両親と長男を大阪に呼びましたが、乗船したのが学童疎開船の「対馬丸」で米軍潜水艦の魚雷攻撃で沈没して亡くなってしまいます。さらに、翌年3月の「大阪大空襲」で妻と次男が米軍の空襲で亡くなるという悲劇が重なりました。戦後、比嘉恒敏は読谷村に帰郷し再婚して再出発をしようとしましたが、故郷の集落は米軍の通信施設(トリイステーション)に接収され「楚辺集落」の住民と共に現在の楚辺地区に移らされたのでした。(石柱とユーバンタ)民謡をこよなく愛した比嘉恒敏は4人の愛娘たちに歌と踊りを教えました。舞台にも出て評判になり、1964年「でいご娘」を結成して本格的に活動を開始したのです。比嘉恒敏は民謡の作詞や作曲も手がけ、1971年頃に「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」を作りました。しかし1973年、比嘉恒敏(56歳)と妻シゲ(49歳)の乗った車に飲酒運転の米兵が突っ込み二人とも亡くなりました。事故の後「でいご娘」は活動を停止していましたが、亡き父の形見の歌を残そうと1975年にレコードを発売したのです。「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は非常に強い反戦民謡であったため、当時の沖縄の人が決して口には出せない心の本音を代弁した歌として大流行したのです。(艦砲ぬ喰えー残さーの歌碑)「艦砲ぬ喰えー残さー」とは「艦砲射撃の喰い残し」という意味です。家族や親戚、友達や近所の方々が米軍の艦砲射撃により殺され、生き残った人は死ななかった自分に後ろめたさを感じながら貧困の中を必死に生き抜いたのです。比嘉恒敏はユーバンタの浜でよく釣りをしていたそうで「艦砲ぬ喰えー残さー」の歌詞やメロディはこの浜で生まれたといいます。現在「艦砲ぬ喰えー残さー之碑」はユーバンタの浜の南側に位置し、かつて海を覆い尽くした米軍艦隊からの艦砲射撃の嵐があった歴史を静かに我々に伝え続けているのです。米軍の艦砲射撃に"喰い残され"て生きた比嘉恒敏が、人生の最期に飲酒運転の米兵に"平らげられ"て殺された皮肉は悲劇以外の何ものでもありません。(ユーバンタの浜)沖縄では毎年3月4日は弦楽器「三線」にちなんで「さんしんの日」となっています。「赤犬子」に琉球古典音楽と舞を奉納する大切な日で主会場や県内外、海外各会場で琉球古典音楽の代表的名曲「かぎやで風」等が盛大に演奏されます。 赤犬子宮では「さんしんの日」に琉球古典音楽と舞が奉納されます。読谷村楚辺の「赤犬子宮」と「赤犬子」は集落の住民のみならず琉球民謡に関わる全ての人々の聖地として、これからも大切に守られながら伝統文化が後世に継承され続けて行くのです。
2021.02.08
コメント(0)
(荻堂タチガーの祠地蔵尊)沖縄県北中城村の「荻堂集落」と「大城集落」には「平成の名水百選」に選ばれた10箇所の湧水があります。それぞれの集落の地質は大城グスクやミーグスク丘陵、メーヌマーチューと呼ばれる小丘陵の周辺に琉球石灰岩の地層があり、その下に島尻層群が広がっています。水を通しやすい琉球石灰岩が「荻堂大城湧水群」の湧き水を支える水源域となっています。(大城アガリガー)まず1つ目の湧水は「大城集落」の東側にある「大城アガリガー」です。「大城集落」の共同井泉(カー)の1つで、主に集落東部の住民が洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用してきました。戦前は旧正月2日、現在は1月3日に区の役員有志が水の恵に感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしています。(大城アガリヌカー)「大城アガリガー」の西側には「大城アガリヌカー」があります。このカー(井泉)は「大城集落」の大半の住民が飲料水として戦後上水道が布設されるまで利用してきました。戦前は旧元日の早朝に子供達がカーの水をワカミジ(若水)として汲み、ヒヌカン(火の神)や仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈りました。(大城チブガー)3つ目に紹介する湧水は「大城アガリヌカー」の南側にある「大城チブガー」で「大城集落」で最も古い共同井泉と言い伝えられています。このカー(井泉)は「大城集落」のウブガー(産井泉)で新生児のウブミジ(産水)として利用されました。また、死者が出た場合に身体清めの水としてこのカーから水を汲んできたのです。水量が豊富で住民の洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用された貴重なカーでした。(大城イリヌカー)「大城チブガー」の直ぐ西側に「大城イリヌカー」があります。このカー(井泉)は「大城集落」の主に西側の住民が飲料水として利用してきました。戦前は旧元日の早朝に集落西側の子供達がカーの水をワカミジ(若水)として汲み、ヒヌカン(火の神)や仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈願しました。(安里アカダガー)「大城集落」の南西側に「安里アカタガー」があります。主に集落南東部の住民が洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用してきました。戦後は農業用水として利用されて、現在も「安里アカタガー」周辺には田畑が広がっており、安全面を考慮して転落防止のフェンスが張られています。(荻堂の歌碑)「荻堂集落」にある「荻堂の歌碑」です。歌碑の挽物口説(ひちむんくどぅち)は、挽物大工が那覇市の若狭町から中部の荻堂大城の坂を通って具志川の田場天願へ仕事に出かける時に歌われた道中歌です。主と共の津波の二人が口説の歌詞を弥次喜多さんよろしく掛け合いで歌いながら踊って展開する小歌劇です。歌碑には挽物口説の有名な一説が記載されています。「(津波) あの坂 何んて言ゆる 坂だやべるか (主) あれややう津波 津波やう 荻堂大城の坂んて 言ゆんてんと (津波) あんす高さる坂も あやべさや」(荻堂ヒージャーガー)「大城集落」の西側に「荻堂集落」が隣接しています。6つ目に紹介するのが「荻堂集落」の東側にある「荻堂ヒージャーガー」です。1965年(昭和40年)12月に水道が通水されるまで、大半の家庭がこの湧水を飲料水として利用してきました。戦前は旧元日の早朝に集落西側の子供達がカーの水をワカミジ(若水)として汲み、ヒヌカン(火の神)や仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈願しました。因みに「荻堂ヒージャーガー」は「大城イリヌカー」と隧道(トンネル)で繋がっており、同じ水源を共有しています。(荻堂イーヌカー)「荻堂ヒージャーガー」の直ぐ北西に「荻堂集落」の共同井泉であった「荻堂イーヌカー」があります。1965年(昭和40年)12月に水道が通水されるまで、屋敷内にチンガー(井戸)が無い家庭にとって洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として貴重な井泉でした。また、住民の情報交換や老若男女の触れ合い、憩いの場として大きな役割を果たしてきました。(荻堂メーヌカー)8つ目に紹介する湧水は「荻堂イーヌカー」の南側にある「荻堂メーヌカー」です。主に周辺住民が洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用してきました。現在の「荻堂メーヌカー」周辺には田畑が広がり、カー(井泉)の水は農業用水として利用されているようです。(荻堂イリヌカー)「荻堂集落」の西側には「荻堂イリヌカー」があります。「荻堂集落」の住民の洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として貴重なカー(井泉)でした。また、住民の情報交換や老若男女の触れ合い、憩いの場として大きな役割を果たしてきました。戦前は旧正月2日、現在は1月3日に区の役員有志が水の恵に感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしています。(荻堂タチガー)最後の10個目に紹介する湧水は「荻堂集落」の北側にある荻堂貝塚丘陵の麓に湧き出る「荻堂タチガー」です。清らかな湧き水が未来永劫に残る事を願って祠地蔵尊(ほこらじぞうそん)が建立されています。昔、水に濡れた犬が出入りしている小さな穴を見つけた人が、その穴を掘り下げて行ったところ水が脈々と湧き出てきたという「犬が見つけた湧き水」という有名な民話が生まれたカー(井泉)が、この「荻堂タチガー」です。(チョーデー広場)「荻堂集落」と「大城集落」のちょうど中間には「チョーデー(兄弟)広場」があり、両集落は昔から"チョーデー(兄弟)部落"と呼ばれていて深い絆で繋がっています。「荻堂大城の旗スガシー」は毎年旧暦の7月17日に両集落により共同開催される県内でも珍しい祭事です。荻堂が「天下泰平遊楽」大城が「飛龍昇天」の旗頭を先頭に、それぞれ「チャイファー」という掛け声に合わせてお互いの字にある聖地を巡拝しながら集落内を練り歩きます。巡拝が終わるとチョーデー(兄弟)広場に集まり、一人づつ代表を出して「チョーデー(兄弟)棒」を演じます。北中城村の「荻堂集落」と「大城集落」は昔から切っても切れない絆で強く結ばれています。古より神水が湧き出る豊かな資源を仲良く分け合いながら伝統文化を共に受け継いできた両集落は、沖縄県でも非常に珍しい独自の発展を遂げてきました。「荻堂大城湧水群」がある北中城村が女性長寿日本一に君臨している理由は、豊かな神水と伝統文化を継承するチョーデーの精神の恵みである事は間違いありません。「荻堂/大城集落」には今日も平和でゆっくりとした時間が流れているのです。
2021.02.02
コメント(0)
(仲順大主之墓)沖縄県北中城村に県民に大変馴染みの深い「仲順(ちゅんじゅん)集落」があります。仲順大主は13世紀の琉球豪族で「仲順集落」の創建者と言われています。有名なエイサー曲「仲順流り」には仲順大主にまつわる伝承が歌詞になっていて、仲順大主が登場する琉球歌劇「仲順流り」も広く知られています。また、1187年から1259年の3代73年間にわたり「琉球国中山王」として王位に就いた舜天(しゅんてん)王統最後の王「義本王」を戦乱からかくまったとの伝説が残っています。(仲順流りの碑)「仲順集落」の北側にある小高い山の麓に「仲順公園」があります。公園には「仲順流りの碑」がありエイサーで有名な歌の歌詞が彫られています。「仲順流り」は北中城村仲順に伝わる仲順大主にまつわる話を題材に、祖霊供養の歌として作られ、各地のエイサーに取り入れられて歌いつがれています。歌の発祥に関わる仲順の地を讃え、歌の末永い伝承を念じ石碑が建立されました。(根殿の社)公園の階段を登ると高台に「根殿の社」と呼ばれる拝所があります。左側の段にはウコールが設置され、その奥には中央に「仲順大主神霊」、左に「義本王神霊」、右に「舜天王神霊」と記載された神棚に琉球仏花瓶が供えてあります。右側の鉄格子の内部には琉球石灰岩のゴツゴツとした神石と灰が納められていました。(お宮の拝所)仲順の「お宮」と呼ばれる「根殿の社」の一帯は「仲順原遺物散布地」となっており、琉球グスク時代(約500〜800年前)の土器や白磁が発掘されています。「お宮」の北側には琉球石灰岩の大岩が点々と存在し、最も北側にはウコールが設置されたウガンジュになっていて神聖な雰囲気に包まれています。(ウフカー)「仲順公園」の南側に「ウフカー」と呼ばれる井戸があります。「仲順集落」は「ナスの御嶽」付近から現在地に移動したと伝えられており「ウフカー」は「仲順集落」のウブガー(産井戸)になります。「ウフカー」は集落発祥に関わる神聖な井戸であり、戦前までは仲順公園内のお宮で行われる例祭(旧暦9月13日)の時に拝まれていました。また、戦後の一時期まで「ウフカー」で旧正月の若水を汲んでいたそうです。(上門ガー)「仲順集落」の中心部に「上門ガー」と呼ばれる井戸があります。「仲順集落」の起源は「ナスの御嶽」付近の上門原に住居を構えた七世帯(仲順七煙)にあるとされます。その頃に産井戸として使用されていたのが「上門ガー」です。井戸の中はクルトゥ石(砂岩)で左右に区切られている事からミートゥーガー(夫婦井戸)であったとの伝承もあります。(仲順大主之墓)仲順集落の北側に「仲順大主之墓」があります。現在から約700年前に「仲順集落」を作り統治していた仲順大主には3人の息子がいました。ある時、誰に家督を継がせるか決めるために仲順大主は病気の振りをして3人を試すことにしました。「私は食べ物が喉を通らなくなってしまった。赤ん坊に与える乳なら飲むことができる。赤ん坊はあきらめて乳を全ても貰えないか?」長男と次男は親より自分の子を優先してこれを断ったが、三男は親の命を救うべく自分の赤ん坊に与えるはずの乳をすべて差し出したのです。(仲順大主之墓の左奥の墓)「仲順大主之墓」の左奥にはもう一つの墓があります。この墓が義本王の墓やノロ墓など多くの説が出ていますが、未だに誰の墓なのか謎に包まれたままです。さて、仲順大主は三男の赤ん坊を東の森の三本松の木の下に三尺の穴を掘って埋めるよう伝えました。言われるがままに三男がそこで穴を掘ると黄金の財宝が見つかったのです。財宝と家督は三男が継ぎ幸せに暮らしたそうです。これが有名な「仲順大主の財宝譲り」という民話です。(ナスの御嶽)「仲順集落」はかつてこの「ナスの御嶽」をクシャテ(腰当て)として南側に発展していったと伝わります。御嶽の中にある琉球石灰岩の大岩が御嶽のイベ(神の在所)であると考えられ「琉球国由来記」(1713年)には、神名は「ナスツカサ御イベ」で安谷屋ノロが祈願する場であると記されています。また「舜天」「舜馬順煕」「義本」の3人の王が祀られているとも伝わっています。(仲順ビジュル)「ナスの御嶽」の西側に「仲順ビジュル」があります。ビジュルとは十六羅漢のひとり賓頭盧(びんずる)がなまったもので、沖縄では主に霊石信仰として、豊作、豊漁、子授けなどの祈願が行われる場所です。仲順ビジュルはかつて花崎門中のノロにより旧暦9月9日に例祭が行われていました。以前は「喜舎場集落」にある王妃御墓(ウナジャラウハカ)付近の御願毛(ウガンモー)に所在していましたが、区画整理で現在の場所に移されました。(賓頭盧尊者の石碑)石碑には「賓頭盧尊者」と彫られています。賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)は神通力のとても強い人だったと言われ、お釈迦様が人々の病を治すように命令されました。病気に苦しんでいる人は「賓頭盧尊者の石碑」に直接触れ、自分の患部と同じ場所をなでることでそれが治ると言われます。「賓頭盧尊者の石碑」は病気平癒を叶えてくれる撫仏(なでぼとけ)なのです。(坂道の標識)北中城村の「仲順集落」は坂道が多い地区で遺跡文化財が点在するパワースポットとなっています。沖縄では旧盆には各地の青年団によるエイサーで必ず「仲順流り」が披露されます。歌い踊り継がれるこの念仏歌により仲順大主の偉業も同時に継承され、沖縄の人々の心に強く刻み込まれます。今年の旧盆も沖縄の各集落で無病息災、家内安全、繁盛を祈り、祖先の霊を供養するために行われるエイサーにて「仲順流り」が披露される事を楽しみにしています。
2021.02.01
コメント(0)
(幸地グスク)西原町の幸地集落東南の標高約100メートルの丘陵上に「幸地グスク」があります。この幸地グスクが建てられた丘陵は南北に長い分水嶺で、南方は首里方面、北方は中城方面につながっています。グスクは瘤のような高地を中心として、その東西の低地に向かって伸びる尾根を利用して造られています。(ビージル)グスク内の最高地点にはビージルの祠が建てられていますが、周辺を観察するための櫓台と考えられています。ビージルの北東下は30メ一トル×30メートルほどの広さを持った曲輪となっており、この曲輪の北寄りには井戸があります。また、西方から北西にかけても幅が10メートルほどの削平地が数段造られ、居住地化されたと考えられます。(幸地グスクガー)幸地グスクの中央部の広場には「幸地グスクガー」という井戸が2基設置されていました。このグスクの注目すべき点は、峰の上を通過する「峰道」がグスク内を通過することにあります。幸地グスクは15世紀前半に造られ、その後数十年間はグスクや関所として、また戦乱期の後には領内支配の拠点的な機能も複合的に期待された形で存在した可能性があります。(幸地按司ガー)幸地グスクの按司は「熱田子(あったし)」と呼ばれ、悪知恵が働き異常に女性にだらしない好色按司として知られていました。幸地グスクの北部にある棚原グスク按司の妻は絶世の美人だったそうで、棚原按司の妻の美しさに目を付けたのが幸地グスクの幸地按司(熱田子)でした。熱田子は棚原按司を殺して棚原按司の妻を奪おうと企んだのです。夫を殺された棚原按司の妻はグスクを逃げ出すが熱田子に執拗に追いかけられ、遂に捕まってしまいます。棚原按司の妻はこのまま手籠めにされてなるものかと舌を噛み切って自害したと伝わります。(グスク上門ガー)熱田子はこの悲劇を反省するどころか、間もなく幸地グスクの南側に隣接する津喜武多(チチンタ)グスクの按司の妻に色目を使いだします。津喜武多按司と親交を結んで仲がよい間柄になりましたが、熱田子の真の目的は津喜武多按司の妻の美貌に惚れ込み横恋慕していたためだと言われています。(熱田橋)ある日のこと、熱田子が魚釣りの帰りに津喜武多按司の妻が亭良佐川(ティラサガー)で艶やかな黒髪を洗っているのを発見すると泥土を投げていたずらしました。妻は非常に立腹しそのことを夫の按司に報告したところ、それを聞いた按司は怒り心頭したものの、何しろ熱田子はあなどり難い力を持っています。その場は取りあえずは兵を動かすことなく機会を待つことにしました。(幸地按司墓の入口)その一方で、熱田子は腕が立つ腹心の部下数人を密かに呼び「今こそ此の機会を利用して、早目に手を打ち災いを取り除いてしまおう」と策略を練ったのです。熱田子は部下達と共に津喜武多按司を訪問し、今回のことは行き違いによるものだと上手く説明して謝りました。按司は相手の丁重な謝罪を受け入れ、直ぐさま仲直りのための酒宴を催し歓待することになりました。(幸地按司墓の森)宴もたけなわになった頃、熱田子が津喜武多按司に向かって「按司殿は世に優れた宝剣をお持ちとお聞きしております。以前から、是非とも一目拝見させて頂きたいと思っておりました。」と申し出たところ願いが許されたのです。按司が宝剣を熱田子に手渡すと、その宝剣を手にするやいなやその瞬間に熱田子は按司を一刀両断に斬り捨てました。続いて一族はじめ、その場にいた者達を片っ端から皆殺しにしたのです。(幸地按司墓)これは幸地グスクの北東にある山の中腹に佇む「幸地按司(熱田子)墓」です。さて、津喜武多按司を殺害した熱田子は思いを寄せてきた美しい妻を色々と説き伏せようとあれこれ試みましたが、貞節な妻は夫殺しの熱田子を憎みながら井戸に身を投げ自害したのです。妻と遠縁の上に按司と仲が良かった今帰仁按司は、このことを伝え聞くなり大変に激怒し、自ら討伐するため大軍を率いて直ぐさま出陣したのでした。(幸地按司墓)熱田子は敵の軍勢が到着するなり自ら今帰仁按司を出迎え、平身低頭して自分の罪を認めて謝り、今帰仁の大軍を自分の城に入城させたのでした。そして熱田子は大々的に酒の席を設け、遙々やってきた遠征をねぎらいました。全く戦わずして勝った今帰仁の軍は勝ち戦だと有頂天になり、夜が更けるのも忘れ思う存分に酒を飲み御馳走をたらふく食べました。熱田子は事前に自分の軍兵を城の近くの北山に待機させていました。合図によって熱田子の軍が城に攻め寄せた時、今帰仁勢は殆ど応戦することも出来ずに、難なく攻め滅ぼされてしまったのでした。そして、今帰仁按司も討ち死にしました。(チチンタグスクの入口)熱田子の策略により自害した今帰仁按司には四人の息子達がいて、その四人は堅く仇討ちを誓いました。熱田子を倒すべく兵馬の訓練を積み、後に不意をついて熱田子を急襲したのでした。流石に戦国の世にずる賢く名をはせた熱田子も遂に討ち亡ぼされ、四人の息子達は熱田子を倒して見事に津喜多按司とその妻、棚原按司とその妻、そして父親と今帰仁兵士達の仇を討ったのでした。(チチンタグスク)奇しくも熱田子の墓は直ぐ南側に位置する津喜武多グスクに向いています。天罰が下って殺害された熱田子は、死んでからも自分の墓から愛しの津喜武多按司の妻が暮らしたグスクを静かに見つめているのです。熱田子の墓と津喜武多グスクの間に流れる小波津川に「安津田橋」が掛かっており、津喜武多グスクに隣接する安津田集落の名は「熱田」の名が由来していると思われます。そう考えると非常に気味が悪くなり、執拗に好みの女性を追いかける熱田子の荒んだ執念に強い恐怖を感じます。(幸地按司墓)「幸地按司(熱田子)墓」は墓石の周辺だけ藪蚊の大群が飛び回り、私の腕や顔に異常なほどに噛みつき吸血し始めました。更に、この日は無風の快晴の天気にも関わらず、墓上の木々はバリバリと爆音をたてながら枯葉が大量に吹き荒れていたのです。まさに、未だ成仏しきれない熱田子の悪霊が墓の周辺を蠢いて、私の訪墓を沸々と拒絶しているように感じました。
2021.01.26
コメント(0)
(登川邑発祥之地の石碑)沖縄市の「登川集落」は国道329号線沿いの沖縄市北部と、うるま市西部の市境に位置します。北美小学校正門近くに「當之御嶽」があり、石碑には「登川邑発祥之地」と書かれています。登川(のぼりかわ)という名称は沖縄の言葉で「ニィブンジャー」と言い、主に60代以上の地元高齢者からは登川(ニィブンジャー)と普通に呼ばれています。(ムートゥーガー)「當之御嶽」の西側に「ムートゥガー」と呼ばれる井戸があり「登川集落」の一番古い井戸とされています。琉球王国時代に村人は正月の元旦にムートゥガーを家族で訪れ、東に向かい「トゥシヤカサディ、イルヤワカク(年を重ねて、心は若く)」と唱えながら洗顔を行なったそうです。また、子どもが生まれるとこの井戸から産水を汲んだり、稲や豆の豊作を願って拝んだりしました。(登川創立記念碑)登川公民館の西側に「登川創立記念碑」があります。登川碑や分村碑とも呼ばれており沖縄市の市指定文化財に登録されています。「登川集落」は当初、池原から元島(現在の北美小学校周辺)に人が移り住んだと言われており、その後更に池原から数世帯を加えて「登川集落」が創立されました。この碑はそれを記念して1739年に建てられました。当時の琉球で盛んに行われていた集落移動を記した貴重な資料となっているのです。(火ヌ神/ヒヌカン)登川公民館の裏手に「火ヌ神(ヒヌカン)」があります。沖縄の人々は古来より陽の昇る遥か彼方に理想郷(ニライカナイ)があると信じ、太陽を神聖なものとして捉えていました。ニライカナイからもたらされた火は太陽の化身として崇められるようになったのです。村人は集落の守り神である「火ヌ神」に無病息災と繁栄を祈願しました。岩造りの祠の内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られています。(西の四方神)「登川集落」には四方神があり「ヨスミノカド」とも呼ばれています。これは「西の四方神」で霊石とウコールが設置されています。登川(にぃぶんじゃー)集落の始まりには秘話が伝わります。昔、知花と池原の間の人里離れた処にフェーレー(追いはぎ)が出て、首里の王府へ貢物を運ぶ人や、国頭からの旅人が襲われて品物を奪われることがたびたび起こっていました。時の琉球王府は池原集落に対して、フェーレーを取り締まるように命令を下したのです。(南の四方神)登川公民館の近くにある「南の四方神」にも霊石とウコールが設置されていました。さて、池原集落から選ばれた7名の若者は昼夜を徹してフェーレー退治につとめ、遂にフェーレーを捕まえて首里王府に連行しました。王府ではフェーレーを退治することはできたが、また違う追い剥ぎの被害が出ないか心配して7名の若者に対して「集落を作り監視するように」と命令したそうです。(東の四方神)「東の四方神」にも同様に霊石とウコールが設置されていて「登川集落」を守っています。更に、王府の命令で集落を作ったのは良いが、そこが山岳地帯で土地が狭く発展性に乏しいという事に気付き、住み易い広い場所を求めて元文4年(1739年)8月15日に現在の登川地区に移動しました。しかし、今度は7軒では少な過ぎるという事になり、もう7軒を池原集落より合併させて村を作ったそうです。(北の四方神)「北の四方神」には神石とウコールの横にクムイ(溜池)が設置されています。登川の四方神(ヨスミノカド)に囲まれた区画内には多数のクムイがあり「登川集落」が水源を確保する為に知恵を絞っていた事が伺えます。新しい登川集落を作る時に区画整理や用水路の整備等についての指導をなされた方は赤嶺親方という風水見で、その人の名は登川公民館近くの「登川創立記念碑」に記されています。(神アサギ)(カミヤーの内部)「登川集落」の中心地にある「神アサギ」と呼ばれる祭祀場は登川公民館の北側に位置します。「神アサギ」では旧暦の5、6月のウマチー(豊穣祈願の収穫祭)や6月のカシチー(米の収穫を報告し感謝する行事)の日に集落の有志達が集まり神を祀ります。その裏側にはウガンジュ(拝所)があり「カミヤー」と呼ばれており、内部には4つのウコール(香炉)とミジトゥ(水)が供えられていました。それぞれ東西南北の四方神(ヨスミノカド)への感謝は、新しい登川を作った赤嶺親方の風水の影響を受けていると考えられます。因みに、親方(ウェーカタ)は琉球王国の称号の一つで、王族の下に位置し琉球士族が賜ることのできる最高の称号でした。(北見小学校北側の森)沖縄市の「登川集落」には琉球赤瓦の古民家や昔の馬小屋が現在でも多数残り、住民は団結力が強く生まれ育った登川に誇りを持って暮らしています。「登川集落」を発展させた赤嶺親方に感謝しながら、親方の詠んだ有名な詩で締め括りたいと思います。『枕並(まくらなら)びたる 夢(ゆみ)ぬちりなさよ 月(ちち)や西下(いりさ)がてぃ 恋(くい)し夜半(やふぁん)』(愛しい人と枕を並べている夢を見ていたのに、風の音かに驚いてハッと目覚めた。時はと言えば、就寝のおりは中天にあった月が西に傾いている冬の夜半。なんとつれない夢を見たことか。冬の夜のひとり寝は、ことさら侘しい。)
2021.01.25
コメント(1)
(兼箇段グスク)沖縄本島うるま市の南部にある「兼箇段(かねかだん)集落」に「兼箇段グスク」があります。国道329号線から県道36号線を東に進むと小高い腰当森が目を引きます。「兼箇段グスク」は琉球グスク時代の古城で標高約85mの丘に立地し、丘頂上と中段に2つの広場があります。出土品はグスク頂上と斜面に散らばっていて、それらの中にはグスク土器、中国製の青磁、獣や魚の骨、貝殻などが発掘されています。(ヒヌカン)(ヒヌカン内部)「兼箇段グスク」の入り口は「アシビナー(遊び庭)」の広場があります。広場の西側に「ヒヌカン(火の神)」が東に向かって建てられており、グスクの拝所として"お通し"の役割があります。琉球瓦屋根の建物内部には「天地海」を示す3つの霊石が祀られていて、中央の霊石はウコール(香炉)として利用されておりヒラウコー(琉球線香)が供えられていました。「ヒヌカン」の建物は非常に古く、木造の屋根はグスクの長い歴史を知る上で重要な文化財となっています。(ビジュル)「ヒヌカン」がある「アシビナー」の広場からグスクの森の入り口に進むと「ビジュル」があり石の神が祀られていました。「ビジュル」とは沖縄本島でみられる霊石信仰の事で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされています。「ビジュル」には琉球石灰岩の洞穴に石状珊瑚や石灰岩が祀られているのが確認できました。グスク入り口にある「ビジュル」は「兼箇段グスク」の守護神として外部からの悪霊を追い払う役割があります。(兼箇段グスクの階段)「ビジュル」を左手に進むとグスクを登る階段が現れました。「兼箇段グスク」の築城には諸説あります。安慶名グスクを築城した安慶名大川按司が当初は兼箇段集落の小高い丘にグスクを築こうとしましたが、後に安慶名グスクがある丘陵の立地がグスクに適するとして築城が変更されたのです。「兼箇段グスク」の麓には近くに井泉がなく、水源を確保するのに手間がかかった事も移転の要因だと考えられます。(グスク中腹の拝所)グスク中腹には神々が祀られているウガンジュ(拝所)があります。神が宿ると言われるガジュマルの古木が琉球石灰岩に絡まり神秘的な雰囲気に包まれています。石灰岩の洞穴は石垣で塞がれ、神々に祈る拝所として数個の石が祀られていました。グスクの山を更に登ると両脇に「北の高見台」と「南の高見台」があり、その先には「ナカヒラチ」と呼ばれる広場がありました。(グスクの中庭)(グスクの森)「兼箇段グスク」に関する言い伝えによると、西原町にある「棚原グスク」の棚原按司の妻は絶世の美人だったそうです。棚原按司の妻を我が物にしようと企む「幸地グスク」の幸地按司は棚原按司を殺してしまいます。棚原按司の妻は西原から命からがら逃げ出して兼箇段に身を隠しました。しかし、執拗に追いかける幸地按司に捕まってしまい西原に連れ戻されそうになりました。棚原按司の妻はこのまま手籠めにされてなるものかと舌をかみ切って自害したそうです。それを気の毒に感じた兼箇段大主は棚原按司の妻を丁寧に葬ったと伝わります。(頂上の岩門)(グスク頂上からの景色)「兼箇段グスク」の頂上入り口には天然の岩門が佇んでいました。グスク頂上は広場になっておりガジュマルの木を中心にして360度ほぼ見渡せる絶景が広がっていました。こちらの方面からは、うるま市の市街地から金武湾、平安座島から宮城島まで眺望できます。東側には中城湾から勝連半島も見渡せます。西側には沖縄市の市街地も綺麗に見渡す事が出来るのです。(リュウグウの神)頂上から城を降り入り口に戻る途中に「リュウグウの神」と呼ばれるウガンジュがありました。兼箇段グスクは海から比較的離れているのですが、竜宮の神が祀られているという謎があります。伝説によると隣接する「兼箇段グスク」「スクブ御嶽」「知花グスク」の3箇所を一直線に結ぶ上空に竜が飛んでいたと伝わります。兼箇段グスクの「リュウグウの神」はこの伝説を裏付けていると考えられます。(ふつこうばし/復興橋)(ジョーミーチャー墓の標識)「兼箇段グスク」の西側にある県道36号線は「兼箇段ウテー」と呼ばれ、薄暗い奇妙な雰囲気がある細道として昔から人々に恐れられてきました。川崎川に架かる「ふつこうばし」と呼ばれる橋の周辺には「兼箇段古墓群」が広がり、非常に不気味な空気が漂っています。「ふつこうばし」を「兼箇段グスク」方面に進むと左側に「兼箇段ジョーミーチャー墓」があります。"ジョー"は沖縄の言葉で"門"、"ミーチャー"は"3つ"を意味します。つまり「3つの門がある墓」を表しているのです。(ジョーミーチャー墓)手入れがされていないために「ジョーミーチャー墓」は亜熱帯植物で覆われていますが、よく見ると3つの門があります。この墓がある「兼箇段ウテー」には様々な民話があり「兼箇段クミルン小」「兼箇段ウテーのマジムン(妖怪)」「ジョーミーチャー墓の幽霊」などが有名です。3つの門の奥には大小3つの墓があり、真ん中の1番大きな墓にはウコール(香炉)が設置されていました。(墓中央の門)「兼箇段ジョーミーチャー墓」の構造は山の中腹から下にかけて削り落として横穴式にくり抜いたもので、架橋の下に大小3つの小さな前門があります。いつ頃築造されたか明らかではありませんが、この墓には「兼箇段大主」「テビーシ」「根人」「ヰガン」「根神」「祝女」「アジガユー」「門ミーチャーカシラユー」「ナカヌユー」などの遺骨が崇められているとのことです。兼箇段集落ではこれらの霊を慰めるため、1963(昭和38)年の旧暦5月に墓の蓋石を新調して、ここに祀る個人の名を刻記し、後世に伝 えるとともに外観を整備して現状の維持につとめています。(兼箇段橋)(メーヌカー)「兼箇段グスク」の南側に「兼箇段橋」が掛かっており、橋下を流れる川崎川沿いに「メーヌカー」と呼ばれる井泉があります。かつては「兼箇段集落」の住民の飲料水や生活用水に利用され、旧正月には若水を汲んで一年の無病息災を祈っていました。現在も豊かに水が湧き出る「メーヌカー」は横幅が約3m、縦に約1mの長方形の石造りとなっています。井戸を囲むように3段構造の石段が積み上げられています。(兼箇段の神屋)「兼箇段グスク」の南側に広がる「兼箇段集落」の中心部に「神屋」があります。「兼箇段集落」のノロが祭祀行事を司っていた集落の聖域で、建物の内部には3つのビジュル霊石とヒヌカン(火の神)が祀られています。旧暦8月15日には「兼箇段集落」の獅子舞が「神屋」で披露され、その後に獅子は神道を通り「兼箇段グスク」のアシビナーにある「ヒヌカン」に奉納されます。(川崎川の森)「兼箇段グスク」の城下古墓群沿いにある「兼箇段ウテー」や川崎川周辺は至る所に古い墓が多数点在する心霊スポットとして有名です。"恐怖の場"として知られていた所でもあり「浦添ようどれ」「勝連城跡北側の南風原から西原を結ぶ坂道のウガンタナカ」と相並ぶほどに人々から恐れられています。そのような状況下「兼箇段グスク」とその周辺を昔の様な綺麗な里山にしたいという活動が起きています。集った有志は兼箇段グスク周辺が地域のクサティー(腰当)として存在するウガンが皆の力でより健全な形で保全と管理される意識が醸成され、裾野が広がる事を強く祈念しているのです。
2021.01.19
コメント(0)
(江洲グスク)沖縄県うるま市の南西部に位置する「江洲集落」に「江洲グスク(イーシグスク)」があります。標高約100mの琉球石灰岩丘陵に築かれたグスクで、 通称「えすのつちぐすく」とも呼ばれています。名称の通りグスクの石積み遺構は見られず土のグスクで、麓にはグスクを取り囲むように8つの井泉があります。「江洲グスク」からはグスク土器、須恵器、中国製の磁器などが発掘されていますが、未だに詳しい調査がなされていない謎に包まれた聖域となっています。(陵墓の石碑)(仲宗根按司之先祖の墓)「江洲グスク」の入り口を進むと大きな石碑が現れます。生い茂る木々に佇む石碑には「大宗江洲按司宗祖武源明 妹 つきおやのろ 之陵墓 昭和六三年周辺整備」と刻印されています。石碑の左側には山の頂上に向かう石段があり亜熱帯植物に深く覆われていました。頂上に向かう山の中腹右側には「仲宗根按司之先祖の墓」があり、その先には他にも江洲グスクを司ったノロの墓などが三基並んでおり、それぞれにウコールが設置されていました。手前の一番大きな石墓には「江洲王時代 仲宗根按司之先祖 昭和四十八年七月三十日竣工」と掘られています。(江洲按司の墓/江洲按司の妹の墓)(墓前の石柱)石段を上り詰めると頂上に初代江洲按司から三代目迄の「江洲按司の墓」と江洲按司の妹である「ノロの墓」が並んでいます。1453年の「志魯・布里(シロ・フサト)の乱」後に第6代国王尚泰久の5男が「江洲グスク」に入り、その後3代に渡り居住したと言われています。2基の墓のちょうど間にはニービ石造りの細長い石碑が建てられています。石碑には「兄 えすあんじ之が左 妹 つきおやのろ之が右」と刻印されていました。因みに「江洲グスク」は第1尚氏王統が消滅した1470年頃には廃城になったと伝わります。(グスク頂上からの景色)「江洲グスク」頂上の江洲按司と妹ノロの墓からは東南植物楽園や倉敷ダム、さらにはうるま市石川山城方面の山々を眺める絶景になっています。一説によると「江洲グスク」は中城城の護佐丸や勝連城の阿摩和利のどちらにも属さない中立的なグスクで、高台からグスク周辺を見張り首里の王に情報を伝える役割を果たしていたと言われています。(江洲ヌン殿内)(火ヌ神)「江洲グスク」の麓には「江洲ヌン殿内」があります。琉球王国時代には集落の祭事を司るノロには一定の土地が与えられ、その住まいはノロ殿内(ドゥンチ)と呼ばれました。神アシャギと呼ばれる神棚と火の神(ヒヌカン)を祀った離れ座敷を持つのが特徴で、この聖域で集落の祭祀の神事が行われていました。「江洲ヌル殿内」の敷地には「火ヌ神」があり、祠内にはウコール(香炉)と3つの霊石が2対祀られています。(津嘉山ガー/チカザンガー)(津嘉山ガーの井泉)江洲公民館の南西側に「津嘉山ガー(チカザンガー)」があります。この井泉は「シードーガー」とも呼ばれ1872年(明治5年)に「江洲集落」の先人達が堀削したと言われます。集落で子供が生まれたときの産湯、命名水、飲料水、正月の若水として全戸がこの井泉を使用しました。新年を寿ぎ家族の健康と繁栄を祈願しました。「江洲集落」の住民の誕生から生存まで無くてはならない唯一の「産井(ウブガー)」として重宝されてきました。現在も水の神に感謝する祈りが捧げられています。「江洲集落」の中心部にある江洲公民館には「獅子」が大切に納められています。うるま市(旧具志川市)には獅子が住んでいたという伝説の「獅子山(シーシヤマー)」があり、7つの集落で伝統的な獅子舞が継承されているように「江洲集落」も獅子に縁が深い土地となっています。「魔よけ」の意味合いが強く、百獣の王である獅子が集落の守護神となり病気の元凶や悪魔を退治するとされています。(江洲七神神殿)(江洲七神神殿の内部)江洲公民館の敷地内に「江洲七神神殿」があります。七神の由来は地球上のあらゆる生物を生み育ててくれた宇宙と大自然のわずらみで、七神への感謝が神体化されました。神殿には生命の根源である七要素が七神と称され古代から崇拝されて祀られているのです。神殿内には7つのウコール(香炉)が祀られています。「江洲集落」の七神は生命誕生の神として子孫繁栄、無病息災、部落発展の神として信仰されています。また、集落を作った当時の7つの家の火の神様(ヒヌカン)を祀り現在もその信仰が継承されています。更には、7つのウコールはそれぞれ1週間の月曜日から日曜日を表しているという説も存在します。(守護神/島カンカン)「江洲集落」には沖縄でも非常に独特な信仰が伝わり、旧暦3月3日に疫病や災厄を払う御願「島カンカン」が実施されています。守護神である「島カンカン」の霊石に御三味をお供えし、三枚肉を神頭(石碑の上)に捧げて1年間の集落内における安全祈願を行っています。因みに「カンカン」とは"見張る"という意味で、神が集落を見守るという役目があると伝えられているのです。(大屋殿内/ニーヤ)「島カンカン」の北西側に「大屋殿内(ウフヤドゥンチ」があります。「根屋ニーヤ」とも呼ばれるこの敷地には「江洲集落」発祥に関わる住民が代々住んでいました。「江洲七神神殿」を訪れた時に神殿内で拝む一人の男性がいました。その方はうるま市江洲自治会長の安里義輝氏でした。安里氏によると昔から「江洲集落」の東西南北に豚肉を結んだ縄を張る事でフーチ神(悪霊)が集落に入らないようにしたと言われており、コロナ禍の現在も「江洲集落」の出入り口4箇所に豚肉を吊るし、コロナウィルスが集落に入らないようにしているそうです。江洲自治会長の安里氏は祈る大切さを私に優しく教えてくれました。祈る事により魂が浄化され心豊かに暮らせるのです。伝統と信仰が強く生活に根付く「江洲集落」の自治会長は信仰心の強い方で、この地区は確かに七神と守護神に守られている御加護を感じます。安里氏は最近では沖縄の人でも神に祈る人が減った中で、県外出身の人が沖縄の信仰伝統に興味を持つ事を非常に喜んでいました。自治会長の言葉に甘えて、今後も喜んで「江洲集落」に祈りを捧げに足を運ぼうと思います。
2021.01.18
コメント(0)
(天之岩戸向洞穴)日本全国に伝わる「天岩戸伝説」は太陽の神であるアマテラス大御神が岩戸に隠れたために世間が真っ暗になったという有名な日本神話です。南国の沖縄県にも「天岩戸伝説」が伝わり伊平屋島の「クマヤ洞窟」が日本最南端の「天岩戸伝説」として知られています。しかし、それよりも更に南に位置する沖縄本島沖縄市にも「天岩戸伝説」が存在し多くの謎に包まれています。(八重島地区の墓地群)(天の岩戸の石碑)沖縄市八重島地区の墓地群を進むと、その奥地に一本琉球松がそびえる森があります。隆起した琉球石灰岩で覆われた小高い丘には、真の「天岩戸伝説」が伝わる「天之岩戸向洞穴遺跡」が密かに佇んでいます。墓地群を抜けると石碑があり「天の岩戸 艮金神(ウシトラコガネ) 龍神 地上天國 昭和二十七年 十一月十五日誕生」と記されています。(琉球石灰岩の洞穴)(天之岩戸向洞穴)その右手には琉球石灰岩の小さな隙間に暗闇が奥深く続いているが見えます。どれ程の深さがあるのかも予想不可能な暗黒に、思わず吸い込まれそうになる雰囲気を奇妙に醸し出しています。先程の石碑の左側に石段があり昇って行くと開けた空間が現れました。ゴツゴツした琉球石灰岩は緑の苔に覆われ、ガジュマルと亜熱帯植物が生い茂る中に別の石碑と石造りの祠が確認できました。(天之岩戸向洞穴の石碑)(天之岩戸向洞穴の入口)この石碑には「天之岩屋 天之御柱 艮黄金萬神 風水大神 昭和二十七年 十一月十五日誕生」と掘られています。その右奥には大きな穴が開いていて琉球石灰岩の岩間に漆黒の闇が奥深く続いています。石碑の右側には鉄格子が付いた石造りの祠があり、その奥には神秘的な洞穴が続いています。正に、ここが真の日本最南端の「天岩戸伝説」が伝わる「天之岩戸向洞穴遺跡」の闇穴そのものです。私は鉄格子の前で一礼し洞穴内部を覗き込みました。(天之岩戸向洞穴の内部)鉄格子越しに洞穴内部から物凄い勢いで湿った熱波が発生していて、私が掛けていたメガネが一気に曇りました。なぜ洞穴内部から暑い湿気が出てくるのか?今まで何度も様々な洞穴を訪れてきましたが、洞穴入り口から湿った熱を激しく排出する体験は初めてです。暗闇の洞穴奥はウガンジュ(拝所)になっていて「天岩戸の神」が祀られている聖域になっていました。(天之岩戸向洞穴の丘)通常ならば外気よりも涼しい冷気が洞穴内部から吹き出してくるので、この説明し難い現象は「天岩戸の神」が何かしらのパワーを発している証なのでしょう。やはり日本最南端の「天岩戸伝説」は沖縄市八重島の「天之岩戸向洞穴遺跡」に存在している事は間違いなさそうです。洞穴の右手に琉球石灰岩の丘の頂上に向かう通路を発見しました。石段や階段は無く苔が覆う非常に滑りやすい斜面が続いており、足元に気を付けながらゆっくりと登り進み無事に頂上に到達しました。(天之岩戸向洞穴の拝所)すると目の前に広大な絶景か広がり、そこは石造りのウコール(香炉)が3基設置されたウガンジュ(拝所)になっていたのです。沖縄市からうるま市、江洲グスクや喜屋武グスク、更に世界遺産の勝連グスクや宮城島まで見渡せる雄大な眺望に目を奪われました。天地海の3神と考えられる3つのウコールは太陽が昇る東を向いていて、私は「太陽の神」であるアマテラス大御神に祈りを捧げました。(天之岩戸向洞穴のハブ)(天之岩戸向洞穴の石碑)帰宅の途に着こうと来た道を戻ると、ひっくり返り動かない状態の「ハブ」が足元に突然現れました。ハブは非常に驚いた時このように死んだ振りをするそうです。夜行性で猛毒の蛇として恐れられるハブですが、意外にも臆病な生き物で大きな音に怯えて逃げ出すと言われています。「天之岩戸向洞穴遺跡」の洞窟とその真上に位置する絶景の御嶽はまだまだ謎が多い聖地で、遺跡がある沖縄市でさえも詳しい調査が未だになされていません。しかしながら、謎に包まれている事で「天岩戸伝説」がこの地に生き続ける訳であり、科学的に証明されない神秘のロマンがあるからこそ、今後も人々に語り継がれる聖域として存在し続けるのでしょう。
2021.01.12
コメント(0)
(屋良城之嶽)「屋良グスク」は沖縄県嘉手納町に流れる比謝川の中流に位置し、標高38mを最高所とする小高い琉球石灰岩陵上に築かれたグスクで「屋良大川グスク」とも呼ばれます。グスク北側を流れる比謝川を天然の堀として利用し、南西面に半円状に外郭を巡らせた輪郭式城郭で、築城は13〜15世紀と考えられています。御嶽の石碑には「屋良城之嶽 神名 笑司之御イベ」と記され、ウコールが祀られています。(屋良大川按司の墓)「屋良大川按司の墓(御先大川)」は屋良グスクの東側に位置し、以前は崖の中腹に位置していましたが崖崩れにより墓が崩壊したため、散乱した遺骨を逗子甕に分納し、真下の横穴を利用して1991年に移築しています。墓の石碑には「字屋良御先 大川按司之墓」と彫られウコールと霊石が設置されています。(字屋良ウブガー)屋良大川按司の墓の北東側に「字屋良ウブガー」があります。このウブガー(産川)は字屋良集落で古くから利用されてきた湧水で、正月にはこのガーから若水を汲んでいました。集落で子供が産まれるとウブガーから「ウブミジ(産水)」を茶碗に汲み、中指を浸して赤子の額を3回撫で回す「ウビナディ(お水撫で)」の儀式や「産湯」に使用しました。産湯に使用する場合はタライに湯を先に入れ、ウブガーから汲んだ水で薄めて使用するのが常で、その順序を逆にすると「さか湯」と呼ばれ、死者の体を清める際に使用する「アミチュージ(湯かん)」となることから忌み嫌われたのです。(屋良城址公園の無縁墓)(ガジュマルが絡まる無縁墓)1979年に整備された屋良城址公園内は、戦後に建てられたとみられる墓が多数点在し、骨や骨つぼがある30基を含む107基は所有者など手掛かりがないと言われています。受け継ぐ人がいなくなり放置された「無縁墓」が沖縄県嘉手納町の比謝川周辺に点在し、まちづくりや安全対策に影響が出ています。リニューアル工事を控える町立屋良城址公園には墓が116基あり9割以上が所有者不明。落石や崩落の対策工事が急がれる県営住宅下の崖にも誰のものか分からない墓があり、手がつけられない状態なのです。(所有者不明の無縁墓)比謝川一帯の墓の多くは戦後混乱期に土地の所有者に無断で建てられた可能性が高く、米軍基地に土地を接収されて住む場所もなく、この一帯に墓が集まったとみられています。大半は墓を守る子孫が絶えたか、移動して空き墓になったかとの見方が示されています。しかし琉球カミンチュ(神人)に言わせると、墓を移動しても地縛霊が墓に残るため、死亡した人の霊魂はこの場に居続けるそうです。(屋良城址公園を流れる比謝川)沖縄戦当時の屋良グスク周辺は日本兵を収監した捕虜収容所がありました。捕らえられた日本兵が収容所から脱走して比謝川を泳いで逃げないように、米軍は日本兵の両足を切断して逃亡を阻止したと言われます。更に米軍は日本兵の体をバラバラに切断して比謝川流域の木々に吊るし、捕虜である日本兵に逃亡を諦めさせようと試みたのです。そのため屋良グスク周辺の比謝川流域には日本兵の上半身だけがうごめく幽霊や、下半身だけが歩き回る幽霊が多数目撃されています。(ヌールガー)屋良城址公園には「ヌールガー」と呼ばれる井泉が祀られています。「ヌール(ノロ)」は琉球神道における女性の祭司の事で「ガー」とは湧き水が出る井戸の事を示します。琉球ノロがこの聖域で屋良集落の豊穣を願い、災厄を払い、祖先を迎え、豊穣を祝う祭祀を行なっていたのです。「ヌールガー」の井泉には水神を祀る祠が建てられており、ウコールが設置されている拝所として現在も祈られています。(比謝橋)屋良グスク沿いを流れる比謝川には「比謝橋」がかけられています。この橋のたもとには「吉屋チルーの歌碑」があります。吉屋チルーは貧しい農民の娘として生まれ、わずか8歳にして那覇の仲島遊郭へ遊女として売られました。吉屋チルーは遊郭の客だった「仲里の按司」と恋に落ちたが、黒雲殿と呼ばれる金持ちに身請けされたために添い遂げられなかったのです。悲嘆にくれた吉屋チルーは食を絶ち、18歳で亡くなったと伝わります。(吉屋チルーの歌碑)歌碑には「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら (恨めしい比謝橋は お情けのない人が私を渡そうと思って 架けておいたのでしょうか) 」と記されています。これは身売りされて那覇に向かう途中、絶望的な吉野チルーが比謝橋で詠んだ悲しい歌です。(嘉手納ビル)嘉手納町屋良の比謝川流域は根本的に悪い土地で、悪霊が溜まりやすい地域とされています。この「嘉手納ビル」は沖縄で有名な心霊スポットです。この建物の一階にはかつて沖縄の大手スーパーが営業していましたが、殺人事件により幽霊の目撃が多発して閉店に追いこまれたのです。しばらく立ち入り禁止が続きましたが、現在は米軍関係者が経営するインターナショナルスクールになっています。(天川の井戸)「比謝橋」の袂に「天川(アマガー)」と呼ばる直径二尺程度の円筒型に積み上げられた井戸がありました。琉球王府時代にできた古典音楽の曲名「天川節」は古典女七踊の一つとしても有名で、この歌に登場する「天川の池」はこの天川の井戸から比謝川に流れ出る水路に出来た池とされています。「天川節の歌碑」も建てられおり「天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ」と記されています。(字嘉手納のンブガー)「天川」に隣接して「ンブガー(産川)」があり「アガリガー(東川)」とも呼ばれている井戸です。水源が豊富なこの井戸は干魃が続いても枯れることがなかったと伝わります。字嘉手納集落では子供が生まれると「サン(魔除け)」を結んだ桶で東に向かって水を汲み、その水を産湯に使い健康祈願をしました。戦後に現在の位置に移動して拝所として住民に拝まれています。(トゥヌマーチーモー)(イリヌウタキ/アガリヌウタキ)「トゥヌマーチーモー」は字嘉手納集落の殿(トゥヌ)の拝所があった祭祀場です。旧暦9月8日には「ヌールガーミジナリー」が行われ、ヌールガーで水のウガン(御恩)の拝みを終えたヌール(ノロ)が「トゥヌマーチーモー」で集落の住民の健康祈願の儀式を行いました。現在、敷地には「イリヌウタキ/アガリヌウタキ」の拝所が建てられ、集落の西と東の御嶽が一緒の祠に祀られ、それぞれウコールが設置されています。(神屋)嘉手納町の「中央区自治会事務所」の敷地内に「神屋」があります。「ヌル殿内」の役割があり「神アサギ」と呼ばれるヌール(ノロ)が祭祀行事を司る聖域として住民から拝所として拝まれています。かつては集落のヌール達が集団で暮らした場所で「ノロ制度」が定められた琉球王国時代には沖縄の各集落に「神屋」が設けられ、集落の恒例行事には欠かせない神聖な場所として住民に敬われていました。(字嘉手納集落の拝所の大ガジュマル)(拝所の天降り神と火の神)拝所には推定樹齢250年、樹高18m、胸高周囲8m、枝張24m、枝張面積146平方メートルの大ガジュマルがあります。この一帯には神が住むと言い伝えられ、その対象としてこのガジュマルは土着信仰として拝まれています。拝所には「天降り神」と「火の神」が祀られウコール(香炉)が設置されています。大ガジュマルの麓には2つの巨大な岩があり、神が宿る神聖な岩としてウコールが祀られています。(比謝川のマングローブ)嘉手納町の比謝川流域は沖縄戦に翻弄された地域でありますが、戦前は神が祀られた御嶽のグスクで豊かに繁栄した長い歴史があります。古からの遺跡文化財を大切に守り、若い世代に伝統を継承して行く事は重要です。歴史と自然が豊かなこの地域は嘉手納町のみならず、沖縄の歴史を解明するためにも非常に価値のある地域として大切にされてゆく事でしょう。
2021.01.11
コメント(0)
(アガリの御嶽)うるま市浜比嘉島の浜地区に「東(アガリ)の御嶽」というパワースポットがあります。浜漁港の向かいに粛然と佇む御嶽は「シヌグ堂」とも呼ばれていて、巨大なガジュマルに覆われる神秘的かつ超現実的な空間に包まれています。(東の御嶽の標識)海中道路から浜比嘉大橋を渡り浜比嘉島の西側に浜地区があります。浜漁港の向かいに「東の御嶽(シヌグ堂)70m」の標識があり、矢印の方向に目を向けますが、何やら行き止まりのような雰囲気を醸し出していました。半信半疑の気持ちでそのまま細道を進むと…(シヌグ堂のガジュマル)突然目の前に巨大なガジュマルが現れて瞬時に幻想的な世界に引き込まれたのです。先日ヤンバルの大石林山にあるガジュマルを訪れたばかりでしたが、浜比嘉島「東の御嶽」のガジュマルはそれを遥かに上回る巨大な老樹であり正に圧巻の一言に尽きます。(東の御嶽/シヌグ堂)壮大なガジュマルの麓には「東の御嶽(シヌグ堂)」があります。シヌグとは沖縄本島とその周辺島、および鹿児島県奄美群島の一部に伝わる豊年祈願の年中行事の一つです。行事の内容は各地の集落により異なりますが、無病息災や五穀豊穣を祈願する他にも、害虫や害獣を駆除する祓いの要素が見られます。(東の御嶽のウコール)石造りの祠には「東御嶽 昭和57年5月15日」と刻印された香炉が設置されており灰にはヒラウコー(琉球線香)が立てられ、他にもお賽銭やお酒も供えられていました。この御嶽では旧暦の6月28日と8月28日の2回「シヌグ祭」が行われます。この祭りは琉球三山時代(1322年頃〜1429年)、戦に敗れた中山の武将・平良忠臣とその将兵数名が浜比嘉島に渡り東の御嶽に身を隠し難を凌いだという故事に由来する祭りです。(東の御嶽の案内板)旧暦8月28日に追討軍(南山・北山軍)が平良忠臣が隠れる浜比嘉島に渡ろうとしますが、琉球開闢の女神アマミキヨ(アマミチュー)と男神シネリキヨ(シルミチュー)へ願掛けを行った結果、嵐が起こり討伐軍の船が海に沈没し難を逃れたのです。この故事にちなんで海の時化(しけ)を祈願する非常に珍しい祭りが行われるようになりました。(東の御嶽の拝所)東の御嶽(シヌグ堂)の奥には小高い丘を登る石段があり、その先には墓の形をしたウガンジュ(拝所)がありました。シヌグの語源は豊年祭の「災厄を凌ぐ」という説、あしびなー(遊び庭)の「踊り」という説、平良忠臣が隠れた「忍ぶ」という説など諸説あります。(シヌグ堂のガジュマル)ガジュマルにはキジムナーが宿るという伝説が沖縄にあります。キジムナーとは沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の生物で、ガジュマルの古木に住む精霊を意味します。キジムナーは人から恐れられることは滅多になく「体中が真っ赤な子供」「赤髪の子供」「赤い顔の子供」と表現されて、長髪で全身毛だらけの姿で現れると言われます。(高樹齢のガジュマル)川でカニを獲ったり特に魚の左目または両目が好物で、グルクンの頭が好物だと言われます。キジムナーと仲良くなれば魚をいつでも貰え、金持ちになれるともされます。海に潜って漁をするのが得意で瞬く間に多くの魚を獲るそうです。また、水面を駆け回ることができ、人を連れながらでも水上に立てるとも言われています。(ガジュマルの古木)さらに、キジムナーは人間と敵対することはほとんどありませんが、住処の古木を切ったり虐げたりすると、家畜を全滅させたり海で船を沈めて溺死させるなど、ひとたび恨みを買えば徹底的に祟られると伝えられます。赤土を赤飯に見せかけて食べさせる、木の洞など到底入り込めないような狭い場所に人間を閉じ込める、寝ている人を押さえつける、夜道で灯りを奪うなどの悪戯を働くとも言われます。キジムナーは出入りが自在でどんな小さい隙までも出入りが可能とされる妖怪です。(シヌグ堂の石柱)ガジュマルの頭上からは常に「トンットンッ」「コンッコンッ」「カンッカンッ」と何かを叩く乾いた音が鳴り響いていました。もしかしたらキジムナーが挨拶をしていたのかもしれません。そんな幻想を抱かせる崇高な「東の御嶽(シヌグ堂)」は琉球三国時代の歴史的な故事、漁業で生きる集落に伝わる海のシケを願う不思議な祭り、精霊のキジムナーが宿る神秘的なガジュマル、それら全てを継承し続ける浜比嘉島浜集落の人々に大切に守られている聖域なのです。
2021.01.05
コメント(0)
(スクブ御嶽)沖縄市登川の閑静な住宅地に「すくぶ公園」があり、敷地のど真ん中には「スクブ御嶽」の神山がどっしりと構えています。沖縄の公園で御嶽があるのは珍しく、公園敷地の大半を御嶽が占めている神秘的な空間に包まれています。(スクブ御嶽の石碑)赤い鳥居の左側には「スクブ御嶽」と記された石碑があります。石碑の奥には御嶽のガー(井戸)が祀られており石造りのウコール(香炉)が設置されています。スクブ御嶽のスクブとは稲の籾殻の事で、沖縄市には「三人の力持ち」という有名な琉球民話があります。(鳥居脇のウコール)昔、池原にウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーという三人の力持ちがいたそうです。三人はいつもスクブ御嶽に手を合わせて「催眠術を教えて下さい」とお祈りしてから武術の稽古をしていたので、たいそうな力持ちになり三人に勝つ者は誰もいなかったそうです。三人は稲を刈ってきたら、それをお椀に入れてつつき、食べた後の籾殻が山のように積まれたことから「スクブ御嶽」という名前が付いたそうです。(スクブ御嶽の階段)鳥居を潜り階段を登って行くと奥には拝所が見えてきます。ここから一直線に天空に延びる階段を一段一段上がるにつれて、御嶽周辺の登川地区と池原地区を見渡せる素晴らしい風景に変わって行きます。(お通し拝所のウコール)鍵がかけられた鉄格子の中には3つの石造りのウコールと琉球石灰岩で作られた古いウコールが1つ設置されていました。私は拝所にひざまづき手を合わせ、自己紹介とスクブ御嶽に訪れた理由を告げて沖縄の平和を祈りました。(拝所脇の出入口)拝所の右にも鉄格子があり、半開きながらも私を奥地へと誘い込む雰囲気を醸し出していました。私は拝所にこの先に進み見学する旨を告げて一礼し、暗闇に不気味に続く縦に細長い入り口に足を踏み入れたのです。後日、登川地区に住む方から話を聞いたのですが、この扉が開いている事は滅多になく、正月やお盆など特別な時のみ解放されるそうです。(スクブ御嶽の丘陵)扉を抜けるとそこは整備されていない亜熱帯ジャングルになっており、ここからは完全に神の聖域で非常に強いパワーが張り詰めた空気に一変しました。ガジュマル、シダ植物、多種にわたる亜熱帯植物をかき分けつつ、猛毒のハブに気を付けながら足場の悪い道なき道を少しずつ少しずつ進み続けます。(スクブ御嶽)辿り着いた場所は「スクブ御嶽」のウガンジュで、ウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーの三基の石造りウコールが設置されていました。御嶽の右手前にはマース(琉球粗塩)が三つ盛られるのを確認できます。私はスクブ御嶽にウートートー(拝み)して沖縄の平和を祈りました。(お供えの沖縄粗塩)どうやら先程通過した拝所は「スクブ御嶽」のヒヌカンと考えられ、御嶽本体へのお通しの役割があると思われます。ハブがいつ出ても不思議でない無整備の亜熱帯ジャングルは足場が非常に悪く、御嶽を訪れる方々がもし足が悪かったり歳を取られていた場合、手前のお通しの拝所で祈る事が出来るのです。(御先御殿/殿内)再び入り口の赤い鳥居に戻り公園を時計回りに散策すると、山の麓の右手に「御先 御殿 殿内」と記された拝所を発見し、拝所に続く階段を登り鉄格子のある場所を目指します。(御先御殿/殿内の内部)そこには足元に大小多数の石と一つのウコールがあり、格子内部には四つのウコールが設置されていました。さらに左奥に白装束を着た白い髭の神様の絵画、中央奥には観音様の像、右奥に子供を膝に座らせて抱き抱える観音様の像が祀られていました。(御先御殿/殿内の石碑)拝所の右側を進むと石碑が建てられており「子(ネ)ぬは午(ウマ)ぬは卯(ウ)めは西(トイ)め 四チン中軸(ナカジク)や池原と登川 登川ぬ村ぬ湖金軸拝(クカニジクウガ)で 池原ぬ村ぬ波座軸(ナンザジク) 拝(ウガ)で世々といちまでん 幸(シアワ)せぬ御願(ウニゲ)」と記されています。(ウガミン登/金満宮の石碑)石碑の右奥には「ウガミン登 金満宮」と記されたもう一つの石碑と四つの石造りウコールが設置されていました。石碑には霊石が祀られています。かつて、この地に「ウガミン登 金満宮」があったと考えられます。(スクブ御嶽麓の拝所)さらに左奥に登る坂道を進むと鍾乳石の下に黒く丸い筒状の石物があり、その横にはヒヌカンのウコールが無造作に置かれていたのです。中央の黒い筒状の物体は御嶽公園入り口にある井戸跡と同じ素材と形状をしていました。これは鍾乳石から湧き出たカー(井泉)があった場所だと考えられます。(すくぶ公園の竣工記念碑)スクブ公園の北西には竣功記念碑が建てられていてスクブ御嶽の歴史が記されていました。第二次世界大戦後、登川地区はキャンプ ヘーグ(Camp Hague)と呼ばれる米軍海兵隊の基地がありました。1977年5月14日に沖縄に全面返還されましたが、それまでは基地内で小型核兵器の訓練などが行われていたのです。訓練中に兵士数人が事故で被ばくし、通常の80倍以上の濃度の内部被ばくが確認された事が報告されています。(すくぶ公園)沖縄市登川地区で生まれ育った知り合いの話では、米軍統治下のスクブ御嶽の山を海兵隊が崩そうとすると、必ず重機が倒れる原因不明の事故が連続し、海兵隊員が3名死亡したと言われています。更に、沖縄返還後に民間の工事業者がスクブ御嶽の区間整備をしていたところ、重機が突然ひっくり返る大事故が起きたとも言われています。また、スクブ御嶽周辺の住宅やアパートでは心霊現象がかなり多く、御嶽の神山に謎の青い発光体が出現する目撃情報も多数耳にします。(スクブ御嶽のウコール)これらの不可解な出来事は琉球民話に登場するウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーの「三人の力持ち」がスクブ御嶽を守護している証なのか。それとも祀られた石の神様の祟りなのか。いずれにせよ、御嶽に訪れた私自身が奇妙な力により惨事に巻き込まれなかった事に感謝したいと思います。
2021.01.04
コメント(0)
(ノロ墓)沖縄県うるま市に「神の島」と呼ばれる「浜比嘉(はまひが)島」があります。約2キロ平方メートルの小さな島には琉球開闢の祖アマミチュー(アマミキヨ)とシルミチュー(シネリキヨ)の夫婦神が暮らしたと伝わる鍾乳洞窟、アマミチューの墓、小高い丘のグスク、更に30ヶ所を超える御嶽や拝所が点在します。勝連半島から海中道路を利用して「平安座島」から浜比嘉大橋を渡ると「浜比嘉島」に到着します。「浜比嘉島」の入口のT字路を右に進むと「浜集落」、左に進むと「比嘉集落」があります。「比嘉集落」に向かう海沿いの道を進み「アマミチューの墓」の小島の手前に「ノロ墓」の標柱が立っているのが確認出来ます。(ノロ墓の入り口)(ノロ墓入り口の厨子甕)(ノロ墓の鳥居)この神秘的な「浜比嘉島」の「比嘉集落」には代々の「比嘉ノロ」が葬られた古墓があります。「ノロ(祝女)」とは沖縄本島や奄美群島の公的司祭者としての神女の事で、一つの集落ないし数集落の祭祀組織を統率していました。ノロの語源は「祈る、祈る人、神の意思を述べる人」などの意味で9世紀頃から人々の生活と共に存在していました。琉球石灰岩の石段を登ると鳥居が現れ、その先に「ノロ墓」が佇んでいます。この「ノロ墓」の周辺にはガジュマル、ソテツ、亜熱帯植物が生い茂り、木漏れ日が神秘的な雰囲気を醸し出しています。「ノロ墓」の入り口には遺骨を収納する厨子甕が置かれており、琉球石灰岩の岩門を通り抜けて石段を登ると「ノロ墓」の鳥居が現れます。(ノロ墓)(ノロ墓の斜め上にある古墓)(ノロ墓の崖下にある古墓)鳥居をくぐり更に急な石段を登ると正面に「ノロ墓」が佇んでおりウコール(香炉)が祀られています。「浜比嘉島」の「比嘉集落」の祭祀を司った歴代「比嘉ノロ」の御霊が眠る古墓は、珊瑚が隆起した琉球石灰岩の急斜面の中腹に位置します。「ノロ墓」に向かって左斜め上の斜面には自然ガマを利用した古墓があり、入り口はブロックが積まれて塞がれています。かつて風葬に使われたガマであると考えらます。更に「ノロ墓」に向かって右下側の崖下にも古墓があり、ガマの入り口はブロックで塞がれてウコール(香炉)が設置されています。この古墓の前方に蓋の無い古い厨子甕が置かれています。(按司の墓のガマ)(ガマ入り口の石棺)(ガマ内部)「ノロ墓」に向かって斜め右上に進む石段があり進むと崖の中腹に大きく空いたガマ(鍾乳洞)があり、鍾乳洞の入り口から差し込む太陽光が洞窟の奥を神秘的に照らしています。ガマ入り口には幾つもの霊石が祀られた「按司(あじ)の墓」の石棺が鎮座しており蓋の破損が確認出来ます。これは南側に隣接する「比嘉グスク」按司の石棺であると考えられます。「按司」とは琉球諸島にかつて存在した階位を意味し、琉球王国が設立される以前はグスク(城)を拠点とする地方豪族の称号として使われました。王制が整った後は王族のうち「按司」は王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)が就任しました。琉球国王家の分家が「按司家」と呼ばれるようになり、更に王妃、未婚王女、王子妃等の称号にも「按司」が用いられました。(ガマ内部の拝所)(ガマ内部の拝所)(ガマ内部の拝所)ガマ内部を進むと右側に拝所が確認されて幾つもの霊石が祀られています。そこから奥に進むと左側に6体の石柱と霊石が祀られて粗塩が盛られています。鍾乳洞の自然石を利用した6体の石柱が何を表しているのか不明ですが、沖縄の歴史で欠かす事が出来ない「御先の世・中の世・今の世」の3つの世と、沖縄を創造する「天・地・海」の3つの要素を意味していると考えられます。更にガマの奥に進むと大人が1人通れる穴が2つ空いており、その場所には石柱とウコール(香炉)が祀られてる拝所となっています。この地点まではガマの入り口からの太陽光が届きますが、この先のガマは右奥に進む為、光が途絶えて完全に暗闇に包まれます。(ガマ奥地の拝所)(ガマ奥地の拝所)(ガマ奥地の拝所)そのまま大人が1人通れる程の穴をくぐり、太陽光が届かない暗黒のガマ奥地を進むと、右側に数個の霊石が祀られた拝所があります。この拝所の背後には鍾乳石の石柱を中心に霊石が祀られています。更にガマの奥地には幾つもの霊石が祀られている拝所となっています。この先もガマは続いていますが人が入れない狭さになり、実際にガマがどこまで続いているのかは不明です。このガマは「按司の墓」と呼ばれていますが、ガマ内部に祀られる幾つもの拝所はノロが拝する聖域とも、ユタが修行する霊域とも言われています。うるま市のカミンチュ(神人)もこのガマを拝むとも聞いた事があり、神の島「浜比嘉」のこのガマは神秘的な雰囲気を醸し出しています。(ガマ内部から見た入り口)(ガマの鍾乳石)(ガマから眺望するアマミチューの墓)ガマ、拝所、御嶽などの聖地には呼ばれる人が選ばれていると言います。このガマは順序を経て拝する必要があると私は考えます。ます「ノロ墓」の崖下に湧き出る「ハマガー」の聖水で身を清め、次に「ノロ墓」を拝します。葬られるノロに「按司のガマ」への立ち入りを許可された者のみ、本来ガマに迎えられます。ガマの奥地は非常に心地良い雰囲気に包まれており、瞑想をして魂を浄化する最高の聖地でした。ガマの出口からは神様により計算し尽くされたかの様に「アマミチューの墓」がある岩の小島が眺望できます。「ノロ墓」「按司の墓のガマ」「アマミチューの墓」の地理的バランスは、琉球の開祖である神様のみが創造できる仕業であり「浜比嘉島」が「神の島」だと呼ばれる紛れもない所以の一つなのです。
2021.01.01
コメント(0)
(インジングシクのガジュマル)沖縄市の中央部で米軍嘉手納基地に隣接する「八重島地区」に八重島公園があり、敷地内には珊瑚が隆起して形成された琉球石灰岩の山城があります。ガジュマル、ソテツ、他にも多種に渡る亜熱帯植物に覆われた「インジングシク」は奇妙な力を醸し出す謎が多い城跡となっており、多くの都市伝説も生まれています。(インジングシク麓の拝所)(グスク山頂に登る石段)週末には沢山の子供連れの家族が集まる大型遊具が多数ある広場の直ぐ脇に、突如ウガンジュ(拝所)が現れます。石碑には「天帯子(テンタイシ)の結(ムス)び 八重島真鶴繁座那志(ヤエジママツルハンザナシ) 中が世うみない母親」と記されています。ウガンジュの横にはグスクの頂上に伸びる琉球石灰岩で造られた石段が続いています。麓の石碑の拝所は訪れる者をお通しするヒヌカン(火の神)の役割を持っていると考えられます。(インジングシク中腹の拝所)(拝所のビジュル霊石)亜熱帯植物のジャングルを真っ直ぐに切り裂く様な60段の石段を登ると、ゴツゴツとした琉球石灰岩の大岩の横に屋根付きの石造り建物がひっそりと佇んでいます。建物の中はウガンジュになっており御供物と共に霊石が祀られていました。ビジュルの拝所として「インジングシク」の構造である琉球石灰岩の堅固な地盤とグスク全体を司る守護神だと思われます。(拝所正面の石碑)(グスク頂上の展望台)石造りのウガンジュの正面のガジュマルの下にはもう一つの拝所があります。「天帯子御世(テンタイシウユウ) 八重島金満大主(ヤエジマカニマンウフヌシ) 中が世酉(トリ)のみふし)」と石碑に彫られています。石碑にはウコール(香炉)が設置されており、地域住民に拝まれています。拝所の祠と石碑がある場所の脇にはグスクの頂上に登る展望台に通じる階段がありました。(うるま市石川方面)(中城湾方面)ゴツゴツした琉球石灰岩の大岩を螺旋状に回り登ると素晴らしい絶景が現れたのです。「インジングシク」の頂上からうるま市石川方面を見渡すと、沖縄市北部、石川岳、うるま市石川の市街地、金武港、その先の金武岬まで眺める事が出来ます。また、沖縄市の西部、うるま市南部の市街地、中城湾、その先の勝連半島や勝連城跡、さらに先に連なる宮城島まで絶景が広がっています。(グスク麓のガマ)「インジングシク」の山城の麓に鍾乳洞(ガマ)があり、直径30センチに開いた入り口はそのまま地下深くの暗闇に続いています。このガマには遠い過去に人々に拝まれていた痕跡があり、琉球石灰岩造りの香炉台や一段上がる拝場の跡が確認されます。鍾乳洞(ガマ)は沖縄では昔から信仰や崇拝の対象とされており、神が宿り神に通じる聖域として崇められてきたのです。(八重島神社)(字久田井/差田井)八重島公園の「インジングシク」の北東に「八重島神社」があり殿内に安室家の香炉、嘉陽家の香炉、ビジュル霊石と香炉が設置された火ヌ神が祀られています。敷地内に「字久田井」と「差田井」の霊石と井戸が祀られた祠があります。字久田集落と佐田集落は現在、米軍嘉手納基地の滑走路になっており、沖縄戦で土地を奪われた両集落の住民が八重山地区に移住させられたのです。両集落の水の神をここに祀った拝所と考えられます。(八重島貝塚)(ヤシマガー)「八重島貝塚」は八重島公園に隣接する沖縄市民会館から東に約250mのところにある3500年~2500年前の古い貝塚です。この貝塚からは石器、貝殻、獣骨などが出土しています。現在も湧き出る井泉の「ヤシマガー」を石炭岩崖下にはさみ、貝塚の典型的な立地条件を備えています。「八重島貝塚」周辺は古代の人々が生活するのに非常に適した環境が整っていたと言えます。(八重島公園の東側入り口)八重島公園内にも墓が多数あり、公園沿いには非常に広範囲に渡る「中央霊園」も存在します。かつて八重島地区には多数の無縁墓が点在し、大規模な火葬場もありました。火葬場で焼かれて出た大量の遺灰は八重島地区の端に流れる比謝川に流されたと言われています。そのため、比謝川周辺は心霊スポットとして知られ、多数の幽霊の目撃情報があります。(八重島高層住宅)八重島地区の心霊スポットとして最も有名な場所が「インジングシク」がある八重島公園のすぐ北側の集合墓地の近くに建つ「八重島高層住宅」です。無縁墓地を壊して建てられた住宅で、特に4階以上の階に住む住民の多くが心霊現象を体験し、住宅は常に入居と退去を繰り返し部屋が埋まる事は決して無いと言われます。(インジングシクの森)謎が多く未だに全容が解明されていない「インジングシク」は八重島公園の敷地内にありますが、八重島地区全体が琉球墓群に覆い尽くされている独特な雰囲気がある地域です。神が宿るパワースポットである「インジングシク」と、琉球墓群の霊魂が漂う心霊スポットが絶妙なバランスで混ざり合う謎多き八重島地区は今日も静かに佇み、何も語らず来訪者を見つめているのです。
2020.12.31
コメント(0)
(安慶名城跡/安慶名闘牛場)「安慶名城跡」はうるま市の中心部の「安慶名集落」にある城跡です。15世紀の琉球三山時代から16世紀にかけて同城を拠点に沖縄本島中部一帯を三代にわたり支配した安慶名大川按司の拠点として知られ、1972年5月15日に国の史跡に指定されました。県道8号線沿いに広がる「安慶名中央公園」の中に「安慶名城跡」を始め、安慶名闘牛場や遊具などが整備された緑豊かな憩いの場として地域住民に親しまれています。(安慶名城跡入り口)(安慶名城跡の中腹)「安慶名集落」に流れる天願川の周辺に隆起した珊瑚石灰岩の岩塊の断崖と傾斜を利用した山城で、天然の岩と岩との間に石垣や城門を構えています。「安慶名グスク」の特徴は緑豊かな自然と岩塊とを最大限に活用した堅固な城である事です。城の構造は外側と内側に二重の石垣を巡らす様式で、沖縄に現存する唯一の輪郭式グスクです。城の北に水源が豊富な天願川が流れていて、その別名が「大川」であったことから安慶名城は「大川城」という別名でも知られています。(安慶名大川按司の墓)(安慶名グスクの城門)琉球石灰岩で創られた石段を登って行くとグスクの中腹に「安慶名大川按司の墓」が現れます。鍾乳洞に石垣が積まれた墓には歴代城主であった安慶名大川按司一世から三世の三代の魂が安らかに眠っているのです。さらに石段を登り進めると安慶名城の外郭と内郭を繋ぐ「城門」に辿り着きます。城門は自然の大岩をくり抜き、側面には切石を平らに積み上げた壁が施されています。この城の主郭へと続くトンネルには神秘的な力が宿り、訪れる者を城の内部へと誘ってくれるのです。(安慶名宇志仁大主の石碑)「安慶名グスク」内郭東側の城門近くにはウガンジュ(拝所)があります。ニービ石造りの古い石碑には「天帯子御世(テンタイシウユウ) 安慶名宇志仁大主(アゲナウシジンウフヌシ) 中が世丑(ウシ)のみふし」と記載されています。つまり「天帯子」の琉球三山時代に「安慶名宇志仁大主」の石碑が「丑のみふし」により建立され祀られた事を示しています。石碑には幾つもの霊石が供えられ崇められています。(具志久美登繁座那志の石碑)内郭西側の城門の岩の上にあたる山の頂上付近にあるウガンジュです。石碑には「天帯子(テンタイシ)の結(ムス)び 具志久美登繁座那志(グシクミトウハンザナシ) 中が世うみない母親」と彫られています。「天帯子」の琉球三山時代に「具志久美登繁座那志」の神様を祀る石碑が「うみない母親」により建立された事を意味しています。ニービ石造りの石碑に石造りのウコール(香炉)が設けられ、そこに霊石と陶器のウコールが祀られています。(大兼久眞澄繁座那志の石碑)これは城の外郭東側にあるウガンジュ(拝所)です。石碑には「天正子(テンシヨウシ)の結(ムス)び 大兼久眞澄繁座那志(ウフガニクマスミハンザナシ) 中が世うみない母親」と記載されています。「天正子」の時代に「大兼久眞澄繁座那志」の神を祀る石碑が「うみない母親」により建立された事を示しています。この石碑にも石造りウコール(香炉)が設置されており、そこに陶器のウコールと霊石が祀られていました。(安慶名グスクの外郭)(外郭の先にあるガマ)「大兼久眞澄繁座那志」の拝所の先には城の外郭が続いており、外郭の上を歩いて進めるようになっています。外郭の行き止まりは小さなガマ(鍾乳洞)になっていて、外郭へ城の外部からの侵入を守る為の拝所である可能性もあります。沖縄の城の多くが直線上に郭が連なり奥に主郭がある連郭式と呼ばれる様式である中、岩山に築かれた「安慶名グスク」は中心部に主郭を置き、それを取り囲むように中腹に郭を巡らした沖縄県内では非常に珍しい輪郭式と呼ばれる様式を取っています。「安慶名城跡」にはガジュマル、ソテツ、亜熱帯の草木が生い茂っていて豊かな自然に覆われています。かつて「安慶名グスク」の丘陵から湧き出た井泉の恵みにより集落が形成され、そこに文化が生まれて先人の暮らしが継承されて来ました。古代琉球の三山(北山、中山、南山)時代から変わる事なくうるま市の「安慶名集落」を見守る古城は、周辺地域の守り神であり神聖なパワースポットでもあるのです。
2020.12.27
コメント(0)
(鬼大城の墓)鬼大城(うにうふぐしく)の名前で知られる越来賢雄(ごえくけんゆう)は15世紀の琉球王国の時代に活躍した武将です。越来賢雄という名前は鬼大城が越来間切の総地頭となって以降の名称であり、それ以前は大城賢雄(うふぐしくけんゆう)でした。鬼大城は並みはずれた体格で武勇に優れ、狼虎の如しと例えられた事で人は彼を「鬼大城」と呼んだのです。(鬼大城の墓への階段)沖縄市知花にある知花城跡に鬼大城の墓があり、市指定の文化財に登録されています。鬼大城の墓はこの63段の階段を登った城山の中腹にひっそりと佇んでいます。鬼大城の墓は県道329号沿いにあり、珊瑚が隆起した琉球石灰岩の山城である知花城跡は周辺地域でも一際目立つ存在感を持っているのです。(鬼大城の墓)鬼大城は尚泰久が王位を継ぐと共に首里へと登り、王女の百度踏揚が阿麻和利(あまわり)に嫁ぐに当ってその従者となりました。阿麻和利が王に謀反を企ている事を知った鬼大城は軍を率いて阿摩和利が城主である勝連城を包囲したのですが、城は非常に堅固で困難をきわめたのです。鬼大城は知恵を絞り、自ら女装して城に忍び込み油断した阿麻和利の討伐に成功しました。(知花グスクの中腹)鬼大城はこの功績のお陰で越来間切(沖縄市越来地区)の総地頭職を授けられ、越来親方賢雄と名乗り百度踏揚を妻としました。後に内間金丸(尚円王)のクーデターで第一尚氏が攻め滅ぼされると、忠臣であった鬼大城も攻め込まれ、最期は知花城の中腹にある洞窟で火攻めの末に殺されてしまったのです。(黒く焦げた墓口)鬼大城が火攻めで討ち死にした鍾乳洞の洞窟がそのまま墓になり現在に至ります。鬼大城の墓の左側全体が異常に丸焦げになっています。これが火攻めで殺された跡なのか?それとも沖縄戦での米軍による火炎放射の跡なのか?いずれにせよ、鬼大城の墓は生々しく凄まじい姿を訪れる者に見せるのです。(鬼大城の墓前)私は鬼大城の墓に手を合わせて、鬼大城が王に示した強い忠誠心に敬意を払いつつ、同時に沖縄の平和を祈りました。ふと気付くと墓にお供え物をする石台の鉄製の水を入れる容器が2組無様に倒れている事に気付き、私は容器を石台に立てて戻しました。すると石台から2〜3センチの黒い玉が突然現れ、10センチ程までに急成長しながら私の頭上を物凄いスピードで飛んで行ったのです。(鬼大城の墓の案内板)結局その黒い玉が何だったのか今でも説明が付きませんし、科学的に解明できる物とも到底考えられません。鬼大城からの何かのメッセージなのか?鬼大城の墓から発した霊妙なパワーなのか?鬼大城が火攻めで殺された鍾乳洞の真上には古いガジュマルの木があり、ガジュマルにも神が宿ると言われています。悲劇の琉球武将である鬼大城の墓は奇妙な雰囲気と共に、琉球の長い歴史を体感できる神秘的なパワースポットなのです。
2020.12.25
コメント(0)
(伊波城跡の鳥居)「伊波集落」の中心部にそびえる「伊波城跡」は標高87mの丘陵に位置する山城で、沖縄本島うるま市石川の市街を北東に見渡しています。琉球石灰岩の上に築かれ、城壁は自然の地形を巧妙に利用しながら自然石を殆ど加工せずに積上げていく野面積み技法で作られており、城の北側には石灰岩の断崖を備えています。(鳥居前の石柱)1989年の発掘調査では城内の地表下50cmから無数の柱穴跡が発見され、掘立柱建物の存在が確認されています。文化的価値が非常に高い琉球産や外国産の土器、中国産の青磁や白磁、三彩陶器、褐釉陶器、染付、南島産の須恵器なども出土しており、当時の伊波按司の勢力が大きなものであったことを示しているのです。(中森城之嶽)鳥居を潜り階段を上がると予想以上に広い空間に足を踏み入れます。ちょうど正面のひときわ目立つガジュマルの木の下に「中森城之嶽」(ナカムイグスクのタキ)があります。「中森城之嶽」は伊波城の神様である火の神(ヒヌカン)の役割があり、ビジュル石とウコール(香炉)が祀られています。城を災難から守り城主と家族の健康を守る非常に重要な御嶽です。(森城之嶺)「中森城之嶽」から少し離れた場所には「森城之嶽」(ムイグスクのタキ)があり、この先にはもう一つの伊波城跡入り口があります。「中森城之嶽」が城のお通しの御嶽であるヒヌカン(火の神)の役割を果たしている為、この「森城之嶽」に近い入り口は伊波グスクの裏門に当たると考えられます。こちらの御嶽にもビジュル石とウコールが設置され集落の住民に拝まれています。(城跡頂上へ向かう道)「森城之嶽」の左側には伊波城跡の頂上へ向かう道が続いています。ゴツゴツとした琉球石灰岩の地質にはガジュマル、ソテツ、クワズイモなどの樹齢の古い亜熱帯植物が生い茂り、琉球王国時代よりも更に古の昔から変わらぬ豊かな自然な風景を保ち続けています。(三ツ森城之嶽)伊波城跡の頂上に辿り着くと「三ツ森城之嶽」(ミーチムイグスクのタキ)が姿を見せました。この御嶽は「ウフアガリヘの遙拝所」と呼ばれており、天地海を祀るビジュルの霊石が設置されています。ウフアガリ(大東)は琉球語で「遥か東」を意味します。つまり、太陽が上がる東の海に理想郷であるニライカナイの神様を崇めて祈りを捧げていたのです。(城跡頂上からの景色)伊波城跡の調査では13世紀後半から15世紀に当時の人々が食べ残した貝殻、魚、猪の骨なども出土しています。また、貝塚時代の土器も多数出土しており約2800年前の貝塚が伊波城を含めた丘陵全体にあったことがうかがわれます。そのため、伊波城周辺の地域が伊波按司による築城よりも遥か前の古代から人々の重要な居住地であった歴史とロマンを示しています。(伊波ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(神アシャギ/神アサギ)伊波城跡入り口の手前に琉球赤瓦屋根のノロ殿内があり「ヌール屋」と「神アシャギ」が並んで建てられています。「ヌール屋」と呼ばれるヌンドゥンチはヒヌカン(火の神)が祀られており、かつてこの場所でノロ達がノログムイ(共同生活)をしていたと伝わります。向かって左側に隣接する「神アシャギ」では、集落においてノロが神を招き入れて祭祀を行なっていました。(伊波火ヌ神の敷地)(伊波火ヌ神)伊波城跡から南東側に「伊波火ヌ神」があります。伊波の守護神として崇められており「ジーチ火ヌ神」とも呼ばれています。この火ヌ神と伊波メンサー織作業所がある場所との間が伊波集落の入り口と言われていて、旧暦4月15日に火ヌ神と入り口はアブシバレー(農作物の害虫駆除儀式)で拝まれています。また、旧暦7月16日には祭祀行事として旗頭と獅子舞の演舞が奉納されます。(ビンジリの拝所)(ビンジリの祠)「ビンジリ」は伊波按司の子孫と伝えられる仲門(なかじょう)家の屋敷から東北側に位置する拝所です。石積み造りの祠の中に高さ30センチほどの丸い霊石が祀られています。この祠の前には「山城仁屋から道光23年(1843年)に供えられた」と記されています。伊波集落の旧暦4月15日のアブシバレー、旧暦10月20日の苗種御願(メダニウガン)、旧暦12月24日の解き御願(フトゥチウガン)などの行事で参拝されています。(伊波仲門)「伊波仲門」は伊波按司の子孫とされる門中(ムンチュー)です。「南島風土記」には伊波按司が首里に引き上げた後も、この門中が伊波親雲上仲賢の名で伊波集落の地頭職を勤めたとされています。仲門の始祖は伊波城内から居住を城の外に移した5代目伊波按司の子孫であると考えられています。屋敷の仏壇には按司神とウミナイビ(王女)神のウコール(香炉)の他にも、按司時代に稲の穂を運んだという伝説が残る鶴の香炉も祀られています。(門口ガー)「伊波門中」の屋敷の東門に井泉が湧いており「門口ガー」と呼ばれています。代々の伊波門中が利用してきた井戸で神水として崇められています。井泉からは樹齢の長い立派なガジュマルが育っており、集落の住民から神が宿る聖地として拝まれています。伊波集落の北部には伊波貝塚があり集落の歴史の長さが伺え、伊波集落発祥を知る手掛かりに繋がります。伊波城にある御嶽に祈りを捧げる信仰心の強い住民により、古の集落文化が現在に大切に継承され続けているのです。
2020.12.22
コメント(0)
(伊波ヌール墓)沖縄本島うるま市石川伊波に「伊波ヌール墓」があります。ヌールとは沖縄のノロの事で琉球神道における女性の祭司、又は神官を指します。地域の祭祀を取りしきり御嶽の祭祀を司る重要な役割を果たしていました。琉球王国の祭政一致による宗教支配の手段として、古琉球由来の信仰を元に任命されて王国各地に配置されました。「伊波ヌール墓」は歴代の伊波ノロの遺骨が納められた聖域として崇められています。(伊波ヌール墓の標識)「伊波ヌール墓」が位置する石川伊波地区は当初1990年に石川バイパス工事の開発地区に予定されていましたが、伊波ヌール墓や周辺の貴重な文化財を保護する案が浮上したのです。伊波ヌール墓のある山の地質は千枚岩と堆積した琉球石灰岩であり、トンネルを通す地質条件に適していませんでした。しかし、うるま市のみならず沖縄県の歴史的価値の高い文化遺産を残す目的で、急遽バイパスは「伊波ヌール墓」の真下を通関する「石川トンネル」の整備に変更されたのです。(伊波ヌール墓へ降りる石段)琉球王国時代に伊波、嘉手苅、山城、石川の各集落の年中祭祀を正式に司っていた歴代のノロ(伊波ヌール)の遺骨が墓に納められています。沖縄の「ノロ」や「ユタ」は神がかりなどの状態で神霊や死霊など超自然的存在と直接に接触や交流し、この課程で霊的能力を得て託宣、卜占、病気治療などを行う呪術や宗教的職能者を指します。「ノロ」は主にニライカナイの神々やその地域の守護神と交信するのに対し「ユタ」はいわゆる霊、神霊、死霊と交信します。(伊波ヌール墓がある崖下)「伊波ヌール墓」は崖下の鍾乳洞を利用した掘り込み式です。墓室内にはサンゴ石灰岩製蔵骨器11基と陶製蔵骨器4基の計15基が安置されています。ほとんどの蔵骨器に2体分の遺骨が納められています。現在でもウマチー(収穫祭)や清明祭の時に参拝の人たちが訪れるなど地域的信仰の対象となっています。1994年には貴重な文化財として市の指定を受け、地元住民の重要なウガンジュ(拝所)として大切に保護継承され続けています。(伊波ヌールガーに生える大木)(伊波ヌールガー)「伊波ヌールガー」と呼ばれる井泉が「伊波ヌール墓」の南西にあります。伊波ヌールが祭祀を行う際に利用した水源で、聖なる神水として崇められた聖域でした。「伊波ヌールガー」にはウコール(香炉)が設けられ、井泉の脇から大木が力強く育っています。この大木は「伊波ヌールガー」周辺で極めて目立つシンボルとなっており、聖なる神水で成長した木の枝が天に向かって伸びている神秘的な光景となっています。(伊波按司の墓/伊覇按司之墓)(伊波中門祖宗之墓)「伊覇按司之墓」は伊波グスクを築いた按司の墓で、旧具志川と旧石川を結ぶ国道329号(石川バイパス)が通る石川山城地区にあります。伊波グスクから南に1キロほど離れた場所にある墓は天然の要害を利用して築かれ、野面積みの石垣が現在も残っています。伊波仲門門中(なかじょうムンチュー)が管理しており、同門中の始祖(伊波按司)が祀られています。向かって左側には「伊波中門祖宗之墓」が隣接しており、現在も子孫等の多くの参拝者が訪れて拝んでいます。(数明親雲上の墓の入り口)(数明親雲上の墓)「伊波集落」の中央に「数明親雲上(スミョウペーチン)の墓」があります。数明親雲上は伊波集落の生まれで第二尚氏第4代「尚清王(在位1527〜1555年)」に神歌主取として仕えていました。尚清王が久高島からの帰途に嵐に見舞われた際、船の舳先に立ち神歌(おもろ)を謡い風波を鎮め無事に帰港したと伝わります。この墓は伊波原に所在する古墓で地元では「屋嘉墓」とも呼ばれています。(尚泰久王墳墓跡)第一尚氏第6代「尚泰久王(在位1454〜1460年)」の墓跡と伝えられています。伝承によると、第一尚氏第7代「尚徳王(在位1461〜1469年)」の亡き後、第二尚氏の「尚円王(在位1470〜1476年)」に政権が代わった際、首里の天山陵に祀られていた尚泰久王の遺骨が密かに移葬されたと言われています。それを隠すためか、この墓は「クンチャー墓(乞食墓)」と呼ばれていたそうです。(ウミナイ墓)「ウミナイ墓」は「尚泰久王墳墓跡」の右側に隣接し、尚泰久王の母親もしくは乳母が祀られた墓だと伝えられています。1982年に発掘調査が行われ、墓の中に石灰岩製の石厨子が3基あり、中央に位置する大型の石棺からは風化の進んだ人骨、鳩目銭2枚、猪の第3臼歯が発見されました。毎年、清明祭には伊波仲門門中、大屋門中、尚泰久王に縁のある人々が多く訪れ拝まれています。(伊波ウブガー/東側入り口)(伊波ウブガー/西側入り口)「伊波ヌール墓」の南側に「伊波ウブガー(産川)」があり、東西を繋ぐ地下トンネル内に現存しています。伊波集落で最も古い井泉とされる「伊波ウブガー」は生活用水、産湯、正月の若水、病気の際のミジナディ、死者の清め水、霊水として使用されていました。石川バイパス整備の際に地下横断路を作り、場所、位置、形を変えず昔のままの姿で残っています。「伊波ヌール墓」もバイパス整備で「石川トンネル」を掘る事で守られたように、歴史ある先人からの遺跡文化財を大切に守り継承する素晴らしい郷土愛が「伊波集落」には強く根付いているのです。
2020.12.21
コメント(0)
(ジャネー洞)沖縄本島うるま市与那城屋慶名に「藪地島」という小さな無人島があります。勝連半島の東部に位置し沖縄本島とは藪地大橋で結ばれています。島の入り口は一つだけでサトウキビ畑の真ん中に伸びる道は舗装されておらず、車一台がやっとギリギリ通れる砂利道が一本のみ無人島を横断しています。(藪地島の野良猫)凸凹の砂利道を砂埃を巻き上げながらゆっくり進むと行き止まりの森に突き当たります。そこに車を停めると森の守り神の白黒ハチワレ猫が出迎えてくれます。守り猫に挨拶をしてから森に入ると亜熱帯の植物が不気味に生い茂り、その奥地にひっそりと同時に力強く「ジャネー洞」が姿を表します。(ジャネー洞の森)「ジャネー洞」は6,000〜7,000年前(縄文時代)と推測される沖縄最古の土器が発見された住居跡です。発見された土器は藪地島特有の形状である事から「ヤブチ式土器」と名付けられました。ジャネー洞はヤブチ洞窟遺跡とも呼ばれ、地元の住民から祖先発祥の地として信仰を集めています。(鍾乳洞の拝所)「ジャネー洞」の鍾乳洞の入り口はウガンジュ(拝所)になっており地元住民や沖縄のカミンチュ(神人)まで皆が祈りを捧げるスピリチュアルな聖域となっています。花やお供え物と共に琉球香炉のウコールが設置されていて、つい先程までこの場で祈りを捧げた方が水かけをした跡が残っていました。(鍾乳洞の入り口)鍾乳洞は石灰岩が地表水や地下水などによってひたすら長い年月にわたり少しずつ侵食されて出来る大自然の芸術です。無人島の藪地島全体がパワースポットであり「ジャネー洞」は地元住民の聖地として大切にされています。訪れる際には礼節を持って島の神様に敬意を払い無垢な心を保ちたいものです。(ジャネー洞の拝所)私はウガンジュにひざまづき沖縄の平和を祈り、沖縄の悠久の歴史に直接触れる事の喜びを噛み締めました。祈る人それぞれに、それぞれの想いが込められます。「ジャネー洞」はその長い歴史の中で常に人々と共に存在し続け、数えきれない人々の祈りを受け止めて来た魂の籠った神秘的な空間なのです。
2020.12.20
コメント(0)
(屋良ムルチの石碑)「屋良ムルチ」は嘉手納町の北東端に位置し、比謝川と沖縄市との境界部分にある淵(クムイ)です。1934年(昭和9年)の沖縄県耕地課による測量によると長さ49間(89m)、幅21間(38m)、深さ48尺(14m)となっています。「屋良ムルチ」の入り口は米軍嘉手納基地の北側に隣接する県道85号線沿いにある「嘉手納霊園」の脇にあり、入り口には「屋良ムルチ」の案内板があり森の中を下る階段が姿を見せます。(屋良ムルチの入り口)(屋良ムルチへの階段)沖縄には古くから「大蛇伝説」が語り継がれています。ムルチ(無漏渓/茂呂奇/漏池)に住む大蛇は地域に暴風などの災いをあたえ、住民は童女を人身御供に出せば禍い事が止むと信じていました。ある年、親孝行の娘がたった一人の祖母を置いて沼池に生け贄にされた時に天神が現れ大蛇を退治して災害を除きました。その後、娘は王子の嫁になり祖母と一緒に幸せに暮らしました。(石碑とガジュマル)「ムロキノ嶽 神名 アキミウハリ ミウノ御イベ」と記された石碑がガジュマルの下にひっそりと佇みます。「屋良ムルチ」には神が祀られており、周辺全体が拝所として森の御嶽として崇められています。足元には数えきれないガジュマルの根が土壌から力強くはみ出し、まるで大量の蛇が地面を覆っている不気味な雰囲気に包まれます。沖縄ではガジュマルは神が宿る木として大切にされ、勝手に木を切ったり枝を折ると祟られると信じられています。(屋良ムルチの沼)(拝所跡の石段)「ムロキノ嶽」の石碑の右手奥には全く水の流れが無い緑色に濁った沼が広がっています。大蛇伝説の舞台になったこの沼は、いつ大蛇が現れても何も不思議ではない静けさに包まれています。まさに私自身が生け贄の祭壇に取り残されたような気分に陥ります。水辺にはかつて石碑やウコール(香炉)が祀られていたと考えられる石段が残されています。石碑を設置していたと思われる箇所は「屋良ムルチ」の水面の方向を背にしています。(屋良ムルチのガジュマル)沼池沿いに生えるガジュマルは「屋良ムルチ」の沼水の恵みを受けて、その不気味で奇妙な根を大地に伸ばしています。ガジュマルの横には巨大な葉を持つクワズイモや亜熱帯植物が多数生息しています。まるでジャングルに足を踏み入れたような気分で、この地には多くのハブも生息するので十分に気を付ける必要があります。(ワニガメへの注意勧告)ゴツゴツした琉球石灰岩の地質、緑色に濁る沼池、亜熱帯の植物で造られた「屋良ムルチ」は地図上では比謝川に分類されます。濁った水は流れが全く無く水の色は不気味な緑色で、肉眼では魚などの生物は水中に確認不可能です。以前「屋良ムルチ」では危険生物に指定されるワニガメの目撃情報があり嘉手納警察署とニライ消防本部が出動するニュースになりました。(屋良ムルチ入り口脇の拝所)(拝所に祀られる香炉)「屋良ムルチ」は大蛇伝説だけでなく水の神として屋良集落の住民に大切に崇められていました。日照りが続くと「屋良ムルチ」のウガンジュ(拝所)に住民が集まり雨乞いの儀式が行われていたそうです。大昔からこの地は人々の重要な祈りの場で心の拠り所として存在し続けました。人々の祈りの魂や精霊が漂う屋良ムルチはスピリチュアルなパワースポットであり、瞑想をして心を研ぎ澄ませると琉球のロマンを五感に感じる事ができる聖地なのです。
2020.12.19
コメント(0)
(チビチリガマの祠)「チビチリガマ」は読谷村波平にあるガマ(鍾乳洞)で、1945年の沖縄戦における悲惨な集団自決が行われた場所です。読谷村に攻め入った米軍から逃れるため139名の住民がチビチリガマに避難し82名が自決、その過半数が子供達だった悲劇の歴史があります。(チビチリガマの標識)チビチリガマへは国道58号線を那覇から読谷村に入り伊良皆交差点を左折して右手に読谷高校を過ぎて直進します。左手に米軍施設トリイステーションの2つの鳥居が見えます。そのまま直進してタウンプラザかねひで読谷店前の信号で左斜めに入ります。すると写真の「チビチリガマ80m」の看板が見え右手にチビチリガマの駐車場が見えて来ます。(チビチリガマへ下る階段)この階段がチビチリガマの入り口です。入り口は特に恐怖や重々しい雰囲気は感じませんが、階段を下りるにつれて身体に重い圧力がかかって来ます。ある一線からピンと張り詰めた空気に包まれて、いよいよ聖域に入り込む覚悟が湧いてきます。(ウガンジュ/拝所)階段を降り切ると薄暗い小さな空間が広がり正面にはゴツゴツとした琉球石灰岩で造られたウガンジュがあります。重苦しい空気力に身体を圧迫されながらウガンジュを見つめると自決した人々の魂の悲しみ、怒り、恐怖の全てが強烈に伝わって来たのです。(鍾乳洞入り口)ウガンジュの左には沖縄戦で住民が自決したガマがあり沢山の千羽鶴が生々しく飾られていました。私はガマの入り口に膝まづき自己紹介と訪れた理由を言葉でゆっくりと伝えて、この場で自決した人々への慰霊の言葉と沖縄の平和を心から祈りました。その後もしばらく目を閉じたまま瞑想を続けたのです。(チビチリガマのガジュマル)目を開けると重苦しい圧力が一気に消え去り、全てがフワッとした浮き上がる雰囲気に突然包まれました。物凄く心地の良い空間に身体を委ねると足元の枯葉が何枚も空気中に浮き上がり、爪楊枝の様な謎の物体が3本連なるように私の目の前に浮遊していました。すると3本の細い物体が一本ずつ物凄い勢いであちこちに飛び去って行くのです。(チビチリガマの地蔵)すると直後私の頭上に「バチッバチッバチッバチッ!」と爆音が30秒近く鳴り響きました。爆音がピタッと止むと非常に心が穏やかになり全てのストレスも消え去り、この場所に何時間でも居続けたい優しい気分に包まれました。まさに私の魂が浄化されたようで、純粋で無垢な気持ちで落ち着いていました。(チビチリガマの歌)しかしながら、その日は快晴で無風だったので今でも爆音の原因は不明。さらに爪楊枝のような羽のない謎の浮遊物体の正体も未解決のままです。この超常現象はチビチリガマが起こした奇跡であり、この地場に集まる魂のパワーが創り出した怪奇現象です。チビチリガマで犠牲になった魂と沖縄の平和を改めて心から祈り、二度と悲惨な戦争を起こしてはいけない決意を強く持ちチビチリガマを後にしたのです。
2020.12.17
コメント(0)
(大山貝塚の祠)大山貝塚は沖縄県宜野湾市大山にあり、隣接する「森川公園」と恩納村の「SSS」に並ぶ沖縄の三大心霊スポットとして知られています。沖縄のシャーマン「ユタ」の修行場所としても有名で、大山貝塚は決して遊び半分や肝試しで訪れる場所ではありません。ここは沖縄の歴史を学ぶ場所であり、敬意を払って訪れる聖域なのです。(普天間基地のフェンス)宜野湾市のファミリーマート大山店から400メートルほど坂道を上がると米軍普天間基地のフェンスにたどり着きます。フェンス内は住宅エリアになっていて米軍関係者が普通に暮らしています。沖縄戦の時には大山貝塚近くの防空壕に沢山の沖縄の住民が避難していましたし、この一帯は沢山の犠牲者も出た激戦地でした。(大山貝塚の碑)フェンス沿いに50メートほど進むと「史跡大山貝塚」の碑に迎えられます。米軍基地フェンスに隣接するこの地に大山地区の守り神を祀るウガンジュがある皮肉、これは紛れもない沖縄の現実です。この碑の右手には大山貝塚に続く下り階段があります。(祠へ下る階段)階段を下り正面には大山貝塚のウガンジュが訪問者を待ち受けています。先人の霊、戦死者の魂、亡くなったユタの念が蠢く地場は不気味に、かつスピリチュアルに佇んでいます。階段を一段一段下りるにつれ重たい空気に身体が包まれてゆきます。これ以上進めない、進ませてくれない非常に強いパワーに足が動かなくなりました。(祠と鍾乳洞)石造りのウガンジュに手を合わせ名前を名乗り、訪れた理由を語りかけ沖縄の平和を祈りました。すると、それまで私の身体を縛り付けていた重過ぎる圧力がフッと消え、物凄い心地良い雰囲気に包まれました。ウガンジュの横には鍾乳洞の洞窟に下りる真っ暗な入り口があり「あの世への入り口」と呼ばれる聖域になっています。ユタはここから洞窟に入り厳しい修行をするのです。(大山貝塚のガジュマル)大山貝塚には神が宿るガジュマルがあります。琉球石灰岩をガジュマルの枝が何百年もかけて絡み付き見事な生命力を表現しています。ガジュマルの前にひざまづき瞑想を始め耳に聞こえる物、鼻から匂う物、目をつむり見える物、ガジュマルに触れる手に感じる物、そして精神が素直に想う物に集中して五感を研ぎ澄ませました。(大山貝塚の入り口)大山貝塚は確かにパワーの強いスポットです。遊び半分の肝試しに来る人には怖い心霊現象を与え、敬意を払って訪れる人にはスピリチュアルな心地良い雰囲気を与えます。私がパワースポットに取り憑かれる理由は、この掛け替えないパワーを感じる事と自分自身の魂の浄化の為です。大山貝塚はこの階段の下から今も訪問者を見つめているのです。
2020.12.16
コメント(0)
全229件 (229件中 201-229件目)