JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.09.16
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』 👈リンク
【​ 鎌倉の寺社リスト ​】 👈リンク

「鎌倉中央公園」を後にして、公園沿いの道路を進む。
右手に脇門・「鎌倉中央公園寺分口」があった。



急な石段を下る。



そして鎌倉市山崎の住宅街を北に進む。



次に訪ねたのが民家の裏山にあった「稲荷社(山崎)」。
鎌倉市山崎1556。
朱の鳥居を潜って進む。



竹林の中の石段を上って行った。



正面に朱の社殿。

昔はニ月の牛(うま)の日に村中で稲荷講が開催されていたようである。



内陣。



さらに鎌倉市山崎の住宅街を北西に進む。
右側には寺の屋根のごとき民家が。



近くには、「​ 江ノ島への道標 ​」👈リンク や「​ 山崎集会所 ​」👈リンク、高校時代の友人が眠る
「​ 昌清院 ​」👈リンクがあったが何回か訪ねた場所であったので今回は訪ねなかった。
そして東に進むと左手にあったのが「山崎打越の庚申塚」。



正面から。




上部に「日月」がかすかに残り、中央に「庚申供養塔」と刻まれた駒型庚申供養塔。
右側面に「大正九年吉辰大谷」銘。1920年に建立された庚申供養塔。



上部に「日月」を刻み、中央に「奉納庚申塔」と刻んだ舟型庚申供養塔。
右側面に延宝八年(1680)、左側面には庚申正月二十九日とあった。
下部には三猿を刻んでいた。




中央は削り取られたように空白で、右には「奉納庚申」、左には「元禄八乙亥霜月吉日」
(1695)と彫られていた。その下には鶏の浮き彫りがかすかに残っていた。
下部には三猿を刻みます。



上部の中央に阿弥陀如来をあらわす梵字を刻み、中央には合掌六手の青面金剛が浮き彫りに
されていた。下部には三猿を刻む板状駒型供養塔。
像の右には元禄十三年(1700)、左には十二月二日と。



4基の庚申塔を斜めから。



「山崎打越の庚申塚」を後にして、更に鎌倉市山崎の住宅街を北の方向に進む。
左手にあったのが「山崎ひめしゃら公園」。




道路脇にはキバナコスモスの花が。



サルスベリの花を背景に。



そしてスマホの案内に従い、狭い畑道を下っていくと左手にあったのが、足場パイプで
囲まれた小さな神社。
鎌倉市台4丁目1199−19。



鳥居は塩ビパイプで出来ていた。
「神奈川縣護國神社」。



「神奈川縣護國神社 由緒
創祀:紀元2672年(平成24・2012年)5月29日
創建:紀元2678年(平成30・2018年)5月29日
(※遷座:紀元2680年(令和2・2020年)12月5日)
御祭神:神奈川縣英靈(かながはすべてのほつみたま。意:神奈川県すべての英霊)
由緒:

(旧相模国含む)出身の英霊を祀り、感謝と顕彰の誠を奉げるべく、県民有志によって
創建されました。
神奈川県は全国で唯一「護国神社のない県」という汚名に甘んじて来ましたが、
本社の創建を先駆けとして、先人たちの愛と勇気、我が国の平和と独立を次世代に
受け継いで参ります。
              神奈川縣護國神社氏子会」



正面から。



社殿。



ケースに入っていた案内書を頂きました。
ネットには【​ 創建のご挨拶 ​】👈リンク が。
「これまで「日本全国で唯一、護国神社がない県」という汚名に甘んじて来た神奈川県。
創建の途上「横浜大空襲(昭和20年5月29日)」によって焼失、再建が放棄された戦後75年間、
戦没者を「犠牲者」として「慰霊」することはあっても、日本の平和と独立を守って下さった
ことへの「感謝」そして「顕彰」することはありませんでした。
このままでは、尊い生命を奉げられた方々が、あまりにかわいそう……彼らの愛と自己犠牲に
報いるためには、彼らを「英霊」として祀り、感謝と顕彰の誠を奉げる護国神社がなくては
ならないのです。
そんな思いで平成24年から開始された神奈川縣護國神社の創建運動。地道な活動を続け、
幾多の困難を乗り越え、およそ8年余りの歳月を経た令和2年、ついに神奈川縣護國神社が
完成しました。
国民有志が力を合わせて作り上げた社殿……靖国神社や他の護国神社に比べると「DIY感」こそ
否めまんが、英霊に対する感謝と顕彰の誠は、どこの誰にも負けません。
日本の平和と独立を守るために、尊い生命を奉げられた先人たちの愛と勇気を次世代に伝える
先駆けとして精進して参りますので、今後より一層のご支援ご厚情のほど、よろしくお願い
申し上げます。
令和2年12月吉日
神奈川縣護國神社
氏子総代 角田晶生(つのだ あきお)」と。



仮設休憩所もありました。



そして細い畑道を下って行き、舗装道路に出た先の路地の左手角には
「馬頭観世音」碑が2基ひっそりと。
鎌倉市台4丁目15−8。



仕切弁用マンホール蓋。
県水道と表記されていた。
県の鳥・カモメ、花・ヤマユリ、木・イチョウが描かれていた。



鎌倉市台5丁目の住宅街を進む。



右手石段の上にあったのが、「神明神社」。
鎌倉市台4丁目20−16。



社号標石「神明神社」と小さな石祠。石祠には扇子が奉納されていた。



石段を上っていくと石鳥居が。



この神社の手水舎は使用可。



水盤には「奉獻(ほうけん)」の文字が。



龍をモチーフにした水口(みなくち/水が出る場所)からは水が流れ出ていた。



「社殿」
「台のお宮さん」と呼ばれる神社。
元亀年間(1570~1573年)、疫病が流行した際に、村人四人が伊勢詣に出向いて賜った
神札を祀ったのが起源とされている。
そのため「お伊勢さん」とも呼ばれている。
また、一説には、江戸中期に悪病が流行した際に、源左衛門という者が伊勢詣をして神札を
賜ったという話もある。
現在の社殿は、1645年(承応3年)に再建されたもの。
村内にあった淡島神社、第六天社、諏訪神社が合祀されている。
神明神社の石段横の道は「江の島への古道」で、山崎へと抜ける切通だった。
山崎の昌清院の近くには、今でも「江の島道の道標」が建てられているのだ。
祭神
・天照大神(あまてらすおおみかみ)
・蛭子之命(ひるこのみこと)
・須佐之男命(すさのおのみこと)
・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)



境内社
右から稲荷社、三社神社、三峰社。



詳細不明の石祠。



稲荷社内陣。



三社神社内陣。



三峰社内陣。



そして本殿。



「神明神社」を後にして、神社脇の坂道を登校の子供達と一緒に上って行った。
前方には、顕になった岩肌とその崖の上には巨木が覆いかぶさっていた。
通学路でもあり、大雨・強風時等の崖崩れ・倒木等が心配なのであったが・・・。



左手に「鎌倉市立山崎小学校」正門が。



そしてその先のグランドの周囲を廻り込み「魯山人星岡窯跡(ろさんじんせいこうようあと)」
を訪ねたのであったが・・・。
荒れ果てていてトラロープが。
ここは北大路魯山人邸跡(星岡窯)。
北大路魯山人とは、陶芸家・美食家などの顔をもち、東京永田町の星岡茶寮を借り受け、
魯山人が主宰する美食倶楽部の会員制高級料亭を始めた。
自らが料理をし、食器も手掛けたという。
昭和元年、鎌倉の山崎に星岡窪を開設。晩年を鎌倉で過ごした。
重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されたが断っているとのこと。
漫画「美味しんぼ」の海原雄山が尊敬したとされる「北大路魯山人」が終の棲家とした
「星岡窯」跡地がここ。
魯山人邸母屋は茨城県笠間に移築され日動美術館分館「​ 春風萬里荘 ​」👈リンクとして
公開されている と。



以前はこの様な山門が残されていたようだが。

山崎小学校グラウンドの右手にあるココが星岡窯旧跡<br />現在は陶芸家が窯を借用中らしい。
   【https://4travel.jp/travelogue/11002877】より

ここを右手に廻り込んで見たが。



ここにも裏口があったのであろうか?



その先にあったのは墓地管理寺務所のようであったが。



木々が生い茂り、昔の様子は垣間見えなかった。
調べてみると、移築されたのは50年以上も前なのであった。



次に「稲荷神社」を訪ねるべく、台町の地図で確認。



現在地。
現在では、個人情報が溢れているこの地図ではとも。



「稲荷神社」の位置とルートを再確認して進む。



左手には古い門が現在でも残っている民家が。



そしてY字路正面の小さな「やぐら」の如き横穴には地蔵菩薩像の姿が。
この「やぐら」の上部には昔、地蔵堂があって、稲荷神社の本地仏とされる地蔵菩薩像二体は、
神社を下ったところにあった、この地蔵堂に安置されていたと伝えられている。
現在、その跡地には、台町公会堂が建てられているのであった。



地蔵菩薩像をズームして。



「稲荷神社」に向かって更に坂道を上って行った。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2024.08.28 07:20:29
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