JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.05.09
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』 👈リンク

「成就院」を後にして、「極楽寺坂」を下り「桜橋」まで戻る。



朱色の欄干の「桜橋」。
現在の桜橋は昭和32年3月に完成。
江ノ電が下を走っており、赤い高欄が目印の小さな橋。



再び「極楽洞」を見る。
1907年(明治40年)に建造されたレンガ造のトンネルで、設計は土井治男による。
平成22年11月24日に鎌倉市景観重要建築物33号に指定された。
江ノ電の愛称で親しまれている江ノ島電鉄株式会社は1902年(明治35年)に開業し、ほぼ当時の

極楽洞は レンガ造りの抗門で、桜橋から見ることができるのだ。江ノ電唯一のトンネルで、
藤沢方は極楽洞、鎌倉方は千歳開道と表示されている。
江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を
偲ばせるのだ。
延長:209m、高さ:5.285m、幅:3.940m。



アーチの頂部に2ヶ所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、
現在でも建設当時の原型をとどめているのだと。



赤い屋根の建物は「導地蔵尊」
極楽寺の門前、一見民家のような御堂である。道行く人が縁側に座って寛いでいるこの御堂は
「導地蔵(みちびきじぞう)」、「極楽寺地蔵」といわれ、中には鎌倉二十四地蔵の一つで
ある立派な御地蔵様が。




扁額「導地蔵」。
1267年(文永4年)、極楽寺の僧、忍性が運慶作の地蔵を安置したのが始まりといわれている。
兵火によって当初の地蔵は焼失したというが、1333年(元弘3年)に起こった新田義貞の
鎌倉攻めのこか定かではない。現在の地蔵像は室町時代につくられたものだと。



「内陣」。







以前に戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第二十番「極楽寺」の「導地蔵尊」の御朱印です。



堂の横にあった素朴な地蔵尊。



そして久しぶりに「極楽寺(ごくらくじ)」を訪ねた。
趣のある茅葺き屋根の「山門」。



「極楽寺(ごくらくじ)
開山は良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)。奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。
弘長2年(1262)に北条業時(なりとき)に招かれて多宝寺住持となり、その後文永4年(1267)に
極楽寺に開山として迎えられました。
極楽寺は正元元年(1259)に深沢に創建され、後に開基となる北条重時が現在地に移転したと
いわれています。元寇に際しては、幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府
滅亡後も勅命により国家安泰を祈る勅願所としての寺格を保ちました。かつての寺域は広大で、
中心の七堂伽藍を囲むように多くの子院、そして療病院などの病院施設もあったことが当寺に
伝わる絵図からわかります。
  ● 宗  派:真言律宗
  ● 山号寺号:霊鷲山感応院極楽律寺(りょうじゅせんかんのういんごくらくりつじ)
  ● 建  立:正元元年(1259)
  ● 開  山:忍性菩薩(にんしょうぼさつ)
  ● 開  基:北条重時 」



寺号標石「極楽寺」。
その右には
「當山 開基 北條重時 
    開山 忍性菩薩  墓 
       寺ノ内ニアリ」と刻まれた石碑も。



「鎌倉の旧地名 寺中(じちゅう)(現在の極楽寺三丁目)
現在の極楽寺三丁目のうち北側の旧字名(あざめい)で、極楽寺の境内に含まれていることが
地名の由来とみられます。
かって、極楽寺の境内は、現在の稲村ケ第小学校や極楽寺ニ丁目・四丁目の周辺なども含めた
広大な範囲に及び、多くの塔頭(たっちゅう)のほか、施薬院(せやくいん)などの医療施設も
ありました。極楽寺の開山である忍性(にんしょう)は、医療・福祉といった救済事業を行うと
ともに、道や橋、井戸などを造る事業にも取り組んだことで知られます。
極楽寺地区の旧字名として、寺中以外にも、極楽寺の北側にある谷戸「馬場ヶ谷」(ばばがやっ/
ばんばがやっ)があります。忍性が坂ノ下にあった馬用の病舎において治療した馬の調馬を行った
場所とされ、地名の由来になっています。」



「山門」の脇右下にある小さな「くぐり戸」から境内に入った。



「境内配置図」


【​ https://omairi.info/2018/09/30/gokurakuji-tpl-keidaisanpo/#outline__2 ​】👈リンク より


参道両側の桜並木は既に終わり新緑の若葉のトンネルになっていた。



以前に桜の時期に訪ねた時の写真であるが、満開時にはこの様にソメイヨシノが。



この日は、わずかに八重桜が花をつけていた。



右手に「太子堂」。
如意輪観世音が安置されている堂。



「鎌倉観音霊場第二十ニ番」札所。



以前に戴いた「鎌倉三十三観音霊場第二十ニ番 極楽寺 如意輪観世音」の御朱印です。



本堂前のサルスベリ(百日紅)はかなりの古木・樹齢200年以上をと。






       【https://iwalkedblog.com/?p=7685】より

「八重一重咲分け桜」。



八重の中に一重の花を見つけました。



「八重一重咲分け桜
北条時宗公が手植えと伝えられ、現在の桜はその古株より発生したものである。
一枝に八重と一重とが混生し、淡紅色の極めて美しい桜である。一名御車返しと云う。
原産地は鎌倉桐ケ谷と言われ、この桜は当地に存在する唯一のものである。」



「本堂」。屋根には北条氏の三つ鱗。
極楽寺(真言律宗)は、正嘉年間(1257~59年)、北条重時の発願で正永和尚が深沢に
建てた念仏堂(極楽寺と称していた。)を起源としている。
1259年(正元元年)、北条重時(二代執権北条義時の三男)が、その念仏堂を現在の地に
再建し、1267年(文永4年)、重時の子長時(六代執権)、業時の兄弟が念仏寺だった
極楽寺を律院に改めて、当時多宝寺にいた忍性を開山に迎えた。
七堂伽藍と四十九の支院を持つ壮大な寺院であったが、新田義貞の鎌倉攻めによって焼失、
以後再建を繰り返したが、その度に焼失し、現在は吉祥院を残すのみ。
本尊は釈迦如来。寺宝として十三仏十二番札所である大日如来、木造清涼寺式釈迦如来立像 
木造忍性菩薩像 木造文殊菩薩像など。


「本堂」には扁額は無く。



以前に戴いた「鎌倉十三佛霊場第十ニ番 極楽寺 大日如来」の御朱印です。



境内「転法輪殿(宝物館)」の前に「千服茶臼 製薬鉢」が。



「千服茶臼 製薬鉢
開山忍性菩薩が施薬悲田院、癩病所を設けた折に使用されたものだと伝えられる。
往古社会救済事業をなした極楽寺の貴重な遺品の一つである」。



赤子を抱く「子育地蔵尊」。



「寺務所 納経受付」。



「御朱印受付所」もここに。



境内の石仏。



「八重一重咲分け桜」と左手に「転法輪殿(宝物館)」。



白の藤の花は開花中。



ズームして。



「極楽寺の井」。



「極楽寺の井
山門前を掘りおこした時に発見された井戸です。鎌倉石を八段積み上げての大きなものです。
ここで開山忍性菩薩が粥を施したと伝えられます。昔の人々にとって憩の井戸であったろうと
思われます」。



「客殿」の玄関。



白菖蒲。



そして桜の花が落ちた参道・花莚(はなむしろ)を「山門」に向かって歩く。



花嵐中での桜吹雪も見たかったが。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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