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横須賀線の鎌倉駅で下車。西口に出ると右手に小さな広場がありそこに
時計台が。時計台は、1916年(大正5年)に建てられた旧駅舎の象徴だったもの。
長い間、「とんがり帽子の時計台」として市民に親しまれているのです。
鎌倉駅西口を出て駅前正面のロータリーを鎌倉市役所方面に進み、約100m先の
「市役所前」の信号を右に曲がり、そのあと道なりに進むこと約10分で
寿福寺に到着。寿福寺は、昨年に続いてこれで何回目の参拝となるのでしょうか。
鎌倉五山第3位の寺格の寺。その他鎌倉十三佛霊場の第4番「普賢菩薩」、
鎌倉三十三観音霊場の第24番、鎌倉二十四地蔵の第18番の古寺なのです。
臨済宗建長寺派、寺号は詳しくは亀谷山壽福金剛禅寺(きこくさんじゅふくこんごうぜんじ)。
道路脇には多くの庚申塔が並んでいた。
庚申塔には慎みの象徴の三猿や庚申信仰の本尊、青面金剛(しょうめんこんごう)などが
刻まれていた。
「弘法大師相模二十一ヶ所」という霊場巡礼があるようなのですが、最近では
ほぼ廃れてしまったと。しかし寿福寺はその第7番札所のようだ。
「勝の橋」碑。
「勝の橋」といっても、橋らしきものは?。よく見ると道路の脇の石塔の中に、
石の橋標があるので、なんとかここが勝の橋なんだと確認できるのであった。
そもそも、勝の橋は、寿福寺の隣にある英勝寺の開基となった徳川家康の側室「勝の局」が
この橋を架けたことに由来していると。この英勝寺の敷地は、江戸城を築いた太田道灌の屋敷跡。
鎌倉市扇ケ谷1ー17ー7にある寺。
寿福寺の惣門。
惣門は、横(桁行) 3.3m、奥行(梁間:外側の柱の間) 2.65m。
惣門には「亀谷山(きこくさん)」の額が掲げられていた。
寿福寺 境内図 をネットから。
【http://amigokamakura.sakura.ne.jp/02-temple-gozan/g3-jufukuji.html】より
惣門から中門まで、まっすぐな石畳の参道が続く。
静かで緑に囲まれ、とても美しい参道。
この日は日曜日であったが、人の数は殆どなし。
源頼朝の妻、北条政子が頼朝の死後、明菴栄西を招いて、頼朝の父、義朝の居舘があった
この地に頼朝の菩提を弔うために正治2年(1200)創建したと言われています
創建当時は、七堂伽藍、十四の塔頭を有する大寺院であったとのこと。
寿福寺境内 案内板。
中門。
中門は、横(桁行) 2.6m、奥行(梁間:外側の柱の間) 2.1mの比較的小型のもの。
中門には「寿福金剛禅寺」の扁額。
寿福寺は、正月など特別な場合を除いて、境内の公開をしていないため、
中門から本殿(仏殿)を覗きました。
1664年の再建。籠釈迦と呼ばれる本尊釈迦如来像、文殊・普賢の両菩薩像、神仏分離で
鶴岡八幡宮より移された、仁王像、源実朝像、栄西像(県文)を安置していると。
鐘楼。
かつての梵鐘は、栄西が宋から持ち帰った「いぼなし鐘」といわれるものだったと伝わる。
豊臣秀吉の小田原攻めで、後北条氏によって銃弾に転用されたといわれる。
中門前に「一般観光者はこれより先には入れません」「納経(朱印)及び寺に御用の方は
内玄関の受付まで御出下さい」と書いてありました。
中門の右手にある庫裏・納経所に御朱印を頂きに向かう。
インターホンを押したが中々、応答がなかったが、少し遅れてインターホンから声が。
「御朱印を頂きたい」と伝えると住職の奥様?が来られて、住職は体調がすぐれない為
御朱印帳への直接書き込みは出来ず、すでに書き込み済みの半紙に参拝日をこの日を
奥様が記入したものしか対応できないと。やむなく?それを頂くこととしました。
この寺のみ?は、1回に1種類の御朱印のみの対応で、鎌倉十三佛、鎌倉観音、鎌倉五山等
何回か尋ねる必要があるのでした。
鎌倉五山の御朱印をなんとか頂くことが出来ました。
境内を後にして裏山にある「やぐら」という横穴墳墓を訪ねました。
裏山に直登する階段は、崩れていて危険との事で閉鎖されているため、
裏手の横穴墳墓へは、中門の前で左折して、反時計廻りに大きく歩いて、
迂回することで辿りつくのでした。
ひたすら山の「崖下」を目指して坂道を上る。
墓地の最奥を右手に折れると多くの「やぐら」が並んでいた。
『「やぐら」とは横穴を掘りやすい鎌倉石という砂岩の自然条件の中で、鎌倉時代の
中期頃から室町時代の中頃にかけて、巌堂、岩殿寺のような岩窟寺院をヒントに
作られた中世の横穴式墳墓。 平地の少ない鎌倉が人口数万から十万人とも推定される
ほどに都市が膨れあがったことや、墓所への思い入れの変化、奈良・京都の石工を含む
職能集団の進出を背景に山頂や斜面に作られた納骨を兼ねた供養堂である。
従って鎌倉周辺にしかなく、また鎌倉周辺であっても人口が密集した鎌倉の外にでると
急激にその数を減らす。 そして鎌倉が都市でなくなるとともに作られなくなり、
その役割は人の記憶から消えていった 』・・・ウィキペディア・・・より。
そして最奥手前に北条政子の「やぐら」。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。
子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。
伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と
呼ばれる人物の墓。
夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)。
頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、
傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、
世に尼将軍と称された。
五輪塔には多くの花が手向けられていた。
すぐ近くには源実朝のものと伝えられる五輪塔も。
源実朝は北条政子と源頼朝の4男で、鎌倉幕府の第3代征夷大将軍。
ただ、源実朝は頼家の子、公暁に鶴岡八幡宮で暗殺されたので、秦野にあるのが
首塚とされていますので、ここ鎌倉のは胴塚と言う事に?。
源実朝の五輪塔があるこのやぐらは、牡丹唐草の文様が彩色されていることから、
「唐草やぐら」または「えかきやぐら」と呼ばれているとのこと。
他にも外務大臣・陸奥宗光、俳人・高浜虚子、作家・大佛次郎などが眠る
墓があるとのですが、標識などがある訳ではなく、よく判らなかった。
そして源氏山公園への道を進む。
険しい山道が目の前に。
特に寿福寺墓地から裏山への入り口部分は隘路になっていてかなりの悪路であった。
険しく狭い水路の如き道。
大木の根が階段を形成、その先は石段に。
そしてここが「太田道灌公の墓」
「太田道灌公の墓
江戸城築城で有名な太田道灌資長はこの地で生まれ、扇谷上杉家の家宰として活躍しました。
その曾孫である太田康資の娘梶(後に勝)は、徳川家康の側室として水戸徳川家の初代
徳川頼房の養母となり、徳川家を支えました。彼女は出家後に英勝院と号し、三大将軍家光
よりここ源氏山一帯を賜って英勝寺を開きました。
この太田道灌公の墓は文政九年(1826年)に水戸徳川家の子孫である英勝寺住職が
以前の墓を再建したものです。」
ここまでとして、帰路も寿福寺横の細道を戻る。
生誕八百年記念の「源 実朝をしのぶ」と刻まれた源 実朝 顕彰碑。
実朝の事蹟を表面下部に銅版を貼り、之に碑文を記し、裏面には寿福寺前住職
であった内田智光師の自筆の漢詩が刻まれていた。
平山郁夫書とも表面左下に。
再び総門を右側から。
門前の石柱には「寿福金剛禅寺」と刻まれていた。
帰路も再び鎌倉駅に向かう。
帰路の右手にあった八坂神社。
八坂大神は、建久3年(1192)千葉常胤の子相馬次郎師常が自宅の守護神として
勧請したといい、相馬天王とも呼ぶと。
その後、浄光明寺裏山にある網引地蔵付近の岩窟へ、壽福寺本堂脇への移転を経て、
この地へ移転。
明治維新の神仏分離令により八坂大神と改称、明治6年には村社に列格したと。
左手に巽神社。
巽神社は、801年(延暦20年)、征夷大将軍に任ぜられ蝦夷征伐に向かう途中の
坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したのを始まり。
1049年(永承4年)には源頼義が改修し、のちに現在の地に遷座されて
壽福寺の鎮守として崇敬された。
壽福寺の巽の方角にあることからこの名が付けられたのだと。
この蔵・「結の蔵」は秋田県湯沢市に建てられていた造り酒屋の酒蔵。
それをほぼ原型のまま移築し、歴史都市鎌倉で土壁等伝統技術を使い、
再生させた建物とのこと。
今日は暇だなあ・・・と駅前で人力車の客を待つお兄さん達。
JR鎌倉駅・西口とその右に江ノ電鎌倉駅。
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