JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.05.26
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』

鎌倉・円覚寺内の緑溢れる参道を奥に向かって進む。



左手に石段、その先の両脇に石仏が。



右手の石仏。
錫杖(しゃくじょう)を持っているので「地蔵菩薩像」。



左手の石仏。
仏像の手の指の形・印相は、「禅定印」。



境内にも様々な石仏が。



奥には「やぐら」が。

しかし、案内板等はなく。更なる詳細は不明。



そしてその前の参道の反対側が「法堂跡」。



「法堂跡
法堂とは禅宗寺院で住持が説法をする重要な場である。円覚寺法堂は北条高時公の時代、
北条貞時公十三回忌にあたる元享三年(一三ニ三)に建立。「直指堂」と命名された。
円覚寺が創建されてから約四十年後のことであった。鎌倉時代未期には山門、法堂は
もちろんのこと、方丈・華厳塔・佛日庵なども揃い寺の諸建物がことごとく整えられた。
法堂落成から応安七年(一三七四)の大火で全山が焼亡するまでの約五十年間が寺勢の最も
繁栄した時期だったのである。」。



「旧法堂跡地」。



右手の「百観音霊場」の壁の角にあったのが「佛牙舎利塔道」と刻まれた石碑。
これは「佛牙舎利塔道」、「正続院」への「道標」であろうが数箇所にあった。



左手にあったのが「寿徳庵」への石段。



寺号標石「寿徳庵(じゅとくあん)」。



前方に「山門」が見えた。



通路が開いていたので、行けるところまでと進む。



「山門」。







「山門」が開いていたので中に入らせてもらった。
正面に「本堂」が見えた。
「寿徳庵」は、円覚寺第150世・叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。
墓地には中興の三浦道寸(義同)一族の墓がある。三浦道寸は1516年(永正13年)
北条早雲により滅ぼされた。これにより三浦一族は400年の歴史に終止符を打ったのだ。
  • 山号:南山(なんざん)寿徳庵
  • 宗派:臨済宗・円覚寺派
  • 中興開基:三浦道寸
  • 本尊:聖観世音菩薩
  • 寺宝:木造月潭中円坐像






墓地の奥には「やぐら」があった。



「寺務所」であっただろうか。



ここまでに訪ねて来た「円覚寺」の境内を見下ろす。



朽ち果てた藁葺き屋根の建物の姿が見えた。



「寿徳庵」を後にし、緑豊かな石段を下りて行く。



前方に帰路に訪ねた「方丈書院」の「信徒会館(宗務本所)」の屋根が見えた。



更に参道を奥に進む。



左手の「やぐら」の中の石仏。



秋の紅葉も見事なのである。



そして右手に「方丈」の庭園が姿を現した。



心字池のある美しい「方丈」の枯山水の庭園。



秋にはこの様な紅葉の絶景が。


      【https://4travel.jp/dm_shisetsu/11348207】より

帰路に訪ねることに。



左手に「大用国師塔所」の標石が立つ。
「大用国師(誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)延享2年(1745年)〜文政3年(1820年))」は
伊予国出身の臨済宗の僧・歌人で、無用道人と号した。
香川景樹に和歌を学び、歌集「誠拙禅師集」がある。また、円覚寺仏日庵の東山周朝に師事して
その法を継ぎ、天明3年(1783年)に円覚寺前堂首座に就任した。
晩年は京都相国寺に移ったとされるが、塔所は円覚寺塔頭「正伝庵」なのだと。
江戸時代後期、修行道場を再興するなど、それまで一時衰退していた円覚寺を再興した
人物であると。



ここが「正伝庵」への入口。



門扉越しに「山門」を見る。



扁額「正伝」。



正伝庵(しょうでんあん)は、第二十四世明巌正因(みょうがんしょういん)の塔所。
本尊は宝冠釈迦如来。
1348年(貞和4年)、万寿寺(廃寺)内に創建された寿塔を、1354年(文和3年)、
円覚寺に移した。
正因は、円覚寺の国宝「洪鐘」の撰文をした西澗子曇(せいかんすどん)の弟子。
南北朝期の「本尊宝冠釈迦如来像」と開祖「木造明巌正因坐像」(1365年(貞治4年)作 
鎌倉国宝館に寄託)が安置され、木造明巌正因坐像は、2020年(令和2年)、国の重要
文化財に指定された。
禅の普及に努めた鈴木大拙が住まいしたことでも知られる と。



「佛日庵墓地」への門扉は閉められていた。



そして左手に「妙香池(みょうこうち)」。
「妙香池」の上に見えているのは、国宝舎利殿がある塔頭「正続院」境内の「一撃亭」。



「妙香池
総門前の白鷺池と並び、円覚寺創定当初から知られた放生池である。建武ニ年( 1335 )頃の
円覚寺境内図にすてに見られる。今回江戸時代初期の絵図に基づき、自然風の姿に戻し
「虎頭岩」と呼ばれる岸の露出岩盤を景観の中心として復元した。」
夢窓疎石の作庭であると。



「虎頭岩」。
波浪の浸食に模して造られているとのこと。



数匹の亀の姿が。



そして前方に「舎利殿」への道が見えて来た。



「贈従一位北條時宗御廟所」碑と「国宝 舎利殿」案内板。



「正続院」の「山門」・「修行道場入口門」に向かって進む。



新緑のモミジ葉が青空に映え輝いていた。



「正続院」の「山門」前に「佛牙舎利塔」と書かれた石柱があり、表に「従大唐國能仁寺拝請」、
裏に「寛政四年壬子十月十五日」、そして「征夷大将軍源実朝公」と刻まれていた。
舎利殿には、実は佛牙舎利(ぶつげしゃり)、つまりは釈迦の歯が納められているそれを
南宋から請来したのは源実朝であることがわかるのであった。



「山門」・「修行道場入口門」には「本派専門道場」、「臨済録提唱」と書かれた木札が。
その奥に「座禅道場に付き立入り禁じます」、「入制大攝心(にゅうせいおおぜっしん)」と
書かれた看板が。
「入制大攝心」の「攝心」とは、心を攝(おさ)めるという意味。
正続院(しょうぞくいん)は、円覚寺の開山無学祖元(仏光国師)の塔所(開山塔)。
本尊:文殊菩薩。鎌倉地蔵巡礼第13番札所(手引地蔵)。
もともとここは、三代将軍源実朝が宋より請来した「仏舎利」を納めるために、九代執権
北条貞時が1285年(弘安8年)に創建した祥勝院(舎利殿)があった場所。



「舎利殿 国宝
円覚寺の舍利殿には「佛牙舍利」と尊崇されるお釈迦様の歯牙をおまつりしております。
その由来は将軍源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものです。
この舍利殿は鎌倉にあった大平寺(尼寺・庭寺)の佛殿(鎌倉時代未~室町初期に再建)を移築し
たもので、中国、南宋時代の建築様式に学んだ禅宗様建築の代表的な遺構です。
関東大震災に倒壊しましたが、昭和四年に復元しました。
内部正面に佛舍利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥壇があり、観音菩薩と
地藏菩薩がまつられています。隣は円覚寺派の厳格なる修行道場となっており、円覚寺開山
無学祖元祥師をおまつりした開山堂とともに円覚寺随一の幽邃の地となっています。
正月の三が日、五月の連休日と十一月の宝物風入などの特別期間以外は修行の為、孫観を
制限させて頂いております。」



扁額「萬年山」。



「山門」とその奥に「舎利殿」。



ズームして。



「舎利殿」をネットから。
正続院の中心となる建物は舎利殿(昭堂)。
源実朝が宋より請来した「仏舎利」を納めていることから舎利殿と呼ばれる。
当初の舎利殿は、1563年(永禄6年)の火災で焼失し、現在の舎利殿は、西御門にあった
尼寺太平寺の仏殿を移築したもの。
我が国最古の禅宗様建築物といわれ、国宝に指定されている。


 【http://www.a-utsunomiya.com/photos/uncategorized/2010/05/07/p5030335_2.jpg】より

以前戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第十三番の「正続院」の「手引地蔵尊」の御朱印です。



「正続院」の「山門」近くの建物・「一撃亭」。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 15:29:45
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