JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.01.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

新田白山神社を後にし、昨日の続きの「岡崎城下二十七曲り」へ再スタート。
『板屋J本通り』を南に向かって進むと、電柱に『東海道岡崎城下 二十七曲り』案内を発見。



『板屋本通り』を『乙川』方面に進む。
前方左手に『岡崎城下二十七曲り 板屋町角』碑。
板屋町はかつて遊郭の街だったのだ。
旧東海道・二十七曲りはここを右手に折れるのであったが。
よってここに『金のわらじ案内柱』の『よ』があるはずであったが見当たらなかった。



曲がらずにしばし直進すると右手にあったのが『板屋稲荷神社』。
入口には『板屋本通り』碑。



再び二十七曲りに戻り『松葉通り』を進む。
そして国道248号線を渡ると左側にあったのが
『東海道岡崎城下西出入口 松葉総門跡』の道標石柱。



石柱の裏側は共通の説明文が。



『金のわらじ案内柱』は『た』。
これより八帖町突当り角まで400m。



更に『松葉通り』を西に向かって進む。
前方に『愛知環状鉄道』の高架が見えてきた。



高架は『愛知環状鉄道線』。そして高架下を流れる早川に早川橋が架かっていた。
高架の向こう側に以前訪ねた「カクキュー 八丁味噌の郷」工場見学受付の看板を発見。



高架を潜ると『八丁味噌の郷』案内板も右手奥に姿を現す。



早川橋の渡り詰め左手には岡崎城下二十七曲り『れ』の道標。
ここでは『金のわらじ案内柱』ではなかった。
『岡崎城下二十七曲り 八帖村』の石柱がその横に。



『純情きらり手形の道』
「純情きらり」は平成18年(2006)年度上半期におけるNHK朝の連続テレビ小説で
八丁味噌の老舗メーカーである「カクキュー」と「まるや」が舞台になった。
ドラマの舞台となったロケ地に出演者10人の手形モニュメントが設置されているのであった。



沖田徳治郎役の八名信夫の手形。



ここから、『松葉通り』は『八帖往還通り』に名前が変わった。
『八帖往還通り』を西へ進む。



右手に『カクキュー(早川家) 八丁味噌』の工場建屋が。
『カクキュー 八丁味噌』は正保2年(1645)創業であり、次の『まるや八丁味噌』は
延元2年(1337)創業、それぞれ江戸時代から伝統製法で味噌作りを行っているのだと。



続いて左手には連続テレビ小説 「純情きらり」 のロケ地となった
『まるや(太田家)八丁味噌』 があり、中に入ると日吉丸石投の井戸があるとのこと。
太田家は、元禄9(1696)年創業と言われていたが、平成10(1998)年に、「創業660年」と
認定されたのだと。1337年に、開祖弥治右衛門が味噌づくりを始めたのだと。



『岡崎の地場産業 八丁味噌』
「大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、
独特の風味を持ち、現在に至るまで岡崎を代表する名産です。
「矢作川」沿いであるという立地条件から原料の大豆、塩などの仕入れに便利で、製品の出荷にも
舟運が利用でき、「矢作川」の伏流水が醸造に良くて、また気候及び風土にも適していると
いわれています。
江戸時代以来「早川家」と「大田家」の2軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、
地元周辺のみでなく、江戸にも多く積み出され、その名を高めました。
現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けています。」

『歌にみる八丁味噌』。
「「摺ってよし 摺らずなおよし 生でよし 煮れば極よし 焼いてまたよし」
といわれる「八丁味噌」は、三河武士、農民、承認達の常食、兵食として親しまれ、一日も
欠く事の出来ない食品でした。
天正18年(1590)、「徳川家康」の関東移封で三河譜代の大名、旗本によって全国的に
その名が知られ需要が高まり、「矢作川」の舟運や江戸廻船の発達に伴い、「三河木綿」の
運搬との相乗関係によって、伊勢、江戸を中心に販路が進展拡充しました。
それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という
「吉田松陰」の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰らうも」
という斎藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来岡崎城下の名産として称賛されてきました。」



右手が『八丁蔵通り』。
『まるや八丁味噌 の向かいの筋は 『八丁蔵通り』 と呼ばれ、通りの右手に
『カクキュウ八丁味噌』が建っていた。味噌蔵は国道1号線の近くまで続いていた。



入口にあったのが『純情きらり手形の道』
有森(松井)桜子役 宮崎あおいさん。



宮崎あおいの手形。



旧東海道(八帖往還通り)の矢作川との突当り。江戸時代はこのまま直進して矢作川へ進んでいたが現在は橋がないのであった。
旧東海道はここを右手に折れて行くのであったが、左折し寄り道を。



突当りに石柱道標があり「左 江戸」「右 西京」と。



南下した先にあったのが『諏訪神社』。



『諏訪神社』社殿。



そして右側にあったのが『八帖地蔵堂』。



折り返して国道1号線方面に北上すると左手にあったのが『八帖往還通り』石柱。



『八帖往還通り』を進む。



『光圓寺』本堂の屋根が右手に見えた。



『鐘楼』も。



そしてゆるやかな坂を登りきると、旧東海道は国道1号線と矢作川手前で合流。



この辺りが『岡崎二十七曲り』の終点なのであろうか?
これまで歩いて来た『岡崎城下二十七曲り』の詳細地図をネットから。








         【 http://home.h01.itscom.net/tokaido/4aichi/38okazaki27.html 】より

こんな地図も『現代の岡崎市に残る「岡崎二十七曲」』
こちらの終点は現在の『矢作橋』より手前の石柱道標・「左 江戸」「右 西京」辺りまで。
こちらの方が正しそうであるが。
いずれにしても、『岡崎二十七曲り』には明確な始点と終点がまだ決まっていないようであった。



『矢作川』に架かる『矢作橋』を渡る。
『矢作橋』は、『矢作川』に架かる東海道中一の大橋であり、寛永11年(1634)に幕府によって
架けられた橋であった。天保8(1837)年には長さが160間(約288m)あるといわれていた。
天保13(1842)年には長さ108間(約194m)という記録もあると。 
当時は、現在の橋より下流に架かっていたのだと。
五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」といわれたように、下を流れる矢作川の水運は、
岡崎藩に大きな恩恵をもたらしたのだ。



『矢作川(やはぎがわ)』。
『矢作川』は、長野県、岐阜県および愛知県を流れ三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本流。
矢作川の水は明治用水などに使われている。矢矧川とも書く。
長野県下伊那郡平谷村の大川入山に源を発して南西に流れる。岐阜県恵那市と愛知県豊田市の
奥矢作湖周辺では、矢作川が県境を決めている。流域に豊田市、岡崎市などがある。
下流域の矢作古川は元の本流であり、氾濫(はんらん)を抑えるため江戸時代初期に新たに開いた
水路が現在の本流となっている。愛知県碧南市と西尾市との境で三河湾に注ぐ。



矢作橋上からの名鉄名古屋本線鉄橋を見る。
江戸時代はじめはこの鉄橋の手前に土橋があったが、寛永11年(1634)家光の上洛時に
本格的な板橋になったといわれている。長さ208間(約378m)もあり、東海道で最長の橋、
また日本一長い橋だった。矢作川の舟運は三河の重要な運送ルートで、江戸時代はじめから
昭和2年(1927)まで320年もの長いあいだ、川舟による輸送が続けられた。
最盛期には三百艘が行き交っていたのだと。



矢作川に架かる矢作橋の下り車線を渡り終えたが次の目的の像は上り車線横にあった。
幸い国道1号線の下に歩道用のトンネルが設けられていたのでそこを潜って像の前まで
辿り着いた。
像は『出合乃像』。



ズームで。



『出合乃像』
「日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(居間の名古屋市中村公園)の木下弥兵衛(弥助)と
妻のお仲の子で、8才のころから奉公にだされましたが、12才の時の奉公先の陶器屋を
逃げ出しました。家へ帰ることもできず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で
前後不覚で寝ていました。
ここに海東群蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士の頭が、
手下をつれてこの付近を荒らし矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている
日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は、「頭をけり、ひと言のあいさつをしないのは無礼である。
詫びて行け」と、きっとにらみつけました。小六は子どもにしては度胸があると思い、
手下にするからその初手柄を見せよといいました。日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の
味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内にはいり扉を開けて、小六たちを引き入れました。
目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に
投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、
小六たちの一行についたといいます。史実とは異なりますが日吉丸と小六とのこの伝説は、
後の太閤秀吉と、武将蜂須賀小六の人間的一側面を語る物語として、今なお私たちの心に生き続け、
乱世の時代劇を垣間見る挿話となっています。
この伝説を後世に語り継ぐため、ここに石彫を建立するものです。」

しかし、この話はいくつかの点で史実と異なっているのだと。
矢作川に最初に橋が架かったのは慶長6(1601)年頃のことで、すでに、秀吉は
亡くなった後。また、実際には、蜂須賀小六の方が豊臣秀吉の家来になっていると。
話を面白くするためにこういう筋書きにしたのであろうか。 

『明治天皇御駐蹕の碑』
「旧笹屋こと寺田又治郎方は、今の矢作町大字矢作字市場の矢作川堤防上に在りました。
明治元年9月28日及び12月16日の2回、明治天皇がここで御休憩されました。
この石碑は、紀元(皇紀)二千六百年記念に建てられたものです。



『明治天皇御駐 の碑』(右)と『明治35年(1902)の旧矢作橋親柱』(左)。



旧東海道沿いの『勝蓮寺(しょうれんじ)』を訪ねた。
現在の国道1号線から矢作橋を西に渡り、旧国道(東海道)には入ればすぐの所にあった寺。



『親鸞聖人御舊跡柳堂』と刻まれた石碑。
その横には『岡﨑市指定文化財』案内板が。
 絵画 絹本著色蓮如上人像  一幅
 絵画 絹本著色徳川信康像  一幅  
    徳川家康の嫡男信康が淡い朱色の狩衣に褐色の袴をつけ右手に扇子を持って
    畳に座る姿を描く。信康唯一の肖像画で、17~18世紀制作
 工芸 獅子牡丹文鎌倉彫香合  一合 



『勝蓮寺』
「柳堂勝蓮寺と言われ、所蔵する古書には、寺を訪れた親鸞聖人と柳堂、布教の記事が
見られます。また、十七代住職行誓の時には、家康の長男信康(織田信長から、武田方と
内通したとの疑いを受け自刃。若宮八幡宮に首塚がある)との関係も深く、信康画像を
はじめ多くの遺品が残されています。」



『山門』。



『手水舎』。



地蔵堂と思われる御堂。



内部には『親鸞が座った石』が。



『本堂』。
真宗大谷派の当寺は、河原山と号し、天台宗の僧恵堯が師の恵心作の薬師如来を矢作の里の
柳樹の元に御堂を建てて納め、柳堂薬師寺と称したことが起源といわれています。
その後、嘉禎元年(1235)に、当寺の別当舜行が親鸞聖人の法弟となり、恵眼の法名を受け
真宗に改められました。
松平8代広忠、家康、信康、石川日向守などの崇敬が厚く、特に17代住職行誓の時には松平信康と
関係が深く、多くの遺品が保存されています。
本尊の阿弥陀尊像は親鸞聖人から与えられたものといわれています。



『鐘楼』。



寺務所と住職の家か?



『経蔵』。
非業の死をとげた徳川信康(家康の長男、正妻築山御前の子供)が残した唯一の絵は
この蔵の中に?。



『南無阿弥陀佛』名号碑と刻まれた石碑と墓碑。



無縁仏か?



旧東海道に戻り西へ進む。
『出合之像 から右手の筋を入るとここ矢作町である。
矢作の地名は、矢作りの技術集団 「矢作部」 が住む村であったことに由来すると。



和菓子の老舗『近江屋本舗』。抹茶味の夢大福」が美々であると。



『やはぎ飛鳥まつり』ポスター。
北野廃寺は飛鳥時代に建立され、千年ほど前まで岡崎市北部に存在した寺であると。



街道を暫く進むと右手に『弥五騰神社』弥五謄神社があった。
『弥五騰神社』は矢作町の氏神様で、正平元年(1346)に夢告を得た居守堀田家の弥五郎正泰が、
武内大臣及び平定経の二座を祀り、当時の人が弥五郎殿と呼んだのが始まりという。



参道入口右手には、「溺死菩提」と刻まれた『南無妙法蓮華経題目』が。



石鳥居と参道。



『社殿』。


申す者、左太彦宮と内大臣定経の霊を崇め奉って祠を建てる。
その願者主の名に困り弥五郎殿という。明治5年・神社調査の際、碧海群第96区5小区・
西矢作村員外社となり、社名を弥五騰社と改め無各社として据置かれる。又、字内に祀られた
八王子社・諏訪社を明治初年、境内社として祀る。
大正5年8月21日・右境内2社を本殿に合祀した。
御祀神は【手力雄命】【忍穂耳命】 【建御方命】【保食神】【菅原道真】5柱。



『矢作三区公民館』が神社社殿の横に。



『弥五騰神社』の脇の道路の奥の西側に『岡﨑市指定文化財 三区 山車蔵』があった。




                              ・・・ もどる ・・・

                  ・・・ つづく ・・・





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Last updated  2020.05.01 15:40:43
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