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前回の手術の後、形成外科で使った麻酔に対するアナフィラキーショックが起きたため、今回の肝臓手術では、前日にアレルギー検査をしました。生きるための手術で、事故のために命を失っては意味がありません。パッチテストで問題なしとの判断が出ました。いよいよ、手術当日。緊張感よりも、これで、toraの体内から、がんがなくなるという高揚感の方が強かった気がします。朝8時過ぎには手術室へ。娘は学校なので、私一人で待ちました。予想よりも早い時間で、看護師さんが迎えにきてくれました。午後1時にH先生に呼ばれて、手術室の隣でレクチャー。出血量は386ml。かなり少なめの出血です。時間が短かったことも、出血が少なかったことも、H先生の腕の良さのおかげです。toraの体の負担も少なくて済みました。切除した肝臓は約120g。肝臓の表面に何らかのものがあったので、念のため、切除して病理検査に回したとのこと。しかし、腹膜を含め、他の臓器への転移は見られないとのことでした。まず、手術が無事に終わったという安堵感がありました。それ以上に、これで、toraの体からがんがなくなったんだというすがすがしさを実感しました。突如私たち家族を襲ったtoraのがん。余命3か月という過酷な時間を乗り越え、ようやくがんと別れることができました。ここまで来るのに、1年という時間がかかりました。がんのしこりはなくなったものの、目に見えない大きさのがん細胞は、toraの中に残っているでしょう。その細胞が大きなしこりにならないよう、とんどん体外に排出することに専念しよう。毎日毎日の努力の積み重ねが、1年、2年、そして5年へとつながるのだから。ようやく取り戻したtoraのいのち。たった一つの、本当にかけがえのないものであることを実感しました。これまでの人生を、二人で一緒に生き直して行こう。ずっと一緒に歩いて行ける。神様がその時間をプレゼントしてくれたのだから。
2012.04.09
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記録的な大雪も溶け、雪国にもまた暖かな春がやってきました。このブログでも何回か書いてきましたが、春は、toraが旅立つ前、最期の最高の輝きを放った季節です。長くとざされた雪の季節が終わり、明るい日差しの下で咲き誇るさくらを見るたびに、散っていったtoraのいのちの輝きを思い出し、涙なくしてさくらを見ることができませんでした。さくらは、散ることを前提にして咲き誇ります。その散り際が、対照的な花の美しさとの対比で、切なくさせます。でも、さくらは散るけれど、また咲くのです。また咲くことを前提に、いまは散るのです。そう考えれば、さくらの花の切なさは、幾分和らぐ気がします。toraが旅立って、3回目のさくらの季節を、間もなく迎えます。最近、toraに対して、そしてtoraと過ごした時間に対して、さらにtoraが生きた証としての娘に対して、「ありがとう」という気持ちが湧いているのを感じました。toraとの別れという、まさに身を切り裂くようなこころの痛みとともにいた時間、その後に訪れたとても大きな喪失感、そういった重く苦しい悲しみの時間の下で、「ありがとう」という気持ちが芽を出していたのでしょう。また、少しずつ、日記を書き始めます。今年のさくらは、泣かずに楽しみたいと思います。
2012.04.05
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2回目の肝臓手術に向けて入院した日の夜、H先生のレクチャーを受けました。・予定どおり、S3亜区域切除の手術をする。・開腹後の状況を見て、実際の手術の進め方を判断する。 しかし、さしたる問題もないと思っている。・切除したところに、胃が入り込んで、食欲不振になる可能性がある。一通りのレクチャーの後、toraが、5年生存率について質問しました。すると、単純な肝転移の場合は、60~70%だが、toraのような多発性肝腫瘍の場合には、10%程度になる。しかし、その数字は、toraのような治療法が確立されていない時代のデータであって、参考にはならない。toraの場合には、何%などということを考える必要がないくらい良い状況だと思う。普通の患者なら、ここまで回復しないし、ここまでたどり着く前に副作用に耐えきれず、断念してしまう。この生存率のデータには、そういった「手術までたどり着けない人」の数も含まれている。がん患者は、手術して取り切った後も、なかなか気分的にはスッキリしないまま過ごさなければならないだろうが、今後は、外来でCTを取って、少しずつ自信をつけていけばいい。という説明でした。なんとなく、今回の手術で切除してしまえば、あとは心配いらないといった風のニュアンスのレクチャーでした。いよいよ、toraの体から、がんがなくなる。そう考えただけで、とてつもない恐怖感から解放されるような気分でした。
2011.12.16
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toraを失ってから、2年5か月になろうとしています。今、自分が生きている。生活しているという現実とは別に、自分の気持ちの一部が、まだその当時のままの場所に残っていて、それがとても切なく感じる時があります。toraのこと、ホントに大好きだったなぁ。toraと一緒にいられることが、誇りだったなぁ。何もしなくても、楽しい時間だったなぁ。しかられてばかりいたけど、それでも笑えたなぁ。toraが作ってきれたごはん、おいしかったなぁ。家にいてくれるだけで、うれしかったなぁ。一緒の家族でいられることに、感謝していたなぁ。4歳年上だったtoraと自分の年齢が近づいています。いつも先を歩いて、追いつくことができなかった。何を言っても、結局かなわない相手だったtoraのことを、最近、とてもかわいらしく、いとしく思えます。たまには声を聴いてみたい。そんな中途半端なことをしない人だとわかっているけれど、たまには、写真の中から出てきてくれてもいいんじゃないかなぁ。
2011.11.09
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2回目の肝臓手術を前にしたCTの検査結果を聞きました。肝臓以外への転移はありません。1回目の手術で切除した部分も含めて、肝臓が再生してきているので、予定していた左葉全体を切除せず、腫瘍部分のみを切除する方が、手術の難易度は上がりますが、toraの負担は少ないとのこと。肝臓は、必要に応じて再生されますが、元々大きな臓器で、予備能力が高いので、使っていない部分が大きいので、100%元通りにならなくても、充分に健康を維持できるそうです。また、1回目の手術以降続けてきたFolfiriが効いていて、手術直後よりも、さらに腫瘍が縮小していました。このまま2回目の手術を行わないで、抗がん剤治療を継続するという選択肢もあるかもしれないが、判断できないとのこと。ただ、ここで手術をして腫瘍を切除してしまえば、これ以降、抗がん剤で苦しむ必要はなくなります。toraのがんの悪性度はわからないけれど、抗がん剤が効きやすいがんであることは間違いない。これほど抗がん剤の効果がある人も珍しく、比較できるデータがない。普通は、大腸チームでの治療で効果が見られす、転移の肝臓チームまで、患者が回ってこない。肝臓に多発性の転移がある状態で、それに抗がん剤がぴったりあうケースも少ないし、肝臓の手術ができる大きさまで、腫瘍が縮小するケースも少ない。その上、手術で取り切れてしまうケースも少ないとのことでした。toraの場合は、かなりのラッキーケースで、この病院には参考にできる過去の症例がなく、他の医療機関の症例を参考に、今後の治療方針を考えていくそうです。今後、もし再発があるとしたら2年以内。それがなければ、5年経過で卒業だそうです。手術で腫瘍さえ切除してしまえば、全身に回っているかもしれないがん細胞を免疫力で抑えて、大きくしなければいいのです。それは、toraに限ったことではなく、普通の人でも同じこと。食事に気を付け、ストレスを取り除いて、健康な毎日を重ねればいい。これほどつらい治療に耐えたのです。さほど難しいことではありません。「生き抜く」という強い信念を持って、日々努力を続ければ、結果は必ずついてきます。toraはこれまで、数々の奇跡を起こしてきました。だから、絶対に、このがんは治せます。toraががんになってから、はじめて、「ああ、これで生きられる!」という実感が湧きました。
2011.10.05
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1回目の手術から2回目の手術までの間にしていたこと。 玄米ごはん、味噌汁、ごま塩 おひるね けんか来る日も来る日も、一日のうち何時間もひるねをして、あとは家族みんなでけんかばかりしていました。なぜそんな時間の過ごし方ばかりしていたのでしょう。今となっては取り返すことのできない家族3人の時間。でも、必死に毎日を生きていたtoraであっても、そうして生きることが、精一杯だったのでしょう。抗がん剤治療を経験したことのない私には共有することができませんが、使用限界の10回までFolfoxをやり続けたのですから、普通の精神力ではありません。その精神力をもってしても、もう穏やかに日々を過ごすだけの安定を保てないほど、抗がん剤はtoraの精神を蝕んだのです。家族で一緒にいるために、体を張って耐えたつらい治療のせいで、その家族といる大切な時間を笑って過ごすことができない。それだけの精神的余裕を失ってしまっていました。いったい何のための抗がん剤治療なのでしょう。「生きるため」、そう医師は言うでしょう。しかし、医師には、患者の体の中のがん細胞一つ一つは見えても、その総体としての患者という人間は見えていないのではないでしょうか?がん細胞をたたくことに執着して、患者のつらさなど見えない。あるいは、見えていたとしても、それで生きられるのだから、我慢するしかないだろう。という思いはないでしょうか?こんな過酷な治療に耐えている患者に、次には肺か脳に再発する。などという惨い「予告」をする必要があるのでしょうか?腫瘍マーカーの低下に喜ぶ患者の気持ちに寄り添おうとせず、がんの活動がおさまっているだけで、がんが消えたわけではない。などということをいう必要があるのでしょうか?その言葉を患者が受け止めざるを得ず、それを自分なりに消化して、気持ちの落ち着きを取り戻すまでに、どれほどの時間が必要か。toraは、この間もFolfiriの静注を3回やりました。Folfoxの肝動注と異なり、鎖骨下からの静注では、全身に抗がん剤が回ります。ただ、ただ、ひたすらだるい。だるい上に、そのだるさをどうすることもできないつらさ。見ているのもつらいくらいのだるさに、必死に耐えているtora。それでも、医師を信じて、がんが治ると信じてがんばっていました。
2011.09.30
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toraが少しずつはじめた玄米採食。一番最初に、玄米のパワーについて教えてくれた人は、学生時代に死ぬほどの苦しみがあった病気から、玄米採食で抜け出すことができたと言います。その方に聞いて、手はじめにCI協会の健康相談に行き、キャベツ、ニンジン、カボチャ、タマネギの4種類の野菜のスープを飲ませたところ、大量の尿が出ました。ごくごく身近にありふれた野菜のスープに、こんな秘められたパワーがあることに、新鮮な驚きを感じました。次に、主食となる玄米の入手方法です。玄米は精米していないわけですので、農薬などが使われた米では、その農薬をそのまま体内に入れてしまうことになります。このため良質な無農薬米を探さなければなりません。これも、その人に教えてもらいました。山形県の米どころ庄内平野のどまんなかで、カルガモ農法をしている方を紹介してもらい、さっそく電話。稲作を通した豊穣の舞いを体現している方でした。以後、毎月10キロのカルガモ玄米を取り寄せ、toraに食べさせることができました。そして、今度は、野菜たちの入手です。幸い私たちの住む土地は、農作物に恵まれ、JAの直売所に行けば、収穫したばかりの新鮮な野菜を安価で手に入れることができました。しかし、無農薬の野菜を手に入れたいと考えた私は、その入手方法を探りましたが、なかなか見つかりません。周囲は田んぼと畑がいたるところにある土地なのに、いざ無農薬の野菜を手に入れようとすると、入手先が見つからないのです。このおかしな状況を、私はとても不思議に感じました。逆に東京のような大都市圏の方が、そのような野菜たちに高い付加価値を見出し、流通・販売ルートが確立され、比較的容易に手に入れられると思います。私は、再びその人に教えを乞いました。そして、私の近所で無農薬野菜を宅配している人の紹介を受け、さっそく会いに行きました。その方は、私が子供のころに蛍狩りをした山のふもとに鶏舎を立て、300羽の鶏を放し飼いにしていました。鶏糞を畑にまき、野菜を無農薬栽培し、その屑がまた鶏たちのエサとなるという循環が確立されていました。1週間に1度配達される野菜たちは、こちらで種類や量を注文することはできません。自然のペースで育ったものを、最適な時期に収穫し、自宅まで配達してもらえます。私は、その野菜を手にして、正直驚きました。ところどころに穴が開き、とてもきれいな野菜たちとは言えませんが、色は鮮やかで、葉も厚いし、香りも濃い野菜たちでした。太陽から受けたパワーを、存分に溜め込み、生命力がみなぎっている様子が、その野菜たちからはあふれ出ていました。ああ、この野菜たちならば、toraの体を中庸に戻し、がんを体外に排出してくれるかもしれない。この野菜たちのパワーをもらって、toraの体は再生できるかもしれない。私たちに、toraのがんを治す自然の力の存在を教え、その力を十分に持った玄米や野菜たちの入手方法を教えてくださったのは、人の縁でした。これらの縁がすべてそろったのは、toraのいのちの力だと思いました。まだまだこの人の命は続くんだと、強く確信することができたのです。
2011.09.14
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肝臓の担当となったH先生は、とてもはっきりした人でした。口から出すことは真実のみ。不確かなことは口にしません。腫瘍マーカーの値すら、一喜一憂する意味がないと教えてくれません。地域の中核となる大病院の医師は常に患者の生死と向き合っていますから、そのくらい強い意志がないと、精神的にきついのでしょう。しかし、患者が聞きたいのは、ときにして「真実」ではないかもしれません。toraの一回目の肝臓手術が終わって一息していたころ、H先生は言いました。あなたは他の人たちのようには生きられない。仮に5年経ったとしても、安心はできない。肝臓の次に再発するとしたら肺だろう。いまのうちに、娘さんとよく話をしておいたほうがいい。つらい抗がん剤に耐え、ようやく念願の肝臓手術までたどり着いた患者に、このような「真実」を、この時点で伝える必要があるのでしょうか?H先生流の死生観かもしれませんし、がんというものは、そのとおりどうにもならないものかもしれません。しかし、必死に生きようと願い、耐え、努力している患者に対して、自分の価値観を押し付けるだけの暴挙ではないのでしょうか?医師にしてみれば、ごくごく当たり前のことを口にしたにすぎないでしょう。そこに、なんの躊躇もなく、配慮の必要も感じなかったでしょう。自分の知識と経験から、一般的な症例としては、今後、こういう経過をたどるかもしれない。というのが実際のところでしょう。大病院の医師であればあるほど、自分の見解が正しいと思い込み、それ以外の「真実」など存在しないと思い込んでいます。病院で行う「医療」は、治療の一部であって、すべてではないはずです。医師たちが絶対と考えているものなど、ほんの一部に過ぎません。医師の言うことが、すべてではないのに、自分たちは絶対と信じきっている。それは、単なる「おごり」です。toraの命の限りなど、神様以外知らないのです。今必要なのは、自分が治るというイメージを、自らが持つこと。まだまだやるべきことはたくさんあります。手術を乗り切って、がんの大きな塊が体内からなくなれば、あとは、一つ一つのがん細胞を、体の外に排出していけばいいのです。これからが、がんとの本当の勝負!大丈夫。toraの命は、必ず自分が救ってあげるから。toraと一緒に長生きするんだから。絶対にがんには負けない。
2011.09.09
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8月に原発のS状結腸がんと多発性肝転移が見つかり、余命3か月の宣告。当時、最先端の方法での肝動注Folfoxを、使用限界の10回使用。そして、2ステージオペレーションによる肝切除手術へと進んできました。1回目の手術が終わって、切除した肝臓のスライス画像を見ました。大きな腫瘍の部分は石灰化していて、がんの腫瘍ではないとのことでした。しかしがん細胞が100%ないわけではないので、グレード2との診断です。(グレード3はがん細胞0、グレード0は全く効果なし。)しかし、全体的に脂肪肝になっているとのこと。これは、抗がん剤を使うとみんなそうなるとの説明でした。使用限界の10回まで使い、しかも肝動注で入れたのですから、肝臓のダメージは相当大きかったのでしょう。診断の結果、抗がん剤治療の効果が認められたため、このまま治療を続け、3か月後をめどに、2回目の手術を行います。ただし、Folfoxはこれ以上使用できないため、Folfiriに変えます。Folfiriは、今まで使ってきたオキサリプラチンをCPT11に変えて、5FUと一緒に使うものです。予想される副作用は、下痢とのことでした。オキサリプラチンは神経症状が消えるまで使えないそうです。toraは、指先や足の裏にしびれを感じていました。プラチナ製剤であるオキサリプラチンを使うと、どうしても末端部分に蓄積し、それが神経症状として現れます。toraは、水を使うと、指先に刺さるような痛みを感じていました。また、冬でもないのに、フローリングの床の冷たさが厳しくて、毛糸の厚手の靴下をはかずにいられないようでした。そうこうするうちに、またまた入院の日がやってきました。数日前から、toraは入院したくなくてしたくなくてゴネていました。H先生は、前のS先生とは違って、抗がん剤を強行して、何かの副作用が出たら、それに対処していくという方針でした。はじめてのCPT11を入れた途端、全身に大汗をかきました。心配していたひどい下痢はおきませんでしたが、それでもかなりしんどい様子です。がんばれtora!その後も、特にひどい副作用は出ないまま、1回目のFolfiriは終わりました。H先生によれば、3週間に1回程度のペースで3クールやりたいとのことでした。後でS先生に聞いたところによれば、切った肝臓に1%だけ、生きたがん細胞が残っていたそうです。たった1%であっても生きたがん細胞があれば、残りの肝臓にも生きている可能性があるので、抗がん剤を使わざるを得ないとのことおでした。やはり、1%を0%にするには、玄米採食を徹底するしかない。私はそう思い込みました。
2011.09.07
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一回目の肝臓の手術が終わって,目標にしてきた一つの山を越えた感がありましたが,これで終わりではありません。5年間,再発を押さえ込んで初めて,がんから生還したといえるのです。私の知人に,マクロビオティックに詳しい方がいました。大学生の時,死ぬような苦しみを味わった病気を,マクロビオティックと出会い,生き方を見直すことで治したそうです。この方の勧めで,私は,マクロビオティックの中心である東京のCI協会を尋ね,健康相談を受けました。がんを治すためには,がんの毒を排出しなければなりません。キャベツ,タマネギ,カボチャ,にんじんを細かく刻んで煮て作る4種類の野菜のスープを飲ませなさい。解毒作用があります。これだけで,だいぶ良くなるはずです。3回の食事は,玄米にごま塩か梅干し,それに漬物と味噌汁で充分です。一口ごとに最低30回は噛むようにしてください。唾液に含まれる酵素が食物とよく混じり合って,薬として吸収されます。ということでした。帰ってから早速,4種類の野菜のスープを作ってtoraに飲ませたところ,程なく大量のおしっこが出ました。正直,驚きました。その中に,解毒されたがんが入っているのかどうかは分かりませんが,手応えは感じることができました。マクロビオティックは,穀物と海草類で,食事全体の8割とする食事法です。日本人の歯を分類すると,食物をすりつぶす役割を持つ臼歯が8割で,残りの2割が肉などを引きちぎって食べるための歯なので,この歯の割合に応じて食物を取るのが,一番体にあった摂取法だということです。抗がん剤だけに頼るのは,少し不安があったため,様々な治療法を組み合わせて治したい。そうすれば,抗がん剤で失われた体の機能も,少しずつ回復していけるのではないか。私の想いの出発点はここでした。
2011.07.28
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4時間半にも及ぶ大手術の割には,まだ意識もはっきりしない翌日から,歩行訓練が始まりました。手術したところを片手で押さえ,看護師さんの支えを得ながらの訓練です。そうしないと,体の機能回復が遅れるとはいうものの,少しかわいそうな感じもしました。その後3日間ほどは,意識朦朧の中での歩行訓練の毎日でした。ちょうどゴールデンウィークの最中の手術になりました。この年はどこにも行けなくても,これから何度でも連休はやってくるという希望を持つことができたのも,手術がうまくいったからです。せめて少しでも花咲く季節を感じてほしいと,桜堤の様子を動画に撮って,病室に届けました。携帯の小さい画面でも,そこに咲き誇る桜並木と花吹雪の映像を見て,toraは喜んでいました。4日目には麻酔を抜いたため,痛みが始まりました。レントゲンを撮っても,腹水もなく異常はないとのこと。先生は,あれだけの肝臓を切ったのにこれほど元気なのは奇跡だと言っていました。このころのtoraのお楽しみは,イチゴでした。先生からは,「今日もイチゴですか」と嫌みをいわれるほど,毎日のイチゴを楽しみにしていました。なので私は,来る日も来る日も,地元のイチゴを病室に届けました。回復期間中に結婚記念日を迎えました。朝早くに病室のtoraからもらった「おめでとう」の電話。1年前には思ってもみなかった病室で迎える結婚記念日。かけがえのないたった一人の人のいのちを守るために病室で過ごす結婚記念日は,私にとってとても大切な時間に感じられました。肝臓の手術という大仕事のための入院は,2週間で終わりました。総回診の時に副院長のI先生から,「がんばったのだから,退院したら美味しいものをいっぱいお食べ」と言われ,toraは勝ち誇ったように笑っていました。
2011.07.21
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梅雨が明け,蝉が鳴き始めました。toraは蝉の鳴き声が嫌いだと言っていたことを思い出します。あまりにも一生懸命に鳴き続けるところが嫌だと。7年間土中で過ごしてきて,地上に出て死ぬまでに鳴くことを許されるのはたったの7日間。その間に子孫を残さなければなりません。蝉は精一杯鳴き続け,為すことを為して力尽きて逝きます。toraの一生も,そんな風でした。暑い中を,汗水流して真っ赤なトマトを買いに行っていたtora。娘と外遊びをする時には,暑さも忘れて一緒に遊んでいたtora。病を患ってからも,片時も手を休めることなく,toraが求め続けたのは,私たち家族のしあわせと,娘の健康で健全な成長でした。toraは精一杯生きて,そして力尽きて逝きました。娘の存在は,toraが精一杯生きた証です。toraのDNAは,娘の中にしか存在しません。娘の一生の中にのみ,toraは生き続けることができます。良い生き方も,時に間違った生き方も,すべて母は許して,娘の一部として生き続けます。蝉が鳴く様は,今となっては,toraの生き様を見るようで,私にはとてもつらく感じます。梅雨が明けた空は,どこまでも青く高く続いているようです。きっと,その先から,toraは私たちを見つめてくれているのでしょう。
2011.07.11
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手術の前日は,採血やレクチャーなどで,人の出入りが多い一日でした。麻酔科の先生の説明では,先のアナフラキーショックのことがあるので,今回は硬膜下麻酔ではなく,点滴で行うとのことでした。丁寧な説明に,安心してお任せしました。H先生からは,手術のレクチャーがありました。手術の目処は6時間。肝硬変から移行したがんではないので,難しいものではないと思うが,最終的には開けてみないと分からないとのこと。特に,腹膜播種があった場合には,そのまま塞ぐことになるとの説明でした。腹膜播種はCTに写らないので,開腹してみないと分からず,手術で体力が下がると播種がバッと広がってしまうため,無理はできないとの説明でした。ここまで頑張ってきて,手術の直前になって,手術ができないということがあり得ることを知って,私たちは愕然としました。確かに,あらゆる可能性をカンファレンスしておかなければならないのでしょうが,気分は落ち込む一方です。病室に戻ってからも釈然としないままの私を,toraは私を玄関まで見送ってくれました。手術を明日に控えているのにも関わらず,この優しさに,本当に目頭が熱くなりました。手術当日,朝8:40に手術室へ。ストレッチャーに乗って,手術室の扉の中へ入っていく瞬間まで,私は手を握ったままでした。娘は普通どおりに高校へ登校させましたので,私一人で待機です。特に何事もないまま時間が過ぎていきました。時間が過ぎていくということは,手術が進んでいるということ。腹膜播種がなかったということを示します。午後14:50手術終了の連絡。約4時間半の手術でした。取った肝臓は560グラム。切り取った肝臓の中には,ピンポン球くらいの白い塊がありました。肝臓の腫瘍でした。心配した腹膜播種はなく,腹の中を洗った水の中にもがん細胞はなかったとのことでした。この時知ったのですが,S状結腸の手術の時にはあったそうです。ただ,思ったよりも肝臓の状態が健康でないとのことでした。抗がん剤の影響か,脂肪肝に近いような状態とのことでした。それは,これから玄米菜食療法をやっていけば,元気な肝臓に戻っていくでしょう。これからは,私の頑張り時です。手術当日は,回復室(ナースステーション向かい)に入っているので,付き添い不要とのことでした。私と娘は,夜10時頃までtoraの脇についていましたが,麻酔から覚められないまま,病院を後にしました。がんと向き合いはじめて8ヶ月,今日の手術で,大きな一つの山を越えた達成感がありました。
2011.06.01
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がんが見つかったときには,娘の高校入学を見届けられないだろうという予想でしたが,無事,高校の入学式に立ち会うことができました。そこに集まっている他の親御さんには分からない時間を乗り越えて,私たち3人は,その場に立つことができました。入学式を終えた後は,いよいよ肝臓の手術へ向かいました。CTの結果,肝臓の腫瘍はだいぶ小さくなってきていました。体の1/3くらい切除すれば足りるかもしれないとのS先生のお見立てでした。しかし,大腸チームのS先生とはここでお別れでした。ここからは,肝臓チームのH先生にバトンタッチとなるそうです。助からないだろうと思ってこの病院で診察を受けてから,ここまで治していただいたS先生の手から離れることは,toraにとってはとても不安なようでした。H先生は,いかにも外科医といった理路整然とした説明をする先生でした。あまりにも適確な説明過ぎて,時にはオブラートで包んだ説明をしてほしいと感じることもありましたが,その分裏も表もなく正確な情報を伝えてくださいました。toraの肝臓手術には複数のパターンが示されました。toraの肝臓の腫瘍は,右葉が大きく,その上左葉の一部にもありました。これを1回の手術で切除することもできるそうですが,その分手術が長い時間に及ぶことと,肝臓自体への負担を考えると,今回は大きな右葉の腫瘍だけを切除し,その後数ヶ月かけて右葉の正常肝が大きくなるのを待って再手術し,左葉の腫瘍を切除する2ステージ・オペレーションの方が安全だろうとのことでした。とにかく肝臓の手術までたどり着けば切ってもらえると思ってきた私たちは,ちょっと戸惑いましたが,二人でよく考えた結果,やはり安全をとることにしました。肝臓の手術を前に,toraは不安を抱えきれず,一日中泣いている日がありました。なぜ泣いているのか,自分でも分からない様子で,ただただ泣いていました。手術の不安なのか,これまでの人生を思ってのことなのか,溢れる涙が止まるまで泣くしかないようでした。開発されたばかりの抗がん剤の用い方を使うことができて,副作用にもなんとか耐えることができて,効果が出るのが10人に1人というところを勝ち取って,ここまでこれたtoraは強運の持ち主に違いないのです。きっと手術だってうまくいく。家族3人で,また元どおり笑って暮らせる日がやってくる。だから泣く必要なんてないんだよ。そして,まさに桜が満開になろういう日に,toraは入院しました。
2011.05.23
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春には肝臓の手術と決まった後も,もう少しの間,抗がん剤を使って,できるだけ小さくしておこうということになりました。でも,toraが使っていたオキサリプラチンは10回が限度でしたから,化学療法の変更が必要でした。それまでのfolfoxをやめて,folfiriになりました。手術までの期間を考えると3回やる必要がありました。folfoxの10回の治療を,toraはやり遂げました。抗がん剤のつらさは,本人にしか分からないものでしょう。それでも,1回やっただけで根を上げる人も多い中,限界の10回までを頑張ってくれたtoraは,どんな言葉を使ってもほめきれないと思います。目に見える副作用だけではなく,きっと精神的にも余裕がなくなってきていたはずです。抗がん剤でつらい思いは,患者のこころをも蝕んでいるはずです。同じ病院の心療内科を受診して,薬も服用していましたが,幻聴や悪夢に苦しめられるようにもなっていました。その間にも,娘の高校受験,合格,中学校の卒業式,高校の制服注文などがありました。そういった娘の成長に関する出来事の一つ一つに参加することが,toraにとっての一番のご褒美だったでしょうし,そのためにつらい治療に耐えていたということもあります。そして,「最後の抗がん剤」が終わりました。folfiriになって3回目の治療は,あまりにひどい胃痛のため,耐えきれずに肝動注を断念して,静注に変更されました。それでも,これまで本当によくがんばりました。周りで見守るだけの家族もつらいけど,本人が一番つらかったのは間違いありません。いくら生きるための治療とは言っても,全身の力を振り絞って,本当にいのちを絞り出しているのがよく分かりました。私たち家族は,その姿に感謝しなければなりません。何の罪もない一人の人間が,すべての罪悪への罪を贖罪するかのように苦しみを背負い,愛する家族と一緒にいるために,ただ生きるだけのことに,これほどの対価を支払わねばならないのです。がん患者とその家族にしかわかり得ない事実でした。そして,桜の季節が巡ってきました。今年はいつになく不安でさびしいけれど,みんなでtoraを支えたいと思いました。肝臓の手術が終わった後は,お互いのいのちだけを見つめて,ゆっくり生き直そう,そう誓ったのでした。
2011.05.19
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春の朝の光に包まれていると,toraが旅立ったあの日の朝を思い出します。toraと夫婦として過ごした15年間。そのうち半分は病気との闘いだったけど,しあわせだったし,楽しかった。最期は「ありがとう」と伝える間もなく,一人で旅立って行きました。もう二度と取り返せない時間。二人で歩いてきた道。そして永遠の別れ。濃密だけど短かった人生,でも,確かにtoraはそこにいました。あの時に思いを巡らすと,いまでも涙が溢れます。私一人だけが,toraのいのちが続くと思っていました。toraはきっと自分のいのちの限りを知っていました。そして,私がいつまでも引きずられないようにしたのです。そこまで考えて,何も言わずに逝ったのです。toraはそういう女性でした。私はまだ,toraを越えられず,ここにいます。
2011.04.21
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桜は散り際を知っている。誰かが言いました。桜は,うららかな春の日差しの下で,色鮮やかに咲き誇り,そして一瞬にして散っていきます。だからこそ,その輝きが残像となって,いつまでも人の記憶に残るのでしょう。人々の記憶の中で,桜は一番輝いたまま,いつまでもいつまでも,咲き続けるのです。toraが愛した,桜が咲く季節が,この地にも,まもなくやってきます。私の記憶の桜は,いつもtoraと一緒に輝いています。
2011.04.20
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先の入院の最後に撮ったCTの結果が出ました。肝臓の転移腫瘍は,最初と比べれば60~70%に縮小していて,特に右葉の大きい方は,3~4個に分割されていました。肝臓以外の臓器への転移も認められませんでした。マーカーのCAEも1200ほどあったのが,今は5.8に激減しました。ただ,血小板のダメージが大きく,数値が回復しづらくなってきました。主治医のS先生がおっしゃるには,抗がん剤は6~7回使ったら,その薬は一度休む必要があるとのことでした。肝臓チームの先生方も,そろそろ手術をと勧めているそうです。このため,近くの別の病院で,PET CTを撮ることになりました。その結果,全身に転移が認められなかった場合には,手術に向けて動きましょうということになりました。待ちに待った肝臓の手術なのに,目前にいざ見えてくると,toraは少し不安になったようです。肝臓の手術となれば,普通は何時間にもおよぶ大手術ですから,ナイーブになっても当然です。PETは,がんが増殖する際に糖分を必要とすることを利用したもので,糖分を含んだ反応薬を事前に注射し,体に行き渡ったところで撮影します。反応があるように写っているところには,がんがあるということになります。PETの結果,肝臓の右端に一部反応があるものの,新しい腫瘍ではないとの判断で,それを受けて,以下のような治療方針が立てられました。抗がん剤がよく効いているし,肝動脈からできるだけ離してからの方が,安全性が高い。現段階では,肝臓の2/3くらい切除しなければならないので,できるだけ切除部分を少なくした方が,体の負担も少なくて済むだろう。あと2クール抗がん剤を使って,できる限り腫瘍を小さくしてからではどうか。ただし,マーカーの数値が上昇し始めるか,血小板が3万を下回ったら,その時点で手術に切り替えよう。とのことでした。2週間に1回1週間程度入院して抗がん剤を入れるというペースでは,あと1ヶ月半後に肝臓の手術ということになります。ようやく見えて来た肝臓の手術という大きな目標に,不安よりも希望を持って臨もうとするtoraがいました。桜が咲き誇る4月の手術に向けて,嫌が応にも期待が膨らむのを感じました。
2011.03.31
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toraの副作用は日常的なものになっていました。退院して家にいる間も,全身に倦怠感があり,昼寝をせずにはいられません。何かを食べれば胃が痛くなります。一時はほおもこけて,目の回りもくぼみました。顔のシミも増えましたが,化粧水を良いものにして踏ん張りました。髪の毛は,化学療法をはじめた頃にバッサリ抜けましたが,徐々に回復し,普通どおりの髪の量に戻りました。髪の毛が一番少ないときには帽子をかぶっていましたが,逆境をバネにして,帽子のおしゃれを楽しんでいました。手の指先は,オキサリプラチンの副作用で色素沈着があり,爪も黒っぽくなりました。冬季間,toraを悩ませたのは,手足のしびれでした。オキサリプラチンはプラチナ系の抗がん剤です。プラチナ系は,どうしても末梢神経に支障を来すことが多いようで,冷たいものに触ったときのしびれは,かわいそうなほどでした。特に冷え込みの厳しかった朝などは,フローリングの床の上を歩いただけで,足の指先にしびれが出て辛そうです。靴下を2枚重ねにして,さらにフリースでできた厚手のルームソックスを履いていました。そんな副作用の中,娘の15歳の誕生日を迎えました。ダルさと戦いながら,近所の洋菓子店でバースデーケーキを求め,夕飯はカニスキパーティでした。私たちは,どんなときでも,娘の成長を最優先に考えてきた夫婦です。また一緒に,娘の誕生日を迎えられたことを,神様に感謝しました。何度も何度も書いていますが,昨夏には新しい年を迎えられないかもしれないと言われていたtoraです。娘の成長を見届けられる毎日が,どれだけありがたかったか分かりません。それでも,健康なときに比べれば,半分,いや1/3くらいのことしかしてあげられなかったことでしょう。精一杯に生きるとはどういうことかを目の前で見せてくれる毎日でした。
2011.03.30
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次第に抗がん剤の副作用が強く出るようになってきていました。退院して家にいる間も,常に胃痛があり,一晩下痢で眠れない日もありました。白血球の値も低くなっていて,抗がん剤を使う前に,白血球の値を上げる注射が必要になっていました。1月2回目の抗がん剤の入院で,命の危機に陥ったことがありました。toraは足の指の巻き爪に悩んでいて,抗がん剤の入院にあわせて,同じ病院の形成外科に診てもらっていました。旧知の先生がよくしてくれていたのです。その先生の薦めもあって,今回の入院にあわせて,形成外科の処置も一緒に行うこととなりました。皮膚の中に潜り込みつつある足の指の爪を少しだけ切除し,再発防止のために金属の器具を装着する処置でした。入院した翌日のお昼から,抗がん剤のオキサリプラチンが入りました。その後,午後一番で形成外科に行って,部分麻酔で足の処置をしました。午後2時半頃,病室に戻ったtoraから電話がありました。「なんだか息が苦しい」と。すぐにナースコールするように伝えて,病院に向かおうというところに,toraからもう一度電話が入りました。先生に処置してもらったから,急いで病院に駆けつける必要はないと。夕方,早めに病院に行ってみると,昼間は,呼吸が困難になって,看護師が来て,酸素吸入と点滴で回復したということです。原因は,抗がん剤と形成外科の麻酔が反応して,アレルギー反応が起きて,気道が狭くなったという先生のお話だったそうです。その話を聞いて,私は腑に落ちませんでした。別々の病院での処置であればこのような「事故」も起こりうるでしょう。しかし,そういう間違いを避ける意味でも,今回の入院中に,同じ病院内の診療科移動で処置してもらったのです。そんな状況で,なぜ,麻酔の副作用によるアレルギー反応が起きることになったのでしょう。抗がん剤を使っている患者が,投与中に麻酔を使う場合の相関関係については,普通の病院間よりもコミュニケーションがよくとられていたはずです。今回の事件を踏まえて,私は,たとえ主治医と言っても完全に信頼して任せていては危ないということを学びました。仮に確認不足でアレルギー反応を引き起こして,結果的に死に至らせても,抗がん剤の副作用で死んだとされて,がんによる死として扱われるのだと思います。そこには,遅かれ早かれ助からない人の命だと軽んじるものを感じました。毎年,数多くのがん患者が命を失います。その中には,本当の寿命で亡くなる方がどれほどいるのでしょう。抗がん剤の副作用が強すぎて亡くなる方,抗がん剤によって本来の免疫力を失ってがんに負けてしまう方,今回のような「事故」で亡くなってしまう方。これらが全て,「がんによる死」という一括りで片付けられてしまいます。でも,実際には,がんによる「寿命の終わり」ではないように思えます。「結局助からないのだから」,頭の片隅でそう考えている医師に,患者は救えないと思います。
2011.03.29
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新しい年を迎えることができました。新しい一日,新しい一年。普通に生きていれば,普通にめぐってくることなのに,がん患者とその家族にとって,いのちがつながれていくことの尊さに,あらためて感謝を深くしました。がんが見つかった時,すでに肝臓の大半を腫瘍に覆われ,原発のS状結腸の手術にも耐えられないとの医師の見立てに,新しい年を迎えることができないだろうと言われていたのです。それが,恩師の紹介で良い先生に出会うことができ,原発巣の除去手術を行うことができ,肝臓の腫瘍も最新の治療法で順調に縮小してきていました。その先には,いよいよ肝臓の手術が見えて来たのです。新しい年は,toraの新しいいのちを迎える年のように思えました。前年末にとったCTの結果でも,肝臓によく抗がん剤が行き渡っており,左葉,右葉とも順調に縮小しているとのことでした。ただ,右葉の方がまだ,肝動脈の上に乗っているので,もう少し血管から離れる大きさになるまで,抗がん剤治療を続けましょうということです。腫瘍マーカーも1桁台になってきたとのことでした。新年は,5日からの入院でした。ようやく迎えられた新年でしたが,例年ほどのおせちも作れず,中3の娘は正月受験講座で元日から塾通いで,あまり正月らしさもないままでしたが,家族3人が一緒に楽しく過ごすことができました。そのせいか,今回の入院は,史上最短の3泊4日で終えることができました。退院から1週間後の週末,toraが入院中にテレビで見たレストランに行きたいと言いました。普段はあまり好まないような,ハンバーグドリアを食べたいというのです。すごくいい雰囲気のレストランだったというので,郊外のその店を地図で探しあてて行きました。店に入った瞬間,どことなく醸し出される昭和の雰囲気に,少し怪しさを感じながら,それでもお目当てのハンバーグドリアを食べて,店を出た瞬間,家族3人とも顔を見合わせて,「テレビに騙された~!」と大騒ぎ。家に帰ってからも,寝るまで馬鹿笑いしていました。本当につまらないことでも笑えるのは,誰一人欠けることなく,私たち家族がそこにいられるからです。この頃の私たちには,toraの肝臓手術という輝かしいゴールが見えていました。だから,そこへ向かう一日一日がとてもキラキラして,楽しく価値のあるものとして存在していたのです。
2011.03.28
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「新しい年を迎えられないかもしれない。」がんの告知とともに知らされた,toraの余命でした。まさかがんとは思わず,しかもそれほど進行していたとも知らず,娘の高校受験を控えた時期の,過酷な宣告でした。それからは,がんを抑えることばかりに専念しました。娘にとっては,初めての母の入院でした。抗がん剤の副作用に苦しみ,豊富だった髪の毛は抜け,容姿も変わってしまいました。たった一年で,これほど違うものかと思うくらい,がんというものは,本人も家族をも変えてしまいます。それでも,toraのいのちの灯を慈しみ,家族のしあわせをかみしめつつ暮らしてきました。そうして,その年の暮れを無事迎えることができました。迎えられなかったかもしれない「新しい年」を迎えることができた喜び。そして一つの山を乗り越えた安堵感。実に多くのことを学びました。もっともっと前に学んでいたら,toraをこんな目に遭わせることもなかったかもしれません。本当にごめんね,tora。大晦日には,みんなでカニを食べて大笑いしました。家族は,人と人とで構成されます。一人一人が生きているということの大切さ。一日一日を生き続けることのすばらしさ。誰もが見過ごしていることですが,私たちは気付くことができました。人として,家族として,大きな収穫でした。新しい年は,娘の受験と,toraの肝臓の手術が控えています。でも,この家族なら,きっと大丈夫。我が家の未来は,心配要らない。そう思えました。新しい年が,私たち家族にとって,すばらしい一年になりますように。希望を大きく持って,行く年を送ったのでした。
2011.03.08
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9月の入院,S状結腸の手術から,12月までに6回の抗がん剤治療が行われました。がんが見つかったときには,年を越せないかもしれないと言われるくらいひどい状況でしたから,手術ができて,転移した肝臓の腫瘍も小さくなってきているということは,奇跡のようなことでした。しかし,6回の抗がん剤によって,toraの髪の毛はかなり抜けました。いろいろな形の帽子を買ってきては,喜んでかぶっていました。でも,女性にとって,髪の毛が抜け,皮膚のシミが増え,指先もボロボロになることは,とても辛かったはずです。髪の毛は,一旦ほとんど抜け落ちて,その後,少しずつ生えてきました。つんつんした短い毛は,toraの生命力を象徴しているように思えました。5回目の時には,全身をかきむしるような痛みに襲われました。6回目の時には,かなりの吐き気に襲われ,強めの痛み止めを注射しながら,なんとか耐えました。「苦労をかけてゴメンね」とtoraは言うけれど,toraのいのちが続いて,家族3人が一緒に暮らすための苦労なんだから,それは苦労ではないのです。toraと一緒に暮らすための対価なのだから,それは苦労ではなく努力です。なにより一番頑張っているのは,tora本人なんだから。6回の抗がん剤で,腫瘍マーカーが800から40台に激減しました。CTの結果でも,良い傾向が見られました。春には手術できそうです。もう3人では迎えられないと思っていたクリスマスを迎えることができました。我が家でのクリスマスパーティで,みんなで笑うことができました。楽しいパーティなのに,toraが泣き始めました。「まだ死にたくない。家族みんなで一緒にいたい。」今は生きることだけ考えればいい。死ぬことは考えなくていいんだよ。これからもずっと一緒にいられるから,泣かなくていいんだよ。toraは,私たち家族にとって,なくてはならない人です。神様,どうかtoraのいのちを奪わないでください。クリスマスプレゼントは要りませんから,どうかお願いします。ありふれた毎日,家族で一緒に笑うことができる時間,どれにも感謝することなく暮らしていますが,それがかけがえのない,とても愛おしいものだということに気づかされました。できることならば,この家族がずっと続いてほしい。ただただ,そう願うばかりでした。
2011.02.15
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今日は,娘の20歳のバースディ。toraはこの日が来ることを,どんなにか楽しみにしていたことでしょう。母親にとって,自分のお腹で育んだ娘が20歳の誕生日を迎えるということは,格別の思いがあるはずです。娘が生まれたときから,ホントに小さな成長を見つけては喜び,母子手帳にたくさんの書き込みをしていたtora。娘の成長と向き合う時間を何よりも大切にして,家計が苦しくても,専業主婦になることを選びました。娘が必要としたときのみ手をさしのべて,娘自身の力で成長できるように,一番近くでつかず離れず,娘の心の成長を見守っていました。娘が間違っていないときには,自分自身が盾になって,娘を守ってきました。女の子は,強くしなやかに生きてほしい。toraの口癖でした。ホントは一緒にお祝いしたかったね。一生懸命がんばって育てた宝物の娘だもんね。ずっとずっと成長を見守っていたかったよね。泣いたり笑ったり怒ったりしながら,それでもそばにいたかっただろうね。孫を抱いて,自分が育てるって言ってたもんね。成人式の衣装,とっても似合っていたんだよ。最近は,心配事もとっても多いけどね。出会うべくして出会った娘だから,これからも大切に育てていくよ。娘を産んでくれて,ありがとう。娘と出会わせてくれて,ありがとう。娘の成長を託してくれて,ありがとう。おかげで,こうして,楽しく生きていることができます。生きていたら,もっともっとしてあげたかっただろうに,その半分くらいしか代わってあげられていないだろうけど。そっちから見ててもきっとハラハラしてるだろうけど。これからも,この父娘の成長をそばで暖かく見守っててください。20歳とは言っても,まだまだ何もできない娘です。おかげで,普通の家の父親よりも,ずっと深く,娘の成長に関わらせてもらってます。成人式が無事に済んだから,次の大イベントは結婚式かな?でも,さすがに,これは一人では荷が重いなぁ。孫はお父さんに育ててもらう,なんて言ってるからなぁ。時々,知恵を貸してもらえたら,とってもありがたいです。
2011.02.01
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2ヶ月ぶりに「退院」して,1週間自宅で過ごしたtoraは,また病院に戻りました。toraと一緒に過ごした1週間は,本当に本当に楽しい日々でした。何をするわけでもないし,ケンカもしました。ごくごく普通の毎日。でも毎日が楽しかくてしかたありませんでした。やっぱり,家族が3人そろっているだけで,家の中はパッと明るいし,娘の気持ちも安定していました。そんな1週間が「夢」のように過ぎ,またtoraが病院に戻ると,家の中は元のように静まりかえって,さびしい空間となりました。それでも,なんとしてもtoraには元気になってもらわなきゃダメです。これは,神様が与えた試練と思って,踏ん張るしかありません。再び個室に入院し,抗がん剤前の血液検査。白血球数が6000に上がっていました。1週間家で楽しく過ごしたせいかもしれません。人間の体は単純です。もし,毎日を楽しく暮らすことができるとしたら,人はがんにならないのかもしれません。toraは,人一倍,食べ物に気を配ってきた人です。それでも,大腸がんになってしまいました。心の底に,人には言えない大きな悲しみを抱えていたからです。だから,ここでがんと一緒に,その悲しみを消すことができたとしたら,toraはもう一度,人生を生き直すことができるかもしれません。そうしたら,明るく笑って,楽しいだけの人生を過ごさせてあげたい。これまでの分も,とりかえせるくらい楽しい人生を。抗がん剤は,5回目に入りました。副作用も強く出ています。食欲もなく,怠さも発熱もあります。洗面所で顔を洗って,転んだこともありました。「お父さん,助けて。」と言われても,どうすることもできません。ただ,耐えてもらうしかないという歯がゆさ。むなしいばかりです。機嫌が悪くなって,暴言を吐くこともありました。それでもいいんです。toraは「ごめんなさい」というけれど,生きててくれるだけで充分。こうして一緒に過ごせる時間は,私の生き甲斐でもありました。
2011.01.19
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秋は苦手です。気がつかないでいるうちに,目から温かい水が流れていることがあります。独りでいるのがもの悲しくて。toraがいないという現実が急におそってきて。ああ,人が死ぬということは,どんなに会いたいと思っても会えないということなんだなぁと。もうこの世にいないということなんだなぁと。どんなにどんなに努力しても,実現できないんだなぁと。そんな当たり前のことに今更気づかされます。特に夕暮れが辛い。誰しもが,暖かい灯が点る家の中にこもるこの季節。空がラベンダー色に染まる時間になっても,我が家には灯が点りません。toraは,消してはならない灯でした。何よりも暖かい我が家を醸し出してくれる欠かせない存在でした。それでも,今年は,去年よりまだ暖かいように思います。少しだけ,前に気持ちが向いたのかもしれません。来春の桜は,もっと綺麗に咲きそうです。
2010.12.07
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抗がん剤が3クール終わったところでの効果測定。触診では,S先生が肝臓付近を触って,「肝臓の腫れがないよねぇ」と不思議がっていました。肝臓組織の破壊度合いを見るLDHの値も,当初4000だったのが,200にまで下がっていました。これは,「奇跡」というくらいの状況のようです。CTの結果,腫瘍部分の大きさは,残念ながらあまり変化していませんでした。toraの肝転移は多発性で,肝臓の右葉と左葉の両方に点在していました。今回のCTでは,左葉の方が小さくなってきていたので,もう少し右葉の腫瘍が小さくなったら,右葉を手術で切れるとのことでした。しかし,まだ,腫瘍が門脈近くまであるので,もう少し小さくなってからとのことでした。がん細胞自体に勢いがなくなってきているので,徐々に正常部分が大きくなってくるとのことです。がん細胞が死滅して,正常部分に吸収されるときに,少し熱が出るとのことで,toraの熱の原因はそれのようです。抗がん剤は,10回くらい使うと,副作用が辛くなってくるので,その時点で別の薬に切り替えていくとのことで,タイミングとしては,その頃に肝臓の手術になるようです。8月にがんが分かったときと比べれば,顔色も良くなり,お腹周りの腫れもなくなり,精神的にも随分元気になったように見えました。でも,がんとの戦いは,まだまだ始まったばかりでした。でも,効くか効かないか分からない抗がん剤を使って,ここまで効果が出たのは,たまたまtoraが効きやすい体質だったということがあるようです。だから,希望を持って,がんに向かっていこうと思いました。明るい希望を持つことで,免疫もアップするし,運命だってきっと好転するに違いない。そう思えたのです。CTの結果を聞いた翌日,toraは2ヶ月ぶりに退院しました。抗がん剤の合間に外泊はしていましたが,病室を引き払って,帰宅するのは2ヶ月ぶりでした。気分も高揚します。でも,やはり病室内での生活と違って,家での暮らしは,体力的につらいものがありました。テレビを見たり,お昼寝をしたり,副作用の怠さと戦いながらの日々でした。それでも家族と一緒にいられるしあわせを感じつつ,父娘家庭で行き届かなかった家の掃除や洗濯をしながら,毎日を過ごしました。入院中に食べたかった牡蠣フライやエビフライも食べました。デパートへの買い物もしました。普通の家庭なら,その価値を感じずにただ流れる事柄や時間にとても大きな価値があったことを,今更ながら実感するのでした。
2010.12.03
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S先生から「CTの結果が良くて良かったね」と言ってもらい,放射線科の先生からも「良い状況です」と言われて,toraはうれしそうでした。肝臓を触ったS先生は,「柔らかくなったよねぇ」と意外な様子。予想以上の効果だったようです。抗がん剤治療は2週間に一度行われます。やっと副作用から解放されたと思ったら,もう次の抗がん剤が目の前。ですから,抗がん剤と抗がん剤の合間は,とても大切な休息の時間です。ある日は,海苔の佃煮を所望されました。お昼に届けると,待ちくたびれた様子で給食のおかゆを全部食べました。そして,高層病棟の窓ふき作業の様子を眺めていました。ある日は,朝の5時に起きて,病棟の共通スペースで行われていたラジオ体操に飛び入り参加しました。気分が良いといっても,これはやり過ぎでしょう。娘の中学校の合唱コンクールの日。残念ながら,伴奏をする娘の晴れ舞台は見に行けませんでしたが,私が代わりに撮影したビデオを病室で観て大喜び。そうするうちに,週末を利用して,また外泊の許可が出ました。次の抗がん剤の前に,うちで楽しい時間をとの配慮なのでしょう。朝からにやけてしまりのない顔のtora。お昼休みに行った時には,もう身の回りを片付けて,帰宅の準備を整えていました。でも,私の仕事が終わる7時過ぎの帰宅となりました。いつもどおり,娘と一緒にお風呂に入って,ご機嫌のまま就寝しました。在宅中は,念願だった鮪の山かけ丼やラーメンを食べて,満足そうでした。他の時間は,ゆっくりお昼寝をして過ごします。楽しい時間はあっという間に過ぎて,月曜日には病院に戻らなければなりません。家を出るときは,病院に戻りたくないと駄々をこねましたが,病院に戻ったら,ずっとお昼寝でした。楽しくても,家での普通の生活は疲れるようです。それでもたっぷり休養が取れたので,また抗がん剤を頑張るぞ!と元気が出たようです。そうするうちに,次の抗がん剤の日となりました。前回が大変な副作用に見舞われたので,今回は心配しましたが,38度くらいの発熱ですみました。それは,肝臓が頑張っているための発熱だということでした。苦しい抗がん剤投与が終わった週末,病室で,家族3人でお昼ごはんを食べました。まだ微熱は続いているものの,やっぱりみんなで食べるごはんは美味しいと。そんなtoraをみて思いました。これからは笑って過ごそうと。もし,人生の中での辛いことや悲しいことの量が決まっているのならば,もう充分辛いことに耐えました。これからの人生は,もう笑って過ごしていいよ。辛い人生は,もう充分頑張ってきたから,これからは笑って過ごしていこうね。
2010.10.21
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秋晴れの休日,一人の時間を過ごしていると,どうしてもtoraと一緒だった時間に戻ってしまいます。ようやく街路樹も色づき始めたこの季節,日差しは柔らかく,あたたかな色味を増して,街中の景色が,秋色に染まります。そんな秋色の街の中を,病院に向かっていたあの時間。お昼前に家の仕事をおわして,二人分のお昼ごはんを持って,やわらかな陽の中を車を走らせていました。河原には芋煮やバーベキューをするグループが溢れ,沿道を走る人,犬の散歩をする人,河川敷でのソフトボール。その川に架かる橋まで来ると,toraの病院が見えてきます。運転しながら,上から何番目で左から何番目のあの窓だと目で追い,「もうすぐ着くから待ってなよ」と,声をかけるのが決まりでした。病室に向かう私は,まるで彼女との待ち合わせ場所に向かうかのように,うきうきした気分で向かっていました。病室での時間は,まるで部屋で彼女と過ごす時間のようで,何をするわけでもなく,大きな窓から,色づく山を見たり,遠くの飛行場に着陸する飛行機を眺めたり,窓辺に来る鳥を見たり。病室でのtoraとの時間は,確かに辛い時間もありましたが,その何倍も何倍も,充実した楽しい時間でした。愛する人との死別。まだ,体が理解していないのかもしれません。この秋の光の中で,遠くに見える病室には,まだtoraがいるような気がします。
2010.10.18
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まさに生きるか死ぬかの副作用の峠を越え,toraの回復を待つことになりました。会話もすこしずつできるようになり,部屋の入り口にあった面会制限のプレートも取り外されました。ほとんど動けないほどの衰弱した状態は続いていましたが,夕方,娘の顔を見たら,手を握って,ニコニコしながら,長い時間おしゃべり。それまでにないほどの会話で,やはり娘の力は偉大なり。tora曰く,「だってカワイイんだもん」だって。翌日には,ナースステーションから少し離れた個室に移動。広くて明るくて,とても良い部屋でした。S先生によれば,白血球の値がだいぶ戻って来た。それでも,タンパク質が少ない状態なので,アルブミン製剤を使うとのこと。そうすると,むくみが取れて,体が楽になるらしい。でも,LDHの値が普通の人並みになったと聞いて,みんなで喜びました。LDHは,体の組織が破壊されたときに出る酵素の値。toraの場合は,肝臓の腫瘍のため,数万の値になっていました。それが,数百レベルまでさがったということは,腫瘍の増大が,抗がん剤で抑制されていることを示します。toraのがんに,いまの抗がん剤が効いたということです。その後も,順調に回復し,食欲も出てきました。家からおかずや果物を持っていったり,ときにはラーメンを作って持っていきました。入浴もできるようになりました。一人で入ると,中で転んだりする危険もあったので,私が付き添いで入って,体を洗ってあげるのでした。この頃,とても悲しかったのは,頭を洗ってあげるときに,私が手で髪の毛をすくたびに,手が真っ黒になるほど,髪の毛が抜けたことです。浴室の排水口には,いつも,toraの髪の毛で,テニスボールほどの毛玉ができるほどでした。抗がん剤は,増殖の激しい細胞を狙います。がん細胞は,その最たるものだからです。その次に増殖が激しいのは,髪の毛や,つめ,皮膚などの細胞です。だから,脱毛も激しくなります。効果があるのだから,生きるためだからとは言え,髪の毛がまだらに抜けていくのは,toraにとって厳しいことだったと思います。抗がん剤は,肉体的な苦痛と同じくらい,精神的な苦痛も与えます。そして,化学療法開始後,初めてのCT検査がありました。結果は,肝臓の腫瘍の大きさは,さほど変わっていませんでした。しかし,入院前と比べると,腫瘍の輪郭が黒くハッキリしてきました。S先生によると,腫瘍の輪郭がハッキリしないのは,がんの増殖が激しい状態。ハッキリしてきたのは,がんの増大が抑制されているため。前と比べて,今は,がんの勢いが弱くなっており,肝臓の再生力の方が上回ってきている。このまま行けば,腫瘍の部分も,徐々に正常な肝臓の方に吸収されて,小さくなっていくだろう。そうしたら,手術できるようになる。とのことでした。二人でS先生の説明を聞き,病室に戻ったtoraは,とても晴れやかな顔をしていました。そして言いました。「がんが治るような気がしてきた! お父さんが治してくれそうな気がしてきた!」
2010.10.15
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霞ヶ関への出張の帰り,東京駅まで歩きました。toraがまだ元気だった頃,よく私の出張についてきては,一緒に日比谷公園を歩いたことが思い出されます。toraの最後の入院中にも,日比谷公園の花壇の写真をメールしたら,「この公園を颯爽と闊歩していた頃が懐かしい」と言っていました。日比谷公園内の松本楼というレストランが大のお気に入りで,支配人さんと会話しては,大喜びしていました。私の仕事中は,日比谷から銀座界隈をウィンドーショッピングして,あわや帰りの新幹線に乗り遅れそうになったこともありました。国立新美術館ができたばかりの時で,何度か観に行きました。特にオーストラリアの画家エミリー・ウングワレーの絵画展では,ひときわ感動して,何枚もの複製画を買って帰りました。帰りの新幹線で食べるお弁当は,東京駅地下のグランスタで買う,新宿アカシアのロールキャベツ弁当がお気に入りで,最後に食べたのもここのお弁当でした。日比谷から銀座にかけての界隈には,toraとの思い出が随所に残っています。思い出は,いつまで残るものなのでしょう。toraはいなくなってしまったのに,思い出だけがいまだに鮮明に残っているのが,とてもさびしく,辛いものです。確かに生きていた人がいなくなった後も,一緒に過ごした形跡だけがずっと残ってしまいます。いつしか思い出の量も減ってしまったら,それはそれでさびしいでしょう。ならば,今は,まだ辛いけれど,この辛さを受け入れることにします。人を一人死なせてしまったのですから,その責めを受容しようと思います。どこかに祈って,懺悔して,全てを涙と一緒に流すことができるなら,どんなにか楽なことでしょう。toraを助けてあげることができなかった,一緒にがんに向き合ってあげることができなかったという責めを果たすまでは,いつまでたっても,toraと心を交わすことができないような気がしてなりません。
2010.10.08
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楽しかった外泊から病院に戻ったtoraを待っていたのは,2クール目の抗がん剤でした。抗がん剤の前の採血の結果,白血球数が低いので,抗がん剤と一緒に,白血球の値を上げる薬を使うとのことでした。しかし,肝臓の腫瘍の方の値は上向きになってきたとのこと。待ちに待った朗報でした。前回同様の処方で,2回目の抗がん剤投与が始まりました。2日目の夜には下痢の副作用の症状が出ましたが,S先生に聞くと,抗がん剤の影響なので仕方がないとのことでした。下痢がひどくて夜中もあまり眠れず,意識が朦朧としたまま3日目。下痢が辛くてホームシック気味のtora。4日目,抗がん剤は終わったが,昼から発熱。夜には39.4度。点滴,抗生物質,熱冷ましの処置。5日目,まだ熱が下がらず,4人部屋から個室へ移動。S先生によれば,抗がん剤の副作用でみんなそうなるとのこと。そうは言っても,苦しむtoraを見ながら,手をさすってあげることくらいしかできません。愛しい人をこれほどまで苦しませるのなら,どうして未然に防ぐことができなかったのだろう。ごめんな,tora。もう二度とこんな苦しみにはあわせないから,元気になってください。お願いです。6日目,個室前に「面会制限」の張り紙。マスクをして入室。S先生の説明では,白血球数が上がらないための発熱とのこと。そろそろ上がる時期なのだが,上がらなければクリーンルームに入ることも考えるとのこと。「苦しい,苦しい」とうなるtoraを前にしても,私は何もしてあげられません。神様,toraがこれほど苦しまなければならない罪を犯したのでしょうか?toraは必死に耐えてがんばっています。がんを治してください。7日目,白血球の値が少し改善。夕方から少し熱が下がる。久しぶりに起きて顔を洗い,体を拭いてあげました。8日目,白血球数が上がったとのこと。食欲が戻りました。9日目,ずっと寝っぱなし。衰弱して意識がハッキリせず。それでも,娘の顔を見て,うれしそうにニコニコしていました。10日目,夕方,看護婦さんが大勢来て大騒ぎになったとのこと。本人は記憶がないようでした。この件に関して,病院側からの説明は一切ありませんでした。しかし,何年も経ってから,実はこのとき,一時危篤に近い状態になったようだということが分かりました。私は付き添っていなかったので,もし悪ければ,危うくtoraと会えなくなるところでした。抗がん剤副作用で命を落とすことがあったとしても,それはがんで死亡したことになります。病院側にしてみれば,患者一人のいのちが危険にさらされたことなど,家族にいちいち説明する気がないとのことでしょう。この事実を知ってから,toraのいのちは自分達で守るしかない。病院を心底信じてはダメだと思うようになりました。一週間,高熱と苦しみに耐えて,toraと会話ができませんでした。その間,辛くてさびしくて,今までのことをいろいろ思い出しました。そして,思い出せば思い出すほど,「ありがとう。」という言葉しか出てきません。なんとか助かってほしい。そして,toraと一緒に生きていきたい。その想いだけを,私は何度も何度も確認したのでした。
2010.10.06
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はじめて家族のもとを離れて入院,はじめての手術,そしてもちろんはじめての抗がん剤。toraのがんが見つかってから,とにかく急いで流れてきた毎日。抗がん剤の1クール目が終わってのご褒美は,外泊でした。ほぼ1ヶ月ぶりに我が家に帰って来たtora。午後から翌々日の夜までの外泊許可。初日は,私の作ったサンマの生姜煮をゆっくり食べて,娘と一緒に入浴。気持ちいいと。翌日は,私も娘も普通どおりなので,tora一人で留守番。かなりぐっすりお昼寝。お昼ご飯を食べた時には,ぽやあんとしていましたが,娘が学校から帰るのを待って,午後からはお昼寝をせず。9時過ぎに就寝。3日目は,娘の学校が休みのため,午前中からペタペタ。午後からお昼寝をして,夕飯前に入浴。またしばらく,家のお風呂に入れないからね。夕食後の午後7時,また病院に戻る時間がやってきました。病院に戻りたくなくて,大泣きのtora。それでも,泣く泣く病室に届け,ナースステーションに報告して帰宅する頃には,こちらも涙が止まりません。toraがいるのが普通だった毎日。それが入院することになって,一ヶ月ぶりに戻ったtoraが,病院に戻った後は,楽しい夏休みが終わってしまった気分。家に戻って来たって,動けなくて寝てばかり。会話も特別なものはしなかったけど,toraが家にいるだけで,みんな楽しい。toraの姿を見てるだけでうきうきしました。なにをするにも家族3人一緒。それが一番楽しかった家族を引き離すなんて,がんは残酷です。がんを治すためとは言え,その現実を受け入れることがなかなかできずにいました。しかし,このころはまだ,長いトンネルの先に微かな光が見えました。つらくても悲しくても,みんなであそこまでたどり着けば,また元の生活に戻れるという希望を持つことができました。だから,辛い現実を乗り越えようという気持ちがありました。家族みんなで,toraのがん克服に向かっていたあの時間が,今はとても懐かしく思えます。がん患者は,誰しも絶望のどん底に落ちます。しかし,いつまでも絶望していたら,それはとてももったいないことです。希望を持つだけで,免疫力が上を向くのです。本人がなかなか希望を持てなくても,周りの人々が手を取って,希望に導いてあげれば,本人もその気になります。私の恩師も今,がんの病床にいますが,少しでも早く,希望を見出してほしいと願っています。
2010.10.04
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5年前の秋分の日から,本格的な化学療法が開始されました。まず,右胸のポートから,オキサリプラチンとアイソボリンを30分ほどで全身に入れます。その後,48時間かけて,右足の付け根から,肝動注で5FUを入れます。外国での症例はありましたが,当時,このような用い方は,国内では例がありませんでした。しかし,安全性の上では,特に問題はないとのことで,一番効果があるであろう方法からやってみるとのことでした。そのくらい,toraの肝臓の腫瘍は待ったなしの状態だった訳です。S先生の説明では,抗がん剤が効いて,がんが消滅する人も10%くらいはいるとのこと。宝くじを買うよりも,よほど高確率です。私は,もう一生,宝くじを買わないので,その分の幸運を,toraにまわしてほしいと願いました。オキサリプラチンは,プラチナ系の抗がん剤です。今では,分子標的薬のアービタックスを大腸がん治療の最初から使うようですが,当時は,オキサリプラチンが一番新しい薬でした。プラチナ系の抗がん剤は,末梢神経に異常を来します。toraも回を重ねるうちに,手足の指先にしびれが出るようになりました。最近は,牛車腎気丸という漢方薬を併用することで,そのような末梢神経の副作用を軽減し,抗がん剤を持続的に使えるようになっています。toraのときには,そのような処方はありませんでした。これだけひどい肝腫瘍を抱えているのだから,いのちが続くだけでもいいだろうということだったのかもしれません。抗がん剤治療は,本当に,「効果と副作用のどちらをとりますか?」といったような戦い方です。toraも最後の方は,「生きるために抗がん剤をしているのか,抗がん剤をするために生きているのか,わからない」と言っていました。しかし,余命3ヶ月を抱えていては,選択の余地などなく,まずはいのちが助かるのならばと,飛びついたのでした。1クール目の抗がん剤は,食欲不振と吐き気という,オーソドックスな副作用だけで,思ったよりも楽に終わりました。それでも,初めての抗がん剤が終わって,ホッとしたのでしょう。お昼休みに病室に行った時,toraは私の胸にぺたっと頭をつけてきて,「お父さんと,ずっと生きていたいと思った。」と泣きべそをかきました。ゆっくりでいいから,ずっとずっと一緒に生きていこう。こうなってみると,本当に必要なのは,toraのいのちひとつだから。他のものは,何にもいらないから,いつまでも一緒に生きていこう。これからもずっとずっと,二人の時間を重ねていこう。がんになって,toraは輝きを増していました。必死になって,がんと戦っているtoraは,まぶしいほどの輝きでした。こんなに輝いているのだから,いのちが終わるわけはない。そう言い聞かせました。2日後のS先生の触診では,肝臓が柔らかくなって,張りが小さくなったとのことでした。たった一回しただけで,本当にうれしい話しでした。夕方,病室にお見舞いに行った娘も交えて,久々に家族3人で大笑い。何がおかしいのか分からないくらい大笑いしました。笑うだけで,がんが治るという人もいる。どんどん笑ってがんを治すんだ。toraの化学療法は,全身へのオキサリプラチン+アイソボリンと5FUの肝動注を2週間に1回やり,その間に5FUの肝動注を入れて行われていました。なので,終わったと思えば,2日後にはまた肝動注がやってきます。これで1クールなのです。でも,1クールが終わった後には,ご褒美が待っていました。
2010.09.24
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S状結腸の手術から2日後,まだ術後の痛み止めをしつつ,抗がん剤治療が始まりました。toraが行った化学療法は,FOLFOX6と5FUの肝動注を一緒に行うもので,当時スタートしたばかりの最新治療法でした。恩師の紹介を受けたI先生は,この病院の副院長ですが,大腸がん治療では国内でも有名な方で,東北にいながらにして,厚生労働省の化学療法検討会での最新情報が直接入ってくるパイプをお持ちでした。担当のS先生は,このI副院長と同じチームで,やはり厚生労働省の化学療法検討チームに入っている方なので,まだ始まったばかりのこの治療法を,toraに適用することができました。toraの化学療法は,まず,右足の付け根に設置したポートから肝臓まで通したチューブを使って,抗がん剤の5FUを肝臓に直接入れます。こちらは肝臓だけに入ります。その後,FOLFOX6という方法で,抗がん剤のオキサリプラチンとロイコボリンを,右胸に設置したポートから,静脈に入れます。こちらは,全身に回ります。初回は,右胸のポートから,5FUだけを全身に入れました。これから死ぬまで続く抗がん剤治療のスタートでした。今となってみれば,抗がん剤に頼り切ることが正しい選択だったのか疑問です。私は自分ががんになっても同じ選択はしないと思います。しかし,このときtoraは,原発のS状結腸がんを切除したとは言え,いのちを脅かす肝臓の転移腫瘍は,肝臓の右葉の大半部分を占めていました。私たちは,その腫瘍の増大を一刻も早く押さえることしか考えられなかったのです。ですから,この日,5FUがtoraの体に入った時,私たちはホッとしたのです。まだ,本格的な治療ではなかったのですが,少しでもがん細胞の動きを止める処置が行われたことで,気分的に随分安心しました。抗がん剤は,決して夢の治療法ではありません。がん細胞には効果があるかもしれませんが,これを使うことで失うものも大きいのです。その大きさに,患者もその家族も気づく余裕はないかもしれません。でも,その選択を取ることで,最期の最後までどのようなライフプランを描くのか,せめてそのことだけは,話し合っておいた方が,患者にとっても,看取る家族にとっても,しあわせな選択ができるように思います。
2010.09.17
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9月の中旬,いよいよ入院です。家を出る時はさびしいけれど,帰ってくる時には元気だよ。S先生にお任せすれば,運命なんていくらでも代えられる。奇跡だって起こせる。あきらめずにがんばって,また,元気にこの家に戻っておいで!病室は4人部屋でした。室内は木目調で統一されていて,優しい雰囲気。しかも設計が工夫されていて,4人全員が外光を入れられるようになっていました。入院の手続き後,S先生からの説明があり,CTの結果,肝臓以外への転移は見当たらないとのこと。手術は,麻酔等の処置があるので約3時間,それから,抗がん剤投与用のポートを埋め込む手術もあわせてやるとのことでした。toraは,右足の付け根にポートを設置して,そこから動脈にチューブを通して,肝臓に直接抗がん剤を投与する方法が取られました。こうすることで,肝臓以外に抗がん剤が広がるのを少なくすることができると同時に,肝臓に集中的に投与することができます。「肝動注」という投与法でした。その他に,全身投与用のポートを右胸にもつけました。S先生のお話を聞くまでは,肺や脳にも転移があればと心配でした。そして,手術後の抗がん剤治療についても詳しい説明を受け,次第に安心することができました。夕方には,バスに乗って娘がお見舞いにやってきました。娘にとっても,母親と長期間離れるのははじめてのことでした。このとき娘は中学3年でしたが,心理的な不安はあったでしょう。それでも,思ったよりは元気にしているようでした。翌日は,朝早くから起きて,はじめて娘の弁当を作りました。父親一人とは言っても,それまでtoraが食事を大切にしてきた気持ちを受け継いで,なるべく手のかかったものを作るように心がけました。娘の弁当作りは,それから高校卒業まで続きます。入院3日目,いよいよ手術の日です。頭にネットを被って,足には圧迫タイツをはいて入室を待ちました。その間,二人で何を話していたのでしょう。思い出せないのですが,緊張と不安を払拭するように,手を握りながら,たわいもないことを話していた気がします。14:40入室。手術用のベッドに乗ったtoraに付き添って,医療用エレベーターで手術室へ。手術室のドアの奥に入っていくtoraを見つめながら,がんばれよというしかありませんでした。手術は,4時間弱かかりました。S状結腸の手術は3時間弱だったのですが,胸のポート設置に手間取り,さらに1時間かかったようです。確実にチューブを静脈に刺さないと,血管以外のところに抗がん剤が流れてしまいます。手術後,S先生に呼ばれて,手術室の前室で摘出した部位を見せていただきました。S状結腸の他,大腸付近のリンパ節にも転移が見つかり,一緒に摘出したとのことでした。toraは21:00に回復室に戻って来ました。まだ,意識は朦朧としていましたが,よくがんばってくれた。ありがとうという気持ちでいっぱいでした。しかし,これからが勝負の本番です。toraのいのちを脅かしている肝臓の大きな腫瘍を叩かなければ,未来は見えてこないのです。やっとがんと戦うスタートラインに立った気がしました。
2010.09.09
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入院前に家族3人でディズニーランドへ。S先生の診察を受ける前は,「最後の」家族旅行のつもりで予約しました。3人の家族旅行はもうないと思っていました。toraは全体的にだるそうで,行けるのかどうか,前日まで迷いましたが,なんとか行けました。それでも,食欲はなく,2日目はとうとうtoraをホテルにおいて,娘と二人で出かけるほどでした。それでも,一休みした夕方からは少し元気に。ディズニーシーのユカタングリルで夕食を食べて,「おいしい」と感じることに喜んでいました。toraが元気だと,家族全員が元気になります。ディズニーランドは,それまでも娘の成長の節目節目に遊びに行っていました。東北の人間にとって,ディズニーランド行きは,何年かに一度のビッグイベントなのです。ディズニーランドは,夢と魔法の国です。そこに行けば,誰もが楽しみとしあわせに包まれます。でも,このときばかりは,辛い時間でした。私たち家族の周りの人々は,みんなとても楽しそうなのに,私たちだけが別の空間にいるようでした。楽しいことをしているのに,楽しいと感じないのです。それなのに楽しそうに笑っている人々を疎ましく思いました。しまいには,私は周囲の人々に嫌悪感を感じるほどでした。ついこの間までは,私たちもそちら側にいたのに,何が悪くてこうなってしまったんだろう。がんを患うということは,「普通の人」ではなくなってしまうのかもしれません。すべてのいのちに限りがあるのは当然ですが,がん患者にとっては,その「限り」が,くさりにつながれた重りのように何をしていても拘束します。こんなに辛いディズニーランドなら,もう二度と来ない。あまりにも楽しい場所だから,辛すぎる。と思いました。toraがいなくなったら,遺された私の人生は「余生」。文字通り「残りの人生」になってしまうと感じました。だから,ディズニーシーのゴンドラに乗ったときには,橋の下で神様に「一生で一度のお願い」をしました。toraだけが,私のすべてだったのです。toraがいなくては,世界の何ごとも無意味なのです。toraと一緒にいられることだけがのぞみなのです。また,家族3人で楽しいディズニーランドに来たいと,切に願いました。
2010.08.31
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娘といさかいがありました。19歳の一人娘と私の二人暮らしでは,時々,ぶつかったり,慰め合ったり,励まし合ったり。二人しかいない家族ですから,ストレートに向き合うしかありません。娘は言います。「お父さんは,お母さんと向き合えなかったというけど,お母さんはちゃんとお父さんのことを愛していたのを知っている。お父さんの中から,お母さんのことを消さないでほしい。」消そうと思って消せるような悲しみならば,どんなに楽なのでしょう。時間が経っても,悲しみの大きさは変わりがないように思います。もしこれから先も,この悲しみの大きさが変わらないのであれば,せめて笑うことや楽しいことを増やしたい。そう思って生きてきました。その姿が,娘には母親の痕跡を消そうとしているように見えたのでしょう。このブログに書いてきたように,私はtoraに対して,あたたかい夫,包容力のある夫ではありませんでした。もっとうまく接することができたのではないかと,今は思えますが,本人に対してはできませんでした。それで,toraのいのちが終わりを迎えることになったということも,娘から母親を奪うことになったことも,私に責任があります。そのことは,私がこれから一生抱えていきます。どんな未来が訪れようとも,もう失った人に対して,それを埋める機会は永久に来ないのです。だから,toraに対する償いとして,この悲しみを受容し続けていきます。しかし,先日テレビで,こんなことを耳にしました。「何もなかった人生は,夫婦が噛み合っていなかったということではない。 単調な毎日こそが,夫婦が互いを敬い,大切に紡いできた軌跡なんだ。 こんな夫を遺して逝かなければならなかった妻が一番不安だったことは, 一人では生きていけない夫を,一人遺して逝かなければならなかったこと。 そのことを一番良く知っていたのは,妻だったのだ」と。toraが亡くなる前の2ヶ月間,私たちは病院の病室で二人だけの多くの時間を過ごしました。その多くは,何も語らず,苦しみの中で少しでも眠ることができたtoraをただ眺めるだけの時間でした。私は毎日,職場のお昼休みと夕方から夜にかけて,病院に行きました。何か少しでもtoraのためになることはできないかと。最後の方はさすがに体重が落ちて,精神的にも追い詰められつつありました。toraはそんな私の体を気遣ってくれました。いのちの限りが迫るような毎日,殺伐とした病室の中での時間でしたが,あの日々は,夫婦としていくばかりかこころが通い合っていた時間だったような気がします。toraも同じように感じて逝ってくれたなら,うれしいです。toraが旅立ってから1年2ヶ月が過ぎ,燃えてしまいそうなほど厳しい悲しみではなくなりました。しかし,その分,toraがいない寂しさを生活のここそこで感じる機会が多くなってきました。toraのことを思い出しては,とてもとても寂しく,そしてもう二度と帰ることができないあの時間は,懐かしくもあり,哀しいものでもあります。でも,toraと娘と3人で暮らした時間を思い出して涙ぐむということは,そのくらい愛おしい時間で,とても輝いた日々だったということに,そんな当たり前の事に,ふと思い当たりました。娘が言うとおり,夫婦そして家族3人がこころの通い合った時間が,確かにそこにはあったのです。ただただ悲しくて泣いている時間はもう過ぎました。今の涙は,かけがえのない時間を取り戻せない悲しさの涙です。その悲しみの大きさは,toraと一緒に生きていたあの時間が放っているキラキラとした輝きと表裏になっていることに,今更ながら気づきました。先日訪れた京都東山で,古町商店街のアーケードを歩いている時,古めかしい音楽とともに,3人でそこを歩いた時間にトリップしたようなとても不思議な感覚に包まれました。そこには,私とtoraが3歳くらいの娘を間にして,家族3人手をつないで歩いていました。その私たち3人は,とても温かくて慈しい光に包まれていました。あの情景はまぼろしではなく,きっと私たち家族のしあわせだった時間を3人の姿にして見せてくれたんだと思います。toraと過ごした私たちは,確かにしあわせでした。
2010.08.25
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クリニックからの紹介状を持って,いよいよ県立病院の診察を受けました。担当はS先生となりました。恩師からの紹介状は,副院長のI先生あてでしたが,同じ大腸チームのS先生が執刀にあたることとなり,担当医となりました。さすがに大病院なので待ち時間が相当かかりました。S先生は大腸の名医で,「がんを治す名医」という書籍にも名前があがっています。特にこの日は,ストーマ外来の日で,かなりの患者をかかえている日でした。待合室で,緊張とそれまでの検査の日々の疲れから,私の肩にもたれかかるtora。どんな診察の内容でも驚かない。やるべきことは一つ。あきらめないで,がんから逃げたりしないで,精一杯生きること。がんというものがどんなものか,これからtoraがどうなるか,ほとんど知識はないけれど,この人を失うことはできない。やっと,診察の順番がやってきました。診察室に入ると同時に,S先生はイスから立ち上がり,「ど~もお待たせしまして,すみません」とおっしゃいました。その瞬間,ガチガチにこわばっていた私たちの体が,ホワッと柔らかくなるのを感じました。この先生なら,もしかしたら,toraを救ってくれるかもしれない。CTや紹介状の内容を見た先生のお見立てでは,原発のS状結腸の方は,手術できる。肝臓の方は,抗がん剤を使って腫瘍を小さくしてみて,小さくなれば手術できる。とのこと。そして,最後に,「大丈夫,もっと長く生きられますよ。」ここに来るまでは,肝臓の腫瘍が大きすぎて,S状結腸の手術すらできない。間もなく腸閉塞もおきるだろう。そして余命3ヶ月。そんな絶望的な状況で来たのです。それが,S状結腸は手術できるし,toraのいのちを脅かしている肝臓の腫瘍すら手術で取り去れるかもしれないなんて。体がすぅーっと軽くなりました。その後は,大病院にも関わらず,待ちなしで手術・入院の日取りが決まり,手術のためのレントゲン・心電図検査がとんとん拍子に進みました。動けるうちに家族の思い出を作っておこうと,すっかりその気になっていた私たちは,9月上旬にディズニーランドへの旅行を予定していました。それすらも,S先生は,「手術した後は抗がん剤治療で,しばらく外に出れなくなるから,その前に楽しんできてください」と笑っておっしゃいました。8月の最後の日。県立病院から帰る道では,青い空がどこまでも青く,周りの風景がこれまでと別世界のようにすがすがしく感じました。むせぶような暑さすら心地よいのです。「まだまだ,toraのいのちが続くんだ。」そう叫びたい気持ちで一杯,人生最高の一日でした。
2010.08.20
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toraのがんが宣告された時,私はホスピスに入れることを想定していました。そんなある日,偶然に新聞の広告欄で「治すホスピス」という書籍の広告を見つけ,早速書店で入手しました。おそらく世間の多くの人も同じだと思いますが,当時の私にとって,ホスピスは,手の施しようがない患者が行くところであり,終末医療の場という印象でした。それが,「治すホスピス」があるということは,ものすごい衝撃でした。この本では,平田口腔顎顔面外科・腫瘍内科がんヴィレッジ札幌で実践されている治療が紹介されています。以下は,ホームページからの抜粋です。諦めているのは医師だけで,患者や家族は諦められないのです。著者は,そんな諦めきれない患者や家族に対し,「がんはどの段階でも治る可能性がある」と思っています。そんな患者や家族の思いを受け入れる施設として,「がんヴィレッジ」を設立しました。病院とホスピスのちょうど間に位置する,これまでになかった施設です。わかりやすく言うと,「手遅れ」と宣告された患者に対し,緩和医療の考えを取り入れ,そしてさらに積極的な治療をすることで,手遅れを手遅れでなくする施設です。そこで行われる積極的な治療を「re らいふサポート」といいます。http://members.jcom.home.ne.jp/oral-surg/Bookindex14.htmここで行われているのは統合医療です。ごく最小限の西洋医学に,補完代替医療と東洋医学を併せて行います。その基本となるのは,玄米菜食を中心とした食事療法です。私は,玄米がなぜ体に良いのか,そして体を自然の状態に戻すためにどのようなことが必要か,まったくの無知でした。この本に出会って,これまで知らなかった世界が存在することに,驚きを隠せないと同時に,これでtoraのがんを治すことができると心の底から思うことができました。toraのいのちを救う上で,今までにない手段を手に入れることができたのです。本当に本当に,心の底から力が湧いてくるのを感じました。また,ここで行われている機能性食品の一つに「クマ笹エキス」がありました。toraは以前,心因性の気管支ぜんそくに苦しんでいた時期がありました。その時にお世話になった漢方薬局で「クマ笹エキス」を扱っていたことを覚えていました。早速,薬局に行って次第を説明したところ,1枚のコピーをいただきました。そこには,「がんが自然退縮する」と書いてありました。それを書いたのは,NPO法人ガンの患者学研究所代表の川竹文夫氏でした。その記事を読んで,私はますます,「がんが治る」という強い信念を抱くことができたのです。自分が「限界」と感じていたのは,あくまでも病院で行われている西洋医学の中だけの話しでした。小さな新聞記事と一冊の本をきっかけに,人の縁がまたつながりました。いかに自分が無知だったかを知ると同時に,最愛の妻のいのちが消えずにすむことに,涙が溢れる想いでした。
2010.08.19
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今日は,toraの誕生日。亡くなった人の誕生日をいつまで祝うのでしょう。でも,大好きだったヒマワリを仏前に飾って来ました。先日,私の出張で泊まったホテルは,東京有明にある癌研有明病院のすぐ近くでした。癌研有明病院は,国立がんセンター病院と並んで,がん患者の最後の拠り所です。toraも,最後の最後に何の手立てもなくなったら,ここに入院させることも考えていました。しかし,そのタイミングを失ったまま,toraは旅立っていきました。いのちの最期なんて,いつ訪れるか分かりません。「その時が来たら…」なんていって,最後の切り札にとっておいたら,使えなかったということもあるのです。東京大学をはじめとして,全国の大学で研究が進められている「がんペプチドワクチン」も同じでした。抗がん剤で効果がないがんでも,効果がある可能性があるというので,その日が来たら考えようと,資料だけ集めていました。実際,toraがもう抗がん剤が効かなくなった時に,大腸がんのペプチドワクチンを研究している,隣県の拠点大学病院に電話をしました。結果は,黄疸が出ている状態では使えないとのことでした。一縷の望みをかけていたのですが,門前払いとなりました。最近新聞で見かける「がんBAK療法」も考えていました。この療法の開発者が,隣県のがんセンターにいらっしゃるので,直接お電話してお願いしました。まだ,研究段階なので,治療代は不要だが,研究協力費用として,1回の治療あたり15万円いただきます。治療は,最低1クール6回行ってから,効果を見て,奏効していれば継続します。とのことでした。いのちはお金では替えられない大切なものなのですが,使い果たしてしまっては,その先の治療が続けられなくなるのも事実です。新しい選択肢を示されたときに,その後どのくらい生きられるかと,財布の中身を見比べて,治療法を選択しなければなりません。このときは躊躇しました。重粒子線治療なども,数百万単位の負担がかかります。もしもそれで本当に助かるのなら,借金をしても退職金を前借りしても,選択しただろうと思います。でも,残念ながら,今の段階で,これなら確実というがんの治療法はありません。私のように,「いざというときには」と取っておいて,実際には間に合わなかったというケースも多いかもしれません。がんセンターの新理事長になられた嘉山先生は,どの病院でも手の施しようがなくなってしまった「がん難民」への対応を国立がんセンターで受けることを決めました。また,ドラッグラグを無くす方向で,政府はじめ関係機関との協議を進めるともおっしゃいました。がん患者が,自分のがんとだけ向き合える環境を周囲で用意してあげられれば,患者の家族の苦しみも軽減されるのではないかと思います。
2010.08.05
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心療内科の先生とは,こころとこころが触れ合えないと,なかなか病状は良くなりません。toraがお世話になっていた先生は,その意味ではとてもよい先生でした。一時は自らいのちを絶とうとするほどこころのバランスを欠いていたtoraを支えて,励まして,生かしてくれた先生。私も含めて,何でも言い合えて,こんがらがるだけこんがらがったtoraのこころの糸を,一本一本解きほぐしてくださいました。がんが見つかって,あらためて受診した時,先生から,「目の前の精神状態だけに目を向けてしまって,がんの 可能性を見逃していた。医師として経験不足だった。」とのお言葉をいただきました。医師を訴える患者や家族がいる中で,言葉に注意を払いながらも,精一杯,無念さを伝えようとしてくれた先生なりのお言葉だったと思います。見方によっては,仮にも定期的に通院していた訳ですから,先生を責めることもできるでしょう。しかし,私は先生を責める気持ちは,全く起こりませんでした。不幸にして,心療内科での治療中にがんが見つかってしまいましたが,この先生との出会いがなければ,toraのこころのアンバランスを知ることもなく,もっと早くtoraの生涯は終わっていたかもしれません。先生には,今でもとても感謝しています。がんが見つかった時,すぐに私はS先生のご自宅を訪ねました。S先生は,世界ではじめてNK細胞を発見した方です。登録が遅れて,海外の他の研究者に先を越されてしまいましたが。そのS先生に,私は仕事上で,大変かわいがっていただいていました。家が近所だったということもあり,休日の昼前にも関わらず,突然,押しかけました。一通りの説明を聞き,S先生は,「あきらめることはない。」とおっしゃってくださいました。そして,大学病院と県立病院のどちらにするかと尋ねました。大学病院には肝臓の権威がいるが,がんの専門ではない。県立病院の方は,自分の後輩が副院長をしている。彼は大腸がんでは,日本で2番目の実績がある。それに県立病院にはホスピスもある。最後まであきらめずにがんと向き合うのなら,県立の方がいいのでは?私からも,紹介状を書いてあげるし,週明けには電話を入れてあげよう。絶望の底にあった私たちに,一筋の光が見えた瞬間でした。私の仕事で本当に偶然に偶然が重なって,S先生と出会い,そして過分にかわいがっていただきました。そのS先生が,がんの世界的権威であり,toraのために動いてくださる。人の縁がつながるありがたさと,それで運命が変わる何とも言えないこころの躍動感を感じつつ,S先生のお宅を後にしました。気が早い私たちは,その日の午後,早速,県立病院を見学に行きました。当時は,新築2年目。気をふんだんに使った,優しい感じのする病院でした。普通の大病院は無機質な感じがするのですが,そこは,いたるところに木目が使われ,すべての病室に自然光を取り入れる工夫がなされていました。toraはすっかりお気に入りで,帰りにはショッピングセンターで,入院用の下着を買って帰るほどでした。一連の話しを聞いて,娘はその晩,下痢になりました。中学3年生にしては,現実と向き合うことが,やはり辛かったのでしょう。toraは,そんな娘を見て,「優しい子だ」と言いながら泣いていました。娘はこころの根っこがしっかりした子に育ってくれました。赤ん坊の時から,一人で遊んでいる時間は干渉せずに,自律した人間になるように心がけて,toraは娘を育ててきました。他人の痛みが分かる優しい娘に育てたのは,toraでしょう?娘は私たち夫婦の最高傑作なのです。
2010.07.22
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がんは5年間生存できれば,ほぼ治癒したと見なされます。術後に仮にがん細胞が残っていたとしても,5年間再発しなければ,血液が入れ替わり,がん細胞が定着せずに消滅したことになるからです。このため,がん患者は,再発せずに5年間生きることを目標とします。toraは,もし生きていれば,この夏で5年となりました。がんが見つかった5年前,toraはこころのバランスを欠いており,心療内科に3年ほど通っていました。心療内科のくすりは,様々な「刺激」に対して感受性を弱めるように作用します。時にはけだるく,眠くなることもありました。この頃も,梅雨が終わりかけた時期でもあり,だるそうにしていました。お腹まわりも少しサイズアップしていましたが,さほど気にかけていませんでした。お盆前のある日,カウンセリング後に先生が,しばらく血液検査をしていないから,検査してみようとおっしゃって検査しました。toraは,検査代が高くつくと,ブーブー言っていました。そして8月13日の朝に先生から電話がありました。「血液検査の結果,肝機能の値が高くなっている。お盆明けに検査 してみよう」とのことでした。お盆なのにわざわざ電話をくださってねぇ,などと笑っていました。この年のお盆は,toraの久しぶりのクラス会がありました。帰省して参加したtoraは,2次会まで行って,とても楽しかったと,お土産を手に帰って来たのでした。しかし,これが旧友達との別れの場となってしまいました。お盆明けに心療内科に行ったtoraは,すぐに消化器系の内科を紹介されました。先生の大学時代の友人とのことでした。このときはなぜかtoraが一人で受診して,エコーを取ったところ,肝臓に腫瘍が4~5個あるとの結果でした。私はのんきなもので,腫瘍イコールがんという認識はなく,良性の腫瘍だってあるだろうと楽観していました。あまりにも無知でした。その後は,流れに乗るように,上部消化器の検査(胃カメラ),下部消化器の検査(大腸ファイバー)と続き,最終的にはCTの画像とともに病名が確定しました。「S状結腸がんの多発肝転移」toraのいのちを奪うこととなったがんの診断でした。診察室から出ようとする私の腕を,先生がガシッとつかみました。ラグビーで鍛えた太い腕でした。無言のまま,ジェスチャーで「イスに座れ」と促しました。そして告知がなされました。このくらい肝転移が大きくなってしまうと手術はできない。年は越せないかもしれない。つまり余命は3~4ヶ月。若い分,症状がどんどん進行するだろうから,ホスピスに入れることもも考えた方が良い。私は,もしそのとおりなら,在宅で看取りたいと言いましたが,「素人にできるものではない。」と言われました。この日はとても暑い日で,クリニックの外では蝉が鳴き続けていました。でも,私は,暑さを感じることなく,蝉の大きな鳴き声だけが感じられました。告知がなされたクリニックの診察室の風景と,「冷たい蝉の声」の感覚だけが,しばらくの間,消えませんでした。普通は,がんの告知がなされても,本人には隠すものでしょう。でも,私は,帰宅する車の中で,toraにすべてを伝えました。さすがに「余命3ヶ月」だけは省きましたが。もし仮に,先生のお見立てどおりだとすれば,toraに残された時間は限りなく短いものです。その「いのちの限り」を,本人が知らないまま,残された日々を過ごさせることが,とても残酷なことに思えたのです。気丈に聞いていたtoraが,家の近くの交差点に差し掛かったとき,泣き始めました。「再婚しないでっては言いにくいけど,再婚してほしくない。」と。「まだ,死ぬと決まったわけでもないのに,気が早いな~」と言いながら,私はまだtoraのいのちの終わりが宣告されたという事実を,まだ直視できずにいました。これから3年10ヶ月におよぶ,toraのいのちの終わりが,始まった瞬間でした。
2010.07.14
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この夏はじめて,本格的に蝉の声を聴きました。「あまりにも懸命に鳴きすぎて切なくなる」toraはあまり蝉の鳴き声を好みませんでした。蝉は7年間待って,やっと地上に出てきて,7日間泣き続け,やがて力尽きて死んでいきます。蝉が7日間声の限り鳴き続けるのは,いのちをつなぐため。次の世代にいのちをつないで,死んでいくのです。toraがこの世に生を受け,生きた目的は何だったのでしょう。形あるものはいずれ消えていきます。しかし,確かにtoraがこの世に生き,そして旅立って行った,その後に残ったもの,toraが唯一遺すことができたもの,それはたった一つ,娘のいのちだったと思います。「この娘の体,細胞の一つ一つを私が創ったんだ。」とtoraは言い,母乳で育てました。離乳の時期には,実におかしなものを食べさせていました。まだ,歯もない赤ん坊に,スティック状のキュウリやニンジン,スルメなどをしゃぶらせていたのです。味覚が発達する前に,食材本来の味を感じる能力をつけてあげたい。早くから人工の味に慣れてはダメだと。食事の時には,娘の周りに新聞紙を引き,手づかみで自由に食べさせていました。手の感覚を養い,興味を食べることに向けさせるためです。健康な身体には健康な精神が宿る。おかげで娘は実に健康に育ちました。toraは家庭行事を大切にし,その時々の行事食を通じて,四季の移ろいやいにしえの人々の食文化を,娘に伝えていました。この地は,幸いにして新鮮な食材を得やすい土地でもあります。toraはせっせと市場に通っては,家族のために,新鮮で栄養の豊富な食材をそろえ,食を通していのちの大切さ,生命の輝きを伝えてくれました。toraは短い生涯を通じて,健康な体と健康な精神,そしてそれらを維持するための食の大切さについて,しっかりと娘に受け継いで逝きました。toraのいのちの灯火は消えましたが,toraの想いは,確かに娘の心と一つになったと思えるのです。健康な体に健康な精神が宿り,その上で親が子に遺せるものは,いにしえより変わらざるもの,そして変えてはならぬものなのだと強く思います。それは,あたたかな家庭の営みを通じて,次代に受け継がれていくものなのです。きっと娘は,そのかけがえのなさを,誰よりも深く理解し,自らの子や孫たちへと受け継いでいってくれるでしょう。自分自身が母から受けた大きな愛とともに。親はいつか子を遺して死ななければなりません。自分のいのちが消え失せたとしても,子にいのちを受け継ぐことができれば,親としては本望なのかもしれません。娘のいのちは,toraのいのちでもあります。娘のいのちがこれからも輝き続ければ,toraのいのちも輝き続けることができます。
2010.07.06
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昨日の仕事帰り,梅雨の合間に,久々に夕焼け空を見ました。真っ赤に輝くような夕焼けではなかったけれど,町中が淡いオレンジピンクに染まる中を家路につきました。toraの最後の入院中は,街がそんなピンクオレンジに包まれる中を病院に通っていました。どの患者の家族も同じように,一日の終わりの時間を一緒にすごそうと,病院の玄関に向かって歩いている光景が浮かびました。今からちょうど1年前,toraを失った直後の私は,すべての感覚を失ったようになっていました。私自身の命は続いているのですが,自分一人が,周りの世界から隔絶されたような,そんな感じでした。感情の起伏もなく,楽しいと感じることもおいしいと感じることもなく,毎日を過ごしていました。伴侶を失うということの現実は,おそらく同じ立場になった人にしか分からないと思います。普通,人間は一つの生命体として,感覚も感情も持ち合わせています。それは感覚器や皮膚を通じて,自分の外との接触を行い,自分自身が感じるものとして認識するものだろうと思いますが,そうではないのかもしれません。私が楽しいと感じていたのは,私自身が楽しいと認識していたのではなく,一緒にいるtoraが楽しいと感じるのを見て,楽しいと感じていたのです。美味しいものを食べても,その美味しさを分かち合える相手がいなければ,美味しいとは感じないのです。自分が美味しいという感覚は,一度相手に伝わって,フィードバックしてきてはじめて自分も美味しいと感じるのです。夫婦といえども,元々は他人です。別々の個体ですが,共に暮らし,行動をともにすることで,個体の目的は単体では達成できず,伴侶とともに一つの共同体として,はじめてなし得るものになっていたのです。ですから,私はtoraを失って,自分自身の感覚も失いました。何も感じない,こころが動かない毎日を過ごしました。気晴らしに,無理にでも楽しいことをしてみようと,一人で観光したり,山に登ったり,温泉に泊まりに行ったりしてみましたが,ダメでした。感じることができる能力を失っていたのですから,当然ですよね。去年の6月,toraが旅立った日の朝,toraはもう,私たちの呼びかけに応えることはありませんでした。ただ,時々呼吸が止まりそうになるたび,娘が,「お母さん,息して!」と呼びかけると,再び息をしていました。私たちは,もう,今しかないとばかりに,「今まで,楽しかったよ。ありがとう」「いっぱい苦しませて,ごめんね」「助けてあげられなくて,ごめんね」とたくさんの言葉を伝えたのですが,反応はありませんでした。その後,美希病院でお会いしたE先生は,感覚は最後まで残るということを教えてくださいました。もういのちの灯が消えようとしているときでも,聴覚は残っている。だから,あなた方の呼びかけも,きっと聞こえていたはずですよと。私たちの最後の呼びかけは,どうやらtoraに届いていたようです。E先生から教えていただいて,恥ずかしいことに,私はその場で涙が止まらなくなりました。toraに私たちの呼びかけが聞こえていたからといって,すべての罪滅ぼしになると思っているわけではありません。それでも,toraが精一杯生きてくれたことに対する,私たちの精一杯のお礼の言葉が伝わっていたのかもしれない。私たちの感謝の気持ちを受け入れて,それから旅立ってくれたのかもしれないということを知って,随分,気持ちが軽くなりました。toraが旅立って1年,私のこころは少しずつ,楽しいと感じることができるようになって来ました。
2010.07.02
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今日の日経新聞に,京都大学の先生が,大腸がんの肝臓への転移を解明したという記事が載っていました。大腸から肝臓に移動したがんが,周りに骨髄細胞を呼び寄せ,この細胞が案内役となって,正常な組織を破壊し,がんが増殖します。この「呼び寄せ」を,薬で阻害すると,病巣の拡大が抑えられたそうです。大腸がんが「ケモカイン」という物質を分泌し,血液中などに含まれる「未分化骨髄球」を呼び寄せます。この「未分化骨髄球」が,正常組織を破壊する機能を持っていて,がんの増大を助けるそうです。そこで,骨髄球とケモカインがくっつくのを邪魔する薬を投与したところ,肝臓に流れ着いたがんが増殖せずに,生存期間が約2倍に伸びたため,大腸がん患者の約三分の一で,転移や増殖が防げる可能性があるそうです。toraは,がんと分かった段階ですでに,肝臓の右葉に約10cmの腫瘍がありました。それをFOLFOX6という,当時最先端の抗がん剤の投与法を用いて,手術できる大きさにまで縮小させ,2回に分けて肝臓のがんを切除しました。体からがんの腫瘍がなくなったのは,発見から1年ちょっと経った秋の日でした。良く晴れ渡った青空の下,病院の庭にはコスモスが風に揺れていました。toraと一緒に,本当にすがすがしい気分を味わって,写真を撮った覚えがあります。それからが本当のがんとの戦いが始まったような気がします。私は抗がん剤を使いすぎて免疫力がなくなることを心配し,いわゆる代替療法と呼ばれる治療法を模索しはじめます。その時点では,がんの腫瘍がないわけですから,その状態を5年間キープできれば,まずはがんから解放されることになります。その時私たちが立っていたのは,さまざまな治療法が選択できる分岐点でした。現在の日本のがん治療において,どのような選択肢があって,どの治療法を選ぶべきかという情報は,患者もしくはその家族が行わなければなりません。我々よりも圧倒的に情報源に近く,そして情報量もある医師達は,病院で行われる「標準的治療法」のみを選択肢として示します。しかし,それで全てではないのです。それがベストな選択ではないかもしれません。でも,それを判断する材料は,患者自らが探し出し,たぐり寄せなければ得られません。がんの治療法は,世界各国で最先端のものが開発されています。今朝の新聞の技術が,5年前に確立されていたならば,どうなっていたのでしょう。その時に生きた人は,その時の最先端の治療法しか選択できません。くやしいことに,時間を遡ることはできないのです。
2010.06.29
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toraの命が消えることを,一番身近で見てきたはずの私が,一番現実的なものとして想定していませんでした。こんなことなら,もっと早く緩和ケア病棟に移してあげれば良かった。もっと早く,介護休暇をとって,側にいてあげれば良かった。ほんの少しでも長く,ゆっくりした時間を過ごさせてあげたかった。もしかしたら,toraがいなくなってしまうことを,単に考えたくなかっただけなのかもしれません。ですが,そもそも最後の入院は,胆管ステントを入れるだけの1週間程度のものだったはず。どこで間違ってしまったのでしょう。私は他人に無謀だと言われても,toraの最後は,toraが愛したこの我が家で迎えてあげようと思っていました。近所には訪問医療をしてくれる医院もありますので,できることならば,住み慣れたこの家で,toraががんになってまでも磨いていたこの私たちの家から旅立たせてあげよう,そう思っていました。それが叶わないとしても,チューブをつけたままであっても,一度は家に連れて帰してあげようと思っていました。しかし,人の命は,かくもあっけなく消えてしまうものでした。toraを失ってからしばらくの間,なぜあんなにも急に命の危機を迎えることになったのか,考えても考えても分かりませんでした。それでも考え続けました。私は,toraががんを患ったのを知った日から,toraの命の灯を消さないようにすることだけに全ての力を注いできました。それでも,最愛の人の命を救うことができなかった。それは,私の努力が足りなかったということではないのか。もっと他にも方法があったのではないか。toraの旅立ちからしばらくして,その答えを得ることができました。以前の日記で紹介した,岩手県奥州市の美希病院では,月に一度,東京から免疫療法で著名なE先生の診察を受けることができます。toraは,このE先生の存在に,随分救われました。美希病院までは,高速道路を使っても2時間半ほどかかります。それでも,E先生に診ていただいて,話を聞いていただいて,今のままのがんとの向き合い方でいいとおっしゃっていただくだけで,それまで数週間の抗がん剤治療の苦労も消え,身も心もリフレッシュして帰ってくることができました。私と娘は,9月の中頃,このE先生の診察日に美希病院を訪ねました。toraの旅立ちを伝え,一言お礼を申し上げたかったのです。そこで私は,E先生に,toraがなぜ命を失うことになったのかという素朴でなおかつ自分では答えを見つけられなかった疑問を尋ねました。入院していた病院の主治医には聞いてみようとすら思わなかったことを。全体的には,肝臓の腫瘍が大きくなれば,次第に体調が悪化する。肺の腫瘍が大きくなっても,呼吸ができなくなることはある。しかし,今回はまだそこまでの病状ではなく,まだ死を迎えることはない。直接,死の原因となったのは,腹腔穿刺で体調を維持するのに必要な体液まで体外に出してしまったことだろう。最後に呼吸が低くなったのも,体に酸素や栄養を運ぶための体液が,必要な要素を失ったからではないか。私は自分が知ることができなかったことを知ることができ,やっと納得することができました。それと同時に,命と引き替えになるという情報を得ていたならば,果たして腹腔穿刺をすんなり受け入れたのだろうか。腹水に苦しむtoraを見るに付け,ほかに選択肢はなかったにせよ,命との引き替えにするという認識のもとで,腹腔穿刺を選んだだろうか。そういう思いが,逆にわき上がってくるのを押さえられませんでした。入院先の医師,看護師には感謝をしています。大病院であればあるほど,数多くの命が目の前を通り過ぎていくことでしょう。医師にとってその命は,数多くの中の一つに過ぎないかもしれません。しかし,その手に委ねられている命は,その人が何十年もかかって培ってきた人生の全てであると同時に,家族にとっては,他の何をもってしてもつなぎ止めておきたい大切なものです。もうここまで悪化したら,回復することはない。そういう医学的な判断から,その危険性を説明することなく,命をつなぐことよりも腹水の軽減を図ったとしたら,それは,私は医師の横暴だと思います。人の命を預かることができる職業である医師は,その命を際限なく尊重してこそ,畏敬の念が生まれるのではないでしょうか。
2010.06.25
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toraの遺体は私の実家に連れて行くこととなりました。我が家は,私たち3人が暮らすだけのスペースしかなく,祭壇を組むことができなかったのです。toraは,病院から私の実家に向かう前に,一度我が家の前に立ち寄りました。がんになってまでも,ピカピカに磨いていた我が家。いっつも団子のようにくっついて,楽しかった3人の暮らし。物質的にも金銭的にも贅沢なことはしませんでしたが,この暮らしが何よりも贅沢なことを,私たちは知っていました。最後の入院の前に,珍しく弱気に「もう帰ってこれないかも…」と言っていたtora。しばらくの間,愛する我が家との別れを惜しんでいました。toraの遺体は,とても安らかで優しい顔をしていました。死に化粧は娘がしました。toraから受け継いだ化粧法です。本当に安らかで,ただそこに眠っているようでした。がんになってからというもの,心から安らかに眠ったことなどなかったので,苦しみから解放され,やっとゆっくりしたことでしょう。私は最後の最後まで生きる望みを捨てていませんでした。ですから,もうこれに頼るしかないとなったときには,最新の抗がん剤であるアービタックスを使わせていたかもしれません。でも,その安らかなtoraの表情を見ていたら,アービタックスを使う日が来なくて良かったと思いました。抗がん剤を使えば,がんが「治る」というわけではありません。医師が抗がん剤を使う目的は,あくまでも「治癒」ではなく,「延命」なのです。だとしたら,数ヶ月生き延びたとしても,副作用で顔中に湿疹が出たり,指先がぼろぼろになってひび割れたあとに旅立つよりも,きれいなままの体で旅立って良かったのではないでしょうか。toraが余命3ヶ月と言われたとき,娘は高校受験を控えた夏でした。それが,希望の高校に入学し,3年間の高校生活を無事に終え,がんの母を支えながらも,大学にも入学しました。娘の大学の入学式という晴れの舞台にも,toraは立つことができました。「この場に立たせてくれてありがとう」とtoraは言っていました。まだまだこれから,娘の成人式,社会人としての出発,結婚,出産と,ここまで生きることができたら本望ということはないでしょうけれども,それでも,充分に娘の成長を見届けたという想いがあったのでしょう。娘の入学式を境に,toraの容態は悪化したのでした。花が好きだったtoraに相応しく,toraの祭壇は,たくさんの花に囲まれていました。8月生まれのtoraを,夏の日差しを受けて燦然と輝くひまわりにたとえ,結婚前にはいろいろな種類のひまわりのカードを贈りました。だから棺には,特に大好きだったガーベラを敷き詰めて,ひまわりを添えました。いろいろな手続きが苦手だったtora。何をするにしても,一人ではできず,たえず私が一緒でした。旅立った後も,一人で過ごして行けるのだろうか。なんていう心配もしましたが,1年が経って,一度も会いに来てくれないところを見ると,きっと羽を伸ばして楽しんでいることでしょう。
2010.06.23
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携帯電話が鳴ったのは,朝の5時過ぎのことでした。枕元に携帯を置いてはいましたが,それが鳴ることは,まったく予想だにしていませんでした。病棟看護師のSさんからでした。「奥様の呼吸が弱くなってきましたので,病院にきてください。 まだ大丈夫ですから,焦らずに,どうぞお気をつけて」それでも私は,泣きながら,大慌てで娘を起こし,急いで顔だけ洗い,取りあえずの親戚にだけ電話をして,病院に向かいました。もう会えないかもしれない。そう思って病院に駆けつけました。でも,toraは待っていてくれました。大きく肩で息をしていましたが,苦しさに顔を歪めてはいませんでした。呼びかけても反応はありません。目を開けてもくれません。ただいつもより大きく息をしながら,眠っているようでした。主治医はすでに病院にいらしてました。ナースステーションのモニターにつながっているため,常時,病室にはいなくても,モニターに変化のあったときにだけ,様子を見に来てくださいました。なので,私と娘は,toraにいろんな話しをすることができました。「今までがんばってくれてありがとう。」「いろんなことで無理をさせてごめんな。」「自分を産んでくれてありがとう。」「いっぱいいっぱい楽しかったよ。」どの言葉も,私たちの方から一方的に伝えるだけです。時々,次の息をすることを忘れたかのように,息が止まることがありました。その都度娘が,「お母さん,ほら,息をして,息!」と言うと,また「すぅー」っと吸い始めるような感じです。そんな時間を2時間ほど過ごしました。一時は,コンスタントに呼吸をして,このまま回復するんじゃないか。と,素人考えながら思うくらい,スムーズな時もありました。いつしか,娘がいくら呼びかけても,次の息をしない瞬間がきました。toraの呼吸が止まったのです。それは,本当に本当に,静かな旅立ちの瞬間でした。平成21年6月18日午前7時30分神様は,3年10ヶ月にもわたるがんとの戦いから,toraを解放しました。「おつかれさま」その時,そんなふうに声をかけてあげる余裕が私にあったかどうか,正直,覚えていません。でも,私たちの前から旅立った瞬間から,toraはすべての苦しみから開放されたのです。苦しみを代わってあげられなかった私たちは,せめて,これまでtoraが背負ってきた生きるための苦しみやつらさから開放されたことを祝福すべきなのでしょう。まさに,その人の生き様に見合った旅立ちの形を神様はくださるものです。晴れ渡った青空に,痛いほどのまばゆさを伴った朝日が射し,いつも病室から眺めていた草木たちが,まだ朝露に濡れていました。その日のtoraの当番看護師は,SさんとWさんでした。Sさんは,とても人なつっこく,それでいて知識も経験も豊富で,適切なケアばかりでなく,最初の入院の時からずっと支えてくれました。時には,病室で,あまりのつらさに,一緒に泣いてくれたこともあって精神的にも随分と支えていただきました。Wさんは,お母さん的存在で,S状結腸の手術で一番最初に入院した時の担当看護師でした。がんで余命3ヶ月と宣告され,一番大きな不安を抱えていた時期に,お日様のようなあたたかいサポートをしていただきました。このお二人が当番の時にあたったのは,単なる偶然とは思えません。やっぱり,この日が一番旅立ちに相応しい日だったのでしょう。死後の処置は,病室ですぐに行われます。挿管していたいろいろなものを抜き,体液が流れ出ないように詰め物をして,体をきれいに清拭します。通常は看護師が行いますが,看護師の卵の娘も強く希望して,病室に残りました。toraにとっても,娘にとっても,とてもよいお別れの儀式になったことでしょう。今日は,toraのお墓にお参りに行ってきました。去年,toraが亡くなったあとは,しょっちゅうお墓に行って,お墓の中に入ってしまったtoraに話しかけては泣いていました。でも今日は,なぜかお墓の中にtoraがいる気がしませんでした。お墓は亡くなった方に祈りを捧げる場所ではありますが,その人の魂は,やはりいつまでも家族の中にあるのかもしれません。私たちにとって,お墓はもう泣くための場所ではありません。
2010.06.18
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最後の一日は不思議な出来事がたくさんありました。toraは,毎日毎日,腹腔穿刺で1リットルほどの腹水を抜いていました。お腹から常時チューブが出ていて,水道のようにコックをひねると腹水が流れ出る仕組みです。でも,腹水で膨れあがったお腹なので,チューブを刺している脇から,腹水がしみ出し,お腹にあてている布が2時間ほどでビチョビチョになるくらいでした。病棟の看護師さんは,本当によく交換してくれていたと思います。それでも下着までしみ出るほどになったため,前日から,大人用の紙おむつを使っていました。この日も,お昼休みに病室に行きました。お昼ご飯はイチゴ3粒でした。前日より体が動くようでしたが,意識が朦朧としていて,意味がよく伝わりません。それでも,便を漏らしたような気がするから下半身を拭いてほしい。と頼まれました。確認しても,その形跡はありません。それでも本人が強く願うので,おむつと下着を取り替え,下半身をきれいに拭いてあげました。するとtoraは,安心したように穏やかに休みはじめました。私は一安心して,職場に戻りました。夕方,娘と二人で病院に行きました。すると,toraは,前の主治医のS先生が呼んでいたというのです。S先生は大腸の方の先生で,4年前に手術していただきましたが,その後は肝転移の治療のため,ずっと肝臓の専門の主治医に変わっていました。しかし,toraは,S先生に全面的な信頼を寄せていました。ですから,何かあったのだろうかと思い,ナースステーションにお願いして,S先生と連絡を取ってもらいました。でも,S先生は何も連絡していないというのです。首をかしげながらも,寝ぼけて夢でも見たのかと思いました。この病棟の面会時間は20時までです。toraはなかなか動けないので,重い体を支えて,洗面台まで連れて行って髪と顔を洗う補助をし,体を拭いてあげて,下着を取り替えていると23時くらいになる毎日でした。この日ばかりは,なぜか早い時間から娘に体を拭いてもらって,21時過ぎには「今日はもう帰っていいよ」というのです。「まだ早いからもう少し良いよ」と言ったのですが,帰っていいというので,ヘンだな~と思いながらも病室を後にしました。このときに気づけばよかったのですが,いつもよりも呼吸が弱く,肩で息をしているような感じがしました。それで帰り際に,ナースステーションに立ち寄り,「呼吸が弱い気がするので注意して診てください」とお願いしました。偶然S先生もそこにいらっしゃったので,先生にも呼吸が弱い旨を伝えました。看護師さんからは,「お帰りになっていいんですか?」と聞かれたのですが,その時は特に何の気にもとめず,そのまま帰って来てしまいまったのです。その日は給料日だったので,家に帰って家計簿の処理をしました。「早く帰してもらったおかげで家計簿ができたよ」とtoraにメールを送って早めに寝ました。ホントにすっとぼけたヤツだと思います。こうして,私は,もはやどんなことをしても取り返すことができないtoraとの時間を失ったのです。翌日の早朝,病棟から呼び出しがあり,駆けつけた後は,toraと会話を交わすことができませんでした。あの晩,toraの命の灯火が消えようとしていることに,なぜ気づかなかったのでしょう。そこまで疲労が溜まっていたんだろうとしか思えません。後で聞けば,あの晩,toraは娘に,「お母さんはもう生きられないような気がする。そんなことは, お父さんには言えないけど。」と言っていたそうです。きっとtoraは自分の命の終わりが間近に迫ったことを知っていたんだと思います。お昼に体をきれいに拭いたのはそのためでしょう。信頼していたS先生には,最後に一目お会いしたかったのでしょう。そして,病院から早く帰したのは,次の日から眠れなくなるから,せめて前の日にゆっくり眠らせようとしたのではないでしょうか。toraはそういう人です。私は,この晩,toraの変化に気づかずに病院から帰ったことを,しばらくの間悔やみました。その場面を失ったなら,toraと話す機会はもう二度とないと分かっていたならば,話したいことは山ほどありました。しかし,それをさせなかったのも,toraの潔さだったのでしょう。いま,1年が経って,いろいろな形で,toraの想いを知ることができています。あの晩,聞かなかったtoraの言葉は,今でも別の形で私のこころに伝わってくるのです。
2010.06.17
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