JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Comments

オジン0523 @ Re:3か月でマスターする数学・『モンティホール問題』(09/23) 最近は、難しいことをやっていますね! 私…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その5)(09/08) 矢張り有料席から見ると正面から見るので…
jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…

Favorite Blog

ウォーキングコース… New! 隠居人はせじぃさん

【はなちゃんの自販… New! Gママさん

相模国府祭と寺社史… New! オジン0523さん

ビルトイン食洗機の… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2020.05.02
XML

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

夏見地区の旧東海道を進む。



左奥にあったのが『湖南市立三雲小学校』。



左前方に案内板が。



「夏見一里塚
一里塚とは、大きな道路の側に1里(約3.927km)毎に旅人の目印として設置した
塚(土盛)である。
一里塚か全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年に江戸幕府は
日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令が出iされ、徳川家康の命を受け
大久保長安の指揮のもとに行われ、10年ほどで完了した。塚の大きさは5間(約9m)四方、
高さは一丈(約3m)で多くは榎が植えられ.木陰で旅人が休息をとれるよう配慮されていた。
この夏見の一里は、江戸の日本橋から115里の地点にあり.東の先は水口(泉)に.西の先は
石部にそれぞれ一里塚があります.しかし.多くあった一里毒も明治以降は保護されず、道路の
拡張や開発によってなくなり.そのまま残っているのはごく僅かで、この一里塚のような跡地を
示すだけになっています。この写真は数少ない愛知県名古屋市にある笠寺いちりつかで、
このような塚がここにもあったと想像されます。」
「​ 東海道の一里塚 ​」👈リンク「​ 東海道の一里塚一覧 ​」👈一覧 を参照下さい。



そしてこの先の案内板で、道路にも□30cm程の黄色の『夏見一里塚跡』碑が埋め込まれている
ことを知り、引き返してカメラに納めたのであった。



右手に真新しい『湖南市夏見会館』。



夏見一里塚跡から70m程先の左手にある夏見診療所辺りが立場跡であり、石部宿一里塚と
題された案内板が建っていた。
「東海道五十三次 石部宿 一里塚
この辺が夏見の立場といわれ、ここでも何軒かの茶店があり、立て場の役割を果たしていた。
名物トコロテンや名酒桜川を売っていた。
又ここから約七十メートルばかり東に行った所に一里塚があった。
道路南側に約三十センチメートル四方のコンクリートの枠が哩められている。
一里塚に植えられた榎の木陰で旅人はトコロテンを食べながら一休みした場所である。」
そしてこの心太(トコロテン)にまつわる歌が残っていると。
「いさぎよき 菜摘(夏見)の茶屋のところてん 水からくりの まわす人形」
この歌の意味は、「背後の山から湧水を引いて、その水で心太を冷やし、その冷やした水で
からくり人形を動かして、旅人の目を楽しませた。」



『三代歌川広重 東海名所 改正五十三驛 東海名所改正道中記《五十五》
石部 目川の里 草津迄二り半八丁 』



美しい屋根付きの板塀の民家が左手に。
以前は石塀であったがその上に板を貼り付けたのであろうか?



そして再び前方に天井川の隧道の姿が。



立派な民家にはなまこ壁も。



程なく右手にあったのが『真宗本願寺派 龍王山 報恩寺』寺標。



『報恩寺 山門』。



『報恩寺 本堂』。



本堂に掛かる『龍王山』の扁額。



『親鸞聖人像』。



井戸のある『手水舎』。



『報恩寺 掲示板』。
『コロナウィルスに気をつけよう』と。
そして
『​ 人間はみんな裁判官 他人は有罪 自分は無罪 ​』👈リンク



街道に戻ると、由良谷川隧道手前の右手筋に昭和10年(1935)の
『新田道』道標が建っていた。
トンネルの手前に、東海道と直角に野洲川方向に道が伸びていた。
野洲川の方面にかって新田が開かれたのであろう。



『由良谷川隧道』
由良谷川隧道には、天井川の由良谷川が流れている。由良谷川は上流の竜王山に源を発し、
曲流しながら北に向かい、野洲川に入る。川幅2〜6mで、平時は水が無い河川である。
隧道は、明治19年(1886)3月20日の築造であり、この先の草津川の隧道も
同日の竣工である。
大沙川からは1.5km西側にあります。
長さ16.0m、高さ3.6m、幅4.5m、欠円アーチ断面の隧道。



隧道の入口上部には『由良谷川』と刻まれた石が。



隧道を潜って進むと前方にあったのが『新由良谷川橋』。



これが現在の改修された『由良谷川』。



由良谷川隧道を抜けると、『旧針村』の集落に入って行く。



旧甲西町のマンホール蓋。
野洲川のさざなみと、 町の木「ウツクシマツ」が描かれているのだと。



旧家が続く。



緩やかに右にカーブする旧東海道。



先に進むと左手の細い筋角に『子安地蔵尊碑』が建っていた。
この筋を入って行くと浄土宗の和厳山西光寺の裏手に出る。
西光寺は、文亀元年(1501)享阿弥の開基で、本尊は阿弥陀如来である。



直ぐ先の右手に『針公民館』があった。
公民館脇の「おやすみ処」には「ようこそきづな街道(東海道)へ」 の看板が掛かっていた。




公民館前には、東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ、『針文五郎顕彰碑』案内板が。
「天保13年(1842)10月14日から16日、野洲、甲賀、栗太三郡の百姓が幕府の
不法検地強行に対し蜂起した天保一揆である。 この首謀者11人が最高裁の江戸送りとなる。
針の文五郎は十万日検地日延べ書持参の罪であった。 一番駕籠は文五郎で道中3人が死亡し、
江戸の白洲で8人が拷問にあいながら不法検地を訴え続けた。
しかし、全員獄死した。 針の文五郎は人一倍正義感の強い指導的立場の精農家であった。
天保14年4月18日死亡 行年50歳」。
石碑はどこにも見当たらなかったがどこにあったのだろうか?



『針公民館』の先の左筋を入って行くと、真宗本願寺派の『西教寺』があった。
『西教寺 山門』。



『西教寺 本堂』。



『本堂』に吊るされた大太鼓。



『親鸞聖人像』。



『西光寺』。



『西光寺 山門』。



『浄土宗 和厳山 西光寺』寺標。



『西光寺 本堂』。



更に旧東海道を進む。



十字路左角に『飯道神社』社標が建っていた。
飯道神社は、この筋を200m程進んだ林の中に有り、大同2年(807)の創祀といわれ、
古来針村小字飯道の森に所在していた。祭神は素盞嗚尊である。



静かな旧東海道沿いの住宅街が続く。



右手に『敬應寺 山門』。



『敬應寺』寺標。



『敬應寺 本堂』。



旧東海道に戻ると左手の御神木?の囲いの場所にあった石仏3体。



その敷地内に建屋が背を向けており、回り込んでみると、建屋の中に小社が祀られていた。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.05.06 06:40:44 コメント(1) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: