JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

イチョウの大木、サ… New! 隠居人はせじぃさん

新磯地区の寺社史蹟… New! オジン0523さん

【街路樹花壇の高砂… Gママさん

2024年はムベが不作 noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2021.07.18
XML
カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』

「海蔵寺」を後にして往路と同じ道を引き返し、横須賀線のガード下を潜り
「扇ノ井(鎌倉十井)」に向かう。
その名の由来は、井戸の形が扇の形をしていることからといわれているが、源義経の愛妾、
静御前が舞扇を納めたからとも伝わっている。
現在は民家の敷地内にあるので、公開されていないと。
この辺りの「扇ガ谷」という地名はこの井戸に由来するという説もあるのだと。
民家の奥の崖の補強?部分の下にそれらしき姿があった。



ズームしてみると、昔の手動井戸ポンプの姿や、石灯籠、石仏の姿が確認出来た。




鎌倉市扇ガ谷3丁目2。


  【https://yil.jp/opto/digitalcamera/work/kamakura-well-02-ouginoi/index.shtml】より

そして次に訪ねたのが「相馬次郎師常之墓」。
鎌倉市扇ガ谷2丁目9。



「相馬次郎師常(もろつね)之墓
「帥常ハ千葉介常胤ガ第二子ニシテ 相馬氏ヲ嗣(つ:継)ギ 巽荒神(たつみこうじん)ノ辺ニ
邸ヲ有セシガ 元久二年(1205)十一月十五日 歳六十七ヲ以テ端座(正座)合掌ノ裡(うち)ニ
決定往生を遂(と)ゲ 其結縁トシテ僧俗ノ人々集リ拝セシトイフ  窟中ノ宝篋印塔
(ほうきょいんとう:墓碑石塔)ハ即チ帥常ノ墓ナリ」

【相馬帥常は、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の次男であり、相馬家を相続し、巽荒神
(たつみこうじん)の辺に住んでいましたが、1205年11月15日に67歳で、正座し合掌したままで

あります。】



岩の中の「相馬次郎師常帥常の墓」が正面に。



木製の扉を南京錠で閉ざされていた。



「鎌倉市指定 史跡 相馬師常墓やぐら 平成八年十月十八日指定
このやぐらは、古くから相馬師常(一一三九~一ニ〇五)の墓と伝えられ、地元の人々に厚く

奥壁左隅の小龕中には一石五輪塔が置かれています。
千葉常胤の次男で、相馬氏の祖。政治承四年(一一ハ〇)父常胤とともに源頼朝の挙兵に加わり、
文治五年 ( 一一八九)には奥州征伐に随うなど多くの戦功をあげています。
本やぐらは閉塞された大形の龕を持っ特色のある形態であり、保存状態も良好で当初の姿を良く
伝えているとともに、被葬者が知られることが極めて稀な「やぐら」にあって、有力御家人の墓と
伝えられているなど、史料的価値の高いものです。」



「相馬次郎師常之墓」の横にはアジサイの花が。



その奥には別の「やぐら」が。



横須賀線に沿った住宅街の道を進む。



鎌倉八幡宮で令和三年六月三十日に行われる「大祓」のポスター。



「浄光明寺」に向かって進む。



鎌倉市扇ガ谷2丁目13−2附近の住宅街を進む。



そして左手にあったのが「浄光明寺」入口。



寺号標石「真言宗泉涌寺派 泉谷山 浄光明寺」。



その後方に「藤谷黄門遺蹟」碑。
「冷泉為相卿ハ為家ノ子ナリ 従二位中納言トナル 和歌所ノ事ニ由リ 兄為氏ト争論ノ末 
ソノ母阿仏尼ト共ニ鎌倉ニ来タリ幕府ニ訴フ 遂(つい)ニ藤谷ニ寓(ぐう:住居)シ 藤谷殿ト
称セラル 藤谷百首 ト呼ビ世ニ伝承セラルル和歌ハ 此地ニテ詠出セラレシ者ナリ 
網引地蔵ハ其ノ建立ニ係ルト云ウ 卿ノ墓ハ其ノ後山ノ頂ニ在リ 五輪塔ニシテ 月巌寺殿
玄国昌久ノ八字を刻セント謂ウモ 今ハ漫滅(摩滅)シテ字体ヲ弁ゼズ」

【冷泉為相(れいぜいためすけ)は、為家(ためいえ)の子供です。播磨(はりま:兵庫県)の土地の
所有の事で、兄の為氏(ためうじ)と紛争がおきました。そのため、母の阿仏尼(あぶつに)と共に
鎌倉に来て、幕府に訴えました。そして、藤谷(ふじがやつ)に住んだので、 藤谷殿と
言われました。
藤谷百首(ふじがやつひゃくしゅ)と言う和歌集は、この場所で詠まれたものです。
網引(あみひき)地蔵を建てるのに、関係しているようです。またその墓は、この後の山の頂にあり、
五輪の塔で、月巌寺殿玄国昌久の八文字が刻まれていますが、 現在は、磨り減ってよく
読めません。】



「冷泉為相 舊跡」碑。



「浄光明寺(じょうこうみょうじ)
鎌倉幕府六代執権・北条長時が、開山に真阿を迎えて建立しました。北条氏の帰依が篤く、
また、鎌倉公方(鎌倉府の長)の保護も受けました。
本尊の阿弥陀三尊像(国重文)は宋(現在の中国)の影響を受けた美しい造形です。
中央の阿弥陀如来像の衣の装飾には、「土紋」といわれる鎌倉地方特有の技法が使われています。
裏山には歌人藤原定家の孫で、歌道の名門冷泉家の始祖為相の墓があります。
母の阿仏尼は、京から鎌倉への紀行文『十六夜日記』の作者です。
・宗派    真言宗泉涌寺派
・山号寺号  泉谷山浄光明寺
・建立    建長3年(1251)
・開山    真阿(真聖国師)
・開基    北条長時」



「山門」に向かって進む。



右手の塀の白線は5本の筋塀(すじべい)。
元々は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院の土塀の壁面に、その証として5本の定規筋を
引いたのが始まり。皇族や摂家などの御所に用いられた。
皇室に由来する格式を表し、その格式の高さにより三本、四本、五本の種があり、
五本を最高とするのだ と。



浄光明寺は鎌倉七口(三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口を指す名数)のうちの
亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ガ谷(おうぎがやつ)の
支谷、泉ヶ谷に位置しているのだ。
「山門」はもと英勝寺の惣門を移築したものであると。
切妻造本瓦葺の山門(四脚門)、英勝寺創建の寛永年間の作と推定されている。



「真言宗 泉涌寺派 准別格本山 泉谷山浄光明寺」。



頂いたパンフレットから「浄光明寺」の境内配置図を。
鶴岡八幡宮から北西約0.5㎞、仮粧坂の東約0.5㎞、亀ヶ谷坂の南南東約0.3㎞に位置する
「浄光明寺」は、鎌倉の北西を開析する扇ガ谷の一画にあたり、鎌倉の交通上及び防御上の
最も重要な地域に営まれた寺院であり、切通の近辺に重要な寺院を配置する鎌倉幕府の意図が
現れているのだと。

必見!〗浄光明寺の芸術的御朱印と年に一日だけ公開される裏庭 - 酒とうどんと御朱印の日々

台座に「楊貴妃観音」と刻まれた石仏像。



世界三大美女のひとり、楊貴妃像。
2003年に寄進されたこの像は鎌倉の隠れた美人祈願・恋愛成就スポットと言われていると。



「楊貴妃観音」のお顔をズームで。
左手に持っている花は「蓮の花」ではなさそう。



こちらも周囲に切目縁を巡らした「本堂」の如き大きな唐様建築の「客殿」。



見事な龍の彫刻。



客殿左手に建つ「庫裡」は切妻造桟瓦葺で妻入り。



「客殿」と「庫裡」の連絡廊下にも入口が。
ここが「庫裡」の入口か。



萩の花が咲きだしていた。



境内には「タイサンボク(泰山木)」が。



そして大きな白い花が。
葉は長さ20 cm以上ある広楕円形で、表面は濃緑色で光沢があり、裏面は毛が密生しており
錆色に見える。



大きな白い花からは、甘い香りが漂って。

ブラタモリで紹介された浄光明寺 - おいしい野菜をつくろう

「国重要文化財 阿弥陀三尊像ほか(石段上、収蔵庫内)本日、拝観できます」と。



「鐘楼」。
昭和六十一年(1986)建立の切妻造本瓦葺の「鐘楼」。



「梵鐘」。



切目縁を巡らせた宝形造りの「不動堂」。
切目縁は縁板を敷居と直角方向に張った縁。濡れ縁に用いる。
露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の不動堂。.正面は桟唐戸と脇間は引き戸式の舞良戸。
延享二年 (1745)建立(推)で、天明三年(1783)再建と。



扁額「不動堂」。



正面に苔むした石段があったがここは通行禁止であった。



右手にあった石段を上って行った。
途中にあった「虚空蔵菩薩」。



近づいて。



やぐら内には墓石が。



多くの墓石がやぐら内に。



正面に「収蔵庫」。
200円を払い、国重文の「木造 阿弥陀如来及両脇侍座像」を案内して頂いた。



国重文の「木造 阿弥陀如来及両脇侍座像」



国重文の「木造 阿弥陀如来」。



「矢拾地蔵」
「矢拾地蔵」は、上記の阿弥陀三尊が祀られているなかに、いちばん左のすみに置かれていた。
足利直義が戦いの時、矢が無くなって困っていたときに、一人の僧の子どもが矢を差し出して
くれた。帰って、家の地蔵を観てみたら、片手に矢を持っていたと。
この木像の地蔵様は、宋風の特徴が見られ、中世の鎌倉のみで流行した「土紋」と呼ばれる装飾
技術が用いられた仏像としては最古のものと住職?が丁寧に説明してくださいました。


   【https://livedoor.blogimg.jp/shu10gyu/imgs/b/7/b7de6936.jpg】より

「浄光明寺敷地絵図」(重要文化財)
平成12年に鎌倉市内の旧家で発見されたもので、鎌倉幕府滅亡直後に寺領の確認を新政権に
求めるために作成されたと考えられる絵図で、全盛期の境内の様子がはっきりと描かれています。
敷地の境界部分に太線が引かれて三角形のマークが描かれていますが、これは足利尊氏の
従兄弟である足利重能の花押です。
山門に面した緩やかにカーブした道など、絵図に描かれた鎌倉時代の地形はほぼそのまま
現在まで残されています。


   【https://www.goshuinbukuro.com/entry/2017/05/26/235057】より

浄光明寺敷地絵図の説明





   【https://omairi.info/2019/03/05/jyoukoumyouji-tpl-umekamakura2019/】より



                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.05.19 16:00:37
コメント(0) | コメントを書く
[鎌倉市歴史散歩] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: