JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.06.14
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』

「明治天皇閲兵の處」の横の石段を下って行くと右手にあったのが「若宮 儀式殿」。



「若宮」。
「若宮」は、上宮と呼ばれる本宮に対して「下宮」とも呼ばれるが、
実は、鶴岡八帽宮創建当初はここがメインの社殿であった。



1191年(建久2年)3月4日の鎌倉大火で鶴岡八幡宮は焼失してしまうが、頼朝は
すぐさま再建に取りかかり、若宮の再建とともに本宮(上宮)を造営し、現在のような
上下両宮の姿となる。 
現在の社殿は、1622年(元和8年)から始まった江戸幕府二代将軍徳川秀忠による
鶴岡八幡宮の大改修時のもので国重文(寛永の大改修・1626年(寛永3年)完了)。
2019年(令和元年)11月、漆塗り等の工事が完了し、彩色豊かな社殿が蘇っている。



「若宮」前から「舞殿」を見る。



朱色の橋から新緑の溢れた「柳原神池」の左側を見る。



「右側」を見る。
「柳原神池」では、6月上旬に行われる「蛍放生祭」で蛍が放たれ、夜間に蛍を観賞することが
できる(ほたるまつり)との事であるが今年も中止なのであろう。



「柳原」碑。
「此辺は往昔柳の名所にて柳原と唱(とな)へし由 口碑(こうひ:伝説)に 年経たる鶴岡辺の
柳原青みにけりな春のしるしに の古歌伝へらる 其の作者詳(つまびらか)ならざれども 
一説には北条泰時の歌ともいふ 現存の柳は即ち往昔の名残ならん」

【ここら辺り昔は柳の名所で、柳原と言われていたようです。「年経たる 鶴岡辺の 柳原
青みにけりな 春のしるしに」という古い歌が伝えられています。
その作者は分かっておりませんが、一説には北条泰時(やすとき)の歌ともいわれています。
現在見られる柳は、昔の名残でしょうか。】



柳原にある「由比若宮遙拝所」。
由比若宮は、1063年(康平6年)に源頼義が由比郷に源氏の氏神・京都の石清水八幡宮を
勧請して創建した社。
1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝は由比若宮を小林郷に遷座。
それが現在の鶴岡八幡宮。



白旗神社への道の脇には、「鶴亀石」という2つの大きな石が祀られていた。
水で洗うと鶴と亀の模様が浮かび上がると言われる、縁起の良い石なのだが、勝手に
洗うわけにもいかないので、確認できないのが残念。
雨に日には多少は鶴と亀の模様が浮かび上がるのだろうか。



「鶴亀石
記 相模國風土記稿 に水をもって石面を洗う時は鶴亀の紋様が輝きあらわれると記され
大変めでたい石である。



そして「白旗神社」に近い木々の中には句碑が置かれていた。



「歌あはれ その人あはれ 実朝忌 裸馬」



「大銀杏の下で非業の死をとげた三代将軍源実朝公をいたみ俳人であった菅礼之助
(俳号 裸馬)が詠んだ歌
歌あはれ その人あはれ 実朝忌 裸馬」。



そして「白旗神社」の手前に出る。



「白旗神社
御祭神 源實朝 命
            源頼朝 命
例祭日 五月二十八日」。



「社殿」の屋根には源氏の家紋の「笹竜胆」が。



「手水舎」。



竹に小孔を開けて。



白旗神社は、1200年(正治2年)、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り、源頼朝を
祭神として北条政子が創建したのだと伝えられている(一説には源頼家の創建とも。)。
もとは上宮の西側にあったが、1885年(明治18年)、源実朝を祀る柳営社と合祀され
現在地に遷された。したがって、現在の祭神は、源頼朝と源実朝。
明治の神仏分離前までは、この場所には薬師堂があったとのこと。



「白旗神社」の参道を「源氏池」方向に進むと左手にあったのが「鎌倉国宝館」。



「​ 鎌倉国宝館 ​」👈リンク
大正12年の関東大震災により鎌倉の社寺の建造物や仏像などが大きな被害を受けたことから、
貴重な文化財を災害から保護しえる施設の必要性が浮き彫りとなり建設されたと。



「特別展 鎌倉の至宝」が5月9日まで開催されていた。



「文学案内板 鶴岡八幡宮
鷯岡八幡宮は、「吾妻鏡」をはじめ「平家物語」や「義経記」などの軍記物語、「海逍記」、
「東関妃行」どの紀行、「とはずがたり」や「徒然草」、「金槐和歌集」など、各分野で
多数の筰品に描かれています。
さらに、近せ、近杙にには数えきれないほど多くの攵学筰品に描かれておリ、また、境内ては、、
実朝忌俳句大会やぼんぼり祭りなどの催しが開かれています。
この案内板では、境内にある丈学碑のみを紹介します。
●源実朝歌碑
 山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
                昭和十七年 鎌倉文化連盟建立
 正面に見えるのが、関東大震災で倒れた二の鳥居による歌碑。この歌碑は、当初鎌倉ペンクラブ
 により計画されたのち、鎌倉文化連盟結成とともに、連盟各部の協同事業として、社団法人・
 鎌倉同人会の参道も得。建立された。
●菅裸馬句碑(白旗神社前)
                昭和三十六年 同人社建立
・・・以下略・・・」


関東大震災で倒壊した二の鳥居を再利用した実朝歌碑。
「山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」(金槐和歌集663)
と刻まれている と。



そして「白旗神社」の石鳥居から「白旗神社」の「社殿」を望む。



「鎌倉幼稚園」の横を「源氏池」の広場に向かって進む。



広場には白い鳩が悠々と、ここは白の「源氏池」であると。



「源氏池」の3っつの島のうち一番奥の島が前方に。



こちらは「旗上弁財天社」の鎮座する島。



広場にあった「さざれ石」。



「さざれ石
この石は国歌「君が代」に「さざれ石の巌となりて」と詠まれている「さざれ石」です。
石灰石が雨水で溶解され生じた乳状液が小石を凝結して「君が代」に詠われているように
大きくなって岩に成長したのです。
学名を石灰質角礫岩といいます。昭和三十六年 岐阜県春日市で小林宗一氏により発見され
五十ニ年に岐阜県の天然記念物に指定されました。この石は発見者の御子息小林文治氏に
より昭和五十六年に当八幡宮に奉納されました。」。



そして「齋館」の入口。
例大祭にて神社本庁よりお越しになる献幣使の方が宿泊される「齋館」。



「池泉回遊庭園」の「齋館」側の入口。



「齋館」の白壁。



「実朝桜」が植えられていた。



「風さわぐをちの外山に天晴れて 桜にくもる春の夜の月」(金槐和歌集50)



左手奥に「鶴岡研修道場」。
弓道・剣道・柔道・合気道のそれぞれの武道を通じ、現代に生きる国際人たるに相応しい人格を
陶冶する場を崇敬者、特に青少年に提供するという目的の下、創設された施設であると。



「東鳥居」を見る。



「東鳥居」を潜ると右手角にあった石碑は「畠山重忠邸址」碑。



「正治元年(1199)五月 頼朝の女(むすめ)三幡(さんまん)疾(病)み 之を治せんが為
当世の名医丹波時長京都より来れる事あり 東(吾妻)鑑に曰(いわ)く七日 時長
掃部頭(かもんのかみ)親能(ちかよし)が亀が谷(かめがやつ)の家より
畠山次郎重忠が南御門(みなみみかど)の宅に移住す 是と此の地即ち其の南御門の宅の蹟なり」

【1199年5月、源頼朝の娘が病気にかかり、これを治すために、当時一番の名医といわれた
丹波時長(たんばときなが)を京都から呼びよせました。吾妻鑑(あづまかがみ)によると、
7日に時長が、中原親能(ちかよし)の亀が谷(かめがやつ)の家から、 畠山重忠の南御門
(みなみみかど)にある宅に移動した、と書いてあるが、この場所が南御門のその家の
あった跡であります。】







「東鳥居」の前の道を県道204号線・横大路に向かって進む。



右手に朱の鳥居が見えて来た。



朱の一の鳥居の奥に小さな社があった。



「正一位稲荷社(しょういちいいなりしゃ)」の二の鳥居。



「社殿」
安政4年(1857年)京都の朝廷より「正一位稲荷」の神号を許可された。
それ以前は築山稲荷という名前だったと。
鶴岡八幡宮の源平池を作った時に出た土で築かれたといわれる、土手の上にある稲荷社。



扁額「正一位稲荷」。



そして正面に県道204号線・横大路が見えて来た。



県道204号線・横大路を左に進む。



左折して直ぐ左手のビルの壁に小さなプレートが貼られていた。



「鎌倉幕府 政所(まんどころ)跡」。
政所とは、鎌倉幕府の政庁で、財政や鎌倉市中の雑人の訴訟をつかさどった行政機関。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、税収確保のため、1191年2月に、大江広元を別当に就任させた。
当初の政所は「公文所」(くもんじょ)と呼ばれ、行政事務の管理と、鎌倉市中の行政などを
担当させた。
財政に関する収納や給田などの実務、鎌倉市中の訴訟の受理と裁断、人事の管理、使者の派遣、
文書の受理・発給・保管など、日常的な政治実務を処理したとのこと。
この前を通る「横大路」の突き当たりは北条徳宗家の屋敷(現宝戒寺)であり、道なりに左に
曲がれば、直に三浦氏の屋敷。更には、政所裏手には畠山重忠邸。有力御家人邸が立ち並ぶ
一角なのであった。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2022.05.19 15:42:40
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