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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
大津市逢坂1丁目の旧東海道を進む。
「日本一のうなぎ店 かねよ」の看板があった。
先に進むと、右カーブの手前右側にあったのが『弘法大師堂』。
門前右に寛政6年(1794)の弘法大師常夜燈、『逢坂山 弘法太子堂』寺標、
そして『弘法大師御舊蹟碑』が見えた。
ここは車が多く往来し、カーブで見えないこともあり、道路を渡るのは危険と判断し
道路の反対側から写真撮影した。中央に弘法堂があり、中には小さな弘法大師像が安置され、
脇の不動堂には阿弥陀如来像と不動明王像などの石仏が安置されているのだと。
『弘法大師堂』の先の道路脇にあった寛政6年(1794)の『逢坂常夜燈』。
更に右カーブの『逢坂』を上って行った。
左手の坂を上っていく道は『逢坂山 水車谷 不動尊道』と呼ばれているようであった。
更に切通しの如き『逢坂』を上って行く。
左の石垣に『車石』を描いたプレートが埋め込まれていた。
「大津ー京都間を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資として利用されてきたが、この区間は、
大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所であった。
京都の心学者・脇坂義堂(わきさかぎどう)は、文化2年(1805)年に一万両の工費で、
大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍を刻んだ
花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てた。これを車石と呼んでいる。」
いたずらであろうか?絵は黒く上塗りされてしまっていた。
本来ならば・・・・。
【 http://youyou.way-nifty.com/blog/2014/05/post-984e.html
】より
その先のこれは??
『逢坂』を上りきった右手に平成21年(2009)に完成した『逢坂の関記念公園』があった。
横断歩道手前にあったプレートには
「蝉丸 これやこの ゆくも帰るも 別れては 知るもしらぬも 逢坂の関」と。
昔、子供の頃百人一首の遊び方の1つ「坊主めくり」をやったことを想い出したのであった。
その時のルールは確か
・絵が描かれた方の札=絵札(読み札)を使う。
シャッフルした絵札を、裏向きにして積む。(=山札)
・参加する人は、山札の周りに丸く円を描くように座る。
・順番を決め、参加者が順に山札から1枚づつ札を取る
・絵札が男性(殿)の場合、そのまま、自分の手札にする。
・絵札が僧侶(坊主)の場合、引いた人は自分の手札全てを捨てる。捨てた札は山札の横に置く。
・絵札が女性(姫)の場合、山札の横に置かれた札(坊主を引いた人が捨てた札)、
全てをもらう。
・山札が全てなくなった時、一番たくさん札を集めた人の勝ち。
その時の坊主札の代表がこの『蝉丸』の札であったのだ。
百人一種の『蝉丸』の一例。
しかし、姉からは “これは坊主じゃない” と言うような事を聞かされた記憶が
有ったような無いような・・・。
平家物語では、『蝉丸』は醍醐天皇の第四皇子となっているのだと。
【 http://photozou.jp/photo/show/215898/190839139
】より
寛政6年(1794)の逢坂『常夜燈』を見る。
その横には『逢坂山関址碑』(右)と『関門の基礎蹟と手水石』(左)が。
横断歩道を渡り近づいて。
その左下には『関門の基礎蹟と手水石』が。
『逢坂山関址』碑。
『逢坂の関』案内板。
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