JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.08.01
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』

この日は7月16日、私の誕生日であったが「古都「鎌倉」を巡る」の10回目の散策に
早朝に自宅を出発し、小田急線、東海道線、横須賀線を乗り継いで鎌倉駅に到着。
この日も、西口に出てロータリーを進む。
「鎌倉駅旧駅舎時計台」の時計は7時過ぎを示していた。



「鎌倉駅西口」を見る。



「市役所前」交差点を渡り市役所方面に向かう。



「現在位置」を示す地図。



「ちはやぶる 伊豆のお山の 玉椿 八百万代も 色はかはらじ 源実朝 詠」




鎌倉市役所前にあった「鎌倉市民憲章」碑 制定 昭和48年11月3日

前文
鎌倉は、海と山の美しい自然環境とゆたかな歴史的遺産をもつ古都であり、わたくしたち
市民のふるさとです。すでに平和都市であることを宣言したわたくしたちは、平和を信条とし、
世界の国々との友好に努めるとともに、わたくしたちの鎌倉がその風格を保ち、さらに高度の
文化都市として発展することを願い、ここに市民憲章を定めます。
本文

一  わたくしたちは、お互いの友愛と連帯意識を深め、すすんで市政に参加し、住民自治を   確立します。

一 わたくしたちは、健康でゆたかな市民生活をより向上させるため、教育・文化・福祉の  充実に努めます。

一 わたくしたちは、鎌倉の歴史的遺産と自然及び生活環境を破壊から守り、責任をもって  これを後世に伝えます。

一 わたくしたちは、各地域それぞれの特性を生かし、調和と活力のあるまちづくりに努めます。

一   わたくしたちは、鎌倉が世界の鎌倉であることを誇りとし、訪れる人々に良識と善意をもって
      接します。



「鎌倉市役所」の「本庁舎」が左手に。
鎌倉市御成町18−10。



その先にイチョウの巨木があった。



「平和の木
昭和24年(1949)5月3日の憲法記念日に全国にさきがけて開らかれた鎌倉平和集会を記念し、
小牧近江らの提案で鎌倉駅前に1本の銀杏の木が植えられました。フランス大革命の「自由の木」
にちなみ、二度と戦争を繰り返さないという決意をこめて、「平和の木」と命名されました。
この木は、一時駅前整備のため旧市役所庁舎前に移植されましたが、昭和46年(1971)、
現市役所庁舎のこの場所に移され、現在に至っています。
「平和の木」は今後も、鎌倉市民の平和への取り組みを励まし続けることでしょう。

                          平成7年( 1995 ) 8月10日」



そして前方にトンネルが姿を現した。



トンネル手前右手にあったのは、以前訪ねた「諏訪神社」。



そして「御成隧道」が正面に。



「御成隧道抗口工

延長10.0m 幅員10.9m」
これは鎌倉側の隧道を延長した際の銘板であるようだ。



旧隧道と追加隧道部分に段差があることが確認できたのであった。



「御成隧道」を振り返る。
竣工 昭和37年(1962年)
延長 44.9m 道路幅 10.8m。



そして「鎌倉児童ホーム」の前庭にあった石像と石碑。
鎌倉市佐助1丁目6−6−6。



「初代園父 佐竹音次郎翁像」。



「初代園母 佐竹熊子像」。



「文学案内板 佐竹音次郎歌碑
われ死なば 死骸は松の 根にうめよ
我がたましひの 松のこやしに  音次郎  (昭和十五年六月建立)
佐竹音次郎は高知県に生まれ、社会事業、保育事業の推進につとめ明治・大正・昭和期の
日本社会の近代化の過程で、児童福祉事業の先駆開拓者として、その功磧を高く評価された
人である。
鎌倉霊園の墓前碑文によって、略歴を紹介します。
音次郎は、元治元年高知県竹島に生まれ、明治ニ十六年に医学専門学校済世学舎を卒業し、
翌年腰越に医院を開業した。同ニ十八年沖本くま子と結婚。ニ十九年に医院内に小児保育院を
設立、三十九年鎌倉佐助に鎌倉保育園を建設して医業を廃し、以後夫婦協力して専心孤児たちの
父母として終生奉仕した。
この間旅順、大連、京城、台北、北京等に支部を設け、異国の不幸な子供たらに、愛の手を
さしのベ。その保護を受けたものは一万ニ千余名に及んだ。その功績に対して、没後従六位を
贈られた。
音次郎は、昭和十五年六月に没したが、同十三年より、鎌倉の歌人太田水穂に師事して短歌を
学び、同年十一月に辞世の歌と称する碑面の歌
昭和十五年六月、旧鎌倉保育園正門前、橋の袂の松の傍らに歌碑が建てられたが、その後
園の改築に伴い、平成ニ年に正門横に移設された。」



この「歌碑」には
「われ死なば 死骸は松の 根にうめよ 我がたましひの 松のこやしに  音次郎  」。



「小児保育園みち」碑。



「日本キリスト教団 鎌倉恩寵教会」がその先に。
鎌倉市佐助1丁目9−3。



鎌倉市佐助1にある「日本キリスト教団鎌倉恩寵教会」は、鎌倉雪ノ下教会副牧師であった
内藤協牧師をはじめ、開拓伝道を志す信徒?関係者37名が集い、昭和43年(1968年)3月に
最初の礼拝を行い、伝道所として新しい教会の活動が開始された。同年のクリスマスには
現在の敷地と家屋を購入し、昭和48年(1973年)には教会となり、昭和57年(1982年)
2月に新会堂の献堂式を行っている。



さらに「新佐助隧道」方面に向かって「市役所通り」を進む。



右手にあったのが「蓮華寺阯」碑。
「蓮華寺ハ 仁治 元年( 紀元 一九〇〇) 北條経時 創立 ニカゝリ、 良忠 開山 トセシガ、
元年( 紀元 一九〇三) 材木 シ、 寺號 光明寺 メシ ヘラル。 一説
蓮華寺 経時 菩提 建長 三年( 紀元 一九一一) 北條時 建立 シ、 弘安 二年
紀元 一九三九)ノ 武州 セリトモイフ。 佐介 フ。」

【蓮華寺は仁治元年(1240)、4代執権の北条経時が建立したもので、僧(然阿)良忠を
開山としたが、寛元元年(1243)に、材木座に移し、光明寺と改めたということが
伝えられている。また、別の説では蓮華寺は経時の菩提を弔うため、建長3年(1251)に
北条時頼が建立し、弘安2年(1279)に武州に移したともいう。この谷を佐介ヶ谷と
呼んでいる】

現在寺が残ってない場合は、廃寺、または、移転があるが、蓮華寺は移転とのこと。
しかも、それが、鎌倉を代表する大寺院「光明寺」なのであると。
ただ、現在石碑の建てられている場所は、本当の跡地ではないとも伝えられているのだと。
北条経時(1224-1246)は鎌倉幕府4代執権。3代執権「北条泰時」の嫡男だった「北条時氏」の
長男。母は松下禅尼。5代執権「北条時頼」は同母弟。23歳で死去。
そして「北条経時の墓」は光明寺の近くに立派な宝篋印塔として残されていたのであった。
僧良忠(りょうちゅう、1199-1287)は鎌倉時代の僧。浄土宗第3祖。
関東に広く布教して、鎌倉に光明寺(蓮華寺)を創建。記主禅師とも。



「鎌倉税務署」。
鎌倉市佐助1丁目9−30。



「現在地」地図。



「佐助一丁目」交差点を渡り更に進む。



その先に「新佐助(しんさすけ)隧道」が見えた。



「新佐助隧道」を通過する。



新佐助隧道
竣工 昭和50年(1975年)
延長 80m 幅員 9.5m。



前方に「長谷大谷戸」交差点、その先に「長谷隧道」が姿を現した。



「浅間神社」を訪ねるために「長谷大谷戸」交差点を左折する。



長谷5丁目11と12との間の道を進む。



ここが「浅間神社 (せんげんじんじゃ)」への入口。



石段が始まる場所に案内板があった。



「浅間神社」案内板。
鎌倉市長谷5丁目11。



狭い石段の坂道を上って行った。



ジグザグの石段を進む。



そして中央に足場パイプで出来た仮設手摺のある石段を上る。
その先に石鳥居の姿が。



「天保九如
大正四年十一月十日御即位の大典を挙げさせらる之が
記念として鎌倉町長谷乃有志百二十一名相謀り字大谷
に於ける其の共有地ニ万余坪に松桜能若木数万本を植
ゑ遊園を開き以て衆庶能逍遥散策に供せり今より後数
年を出でず志て満渓の桜花翠松に隠映し烟霞錦の如き
美観を呈せんこと期して待つべきなり由来鎌倉の地た
る名勝故蹟に富むと雖も公園の設少く人口年を逐ふて
増し遊客亦日に多きを加ふるに方り一の闕点たる免
れざりし際茲に此の事ありたるは吾人の感喜措かざる
所にして将来町の発展に資すること甚大なる者あらむ
有志者報国の誠意大に称すべく而して当町が此の絶好
の娯楽地を得たるは洵に昭代の賜なり頃日園中に形勝
の地を相し石を建て題字を松方侯爵に乞ふ侯天保九如
の四大字を書し与へらる余亦嘱に応じ数言を叙し以て
此の美挙を後昆に伝ふと云爾




「浅間神碑奉遷紀念辭
浅間神碑ハ天保年間ノ創立ニシテ嘗テ大仏坂上ニアリ附近ノ祭神タ
リシカ近時ニ至リ草木繁茂詣道為ニ没スルヲ憂ヒ長谷青年会ノ諸氏
相謀リ多数ノ賛助フ得テ新ニ大谷七ロノ地ヲ卜シ共有地一部ヲ開拓
シテ遊園地トナシ森林雑草ヲ刈除シ植ルニ緑樹花木ヲ以テシ道路ヲ
設ケ神碑ヲ奉遷シ大正四年参月七日起工同年四月参日竣成同年五月
壱日奉遷紀念ノ祭典ヲ挙行セントス諸氏ノ労以テ多トスへク神霊亦
長へニ守護アランコト期シテ待ツへキ也茲ニ因由ヲ略叙シ以テ後世
ニ伝フト爾云
大正四年乙卯年四月中旬 藤原親忠 撰書」



石段を上ると、石鳥居の先に社殿が見えて来た。



小さな浅間神社「社殿」。



近づいて。



「大天狗 小天狗 小御岳石尊大権現」碑。
富士講の石碑であろう。



葛原ヶ岡・大仏ハイキングコースの入口。



「葛原ヶ岡・大仏ハイキングコース入口」案内板。



坂を下って行くハイキングコース。



「浅間神社」社号標石が何故か社殿の裏に。



境内から石鳥居を見る。
「大正十四年六月一日建之」「長谷氏子中」とあった。
そして同じ石段、坂道を下り「浅間神社」を後にしたのであった。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 16:05:28
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