JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.06.13
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カテゴリ: JINさんの農園
熱海・「ジャカランダ」を堪能した後は、国道135号を網代方面に向かって進む。



左手前方に「初島」の姿を見ながら進む。
この日は、見通しが悪く伊豆大島等の姿は確認できなかった。



前方に「赤根トンネル 381.5m」。



「長浜海浜公園」を左手に見ながら進むと左手にあったのが「秋葉燈籠」。
秋葉灯籠について
この秋葉灯籠は・昭和初年頃までは南へ約250mの、旧道筋にあったものです。
道しるべを兼ねており多賀の歴史を考える上でも貴重なものであり、また多賀にも秋葉講があり
火伏せの神さんとして知られた遠州の秋葉山へ代参していたことが偲ばれます。
火を大切にする心、火の恐ろしさ忘れてはならないという昔の人達の真剣な祈りが
こめられております。」



前方左手に目的地の熱海市網代の山々の姿が見えて来た。
網代港を抱くように突き出た網代山の姿も。



網代駅の手前、下多賀付近のJRに沿って進む国道135号脇の斜面には
様々な色に開花したアジサイの花が。







そして「長谷寺」にカーナビを設定し進むと、細い山道を進み到着したのがこの場所。
網代は古来から漁業を含む港として繁栄し経済的に豊かな地域だったため、熱海市との
合併(昭和32年)の際にも反対意見が多かったと伝わる。
ちなみに、明治22年(1889)に熱海村・伊豆山村・泉村(湯河原側)・初島村が
合併して熱海村になり、昭和12年(1937)に多賀村と合併して熱海市となった と。



「こちらは長谷観音 近道 約2分です」の案内板がった。
ここは裏山からの「長谷寺」へのルートであったのだ。



坂道を下って行くとあったのが海からの「灯台」の役目をした石灯籠。



江戸時代の俳人「東海呑吐の句碑」。
石碑には「呑吐居士」と刻まれていた。
そして石碑の裏には「天明元 辛丑 仲冬十七日」と。



「東海呑吐の句碑
熱海俳壇の祖・東海呑吐の供養碑です。熱海市内に江戸時代の俳諧に関係する碑があるのは
珍しいことです。碑は自然石でかすかに東海呑吐の絶旬が刻まれています。
「散る時は はてしれなくて 秋の月」。
呑吐は庵号を無壁庵といい、信州の侍でしたが、浪人のはてこの熱海にきて多くの門弟を
育てました。」



「八町同◯」と刻まれた石碑が傍らに。



更に坂を上っていくと右手の一段高い場所に多くの石仏が並んでいた。



石段の上り口にあった石仏。




石造三十三所供養観音像
観音像が三十三体一列に安置されていた。
一番奥寄りの自然石には「奉納経西国三十三所供養塔」と刻され、また、仏の像を刻した
供養塔二基があり、寛政3年(1791)と刻字されていた。



ズームして。



「熱海市指定文化財
彫刻 石造三十三所供養観音像   指定 昭和五十ニ年四月ニ十日
この石仏群は、三尊仏・三十三所供養観音(聖、千手、十一面、如意輪、馬頭、淮胝観音
(じゅんでいかんのん)等仏像、供養塔等、一揃いの珍しい野仏である。
江戸時代に網代が津(港)として栄えた頃、観音信仰をする地元民によリ造立されたもの
である。
供養塔に「寛政」・「嘉永」の刻銘がある。
              熱海市教育委員会」







「記念碑
往時網代の郷は、伊豆の一寒村にて小漁港にすぎず、住民は平和な明け暮れを過ごしていた。」
江戸は徳川氏の開府により人口が密集し物資の消費は膨大になり、全国からの舟航により集荷
され、網代の港はこの寄航地にしてまた避難港としてにぎわい一時は京都、大阪、江戸、網代と
まで呼称されるまでにいたった。当時網代に寄港した船舶の船主、船頭等が相寄って
大観世音菩薩像三十三体を建立 海上の安全と豊漁とを祈願した。しかるに明治以降文明開化
によって帆船は蒸気船に替わり網代の港もその使命を終えていつしか本菩薩像の存在も時代の
推移とともに忘却されて荒廃するに任された。ここにおいて網代漁業株式会社◯〇〇惜しみ
往時を懐古するとともに海上の安全及び大漁とを祈念して本仏像を修復し記念碑この地に建つ」



反対側から「三十三観世音菩薩」を。



左手前の自然石には「奉納経西国三十三所供養塔」と刻されていた。



仏の像を刻した供養塔二基があり、寛政三年(1791)と刻字されていた。



上段に並ぶ石仏群。



正面に見えて来たのが「網代長谷観音(長谷寺)」の「本堂」。



左手の池には石塔と小さな祠が。



「根越山 長谷寺」と刻まれた石碑。

長谷観音

この祠は?



内陣には小さな社が二社。中央に鏡が安置されていた。



そして隣りにあったのが「太子堂」。



「太子堂」の内陣。



「太子堂建造の由来
聖徳太子は、寺大工、瓦工、鑢(やすり)工、画工等の最新技術もつ帰化人を多く受け入れ
仏教美術工芸の発展に生涯を捧げ曲金や墨壺・物差・印刷技法等を広め多くの工匠を輩出
したので神として崇められる様になり、法隆寺御用達の職方により工芸技法の祖として太子
信仰が高まりました。
当地でも技芸に携わる先人により太子堂が建立され大正十二年網代職工組合にて太子の遺徳を
偲び、正、五、九各月に技量の向上と息災を祈念して太子祭を行い現在に至っています。」



そして「本堂」へ。
鎌倉・奈良の「長谷寺」とともに一木三体観音像とされる、行基手掘りの聖観音像を
御本尊として安置する古刹で、「伊豆88ヶ所霊場」の第26番札所となっている。



網代の善修院開山・大祝和尚が大永元年(1521)に開いた観音堂が原型で、海の安全を
祈る漁民の観音信仰と行基伝説が結合した、或いは大祝和尚が強引に結びつけた、と考えられる。



扁額は「長谷寺」。



「内陣」。



竹林に囲まれた参道を山門に向かって下って行った。



こちらが国道135号 宇佐美・網代バイパス沿いの「網代長谷観音」への入口であった。

長谷観音

「網代長谷観音縁起」。

長谷観音

そして「長谷寺」の「山門」への石段を上って行った。



「山門」の扁額も「長谷寺」。



「山門」を潜り境内へ。



「山門」を振り返る。



この木が御神木であっただろうか。



そして歩いて来た山道を上って行くと右側の山の斜面には巨石が転がっていた。



この周辺が「熱海石丁場跡」なのであった。
江戸城の普請が大規模に行われた17世紀前葉の大名家の文書では「御丁場」「丁場」「石場」
などと書かれていた。石丁場という言葉は、17世紀の後半以降の伊豆の村々の差出帳
(領主が村に対して出させた現在の市勢要覧のようなもの)から確認できる。
以後、現在まで採石場を石丁場と呼ぶようになったのだと。



矢穴が残る巨石。
大石を割るのには、石に矢穴を掘って堅い木や鉄の楔(V字型)をその穴に打ち込んで割ったと。
東伊豆工リアには、あちこちでこうした矢穴が残る築城石が見られるのだと。
デカすきて通び出せなかったもの、形が悪かったもの、割れなかったもの、置き去りにさ
れたものなど、その理由は様々であるようだ。



熱海石丁場跡は「網代朝日山公園」内にある石切場跡。
1606年から1636年にかけて行われた江戸城の大規模改修工事にあたり、この地域から
切り出された石が城の石垣に使われた。
この石丁場は、熊本藩主加藤忠広や小倉藩主細川忠興などの大名が使用したといわれる。

徳川家康の命による江戸城改修の際に、石垣用の石材を切り出した採石作業場の遺跡
なのであった。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2021.06.14 01:14:49
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