JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.01.31
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そして環状4号線・横浜市主要地方道18号沿いにある「密蔵院」を訪ねた。
横浜市泉区和泉町727。



寺号標「高野山 真言宗 南竺山 正覚寺 密蔵院」
高野山 真言宗寺院の密蔵院は、澄貴(寛永16年・1639年寂)が開山となり創建したと。
「寂」とは涅槃(ねはん)に入る。仏教の僧が死ぬこと。
しかし開山は祐海法印で1500年代前半であるとの説もあるようだ。
旧和泉村内の神社や石仏、それに出羽三山講の先達としてその名を刻まれているから、
かつては和泉村の民間信仰の中心役を務めていたと。 



門前の文政4年(1821)建立の「南無大師遍照金剛木食観正」と刻まれた

江戸時代後期、小田原を拠点に、加持祈祷(かじきとう)などしながら関東地方へ布教し、
弘法大師の再現と世間の評判となった1人の民間宗教家が「木食観正」。
木食とは、木の実や果実を食べ、米や野菜を常用しない修行を意味し、また、このような
修行を守る遊行(ゆぎょう)僧で、一般に僧侶としての資格を持たない、民間の下級宗教者のこと
でもあったのだと。



石碑の最上部の文字は梵字の「ア」であるとのこと。
大日如来をさし、すべての最初という意味のある言葉であると。
密教の主要な瞑想法である「阿字観」で「ア」が本尊とされることから、極めて重要な
梵字であることがわかるのだと。
褝宗では仏像などの前で座する「褝」になるが、真言宗における瞑想は阿字観になり、
「阿」と書かれた梵字の前で瞑想すると。
褝は何も考えず、ひたすら無心で座るが、真言宗は大日如来の世界(宇宙)と一体化す
るべく真理を追求しながら瞑想するのだと。


         【https://kotodama-shodou.com/1753/】より

その下に「南無大師遍照金剛」、「木食観正」と刻まれているのだと。







参道の石段を登る。



正面に本堂。



「本堂」。
御本尊は願行作とされる「不動明王」。



扁額「南笠山」。







「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」。



修行大師の像。



「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場 参詣作法
お寺の名前の下の丸い筒の中に夫々のお砂か人っています。合掌なされて、南無大師週照金剛乂は
お願い事を一心に念じ乍、一番より順に八十八番までお巡り下さい。
最後にお大師様の正面で「南無大師遍照金剛」とお唱え下さい。
どなた様もどうそご自由にお詣り下さい。」
私の「​ 四国八十八ヶ所遍路旅 ​」👈リンク は 2018.03.30に「結願」したのであった。



「四国八十八ヶ所 霊場地図」で四国の地図の中に八十八ヶ所の寺の位置が示されていたが
・・・・木々が御影石に映り込んでしまい・・・。



境内の「稲荷大明神」。



扁額「稲荷大明神」。



「稲荷大明神」の「社殿」。



「鐘楼」は茅葺き。



「梵鐘」。



「南無大師遍照金剛」と刻まれていた。



境内の黄色の蠟梅も開花して。



素心蝋梅(そしんろうばい)であろうか。



蝋細工のような花で、芳香が周囲に。
12月から2月ごろ、冬枯れのなか、葉の展開に先立って花を咲かせていたのであった。


鐘楼横には宝篋塔、板碑などがきれいに並べられていた。
ネット情報によると写真向かって右から。
「建立年不明の宝篋塔(台石の裏側に宝篋塔と刻まれてます)。
その横後方、元禄十四年(1701年)阿弥陀如来。手前が板碑、
板碑横後方が宝永六年(1709年)合掌した地蔵(と思える)。
横手前、元禄四年(1691年)阿弥陀如来。
横後方、天和三年(1683年)阿弥陀如来。
横手前、慶安元年(1648年)の蓮を持つ聖観音(たぶん)。
横後方、慶安二年(1649年)如意輪観音。
横手前、建立年不明の合掌した地蔵(と思える)。
横後方、貞享四年(1687年)右手に錫杖、左手に宝珠を持った地蔵。」とのこと。



新装なった寺務所・庫裡・客殿であろうか、立派な大きな建物が「本堂」の右手に。



境内の階段上から見下ろす。
環状4号線により境内が分断されてしまった事が判るのであった。
昔境内にあった銀杏の老木が環状4号線の先の左手で寂しそうに立っていたのであった。
今は石段の下から「本堂」の屋根が見えたが、道路が開通する前は、鬱蒼とした木に覆われた
急な長い石段の参道があり、寺の「本堂」姿が全く見えなかったのであろう。



そして次に訪ねたのが「和泉川」の対岸にあった「稲荷社」。
横浜市泉区和泉町966近く。



鍋屋の森内にある「稲荷大明神」。



小さな「本殿」。



「密蔵院」の裏を北に向かって進むと、下和田二丁目の外れにあった小さな社。
社の隣には「密蔵院」入口の案内柱が立っていた。
横浜市泉区和泉町696-11。



神社の先の小さなT字路の角にあった「庚申塔」。
横浜市泉区和泉町698-4付近。



その先のY字路の「庚申塔」
横浜市泉区下和泉5丁目11-19付近。



日露戦争に従軍し、明治37年8月22日、清国盛京省の寺児溝西方で戦死された
「入内島元治郎」さんの慰霊碑。
そしてその隣に小さな堂に納められていた「双体道祖神」。
横浜市泉区和泉町1500-4付近。



そして北に向かい近くの矢澤家の見事な生け垣の前を歩く。
ここの防風用の生垣は、2種類の樹木によって2段造りになっていた。
下部は2mほどの高さまで常緑の低木のツゲを、その上には常緑の小高木のモチノキを
10mほどの高さまで配していた。
側面を垂直に、上部を水平に刈り込んだ緑の壁は、延べ70mにも及んでいるのであった



生け垣からの屋敷内への脇入口。



そしてこの場所からは2段でなく、ツゲの木とモチノキが交互に。



正面に「矢澤家」の立派な墓地が。



右に折れたその先にも小さな神社が左手にあった。



そして引き返して、直ぐに右に折れ、細い急な坂道を下って行き、次に訪ねたのが
「第六天神社」。
横浜市泉区和泉町785。



石鳥居と参道の石段。



鳥居の扁額「第六天神社」。
「第六天神社」という名前の神社はかつて無数にあったが、今は数えるほどしか残って
いないのだと。



鳥居奥にある狛犬と参道の階段。



「第六天神社と酒湧池(さくわくのいけ)
鎌倉幕府以前からこの地に祀られているといわれている古い神社です。
祭神は「面足能命(おもてたるのみこと)・惶根能命(かしこねのみこと)」のニ柱です。
境内の隣には池があり、弁天様が祀られ、弁天池と呼ばれています。
親孝行の息子がこの池の水を樽に汲んで病気で酒好きの父に飲ませたところ酒になり、
それを知った村人が一儲けしようと池の水を汲んだところ、ただの水になったという
「​ 孝子伝説 ​」👈リンクが残っています。」
昨年訪ねた千葉・酒々井町にあった「​ 伝説 酒の井 ​」👈リンクにも同様な伝説が残って
いたのであった。



「社殿」を斜めから。



正面から。
勧請年代は不詳であるが、鎌倉開府以前からの社と伝える。社前の道は古鎌倉道という伝承があり、
近くに陣屋敷、御畝、隠忍坊などという地名が残っている。
また社殿の傍らに酒湧地または弁天池と呼ぶ泉があり、孝子伝説を伴っている。
和泉町の地名もこの泉から出たという。
社伝には延宝年間、領主松平五郎兵衛甫昌の崇敬、社参を伝える。



第六天神社の左側の坂道を上って、社殿の裏手に進むと、右側に「酒湧池」の案内が。



竹で作られた垣根の間の急な階段を下っていくと「酒湧池」が現れたのであった。
「和泉町」の町名の起源はこの池だとも言われているのだと。



次に「稲荷神社」を右手に見る。
横浜市泉区和泉町1393-3付近。



そして「四ツ谷の湧水」付近の和泉川。



「四ツ谷湧水」と書かれた案内柱。



この日は「四ツ谷湧水」には湧き水の流れはなかった。



湧水があれば・・・(ネットから)


   【http://tottokocubtaro.seesaa.net/article/107742273.html 】より


横浜市泉区和泉町 2338 番地 2付近。



「魅力発見 泉区散策 ガイド」。
現在地は中央の5「四ツ谷の石仏」。



そして「草木橋」を渡り東に進むと突き当りに「石仏群」が。
近くに平安時代の住居址を中心とする草木遺跡があるのだと。



「四ツ谷の石仏」。
横浜市泉区和泉町2267。
左から、宝篋印塔(ほうきょういんとう)残欠(年代不明)、道祖神塔(明治3年・1870)、
地蔵庚申塔(寛文10年・1670)、出羽三山供養塔(文化2年・1805)、石祠(年代不明)
などであると。



ズームして。



そして150mほど南に行った場所にあっ庚申塔。



劣化が激しく・・・。



                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・








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Last updated  2021.05.25 16:12:10
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