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(神アサギ/神アシアゲ)沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸線に「冨着/ふちゃく集落」があります。この集落の西側で、南側に隣接する「前兼久/まえがねく集落」との境界線に位置する丘陵に「冨着集落」の「古島」があります。1635年に集計された資料である「琉球国高究帳」には『ふ津き』と記されており、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『富着』との記述があります。更に清の官僚で琉球王国の「尚敬王」を冊封した「徐葆光/じょほこう」が1721年に著した「中山伝信録」には『富津喜』とされています。また、大正時代には「冨着」は『フジチ』と呼ばれており、現在は『フチャク』の名称となっています。「冨着古島」から見て海沿いの砂地を「前兼久」と呼び、その後方に位置する現在の「冨着集落」の場所を「後兼久」と称していたと伝わります。(神アサギ/神アシアゲ)(地頭火神)(地頭火神の祠内部)(冨着礼拝所の通路)「冨着古島」の「冨着礼拝所」と呼ばれる場所に、かつて「山田ノロ」が祭祀を執り行った「神アサギ/神アシアゲ」があります。「琉球国由来記」には『神アシアゲ 富着村 稲穂祭之時、シロマシ二器・麦神酒四 谷茶・仲泊・前兼久・富着四ヶ村百姓、五水八合・神酒一・肴二器 同四ヶ村地頭。稲大祭之時、五水八合・肴二器・神酒一 同上、同四 同四ヶ村百姓中、供之。稲穂祭之時、山田巫ニテ祭祀也。且、同大祭之時者山田巫、谷茶・仲泊・富着・前兼久、四ヶ村居神ニテ祭祀也。』と記されています。この「神アサギ」に隣接して「地頭火神」の祠が建立されており、祠内部にはウコール(香炉)が設置されています。かつての祭祀の際には「山田ノロ」を中心として「富着村」から出自した「前兼久根神」や4ヶ村から参列した「居神」等の神女達は「地頭火神」を拝した後に「神アサギ」の祭祀を行ったと言われています。(アガリ家の屋敷入り口)(アガリ家の屋敷跡)(アガリ家の屋敷跡)(アガリ家の屋敷跡)「冨着古島」の集落で宗家と言われている「アガリ家」の屋敷跡が「神アサギ」の東側に隣接しています。この旧家からは「富着村」の「根人/ニッチュ」が出自し、この「根人」出自の「ミーヤ家」も「アガリ家」の昔分家であると伝わっています。「山田ノロ」による祭祀に供えられる神酒は「アガリ家」で作られ、祭祀終了後に「山田ノロ」を接待する場も「アガリ家」だったと言われています。集落の盆踊りも「アガリ家」から始まり、次に「根屋神」を訪れます。8月の「豊年祭」の時には「根神屋」を拝した後に「アガリ家」を拝して「遊び庭/アシビナー」で豊年芝居が執り行われました。この集落宗家である「アガリ家」は現南城市「佐敷」の「鮫川大主」を祖先としています。この「鮫川大主」は琉球王国の第一尚氏初代国王「尚思紹王」と「場天ノロ」の父にあたる人物とされています。(上小家の敷地にあるカミヤー)(カミヤーの建物内部/仏壇)(カミヤーの建物内部/ヒヌカン)(上小家の屋敷跡/礎石)「アガリ家」の西側で「神アサギ」の南側に隣接した場所はかつて「上小家」の敷地で、現在は「カミヤー/神屋」が建てられています。この建物内部にある仏壇には『冨着根屋御元祖』と記された位牌と『冨着神女』と記された位牌が祀られており、仏壇の壁には2本の薙刀と2枚のカージ(クバ団扇)が飾られています。仏壇に向かって左側には「ヒヌカン/火の神」が祀られておりウコール(香炉)が設置されています。「冨着古島」は「山田ノロ」の管轄でしたが、集落には「富着村」から出自した「前兼久根神」や「居神」等の神女が存在し「山田ノロ」の補佐役として祭祀を務めていました。また「山田ノロ」の後継が途絶えた後は「根神」を柱として「富着村・前兼久村・谷茶村・仲泊村」の伝統的な「四村合同祭祀」が継続して執り行われました。ちなみに「上小家」の敷地には昔の屋敷に使われた珊瑚石の礎石が現在も多数残されています。(カーニー家のアコウ)(メーヌカーに降る道)(メーヌカー)(メーヌカーの拝所)「冨着古島」の草分け旧家である「アガリ家」の南側に隣接した敷地にはかつて「カーニー家」があり、現在は樹齢の古いアコウの木が幾本もの根を伸ばしています。この「カーニー家」から南側に降りる丘陵が続き、谷底には「メーヌカー」と呼ばれる拝川が流れており古い霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。「冨着集落」では9月15日に「メーヌカー」にて「カー拝み/井泉拝」が行われています。この行事は「カチンジョウ拝み」とも言われており「富着村・前兼久村・谷茶村」の三部落の遠い先祖がこの地に住んでいた時代に水の恩恵を受けた井泉への感謝を示す為に拝されています。この「カー拝み」の日には「アガリ家」の屋敷から「メーヌカー」と祖先である「鮫川大主」の出身地である「佐敷」の方角に向けて遥拝が行われていたと伝わります。ちなみに、一説では稲の伝承地である「玉城」の方面を拝していたとも言われています。
2023.04.12
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(村火の神/前兼久根神火神)「前兼久/まえがねく集落」は沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸線沿いにあり、集落の公民館の敷地に「村火の神」の祠が西側にある「前兼久漁港」の海に向かって建立されています。この「ヒヌカン/火の神」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『前兼久根神火神』と記されており、更に『稲穂祭三日崇・同稲穂祭之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 谷茶・仲泊・前兼久・冨着四ケ村百姓。同大祭之時、仙香・花米五合・神酒二器 同上。年浴之時、仙香・神酒二 百姓中。ミヤ種子之時、仙香・花米五合・神酒二器 同上。竈廻之時、仙香・花米五合・神酒一。右四ケ村 百姓中 供之。前兼久根神ニテ祭祀也。』との記述があります。そのため「前兼久」はこの時代には「冨着」から独立した村として琉球王府に認められていた事になります。(村火の神/前兼久根神火神の祠内部)(龍宮神の拝所)(龍宮神の祠内部)「村火の神」の祠がある「前兼久公民館」の土地は、その昔この村を治めていた地頭代の「前兼久親雲上ペーチン」の屋敷跡であると伝わり、この「ヒヌカン/火の神」は「地頭代火の神」とも呼ばれています。祠内部には「村火の神」と記された石板の下に3体の霊石とウコール(香炉)が祀られています。「村火の神」に向かって右側に隣接して「龍宮神」が祀られる祠が海に向けて建立されています。この海の神様である「龍宮神」は1月2日の「フナオコシ/舟興し」で豊漁と海の安全、更に集落の繁栄と住民の無病息災が祈願されます。昔は祈願の後に漁民全員が舟で海に出て獲った魚を女性達が料理し、ご先祖様や海の神様にお供えしてから皆で食べ親睦を深めていました。この日の漁は「ハツウクシ/初興し」と呼ばれる仕事始めで、獲った魚は売ってはならず全て食べる決まりとなっていました。(前兼久トゥングヮー)(前兼久トゥングヮーの龍宮神)「前兼久集落」の西側には神が住むニライカナイに繋がる海が広がり、この理想郷の神が集落に来られる際には「前兼久トゥングヮー」で一時休憩されてから村に来臨すると信じられていました。この事から「前兼久トゥングヮー」の岩島は聖地とされ、この島を拝む事はニライカナイを拝する事と同じだと言われ、集落として昔から 崇められていました。「前兼久トゥングヮー」の岩窟に収められている古骨は集落の前代先祖の骨とされ、この島に死者を葬る事はニライカナイに葬る事と同じであると信じられていました。「前兼久トゥングヮー」は集落の中でも限られた人しか島に渡る事が出来ず、この島の東側には「龍宮」と記された赤い鳥居が建立されています。旧暦5月4日の「ウンガミ/海神祭」では「前兼久トゥングヮー」の周辺で100年以上続く「前兼久ハーリー」の伝統行事が行われ豊漁と航海の安全が祈願されます。(前兼久トゥングヮーの遥拝所)(ノロ御迎毛)「前兼久」の古老によると、幼い頃まで海を望む岩崖の上にウコール(香炉)が「前兼久トゥングヮー」に向けて祀られており、この遥拝所から「前兼久トゥングヮー」を拝していたと伝わっています。現在の遥拝所の岩崖は根本から削られて「Blue Entrance Kitchen」というレストランになっており、隣接する公衆トイレの裏側に岩崖の跡が僅かに残っています。「前兼久公民館」の敷地の東側の広場はかつて「山田ノロ」を迎える「ノロ御迎毛」でした。「前兼久村」が「冨着村」から独立する前まで「山田ノロ」は舟で「ノロ御迎毛」に来て休憩し、そこから「冨着古島」の丘陵に向い祭祀を行なっていたと言われています。因みに「山田ノロ」の管轄は「読谷山・冨着・谷茶・仲泊・久良波」で「冨着」から独立した「前兼久」は村の「前兼久根神」により祭祀が執り行われていました。(移設されたウーガー/大井/オカー)(ウーガー/大井/オカーがあった場所)(移設されたナカヌカー/中ヌ井/前ン当の井)(ナカヌカー/中ヌ井/前ン当の井があった場所)戦前まで「前兼久集落」の草分け家の「アガリカーニー/東川根」の屋敷の隣に「ウーガー/大井」があり「オカー」とも呼ばれていました。正月の早朝午前3時頃に「アガリカーニー」の家主か長男が集落の古島にある「ヒジャガー」からバケツ1杯の水を汲み「ウーガー」に注ぎ入れます。その後、村中の家々が新年初めの「ワカミジ/若水」を汲んで帰ったと言われています。また「ウーガー」の南側で「前兼久の御嶽」の丘陵麓にはかつて「ナカヌカー/中ヌ井」があり「前ン当の井」とも呼ばれていたと言われています。毎年1月と8月の「カーウガン/井御願」では「ヒジャガー・ウーガー・ナカヌカー」の三井が拝され、塩・線香・御花米を各井戸に供えて全戸主が参拝しました。「ウーガー」と「ナカヌカー」は「おんなサンセット海道」の工事により埋め立てられましたが、この海道沿いに各井戸跡が移設されて現在も拝されています。(ジッチャク/勢理客の墓)(ジッチャク/勢理客の墓の墓門)(前兼久貝塚跡)(恩納ナビーの銅像)「前兼久集落」北側の「メーガニクバル/前兼久原」に集落で拝される「ジッチャク/勢理客の墓」と呼ばれる岩陰墓があります。集落に関係する「按司」の墓であると言われており墓内には石厨子が納められています。この墓の周辺から青磁碗の直口口緑部と思われる小破片が発掘されています。さらに「ジッチャク/勢理客の墓」東側の「メータバル/前田原」は「前兼久貝塚」があった場所で、現在は沖縄郷土料理店の「風月楼恩納本店」やコンドミニアムホテルの「プリンスプラージュ」などが開発されています。「前兼久貝塚」は標高5mの海岸砂丘に立地しており、この土地から弥生〜平安時代並行期の土器片が確認されています。因みに「風月楼恩納本店」の入り口には「恩納村」で生まれたの琉球二大女流歌人である「恩納ナビー」の銅像と同歌人の代表歌が供覧されています。
2023.03.31
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(前兼久の御嶽)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん」に「前兼久/まえがねく集落」があり、沖縄の方言では「メーガニク」と呼ばれています。1721年に清の官僚であった「徐葆光/じょほこう」が著した琉球の地誌『中山伝信録/ちゅうざんでんしんろく』には「前兼久」は「下富津喜」と記されており、かつて「前兼久集落」は北側に隣接する「冨着集落」の一部であったと言われています。「前兼久」の名前は「冨着」から見て西側前方にある海岸の砂堆地(兼久)に立地していた事に由来していると伝わります。現在の「冨着集落」は北側海沿いの「シリカニクバル/志利兼久原」に人口が集中していますが、戦前までは山手の奥まった場所に部落がありました。その為、山の上から見て「前兼久」の位置は海沿いの砂地の手前にあった事になります。(前兼久の御嶽に登る階段)(前兼久の御嶽/祠内部)(北側にある集落の古島に向けられた霊石)(前兼久の御嶽から見た集落の古島方面)その昔「前兼久集落」は公民館の辺りから大きく分けて南側を「メーンダカリ/前村渠」北側を「クシンダカリ/後村渠」と呼んでいました。戦前になると集落の南から北に順に「メーグミ/前組」「メーヌナカグミ/前の中組」「クシヌナカグミ/後の中組」「クシグミ/後組」と区切られるようになったと伝わります。「前兼久集落」を南北に通る「恩納サンセット街道」沿いにある丘陵の階段を登ると頂上に「前兼久の御嶽」の拝所があり、赤瓦屋根の建物は「冨着集落」がある北側を背に建立されています。この祠の内部にはウコール(香炉)が祀られ、花瓶と湯呑設置されています。また、この建物の向かいの広場には、かつて「前兼久集落」が発祥した「古島」に向けられた霊石が祀られています。「前兼久の御嶽」は毎年1月2日の「ハチニガイ/初御願」で集落の住民により大切に拝されています。(前兼久の古島)(ヒジャガー/ウブガー)(ヒジャガー/ウブガーの湧き水)(ヒジャガー/ウブガーのウコール)「前兼久」の「古島」は現在の「前兼久集落」と「仲泊集落」の間にある山手側の丘陵にあったと伝わります。「前兼久」の「ウブガー/産井」である「ヒジャガー/比嘉川井」がこの古島の丘陵麓にあります。「ウブガー」の湧き水は部落で子供が産まれた際に産水として利用された他にも、元旦に生命を新しくする「スディミズ/若水」を汲み赤子の額に「ウビナディ/水撫で」をして健康祈願をしました。「前兼久集落」の古老によると昔は「ヒジャガー」東方の丘の上で毎年盛大な祭りが開催されて「前兼久」が分離してきた「冨着」の古島の方面に向かって遥拝が行われていたそうです。この「ヒジャガー」は「前兼久漁港」の東側に位置し、規模の大きい井戸には現在も水が豊富に湧き出ています。井戸には水の神様に感謝する祈願を行う「ウコール/香炉」が祀られており、毎年1月1日の「カーウガン/井戸御願」で大切に拝されています。(アガリカーニー/東川根)(アガリカーニー/東川根)(アガリカーニー/東川根の仏壇)「前兼久集落」の最高旧家と言われているのが草分け家の「アガリカーニー/東川根」で「前兼久の御嶽」の丘陵西側に屋敷がありました。現在、この敷地には「アガリカーニー」の「カミヤー/神屋」が建立されています。1月2日の「ハチニガイ/初御願」の際に集落の住民がこの「カミヤー」に集まり無病息災と集落の繁栄を祈願します。この家からは「ニーチュ/根人」や「ニーガン/根神」が出自し「前兼久」を管轄していた「山田ノロ」を祭祀の際に村に御迎えする「スバノ主」もこの血統から出たと言われています。また「アガリカーニー」の家は戦前から現うるま市「石川」に出向いて「冨着ペーグミー/親雲上」の位牌を拝していました。戦後になると「石川」からお迎えしたこの位牌を「カミヤー」に祀り大切に拝しています。「前兼久」は北側に隣接する「冨着」から分離した集落で「石川」から移り住んだ「冨着ペーグミー」が「冨着」の脇地頭を治めていました。そして、この人物の長男が「前兼久」の集落を草分けしたと伝わります。(冨着ペーグミー/親雲上の位牌)(カミヤー/神屋のヒヌカン/火の神)(カミヤー/神屋のトゥクシン/床の神)「前兼久集落」の古老によると、「アガリカーニー」の母親が生前(明治時代後半)に「アガリカーニー」の遠い先祖は「南風原/はえばる」の「宮平グスク」に祀られていると述べた事から、この草分けの旧家がその地を拝しに出向きました。それ以来「アガリカーニー」門中は正月の初御願と8月に「前兼久の御嶽」に登り「宮平グスク」を遥拝するようになり、それが集落全体の行事として広まり現在に至っています。「アガリカーニー」の「カミヤー」には、この旧家の先祖である「冨着ペーグミー」の位牌が祀られています。仏壇に向かって左側には「ヒヌカン/火の神」が祀られ、3体の霊石と古くから継承されるウコール(香炉)が設置されています。さらに仏壇に向かって右側には「カミヤー」を守護する「トゥクシン/床の神」のウコールが祀られています。5月4日のハーリーの際には「アガリカーニー」の「カミヤー」で海幸祈願が行われ、更に7月の盆踊りや綱引きなどの集落対抗行事の際には必ず「アガリカーニー」から祭りが始まります。
2023.03.24
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(イチグスク)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん」に「前兼久/まえがねく」という西海岸沿いの集落があります。沖縄の言葉で「メーガニク」と呼ばれるこの集落は「恩納村」の中で最も漁業が栄えており「前兼久漁港」を中心として多くの海産加工工芸品店が存在しています。この漁港と「前兼久公民館」に隣接する沿岸崖沿いには「イチグスク」の丘陵があり、グスクの北側には沖縄初の本格的なリゾートホテルである「ホテルムーンビーチ」があります。「イチグスク」は琉球石灰岩が隆起した岩塊で形成されており、崖下には現在も古墓が多数残されています。明治時代の後期に「前兼久集落」で「サッパイ」と呼ばれる「神ダーリ/神がかり」が発生し、集落の男女約10名が次々と何かに取り憑かれた様に突然に豹変してしまいました。(イチグスクの古墓/岩陰墓)(古墓のウコール)(イチグスクの風葬墓/岩陰墓)沖縄の組踊り(能や歌舞伎に近い琉球宮廷芸能)に登場する按司が語る「御殿言葉」を大声で叫び、集落を彷徨い歩いたため集落は大騒ぎになったと伝わっています。この不可解な出来事が起きて以来「前兼久」ではそれまで集落として拝していなかった「イチグスク」を拝む様になったと言われています。「前兼久」は元々「冨着村」に属しており、この村は現うるま市の「石川村」から移り住んだ「冨着親雲上/ペークミー」が脇地頭として村を治めていました。この「冨着親雲上」の長男が「冨着村」から独立した「前兼久」の草分けとして集落を開いたと言われています。そのため「イチグスク」の古墓に葬られている人々のルーツは「石川村」にあり、このグスクは「前兼久」の住民のみならず「石川」の人々からも大切に拝されました。(崖下の古墓)(崖下の古墓/岩陰墓)(仮墓とウコール)(岩塊に祀られたウコール)「前兼久」を開拓した先人が葬られた「イチグスク」を村として拝して来なかった事による祟りが「サッパイ」と呼ばれる「巫病/ふびゅう」を引き起こしたと集落の住民は考えたと推測されます。この「巫病」は沖縄におけるユタ、呪術者、巫がシャーマン(宗教的職能者)になる過程において罹患する心身の異常状態を意味し、沖縄では「神ダーリ」という言葉で広く認識されています。またシャーマニズムにおいて「巫病」は成巫過程の重要な試練とされ、一般的に思春期に発症する事が多いと言われています。症状は発熱、幻聴、神様が出てくる夢、重度になると昏睡、失踪、精神異常、異常行動などが現れます。シャーマニズムの信仰では「巫病」は神がシャーマンになる事を要請していると捉えられています。(イチグスクの岩崖)(鍾乳洞の風葬墓/岩陰墓)(イチグスクの古墓/岩陰墓)(崖下の石厨子)「巫病」を克服しシャーマンとなった者は神を自分の身に憑依させる事が出来て、神の代弁者になると信じられています。神によりシャーマンになる事を要請されると本人の意思で拒絶する事が困難であり、それを拒むと異常行動を引き起こして死亡する前例も見られます。「巫病」になった者は多くの場合、先達のシャーマンから神の要請に素直に従うよう勧められシャーマンの道へと導かれます。「巫病」は夢で与えられる神からの指示に従う事や、参拝や社会奉仕などを行って行くうちに解消されシャーマンとして完成すると言われています。沖縄の民間社会において「ユタ」と呼ばれるシャーマンは広く知られており、集落の個々の家や家族に関する運勢(ウンチ)、吉凶の判断(ハンジ)、禍厄の除災(ハレー)、の病気の平癒祈願(ウグヮン)など人々の私的な呪術信仰的な領域に関与しています。(イチグスクの岩崖)(イチグスクの古墓/岩陰墓)(イチグスクの古墓/岩陰墓)(イチグスクの浜)沖縄には昔から『医者半分、ユタ半分』という言葉があります。病気にかかると医者に診てもらう人と、ユタに相談する人が半々いるという意味します。ユタの能力は超自然的かつ神秘的で、その実体を裏付ける科学的根拠が無いためユタを装って金儲けをする人が現在も多数存在します。また、時の中央集権や近代化を進める権力層から幾度も弾圧や摘発を受けてきた歴史があります。「琉球王国行政官の蔡温によるユタ禁止令」「明治時代の自治体によるユタ禁止令」「大正時代のユタ征伐運動」「第二次世界大戦体制下でのユタ弾圧」など時代を経て、現在も沖縄にはシャーマンであるユタが存在し続けています。それと同時に沖縄には『ユタコーヤーヤ、チュオーラセー (ユタを買う人は、人々を争わせる人)』という言葉もあり、ユタにお金を払う事自体が問題の原因になると言われているのです。
2023.03.17
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(前兼久トゥングヮ/仲泊トゥングヮ)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん)」の西海岸線沿いに「前兼久/まえがねく集落」があり、この集落は沖縄の方言で「メーガニク」と呼ばれています。「前兼久集落」には昔から「アーマンチュ/天人」に纏わる伝承話があります。「アーマンチュ」とは「ニライカナイ」という海の彼方にある理想郷に住む神を意味し、沖縄には「アーマンチュ」に関する「巨人伝説」や「アーマンチュの足跡」更には「アーマンチュの洞窟」など多くの伝承が存在しています。「前兼久集落」の古老によると、太古の昔の世は北からの波は南へ、南から来る波は北へと越えてゆくばかりで、当時の沖縄には土地は少なく海ばかりが広がっていました。そんな時「アマミキヨ/アマミク/阿摩美久」と「シネリキヨ/シネリク/志禰礼姑」という「アーマンチュ」と呼ばれる男女の二神が「ニライカナイ」から「国頭村/くにがみそん」の「阿須森/あすもり」に降臨しました。(仲泊海岸/仲泊トゥングヮ/前兼久トゥングヮ)(前兼久トゥングヮ)「阿須森」に降りた「アマミキヨ」と「シネリキヨ」が『人間をお与えください』と懇願すると女が2人、男が1人生まれました。彼らは海から貝を拾って洞穴の中で食べて暮らし始め、そこから沖縄の国が広がって行ったのです。更に、島々を造ろうと天秤棒で土を運んでいると途中で棒が折れてしまいました。その時に海に落ちた土が「前兼久」と「仲泊」の2つの海上の小島になり、それぞれ「前兼久トゥングヮ」と「仲泊トゥングヮ」と呼ばれるようになったと伝わっています。また「アーマンチュ」が天と地を分けた神話も沖縄にあります。『遥か昔、天と地は分かればかりで人間は狭い隙間を這いつくばっていました。そこに「アーマンチューメ」という巨人神が現れ、硬い岩場を見つけると両足を踏ん張り両手で天を支えて持ち上げて強く放ちました。すると天は遥か上空に昇り人間は歩いて暮らせるようになりました。』その時に出来たと言われる「アーマンチュ」の足跡が沖縄各地に伝わっています。(前兼久漁港から見た前兼久トゥングヮ)名護市羽地には次のような話が伝わっています。『昔、とても天が近く人間は困っていた。アマミキヨという人が真喜屋の大川と羽地の大川のトゥシという所に足を踏ん張って天を押し上げたそうだ。昔はその時の足跡が残っていた。』また、うるま市安慶名には『昔、天と地はくっ付いていて離れていなかった。そのため人々は這って歩いていた。アーマンチュが何処からか降りてきて那覇のユーチヌサキ(雪の崎)に立って天を持ち上げた。』という伝承が残されています。更に、南城市佐敷津波古には『130歳である福人の前にアーマンチュが現れ、長寿の大主の位と五穀の種を授けた。』と伝わり、渡名喜島には次のような伝説があります。『タカタンシーと呼ばれる場所には昔、アーマンチュの足跡だという大きな石の窪みがあった。大昔アーマンチュは粟国島と渡名喜島をひとまたぎで渡ったそうだ。次に久米島にひとまたぎで渡ろうとしたが、海に落ちて死んだそうだ。』(仲泊トゥングヮ/ヒートゥー島)「前兼久トゥングヮ」の南側約300mで恩納村立仲泊小学校の北西側約400mの位置に「仲泊トゥングヮ」の岩島があります。この島は地元の住民に「ヒートゥー島」と呼ばれており「ヒートゥー」とは「イルカ」を意味します。かつて沖縄本島北部の名護湾でサバニ(沖縄で古くから利用された漁船)に乗った漁師が湾内に入り込んだイルカを手投げ銛で仕留めた「ヒートゥー漁」が3月から5月にかけて行われていましたが「仲泊トゥングヮー」の周辺で「ヒートゥー漁」が行われていた詳細は確認されていません。しかし「仲泊海岸」は現在でもウミガメの産卵が確認されるほど美しい海なので、昔はこの「仲泊トゥングヮ」からイルカの群れが見られた事から「ヒートゥー島」と言われるようになったと推測されます。因みに沖縄本島北部ではイルカを食する習慣があります。スーパー等でもイルカ肉が販売されており、刺身や炒め料理で食されています。(仲泊トゥングヮの廃墟)(仲泊トゥングヮの湾曲橋)1975年(昭和50年)に本部町で開催された「海洋国際博覧会/Expo'75)の際に沖縄振興の流れで「仲泊トゥングヮ」にも開発計画が持ち上がりました。「仲泊集落」の北側にある「シーサイドドライブイン」が沖縄の本土復帰に伴い、内地からの観光客を見込んで「仲泊トゥングヮ」にイルカ料理専門の海上レストランとミニ水族館の建設に取り掛かりました。しかし「仲泊トゥングヮ」の小島に掛ける橋の建設許可が下りず、建設半ばで計画は頓挫してしまいました。さらに、この島には下水処理のインフラが無く、海を汚染させる恐れがあった事から地元のウミンチュ(漁師)から猛反対を受けていたと伝わります。現在も「仲泊トゥングヮ」には当時からの廃墟が残されたままとなっており、島の西側には岩塊とを結ぶ湾曲したコンクリート製の橋が掛かっています。(シーサイドドライブインから見た仲泊トゥングヮ)(イユミーバンタのアーマンチュの足跡)「仲泊集落」の南側にある「ルネッサンスリゾートオキナワ/旧ラマダ」の東側に「イユミーバンタ」と呼ばれる海の魚の群れを見る崖があります。この崖上には芝生の広場となっており、昔から「アーマンチュ」の足跡であると言われています。また恩納村「万座毛」や読谷村「残波岬」も「アーマンチュ」が足を置いた場所だった言い伝えがあります。更に沖縄市には次のような神話があります。『東南植物楽園の南側で「バシクブー」と呼ばれる場所にある「福地グシク」の丘陵は「アーマンチュ」が枕にしていた。』『東南植物楽園の敷地内にある「ナーカジ」と呼ばれる平場には「アーマンチュ」のかかとの跡が2つ残されている。』『東南植物楽園前の交差点で「ナーカジアジマー」と呼ばれ場所に「ジャンジャラーシー」と言う洞穴には「アーマンチュ」が踏んで歩いた足跡が残っている。』(仲泊のイユミーバンタ)(イユミーバンタからの絶景)石垣島から与那国に広がる八重山列島にも「アーマンチュ」の伝説があり、石垣島の「白保」には次のような伝承が残されています。『その昔、天の神がアーマンチュに天から降りて下界に島を創るように命じました。アマン神は土を槍矛でかき混ぜて島を形成し、アダン(阿檀)林の中で最初の生物であるヤドカリを創りました。その後、ヤドカリの穴から2人の男女が生まれた。』八重山の開闢神話の特色としてヤドカリが登場します。南西諸島ではヤドカリは「アマン」と呼ばれ、語源は「アーマンチュ」から来ていると考えられます。因みに 「アマン」はサンスクリット語、ヒンディー語、パンジャブ語、アラビア語、ウルドゥー語、ペルシア語で「平和、安全、無事、宿、保護」を意味する言葉である事も非常に興味深い点となっています。
2023.03.10
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(ヤラジヌシー)沖縄本島中部の西海岸に「嘉手納町/かでなちょう」があり、この町の面積の約82%がアメリカ空軍「嘉手納基地」に接収されている事で知られています。この「嘉手納町」の西側海沿いに「兼久/かねく集落」があります。この集落の「嘉手納マリーナ」と呼ばれる米軍保養施設に「シーサイドリストランテ」というレストランがあります。また、この施設の東側国道58号線沿いに「野国貝塚群」が残っており、南側には中国から甘薯を持ち帰り琉球にイモを伝えた「野国総管」が葬られた墓があります。「嘉手納マリーナ」の西側の海に「ヤラジヌシー」と呼ばれる孤島があり、地元の住民からは「ビジュルヌシー」と呼ばれています。この孤島は戦前まで住民が往来する事が出来た岩場の岬でしたが、米軍による強制的な砂利採掘により現在の姿となりました。当時はこの岩場に「兼久のビジュル」という拝所があり、戦前までは「メーヤールイグヮー/前屋良小のビジュル」の名称で知られていました。(移設された兼久のビジュル)(兼久のビジュルの入り口)(兼久のビジュル)沖縄戦後、米軍により破壊された「兼久のビジュル」は現在、北側のショッピングモール「ネーブルカデナ」に隣接する岩場に移設され祀られています。「嘉手納町」は「ハダカユー/裸世」と呼ばれる原始人が裸同然で生活していた旧石器時代や貝塚時代の頃から歴史があり「屋良・野国・嘉手納」の3部落が1番古いと伝わっています。これらの部落に昔から住んでいた人々を平民と呼び、一方で「兼久のビジュル」がある「兼久集落」は「ヤードゥイ/屋取集落」と呼ばれ、首里から移住した士族により集落が形成されました。「琉球処分」の過程で1879年(明治12)に琉球藩を廃して沖縄県を設置する「廃藩置県」が行われ、約500年間続いた琉球王国が崩壊しました。その後、首里に住んでいた士族は沖縄本島の各地に移住させられる「士族帰農」が進み「兼久集落」が誕生しました。(兼久のビジュルの祠)(祠内部のビジュル)士族育ちの移住者は農業が上手く行かず、自分で働いて食べていく事が非常に辛かったと言われています。首里の士族だった女性たちが周辺集落の田舎百姓である平民に頭を下げて、恵んで下さいと物乞いまでした苦しく厳しい話が伝わっています。首里から移住して新しい土地を開拓したため「兼久集落」には住民の心の拠り所である拝所や御嶽は存在していませんでした。そこで「兼久」の村人が恩納村「仲泊」の海岸からビジュル(霊石)を3体持ち帰り「ヤラジヌシー」の岩陰に祀りました。すると直ぐに「兼久集落」は子宝に恵まれ、それから集落ではこのビジュルを神として崇めて大切に拝するようになったそうです。「兼久集落」はこの土地に最初に移住した「亀島」という名前が多かったため「カメシマグヮーヤードゥイ/亀島小屋取」と呼ばれており、他には「福地・山入端・古謝」の3つの名前があったそうです。(兼久の井戸)(兼久の井戸)(亀島の井戸)(亀島の井戸)大正生まれの「兼久」の古老によると、戦前まで「ヤラジヌシー」の岩場には移住当時から大きな井戸があり、住民の生活用水として重宝されていたそうです。戦後、米軍がこの井戸を埋めてしまったため、井戸の魂を現在の「兼久のビジュル」に移設しました。戦前まで「兼久の井戸」は石が積まれており、潮の満ち引きの関係で大潮の時は井戸に沢山の水が溜まり、干潮の時は水量が少なくなったと言われています。しかし、不思議な事に井戸水は真水で塩は含まれていなく、水が含まれる地層の関係により水量が変化していたそうです。現在の「兼久のビジュル」にはもう1つの井戸も祀られており、首里から士族が移住して「亀島小屋取」と呼ばれるようになった頃に「亀島」という人物が掘った井戸であると伝わっています。こちらの井戸も戦後に米軍により埋められましたが、先人の井戸を粗末にしてはいけないと住民により移設されました。(兼久のビジュルの拝所)(兼久のビジュルの拝所)(兼久のビジュルの洞穴)(仲泊海岸)「兼久のビジュル」には「ヤラジヌシー」の魂を祀ったと考えられる大岩があり、岩の下にはウコール(香炉)が祀られています。恩納村の「仲泊海岸」から求めてきた「兼久のビジュル」の霊石は1955年(昭和30年)に現在の場所に移されました。この土地に祀られる「ビジュルヌタンメー/お爺さん・ビジュルヌウンメー/お婆さん・動物」で構成される3体の霊石は「兼久集落」における霊石信仰の対象として大切に崇められています。この御神体は旧暦の9月9日に御供物をして子供の健康と家内安全を祈願する慣わしとなっています。さらに、子宝を求めて夫婦が「子宝に恵まれますように」と「兼久集落」のみならず、周辺の地域からも一年を通して多数の参拝者が訪れています。
2023.03.03
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(比屋根坂/ヒヤゴンビラ石畳道)国指定史跡である「国頭方西海道/くにがみほうせいかいどう」は琉球王国時代に整備された主要道路で、首里を起点とし浦添・読谷・恩納を経て名護の北方に向かう沖縄本島西側の古道です。中南部と北部を結ぶ恩納村では「仲泊の一里塚」から「真栄田の御待毛/ウマチモー」までの間が「歴史の道」として整備されています。この古道の周辺には「唐人の墓碑・比屋根坂石畳道・山田谷川の石矼・山田グスク・フェーレー岩・真栄田の一里塚」など歴史的価値の高い文化財が点在しています。「比屋根坂石畳」は小字比屋根原の琉球石灰岩丘陵を越える為に敷設された道で、もともと石畳道は丘陵上にはなく東西の傾斜地に蛇行して造られています。なお、東側丘陵地の石畳道は約98mあり、西側丘陵地の石畳道は約76.5mあります。(比屋根坂石畳道)(イユミーバンタの洞窟)(洞窟の内部)(洞窟の入り口)琉球王府の時代に敷かれた「比屋根坂/ヒヤゴンビラ石畳道」は明治末期まで主要道路として、長い歴史を経て数多くの行商人や旅人に利用され重宝されていました。この「比屋根坂石畳道」の丘陵上には自然洞窟(ガマ)があり「仲泊遺跡」との関連性は不明ですが、洞窟の内部は比較的広い空間となっています。この丘陵の高台広場には確認できるだけで大小数箇所の洞窟入り口があり、全てが1つに繋がっていると考えられます。この洞窟にもかつての先人達が暮らし、その後は風葬墓として利用されていたと予測できます。また、洞窟の内部は自然が創り出した鍾乳石で覆われており、この洞窟の歴史の古さを知る事が出来ます。更に沖縄戦の際には防空壕として利用されていたとも考えられ、多くの周辺住民の命を救ったと思われます。琉球において洞窟は古来、現世と後世を繋ぐ境界の世界とされ「聖域」として祖霊を崇めたと言われています。(イユミーバンタからの絶景)(イユミーバンタの崖)(冨着/フチャクの寄地跡)(前兼久/メーガニクの寄地跡)「比屋根坂/ヒヤゴンビラ石畳道」の丘陵上には「イユ(魚)ミー(見る)バンタ(崖)」と呼ばれる魚群を発見する崖上となっており、仲泊海岸と仲泊集落を見渡せる景勝地として知られています。「比屋根坂石畳道」の東側に「仲泊遺跡」の入江谷があり、ここは琉球王国時代以降「冨着/フチャク・前兼久/メーガニクの寄地」と呼ばれる耕作地でした。「仲泊集落」の北側にある「冨着集落」と「前兼久集落」は耕地に適した土地に乏しかったため「仲泊」の「フカガー/深川」周辺の水田のうち上流に向かって右側を「冨着」左側を「前兼久」に寄地していました。寄地とは琉球王国時代に近隣する耕地の多い村から耕地の少ない村へ耕地の一部を割いて耕地権を譲渡するもので寄地は明治時代に行われた沖縄県の土地整理事業まで使われていました。現在「冨着の寄地」の土地は「ルネッサンスリゾートオキナワ/旧ラマダ」の第4駐車場として利用されています。(フカガー/深川の拝所)(フカガー/深川の井戸跡)(フカガー/深川の拝所)(フカガー/深川の上流)「比屋根坂石畳道」の台地の東側に隣接した谷に「フカガー/深川」と呼ばれる小川が南北に流れています。かつて「冨着の寄地」だった土地の南側は「フカガー」の上流となっており、川岸には現在でも2ヶ所の拝所があります。それぞれ岩の麓に霊石とウコール(香炉)が祀られており、その2つの拝所の間には石組で囲まれた井戸跡が存在します。「フカガー」の水は周辺に暮らしていた古代住民や「仲泊集落」の創始者に重宝されていたと考えられています。現在でも旧正月1日の「カー拝み」にて「仲泊集落」の人々に拝され、先祖が恩恵を受けた水の神様に感謝を込めて祈願しています。「フカガーの拝所」がある上流の水は北側に進み、最終的に美しい「仲泊」の海に流れ込みます。(ティラの洞窟)(ティラの洞窟の入り口)(ティラの洞窟の内部)「フカガーの拝所」の東側丘陵の上部で「恩納村博物館」の南側に約400mの位置に「ティラ」と呼ばれる洞窟があり「仲泊」の創始者が最初に住んでいた洞穴であると言われています。この自然洞窟から「古島」へ移り「古島」から現在の「仲泊集落」に移動したと伝わり「ティラの洞窟」は年3回(1月・3月・6月の15日)集落の住民により拝されています。「ティラの洞窟」の入り口には大小数体の霊石が祀られ、その手前にはコンクリート製の板が4枚敷かれています。高さ約1mほどの洞窟入り口から内部を確認すると生息するコウモリが飛び回り、奥行き5mほどの空間を確認できます。「仲泊」の古老によると、古代の交通路は「比屋根坂石畳道」の台地から「ティラの洞窟」がある丘陵、そして古島に向かう山道であったと言われています。なお「ティラの洞窟」周辺の住民が増えた事により古島に移動したと考えられています。(福地墓と考えられる堀込墓)(唐人の墓碑)(唐人の墓碑)「ティラの洞窟」の北側の山中に「福地墓」と考えられる「仲泊」の遠祖を祀った古墓があります。この堀込墓は周辺の古墓群の中で最も古い造りとなっており、墓の前方には古い琉球石灰岩を用いた石門が形成されています。また「恩納村博物館」の建物北側に恩納村指定の「唐人の墓碑」があります。1824年(道光4年)中国福建省の商船が嵐で難破し、乗務員32名中26名が水死、6名が水桶に乗り漂流して「仲泊」の浜に流れ着きました。そのうち5名が死亡、1名のみが餓死寸前に「仲泊」の人々により助けられ無事帰国したと伝わります。死亡した5名は「仲泊」の周辺住民により手厚く葬られ、墓前には5名の名前が刻まれた石碑が建立されました。石碑には『清考 呂仁 呂春 呂孝 洪貴 胡明 等墓』と記されています。
2023.02.24
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(仲泊遺跡)沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸沿いを通る国道58号線に道の駅「おんなの駅/なかゆくい市場」と「恩納村博物館/恩納村文化情報センター」があります。この敷地の西側に沖縄県において最大級の規模で「仲泊遺跡」が残されており、第一洞穴と第二〜五貝塚で構成されています。この遺跡には貝塚と岩陰を利用した住居跡が遺り、沖縄先史時代(紀元前約1500年前)頃に利用されていたものと言われています。1954年に「第一洞穴」1959年に「第二貝塚」を戦後の沖縄考古学の草分けとして知られる「多和田淳」氏により発見されました。更に1973年に沖縄開発庁(現内閣府)による国道58号線の拡張工事の際、当時の沖縄県文化課職員により「第三貝塚/岩陰住居址」が発見されました。この「仲泊遺跡」は1975年4月7日に国に史跡に指定されています。(第一洞穴)(第一洞穴/入り口)(第一洞穴/内部)「仲泊遺跡」丘陵の東側麓に「第一洞穴」があり沖縄の先史時代後期の住居跡とされています。この小洞の床面は石敷で入り口付近に炉跡があり、奥には2〜3人が生活できる空間となっています。この洞穴の中央にある土層断面からは時代と共に地層が重なる構成を示す層序が確認する事ができます。層序は大きく分けて2層から成っており、第一層は風葬墓(約200〜300年前)として利用されていた時代の層で、第二層はそれよりも後期の生活に使われた層となっています。古琉球では風葬において遺体をまず洞穴や洞窟(ガマ)に置き自然の腐敗を待ち、3・5・7年などの時期を見て洗骨し納骨していました。洞穴や洞窟は前世の後世(グソー)の境界の世界とされ、聖域として祖霊を崇めていました。なお、現在の石敷と土層断面は保存のため合成樹脂で固めてあり、発掘当時と比べて色が変わっています。(第二貝塚)(第二貝塚の巨岩)(第二貝塚上部の洞穴)(第二貝塚上部の洞穴/風葬墓の石厨子)「第一洞穴」の西側にある丘陵中腹に「第二貝塚」があり、琉球石灰岩の巨岩上部とその周辺に形成された貝塚となっています。巨岩上部は沖縄先史時代中期の貝塚で、巨岩の南側傾斜地は前期の貝塚、北側の巨岩下は前期・中期・後期の遺物が混入する貝塚です。また、巨岩上部と北側の巨岩下からは佐賀県腰岳産の黒曜石の剥離片が3個発掘されました。これは約2500年前に石器を造る良質の材料を遠く佐賀県から取り入れた証拠となっています。「第二貝塚」の丘陵を更に上部に登ると洞穴があり、向かって右側には石積みの中に2基の石厨子が納められている風葬墓があります。沖縄における石厨子は第二尚氏第3代「尚真王」から第12代「尚益王」までの約200年間に集中して利用されていました。この「第二貝塚」の丘陵上部に安置されている石厨子は歴史の古い石棺であると考えられます。(高麗人墓/高麗神)(高麗人墓の墓門)(高麗神の祠)その昔、那覇市「壺屋」に朝鮮出身の陶工がいて度々「ヤンバル/山原」を往来しており、その際「仲泊」に数日宿泊するうちに集落の旧家「シチャグイ/下庫裡」の娘と相思の仲となりました。ある日、その陶工が「ヤンバル」からの帰りに「仲泊」で病死してしまいました。集落の人々は「仲泊遺跡」の崖に「高麗人墓」を設けて葬り「高麗神」として崇め、毎年「高麗神」の「シーミー/晴明祭」を行うようになりました。長い年月を経て「壺屋」在住の子孫が御骨迎えに「仲泊」に来ましたが集落の反対に遭ったと言われています。集落の旧家により行われていた「高麗神」の「シーミー」は明治30年頃から集落の一般住民に広がっていったと伝わります。現在も「高麗人墓」は「第二貝塚」の崖にあり、墓門の前にはウコール(香炉)が設置されて人々に拝されています。更に、この墓に隣接して「高麗神」を祀ったと考えられる小型の祠が鎮座しています。(第三貝塚/岩陰住居址)(第三貝塚/岩陰住居址)(第三貝塚の石畳道)「第二貝塚」の北側にある丘陵中腹に「第三貝塚/岩陰住居址」があります。岩陰の内部は沖縄先史時代後期の住居址で岩陰全面部は中期の貝塚で、発掘前の岩陰は風葬墓として利用されていました。この風葬墓には人骨・石厨子・厨子甕などが安置されており、それらを移動して調査した結果住居址が発見されました。この岩陰の奥部は地山を切り取って土面が平坦にされており、中央に炉跡があり全面部に住穴が並んでいました。発掘調査により岩陰の前面部に柱を立て壁を造り、炉を中心に生活していたと考えられるようになりました。更に住居址の一部と中期の貝塚の上部は石畳道を造る時に壊され、その下部は石畳道の下に現在も残されています。なお「第三貝塚/岩陰住居址」は国道58号線の拡張工事の際に取り壊されそうになりましたが、保存運動が起こり遺跡が保護される事になりました。(第四貝塚)(第四貝塚/石敷住居址)(第四貝塚)(第五貝塚)「第四貝塚」は「第一洞穴」の東側に隣接しており、巨岩の前面部に形成されています。沖縄先史時代の前期・中期・後期の遺跡が複合されており、後期の遺跡は2つの小岩陰に形成されたもので「第三貝塚/岩陰住居址」とほぼ同じであると考えられます。中期の貝塚は岩陰より北側で辺戸岬周辺に栄えた縄文遺跡の「宇佐浜式土器」や「カヤウチバンタ式土器」などが多く発掘されています。前期の遺跡はこの石敷住居址のある場所で、奄美系の前期土器を中心とする遺跡となっています。石敷の中に炉跡があり岩陰を利用した石敷住居址で、遺跡を囲う覆屋(おおいや)は当時の建物の復元ではなく石敷遺跡を保護するために設置されました。さらに「第四貝塚」の北東側広場には「第五貝塚」の塚があります。
2023.02.17
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(アガリヤーのカミヤー)沖縄本島北部にある「恩納村/おんなそん」の西海岸線沿いに「仲泊/なかどまり集落」があります。この集落が琉球王府から「村」として認められるようになったのは歴史的に見て古いものではなく、1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』から「仲泊集落」が「村」として見出されています。この古文献の「富着村」の神アサギでの稲穂大祭についての記述に「仲泊」の村名が見られ、さらに恩納間切の役人として「仲泊掟」の名称も記されています。「仲泊集落」の草分け的存在の創始家は「ミムートゥ/三元」と呼ばれる「アガリヤー・シチャグイ・ユランニー」の3つの旧家であると伝わっています。現在の「仲泊集落」の「仲泊区文化交流センター」の東側で県道6号線(おんなサンセット海道)沿いに旧家「アガリヤー」の「カミヤー/神屋」があります。(カミヤーの仏壇/向かって右側)(カミヤーの仏壇/向かって中央)(カミヤーのヒヌカン/向かって左側)「仲泊集落」での最上旧家とされているのが「アガリヤー/アガリ家」と言われています。この屋敷の背後には一本のデイゴの巨樹と多くのフクギがある「アシビナー/遊び庭」があり、この土地を中心に集落が広がって行ったと考えられています。「アガリヤー」は古島時代においても「メーヌウタキ」の前方に位置し、その当時も集落の要の家柄だったと伝わります。「仲泊集落」の「ニーチュ/根人」は「アガリヤー」から出ており、祭祀の神酒もこの家で造られていました。更にウスデークや盆踊りも「アガリヤー」から出発して「アシビナー」に向かいます。また、那覇「壺屋」の朝鮮人陶工が「仲泊」で病死した際、仲泊の人々は「仲泊遺跡」の崖に墓を設け「コーレージン/高麗神」として葬りました。かつて「アガリヤー」の庭にはこの「コーレージン」を崇める陶土の霊位を祀る祠があったと伝わります。更に集落の旗頭や太鼓も「アガリヤー」の家に保管されており、カミヤーの神棚には『和名大主の次男 泊大主』と『仲泊大親』の位牌が祀られています。(シチャグイ/下庫裡のカミヤー)(カミヤーの仏壇/向かって中央)(カミヤーのトゥクシン/向かって右側)(カミヤーのヒヌカン/向かって左側)「アガリヤー」から県道6号線を渡った東側に「シチャグイ/下庫裡」と呼ばれる旧家があります。「シチャグイ」は「アガリヤー」に次ぐ集落発祥に関わった家で「仲泊」の「ニーガン/根神」はこの「シチャグイ家」から出自していました。しかし、戦後になると「シチャグイ」が「仲泊集落」の最上旧家と言われるようになり、集落の旗頭や太鼓も「アガリヤー」から移され、ウスデークや盆踊りも「シチャグイ」の家から出発して「アガリヤー」を経由し「アシビナー」に到着するようになりました。更に戦後「シチャグイ」の家の庭に「カミヤー」が西側に向けて設けられ、現在も多くの参拝者が訪れます。「カミヤー」の仏壇にはウコール(香炉)が3基祀られており、向かって右側の「トゥクシン/床の神」には1基のウコールと掛け軸が設置されています。また、向かって左側の「ヒヌカン/火の神」には3体の霊石とウコール1基が祀られています。(ユランニー)(ユランニー家の石敢當)(ナカミチ/中道)(ナカミチの石敢當)「アガリヤー」と「アシビナー」の間に「仲泊集落」の第3の創始家である「ユランニー」の家があり、この家の西側の角には魔除けの「石敢當」が設置されています。隣接する「アシビナー」から南東側にある「仲泊公民館」に向けて、かつて集落の主要道路であった「ナカミチ/中道」が続いています。集落を二分したこの道の南部は「メーグミ/前組」北部は「クシグミ/後組」と言われており、更に「メーグミ」を「メンダカリ/前村渠」と呼び「クシグミ」を「クシンダカリ/後村渠」と呼んでいました。この「ナカミチ」を中心として「仲泊集落」は碁盤の目のように広がって行き、各家は屋敷の周りに防風林としてフクギ(福木)を植栽しました。そのフクギの木々が高く成長すると家々は見えなくなり、戦前までは集落がフクギに覆われていたと伝わっています。「ナカミチ」沿いには現在も石敢當と考えられる古い石柱が魔除けとして鎮座しています。(ウブガー/産井)(仲泊の一里塚/A)(仲泊の一里塚/B)(海岸保全区域 琉球政府の石柱)「仲泊郵便局」の東側に約50mの位置に「ウブガー/産井」と呼ばれる古井戸があり、戦前まで集落で子供が産まれた時に使う産水や旧正月の若水を汲んでいました。「メーヌウタキ/前ヌ御嶽」の西側には自然の丘を利用した「仲泊の一里塚/A・B」があります。琉球王府時代の主要道路(宿道)には一里(約4km)ごとに塚が設けられ、行き交う人々の目安となっていました。かつて「恩納村」の5箇所に一里塚がありましたが、現存しているのは「仲泊」と「真栄田」のみとなっています。また沖縄県内でも市町村内に2箇所の一里塚が残っているのは「恩納村」のみで貴重な文化財となっています。この「仲泊の一里塚」から西側の海岸線沿いには「海岸保全区域 琉球政府」と刻まれた石柱が建立されています。「琉球政府」は1952年から沖縄が日本に返還される1972年まで存在した統治機構で、この石柱は当時の歴史を知る上で貴重な資料となっています。
2023.02.10
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(メーヌウタキ/前ヌ御嶽)沖縄本島北部の西海岸最南端に「恩納村/おんなそん」があり、国道58号線沿いに「仲泊/なかどまり集落」があります。この集落は昔から「首里・那覇・名護・国頭」のほぼ中間地点にあたり、沖縄本島を行き交う旅人がこの土地で一泊したことから「仲泊」の地名が付いたと言われいます。琉球王府時代には近隣村の産物が「山原船/ヤンバルブニ」により那覇方面に運ばれる港として栄えました。「マーラン船」とも呼ばれるこの船は江戸時代から戦前まで琉球で荷物輸送に使われた2本マストの小型帆船で、主に沖縄本島北部の山原地域から薪や農林産物を那覇方面に運んだ事から「山原船」と称されました。更に1910年(明治43)に県道が「仲泊集落」まで開通すると、客馬車の起点と終点として多くの人々で賑わっていたと伝わります。(メーヌウタキ/前ヌ御嶽の祠内部)(メーヌウタキ/前ヌ御嶽のニジリヌカミ/右の神)(メーヌウタキ/前ヌ御嶽のフクギ林)(メーヌウタキ/前ヌ御嶽の石柱)「仲泊集落」は焼物に使われる良質な赤土(赤陶土)の産地で、昔は「山原船」で那覇の「壺屋」へ陶土が運ばれていました。集落では「シジヤマ」という山から掘り出した陶土を船がいつ来ても良いように港に積み上げており、その場所は「ンチャマジミモー/陶土眞積毛」又は「コージサーモー」と呼ばれていました。「仲泊」の海岸は水深が浅かったため陶土の積み込みに苦労したと言われており「イノー地」と呼ばれる約200mほど溝を掘り船が容易に通れるようにしました。「仲泊集落」の南西側に「メーヌウタキ/前ヌ御嶽」の祠があります。御嶽の祠内部にはウコール(香炉)が設置されており、この祠から見て右側には御嶽の土地神である「ニジリヌカミ/右の神」が祀られています。「メーヌウタキ」は高樹齢のフクギ林があり、木々の手前には「メーヌウタキ」の古い石柱が建立され、霊石と共にウコールが祀られています。現在の「仲泊集落」は「メーヌウタキ」がある場所から津波被害のため移動したと伝わり、この御嶽がある場所は集落の「フルジマ/古島」や「ムトゥジマ/元島」であった言われています。(アシビナー/遊び庭)(アシビナー/遊び庭の拝所)(アシビナー/遊び庭の拝所/祠内部)(アシビナー/遊び庭の拝所)「仲泊集落」の中央部に昔から集落の行事等で老若男女が集う「アシビナー/遊び庭」と呼ばれる広場があります。この広場には戦後に造られた「アシビナーの神」や「ヒヌカン」とも呼ばれる拝所の祠が建立されており、祠内部には石造りウコール1基と陶器製ウコール2基が設置され泡盛、水、シルカビ(白紙)に米が供えられています。かつて「フルジマ」で行われていた「タチウガン/立ち御願」がこの祠で行われており、戦前までは「アシビナー」の「ターチューギー/双子の木」の前で祈願が行われていたと言われています。この「アシビナー」では旧暦9月9日に「ウスデーク/臼太鼓」という女性だけで行われる、集落の五穀豊穣と住民の無病息災を祈願する円陣舞踊が催されます。その昔、臼を太鼓代わりに叩いていた事から「臼太鼓」と呼ばれるようになったと言われています。「仲泊集落」では数十人の女性がお揃いの紺地の着物に赤い鉢巻きを締め、高樹齢のガジュマルやフクギの下を手踊りの他にも扇子や四つ竹(竹製の打楽器)を持ちながら踊ります。(龍宮之神/陶土眞積毛)(龍宮之神の祠内部)(仲泊海岸/イノー地)「仲泊区文化交流センター」の北側約100mの位置の海岸沿いに「龍宮之神」の祠が「仲泊海岸」に向けて建立されています。祠に祀られている「龍宮神」は海の航海安全や豊漁を祈願する海の神で、祠の内部には「龍宮之神」と刻まれた石柱、石造りウコール、陶器製ウコール、花瓶、霊石が設置されています。集落の「シジヤマ」から掘り出した陶土を集積する「ンチャマジミモー/コージサーモー」はこの「龍宮之神」の祠付近にあったと言われています。戦前までこの位置には「陶土眞積毛」の石碑が建立されていましたが、戦後になるとその代わりに「龍宮之神」の祠が造られたと伝わっています。「仲泊海岸」は全長約600mに渡り自然浜が南北に続いており、ウミガメが産卵する美しい海岸として知られています。2020年6月3日には、ウミガメが産み落としたピンク色でピンポン玉の大きさほどの卵が124個確認されました。(クシヌウタキ/後ヌ御嶽)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の祠)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の祠内部)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽のヒジャイガミ/左の神)「仲泊集落」の北側に「恩納村立仲泊小学校」があり、この敷地内に「クシヌウタキ/後ヌ御嶽」があります。2本の背の高いヤシの木に挟まれた祠内部にはウコールと霊石が祀られており、祠から見て左側には「ヒジャイガミ/左の神」が御嶽を守護しています。この御嶽は集落が「フルジマ」から現在の場所に移動してから造られたとされ「フルジマ」のものは「メーヌウタキ」で、移動後のものを「クシヌウタキ」と称するようになりました。「仲泊集落」在住の古老によると集落で認知症により徘徊で行方不明になる高齢者は、昔から2つの御嶽の間では必ず無事に保護されますが、御嶽に挟まれた地域外では残念ながら死体で発見されてきたそうです。集落の前後に御嶽があることによって「仲泊」の「ウスデーク」歌の一節では次のように謳われています。『仲泊島や だんじゅ とよまりる しり口や御嶽 中や親島』(親王森)(親王森の石碑)(黄金森と刻まれたウコール)(仲魂之塔)「クシヌウタキ」と「シーサイドドライブイン」の間に「親王森」と呼ばれる丘陵があります。この丘陵の頂には石碑が建立されており「黄金森」と刻まれた石造りウコールが祀られています。日本の皇族で軍人でもある「北白川宮能久親王/きたしらかわのみやよしひさしんのう(1847-1895)」が1895年(明治28)に日清戦争により日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征した際に「仲泊集落」に立ち寄り、この丘陵の森で休憩した事から「親王森」と言われるようになりました。この森の海側に隣接して「仲魂之塔」の石碑が建立されており、沖縄戦で犠牲になった戦没者46名の氏名が記載されています。この土地には戦前までは「フルジマ」から移設されていた集落の「ガンヤー/龕屋」という小屋があり、死者を収めた棺を墓まで運ぶ「ガン/龕」と呼ばれる輿を収納していました。
2023.02.03
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(浜崎御嶽/恩納グスク)沖縄本島北部の最南端で西海岸沿いに位置する「恩納村/おんなそん」に「恩納集落」があります。このムラは1531(嘉靖10)〜1623(天啓3)年に琉球王府により編纂された歌集である『おもろさうし』に「おんなやきしま」の語が度々見られ『おもろさうし第十七』は「恩納より上のおもろ御さうし」とされています。昔から「恩納集落」は琉球王国の中でも際立って関心が持たれた場所であると言われています。1673年に「読谷山間切」と「金武間切」の両地域から分割して新しく「恩納間切」が創設され、間切を統治する役所である「番所」もこの「恩納集落」に設置されました。さらに「恩納間切」を総領する役職である「親方惣地頭」も「恩納親方」と呼ばれていました。(恩納村多目的広場から見た恩納グスク)(恩納グスクの入り口)(浜崎御嶽の標識)(恩納グスクの頂上へ向かう山道)「万座毛」の近くにある「恩納村海浜公園ナビービーチ」から北側に約300mの場所に「恩納グスク」があり、丘陵の南側麓にグスクの入り口があります。『おもろさうし』が編纂される以前「恩納集落」には「赤平/アカヒラ血統」と「クーシー屋血統」の2つの古代部落が存在していました。この「恩納グスク」一帯は「赤平家」を中心とした血縁的集団が部落を形成し、部落の祖霊神である「恩納グスク」を拝所として生活を営んでいたと言われています。なお「恩納集落」の草分け的な創始家である「ニーチュ/根人」と「ニーガン/根神」はこの「赤平家」から出ています。この2つの古代部落が山間部から降り、現在「兼久」という地名なっている砂堆地で合併した土地が「恩納集落」の「古島」と呼ばれています。(浜崎御嶽の祠)(浜崎御嶽の祠内部)(平場にある霊石)(恩納グスクのアコウ)「恩納グスク」の南側頂上には平場があり「浜崎御嶽」の祠が建立されています。この御嶽は1713年に琉球王府により編纂された地誌である『琉球国由来記』に『浜崎嶽 神名 ヨリアゲノイベナヌシ 恩納村』と記されており『毎年三・八月、四度御物参之有祈願。且、年浴之時、仙香・花米五合宛・神酒二宛百姓中供之。恩納巫ニテ祭祀也。』との記述があります。祠内部にはウコール(香炉)が設置されており霊石が祀られ、御賽銭が供えられていました。「恩納グスク」の頂上には岩丘があり、約20年前まで西側に接して高さ約80cmの石垣に囲まれた施設跡がありました。その背後には石門があり降って岩丘の裏側に通じた石畳道となっていたと伝わります。さらに、この岩丘裏の岩陰の土中から人骨片が発掘され、戦前まで周辺には大きな人骨甕が2つ隠されていたと言われています。(崎浜御嶽のイビの大岩)(崎浜御嶽のイビに祀られる霊石)(崎浜御嶽のイビ)(崎浜御嶽のイビを囲む野面積み)「浜崎御嶽」の祠が向いている方向の山中には「浜崎御嶽」のイビ(威部)である岩丘が聳えており、この御嶽が鎮座する「恩納グスク」は琉球石灰岩を基盤とする標高20〜25mの丘陵に形成されています。グスク時代に構築された「恩納グスク」の前面は西海岸に面しており、現在も城壁と平場が確認できます。城壁は主に野面積みで、城壁やその周辺からはグスク土器やカムイ焼、中国製の青磁や石器、さらに獣骨や貝殻などが発掘されています。グスクの城壁の石積み技法は「野面積み→布積み→相方積み」へと変化して行ったと考えられ、現在の「恩納村」で「相方積み」の城壁が確認されているのは「恩納グスク」のみで、グスク時代初期の歴史の古いグスクであると言えます。(恩納グスクの珊瑚岩)(隆起した珊瑚岩)(珊瑚岩の岩肌)(珊瑚岩の岩肌)「恩納グスク」の南東側に続く台地一帯に「城内之殿/グスクウチヌトゥン」があり、この土地には「赤平血統」の「マキョ」と呼ばれる古代部落が存在していました。『琉球国由来記』には『城内之殿 恩納村 稲穂祭之時、シロマシ一器・麦神酒二器百姓中、五水四合両惣地頭、供之。恩納巫ニテ祭祀也。』と記されています。ノロや根神である神女が集落の祭祀の際に歌う「ウムイ/オモイ」と呼ばれる神唄があります。恩納村で「ウムイ」が残っているのは「恩納集落」のみで「舟のウムイ・海のウムイ・山のウムイ・しらちなのウムイ」があります。その中の「海のウムイ」は次の通りとなっています。『海のおもい / 六月御祭 すくとい』"にれや うぇもの かれや うぇもの すぶくだら えーくだら うちみずる うちはだら いのなぎん ひしなぎん とさばにん やさばにん ちきてたぼり"
2023.01.27
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(吉の浦歌碑/吉の浦公園)沖縄本島中部にある「中城村/なかぐすくそん」の中央部に「当間/とうま集落」があり、この集落の東海岸線沿いに「吉の浦公園」があります。この公園には村民体育館、ごさまる陸上競技場、野球場、テニスコート、ゲートボール場、遊具等があり、村民を中心に利用される憩いの場となっています。この「吉の浦公園」の入り口に「吉の浦歌碑」が建立されており、歌碑には『とよむ中城 よしの浦のお月 みかげ照り渡て さびやないさめ』と刻まれています。この歌の意味は『有名な中城の よしの浦の月は 光美しく照り渡り さえぎるものもない』となっています。その昔「護佐丸・阿摩和利の乱」により混乱を極めた「中城村」の地ですが、今となれば天下は平和に治り何の災難もないという円満な世の中を歌っています。(吉の浦歌碑)(中城村のマンホール)「吉の浦歌碑」に記された歌は「国頭朝斉/くにがみちょうさい(1686-1747年)」により詠まれ「国頭親方」とも呼ばれた歌人であり唐名は「向秉乾」といいました。1718年に進貢正使として中国に渡り、さらに1925年には年頭慶賀使として薩摩に上国したと伝わります。「国頭朝斉」は「沖縄三十六歌仙/おきなわさんじゅうろっかせん」という琉球王国時代における代表的な歌人36名のうちの1人でした。琉球王国末期の著名な政治家であり歌人の「宜湾朝保/ぎわんちゅうほ」が1870年に編纂した沖縄初の和歌集『沖縄集』に「沖縄三十六歌仙」の歌が掲載されています。ちなみに首里出身の「宜湾朝保」は13歳で家を継ぎ宜野湾間切(現宜野湾市)を領して「宜野湾親方朝保」と呼ばれた琉球の「五偉人」の1人として知られています。現在、この歌は中城村のマンホールの蓋に採用されており、多くの人々に愛され親しまれています。(仲松門中/屋号大仲松の屋敷)(ウマアシグムイ跡)(中城村立吉の浦保育所のシーサー)廃藩置県後「当間集落」の海沿いにある小字「浜原/はまばる」に「仲松姓/洪氏」の人達が「屋取/ヤードゥイ」を形成し「高江洲屋取/タケーシヤードゥイ」または「当間の下/トーマヌシチャ」と称されていました。この土地を開拓した「仲松/ナカマチ門中」は首里士族の子孫で1879年以後に西原村仲伊保に移り住み、そこから「当間集落」の西側に移住したと言われています。その中でも最初に移り住んだのが最も海岸に近い屋号「大仲松」でした。「高江洲屋取」の住民は移住してきた当初は「当間集落」の豪農の家に住み込みで働き、お金を貯めて徐々に土地を増やしていったと言われています。系統の家に屋号「大仲松/ウフナカマチ・御殿地/ウドゥンジ・井ヌ下/カーヌシチャ・上仲松/イーナカマチ・前砂原/メーシナバル・後砂原/クシシナバル」などがあります。かつて屋号「大仲松」の屋敷の東側には「仲松門中」が所有していたサーターヤー(製糖小屋)で働く馬を洗う「ウマアシグムイ」がありました。(屋号井ヌ下/沖縄そば専門店まるち中城店)(屋号井ヌ下の古井戸跡)(沖縄そば専門店まるち中城店/旧ちゅるげーそば)屋号「大仲松」の東側で「ウマアミシグムイ」の北側に「仲松門中」系統である屋号「井ヌ下」の屋敷があり、現在は「沖縄そば専門店まるち中城店」として営業しています。この沖縄そば店は築約80年の古民家を利用した地域でも非常に有名な沖縄そば店で、以前は「ちゅるげーそば」の店名で長年多くの地元住民から観光客にも愛されていました。この屋号「井ヌ下」の屋敷には古井戸跡がありウコール(香炉)が設置され水の神様を祀っています。現在、井戸の水は枯れていますが、かつては「高江洲屋取」の貴重な水源の一つとして重宝されていたと考えられます。また「高江洲屋取」には「カーラーヤー/瓦葺の家」が14軒あったと伝わります。当時「カーラーヤー」は金持ちの象徴で「当間集落」に移住した屋取の人々は当初財産がなかったため『人が2歩歩いたら自分は10歩歩く』と言って、一生懸命に財産を増やしたと伝わります。(スガチミチ/村道潮垣線/ンマイー)(龍宮神)(龍宮神の祠)(サチハマヌカー/崎浜ヌ井戸)屋号「井ヌ下」沿いには「スガチミチ/村道潮垣線」が南北に通っています。この道はかつて馬の走り方の美しさを競う「琉球競馬」が行われていた事から「ンマイー」とも呼ばれていました。この道沿いで屋取の「サーターヤー」が昔あった場所に「龍宮神」が祀られる祠が東の海に向けられ建立されています。この場所は海から約200m離れた内陸にありますが、大潮や台風の際には「スガチミチ」まで塩水が流れ込む自然被害が頻繁にありました。この「龍宮神」は海の安全を祈るためにこの位置に祀られたと考えられ、戦前から屋取の人々のみならず「当間集落」の住民に拝されていました。「龍宮神」の祠から北西側に約200mの場所には「サチハマヌカー/崎浜ヌ井戸」があります。戦前、この周辺は石山になっており、井戸は生活用水の為ではなく昔から拝所として拝まれていたと伝わります。(旧県道/村道吉の浦線)(屋号西前ン田小/旧雑貨屋)(屋号仲前ン田小/旧雑貨屋)「当間集落」の中心部を南北に通る「旧県道」に戦前まで馬車駆動が通っており、現在「村道吉の浦線」として人々の暮らしに欠かせない道路となっています。この道沿いにある屋号「西前ン田小」と、現在「中城観光協会」の西側にある屋号「仲前ン田小」は集落で2件あった「マチヤー/雑貨屋」でした。屋号「西前ン田」の雑貨屋では母屋の別棟で米や日曜日を販売していました。さらに屋号「仲前ン田小」の雑貨屋は母屋の軒下にトタン屋根を伸ばして営んでいました。この雑貨屋では酒や塩などの専売品や食用油、砂糖、米、灯油などタバコ以外の日用品は何でも売っていたそうです。この雑貨屋の家主は荷馬車を所有する「馬車ムチャー」であったため、那覇に砂糖樽を卸した帰りに様々な商品を仕入れていたと言われています。(ウマヌチミクマサー/蹄鉄師の作業場跡)(タバコヤー/ダンパチヤー/ソバヤー跡)(タムトゥガー)「旧県道/馬車駆動」沿いで「中城観光協会」の北側に、かつて「ウマヌチミクマサー/蹄鉄師」と呼ばれる馬車馬や農耕馬の蹄鉄を装蹄する職人の作業場がありました。「当間集落」の「トーママーチュー」は馬車駆動の中継地点であった事から、この場所で開業していたと考えられます。更に「中城観光協会」の土地には戦前まで「タバコヤー/たばこ屋・ダンパチヤー/床屋・ソバヤー/そば屋」が軒を連ねていました。首里出身の人が床屋を営み「ダンパチヤーのターリー(父さん)」と呼ばれていたそうです。その後、長男に床屋を任せて「ターリー」は隣でタバコを販売していました。「ダンパチヤー」の北側に隣接して「ソバヤー」があり「山城」という名前の女性が沖縄そば屋を営んでいました。この「ソバヤー」は製糖作業で働く若者達で繁盛していたと伝わります。この「ソバヤー」の北東側には「タムトゥガー」と呼ばれる井戸があり、戦前は海石のカブイ(蓋)が付けられていました。昔は井戸の水量も豊富で良質な水であった事から豆腐作りに重宝されていたと言われています。
2023.01.20
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(トーママーチューの殿/ノロー殿)沖縄本島中部の西海岸沿いに「中城村/なかぐすくそん」があり、この村の中央部に「当間/とうま集落」があります。現在の「当間公民館」の敷地から国道329号線を含む西側一帯はかつて松の大木が生い茂る松林が広がり「トーママーチュー/当間松」と呼ばれていました。そこは沖縄の真夏の暑い太陽が照りつけても木陰になるため、集落の住民が涼みに集まる社交場として親しまれていました。お年寄りが孫を連れて遊ばせたり、昼寝をするといった平和な光景があったと言われています。また「トーママーチュー」の東側を通る旧県道には「西原製糖工場」に収穫したサトウキビを運搬するため「泡瀬」から「与那原」までの区間を南北に馬車駆動が敷設されていました。(トーママーチューの殿/向かって左側)(向かって左側の祠内部/火の神/氏神)(トーママーチューの殿/向かって右側)(向かって右側の祠内部/殿神)現在、かつて「トーママーチュー」と呼ばれた場所には「殿/トゥン」の祠が2つあり「ノロー殿/ノロードゥン」と呼ばれています。向かって左側の祠には「火の神/氏神」が祀られ、向かって右側には「殿神」が祀られています。戦前は「当間公民館」のゲートボール広場の南側に祠が建立されていましたが、戦後の国道建設に伴い現在の場所に移設されました。集落の「グングヮチウマチー/5月稲穂祭」と「ルクグヮチウマチー/6月稲大祭」の際には「当間集落」を管轄する「屋宜ノロ」により祭祀が執り行われました。「当間集落」は「泡瀬」と「与那原」の中間地点にあり「トーママーチュー」は馬とトロッコムチャー(サトウキビの運搬業者)が交代する交換所となっていました。そのため乗客の休憩場や馬に餌を与える場所として村内外の人々に広く知られていたと伝わります。(トーママーチュー)(旧県道/馬車駆動跡)(ミジャレーヌサンカク)(ミジャレー橋跡)「トーママーチュー」の西側にはかつて馬車駆動として使われていた「旧県道」が南北に通っており、この道は現在「県道吉の裏線」と呼ばれています。「旧県道」の南側の屋号「新仲門/ミーナカジョー」の屋敷の隣に「ミジャレーヌサンカク」と呼ばれる場所があり、戦前まで三角形の畑地となっていました。ちなみに「新仲門」の「仲門門中」は「義本王」3代目が元祖と伝えられており、本家は北中城村「字喜舎場」の屋号「上ヌ安里/イーヌアサト」と言われています。「ミジャレーヌサンカク」の土地は収穫したサトウキビの集積所として利用され、この地点から「旧県道」に敷設されたトロッコにサトウキビを積み込み馬に引かせて「西原製糖工場」へと運んでいました。この「ミジャレーヌサンカク」から更に南側には戦前まで「ミジャレー橋」という橋が架かっていました。(ビジュルグムイ)(サーターヤーヌメー/ウマアミシグムイ跡)(サーターヤーヌメーのカーラ)「ミジャレー橋跡」の東側に「ビジュルグムイ」という湧き水の溜池があり「ヘンザガー」とも称されていました。周辺は草に覆われていますが現在も水が湧き出ています。「ミジャレーヌサンカク」の北西側に「サーターヤーヌメー」と呼ばれる場所があり、隣接して「当間集落」の各組(集落における住民編成)が営む「サーターヤー/製糖小屋」が3箇所並んでいました。「上組/イーグミ」は屋号「前喜友名・亀前喜友名小」などが営み「中組/ナカグミ」は屋号「前喜屋武・上喜屋武・東喜屋武・新仲」などが運営し「下組/シチャグミ」の家が所有していました。かつて「サーターヤーヌメー」の側には「ウマアミシグムイ」という溜池があり「カーラ/川」に隣接している事から水量も多く「サーターヤー」で使った馬の体を洗う時に利用されていました。クムイ(溜池)の入り口から徐々に深くなり馬を洗う地点まで石が敷き詰められていました。製糖で使った馬は作業が夜遅くまで続いても必ず綺麗に洗ってから馬小屋に戻しました。もし馬を汚れたまま戻すと、馬の疲れが取れずに翌日に働く事が出来なかったと伝わります。(ガンヤー/龕屋跡)(ターチムイ)「サーターヤーヌメー」の北西側にかつて木造瓦葺きの「ガンヤー/龕屋」があった場所があります。火葬が一般化する以前は遺体を納めた棺桶を墓まで運ぶ「ガン/龕」と呼ばれる漆塗りの輿があり、それを収納しておく小屋は「ガンヤー」と言われていました。「ガン」を担ぐ人は体力がある青年が選ばれ「ガンカタミヤー」と呼ばれました。遺体を乗せた「ガン」を担いでいる時は、重さでどんなに肩が痛くても肩を左右に入れ替えてはいけなかった慣習がありました。もし途中で肩を入れ替えると、後ろで「ガン」を担ぐ人が早死にすると信じられていました。この「ガンヤー」の北側には2つの山の間に「ンナトゥガーラ」と称する道が通っており、この一帯は「ターチムイ/2つ森」と名付けられていました。なお、集落の住民の多くはこの森に薪を拾いに行っていました。(タントゥイモー)(上ヌ池ニー/イーヌイチニー)(上ヌ池/イーヌイチ跡)「当間集落」の西側で現在の「中城メモリアルパーク」の上方に「タントゥイモー」と呼ばれる丘陵があり、集落の祭祀に使用する神酒を造る為の稲を育てる「ナーシル/苗代」として利用され、旧暦の11月に稲ね発育を祈願する「タントゥイ/種子取」の行事が行われていました。また「タントゥイモー」周辺一帯は屋根ね葺き替えに使われる茅が生い茂る「カヤモー/茅毛」となっていました。「タントゥイモー」の東側には「上ヌ池ニー/イーヌイチニー」という、かつて松の木が生えていた場所があり「上ヌ池/イーヌイチ」という名前のクムイ(溜池)がありました。「タントゥイ」の行事の際には住民が松明を持って「タントゥイモー」から降りてきて「上ヌ池ニー」の広場を3回周って下方の「サーターヤー」近くの「ウマアシグムイ」まで下って行ったと言われています。(クボーウタキ/クボー御嶽)(クボーウタキ/クボー御嶽のウコール)(クボーウタキ/クボー御嶽の石碑)「当間集落」の南西側にある「小字久保原/クボーバル」と、隣接する「安里集落」の「字安里」の境界付近にある森の中に「クボーウタキ/クボー御嶽」があります。「シチャクボー/下クボー」や「安里クボー」とも呼ばれるこの御嶽は、1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に『コバウノ嶽 神名 コバウ森御イベ 安里村』と記されており「安里集落」の拝所として書き述べられています。「クボーウタキ」のイビ(威部)にはウコール(香炉)が北向きに設置され、古いビジュル石(霊石)が建立され祀られています。御嶽の周辺にはマーニ(クロツグ)やクバ(ビロウ)が生い茂っており「安里集落」では稲の豊作祈願と収穫を祝う「グングヮチウマチー/5月ウマチー」と「ルクグヮチウマチー」の際に拝しています。
2023.01.14
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(山田ヌ殿/ヤマダヌトゥン)「当間集落」は沖縄本島中南部の西海岸に広がる「中城村/なかぐすくそん」の中央部にあります。「当間集落」の南北に通る国道331号線の西側に集落発祥の丘陵があり、国道の東側に広がった「屋取集落」の平地は中城湾まで続いています。「中城村役場」「中城観光協会」「吉の浦公園/ごさまる陸上競技場」など中城村の主要施設は「当間」に属しています。この集落は「久保原/グローバル・平原/ヒラバル・犬川原/イヌガーバル・佐久川原/サクガーバル・前原/メーバル・比嘉田原/ヒジャタバル・浜原/ハマバル」の7つの小字から成り立っており、琉球王国時代の「当間村」には現在の「北上原」の一部の「榕原/ガジバル・若南原/ワカナンバル」を含めた広い面積がありました。(山田ヌ殿/向かって右側)(山田ヌ殿/向かって左側)(山田ヌ殿/移設された拝所)「当間集落」の北西側に「山田ヌ殿/ヤマダヌトゥン」があります。屋号「山田」の北側に位置しており「山田門中」は集落の創始家とされ、ムラで行われる祭祀の中心的な役割を担ってきました。年中行事であるチナヒチ(綱引き)の際、先祖供養の為に列になり練り歩き「山田ヌ殿」に向います。集落の北側(イーグミ/上組)と南側(シチャグミ/下組)がお互いの隊列や踊りを乱す「ガーエー」と呼ばれる勝負をした後、めでたい先例である「カリー/嘉例」をつけて祈願しました。戦前は旧暦7月16日に行われる「ワラバーヂナ/子供綱引き」と翌日17日の「ニーセージナ/青年綱引き」があり、さらに7年毎(マール)に「ウフヂナ/大綱引き」が行われ「マールヂナ」とも呼ばれています。綱引きは集落の安泰と豊作を祈願する大切な行事で、どんな悪天候でも必ず行われたと伝わります。「山田ヌ殿」に向かって左側に隣接する祠は、かつて西側の畑の中にあったものが移設されたと言われています。(山田ヌ井戸/ヤマダヌカー)(山田ヌ井戸の湧き水)「山田ヌ殿」の北側に「山田ヌ井戸/ヤマダヌカー」があり「カブイ」と呼ばれる石積みの屋根が施されています。この井戸は現在も水が湧き出ており、旧暦1月2日に行われる「ハチウビー/御初水」は水に感謝する日とされ「山田ヌ井戸」は拝されています。この井戸がある屋号「山田」の家は「根人/ニーチュ/ニーンチュ」と呼ばれる集落創始の家系「根屋/ニーヤー」の当主で、かつては「当間集落」の祭祀を管轄した「屋宜ノロ」と共に祭事を司りノロの補佐役として重要な役割を担っていました。因みに「屋宜ノロ」は「当間・奥間・安里・屋宜」の4つのシマを管轄していました。「山田門中」は綱引きの際に使われる灯籠や旗頭などの保管場所となっていました。「イーグミ/北組」の旗頭には「和気」「協力一致」と記され「シチャグミ/南組」の旗頭は「清風」「南北豊年」となっています。(ヒージャーガー)(かつて松の木があった休憩場所)(ヒージャーのクムイ/溜池)(仲前ン田小のサーターヤー跡)「山田ヌ殿」の北側に「ヒージャーガー」と呼ばれる井戸跡があり、かつては正月に汲まれる若水として利用されていました。水源の北側丘陵の土砂崩れが起こる以前は水量が豊富で2mほどの水深があり子供達が水浴びをしたと伝わります。戦後に「ヒージャーガー」の水を利用する為に「山田ヌ殿」の敷地にタンクが設置され、集落の3箇所にパイプを通し簡易水道として利用されていました。現在この井戸跡の近くに鉄塔が建てられていますが、昔は大きな松の木があり地元の人達が休憩する場所として利用されていたそうです。「ヒージャーガー」の西側に「ヒージャー」のクムイ(溜池)があり、こちらも戦前は若水を汲んでいたと言われています。このクムイに隣接して屋号「仲前ン田小」が所有していた「サーターヤー/製糖小屋」があり、戦後は牛舎として利用されていました。(仲門前ヌ殿/メーヌトゥン)(仲門前ヌ殿/メーヌトゥンに向かって右側)(仲門前ヌ殿/メーヌトゥンに向かって左側)(仲門ヌ前/ナカジョーヌメー)「当間集落」の中央部に「仲門前ヌ殿/ナカジョーメーヌトゥン」があり、旧暦2月1日の悪疫祓いの行事である「ニングヮチャー」の際に拝されています。地元住民からは「ニングヮチャーヌトゥン」または、屋号「仲門/ナカジョー」の向かいに位置しているため「前ヌ殿/メーヌトゥン」と呼ばれていました。「仲門前ヌ殿」の敷地と隣接した道を含めた一帯は「仲門ヌ前/ナカジョーヌメー」と称され「ニングヮチャー」の行事では牛を潰し牛汁を炊き「仲門前ヌ殿」に供えました。また「仲門ヌ前」には集落の住民が集まり皆でそれを食しました。更に潰した牛の生血を「ギキチャー」と言うミカン科の木である「月橘/ゲッキツ」の枝葉に付けて持ち帰り、屋敷の四隅に魔除けとして挿したと伝わります。また集落の四隅にも同様に生血を付けた月橘の枝葉が設置されたと言われています。(仲門前ヌ殿のクムイ/溜池跡)(ムラガー/ウブガー)(屋号伊佐の井戸)「仲門前ヌ殿」の西側に隣接した場所にはかつてクムイ(溜池)があり防火用の水を溜めていました。昔の集落は茅葺きの家がほとんどで、火事が度々起きていたと言われています。この溜池から道を挟んだ場所に屋号「西仲門/イリナカジョー」の屋敷があり、敷地内には集落の共同井戸である「ムラガー」があります。昔から水が豊富に湧き出る井戸で、集落で子供が産まれた時に使用する「産水」を汲んでいた事から「産井戸/ウブガー」とも呼ばれていました。また、この井戸の北側にある屋号「久手堅」の脇に小高い丘があり豊富な水が湧き出ていました。その下方にある屋号「伊佐」には溢れ出た湧き水が堰き止められ、水が溜まる井戸が設置されていました。現在は堰き止めた石積みの前にコンクリート製の枠が設置されています。(ヌール道)(屋号眞境名小の井戸)(ノロの休憩場所)「仲門前ヌ殿」の南西側に「ヌール道」と呼ばれる道があり「グングヮチウマチー/5月稲穂祭・ルクグヮチウマチー/6月稲大祭」の時に「当間集落」で祭祀を終えた「屋宜ノロ」が「安里集落」に向かう際に通った道と言われています。屋号「眞境名小」の屋敷手前に大きなガジュマルの木があり、ノロはその木陰で休憩を取った後に現在国道331号線を通り「安里集落」に向かったと伝わります。古老の話によるとウマチーの祭祀の際に「ウンサダイ」と呼ばれるノロのお供は「屋宜ノロ」を乗せる駕籠を用意して担いでいましたが、ノロはそれには乗らず祭祀の際に着用する白装束だけ駕籠に置いて皆と共に歩いたとの伝承があります。その為「当間・奥間・安里・屋宜」の4つのシマを管轄した「屋宜ノロ」が全てのウマチー祭祀を終えるのは夜遅くだったと言われています。
2023.01.07
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(カニさんトンネル)沖縄本島北部の「ヤンバル/山原」の森に「大宜味村/おおぎみそん」があります。この自然豊かな村の最北端で西海岸線沿いに「カニさんトンネル」と呼ばれる隧道が通っています。「田嘉里川」河口の西側約200mの位置で「謝名城集落」の北側を通る国道58号線の地下にトンネルがあり、その名称の通りカニやヤドカリ等の甲殻類の為に造られたトンネルとなっています。「カニさんトンネル」の周辺は沖縄本島西海岸では珍しいマングローブ林があり、この場所には泥が溜まり穴を掘り易く涼しく、さらに餌も摂りやすいため「オカガニ」にとって良い住処となっています。それと同時に海岸へ渡る甲殻類の交通事故が多発する場所でもあります。甲殻類のロードキルを減少させる目的として1996年に「カニさんトンネル」が完成しました。(カニさんトンネルの陸側にある墓地)(カニさんトンネルの入り口)(カニさんトンネルの内部)「カニさんトンネル」の陸側には墓地の丘陵となっており「オカガニ」や「オカヤドカリ」が多数生息しています。トンネル内部を覗くと海岸に続いており甲殻類が上手くトンネルの入り口を見つけられるように誘導の為のコンクリート壁が設置されています。さらに通常は海岸に生えている木々を植えたり砂浜を敷き詰めて甲殻類がトンネルに入り易くする為の工夫がされています。「オカガニ」類は陸棲のカニで沖縄本島では「オカガニ・オオオカガニ・ヘリトリオカガニ・ムラサキオカガニ」の4種が生息しています。「オカガニ」は陸棲でありながら幼生期を海で過ごすため、繁殖期になるとメスのカニが放卵のために海岸に降りる習性があります。5〜12月の満月前後の夜に満潮時刻になると一斉に身体を震わせて放卵を開始します。(カニさんトンネルの海岸側)(海岸側から見たトンネル内部)(海岸側の波消しブロック)「オオヤドカリ」は亜熱帯の気温に適した生き物です。気温が15度を下回ると活動が鈍り仮死状態に陥り、この状態が長く続くと「オオヤドカリ」は生存できません。アダンやグンバイヒルガオ等の海浜植物の群落付近に生息し、昼間は石や岩の下に隠れています。一般的なヤドカリは海生で水上にあまり出ないのに対して「オオヤドカリ」は陸上で生活をする為、脚やハサミが太く頑丈である特徴があります。また陸上での生活に適応するために貝殻の内部に少量の水を蓄え、柔らかい腹部を乾燥から守り陸上でのエラ呼吸も可能となっています。「カニさんトンネル」の海岸側は波消しブロックに隣接しており、放卵する満潮時刻には海水が目の前に達ています。さらに、防波堤には「カニ渡りネット」が設けられトンネルを利用しない甲殻類も防波堤を上手く越える事が出来ます。(カニさんトンネルの案内板)(カニさんトンネル)沖縄の方言で「カンダクェーガニ」と言う「オカガニ」や、方言で「アーマン」と呼ばれ国の天然記念物に指定されている「オオヤドカリ」の他にも「カニさんトンネル」周辺には「ベンケイガニ」や「カクレイワガニ」も生息しています。周辺の防波堤には甲殻類が爪を引っ掛けて登る為の切り込みが刻まれ、垂直に立つ縁石に斜めの切り込みが入れられています。さらに甲殻類が道路に出ないように高さ50cmの「エコパネル」が設置され、横断水路の入り口斜面を穏やかにしたり上り易くする為の工夫が施されています。その結果「カニさんトンネル」設置後、甲殻類のロードキルの件数は減少しています。『内閣府 沖縄総合事務局 北部国道事務所』は甲殻類のロードキル撲滅に向けてドライバーに走行注意や減速運転を呼びかけています。
2023.01.01
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(ウカミ/ムラヒヌカン)沖縄本島の中南部で中城湾の東海岸線沿いに「中城村/なかぐすくそん」があり、村の中央部に「奥間/おくま集落」があります。この集落の中心部にあるゲートボール場の一帯は「トゥンナー/殿庭」と呼ばれ、戦前は現在の公民館にあたる「ムラヤー」があり旧暦8月15日の「十五夜」の行事が行われていました。集落の人々は月が昇る前に「トゥンナー」に集まり、筵(竹を編んで作った敷物)にお酒を出して宴会を開き広場では獅子舞の演舞等が催されました。また、当時は「奥間集落」の神事を管轄していた「屋宜ノロ」がウマチー(豊作祈願/収穫祭)の行事の際に立ち寄る大きな瓦屋があったと言われており「トゥンナー」は「奥間集落」において重要な祭祀場であったと伝わります。(ウカミ/ムラヒヌカンの祠)(ウカミ/ムラヒヌカンのウコール)「トゥンナー」の一角に「ウカミ/ムラヒヌカン」と呼ばれるコンクリート製の祠があり、内部には3つの霊石が祀られ正面にはウコール(香炉)が設置されています。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に記されている『古隠座敷之殿 奥間村』に相当すると考えられ『稲二祭之時、花米九合宛・五水六合宛・神酒一宛・シロマシ一器当奥間座敷殿ニ奥間地頭、神酒一宛・シロマシ一器宛・五水二合宛、神根之殿・中奥間之殿・古隠座敷之殿、三ケ所者同村百姓中、供之。屋宜巫ニテ祭祀也。且、祭之前日ヨリ祭ノ朝食マデ、巫・根神二員・掟アム一員、根神之殿ニテ二度、百姓中ヨリ馳走也。』との記述があります。「十五夜」の行事の際には「トゥンナー」にある「ウカミ/ムラヒヌカン」の祠に「フチャギ」と呼ばれる、茹でた小豆をまぶした餅をお供えしたと言われています。(ヒヌカン/火の神)(ニーヤー/根屋/仲村渠門中)「トゥンナー」の南側にマーニ(クロツグ)が生い茂る平場があり中央部には霊石が3体置かれた「ヒヌカン」があり、旧暦6月15日の稲の収穫祭である「六月ウマチー」の際に拝されています。さらに「トゥンナー」の東側に隣接して「ニーヤー/根屋」である「仲村渠門中/ナカンダカリムンチュー」の屋敷があり『琉球国由来記』には『古隠根所 奥間村 毎年六月、為米初、神酒二同村百姓中供之。屋宜巫ニテ祭祀也。』と記されています。「仲村渠門中」は「奥間集落」の創始家系統の家で祖先は1962年に出版された『琉球祖先宝鑑』に記述には「天孫子」の子孫である「百名大君」の系統で、玉城村(現南城市)の「仲村渠集落」の「ミントン」という家の出身であると記されています。「百名大君」の子孫である「中城グスク按司」が「奥間集落」に移り「イーガーバル/上川原」に屋敷と井戸を構えた事が「仲村渠」の始まりであると伝わります。(トォークマウドゥン/当奥間座敷之殿)(トォークマウドゥン/当奥間座敷之殿の祠内部)(ニーチュ/根人/幸地門中)「トゥンナー」の北側に「トォークマウドゥン/当奥間座敷之殿」があり、横幅1.2m・高さ0.9m・奥行0.7mの祠が建立されています。『琉球国由来記』には『当奥間座敷之殿 奥間村』と記されており、5月と6月のウマチーの際には「屋宜ノロ」により祭祀が行われていました。屋号「幸地」に保管されている『当奥間世系之図』には、羽衣伝説で知られる宜野湾間切謝名村出身の「奥間大親」の3男である天久按司の家とあります。「座敷」と呼ばれる役職は琉球士族の称号「親雲上」の品位「従四品」にあたる位階となっています。「トォークマウドゥン」の東側約60mのばしょには「ニーチュ/根人」である屋号「幸地」の家があります。『当奥間世系之図』によると「当奥間」と同じく「奥間大親」を祖先とし「当奥間」の初代から数えて3代目から分家しています。「幸地」は「ニーチュ」の系統の家と言われていますが「奥間」の「ニーヤー」である「仲村渠」とは系図上の繋がりがないと言われています。(クシベーヌチナヌウガンジュ)(クシベーヌチナヌウガンジュの祠内部)(ムラガー/親井戸)(ガンヤー/龕屋跡)「トゥンナー」からナカミチを北側に進むと「クシベーヌチナヌウガンジュ」の祠があります。ナカミチを境に北側は「クシベー」と呼ばれ、このウガンジュは「クシベー」の拝所として綱引きの前に祈願されていました。「クシベーヌチナヌウガンジュ」から東側の民家と民家の間に「ムラガー/親井戸」があり、現在は手押しポンプが取り付けられています。正月にこの井戸から若水を汲み、茶を沸かして飲み一年の健康祈願をしました。また、年の初めに祈願する「ハチウビー/御初水」や集落で子供が生まれた時の産水を汲んだ「ウブガー/産井戸」として利用されていました。「ムラガー」沿いの道を南東側に向かうとかつて「ガンヤー/龕屋」があった場所があります。「ガンヤー」とはかつて葬式の時に死者の棺を墓まで運ぶ「ガン/龕」と呼ばれる輿を収めていた小屋の事を言います。(合祀所)(チナーヤマ/喜納山)(チナーヤマ/喜納山の森)「奥間集落」の北側に「チナーヤマ/喜納山」があり、1970年頃に起きた土砂崩れにより流された「チナーウタキ/喜納御嶽」と「按司墓」に加えて、集落が発祥した「字北上原」の「シマクのウガン/キシマコノ嶽」への遥拝所が合祀されたコンクリート製の拝所があります。「チナーウタキ」は『琉球国由来記』に『喜納ノ嶽 神名 奥間森比喜セジノ御イベ 奥間村 屋宜巫崇所』と記されています。更に「按司墓」は琉球王国の三山時代に最後の中山王として即位していた「武寧王/ぶねいおう(在位 1396-1405年)」の墓として伝えられており、各地域からの参拝者が多数訪れます。この合祀所がある「チナーヤマ」は戦前「ニーチュ」により管理され『平日にチナーヤマに入って薪を取ると祟りが起こる』との言い伝えがあるほど平日の入山は厳しく規制され、年に一度の特定の日にしか山に入る事が許されていなかったと言われています。(チナーヌカー/喜納ヌ井戸)(メーヌカー/前ヌ井戸)(メーヌカー/前ヌ井戸)(シマクのウガン/キシマコノ嶽)「奥間集落」の中央を通る「ナカミチ」を北西側に進み突き当たった場所に「チナーヌカー/喜納ヌ井戸」があります。井戸は「チナーヤマ」の麓にあり、土砂崩れの以前にあった「チナーウタキ」の入り口に位置しており「ハチウビー」の際に集落の住民に拝されていました。「チナーヌカー」の南側で集落の西側を流れる「メーガーラ」沿いには「メーヌカー/前ヌ井戸」と呼ばれる井戸があります。戦前は各家で豆腐を作っており、この井戸の水質は良く美味しい豆腐が出来る事で重宝されていました。また、日照りが起きた時も水が枯れる事がなく利用されており「チナーヌカー」同様に「ハチウビー」の際に拝まれていました。「奥間集落」北側の「字北上原」に「御願毛」と呼ばれる山の頂上に「シマクのウガン」があり「奥間」の発祥地として以前はウマチーの際に拝されていました。『琉球国由来記』には『キシマコノ嶽 神名 天次アマツギノ御イベ奥間村 屋宜巫崇所』と記されています。
2022.12.28
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(イービヌメー/イベノマエノ嶽)沖縄本島中部の西海岸線沿いに「中城(なかぐすく)村」があり、村の中南部に「奥間(おくま)集落」があります。この集落の東側には中城湾の海が広がり、周囲は「安里・南上原・北上原・津覇」の4集落に隣接しています。「奥間集落」は斜面部と平坦部に分かれており、西側の斜面部は標高約150mの丘陵で島尻層のクチャ(泥岩)で覆われています。この斜面部の麓から平坦部にかけて集落が形成され、北側と南側には集落を挟むように2つの川が流れています。「奥間集落」の古島は北上原にある「シマクのウガン/キシマコノ嶽」の辺りにあったと伝わります。その後、集落の南側丘陵にある「上川原/イーガーバル」の山側から「イービヌメー/イベノマエノ嶽」に移り、最後に現在の「奥間原/ウクマバル」に移ったと伝わっています。また「奥間」の名前の由来は三方を丘陵に囲まれた奥まった場所に集落があった事に因んでいると言われています。(イービヌメーの祠の石組)(イービヌメーのウコール)(イービヌメー後方の珊瑚岩)「奥間集落」の南西側にある「上川原」の森に「イービヌメー」の拝所が鎮座しています。慰霊塔に隣接した「酵素風呂琉球の陽」の南西側約100mに位置している御嶽は、1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に『イベノマエノ嶽 神名 コダガマノ御イベ 屋宜巫崇所』と記されています。この場所に「奥間集落」草分けの「根屋/ニーヤー」である屋号「仲村渠/ナカンダカリ」の屋敷跡があり井戸もあったと言われています。マーニ(クロツグ)が生い茂る中にある「イービヌメー」の祠には古い霊石とウコール(香炉)が祀られており、この石造りウコールの正面には「奉寄進」と刻まれています。石組で形成された祠の後方には珊瑚岩が隆起しており、周囲にも人工的に加工された岩が並べられています。この御嶽までの道のりは深い草木に覆われて険しい森となっていますが「中城王子の墓」として「シーミー/清明祭」の際に訪れる参拝者もいる事で知られています。(イービヌメーの遥拝所)(イービヌメーの遥拝所の祠)(イービヌメーの遥拝所のヒヌカン)「イービヌメー」の御嶽の北側約50mの位置には遥拝所であると考えられる祠とヒヌカン(火の神)が祀られています。「イービヌメー」への道は足場の悪い深い森の中を進み、湧き水が流れているクチャ(泥岩)の窪みを越えて行くため、この拝所は高齢者や足の不自由な参拝者が拝む為の「イービヌメー」への遥拝所であると思われます。コンクリート製の祠には霊石とウコールが祀られており、向かって右側に隣接するヒヌカンには3体のビジュル(霊石)を取り囲むように石組が施されています。戦前の「奥間集落」は「宇津原/ウチューバル・海平原/ウンビラバル・桃原/トーバル・奥間原/ウクマバル・喜納原/チナバル・上川原/イーガーバル・前原/メーバル・浜原/ハマバル」の8つの小字から成り立っていました。現在は東側平坦部の「海平原・桃原」まで集落が広がっています。(カミジョーウタキ/上門御嶽)(カミジョーウタキ/上門御嶽の祠内部)(イーヌマウタキ/上間御嶽)(イーヌマウタキ/上間御嶽)「イービヌメー」から東側に約100mの位置に「カミジョーウタキ/上門御嶽」があります。慰霊塔と民家の間に小道があり、この道を進んでゆくと御嶽の祠があります。『琉球国由来記』に『神根之殿 奥間村』と記されている御嶽の祠は現在、コンクリート製に改修されており屋根には昔の祠に使われていた石が置かれています。祠内部には霊石が祀られており前方にはウコールが設置されています。戦前まで「ウマチー」と考えられる「カミジョーアシビー/上門遊び」の際に「屋宜ノロ」により祭祀が執り行われていました。さらに「カミジョーウタキ」の北側に約50mの小高い丘に「イーヌマウタキ/上間御嶽」に祠が鎮座しています。『琉球国由来記』に記されている『中奥間之殿』に相当する拝所であると考えられ、祠は横幅1.1m・高さ0.5m・奥行0.8mで内部には霊石が祀られています。旧暦7月16日の「ウークイ」の際、集落の綱引きの前にメーベー(集落北側)の祈願が行われていました。(ヒージャーガー)(メーミチ/前道)(メーガーラ)「奥間集落」の綱引きの祈願が行われた「イーヌマウタキ」に隣接した位置に「ヒージャーガー」と呼ばれる井戸跡がありコンクリートで四角に囲まれています。綱引きは2回行われ1回目は真剣勝負で、2回目は1回目で負けた組に勝たせて必ず引き分けで終わらせていました。綱引きは男性が綱を引き女性が応援にまわっていたと伝わります。「ヒージャーガー」に沿って「メーミチ」が通っており「メーガーラ」と称する川が並列して流れています。源流は北側丘陵の「喜納原」にあり、昔までは広かった川幅は戦後の道路拡張により現在の姿になっています。かつて集落南東側の「メーガーラ」沿いにはメーベーの「サーターヤー/製糖小屋」があり、製糖作業で使用した道具をこの川で洗っていました。また「メーガーラ」の水深は浅く集落の子供達の遊び場であったと言われています。(シム小屋敷地内のヒヌカン)(シム小屋敷地内のヒヌカンの祠内部)(ナカミチ/中道)「ヒージャーガー」の東側に約100mの場所に「シム小屋敷地内のヒヌカン」の祠があり「内間のヒヌカン」とも呼ばれています。屋号「シム小/姓は伊佐」の屋敷地内にある拝所で「奥間集落」のヒヌカンの「もと」と言われています。集落は東西に広がっている為、このヒヌカンから火種を取り集落の中央部にあるもう一つのヒヌカンに火を分けたとの伝承が残されています。旧暦2月2日に豆の豊作を祈願する「ニングヮチャー/クシユックヮシー」で「シム小屋敷地内のヒヌカン」が拝されていました。この祈願が終わると「シム小」屋敷の庭で大きい鍋で肉を煮炊きして酒を飲んで宴会をしていたと言われています。この屋敷に沿って集落を東西に伸びる「ナカミチ」が通っています。「奥間集落」の境界線となっており南側をメーベー(前組)、北側をクシベー(後組)と呼んでいました。(クシミチ/後道)(クシガーラ)(マチヤー/比嘉商店跡)「奥間集落」の北側に「クシミチ」と呼ばれる道が東西に渡り通っており、綱引きの道ジュネーで「クシベーヌチナヌウガンジュ」にクシベー(集落南側)の祈願に向かう際に通る道となっています。「クシミチ」に隣接して「クシガーラ」という川が流れています。この川の源流は集落の南西側丘陵に位置する「宇津原」にあり、戦後の道路拡張により川端が昔よりも狭くなっています。さらに、集落の東側の「海平原」には「奥間集落」で唯一のマチヤー(商店)がありました。現在、ペットクリニック「モーキャラン」となっている場所に「比嘉商店」というマチヤーがありました。瓦葺きの2階建ての家で「伊舎堂小/イシャドウグヮー」という人が店を営んでいました。この「比嘉商店」には米や醤油をはじめ、大抵の商品が揃っていました。そのため集落の住民はほとんどこの商店で買い物を済ませて重宝していたと伝わります。(竜宮神の拝所)(竜宮神の霊石)「マチヤー/比嘉商店跡」の北側丘陵には「フトゥキントゥー」と呼ばれる墓地地帯で、民家と墓地の間に「竜宮神」の拝所があり祀られた霊石の周りに石組が施されています。この拝所は中城村教育委員会の資料には「名称不明」の拝所と記されていますが、拝所に隣接する民家の住人の方が親切にも拝所の場所まで同行して頂き、昔から伝わる「竜宮神」である事を丁寧に教えてくれました。その昔は春先になると中城村の漁業関係者が祈願のために訪れて拝していたと伝わります。「竜宮神」の拝所は小高い丘陵の上に鎮座しており、石碑は東側に広がる中城湾に向けられています。一般的な沖縄の「竜宮神」の拝所は海沿いの浜辺周辺に祀られていますが、この拝所は東側の海から約800m離れた「海平/ウンビラ」と呼ばれる見晴らしの良い丘陵にあります。この「海平」は「屋宜ノロ」が「奥間集落」でウマチーの祭祀を執り行う際に利用した聖地であったとの伝承が残されています。
2022.12.21
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(字平安山拝所)沖縄本島中部の西海岸に北谷町「浜川(はまがわ)集落」があります。この集落の南側でかつて「アマジチメー」と呼ばれた浜辺の墓地群には現在「字平安山拝所」があります。沖縄戦の以前「浜川集落」の南側に「平安山(へんざん)集落」がありましたが、戦後は「伊平・上勢頭・下勢頭」の3つの字に分割され、その大部分の土地は米軍嘉手納基地の敷地内にあります。その為、昔より「平安山浜川」と併称されるほど繋がりがあった「浜川集落」の土地に「字平安山拝所」が移設され「白露之神」「字地川之神」「殿之神」の拝所が合祀されています。「平安山集落」の「平安山ノロ/ハンザンヌル」と呼ばれる祝女は「平安山/ハンザン・浜川/ハマガー・砂辺/シナビ・桑江/クェー・伊礼/イリー」の5つの集落の祭祀を管轄していました。(白露之神の石碑)(字地川之神の石碑)戦前の「平安山集落」には「平安山ウガン」と称する拝所があり、二十四節期の第15にあたる八月節(旧暦7月後半から8月前半頃)の「白露/はくろ」に集落の有志がシル豆腐を供えて「白露の拝み」を行なっていました。さらに2月・3月・5月・6月の豊作祈願と収穫祭である「四ウマチー」の行事では「平安山ノロ」が祭祀を行いました。この「平安山ウガン」は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に記されている『オヤギヤクイ君ガ嶽 神名 イシノ御イベ 平安山村』に相当すると考えられます。「平安山の合祀所」には「字地川之神」の石碑も祀られており「字地川/ウーチヌカー」は「平安山」の先祖達が使用したカー(井戸)と伝わり、古老によると昔「字地川」では雨乞い祈願が行われていました。まず男達が井戸で豚を一頭潰し、豚の骨や肉を拝所の霊石に供え「平安山ノロ」により祈願されます。祈願を終えたノロは雨乞いの「ウムイ/神唄」を歌いながら「字地川」の水を村人にかけながら水の神に雨乞いしたと言われています。(殿之神の石碑)「殿/トゥン」はかつて「平安山集落」の北側で屋号「イリウフヤグヮー/西大屋小」から西側に向かう道の角にありました。『琉球国由来記』には『平安山之殿 平安山村』と記され『麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水八合宛此時、朝神・夕神二度、神酒一宛・シロマシ一器平安山地頭、神酒二半宛芋。平安山村百姓中、供之。平安山巫ニテ祭祀也。』との記述があります。「殿」で行われていた主な行事は旧暦2月2日から4日の3日間催された「クスッキー/腰憩め」と「平安山ノロ」が祭祀を執り行った「四ウマチー」でした。3日間行われる「クスッキー」の初日には「殿」で悪疫の集落侵入を防ぐ行事である「シマクサラサー/シマクサラシ」が行われ、集落では「アカフーゲーシ」とも呼ばれていました。この行事は男性を中心に行われ「殿」には豚の骨片を吊るした左縄を張り悪疫の侵入を阻止しました。また「四ウマチー」では「平安山ノロ」は白装束に身を包み、頭にはヤマカンダー(山葛)と白ハチマキをしめて祭祀を行ったと伝わります。(孔連廟/コーシビョウの拝所)(孔連廟の石碑とウコール)(孔連廟のガマ)「字平安山拝所」に向かって左側に隣接して「孔連廟/コーシビョウ」と呼ばれるガマ(洞窟)が祀られる拝所があります。「浜川集落」のウカミヤー(御神屋)に伝わる古伝によると集落の創始者は中国から渡来した後、この「孔連廟」のガマで暮らし始め、このガマで亡くなったとの伝承があります。コンクリート製の拝所に向かって右側に鉄格子が設けられ、その前方に「孔連廟」と刻まれた石碑が建立され2基のウコール(香炉)が設置されています。この鉄格子の奥に「孔連廟」のガマ入り口があります。「孔連廟」は3月の二十四節気の第五節気(旧暦2月後半から3月前半頃)のシーミー(清明祭)の入日に島豆腐・天ぷら・昆布・豚肉・かまぼこを詰めた重箱を供えてムラシーミー(村清明とも呼ばれるカミウシーミー(神御清明)を行います。(喜友名小屋取/チュンナーグヮーヤードゥイ拝所)(ゆしみぬ神の石碑)(ゆがふの神の石碑)(うぶ井戸の石碑)「孔連廟」のガマが祀られた拝所に向かって左側に隣接して「喜友名小屋取/チュンナーグヮーヤードゥイ拝所」があり3つの石碑と三基のウコールが祀られています。「喜友名小屋取」は北谷町北部一帯に広がっていた屋取部落で「浜川集落」に属していました。「屋取/ヤードゥイ」とは首里の士族が沖縄の各地に帰農して荒地を開墾し住み着いた土地を言います。戦前「喜友名小屋取」の4箇所に「ユシミヌカドゥ/四隅の角」と呼ばれる拝所があり、現在は「ゆしみぬ神」として祀られています。屋号「ヤマーハマガージー/山浜川地」にあったビジュル(霊石)を祀った拝所では豊年満作と健康祈願を行うニングヮチャーの時に拝されており、現在は「ゆがふの神」として祀られています。さらに「喜友名小屋取」で子供が生まれた時に産水として汲まれていた「ウブガー/産井戸」も一緒に合祀され「うぶ井戸」と刻まれたの石碑が建立されています。(アーマンチューガマ/向かって左側)(アーマンチューガマ/向かって中央)(アーマンチューガマ/向かって右側)「喜友名小屋取拝所」から北西側に約300mの場所に「アーマンチューガマ」と呼ばれるガマがあります。戦前までこのガマは浜辺に隣接しており、洞穴の奥には人骨が散在していたと言われています。戦後は「アーマンチューガマ」の西側の干潟は埋め立てられ、現在このガマは「宮城海岸」から約500mの内陸に位置しています。「アーマンチュー/阿摩美津」とは「天の人」を意味し、沖縄を開闢したと伝わる「アマミキヨ/阿摩美久」の語源であると言われ「アマミチュー」の名称でも知られています。このガマは「アマミキヨ」が降臨した伝説があり旧暦2月の「ニングヮチャー」や旧暦3月の「カミウシーミー」の際、隣接する「砂辺集落」や他市町村から供え物を持ち寄って拝されています。今日の「アーマンチューガマ」はブロックで遮蔽され二基のウコールが設置されていますが、ガマの右側奥は洞穴の口が空いており内部を窺う事が出来ます。(オータチャーヌシー/ウシックヮーガマ跡)(オータチャーヌシーの墓地)(オータチャーヌシーの森)「アーマンチューガマ」から北東側に約100mの位置で「砂辺ヌ前屋取/シナビヌメーヤードゥイ」の入り口付近に「オータチャーヌシー」という高さ10〜15m程の岩山があります。この岩山は「浜川集落」では「オータチャー」と呼ばれ、集落の墓はこの岩山の周辺に多くあった事から子供達は怖がって近付かなかったと言われています。かつて「オータチャーヌシー」の西側に通る「ハルミチ」の側に「ウシックヮーガマ」と呼ばれる洞穴がありました。このガマの入り口は大きく、覗くと水が見え石を投げ込むと水音がしたそうです。集落の古老によるとガマの中には塩水が溜まっていたため西側の海と繋がっていたと言われていました。「ウシックヮーガマ」の上は見晴らしが良く木々は余り生えていなかった為、漁業を営む家は網や漁具を干す場所として重宝されていたと伝わります。(砂辺ヌ前の合祀所)(砂辺の前ビジュル)(龍宮神)「浜川集落」の北側で「砂辺集落」に隣接する場所は「砂辺ヌ前屋取」と呼ばれ、首里の士族や大宜味村「屋古集落」から移住してきた家々が連なっていました。「オータチャーヌシー」の北側で屋号「クシヌアラグシク/後ヌ新城」の西側角の場所に「砂辺ヌ前の合祀所」があります。この部落に点在していた「上の井戸/ウィヌカー・中の井戸/ナカヌカー・下の井戸/シチャヌカー」が合祀された拝所があります。この拝井戸に隣接して「砂辺の前ビジュル」の祠が建立されており石造りウコールが設置されています。このビジュルの拝所は旧暦2月2日のニングヮチャーに豊年満作と健康祈願で拝されています。さらに「砂辺の前ビジュル」に向かって右側には航海安全と豊漁を祈願する「龍宮神」の祠が移設されています。戦前は「砂辺ヌ前の合祀所」の西側約300mの位置に砂浜があり「龍宮神」はこの周辺に建立されていたと考えられます。(砂辺ヌ前屋取の石敢當)(マチグムイヌシーグワァー跡)「砂辺ヌ前の合祀所」の南東側に約50mの位置に「石敢當/イシガントウ」の大小2つの霊石が祀られています。「石敢當」とは丁字路や角に設けられた魔除けの事で、この「石敢當」は戦前からこの場所を守り続けていると考えられます。また「砂辺ヌ前の合祀所」の南西側約300mの場所には「マチグムイヌシーグワァー」と呼ばれる岩がありました。屋号「マカルートゥキシグヮー/真苅渡慶次小」の先に構えており、この岩に登る3段の階段があったと伝わります。岩は保安林に覆われ周囲にはモクマオウ(トキワギョリュウ)が植えられていました。更に大きなイノー(珊瑚礁に囲まれた礁池)が広がり、旧暦6〜8月頃のスク(アイゴ)が寄る時期には集落の住民がエンダーと呼ばれる漁具でスクを捕っていたと言われています。現在「マチグムイヌシーグワァー」の岩は消滅し周辺は埋め立てられ、この岩の跡地は「宮城海岸」から約200mの内陸となっています。
2022.12.16
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(ヨリアゲノ御嶽/浜川ウガン)沖縄本島中部の西海岸に「北谷町/ちゃたんちょう」があり、この町の北西部に「浜川集落」があります。沖縄の言葉で「ハマガー」と言うこの集落の中心部には「ヨリアゲノ御嶽/浜川ウガン」があり、この御嶽の森の西側沿いに戦前まで「テツドー」と呼ばれる「沖縄県営鉄道嘉手納線」が南北に走っていました。1922年3月に開業した鉄道は那覇市「小波蔵駅」と嘉手納町「嘉手納駅」を結び全長は22.4kmでした。太平洋戦争末期の1945年3月に運行を停止し、沖縄戦で米軍により路線施設が破壊され消滅しました。この「テツドー」が通る以前は海岸線の「シラハマ」という名前の砂浜が集落の近くまで押し寄せていたと伝わります。この「シラハマ」は現在は埋め立てられていますが、戦前まで集落の住民の恰好の水浴びの場でした。(浜川ウガン/ハマガーウガン)(浜川ウガン/ハマガーウガンの祠内部)奇岩屹立した「ヨリアゲノ御嶽」の岩山(シー)の南側麓に「浜川ウガン/ハマガーウガン」の祠があり「浜川オガン/ハマガーオガン」とも呼ばれています。「浜川ウガン」は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『島森ヨリアゲノ嶽 神名 イシノ御イベ 浜川村 平安山巫崇所』と記されています。琉球石灰岩が用いられた寄棟造の家形祠は南側に向けて建立されており、祠内部には3基の石造りウコール(香炉)と霊石が祀られています。戦前まで旧暦2月には集落に悪疫の侵入を防ぐ行事である「シマクサラシ/シマクサラサー」が行われ、旧暦3月には父方の共通先祖を持った「門中/ムンチュー」と呼ばれる血縁者達が本家に集まりご先祖様の墓参りをする「カミウシーミー/神御清明」で拝されていました。(ヨリアゲノ御嶽の按司墓)(ヨリアゲノ御嶽の按司墓)(按司墓の陶器製厨子甕)「浜川ウガン」の祠北側には「ヨリアゲノ御嶽」の岩山が聳えており、丘陵のほぼ頂上付近の斜面に「按司墓」があります。墓前には2基の石造りウコールが祀られており墓は野面積みの石垣を土台にブロックが5段に積まれています。このブロックの上部は開いた造りとなっており古琉球の風葬墓である事が見て取れます。この風葬墓の内部には三基の蓋の無い陶器製厨子甕が安置されており、厨子甕の内部に人骨が確認出来ます。この古墓は「浜川集落」の土地を治めていた按司の墓で、陶器製厨子甕の細かい装飾から見て、この三基の厨子甕に葬られた人物達は身分の高い豪族の物である事が分かります。古琉球では崖や洞窟に遺体を置き数年間かけて腐敗を待ち洗骨し厨子甕に納骨します。崖や洞窟は古来「現世と後世」の境界の世界と考えられ、聖域であると同時に忌むものとされていました。(ヨリアゲノ御嶽の古墓)(ヨリアゲノ御嶽の森)(ヨリアゲノ御嶽の森)「按司墓」の下方で「ヨリアゲノ御嶽」の丘陵中腹にアコウの根が幾つも絡みついた古墓があります。墓門には石造りウコールと霊石が祀られており、墓に向かって左側にはあの世のお金である「打紙/ウチカビ」を焚く「銭倉/ジンクラ」が設けられています。この古墓も「按司」に関係する人物の墓であると考えられます。「浜川ウガン」や「ヨリアゲノ御嶽」がある岩山の森は「浜川ウガン遺跡」として北谷町文化財指定第一号として登録されています。この遺跡の丘陵南側には8〜10世紀の貝塚が形成されており、丘陵の上部から投棄された遺物が地層に組み込まれていると考えられています。また、この遺跡は祭祀遺跡の可能性もあり詳しい調査が必要だと言われています。類例遺跡として伊是名島の「アギギタラ貝塚」があります。(字浜川旧部落の銘石)(殿之神/浜川之殿)(殿之神/浜川之殿の祠内部)「浜川ウガン」の南側に隣接する場所に「殿之神」の祠があり「浜川之殿」とも呼ばれています。『琉球国由来記』には『浜川之殿 浜川村 麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水八合宛此時、朝神・夕神二度、神酒一宛浜川地頭、神酒三宛芋。同村百姓中、供之。平安山巫ニテ祭祀也。』との記述があります。また、1731年に成立した漢文による地誌である『琉球国旧記』には『浜川殿 在浜川邑』と記されています。祠内部には「殿之神」と刻まれた石碑がありウコールと霊石が祀られています。「殿之神」で行われる行事は旧暦2月に豊年満作と健康祈願する「ニングヮチャー」、旧暦2月の麦の初穂祭である「ニングヮチウマチー」、旧暦3月の豊漁と海の安全を祈願する「サングヮチャー」、旧暦5月の稲の豊作祈願の「グングヮチウマチー」、旧暦6月の稲の収穫祭である「ルクグヮチウマチー」で「ウカミヤー/御神屋」と呼ばれる屋号「クラニー/蔵根」の家が取り仕切っていました。(瀧宮神)(瀧宮神のヒヌカン/火の神)(合祀拝所)「殿之神」の祠に向かって左側に「瀧宮神」があり、安良波原の西側海岸に連なる「アラファヌシー」と呼ばれる岩礁の「瀧宮神」へ遥拝する為に設けられたと伝わります。戦前は背の高いスーティーチャー(ソテツ)があり、それを目標にして祈願が行われていたと伝わります。「瀧宮神」があるこの広場は旧暦3月3日に重箱を持ち寄り海の神様にお供えして拝していました。この「瀧宮拝み」の行事が終わった後に酒宴を行なっていた事から、この一帯は「サングヮチャーモー」と呼ばれています。「瀧宮神」に向かって右隣りに3体のビジュル石と1つの霊石が祀られた「ヒヌカン/火の神」があります。「瀧宮神」に向かって更に右側奥には4基のウコールが並んでおり「拝所カーシヌシー」「拝所アワグルン」「拝所トグチヌマタ」「拝所シリーン作」と記されています。「カーシヌシー」は集落の北側で米軍嘉手納基地の敷地内に位置する岩山の事で、現在この4基のウコールは米軍嘉手納基地内に点在する拝所をウトゥーシ(御通し)する合祀拝所だと考えられます。(メーガー/浜川集落の合祀井戸)(浜川集落の合祀井戸のウコール)(浜川集落の合祀井戸の建物内部)「浜川ウガン」から南東側に約200メートル程の位置に「浜川集落の合祀井戸」があります。集落には先人達が使用したと伝わる「メーガー・クシヌカー・イリヌカー・イリクシヌカー」の4つのカー(井戸)があり、この合祀井戸には「メーガー」に他の3つの井戸が併せて祀られています。「クシヌカー」は国道58号線の拡張により消滅しましたが、子供が生まれた時の産水を汲む「ウブガー/産井」として使用されていました。「イリヌカー」は集落の西側にあった事からその名称が付けられ「イリクシヌカー」は集落の西側後方で現在の国道58号線上にありました。合祀拝所には向かって右側から「前之神井戸・後之神井戸・西之神井戸・西後之神井戸」と記された銘石があり、前方には4つの井戸を示す4基のウコールが祀られており、一番手前には合祀拝所を祀るウコールが設置されています。(アマジチメー)(ウカミヤー/御神屋)「ヨリアゲノ御嶽」の西側で「シラハマ」の北側一帯は「アマジチメー」と呼ばれ、海岸沿いに沢山の墓がありました。ここは昔から病死した家畜や浜に流れ着いた水死体、さらに無念仏などを葬る土地でした。また、この地には「ナーファバカ/那覇墓」という墓があったと伝わり、その墓の主は那覇の人であったと言われています。現在もこの場所には多数の大きな「カーミナクーバカ/亀甲墓」が点在しています。この「アマジチメー」にある屋号「クラニー/蔵根」の屋敷に「ウカミヤー/御神屋」があります。この家は「浜川集落」の草分けの家筋で、創始者を祀る建物は母屋とは別に屋敷の東側に所在しています。「浜川集落」の創始者を祀る仏壇がある「ウカミヤー」は「アサギ」とも呼ばれ、旧暦2月・旧暦5月・旧暦6月のウマチー(三ウマチー)の際に家主により拝されています。
2022.12.11
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(尚宣威王の墓)「尚宣威王/しょうせんいおう」(1430-1477年)は琉球王国第二尚氏王統の第2代国王(在位:1977年)です。第二尚氏王統の初代国王である「尚円王」の弟で、出生は伊是名島諸見村で神号は「西之世主/にしのよのぬし」でした。死去した場所は現在の沖縄市越来の「越来間切」で、死後に賜った諡(おくりな)は「義忠」となっています。「尚宣威王」は数え年の5歳の時に父母(尚稷/瑞雲)を失い、その後は兄の「金丸/後の尚円王」により養育されました。9歳の時に兄に付き添って首里に移り住み、1453年に下司(げし)士族階級の「家来赤頭/げらへらくかべ」に昇格し、さらに1463年には地方役人である「地頭代/親雲上」として「黄冠」を賜りました。兄が「尚円王」に即位した後は越来間切を領地として「越来王子」と称していました。(尚宣威王御墓の石碑)(尚宣威王の墓に向かう階段)(岩山中腹の入母屋式石製厨子)(岩山中腹の入母屋式石製厨子)沖縄本島中部にある沖縄市の中央部に「越来/ごえく集落」があり、集落の西側に沿って流れる「比謝川」と昔に流れていた「セーシャー川」が合流する場所にある岩山の中腹に「尚宣威王」の墓があります。「尚宣威王御墓」と刻まれた石碑が建立されており、この場所には古い時代に使われていたと思われる古い階段跡が残されています。「尚宣威王」の墓に向かう階段の途中にある岩肌の窪みに2基の入母屋式の石製厨子が現在も露わに置かれています。向かって左側の石製厨子には屋根型の蓋が施されていますが、向かって右側の石製厨子には蓋が無く前方に人骨らしき物体を確認できます。死後に風葬された遺体はある期間経過すると遺骨が取り出され、洗骨により洗い清めた後に厨子に納められます。この岩山中腹の石製厨子は「尚宣威王」に関わる人物のものであると推測されます。(尚宣威王の墓/尚宣威王御来歴の石碑)(尚宣威王の墓)(尚宣威王の墓に祀られたウコール)階段を登り切ると正面には「湧川家・普久原家・泉水家・角ヌ屋家」により建立された「尚宣威王御来歴」の石碑があり、高さ約3mの崖上に「尚宣威王」の墓があります。この墓の下には石製ウコール(香炉)が祀られており湯呑と花瓶が供えられています。1476年に「尚円王」が死去すると翌年、世子の「尚真」がまだ幼い事から群臣の推挙により「尚宣威」が第二尚王統第2国王に即位しました。しかし、その年の2月に琉球神道に伝わる陽神「キミテズリ/君手摩」が出現して、その神託により僅か半年で「尚宣威王」は退位しました。この「キミテズリ」はニライカナイに住む海と太陽を司る琉球王国の守護神で、王国の存亡の機に君臨するとされています。新しい国王の即位の儀式中に神女に憑依して神意を伝えると言われます。(ウナジャラ/王妃の墓)(ウナジャラ/王妃の墓)(ウナジャラ/王妃の墓のウコール)(ジンクラ/銭倉)「尚宣威王」の墓に向かって左側に隣接して「ウナジャラ/王妃」の墓があり、墓の下にはウコールと霊石が祀られています。さらに、この墓に向かって左側の角には「ジンクラ/銭倉」があり、あの世のお金である「ウチカビ/打紙」を焚く為の場所となっています。即位式で「尚宣威」を新王として讃えるはずの「キミテズリ」が「尚円王」と「オギヤカ/宇喜也嘉」の13歳の子である「尚真」を讃える次のオモロ(神歌)を唱え「尚真王」が即位しました。『首里オワル王(テダコ)我が思子ノ遊ビ見物、遊び躍(ナヨ)レバノ実物、鷲ノ羽差シ給ワチヘ。ト、神歌ヲゾ召サレケル。尚宣威王聞召シ給フテ、我ソノ徳ニ非ズシテ、帝座ヲ汚シタルコト、コレ天ノトガメ有リゲルゾヤトテ、在位6ヵ月ニシテ、御位ヲノガレテ、世子中城王子ヲゾ即位ナリ奉リ給フ。』これは王府の女官を掌握していた「尚円王」の未亡人であった「オギヤカ」の陰謀でした。(尚宣威王の墓に向かって右側の古墓)(尚宣威王の墓から降る階段)「尚宣威王」の墓に向かって右側には石が組まれた古墓があり2基の石製ウコールが祀られています。「キミテズリ」が唱えたオモロの意味は『我が世子の欣喜雀躍し給うみ姿の美しさよ、鷲の羽をかざし給う御子こそ、我が王である。』で、我が世子とは「尚円王」の世子「尚真」を指しています。このオモロを聞いた「尚宣威王」は愕然としてしまい、神女達が式場から退場すると不安に襲われながら引き上げていったと言われています。「尚真」は「尚円王」が50歳にして初めて授かった子で「尚真」の母后である未亡人の「オギヤカ」は、その当時32歳の権勢欲も虚栄心も十分に持った女盛りでした。そのため「尚宣威王」が「オギヤカ」の子である「尚真」に代わって第2代国王に即位した事に不満を持っていたと言えます。(尚宣威王の墓の麓にある古墓)(那志原貝塚の古墓)(那志原貝塚の古墓)(那志原貝塚の古墓)即位した「尚真王」は13歳と幼かったために母后の「オギヤカ」が政治の実権を握りました。この件について当時琉球王国に保護されていた朝鮮人漂流民が『朝鮮王朝実録』にて『世嗣の王は幼少で、母后が政治を見ている。』と供述した記録が残されています。「尚真王」は母后の意思で全琉球のノロ(祝女)を統括する「聞得大君/きこえおおぎみ」という最高神女職を設け「尚真王」の妹(オギヤカの長女)を任命し、沖縄本島南城市にある「斎場御嶽/セーファーウタキ」にて就任の儀式である「御新下り/うあらうり」が行われました。「キミテズリ/君手摩」のご加護を得て「聞得大君」としてのセジ(霊力)を身に宿すとされ、就任後は原則として生涯職となっていました。これにより「オギヤカ」は「政治の支配」と「神の神託」という形で民を統治し「尚円王・オギヤカ」一族によって琉球王国を完全支配する体制の基礎固めに成功したのです。(那志原貝塚の森)(大工廻の拝所周辺の墓)(比謝川と尚宣威王の墓の丘陵)「尚真王」は第二尚氏王統の歴代国王を葬られる墓所として、現在の那覇市首里金城町に「玉陵/玉御殿/たまうどぅん」を造営しました。1501年に建立された「玉陵の碑文/たまおとんのひのもん」には「玉陵」に埋葬されるべき被葬者の資格が刻まれており「尚円王」と「オギヤカ」の子孫のみか記されていて「尚宣威王」やその血統以外の者は除かれていました。これも事実上、王国の実権を握っていた「オギヤカ」の意思であると考えられています。「尚真王」が国王に就任すると「尚宣威王」は「越来間切」に戻り、半年後の8月に「越来グスク」にて病死したと伝わっています。「尚宣威王」の墓については、その墓の所在地に異説もあります。一つは「尚宣威王」の墓は北谷町の「北谷グスク」にある説と、もう一つは沖縄市津嘉山町の「津嘉山森遺跡」にあるという記録も存在しています。
2022.12.06
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(ヌルドゥンチ/祝女殿内)沖縄本島北部に広がるヤンバル(山原)の森に大宜味村があります。この村の北部に「謝名城」という集落があり「根謝銘/ニジャミ・一名代/テンナス・城/グシク」の3つの小集落が合併して構成されています。「根謝銘グスク」の西側にある「根謝銘集落」に「ヌルドゥンチ/祝女殿内」があり「城祝女/グシクノロ」により祭祀が執り行われます。「城ノロ」は「謝名城・喜如嘉・饒波・大宜味・大兼久」の5つの集落を管轄しており「ヌルドゥンチ」には「ヌル元祖・城ヌル火の神・若ヌル火の神」が祀られています。大正3年に発行された『沖縄県史料』には『謝名城ノロクモイ所蔵 一、宝物 黄金簪一ツ(花ノ周囲六寸五分 竿長三寸五分) 一、水晶ノ玉(頚環) 大四十九個 小五十一個 一、絹衣 大一枚 小一枚』と記されています。(ヌルドゥンチの石碑)(ヌルドゥンチの内部)1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には「ヌルドゥンチ」に祀られる「火の神/ヒヌカン」について次のような記述があります。『城巫火神 城村 四度・四品・百人御物参之時、有祈願也。稲穂祭三日タカベノ時、仙香・五水2合宛・花米九合城・喜如嘉・大宜味・饒波四ヶ村百姓。同穂祭之時、五水五合・神酒壱按司、五水五合・神酒壱惣地頭、五水二合・神酒一喜如嘉地頭、五水二合宛南風掟・西掟・喜如嘉掟、同四合・魚三斤・神酒壱城村百姓。同大祭三日崇之時、仙香・五水二合宛・花米九合宛右四ヶ村百姓。同大祭之時、神酒壱宛按司・惣地頭・喜如嘉地頭、同壱・魚三斤城村百姓。六月、束取折目三日崇之時供物、稲穂祭崇ニ同。同束折目之時、神酒壱宛南風掟・西掟・喜如嘉掟、同二・魚三斤城村百姓。』(ヌルドゥンチの神棚)(ヌルドゥンチの火の神)さらに『琉球国由来記』の記述は次のように続いています。『海神折目三日崇之時、供物、稲穂祭三日崇ニ同。同海神折目之時、神酒壱宛按司・惣地頭・福地掟、同一・餅一器城村百姓、餅一器福地掟、魚六斤城村百姓。柴指三日崇ノ時供物、稲穂祭三日崇ニ同。柴指之時、神酒一宛・魚壱斤宛大宜味・喜如嘉二ヶ村百姓、神酒一城村百姓。ミヤ種子並芋ナイ折目三日崇之時供物、稲穂祭三日崇ニ同。芋ナイ折目之時、神酒三・魚三斤・蕃薯拾四器城村百姓、供之。城巫祭祀也。』「ヌルドゥンチ」の神棚には「のろ御元祖」と「のろ御神」が祀られた二基の陶器製ウコール(香炉)と一基の鉄製ウコール、4個の湯呑、2本の花瓶が供えられています。また、火の神には「のろ御火の神」が祀られた二基の陶器製ウコールと一基の石造製ウコール、霊石が九個、湯呑三個、花瓶二本が供えられています。(ヌルドゥンチ/祝女殿内)(ヌルドゥンチの拝所)「ヌルドゥンチ」での祭祀が執り行われる際に建物入り口の戸走りに十本のウチナーウコー(沖縄線香)が供えられます。この十本の線香は(1)天の神 (2)火の神 (3)十二支の神 (4)杣山の神 (5)川の神 (6)クガニマク/城村の神 (7)ユナハマク/根謝銘村の神 (8)ユダヌマク/一名代村の神 (9)ニライカナイの神 (10)喜如嘉七滝の神に捧げられています。因みに「マク」は「マキョ」とも呼ばれる古琉球時代の村の形を意味します。「ヌルドゥンチ」に向かって右側に「根謝銘グスク」に向けられて拝所が設けられています。霊石が祀られ石造製ウコールが二基設置されています。2017年10月に「ヌルドゥンチ」の遺品調査が行われ、ケー(長持ち)の箱には「漆器丸櫃(高さ約十九センチ)」「竹筒(大小二本)」「瓶子(錫製酒瓶)」「湯沸かしの蓋(鉄製)」「茶たく(四枚/黒漆塗り)」「酒柱(丸型)」「青磁の香炉と花瓶」が収められていました。(根ガー/ナガー)(根謝銘グスク北西側の拝所)「ヌルドゥンチ」東側の森で「根謝銘グスク」西側丘陵の麓に「根ガー/ナガー」と呼ばれる井泉があります。アコウの木の根元にコンクリートで囲まれた井戸があり「根謝銘グスク」に向けてウコールが祀られています。「根ガー」の名称から古琉球時代に「城村」が発祥した場所に関わる井泉であると考えてられます。現在「根ガー」の水は枯れていますが、比較的に規模の大きな井戸で、昔は周辺住民の生活用水に使用された村ガーであったと推測されます。「村ガー」から「根謝銘グスク」の北西側の深い森を進むと拝所がありコンクリート製の祠が建てられています。現在この拝所を拝む人が絶えているようで祠内部の木材は朽ち落ち、かつて供えられていたウコール、湯呑、花瓶が破損して散乱しています。「城村」の根人や根神に関する拝所なのか、それとも門中拝所なのかは不明です。(ウドゥンガー/御殿泉の石碑)(ウドゥンガー/御殿泉)(ウドゥンガー/御殿泉)「ヌルドゥンチ」から東側のグスク丘陵麓に「ウドゥンガー/御殿泉」と呼ばれる井戸があります。「ウドゥンガー」は大正時代に整備された二対の湧水で「根謝銘グスク」がある「城原/グシクバル」の住民にとって大変貴重な水源地でした。昔は生活用水のみならず、洗濯用水や収穫した野菜を洗う井戸として二つの井戸を使い分けていたと考えられます。現在も懇々と水が湧き出ており、水源は神アサギや御嶽がある「根謝銘グスク」である事から「御殿泉」と名付けられたと推測出来ます。「ウドゥンガー」の向かって右側の井戸には石碑が建てられ、大きな石造り製ウコールが設置されています。また、向かって左側の井戸は水が枯れていますが、こちらも大きな石造り製ウコールが祀られています。現在でも農業用水として利用されている「ウドゥンガー」は神井戸として拝されています。(ハラガー)(ナハガー/中川)(ナハガー/中川の左側に脱がれ込む水)「ウドゥンガー」から南西側に数十メートル離れた場所に「ハラガー」がありウコールが設置されており、井戸に向かって右側には霊石が祀られています。現在「ハラガー」の水は枯れていますが、昔は周辺住民の貴重な水資源として重宝されていたと考えられます。また、旧暦8月10日頃に2年に1度の隔年に行われる豊年踊りが行われ、先祖供養の為にエイサーと共に集落を練り歩く「道ズネー/道ジュネー」の際には水の神に感謝して「ハラガー」が拝されます。さらに「ハラガー」の南側には「ナハガー/中川」と呼ばれる井戸があり、現在もコンクリートで囲まれた井戸には水が湧き出ています。「中川」と刻まれた石碑があるこの井戸に向かって左側には樋を通って水が勢い良く流れており、丸型に開いた地面の穴に水が注ぎ込まれています。(サンハー/下川)(フシキンチジ森)(クランマー/蔵庭)「ナハガー」から道を挟んだ南側に広場があり、民家の脇に「サンハー/下川」という井戸があります。現在コンクリートで仕切られた井戸の湧き水は枯れており、クワズイモをはじめとする亜熱帯植物で井戸は覆われています。「サンハー」の東側には「フシキンチジ森」と呼ばれる森があります。この森は背後にそびえる広大な「根謝銘グスク」に宿る山の神への御通し森であると考えられています。更に「フシキンチジ森」の西側には「クランマー/蔵庭」があり、昭和20年代までここで豊年踊りが行なわれたと伝わります。現在はその名残りとして「クランマー」まで「道ズネー/道ジュネー」を行い、三節(長者の大主・ながらた・上り口説)の嘉例(カリー)踊りが奉納されます。因みに「長者の大主/ちょうじゃのうふしゅ」は翁と媼を中心に子や孫等が登場し、感謝と喜びを込めて踊りつぐ華やかで明るい祝義舞踊として沖縄各地で受け継がれています。(根差部親方/ネサシップウェーカタの神屋)(根差部親方/ネサシップウェーカタの神屋の内部)(根神屋/ニガミヤー)「根謝銘グスク」の西側に「根謝銘集落」があり、根謝銘公民館の西側に「根差部親方/ネサシップウェーカタ」の神屋があります。「根差部親方」は首里王府の三司官の役職に就く役人でしたが、大島征伐の功績を妬む者達の策略により首里から根謝銘に都落ちしたと言われています。現在「根差部親方」の神屋は集落の守り神として祀られており「春の彼岸」「旧暦5月4日のユッカヌヒ」「秋の彼岸」に「根謝銘バール/インジャミ」で御願されます。神屋の内部にある仏壇には「根差部親方」を描いた古い掛け軸、ウコール、湯呑、花瓶が供えられています。さらに「根差部親方」の神屋の南西側には「根神屋/ニガミヤー」があり「根謝銘集落」発祥に関わる「根人/ニッチェ」が祀られています。もともとは「根謝銘グスク」にありましたが、現在地に移設され仏壇と火の神が祀られています。(大石の前/ウフイシヌメー)(潮崎/ウスザキ/根謝銘門丘/ネジャメジョウヂカサ)根謝銘公民館の東側に「大石の前/ウフイシヌメー」と呼ばれる大石が鎮座しており、その昔は大石の前に豚などの動物の姿をした化け物が出たという伝承があります。また、傍に建つ屋敷に火事があったため、火玉を防ぐために火山(ピーザン)に相対して大石(ウフイシ)を火返しのたみ祀ったとも言われています。さらに根謝銘公民館の南西側には「潮崎/ウスザキ」と呼ばれる小高い森があり、隣接する「喜如嘉集落」のターブクと呼ばれる畑はその昔は海であったと伝わり、潮が「潮崎」の森まで押し寄せていたと言われています。「潮崎」は「根謝銘集落」の入り口であり「根謝銘門丘/ネジャメジョウヂカサ」とも呼ばれています。その昔、葬式の際に故人を墓まで送る「野辺送り」の際には死者の髪の毛と爪を藁に包んで「潮崎」の森に投げ入れて集落との別れをしたと伝わっています。
2022.12.01
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(大城/ウフグシク御嶽)沖縄本島北部のヤンバル(山原)と呼ばれる地域に大宜味村があり、この村の北部にある「謝名城(じゃなぐすく)集落」と「田嘉里(たかざと)集落」との境の丘陵には「根謝銘グスク」があります。「田嘉里集落」は北側の国頭村に隣接しており「根謝銘グスク」は「国頭グスク」とも呼ばれています。「田嘉里集落」は「親田・屋嘉比・見里」の3つのシマ(村)から構成されており、明治36年に合併し「屋嘉比ノロ」と呼ばれる祝女が「田嘉里集落」を管轄して祭祀を取り行っています。「根謝銘グスク/国頭グスク」の頂上にある「中城/ナカグシク御嶽」と「神アサギ」の北側に隣接した位置には「屋嘉比(やかび)ノロ」が神事を司る「大城/ウフグシク御嶽」があります。集落の「ウンガミ/海神祭」の行事では「大城御嶽」を拝んでから「屋嘉比」にある「神アサギ」で祭祀を行います。(大城/ウフグシク御嶽の石碑)(大城/ウフグシク御嶽のイビ/威部)(縄張りされた大城/ウフグシク御嶽)「田嘉里集落」が拝するこの御嶽には「大城御嶽」と記された石碑が建立されており、御嶽の中で最も神聖な場所である「イビ/威部」には幾つものビジュル石(霊石)が組まれており、古い石造りウコール(香炉)が祀られています。更に「イビ」の手前には「田嘉里集落」に向けて拝する為のウコールが設置されており「屋嘉比ノロ」や「田嘉里集落」のカミンチュ(神人)が祭祀を行う聖地となっています。また「大城御嶽」の周辺は聖域を示す「縄張り」と呼ばれる3本の左縄が張られています。大宜味村には近世の行政村となる前の集落の単位である「マク/マキョ」と呼ばれる古琉球のムラ(同一の血縁団体、又はその部落)の形を示す名前があります。「田嘉里集落」の3つのシマの「マク」名は「マラクイヌマク/親田村・クイシンヌマク/屋嘉比村・ユフッパヌ/見里村」となっていました。(ウマアミシガー/馬浴みし井泉の石碑)(ウマアミシガー/馬浴みし井泉)(田嘉里西/イリ門中の拝所)(田嘉里西/イリ門中の拝所)「大城御嶽」の西側に「ウマアミシガー/馬浴みし井泉」と呼ばれる井泉跡があります。この井泉は「根謝銘グスク」に按司が住んでいた頃、この井泉で馬を水浴びさせていたと伝わります。また、一説によると「ウマアミシガー」は「大城御嶽」に祭祀の際に訪れた「屋嘉比ノロ」の馬を水浴びさせた井泉であったとも伝えられています。「田嘉里集落」を形成する「親田・屋嘉比・見里」の3村は1673年に「田湾間切」が創設された当初は「国頭間切」に属していました。その後、1692年に「田湾間切」が「大宜味間切」に改称し「親田・屋嘉比・見里」の3村も「大宜味間切」に属し、1903年に3村が合併して「田嘉里集落」となりました。合併後も「屋嘉比ノロ」の名称は継承され現在に至ります。更に「大城御嶽」と「根謝銘グスク」の「神アサギ」の間は「田嘉里西/イリ門中」の拝所があります。石積みが組まれた塚に石造りウコールが祀られた拝所で「田嘉里西門中」の聖域となっています。(上城/ウイグシクガー石碑)(上城/ウイグシクガー)(堀切/フッキーの石碑)(堀切/フッキー)「大城御嶽」の西側にある山中にアコウの大木があり、その根下に「上城/ウイグシクガー」と呼ばれる井泉があります。「国頭グスク」は一般的に「根謝銘(ねじゃめ)グスク」と呼ばれており、更に「上城/ウイグシク」の名称でも知られています。「上城ガー」は円形上に石で囲まれており、水の神に拝するためのウコールが設置されて拝所となっています。現在、この井泉は普段は水が枯れていますが、雨の後には井戸には湧き水が滞水します。この「上城ガー」の東側丘陵を登って行くと「堀切/フッキー」と記された石碑が建立されています。「国頭グスク/根謝銘グスク」の西側の端にある断崖絶壁で、その名前の通り敵の侵入を阻止するする為に人工的に山肌を掘り切りグスクの境としたものと考えられています。現在「堀切」の石碑が設置された周辺には多数の岩が散在しています。(地頭火の神/ジトゥーヒヌカン)(地頭火の神/ジトゥーヒヌカンの石碑)(地頭火の神/ジトゥーヒヌカンの祠内部)「上城ガー」の南側に3体の霊石とウコールが設置された「地頭火の神/ジトゥーヒヌカン」があり、国頭按司と惣地頭の火の神が祀られています。「ウンガミ」では「神アサギ」での儀式の前に海神祭の予告祈願を行い「中城御嶽」と「喜如嘉七瀧拝所」に向かって拝します。旧歴5月の「グングヮチウマチー/稲穂祭」では「地頭火の神」に稲穂を供えて豊年祈願を行います。この稲穂は「ナガリー」という川の東側にある田んぼから「勢頭神/シドゥガミ」と呼ばれる男神が採取します。稲穂の他にも神酒、花米、さく米の手形が入った餅、線香をお供えして『稲穂も出揃いましたので、台風もなく鳥や鼠の被害もなく、穫り入れまで守って豊作をさせて下さい』と祈願します。この後「神アサギ」で「折目御願」が行われますが、神人達の若ノロは「若ノロにより稲穂が若返り穫り入れが遅れる」との理由で祭祀への参加が許されなかったと伝わります。(ミートゥーガー/夫婦井戸)(ミートゥーガー/夫婦井戸/向かって左側)(ミートゥーガー/夫婦井戸/向かって右側)「地頭火の神」の祠の南側に続く急勾配の丘陵を下る階段を降りてゆくと、右手の中腹に「ミートゥーガー/夫婦井戸」と呼ばれる2つの井泉があります。この隣接した井泉は「夫婦ガー」と記された石碑を中心にして左右に一対して隣接しています。石積みが施された「ミートゥーガー」の水は現在は枯れていますが、かつては2つの井泉から水が湧き出ていました。「ミートゥーガー」がある位置は「国頭グスク/根謝銘グスク」の南側にあり「根謝銘/ネジャミ村・一名代/テンナス村・城/グシク村」の3つのシマが合併した「謝名城集落」に属しており、古琉球の時代から利用されていた井戸であると考えられます。因みに、3つのシマの「マク」名は「ユナハマク/根謝銘村・ユダヌマク/一名代村・クガニマク/城村」と呼ばれていました。(按司墓)(按司墓の石碑)(按司墓のニジリの神/右の神)(按司墓のビザイの神/左の神)「ミートゥーガー」の西側丘陵の中腹に「根謝銘グスク」に居城した按司の墓があります。「按司墓」はグスク内の「中城/ナカグシク御嶽」に葬られていた古い人骨をまとめて納骨した墓であると言われています。近世紀に士族層に家譜作成が義務付けられた際、この「按司墓」も家系を統一化するために出身地の古墓整備が行われたと考えられています。墓門には大型のウコール(香炉)が設置され、墓を背にして左側に「ビザイの神/左の神」右側に「ニジリの神/右の神」が祀られています。因みに、この左右の神は現世と後世との取り継ぎをする役目があります。13世紀末の沖縄本島は「北山・中山・南山」の三国時代(グスク時代)で「北山」は「今帰仁グスク」を拠点にヤンバル(山原)地域の全域を支配していました。「根謝銘グスク」は国頭地域を拠点としたグスクであった事から「国頭グスク」とも呼ばれています。その為、この「按司墓」は「国頭按司」の墓であると考えられているのです。
2022.11.26
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(根謝銘グスクの神アサギ)ユネスコ世界自然遺産に登録された沖縄本島北部に広がるヤンバルの森に「大宜味(おおぎみ)村」があり、この村の北東端には「謝名城(じゃなぐすく)」という集落があります。この集落は「根謝銘/ネジャミ•一名代/テンナス•城/グシク」の3つのシマ(村)で構成されています。「謝名城集落」は北側に隣接した「国頭(くにがみ)村」の「田嘉里(たかざと)集落」と同様に「根謝銘(ねじゃめ)グスク」を抱えた土地に村が形成されています。集落の北側にそびえる「根謝銘グスク」は「上城/ウイグスク」とも呼ばれており、その発祥は不明ですが城跡から発見された陶器や磁器類からみて13世紀中期の地方豪族の築城と考えられています。また、一説では「大宜味按司」の居城であるとも言われていますが、現在も詳細は謎に包まれています。(殿内根所/御殿根所)(殿内根所/ドゥンチニーズ)(御殿根所/ウドゥンニーズ)(御殿庭/ウドゥンマー)「謝名城集落」の西側でかつて「城村」があった場所に「根謝銘グスク」があり、このグスクの東側丘陵の麓に「殿内根所/ドゥンチニーズ」と「御殿根所/ウドゥンニーズ」と呼ばれる「火の神/ヒヌカン」を祀った拝所があります。コンクリート製の祠は首里王府に相対する北側に向けられて建立されており「根謝銘グスク」への御通し拝所の役割もあると考えられます。向かって左側の「殿内根所」には複数のビジュル石(霊石)と石造りのウコール(香炉)が二基祀られ、右側の「御殿根所」には複数のビジュル石と石造りのウコールが一基設置されています。この拝所の脇には「御殿庭/ウドゥンマー」と呼ばれる広場があり、ノロ(祝女)やカミンチュ(神人)がこの場所で神踊りを舞い、招いた神々を送る神送りの儀式が執り行われていました。(根謝銘グスクへ登る階段)(仲庭/ナハマーの石碑)(仲庭/ナハマー)(仲庭から頂上に向かう石段)「根謝銘グスク」へ登る時に「仲庭/ナハマー」の木にノロが乗ってきた馬を繋いでいました。「ウンガミ/海神祭」ではこの場所でオモロを謳い、この下の「御殿庭」で神送りの儀式が行われました。「ウンガミ」は旧盆明けの亥の日に執り行われる祭で海の神だけでなく山の神もお迎えし、悪疫を祓い豊年と子孫繁栄を祈願する行事です。「根謝銘グスク」が祭りの舞台となる「ウンガミ」は「謝名城集落」を管轄する祝女である「城ノロ」を始めとし、アキ折目にチキ(御飯に汁をかける)して食べる「チキシュ神」、ノロの補佐役である「セーファー神」と「若祝女/ワカヌル」、ウムイ伝承者で村の行事を司る「根神」、男神の「地頭神/シドゥウガミ」、小使い神の「サンナム」で構成され『七重/ナナエのヤジク神』と呼ばれていました。他にも「アシビ神/遊び神」「道セーキ神/道片付け神」「内原/ウチバラ根神」の神々も存在したと伝わります。(根謝銘グスクのビジュルの石碑)(根謝銘グスクのビジュル)(ビジュル近くの拝所)(ビジュル近くの拝所)「仲庭」から更に石段を登りグスクの頂上に向かう途中に「根謝銘グスクのビジュル」と呼ばれる霊石が鎮座しています。その昔「根謝銘グスク」の按司が敵に打たれ、残された按司の妻である「ウナザラ/ウナジャラ」が拝んだ霊石であると伝わります。願い事や占い事をする際に霊石を持ち上げられるか持ち上げられないかで吉凶を占うとの伝承が残されています。また、このビジュルの近くには岩々に囲まれた場所に古い石造りのウコールが設置され祀られた拝所が二箇所存在します。大宜味村が発行した『大宜味村史』には次のような記述があります。『根謝銘城 字謝名城の東北小字城にあり、一名上城とも言ふ。住昔中山英祖王の後裔なる大宜味按司の居城にて、城は天険に依るのみで別に砦壁を囲らさず、実に要害無比である。』(城之川/川神)(城之川の拝所)「根謝銘グスクのビジュル」から更に頂上に向かう左側に平場があり「城之川 川神」と記された石碑がありウコールが設置されています。現在は湧き水は枯れていますが、現在も井戸跡には「川神」が祀られています。この井戸跡の奥にはコンクリート製の祠が建立されておりウコールが祀られた拝所となっています。「根謝銘グスク」に居城した「大宜味按司」の先祖は「英祖王(1229-1299年」で、その後「北山世主湧川王」「北山世主湧川按司」「北山世主今帰仁按司」「仲昔今帰仁城主」から「大宜味按司」へと系統が続きました。その後「大宜味按司」の家系は長男「大宜味若按司」長女「真鍋樽金」二女「童名不明」三女「真住度金」四女「真牛金」と継がれて行きました。(根謝銘グスクの神アサギ)(神アサギの内部構造)「根謝銘グスク」の「神アサギ」は瓦屋根の建物でグスク内の「中城」に位置しており「城ノロ」が祭祀を司る聖域でした。一般的な神アサギとは造りが異なり壁や床の敷かれた部分があり、沖縄では珍しいこの構造は奄美の加計呂麻島に見られます。毎年旧盆後の初亥の日に「城ノロ」主催の「根謝銘グスクのウンガミ/海神祭」には「謝名城•喜如嘉•饒波•大宜味」の各集落からカミンチュ(根神•神人•根人等)達が年一回の村外での勤めとして参加しました。因みに「大宜味集落」では城(グシク)に登って出向く事は「グシクヌブイ」と呼ばれています。「神アサギ」の内部ではカミンチュの座る位置も決められており、神アサギ内で神酒を酌み交わした後に建物の東側にある「アサギマー/アサギ庭」でオモロが謳われ舞が奉納されました。(アサギマー/アサギ庭)(アサギマー/アサギ庭)(神アサギ北側の石組み)「アサギマー」には神人達が座る長椅子を設置する為の10個余りの石がコの字型に並んでいます。ウンガミの行事では「アサギマー」で4回の神踊りが奉納されます。1回目はアシビ神(遊びビラムト神)が弓矢を上げ下げして踊り、2回目はアシビ神はハーブイを頭に被り円を作り弓矢を上げ下げして踊ります。3回目は3人のアシビ神がそれぞれ赤色、黄色、赤黄色の菊模様の入った紫色の衣装に着替えて踊り、4回目は神人が2本の縄を並行に引き舟に見立て、その中にアシビ神が入りナーアシビ(縄遊び)を踊ります。その最中に1人の神人が海ぶどうとシークワーサーを庭の中央に撒き散らし、残りを参拝者に配り祭祀は終わります。因みに「神アサギ」の北側には1つの岩が2つの石を土台として組まれた拝所と思われる場所が存在しています。(中城御嶽)(中城御嶽のイビ)「神アサギ」の南側に「城ノロ」が管轄し祭祀を司る「中城御嶽」があり、御嶽のイビであるコンクリート製の祠にウコールが祀られています。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『小城嶽 神名 大ツカサナヌシ 城村』と記されています。「中城御嶽」と刻まれた石碑の脇にもウコールがあり、御嶽には「縄張り」と呼ばれる聖域を表す3本の縄が張られています。旧暦3月と9月に行われる「ウグヮンプセー」と呼ばれる御嶽の清掃行事では「城ノロ」が担当して新しく左縄を張り回します。清掃を終えた後「ヤジク神」が「中城御嶽」に上がり『無事に清掃をさせてくださいましたので、ここに神人達が揃って神に感謝を捧げます』と祈祷し、酒と芭蕉の葉に包んだ炊いたお米の供物をいただく風習となっています。(中城御嶽東側の拝所)(中城御嶽北東側の拝所)「中城御嶽」の裏手に当たる東側に立つ木の下には石造りのウコールが設置されており、御嶽の北東側にも古いウコールが祀られています。「謝名城集落」の「城村」には次のような『あまうぇーぬやじく』という神唄があります。『城もい(城森) 七よあじゃげ 八尋あしゃげ(七尋アシャゲ 八尋アシャゲ) 真中に吾が祝女ば うんちけしち(真中に吾が祝女を 御招請し) 吾が主ば うんちけーしち(吾がぬしを 御招請し) 八尋あしゃげ 真中に(八尋アシャゲ 真中に) 神寄添ひて むましば(神寄り添いて おわせば) 赤わんのゆなはしに(赤椀の世直しに) 中もらち はた盛らち(中盛らし 端盛らし) うさげやべら(捧げよう) アレアレ うさげやべら(アレアレ 捧げよう) ハーラーユーヤーンサーユイ(ハーラーユーヤーンサーユイ)』
2022.11.18
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(七瀧拝所/喜如嘉七滝)沖縄本島北部の西海岸に大宜味村「喜如嘉(きじょか)集落」があり、集落の南側に大規模に広がるヤンバルの森に「七瀧拝所」と「喜如嘉七滝」があります。『七瀧拝所』と刻まれた扁額の鳥居をくぐると右手に小高い塚があり「七瀧拝所」の祠が建立されています。この拝所は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『キトカサネ森 神名 七嶽ノイベナヌシ 喜如嘉村』と記されており『毎年、四度・四品・百人御物参之有祈願也。此時御花米、自公庫。仙香・御五水、間切ヨリ出也。』との記述があります。更に、王府の命で1731年に琉球王国の官僚・歴史家であった「鄭秉哲/ていへいてつ」が漢文で編集した地誌『琉球国旧記』には「七瀧拝所」は『奇度重森(在喜如嘉邑。神名曰七嶽威部那主)』と記されています。(喜如嘉七滝)(七瀧拝所の祠)(七瀧拝所の祠内部)「喜如嘉七滝」は「段瀑/だんばく」と呼ばれる滝で、最上段から滝壺まで七段の軌道がある事に由来して「七滝/ななたき」と言われています。この滝の水は北側の「幸地川」に流れ込み、その後「アミガー/浴川」に合流して北西に進み西海岸の海に到達します。また集落の古老によると、その昔「喜如嘉七滝」の流れを利用した水車が稼働していたとの伝承が残されています。琉球王国時代には滝壺の東岸側に石を積んだ拝所としていましたが、昭和10年に現在の位置に祠を建立し「七滝拝み」と称して拝されています。琉球赤瓦屋根が葺かれたコンクリート製の祠内部には「七瀧ノイベナヌシ/七嶽威部那主」が祀られた3組のビジュル石(霊石)と3基のウコール(香炉)が設置されています。更に「喜如嘉七滝」の地下深くにある天然深層水を汲み上げた天然ミネラル豊富な「沖縄の命水/七滝の水」が「ぬちぬみじ/命の水」として販売されています。(七滝の水/鎮守の森)(シークワーサーの木々)(シークワーサーの実)「七瀧拝所/喜如嘉七滝」に向かって右側に広がる丘陵は「鎮守の森」と呼ばれています。この森は「七滝」から西側にある「ヒンバームイ/ヒンバー森」の南側にかけては聖域とされており、かつては樹木の伐採が厳しく禁じられてらいました。現在「鎮守の森」の丘陵斜面にはシークワーサーの木々が植えられており沢山のシークワーサーの実が育っています。「喜如嘉集落」がある大宜味村はシークワーサーの産地として有名で「シークワーサーの里」と呼ばれています。シークワーサーはミカン科の寛皮柑橘で果皮が緑色、未熟の間は酸が強く黄色に熟したものは適度の甘味と酸味があります。沖縄の言葉で「シー」は酸「クヮーサー」は食べさせるを意味し「イシクニブ・フスブタ・タネブト・ミカングヮ・イングヮクニブ・ヒジャークニブ・カーアチー・カービシー」などの系統があります。(アカガー/赤川)(ミーガー/新川)(アサウイミガー/朝折目川)「喜如嘉集落」では旧暦1月2日に「ハーウガン/川御願」の行事が行われます。集落で昔から利用されている井泉にはウコール(香炉)が設置されており水の神が祀られています。集落のハミンチュー(神人)や住民が井戸や拝所を巡り集落の飲料水や恩恵に感謝して拝み、同時に集落の発展と住民の健康も祈願します。「ハーウガン」は『アカガー/赤川・ミーガー/新川・ビガーガー/比嘉川・ウガミ/御神(七瀧拝所)・アサウイミガー/朝折目川・アサギガー/アサギ川・ミンカーガー/ミンカー川・マザガー/真謝川・ハーグチガー/川口川・ヤマニーガー/山根川・ヒンバームイの拝所』の順序で祈願されます。海の神と山の神へ感謝する「ウンガミ祭り/海神祭」の早朝に「喜如嘉」の浜辺に下りてニライカナイの神を迎える「アサウイミ」の儀式に向かう直前、集落の神女達が必ず決まってこの井戸の水を飲む事が「アサウイミガー」の名称になったと伝わります。(アサギガーの石柱)(アサギガー跡)(ミンカーガー/ミーカーガーの石柱)(ミンガーガー/ミーカーガー跡)「ハーウガン」では各拝所で唱えられる次の祈願文句がありました。『○○ガーヌウカミガナシ グンドゥイチグヮチフチカナヤビティ アザガーヌミジハミヤビークトゥ クガニマクヌクヮーマーガターヤ健康 成功シミティウタビミソーリ』現在「ニーヤー/根屋」の拝所がある敷地にはかつて「神アサギ」があり、そこから北側に隣接した場所には神女が祭祀を行う際に使用された井戸があり「アサギガー」と呼ばれていました。この場所は現在「アサギガー」と刻まれた井戸跡を示す石柱が設置されています。更に「喜如嘉七滝/七瀧拝所」の北側には「ミンカーガー/ミーカーガー」の跡があり、井戸の痕跡はありませんが「ミンカーガー」と記された石柱のみ現在は残されています。その昔、この井戸は「喜如嘉集落」南西側の住民の飲料水や生活用水として重宝されていたと伝わっています。(マジャガー/真謝川)(ハーグチガー/川口川)(ヤマニーガー/山根川)「ハーウガン」の祈願文句は『○○川(川/井戸名または拝所名)の神様 この度一月二日になりました このように字の川々を拝んで感謝しておりますので どうか黄金マク(神言葉で喜如嘉集落の意味)の子孫は健康 成功させてくださいますようお願い致します』という意味となっています。「マジャガー/真謝川」と「ハーグチガー/川口川」は「イリナカジョウ/西仲門」の屋敷の下に二基並んで構えています。また「ヤマニーガー/山根川」は「山根」の屋敷内にある井戸です。「喜如嘉集落」には『道あきり』というウムイ(神唄)があります。『あきり あきり(あけよ あけよ) かみがみち あきり(神の道 あけよ) しどがみち あきり(勢頭の道 あけよ) ぬるがみち あきり(祝女の道 あけよ) かなやさちみそり(カナヤ先参れ) うとぅむさびら(御伴します) かみが たなばるに(神の 棚原に) いながにぶ うきてぃ(おなた様の柄杓 浮けて) かなやさちみそり(カナヤ先参れ) うとぅむさびら(御伴します)』(平良真順の銅像)(門中拝所)(門中拝所の祠内部)「喜如嘉公民館」の向かい側に「平良真順/1874-1972年」の銅像があります。『喜如嘉の四大偉人』と呼ばれた「平良真順」は医師として地域医療に貢献し、村議や県議として沖縄の政界で活躍した功績を讃え、1984年の十三回忌に際し「平良真順」の生家敷地に銅像が建立されました。また「平良真順」の生家の南隣に隣接する屋敷に「門中拝所」があり「マジャウイ/真謝上」の森に向けて建立されています。コンクリート製の祠内部にはビジュル石(霊石)とウコール(香炉)が祀られており、花瓶と湯呑が供えられています。「喜如嘉集落」には次のような『諸神御送りが節』という唄があります。『エイエイ あふの御神(エイエイ あふの御神) なーむとむかち(庭元に) 御移り召しょうち(御移り給いて) やまぬ神(山の神) なーむとむとかち(庭元に) 御移り召しょうち(御移り給いて)』(キザハターブク/喜如嘉田圃)(喜如嘉民謡の石碑)(琉球赤瓦屋根とシーサー)「喜如嘉集落」の北側には美しい田園地帯が広がっており、地元では「キザハターブク/喜如嘉田圃」と呼ばれて親しまれています。以前は稲やビーグ(井草)の栽培が盛んでしたが、近年は生花用のオクラレルカやフトイなどの花々の産地として知られています。また集落には「喜如嘉朝憲」作の『喜如嘉民謡』があり歌碑が建立されています。『一、めぐる山陰によ かくまりし喜如嘉村 前や海ひかえ ウマル吾村よ 二、ひんば森登てよ うし下い見りば 稲穂ぬみるく なうりゆがふよ 三、七滝ぬ水やよ 七ちから落てるよ 白糸ぬ眺み なうり美らさよ 四、八月んなたるよ 喜如嘉浜下りて 若者ちゃぬ恋路 浜ぬ千鳥よ 五、謝名に立つるよ 喜如嘉糸芭蕉や 喜如嘉美童ぬ てかしかきてよ 六、文化大宜味喜如嘉村 民主々義ぬ魁けよ 老いん若さんわらびんちゃまで 皆うり福々よ』
2022.11.16
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(喜如嘉龍宮/御天竜宮神)沖縄本島北部の西海岸にある大宜味村に「喜如嘉(きじょか)集落」があります。集落の最北西端を通る国道58号線沿いに大岩が鎮座しており「喜如嘉竜宮」の石碑が東側に向けられて建立されています。「御天竜宮神 一九八十年十二月十二日 旧十一月六日 申年末日」と彫られた石碑には三基の石造りウコール(香炉)が祀られており、それぞれアマミキヨとシネリキヨの琉球開闢の世の中(ウサチユー/御先の世)・琉球王国時代の世の中(ナカガユー/中の世)・廃藩置県から現在の世の中(イマガユー/今の世)を意味しています。琉球神道に於ける主神は遥か東の海の彼方に存在する「ニライカナイ/理想郷」に住む神であり、この海の神こそが「龍宮神」であると信じられています。昔から「龍宮神」の拝所では「ウンガミ/海神」を迎えて祀り、航海安全と豊漁を祈願して拝まれる聖域となっています。(喜如嘉龍宮の大岩)(喜如嘉板敷海岸の板干瀬の石柱)(喜如嘉板敷海岸の板干瀬)「喜如嘉龍宮」の大岩の東側に「喜如嘉板敷海岸の板干瀬」の石柱が建立されています。「喜如嘉集落」の西側の海岸線沿いには板干瀬(いたびし)という珊瑚礁特有の板状岩石が広がっており、炭酸カルシウムのセメント作用により砂や礫等が固まって出来たと考えられています。板干瀬はビーチロックとも呼ばれ「喜如嘉板敷海岸の板干瀬」は砂浜に沿って厚さ約6〜30cm、幅約30m、長さ約1kmに渡り帯状に板を重ねたような形状をしています。これ程の規模の板干瀬は沖縄県内でも珍しく大変貴重なもので、県指定天然記念物に昭和49年2月22日に指定されました。また、板干瀬は大昔の砂粒が固まって形成されているため、当時の「喜如嘉」の海岸の痕跡を留めるものとして地質学上非常に重要な資料となっています。(喜如嘉のフクギ・ミフクラギ/夫婦木)(マジャウイ/真謝上)「喜如嘉龍宮」の大岩から海岸線を通る国道58号線を北部に向けて約400m程進むと左手に「喜如嘉のフクギ・ミフクラギ」の木が2本寄り添って立っており、地元では「夫婦木」や「友達の木」と呼ばれています。西側のフクギ(方言名:フクジ)と東側のミフクラギ(方言名:ミーフックヮー)はそれぞれ推定樹齢80年以上で、長年に渡り強い潮風を浴びながらも良好な土壌で育っています。また、海岸線から「喜如嘉集落」に入ってすぐ右手に「マジャウイ/真謝上」と呼ばれる山があり、その麓に集落の旧家である「真謝門中」の屋敷があります。「マジャウイ」は「喜如嘉集落」の創建が伝わる山で『真謝上ファーファー』という小話があります。『マジャウイの頂上に翁と媼が住んでおり、ある日翁が臼の上に立って杵を差し上げてみると天まで届いた。それほどマジャウイの山は高く聳えていた。』という話が昔から伝承されています。(大山墓/喜如嘉墓のフクギ群)(大山墓/喜如嘉墓のフクギ群)(大山墓/喜如嘉墓のフクギ群)(大山墓/喜如嘉墓のフクギ群)「マジャウイ」の北側に「イシンザキバール/石崎バール」と呼ばれる丘陵地があり、その麓には共同墓や門中墓など40余の墓が集中する墓地となっています。墓地は後世(グソー)の世界だと言われ「イシンザキ」の山の麓にある石が突き出た場所が現世(サンカ)との境とされています。墓の四隅にはそれぞれ「ジーチの神/地の神」がいて、まずその神に祈願しなければならないとされています。四隅には線香を焚いてヤナムン(悪魂)が入ってこないように拝します。その後、墓に向かって左側に「ビザイの神/左の神」右側に「ニジリの神/右の神」が立っていて現世と後世との取り継ぎをします。更に、墓の入り口には「ウゾーバンヌ神/御門番の神」がいて墓の門番をしています。そこから中に入ると「アミダブトゥキ」という神がいて、その神は現世から取り継いだ事を「ウフヌシガナシ/大主加那志」と呼ばれる「後世の主」に伝えると言われています。(眞和地墓の石碑)(眞和地墓)(ガンヤー/龕屋)集落での葬式が行われる時に遺体を収めた棺を墓まで運ぶ輿を「ガン/龕」と呼び「喜如嘉海岸」沿いに「ガン」を保管する「ガンヤー/龕屋」があります。また「喜如嘉集落」には『墓作りの唄』があり、墓参りの際に御供物を供えて三線と共に歌われました。『チューヌユカルヒヤ(今日のめでたい日は) チチンヒーンマサティ(月日の日取りもよく) フンシマチガニヌ(立派なお墓の) ユエーサビラ(お祝い致しましょう) ナンザムイクサティ(銀の森を後にして) クガニムイクサティ(黄金の森を後にして) フンシマチガニヌ(立派なお墓の) ンケーヌチュラサ(向き構えの美しさよ) チチンヒチヂュラサ(土もならされて美しい) イシンタチヂュラサ(石も立派に組まれて美しい) ユユヌユートゥツトゥミ(世々代々) シソンサカティ(子孫が栄えますよう) マカヤカヤブチャ(茅葺きの家屋は) カリヤドゥルヤユル(仮宿でしかない) フンシマチガニヤ(立派なお墓は) ユユトゥマデ(永久の住み家である)』(喜如嘉貝塚跡)(故寺内博之碑)(浅野綾子の歌碑)「喜如嘉集落」の北西側にある海岸線沿い一帯は「喜如嘉貝塚」と呼ばれ、標高3〜5mの海岸砂丘に形成された今から約1700年前の先史遺跡です。沖縄貝塚時代後期の土器・石器・生活道具・貝製品や、先人が食料にしていた貝類や獣魚骨などが出土しています。現在、この地は「大宜味村農村環境改善センター」の駐車場となっており「故寺内博之碑」と「浅野綾子の歌碑」が建立されています。1945年4月7日「喜如嘉」の浜辺に日本軍特攻隊の寺内博之少佐(当時20歳)の遺体が漂着しました。「喜如嘉」の人々が米軍機を避けながら日暮に遺体を引き上げて埋葬しました。浅野綾子さんは寺内少佐の妹で「喜如嘉」の人々に感謝して詠んだ次の歌が歌碑に刻まれています。『人篤き 人ら住めりと この岸に 導かれけむ 兄がからかも』(山之口貘の歌碑)(芭蕉布会館の芭蕉の木)(芭蕉布会館裏の井戸)喜如嘉公民館の西側に「芭蕉布会館」があり、沖縄で最も古い織物である「芭蕉布」の後継者育成施設となっています。この施設には那覇区(現那覇市)東町大門前出身の詩人「山之口貘/やまのくちばく」の詩の一つである『芭蕉布』の歌碑があります。この歌碑は山之口貘の長女の山口泉さんの書により次のように刻まれています。『芭蕉布は 母の手織りで いざりばたの 母の姿をおもい出したり 暑いときには 芭蕉布に限ると云う 母の言葉を おもい出したりして 沖縄のにおいを なつかしんだものだ』また「喜如嘉集落」は昔から芭蕉布の産地として知られており「芭蕉布会館」周辺には多数の芭蕉(バナナ)の木々が生い茂っています。更に集落発祥の山と伝わる「マジャウイ」の東側麓に建てられた「芭蕉布会館」の裏には井戸があり香炉(ウコール)が設置され拝されています。(喜如嘉小学校発祥の地の石碑)(移転した喜如嘉小学校の校門)(ウードゥーシ石敢當/北斗七星を刻んだ石敢當)「喜如嘉公民館」の敷地に「喜如嘉小学校 発祥の地 創立明治二十一年四月一日」と彫られた石碑が建立しています。「喜如嘉小学校」は現在の「喜如嘉公民館」がある場所に設立され、時代と共に生徒の数が増えた事で昭和22年に集落の「ハサマ/波佐間」地区に移転しました。その後、村内小学校の合併により平成27年をもって閉校となりました。また、公民館の東側には北斗七星を意味する七つの漢字が刻まれた石敢當があります。この石敢當は沖縄県内では本部町に三基と「喜如嘉」に一基しか残されていない大変珍しく貴重な石敢當で、人間の「寿夭禍福(長寿/短命/災難/幸福)」を治める北斗七星を表す祓いの鬼偏漢字七文字が記されています。「生」を司る南斗六星に対して北斗七星は「死」を司ると言われ、北斗七星を信じて祈願すれば病気が治り、災難を回避し、幸運が授けられ、願いが叶うと信じられ、この北斗七星の石敢當は鬼門とされる丁字路の突き当たりに魔除けとして設置されています。(アミガー/浴川)(テーラガー/平良川/ハブジョーガー)北斗七星を刻んだ「ウードゥーシ石敢當」の東側に約50mの場所に「アミガー/浴川」と呼ばれる古井戸があります。半円状に積まれた石積みは現在も保存状態が良い形で残されています。この井戸の近くに住む古老によると「喜如嘉集落」には「アミガー」と呼ばれる川が実際に流れていますが、集落のムラガー(村井戸)の事を総じて「アミガー」と呼び、昔は農作業帰りの手洗いや水浴びの場、また洗濯場として使用されていたと伝わります。更に「アミガー」の井戸から東側に約80mの場所に「テーラガー/平良川」という古井戸があります。「平良家」の屋敷にある井戸で別名「ハブジョーガー」とも呼ばれ、戦前は水浴びや洗濯の場として重宝されていました。「テーラガー」は現在も水が湧き出ておりポンプで組み上げられています。
2022.11.11
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(ヒンバームイ/ヒンバー森)沖縄本島北部のヤンバル(山原)の森が広がる西海岸線沿の「大宜味村(おおぎみそん)」に「喜如嘉(きじょか)」という集落があります。この集落の中央部に位置する「ヒンバームイ/ヒンバー森」と呼ばれる小高い森は、NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」のロケ地になった場所でも知られる丘陵です。「ちむどんどん」の第9話では青柳和彦宛に出すはずだった手紙を小学生の比嘉暢子が「ヒンバームイ」の中庭ベンチで読み返し、東京に行きたくない本音の気持ちとお母ちゃんに難儀させたくない心の葛藤を描いています。更に、第15話では卒業を控えた高校3年生の暢子が眞境名商事への就職を断った後に「ヒンバームイ」に来て、何か心を燃やせるような打ち込める一生懸命になれる物が見つからない、モヤモヤした気持ちをお母ちゃんに打ち明けるシーンが描かれています。(ヒンバームイ麓の鳥居)(ヒンバームイの御通し拝所)(ヒンバームイ頂上への石段)「メームイバール/前森バール」と呼ばれる「ヒンバームイ」の北西側の麓にある喜如嘉地区農産物集荷施設・販売施設「喜如嘉共同店」の脇に鳥居があり、頂上への長い石段が続いています。この鳥居の下には高齢者や足が不自由な方が森の頂上にある拝所へ遥拝する「御通し拝所」の祠がありウコール(香炉)が祀られています。「喜如嘉集落」が一望できる絶景が広がる「ヒンバームイ」の頂上にある広場は集落の様々な年中行事が行われる場所で、旧七月のお盆が終わってから最初の亥の日には「ウンガミ祭り/海神祭」と呼ばれる行事が「喜如嘉集落」の各門中の守り神である「アジ神」により行われます。この「ウンガミ祭り」は北東側に隣接する「謝名城(じゃなぐすく)集落」から伝わった祭祀で、農作物の豊作と漁獲物の大漁祈願と同時に、山の神と海の神へ感謝する祭で戦前まで盛大に催されていたと伝わります。(ヒンバームイの広場)(ヒンバームイのカミヤー/神屋)(カミヤー/神屋のヒヌカン/火の神)「ヒンバームイ」の頂上広場には「カミヤー/神屋」があり、祠の内部には「ウンバール/上の部落」と「サンバール/下の部落」のヒヌカン(火の神)が二柱祀られています。これに加えて森の東側麓にあったノロ(祝女)・ニーガン(根神)・カミンチュ(神人)が神事を執り行う「神アサギ」が昭和初期にこの拝所に合祀され、現在は3組のヒヌカン(火の神)のビジュル石(霊石)と3体のウコール(香炉)が祀られています。「ウンガミ祭り」は勢頭神(男神)のカーカー(太鼓)の合図で始まり、神女達と集落民が拝所への階段を登って行きます。頂上に着くとまず拝所のヒヌカンを拝み、次に「喜如嘉七滝」の拝所と「根謝銘グスク」の拝所の方向に向かってウトゥーシウガン(御通しの御願)を行います。神女達は白衣装に白鉢巻でクバ扇を持ち、ウムイ(神唄)に合わせてゆっくり円陣踊りをしたと伝わっています。(ヒンバームイの手水鉢)(ヒンバームイの灯籠跡)「ウンガミ祭り」の儀式に参加する「ウンバール根神」は屋号「ナハダ」の門中から「サンバール根神」は屋号「真謝」の門中から出ており、更に「アジ神」として集落の各門中から18人の神女が祭祀に出席しました。かつて「喜如嘉五人神」と呼ばれたカミンチュ(神人)が存在し「仲田/ナハダ・入ん桃/イリントー・泉屋/イジミヤー・新屋敷/ミーヤシキ・尻屋/シリヤー」の五箇所の屋号の門中から出る神役を指していました。戦前の「ウンガミ祭り」には沖縄本島の各地から「喜如嘉五人神」と関係した人達が拝みに来たと伝わっています。現在では「喜如嘉五人神」についての由来や詳細が残されていないため伝説の五人神として語り継がれています。「ヒンバームイ」の広場には古くから残る手水鉢が現存し、近くにはかつて灯籠として使用されていたと考えられる石造りの土台が残っています。(ヒンバームイ頂上の鳥居)(ヒンバームイ西側丘陵の石碑)(ヒンバームイの池宮城積宝の歌碑)「ヒンバームイ」の頂上広場の東側には鳥居があり神域への出入口となっています。また、この鳥居と反対側にある広場西側の丘陵上部には三体の石碑が建立されています。この石碑の詳細は謎のままですが、古くから「喜如嘉集落」のカミンチュと集落民により「ヒンバームイ」で執り行われていた祭祀と深い関わりがあると考えられます。更に「ヒンバームイ」の広場西側には「池宮城積宝の歌碑」が鎮座しています。「池宮城積宝(1893-1951年)」は那覇市久米村出身の歌人/小説家で「放浪詩人」と呼ばれた各地を短歌行脚した人物で、小説「奥間巡査」や「琉球歴史物語」などで知られています。この歌碑には次のような詩が彫られています。『ああ喜如嘉 かの山村に 生れなば 少しこの世が 楽しくありけむ』(ニーヤー/根屋)(ニーヤー/根屋の拝所)「ヒンバームイ」の東側に「ニーヤー/根屋」の建物があり「上世・中世・今世」「ヒヌカン/火の神」「女神・男神」が祀られています。「上世」は「ウサチユー/御先の世」でアマミキヨ・シネリキヨの琉球開闢の世の中、「中世」は「ナカガユー/中の世」で琉球王国時代の世の中、「今世」は「イマガユー/今の世」で廃藩置県から現在の世の中をそれぞれ意味しています。「女神」は「イナグ神」と呼ばれ「男神」は「イキガ神」と言われ、一対として結びつき存在する神を示します。1986年(昭和61)には明治末期までノロが祭祀を行う「神アサギ」が建っていた場所に「ニーヤー」が建立されました。この周辺地域には蔵が多数あった事から「クランバール/蔵バール」と呼ばれると同時に「アサギバール」とも言われており、当時の公民館である「ムラヤー/村屋」もこの地にありました。(ニーヤー/根屋のヒヌカン/火神)(ニーヤー/根屋の女神と男神)「喜如嘉集落」の「神アサギ」は1713年に琉球王府に編纂された『琉球国由来記』に次のように記されています。『神アシアゲ 喜如嘉村 稲穂祭之時、五水3合・神酒一自按司、五水六合・神酒壱惣地頭、神酒一喜如嘉地頭、同二五水三沸・魚四斤同村百姓。同大祭之時、五水三合・魚一斤・神酒一按司、五水六合・魚一斤・神酒一惣地頭、同三・魚三斤同村百姓。束取折目之時、神酒三・魚四斤同村百姓。海神折目之時、五水五合按司、同五合・魚一斤惣地頭、神酒二・五水二合・魚四斤同村百姓。同折目晩、神酒一宛惣地頭並喜如嘉・大宜味百姓、餅一器宛・魚六斤同二ヶ村百姓。芋ナイ折目之時、神酒二・五水二沸七合・蕃薯十四器・魚四斤喜如嘉村百姓、供之。城巫祭祀也。』(キザハグシク/喜如嘉グスクの北側入口)(キザハグシク/喜如嘉グスクの森)(キザハグシク/喜如嘉グスクの森)「ヒンバームイ」の東側に「キザハグシク/喜如嘉グスク」の北側入口があります。「喜如嘉集落」がある沖縄本島北部の山原地域は歴史上「今帰仁グスク/北山グスク」と深い関係があります。集落では「鎮守の森」と呼ばれている丘陵にある「キザハグシク」は今帰仁の勢力が北部を統一する古い按司時代、もしくは「中山」が三山(北山・中山・南山)を統一する琉球三国時代の頃に築城が開始されたと考えられており、戦乱が終わった事により途中で「キザハグシク」の築城が中止になったと伝わります。その昔、グスク丘陵の森には当時の戦の頃と思われる人骨や武具類が多数散乱しており「喜如嘉集落」の古老の言い伝えによると、そこで発見された当時の刀は戦前まで竹細工用に使用されていました。また「キザハグシク」の裏山の斜面には洞窟が洞られ、子孫の各門中が戦で亡くなった先祖の墓を設け供養をしていたとの伝承が残っています。(サンホーチ/下幸地門中の拝所)(サンホーチ/下幸地門中の拝所/祠内部)「キザハグシク」の北側丘陵に「サンホーチ/下幸地門中」の拝所があり、コンクリート製の祠内部は3つに仕切られた仏壇にウコール(香炉)・花瓶・湯呑が3組づつ祀られています。「喜如嘉集落」の祭祀は「城ノロ」の管轄ですが、集落にはニーガン(根神)やカミンチュ(神人)が存在しており『根神御送りが節』と呼ばれる唄が祭祀行事の際に歌われていました。『勢頭神の 御許し拝がて(勢頭神の 御許拝んで) 島根神 越い召しょうち(島根神 越え給いて) しまやじく 御許拝で(島ヤジク〈神女〉御許拝んで) 大勢頭御許拝で(大勢頭の御許拝み) つーふー あふね御許拝で(つーふー 神の御許拝み) 赤ちゃ 黒ちゃ(赤馬 黒馬) 御乗込み召しょうりば(御乗り込み召し給えば) いちゃぞうに かんさぞうに(板門 金門に) くみられて(籠められて) ぐくらくに 召しょうりは(極楽に 参り給え)』
2022.11.06
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(トゥングヮー/殿小)沖縄本島中部にある中城村の中央部に「安里(あさと)集落」があります。「安里集落」は「桃原/トウバル・下原/シチャバル・西原/イリバル・後原/クシバル・前原/メーバル」の5つのハルナー(小字)で構成されています。この集落が創始した古島(ふるじま)と呼ばれる場所は「後原」の丘陵地にある「トゥングヮー/殿小」周辺で、この地から「安里集落」が広がったと伝わります。集落の北西部にある「トゥングヮー」は戦前は瓦葺きの祠で周囲はマーチ(琉球松)の木々で囲まれていました。この拝所は戦前から旧暦5月15日の稲の生育を願う「グングヮチウマチー/五月ウマチー」旧暦6月15日の稲の収穫を祝う「ルクグヮチウマチー/六月ウマチー」厄祓いと豊年を祈願する旧暦7月17日の「ジュウシチニチ」で住民により拝されてきました。(トゥングヮーのヒヌカン)(安里部落トゥン小の祠の石碑)(トゥングヮーの拝所)「トゥングヮー」は1713年に琉球王府により編纂された地誌である『琉球国由来記』に『里主所之殿 安里村 稲荷祭之時、花米九合宛・五水四合宛・神酒壱宛・シロマシ一器安里地頭、神酒二宛同村百姓中、供之。屋宜巫ニテ祭祀也。且此時、地頭ヨリ三組盆、居神九合員馳走也。』と記されており、祠の内部には三体のビジュル石(霊石)が祀られています。また「トゥングヮー」について『琉球国由来記』には『里主所火神 同村 毎年六月、為米初、神酒二同村百姓中供之。屋宜巫ニテ祭祀也。』との記述もあり、稲の収穫を祝う旧暦6月15日の「ルクグヮチウマチー」の祭祀の事が記されています。「安里集落」は「屋宜・安里・奥間・当間」の4つのシマ(集落)を管轄していた神職である「屋宜ノロ」により祭祀が執り行われていました。さらに「トゥングヮー」の敷地には岩盤の上にビジュル石が設置された古い拝所も祀られています。(力石)(かつて力石が置かれていた場所)(メーヌムラガー/前ノ村井戸)「トゥングヮー」の敷地には更に「力石/ちからいし」が三体鎮座しています。「力石」とは集落の若者達が力試しに使った石で、昔はニシジェーと呼ばれるサーターヤー(製糖小屋)の北側の一角に置かれていました。この「力石」は80斤(約48kg)のヒラグヮー(平らな石)が1つと100斤(約60kg)のマルグヮー(丸い石)が2つで、仕事を終えた若者達がニシジェーに集まり力比べを競い合っていました。力試しでは石を抱えて胸まで持ち上げ、抱え直して腕を伸ばして頭上に持ち上げました。力持ちの人は石を素早く頭上に持ち上げる事が出来たと伝わります。「トゥングヮー」の北東側に下った場所に「メーヌムラガー/前ノ村井戸」と呼ばれる井戸跡が残されており、ウコール(香炉)が祀られています。かつては「安里集落」発祥の古島での生活用水として重宝されていたと考えられます。(ムラモー/村毛)(アシビナー)「トゥングヮー」の南東側に「ムラモー/村毛」と呼ばれる原野が広がり、この一帯は屋根の葺き替えに使われる茅が生い茂る「カヤモー/茅毛」になっていました。「安里集落」では年に一度だけ必要な家は無償で茅を刈り取る事が出来たと伝わります。また「ムラモー」の南側にはかつて「アシビナー/遊び庭」があり、神様に豊作を感謝し集落の繁栄を祈願する「ムラアシビ/村遊び」が行われていました。傾斜地を利用した「アシビナー」は上部に舞台、下部に客席が設けられてらいたと言われています。神への奉納として芸能を披露する「ムラアシビ」では組踊「国吉ぬヒャー」や男踊り「クーダーカー」の他にも棒術や鎌術など様々な芸能が演じられてらいました。芸能が盛んな「安里集落」では仕事もせずに周辺の集落を巡り、踊りの勝負を挑む「ミーハギィー」と呼ばれる人がいたそうです。(神屋/カミヤー)(屋号酒庫理/サキグーイ)(屋号金万座/カニマンザの屋敷跡)「アシビナー」の南東側に「神屋/カミヤー」があり、建物内には6つのウコール(香炉)とヒヌカン(火の神)があります。「神屋」の前の広場では旧暦7月に行われる豊年祭で旗頭を披露し宴会を楽しみました。「神屋」の南東側に隣接して屋号「酒庫理/サキグーイ」があり、この門中の本家である事から「五月ウマチー」では首里からも拝みに訪れます。更に屋号「酒庫理」の北側には屋号「金万座/カニマンザ」の屋敷跡があります。四体の霊石が祀られる「安里のテラ」は屋号「金万座」の祖先が建てたと伝わり、戦前「安里集落」の人々は旧暦1月1日の元旦、旧暦9月9日のチクザキ(菊酒)、旧暦12月24日のウガンブトゥチ(御願解き)で「安里のテラ」を拝んでいました。「安里集落」の旧家である屋号「金万座」の姓は「玉城」で、代々「安里のテラ」を管理し修繕や建て直しを行なっていました。(カヤブチヤーグヮー/倶楽部)(サーターヤー/ユージェー)(ユージェー/ニシジェー)「神屋」の北側にかつて「倶楽部」と呼ばれていた「安里公民館」があり、この敷地にはその昔サーターヤー(製糖小屋)があり、茅葺き小屋(カヤブチヤー)であった事から「カヤブチヤーグヮー」と呼ばれていました。このサーターヤーは屋号「前仲島袋小・新仲島袋小・金万座」などが使用していました。「安里公民館」の南東側で国道329号線沿いに「ユージェー」と「ニシジェー」という2つのサーターヤーが隣接していました。「ユージェー」は瓦葺き小屋(カーラヤー)のサーターヤーで、屋号「西新金城・前島袋・金城・前金城小」などが使っていました。また北側に隣り合う「ニシジェー」のサーターヤーも瓦葺き小屋で屋号「前金城・川ノ下」などが使用していました。製糖作業を行う熟練の技を習得した人は「シーゾー/製造」と呼ばれ「安里集落」では屋号「屋小比嘉・前仲島袋小・金城」が「シーゾー」として製糖作業を行なっていました。(クスイウヤー/屋号東前島袋)(ウマアシグムイ)(安里ガーラ)(安里ガーラ)「安里公民館」の北東側に隣接した場所は屋号「東前島袋」で、戦前までこの家の老人は「クスイウヤー」と呼ばれる薬売りをしており、体調不良の者や体に痛みのある者が多く訪れたと伝わります。この老人は症状に合った薬を売るだけでなく治療も施していたそうです。公民館の東隣には「ウマアシグムイ」というサーターヤー(製糖小屋)で作業する馬に水浴びをさせるクムイ(溜池)でした。その他にも防火用としての役割もあり、深い所で成人男性の胸の辺りまでありました。また、この溜池にはターイユ(フナ)が生息し、水深が浅い場所では子供達も泳いで遊んでいました。更に、公民館の南側から真っ直ぐに海に注ぎ込む「安里ガーラ」という川が流れており、戦前まで土手があり川幅は約3mあったと言われています。戦後はアメリカ軍の土地整備により川筋が変えられてしまいました。(安里クボー/シチャクボー)(安里クボー/シチャクボー)「安里集落」の北側に「クボー」という御嶽の森があり「安里クボー」や「シチャクボー/下クボー」とも呼ばれています。戦前まで森の木の下にウコール(香炉)が置かれていたと伝わり、現在は旧暦5月15日の「グングヮチウマチー/五月ウマチー」と旧暦6月15日の「ルクグヮチウマチー/六月ウマチー」の年中行事の際に「クボー」の御嶽森の近くから拝しています。『琉球国由来記』には『コバウノ嶽 神名 コバウ森御イベ 安里村』と『同小森 神名 中里ノ御イベ 同村』の記述があり、更に『毎年三・八月、四度御物参之時、有折願也。屋宜巫崇所』と記されています。「御物参/おものまいり」とは「屋宜ノロ」が管轄する「屋宜・安里・奥間・当間」の4つのシマ(集落)の拝所や御嶽を巡る祭祀の事で、集落の五穀豊穣、子孫繁栄、集落の安全、航海安全を祈願したと言われています。
2022.11.01
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(安里のテラ)沖縄本島中部の中城村の中央に「安里(あさと)集落」があり、面積は0.547㎢で西側は丘陵の斜面部となっており、国道329号線を挟んで東側には平野部が広がっています。「安里集落」は「桃原・下原・西原・後原・前原」の5つの小字から成り立っており、現在は「桃原・下原・後原」に住宅地が広がり「前原」の北側は墓地地帯となっています。「安里集落」を南北に通るかつて主要道路であった「スガチミチ/潮垣道」沿いには「安里のテラ」という県指定有形民族文化財があり、集落では「ティラ」と呼ばれています。戦前からカーラヤー(赤瓦屋根)であった「安里のテラ」の内部には四体のビジュル石(霊石)とウコール(香炉)、更にはヒヌカン(火の神)が祀られています。この拝所では参拝者はウチナーウコー(沖縄線香)やウチカビ(あの世のお金)に火をつけずにお供えする作法となっています。(安里のテラ内部/四体のビジュル石)(安里のテラ内部/ヒヌカン)「安里のテラ」は1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』に次のように記されています。『神社 俗ニ安里ノ寺ト云 安里村 笑キヨ、押明ガナシ、イベヅカサ、寄キヨラ 昔、屋宜村之百姓、屋宜湊ヨリ猟ニ出ケル処、俄ニ東風猛ク吹来ル故、安里ノ湊ニ舟ヲヨセ浜ニ下リ、暫寝ケルニ、土中ヨリ霊石一ツ出テ、我ハ権現也、掘出シ可崇、其方ノ病悩愈、種々ノ願可遂由、夢想アリ。夢覚テ見ケレバ、如夢霊石ノヤウニ見へケル石有リ。不思議ニ思ヒ占ヲ致シケレバ、正ク権現ノ御告也、急ホリ出シ可崇敬、トアリ。因、ホリイダシ見レバ、有霊石三。一ハ笑キヨ、一ハ押明ガナシ、一ハイベヅカサト、奉祝也。其后、霊石一ツ海中ヨリ浮来ヲ、寄キヨラト、奉祝。宮建立、右一所ニ奉安置、朝暮信仰イタシケル故持病モ愈、家富、子孫繁栄イタシ、男子ハ屋宜玉城ノ為大屋子、栄幸ニシテ終也。夫ヨリ村中、安里権現ト崇、諸人参詣仕由、申伝也。其末孫、当間村、ニヨク宮城、且、同妹鍋、右祭祀ヲ司ル也。』(安里のテラ)(安里のテラのカー)(ウマアビシグムイ跡)「安里のテラ」を建てたのは屋号「金万座」の先祖であると伝わり、代々その子孫が祭祀を司ってきました。建物の柱も「金万座」の米倉(高倉)に用いられていたものであると伝わります。戦前「安里集落」の人々は旧暦1月1日の元旦、9月9日のチクザキ(菊酒)、12月24日のウガンブトゥチ(御願解き)に拝していました。子孫繁栄、健康祈願、五穀豊穣の御利益があるとされ、現在も村内外から参拝者が訪れています。「安里のテラ」の北側には「安里のテラのカー」と呼ばれる井戸があり「安里のテラ」を拝んだ後にこの井戸も拝んでいたと伝わります。周辺住民は豆腐を作る水や、正月のワカミジ(若水)をこの井戸から汲んでいました。また「安里のテラ」の南東側にはかつて「ウミアビシグムイ」と呼ばれる溜池がありました。「安里のテラ」の周辺に点在していた「サーターヤー/製糖小屋」で作業する馬に水浴びさせる溜池として使用されていました。(屋号メーバルグヮー/前原小)(屋号ウフメーバル/大前原)(屋号ウシメーバルグヮー/牛前原小)「安里のテラ」周辺は「ヤードゥイ/屋取」と呼ばれ、琉球王国時代の士族が首里から農村に移り住み定住した人々の集落を「ヤードゥイ/屋取集落」といいます。1871年(明治4)の廃藩置県後、現在の潮垣線(スガチミチ)と安里中央線の十字路から西側に「前原/白氏」が最初に定住しました。その後十字路付近に「屋比久/吉氏・知名小/向氏・喜屋武小/水氏・宇小根/朝氏」が、そして南側の海沿い付近に「平安名」がそれぞれ移住してきたと伝わります。この土地は「前原」が最初に移住した事や「前原」系統の家が多い理由から「メーバルグヮー/前原小集落」または「アサトノシチャ/安里ノ下」と呼ばれていました。かつて屋号「前原小」には「力石」という青年達が力試しに使った石がありました。また屋号「大前原」の北側には「サーターヤー/製糖小屋」が隣接していました。(屋号クシメーバルグヮー/後前原小)(屋号トウマメーバル/当間前原)(屋号サンラーメーバルグヮー/三良前原小)「安里集落」の「メーバルグヮー屋取」は5つの門中で構成されていました。「前原」は『白氏 元祖 白楊基金城親雲上信懐 名乗頭 信』で、本家は首里大名にあり姓は「前原」です。現当主の5代前の先祖が首里鳥掘から「安里」に移り住んだと伝わります。「屋比久」は『吉氏 元祖 吉裔介儀間金城親雲上孟明 名乗頭 孟』で、本家は南城市佐敷にあり姓は「屋比久」です。「知名小」は『向氏 元祖 尚韶威今帰仁王子朝典 名乗頭 朝』で、字南上原から分家し姓は「知名」となっています。「喜屋武小」は『水氏 元祖 水道仲村渠親雲上春良 名乗頭 春』で、本家は沖縄市宮里にあり姓は戦後に「仲村渠」から「仲村」に改姓して字北上原から分家しました。「字小根」は『朝氏 元祖 朝承起仲村渠親雲上盛亮 名乗頭 盛』で、本家は北谷町北谷にあり姓は戦後に「仲村渠」から「仲村」に改姓したと伝わります。(ヤマグヮーの拝所)(ヤマグヮーの拝所の祠)(ヤマグヮーの拝所のビジュル石)(ヤマグヮーの井戸)「安里集落」の中心部を南北に通る国道329号線の東側に「モーグヮー」と呼ばれる土地があり、その中に「ヤマグヮー」と呼ばれる一画があります。戦前は今よりも西側にありましたが土地改良により現在地に移動しました。「ヤマグヮー」にはコンクリート製の拝所が建立されておりウコール(香炉)が設置されています。祠の内部には三体のビジュル石(霊石)が祀られており、沖縄における石を神として祀るビジュル信仰の拝所となっています。「安里集落」では「ヤマグヮー」の拝所はグングヮチウマチー(五月ウマチー)とルクグヮチウマチー(六月ウマチー)の年中行事で拝まれています。グングヮチウマチーは旧暦5月15日に行われる稲の生育を祈願する行事で、ルクグヮチウマチーは旧暦6月15日に催される稲の収穫に感謝する行事です。この「ヤマグヮー」の敷地内には井戸跡が残されておりウコール(香炉)が祀られています。(ムラガー/シチャヌカー)(ムラガー/シチャヌカーのウコール)「ヤマグヮー」の拝所から南南西側に「ムラガー/村井戸」があり「シチャヌカー/下ノ井戸」とも呼ばれています。この井戸はカブイというアーチ状の石積みが施されており、現在も豊富な水が湧き出ています。「安里集落」の古老の言い伝えによると、この井戸は干魃が7ヶ月続いても水が涸れる事はなかったそうです。戦前はイジュンという井泉の湧き口を塞いで掃除をしていましたが、水が止まる事なく湧き出てくるので大変だったと言われています。また、この井戸は集落で子供が産まれた時に使うウブミジ(産水)や正月元旦に汲まれるワカミジ(若水)として重宝されていました。「シチャヌカー」にはウコール(香炉)が設置されており、水への感謝を祈願する拝所として住民に拝されています。現在、この井戸の湧水は周辺の農業用水として使用されています。(ヒールガーラグヮー)(ヒールガーラグヮー)(ヒールガーラグヮー)「安里集落」には国道329号線から護佐丸歴史資料図書館や中城村民体育館を経て中城湾に流れ込む「ヒールガーラグヮー」と呼ばれるガーラ(川)があります。戦前は川幅が2〜3mありましたが普段は水が流れておらず、雨が降った際に水が流れていました。中城村は1945年の沖縄戦に於いて激戦地となり、4月5日に「安里集落」は米軍の攻撃により消失しました。次の日には集落の西側に隣接する「北上原集落」では161.8高地の攻防戦が展開し日本軍が壊滅しました。戦後、それまで一筋に流れていた「ヒールガーラグヮー」の川筋が米軍により変えられ、現在は国道329号線の2ヶ所から流れる小川が「ヤマグヮー」と「ムラガー」の中間辺りで合流して東側に流れ込み、そのまま中城湾の海へと続いています。(ヤンバルヤー)(ヤンバルヤー)「安里集落」の東側にある浜はかつて「ヤンバルヤー」と呼ばれており、戦前はヤンバルから来るサバニの舟着場であったと伝わります。サバニとは沖縄のウミンチュ(海人)が使っていた舟の事で、沖縄の言葉で「舟」は「ンニ」または「ブニ」と発音しますが「サバニ」の語源は「サバ(サメ)」漁に使う「ンニ(舟)」から来たと考えられています。また「ヤンバルヤー」の浜はモーアシビ(毛遊び)と呼ばれる場で「安里集落」内外から若い男女が集まって語り合い三線を弾いて踊り楽しんでいました。モーアシビをしていると南側にある「津覇集落」の巡査がたびたび見回りに来る事があり、捕まらないように逃げ帰ったという古老の話が伝わります。現在「ヤンバルヤー」の浜は吉の浦公園ビーチとして整備されており、近年までウミガメの産卵が確認された美しい浜として住民に親しまれています。
2022.10.26
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(北浜集落の竜神宮)沖縄本島中部にある「中城村」の東海岸沿いに「北浜集落」と「南浜集落」があります。1879年の「廃藩置県」の後に那覇市「首里」から現在の「北浜」の土地に「ユカッチュ/士族」が移住してきたのが「北浜集落」の始まりだと伝わっています。この集落は戦前まで「仲松」姓が多かった事から「仲松屋取/ナカマツヤードゥイ」または隣接する「津覇集落」の外れに位置していたため「津覇ヌ下/チファヌシチャ」とも呼ばれていました。1919年(大正8年)に作成された「沖縄県中頭郡中城村註記調書」や1925年(大正14)の「沖縄県下各町村字並屋取調」には「津覇・和宇慶集落」の所属屋取名に「仲松屋取」と記載されています。そのため「北浜」は大正頃までには「屋取/ヤードゥイ集落」として存在していました。因みに「北浜集落」は「津覇南浜原・和宇慶北浜原・新田原・湊川原・検知原」の5つの小字で構成されています。(竜神宮の祠)(竜神宮の祠内部)「北浜集落」の東側で中城湾の海沿いに「旧北浜公民館/世代間交流人材育成防災避難拠点施設」があり、その敷地内に「竜神宮」の祠が建立されています。「旧北浜公民館」は戦前まで屋号「三男東リ小」の屋敷があり、周囲には「東リ小門中」の家々が点在していました。「東リ小のサーターヤー」で製糖作業する馬の水浴びをさせる「グムイ」が「旧北浜公民館」の南側に隣接していました。戦前の「竜神宮」の祠は現在の位置よりも北側にあったと伝わります。旧暦1月2日の仕事始めの伝統行事である「ハチウクシー/初興し」や、ヒヌカン(火の神)が昇天する旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。海の航海と豊漁を祈願する「竜神宮」の祠は東側の海に向けて建てられ、祠の内部には石柱が祀られています。(屋号浜仲松/仲松門中)(屋号首里仲松/仲松門中)「北浜集落」の「仲松門中」は「浜仲松・首里仲松」の2つの系統に分かれています。「浜仲松」は元祖彌眞二男の系統で「首里仲松」は彌眞四男の系統となっています。「仲間門中」は『首里系士族 洪氏 大宗 洪啓瑞南風原筑登之彌慶 名乗頭 彌(弥)』で本家は与那原町の我如古家、中元は那覇市首里にある仲尾次家です。「浜仲松」がまず先に首里から「北浜」に移住し、その後「首里仲松」が西原町兼久を経て移住しました。この「首里仲松」は「北浜」を中心に門中が発展し「仲松屋取」を形成したと伝わります。最初に「北浜」に来た「浜仲松」はその後分家して「北浜」の北側にある現在の吉の浦公園のテニスコート付近に移り「高江洲屋取」を形成しました。屋号「浜仲松」の屋敷は「竜神宮」の西側にあり、屋号「首里仲松」はスガチミチ(潮垣道)付近に屋敷を構えていました。(屋号大宮平/宮平門中)(ウドゥンジー/御殿地)(ナントガー/ナーデーラーガー)「北浜集落」の北側のスガチミチ(潮垣道)沿いに屋号「大宮平」の屋敷跡があり「宮平門中」は『首里系士族 阿氏 元祖山南王汪應祖次男阿衡基南風原按司守忠 名乗頭 守』です。北浜に移住した初代は「ブサータンメー」と呼ばれ、集落の子供達を集めて棒術を教えていたと伝わります。「ブサータンメー」は大屋にあたり屋号は「大宮平」でした。「大宮平」は大きな豪農で「宮平門中」が集中する集落北部にあった、かつて琉球王国の「尚家」が所有していた「ウドゥンジー/御殿地」をはじめ多くの土地を所有していました。屋号「大宮平」の北側には「ナントガー」という井戸があり、旧暦1月2日の「ハチウクシー/初興し」や旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。「ナントガー」の西側には屋号「宮平」が隣接していた事から、この井戸は「ナーデーラーガー」とも呼ばれていました。(ヌハガーラ/饒波川)(ヌハグムイ/ヌハ橋/屋号大饒波)(屋号伊集小)(ナーシルダー)屋号「大宮平」の南側に字津覇から中城湾に流れ込む川があり、屋号「大饒波」の屋敷前を流れていた事から「ヌハガーラ/饒波川」と呼ばれるようになったと伝わります。「ヌハガーラ」とスガチミチ(潮垣道)が交わる場所には「ヌハ橋/饒波橋」が架かっており、この橋の下の川底に窪地があったため「ヌハグムイ」と言われていました。この窪地は橋から飛び込めるほどの深さがあり子供達の恰好の遊び場であったそうです。「ヌハ橋」の南側にある屋号「伊集小」は「バクヨー/馬喰/博労」と呼ばれる家畜の仲買人をしており、更に「と殺」の専門知識を持っていた事から集落の人々から依頼を受けて家畜(馬・豚・山羊)を潰していました。この屋号「伊集小」の屋敷から東側にある土地には「ナーシルダー」という稲の苗を育てる田んぼがあり、隣接するクムイ(溜池)から水を引いてたと伝わります。(屋号ウサー伊集/ボウシクマーが集まる場所)(仲松カー神)(仲松カー神の祠内部)「仲松門中」の屋号「首里仲松」の北西側に屋号「ウサー伊集」の屋敷がありました。この家には「ボウシクマー/帽子編み」と呼ばれる人々が集まり帽子を編んでいました。戦前まで「ボウシクマー」は女性の副業で、サトウキビ栽培に並び貴重な収入源でした。編んだ帽子は那覇の卸売り会社に納品され本土に運ばれました。スガチミチ(潮垣道)と中通り(馬車道)のカジマヤー(十字路)を西側に100メートルほどの畑内に「仲松カー神」の祠が建立されています。戦前からある古井戸で旧暦1月2日の「ハチウクシー/初興し」や旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。また、正月元旦のワカミジ(若水)や子供が産まれた時のウブミジ(産水)もこの井戸から汲まれていました。「仲松カー神」の祠にはウコール(香炉)が祀られており、祠内部には井戸が鎮座しています。(南浜集落の大内のカー)「南浜集落」は「安里屋取」と呼ばれるほど、集落のほとんどの世帯が「安里門中」でした。「安里門中」は『首里系士族 楽氏 元祖屋宜親雲上昌寔 名乗頭 昌』で本家は宜野湾市の長田にあります。「南浜集落」の「安里門中」は中元にあたり「大内」は最初に「南浜」に移住した家で、廃藩置県(1879年)後に首里から移ってきたと伝わります。「安里集落」は「和宇慶」の外れにあった事から「和宇慶ヌ下」と呼ばれています。「安里門中」が所有する『楽姓安里門中世系図』によると、元祖である「楽崇義安里筑登之親雲上昌茂」には7名の子供がいて、この子供達の系統が現在まで栄えていると記されています。屋号「大内」の敷地にはかつて「大内」の屋敷で使用していた井戸が現在も残されており「大内のカー」と呼ばれています。(アサトガー/安里井戸)(アサトガー/安里井戸)(屋号ウフメー新屋の井戸)(屋号ウフメー新屋の井戸)「南浜集落」の「上屋取」と呼ばれる区画に屋号「大内」の敷地内に「アサトガー/安里井戸」という井戸があります。屋号「大内」が「南浜」に移住した際に利用していた井戸だと伝わり、戦前から集落の人々に拝されています。当時はこの場所からスガチミチ(潮垣道)を北側に進んだ屋号「浜與儀」から西側に広がる畑の中にありましたが、戦後の土地改良により現在地に移設されています。「南浜集落」の東側は「下屋取」と呼ばれ、この区画を流れる「ヲーキガーラ/ヲーキ川」沿いには屋号「ウフメー新屋」が使用していた井戸が現存しています。屋号「ウフメー新屋」はウミンチュ(海人)で、当時は主流であった素潜りを専門に漁をしていました。素潜りをするウミンチュは「シムワザ」または「裸潜り」と呼ばれていたと伝わります。
2022.10.21
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(濱龍宮神の拝所)沖縄本島中部に「中城村/なかぐすくそん」があり、この村の東海岸沿いに「浜集落」があります。1879年の廃藩置県の後に屋号「大謝名堂/ウフジャナドウ」が現在の「浜集落」の土地に移住したことが集落の始まりである伝承があります。その後、首里から「屋良/ヤラ」字北上原から「仲本/ナカモト」が移り住んだと言われています。戦前は「謝名堂」姓が多かったため「謝名堂屋取/ジャナドウヤードゥイ」または西側にある「奥間集落」の外れに位置している事から「奥間ヌ下/ウクマヌシチャ」と呼ばれていました。1919年(大正8年)に作成された「沖縄県中頭郡中城村註記調書」や1925年(大正14)の「沖縄県下各町村字並屋取調」には「奥間集落」に所属する「屋取/ヤードゥイ」として「謝名堂屋取」と記載されています。(濱龍宮神の祠内部)(浜漁港)(メーヌハマ/前ヌ浜)「浜集落」の東海岸沿いにある「浜漁港」の敷地に航海の安全と豊漁を祈願する「濱龍宮神」の祠が建立されており、コンクリート製の祠内部には石碑とウコール(香炉)が祀られています。「浜漁港」は昔は砂浜で「メーヌハマ/前ヌ浜」と同様に「サバニ」と呼ばれる沖縄の伝統的な木製の小形舟を陸上げする場所でした。「サバニ」はとても重く干潮で海が遠くなると「海人/ウミンチュ」は舟を押し出せないため、干潮と満潮の時間を計算して舟を出していました。「浜集落」では主に素潜が盛んに行われており「海人」は明け方から昼過ぎまで海に潜り「イヨグン」と呼ばれる銛を使ってイカ、タコ、貝、魚、フカ(鮫)などを獲っていました。普段は水深3〜5メートル、深いところでは約20メートル近くまで潜ることもあったそうです。(屋号大謝名堂/謝名堂門中)(屋号仲謝名堂)「謝名堂門中/ジャナドウムンチュー」は「浜集落」に最初に移住したと伝わり、集落において一番大きな門中を形成しています。『首里系士族 任氏 大宗 任興元稲福親雲上忠記 名乗頭 昌』で、本家は那覇市首里にある屋我家、中元は那覇市安謝にある謝名堂家です。「浜集落」の大屋は屋号「屋号大謝名堂」で屋敷内に「御神屋/ウカミヤー」があり、ここで那覇市の本家や中元に行く代わりに遥拝するようになったと伝わります。「謝名堂門中」の姓は「謝名堂・浜田」で、戦後に屋号「仲謝名堂」を含む数件が「浜田」へ改姓しました。「ナカミチ」の通り沿いにある屋号「仲謝名堂」は屋号「大謝名堂」の屋敷南側に隣接しており、戦前は「馬車ムチャー」と呼ばれる職業に就いており、依頼を受けて馬車で荷物を運搬していました。(屋号サンラー屋良/屋良門中)(カーラ/川)(ハシグヮー/コンクリート橋跡)(ハシグヮー/コンクリート橋跡)士族帰農で「浜集落」に移住してきた「屋良門中」は『首里系士族 向氏 元祖尚龍徳越来王子朝福 名乗頭 朝』で、本家は那覇市首里の嘉味田家です。「尚龍徳越来王子朝福」の支流六世朝長の三男、七世朝眞が首里から「浜集落」に移住したと伝わります。その後、屋号「サンラー屋良・下屋良」と分家し、現在の「屋良門中」を形成しています。集落の西側から東海岸に流れる「カーラ/川」は仲通りに沿っており、この小川にはかつて「ハシグヮー」と呼ばれるコンクリート製の橋が架かっていました。「カーラ」は子供達の格好の遊び場で橋の下にはセークグヮー(エビ)、魚、カニなどがいる釣り場でした。旧正月にはこの川から子供達がワカミジ(若水)を汲みウフヤー(大屋)に持って行き、お年玉をもらったという古老の話が残っています。(屋号松尾/与那嶺鰹節店)(屋号松尾/与那嶺鰹節店の井戸)(屋号松尾/与那嶺鰹節店)「屋号大謝名堂」の屋敷から南西側に隣接する「与那嶺鰹節店」の土地にはかつて屋号「松尾」があり、屋敷には「カチューウヤー/鰹売り」が住んでいました。この家のお婆さんがカチュー(鰹節)を売り歩いており、昔からカチューは味噌と一緒にお湯でときカチュー湯にしてにして飲むと風邪に効いたと伝わります。鰹節は那覇から自転車で配達され、それをお婆さんが籠に入れて頭に乗せ、字新垣や宜野湾の野嵩や普天間に売りに行きました。籠は重さ約20キロありましたが、お婆さんはそれを頭に乗せて小走りする事も出来たそうです。屋号「松尾」のお婆さんが鰹節を売りに来るのを楽しみに待っていたお客さんが大勢いたと言われています。また、この屋敷には「ウミンチュ/海人」も暮らしており、沖縄戦の時には5〜6名の日本兵が寝泊まりしており、獲った魚を提供していたと伝わります。(屋号謝名堂小)(チンジュウガー/鎮守井戸)(チンジュウガー/鎮守井戸の拝所)「与那嶺鰹節店」がある屋号「松尾」の西側に隣接して屋号「謝名堂小」の屋敷がありました。現在、この家の敷地には「チンジュウガー/鎮守井戸」と呼ばれるコンクリート製の古井戸があります。蓋が施された井戸には石造りのウコール(香炉)が設置されています。この井戸に向かって左隣には「チンジュウガー」の拝所があります。この祠内部には「御守神」と彫られた石碑が設置されており、この拝所にも石造りのウコールが祀られています。戦前まで「チンジュウガー」の井戸は屋号「謝名堂小」近くにあった畑の中にあり、旧暦の9月9日に家族の健康祈願を行う「チクザキ/菊酒」の御願行事で拝されていました。更に、旧正月の若水や子供が産まれた時の産水も、この「チンジュウガー」から汲まれていたと考えられます。(屋号仲本小の屋敷跡)(メーベーのサーターヤー跡)(クシベーのサーターヤー跡)浜漁港沿いで「浜集落」の最も北東側の場所には、かつて屋号「仲本小」の屋敷がありました。「仲本門中」は『首里系士族 夏氏 大宗 諱居数越来親方俗叫鬼大城賢雄 名乗頭 賢』で姓は「仲本」です。本家は首里にあり中元は字北上原の「石嶺仲本小」で、字北上原から「浜集落」に移住してきたと伝わります。「浜集落」には3つの「サーターヤー/砂糖小屋」があり、屋号「仲本小」の南側には集落の「メーベー/前方」に所属する家と「クシベー/後方」に所属する家が使用した2つの「サーターヤー」がありました。収穫したサトウキビは「サーターヤー」に運ばれ、サトウキビを圧搾するサーターグルマと呼ばれる機械に差し込まれます。このサーターグルマに木製の棒を取り付けて馬に繋げ、馬を歩かせてサトウキビを搾りました。「サーターヤー」には作業をする馬の水浴びをさせる「ウマアミシグムイ」という溜池が常設されていました。(スガチミチ/潮垣道)(スガチミチ沿いのサーターヤー跡)(洗濯場跡)サトウキビを運搬するトロッコ軌道が敷設されていた「スガチミチ/潮垣道」沿いの「カジマヤー/十字路」にはかつて「サーターヤー」があり、屋号「知念小・松尾・新屋謝名堂・三男知念小・新知念小・謝名堂小」などが使用していました。サトウキビは貴重な換金作物であったため、集落の多くの家で栽培されていました。そのため「サーターヤー」では冬から春にかけて黒糖作りが盛んに行われていました。更に、戦前までこの十字路には川が流れており、川沿いには約2メートル幅の土手があり所々に石が積まれていました。この場所では川に降りられるようになっていて、女性達が集まって洗濯物を洗っていたと伝わっています。現在の川はコンクリートで塞がれていますが、かつての面影を感じ取る事ができます。
2022.10.16
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(ニフェーマーチューの拝所)沖縄本島の中部にある西原町に琉球大学千原キャンパスがあります。この広大な敷地一帯はかつて琉球王国が管理して王府の御用木を生産していた「杣山/ソマヤマ」と呼ばれる山林(官有林)が広がっていました。大学の共通教育棟1号館の北東側敷地内に「ニフェーマーチューの拝所」があり、この場所は琉球王国の中城間切時代には「カナイタ山」と言われていました。「ニフェーマーチュー」の「ニフェー」は「感謝」で「マーチュー」は「松の木」の事で、総じて「感謝の松」を意味しています。かつて「ニフェーマーチューの拝所」はコンクリート製の祠が建てられており、祠内部には2体の霊石が祀られていました。しかし台風により祠は崩壊し、現在は「ニフェーマーチュー」と彫られた石碑が新しく建立しています。(ニフェーマーチューの石碑)(ニフェーマーチューの拝所)大学敷地の整地のため拝所は一時期、大学の中城村側東口守衛室の裏側に仮移設されましたが、再び元の拝所の場所と考えられる現在の位置に移されました。その昔、この場所には松の大木があり周辺の住民は「カナイタ山」に入り松の枯葉や薪などを採って生活していました。人々はこの「ニフェーマーチューの拝所」で山の神様に山を利用できる事への感謝と、山の安全への祈りを捧げてから入山したと伝わります。琉球大学千原キャンパスができた後も、この拝所は地域の人々の信仰の場所として拝され続けています。建立されている石碑の裏側には『後世の人々に山御願の歴史が伝承されていくことを切に願い、この地に新たに拝所の石碑を建立した。二〇二一(令和三)年二月吉日 中城村南上原南組有志会』と記されています。(チャーヤマ/茶山跡地)(クガニガマ跡)琉球大学工学部からテニスコート辺りまでが昔から「チャーヤマ/茶山」と呼ばれていた場所で、琉球王国の正史の歴史書である『球陽』には1733年の「尚敬王」の時代に棚原山地に初めて茶園を開いたと記されています。更『球陽』には20,850余歩の面積を開いて茶種や樹木などを植え、和漢の茶葉を製造して王国に供するとの記述があります。「金武御殿」からの分家と伝わる「普天間家一門」の宗家が約250年前に首里から「チャーヤマ」の番人として移り住み「茶山普天間」の名前で知られていました。また「チャーヤマ」周辺は「アカモー」とも呼ばれており、赤土の山に野イチゴやヤマモモが多く自生していました。かつて「チャーヤマ」の北東側には「クガニガマ」と呼ばれる洞窟があり「クガニ」は「黄金」で「ガマ」は「洞窟」を意味します。黄金の光がこの洞窟内で輝いた伝説から「クガニガマ」の名称が付けられたと伝わります。(石原門中の屋敷跡地)(石原門中の屋敷/井戸跡)琉球大学文系講義棟の東側にある小高い森には、かつて「石原門中」が暮らした屋敷と井戸の跡が残されています。「石原門中」は『首里系士族 楊氏 元祖楊太鶴山内親方昌信 名乗頭 昌』で本家は「与世田殿内」大屋は「山野前」となっています。現在、屋敷跡の周辺は石とコンクリートで整備されており、かつての屋敷の面影を残しています。「石原門中」の屋敷で使用されていた井戸はコンクリート製の囲いが施されており、井戸の内部へはパイプで空気孔が設けられています。更に井戸の脇にはベンチも設置されており、大学の学生の憩いの場として利用されています。戦前、この屋敷の周辺には「石原門中」が集中して暮らしており、屋号「石原」が4軒あった他にも、屋号「御殿地石原・内石原小・タードーシ石原・金武田石原小」などの屋敷も点在していました。(知名門中/大屋知名の屋敷跡地)(喜屋武門中/大喜屋武小の屋敷跡地)(サキタリヤマ/サカタリヤマ跡地)「知名門中」の屋号「大屋知名」の屋敷跡地には現在、琉球大学の共通教育棟3号館が建っています。「知名門中」は『首里系士族 向氏 元祖尚真王三子尚韶威今帰仁王子朝典 名乗頭 朝』で本家は「具志川御殿」です。元祖の「朝典」は第二尚氏の北山監守として「今帰仁グスク」に移り住んだ王族です。この屋敷跡地の南側には「喜屋武門中」の屋号「大喜屋武小」の屋敷跡地で、現在は大学浄水施設の敷地となっています。「喜屋武門中」は『首里系士族 毛氏 元祖毛国鼎中城按司護佐丸盛春 名乗頭 盛』で本家は「豊見城殿内」となっています。元祖の「護佐丸盛春」は「尚巴志王」に仕えた按司として知られています。更に、この屋敷跡地の北側にある大学の「サッカー・ラグビー場」には、かつて「サキタリヤマ/サカタリヤマ」と呼ばれた山があり、密造酒を造っていた事からこの名称が付けられたと言われています。(ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸)(ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸)(ボージウシュー/坊主御主の屋敷跡地)琉球大学農学部の建物の北東側に「ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸」があります。その昔「チャーヤマ」に隠居した第二尚氏の第17代「尚灝王/しょうこうおう」(在位:1804-1834年)が使用していた井戸だと伝わります。「ボージウシュー/坊主御主」とは「尚灝王」の隠居後の名称で、昔からこの井戸は首里から礼拝者が多数訪れていました。琉球大学が首里から移転する際にこの井戸は取り壊されそうになりましたが、首里のノロ(祝女)達が来て井戸を残すよう言われたそうです。現在、大学北口に向かう道路脇にある井戸はコンクリートの建物で囲まれ、内部には大学移転当時のポンプが現在も残されています。この井戸から東側の北食堂裏の敷地は「尚灝王」が暮らしていた屋敷の跡地となっています。ちなみに「尚灝王」は一妃二夫人八妻を持ち、九男十七女をもうけた琉球国王でした。(サーターヤー跡)(ウマウィーグヮー/千原馬場跡)(果樹園跡)琉球大学工学部1号館の北側一帯はかつて「サーターヤー」と呼ばれる製糖場がありました。そこから南西側にある農学部沿いの道路はかつて「ウマウィーグヮー」という馬場で、馬の走り方の美しさを競う琉球競馬が行われていました。「チャーヤマンマイー」や「千原馬場」とも呼ばれた道は長さ約108メートル、幅が約9メートルあったと伝わり琉球競馬の他にも子供達の遊び場でもありました。この位置から同じ道を更に南側に進んだ一帯にはかつて「果樹園」がありました。『西原町史』の民族編には、1960年(昭和35)頃に台湾出身の陳という人が千原馬場の南側、現在の農学部南棟側から農場棟辺りの山地で、約2万坪の村有地を借地開墾し果樹園を開いていたと記されています。この果樹園では主に紀州ミカン、ポンカン、バンジロウなどを栽培していましたが、琉球大学の移転に伴い閉鎖され撤去されてしまいました。(琉球大学)琉球大学農学部の「農学部フィールド」と呼ばれる一帯には「棚原グスク」を守る支城の役割があった「イシグスク」や「大城門中按司墓」と彫られた石柱が建つ古墓、更に「ヤマバーン/山番」と呼ばれる杣山管理をしていた首里系士族「普天間門中」の墓を含む「五連墓」など、より多くの人々に知られるべき興味深い遺跡文化財が点在しています。残念ながら「農学部フィールド」は琉球大学の研究者以外は立ち入り禁止の区域となっています。琉球大学の広報担当に問い合わせたところ、個人での見学や利用については検討が必要で許可が下りるまで時間がかかるとの回答がありました。更に「農学部フィールド」に関する画像は研究者の知的財産権を損害してしまう場合があるため、SNS等への掲載はお控え下さいとの返答もありました。
2022.10.11
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(シージマタノ嶽のイビ)沖縄本島中部にある中城村「津覇集落」の「ミーヤシチ/新屋敷門中」の祖先は沖縄本島北部の今帰仁から「中城グスク」の南東側に広がる中城村「字泊」に移り住み「トゥマイウフヤ/泊大屋」という家を作りました。その分家である「アガリウフヤ/東大屋」の三男である「ザキミシー/座喜味子」が「ミーヤシチ門中」の元祖であると伝わります。その元祖の時代には現在の西原町千原にある琉球大学千原キャンパスの敷地内に広がる「シージマタ」の森に住んでいました。しかし、西原の「棚原門中」との戦いに敗れた「ミーヤシチ門中」は東部の「糸蒲」に移り、その後は更に東側の「津覇集落」に移り住んだと言われています。この「ミーヤシチ門中」は「ウェーグン/親根門中」とも呼ばれ、姓は「新垣」となっています。(以前のシージマタノ嶽のイビ)(シージマタの森)(シージマタの森)「シージマタ」の「シージ」は「しのぐ」の事で「マタ」は「川の合流地点」を意味します。昔、戦に敗れた落武者がこの土地に隠れて命を凌いだ事が地名の由来であると伝わります。「シージマタノ嶽」は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『棚原村 シギマタノ嶽 神名 コバヅカサノ御イベ』と記されています。以前のイビ(神が宿る最も重要な場所)は、現在のイビがある拝所の南側の川沿いに生える「ホソバムクイヌビワ」の根元辺りにあったと言われています。この場所から更に南側には「シージヌマタヌカー」という井戸があったと伝わります。一説では、この森は「棚原集落」の発祥地であると伝わり、集落の草分けで「ニーヤー/根屋」と呼ばれる「宮里門中」の元祖が暮らした屋敷があったと言われています。そのため戦前まで「棚原集落」のカミンチュ(神人)が年中行事で祭祀を行なっていたとの伝承があります。(シージマタノ嶽の遥拝所)(津覇集落のミーヤシチ門中)「棚原門中」との戦いに敗れた「ミーヤシチ門中」が逃れた「糸蒲」の地に「シージマタノ嶽」への遥拝所があり、石造りのウコール(香炉)が御嶽に向けて祀られています。「ミーヤシチ門中」が「津覇集落」に移り住んで暮らした屋敷の土地が現在も残されており、戦前までこの門中は「津覇集落」で馬車を所有する「馬車ムチャー」として働いていました。黒糖を詰めた「タルガー/樽」や「ウミイシ/海の石」など、依頼主の要望に応じて様々な物資を運んでいました。「津覇集落」に「サーターヤー/製糖場」が多く存在した事に比例して「馬車ムチャー」の数も多かったと伝わります。「津覇集落」の「馬車ムチャー」は「ミーヤシチ門中」の他にも「東比嘉・前田場・三男森田・酒庫理・森田小・栄眞境名」が存在したと言われています。(球陽橋/きゅうようばし)(ナービグムイ)(千原池/せんばるいけ)「シージマタノ嶽」の森に沿って「千原池/せんばるいけ」と呼ばれる人工池があり「球陽橋/きゅうようばし」が架けられています。かつて「千原池」の上流域に「ナービグムイ」という直径1メートル、深さ1.6メートルの鍋状をした溜池があり「ナービ」は「鍋」の事で「グムイ」は「溜池」を意味しています。伝承では中城の「津覇集落」の古代マキョと呼ばれる血縁部落の「糸蒲ノロ」が戦に追われてこの溜池で水死し、そのノロ墓が「ナービグムイ」の近くにありました。また昔、ある遊女がこの溜池で自殺したと言われており、水面には遊女が使っていたと思われる「サバチ箱/用具箱」が浮いていたため「ナービグムイ」は幽霊が出ると人々に恐れられていたそうです。現在の「ナービグムイ」と「ノロ墓」は琉球大学がこの土地に移転した際に作られた人工池の「千原池」に沈んでいます。(ウフタチグムイ)(千原池に架かる球陽橋)(千原池/せんばるいけ)「ナービグムイ」から南側に約20メートル離れた場所に、かつて「ウフタチグムイ」と呼ばれる溜池がありました。「球陽橋」の東側の川が湾曲した所に位置し、かつてこの溜池で馬を水浴びさせたり子供達が泳いだりしていました。しかし、この溜池は溺死する事故も多く、大人達は子供だけで泳がないよう注意していたそうです。「ウフタチグムイ」は一番深い場所で約2メートル、広さは約100坪ほどあったと伝わります。「球陽橋」が南北に架かる「千原池」は琉球大学が那覇市首里から西原町の現在地に移転した1977年に作られた人工池で、農学部農場用の用水ダムでもあります。池の面積は約20,000平方メートルで平均水深は約1.5メートルとなっており、野鳥を始めとする多くの生物の生息地として重要な役割を担っています。(チカジャングヮーカーの森)(ガチマタ)「千原池」に架かる「球陽橋」を渡った南側に大学会館(全保連ステーション)があり、この建物に隣接した場所にはかつて「チカジャングヮーカー」と呼ばれる井戸がありました。戦前まで周辺に暮らしていた屋号「チカジャングヮー/津嘉山小」が井戸の名称に由来していると考えられています。「チカジャングヮー」を使用していた「津嘉山門中」は18世紀の初めに首里や那覇から農村地域に人口移動が行われた「士族帰農」でこの土地に移転しました。『首里系士族 向氏 元祖尚質王三子尚弘仁義村王子朝元 名乗頭 朝』で、本家は琉球王族の「名護御殿/なごうどぅん」であると言われています。さらに大学会館の周辺は「ガチマタ」と呼ばれる深い森で覆われており、昔は川が合流して滝が流れていたと伝わっています。(トーフクエーマーチ/豆腐喰松があった場所)(トーフクエーマーチ/豆腐喰松の拝所)(トーフクエーマーチ/豆腐喰松の拝所)「トーフクエーマーチ/豆腐喰松」は琉球大学千原キャンパスの北食堂入り口付近にあったと言われています。「トーフクエーマーチ」は「ターチマタマーチュー」とも呼ばれ、その名前の通り2本の松の木で大きい方の幹は直径約1メートル、高さ約10メートルあった大松であったと伝わります。木の根元にウコール(香炉)が祀られ、拝所として「棚原集落」や他の村から拝みに来ていました。その木の根元に豆腐をお供えしたら、いつの間にかそれが無くなっていたので「トーフクエーマーチュー/豆腐を食べる松」と呼ばれるようになりました。この松は昭和8年頃まで生えていましたが、その後無断で伐採されてしまったと伝わります。現在「トーフクエーマーチ」の拝所は大学生寮の北側にある駐車場の角に移設されており、3基のウコールが祀られた拝所となっており人々に拝されています。
2022.10.06
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(トゥングヮー)「津覇集落」の南西側でケンドー(旧県道)の近くに「トゥングヮー」と呼ばれる祠があります。旧暦1月2日に行われる「ハチウクシー/初興し」と呼ばれる行事は、1年間を通じて集落の各拝所への拝みを始める最初の日で「トゥングヮー」はこの行事の最後を締め括る拝所として拝まれていました。旧7月16日に行われていた「念仏エイサー 」の踊りは旧盆の最終日に「トゥングヮー」で行われ、旧盆翌日の旧7月17日には「ジュウルクニチー/十六日」と呼ばれる厄除け祈願の行事が行われていました。また、旧8月15日の「十五夜」の行事では集落の豊年と厄祓いの祈願で「トゥングヮー」が拝され、その後「アシビナー」に移動して「ムラアシビ/村遊び」が行われていたと伝わります。(トゥングヮーの火の神)(トゥングヮーのウコール)(トゥングヮーの手水鉢)「トゥングヮー」はかつて「旧津覇公民館」があった場所で、戦前は鬱蒼とした木々で覆われている中に小さな瓦葺きの祠があったと言われています。当時、現在の位置よりも少々北側にあり、祠の内部には火の神(ヒヌカン)の霊石が祀られていました。現在の「トゥングヮー」はコンクリート製の祠で向かって左側には「奉納 昭和四十五年六月吉日 糸満家親族一同」と記され、右側には「奉納 昭和四十五年六月吉日 新垣盛蒲 カマ」と彫られています。「トゥングヮー」の正面にはウコール(香炉)が設置され「ヒジュルウコー」と呼ばれる、火を灯さない作法でヒラウコー(沖縄線香)とお賽銭が供えられています。更に「トゥングヮー」に向かって右後方にはコンクリート製の手水鉢が置かれています。(ムラヤーのシーサー)(メーガーラー)「トゥングヮー」がある場所はかつて「ムラヤー/村屋」または「倶楽部」と呼ばれた集落の中心地でした。現在、この敷地の南西側にある掲示板の上に「シーサー」が2体設置されています。以前は「メーミチ」と呼ばれる隣接する道の入り口に鎮座していたと言われています。戦前は西側丘陵の「富里ノ嶽」がある「フサトゥヤマ/富里山」に向かって3〜4体のシーサーが置かれ「ヒーゲーシ/火伏せ・厄除け」の役割があったと伝わります。「津覇集落」の南側には「メーガーラー」という河川があり、源流は小字「仲棚原/ナカタナバル」で津覇小学校南側を通り、小字「寺原/テラバル・浜原/ハマバル」を経て東側の中城湾へと流れつきます。因みに、現在の「メーガーラー」の川幅は戦前とほぼ変わらないと言われています。(糸満門中のシーシヤー/獅子屋)(シーシヤーの神棚)「ムラヤー/倶楽部」の北側にある「糸満家」に「シーシヤー/獅子屋」と呼ばれる獅子舞を保管する小屋があります。「糸満門中」の本家は屋号「糸満」で「津覇集落」の創始家である「ニーヤー/根屋」の一つと言われています。戦前は集落の祭祀を行う「カミンチュ/神人」を出した家であり姓は「新垣」でした。また、同系統の家として「糸満小」や「湧田」があります。「糸満門中」の「カミンチュ」は集落の火の神である「トゥングヮー」で白衣装を着用して祭祀を行いました。屋号「糸満」の屋敷裏側には、この白衣装を干す専用の場所があったと伝わります。「シーシヤー」の小屋内部には神棚があり、4基のウコール(香炉)、4組の花立・酒・水、2組の茶碗が供えられ、花立にはチャーギ(イヌマキ)が供え葉として捧げられています。(津覇のシーシ/獅子)(エイサー大太鼓)「シーシヤー」の小屋内部には「津覇の獅子」が安置され、火の神の前にエイサーに使われる大太鼓が置かれています。「津覇の獅子舞」の由来は、その昔に丘陵で生活していた「糸満家」と「呉屋家」が平地へ移動して現在の「津覇集落」を形成し、その際に厄除けと五穀豊穣を祈願したのが始まりであると伝わります。「津覇の獅子舞」の大きな特徴は、一頭の獅子で雌と雄の演舞を踊り分けする事です。雌の舞は柔らかい所作が主体となり「シランカチ」という虱(シラミ)をかく動作を座りながら行います。一方、雄の舞は力強い所作が主体で「マース高」や「見シジ」と呼ばれる踊りを行います。約400年余りの歴史を持つ「津覇の獅子舞」は1997年(平成9年)3月7日に「中城村指定無形民俗文化財」に登録されました。(ナカミチ)(ヤマグヮー)(ヤマグヮーの拝所)「糸満門中」の「シーシヤー」の北側沿いを通る「ナカミチ」は「津覇小学校」側から国道329号線に架かる陸橋近くが入り口になっています。「津覇集落」の中央を東西に横断し、集落の東側にある「スガチミチ/潮垣道」に至る「ナカミチ」は集落内で最も道幅が広く、エイサー の「道ジュネー」の順路となっています。この「ナカミチ」沿いには「ヤマグヮー」と呼ばれる場所があります。その昔「ヤマグヮー」にはヤシ科の植物である「マーニ/クロツグ」の低木が沢山生えており、その深い茂みの中に墓があったと言われています。この墓は「英祖王」の父である「伊祖グスク」の「恵祖世主」を先祖に持つ「大湾按司」に仕えていた家来や、奉公していた人の中で身寄りがない人を葬った墓であると伝わっています。現在は竹林の根元に霊石とウコール(香炉)が祀られています。(呉屋門中の御神屋/ウカミヤー)(呉屋門中の神棚と火の神)(津覇の旗頭)「ヤマグヮー」から南側に「ナカミチ」を挟んだ場所に「呉屋門中」の「御神屋/ウカミヤー」があります。本家は屋号「呉屋」で集落の根屋の一つと言われており「津覇集落」で所有する「旗頭」を保管しています。「呉屋門中」は「恵祖世主」を初代とする10代目「大湾按司」の三男「大湾子」を元祖とする門中です。「呉屋門中」の神人は集落内では「ヌール」と呼ばれており、ウマチーの行事の際には「伊集集落」のノロ殿内に貢物を運んでいたと言われています。この門中は「伊集ノロ」を乗せる馬を管理しており、同門中の男性は馬の手綱役を務めていました。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に記されている『里主根屋 津覇村 毎年六月、為米初、神酒三同村百姓中供之。伊集巫ニテ祭祀也。』という記述は「呉屋門中」の「御神屋」であると考えられます。(ウシクルシドゥクマー)(クバニー門中の拝所)(クバニー門中の拝所/祠内部)「呉屋門中」の「御神屋」から南東側に「ウシクルシドゥクマー」と呼ばれる場所があり「シマクサラシー」という集落の厄祓い行事の際に牛を解体した場所であると伝わっています。行事の後には集落の人々が集合して貴重な牛肉が振る舞われました。また、この場所から更に南西側には「クバニー門中」の拝所があります。「クバニー門中」の祖先は「勝連グスク・座喜味グスク・中城グスク」構築の際に石細工の職人をしており「津覇集落」に移住したと言われます。「クバニー」の名称は先祖が住んでいた土地にクバの木が沢山生えていた事に由来しています。この拝所の祠内部には「久場 勝連」と彫られた石碑と霊石が祀られており、近隣の屋号「勝連」の屋敷には現在も「クバニーガー」と呼ばれる井戸があり拝されています。(1〜4号サーターヤー/製糖場跡)(1〜4号サーターヤー/製糖場跡)「津覇集落」の南側に「津覇構造改善センター」と呼ばれる旧公民館があり、この土地は戦前まで集落で共有する1号〜4号の「サーターヤー/製糖場」がありました。「サーターヤー」での作業は収穫したサトウキビを持ち込み、順番を決めて1家分ずつ製糖作業が行われました。サトウキビの汁を絞る「サーターグルマ」を引くのは馬の役目で、同じサーターヤーを利用する人同士で馬を出し合い交代で引かせました。このサーターヤーやサトウキビの生産量が少ない人達が利用していた為、利用者を"借りた車"という意味の「カイグルマー」と呼んでいたそうです。また、利用者は「サーターグルマ」の扱いに不慣れな人が多く、度々「サーターグルマ」を壊していたので「カイグルマー ヤ 道具ヤンジャー(道具を痛める)」と言われていたと伝わります。
2022.10.01
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(津覇ノ寺/テラヤマ)沖縄本島中部にある中城村「津覇集落」の東側に「津覇ノ寺/津覇のテラ」という拝所があり、集落では昔から「テラヤマ」や「ヤマグヮー」と呼ばれています。1991年に改修されたコンクリート製の祠内部には霊石と8体の自然石が祀られており、さらに4基のウコール(香炉)も設置されています。この拝所は「津覇寺」とも称し今から約400年前に「竈勝連/カマドゥカッチン」という人の先祖が霊石を権現として祀る為、お宮を建立したのが始まりだと言われています。ここに祀られる御神は「水の神」「火の神」「海の幸の神」「子孫繁栄の神」の四体の神となっています。「津覇ノ寺」は平成26年3月26日に中城村指定文化財(有形民俗文化財)に登録されました。(津覇ノ寺/テラヤマの祠内部)(津覇ノ寺/テラヤマの祠内部)1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『神社 俗ニ津覇ノ寺ト云 津覇村 ヨヤゲセジヨヤゲヅカサ スデル君ガナシ 押明キヤウ笑キヤウ スンキヤウ笑キヤウ』と記されており、更に『昔、津覇村竈勝連先祖、霊石ヲ権現ト崇、宮建立仕タル由、申伝也。為何由緒アリテ権現ト崇タルヤ、不可考。竈勝連無子故、養子ニ次渡シ、当時、ミチケ桃原、祭祀ヲ司ル也。』と記述されています。四体の神が戻ってくる旧正月2日の「初うくしい/ハチウクシー」、健康と長寿を祈願する旧9月9日の「菊酒/十二支廻り」、四体の神が一年の報告をする為に昇天する旧12月24日の「解き御願」の祭礼日に集落内外より参拝者が訪れて拝しています。(トーチカ)(トーチカの銃眼/南側)「津覇ノ寺/テラヤマ」の敷地内に沖縄戦の時に造られた「トーチカ」と呼ばれる戦争遺跡があります。「トーチカ」は六角形のコンクリート製の構造物で、日本軍により設置された防御陣地です。厚さ約20センチの土が被せられ、地面すれすれの位置に北・北西・南・西南西に向けに銃眼が開けられています。「トーチカ」を造った日本軍の部隊や時期は不明ですが、1945年(昭和20)4月6日以降に「津覇集落」でも米軍との戦闘があった事から、それ以前には存在していたと考えられます。「トーチカ」とはロシア語で「点」を意味し、日本語では「特火点/とっかてん」と訳されます。この「トーチカ」は集落や国道329号線方面に向いている事から、中城村の平野部から南下してくる敵を迎え撃つ為に造られたと考えられています。(イクサヤマ)(イクサヤマの墓)(イクサヤマのウコール)「トーチカ」の南側に「前原/メーバル」という小字があります。この土地に広がる畑の中に「イクサヤマ」と呼ばれる場所があり、この一箇所のみに木々が鬱蒼と生い茂っています。茂みの内部には二基の墓が東側の海に向けて安置されており、それぞれの墓に石造りのウコール(香炉)が設置されています。小屋の形をしたコンクリート製の墓内部には戦死者が祀られていると言われていますが、詳細は不明のままです。更に、この二基の墓の脇には別の石造りウコールが設置されています。沖縄の各地には内地(本土)から沖縄に出征した兵士が遠い沖縄の地で戦死し、戦地に埋葬された無名の墓が数多く存在します。その為「イクサヤマ」の二基の墓に葬られた死者も、故郷への帰還を果たせなかった兵士のものであると思われます。(クシバルガー)(クシバルガーの平場)(富里のカミガー)「津覇集落」の西側丘陵にある「上津覇ノ嶽」と「富里ノ嶽」との中間点にあたる場所に「クシバルガー」と呼ばれる古井戸が現在も残っています。山中に生い茂る深い木々の一画に平場があり、その中央に古い琉球石灰岩とブロックで囲まれた「クシバルガー」が在しています。また「富里ノ嶽」の南側には「富里のカミガー」と呼ばれる拝井戸があります。「津覇集落」では戦前まで「初水の御願」と呼ばれる行事が旧1月3日に行われ、水へ感謝して字内の井戸や拝所へ祈願が行われていました。「ウトゥーシ・上津覇ノ嶽・トゥングヮー・津覇ノ寺・屋号安里小隣の拝所・ウブガー・上津覇のカミガー・クシバルガー・富里のカミガー・ヤナジガー・クバニーガー・ウェーグンガー・チュンナガー・屋号安里小隣の井戸」が拝されていました。(ヤナジガー)(屋号安里小隣の井戸)(ウブガー)「津覇集落」の南西側に「ヤナジガー」があり、集落の中央部には「屋号安里小隣の井戸」が残されています。更に集落の北側の畑に囲まれた場所には「ウブガー」と呼ばれる井戸があり、産水や正月の若水を汲んでいたムラガー(村井戸)として使用されていました。旧5月15日の「グングヮチウマチー/五月ウマチー」で神に稲の初穂を供えて豊作を祈願し、旧6月15日の「ルクグヮチウマチー/六月ウマチー」では神に稲を供えて豊作を感謝しました。各「ウマチー」では「伊集ノロ」が「ウトゥーシ・上津覇ノ嶽・トゥングヮー・津覇ノ寺・屋号安里小隣の拝所・ウブガー・上津覇のカミガー・クシバルガー・富里のカミガー・ヤナジガー・クバニーガー・ウェーグンガー・チュンナガー・屋号安里小隣の井戸」を巡り祭祀を行なっていました。(ウェーグンガー)(クバニーガー)(チュンナーガー)「津覇集落」の「ナカミチ」と「メーミチ」の間に「ウェーグンガー」と「クバニーガー」が隣接しており、更に西側には「チュンナーガー」があります。この「チュンナーガー」に設置されたウコール(香炉)には、ウチナーウコー(沖縄線香)が「ヒジュルウコー」と呼ばれる火を灯さない作法で供えられていました。井戸はそれぞれ民家の道路沿いに構えており鉄柵が設けられています。集落に点在する井戸と拝所を巡り豊作を祈願して感謝する各「ウマチー」の際、3つのシマを管轄していた「伊集ノロ」は馬を利用して各拝所を移動し、初めに「伊集集落」次に「和宇慶集落」最後に「津覇集落」を廻ったと言われています。「イーツハヤマ」にある「上津覇ノ嶽」は祈願の最終の拝所として締め括りの祭祀が行われたと伝わります。(スガチミチ/潮垣道)(ンマイー)(チーチーヤー/乳搾り屋跡)「津覇集落」の主要道路であった旧県道が出来る以前に「スガチミチ/潮垣道」は集落の中心的な道路で、現在は「村道潮垣線」と名付けられています。かつては「スガチミチ」近くに海岸線があり、トロッコ軌道が敷設され西原町の製糖工場にサトウキビを運んでました。「津覇ノ寺」付近の「スガチミチ」は「ンマイー」と呼ばれていましたが、ンマスーブ(琉球競馬)が行われる事は無く子供達の遊び場として使われていました。集落北側の「スガチミチ」沿いに「チーチーヤー」という乳搾り屋の跡があります。屋号「呉屋門」は牛飼いで宜野湾村(現在の宜野湾市)から牛を2〜3頭購入し養っていました。戦前は身体が弱い生徒の給食用として学校に配達したり、時には西原町まで搾りたての温かい牛乳を配達していたと伝わります。(ヤブーの住居跡)「チーチーヤー」の北西側の屋号「西比嘉」に「ヤブー」と呼ばれる民間療法を行う人がかつて住んでいました。その人は「呉屋カメ」さんという名前で、通称「ダッチョーハーメー/ダッチョー婆さん」と呼ばれており針治療を行っていました。集落の人々は熱を出したり身体にアザを作った時に「ブーブー」と呼ばれる治療してもらいました。温めたコップを患部にあてて吸い上げ、吸い上げた部分に針を刺して体内の悪い血液を抜くという治療で、遠くは泡瀬からも患者が来ていたと言われています。「ダッチョーハーメー」は集落の子供達から恐れられており、子供達が悪さをした時に「ダッチョーハーメー呼んでくるよ!」と叱ると、皆が直ぐに言う事を聞いたと伝わっています。
2022.09.26
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(上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ)沖縄本島中部の「中城村(なかぐすくそん)」の東南部に「津覇(つは)集落」があります。かつて古い集落があった「古島」と呼ばれる場所は、伝承によると現在の「津覇集落」の西側丘陵の一帯にありました。元々は「上津覇/イーチファ・富里/フサトゥ・糸蒲/イトカマ」の3つの小集落に分かれていたと伝わります。1983年(昭和58)の「中城村教育委員会」による発掘調査ではグスク時代から近世期にかけての遺物が発見されており、その後の時代に3つの小集落は丘陵地から現在の平坦地に移動して1つの集落に合併したと言われています。また、1781〜1798年に作成されたとされる『琉球国惣絵図』には「津覇」が既に現在地に集落を形成している事が確認できるため「津覇集落」はそれ以前に移動してきたと考えられます。(上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキの祠内部)(上津覇ヌ嶽の石碑とウコール)「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」は「津覇集落」西側の丘陵地帯に位置し、この付近はかつて集落の古島の一つである「上津覇」があった場所であると言われています。以前の拝所はこの地点から南東側に広がる「上津覇山/イーチファヤマ」の頂上付近にあり、小さな石造りの祠があったと言われています。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『上津覇ノ嶽 神名 津覇コダカネモリノセジ御イベ』と記されており、約300年以上の歴史を持つ拝所である事が分かります。「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の祠内部には3基のウコール(香炉)と石柱が祀られており、祠の敷地入り口には「上津覇ヌ嶽」と彫られた古い石碑とウコールが2基設置されています。(糸満之墓)(大湾按司三男 大湾子之墓)「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の祠西側に隣接して「糸満之墓」と「大湾按司三男 大湾子之墓」が祀られています。「糸満」は「津覇集落」の「根屋/ニーヤ」と呼ばれるムラの創始家の一つと言われており、現在の「糸満門中」は伝統芸能の獅子舞を保管する「獅子屋/シーシヤー」を管理しています。また「英祖王(在位1260-1299年)」の父である「恵祖世主/えそよのぬし」を初代とする10代目「大湾按司」の三男「大湾子/おおわんしー」は「津覇集落」の「根屋」の一つである「呉屋門中」の元祖であり、この門中は集落の旗頭を保管する「御神屋/ウカミヤー」を管理しています。2基の墓にはそれぞれ「糸満之墓」と「大湾按司三男 大湾子之墓」と彫られた石碑が建立され、コンクリート製のウコールが祀られています。(富里ヌ嶽/フサトゥヌタキ)(富里ヌ嶽/フサトゥヌタキの祠内部)「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の南西側で、中城村立津覇小学校の裏手に「富里山/フサトゥヤマ」と呼ばれる丘陵地があります。この一帯はかつて「津覇集落」の古島の一つである「富里/フサトゥ」があったと言われています。この山の東側に「富里ヌ嶽/フサトゥヌタキ」の祠が鎮座しており、この御嶽は『琉球国由来記』には『富里之殿』と記されており『稲二歳之時、花米九合宛・五水一沸二合宛・神酒一宛・シロマシ二器津覇地頭、神酒四宛・肴一器同村百姓中、供之。伊集巫ニテ祭祀也。且此時、地頭ヨリ三組盆、巫・根神・掟アム・居神十五員、馳走也。』との記述があります。「富里拝所 昭和六一年十二月二十八日」と刻まれた祠内部には霊石が祀られています。(合同遥拝所/ウトゥーシ)(合同遥拝所/ウトゥーシの火の神/ヒヌカン)「富里山/フサトゥヤマ」の北側にある南上原糸蒲公園の東側に「糸蒲山/イトカマヤマ」があります。この一帯はかつて「津覇集落」の古島の一つである「糸蒲/イトカマ」があったと伝わってます。この土地に住んでいた人々は元々、現在の琉球大学千原キャンパスの生協北食堂売店南側にある「シージマタ」と呼ばれる地域に住んでいました。しかし「棚原一門」との戦いに敗れ「糸蒲」に移り、一時生活した後に現在の「津覇集落」に移り住みました。「合同遥拝所/ウトゥーシ」には3基のウコールが祀られており、それぞれ「糸蒲ヌ嶽」「シージマタノ嶽」「糸蒲寺/イトカマデラ」で「糸蒲」に住んでいた人々にゆかりのある拝所への「遥拝所/ウトゥーシ」となっています。因みに「糸蒲ヌ嶽」は『琉球国由来記』に『糸カマノ嶽 神名 糸掛カネモリノセジ御イベ』と記されています。(龕屋/ガンヤー)(龕屋/ガンヤーの内部)中城村立津覇小学校の体育館後方に「龕屋/ガンヤー」があります。琉球石灰岩をアーチ型に積み上げ、石積みの目地に漆喰が塗られています。「龕屋/ガンヤー」とは「龕/ガン」を収める小屋の事で「龕/ガン」とは、火葬が行われていなかった時代に遺体を安置した棺を墓まで運ぶ朱塗りの輿の事をいい「津覇集落」では「ンマ/馬」と呼ばれていました。集落から墓地まで「龕/ガン」が通る道は決められており、現在の津覇小学校の校舎と校庭の間の小道を通る事になっていましたが、その後「メーガーラー」と呼ばれる川の沿道に変更されました。「龕/ガン」は4人で担ぎ、坂道になると集落の人々が手伝ったと伝わります。「龕屋/ガンヤー」は平成18年3月27日に「中城村有形民族文化財」に指定されました。(津覇尋常高等小学校/津覇小学校)(津覇尋常高等小学校/津覇小学校)(校長先生の宿泊所跡)「津覇尋常高等小学校」は現在の「津覇小学校」の前身で、学校の校舎はほとんど瓦葺きで鉄筋コンクリート製の建物でした。学校の裏には農園があり高等科から農業の授業で野菜や家畜の育て方を学んでヤギ・豚・鶏を飼育していました。生徒たちは自分で育てた野菜を収穫して「津覇集落」や隣の「和宇慶集落」の「マチヤー/商店」に売り、得たお金でお菓子を買って校舎の屋上に集まって楽しく食べたというエピソードが残っています。1941年(昭和16)に「津覇国民学校」と名称を変え、1944年(昭和19)には日本軍の兵舎として使われました。そのため、ほとんど学校で授業が出来ない状態になり、周辺集落の「ムラヤー/公民館」や民家を借りて授業を行ったと伝わります。更に、学校の北側に隣接した場所には校長先生の宿泊所跡があり、現在は大きなガジュマルの木が育っています。(ジュンサヌヤー/駐在所跡)「津覇小学校」の南側を流れる「メーガーラー」と呼ばれる川沿いに、かつて「ジュンサヌヤー」と呼ばれる駐在所がありました。ジュンサ(警察)は集落の外から派遣された人が住み込みで勤務していました。戦時体制下に入ると集落での見回りも一段と厳しくなり、青年達の娯楽の一つであった「モーアシビ/毛遊び」も取り締まりの対象で厳重な処罰が与えられたそうです。大正生まれの古老によると、ある日「津覇集落」の青年達がヤンバラヤー(現在の吉の裏公園の浜)で「モーアシビ」をしているとジュンサに見つかり、その中のサンシンヒチャー(三線弾き)が捕まったのです。その後「ジュンサヌヤー」に連行されて『あの浜で三線を弾くなら、ここで弾け!』とジュンサに言われ、夜通し三線を弾かされたという実話が残っています。(ヒラマーチャー/平松跡)(アシビナー跡)「津覇小学校」の北側には集落の共同墓地が隣接しており、さらにその北側にはかつて「アシビナー/遊び庭」がありました。その昔、この共同墓地とアシビナーの間には「ヒラマーチャー/平松」と呼ばれる高樹齢の見事な松の木があり、神が宿る木として住民に崇められ「神マーチ/神松」と言われていました。共同墓地の古い彫込墓(フィンチャー)と平葺墓(ヒラフチバー)が並ぶ場所の上部に生えていたと言われておりアシビナーの御神木として親しまれていましたが沖縄戦で消失したと考えられます。現在、かつて各集落に一箇所あったと言われているアシビナーがあった場所は深い草木に覆われていますが、当時は集落の老若男女が集い交流して賑わっていた場所でした。(イサヌヤー/診療所跡)(イサヌヤー/入院室跡)(マットォーグヮーミチ)国道329号線沿いで現在の新垣タイヤサービスの北側に隣接した場所には戦前に「イサヌヤー」と呼ばれる診療所がありました。この診療所を開いていたのは屋号「新後玉那覇」の比嘉盛茂(ひがせいも)氏で、診療所の南東側に入院室の施設もありました。1944年(昭和19)年頃には「津覇国民学校」に日本軍が駐屯し始めた為、診療所と入院室は日本軍に貸し出されていたと言われます。比嘉氏が徴兵された後、診療所は将校の宿泊所、入院室は日本軍の慰安所として使用されました。因みに、診療所の入院室は「マットォーグヮーミチ」と呼ばれる道沿いにあり、この小道は独身で17〜18歳のチュラカーギー(美人)の女性のみが通っていたと言われており、現在も集落に残っています。(マチヤー/商店跡)かつて「津覇集落」には「一銭マチヤー」という駄菓子屋や雑貨屋が数多くあり、様々な物が販売されて子供達の筆記用具、米、酒、ソーメン等が売られていました。「イサヌヤー」の北側に隣接した屋号「東眞境名」の呉屋陽賓(ごやようほう)氏が、もともと「与座商店」があった場所で国から許可を取り、当時は貴重品であった米と酒の専売店をして高級菓子等も販売していました。お店の商品は「与那原」の業者さんが配達をしていて、更に戦前は自転車のパンク修理も行っていました。前身の「与座商店」は「ユザヌマチヤー」の名称で呼ばれ、お店は「ユカッチュ」と言う首里出身の人が経営し、琉球王国時代の髪型である「カタカシラ」を結っていた事から「ユザヌカンプー」と呼ばれていたと伝わります。
2022.09.21
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(和宇慶の氏神)「古島」と呼ばれる「和宇慶集落」の発祥地は「和宇慶の御嶽」の森から北西側に位置する「上登原/イートンバル」の丘陵にあったと伝わります。その後、現在の集落の中心がある「検知原/ケンチバル」に移転したと言われます。沖縄戦が始まる1944年(昭和19)には「和宇慶集落」の一部も日本陸軍の「東飛行場」の滑走路建設に利用されました。この飛行場は「西原飛行場/小那覇飛行場」とも呼ばれ、その年の10月に起きた「10・10空襲」により米軍の激しい攻撃を受けて土地は放置されました。戦後「和宇慶集落」があった「検知原」の一帯は米軍の軍用地として強制的に接収されて立ち入り禁止区域となり、住民は近隣の集落に身を寄せる事になったのです。そして、1959年(昭和34)5月に「和宇慶集落」は米軍から集落の地主に返還され、現在の「和宇慶集落」の発展に至っています。(和宇慶の氏神のシーサー)(和宇慶の氏神の霊石)「和宇慶公民館/和宇慶構造改善センター」の敷地内に「和宇慶の氏神」が祀られる祠があり、赤瓦の屋根には魔除けのシーサー(獅子)が構えています。「氏神」とは土地の守護神であり、その土地に生まれた人を守る神を言います。戦前は「和宇慶の氏神」はここから南側にあった「倶楽部/村屋」と呼ばれる、現在の公民館にあたる施設の敷地内にあり「ナカミチ」という主要道路寄りの北側に鎮座していました。当時は3〜4段の階段を登った土台の上に祠が建てられており、現在の「氏神」の祠よりも大きく東側の海岸に向けて建てられていました。今日「和宇慶公民館/和宇慶構造改善センター」に祀られている「霊石」は戦前の「氏神」の祠内に在していたもので、集落返還後に米軍に統治されていた旧集落の土地から発見されました。(倶楽部/村屋跡)(統合拝所乃碑)(ナカミチ跡)「和宇慶集落」の西側で戦前まで集落の中心を東西に通る主要道路であった「ナカミチ」沿いに、かつて「倶楽部」という場所があり「村屋」とも呼ばれていました。現在の公民館にあたる「倶楽部」は当時は木造瓦葺の建物で、1924年(大正13)生まれの古老が産まれる前からあったと伝わります。現在の「倶楽部」は「統合拝所」となっており、戦前までこの地にあった「ムラの火の神・ビジュル・ビジュル御井・中軸之御井」に併せて戦前に「検知原」に点在していた「安里御井・世利御井・外間御井・龍宮御神」の8拝所が合祀されています。「統合拝所」の入口には「土地改良地域 統合拝所乃碑 昭和五十八年九月十八日」と彫られた石碑が建立されています。現在この敷地の北側には昔の「ナカミチ」跡が数十メートル残されています。(ビジュル)(ビヅル神/ビヅル御井の石碑)(ビジュル御井/ビジュルウカー)「倶楽部/統合拝所」には「ビジュル神」が祀られた祠が北側に向けて建てられています。祠の内部には「ビジュル」と呼ばれる霊石が鎮座しており、戦前「ビジュル」の霊石は「倶楽部」の東側に隣接した屋号「小波津/クファチ」の屋敷内にウコール(香炉)と共にありました。「ビジュル」の語源は十六羅漢の中の第一の尊者である「賓頭盧/ビンズル」で、その名前は「不動」を意味します。「ビジュル」とは霊石の事で、その霊石を信仰する沖縄における「霊石信仰」の対象となっています。「ビジュル」の祠は豊作・豊漁・子授けなど様々な祈願が行われる拝所で、祠の脇には「ビヅル神 ビヅル御井」と彫られた石碑が建立されています。更に、その右側には「ビジュル御井」の井戸とウコールが祀られており「ビジュル」の霊石同様、戦前は屋号「小波津」の屋敷内にありました。(安里御井/アサトウカー)(中軸之御井/チュウジクヌウカー)(ムラの火の神/ヒヌカン)「安里御井/アサトウカー」は戦前の「和宇慶集落」の南側にあった屋号「南風小/フェーグヮー」の側にありました。「山城門中」の先祖が利用していた井戸で、昔から同門中が拝していたと伝わります。「中軸之御井/チュウジクヌウカー」は「倶楽部」の敷地の庭の真ん中に位置していた井戸で、その名称は井戸があった場所に由来していると考えられます。この井戸は「倶楽部」の敷地内にあった事から集落の多くの人々から拝されていました。かつて「倶楽部」の建物の土間に3つの石が置かれた窯があり「火の神/ヒヌカン」が祀られていました。「倶楽部」で行事が行われる際には、この窯で茶を沸かして振る舞ったと伝わります。現在、この3つの石を「ムラの火の神」として祀っており、西側に向けて建てられた祠には石造りのウコールが設置されています。(外間御井/ホカマウカー)(世利御井/シリウカー)(龍宮御神/リュウグウウカミ/東世御通)「倶楽部/村屋」跡の敷地には他にも合祀された「外間御井/ホカマウカー」があり、戦前の「和宇慶集落」の中央部に位置していました。「ナカミチ」沿いにあった屋号「仲元」と屋号「新前小波津」の間にあり「儀間門中」が拝んでいました。「外間御井」の脇には「世利御井/シリウカー」が祀られており、戦前は「外間御井」の南東側に位置する屋号「登同呉屋」と屋号「小波津小」の間にありました。さらに「統合拝所」には「龍宮御神/リュウグウウカミ」の石碑が建立されています。戦前は集落の最東端にあった「サーターヤー/サトウキビ小屋」の敷地内にあり「ウマアミシグムイ」と呼ばれる馬に水浴びをさせる水溜りの脇に「龍宮御神」の石碑が建立されていました。「龍宮御神」は東の海の遥彼方にある理想郷「ニライカナイ」を拝む拝所として崇められてたと言われています。(旧県道)(ユーフルヤー/風呂屋跡)(ダンパチヤー/理髪店跡)「和宇慶公民館/和宇慶構造改善センター」沿いに「旧県道」が通っています。戦前の主要道路で中城村内は「久場・泊・吉の浦」を通り「奥間・和宇慶」を経て西原町に続きます。戦前は「旧県道」の屋号「西新屋小」は「ユーフルヤー/風呂屋」を営んでおり、敷地内にある井戸から手押しポンプで汲みあげた水を大きな釜で沸騰させました。利用者は桶には入らず釜のお湯を洗面器で体にかけていたと言われています。「ユーフルヤー」から旧県道を渡った向いの屋号「二男仲與儀」は「ダンパチヤー/理髪店」を経営していました。この店主は大阪から「和宇慶集落」に帰って来て「ダンパチヤー」を開店し、集落では「グーニーダンパチヤー」と呼ばれていたそうです。戦前はハサミを所有する家族が少なく、ほとんどの人が「ダンパチヤー」を利用していたと伝わります。(雑貨屋跡)(馬車ムチャー跡)(和宇慶公民館裏の石敢當)「ダンパチヤー」の南西側向かいの屋号「吉田小」は、戦前は「雑貨屋」を経営していて米や油、生活雑貨など豊富に揃っており県道沿いの好立地から多くの客で賑わっていたそうです。屋敷内の豚小屋で豚を飼育して豆腐も作っていたと伝わります。この「雑貨屋」西側の旧県道沿いの屋号「二男前仲元」には「馬車ムチャー」と呼ばれる馬車を所有する人がいました。サトウキビの製糖時期になると樽詰めにした黒糖を馬車に乗せて、那覇にある出荷場まで運ぶ役割を担っていました。帰りは新しいタルガー(黒糖を入れる樽)を購入して集落に戻って来たと伝わります。「和宇慶公民館」の西側には古い「石敢當/イシガントウ」が残されています。「石敢當」とは丁字路の突き当たりに設置される魔除けの石碑の事で、この「石敢當」は昔からこの場所で厄祓いの役目を果たしていると考えられます。
2022.09.16
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(和宇慶の御嶽/ウガン/イキガ神)沖縄本島中部にある「中城村(なかぐすくそん)」の南部に「和宇慶(わうけ)集落」があります。この集落の面積は0.726平方キロメートルで「上登原/イーントーバル・松尾原/マツオバル・川崩原/カーグイバル・宇志真原/ウジマバル・検知原/ケンチバル・平良原/テーラバル」の6つのハルナー(小字)から成り立っています。現在の「和宇慶集落」は「検知原」の一部と「宇志真原」の国道沿いから東側一帯に集中していますが、戦前は主に「検知原」一帯にありました。「上登原」と「松尾原」には墓地が多く分布しており、丘陵の中腹に広がる「川崩原」と「松尾原」の深い森では戦時中、多くの住民が避難壕を掘り避難していました。また「和宇慶集落」発祥の土地は「上登原」の周辺であったと伝わっています。(和宇慶の御嶽/祠内部)(和宇慶の御嶽/祠の霊石)(和宇慶の御嶽/トゥムンジャク)「和宇慶集落」と西側に隣接する「伊集集落」の境は「上登原」の「トゥムンジャク」と呼ばれる一帯で「和宇慶の御嶽」の祠があり「ウガン」とも呼ばれています。この拝所は1713年に琉球王府が編纂した「琉球国由来記」には『伊集ノ嶽 神名 和宇慶ウラソデバナノセジ御イベ』と記され「イキガ神/男神」と言われており、隣接する「伊集のウガン」の「イナグ神/女神」と男女一対の関係にあります。かつて「和宇慶の御嶽」の祠は「伊集のウガン」の祠から北側に約100メートルの位置にありましたが、地滑りにより現在の位置に移動し「伊集のウガン」の祠から東側に約20メートルの位置に現存しています。「琉球国由来記」にある『伊集/和宇慶村 伊集ノ嶽』とは「伊集のウガン」の祠と「和宇慶の御嶽」の祠が対として南北に鎮座する一帯の丘陵の森を示していると考えられます。(マーチューグヮー)(伊集ノロの墓)「和宇慶の御嶽」の祠がある「トゥムンジャク」の東側の「松尾原」には「マーチューグヮー」と呼ばれる丘陵となっており墓地が一帯に広がっています。戦前は松の木が生い茂る林となっていて、台風が過ぎ去った後には燃料となる「マーチバー/松の枝」を広い集めに行ったそうです。しかし、その松林は激しい沖縄戦により失われてしまいました。この「マーチューグヮー」の東側丘陵の中腹には「伊集ノロの墓」があります。「伊集ノロ」は「伊集店・和宇慶・津覇」の3つのシマ(村)を管轄し「ウマチー」と呼ばれる五穀豊穣と村の繁栄を祈願する行事では「伊集」の拝所を廻った後「和宇慶・津覇」の祭祀を執り行いました。その際「伊集ノロ」は馬に乗り各シマを廻り、その馬は「津覇」の「呉屋門中」から出されたと伝わります。(伊集ノロの墓の石碑/表側)(伊集ノロの墓/門石とウコール)(伊集ノロの墓の石碑/裏側)「伊集ノロの墓」は元々は西原町の「琉球大学」から西側にある「イシグスク/石城」の山中に葬られていましたが、沖縄自動車道建設のため「和宇慶集落」の「マーチューグヮー」に移動されました。墓の石碑には『夏氏 伊集野奴呂神之墓 西原町石城山ヨリ移転(卯年) 一九八七年九月吉日建立』と記されており、石碑の裏側には『字伊集 東門中 字和宇慶 小波津門中 字津覇 玉那覇門中』と彫られています。「伊集ノロの墓」の門石には設置されたウコール(香炉)に霊石が祀られており「伊集東利門中・和宇慶小波津門中・津覇玉那覇門中」の拝所となっています。ちなみに「伊集ノロ」には2人の姉がいて、それぞれ南城市(旧知念村)久高島の「久高ノロ」と西原町棚原の「棚原ノロ」であったと伝わります。(ガンヤー/龕屋)(ガン/龕)「和宇慶集落」の東側にある「宇志真原」の国道329号線から山手に約20メートルの場所で「川崩原」との境の付近に分布する墓地群には「ガンヤー/龕屋」と呼ばれる小屋があります。「ガン/龕」とはかつて火葬が一般化する以前、葬儀の際に死者を運ぶ為に使われた屋形型の輿の事です。戦前に使われていた「ガンヤー」と「ガン」は沖縄戦で消失してしまいましたが、戦後に新たに造られて1961年(昭和36)頃まで使用されました。現在「ガンヤー」の小屋内部には当時使われていた「ガン」が現存し保管されています。戦前の「和宇慶集落」の「ガン」は有名で人気が高く、周辺の村々から借りに来ていたそうです。古老によると「ガンノ シードゥー ウスメー」と呼ばれる屋号「山城小」のお祖父が「ガン」が傷付けられないか心配で、現在の「西原町」まで一緒に歩いて同行したと伝わります。(ウブガー)(ウブガー/和宇慶の御嶽の遥拝所)(ウマアミシグムイ跡)「和宇慶集落」の「検知原」西側にあった屋号「比嘉」の北側に隣接する場所に「ウブガー」があります。この井戸は「和宇慶」で最初に掘られた井戸であると伝わっています。「ウブガー」は集落で子供が産まれた時の「ウブミジ/産水」や正月の「ワカミジ/若水」として汲まれ利用されていました。井戸の左側にある石碑とウコールは西側の「上登原」の「トゥムンジャク」にある「和宇慶の御嶽」への「ウトゥーシ/御通し」をする遥拝所となっています。「ウブガー」の西側で国道329号線沿いの自動車整備工場の付近には戦前まで「ウマアミシグムイ」と呼ばれる溜池がありました。この近くにあった「サーターヤー」と呼ばれる製糖小屋で作業をした馬に水浴びさせる為に使われていた他にも、子供達の遊び場としても利用されていました。(遠隔地に行く時に拝する拝所)(拝所の祠内部)(イシゼーク/石細工職人の屋敷跡)「ウブガー」の南側で旧県道沿いの屋号「二男前小波津小」の屋敷角に拝所があり石造りの祠が建立されています。この拝所は遠方に出掛ける時や戦地へ出征する際に拝まれていました。1924年(大正13)生まれの「和宇慶」出身の女性は「支那事変が勃発した頃、出征兵士のいる家は武運長久を願い、毎月1日と15日は集落内のウガンジュ(拝所)を全て拝み、その後に普天満宮を拝む為に歩いて参拝に出掛けた」と話しています。更に「ウブガー」の東側に隣接する場所には「イシゼーク」と呼ばれる石細工職人が住んでいた屋敷がありました。「和宇慶集落」には、この屋号「川畑小」の他にも屋号「仲新屋・東小波津」にも「イシゼーク」がいて「川畑小」は、隣村の「伊集集落」出身の「イシゼーク」と一緒に墓を造っていました。(和宇慶の神獅子)(和宇慶の遊び獅子)(和宇慶の遊び獅子)「和宇慶公民館/宇慶構造改造センター」の正面入り口には集落の「神獅子」が安置されています。「神獅子」による「和宇慶の獅子舞」は集落以外で演じられる事はなく、獅子舞が集落に伝わったのは18世紀の中頃だと言われています。沖縄戦で獅子は失われますが、1956年(昭和31)に区民の協力により復元され40年間使用されました。その「神獅子」は引退して現在は「遊び獅子」として県内の様々な行事で「和宇慶の獅子舞」を披露しています。「十五夜まつり」では幕開けに現役の「神獅子」が「鳥の舞」を披露し「遊び獅子」が舞台の最後を飾り「犬の舞」を演じます。現在「遊び獅子」は公民館の舞台の壇上に大切に保管されています。因みに獅子の頭の部分は「デイゴ」の木で作られていおり「デイゴ」は年輪がなく加工しやすい上に軽量なので獅子の頭を造るのに適しているそうです。
2022.09.11
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(ウガン/伊集ノ嶽)沖縄本島中部にある中城村の最南端に「伊集(いじゅ)集落」があり「伊集原・下原・前原・宇宙原・上原・崩原・後原」の7つの「ハルナー/小字」で構成されています。戦前の集落は「伊集原」の一帯と「下原」の東側の一部に集中して集落が形成されていました。さらに「前原・宇宙原・上原・崩原・後原」のほとんどは畑地が広がっていました。「伊集集落」の東側に隣接する「和宇慶(わうけ)集落」との境にある「後原」は「ウガンヤマ」と呼ばれる山があり、その深い山中に「ウガン」と呼ばれる御嶽があります。「古島」という昔の集落がこの「ウガンヤマ」一帯にあった説と、「上原」に位置する「ユージドゥン/世持殿」一帯にあった説が「伊集集落」には伝わっています。(ウガン/伊集ノ嶽)(ウガン/伊集ノ嶽のヒヌカン/火の神)(イーントーカー/上登井戸)「ウガンヤマ」の北東側のマーニ(クロツグ)が生い茂る山中に「ウガン」の祠があり内部には石造りウコール(香炉)が3基祀られています。「ウガン」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『伊集ノ嶽 神名 和宇慶ウラソデバナノセジ御イベ』と記されており、この御嶽は「伊集集落」では昔から「イナグ神/女神」として拝されています。「ウガン」の祠に向かって左側に隣接するもう一つの祠は戦後に「ヒヌカン/火の神」として設けられ、祠の内部には1基の石造りウコールが設置されています。「ウガン/伊集ノ嶽」から北側に山を登った位置には、御嶽と対の関係を持つ「イーントーカー/上登井戸」があり「チュクサイヌカー/一鎖ヌ井戸」とも呼ばれています。この井戸には昔から残る古い石造りウコールと新しいウコールが2基並んで祀られています。(ニーヤ/根屋の神屋)(神屋の神棚)(神屋の神棚)「伊集集落」の創始家である「ニーヤ/根屋」のムートゥヤー(本家)は屋号「アガリ/東利」で姓は「アラカキ/新垣」です。「アガリムンチュー/東利門中」は伊集で最も大きな門中で「ユージビチ」と呼ばれています。伝承によると「東利門中」の初代は勝連城主の「阿麻和利」を討った「大城賢雄/鬼大城」の次男腹「大城賢忠」であると伝わります。「大城賢雄」が第二尚氏に討たれると「大城賢忠」は伊集に逃げ延び「先代ノロ」と呼ばれる女性に助けられました。やがて「先代ノロ」と「大城賢忠」は子供を授かり、その子孫が現在の屋号「東利」だと言われています。「神屋」の仏壇には初代から継承される2幅の「観音菩薩図」が祀られており、更に「ガンス/元祖神」と呼ばれる初代から7代までの子孫が祀られた仏壇には7基のウコールが設置されています。(神屋のヒヌカン/火の神)(夏氏系図)「ニーヤ/根屋」は「琉球国由来記」に『与儀根所』と記されており、更に『毎年六月、為米初、神酒壱同村百姓中供之。同巫ニテ祭祀也。』との記述があります。「神屋」の仏壇に向かって一番左側には「東利門中」の「ヒヌカン/火の神」が祀られており、3体のビジュル(霊石)とウコールが設置され沖縄線香のヒラウコー(平御香)が供えられています。「東利門中」の家紋は「夏氏」で「大城賢雄/鬼大城」が元祖であると伝わっています。伊集の「ニーヤ/根屋」のご主人で「大城賢雄」の末裔である新垣氏から貴重な「夏氏系図」を頂きました。『天孫氏廿五代/一代思金松金國王』から始まる系図は『十六代長男/榮野比大屋子』と続きます。その後『夏氏大宗一世長男/夏居数越来親方賢雄』から十八世『諱崇徳摩文仁親雲上賢貞』まで記されており、最後に『文化財保護委員会専門委員 林清国 誌すから写す 松田賢善』と記帳されています。(ターチマーチュー)(ターチマーチューのウコール)(ターチマーチューのクサイヌカー)「後原」にある「ウガンヤマ」の西側に「東利門中」に関わりがある「ターチマーチュー」と呼ばれる拝所があり、かつてこの地には「東利門中」の関係者が暮らした屋敷があったと伝わります。戦前は2つの大きな松の木が生えており、その中間にウコールが置かれていたと言われます。「ターチ」は沖縄の言葉で「2つ」を意味し「マーチュー」は「松の木」を指す事から「ターチマーチュー」という名称が付けられたと考えられます。現在は祠が建てられ内部にウコールが設置されており、この拝所の周辺にはかつて屋敷に使われていたと思われる人工的に加工された古い石材が現在も多数残されています。「ターチマーチュー」の北側約25メートルの場所には拝所と対になる「ターチマーチューのクサイヌカー」があり、石造りのウコールが設置される井戸跡となっています。(シルドゥングヮー/地頭火ヌ神)(シルドゥングヮーのクサイヌカー)「伊集集落」の北側で「伊集原」と「後原」の境に「シルドゥングヮー」と呼ばれるコンクリート製の拝所があり、ウコールと3体の霊石が祀られています。間切を治める地頭職の補佐役にあたる役職である「夫地頭/ブージトゥー」の屋敷跡だと言われており「地頭火ヌ神」とも呼ばれています。一般的に「夫地頭」は非常勤で任期は3年、定員は一間切から2〜8名と言われていました。「シルドゥングヮー」の祠から北西側に隣接する畑の中にはこの拝所と対の関係となる「シルドゥングヮーのクサイヌカー」と呼ばれる井戸があり「チュクサイヌカー/一鎖ヌ井戸」の名称でも知られています。「夫地頭」の屋敷の生活用水や農業用水として使用されていたと考えられ、この井戸にはウコールが設置されており門中の年中行事で拝されています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(ヌンドゥンチ/ノロ殿内の拝所)「ニーヤ/根屋」の南西側に「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」があり、拝殿の内部には「ノロヒヌカン/火の神」「御先世・中が世・今が世を示す3基のウコール」「久高島へウトゥーシ/御通し(遥拝)する1基のウコール」が祀られており、更に集落の守護神である獅子が安置されています。この「ノロヒヌカン/火の神」は「琉球国由来記」には『伊集巫火神』と記されており『伊集巫崇所。毎年三・八月、四度御物参之時、有折願也。』との記述があります。「伊集ノロ」は「サンカヌル」と呼ばれ「伊集・和宇慶・津覇」の3つのシマの祭祀を管轄していました。伝承によると「伊集ノロ」には2人の姉がいて、長女は「久高ノロ」次女は「棚原ノロ」であったと言われています。「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」に向かって左側に隣接した場所には拝所の祠があり、内部には3体のビジュル(霊石)と1基のウコールが祀られています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内のゲーン)(アシビナーの井戸)「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」は戦前まで瓦葺きの建物で現在よりも前方に建っていました。今のコンクリート製の建物がある場所には、かつては細長い池があり鯉を飼育していました。この鯉は「伊集集落」の所有物で、集落の子供が病気になると親は字にお金を支払い鯉を購入し子供に食べさせたと伝わります。「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」の敷地の中央部は「アシビナー/遊び庭」と呼ばれ、戦前までそこに舞台があり盛大な「ムラアシビ」が行われていました。「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」入り口の上部には「ゲーン」と呼ばれる魔除けが飾られており、十字の中央には沖縄の粗塩が入った悪霊祓いの「マース袋」が吊るされています。更に「アシビナー」の北側には井戸跡が残されておりウコールが設置されています。(アンディガー/ヌールガー)(アンディガー/ヌールガーのクチャ溶き石)「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」から北西側に位置する畑の中に「アンディガー」と呼ばれる井戸があります。「ヌールガー」の名称でも知られているこの井戸は「伊集ノロ」が髪を洗ったと伝わっています。「アンディガー」に向かって左側には「伊集ノロ」が「クチャ」と呼ばれる髪洗用の泥を溶いた石が現在も残されており「クチャ」を溶いた部分はなだらかな窪みが形成されています。「クチャ」は世界でも沖縄でしか採れない泥で、カルシウムやミネラルを豊富に含み美肌効果がある化粧品として最近は注目を集めています。「アンディガー」の名前は水量が豊富であった事に由来しています。しかし、逆に水が溢れ過ぎても良くないとして、戦前までは近隣の畑まで溝を掘り「アンディガー」の湧き水を流していたと伝わっています。
2022.09.06
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(ユージドゥン/世持殿/與儀之殿)沖縄本島中部の東海岸線に「中城村/なかぐすくそん」があり、同村の南端で「西原町」に隣接する場所に「伊集(いじゅ)集落」があります。約0.66平方キロメートルの小さな集落の北西側でギンネム(ギンゴウカン)の木で覆われた「モーエー」と呼ばれる小高い山の麓に「ユージドゥン/世持殿」と呼ばれる拝所があります。この拝所は「與儀之殿」とも呼ばれており「伊集ヌシー」の屋敷跡であると伝わります。「伊集集落」の始祖である「ニーヤ/根屋」の先祖「ウヤファーフジ」が「伊集」の地に来た時、既に空き家として存在していた屋敷内には観音菩薩が描かれた掛軸があったとの伝承があります。現在、この場所にはコンクリート製の「ユージドゥン/世持殿」と「ヒヌカン/火の神」の祠が祀られており「世持殿」と彫られた石碑が建立されています。住民の健康や長寿を祈願したり、農作物の方策を感謝する行事等で拝されています。(ユージドゥン/世持殿の祠内部)(ユージドゥン/世持殿のヒヌカン/火の神)(世持殿と彫られた石碑)「ユージドゥン/世持殿」は1713年に琉球王府が編纂した地誌である「琉球国由来記」に『与儀之殿』と記されており「伊集・和宇慶・津覇」の3つのシマを管轄した「伊集ノロ」により祭祀が執り行われました。更に「琉球国由来記」には『稲二祭之時、花米九合宛・五水六合宛・神酒半苑・シロマシ一器伊集地頭、神酒壱宛・シロマシ壱器同村百姓中、供之。同巫ニテ祭祀也。』と記述されています。「ユージドゥン/世持殿」の祠内部には3基の石造りウコール(香炉)と幾つもの霊石が祀られており、中央のウコールには神様へ拝する際に用いる「ジュウゴコー/十五香」と呼ばれる15本の「ヒラウコー/平御香」が供えられていました。向かって左側には「ヒヌカン/火の神」の祠があり、石造りウコールと霊石が祀られています。更に右側には「世持殿」と彫られた石柱が建立されています。(アガリメーヌカー/東前ヌ井戸)(名称不明の井戸)(ウブガー/産井戸)「ユージドゥン/世持殿」から丘陵を降った南東側に「アガリメーヌカー/東前ヌ井戸」と呼ばれる井戸跡があり、コンクリート製の祠と水の神を拝する石造りウコールが設置されています。「伊集ノロ」が居住した「ノロ殿内」との関わりがある井戸で、旱魃が起きた際に利用された井戸であると伝わっています。この「アガリメーヌカー/東前ヌ井戸」から程近い南西側の位置には「名称不明の井戸」の跡があり、丸いコンクリートの蓋が施されています。更に南側には「ウブガー/産井戸」の跡があり、石造りウコールが祀られています。「伊集集落」で唯一「カブイ」と呼ばれるアーチ状の石積みが現在も残されており、戦前まで集落で子供が誕生した際の「ウブミジ/産水」として使用され、正月には子供達がチューカーグヮー(ヤカン)を持って「ワカミジ/若水」を汲みに行きました。(ヤマグヮーヌタキ/山小ノ嶽)(ヤマグヮーヌタキ/山小ノ嶽の祠内部)「伊集集落」の中心を通る「ナカスージ」と呼ばれる道沿いに「伊集構造改善センター/字伊集公民館」があり、その前庭に「ヤマグヮーノタキ/山小ノ嶽」というコンクリート製の祠が建立されています。この拝所は「ムラヒヌカン/ムラ火の神」と呼ばれており「伊集集落」の発祥に関わった「ニーチュ/根人」が最初にこの地に屋敷を構えた「ニーヤ/根屋」であると伝わります。戦前までこの一帯は「ヤマグヮー/山小」と呼ばれる小高い山になっており、頂上に西側に向けられた祠がありました。現在の祠は南側に向けられており、コンクリート製の祠内部には「天の神」「土の神」「火の神」が祀られる3つのウコールと幾つもの霊石が設置されています。それぞれのウコールには「ジュウゴコー/十五香」の15本の沖縄線香に火が灯され供えられていました。(クサイガー/鎖井戸)(次良大前/ジラーウフメーの屋敷跡の井戸)「ヤマグヮーノタキ/山小ノ嶽」のクシベー(北側)で「次良大前/ジラーウフメー」の屋敷跡の東側に「クサイガー/鎖井戸」と呼ばれる井戸跡があり「世持殿」がある西側に向けてウコールが設置されています。更にこの屋敷にはもう一つの井戸があり、現在は石製の蓋が施されています。かつて「次良大前/ジラーウフメー」の屋敷の住民は「トロッコムチャー」と呼ばれ、トロッコにサトウキビを積んで馬に引かせ現在の西原町にある「西原製糖工場」までサトウキビを運んでいました。「伊集集落」では他にも屋号「前森/メームイ・西前森/イリメームイ・二男仲與儀/ジナンナカユージ」が「トロッコムチャー」として働いていました。因みに「西前森」は客を目的地まで運ぶ客馬車もしており、泡瀬や与那原まで客を乗せて運んだと言われます。(フナングヮ/フナグラノ殿)(フナングヮ/フナグラノ殿の祠内部)(フナングヮ/フナグラノ殿のヒジャイガミ/左神)「伊集構造改善センター/字伊集公民館」のメーベー(南側)に「フナングヮ」と呼ばれる拝所があり「フナングラノ殿」の名称でも知られています。この拝所は航海安全の神様である「龍宮神」が祀られています。この場所は海から約1.5kmほど離れていますが、かつてこの一帯は「フナングヮ/船倉」と呼ばれており昔は船着場の海岸線でした。その由来から「フナグラノ殿」とも呼ばれる拝所となっており、祠内部には石造りウコールと霊石数個が設置されています。祠に向かって右側(祠にとっての左側)には「ヒジャイガミ/左神」と呼ばれる拝所の土地の神様も祀られており、幾つもの霊石が祀られています。「琉球国由来記」には隣接する「和宇慶集落」の拝所として『フナグラノ殿』と記されており『花米五合宛・五水三合宛・神酒壱宛同村百姓中、供之。伊集巫ニテ祭祀也。』の記述があります。(ウマクンジャー)(ウマクンジャー)「フナングヮ/フナグラノ殿」の西側に隣接する場所に「ウマクンジャー」と呼ばれる岩が鎮座しています。後に「ボージウシュウ/坊主御主」と呼ばれた第二尚氏王統17代国王である「尚灝王/しょうこうおう(在位1804-1834年)」と伊集村の美人娘「ヒジャナビー/比嘉ナベ」との恋愛にまつわる岩として知られています。「尚灝王」が「ヒジャナビー」に会いに首里から伊集村に来た時に馬の手綱を結びつけていた岩で、現在も当時と変わらない場所に大切に保存されています。その後「ヒジャナビー」の子孫に当たる方々がこの岩を拝所として祈願するようになったと伝わっています。「尚灝王」は生涯で一妃二夫人八妻をもち、九男十七女の子をもうけました。その八妻のうち七妻は平民の出であると伝わっています。(チキンダガー/津喜武多井戸)「伊集集落」の南側で国道329号線沿の崖下に「チキンダガー/津喜武多井戸」があります。「伊集集落」から南西側に約3km離れた西原町小波津に「津喜武多グスク」があり「チチンタグスク」または「チキンダグスク」とも呼ばれています。「チキンダガー/津喜武多井戸」はこのグスクの城主であった「津喜武多按司」と関わりがある井戸だとの伝承があります。沖縄戦の後、深い草むらに埋もれていたこの井戸は「伊集集落」の村人に探し出され、コンクリートで修復されました。井戸の水は戦前まで周辺の稲作に使用されており、集落で初めて稲作が行われた田んぼも「チキンダガー/津喜武多井戸」の近くにあったと伝わり、かつてこの井戸の水量が豊富だった事が考えられます。(石敢當の石碑)「ウマクンジャー」に伝わる王様と伊集村の美人娘の恋愛から約100年前にも、当時の王様と伊集村の美人娘との別の恋愛が存在していました。伊集村に「与儀真加戸樽/与儀阿護母志良礼」という百合の花に例えられる美人娘がいて、第二尚氏王統第14代国王「尚穆王/しょうぼくおう(在位1752-1794年)」にも噂が伝わりました。心を奪われた「尚穆王」は「与儀真加戸樽」を首里に呼び寄せて妻に迎入れたのです。「尚穆王」の王妃である「佐敷按司加那志」はその若さと美貌を羨み、次のような歌を詠みました。『伊集の木の花や あん清らさ咲きゆり 我身ん伊集やとて 真白咲きかな』(伊集の木の花は あんなに綺麗に咲いて 真白に咲く姿は とても見事である)「尚穆王」に嫁いだ「与儀真加戸樽」は王様や民衆に愛されて49歳でこの世を去ったと言われています。日本最大級ショッピングサイト!お買い物なら楽天市場
2022.09.01
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(ヌル殿内/ヌルドゥンチ)沖縄本島南部の南城市佐敷に「新里集落」があり、集落の中心部を南北に通る「新里ビラ」と呼ばれる急勾配の坂道があります。この坂道の途中にはかつてノロの住居があった「ヌル殿内/ヌルドゥンチ」の拝所があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『バテン巫火神』と記されており『聞得大君嘉那志アラヲレノ時、与那原ニテ、バテン巫、大君之御前ニ出、神御名、テダ白御神ト、女御唄ノフシニテ付上ゲタル昔ノ例ハ、為有之ト也。バテンノロ神名、住古ハテダ白ト云フ。御同名恐多トテ、中古、改名之儀立願仕ケレバ、神託ニ、ヨナワシ大神ト被下タルトナリ。』との記述があります。(新里ビラ沿いのヌル殿内/ヌルドゥンチ)「場天ノロ/バテン巫」の神名は元は「テダ白/日白」であり、テダ白とはテダ代の事で「太陽神」の神霊が寄り付く「依代/よりしろ」を意味します。その神名を与那原(ヨナバル)で、第二尚氏時代の最高神女(ノロ)である「聞得大君」に付与した内容を「琉球国由来記」は記しています。「聞得大君」が初めての「アラヲレ/御新下り」で与那原で行幸した際に「聞得大君」の前に跪いた「場天ノロ」は「御唄/神歌」が唱えられる中で「テダ白御神」という自身の神名を「聞得大君」に献上しました。同名は畏れ多いので、それ以後「場天ノロ」の方は自身を「ヨナワシ大神/与那和志大神」と改名して名乗るようになったと「琉球国由来記」には記述されています。(ヌル殿内/ヌルドゥンチの3基のウコール)(ヌル殿内/ヌルドゥンチの火の神)(ヌル殿内/ヌルドゥンチの火の神)「ヌル殿内/ヌルドゥンチ」はかつて「アガリゾー」とよばれており、現在は3つのウコール(香炉)と2つの火の神(ヒヌカン)が祀られています。ウコールは向かって右側は琉球開闢に係る「阿摩彌姑/アマミキヨ」の5世と言われる「御巣人大神/ウシジンテージン」、中央が琉球国以前のムラの祭祀行事に於いて最高の統治者でヌルの始まりであった「藩坐那志/ハンジャナシー」、向かって左側が佐銘川大主の娘で第一尚氏時代に佐敷の祭祀を管轄した神女であった「場天大ヌル/バテンウフヌル」の香炉とされています。また、戦前は「ヌル殿内」の敷地内に一対の大きな石造りのシーサー(魔除け獅子)が鎮座していて、南西と南東に別々に向いていましたが沖縄戦で消滅してしまいました。更に、集落の綱引きの際には「ヌル殿内」から出発して「新里馬場」に向かったと伝わっています。(中樋川グヮー/中樋川小)(中樋川グヮー/中樋川小の拝所)「ヌル殿内」から「新里ビラ」を南側に登ると「中樋川グヮー/中樋川小」に向かう森道が続いています。「澤川原遺物散布地」南端の森に位置するこの樋川(ヒージャー)は、東側丘陵の「崩利下原遺物散布地」方面から湧き水が流れ込んでいます。現在も水量が豊富な「中樋川グヮー」はかつて集落の「産井/ウブガー」として利用され、集落で子供が産まれた時に使う産水(ウビミジ)はこの産井(ウブガー)から汲まれて用いられました。更に、その水で産米(ウブイメー)を炊き、赤子の額に3回水を撫で付ける「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。「中樋川グヮー」は心臓破りの坂として知られる「新里ビラ」の中腹辺りに位置しているので、昔は坂を登り下りする村人や旅人の休憩場所として重宝されていたと考えられます。(宮城殿/ナーグシクドゥン)(宮城殿/ナーグシクドゥンの祠)「中樋川グヮー/中樋川小」の南東側に約150メートルの位置に「宮城殿/ナーグシクドゥン」があり、祠には霊石が祀られています。この場所は「尚巴志」の弟とされる「大平田之比屋」の孫である「手登根里之子」の住居跡であると伝わっています。「琉球国以由来記」には『宮城之殿』と記されており『稲穂祭之時、シロマシ・神酒壱百姓。同大祭之時、神酒二百姓、供之。バテンノロ祭祀也。』との記述があります。「里之子(さとのし/さとぬし)」は琉球王国時代に王様の近くに仕えた若者で、親方(うぃーかた)の次位で筑登之(ちくどの)の上位にあたります。また、一間切を采地として総領する地頭職である「総地頭/惣地頭」の次男以下の子どもの呼び名でもありました。(上之樋川/ウィーヌヒージャー)(上之樋川/ウィーヌヒージャーの拝所)「宮城殿/ナーグシクドゥン」の西側で「新里ビラ」沿いの森の入り口に「上之樋川/ウィーヌヒージャー」の井戸跡があり「上之樋井/ウィーヌヒーカー」とも呼ばれています。この井戸跡には幾つもの霊石が祀られており、石造りのウコール(香炉)に「ヒジュルウコー」という火を灯さずに拝する「ウチナーウコー(沖縄線香)」が供えられています。「上之樋川/上之樋井」は「新里集落」の旧水源地で、水の神「ウシジン大人」が祀られている拝所となっています。また、かつてこの井戸は「産井/ウブガー」として利用され、赤子の産水(ウブミジ)に使用された他にも正月の若水(ワカミジ)として汲まれ、その水で茶を沸かし一年の無病息災を祈願しました。(タク川ノ御嶽の森)(タク川の滝)(タク川の拝所)「上之樋川」から「新里ビラ」を南側に登ると「上之川原」と呼ばれる場所に「タク川ノ御嶽」の森があります。この森にそびえる南側丘陵は「タク川山」と呼ばれ、神々が鎮まる聖地であると伝わっています。「タク川山」には「タク川の滝」が流れており、滝壺の脇には水の神様を祀る拝所が設けられています。この拝所では沖縄の線香である「ヒラウコー」やご先祖様が使うあの世のお金である「ウチカビ」を燃やさず拝し、来た時よりも綺麗にしてお供え物は持ち帰る仕来りとなっています。昔は「タク川」の水利で稲作が栄えた為、水に対する感謝と豊作祈願がなされていました。この地には田植えの儀礼が行われる集落所有の「フートィンジャ」と呼ばれる神田がありました。(タク川ノ御嶽)(タク山の中腹に登る階段)「タク川の滝」周辺の森は「タク川ノ御嶽」と称されており「イビ/イベ」と呼ばれる神が所在する最も聖なる場所は特定されておらず「タク山」の一帯が神々が宿る御嶽の聖域だと考えられています。この御嶽は並里系「嶺井門門中」の拝所で「琉球国由来記」には『タコ川ノ嶽 神名 カホウモリシマギシノ御イベ』と記されています。更に『バテン巫崇所。年浴之時、花米九合・五水四合・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネノ時、花米九合・芋神酒壱百姓、供之。同巫祭祀也。』と記述されています。因みに「花米/ハナグミ」は祭祀や儀礼に用いる生米の事で「ミハナ」や「ンパナ」とも称されます。また「五水」は既成の泡盛で御五水とも呼ばれ、更に「神酒」は村人が米、麦、芋で作った御神酒(ウンサク)を意味します。(御巣人御墓)(志仁禮久大神/阿摩彌姑大神の拝所)(志仁禮久大神/阿摩彌姑大神の石柱)「タク川の滝」の西側に「御巣人御墓」へ通じる長い階段があり、登り切った丘陵の中腹には古い彫込墓の「御巣人御墓」があります。「阿摩彌姑/アマミク」の子孫で4世の「御巣人大神」の墓には石造りのウコール(香炉)が祀られています。「御巣人御墓」から更に丘陵中腹を西側に進むと「志仁禮久大神/阿摩彌姑大神」と彫られた石柱が建つ拝所があり、祠にはウコール(香炉)が設置されています。「志仁禮久大神」は「シネリク/シネリキヨ」で「阿摩彌姑大神」は「アマミク/アマミキヨ」の事で、琉球王国最初の正史である「中山世鑑/ちゅうざんせいかん(1650年)」には天の城に住む「天帝」が琉球開闢の際に、自分の子供である「シネリク」と「アマミク」の夫婦神を地上に降ろしたと記されています。その後、二人は三男二女をもうけ長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は君々(上級女神)、次女はノロの始まりとされています。長男は「天孫子」と名乗り、国の主として統治したと伝わります。(並里御墓)(並里御墓の石柱)「志仁禮久大神/阿摩彌姑大神」の拝所を更に西側に進み続けると「並里御墓」があります。「新里村」の門中は先住民である並里系の「嶺井門/ミジョー・西銘/ニシメ・新地/ミージ」などで、この墓には「並里/ナンジャトゥ」の祖先が祀られていると考えられます。こちらの古墓も洞穴の入り口を石組で塞いだ彫込墓で、この洞穴で風葬された後に洗骨され、厨子甕に納骨されて葬られていると考えられます。この丘陵一帯には「中並里之墓」「手登根里之子の墓」「平仲大主の墓」が点在しており「新里集落」発祥と発展に関わった先人達が葬られ、神々として祀られる聖域として崇められています。集落を南北に通る急勾配の「新里ビラ」は周辺に幾つもの拝所が点在する"神の坂道"として長い琉球の歴史を刻んでいるのです。
2022.08.26
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(夫婦デイゴ)沖縄本島南部の南城市佐敷に「新里集落」があります。この集落中央部にある「新里公民館」沿いには「夫婦デイゴ」と呼ばれる二対に構えるデイゴの巨樹があります。「南城型エコミュージアム」の一環としてデザインされた「新里のてぬぐい」には集落の特徴をモチーフに、地域の方や大学生等の意見が取り入られており「夫婦デイゴ」もデザインに採用されています。「新里集落」の世帯数は455世帯で人口は1,124人(令和3年4月末時点)、集落内には50余りの拝所(御嶽•井泉)があります。更に「尚巴志マラソン」の最大の難所である「新里ビラ」と呼ばれる心臓破りの坂も「新里集落」の名所となっています。(新里馬場跡)「新里集落」には「馬スーブ/ンマスーブ」と呼ばれる琉球競馬が古くからあり、農村の娯楽として大事な行事の一つでした。「ンマ(馬)スーブ(勝負)」に使われた馬は「島馬/チマンマ」と呼ばれる宮古馬や与那国馬が主流でした。馬の走る速さを競うのではなく、馬の走る足並みや美しさを競う競馬で沖縄本島では「ンマハラシー」の名称でも知られています。村主催の「馬スーブ」は明治から昭和初期にかけて「原山勝負/ハルヤマスーブ」の指分け式の余興として春と秋の年二回行われました。春は「屋比久ガニク」と呼ばれる「外間馬場」で、秋は「新里馬場」で開催されていました。現在「新里馬場跡」には「新里公民館」が建てられて整備されていますが、かつて「新里馬場」では集落の綱引きも行われていました。(創作舞踊/汗水節の振付記念碑)(徳森小/徳森グヮー)「ンマスーブ」が余興で行われた「原山勝負」は19世紀に始まった各間切の重要な農事奨励法でした。春と秋の年二回、耕地の手入れ、農作物、山林の植栽手入れ保護等の成績を品評していました。「新里公民館」には「創作舞踊/汗水節振付記念碑」が建立されています。「汗水節」は昭和初年に国が勤倹貯蓄を推奨するために募った歌で二等当選(一等は該当なし)したのが、宮良長包が作曲した「汗水節」でした。「新里集落」では曲に乗せて踊る農村らしい振付けの舞踊を昭和8年に西村正五郎が考案しました。「新里公民館」の東側には「徳森小/トクムイグヮー」と呼ばれる一画があります。この地はかつて農作業の間に村人が休憩する場所として利用されており、現在も文化財として保護継承されています。(佐久真門モー/新里農村広場)(佐久真門モー/新里農村広場)「新里公民館」の南東側の斜面に「佐久真門モー/サクマジョーモー」と呼ばれる農村広場があります。ここではかつて「新里の村アシビ」が旧暦8月15日(15夜の日)に毎年行われていました。村アシビは集落単位で楽しむもので、集落の住民同士の和を形成するために開催されました。しかし、大正7年に催された「龕のお祝い」は3日に渡り盛大な村アシビが行われ、集落外からも多数の見物客が押し寄せて大変賑わいました。各家庭では見物客にご馳走を振る舞ったと言われています。「佐久真門モー」と「新里馬場」では「新里集落」のフンカ(代表的な芸能)である「長者ヌ大主」を始めとして「仲順流」「国頭サバクイ」「アヤグ」に続き、他の狂言や端踊など多数演じられました。(石畳道)(昔産井戸/ウンブガー)(昔産井戸/ウンブガー)「佐久真門モー」の西側に位置する「イビの森」の北側丘陵中腹に古い「石畳道」が残されています。この「石畳道」を進んでゆくと「昔産井戸/ウンブガー」と呼ばれる井戸の祠があります。この井戸は南側の丘陵を登った先で「イビの森」の北側に構える「新里ノ殿」と直接的な繋がりがあります。かつて「新里ノ殿」の場所にあった屋敷に「新里大主」が暮らしていた時代に「産井戸/ウブガー」として利用されていた井戸でした。子供が産まれた時に使う産水(ウビミジ)は産井戸(ウブガー)から汲まれて用いられ、その水で産米(ウブイメー)を炊き、赤子の額に3回水を撫で付ける「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。「昔産井戸/ウンブガー」は「新里集落」のみならず「新里大主」の子孫や各門中により拝されています。(土帝君/トゥーティークン)(土帝君/トゥーティークンの石堂)「昔産井戸/ウンブガー」の南西側の小高い森に「土帝君/トゥーティークン」と呼ばれる石堂が鎮座しています。この石堂の内部にはかつて陶器の仏像が三体祀られていました。それぞれ「土地の神」「農作物の神」「観音様」として崇められ拝まれていました。昔は「土帝君祭」として旧暦2月2日(ニングヮチカンカー)に、豚の頭や鳥の丸焼きなど御供物として盛大に祝いました。農作物の害虫被害が大きい場合には、この石堂で「場天ノロ」により「ムシバレー」と呼ばれる虫祓いの祈願をしてから集落の北側にある「西の龍宮」を拝み、害虫をクバの葉に乗せて海に流しました。また、稲作をしていた頃は「タントゥイ」という種取りの時期に祈願され、更に「観音様」は子供達や旅に出ている者の健康祈願として拝まれていました。(勢理客ノ殿/ジッチャクノトゥン)(勢理客ノ殿/ジッチャクノトゥンの祠)(勢理客ノ井戸/ジッチャクノカー)「土帝君/トゥーティークン」の北側には「勢理客ノ殿/ジッチャクノトゥン」と呼ばれる祠があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『ゼリカクノ殿 稲二祭之時、五水六合・神酒壱地頭、シロマシ・五水四合・神酒壱百姓、供之。同巫祭祀也。且、祭之日、バテンノロ・若ノロ・根神ヘ朝食五ツ組、居神四人・掟ノアムヘ三ツ組ニテ自地頭有馳走也。』と記されています。この「勢理客ノ殿」は「勢理客大主」の屋敷跡があった場所に造られており「新里集落」では旧暦5月と6月の「ウマチー」と呼ばれる稲の豊作祈願と収穫祭で拝されています。祠の向かい側には「勢理客ノ井戸/ジッチャクノカー」があり「勢理客大主」の屋敷で使われていた井戸跡が現在も残されています。(上之井戸/ウィーヌカー)(勢理客樋川/ジッチャクヒージャー)(勢理客樋川/ジッチャクヒージャーのウコール)「勢理客ノ井戸」の南西側に「上ノ井戸/ウィーヌカー」があり、現在も石が組まれた井戸跡が残されています。この井戸はかつては「勢理客大主」の屋敷から南西側に住む人々の生活用水として使用されていたと思われます。更に、この井戸の北西側には「勢理客樋川/ジッチャクヒージャー」と呼ばれる井戸跡があります。この井戸跡に生い茂る樹木の下には「勢理客樋川」を祀ったウコール((香炉)が設置されており、水への感謝を奉る拝所となっています。「樋川/ヒージャー」とは岩盤の奥の水脈から石樋を通して水を引いてきたものを言いますが、今日かつて存在した石樋は確認されません。現在は樋川があった場所のすぐ脇に水量が多い水路があり、かつての「勢理客樋川」と同じ水源から現在も水が流れ出ていると考えられます。(ダロー森/ダロームイ)(国元の神アシャギ/右側と村元の神アシャギ/左側)新里公民館の西側丘陵の頂上に「ダロー森/ダロームイ」と呼ばれる一画があり、ここから東側斜面の麓には「国元の神アシャギ」と「村元の神アシャギ」と呼ばれる屋敷が2軒並んで建っています。国元と村元は「嶺井門/ミジョー門中」(仲嶺井門/ナカミジョー)で、神御先祖は「先並里/サチナンジャトゥ」であったと伝わります。「新里村」の門中は先住民である並里系の「嶺井門/ミジョー・西銘/ニシメ・新地/ミージ」などと、後から入ったと言われる佐銘川(鮫川)系の「石原/イセーラ・勢理客/ジッチャク・佐久真/サクマ」などの二つに大別されます。元は「大里間切下里村」であった「新里村」は「尚巴志」の祖父である「佐銘川大主」が村立てして「佐敷間切」に加わったと伝わり、国元(佐敷間切)と村元(新里村)の二つの「神アシャギ」と呼ばれる屋敷がこの地に建てられたと考えられます。(西の龍宮/イリの龍宮)(東側の龍宮/アガリの龍宮)「新里集落」北側の海岸沿いに「西/イリの龍宮」の祠があり龍宮神が祀られており、卯年と酉年の8月15日に集落と各門中の代表により拝されています。「新里集落」には古い龍宮神信仰が残されており、死者は遠く離れたニライカナイに旅立つと言われ、集落の住民は葬式の翌日や墓参りの後に龍宮神を拝みます。「西/イリの龍宮」の南東側約200メートルの場所には「東/アガリの龍宮」の祠があります。令和3年12月4日に橋の建設の為に移設されましたが、元の場所は「場天ノロ」が海上の無事を龍宮神に祈願した御通しの拝所でした。さらに、琉球王国最高の女神官であった「聞得大君加那志」が悪天候で漂流した薩摩から生還した際に上陸した所と言われ、丸い平たい石が祀られていたと伝わります。こちらも卯年と酉年の8月15日に集落と各門中の代表により拝されています。
2022.08.21
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(佐銘川御殿跡)沖縄本島南部の南城市佐敷にある「新里集落」に「イビの森」と呼ばれる御嶽の合祀拝所があり、この森の東側丘陵に「佐銘川御殿跡」と呼ばれる屋敷跡があります。「尚巴志」の祖父である「佐銘川大主(さめかわうふぬし)」が暮らした屋敷が移設された史跡として残されており、この「佐銘川御殿跡」は地元では「神アシャギ」とも呼ばれています。沖縄本島北部では集落のノロ(祝女)が祭祀を行う4本柱、又は6本柱で壁のない小屋を「神アシャギ/神アサギ」と言いますが、沖縄本島中部や南部では「神アシャギ」に類似した「殿(トゥン)」と呼ばれる屋敷があります。因みに「佐銘川大主」の出身である「伊平屋島」にある「我喜屋の神アシアゲ」と「島尻の神アシアゲ」はそれぞれ沖縄県指定民俗文化財に指定されています。(佐銘川御殿跡/平仲之元祖の祠)(屋敷の土台跡)(伊平屋御通しの拝所)「佐銘川大主」は琉球王国の歴史書で1650年に成立した『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』には「鮫川大主」の名前で記述されています。「佐銘川大主」の屋敷は東側にある場天原の「旧場天御嶽」にありましたが、1959年10月に佐敷を襲った台風18号(シャーロット台風)で地崩れを起こし埋没していまいました。その後「イビの森」の澤川原に移築されましたが、2002年8月の台風16号(シンラコウ台風)で「佐銘川御殿」の象徴であった屋敷は全壊してしまいました。「佐銘川大主」の屋敷の土台の北側には「伊平屋御通し」の石碑が建立された拝所が残されており、現在も遥か沖縄本島の北側に浮かぶ生まれ故郷である「伊平屋島」を拝する遥拝所となっています。(佐銘川御殿跡の標識)(佐銘川御殿跡の拝所)(佐銘川御殿跡の拝所/サミカワ御嶽の石碑)「佐銘川御殿跡」の敷地北側にはブロックで囲まれた拝所があります。この拝所には「サミカワ御嶽」と彫られたニービ石造りの石碑が建立されており『まへ原 ち 尚巴志=当時十六才百日ニ、書キ添タ事ヲ示ス 故大城恒信、ヨシ 平成八年旧九月九日』と記されています。平成8年は1996年であり、2002年に台風で屋敷が倒壊する6年前に「佐銘川大主」の屋敷の北側に建立された拝所である事が分かります。この石碑に記されている「サミカワ御嶽」とは「佐銘川/サミカワ大主」を祀る御嶽を意味しており、屋敷の守護神としてだけではなく「尚巴志」の祖父が「佐敷」に於いて現代もなお崇められている事が表れています。(平仲之元祖の祠内部/向かって左端)(平仲之元祖の祠の神棚)(平仲之元祖の祠の位牌)(平仲之元祖の祠内部/向かって右端)「新里集落」に管理される「佐銘川御殿跡」の敷地内には現在も「平仲之元祖」という人物を祀った祠があります。この祠は「佐銘川大主」の茅葺き屋根の屋敷があった頃から併設されていた神屋で、内部には仏壇があり位牌、ウコール(香炉)、花瓶、湯碗、水碗が設置されています。「平仲之元祖」は「手登根大屋子」の三男腹である「大道山」の次男で「平仲大主」とも呼ばれていました。「平仲之元祖」は子供の頃の「尚巴志」を養育した人で、場天原の「場天御嶽」に移り住み「佐銘川御殿」をお守りしたと伝わっています。「平仲之元祖」には「下庫利大主」という次男がいて、その人物の長男が「石原」次男が「勢理客」三男が「佐久間」それぞれの字の始祖となっています。この為「佐銘川御殿跡」は「新里・石原・勢理客・佐久間」各門中により拝されています。(佐敷ようどれ)(第一尚氏王統 第一代尚思紹王陵墓の石碑)(佐敷ようどれ)「佐敷上グスク」の南側丘陵の頂上に「航空自衛隊知念分屯基地」があり、この分屯基地の中央に「佐敷ようどれ」があります。この古墓には「尚思紹王御夫婦」「舅美里之子御夫婦」「二男美里大屋御夫婦」「娘佐敷大のろくもい」「佐銘川(鮫川)大主夫婦」の9名が葬られています。当初は現在地よりも北側の崖下に位置していましたが、雨風による損壊のため1764年(乾隆29)に移築され「尚思紹王」の家族7名が葬られました。さらに1959年には「尚思紹王」の両親で「尚巴志」の祖父母である「佐銘川(鮫川)大主夫婦」が西側丘陵にあった墓から移設し合祀されました。「佐敷ようどれ」は琉球石灰岩で建造され半円型の屋根を持った籠型の独特な形をしており、門口3.3メートル、奥行2.6メートル、軒高2.1メートルとなっています。(佐敷ようどれの石柱)(佐敷ようどれ/門口)(佐敷ようどれ/籠型の古墓)「航空自衛隊知念分屯基地」の敷地内にあるにも関わらず一年を通して多くの参拝者が訪れます。この分屯基地の正面ゲートで身分証明書を提示し氏名・住所・電話番号を記入すると航空自衛隊の隊員が「佐敷ようどれ」まで徒歩で同行してくれます。「佐敷ようどれ」は「佐敷ゆうどれ」とも呼ばれ「ようどれ/ゆうどれ」は夕凪や静かな場所の意味を持ちます。この墓に葬られる「舅美里之子」は「佐敷上グスク」の北東約100メートルの森にかつて居住し、屋敷跡には現在「美里殿/ンザトドゥン」と呼ばれる祠が祀られています。さらに合祀されている「佐敷大のろくもい」とは「美里井/ンザトカー」で禊(みそぎ)を行なっていた「佐敷ノロ」の事で「佐敷上グスク」の敷地内には「佐敷ノロ」が祭祀を奉った「佐敷ヌル殿内」があります。(下代樋川/シチャダイヒージャー)(下代樋川/シチャダイヒージャー)「佐敷ようどれ」の西側約400メートルの場所で、丘陵の頂上付近の森に「下代樋川/シチャダイヒージャー」と呼ばれる井戸があります。巨大な岩の洞穴から流れ出す湧き水は急勾配な森を北側に下り、丘陵中腹の「タキノー御嶽」と「クンナカの嶽」を通り抜け「佐敷上グスク」の西側にある「洗心泉/シーシンガー」の井戸に流れ込みます。「洗心泉」は沖縄戦後のアメリカ統治下時代に「琉球列島米国政府/USCAR」に置かれた高等弁務官の資金により造られた井戸で、貯水した水は周辺住民の飲料水タンクとして使われました。現在も旧暦12月24日の「御願解き/ウガンブトゥチ」に拝されています。
2022.08.16
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(イビの森のガジュマル)沖縄本島南部の南城市佐敷に「新里(しんざと)集落」があります。この集落について『字誌新里』には琉球開闢の創世神である「アマミキヨ」の一族が玉城村字仲村渠の「ミントン/免武登」から玉城村下親慶原の「アマチジョウガマ/天次門ガマ」に移り、そこを拠点として新里の「澤川原」周辺で生活した後に「名合(なごう)ムラ」辺りに移り住みました。それが「新里」の先住民である「並里系統」の始まりであると伝わります。この「並里系統」は14世紀初期にやって来た「佐銘川系統」や16世紀以降に移り住んだ他の門中と共に集落を発展させて、農業や漁労で暮らすようになったといわれています。(旧場天御嶽/場天原)(イビの森の入り口)「新里集落」の中心部で新里公民館から南東に約400メートルの「場天原」に「旧場天御嶽」の森があります。1959年(昭和34年)10月に沖縄本島を襲った台風18号「シャーロット台風」に伴う豪雨により「軽石山」付近の大規模な崖崩れ及び地滑りが発生し「尚巴志」の祖父である「佐銘川大主(さめかわうふぬし)」の居住跡があった「旧場天御嶽」一帯が埋没しました。その1年後「旧場天御嶽」にあった「佐銘川大主住居跡」、その住居跡で使用していた2つの井戸「上場天御井戸/下場天御井戸」、天の神への御通しの「御天竺神」、佐銘川大主の生まれ故郷である伊平屋島への「御通し」で、別名「ヤマトバンタ」とも呼ばれる「伊平屋神」が「澤川原」に佇む「イビの森」に移転されて合祀されました。(場天御嶽/場天殿)(場天御嶽の石柱)「イビの森」の北側入り口の階段を登ると右手に「場天御嶽」と彫られた石碑が建つ「場天御嶽/場天殿」が祀られています。珊瑚岩が組まれた祠にはウコール(香炉)と幾つもの霊石が祀られています。1713年に琉球王府により編纂された地誌である「琉球国由来記」には『バテンノ殿 稲二祭之時、シロマシ・神酒二宛百姓、供之。バテンノロ祭祀也。且、祭之前夜、巫・根神・掟ノアム、トノヘ一宿故、夕食・朝食、一汁一菜ニテ百姓中ヨリ賄仕有。』と記されています。「場天御嶽/場天殿」の拝所は「新里集落」の他にも第一尚氏の子孫である石原、勢理客、佐久間の各門中が崇める拝所となっています。(イビ御嶽)(イビ御嶽の祠)(イビ御嶽の石柱)「場天御嶽/場天殿」の南側に隣接した場所に「イビの森」の御神木であるガジュマルの巨樹が生えており、樹下には「イビ御嶽」が祀られています。珊瑚岩で造られた祠にウコール(香炉)と多数の霊石が祀られている御嶽は「新里集落」の祖霊神を祀った拝所で、集落の守護神として昔から大切に崇拝されている聖域となっています。「イビ御嶽」は「琉球国由来記」に記載されている『サクマチヤウノ嶽 神名 西森イシラゴノ御イベ』であると考えられており『バテン巫崇所。年浴之時、花米九合・五水四合・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネノ時、花米九合・芋神酒壱百姓、供之。同巫祭祀也。』と記されています。(御天竺神/上場天御嶽)(御天竺神の石柱)「イビ御嶽」に向かって左側に隣接した場所に「御天竺神/ウティンチク神」が祀られた拝所があります。珊瑚岩が組まれた祠の内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、ヒラウコー(沖縄線香)がヒジュルウコー(火を灯さない線香)の作法で供えられています。「御天竺神/ウティンチク神」は「旧場天御嶽」の森に祀られていた「上場天御嶽」であると考えられており「琉球国由来記」には『上バテンノ嶽 神名 サメガア大ヌシタケツカサノ御イベ 昔佐敷按司御屋敷タル由也』と記されています。琉球王国時代における「御天竺神/ウティンチク」とは遠い東の海の彼方にある理想郷に住む神の事で、この拝所は「ニライカナイ」へ拝する「御通し」であると考えられます。(伊平屋神/下場天御嶽)(伊平屋神の石柱)「イビ御嶽」の正面には「伊平屋神/ヤマトバンタ」が祀られた珊瑚岩の祠があり、この拝所は「旧場天御嶽」から移された「下場天御嶽」であると言われており「琉球国由来記」には『下バテンノ嶽 神名 コバヅカサノ御イベ』と記されています。「尚巴志」の祖父である「佐銘川大主(さめかわうふぬし)」が生まれた「伊平屋島」を遥拝する「御通し」として祠は北側に向けられています。「伊平屋島」から「今帰仁村運天」に渡った「佐銘川大主」は「シマセンク巫/勢理客ノロ」の宣託により「佐敷村」に移り住みました。魚を売って行商として暮らしていた頃に「大城グスク」辺りで大城按司の娘と出会い、後に結婚して「旧場天御嶽/場天原」で暮らし始めたのです。やがて2人の子供に恵まれ、1人は「尚巴志」の父親の「尚思紹」で、もう1人は「場天ノロ」でありました。(上場天御井戸/ウィーバテンカー)(上場天御井戸/ウィーバテンカーの石柱)「イビの森」の東側に「上場天御井戸/ウィーバテンカー」があります。「旧場天御嶽/場天原」から移設された井戸跡で「上場天御嶽」では産井(ウブガー)として使用されていました。子供が産まれた時に使う産水(ウビミジ)は産井(ウブガー)から汲まれて用いられ、その水で産米(ウブイメー)を炊き、赤子の額に3回水を撫で付ける「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。出産の日か翌日に赤子の名前を付ける「ナージキー/名付け」が行われ、その日の儀式は「カーウリー/川下り」とも呼ばれていました。その名前の由来は出産の汚物をクムイ(溜池)や家の井戸などで洗い流し、産井(ウブガー)から汲んできた産水(ウブミジ)で沸かした産湯につかわし「ミジナディ/水撫で」をする事から来ていると伝わります。(下場天御井戸/シチャバテンカー)(下場天御井戸/シチャバテンカーの石柱)「上場天御井戸/ウィーバテンカー」の南側に「下場天御井戸/シチャバテンカー」があり、こちらも「旧場天御嶽/場天原」から移設された産井(ウブガー)跡となっています。産まれたばかりの赤子は名前を付けられた後に「大鍋(ウフナービ)カミラスン」と言って赤子の額にナービヌヒング(鍋のすす)を塗りつけたり、ウブミジ(産水)を額に『ミミガニソンガニ 肝(チム)ヌソーアリ』と唱えて3回撫でる「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。次に屋敷の入り口にあるヒンプン(目隠しの塀)の前方で赤子の「ナージキー/名付け」の儀礼をします。その後、ヒヌカン(火の神)とウグヮンス(仏前)に「ナージキー/名付け」の報告をするのです。産井(ウブガー)の水は人が生まれて最初に使用される清らかな水であり、生誕の儀式には欠かす事ができない特別な水でした。(新里ノ殿の標柱)(新里ノ殿)(新里ノ殿の祠)「イビの森」の南側に「新里ノ殿」と呼ばれる拝所があり、約9メートル四方で高さ約2メートルの円形の土台の上に鎮座しています。珊瑚岩で組まれた祠の内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、火を灯さないヒジュルウコーの形式でヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「琉球国由来記」には『新里之殿 稲二祭之時、シロマシ・神酒二宛百姓、供之。バテン巫祭祀也。』と記されています。この拝所は「新里大主(しんざとうふぬし)」の屋敷跡であると伝わり、当家の子孫や門中のみならず「字新里」全体で「新里ノ殿」を拝みます。また、字の「風水/フンシー」とも言われており、昔から変わらず「新里大主」の屋敷の神様が祀られているのです。
2022.08.11
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(字佐敷風水/1班とヰージャラーモーガジュマル)沖縄本島南部の南城市に「字佐敷」の集落があり、国道331号線の周辺には多数の拝所が点在しています。1649年に作成された『絵図郷村帳』には「さしき村」「よなみね村」「なわしる村」と3村が記載されていましたが、1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には「佐敷村」と「与那嶺村」の2村のみ記されています。苗代之嶽と苗代殿が「佐敷村」にあると記述があるため「なわしる村」は「佐敷村」に合併したと考えられています。琉球王国時代は「佐敷村」と「与那嶺村」は隣接して栄えてきましたが、1903年に「与那嶺村」は「佐敷村」に編入して現在の「字佐敷」となりました。(字佐敷風水/1班の祠)(字佐敷風水/1班の祠内部)(ヰージャラーモー)南城市立佐敷小学校の東側には「ヰージャラーモーガジュマル」と呼ばれる高樹齢の巨木があります。この樹下にはコンクリート製の祠が鎮座しており「字佐敷風水/1班」と呼ばれる拝所となっています。「風水」は沖縄の方言で「フンシー」といい琉球王府には「風水見/フンシーミー」という役職があったと伝わります。1708年11月から1710年6月まで琉球国王の命により中国福州府で風水学(地理学)を学んだ「蔡温/さいおん」により沖縄に「風水」が本格的に導入されるようになりました。北側にある海の方角に向けて建てられた「字佐敷風水/1班」の祠内部には「字佐敷風水」と彫られた石碑とウコール(香炉)が祀られヒラウコー(沖縄線香)がヒジュルウコー(火を灯さない線香)の形式で供えられています。(佐敷番所跡/佐敷役場跡)(字佐敷風水/2班)(字佐敷風水/2班の祠)「字佐敷風水/1班」の東側約150メートルの場所に「佐敷番所跡/佐敷役場跡」があり、かつて「佐敷村」は「間切/市町村」のドゥームラ(主邑)として「番所/村役場」が置かれました。さらに「佐敷番所跡」から東側に約50メートルの位置で佐敷郵便局の南側に「字佐敷風水/2班」の拝所があります。2本の椰子の木に挟まれて鎮座する珊瑚岩の上部にコンクリート製の祠が建立されており、この祠内部にはウコール(香炉)が設置されています。「風水」は土地の吉凶を判断する方法として用いられ「首里城」が「風水」により場所が選定された事はよく知られています。他にも琉球王府の風水師により数多くの集落移動が行われていたほど「風水」が琉球王国時代に広く活用されていました。(字佐敷風水/3班と井戸拝所)(字佐敷風水/3班の祠)(穂取田/フートゥイダー跡)「字佐敷風水/2班」の西側約150メートルの位置で国道331号線沿いにある「佐敷公民館」の敷地内に「字佐敷風水/3班」の拝所があります。東側に向けて建立されたコンクリート製の祠内部にはウコール(香炉)が設置されています。この祠に向かって右側には古井戸を祀った拝所となっており、井戸を模した穴の手前にウコール(香炉)が置かれて拝する場所となっています。更に「字佐敷風水/3班」がある「佐敷公民館」の北東側の開けた場所は「穂取田/フートゥイダー跡」と呼ばれており、この地はかつて御嶽や殿などの拝所に「佐敷ノロ」が祭祀の時に供えた花米や神酒を作る為の稲が育てられた特別な水田があった場所です。(字佐敷風水/4班)(苗代樋川/ナーシルヒーカー)(苗代樋川/ナンモーガジュマル)「字佐敷風水/3班」から東側に約120メートルで「苗代殿/ナーシルドゥン」の北側にある「ナンモー」と呼ばれる広場の敷地内に「字佐敷風水/4班」の祠が南向けに建立されています。この広場には「苗代樋川/ナーシルヒーカー」と呼ばれる井戸がありウコール(香炉)が設置されています。この井戸の上部には「ナンモーガジュマル」があり、1899年に「池ヌ端のタンメー」と呼ばれた「与那嶺盛一翁」が初代佐敷間切区長に就任した際、記念に植えられた「佐敷の三本ガジュマル」の一つとなっています。一本目は「字佐敷風水/1班」の「ヰージャラーモーガジュマル」で、三本目は「ナンモーガジュマル」の東側に植樹された「ユナンミガジュマル二世」です。三本ともに550メートルの等間隔で植えられています。(川当殿/カータイドゥンの標識)(川当殿/カータイドゥン)(川当殿/カータイドゥンの祠内部)南城市立佐敷小学校の体育館南隣に「川当殿/カータイドゥン」と呼ばれる拝所があります。元々は小学校体育館の敷地内にありましたが現在の地に移動しています。かつて「字佐敷」では旧暦5月15日と6月15日の五穀豊穣を祈願する「ウマチー/シチュマ」の祭の際に『苗代殿→美里殿→上城之殿→川当殿→与那嶺殿』の順番で参拝していました。これら5箇所の殿は集落では「ウマチーの五殿」と呼ばれています。「川当殿/カータイドゥン」がある周辺一帯は「下代原遺跡」といい「佐敷上グスク」から北西側に約280メートル離れた地形で確認された遺跡で、12世紀から16世紀に鉄を生産していた「カンジャー/鍛冶屋」の遺物が多数発見されています。南側に隣接する「佐敷上グスク」からも数多くの鉄製の武器、武具、農具が出土しており、伝説として「尚巴志」が農民の為に自身の剣と鉄を取り換える逸話が残されています。(佐敷上グスクへの鳥居)(ヤシ並木ロード/国道331号線)「ヤシ並木ロード」と呼ばれる国道331号線には、その名の通り多数のヤシの木が国道沿いに植えらた美しい景観となっています。南城市立佐敷小学校の東側には鳥居が建立されており「佐敷上グスク」に通じる参道が続いています。「尚巴志」が少年の頃「カンジャー/鍛冶屋」に命じて3年がかりで作らせた非常に価値の高い剣がありました。「尚巴志」が大人になったある日、与那原の港に来た大和の商人がその剣を非常に気に入り強く切望したのです。「尚巴志」はその商人と交渉して船一杯の鉄塊と自身の剣を交換する事になり、手に入れた大量の鉄を百姓に分け与えて質の高い農具を作らせたのです。百姓たちは非常に感服して「尚巴志」を心から敬うようになったと伝わります。(ノロクモイ地/ヌル地跡)(阿旦山の跡・井)南城市立佐敷小学校から国道331号線を渡った北側には「ノロクモイ地」と呼ばれる土地が現在も残されています。この場所は「佐敷・与那嶺」の2つのシマを管轄した「佐敷ノロ」が琉球王府から与えられた「ノロクモイ地/ヌル地」で、集落の中でも特別な土地として地割の対象から除外され代々継承されてきました。更に「字佐敷」の鳥居から東側に「ヤシ並木ロード」を約100メートル進んだ位置に「阿旦山の跡・井」があります。「尚巴志」が農耕をした水田があった場所で、この地にあった井戸は「尚巴志」が使用していたと伝わります。「尚巴志」は当時としては最新の農業技術だあった稲作の二期作と鉄製農具の導入により農業集落を確立し、国力を増強した支えにより琉球を統一した「第一尚氏」が誕生したと言えるのです。
2022.08.06
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(苗代殿/ナーシルドゥン)沖縄本島南部の南城市の北側には馬蹄の形をした「佐敷(さしき)」という地域があります。「佐敷上グスク」の東側約400メートルの場所に「苗代殿/ナーシルドゥン」と呼ばれる拝所があります。「苗代」とは佐敷の小字名で、この丘陵の森には第一尚氏王統の初代国王である「尚思紹王」が佐敷按司の時代に暮らした「苗代大比屋の屋敷跡」があります。この深い森の一帯は琉球王府が1713年に編纂した「琉球国由来記」に記されている『苗代ノ嶽 神名 イヅミクダノ御イベ』に相当すると考えられ『佐敷巫崇所。年浴並麦初種子・ミヤタネノ時、同于上城之嶽也』と記述され「佐敷上グスク」と同様に花米、五水、神酒が供えられ「佐敷ノロ」により祭祀が執り行われた聖域でした。(苗代殿/ナーシルドゥンの標識)(苗代殿/ナーシルドゥンの祠)(苗代殿/ナーシルドゥンに使われていた礎石)「苗代ノ嶽」の丘陵中腹にコンクリート製の「苗代殿/ナーシルドゥン」の祠が建立されており、敷地の入り口には沖縄戦で残った2本の石柱が現在も残されています。この拝所の前方にはかつて「苗代殿/ナーシルドゥン」に使用されていた建物を支える礎石(微粒砂岩)が3体埋め込まれています。琉球王府が編纂した歌謡集「おもろさうし」には『苗代の庭に 月代は 手摩て 月代す 成さい人思い 守りよわめ 又今日の良かる日に』と詠まれています。また「琉球国由来記」には「苗代殿/ナーシルドゥン」について次のように記されています。『稲穂祭之時、穂上ゲ、佐敷巫御崇也。稲二祭之時、シロマシ・神酒七宛百姓、供之。同巫祭祀也。白米五升宛、自百姓巫へ遺也。且、居神九人へ、一汁一菜ニテ、自百姓二度賄仕也。』(苗代殿/ナーシルドゥンの祠内部)(苗代殿/ナーシルドゥンの火の神/ヒヌカン)更に「琉球国由来記」には『此殿ノ庭ニ月白ト云イベアリ。祭之時ニ尊敬之也。』と記述があり「苗代殿/ナーシルドゥン」の左前方にはかつて「月白」と呼ばれる小判型の「イベ」と崇められる石が3つ祀られていました。石はそれぞれ1.8尺x1.5尺・1.9尺x1.7尺・1.7尺x1.6尺の大きさで、高さはいずれも5寸位だったと伝わります。「苗代殿/ナーシルドゥン」に祀られた神は「月神」であり、第二尚氏に「太陽神」を譲り渡した後、第一尚氏の末裔たちが「太陽神」に代わる神として新たに「大陰神」を守護神とし「テダシロ」から「ツキシロ」へ転換した事から、王権交代という激動の歴史背景を垣間見る事が出来ます。現在、祠内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、祠の左側には「火の神/ヒヌカン」が祀られています。(つきしろの岩・井の標識)(つきしろの岩)(つきしろの井)「苗代殿/ナーシルドゥン」の北側に「つきしろの岩・井」と呼ばれる大岩と井泉があります。「苗代大比屋/後の尚思紹王」は佐敷の有力者であった「美里之子」の了承を得ず「美里之子」の娘と恋仲になり赤子を授かりました。その赤子が後の「尚巴志王」であり「つきしろの井」の湧き水を産水にしたといわれます。娘は父親である「美里之子」に伝える事が出来ず赤子を殺めようとしましたが、村の白髪の古老が赤子のただならぬ雰囲気を感じて「苗代大比屋」の元に連れて行きました。しかし、赤子の行く末を案じた「美里之子」の娘は「つきしろの岩・井」に赤子を捨てて立ち去ったのです。全てを打ち明けた娘はその後、父親の「美里之子」に結婚を認められ「苗代大比屋」と共に「尚巴志」を育てたと伝わります。(苗代大比屋/ナーシルウフヤの屋敷跡)(苗代大比屋/ナーシルウフヤの屋敷跡の火の神)(苗代大比屋/ナーシルウフヤの屋敷跡)「つきしろの岩・井」の北側に「苗代大比屋/ナーシルウフヤの屋敷跡」があり、この屋敷は沖縄戦の前は白木造りで琉球赤瓦屋根の平屋でした。沖縄戦で消失しましたが、氏子のミヒチ(御引)である「仲里・アンザ・喜友名・馬佐良」の4門中の子孫が現在のコンクリート造りの屋敷跡を建てて大切に拝しています。「苗代大比屋の屋敷跡」に向かって左側には屋敷跡の土地を守護する「火の神/ヒヌカン」が祀られており、4門中が拝した際に供えられたヒラウコー(沖縄線香)が残されていました。屋敷跡の建物の内部には「尚思紹」の位牌が祀られていれとされ、地元では「苗代大比屋の屋敷跡」は「神アシャギ」と呼ばれて崇められています。(佐敷土帝君/トゥーテイクン)(佐敷土帝君/トゥーテイクン)(古井戸跡)「苗代殿/ナーシルドゥン」の西側丘陵の森に「佐敷土帝君/トゥーテイクン」と呼ばれる石造りの祠が鎮座しています。「土帝君」は沖縄では土地の神様のみならず、農業や漁の神様、更には悪霊祓いの神様としても人々に崇められています。琉球王国時代には霊石信仰が主流でしたが「土帝君」には土地の神様を模した神像が祀られていました。しかし沖縄戦後、沖縄各地の「土帝君」から神像の盗難が相次ぎ、現在は「土帝君」の祠を神として崇め大切に拝しています。北側の海に向けられて建てられた「佐敷土帝君」の南西側には古井戸跡が残されており、残念ながら現在は井戸の水は枯れています。昔はこの井戸から水を汲み「土帝君」の祠に供えていたと考えられます。(マーツー御嶽/松尾御嶽)(マーツー御嶽/松尾御嶽のアコウ)(マーツー御嶽/松尾御嶽のウコール)「佐敷土帝君」の西側約150メートルの丘陵中腹に「マーツー御嶽/松尾御嶽」があり、この御嶽は「琉球国由来記」に『松尾之嶽 神名 タケツカサノ御イベ』と記されています。更に『佐敷巫崇所。年浴並麦初種子・ミヤタネノ時、同于上城之嶽也。』との記述があり、年浴の時は花米・神酒、初麦種子・ミヤタネの時は花米・五水・神酒が供えられ「佐敷ノロ」により祭祀が行われていました。「マーツー御嶽/松尾御嶽」には御神木のアコウ(赤榕)の老木があり、樹下はウコール(香炉)が祀られる拝所となっています。現在は旧暦12月24日の「ウガンブトゥチ/御願解き」の行事の際に周辺住民により大切に拝されています。
2022.08.01
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(美里殿/ンザトドゥン)沖縄本島南部の南城市に「佐敷(さしき)集落」があり「佐敷上グスク」がある「佐敷上グスク遺跡散布地」と、その東側に隣接する「島宜原遺跡散布地」の中間に「美里殿/ンザトドゥン」と呼ばれる拝所があります。「佐敷上グスク」から東側に約100メートルのこんもりとした林の中に鎮座する「美里殿/ンザトドゥン」は第一尚氏王統「尚思紹」の妻の父親(舅/しゅうと)であった「美里之子/ンザトヌシー」が暮らした住居があった場所であると伝わっています。「尚思紹」は「美里之子/ンザトヌシー」の娘との間に5男1女をもうけ、その長男が後に琉球王国を統一した初代琉球国王の「尚巴志王」となりました。(美里殿/ンザトドゥン)(美里殿/ンザトドゥンの祠内部)(美里殿/ンザトドゥンに使われていた礎石)「美里殿/ンザトドゥン」は現在コンクリート製の拝所が設けられ、その一部にかつて礎石として利用されたと伝わるニービ(微粒砂岩)の石材がはめ込まれています。「尚巴志」の祖父である「美里之子/ンザトヌシー」は、この場所から南側の「航空自衛隊知念分屯地」敷地内にある「佐敷ようどれ」と呼ばれる墓に「尚思紹」の家族と共に祀られています。「美里殿/ンザトドゥン」は東側に隣接する小字「与那嶺」の地頭代補佐職であった「与那嶺大屋子」の「根所/ニードゥクル」で、稲穂祭と稲ニ祭の際には「佐敷ノロ」により祭祀が行われていました。「美里殿/ンザトドゥン」について、1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』には次のように記されています。『美里之殿 与那嶺大屋子根所也 佐敷巫祭祀也。且、巫・根神・居神四人ヘ祭前日之晩ヨリ祭之日朝マデ、二度賄仕也。』(美里井/ンザトガー)(美里井/ンザトガー)(美里殿/美里井の森)「美里井/ンザトガー」は「美里殿/ンザトドゥン」の西側に位置し、かつて「美里殿/ンザトドゥン」に暮らす人々が生活用水として井戸を利用していました。また「佐敷ノロ」が「美里殿/ンザトドゥン」で祭祀を行う際に、井戸の湧き水で身を清める禊(みそ)ぎの聖域であったと言われています。現在も「美里井/ンザトガー」の水は豊富に湧き出ており、旧正月に執り行われる字の「カーガー拝み」の祭祀場として周辺住民により崇められています。「美里井/ンザトガー」は「佐敷上グスク遺物散布地」に属し、グスク主体部の東側斜面下の森の中に位置しています。「美里殿/ンザトドゥン」と「美里井/ンザトガー」周辺の地形は「佐敷上グスク」の一つの郭として様相を呈しています。(佐敷ノロ殿内/佐敷ヌルドゥンチ)(佐敷ノロ殿内/佐敷ヌルドゥンチの祠内部)「佐敷上グスク」北東側の敷地内に「佐敷ノロ殿内」の祠があり「佐敷ヌルドゥンチ」とも呼ばれています。「佐敷ノロ」は「佐敷」と東側に隣接する「与那嶺」の2箇所のシマを管轄して祭祀を行なっていました。「佐敷ノロ殿内」の祠内部には「ヒヌカン/火の神」専用の白い陶器製ウコール(香炉)・花瓶・湯碗・水碗、更に石造りウコール(香炉)と霊石が数体祀られています。『琉球国由来記』には『佐敷巫火ヌ神』と記されており、次のような記述があります。『稲穂祭之時、穂上ゲ、巫ニテ御崇也。且、自他人、飯相調、巫ヘ馳走也。稲穂祭三日崇之時、花米九合・五水二合百姓。毎年三・八月、四度御物参之時、三日崇トテ、神酒壱百姓。且、祈願之日、五水二合・神酒壱百姓。』(佐敷ヌル殿内と彫られた石碑)「三日崇」とはノロが御嶽や拝所に籠り「物忌み/数日間に渡り飲食や言行を謹んで心身を清める事」をして豊作を祈願する儀式を意味します。さらに『琉球国由来記』の「佐敷ノロ殿内」に関する記述は次のように続いています。『年浴三日崇之時、神酒壱百姓。年浴之日、花米九合・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネ三日崇之時、花米九合・五水四合・神酒壱百姓。初麦種子・ミヤタネノ日、花米九合・五水四合・神酒壱百姓、供之。同巫ニテ祭祀也。』初代の「佐敷ノロ」は「尚思紹/苗代大親」の長女が任命され、その後の「佐敷ノロ」は代々「喜友名家」の系統女性が昭和初期までノロ職を継承していました。最後のノロが他界してからは後継者は途絶えたままだと言います。(洗心泉/シーシンガー)(タキノー御嶽への遥拝所)(タキノー御嶽/クンナカの嶽)「佐敷上グスク」の北西側の丘陵中腹に「洗心泉/シーシンガー」と呼ばれる井戸があります。沖縄戦後のアメリカ統治下時代に「琉球列島米国民政府/USCAR」に置かれた高等弁務官の資金により「洗心泉」が造られました。井戸水は「下代樋川/シチャダイヒージャー」から貯水して周辺住民の飲料水タンクとして使われ、現在も旧暦12月24日の「御願解き/ウガンブトゥチ」に拝されています。この井戸の脇には「タキノー御嶽」への遥拝所としてウコール(香炉)と霊石が祀られ、住民はこの拝所から南側丘陵斜面の深い森にある「タキノー御嶽」を拝しています。写真中央のこんもりした場所の周辺が「タキノー御嶽」の森で、そこから手前の丘陵中腹に「クンナカの嶽」があります。(クンナカの嶽の石積み)(クンナカの嶽の岩に生える亜熱帯植物)(クンナカの嶽の岩塊)「クンナカの嶽」は「佐敷上グスク」の南西側の丘陵斜面に位置しています。『琉球国由来記』には『クンナカノ嶽 神名 イベヅカサノ御セジ』と記されており「セジ」とは「神威」の事で神の威光や威力を意味します。更に「クンナカの嶽」について「琉球国由来記」には『佐敷巫崇所。年浴並麦初種子・ミヤタネノ時、同于上城之嶽也。』との記述があります。「佐敷ノロ」により祭祀が行われ、稲作事初めに豊富な水を得られる祈願である年浴の際には花米や神酒が供えられ、麦初種子やミヤタネ(米種子)の際には花米、五水、神酒が供えられました。字佐敷の「ミロク節」には『佐敷クンナカや竹の若緑、トゥヤイ字民ヌ、ムテイジュラサ』(佐敷クンナカの嶽にある竹の若緑と同じように、字民が美しく栄えている)と謳われています。(タキノー御嶽の森)(タキノー御嶽の1つ目のウコール)(タキノー御嶽の2つ目のウコール)「クンナカの嶽」から数十メートル南側丘陵を登った周辺一帯は「タキノー御嶽」と呼ばれる聖域となっており『琉球国由来記』には『タケナフノ嶽 神名 タカモリノ御イベ』と記されています。この御嶽も「クンナカの嶽」同様に「佐敷ノロ」により祭祀が行われていました。地形的には「佐敷上グスク」より30メートル高く、かつてはグスクの見張り台があったと言われています。「タキノー御嶽」の深い森の中に2つのウコール(香炉)が数メートル離れた場所に確認されて、それぞれ古木の脇に祀られていました。「タキノー御嶽」の「イビ/威部」はある特定の場所ではなく、この御嶽の森全体が神が宿る聖地として捉えられ、昔から周辺住民の人々に崇められているのです。
2022.07.27
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(佐敷上グスク/月代宮)沖縄本島南部の東海岸に南城市「佐敷(さしき)集落」があります。この集落は2006年1月1日に玉城村、大里村、知念村と合併して「南城市」になるまでは「佐敷町」に属していました。現在の「佐敷集落」は南城市の中心部から北側に位置し、東西を「ヤシ並木ロード」と呼ばれる国道331号線の主要道路が通っています。集落南部の丘陵の頂上には「航空自衛隊知念分屯基地」があり、北部には中城湾の海が広がっています。「佐敷集落」は琉球王国第一尚氏王統の第2代目中山王(在位1422-1439年)で、1429年に三山(北山・中山・南山)を統一して初の琉球国王となった「尚巴志王」の出身地として知られています。(上グスクのカマド跡)(上グスクのカマド跡/火の神)(内原の殿/ウチバルヌトゥン)「佐敷集落」の丘陵中腹に「尚巴志」と父親の「尚思紹」が居城した「佐敷上グスク」があります。このグスクの敷地内にグスク時代に使われていた「上グスクのカマド跡」と呼ばれる場所があり、3体の霊石とウコール(香炉)が設置された火の神(ビヌカン)が祀られています。この周辺は「佐敷上グスク」の女官が働いていた場所だと言われており、現在ここから南側に構える「内原の殿/ウチバルヌトゥン」は女官が待機する詰所(屯所)と言われて、もとは「上グスクのカマド跡」の付近にあったと考えられています。「内原の殿/ウチバルヌトゥン」は「上グスクの殿」とも呼ばれ、琉球王府が編纂した「琉球国由来記(1713年)」に記されている『殿 有城内。住昔佐敷按司蔵敷也。』に相当すると考えられ、殿(トゥン)は「佐敷巫(ノロ)」により祭祀が行われていました。(月代宮の石碑)(月代宮への石段)(月代宮の手洗石)「上グスクのカマド跡」の脇には「月代宮」と彫られた石碑が建立されており「月代宮/つきしろのみや」へ向かう丘陵を登る参道の階段が続いています。鳥居と灯籠がある階段の中間地点には手洗石が設置されており、参拝前に身を清めて浄ずる場となっています。「佐敷上グスク」は1979年(昭和54)の発掘調査により、中国や東南アジアとの交易品である青磁と白磁のお椀や皿、土器、石器、鉄釘や小銭などが出土しています。さらに、柱の穴の跡や石積みも確認されましたが、沖縄各地のグスクに見られる城壁の石垣は発見されていません。「佐敷上グスク」はグスクが多い事で知られる南城市のみならず、沖縄県内でも非常に珍しい土で造られたグスクである事が特徴的です。(月代宮への石段)(尚巴志王遺蹟の石碑)(月代宮の拝殿)「月代宮」に向かう参道の階段に沿うように古い石段が現在も残されています。この石段は「月代宮」や現在の階段の参道が作られる以前からグスク頂上に通じる主要な石段であったと伝わります。グスク時代から使われていたと考えられる石段を登った先には、1922年(大正11)の11月に「沖縄史蹟保存會」により建立された石碑があり「尚巴志王遺蹟」と彫られています。「佐敷上グスク」は東側から西側にかけて丘陵の斜面を削り出し、そこに石灰岩を貼り付けた石列(貼石状石列)が大きな特徴で、この造りは沖縄県内で唯一「佐敷上グスク」で発見されています。さらに「尚巴志」が「中山(ちゅうざん)グスク」を滅ぼし、佐敷から首里に移り住む際に「佐敷上グスク」の城郭の石を全て首里城に移したと伝わっています。(月代宮の本殿/向かって左側)(月代宮の本殿)(月代宮の本殿/向かって右側)「月代宮」の拝殿を抜けると正面に「月代宮」の本殿が建立されています。この本殿は1938年(昭和13)の「尚巴志500年祭」を記念して「つきしろ奉賛会」により建立され、第一尚氏王統の守護神である「つきしろ」に因んで命名されたと言われています。さらに、1962年(昭和37)にはコンクリート製に建て替えられ、周囲には参道の階段などが整備されました。「月代宮」の本殿には「尚巴志王/尚思紹王/鮫川大主/屋蔵大主/尚徳王/尚泰久王/尚金福王/尚思達王/尚忠王」の御魂が合祀されています。現在でも「月代宮」には多くの参拝者が訪れ、本殿にはウコール(香炉)が祀られて献花が供えられており、さらに「國之主/佐敷世之主/御先神様」と彫られた霊石が鎮座しています。(上グスク之嶽)(上グスク之嶽)(上グスク之嶽)「月代宮」がある広場の南側にはウコール(香炉)と霊石が祀られた「上グスク之嶽」と呼ばれる御嶽があります。琉球王府による地誌「琉球国由来記(1713年)」には『上城之嶽 神名:スデツカサノ御イベ / 神名:若ツカサノ御イベ』の二神が祭神として記されています。「上グスク之嶽」は拝所巡礼「東御廻り/アガリウマーイ」の1つとして拝されています。沖縄を創造した神「アマミキヨ」が、太陽が昇る東方(アガリガタ)の聖なる理想郷「ニライカナイ」から渡来して住みついたと伝えられる霊地を巡拝する行事です。「東御廻り/アガリウマーイ」の起源は国王の聖地巡礼で、王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事として太陽神信仰と密接する地域を巡礼したのが始まりとされています。(上グスク之嶽)(親井/ウェーガー)(親井/ウェーガー)更に「琉球国由来記(1713年)」には「上グスク之嶽」について『年浴之時、花米九号・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネ之時、花米九号・五水四合・神酒壱百姓、供之。佐敷巫祭祀也。』と記されています。「年浴」とは稲作事始めの儀礼で、田ごしらえに必要な水が豊富に得られる事を願う節目を意味し旧暦6月に執り行われていました。更に「麦初種子/ミヤタネ(米種子)」の祭祀は旧暦9月に催され、共に「佐敷巫(ノロ)」により行われていました。現在「上グスク之嶽」には石積みが組まれ、ウコール(香炉)と数個の霊石が祀られています。「上グスク之嶽」の西側斜面の崖下には「親井/ウェーガー」と呼ばれる井泉があり「佐敷上グスク」の生活用水として使われていました。また「産井/ウブガー」とも呼ばれ、集落で子供が産まれた時の産水としても汲まれ、集落の生活とも深い関わりがあったと考えられています。
2022.07.22
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(ジリチン毛/ジリチンモー)沖縄本島中南部にある浦添市「前田集落」に「ジリチン毛/ジリチンモー」と呼ばれる丘陵の森があります。「毛/モー」とは「野」の当て字で野原や広場を意味し「毛遊び/モーアシビ」という若い男女が野原や海辺に集まり飲食を共にして歌舞などで交流した集会にも「毛/モー」言葉が使われており、恩納村の「万座毛/マンザモー」の名称にも「毛/モー」という字が使われています。「前田集落」の「ジリチン毛/ジリチンモー」は県道38号線(警察署通り)沿いの「浦添グスク」や「浦添ようどれ」がある「浦添大公園」の南東端と「浦添市消防本部」に挟まれた丘陵の森に位置しています。「ジリチン毛/ジリチンモー」の西側には入り口の階段が丘陵の内部に続いています。(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷)(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷のウコール)(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷の火の神)「ジリチン毛/ジリチンモー」入り口の階段を登ると左手に「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」の拝所があり、社の内部には石造りの古いウコール(香炉)と霊石が祀られています。拝所に向かって左側にはブロックで囲まれた「火の神/ヒヌカン」があり数個の霊石が供えられています。「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」は「前田集落」発祥の地で、初めてこの地に住んだ「根人/ニーチュ」の屋敷(根屋/ニーヤー)がありました。「前田」は「浦添グスク」の前方に広がっていた田畑の土地から名前が付けられたと伝わり、首里の士族がこの地に移り住み「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」に住み始めたのが「前田集落」の始まりだと言われています。現在は「前田集落」発祥の地たして人々に拝されています。(前田髙御墓/前田タカウファカ)(前田髙御墓の石碑)(前田髙御墓の手水鉢と霊石)(前田髙御墓のウコール)「ジリチン毛/ジリチンモー」の頂上付近には「前田髙御墓/前田タカウファカ」という墓があり、丘陵の高い場所に設けられた墓である事から「髙御墓/タカウファカ」と呼ばれています。この墓は県道38号線の改良工事のため、旧暦昭和50年乙卯12月13日に「前田名川原頂上1468番地」から現在の「前田山川原1962番地」に移転改修されました。この墓の前方に隣接する場所には「前田髙御墓」と刻まれた石碑、手水鉢、霊石が設置されています。さらに「前田髙御墓」の門石には霊石が祀られ、墓前には陶器製ウコール2基と石造りのウコール1基が祀られています。この石造りのウコールには「奉寄進/恵祖按司/前田按司/はか君加那し/恵祖子あや/久米きつは/てる君加那し/咸豊十一年辛酉九月/大里間切大城村/嶋袋筑登之親雲上」などの文字が記されています。(火の神/グフンシジの拝所)(火の神/ウミチムン)(グフンシジ)「前田髙御墓」の北側に隣接する小高い丘には「火の神/ウミチムン」と「グフンシジ」が祀られる拝所が建立されています。「火の神/ウミチムン」には3体の岩がカマド型に組まれており、4基の石造りウコール(香炉)と数個の霊石が供えられています。「ウミチムン」とは「3個のカマド石」を意味する言葉で、琉球古来から伝わる信仰で「火の神/ヒヌカン」が祀られています。一方「グフンシジ」は神が宿るとされる「ビジュル/霊石」を集落の守護神として崇めるのが一般的で、この拝所には数体の霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。「火の神/ウミチムン」と「グフンシジ」のウコール(香炉)にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられ、現在も集落の住民により拝されています。(後之御嶽/クシヌウタキ)(まさら神)(ふえしじ之御嶽)「前田髙御墓」の西側には「後之御嶽/クシヌウタキ」「まさら神」「ふえしじ之御嶽」の合祀拝所があります。「前田髙御墓」と同様に県道38号線の改良工事のために「ジリチン毛/ジリチンモー」の丘陵に移設された拝所であると考えられます。もしくは「前田集落」は沖縄戦の激戦地でもあったため、戦争で破壊された御嶽や拝所がこの地に移動して祀られているとも考えられます。「後之御嶽/クシヌウタキ」にはウコール(香炉)2基が祀られており「まさら神」には、神が宿るとされる琉球石灰岩の岩塊とウコール1基が供えられています。更に「ふえしじ之御嶽」にはウコール(香炉)1基が設置された合祀拝所となっています。(ティーダウカー)(ユーアキガー/男泉)(ユーアキガー/女泉)「ジリチン毛/ジリチンモー」の南東端で「沖縄消防本部」に隣接する崖の上に「ティーダウカー」と刻まれた石碑が立つ井戸があります。「ティーダ」は沖縄の言葉で「太陽」を意味し、この井戸は見晴らしの良い南西方面に向いています。「ティーダウカー」の南側に隣接して「ユーアキガー/男泉」と呼ばれる井戸があり、円形の石で蓋が施された井戸の脇には石造りのウコール(香炉)が1基設置されています。この井戸は「ジリチン毛/ジリチンモー」の西側に隣接する位置にある「ユーアキガー/女泉」と対になっており、丘陵の森の地下に流れる同じ水脈から湧き出ていると考えられ「ジリチン毛/ジリチンモー」の「ミートゥーガー/夫婦井戸」とも呼べる古井戸となっています。この「ユーアキガー/女泉」には霊石1体と石造りのウコール(香炉)1基が祀られています。(前田大屋の墓/前田大王の墓)(前田大屋の墓/前田大王の墓の石碑)「ジリチン毛/ジリチンモー」の北西側の丘陵中腹には2基の「平葺墓/ヒラフチバー」と呼ばれる掘り込み墓が並んでいます。向かって左側が「前田大屋の墓」右側が「前田大王の墓」となっています。「平葺墓/ヒラフチバー」の古墓は主に士族層の墓で、首里から「前田集落」移住した士族がこの古墓に祀られていると考えられます。墓前の石碑には次のように記されています。『前田大王 昭和三九年 甲辰 旧八月十六日 (一九六 四年) 浦添市字仲間稲俣原一三二三番の墓より 前田 山川原一九五九番の墓に移転する 前田大屋 昭和三九年 甲辰 旧八月十六日 (一九六 四年) 浦添市字仲間稲俣原一二六六番の墓より 前田 山川原一九五九番の墓に移転する 平成十五年十二月十三日 戌申 旧十一月二十日』
2022.07.17
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(玉城朝薫/邊土名家の墓)沖縄本島中南部の浦添市前田にある「前田トンネル」の上部に「玉城朝薫/邊土名家の墓」があります。「玉城朝薫/たまぐすくちょうくん(1684-1734年)」は琉球独自の歌舞劇である「組踊/くみおどり」の創始者です。「玉城朝薫」の家系は代々、玉城間切の総地頭職を務めていた事から「玉城」を名乗りましたが、子孫の代に「邊土名/へんとな」と実名が変わりました。「玉城朝薫」は中国からの「冊封使/さっぽうし」を歓待するために琉球王府より踊奉行に命ぜられ、この時に生み出された「組踊」は1719年に初めて首里城で演じられました。「組踊」は音楽、舞踊、所作、台詞で構成され、その創作には琉球の故事をもとに物語が作られています。(三味台/サンミデー)(墓庭/ハカナーにある三味台/サンミデー)「玉城朝薫」が作った『二童敵討/にどうてきうち』『執心鐘入/しゅうしんかねいり』『銘苅子/めかるしぃ』『女物狂/おんなものぐるい』『孝行の巻/こうこうのまき』は特に「朝薫の五番」と呼ばれ高く評価されています。「組踊」は2010年に「ユネスコ」の無形文化遺産リストに登録されました。「玉城朝薫/邊土名家の墓」は沖縄特有の堀込式「亀甲墓/かめこうばか」で、墓の入り口である「門石/ジョウイシ」の正面は「三味台/サンミデー」と呼ばれ「香炉/ウコール」や御供物が備えられています。この古墓に向かって「墓庭/ハカナー」の左側には「三味台/サンミデー」の石台が設置されており、石造りの香炉、花瓶、湯呑が備えられ、普段から多くの参拝者に拝されています。(門冠い/ジョウカブイと相方積みの鏡石/カガミイシ)(亀甲墓に使われる実際の石柱)(玉城朝薫/邊土名家の墓下を通る前田トンネル)この古墓の内部は石を積んで壁や天井を組み上げており、天井は4本の柱で支えられています。「墓庭/ハカナー」の石積みは撥状に跳ね上がる形に開くなど、石積みに曲線を多用しているのが特徴です。「玉城朝薫/邊土名家の墓」は亀甲墓が成立してゆく17世紀後半から18世紀前半に造られたと考えられています。この墓の敷地には亀甲墓の内部に実際に使われた石柱のサンプルが展示されており、沖縄の古墓を知る上で非常に重要な資料となっています。墓下には2000年に開通した「前田トンネル」が通り、墓の東側には沖縄都市モノレール「ゆいレール」のレールが空中に敷かれています。このレールは墓の地点で軌道が不自然にカーブしており「玉城朝薫/邊土名家の墓」を迂回するため特別に建設されたと言われています。(メーヌハルガー/前ヌ原井戸の井戸跡)(メーヌハルガー/前ヌ原井戸の大岩)(ジングスク/銭グスク跡)「前田集落」の北東部に「メーヌハルガー/前ヌ原井戸」と呼ばれる井戸跡があります。かつて集落の農業用水として使われた「ハルガー/原井戸」で、集落の前方にあった事から「メーヌハルガー/前ヌ原井戸」と呼ばれていた考えられます。現在は井戸は塞がれていますが、井戸の脇に鎮座する大岩は現在も残されています。更に、集落の東側丘陵上に「ジングスク」と呼ばれるグスク跡があり、グスクを形成した巨岩の集落側崖下には墓があったと言われています。現在は丘陵が削られて公務員住宅が立ち並び、巨大な貯水タンクが建設されています。「ジングスク」の遺構や遺物は発見されていなくグスクの詳細は全く不明となっています。古老の伝承によると「ジングスク」は「銭グスク」の意味で「金蔵」があった場所だと伝わっています。(井の大人川/ヰのウシガー)(井の大人川/ヰのウシガーの拝所)(井の大人川/ヰのウシガー)「前田集落」の最西端に「井の大人川/イノウシガー」と呼ばれる古井戸があり「ヰのウシガー」とも表記されます。「大人/ダイジン」と書いて「ウシ」と言う尊い言葉から『井の中でも尊い井戸』の意味を持ち、その昔に琉球王府から授かった名称だったと伝わります。そもそも「前田」とは「浦添グスク」の"前"に広がっていた"田"から付いた集落の名前であり、周辺は水が豊富な土地でした。明治時代には7ヶ月も日照りが続いても井戸が枯れなかったと言われています。「井の大人川/ヰのウシガー」に向かって右側には井戸の拝所が設けられ、霊石が数体祀られており、水への感謝と水の神への祈りの場となっています。井戸の正面に立つ2つの石柱にはそれぞれ蛇口が設置され、井戸水が出る非常に珍しい仕組みになっています。(井の大人川/ヰのウシガーのウコール)(井の大人川/ヰのウシガーのコカコーラ商標)(社長 ウイリアム E. マチェットの刻銘)井戸に向かって左側にはウコール/香炉が設置されており、こちらも井戸に拝する場となっています。戦前は半月状に切石で縁取られた水溜めから湧き水を汲んでいましたが、戦後の1959年(昭和34)にコンクリート製のタンクに改修され蛇口から水が出るようになりました。この時「井の大人川/ヰのウシガー」の改修工事の費用を寄付した人物の名前が現在もタンクに刻まれています。総工費用は480ドル53セント(約17万3,000円/当時1ドル=360円)と記録が残されています。井戸のタンクには『Coca Cola』の標識ロゴが彫られており、その下には『社長 ウイリアム E. マチェット』と記されています。ウイリアム エドワード マチェット氏は当時「沖縄ソフトドリンクス」の社長を務めており、この会社は1968年(昭和43)に沖縄コカコーラボトリング株式会社として生まれ変わりました。「井の大人川/ヰのウシガー」は長い歴史を経て、現在も変わらず豊富な水が湧き出ているのです。
2022.07.12
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(前田の権現)沖縄本島中南部の浦添市「前田(まえだ)集落」の西部に「前田権現」と呼ばれる拝所があります。「キッチャキ石」と呼ばれる霊石を権現として祀られ、旅の安全や家内安全が祈願される拝所として人々に崇められています。「キッチャキ石」は「つまずき石」を意味する霊石で、四方をコンクリートで囲い正面に2箇所の覗き穴が設けられた祠の内部に「キッチャキ石」が祀られています。「前田権現」の祠には2つの石造りウコール(香炉)が設置されており、ヒラウコー(沖縄線香)と共に小さな霊石も供えられています。祠に向かって右側には中型の霊石も数体祀られており「前田権現」に於ける沖縄の霊石信仰の文化が現在も大切に継承されています。(前田権現/向かって左側の灯籠)(前田権現/祀られるウコールと霊石)(前田権現/向かって右側の灯籠)「前田権現」の祠には2基の灯籠が建立されており、左側の灯籠の3面にはそれぞれ「奉寄進」「嘉利二拾 庚戌 吉日」「阿氏 佐久田親雲上守祥」と彫られています。「阿氏/あうじ」とは琉球三国時代(南山・中山・北山)の南山王国の王族の血筋であり「佐久田」は前田集落に多く見られる姓です。さらに「親雲上/ペーチン」とは琉球士族の事で、その中でも地頭職という行政区域の領主を務めた士族は「親雲上/ペークミー」と呼ばれて区別されていました。「前田権現」には次のような伝承が残されています。『その昔、首里を往来する人々がこの地を通るたびにキッチャキ(つまずく)する石がありました。いくら片付けても石は元の場所に戻り、再び人々がつまずくので「キッチャキ石」と呼ばれるようになりました。(前田権現/向かって左側の灯籠)(前田権現/古井戸)(ハンタタイガー)そんな時、ある役人が使者として中国に赴く事になり「もしキッチャキ石の神様が権(かり)の姿であるならば、役目をきちんと果たし、何事もなく無事に帰国できるという私の願いをきっと叶えて下さるに違いない」と一心に祈りを捧げました。その後、役人は中国で役目を果たし、無事に沖縄に帰る事が出来たのです。』以来「キッチャキ石」は権現として人々が崇拝するようになり、古老によるとこれが「前田権現」の起源となり今も語り継がれています。「前田権現」には古い井戸があり権現の地から湧き出る水として住民に崇められています。井戸には古い石造りのウコール(香炉)と霊石が祀られています。「前田権現」の西側には「ハンタタイガー」と呼ばれる井戸があり「前田権現」の丘陵の地下を通る水源から湧き出ていたと考えられます。(トゥンチガー)(トゥンチガー向かいのヒヌカン/火の神)(トゥンチガー向かいのヒヌカン/火の神祠内部)「前田権現」から南東に60メートル程の場所に「トゥンチガー」と呼ばれる井戸跡があります。この井戸の北側には1基のウコール(香炉)と1体の霊石と思われる石が祀られています。「トゥンチ/殿内」はドゥンチとも言われ、脇地頭以上の家柄や親方(ウィーカタ)及び士族の家柄の屋敷を意味します。「トゥンチガー」はその屋敷で使われていた井戸の事で、そこから南側に道を挟んだ場所にある古い「ヒヌカン/火の神」は、かつてこの地に建てられていた「トゥンチ/殿内」の敷地に祀られていた「ヒヌカン/火の神」であると考えられます。北側に向けて造られた「ヒヌカン/火の神」の祠は3つの琉球石灰岩を組んで造られており、祠内部には古いウコール(香炉)と霊石が祀られています。(ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川)(ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川の拝所)「トゥンチガー」から東側に150メートル程の場所に「ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川」と呼ばれる古井戸があります。屋号「ナカミーヤー/仲新屋」の屋敷前にあった井戸であると考えられ、井戸の北側に向けて霊石が祀られており古い石造りのウコール(香炉)が設置されています。比較的に井戸の敷地が広いため、水量が豊富で様々な用途に使用されていたと考えられます。沖縄の屋号は「ヤーンナー」と呼ばれ、家の方位、位置、地理、家主の職業、本家か分家、兄弟の何番目など様々な事柄や特徴に因んで名付けられました。「ナカミーヤー/仲新屋」は屋号「ミーヤー/新屋」の一つの呼び名で、他にも「ミーヤーグヮー/新屋小・イリミーヤー/西新屋・ウシミーヤー/牛新屋・メーミーヤーグヮー/前新屋小」など多種に渡ります。(石川門中/川端の拝所)(石川門中/川端の仏壇)(石川門中/川端の位牌/ウチナーイフェー)(石川門中/川端のヒヌカン/火の神)「ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川」から東に20メートル程の場所に「石川門中/川端の拝所」が建てられています。「石川門中/川端」と記された表札の建物の内部には仏壇があり3基のウコール(香炉)が設置され、それぞれに花瓶、酒椀、水椀が供えられています。向かって一番左端には「石川門中/川端の位牌」が祀られており、中央に『石川家先累代之 霊位』右上から『自得宗寿信士/釋浄徳信士/木覚道全信士』右下から『徳室妙寿信女/貞室豊雲信女』と名前入れされています。沖縄の位牌は「ウチナーイフェー」と呼ばれ、位牌札は上段が男性で下段が女性と決められています。仏壇に向かって左側には「石川門中/川端のヒヌカン/火の神」が祀られ、石造りウコール(香炉)に花瓶、酒椀、水椀が供えられています。(カーバタガー/川端井戸)(瑞穂の泉の石碑)(カーバタガー/川端井戸のウコール)「石川門中/川端の拝所」敷地の南側に面して「カーバタガー/川端井戸」があります。この井戸はこの土地に昔から住んでいた「川端家」の屋敷で使われていた井戸で、隣接する拝所はその後「旧姓川端の石川門中」として受け継がれたウガンジュであると考えられます。円形コンクリートの蓋が施された井戸には「瑞穂の泉」と彫られた石碑が立っており「昭和十八年四月二十二日改修」とも記されています。さらに、井戸の北側には石造りの古いウコール(香炉)が設置されています。「前田集落」に点在する井戸のウコール(香炉)はいずれも北側を向いており、その北側の先には「舜天王・英祖王・察度王」の3王朝が10代に渡り居住した「浦添グスク」の丘陵が構えています。「前田集落」では井戸からの水の恵みを王様からの恵みと重ね合わせて敬意を込めて拝していたと思われます。
2022.07.07
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