JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.11.20
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カテゴリ: JINさんの農園
小田原市消防団第一分団詰所 」の脇の道を海に向かって進む。



突き当りを右折。



左折すると正面に朱の鳥居が現れた。
戦国時代の出入口、 山王口があったとされる場所
画像右手が山王口の虎口として当時の海岸の砂丘に続いていた。
現在は公園になっているが、「 北條稲荷神社 」と呼ばれる神社があった。



北條稲荷神社 」。
頂いた「参拝の栞」には
「昭和二年二月初午の日 県社報徳二宮神社社司 草山惇造謹書
此の所にいわい奉れる北条稲荷神社は、元亀元年六月、時の小田原城主北条氏康、
霊夢に感じ創建せる所にして、
倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )
大宮姫命 ( おおみやひめのみこと )
大己貴命 ( おおなむちのみこと )
保食命  ( うけもちのみこと )
大田命  ( おおたのみこと )  の五柱の神を祀る。
氏康すなわち郡中の土地若干を寄付し、天十郎太夫をして祭事を司取らしむ」 と。
小田原市浜町4丁目35番地



北条稲荷 蛙石(かわずいし) 」案内柱が正面に。



近づいて。



北条稲荷 蛙石(かわずいし)
蛙石という名称は、その形がカエルに似ているところからきている。 大きさは、全長80 cm・
幅30 cm・高さ40 cm程度 。もともと小田原城内にあった北条稲荷とともに400年ほど前に
この地に移されたとされるが、 明治35年の小田原大海嘯(台風による高潮)においても少しも
移動せず、3メートル
ほど掘り起こしてみても下部に達しなかった ことから天然岩盤の露出だと
推測される。小田原市の市制50周年記念のときめき小田原夢まつりでは、蛙石鳴き声コンテストが開催された と。
小田原の危機の際には、必ず鳴く といわれており、 小田原城落城、江戸時代の2回の震災、明治の
小田原大海嘯、大正の関東大震災、昭和の小田原空襲の前夜にも盛んに鳴いたと される。
都路往来 」にでてくる「蛙鳴くなる小田原の里」はこの蛙石を指している と。




今から400年以前北條稲荷が当地に建立せられて以来蛙石は稲荷末社の1として
蛙石明神と崇められ永い由緒をもった小田原の名蹟である。その蛙石という名称は
形状の蛙に似たところよりいつしか唱えられるに至ったものであろう。もと小田原城内の
庭上にあったものを北條稲荷勧請の際ともに城中よりここに移されたと伝えられているが
明治35年の大津波にも大正12年の大地震にも少しの異動もなかったので試みに
掘り出そうとしたところ、1丈の深さに及んでも下部に達しなかったので然らば
地下岩盤の露出の先端ではないかという。

都路往来の文中に「蛙鳴くなる小田原の里」とあるのはこの蛙石が小田原に異変がある
ときには必ず鳴声を発するためだと伝えられ北條時代小田原落城の際は夜な夜な盛んに
鳴いたというのは名高い伝説である。




「手水場」。



石段の先に「 北條稲荷神社 社殿 」。



手前右の「狛狐」は鉄枠に囲まれて。
北條三代氏康が小田原城内で夏の夕涼みをしている時に狐の鳴き声を耳にし、
『夏はきつ音の鳴く蝉の唐衣おのれの身の上に着よ』
と即興の歌を読んだところ鳴く声が止み翌日1匹の老狐が死んでいたのが見つかりました。
夏は蝉が鳴くもので狐の鳴く時期ではないという意味らしいですが、
狐を『きつ』と『音』で分断してしまった為に狐を殺してしまったという伝承であるとのこと。



手前左の「狛狐」も鉄枠に囲まれて。
『氏康公の歌によって命を落としたこの恨み必ず身辺に不幸が起こるだろう』等とその家臣が
叫び、翌年なんと氏康が亡くなってしまいました。これを狐の祟りと驚いた北條四代氏政が、
狐の霊を鎮める為に壮大な供養をしたというのが北條稲荷の起こりだと。
元々小田原城内にあった稲荷神社らしいですが、現在はこの位置に移築されたとのこと。



社殿前の石段に近づいて。



石段手前右の「狛狐」は金網に囲まれて。



石段手前左の「狛狐」も金網に囲まれて。



社殿前右の「狛狐」も金網に囲まれて。



社殿前左の「狛狐」も金網に囲まれて。



そして「 社殿 」正面。



向拝虹梁上の狐の彫刻



内陣



北條稲荷社
◯鎮座地 小田原市浜町四丁目二十五番三ニ号(旧住所 万年一丁目七番地)
◯祭神 『新編相模国風土記稿』に、「祭神倉稻魂命・大宮姫命・大巳貴命・保食神・大田命を
    祀りて、稻荷五社明神と崇む。北條氏康の勧請なりと云。
 末社 末社 牛頭天王、疫神(並に天正中の勸請と云)、蛙石明祚(北條氏康より寄附の石なり、
    形似を以て名く、後末社に勧請す)」とある。
◯由来 新編相模国風上記稿には、三代氏康が当社を現在地に勧請したと云うが一説に、小田原城
    総構の東南の出人り口(旧山王ロ)脇にあることから、城の東方にあった山王曲輪の鎮護の
    社として祀られたのではないかとも云われている。
    また、『北條五代記』『北條盛袁記』には当社の起源と思われる逸話が語り継がれている。
    元亀元年(一五七〇年)氏康が和歌により城内にいた老狐の悪霊を祓い浄めたことにより
    老狐が死んでしまった。翌年氏康は逝去したが、父が歿したのは老狐の霊によるものだと
    子の氏政は考え、城内の狐が死んでいたところに社を建て供養したという。そして後に、
    やはり城内に祀ってあった蛙石明神とともに現在の鎮座地に移したとも伝わる。
    東海道筋の状況を詳細に把握するため幕府が天保年間に編纂した東海道分間延絵図には、
    北條時代東海道の一里塚付近に当社と赤い鳥居が描かれている。
    明治末年政府の手で行われた神社合併政策(神社合祀)により、県社である小田原総鎮守
    松原神社に合祀されたが、明治四五年に復祀され現在に至る。
◯例祭 初午祭(立春後の最初の日曜日) 天王山祭典(六月六日)
   令和六年三月
                     北條稲荷神社世話人」



北條稲荷神復興記念碑 」。



北條稲荷神社復興記念碑
當社はもと北條氏が小田原城内に勧請して篤く崇信するところであったが、後更に移して
この地に奉祀し城池の鎮護と市民の永安を祈願せしめて以来、既に星霜四百年を経て神威
いよいよ髙く霊驗ますます灼かな名社である 偶〃昭和二十六年十一月二十八日の古新宿大
火の際社殿も悉皆祝融に遇う よって氏子有志發起して復興募金を計り幸に大方の協力を得て
昭和三十年二月一日社殿竣工して面目を(舊・旧)に復するを得た
復興成るを記念してここに由来を記して石に刻む
     中野敬次郎選文」



「神徳發揚」碑



神徳發揚
「神徳発揚」とは、神の威徳や功徳を将来にわたって増進させることを意味します。
「神徳」とは、神の威徳や霊妙なもの、神的なものの功徳を意味します。
神社に祀られている祭神の業績や歴史、地方や神社に伝わる秘伝などの中で、特に信仰が
深い霊験を「ご神徳」といいます。これを戴くことを「ご利益」といいます。
「神徳発揚」に関連する言葉として、「先人たちか築き上げてきた歴史を繙き、時代を検証し、
失われつつある信仰を現代に甦らせることは、今後の神徳発揚に重要」などがあります と。


北條稲荷並蛙石之記
此所は齋ひ寿れる北條稲荷社ハ元亀元年六月時の小田原城主北條氏康霊夢に感じ創建せる
所にして、
倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )
大宮姫命 ( おおみやひめのみこと )
大己貴命 ( おおなむちのみこと )
保食命  ( うけもちのみこと )
大田命  ( おおたのみこと )
の五柱の神を祀る
氏康乃ち郡中の土地若干を寄付し、天十郎太夫をして祭事を司取らしむ。境内末社三社のうち、
蛙石明神の神軆は天正十八年七月小田原北条没落の際、夜ごとに聲を立てて鳴きたりと傳ふ
爾来屡々霊験を現はし、北条稲荷社と共に遠近の崇敬頗る厚し。當社ハ嘗て松原神社に
合祀せられたりしが、その後舊地に於て祭祀を継続する事となり、現在に及べり。
茲に、古新宿町内在住者旦暮崇敬の念切實なるの餘り、當社の復興發展を計り、其の由来を
石に刻し、永くこれを傳ふと云爾。
昭和七年二月初午の日 縣社報徳二宮神社々司 草山惇造謹書」



社殿の左側に 境内社



内陣。



「北條稲荷神社」の横にあった「 万年公園 」を振り返る。



海岸方向に進むと左手にあったのが「 袖ヶ浦地蔵尊 」。



袖ヶ浦地蔵尊
一名厄払地蔵、通称やんばら地蔵と言う、縁起は定かでないが、昔漁師の網に掛かった石仏を
この地に祀ったものであると言われている。此の附近は昭和初期迄は一面の藪原で、やぶ原地蔵
ともいわれ廃舟の舟捨場であった。また一説には徳川時代の頃は牢屋町の入獄者の屍を葬った
墓場があったと言われている。安政年間、相模湾の沖合いで獲れた魚からコレラが蔓延して
村内から数十人の死者が出たがその後、疫病退散の仏として崇拝され、又祈念された。
祭礼は七月二十三日で多くの信者の参詣で賑わった。社内正面には地蔵尊のご本体があり
左側には「廻り地蔵」の笈があり、昔船元、網元、漁師の家を持ち過りされ出漁の無事と大漁、
海難者の冥福を祈願された。」



社殿正面 を見る。



扁額「 袖ケ浦地蔵尊 やんばら地蔵 」。



内陣。



中央に「 袖ケ浦地蔵尊



六地蔵尊と石仏か?



境内にあった「 故伴懋翁之碑  山王心光寺 二十九世正僧正純誉現祐」と刻まれた石碑。



「小田原城」の方向に、旧東海道の南側・小田原市浜町4丁目の住宅街を進むと
路地にあった「旧町名碑」



古新宿町 」。



こしんしくちょう 」。



「この町は、もと新宿町と呼ばれていたが、江戸時代前期、東海道が町の北寄りにつけかえられた
とき、新たな東海道沿いに町ができ、これを新宿町としたため、この町を古新宿町と改めた。
千度小路とともに漁業の中心地であった。」
別の説明では
「この町は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に初めて町名が見られます。
ここは、もと新宿町とよばれていましたが、江戸時代前期、東海道が町の北寄りにつけかえられた
とき、新たな東海道沿いに町ができ、これを新宿町としたためにこの町を古新宿町と改めたと
いわれています。
この町は、千度小路(せんどこうじ)とともに漁業の中心地で、町内の小町、「鍋町(なべちょう)」
は、小田原北条氏時代(北条早雲、氏絅、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495 ~1590年) )から
鋳物師の居住地でした。
なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は142軒で、廻船2艘がありました。」



ここ が「古新宿町」。






                                 ・・・もどる・・・



                 ・・・つづく・・・






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Last updated  2024.11.20 08:05:04
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