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「先生は嫌いだ。」と騒ぎ出した子がいます。ある児童館で実験教室をやっていた最後の頃です。それまで積極的に参加していたのに、何があったんだろう?一年生の子です。実は、数分前に、「先生、意味がわかりません。」と手をあげて質問していたのです。それに私は応えていませんでした。私にも言い分があります。他の子はみんなわかっているのです。周りの子のやっていることを見れば、わかるはずです。何より、佳境に入っており、忙しいのです。ヘロヘロです。その子のために、流れを壊したくありません。でも、この対応は、私の完全なミスでした。全体の流れを大切にすることは、もちろん大切です。しかし、一人の子の魂を傷つけることは、世界を失うに等しいのです。でも、このことは、もちろん私もわかっていました。なぜ、臨機応変に対応できなかったのでしょう。それは、体力です。脳ミソの体力です。子どもたちのためにも、体力強化に努めるぞ!
2016.10.29
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この過去の歴史上の地震の記録を見てあなたはどう思いますか?863年 越中・越後地震869年 陸奥沖海溝地震869年 肥後(熊本)地震880年 出雲地震887年 南海トラフ地震2007年 中越沖地震2011年 東日本大震災2016年 熊本地震2016年 鳥取地震これ完全に流れが南海トラフ地震ですよね。しかし、これって、ひっかけの典型的なパターンとも読み取れます。浮足立たないように、気を付けなくてはいけません。だって、上記の地震以外にも、いろんな地震のデータが隠れているかもしれないじゃないですか。また、9世紀と21世紀の間に別の流れが組み込まれているかもしれません。とにかく、これで決定的な証拠とは言えません。しかし、相当、黒っぽい灰色であることは間違いありません。南海トラフの被害想定地域の方々は、いよいよ気合いを入れて準備をすすめられるべきでしょう。また、さらに気がかりなことは、富士山の爆発です。これも歴史的にパターンがありそうです。オリンピックの準備をしていて本当にいいんだろうか?
2016.10.25
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3・11の原発事故はもちろん、最近のオリンピック施設問題にしても、世の中は裸の王様とそっくりだなあ、と思わされます。アンデルセンの童話ですから、あらすじは、ご存知でしょうが、ウィキペディアからのコピペでまとめておきます。新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来る。彼らは何と、馬鹿や自分にふさわしくない仕事をしている者には見えない不思議な布地を織る事が出来るという。王様は大喜びで注文する。仕事場に出来栄えを見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えない。王様はうろたえるが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかない。家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒める。王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨む。見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、その中の小さな子供の一人が、「王様は裸だよ!」と叫んだ。ついにみなが「王様は裸だ」と叫ぶなか王様一行はただただパレードを続けた。 ここで、重要だと思うのが、最後の最後、「それでもパレードは続けられた」、ということです。「真実が明らかになった後も、虚偽に基づいた計画がすぐに止まるとは限らない」。これは「純真無垢なものだけが、真実を公表できる」という以上の教訓ではありませんか。政治活動に限らず、科学技術における原子力政策。そして、大規模な無駄遣いが目に見えている再開発と枚挙にいとまがありません。虚偽の夢から覚めるには、ある意味、カルト宗教の洗脳を解くくらいの覚悟が必要です。そして、純真無垢な少年の代わりになるのが、私は数学だと思っています。数学は自然から必然的に発見されたものではありません。人間の脳みその創作物です。でも、その人間の脳みそも、そもそも自然の一種ですから、自然科学であると言えます。そして、人間は、この世界を認識するにあたって、様々なモデルを作ってきました。それは、今から思えば、バカげたモデルも多くありました。そのモデルの欠陥を指摘したり、証明したりして、より精度の高いモデルを作ってきました。その道具となったのが数学です。数学なんて役に立たないという学生は後を絶ちません。実際、大学入学に、数学を使わないところが増えてきています。理系学部ですら。ところが、社会に出てから、マーケティング、商品開発、経営、人事評価など数学がモノを言う場面に遭遇するのです。儲けることに必要なだけでなく、裸の王様の間違いをいち早く指摘するためにも、そして、大勢のアホな観衆と一緒にならないためにも、数学は身につけておくべきだと思います。
2016.10.20
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数学の微積分で出てくるのが、dx/dy の記号。これって、分数のようですよね。しかし、高校ではこれを、ひとつの文字のように扱って、分離したり、逆数にしたりしては、「いけません。」ということになっています。あくまで、微分や積分を表す記号として、ペアで使わなければならないことになってます。しかし、大学では、当然のように、単独で使ってもいいことになっています。なぜ?これは、高校では、定義が教えてられないからです。さらには、それを四則演算で使ってもいいとの証明が教えてられないからです。しかし、あきらかに、四則演算として使った方が、すごく便利です。特に、数3の勉強では、これを使わないと、ギブスをはめられたようなものです。どうして教えないのだろう?深い意味はあるのだろうが、学生を信じていない気がします。同じようなことが、中学数学の一次関数の求め方と、高校数学での一次関数の求め方に、如実に現れます。高校では、比例直線をベースにして、それを平行移動して求める方法を指導されます。そして、その方が圧倒的にわかりやすいし、計算も簡単です。ところが、中学数学では、代入方法を使って、求める係数を計算するのです。こちらは、「中学生は使ってはいけない。」というものです。たしかに、上級生は、下級生よりも深いところから理解することができるでしょう。しかし、それで、学んだり、使ったりしてはいけないと制限を設けることは一種の人権侵害にも思えてきます。英語でも、使用の制限こそありませんが、解説が深いところからなされているものが、すごく少ないのが現状です。つまり、ネイティブの感覚は教えられないで、表面的な解説だけを暗記します。生徒によっては、解説に差をつけることも、もちろん必要でしょうが、そこは、現場の先生にお任せすればいいのではないでしょうか?
2016.10.18
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家庭教師として、英語を教えていて、ぶつかった問題です。英文法の参考書には、「時・条件を表す副詞節では、未来の内容をWILLなど ではなく 現在形であらわす」となっています。ところが、実際には、WILLも、BE GOING TO も使われているのです。参考書が間違っているのでしょうか?結論から言うと、解説が間違っているのです。または、不十分なのです。そもそも、ネイティブは、文法なんて規則は知りません。その時の自然なイメージを伝えようとしているだけです。この場合の「時をあらわす副詞節では…」という規則っぽいものは、ある出来事が起こったつもりで話していると自然に出てくる表現だというだけです。当人のイメージの流れをこそ理解してやるべきです。現実の時間の流れがどうのこうのではないのです。「心の中」で、そうした出来事が起こっている時点に身をおいている、だから現在形が使われているということに過ぎないのです。だから、IF以下の文章で、予測だの、意図を入れたいのなら、堂々と WILLやBE GOING TOが使われるのです。過去形を使うか、現在完了を使うかも、心理的な違いが原因です。そのイメージの違いを学ばずに、文法として暗記をすることは、効率が悪いということと、不正確な解釈という二重の間違いを引き起こします。イメージと言えば、数学は、まさにイメージの戦いですから、解釈の間違いイコール 致命的な間違いになります。それで、数学ではイメージのズレが起きないように、専門の数学語が開発されてきました。だから、本来、数学記号は、とても親切なものなのです。実際、さもない内容の問題を、美辞修飾を重ねて、長文問題にして出すと極端に正解率が低くなるのは常識です。結局、何を言っているのか、わたしイメージでつかむ練習こそが英語も数学も上達のコツであると思います。細かい規則や解法を丸暗記することにエネルギーを使っている人を見かけますが、私には、数学をバカにしているとしか思えません。未知なるものに出会ったときに、対処する知恵を身につけるために学問はしているのです。教科書で覚えた英語しか使えない人は、英語を覚えたと言えるでしょうか?気持ちを伝えるには、どういう表現を使ったらいいのか、どんなイメージを表現するべきかそれを学ばなくては、外人に愛や「おもてなし」を伝えられないでしょう。未曾有の災害があったとき、責任者の言い訳に、「はじめてだから」「経験がないから」という言葉を聞きますが、これなんか、自分のバカさ加減を表現しているようなものです。本質をつかみましょう。お互いに。
2016.10.14
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子どもたちと、将来有望な職業について、話し合います。私のアドバイスは、将来、人工知能に職を奪われてしまう職種は、避けようということです。それは何でしょうか?人工知能やロボットに負けてしまうこととは。大雑把に言って、職人技は、ほとんどコピーされるか、もっと性能の良い技に取って代わられるでしょう。また、知的な仕事でも、分析的で、アルゴリズムを記録できるようなものも、奪われるでしょう。その意味で、週刊誌にも書いてありましたが、銀行員の仕事も、風前の灯です。普通の創造的でない銀行員の仕事です。もちろん体力勝負のものは、当然です。では、何が人間ならではのものでしょう。私は、イメージを作るという仕事だと思います。そして、未来を設計するというのも、人間のイメージが土台になっているとすれば、様々な可能性のある未来から、望ましい未来を選択し、それをアリアリとイメージすること。これこそが、人間の誇れる仕事だと思います。その意味で、入学試験に総合問題が流行していますが、データの読み取りや、優等生的な作文が、求められていますが、もう一歩も二歩も、踏み込まなくては、未来の人材は育たないと思います。とにかく必須なのは、自由です。考える自由です。
2016.10.11
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科学実験教室は、ほんの1時間半とか2時間のショートドラマです。しかし、その中には、子どもの成長していく姿が詰め込まれています。最初は、ヌルヌルして手でさわれなかったスライムも、講座の後半では、さまざまなものを、混ぜ込んで、新しいスライムを作り出そうと、実験に没頭します。最近やっている、電子レンジに入れてはいけないものを入れる電波の実験でも、最初は、こわがって逃げる姿勢だったのに、(逃げるのもあくまで正しい判断ですが)怖がりながらも、新しいモノを投入して、次をみてやろうという態度に変わっていきます。ほんのちょっとの変化かもしれませんが、私は彼らにとって、人生というわけのわからないリスクの世界に向き合うにあたって、大きな転機になっていると思います。現実の人生においては、子どもはゆっくり変化しながら成長していくものです。三年経ってみたら、「この頃しっかりしてきたねえ」ということはあるでしょう。毎日一緒に暮らしている親や先生には、なかなか認識しにくい微妙な変化を、科学の探検話は短いストーリーの中に、明確な決断のドラマとして、子どもたちを、新しい世界へと誘っていると思います。科学は勉強の一環として、何か意味があるに違いないと思われがちです。確かにそういう側面もありますが、子どもにとっては、自分が主人公の冒険物語として、成長する機会なのだと思っています。
2016.10.07
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昔話は、科学的な思考とは、たしかい無縁です。しかし、子どもの思考にフィットするという意味では、知恵の宝庫だと思います。昨日は、むかしばなしは、何度も繰り返すということを書きましたが、それと同様な法則として、「ものごとを極端にして提示する」という法則についても注目したいと思います。「白雪姫」で、女王は鏡に向かい、「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰?」と尋ねます。すると鏡は「女王さま、この世で一番美しいのはあなたです。けれども白雪姫はあなたより千倍も美しい」と答えます。この国で一番美しいというだけでも極端なのに、昔話は「千倍も美しい」とさらに極端化することを好むのです。このとき、「千倍」と言っていることにも注目してください。八四六倍などという具体的な複雑な数はけっして言いません。千倍という丸い数を言うことで、くっきりした印象を与えています。本来の科学実験なら、与えられた条件はひとつひとつ違います。複雑な要素がからみあっています。しかし、子どもたちに提示するときは、単純化をしなければなりません。注目する要素を二つにしぼらなければなりません。そして、その違いを極端にしてみせることによって、子どもたちの頭に入ります。千倍という言い方は、印象的な表現なのです。ものすごく美しいことを示す抽象的表現です。八四六倍と言われると具体的ですが、子どもたちの理解には、抽象性ということは、大切な性質なのです。ところで昔話は、「千倍」などと極端に言いますが、どう美しいのかという、美しさの中身はひとことも言っていません。ひとことも言われていないから、昔語はいつまで経っても新しいのです。もし、グリム童話が当時のドイツのファッションに従って、まゆ毛がどうだとか、髪型はどうだとか書いていたら、二〇〇年経った今読むと古くさくてしょうがないでしょう。また、ドイツ以外の国の子どもが読んだら興味をもたないでしょう。現実的でなく、具体的でないからこそ、どこの国の子どもでも、自分なりに想像できるのです。 簡単にまとめると 極端に語るが、細かい中身は抜いて語る。これが昔語の長寿の秘密です。と同時に、私たちの子ども向けの科学実験でも、重要な意義があるように思われます。子どもは話を聞くとき、自分で想像しなければなりません。逆に、子どもに話をするときは、子どもの頭の中に想像力を要求するべきなのです。想像力は、生きていく上での基本的な力です。学力も想像力に支えられて成り立ちます。社会で生きていくときにも、想像力、空想力が必要です。空想力が刺激される話はその意味で、子どもたちに生きていく基本的な力を与えてくれると言えます。
2016.10.05
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実は、科学実験教室で意識していることがあります。それは、むかしばなしの世界です。科学実験と昔話って、似つかわしくないと思われるかもしれません。しかし、ちょっと聞いてください。日頃、私が意識していることは、科学的に間違ったことを言っていないか?もありますし、安全かどうか? 別な場所で、子どもたちがマネしても危険はないかどうか?も、もちろんあります。でも何といっても、子どもたちの集中力を引き出せるか?子どもたちを熱中させられるか?ワクワクのエンターテイメントになっているか?が一番です。疑問に思っていることがあります。「これは子どもたちに受けるだろう」、と自信をもって見せても受けないことがあるのです。逆に、大したことないことなんだけど、あとあとまでも、感想を言ってくれることもつまり記憶にしっかり定着していることもあります。この差は何だろう?と疑問に思っていました。この疑問が最近、解けてきました。それが、むかしばなし です。子どもは、新しいこと、びっくりすることに出会うのを好むと、思い込んでいませんか?私もそう思っていました。でも、子どもはもう知っていることに出会うのが好きなのです。よく知っている絵本を何回も読んだり、よく知っているお話を、また聞かせてと言います。昔語は子どものそういう欲求をよく知っていて、それをきちんと満たしてくれます。もちろん、新しい発見がなければ、意味がないのですが、子どもの脳みそに働きかけるには、リズムが必要なのです。昔語は、すじの流れのある物語ですから、物語としてのリズムがあります。これが重要だと思うのです。そして同じ場面は同じ言葉で語るのです。しかも3回繰り返されます。グリム童話の「白雪姫」では、白雪姫は女王によって一度目はひもで、二度目は毒のくしで、三度目は毒のりんごで最後には殺されます。三回の繰り返しが、ほとんど同じ言葉で語られているのですが、よく読むと、三回目が一番長く語られていることがわかります。そして、一番重要なのも三回目であることは明らかです。なぜなら、りんごで殺されて、生き返らなかったからこそ、王子との結婚が成就したのですから 。 そうすると、ここにストーリーとしてのリズムが潜んでいることがわかります。それは、タン、タン、タンという、三回目にアクセントのあるリズムです。こういうリズムがあることがわかると、可能性はうんと広がります。石を前に投げるとき、人間ならば誰でも一、二、三と投げます。予備動作が二つあって、三つ目で投げます。陸上競技の三段跳びを思い起こしてください。ホップ、ステップ、ジャンプと跳ぶとき、ジャンプが一番遠くへ跳び、一番重要です。「白雪姫」のストーリーのリズムと同じであることがわかります。昔話の中で、どうしてこんな形ができたのかといえば、耳で聞くストーリーとして、それが最も心地よかったからでしょう。音楽の場合にも、特定の人が発明したのでなく、このようなリズムが耳で聞いて心地よかったからです。それを敷衍すると、文芸とか音楽という芸術作品が人に与えてくれる心地よさにつながります。ところが、大人が科学の法則を教えようとすると、三回を一回にして、結論だけで終わってしまっているものが多いようです。科学だけではありません。絵本だって、節約しています。白雪姫はりんごで一発必中で死ぬから面白くないのです。シンデレラは一回目の舞踏会で靴をなくしてくる(本当は三回目なのに)。これでは、せっかくの心地よいリズムが消えてしまいます。そればかりか、そこに込められた大切なメッセージも消えてしまうのです。 私は、科学も物語だと思っています。少なくとも子どもたちにとってはそうです。長年、生き延びてきた物語には、ヒントがいっぱいありそうです。しばらく、それをまとめてみようと思います。
2016.10.04
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