JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.01.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次


芭蕉歌碑の斜め向かいにあったのが『アラモの碑』



大正三年七月に建立された『アラモの碑』



「アラモの碑
この碑は、郷土岡崎出身の世界的地理学者志賀重昻氏が建立されたものです。
志賀重昻氏は、テキサス独立戦争アラモの戦いと日本の三州長篠城の戦いがよく似ていることに
深い関心を寄せられました。アラモの砦から援兵を求め友軍の下に走った青年ボナムと長篠城を
脱出し、岡崎城の家康公に危急を知らせた鳥居強右衛門の両者の「強い使命感に東西の別はない」
と感動し建碑を思い立ち、岡崎の石と長篠の石を使って、自作の漢詩を彫刻し、大正3年(1914)に
サンアントニオ市アラモ砦史跡の一角に記念碑を建立されました。
また、同時にここ岡崎公園の地にもアラモの碑を建立されたものです。」



岡崎ロータリークラブの『創立45周年記念植樹』碑が『アラモの碑』案内板の前に。
1990年、米国サンアントニオ市アラモ砦のどんぐりより育成 と。



左手に『巽閣』。
40畳の大広間では和室を活かしたくつろぎの空間で、各種集会や教室・会議等が行えると



『巽閣』前の『針塚』。
全国でも珍しい針のお墓、『針塚』。



右手に『縣社 龍城神社(たつきじんじゃ)』の社務所、その後ろに『岡崎城天守』が。



『縣社 龍城神社』を正面から。
石鳥居には大正1年9月の文字が刻まれていた。



『龍城神社』のブロンズ製の『神馬(しんめ)』を絵馬越しに。



右足を上げて、今にも台の上から飛び降りそうな勢い。



『岡崎城天守』
天守内部には、既に何回か入っていたので、この日はパス。



『岡崎城案内図』。
「戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。
岡崎城は当初、「岡竒城」と記された。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年
(享禄元年) - 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、」と記載されている。 1959年(昭和34年)に天守が復興された。
菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られている。
元は、龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼(つぎより、つぐより、又は、
ちかより)、そして、その子頼嗣(よりつぐ)が北方に対する防御として築城したものである。
当時は、龍燈山城(りゅうとうざんじょう)と呼んだ。それを、松平清康が西郷信貞(松平昌安)
から奪い取り改修拡張整備したものが岡崎城である。 龍頭山はもともと小高い丘で、山頂に本丸が
置かれた平山城として築かれていたが、本多康重から3代忠利(1600年(慶長5年) - 1645年
(正保2年))にわたる改修によって平城となっている。
この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守(1617年(元和3年))が建てられた。」と
ウィキペディアより。



『東照公遺訓碑』
昭和11年4月に建碑とのこと。
なぜ亀の石像の上に石碑がのっているのか不思議であるが理由は?
ネットで調べてみると
「実は亀の様ですが、よく見ると頭に耳、口には牙と歯が見えます、頭は龍です。
贔屓(ひいき、ひき、びし)・覇下(はか)と言って、想像上の生き物、龍の九匹いる
子供の内の一匹です。
伝説では三山五岳を背負い災いを起こした、怪力の持ち主です。夏王朝の禹によってなだめられ、
禹のために働き、王朝設立の立役者となりました。禹はその功績をたたえ自分を乗せることを
許したという故事より龍(王の印)が載っています。
ただ5本指の龍は皇帝の印なので3本指の龍です。」と。



『東照公遺訓碑
人の一生は重荷を負で遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば
不足なしこころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基、
いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを
責て人をせむるな、及ばざるは過たるよりまされり。
                         慶長8年正月15日
人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな。」



『東照公遺訓碑由来』
この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢治郎翁が岡崎市へ寄贈された
ものである。

翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのを
はじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和18年3月98歳の天寿を
全うされた。

翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、
家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の爲に 時の小瀧市長の賛意を得て建立に到った。

碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には龍城を象徴する龍を配し、
制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。

碑裏面には、昭和11月4月16日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、
本年は、また、岡崎市制七十周年の記念すべき年にあたり、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の
由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。」



『家康公遺言』碑。



「わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安し
されども将軍の政道その理にかなはず 億兆の民艱難することもあらんには たれにても其の任に
変らるべし
天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏に
して万人その仁恵を蒙らばもとより 家康が本意にしていささかも うらみに思ふことなし」



『岡崎城』案内板。
「15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正(だんじょう)左衛門頼嗣(よりつぐ) 稠頼(つぎより)が
現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに、家康の祖先である松平清康(きよやす)が入城し、
本格的な岡崎城を構えた。
天文11年(1542)12月26日 徳川家康は ここ 岡崎城で誕生した。
江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重(やすしげ)系統/前本多)、
水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝(ただかつ)系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。
石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと、伝えられる。
現在の天守閣は、昭和34年(1959)に復興され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。
2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており、三河平野を
一望することができる。」



松越しに『岡崎城天守閣』を。
名 称:岡崎城 別名:龍城・龍ヶ城(たつがしろ)
所在地:愛知県岡崎市康生町561
築 城:康正元年(1455)頃
復興天守閣:昭和34年(1959) 鉄筋コンクリート3層5階



『忠義護邦家』の碑
『忠義護邦家』の碑の忠義は、名のごとくであるが、邦家とは国家の事だそうだ。
日露戦争直後の明治39(1906)年に建立されたそうで山県有朋が書したとの事。



「明治以降ひたすら愛国の心に燃えて幾多の国難に殉じた武人達と銃後を護り無残にも
空爆に散華した多くの市民の御霊に対し、わが国の繁栄と世界の恒久平和とを衷心より
祈念してここに太平洋戦争後五十周年に当たり鎮魂の灯をかかげます。」



岡崎城本丸を後にし坂を下る。



南側の『龍城(たつき)堀』の赤い『神橋』が見えた。



『竹千代通り』に出る。



『竹千代橋』が前方に。



『純情きらり手形の道』
有森(杉)笛子役 寺島しのぶさん。



「寺島しのぶ」の手形。



竹千代橋東詰め(北側)にあるのが、竹千代と小姓の石像。
言うまでもなく竹千代は岡崎城で生まれた徳川家康の幼名で、6歳で人質
(織田家から今川家へ)となって城を出るまで、この地で小姓相手に遊んでいる
姿を表してます。



『竹千代橋』を渡る。



『竹千代橋』は『伊賀川』の最も下流に架かる橋で、岡崎公園や岡崎城への西側入口となる。



岡崎城天守を振り返る。



『伊賀川』沿いの道を『龍城橋西』交差点に向かって進む。
右手は『伊賀川』に架かる『坂谷橋』。



『岡崎城 二の丸能楽堂』裏に出る橋。



そして『新田白山神社』を訪ねた。



『新田白山神社の大くす』。
「徳川家康誕生後である岡崎城(岡崎公園内)のすぐ西を流れる伊賀川を渡った住宅地の中に
新田白山神社がある。
神社の鳥居をくぐると立派な社殿があり向かって右側に堂々としたクスノキが立って
いる。その木はかなり老体のようで、あちこち修復が施されていて、広がる大きな枝
にはノキシノブが着生しておりその面持ちは深い歴史を感じさせる。
岡崎市の中心部に存在する巨木としても貴重である。
この神社はもともと岡崎城内にあったが、1566年に厄除け開運祈願の為、家康により
上州新田(群馬県)より勧請(神仏の分霊を移し祭る)されたと伝えられている。
祭神は白山姫命と新田義重で、上州新田は皇族と血縁の深い源氏一族の新田氏ゆかり
の地である。
家康と新田氏の関係には様々な見解があるが、家康はこの頃より征夷大将軍まで上り詰める志を
抱いたようだ。樹齢600年以上のクスノキは家康が生まれる前からこの地で根を張り、
その行末を見守ってきたのであろう。」



参道を進む。



境内に入ると左手に立派な『手水舎』。



正面に『社殿』。そして右に大くす。



扁額『新新田神社』。



大くすの下に『境内社』



『白山神社の大くす』。



「白山神社の大くす
胸高囲:7.7m、根囲:9.4m、樹高:12.5mのクスノキの古木。老樹であるが、樹勢
なお衰えず、枝張りは東西に22m、南北に14.5mにおよぶ。主幹が高さ2mの位置で
二烈し、幹にはノキシノブの着生もみられる。樹形もよく、市街地の中心部にある巨
樹として価値が高い。神木として信仰の対象とされ、6月30日には輪くぐり神事がこ​
の前で行われる。
白山神社は永禄9年(1566)に徳川家康が厄除け開運祈願のため上野国新田から勧請し
たとつたえ、岡崎城主の産土神(うぶすながみ)とされていた。」​




                              ・・・ もどる ​・・・

                   ・・・ つづく ​・・・






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Last updated  2020.05.01 15:40:25
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