JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.07.19
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』

「浄明光寺」の散策を続ける。
こちらが「仏殿(阿弥陀堂)」。
「仏殿(阿弥陀堂)」は三間四方の禅宗様建築で、正面は連子付き桟唐戸で脇間に
花頭窓があった。
寛文八年(1669)建立の唐様建築で、源頼朝創建の永福寺からの移設とされる。



浄光明寺のこの仏殿には、かつて本尊の阿弥陀三尊坐像(「木造阿弥陀如来及脇侍坐像」
(国重文))が安置されていた。
そのため、「阿弥陀堂」と呼ばれる。

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現在は、浄光明寺の本山泉涌寺に倣って三世仏が安置されているのだと。
左から「過去佛 阿弥陀如来」、「現在佛 釈迦如来」、「未来佛 弥勒如来」。



「市指定文化財 浄光明寺仏殿(本堂)
浄光明寺仏殿は、鶴岡八幡宮寺元喬僧都が、母の菩提を弔うために資金を提供し、寛文八年
(一六六八)に再建されました。
元々は浄光明寺本尊である阿弥陀三尊像が安置されていましたが、本尊が収蔵庫に遷座された
ことにともない浄光明寺の本山である京都泉涌寺仏殿に倣って三世仏を造像し、
過去・現在・未来にわたる仏法の興隆を祈願しています。
堂内奥には室町時代頃の作と考えられる開基・北条長時の坐像(向かって右)と開山・真阿和尚
(真聖国師)の坐像(向かって左)を安置し、堂内右手前には境内の経塚遺跡から出土した
常滑窯の大甕を(鎌倉時代)置いています。
ちなみに、仏殿再建に資金提供をした元喬僧都の墓で、傍らには、その母親の墓も建てられて
います。」



「仏殿」を後にして、「仏殿」と「収蔵庫」の間を奥に進む。



「重要文化財 史跡 浄光明寺境内 冷泉為相墓」案内板。




そして右手の石段を上っていくのであった。



ズームして。



手前には「石祠」が。



こちらの墓石には「先祖代々一切性霊 池光院◯海隼蓮清居士」と刻まれていた。



そして自然岩を削り出した石段を進んでいくと木製ゲートがあり、開いていた。
この先に「網引地蔵」があると、住職?から。



ここはコンクリート製の石段が。



そして平らな場所に出ると正面には大きな「やぐら」が姿を現した。



「やぐら」の中に石仏が見えた。



やぐらの手前左に「網引地蔵」碑。



浄光明寺の裏山「やぐら」内に安置されている「石造地蔵菩薩坐像」は、「網引地蔵」と呼ばれ、
鎌倉二十四地蔵の一つに数えられている。
由比ヶ浜の漁師の網にかかって引き上げられたものだと伝えられ、1325年(正中2年)の銘が
刻まれていると。
扇ヶ谷の鎮守・八坂大神は、かつて「網引地蔵」の西に鎮座していたという。




左手には宝珠を持ち、かつては右手に錫杖を持っていたのであろうか。



右手奥にも更に深い「やぐら」の副室があるようであった。



手前の石碑には「地藏菩薩石坂供養塔」と刻まれていた。
他にも小さな文字で何か彫られているが解読出来なかった。



「やぐら」の天井には天蓋を設置したであろう痕跡が見られた。




「網引地蔵」を別の場所から見る。
「市指定有形文化財 彫刻 石造地蔵菩薩坐像一軀」と書かれた木柱があった。



「網引地蔵」のほぼ真上にあるのが「冷泉為相墓」。
長い石段を上って行った。

【重要文化財】 浄光明寺五輪塔  アクセス・見学のしかた_b0212342_11454139.jpg

石段の上に「宝篋印塔」が見えて来た。



国史跡「冷泉為相墓(」。



「国指定史跡 冷泉為相墓 昭和二年四月八日指定
冷泉為相は藤原定家の孫で、母は『十六夜日記』の作者阿仏尼である。為相は歌学・連歌の
造詣が深く、歌風は広く世に知られている。永仁三年(一ニ九五)鎌倉に下り、
嘉暦三年(一三ニ八)この地に没した。
この宝篋印塔は相輪が欠けているが、南北朝ごろの形式をよく伝えている。
なお、玉垣は徳川(水戸)光圀が寄進したものである。」



「「冷泉為相」は「十六夜日記」の作者として知られる阿仏尼の子で、嘉暦三年(1328)に
没した「冷泉為相」は、祖父藤原定家の花伝書を相伝して冷泉家を興した人物。
為相は浄光明寺の西北の谷である藤ヶ谷に住み、鎌倉歌壇の指導者として活躍しました。
墓塔は宝篋印塔で、鎌倉時代末から南北朝時代初め頃の型式を示しています」と
頂いた案内書から。



この「宝篋印塔」は「相輪部」が短く一部がが失われているようであったが。



近くにはあったのは「無縁仏の墓」であろうか。



更に、この先に国重文「石造 浄光明寺五輪塔(覚賢塔(かくけんとう))」があったのだが、
「冷泉為相墓」からの尾根の通路は閉ざされていた。
毎年4月の鎌倉まつり期間中のみ公開しているようであった。
長い間、忍性の五輪塔と考えられてきたが、1976年(昭和51年)の修復のときに、
地輪の下方からみつかった銅製の骨壺に「多宝寺覚賢長老遺骨也嘉元4年2月16日入滅」と
彫られていたことから、1306年(嘉元4年)に入滅した「多宝寺」の長老だった
覚賢の五輪塔であることが判明した。
高さ約326cmの巨大な安山岩製の五輪塔で、極楽寺の忍性墓(355cm)にも匹敵するほどの
大きさ。
覚賢が名僧であったことをしのばせるもので、多宝寺がいかに大きな寺であったかがわかる と。


 【https://rubese.net/gurucomi001/?id=1074650】より

浄光明寺の東は、多宝寺ヶ谷と呼ばれる谷戸。
かつては、ここに「多宝寺」があったのだ。
極楽寺、称名寺(横浜市金沢区)と並ぶ鎌倉の真言律宗の主要な寺であったと考えられている。
「多宝寺」は、1262年(弘長2年)頃に創建されたらしく、いつまで存続していたかに
ついては不明。北条業時(重時の子)の招きで忍性が開山となったと伝えられている。
『新編鎌倉志』には、「多宝寺ヶ谷という所あり、寺はなし」と書かれており、江戸時代には
すでに詳細が不明となっていたらしい。
また、『新編相模国風土記稿』には、「浄光明寺の支院に多宝寺と伝えるありしが、今廃して
覚賢塔のみあり」と記されている。
覚賢五輪塔の前面に分布する「やぐら」からは、応永年間(1368~74年)の板碑が
発見されていることから、室町時代の初めころまでは存続していたものと考えられる。
現在、寺址には日蓮宗の「妙伝寺」が建てられている とネットから。

  【https://rubese.net/gurucomi001/?id=1074650】より

そして「浄光明寺五輪塔(覚賢塔)」は諦めて帰路に。
途中、今では少なくなってしまったヤマユリは咲いていた。



そして再び「網引地蔵」の「やぐら」を見ながら進む。



石段の途中から手前の「観音堂」そして先程見学した「阿弥陀如来及両脇侍坐像」が
安置されていた「収蔵庫」を見下ろす。



「観音堂」奥のやぐら内の石塔。



「観音堂」奥にも多くの墓石が並んでいた。



仏殿の裏を通り反対側に進むと、この場所にも多くの五輪塔や無縫塔(むほうとう)が
並んでいた。
「浄明光寺」の住職、僧侶の墓石なのであろうか。



正面から。



歴史を感じさせる墓石が次々と。



「大伴神主家墓所」。



「鎌倉市指定史跡
大伴神主家墓所
         平成七年十月十三日指定
ここは鶴岡ハ幡宮の神主を代務めた大伴家の墓所で、記録の上では第十代持時〔文明十三年
(一四ハ一)没〕からの墓が営まれたことが知られ、現在確認されるだけでも第十五代清道
〔寛文九年(一六六九)没〕からニ十三代満綱まで九基の神主墓と、その家族の墓塔があります。
墓塔は笏形碑、円頂形碑、舟形碑とさまさまで、とくに奥のやぐら内にある笏形の墓塔は、
碑面に鳥居と笏が配されており、他に類を見ることができない神道特有の墓塔です。
初代の神主は大伴清元といい、文治ニ年(一一八六 )あるいは建久ニ年(一一九一)に鎌倉幕府に
よって任ぜられたと伝えます。以後ニ十五代までその職にありましたが、明治四年(一ハ七一)頃に
神仏分離の影響を受け、同職を離れたようです。
当所は鎌倉時代以来の伝統を持つ大伴家の記念物として、また、鎌倉の中近世史を研究する上でも
貴重な史跡です。
                           平成三十年三月鎌倉市教育委員会」



この宝篋印塔は?



「やぐら」と墓石が続く。



「百度石」。



再び「仏殿」正面に出る閉鎖せれていた石段を見る。



「第九代勢至菩薩」。



「庫裡」を」横から見る。



そして「湘南の石川先生」と書かれた追悼&感謝のプレートを発見。
「夏草のように育った高校時代を振り返るとき それぞれが思い浮かべる場面は違っていても
私たち一人ひとりにとってかけがえのない先生であった 「一成さん」を忘れることのはない
ここに深い感謝と親しみを込めてその名をしるす
県立湘南高校教諭(昭和二十九年~四十八年)
石川一成先生 昭和五十九年十月二十三日没
平成三年十月 日  湘南の教え子たち」と。
私もこの石川先生にお世話になったのであった。



そして最後に訪ねたのが「鎮守稲荷大明神」。
朱塗りの鳥居の先に社殿が。



社殿を横から見る。



そして「山門」と「庫裡」を振り返る。



以前に頂いた
「鎌倉三十三観音霊場第二十五番 泉谷山浄光明寺 千手観世音菩薩」
の御朱印です。



以前に頂いた
「鎌倉十三仏霊場第九番 泉谷山浄光明寺 勢至菩薩」
の御朱印です。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 16:01:00
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