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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『亀山城跡』を後にし『東海道亀山宿』碑まで戻る。坂を登って行くと正面には連子格子の旧家が並んでいた。こちらが『西町』の旧東海道。反対側の突き当りにあったのが『西町問屋場跡』案内板。「西町問屋場跡問屋場とは、江戸叶代の各宿において。主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資などの継ぎ立て業務をおこなう施設で町の重役である宿役人がこれを受け持った。東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が、十日あるいは二十日程の期間で定期的に交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当している。現在、西町の問屋場跡は、後世の道路改良などにより厳密に比定することはむずかしいが、享和三年(1803)の「亀山領内東海道分間絵図」(亀山市指定文化財・伊藤容子氏蔵)や文化四年(1807)の「伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図」(亀山市歴史博物館蔵)から、おおむねこの辺りに宿役人若林家の屋敷や借家、問屋場が並んでいたことが確認できる。なお、元治二年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている(亀山市歴史博物館田中稲造氏寄託資料)。」この場所からの見晴らしが上等であった。亀山城も下の石垣から始まって良く見える。ちょっとした休憩所が設けられていた。旧東海道・『西町』を西に進む。『岡田屋本店』前の「東海道亀山宿」と書かれた立て札の両脇には弥次さん、喜多さんの姿が。屋号札はやはり「おかだや」。江戸時代からの屋号を引き継ぎ純米酒・オーガニック食料品店とのこと。『道標』:大正3年 田中音吉建立。「右 東海道 左 停車場」道。明治23年(1890)西町南側に関西鉄道の亀山停車場(現 JR亀山駅)が設置されて以来、西町は亀山の表玄関として栄えた。この四つ角を右へ入ると二の丸へとつづく道筋に置かれていた「青木門」があったのだと。『道標』右 郡役所 左 東海道この道標のある角を右に折れ旧東海道を離れる。ここも枡形構造。そして右に見えた白塀の建築物が『加藤家長屋門・土蔵』と『加藤家屋敷跡』。『加藤家長屋門』。江戸時代後期、亀山城主・石川家の家老職を務め、亀山城西之丸に居を構えていた加藤家の屋敷。もともとは相当な敷地面 積があったようですが、明治後ほとんどの建物が他所へ移築されました。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されており、白壁や白と黒の対比が美しいなまこ壁が、武家屋敷の威厳と風格を感じさせてくれます。江戸時代後期の建築で、当時の武家建築様式を今日に伝える希少な遺構として、亀山市文化財に指定されています。ここも開館日は土、日、祝日であった。反対側も西之丸に建つ白壁造りの壮麗、広大な御殿跡、現在は地区の集会所として利用。庭園は『西之丸庭園』と呼ばれ広く、一般に開放されていた。『西之丸庭園』脇入口門。『西之丸庭園』。庭園内の『集会場』。『西の丸庭園』の正門入口。『西の丸庭園』の正門入口から『加藤家長屋門・土蔵』を見る。そして旧東海道に戻る途中の枡形の入口に標柱が。『青木門跡』「元和元年(1615)4月16日、徳川家康が大阪へ出陣の時、亀山に宿泊した。城主松平忠明出征中で留守を守る家臣が接待にあたった。翌17日亀山城南三之丸より西町に出る搦手門より出立の時、付近に繁茂した青木を見て 「おお青木」 と称賛したので、この周辺の土地を青木と称した。また、門を 「青木門」 と呼んで家康を敬慕したと伝えられる。」『飯沼慾斎生家跡』「飯沼慾斎(一七八三~一八六五)は、西町西村家に生まれる。 十二歳で美濃大垣に移り、飯沼家を継いだ。 わが国植物学の基礎を拓くなど、近代科学草創期の代表的な自然科学者である。」旧東海道に戻る。『旧舘家住宅(枡屋)』東海道沿いの町家で市の有形文化財。旧舘家住宅(枡屋)開 館 日◆土曜日・日曜日・祝日開館時間◆午前9時から午後4時30分まで入 館 料◆無料『東海道亀山宿 西町 ますや跡』。石垣と多聞櫓が描かれている旧東海道のタイルの案内板。旧舘屋住宅(枡屋)の土蔵脇の筋を入って行くと、浄土宗の『終南山光明院善導寺』があった。こちらは『脇門』。『善導寺 本堂』。善導寺の創建年代等は不詳であるが、山門前には伊勢板倉勝澄公寄進の石燈籠があり、境内には地蔵堂・宝篋印塔などがあった。『鐘楼』。『寺務所』。『山門』を境内から。旧東海道に戻って道なりに進んで行くと、突当りに亀山城西之丸外堀跡が。『亀山城西之丸外堀』碑。この西之丸外堀は、寛永13年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、同16年から3ヵ年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたという。 江戸時代の絵図には石垣を示す表現はなく、すべて土造りの空堀か水堀であったと推測されている。『亀山城西之丸と外堀』。「亀山城は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体として、岡本宗憲により天正18年(1590)に築かれました。 築城時には、本丸・二之丸・三之丸からからなり、天守もあげられていたとされます。 寛永13年(1636)本多俊次 が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。 西之丸は、亀山城の西南部分にあたり、家中屋敷と表記されることもあり、作事場や重臣の屋敷地のほか文政6年(1823)には藩校「明倫舎」もおかれました。 この復元した西之丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でありました。 町屋側には番所、復元地南の西之丸側には西之丸西櫓がありました。 この地点は、発掘調査の結果、町屋側から見て、深さが1.8m程度の水堀で、水深は60cm程度でした。 この深さでは、城の防御に適さないと思われますが、堀の斜面は急こう配で城内側には土居(防御のための土手)があって、堀底から3m以上の高低差があり、 さらに土居上には土塀が設けられていましたので、十分な防御機能を有していたものと思われます。 なお、工事にあたり、遺構面を保護するために全体に1mかさ上げをし、水堀を表現するために水面の高さで復元しました。 亀山城及び城下には、城郭として旧亀山城多門櫓(県史跡)及び二之丸帯曲輪、池の側・亀山公園池・西之丸外堀等の堀、武家屋敷として亀山城主石川家家老加藤家屋敷跡(市史跡)、 旧東海道沿いの町家として旧舘家住宅(市有形)等の文化財があり、亀山城及び城下全体が歴史的な趣をよく残しています。 このことから、市では、平成20年12月に「亀山市歴史的風致維持向上計画」を策定(平成21年1月歴史まちづくり法により認定)して、その一体的な保存整備に取り組んでいます。」『西之丸外堀築造技術』「亀山城西之丸外堀は、寛永13年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、同16年から3ヵ年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたとされます。 江戸時代の絵図には石垣を示す表現はなく、すべて土造りの空堀か水堀であったと推測されます。 また、天保3年(1832)から10年の間に西之丸外堀の改修が行われた記録が残っています。奥から発掘された堀を見る。更に旧東海道を『京口門跡』に向かって歩を進める。右手に創業100年以上の『大平畳製造所』。旧東海道は左にカーブ。『京口坂』を下る。『梅巌寺』の南口門のところに『京口門跡』が。京口門は、石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。 また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。『京口門跡』。「亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる滝川左岸の崖上に築かれた門である。 『九々五集』によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文一二年(一六七二)に完成したとされる。 翌延宝元年(一六七三)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置付けられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。 京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。 また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。 大正三年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると、門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、「亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われるほどであった。 歌川広重「東海道五拾三次」のうち『雪晴』をはじめとする風景画の舞台として著名である。」 尚、伊勢屋の蘇鉄の木は亀山宿の旅籠「伊勢屋」の庭にあったのだが、昭和59年の道路拡幅工事のため亀山市に寄贈され、市の文化会館の玄関前に植えられた。株回りが約5mの立派なもの。あの京口御門ができたのが江戸時代の寛文12年(1672)であるので、300年を超える樹齢を誇っているのだと。『柳谷十一面千手千眼観世音菩薩』と刻まれた石柱。『梅巌寺』の『四国三十三所観世音菩薩』。『不動明王』。庭には歌碑「雪景色亀山城は広重の画に見るがごと石垣高し」『三界萬霊塔』『浄土宗 純一山常壽院梅厳寺』の『山門』と『寺標』。『慈母観世音菩薩』。『梅巌寺本堂』。左に『地蔵菩薩』。『本堂』に掛かる『純一山』の扁額。『六地蔵尊』。この仏様の名は??『一光三尊善光寺如来』。再び『四国三十三所観世音菩薩』。鬼瓦。『梅厳寺『鬼瓦』縁起』「明治45年(一九一二)五月本堂が全焼。その後、大正二年(一九一三)七月再建された当時の鬼瓦である。昭和59年(一九八四)五月、屋根葺替えにより役目を終え、塊内に安置される。亀山藩主 石川家の菩提寺であるため、瓦に「笹竜胆」の家紋がおかれている。」 再び『歌川広重 東海道五拾三次之内亀山 『雪晴』(宝永堂版)』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『遍照寺』を後にし、更に『亀山城跡』に向かって進む。『真宗 高田派 梅照山 誓昌院』寺標と『山門』。江戸時代の『鐘楼』。『本堂』。屋根瓦には「十六葉一重菊」。パスポートと同じか。そして「五三の桐」見事な池の『鯉』。更に旧東海道の下り坂を左にカーブして行く。歴史を感じさせる板塀の旧家。『亀山城 多門櫓』が右奥に見えて来た。坂の右側には大きな池のような亀山城の濠が広がっていた。濠沿いの「亀山停車場石水深線」を『亀山城 多門櫓』に向かって歩く。濠沿いの道はかつては松並木になっていたのであろうが、現在は写真に写っている松だけ。『天然記念物 池の側松並木』「亀山石坂門から池の側(外堀)に沿って植えられた松並木で、市天然記念物に指定された。」『伊勢国亀山藩主板倉・石川氏の交替』「伊勢亀山藩主板倉勝激が、延享元年(一七四四年)備中松山(岡山県高梁市)へ移った。板倉氏は重常が初めて人城した寛文九年(一六六九年)以来五代に及ぶ亀山領有が終わり、石川総慶が備中松山から、金山に替わった。石川氏は、昌勝(憲え)の時代に慶安四年(一六五一年)から、寛文元年まで亀山に在城したので七十五年ぶりに旧領に戻った。板倉氏とは、二度目の交替になる。延享以後、板倉・石川両家中とも松山・亀山に、百二十六年間の長きに渡り定着し、明治四年(一八七一年)の廃藩置県に至った。総慶は、亀山に替わった時に、備中に一万石(十三ヶ村)の飛地領を残し、備中中津井村(岡山県上房郡北房町)の陣屋には、代官所が置かれていた。領界を示す「従是東北伊勢国亀山領」の石柱が、現在も陣屋跡に保存されている。案内板は、姉妹提携を結んでいる亀山、高梁両ライオンズクラブより贈られたものである。」『亀山 高梁 両クラブ姉妹提携記念』碑。東海道亀山宿 『三叉路』を過ぎる。右手に『天理教亀山分教会』。『亀山城 多門櫓』そして『石垣』が大きく見えて来た。亀山城跡に遺された、唯一の遺構の建物とされます。現在は三重県の史跡に指定されている。一時期は下見板張りの黒い壁面でしたが、現在は漆喰塗の白壁。平成23~24年に掛けて修復工事が行われたと。三重県に唯一残る城郭の建築物遺構。『飯沼慾斎生誕之地碑』「飯沼慾斎は、天明3年(1783)に伊勢国鈴鹿郡の亀山城下で出まれ、のち、美濃国大垣に移って、飯沼家の養子となった。その後、京都にて医学を修行し、後に江戸へ出て蘭学を学び蘭方医となる。」この石碑の最上部に『鐸山近藤君之碑』の文字のある長文の漢文碑。亀山藩家老近藤鐸山の顕彰碑であると。末尾に明治39年3月に建立されたことが記されていた。近藤鐸山は、亀山藩の勤皇派家老として執政を行ったが、三条実美らと親交があったため、禁門の変への関与を疑われて幽閉された。大政奉還後に復帰して軍事奉行となった。維新後は亀山藩大参事となり、明治23年に死去したと。『史跡 亀山城址』碑。本丸南東の天守台と多聞櫓本体を併せて、『旧亀山城多門楼』の名称で三重県の史跡に指定。昭和38年(1963年)3月に建立されたことが記されていた。二段の石垣が積まれた、低い基壇。その基壇に登るためらしい長い石段も置かれていた。表示はなかったが、小さな櫓か塔当たりがが建っていたのか。更に坂道を登って行く。亀山城の野面積の高石垣と、本丸多聞櫓の光景。かつては天守があったとされる天守台は、穴太衆により積まれた野面積の高石垣。『黒田孝富遺剣之碑』。黒田孝冨は、通称頑一郎。天保5年(1834)亀山藩士黒田嘉治の子に生まれ、家老近藤織部(鐸山)の抜擢を受けて広間役となった。その後、江戸にて儒学を学び、尊王攘夷を説いた。「伊勢亀山城伊勢亀山城は、文永二年(1265)若山(亀山市若山町)に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった。ただし、関氏時代のうちに現在の位置に遷されたとされ、発掘調査においても戦国時代末期の空堀が確認されている。天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城されたとされ、この城については『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。また三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したと伝えられるが真偽のほどは定かでない。寛永十三年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、西出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねたニ之丸御殿が設けられた。亀山城の別名としては唯一の出典である『九々五集』に姫垣を意味する「粉堞城(ふんちょうじょう)」と記されている。城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることとなる。明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多門櫓は、県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和二十八年に三重県指定文化財に指定された。また、石坂門は近年の発掘調査により石垣基礎の一部が発見され歴史博物館前庭に移設されており、わずかではあるが往時の姿を偲ぶことができる。」『亀山城 多門櫓』と『階段』。亀山城は天正 18 年(1590) 岡本宗憲によって築城された。多門櫓は、天守台と言 われる本丸高石垣上にあり、寛永 9 年(1632)頃に築造されたとみられると。三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されている。 平成の大修理が平成25年3月に完成し、往時の姿に復原するというコンセプトの元、 真っ白な白壁の漆喰となっている。多門櫓内部の見学は日土祝 10:00~16:00 であるとのことでこの日は見学できなかった。『亀山城楠門跡』碑。二之丸から本丸へ通じる枡形門で、櫓門は安政元年(1854)の大地震で倒壊した。『亀山城及び城下の歴史まちづくり案内』「亀山城は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体として、岡本宗憲により天正18年(1590)に築かれました。築城時には、本丸・二之丸・三之丸からからなり、天守もあげられていたとされます。この天守は、寛永9年(1632)に丹波亀山城(京都府亀岡市)の天守を解体するように命じられた堀尾忠晴が伊勢亀山と間違えて取り壊したとされますが、この天守の規模や形状はもちろんのこと、その位置も含めて事実関係は不明です。江戸時代初頭の亀山城は、上済する将軍などが休泊し、寛永11年(1634)の将軍宣下にかかる徳川家光の上洛の前年に大々的な整備が行われています。寛永13年本多俊次が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。また、東三之丸、西之丸、外堀等を取り巻くように旧東海道が通り、亀山城下は東海道53次の宿場(亀山宿)でもありました。亀山城及び城下には、城郭として旧亀山城多門櫓(県史跡)及び二之丸帯曲輪、池の側・亀山公園池・西之丸外堀等の堀、武家屋敷として亀山城主石川家家老加藤家屋敷跡(市史跡)、旧東海道沿いの町家として旧館家住宅(市有形)等の文化財があり、亀山城及び城下全体が歴史的な趣をよく残しています。このことから、市では、平成20年12月に「亀山市歴史的風致維持向上計画」を策定(平成21年1月歴史まちづくり法により認定)して、その一体的な保存整備に取り組んでいます。『亀山城本丸東南隅石垣と多門櫓』。「亀山城本丸東南隅石垣と多門櫓亀山城本丸は、天正18年(1590) 岡本宗憲により築城整備された。現存する石垣は、本丸東南隅にあたり、外側(東面・南面)高13.5m、内側(北面)は高4.0mで、石垣を多用しない亀山城内では最大の規模を有する。石材は、長大な自然石を多用した野面積で、宝篋印塔等の石造物の転用もみられる。石積技法には多様性が見られ、石垣東面及び南面は野面積が良く残されているが、北面は古い技法が見られない。このことから、東面及び南面は築城時に築造され、北面は嘉永7年(18541)の大地震による崩落後に修復されたものと考えられる。「石垣の上に所在する多門櫓は、東西八間(15.8m)南北六間(10.9m)の木造平屋建入母屋造で、平面がL字形である。創建年代は、諸説あるものの寛永10年(1633)に作成されたとみられる絵図に描かれていることから、遅くともこの年と考えることはできる。江戸時代における修復や建て替えの記録も今のところ見いだせないが、前述の大地震で大破したと伝えられており、幕末時に相当手が加えられた可能性が高い。明治以降、城内の構造物が取り壊される中で、旧藩士により落札され失業士族の授産場に使用され、その後は会議室・展示室として幾度かの改造を受けている。本丸の石垣と本丸の中核的城郭建造物としての多門櫓が、あわせて残っているのは三重県下で唯一であり貴重である。昭和28年(1953)に「旧亀山城多聞櫓」として県史跡に指定されている。」『与助井戸』。「与助井戸亀山城本丸で使用されたきた井戸です。天正18年(1590)岡本宗憲による亀山城築城の際この場所にあった民家「与助鍛冶」を場外へ移したとの伝承から「与助井戸」とよびなわされてきました。城外への抜穴伝説がありますが、確認されていません。」『史跡 明治天皇亀山行在所遺構』。「明治天皇は、明治13年(1880)三重県下御巡幸の折、7月10日東町藤屋(伊藤市次郎宅、現市民協働センター「みらい」所在地)を行在所とされ、10日・11日の両日にわたり名古屋・大坂両鎮台対抗演習をご統監されました。この建物は、この折玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されてきたもの。建物はまず井尻町に移されましたが、昭和10年(1935)亀山小学校(現亀山西小学校)地内に移築され、同14年三重県史跡に指定されました。同26年には市指定文化財(建造物)となり、同32年亀山城多門櫓石垣北側に再移築されました。なお、平成23年多門櫓石垣修復に伴い、石垣保護のため現在地に移動しました。」『亀山神社』亀山城址にある亀山神社は、江戸時代中期の延享元年(1744)備中国松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けて奉斎したのが始まりである。『一の鳥居』。『大久保神官邸宅門』。関実忠が文永二年(1265)亀山城(古城)の鎮守として勧請した南崎権現社の神官大久保但馬守邸宅の門であった。門は本柱の間に二枚開きの扉が付けられ柱の後ろに控柱があり切妻屋根で破風の下に縣魚がたれる。門右にくぐり門、左は土塀に続く。亀山西小学校の裏門に利用されていたが、昭和三十年現在地に移築された。『亀山演武場』。『二の鳥居』。『宝篋印塔基礎部』。「宝篋印塔基礎部この宝篋印塔は、この地にあった善導寺が西町に移転された時に残されたものとされ、昭和二十六年の西小学校運動場拡張工事の際、取り壊された本丸石垣の中から五輪塔などと共に発見された。石材は花崗岩を用い、高さ五三.一センチ、幅七六センチの基礎と、二段の塔身を受ける部分から成る。基礎の四面はいずれも素面であり、輪郭や格狭間はない。銘文は一面にのみ、□悲母卅三廻之追善並迎孝孫禅観尼一周之忌景為頓証卉乃至法界平□利益造之正慶元壬申年七月十日願主沙弥道智と刻まれている。正慶元年(1332)は南北朝期初頭の北朝年号で、市内在銘石造品としては最古である。この宝篋印塔基礎部は紀年銘のある基準資料として位置付けることができる貴重な遺例である。」『亀山神社拝殿』。『天満宮』。『天満宮』の『牛像』。『稲荷神社』。『社務所』。『亀山神社』を後にし、『亀山公園』を散策。史跡としては、三重櫓跡・二の丸帯曲輪・埋門跡などが残っていた。蒸気機関車C58359が一角に静態保存で。C58359号機本丸で保存されている蒸気機関車。1944(昭和19)年に川崎車両神戸工場で製造され、1970(昭和45)年に廃車となるまで、地元の関西本線などを走行していました。『C58359号の概要』。配置歴によれば、最後は亀山区に配置されていたと。C58539号機を前から。ナンバープレートは赤色に塗られていた。『亀山公園 案内図』。この案内板があった現在地は、本丸跡か、二の丸との境付近。公園内の水場にはベンチも。ここでつかの間の休憩。『帯曲輪二之丸広場』案内板。赤い矢印は、『亀山城 二ノ丸帯曲輪』を表示していた。『亀山城三重櫓跡』。下には池が。『亀山公園 ますみじどうえん』の文字が記された石標。昭和31年に亀山城跡を中心に開設された、亀山公園の一部が『ますみ児童園』になるようだ。『山嵜雪柳翁遺剱之』の文字が刻まれた比較的新しい石碑。亀山藩士・山崎雪柳軒(1828~1893年)は、武術に優れ藩士の剣術を指導した。伊庭秀業に心形刀流を学んで免許皆伝を得て、槍術を音羽恭輔、馬術を早崎士太夫より学んだ。現在も受け継がれている、心形刀流であると。そして帰路、亀山城址の左手に有る池の手前の左側にあったのが『石井兄弟亀山敵討遺蹟碑』。この碑は、元禄14年(1701)5月9日早朝、石井源蔵・半蔵兄弟が父の敵・赤堀水之助を石坂門外で討ち取った事を記念して、昭和7年(1932)に亀山保勝会によって建立された。当時 「元禄曽我」 と称され、赤穂浪士の討ち入りと並び賞賛されたのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『江戸口門跡』を右折して進み、東町信号交差点を過ぎると、右手筋奥に真宗高田派の『福泉寺』があった。『松風山 福泉寺』寺標と『山門』。『山門』は1795年(寛政7年)築造。亀山市指定文化財となっている。「福泉寺山門福泉寺は、この地域有数の古刹で、往古は天台宗であったが十五世紀後半に真宗高田派に改宗した。この門は、正面軒唐破風付入母屋造、本瓦葺、一間一戸の楼門で、棟札などから寛政七年(一七九五)の築造であることが明らかとなっている。このため、江戸時代後期における地方有力寺院の建桑様式を顕著に示す貴重な例である。」『鐘楼』。境内には松風福祉会 亀山愛児園の園児が。『本堂』。『福泉寺』に隣接して真宗大谷派の『法因寺』があった。『天然記念物 法因寺の左巻カヤ』標柱。「左巻きカヤは、法因寺本堂の敷地内にある。イチイ科の常緑喬木で、樹齢約350年(2019年現在)。周り約2.6mもある巨木。雄樹で果実に48条の白筋があり、その筋が左巻きに現れているのが珍しいとされている。葉は披針状、4月に単性の花を開く。果実は楕円形で約3cm、内に両端の尖った枝があり、食用や採油したりする。」『黒田孝富墓』標柱。「黒田孝富(1834~1868)は幕末の武士で、京の勤皇派とつながりが深く、郡代奉行に抜擢された藩政の改革を行った。明治元年、反対派により惨殺された。墓は本堂裏、左巻カヤの樹下にある。」『蓮如上人御旧跡』碑。蓮如上人は室町時代の浄土真宗の僧であり、衰退していた本願寺を再興したとして、「本願寺蓮如」などとも呼ばれていました。ここ「法因寺」にしばらく滞在していたそうです。法因寺に滞在していた蓮如上人は、自ら「南無阿弥陀仏」と大きく書いた名号(仏・菩薩の称号)の軸を本尊として寺に贈りました。1547年(天正2年)火事により本堂が焼け落ちますが、不思議なことに名号の軸の中でも、蓮如上人が書いたものだけが火の中から飛び出して本堂裏の柿の木に引っかかっていたといわれます。『山門』。『法因寺本堂』。『鐘楼』。『南無阿弥陀佛』名号碑。『天然記念物 法因寺の左巻カヤ』パイプで支持されて。『黒田孝富之墓』。前代の本堂の鬼瓦。『寺務所』。左手に東町ふれあい広場。ここは『旧佐川邸跡』。『旧佐川低跡』碑。商家であった佐川家は、佐野屋の屋号をもち、この場所に屋敷があったと。「伊勢国鈴鹿郡亀山宿内之図」によると「旅籠佐野屋源治」と記載があるのだと。(有)大和不動産の店先にあった『熊野古道に和歌を見つめる』「したたかに われに喰せよ 名にし負ふ 熊野が浦は いま鰹時」「わが帆なる 熊野の山は朝風に まぎり おしきり 高瀬をのぼる」「山川千里を過ぎて 遂に宝前に奉拝す 感涙禁じがたし」「順礼の銭重の やまの八十里 鎮まる杜の 幽玄熊野」『書画骨董 茶道具商』と書かれた老舗。『樋口本陣跡』の木札のみが道路左側のアーケードの柱に。『東海道亀山宿 樋口本陣跡』木札。『江ヶ室交番前』交差点を左折。「高札場跡高札とは、幕府や藩の法令などを板に墨書したもので、この板札を掲げる場所を高札場と呼びます。 高札場は、法令などを広く人々に公示するばかりでなく、通行の際には敬意を表させるなど、幕府の権威を誇示する意味も持っていました。 江戸時代のこの場所は、大手門前で東海道が直角に折れて広場になっており、亀山宿の高札場はここに設けられていました。 ここから江戸まで百四里、庄野宿まで二里、関宿まで一里半あります。」旧東海道を更に進む。右に大きくカーブ。次に左に大きくカーブ。敵の進入を防ぐクランク状の旧東海道の『枡形』。再び『屋号札の掲示』案内板。「亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えたまちです。そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。かかる現状を憂えた“きらめき亀山21町並み保存分科会”では協議を重ねた結果、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして屋号の木札をつくり、該当するお家に掲げていただくことをはじめました。屋号で呼び合ったまちの人たちの暮らしには、なぜか親しみを感じます。そして、どのようなしごとをしていられたのかも知ることが出来れば、お互いの交流もいっそう深まるのではないでしょうか。このたびのしごとはまことにささやかですが、材料提供をはじめ、木札製作・掲示作業などすべて市民有志によって行いました。今後も皆さまのご協力を得て、東海道亀山が個性豊かなまちとなるよう、私たちも活動を続けます。(註 屋号は文久3年―1863―当時のもの。)」再び右にカーブ。「江ヶ室交番」を左折し、次を右折した左角に天台真盛宗の『延寿山地蔵院遍照寺』が。右奥に楼門の『遍照寺山門』。『遍照寺の文化財』。「遍照寺は、少なくとも十七世紀初頭には所在していることがうかがえるものの、その開基や由来は明らかではない。しかしながら、寺に伝来する数多くの文化財からは古くからこの地に所在したことが想定できる。○木造阿弥陀入来立像。(県指定文化財)県指定 平成十一年三月十七日来迎印を結ぶ三尺の阿弥陀如来立像で、像高は九九・一センチ。紫麗に整えられた衣文は快慶晩年の作風を継ぐものであるが、大宮のへりの渦文、目尻の切れ上がったやや強い表情や張りの強い面相、やや太目の衣文などから、木像の制作年代は十三世紀第二四半期頃(鎌倉中期)とみられ、快慶の弟子の中でも個性的な行状の作風に極めて近い像として注目される。○木造觀音菩薩坐像‧木造勢至菩薩立像県指定 平成十四年三月十八日本尊の阿弥陀如来立像の両脇侍として須弥壇上に安置される菩薩像である。像高は観音菩薩坐像三O・八センチ。勢至菩薩立像 四五・六センチの小像で、規模・作風から現在の中略とは当初から三尊形式をなすものではないと考えられる。観音菩薩坐像は左膝を立てた競坐像で頭部内面に残る墨書銘から、鎌倉時代中期、建長四年(一三五二)、院派の仏師によってつくられたことが確認された。また、勢至菩薩立像も胎内壁専銘から同年に院春によってつくられたことが確認されている。「阿弥陀如未来迎に伴い飛来する菩薩を坐像(観音)と立像(勢至)に構成した、彫刻による来迎形式として稀な作例で、鎌倉中期に新時代の傾向を摂取しつつあった院派中枢仏師の作風をうかがい得る基準作例として注目される。(市史跡)○大月関平墓江戸時代後期の武芸者。新当流第十一代家元(未指定〉○木造地藏菩薩立像 平安時代前期の一木造。造高一五五センチ。○本堂 旧亀山城二之丸御殿の式台・書院を移築したもの」『天台真盛宗 延喜山地蔵院 遍照寺』寺標。遍照寺の創建年代等は不詳であるが、鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」 といわれた。左に『地蔵菩薩』。『千手観世音菩薩』。『由緒ある遍照寺』「頭で鐘つく遍照寺」と市民から親しまれた天台真盛宗の古刹で津市の別格本山西来寺の四末頭に数えられでいる。本堂は天保十四年七月、火災で悉皆鳥有に帰した。十八世圓明上人代(明治六年)、豪商佐川源氏氏り発起により、亀山藩二之丸御殿の式台と玄関が移築された現在の本堂はその面影を留めている唯一の建造物である。正面玄閤には石川藩の笹龍胆の家門がそのまま残され、千鳥破風の下り棟には上り亀と下り亀の装飾瓦が対峙して置かれ、郷土亀山のシンボルとして万年の命を寿いでいる。「現し身を本願の海に投げ入れて 遍くぞ照る 吾がおのちなり」草創期は地蔵信仰の寺として栄え、延命地蔵菩薩像(藤原時代作、等身大、彫願、古色、一木造り)が安置されている。また千手観世音菩薩の信仰も篤く、お盆の十日観音には払暁の参拝者い多い.別堂には、金毘曜大権現が、交通安全の紙として、その右側に、はくさ明神が、百日咳、治癒の神として信仰されている。」『薬師堂』。『慈母観世音菩薩』。『無縁塔』。『五重塔』。『青銅製の真盛上人幼少像』。『宝珠丸真盛上人幼名』。旧亀山城二之丸御殿の玄関と式台の一部を移築した『遍照寺本堂』。本堂に掛かる『延寿山』の扁額。『本堂屋根』。『六地蔵尊』。本堂裏の墓地。『弘法大師二十一像』の扁額が掛かる『弘法堂』。『佐藤定憲歌碑』「現し身を本願の海になげいれて 遍くぞ照る 吾がいのちなり」。御朱印を頂きました。2種類頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道に戻って先に進むと、右手に『和田の一里塚跡』があった。この一里塚は、亀山市内に所在する『野村一里塚』と共に慶長9年(1604)の幕府の命により亀山城主であった関一政が築造したもの。かつては榎が植えられており、昭和59年の道路拡張までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、北塚を平成5年に復元したものである。ここは江戸日本橋から数えて104里目、京都三条大橋から21番目(87㎞)の一里塚跡である。「和田一里塚跡野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長九年(一六○四)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。 かつてはエノキが植えられており、昭和五九年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。 現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。」『亀山宿・江戸の道(旧東海道)』「亀山市は、江戸と京、大坂を結ぶ道路であった旧東海道が通り、城下町、宿場町として栄えてきた。 このことから、市内井田川町から小野町にいたる約11キロの東海道に残存する亀山城跡、 野村一里塚(国指定史跡)などの歴史遺産を組込み、白壁、土塀、史跡案内板、休憩所、歴史広場などの 整備を図り東海道としての情緒あるふるさと街道「江戸の道」として整備したものである。」「和田道標(市指定文化財)高さ1.37mの花崗岩製の角柱で、正面に「従是神戸白子若松道」と刻まれており、元禄3年(1690)に度会益保によって東海道と神戸道の分岐に立てられた、市内に現存する最古の道標である。 藩政時代の神戸道は亀山城下から亀山藩領若松港へ通じる主要道路であった。」「石上寺古文書(三重県指定文化財)石上寺は、延暦15年(796)に勧請された熊野権現の神宮寺で、朱雀天皇の勅願寺になったと伝えられる古刹である。 建久3年(1192)源頼朝から寺領社殿の寄進をうけ、同5年には将軍家祈願所となるなど、鎌倉から室町時代を通して手厚い保護をうけていたが、織田信長の兵火によって灰燼に帰した。 しかし、後村上天皇綸旨や足利尊氏制札などの古文書20点が遺され、その栄華を今に伝えている。 これらの古文書は、昭和28年三重県文化財に指定された。(非公開)」『栄町』交差点を通過する。『東海道道標 左・三本松 右・石上寺』『従是西亀山宿』。「屋号札の掲示 --宿場の賑わい復活プロジェクト--亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道四六番目の宿場町として栄えたまちです。そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。かかる現状を憂えた“きらめき亀山21町並み保存分科会”では協議を重ねた結果、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして屋号の木札をつくり、該当するお家に掲げていただくことをはじめました。屋号で呼び合ったまちの人たちの暮しには、なぜか親しみを感じます。そして、どのようなしごとをしていられたのかも知ることが出来れば、お互いの交流もいっそう深まるのではないでしょうか。このたびのしごとはまことにささやかですが、材料提供をはじめ、木札製作・掲示作業などすべて市民有志によって行いました。今後も皆さまのご協力を得て、東海道亀山が個性豊かなまちとなるよう、私たちも活動を続けます。注記 屋号は文久三年(1863)宿内軒別書上帳(亀山市歴史博物館蔵)によりました。史実とやや異なるか所もあることをご了知下さい」『亀山のろうそく工場』が左手に。社名は「カメヤマ株式会社」、前には「亀山ローソク前」というバス停もあった。同社は、1927年にここ亀山で谷川兵三郎が創業、1946年に法人組織となり、現在大阪市に本社を置く蝋燭専門企業である。亀山ローソク、カメヤマローソクの名で知られ、蝋燭の国内シェアは約5割、社名は創業地の名称に由来する。スパイラルキャンドルを生み出した国内最大手メーカーであり、かつ、世界有数のキャンドルメーカーでもある。創業地・亀山市を中心に本社工場を設け、ローソク及びキャンドルの専門ショールームを併設。1995年にキャンドルを中心とした生活雑貨を扱う専門部署をキャンドルハウス事業部として設立。東京・青山に事業本部を置き、全国7箇所にショールームを設けアロマキャンドルから、様々なキャンドルそして、メッシュ製品などのインテリアアイテムまで幅広いアイテムを取り扱うようになった。結婚式で定番となったキャンドルサービスを1970年代初旬に生み出し、2002年からパーティースタイルウエディングを提唱、その後も様々なウエディングスタイルを発表し続けている。『能褒野(のぼの)神社の二の鳥居』。和田一里塚の先で国道306号線を越えて進むと、右手筋に能褒野神社鳥居が建っている。能褒野神社は、ここから北北東3㎞のところにあり、一帯は前方後円墳で日本武尊が伊勢国能褒野で亡くなったという記録に基づき、明治12年に内務省により 「日本武尊能褒野御墓」 と定められている。全長約90m、後円径54m、 高さ約9mの王塚とか、丁字塚と呼ばれていた三重県北部最大の前方後円墳を日本武尊の墓であると認定し、以後宮内庁が能褒野陵として管理しているのだと。鳥居の下には地元の人が書いた「従是西亀山宿」木札が置かれていた。ただし正式な亀山宿の江戸口門はもう少し先にあった。ここから西が『亀山宿』となる。ほんの僅か進んで打田釣具店の斜め向かいにあるのが『露心庵跡』本能寺の変から2年後の天正十二年(一五八四)、明智光秀や柴田勝家を滅ぼし勢力を拡大する羽柴秀吉に対し、織田信長の次男信雄と徳川家康が手を組み対立を深めていた時代の頃の話。「露心庵跡天正十二年(一五八四)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか十三騎でこれを撃退した。 この合戦の戦死者を城下東端に二つの塚を築き葬ったという。 関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。 この仏庵が露心庵で、本来の名称を友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。 明治に至り廃寺となった。 この庵から西が亀山宿となる。」亀山宿(かめやましゅく、かめやまじゅく)は、東海道五十三次の46番目の宿場である。現在は三重県亀山市。 城下町であると同時に宿場町であった。亀山は関氏の祖、平実忠が文永元年(1264)城を築いたことに始る。その後城主が変り、延享元年(1744)石川主殿頭が入部し、明治まで続く。宿場でもあり、城下町でもあり、繁栄したといわれるが、藩領内に幕府直轄の宿場が置かれたので、参勤交代で通る大名達は亀山宿に宿泊するのを遠慮したといわれます。そのため宿場の規模は大きくなかった。本陣 1 脇本陣 2 旅籠 21 『広重 東海道五拾三次之内 亀山 雪晴』。「雪の朝の亀山城の前を大名行列が通っていく。山の傾斜、行列、雪に包まれた松の線の方向を同じくし、二本の松がそれらの線と交差して自然の力強さを表わしている。銀世界に左手の紅色の空のぼかしが、晴れた日の日差しを表わしている。前図の庄野と並べると、主題構図も対象的で、続き絵としてのおもしろさもある。」亀山宿は露心庵跡から始り、本町に入っていく。旅籠はこの本町と隣の東町に固まっていたと。町並は火曜日というせいでもあるのだろうが、人影がまばらでひっそりとしていた。本町2丁目、3丁目には古い民家もいくらか見ることが出来た。民家の前にあった巨石。『東海道亀山宿 茶屋町 たたみや跡』『東海道亀山宿 茶屋町 しちのすけ跡』『東海道亀山宿 茶屋町 ふじや跡』『東海道亀山宿 茶屋町 さくらや跡』旧家が続く。『亀山本町郵便局』手前の『巡見道』交差点を渡る。「巡見道巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。 巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永十年(一六三三)のことで、その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や 災害などの実情調査を行う目的で実施された。 巡見道は、ここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通過し中山道とつながる。」右手に『亀山本町郵便局』。さらに旧家が続く。『米川時計店』と書かれた看板。『東海道亀山宿 茶屋町 はなや跡』。連子格子の旧家が左右に。『東海道亀山宿 鍋町 はまだや跡』。更に旧東海道・亀山宿を進む。『東海道亀山宿 鍋町 たまや跡』。『東海道亀山宿 鍋町 きりや跡』と『東海道亀山宿 鍋町 みかわや跡』。本町三丁目『東海道亀山宿 東新町 まつばや跡』。右手に『小菅屋』。道なりに進んで県道566号線に突き当たると、左角に『江戸口門跡』案内板が建っていた。往時は東西120m、南北70mの敷地に水堀や土塁・土塀を巡らし、門と番所を据えて通行人を監視していたと。そんな江戸口門跡は鉤手のように鋭角的に折れ曲がる旧街道の角にそれらしいモニュメントが置かれているだけ。「江戸口門跡延宝元年(一六七三)、亀山城主板倉重常によって築かれた。 東西百二十メートル、南北七十メートルで、北側と東側に塀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。 曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。 この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。 西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。 ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。 現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。」東町2丁目を西に進むが人通りはほとんどなしのアーケード街。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.09
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関西本線・井田川駅を後にし更に旧東海道を南西方向に進む。右手にあったのが『亀山宿・江戸の道(旧東海道)』案内板。「亀山市は、江戸と京、大坂を結ぶ道路であった旧東海道が通り、城下町、宿場町として栄えてきた。 このことから、市内井田川町から小野町にいたる約11キロの東海道に残存する亀山城跡、 野村一里塚(国指定史跡)などの歴史遺産を組込み、白壁、土塀、史跡案内板、休憩所、歴史広場などの整備を図り 東海道としての情緒あるふるさと街道「江戸の道」として整備したものである。」「景行天皇皇子日本武尊能褒野御墓日本武尊は景行天皇の命をうけて、大和朝廷に従わない豪族を征伐するために、九州から東北まで転戦した。 東国からの帰路に、伊吹山中にて病をえて能褒野においてついに亡くなられ、埋葬した墓から尊の魂が白鳥となって大和へ飛び去ったと「古事記」「日本書紀」に記され、 明治12年(1879)内務省によって現在の御墓が、日本武尊墓と定められ、現在も宮内庁によって管理されている。 御墓は、かって「丁字塚」と呼ばれた全長90mの前方後円墳で、北勢地方最大の古墳である。 御墓に隣接して、日本武尊、弟橘姫命、建貝児王を祀る能褒野神社と、16基の後期古墳がある。」『旧井田川小学校跡』碑。「大正四年三月七日小田町より移転し、昭和五十四年三月三十一日まで存続した。 此の石ふみは、その門柱の片方である。」ここにはやや面長の「二宮尊徳像」も。1本の門柱と二宮金次郎像が寂しげに置かれていた。国道1号線に架かる歩道橋を渡る。川合歩道橋から見た国道1号線。遠くに錫杖ヶ岳が見えていた。そしてここ「亀山市」は、現在ロウソクの生産が有名だ。歩道橋上に亀とロウソクのイラストとNESWが記されていた。旧東海道を左折して直ぐ右手に、真宗高田派の『廻向山西信寺』があった。左手に『真宗 高田派 廻向山西信寺』寺標。『西信寺本堂』。左手に旧家が。旧東海道を進むと、『椋川に架かる昭和48年(1973)竣工の川合椋川橋があった。川合の地名はこの椋川(むくかわ)と鈴鹿川が合流する土地であることに由来していると。『川合椋川橋』。昔、椋川がしばしば氾濫し、多くの家屋が浸水したため、安永年間(1624-44)頃、亀山藩士生田理左衛門が私財を投げうって水流を南に変え、橋を架け替えたので、理左衛門橋と呼ばれた。『椋川』上流を見る。『椋川』。『東海道 亀山宿⇔庄野宿』道標。その先で国道1号線の亀山バイパスの高架を潜って行く。亀山バイパスを過ぎると、程なく右手に『谷口法悦(たにぐちほうえつ)題目塔』が建っていた。 昔から 「川合のやけ地蔵さん」 「法界塔さん」 と呼ばれており、日蓮宗の篤信者谷口法悦が元禄年間(1695-98)に建てたと言われている。 解説板に記載はないが、ここは江戸時代の川合刑場があったところで、その供養のために建てらえたと言われる。「谷口法悦題目塔この題目塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」 と呼ばれている。 総高2.59mで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後五百歳中廣宣流布」左側に「天長地久國土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。 造立者の谷口法悦(生年不詳)は京の日蓮宗の篤信者で、17世紀末頃、一族と共に各地の寺院、街道筋や追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている。」題目塔の直ぐ先で二車線道路の信号交叉点を渡ると、左手に鉄枠で補強された『和田道標』が建っていた。『元禄三庚午年正月吉辰施主度会益保』の文字が。「和田道標元禄3年(1690)、東海道から神戸・白子・若松(鈴鹿市)方面への分岐に建てられた道標である。 正面に 「従是神戸白子若松道」、左側面に「元禄三庚午年正月吉辰施主度会益保」と刻まれている。「東海道分間延絵図」(文化年間・19世紀初頭) には、「脇道神戸城下町江二里半、白子町江三里、若松邑江三里三十四町」 とあり、 亀山城下から亀山領若松港へいたる重要な分岐点であった。県内東海道の在銘道標の中で最も古いものである。」正面に『従是神戸白子若松道』の文字が。白子という地名について、藤枝宿にあった白子町と関係があるのであった。時は天正10年(1582)、あの本能寺の変で信長公が光秀に討たれた時、家康公はわずかな供を連れて、堺の見物をしていたのだが、身の危険を感じて堺から伊賀越えで伊勢の白子の浜に逃れたのであった。そして白子の浜師「小川孫三」の助けで家康一行を船に乗せて対岸の知多半島へと運んだのだ。その後、家康公は孫三の恩に報いる為、孫三に藤枝宿の一画に土地を与え、諸役御免(伝馬役などの宿場の業務を免除すること)の特権を与えたのだ。孫三は藤枝宿に居住し、町名を故郷の名と同じ白子町とした。現在、藤枝市の白子町は本町と名を変えているが、ご子孫は小川医院を経営しているのだと。『東海道 道標』。県道28号線手前を右に、石上寺方面に向かう。先に進むと左手に、木造の神明系鳥居の奥に『小社』があった。これは通行人による悪疫から子供を守るために祀られたもので、東海道分間延絵図には 「叉具神(しゃんぐりさん)」 と記されていると。ここには竿石が途中で折れた石燈籠や道標と思われる石柱などもあった。再び『東海道』道標。「叉具神(しゃんぐりさん)」 の先で右にカーブして集落の中を進んで行く。街道正面に和田町公民館前の前に建つ『緊急アナウンス塔』が見えて来た。『緊急アナウンス塔』。『和田町公民館』。掲示板には『広重画 東海道五十三次之内 亀山』と『和田町のご案内』が。和田町公民館の斜向かいの細い路地角に「井尻道」と刻まれた『道標』が建っていた。この『道標』は、これまで各所にあった道標と同じで、明治中期に亀山で製糸業を始めた実業家・田中音吉が建立したものであると。『井尻道道標』の先に入って行くと、真宗高田派の『當修山 幸福寺』があった。『真宗 高田派 當修山 幸福寺』道標。『幸福寺本堂』。『鐘楼』。旧東海道に戻ると直ぐ右手に天台真盛宗の『多宝山福善寺』が。右手に『天台真盛宗 多宝山福善寺』寺標。『福善寺本堂』。『聖観世音菩薩』が雨によるレンズの水滴に・・・。桜並木の旧東海道を進む。ここが『和田の坂道』『広重 和田の坂道』歌川広重が東海道亀山を描いたものの一つで、和田の坂道を描いたとされます。右手段上に高野山真言宗の『石上寺(せきじょうじ)』があった。『遊歌詠浄土』と刻まれた石碑。植栽に囲まれた参道の坂を登って行く。『伊勢七福神』のカラフルな幟が。『石上寺本堂』。石上寺は、延喜15年(796)熊野那智社の夢告をうけた大和国布留郷の住人・紀真龍(きのまたつ)により、新熊野三社が勧請され神宮寺として開創されたという。「紙本墨書石上寺も文書石上寺は、延暦15年(796)、大和国布留郷(奈良県天理市)の住人「紀真龍(きのまたつ)」により勧請された「新熊野三社」の神宮寺として開創されたという。鎌倉時代には将軍家祈祷所となるなど手厚い保護を受け広大な伽藍寺領を誇ったが、織田信長の伊勢侵攻による兵火で、伽藍等を失い衰微したと伝えられる。現在は、後村上天皇綸旨や畠山高国袖判禁制、歳末巻数返事、管領畠山持国室町幕府下知状、正平元年某袖判寄進状など、鎌倉から室町時代の古文書20通(21点)が残されている。これらの文書類は、県下でも数少ない中世文書群であり、当時の石上寺と社会との関係を示す貴重な資料である。」『東海近畿地蔵霊場第5番地蔵堂』。『地蔵菩薩半跏像』。『三重四国八十八箇所霊場石仏』が幟の裏に並んでいた。『弘法大師像』。水子供養仏が並んでいた。『水子地蔵尊』。『仁王護国般若経石塚』。再び『三重四国八十八箇所霊場石仏』。『鐘楼』。熊野三社を祀る『拝殿』。『拝殿』に掛かる『熊野大権現』の扁額。『拝殿』の内部。『三重四国八十八箇所霊場第26番』。『聖観世音菩薩』。『六地蔵』。こちらに『石上密寺』と刻まれた寺標。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日・3月20日に滋賀県水口市への移動の途中に三重県亀山市にある『能褒野神社』を訪ねた。能褒野神社は、御幣川と安楽川の合流点に近接する標高45メートルの段丘端部に所在し、宮内庁により「能褒野墓(のぼののはか)」として第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されている前方後円墳。北勢地方最大規模の古墳で4世紀末頃の築造といわれている。能褒野神社の御祭神は日本武尊で、明治二十八年(1895年)地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため、能褒野陵周辺で神社が創建されたと。『能褒野神社』横の駐車場に車を駐める。 ヤマトタケルの能褒野(のぼの)御墓「亀山市田村町)「能褒野王塚古墳能褒野王塚古墳は、全長90m、高さ9mの規模を持ち、4世紀後半の築造とみられる北勢地域最大の前方後円墳です。平安時代以降、ヤマトタケルの墓の所在地は不明となっていましたが、明治12年(1879)に内務省によって、能褒野王塚古墳がヤマトタケルの墓と定められました。能褒野神社(亀山市田村町)能褒野御墓が定められると、墓に隣接してヤマトタケルを祀る神社創設の機運が高まり、明治18年(1885)に能褒野神社が創社されました。ヤマトタケルのほか、オトタチバナヒメ(弟橘媛)、タケカイコノミコ(建貝児王)が祀られています。また、明治41年(1911)には。式内社の県主神社や那久志里神社などが合祀されています。」『のぼのの森公園』案内板。「古代より伝えられる「日本書紀」や「古事記」によると、景行天皇の皇子日本武尊は東征の帰路に、この地「能褒野」で亡くなり墓が営まれたとされています。その日本武尊御墓周辺の良好な自然環境と四季折々の木々が広がる、のぼのの森公園での散策をお楽しみ下さい。」駐車場横の庭園。小さな滝が。『日本武尊御墓』案内標識。参道正面。『縣社 能褒野神社』社標。参道の階段を進む。『能褒野王塚古墳(景行天皇皇子日本武尊能褒野墓)』「御幣川と安楽川の合流点に近接する、標高四五m程度の段丘端部に所在する肘方筏円墳である。全長九〇m.後円部径五四m、同高九m、前方部幅四〇m、同高六.五mで、北勢地域最大規模の古墳である。この古墳から採取されたという鰭付朝顔形円筒埴輪や器材埴輪から四世紀末頃の築造と考えられる。これらの埴輪は。奈良県北部地域や京都府西南地城との関係がうかがえ畿内周辺地域の勢力が濃尾地方へ伸展するルート上にある地理的条件にようてもたらされたものであると考えられよう。日本武尊(倭健命)が東征の帰路に伊勢国能褒野(能煩野)で薨じたとの『記紀』記述により、明治十二年(一八七九)内務省によって「景行天皇皇子曰本武尊能褒野墓」に定められ、墳丘の修復に併せて、畿内の王陵墓に倣い周庭帯が設けられた。しかしながら、近世においてはこの古墳が日本武尊の墓という認識はほとんどなかったものと見られる。周囲に十数基の円墳が所在し「培塚」とされているが、これらは後期古墳と考えられる。」石鳥居が見えて来た。左手の『日本武尊 御陵墓 能褒野神社』と刻まれた石碑は転倒して中間から折れていた。左手に『石灯籠』。『左 日本武尊御墓参道』。『二の鳥居』手前。『能褒野神社』「御祭神 記(紀) 倭建命(日本武尊) 建貝児王(武卵王) (元他主神社御祭神) 弟橘比売命(弟橘媛)(元小天宮御祭神) 他三十柱祭礼日 歳旦祭 一月一日 祈年祭 二月十七日 春祭 四月八日 夏祭 七月八日 例祭 十月八日 新嘗祭 十一月二十三日神紋 三樫葉 沿革 明治十二年 宮内省、同地の丁字塚古墳(一名、王塚)を日本書紀が記す日本武尊能褒野陵 (『延喜式』諸陵寮能褒野墓)と決定 明治十六年 神宮祭主久邇宮朝彦親王より能褒野神社と社號が選定され、これを聞食された 有栖川宮、山階宮、小松宮、伏見宮、北白川宮、閑院宮、梨本宮、華頂宮より 金幣を賜る。 明冶十七年 能褒野神社創立の許可を得て社殿並びに境内の新設に着手。 明治二十八年 神社創立事業が完了し、神宮祭主賀陽宮邦憲親王より御霊代並びに金幣を賜リ、 御鎮座祭を斎行。 明治三十八年 天皇陛下、日露の役戦勝の御親告のため神宮行幸の折、勅使を御陵へ遣わされ、 勅使は当社へも参拝。能褒野神社創立に閲する詳細を陛下に復奏するとの 御言葉を賜る。 明治四十一年 延喜式内社の縣主神社、那久志里神社、志婆加支神社をはじめ、村内の 四十余社を合妃。 明治四十四年 神宮司廳より賜った皇大神宮撒下御用材を用いて本殿を築く。 大正十四年 縣社に昇格。十月の縣社昇格奉告祭斉行の折、秩父宮、高松宮、伏見宮、 閑院宮、東伏見宮、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、 北白川宮、竹田宮より御鏡餅料を賜る。 大正十五年 能褒野保勝会、亀山駅前に大鳥居を建立。久邇宮邦彦親王より能褒野神社の 御社號書が寄せられ、この書を扁額として大鳥居に掲げ奉る。 昭和二十二年 宗教法人能褒野神社に改組され今日に至る。」更に参道を進む。『手水舎』。『拝殿』が見えて来る。『連理の榊』。『拝殿』。扁額『御祭神 日本武尊 能褒野神社』。『那久志理神社』石鳥居。元々の祭神は、長白羽神・瀬織津姫命だったようです。天白信仰+滝・川の浄化の女神信仰、もともとの土地神信仰とのこと。『延喜式 那久志理神社』社号標。『社務所』には「亀山警察署警察官警備詰所」東屋であろうか。蝋梅であろうか。『能褒野神社 飛地ほ号 宮内庁』。案内が全く無かったため、肝心の『 日本武尊能褒野御墓』を訪ねる事が出来ませんでした。よってネットから。『 日本武尊能褒野御墓』の拝所への階段。 【https://travelog-jpn.blogspot.com/2013/03/blog-post_28.html】より『 日本武尊能褒野御墓』。 【https://ameblo.jp/kakeifu/entry-12162627509.html】よりそして『能褒野神社』を後にして車で進むと『能褒野神社』に明治41年に合祀された那久志里神社の旧地は能褒野神社入口の道路を挟んで東300mにあり、『奈具志里神社跡』、『東荒寺跡』と刻まれた石碑が建っていた。『奈具志理神社跡』、『東荒寺跡』碑。祭神:長白羽神・瀬織津姫命 『奈具志理神社』は伊勢国・鈴鹿郡鎮座とされる式内小社で、長白羽神は麻を育て青和幣(あおにぎて)を織った神。『倭建命碑』と『水乃神の碑』。『鳴呼英雄 倭建命之碑』。『水乃神の碑』。倭建命之碑と弟橘媛を祀る陰陽石の水乃神が。那久志里神社の祭神・織津姫命は水神で走水で入水した弟橘媛に繋がります。また付近は安楽川にあまりにも近い場所で、この川の水害で水神にも繋がっているのだと。「倭建命(ヤマトタケルノミコト)之碑【御由緒】倭建命は、今からおよそ千六百年前に活躍された人で、当時の天皇(父親)の命令で日本の各地へ遠征し、国内の戦乱を平定されたとされる古代の英雄であり、その神話は今でも人々に永く伝えられています。東北地方の戦乱を平定された後で、故郷を偲んで和歌を詠まれ、能褒野の地でその短い生涯を閉じられました。尚、倭建命が東北の地に遠征した時、その地に子孫を残されて、その子孫が何年かの後、天狗の姿に身を変えられ亡き父(倭建命)のお墓がある能褒野に辿り着き、その後此の地に住み着かれ原家の御先祖様になられたとのことです。水乃神の碑【御由緒】此の碑は、倭建命の妻であった弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)をお祭りしています。弟橘比売命は夫の倭建命が遠征の時、荒れ狂う海に自ら飛び込まれて、荒海を鎮め夫を助けられたとされる神話が永く伝えられています。この神話が水にまつわるとのことで、水乃神様として倭建命の側にお祀りしました。」そして車に戻り進むと右手にも『延喜式内縣主神社』と刻まれた石碑も。左手には『のぼのの森公園』石碑。そして次に訪ねたのが鈴鹿市広瀬町にある『国史跡 伊勢国府跡』。国府は、古代の 60 あまりの国ごとに置かれた古代の役所。現在の三重県の伊賀地方、志摩地方を除く大部分が伊勢国(いせのくに)。現在の県庁所在地にあたる国府があったのがここ鈴鹿市。鈴鹿川中流北側の河岸段丘上にある長者屋敷遺跡と呼ばれる場所からは、古代の瓦などが大量に出土し、発掘調査から政庁跡や官衙(かんが=官庁)と思われるの遺構が多数確認され、伊勢国府跡と認定されたのだと。『伊勢国府跡 』1992(平成 4)年から鈴鹿市教育委員会が続けてきた発掘調査の結果、鈴鹿市広瀬町 ・ 西冨田町にまたがる長 者屋敷遺跡から、政庁・官衙群が確認されて奈良時代中頃の伊勢国府であることが確認されました。その成果を受 けて 2002(平成 14)年 3 月 19 日に矢下地区の政庁跡と南野 ・ 長塚地区の官衙群の計 3 か所 73,940㎡が国の史 跡に指定された。『伊勢国府政庁跡』案内図。「伊勢国府政庁跡政庁は、中央政府から派遣された国司を中心に、儀式や饗宴などが行われていた国府の中でも最も格式の高い施設です。伊勢国府の政庁は、正殿・後殿・脇殿・軒廊などからなり、周囲には東西約八〇メートル・南北一一〇メートルの築地塀を巡らしています。政庁の建物はすべて瓦葺礎石建物で、その配置や大きさは近江国庁によく似ています。正殿・後殿・脇殿の基壇は、今も森の中に一メートルほどの高まりとして残っており、全国的にも貴重な遺構として保存されています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.07
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西富田の『川俣神社』の先は『安楽川』で、江戸時代は平水時は土橋、出水時は徒歩渡しであったと。現在、その道は消滅しているのであった。現在の橋を渡る。橋の名は『和泉橋』。川の名は『安楽川』。400~500m先で鈴鹿川に合流しているのであった。橋の袂で、立ったまま暫しの休憩をする旅友。橋の麓から振り返ると、飛行機の姿が。ネットで調べてみると、鈴鹿市西冨田町の中古建設機械販売店の中にそびえ立っているのだと。コンベア240という機種だそうで、機械販売店の社長がバラバラになっていたものを組み立てたと。台座が見えなければ、超低空飛行に驚くことマチガイなし。『和泉橋』を渡る。『安楽川』上流域。鈴鹿山脈南部の安楽峠に源を発しているとのこと。安楽峠の名の由来は、高低差が少なく楽に越えられた、ということからだと。河原の砂が白っぽく、美しかった。上流は、花崗岩や珪長質の凝灰岩が多いのであろうか。堤防の上を暫し歩き、昔からの旧東海道は下道に。鈴鹿市和泉町の旧東海道を西に進む。直線の街道がやや右にカーブする所の右手筋両脇に『自然石の道標』と『角柱の道標』が建っていた。『自然石の道標』には、『右のゝぼ』の文字が確認できたが『り道』文字は何故か?地中に隠れていたのであった大正3年(1914)の『角柱の道標』。「のゝぼり」 は 「野登」 であり、安楽川上流にある真言宗御室派の鶏足山野登寺への道であると。左手前方に御堂が見えた。『地蔵堂』。中には『聖観音菩薩と思われる石仏』が。この時期の南天、千両の実?のついた花々等が奉納されていた。連子格子の旧家がここにも。先へ進んで、街道が下り坂に差し掛かる右手段上に石碑があった。『故歩兵中尉勲六等功五級磯辺照博碑』の文字が。『地福寺』の手前には『観音堂跡』があり『旧観音堂の鬼瓦』や『明治天皇御小休所碑』もあった。『旧観音堂の鬼瓦』。『明治天皇御小休所碑』。「明治13年(1880)7月13日陸軍大演習御統監の際」と書かれていた。『和泉橋』橋柱。そして『旧観音堂』の隣に浄土宗の『極楽山地福寺』があった。「小田町寺社の由来鈴鹿市西部に位置する小田町の極楽山地福寺は、その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔道心が多く修業せし処といわれている。 当時は、七堂伽藍の備わった寺といわれ、現在も中堂、そして道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されている。永禄11年(1568)織田信長の戦火に遭い焼失。観音堂は常念仏堂として各誉上人の発願により延寶5年(1677)に建立され、 中央に歴代亀山藩主の帰依された阿弥陀如来をまつり、その両翼には後に江戸の鈴木市郎ヱ門が東海道往来の人々の安全と家族の菩提を弔う為に、 元禄12年(1699)に西国三十三所の観音菩薩像三十三体を寄進され 東海道の道すがら多くの人々の立ち寄りご利益をいただき、 また毎月17日の縁日には門前に市が立つほどのにぎわいであった。 毎年8月17日は盛大に盆おどりを行い、近郷より人出も多く現在もにぎわっている。毘沙門堂は、身丈1m60㎝の青銅造り毘沙門天をまつり福徳をさずける、七福神の一つとしても信仰を集めている。9月20日の縁日には、昔は踊りもあって、にぎわっていたと伝えられている。堂内には鎌倉時代の作といわれている青面金剛も安置され、その昔庚申さんとして広く庶民の信仰の対象となっていた。寺宝として江戸時代初期の二十五菩薩像も伝わっている。」『極楽山 地福寺』寺標。『地福寺本堂』。その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔道心が多く修業したところと言われている。当時は七堂伽藍の備わった寺といわれ、現在も中堂、そして道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されているのだと。『本堂』の屋根の主棟には『極楽山』と瓦で表示されていた。『本堂』に掛かる『極楽山』の扁額。『毘沙門堂』。御堂内の『毘沙門天』。『水子地蔵菩薩像』。左『観音菩薩座像』と中央『地蔵菩薩』その脇右に『宝篋印塔』。『百度石』。『五立明神』。地福寺のところから県道641号線に合流。その先で関西本線の踏切を渡った。踏切手前のY字路の手前で鈴鹿市から亀山市に入ったのであった。亀山市の汚水マンホール蓋。「亀山城多聞櫓」と亀山市の花である「花しょうぶ」をデザイン。直ぐ先の三星電気商会の向かいの筋角に観音堂(ほぼ台座のみ)があり、ここを入って行くと曹洞宗の海善寺があったがこの日は訪ねなかった。そして更に進むと、左手の大きな玉石塀、庭木も見事に配置された立派な民家があった。しかし、この立て札が。路地に入った先の民家入り口から。どの様な事情で『売物件』になってしまったのだろうかと想いを巡らせたのであったが・・・。そして関西本線の『井田川駅』前に到着。『東海道道標』井田川駅 庄野宿 ← → 亀山宿。『井田川駅』と駅前ロータリー。駅前ロータリーの周りには、東海道道標、東海道イラスト案内、日本武尊像などがあった。『日本武尊像』。この駅から遠くない亀山市田村町に日本武尊の陵墓と伝えられる古墳があり、明治28年(1895)能褒野神社が創建されているのだと。『ヤマトタケルとオトタチバナヒメヤマトタケルは「古事記」「日本書紀」に登場する伝説上の人物で、景行天皇の皇子オウスがその人ある。天皇の命により九川や東国に赴き、天皇に従わない者と戦った。東国からの帰路、大和国(やまとのくに 奈良県)へ向かう途中「ノボノ 亀山市北東部周辺」で亡くなり陵墓が造られた。ここから北西へ約2kmの地にある能褒野王塚古墳(のぼのおおつかこふん 亀山市田村町)がヤマトタケルの墓とされ、宮内庁が管理している。ヤマトタケルの妃であるオトタチバナヒメは、共に東国へ赴く途中、三浦半鳥(神奈川県)から 房総半島(千葉県)へ渡る海路(走水の海)で荒れ狂う海を鎮めるため、海中に身を投げたとされる。オトタチバナヒメの死を悼んだヤマトタヶルは東国を離れる際に「吾妻はや」(ああ我が妻よ)と嘆いたことから、関東地方のことを「吾妻」と呼ぶようになったとされる。なお、このオトタチバナヒメについては、亀山の忍山神社の祠官オシやマノスクネの娘であるとの伝承が当地に遺されている。」『国偲歌』「やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとうるわし大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 大和うるはし」『大和タチバナ記念植樹』碑も。井田川駅周辺地図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『女人堤防碑』の先を進み、次の集落・中富田に入ると、前方左手に石鳥居が見えて来た。ここは『川俣神社』で境内脇に『中富田の一里塚跡』があった。中冨田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。常夜燈が左手に。「中冨田一里塚一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。江戸日本橋を起点として、36町を一里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。 享和3年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。その近くに 「御馳走場」 と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、 現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。 この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。」『史跡 中富田一里塚跡』碑。石鳥居の右手。『式内 川俣神社社標』。「中冨田一里塚中冨田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。 享和3年(1803)に作成された 「東海道亀山宿分間絵図」 には、中冨田村川俣神社の東隣に街道を挟んで「一里塚」が描かれている。 大きな木の繁みのある大規模な塚であり、榎木の大木があったといわれている。」『従是西亀山領(領界石)』。そして『川俣神社』の石鳥居。『御神木』スダジイ。『川俣神社拝殿』。石造物が布で覆われた小社。『山神』。そして再び旧東海道に戻り、西に進む。街道を先に進むと、右手に天台真盛宗総本山西教寺末寺の『富光山常念寺』の『山門』があった。「富光山常念寺承応年間(1652-54)智詮和尚の開基とされ、本尊は阿弥陀如来である。 当時は、現在地にはなく別の場所にあったが、安政元年(1818)の大地震により倒壊した。 その結果、同じ村内にあって倒壊をまぬがれた平建寺を買収して現在地に移転した。 平建寺は山号を白浪山と号し、高野山真言宗の寺であった。 本尊は延命地蔵尊であり中冨田町の氏仏として信仰され、地蔵堂に祀られている。 毎年地蔵盆には町民が集い、初盆灯籠焼き供養など盛大な会式が執行されている。平建寺から伝わる「不許魚肉五幸入門内」「白浪山平建寺」の石柱が残っている。 明治32年宇田川妙教上人の発願により、鐘楼堂が建立されたが太平洋戦争の時代に軍の命令により供出を余儀なくされ、永年村人に親しまれた鐘の音は止んだ。 梵鐘のなくなった鐘楼堂は、昭和19年の東南海地震で倒壊し、土台石を残すのみとなった。 現在地は麻生はつの遺志により、隣地の屋敷跡の寄進を受け拡大されたが、その功績を後世に伝承するため境内に「麻生はつ屋敷跡」の碑が建っている。昭和48年、檀信徒の熱意により誓吽上人代に現在の本堂が新築され、また平成3年には、地蔵堂と山門が新築され現在に至っている。」『常念寺本堂』本尊阿弥陀如来を祀る。多くの方々の戒名が刻まれていた『慰霊碑』。こちらは『軍人の慰霊碑』であろうか、『地蔵堂』。『真言宗白波山平建寺本尊 延命地蔵尊』の標柱。境内の石庭の中の石碑群。『本堂建立並地蔵堂修築發願銘記』の文字が。平成3年に新築された『鐘楼』・「かねつき堂」。『かねつき堂再建記念碑』。『「正覚大音響流十方」浄土宗の経典としている『無量寿経』巻上の「正覚大音響流十方」⇒「正覚の大音ひびき十方に流る」から出ていると。大音は大きな音と言うことで念仏の声を意味しており、念仏の声が響き流れて、多くの迷える人たちを救い、正しい覚りを得させ、極楽浄土に生まれさせたい、と言う願いがこめられているのだと。「一切の生きとし 生けるものは 幸福でれ 安穏であれ 安楽であれ」とも。『旧鐘楼堂4本柱礎石』。明治33年鐘楼が建てられたが、昭和18年(1943)に太平洋戦争のため梵鐘が供出され、昭和19年の東南海地震により倒壊したと刻まれていた。『常念寺 境内』。常念寺の脇の旧東海道のT字路。カメラの自動露出が可怪しくなっていた?民家の庭先の蝋梅の花。民家の塀の上には棕櫚や芋蔓で造った鳥の置物が。先に進んで西富田の集落に入ると、右手に真宗高田派の『金光山福万寺』があった。『鐘楼』。『本堂』。福万寺は、文永11年(1274)常照師により常照寺として開創され、天台宗に属していたが、寛文元年(1661)本山専修寺第14世堯秀上人の教化により真宗高田派に改宗し、福万寺と改めた。再び旧東海道に戻る。『福万寺』から70~80m程先の十字路右角に道標が建っていた。この道標は、田中音吉の寄付により建立された道標で、『ひろせ道』 と刻まれていた。そして前方に、『安楽川』の堤防そしてその手前左側には神社が。『安楽川』の堤防手前に西富田の『川俣神社』がここにも。庄野宿・中富田に続き3社目の川俣神社で、ここも 「式内川俣神社」 の社標があり、延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社であると。昭和47年(1972)の石鳥居。『手水舎』。手水石は巨石を彫り込んで。昭和10年(1935)の旧和泉橋(いずみはし)親柱、その先に慶應3年(1867)の『常夜燈』。昭和10年6月竣功の文字が。『川俣神社拝殿』。拝殿に掛かる『延喜式内川俣神社』の扁額。『拝殿内部』。『無上冷水井跡』碑。織田信長の三男・神戸城主の織田信孝が愛飲したと伝わっているのだと。『國土地理院標石 東経136度30分26秒』。おそらく、右面には、緯度が北緯・・・・と記載されていたのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に旧家が目立つ庄野宿の旧東海道を進む。前方右手、床屋さんの店先にある赤・青・白の三色のクルクル回る看板の横に立札が。脇本陣跡から3軒程先の理容伊藤が『郷会所跡』であり、壁に比較的新しい案内板が貼られていた。「郷会所跡郷会所は助郷の割当てを受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所であった。江戸時代も後期になると助郷人馬の割当てが多くなり該当の村々の疲弊が重なり、減免陳情のため会合が繰り返された。庄野宿資料館には陳情書の控え等が保管されている。」「肝煎(きもいり)」という役職があった事を初めて知ったのであった。更に先に進み路地を右に入ると、正面に真宗仏光寺派の『常楽寺』があった。『常楽寺 山門』。『本堂』。『本堂』の龍の透かし彫り。『鐘楼』。常楽寺から程なく、右手にあったのが『川俣神社』。旧東海道に面した社標に『延喜式内川俣神社』とあるので、延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社である。天保15年(1844)の対の常夜燈も参道入口に。境内には、昭和44年に三重県指定天然記念物に指定された推定樹齢300年のスダジイ・椎の木があった。大正6年(1917)の『一の鳥居』と左に『吽形の狛犬』。『御神橋』と『二の鳥居』。『川俣神社拝殿』。推定樹齢300年の『スダジイ』。「川俣神社のスダジイスダジイはブナ科の常緑樹で、わが国では暖地に自生している。葉は広楕円の革質で厚く、葉の裏は淡褐色である。初夏に雌雄の花をつけ、果実は小粒でかたい。この樹は高さ11m、地上の幹回り約5mの巨木である。」地上の幹回り約5mの巨木であると。旧東海道の住宅街を進む。さらに先に進むと十字路角に『庄野宿碑』が建っており、この辺りが庄野宿の西口になるようであった。『東海道 庄野宿』碑。庄野宿を出ると国道1号線に突き当たった。かつての旧東海道は直線状---に道があったが、国道1号線と県道637号線が通っているため、案内図に従って―の道をを国道1号線のガードを潜り、その先で県道637号線のガード潜り抜けて迂回して行ったのであった。案内に従い進む。正面の国道1号線に向かって歩く。高架が県道637号線です。迂回路を抜けると、右から回り込んできた道と合流し、旧道に復帰した。鈴鹿市農村集落汚水配管のマンホール蓋。水のきれいな川でしか産卵、生息しないなど、川にトンボが飛んでいる事で清流をイメ-ジし生活環境の整備と美しい自然を守っていこうという思いが込められているのであった。先に進んで、街道がやや右にカーブするところの左手筋角に、「平野道と刻まれた大正3年(1914)の『道標』があった。その手前に新しい『平野道道標』があり、「いぼとり地蔵この奥50m」とある。南の鈴鹿川を渡ると「平野町」という町がある。そこへ行く道なのであろう。奥に入って行くと突当り右手に地蔵堂があり、汲河原のいぼとり地蔵尊が祀られていた。鈴鹿川堤防に向かって進む。鈴鹿川堤防脇の『地蔵堂』。「汲川原のいぼとり地蔵この地蔵菩薩像がいつ頃、どの様にして祭られるようになったかは不明である。古来、鈴鹿川左岸堤防南側の平野道で、道標の「お地蔵さん」として露天に立っていたものを、この地に移され地蔵堂が作られたと伝えられている。昔より、いぼと眼病に効くと伝えられ、地域の信仰を集めており、今も遠方よりお参りに来る人も多い。毎年8月には、地区で地蔵盆が行われている。」『いぼとり地蔵尊』。道標のようで、文字が刻まれているが判読できないのであった。漢文で刻まれた『地蔵尊碑』。「惟に地蔵菩薩は六道受苦の衆生の苦を抜き楽を与え給うなり古き友人医師甫元先生自ら恒に篤く地蔵菩薩に帰依し此の功徳を一切に普及する為当尊像を造り奉る仍て之を永久に伝える為有志の者相図り此の碑を建設するもの也昭和7年(1932)秋彼岸日 法印 宥圓書」の意が刻まれているのだと。そして旧東海道に戻り進む。左手に寺の屋根が見えたが、通り過ぎたことに気づき戻る。路地の先に浄土真宗本願寺派の『富田山真福寺』の『山門』が。『浄土真宗本願寺派 富田山真福寺』寺標。『鐘楼』。『真福寺 本堂』『経堂』であろうか。扁額には『???』境内の『勸学實性院釋達立』碑。真福寺の先で集落が途絶えると、小川の手前右手に、『従是東神戸領』と刻まれた継接ぎをした神戸領界石が建っていた。傍らには、『山神碑』、文化10年(1827)の『手水石』、『常夜燈』などもあった。三重県の鈴鹿山脈の麓では集落ごとに碑を建て、『山の神』を祀っていたと。この石碑もその一つだと。『神戸領界石』の向かい側に『女人堤防碑』が建っていた。この辺りは鈴鹿川と安楽川の合流点で、度重なる氾濫により被害が続き、文政12年頃、神戸藩に何度も修築を申し出たが許されず、女性たちが禁を犯し打ち首を覚悟で堤防を補強したところである。『女人堤防碑』。『女人堤防碑』の碑文をズームで。「女人堤防碑文この地、鈴鹿川の北安楽川との合流点にあって、安全な堤防がない為、毎年夏期の水害には、耕地・住宅の被害甚だしく人名を失ったことも屡次、幾度かの堤防建設の訴願も、南岸の城下町神戸の浸水を怖るる藩主許す所とならず、強いて行えば打首の極刑に処せられる。されど、毎年の如く被害を蒙る部落民は眼前の苦悩に耐え難く、如何なる処刑をも恐れず築堤せんとした。この時に当たり菊女という乙女、打首の刑を犯す築堤は、男子全部の命を失い将来部落の自活に大いなる支障を来す。この工事は、私等の死出の仕事にしましょうと絶叫した。これに同じた女衆二百余人、暗夜を選んで工事を続け、苦心惨憺六年遂に完成、今日の美田、安住の地を得たるに到った。この事、いつしか藩主の知るところとなり、処刑の日は来た。今しその第一番者菊女が断頭の座についた刹那、家老松野清邦の死を期しての諫による赦罰の早馬駆け来たり既に覚悟した二百余名の命は助けられ、あまつさえ、築堤の功を賞して金一封と、絹五匹を贈られた。実に女の一念岩をも通した美挙である。茲にこれを記念せんがためこの碑を建つ」明治33年(1900)の『神戸領界石』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日2020年1月21日(火)は『旧東海道を歩く(四日市宿~関宿)』の初日の移動日を入れて3日目の朝。そして日本橋をスタートして27日目(移動日を除く)の『旧東海道を歩く』の日。この日も早朝起床して朝食会場に。ホテルのフロント横で朝食会場のレストランのオープンを待つ。フロントロビーに掲げられていた『花魁(おいらん)』の姿絵。海外に移住し現在はオーストラリアに居住しており展覧会もほとんどが海外で開催されている「森田春代」氏の作品か。立派な絨毯も壁に。朝食は和風をオーダー。そして6:50過ぎに、車はホテル駐車場に置き、この日の「旧東海道を歩く」のスタート。『平田町駅』前のタイヤの如きモニュメント。駅から鈴鹿サーキットまでは距離にしておよそ3.5kmなので、鈴鹿サーキットのF1車をイメージしたものか?それとも近くにタイヤ工場があるのか?HONDA鈴鹿製作所があるのは解っていたが。台座の下にあるプレートの確認を忘れました。時間は6:35、雨がポツポツと。ホテルルートイン鈴鹿の手前の路地を斜め右に入り、ひたすら鈴鹿川を目指して歩く。そして鈴鹿川の堤防に突き当たり『庄野橋』に向かって進む。ここは鈴鹿川の河口より13km上流の場所であると。『しょうのはし』。『庄野橋』の歩道を渡る。、『庄野橋』を渡り国道25号線の歩道橋をさらに渡り、旧東海道の1本鈴鹿川沿いにある路地を庄野宿入り口にむかって進む。右手にあったのが、臨済宗東福寺派の『妙法寺』。『妙法寺 山門』。『妙法寺 本堂』。妙法寺の創建年代等は不詳であるが、境内には五輪塔の一部などの石像物があると。また、毎週日曜日の朝に座禅会が行われているという。『鐘楼』。『位牌堂』か?『萬霊塔』。そして旧東海道に突き当たり、左折すると、そこは『庄野町西』交差点。ここが『庄野宿入口』。『旧東海道 庄野宿~石薬師宿』案内マップ。マップを見ながら、前日に歩いた道を振り返る。赤太線ーが現存する旧東海道、赤点線---が今は失われた旧東海道の代道であると。『庄野宿』案内板。「庄野宿は江戸から百二里余、東海道四十五次にあたり、幕府の直轄領であった。 他宿にくらべ宿立ては遅く、寛永元年(1624)といわれている。この宿は、「草分け36戸、宿立て70戸」といわれ、鈴鹿川東の古庄野から移った人達を合わせ70戸で宿立てをした。 南北八丁で宿入口の加茂町中町上町からなる。歌川広重の描く「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作といわれ、世界的にも高い評価を得ている。」『廣重 東海道五十三次の内 庄野 白雨』。庄野で描かれた「白雨」は、東海道全五十五枚中三大役物のひとつに数えられ、歌川広重全作品の中でも最高傑作と呼ばれているのだ。「白雨」とは、夕立やにわか雨のこと。突然の風を伴った激しい雨に、坂道を往来する人々を生き生きと描写。強風に揺れる遠景の竹薮を、輪郭線の無い二重のシルエットにして奥行きを出し、降る雨の角度を変えるなど、技法的にも新たな試みをし、成功していると。『東海道庄野宿碑』。旧東海道・庄野宿を進む。先に進むと、黒板壁の家や連子格子の家などがあり、街道の面影を偲ばせていた。雨が止みそうで止まなかった。庄野宿に入って間もなく、左手に真宗高田派の『筧口山善照寺』があった。『善照寺 山門』。山門に掛かる善照寺の扁額も見えた。『鐘楼』。『本堂』。善照寺は、長禄年間(1457-60)に平田地内筧口と称する所に、善正法師が善照寺を開基した。初めは天台宗であったが、高田派第10世真慧上人の教化により真宗高田派に改宗したと。盆行事の一つの庄野大念佛は、鈴鹿市無形文化財に指定されているとのこと。『本堂』に掛かる『善照寺』の扁額。『善照寺』から100m程進むと、鈴鹿市指定文化財となっている『旧小林家住宅』が左手に。ここにも『廣重 東海道五十三次の内 庄野 白雨』が。「天領である庄野宿は寛永元年(1624)に設置。本陣・脇本陣各一、旅籠十五軒、五十三ある宿場のうち最も遅かった。「草分け三十六戸・宿立七十戸」対岸の集落を移動させ宿立七十戸とした。」『旧小林家住宅』は、現在、主屋の一部を創建当時の姿に復元して、『庄野宿資料館』として使用されている模様。早朝スタートもよいが、開館されていないのが問題なのであるが。館内には、庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅関係資料や地域に残る民具、農具、日用品などが展示されているのだと。建物前に建つ『鈴鹿市指定建造物旧小林家住宅』碑。『旧小林家住宅』を振り返る。旧小林家住宅から20m程先、右手に『問屋場跡』が。「問屋場跡問屋場は御伝馬所とも言い、街道の宿場にとって重要な役所であった。問屋2名、年寄4名、書記(帳付)馬差各4~5名が半数ずつ交替で詰めた。主な任務は公用書状の継立、往来者の要望に応じて人足・馬の割振り、助郷村々への人馬の割当て、賃銭・会計であった。」更に庄野宿を進む。道路脇のマンホール。鈴鹿の峰々から湧き出た清水が川となって緑の野を流れ、白砂青松の伊勢湾まで注ぐ様を表しているのだと。右手の庄野集会所前に『庄野宿本陣跡』があった。『庄野宿本陣跡碑』石碑の側面には「庄野宿は東海道五十三次の45番の宿場で、寛永元年(1624)に設置された。 本陣は沢田家で間口14間一尺、奥行21間一尺、面積229坪7合、畳数197畳半、板敷44畳半あった。」と刻まれていた。そしてポストの横には『距津市原標九里十九町』と刻まれた道標も。「石薬師へ壱里一町 亀山へ弐里三町 庄野村」と。庄野宿脇本陣跡の左筋の角に『高札場跡』があり、案内板も。また、高札場跡の立札が建っている家が庄野宿『脇本陣跡』であり、玄関上の軒下に案内板が。脇本陣は江戸時代、本陣の予備にあてた街道の宿舎で、本陣に余裕のない時に利用された。大名や幕府の重臣が本陣に泊る時、家老や手代の宿舎にあてられた。本陣に次ぐ宿場の名望家が選ばれることが多かった。庄野宿では、本陣隣の楠与兵衛家が脇本陣であった。「高札場高札場は、法度掟書などを書いた 「高札」 を掲示した場所で、各村の庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた。 庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった。庄野宿資料館には、人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示されている。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『御曹子社』の鳥居の向かいの筋を60m程進むと右手に石薬師の『蒲桜』が。『石薬師の蒲桜碑』。右後ろには『可婆左久良碑』も。『石薬師の蒲ザクラ』「この桜は、ヤマザクラの一変種として植物学上からも珍しい。赤茶芽、花は一重の五弁、直径5㎝、白色から淡紅色で、開花時は見事である。伝説によれば、寿永(1182-84)の頃、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り、 鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと言われている。 そのため、俗に「逆桜」とも言われている。」『佐佐木信綱歌碑』「ますらをの 其名止むる 蒲桜 更にかをらむ 八千年の春に」例年の花の見頃の3月下旬~4月上旬になれば。 【https://tabi-mag.jp/me0245/】より旧東海道に戻ると、歌碑の番号が44と大きく飛んでいることに気づき、二人で旧東海道を『石薬師寺』方面にしばし戻り歌碑を撮影する。41.どっちにある、こっちといへば 片頬笑み ひらく掌の 赤きさくらんぽ42.花さき みのらむは知らず いつくしみ 猶もちいつく 夢の木実を43.春ここに 生るる朝の 日をうけて 山河草木 みな光あり44.ますらをの 其名止むる 蒲桜 更にかをらむ 八千年の春にそして再び旧東海道のなだらかな坂を下る。45.かぜにゆらぐ 凌秤花 ゆらゆらと 花ちる門に 庭鳥あそぶ46.道とへば ふるさと人は ねもころなり 光太夫の碑に 案内せむといふ47.六つに越え 九つにして 蛉鹿山 ふたたび今日は のぼりけるかな(八歳作)48.投げし魅の 一つを囲み かたまり寄り おしこりおしもみ 鯉の上に鯉そして前方に橋が見えて来た。『蒲川橋(かまがわはし)』。流れる川は『才石川』。『蒲川橋』の渡り詰め左手に石薬師宿碑と 「信綱かるた道」 の最後第50番目の短歌 「生家にゆくと弱かりし母が我をせおひ徒渉せしか此の甲斐川を」 があった。そしてその奥にあったのが『石薬師の一里塚阯』碑。ここは江戸日本橋から数えて102里目の一里塚跡である。『東海道石薬師宿碑』。『道標と石薬師案内』。「これより北 石薬師宿 信綱かるた道』1.8㌔の間に信綱かるたの短歌50首を掲示している。 途中、石薬師寺(信綱・西行・一休・芭蕉等の歌碑句碑など)、蒲冠者範頼社・蒲桜、浄福寺(弘綱記念碑・幸綱歌碑)、佐佐木信綱記念館、本陣跡、地蔵堂などがある。」『佐佐木信綱短歌』の最終50番目。「生家にゆくと 弱かりし母が 我をせおひ 徒渉せしか 此の甲斐川を」49.呼べど呼べど 遠山彦の かそかなる 声はこたへて 人かへりこず50.生家にゆくと 弱かりし母が 我をせおひ 徒渉せしか 此の甲斐川を町内安全と刻まれた『石燈籠』と『石薬師の一里塚阯碑』。「石薬師の一里塚信長記には、天文9年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて40町を一里として一里塚を築かせ、その上に松と榎を植えさせたという。〔一町は約109m〕家忠日記には、慶長9年2月(1640)秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を36町に改めたという。「くたびれたやつが見つける一里塚」 (江戸時代の川柳) 」 。蒲川橋の先の直線の道は途中で消滅しているため、一里塚跡前を左折して、『関西本線のガード』を潜って行く。一面の田園地帯に出る。関西本線のガードを潜ると正面に道標があり、庄野宿方面へ左に田圃を見ながら進んで行く。道なりに進んで行くと、左手に先程あった道標と同じものがあり、ここを右折して国道1号線の地下道を潜って行く。国道1号線の地下道を潜り、左折してその先で小川に架かる橋を渡って進んで行く。そして国道1号線に合流した。国道1号線を進む。更に国道1号線の歩道を『加佐登町』に向かって進む。この日の『旧東海道を歩く』はここまでとし、国道1号線とは別れ、『加佐登駅』に向かって『関西本線』の踏切を渡る。そしてこの日のゴールである『加佐登駅』に到着。時間は予定よりかなり早い13:20。関西本線・名古屋方面の時刻表。昼間は1時間に1本の電車。加佐登駅周辺の『名所案内』。『加佐登』。近くの三重県鈴鹿市にある加佐登神社は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を主祭神とし、古くは、御笠殿社(みかさどのしゃ)と呼ばれていた。この御笠殿(みかさどの)が『加佐登』の名の由来のようだ。13:34発の名古屋行きに乗り、JR四日市駅を目指す。そしてJR四日市駅に20分程で到着。JR四日市駅周辺の『みなとまち歩きマップ』。そして、脚の痛みもありバスにて近鉄四日市駅に向かう。中央通りのバスの車窓からの婦人像は誰?そしてホテルに戻り、旅友の愛車に乗り、この日のホテルである、近鉄鈴鹿線の終点駅である『平田町駅』近くにあるホテルに向かう。途中、若き頃仕事でお世話になった協力会社に立ち寄り、営業担当の方と会長に面会ししばしの思い出話や現在の工場の仕事の内容についてしばし歓談。そしてこの夜は、営業担当の方と久しぶりに夕食をご一緒することに。ホテルに到着し、暫し休憩していると、車で迎えに来てくださったのであった。そしてこの日の店へ。平田町にある『焼肉 一升びん』へ。まずはビールで久しぶりの再会を乾杯。厚手の松阪牛。松阪牛の焼き肉を、しこたまご馳走になったのであった。ホルモンも美味。仕上げは『ユッケジャンクッパ』をこれでもかと。ご馳走様でした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『瑠璃光橋』の渡り詰め右手に、真言宗東寺派の『高富山瑠璃光院石薬師寺』があった。この標柱から入って行くと『裏門』があり、街道を進むと右手に表門(山門)があった。次の「旧東海道を歩く」の移動日・2月20日にも再び『石薬師寺』そいて周辺に立ち寄りましたので、この時の写真も今回一緒にアップさせていただきました。『瑠璃光院高富山石薬師寺』と書かれた寺標木札。『裏門』から境内に入り石段を下る。『石薬師寺薬師堂(本堂)』の大きな屋根が正面に。石薬師寺は、神亀3年(726)当地で巨石が地下から出現し、これは薬師如来の出現だとしてお堂を建てたのが始まりという。『天満宮」(中に天神社と稲荷社の小社がある)。「石薬師寺薬師堂寺名は本尊石薬師如来をまつることによる。 戦国の戦火のあと神戸城主一柳監物により、寛永6己巳年(1629)再建された。 建物の規模は桁行3間、梁間4間、寄棟造。 本瓦葺きて一間の向拝がつく。市内で最古の寺院建築。 石仏は花崗岩で像高190cm寺伝によれば、弘法大師が地面生え抜きの石に刻んだという。 浅い線彫り、ほおはゆかたで、薬師仏として親しまれてきた。 平素は秘仏であるが、12月20日の 「おすす払い」 には、洗い清められる。平安後期の作。」石の祠の中には石仏が。江戸初期の絵師・岩佐又兵衛の歌碑「無病にと 頼みすゑける 石薬師 かたき祈願を 忘れ給ふな」「高富山 石薬師寺由来聖武天皇の御宇神亀年間(726)高僧泰澄大徳が森の中に霊光を放つ巨石あるを認めこれ金輪際より御出現の霊佛なりと一宇草堂を覆い置き給う。その後弘仁3年(812)弘法大師自ら薬師尊像を彫刻し開眼供養せられしより 霊験いよいよあらたかにし時の嵯峨天皇の叡聞に達し勅願所となし寺領を寄せられ西福寺と称せられしだが 天正年間(1574)の頃兵乱に会い悉く焼失した。 西より本尊は光明赫赫として灰燼の中に立たれた慶長年間(1601)神戸城主一柳監物直盛公深く霊験を感じ本堂再建され今日に及べり當地は高富の郷と称せられしを駅立の際「1616」尊號に因み石薬師駅東海道53次の内44と呼んだので高富山石薬師寺と改称せらる。 名匠一立斎宏重の画に當寺の全景を以て写す寿永年間(1185)蒲の冠者源範頼ここに戦勝を祈願。馬鞭倒に芽ざし蒲桜の名を今に留める。又西行法師・一休禅師・上島鬼貫・澤庵禅師・林羅山・深草元政・烏丸光広郷・松尾芭蕉・李渓・佐佐木信綱があり、いずれも沸徳を賛嘆し霊光に随喜し若しくは景致を賞揚している 文化財 本堂薬師堂 県指定有形文化財 本尊石仏 市指定有形文化財 法の恵うけてや瑠璃の壺薫 李 渓 蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも 佐佐木 信綱」『石薬師寺薬師堂(本堂)』。『廣重 東海道五十三次 石薬師 石薬師寺』の浮世絵も色褪せて。扁額には『薬師堂』と。『薬師堂』の内陣。内陣をズームで。『身替り不動明王』。「交通安全」とも刻まれていた。真っ赤な後背が目立つ『身替り不動明王』。『地蔵尊』。『修行大師像』。『森白象句碑』。「人の世の 夢を描きて 走馬燈」。『三界萬霊供養塔』。『寺務所』。『鐘楼』。『納経祈願受付寺務所』。『御朱印』を頂きました。参道から『地蔵菩薩』越しに『石薬師寺薬師堂(本堂)』を見る。参道には『永代常夜燈』が並んでいた。『一休禅師歌碑』。「名も高き 誓ひも重き 石薬師 瑠璃の光は あらたなりけり」。参道から『鐘楼』と『薬師堂(本堂)』を見る。参道中央に建つ地蔵菩薩の百度石が。「本尊石薬師如来・西国薬師第三十三番」と記された『冠木門』。『嵯峨天皇』勅願所の石薬師寺。『佐佐木信綱歌碑』。「蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも」。『高富山瑠璃光院石薬師寺』寺標。『地蔵堂』。『地蔵堂』内陣には『延命子安地蔵尊』が祀られたいるのだと。『子安地蔵尊』。『不動明王像』。『大師堂』。扁額『太子堂』。「三面八臂」の『馬頭観音』山門を入って左手の大きな『石庭』。『石薬師寺』の参道入口から。花の咲くシーズンに再び訪れたいと。左奥の空き地には・・・。『石薬師寺護摩堂建立予定地』。国道1号線近くにあった『修行太子像』。国道1号線側にある表面に『高富山 瑠璃光院 石薬師寺』と刻まれた巨大な石碑を裏側から。南天の実が赤く輝いていた。『十三重石塔』。2月20日には紅梅も咲きだしていた。美しい石庭。『佛心』碑。石庭が至る場所に。参道脇には可愛らしい子地蔵様が。そして参道を戻り山門へ。こちらが石薬師如来碑の建つ『石薬師寺山門』。やはりこちらから境内に入るのがお勧めであった。『石薬師寺』。「江戸から百一里三十四丁七間、元和二年(1616)に宿場となった。それまでは高富村と称していた。現在は鈴鹿市石薬師町である。石薬師の地名はこの絵にある高富山瑠璃光院石薬師寺の霊験が広く知れ渡っていたことから、村名を石薬師と改めその由来としている。御本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている薬師如来で、同寺の本堂は寛永六年(1629)に時の神戸城主・一柳監物直盛によって再建された。この石薬師寺の正面の道を東へ行くと源範頼を祀る御曹子社がある。その御曹子社の前の道を南へ少し行くと右側に蒲桜がある。源範頼は、平家討伐の時、石薬師寺に戦勝祈願をし鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにした。それが芽をふいて育ったと伝えられている。地元では「逆さ桜」と呼んでいる。」石薬師寺山門の向かいの筋角に『蒲冠者範頼之社』標柱があり、30~40m先に『御曹子社』があった。石鳥居と『御曹子社 拝殿』。『蒲冠者範頼之社』社標碑。「御曹子社(おんぞうししゃ)蒲冠者範頼(がまのかんじゃのりより)を祭った神社。範頼は源頼朝の弟であるが、武道、学問に優れているので、それらの願望成就の神様と言われている。昔は弓矢を奉納し、文武の向上を祈願する習わしがあった。境内の左側には神馬(模型)とそのきゅう舎が寄進されている。神社の南約60mのところに範頼ゆかりの蒲桜(かまざくら、県指定文化財)がある。」『拝殿』。蒲冠者範頼を祀った神社で、範頼が武道・学問共に優れていた処からそれらの願望成就の神様として崇められていると。神馬の納められた祠。白色の『神馬(模型)』。御神木の椎の巨木が鳥居の脇に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.02
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『石薬師小学校南』交差点を渡り、歩いて来た旧東海道を振り返る。25.いきいきと 目をかがやかし 幸綱が 高らかに歌ふ チューリップのうた26.秋高き 鈴鹿の嶺の 朝の雲 はろかに見つつ わがこころすがし27.万葉の道の 一道生の きはみ 踏みもてゆかむ こころつつしみ28.今し成りぬ 五帙二十五冊を 前におき 喜びの涙 とどめあへなく浄福寺入口手前にあった『竹柏(なぎ)』「竹柏(なぎ)信綱の父・弘綱は「竹柏園(なぎその)」と号した。信綱は明治32年短歌結社「竹柏会」を創設、本会は現在も活動が続く。この樹は信綱から贈られた種子に由来する。石薬師文庫前の竹柏と兄弟樹。」『浄福寺山門』山門には石薬師保育園の標札も掲げられていた。「浄福寺浄福寺は真宗高田派、本尊は阿弥陀如来である。開基(創建)は室町時代の永正年中(1504-20)と伝えられている。山門入り口の左側には佐々木弘綱翁(信綱の父)の記念碑がある。それは佐々木家累代の菩提寺だからである。碑に刻まれている歌は次のとおりである。「わかの浦に 老を屋しなふ 阿し堂徒盤 雲の宇辺越も よそに見類か薙」石薬師宿看板の直ぐ先、左手の『浄福寺』山門前に信綱の父である『佐々木弘綱翁記念碑』が建っていた。『佐佐木幸綱歌碑』「しゃくなげを 愛し短歌を すずか嶺を愛し 石薬師を 愛したる人」「佐佐木幸綱歌人・国文学者。紫綬褒章受章、日本芸術院会員、早稲田大学名誉教授。1938年佐佐木治綱(学者歌人)と由幾(歌人)の長男として東京に生まれる。佐佐木信綱は祖父である。現代短歌界の重鎮であり、万葉集等の研究でも著名である。佐佐木信綱顕彰歌会には選者として招聘されている。」俵万智は早稲田時代、佐佐木幸綱氏の「日本文学概論」を受講し、それをきっかけに短歌を詠むようになったと。俵万智のデビュー作『サラダ記念日』は歌の選択から編集・出版まで佐佐木幸綱教授が深く関わっていたのだと。『佐々木弘綱翁紀念碑』。「佐々木弘綱(1828~1891)信綱の父。歌人・国学者。伊勢山田の国学者足代弘訓に師事した。53歳の時上京し、東京大学の講師となる。門人は全国にわたり1600名ともいわれる。古典の口語訳書、撰集、自作歌集、和歌に関する研究書など著作は、100余に及ぶ。この碑は、1908年(明治41)建立された。以後、毎年碑前祭がこの境内で行われていた。碑表には弘綱の矜持詠がある。「和歌の浦に 老をやしなふ 葦田鶴は 雲の上をも よそに見るかな」『鐘楼』。『本堂』。この冬咲きのピンクの花は、以前我が家にもあった「オキザリス」に似てはいるが?『上田 加佐登』と刻まれた道標。旧鈴鹿郡一帯の古い道筋の角や社寺境内に移されて残る高さ60センチ程の花崗岩で作られたこの道標は、亀山製絲の創業者、田中音吉が大正3年にたてたものであるとのこと。更に東海道を南に進む。29.ありがたし 今日の一日もわが命 めぐみたまへり 天と地と人と30.天にいます わが父のみは きこしめさむ 我がうたふ歌 調べひくくとも31.み空仰げ 八重棚雲を おしひらき 赫々として 初日はのぼる32.山黙し 水かたらひて 我に教へ 我をみちびく この山と水と連子格子の旧家が旧東海道のところどころに。JA鈴鹿 石薬師支店が右手に。ここは三重県鈴鹿市石薬師町1812-2。33.人の世は めでたし朝の 日をうけて すきとほる葉の 青きかがやき34.山の上に たてりて 久し吾もまた 一本の木の 心地するかも35.ものぐさの あるじ信綱 あさなさな 庭におり立つ 石南花さけば36.幼きは 幼きどちの ものがたり 葡萄のかげに 月かたぶきぬ敷地の広い民家が続く。庭には大きな蔵が。門冠りの松も手入れが十分に為されて。手前のカーブの先に青い橋が姿を現した。橋の袂に到着。橋の名前は『瑠璃光橋』。橋の先には正面に『2001年東海道 街道400年祭 石薬師宿』。下を流れる川、いや道路は国道1号線・国道25号線(名阪国道)。左面には『高富山 石薬師寺』と書かれていた。37.山辺の 御井にとくだる 山ぞひみち 遠松風の 音をすがしむ38.国をおもふ 心はも燃ゆ かたちこそ 痩せさらぼへる 老歌人も39.蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも40.鈴鹿川 八十瀬のながれ 帯にして すずか並山 あき風に立つ ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『大木神社』一の鳥居の斜向かいに当たる民家の塀に、『東海道石薬師宿』の標札が貼ってあり、鉄柵の隣に東海道53次之内石薬師宿の絵が描かれていた。『廣重画 東海道五拾三次の内 四日市』。『廣重画 東海道五拾三次の内 石薬師 石薬師寺』。元旅籠だった家の壁には陶板で宿の町割りが再現されていた。『石やくし宿江戸時代の軒並図』。17.障子から のぞいて見れば ちらちらと 雪のふる日に 鶯がなく(五歳作)18.むすべば 手にここちよし 清き水の 今もわきいづる わが産湯の井19.ふるさとの 鈴鹿の嶺呂の秋の雲 あふぎつつ思ふ 父とありし日を20.願はくは われ春風に 身をなして 憂ある人の 門をとはばや程なく右手に『石薬師宿 小澤本陣跡』。東海道石薬師宿は、元和2年(1616)幕命によって設立され、宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。この家の前には『小澤本陣址碑』があり、建物には鈴鹿市の小澤本陣跡解説が貼られており、隣の家の前には石薬師地区明るいまちづくり推進協議会の小澤本陣跡解説が建っていた。『小澤本陣址碑』。「小沢本陣跡東海道石薬師宿は元和2年(1616)幕命によって設立され宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。 大名の泊る宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。 屋敷は現在より広かったようである。残る文書も多く元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の名も見える。 国学者萱生由章(1717-75)もこの家の出である。」隣の家の前に建つ『小澤本陣跡』案内板。「小澤本陣跡東海道石薬師宿は元和2年(1616)、幕命によって設立された。 この時から、村名も宿の名も「石薬師」となった。当時、石薬師寺が近郊近在に知れ渡っていたので、寺名をとって村名とした。大名が泊まるところを本陣といい、小澤家が本陣を勤めていた。 石薬師宿は小高い台地にあり小澤本陣のまわりには高い松の木があったので、別名「松本陣」ともいわれていたという。小澤家には当時の文書が多く残されており元禄時代の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の名も見える。」『小澤本陣跡』を振り返る。『小澤本陣跡』の隣に『天野記念館』があった。天野修一翁はタイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創業者であり、記念館前に天野修一翁揮毫の『天野記念館碑』が建っていた。入口上の『天野記念館』表札。「天野記念館天野修一翁はこの記念館を昭和39年(1964)ふるさと・石薬師町本町のために建てられました。 天野修一翁はタイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創業者です。前庭にある記念碑の「天野記念館」の文字は天野修一翁の揮毫です。また、天野修一翁は鈴鹿市に奨学資金を寄贈して若人の育英に偉大な功績をあげられています。」天野修一翁揮毫の『天野記念館』碑。21.天地の あるじとなるも 何かせむ いかでまさらむ 此のゑひ心地22.これのふぐら よき文庫たれ 故郷の さと人のために 若人のために23.日本語 いく千万の 中にして なつかしきかも 「ふるさと」といふは24.なげくなかれ 悲しむなかれ 日輪は 人間の上を 照らしたまへり民家の立派な石塀。『鈴鹿市立石薬師小学校』校門。『石薬師小学校』の校門脇に『石薬師文庫』があった。石薬師文庫は、昭和7年(1932)佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したものである。 以前からあった土蔵(今も裏側にある)を文庫とし、本建物が閲覧所として建設され、伊勢国学に関する多くの版本や写本などを含む貴重な書籍が贈られた。「石薬師文庫昭和七年、佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したものである。以前からあった土蔵(今も裏側にある)を文庫とし、本建物が閲覧所として建設され、伊勢国学に関する多くの版本や写本などを含む貴重な書籍が贈られた。開所式には、明治の元勲田中光顕、三重県知事などが出席された。本文庫は、神宮文庫と並び紹介されたりしている。現在、地域の図書館としてボランティアにより運営され、親しまれている。」『佐佐木弘綱翁舊寓之碑』弘綱は信綱の父である。『歌碑』。「歌碑これのふぐら 良き文庫たれ 故郷のさと人のために 若人のために信綱が石薬師文庫を寄贈するに当たり詠んだ歌であり、歌碑は没後二年祭(昭和四十年)を期して郷人によって建てられた。」ふるさとの 鈴鹿の嶺呂の 秋の雲 あふぎつつ思ふ 父とありし日を傾きて バイクを駆れる 群れが行く 鈴鹿の山は 父祖のふるさと『石薬師文庫』の旧入り口か。『空木(うつぎ)・卯木(ユキノシタ科)うのはな』「酔歩蹌踉 山上憶良 いゆくあとに そひゆく道の 卯の花月夜」卯の花は空木(ウツギ)の別称であり,4月下旬から5月上旬にかけて見頃を迎える。佐佐木信綱記念館の玄関先や,佐佐木信綱生家の庭などに植えられている。佐佐木信綱作詞の有名な歌『夏は来ぬ』の1番の歌詞には,「卯の花の にほふ垣根に ほととぎす 早も来鳴きて しのび音もらす 夏は来ぬ」と歌われているのであった。「竹柏由来(なぎゆらい)信綱は「竹柏園(なぎその)と号し、信綱はこの号を継ぐとともに創設した短歌結社を「竹柏会」と名付けた。昭和24年信綱かえあ送られてきた種による樹が平成19年枯れたので、その兄弟樹から生まれたものを同年後継樹として植え替えた。本樹は、昭和19年度石薬師小学校卒業生寄贈により植樹したものである。」『距 津市元標 九里四町十七間』道標。『佐々木信綱の生家』は美しい竹塀で囲まれていた。『石薬師文庫』の隣に『信綱生家』があり、その隣に『佐佐木信綱資料館』が建っていた。『信綱の生家』。生家前の信綱歌碑「目とづれバ ここに家ありき 奥の間の 机のもとに 常よりし父」「佐佐木信綱資料館当資料館は、明治、大正、昭和にわたり、歌人、歌学者として万葉集研究の最高峰を究められた佐佐木信綱博士の業績を顕彰するとともに、 市民の文化の向上と広く文学の研究に寄与するため、博士生誕の地に建設したものです。市では、今回の開館を機に、佐佐木家をはじめ、博士ゆかりの方々から寄贈、寄託を受けた品々のほか、これまで生家に保管されていた資料一切を当館に収納しました。資料の中には、博士の遺愛品、御下賜品、書簡、作歌、原稿のほか、書籍には「日本歌学史」「和歌史の研究」「近世和歌史」の主著三部作をはじめ、 歌集「おもい草」「山と水と」など多数を保管、展示しています。」『佐佐木信綱資料館』入口。「佐佐木信綱記念館佐佐木信綱記念館は、「佐佐木信綱資料館」「生家」「土蔵」「石薬師文庫」から成り立っています。佐佐木信綱は明治5年6月3日、この地に生まれ、6歳まで石薬師で過ごしました。その後一家は松阪へ移り、信綱が11歳の時に東京へ移ります。 この時、「生家」は他家の所有となり、鈴鹿市和泉町に移築されました。 昭和7年には信綱は還暦を記念して「石薬師文庫」を贈り、地域の図書館として現在でも多くの人々に親しまれています。 そして、信綱は73歳から熱海へ移り、昭和38年12月2日、92歳でこの世を去りました。信綱の没後、昭和45年12月12日、「生家」を再び現在の場所に移築し、佐佐木信綱記念館が誕生しました。 その後、昭和61年5月28日には、展示施設等を備えた「佐佐木信綱資料館」が開館し、今日に至っています。」『登録有形文化財』の銘板がその下に。この日は月曜日で休館日。『佐佐木信綱と卯の花の里』案内板。「石薬師宿石薬師宿は江戸から数えて四十四番目の宿場である。 天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、元和二年(一六一六)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。 弘化二年(一八四五)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約一八○軒のうち旅籠屋が約三十軒、百姓は約一三○軒で全戸数の約七割をしめており、 農村的性格の強い宿場であった。 街道の中ほどの西側には小沢本陣がありその向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。 当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(一八七二~一九六三)の生家で、一家が松阪へ移住する明治一○年(一八七七)までの幼年期をこの家で過ごした。 裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。 石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和六三年(一九八八)から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。 初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている。」「石薬師宿石薬師宿は江戸から数えて四十四番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、元和二年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。弘化二年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は約130軒で全戸数の約七割をしめており、農村的正確の強い宿場であった。街道の中ほどの西側には小沢本陣があり、その向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(1872~1963)の生家で、一家が松坂へ移住する明治十年(1877)まで、裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和六十三年(1988)から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。初夏になると、どこの家庭の庭先にも、また道端にも白い可憐な花が咲き、清楚な趣をそえている。」『佐佐木信綱記念館』、『佐佐木信綱生家』を振り返る。『東海道 石薬師宿』名所案内。『石薬師小学校南』交差点を渡る。県道115号線を渡ると、左手に『石薬師宿』の看板が建っていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次右斜めの道に入ったらすぐ写真の地蔵堂があった。ここから石薬師町に入ったのであった。『東海道 石薬師宿』と刻まれた石柱。『歴史と文化のまち石薬師』案内板。『北町の地蔵堂』。「北町の地蔵堂延命地蔵さんである。家内安全、交通安全を祈願すると霊験あらたかといわれている。 江戸時代、東海道の宿場として賑った石薬師宿の入口に旅の安全のために、誰かが建てたのだろう。 現在この付近の十六軒の方々で地蔵講を結成して、掃除や供花の奉仕がなされている。 毎年八月二十四日は地蔵さんの会式である。」『これより南 石薬師宿 信綱かるた道』「 一・八キロの間に信綱かるたの短歌五十首を掲示している。途中、本陣址、佐佐木信綱記念館、淨福寺(弘綱記念碑、幸綱歌碑)、石薬師寺(信綱、西行、一休、芭蕉等の歌碑句碑など)、蒲冠者範頼社・蒲桜、一里塚などがある。」『信綱かるた道』平成17年、東海道石薬師宿の北端から南端の1.8kmの間を「信綱かるた道」と名付けた。信綱かるたの歌とそれに添える絵をベニヤ板に焼き付け、これを梅干ざるに取り付けて歌額として、信綱かるた道に28基設置した。平成19年、歌額を恒久的なアルミ板に取り替えるとともに、増設して36基とした。平成27年、歌額を更に増設して信綱かるた50首すべての歌額が整備され、信綱かるた道が完成した。歌額の文字とこれに添える絵は、平成17年、平成19年の場合は辻善衛氏、平成27年については渡部明美氏が担当された とのこと。この歌の作詞者は、三重県鈴鹿市石薬師町出身の歌人・国文学者の佐佐木信綱という人。信綱は、明治5年(1872)に生まれ、明治10年まで石薬師にいて、歌人だった父親の弘綱に歌を学び、5歳で作詞を始めたという天才少年です。東京帝国大学文学部を卒業して、明治29年(1896年)に冒頭の「夏は来ぬ」を作詞しています。万葉集や歌学史を講じ、父親との共遍で「日本歌学全集(全12冊)」を刊行しました。昭和12年には第1回文化勲章を受章しています。昭和38年(1963)に91歳で静岡県熱海市で没するまで生涯に1万余首を作詞したといわれます。この中には、三重県立四日市高等学校、東京・千代田区立麹町中学校、台東区立根岸小学校、筑波大学付属小学校、神奈川県の清泉女学院中学高等学校、清泉小学校などの校歌も作詞して、その名を残しています。『東海道石薬師宿 信綱かるた道』歌碑立札配置案内図。 【http://nobutsuna-karuta.org/karutamichi】より転載 そして佐佐木信綱の歌碑の書かれた立て札を順番にカメラ撮影しました。それら4枚を下記のごとく纏めて、掲載させていただきます。順番は上段左から右に、そして下段左に順番に。1.四日市の時雨蛤、日永の長餅の 家土産まつと 父を待ちにき2.湯の宿の つんりるてんの かし浴衣 谷の夜風が身にしみるなり3.氷りたる 水田にうつる 枯木立 こころの影と 寂しうぞ見る4.白雲は 空に浮べり 谷川の 石みな石の おのづからなる5.夕風の さそふまにちる 花をこと ありがほに見る 蛙かな6.蕎麦の花に 百舌が訪ひ来て 語らへり 山のはざまの 秋風の家7.真白帆に よき風みてて 月の夜を 夜すがら越ゆる 澗庭の湖8.一すぢの 煙をあとに のこしおきて 沖をはるかに 船はゆくなり(十歳作)9.ふる雪の いや重け吉事 ここにして うたひあげけむ ことほぎの歌10.目とづれば ここに家ありき 奥の間の 机のもとに 常よりし父11.まりが野に 遊びし童 今し斯く翁さびて来う野の草は知るや12.ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの裏13.名におへる 森の大木の かげふみて あふぎまつらふ 神の恵を14.月ごとの 朔日の朝 父と共に まうでまつりし 産土のもり15.夕されば 近江境の 山みつつ 桐畑の隅に よく泣きゐしか16.やま百合の 幾千の花を 折りあつめ あつめし中に 一夜寝てしが17.障子からのぞいて見ればちらちらと雪のふる日に鶯がなく〔五歳作〕18.むすべぱ手にここちよし清き水の今もわきいづるわが産湯の井19.ふるさとの鈴鹿の嶺呂の秋の鬘あふぎっっ思ふ父とありし日を20.願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや21.天地のあるじとなるも何かせむいかでまさらむ此のゑひ心地22.これのふぐらよき文庫たれ故郷のさと人のために若人のために23.日本語いく千万の中にしてなつかしきかも「ふるさと」といふは24.なげくなかれ悲しむなかれ日輪は人間の上を照らしたまへり25.いきいきと目をかがやかし幸綱が高らかに歌ふチューリップのうた26.秋高き鈴鹿の嶺の朝の鬘はろかに見つつわがこころすがし27.万葉の道のI道生のきはみ踏みもてゆかむこころっっしみ28.今し成りぬ五峡二十五冊を前におき喜びの涙とどめあへなく29.ありがたし今日の一日もわが命めぐみたまへり天と地と大と30.天にいますわが父のみはきこしめさむ我がうたふ歌院ひくくとも31.み空仰げ八重棚雲をおしひらき赫々として初日はのぼる32.山黙し水かたらひて我に教へ我をみちびくこの山と水と33.人の世はめでたし朝の日をうけてすきとほる葉の青きかがやき34.山の上にたてりて久し吾もまた一本の木の心地するかも35.ものぐさのあるじ信綱あさなさな庭におり立つ石南花さけば36.幼きは幼きどちのものがたり葡萄のかげに月かたぶきぬ37.山辺の御井にとくだる山ぞひみち遠松風の音をすがしむ38.国をおもふ心はも燃ゆかたちこそ痩せさらぼへる老歌人も39.蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも40.鈴鹿川八十瀬のながれ帯にしてすずか並山あき風に立っ41.どっちにある、こっちといへぱ片頬笑みひらく掌の赤きさくらんぽ42.花さきみのらむは知らずいっくしみ猶もちいっく夢の木実を43.春ここに生るる朝の日をうけて山河草木みな光あり44.ますらをの其名止むる蒲桜更にかをらむ八千年の婁に45.かぜにゆらぐ凌秤花ゆらゆらと花ちる門に庭鳥あそぶ46.道とへばふるさと人はねもころなり光太夫の碑に案内せむといふ47.六つに越え九つにして蛉鹿山ふたたび今日はのぼりけるかな(八―作)48.投げし魅の一つを囲みかたまり寄りおしこりおしもみ鯉の上に鯉49.呼べど呼べど違山彦のかそかなる声はこたへて人かへりこず50.生家にゆくと弱かりし母が我をせおひ徒渉せしか此の甲斐川を連子格子の民家のある旧東海道の『石薬師宿』の光景を楽しみながら進む。5.夕風の さそふまにちる 花をこと ありがほに見る 蛙かな6.蕎麦の花に 百舌が訪ひ来て 語らへり 山のはざまの 秋風の家7.真白帆に よき風みてて 月の夜を 夜すがら越ゆる 澗庭の湖8.一すぢの 煙をあとに のこしおきて 沖をはるかに 船はゆくなり(十歳作)『広重・東海道五十三次 石薬師 石薬師寺』東海道はこの辺りから鈴鹿山脈を目指す。多くの旅人が手前の四日市で東海道から別れ伊勢神宮を目指すため、石薬師はどことなく寂しかったという。石薬師寺は宿場の南端に在り参勤交代の大名達が道中の安全を祈願した。遠景に大きく描かれた山々。そのなだらかな形と色彩が何とも美しい。その山のふもとにあるのが石薬師寺。田んぼの畔道をつきあたると石薬師寺の山門があり、その右手に宿場が広がる。田んぼでは稲刈りが終わっているので、季節は晩秋から初冬であろうか。叙情豊かな風景である。現在の三重県鈴鹿市。『広重・東海道五十三次 石薬師 石薬師寺』の絵が小店のブラインドにも。歌碑の立札は写真のごとく民家の庭先に立っていたり、民家の格子窓や壁に取り付けられていた。因みにこの歌碑の立て札は9番。9.ふる雪の いや重け吉事 ここにして うたひあげけむ ことほぎの歌10.目とづれば ここに家ありき 奥の間の 机のもとに 常よりし父11.まりが野に 遊びし童 今し斯く翁さびて来う野の草は知るや12.ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの裏「新出稲荷ここから東にまっすぐ、国道1号線渡ってまっすぐ吒枳尼天(ヒンズー教由来)と稲荷信仰がいっしょになり江戸時代では人を選ばず願いをきいてくれる神としてゆうじょのや博徒被差別の人からも広く進行されました。今もパワーストップとして親しまれています。」『信綱かるた道』を進むと、右手に『大木神社』の昭和15年(1940)の『一の鳥居』があり、鳥居から70~80m程入ったところに『大木神社』があった。13.名におへる 森の大木の かげふみて あふぎまつらふ 神の恵を14.月ごとの 朔日の朝 父と共に まうでまつりし 産土のもり15.夕されば 近江境の 山みつつ 桐畑の隅に よく泣きゐしか16.やま百合の 幾千の花を 折りあつめ あつめし中に 一夜寝てしが『大木神社』の参道を進むと正面にあったのが大きな『忠魂塔』。『忠魂碑』の頂部には鷲の像の姿が。そして『川北元助翁頌徳碑』。「川北元助翁頌徳碑翁は弘化三年六月十二日鈴鹿郡石薬師村の農家に生まれた。当時村内大小の橋梁は木橋又は土橋であったので朽ちたり洪水で流失したりして困難することが多かった。翁はこれらの橋を石橋にかけ替えて永久に世人の難儀を除きたいと決意し明治四十二年より大正三年二月、上田通りの橋梁二ヶ所を完成するまで大小七十余ヶ所の橋梁をことごとく石橋にかけ替え、その徳行は永く後人を潤した。」大正3年(1914)の『二の鳥居』が前方に。『佐佐木信綱歌碑』「大木神社に詣で侍りて 文学博士源信綱月ごとの 朔日の朝 父と共に まうでまつりし 産土のもり名におへる 森の大木の かげふみて あふぎまつらふ 神の恵を『大木神社の椎の森』「大木神社の椎の森この椎の森は当大木神社境内約一へクタールに巨木が群生しているもので、市内では他に類を見ることができない。この椎は、ブナ科のスダジイで樹皮に縦の裂け目があり秋にはたくさんの実をつける。」「大木神社この神社は式内社といって由緒あるお宮さんです。式内社とは延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社のことです。正式には「延喜式内社」といいます。大木神社は地域の氏神(鎮守の神)であり、この地で生まれた人の土地の守り神(産土神)です。江戸時代頃から氏神も産土神も同じ意味に使われるようになりました。大木神社には天照大神ほか九柱の神様がおまつりされています。」参道を境内に向かって進む。二の鳥居の手前右に『式内 大木神社』と刻まれた社標が。『明治天皇御差遣 延喜式内 大木神社御由緒』。更に三の鳥居に向かって参道を進む。『手水舎』。『賽神社(さいじんじゃ)』。『三の鳥居』前から『拝殿』を見る。『拝殿』。清浄な『拝殿』内部。『玉幸稲荷神社』。扁額『玉幸稲荷社』。『山の神社』。『宮城遥拝所』。『神宮遥拝所』。『境内』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次「ここは四日市市 釆女町というのは明治から昭和にかけて54年間あった村名で当時は三重郡内部村といいました。しかし今は地区の名として残るのみです。明治22年(1889)町村自治制度再編の中で、波木・貝家・采女・北小松・小古曾の5か村が合併し、内部川の名前をとって内部村が誕生しました。内部村役場は字采女の内部橋南詰めに置かれ、昭和18年(1943)四日市市に合併後は内部出張所となりました。その後、昭和47年四日市市内部地区市民センターとして現在の位置に移り、旧出張所はなくなりました、当時のものとしては看板。玄関の鬼瓦(地元にあった古市瓦屋さんが焼いたもの)、破風飾りと石の門柱が残っています。石の門柱は短く切って現在の地区市民センター入口に立てられています。」『史跡 杖衝坂(つえつきざか)』石碑。急な杖衝坂の途中左手に『史跡杖衝坂』碑、『永代常夜灯』、屋根付きの『芭蕉句碑』が『永代常夜灯』(1811年建立)。屋根付きの芭蕉の句碑(1756年建立)。杖衝坂の途中左手に、元禄元年(1688)芭蕉が旅の途中、馬に乗ってこの坂を越えようとして、あまりの急坂に落馬して詠んだ句碑 「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」「芭蕉の句碑について俳聖松尾芭蕉が貞享四年(1687)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。そのときに時詠んだ季語のない有名な句である。宝暦六年(1756)村田鵤州が、杖衝坂の中ほどにその句碑を建てた。明治の初期、坂の下采女西町永田精一郎氏の庭園に移されたが、このたび現所有者藤沢一郎氏ご夫妻のご理解により、再びもとの地に移設したものである。」「杖衝坂と血塚、二つの井戸杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所で、日本武尊が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、稍に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ」(古事記)とあり、その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」により、その名が世に知られることになった。また、坂を上がりきった所には、尊の足の出血を封じたとの所伝から血塚の祠もある。この場所にある二つの井戸は、坂の上手を「弘法の井戸」、下手を「大日の井戸」と言われ、前者は弘法大師が水に困っている村人に、杖で指し示されて掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられ、後者は、坂の中腹左側にあった大日堂に供える閼伽水(あかみず)を汲み上げた井戸と、地元民の間では伝承されている。右手が『大日の井戸』。坂の中腹左側にあった大日堂に供える閼伽水(あかみず)を汲み上げた井戸。この井戸は、弘法大師が水に困っている村人に杖で指し示され、そこを掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられている。『杖衝坂』、『芭蕉句碑』と『二つの井戸』を振り返る。更に『杖衝坂』を上って行く。ヤマトタケルが東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体で大和帰還を目指して剣を杖代わりにしてこの急坂を登り、『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた --と『古事記』にあると。これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれる。『血塚社』が左手に。鳥居の『血塚社』の扁額。階段を上る。『日本武尊御血塚』碑。ここで出血した足を洗い流したと言われているのだ。ズームで。『山ノ神』碑。黒塀の民家の横を進む。『杖衝坂』の坂上の家々の姓は「坂上」さんであると。地形から取った姓が代々続いているのであろう。石仏が民家の玄関先に。右手の公園風の空き地にあったのが『東海道101番目の釆女一里塚跡』案内板。「東海道と国道1号線が交差するこのあたりには江戸から101番目の「釆女の一里塚」があったといわれている。江戸幕府は慶長六年(1601)に伝馬の制を定めて各街道に宿駅を置き、慶長九年(1604)には東海道などの道幅を五間とし.道中の目印として一里毎に高さ約3m。幅約9m四方の塚を設けて榎や松などを植えた。江戸日本橋を起点に京三条大橋まで.126里、間には124の一里塚が置かれた。采女一里塚は101番目にあたり、松が植えられていたことが天保の頃幕府が作成した『東海道宿村大概帳』に記されている。四日市市内には四力所の一里塚が築かれていたがいずれも残っておらず、跡地には石碑が立てられている。なお105番目の亀山市野村一里塚は現在も形が残り、国指定の史跡となっている。釆女一里塚は.戦後しばらく土盛りした上に本柱が立っていたが.昭和30年代から40年代にかけて行われた国道1号線の拡幅工事で姿を消した。その後昭和62年(1987)、「郷土の文化遺産を後世に残そう」という地元釆女町の取り組みに、地元の企業が協力して敷地と費用を提供し、国道1号線を挟んだ反対側、約100mのガソリンスタンド下傍に石碑が建てられている。」この先、前方にも『釆女一里塚跡』の石碑があったが、江戸時代はこの場所近くに『釆女一里塚』があったようだ。先に進んでいくと、右手から国道1号線が上ってきて、旧東海道は国道1号線に合流。国道1号線に合流して直ぐ右手のガソリンスタンド出光の前に先程の案内板通り、昭和62年(1987)建立された『史跡采女一里塚跡碑』が建っていた。交通量が多く、国道1号線を渡り近づくのは危険なので、ズームで。『采女一里塚跡』を過ぎると、直ぐ左手に『豊富稲荷神社』があった。『豊富稲荷神社』の創建年代等は不詳であるが、鳥居を潜って先に進むと拝殿は国道1号線に背を向けて南を向いて建っていた。『豊富稲荷神社拝殿』。再び国道1号線に戻り大津、亀山方面に向かう。『釆女南』交差点を進む。『国分町』交差点で旧東海道は左に分岐。暫く国道1号線を進んで行くと、鈴鹿市の標識が見えるところから左に入る旧道口が。この旧道口を境に、四日市市から鈴鹿市へと入って行った。市章は円満な市政を願い、「鈴」の丸い形をデザイン化し昭和19年に制定したと。旧道に入って程なく右手に『地蔵堂』と『単直庵』があった。ここには『単直庵』の扁額が掛かる御堂もあり、阿弥陀仏が祀られ、堂脇に天保12年(1841)の南無阿弥陀仏名号碑が建っていた。『単直庵』。御堂には『単直庵』の扁額が。天保12年(1841)の『南無阿弥陀仏名号碑』。地蔵堂の先は、暫く、車の往来も人通りもなく、静かで長閑な道が続いていた。交通量も少ない旧東海道。先に進んで国道1号線が正面に見えるところの右手に東海道案内が建っていた。東海道は国道1号線を斜めに横断しているが、横断歩道が無いため、この案内の脇の道から国道1号線に施設された地下道で渡って行くのであったが・・・・・。上の写真の案内をよく見ないでそのまま進んでしまった為、旧東海道が続く道路の反対側に行くことが出来ないことに気が付き、戻る。折しも後ろを離れて歩いていた旅友と合流し、案内図に従い地下道に。『木田町大谷』交差点を地下道で渡り、この先で右に分岐する旧東海道の入り口を目指す。地下道を潜って国道1号線の右側に出て進み、浪瀬川を渡ると、右手に東海道道標の建つ旧道口があった。『東海道石薬師宿』の案内表示板が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次観音寺の脇の路地に『小許曽神社』社標が建っており、100m程先に『小許曽神社』があった。神明系鳥居が前方に。『小許曽神社』境内へ。『小許曽神社』は、平安の昔、醍醐天皇の御代、延喜5年(905)式内神社として神名帳に記載されている古社で、古くから地元住民に崇拝されていると。『小許曽神社』の『拝殿』。『拝殿』に掛かる『小許曽神社』の扁額。「小許曽神社平安時代、醍醐天皇の延喜5年(905)に編纂された延喜式(式とは律令の施行規則)のひとつに、全国の官社3,132社を記載した神名帳があり、当小許曽神社の名もそこに記されている。このように小許曽神社は格式ある延喜式内社として千百有余年の歴史を有しており、古くから地元民に崇拝されている。祭神には、大日霊貴尊、天宇受売命、布刀玉命をはじめ13の神様が祀られている。小許曽神社には元来東の宮、西の宮の2社の他に小社、祠、山神社があったが、明治39年(1906)の宮内庁合祀令を受けて、西の宮(現小許曽神社)に合祀された。また、昭和14年(1939)には山の神(現高塚町)に祀られていた愛宕大権現も合祀された。 当社の神事として、粥試し(筒粥)、奉賛(宮当番に感謝する行事)、当渡し(宮当番の引継ぎ)があり、正月中旬に行われる。粥試しとは、小豆粥と細い女竹五本を使って、竹筒内に入った米粒の数で早期(そうさ)・早生(わせ)・中生(なかて)・晩生(おくて)の稲作と畑作の豊凶を占う神事である。」『拝殿』内部。『橿原神宮遥拝所』。『白龍大神』『愛宕大権現』石碑。『愛宕大権現』の幟。『平和の礎』と『表忠碑』。『地蔵堂』か。街道に戻ると、先の十字路左角に電柱に貼られた東海道道標があり、街道はここを右折して進んで行く。この電柱の下には、小さな石の道標があり、「左 追分」 「右 大治田」 と刻まれていた。東海道道標を右折して進む突当りで街道は左に曲がるが、この突当りに浄土真宗の『米田山願誓寺』があった。『山門』。「米田山願誓寺当山の縁起は、米田山珠賓法鎮寺に始まる。当寺の末弟法柳が米田山願誓寺として現在の地に建立し、当初は真言宗であった。寛正年間(1460年代)、専修寺第10世真慧上人の教化に帰依し、浄土真宗に改宗した。当寺第10世義道(当寺では、中興上人と呼ばれている)の時に火災にあったが、同上人は建築、彫刻にも長じた人物であり、同上人の手により、現在の本堂と庫裡が、寛政4年(1792)に再建された。当寺の本尊である阿弥陀仏は、寺伝では聖徳太子の御作とあり、お顔の部分は後世の補修が伺えるが、頭から下部は古いお姿をとどめている。また、黄金仏は、御丈5㎝ばかりの小さな仏で、義道上人が感得した二仏と合わせて、三尊仏として厨子に祀られている。山門前にある石碑には、同上人によりその黄金仏のことが刻まれている。」案内板の後ろの石碑は天保7年(1836)の『黄金仏由来碑』。『鐘楼』。『願誓寺本堂』。願誓寺は、当初は真言宗であったが、寛正年間(1460-65)専修寺第10世真慧上人の教化に帰依し、浄土真宗に改宗したと。『本堂』に掛かる『米田山』の扁額。願誓寺の前を左に曲がって進むと、右手のマンションの駐車場前に歌碑が建っていた。案内板がなく何時のものか年代も内容も不明であった。『東海道』案内板と『近鉄内部駅』案内板。『小許曽三丁目』交差点をを斜めに横断する。横断した道路と旧道との間に東海道400周年記念に建てられた『東海道碑』があった。この少し先で、内部地区から「采女地区」へと入って行く。『東海道 采女の杖衝坂 案内図』「三重県四日市市釆女町」の旧東海道を進む。東海道碑から程なく、街道は『内部川』に突き当たった。江戸時代には、ここに石橋の『采女橋』が架かっていたとのことだが、今は左に進んで『内部橋』を渡って行ったのであった。『内部橋』を渡ると『平成内部の一里塚』があると。『内部橋』は、一級河川『内部川』に架かる国道1号線の橋である。『内部橋』は、片側2車線の直線区間にあるため、高速で走行する車が多いが、歩道は広くとられており安全であった。一級河川『内部川』の上流側を見る。『内部橋』の渡り詰めを右に降りる階段があり、ここに東海道道標が貼ってあった。階段を降りると『内部橋公園』があり、東屋や内部川解説などがあった。オバチャン達が公園の草取りを行っていた。内部橋公園から内部橋の下を潜って反対側にでる街道はここを右に緑色の歩道橋を渡って進んで行った。建っている道標には、「平成内部の一里塚」 とあったが、これは『内部橋公園』を指していると思われた。緑色の橋を渡って国道1号線の脇を進むと、左手に延びていく旧道があった。かつては内部川に架かる石橋の『采女橋』から続いていた道である。釆女町の旧東海道を更に進む。旧道口から100m程進むと右手に真宗高田派の『米田山成満寺』があった。成満寺は、永承2年(1047)真言宗長生寺として創建されたと伝えられているが、その後、専修寺第10世真慧上人の弟子の専察を迎えて真宗高田派に改宗したと。この寺は訪ねずカメラズームにて。そして前方を右に曲がって行った。成満寺の先で右に曲がると、右手に連子格子の立派な旧家が。街道は、この旧家の前を左に曲がって『杖衝坂(つえつきざか)』へと延びていたのであった。『杖衝坂(つえつきざか)』の表示が電柱に。更に緩やかな坂を上って行った。小川に架かる橋を渡る。『ひがし川』と呼ぶのであろうか。橋を渡ると坂道となり、左に折れる角に『金刀比羅宮』があった。『金刀比羅宮』の創建年代等は不詳であり、境内には小さな手水石があるだけであった。『金刀比羅宮標柱』と『金刀比羅宮社殿』。『金刀比羅宮』を左に曲がると『杖衝坂』は一気に急になった。左手に『うつべ町かど博物館』があった。この博物館は、平成19年(2007)に采女町内の東海道沿いに開館され、平成24年にこの『杖衝坂』にリニューアルオープンしたものであるとのこと。『うつべ町かど博物館』(四日市市釆女町3473)は水・土・日・祝の9時から12時まで、開館。入場無料。しかしこの日は月曜日のため閉館していたのであった。内部地域の歴史や文化を伝える住民手作りのミニ博物館で、東海道沿いの民家で運営。地区内の遺跡から出土した縄文土器や須恵器をはじめ、地区の各家庭に呼びかけて提供してもらったものを展示しているとのこと。入り口の展示品。ここのトイレを借り、その後に更に『杖衝坂』の急な坂道を登って行ったのであった ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次伊勢蔵㈱から程なく、国道1号線に合流する手前左手に黒壁の東海道日永郷土資料館があった。この資料館は、土蔵付きの商家の建物を整備したもので、館内には、「日永足袋」 「日永うちわ」 をはじめ、地域に残る歴史・民俗・文化・街道(東海道・伊勢街道)などに関わるさまざまな資料を展示しているのだと。『東海道日永郷土資料館』こちらにも『東海道日永郷土資料館』と。団扇に描かれた『広重 東海道53次 四日市』や『日永一里塚阯』碑やこの後訪ねた追分の鳥居が描かれた襖絵風の絵が街道に面した形で。この日は月曜日で休館日であった。屋外の壁沿いにはポストや水車用木製歯車、低い川から高い田に水をあげるための足踏み水車や農機具等も展示されていた。ポストには「ご注意 これは展示品です。郵便受けではありません」との注意書きも貼られていた。そして旧東海道は国道1号線に合流した。ここは三重県四日市市追分2丁目1。国道1号線は緩やかに左にカーブ。どこからか茶の香りが。調べてみると近くに中島製茶(株)本社があった。そして正面に石鳥居が見えて来た。ここは『追分』交差点。国道1号線に合流して間もなく、国道1号線と右に延びる旧道との間に、安永3年(1774)建立の伊勢神宮逢拝鳥居、嘉永2年(1849)建立の道標、明治13年(1880)建立の常夜燈、湧き水などがあった。この 「日永の追分」 は、昭和13年(1938)に三重県の史跡に指定されたと。『伊勢神宮遥拝鳥居』『伊勢神宮遥拝鳥居』を見上げる。「拝領 伊勢神宮 伊雑宮鳥居 追分鳥居」。史跡『日永の追分』標柱。近くに寄って。「三重県 日永の追分解説碑「日永の追分」 の神宮遙拝鳥居は安永3年久居市の渡辺六兵衛氏が江戸に店を持ち東海道を上下する度毎に参宮街道との分岐点 日永の追分に鳥居のないのを遺憾とし江戸店支配人伊勢屋七右衛門を願主として江戸で伊勢出身同志数名を募り敷地を買入れて鳥居を建設した。更に今後の改造費として私財金壱百両を寄付されたので地元ではこれを基金として神宮式年毎に改造してきた。 その後地元民は勿論旅人からの崇敬の的となり昭和13年4月12日県史跡に指定され昭和16年日永村が四日市市に合併して以来日永地区連合自治会が 管理に当たり毎年9月21日に鳥居祭を斎行している。」『湧水』。この時は姿がなかったが、近隣住民がポリタンクを持って水を汲みに来ているのだと。そして右には嘉永2年(1849)の『追分道標』が。正面には「左いせ参宮道」と刻まれていた。その後ろには「ひだりさんぐう道」 と刻まれた『御神燈』。「すく江戸道」と「右京大坂道」と。「日永の追分道が左右に分かれているところを追分と言う。 「日永の追分」 は東海道と伊勢街道の分れ道である。道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。 この鳥居は安永3年(1774)久居出身で江戸に居た渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。 鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、20年ごとに建て替えられることとなっていた。 今の鳥居は昭和50年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第9次の鳥居となる。また、追分は東海道53次の四日市宿と石薬師宿との間にあって 「間の宿」 と言われ、神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。 そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されていた。 「日永の追分」 は昭和13年に三重県の史跡に指定され現在に至っている。」『伊勢神宮遥拝鳥居』を裏側から。「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんが参宮ののため伊勢へ向かったが、ここ日永の追分の茶店で金毘羅参りの男と名物饅頭の食べ合いの賭けをすることになった。結局、食べ合いに負け大金を巻き上げられてしまうが、男は手品師で餅を懐に入れ込んでだまされたというエピソードだと。『造営年次』が刻まれていた。現在は10代目、約250年の歴史が。『伊勢神宮遥拝鳥居』を横から。左に明治13年(1880)の永代常夜燈。『日永の追分』の前には大きな旧家が。国道1号線から分かれて直ぐ、右手の旧家の脇に小さな『地蔵堂』があり、陽刻の『地蔵菩薩碑』が祀られていた。『日永の追分』を過ぎて旧東海道を進む。地蔵堂の直ぐ先、右手に『日蓮宗 追分教会』があった。境内中央に日蓮上人像が立ち、右の方には動物供養碑などもあった。『日蓮上人像』。ズームで。前方に「四日市あすなろう鉄道 内部線」が現れた。踏切を渡ると左手に「追分駅」。県道407号線から旧東海道は左に分岐した。ブロック塀や鉄柵に括り付けられた 「東海道」 の道標を見ながら進んで行くと右手に真宗高田派の『米田山大蓮寺』があった。左に『真宗高田派 大蓮寺』寺標とその奥に『三部妙典教石碑標柱』が。『山門』。「米田山大蓮寺当山の縁起は、当町南面に土岐代康氏が居城していたが、その跡地に八幡宮を勧請、その祈願所を米田山珠賓法鎮寺と号したことに発する。当初は真言宗であった。その後、当時の寺の末弟真蓮阿闍梨が、当町の北面に寺院を建立し、米田山大蓮寺と号した。 戦国の世に寺院が焼失し仮堂のままとなったが、長禄年間(1457-60)専修寺第十世真慧上人の教化に帰依し、浄土真宗に改宗した。 寛正元年(1460)清順上人により、真宗高田派専修寺末寺米田山大蓮寺として開基された。その時、真慧上人より恵心僧都真筆の阿弥陀尊像一幅を賜ったとある。現在の本堂は、文化10年(1813)12月に再建され、快慶作の本尊阿弥陀如来立像御丈一尺五寸が安置されている。」『鐘楼』。『手水石』。『本堂』。『本堂』に掛かる『米田山』の扁額。『経石碑』。大蓮寺に隣接して黄檗宗の『観音寺』が右側にあった。そいて左側には『延喜式内 小許曽神社』の社標石碑が。観音寺は、戦国時代、織田信長の兵火により焼失したが、村人たちが観音堂を建て、本尊千手観音像を祀った。その後、元文2年(1737)黄檗宗の僧鎮堂が旅の途中、夢枕に現れた老人のお告げにより、この地に新しく寺を建て観音寺とした。『御堂』。『山門』。山門は四脚門方式で、屋根の両端に『魔伽羅』が飾られていた。『魔伽羅(まから)』『魔伽羅(まから)』は、インド神話に登場する怪魚。 愛神カーマの旗標であり、ヴァルナ神の乗り物(ヴァーハナ)とされる。 カーマのシンボルであるマカラは門や装身具の装飾に用いられた。 象のような鼻、とぐろ巻く尾を持つが、イルカやサメ、ワニの類ともされる。 水を操る力を持つため、マカラの棲むとされる川や湖、海といった場所(マカラーヴァーサー)が崇拝の対象となった。 また、大乗仏教の説話においては、これに遭遇した際には観世音菩薩の名を唱えれば難を逃れる等とされている。アジアでは、聖域結界となる入り口の門・屋根・仏像等の装飾に使われていると。『鬼瓦』。「慈現山観音寺禅宗の一派の黄檗宗の末寺であるが、歴史的に明らかなのは、江戸時代に黄檗宗の寺院となってからである。戦国時代、織田信長の兵火により焼失したが、村人たちが観音堂を建て、本尊千手観音像をお祀りしていた。その後、元文2年(1737)黄檗宗の僧鎮堂が旅の途中、四日市で一泊した折、夢枕に現れた老人のお告げにより、この地に新しく寺を建て観音寺とした。村人たちによって兵火から守られた千手観音像は本堂に今も安置されており、頭体幹部は11世紀頃の制作であろうといわれている。山門は四脚門方式で、屋根の両端に異国風の 「魔伽羅」 (サンスクリット語で鰐)が飾られているが、これは黄檗宗特有のものである。黄檗宗大本山宇治萬福寺の諸堂にもこの 「魔伽羅」 が見られる。当観音寺の 「魔伽羅」 は、 棟札(棟上げの時に工事の年月や由緒などを記して棟上に打ち付ける札)により寛政12年(1800)に置かれたものであることが分かる。細部の絵様は本堂のものと一致している。」二重の『御堂』。『本堂』。『本堂』に掛かる『観音禅寺』の扁額。『本尊千手観音像』が祀られた『本堂内陣』。『地蔵堂』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を進み『笹川通り』との交差点を通過する。ここは三重県四日市市日永3丁目。交差点の横断歩道を渡り進むと、直ぐ右手には白黒の立派な塀を有する敷地の広い民家が。そして右側には『日永神社』が。『日永神社』社標石碑。「日永神社当社は伊勢の神宮で祀られる天照大御神をまつる。占くは南市場神明社・南神明社と呼ばれた。日永神社と単称されたのは明治40年からである。創祀・沿革の記録や文章も残されておらず、いつの年代に創祀されたか不明である。江戸時代には、神戸藩主本多家からの崇敬も篤く、また東海道に面して多くの人々が参拝された。明治40年には日吉神社・山白髭神社・山之神社、さらに天正10年(1582)に創祀されたと伝えられる追分神明札を合祀し、同44年には池鯉鮒社・稲荷社を合祀し、現在に至っている。例祭は10月の体育の日である。以前は拝殿の右側に松の老木があり、国難があると樹皮が変色して人々を驚かせ、神木として崇められていたと言い伝えられているが、その木は今はない。なお正面の拝殿右側に立つ道標は、もと追分の神宮遥拝鳥居の場所にあったもので、明暦2年(1656)に僧侶によって立てられた東海道最古の道標である。」『定』の書かれた場所は解読不能。『阿形の狛犬』。『吽形の狛犬』。『日永神社拝殿』。『皇大神宮遥拝所』。『社務所』正面に『大神宮 いせおいわけ』と刻まれた『道標』石碑。「追分道標この石柱は昔、日永の神宮遥拝鳥居の傍に立てられていた道標である。この道標には、正面に「大神宮 いせおいわけ」、右側面に「京」、左側面に「山田」、そして裏面には 「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。この道標が立てられた明暦2年(1656)といえば、神宮遥拝鳥居が建立されたときよりも約120年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである。更に立てた人がお坊さんであること、そして南無阿弥陀仏と彫られていることも興味のあることである。嘉永2年(1849)神宮遥拝鳥居の脇に現在の立派な道標が立てられとき、この小さな道標が不要になり、近くにあった追分神明社の境内に移され、その後、明治40年には追分神明社が日永神社に合祀された際に、道標も一緒にここに持って来られたものと推定される。」拝殿に掛かる『日永神社』の扁額。『日永神社』に隣接して『長命山 薬師堂』があった。「市指定有形文化財(彫刻) 薬師如来坐像』本像は檜材による寄木造りで右手を屈臂して掌を開いて施無畏印を結び、薬壷を載せた手を膝上に置いた薬師如来である。 肉髻・螺髪を表し、袈裟は左肩を覆って右肩に少しかかる。 左足を外に組んで結跏趺坐する。 胎内背面と底板には正保2年(1645)、正徳3年(1713)、慶応2年(1866)の銘を持つ墨書があり、三度にわたり補修を受けたことがわかる。 像はこのような後世の補修のために、多少当初の姿を損なっているが、鎌倉時代中期の制作といわれている。 なお、本像は、もと伊勢安国寺の旧像で、天正年間(1573-92)安国寺炎上の時、千種常陸介忠治が猛火の中から日永村実蓮寺に運び出し、 境内に建てた小堂で代々内仏として信仰していたが、文化13年(1816)同志によって現在地に移したと云えられる。」『長命山薬師堂』。薬師堂に掛かる『長命山』の扁額。右手奥、四日市市立日永小学校の裏門の近くにあった石碑群。『表忠碑』。「表忠碑」は、戦没者の遺徳をたたえ、永遠に顕彰するため、明治42(1909)年8月に、日永村在郷軍人の方々が発起人となって建立された。揮毫者は、元帥公爵の大山厳。1909年8月 日永村 1953年12月 日永村 在郷軍人 の文字が。「西南役忠死者」「日清役忠死者」「日露役忠死者」「支那事変忠死者」とあったが、「支那事変忠死者」については、後に追加したものであろう。『稲垣末吉翁頌徳碑』。稲垣末吉は、日永の追分まで自費で配管を敷設して、水を旅人達に供した人物と。稲垣は、明治時代、東京で製錨工場を創設、後に製鋼工場となり、巨万の富を築いた。地元に戻り、地域社会のために、社会福祉、自社建立、学校建設にも尽力し、さまざまな寄付をするなど貢献された。薬師堂の直ぐ先、右手に『東海道碑』が建っていた。『東海道総合案内』更に旧東海道を進む。東海道碑から程なく右手に浄土真宗高田派の『雲祥山西唱寺(うんしょうさんさいしょうじ)』があった。『山門』。「雲祥山西唱寺当山は浄土真宗高田派の寺院である。 永禄2年(1559)僧玄聖の開創で、昔は安立院と称し、浄土宗の寺院であったが、江戸時代初期に住持の誓宅が専修寺第14世尭秀上人に帰依して浄土真宗高田派に転じた。 この折、尭秀上人から本尊を賜った。 寛文元年(1611)寺号を西唱寺と改めた。 正徳2年(1712)中川十兵衛尉が聖徳太子の木造を奉じて当山に立ち寄り、伝法法師に請うて当山に留まり、享保2年(1717)当山にて没している。 当山には寺宝が多数あったが、昭和20年(1945)6月18日の空襲で爆撃を受け、本堂、庫裡、太子堂、書院等が全焼し、寺宝、古文書等がことごとく灰燼に帰した。戦後、昭和21年に庫裡、堂24年に梵鐘、同26年に本堂、同35年に書院がそれぞれ再建され現在に至っている。」昭和20年(1945)6月の空襲で爆撃を受け、本堂・庫裡・鐘楼などは戦後に再建されたと。『西唱寺本堂』本堂前には、樹齢約150年と伝わるボダイジュがあった。多くの命が失われた1945年6月の「四日市空襲」では本堂や書院が全焼してしまったが、この木は半分は焼けたが全焼は免れたと境内におられた住職から。『鐘楼』。『本堂』横の石碑群。『社務所』前の牡丹の花。庭にたくさんの草木が育ち、四季折々の花が咲き誇る西唱寺。蝋梅。白の小柄な花の椿。住職が名前を教えて下さったが忘れてしまいました。ズームで。寒菖蒲。枝分かれした右の樹の幹に顔が彫られていた。仏様のお顔。そして旧東海道に戻ると直ぐ先に『日永一里塚跡』。通り過ぎた私を旅ともが呼び止めてくれたのであった。「三重県指定記念物(史跡) 日永一里塚一里塚は、江戸時代に整備された街道において約一里(約4km)ごとに設けられた塚で、市内には東海道筋に四カ所築かれた。 文化3年(1806)の「東海道分間延絵図」にも、富田・三ツ谷・日永・釆女の一里塚がそれぞれ描かれている。 日永一里塚跡は当初、天白橋の北詰西側の榎の老樹のある場所と思われており、標柱が建てられ、県の史跡に指定されていた。 しかし、その後の考証により、日永五丁目の現在地が正しいということになり、標柱を移した。 この日永一里塚は、もとは5m四方で高さ2.5mの塚が東海道の両側に築かれており、西側の塚には榎が残っていたが明治2年(1869)に伐採され、塚もその姿を消した。」ここは江戸日本橋から数えて100里目の一里塚跡である。『東海道名残りの一本松』が前方に。この辺りの道の両側には、立派な松並木が続いていたという。「東海道名残りの一本松むかし、この辺りから泊の集落までは、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に、大きな松の木が並んで植えられていた。 その間には、家は一軒もなく、縄手と呼んでいた。 この松は、その縄手に植えられていたものが残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものとして大切に維持しなければならない。 縄手の道の幅は、土手も入れて約5間(9メートル)であった。 松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。 因みに、旧東海道の道幅は、3間(約5.5メートル)で、現在も変わっていない。」『東海道名残りの一本松』を見上げる。 ここは三重県四日市市日永5丁目10-4。更に旧東海道を進む。『東海道道標』と『近鉄泊駅』案内板。三重県 四日市で醤油(しょうゆ)・赤味噌(みそ)・合わせ味噌(みそ)・贈答品の販売を行っている『伊勢蔵(いせぐら)』が右手に。工場の前には巨大な『桶』が展示されていた。『展示桶(三十石)』「直径 2100ミリ 高さ1940ミリ 味噌仕込み用 1回の仕込み量 5000キロ30万人分のみそ汁に相当」ここ旧東海道沿いにて、創業。大正3年より30石より45石の木桶を使用し、味噌・醤油を製造しております。創業当時より代々木桶に染み込んだ酵母・乳酸菌などが伊勢蔵特有の蔵ぐせを生み出します。」内部にも小さな桶が4個。こちらは醤油樽か?。店の裏には工場棟が。『伊勢蔵』の広告が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次水沢道標の建つ筋を40~50m入ると右手に真言宗の『無動山大聖院』があった。『大聖院山門』。「絹本著色釈迦三尊十六善神像(秘仏)無動山大聖院奉安の本図像は、縦111.7cm、横51.7cmの掛幅で、釈迦三尊像での裏彩色を施し表から金箔を押す丁寧な仕事ぶり、着衣の盛り上げ文様の手際などから、奈良・京都の中央の絵仏師による鎌倉時代中期の制作と考えられる。獅子宝座に坐す釈迦如来を中心に、文殊菩薩と普賢菩薩を脇侍として、その前には道服を着した常啼菩薩と僧形の法涌菩薩が立ち、さらにその手前に経典を収めた笈を背負う玄奘三蔵と『西遊記』で沙悟浄のモデルとなった深沙大将を描いている。これら諸尊の左右に並ぶ四天王と十二神将を合わせた十六善神は、般若経及びその信者を護る護法善神であり、甲冑を身にまとい、武具を携え様々な形姿を取っている。荘厳な釈迦三尊の静かで穏やかな雰囲気に対し、十六善神は激しく動きのある様子で表されている。市内に現存する最古の絵画であり、県内屈指の古作である。鎌倉時代の本格的な仏教絵画の作風を伝える図像として貴重である。」「無動山 大聖院当山は行基菩薩開創、平安時代には醍醐寺座主定海僧正御住坊であった。永禄8年(1565)松井親蔵法印が千種氏の庇護のもと、一族の守り本尊であった不動明王を奉じ氏寺として寺院を再興された。元禄3年(1690)中興第四世海養法印は寺地を今の地に定め、寺号を大聖院と改めた。中興第七世快養法印は神戸藩内の寺社仏閣から選ばれて、延享3年(1746)神戸城地鎮祭の祈祷を執り行いし名僧であった。醍醐三宝院直末、神戸藩主御祈祷寺として信仰を集めたが、明治初め廃仏毀釈の風潮激しく寺領地を失い、境内も現在の範囲を残すのみとなり、総本山醍醐寺顧問としても活躍した中興第十五世秀健僧正は、奮起して戦後の宗教界及び当山の復興を図った。本尊不動明王(秘仏)は、鎮守府将軍源頼義公、義家公父子の念持仏で、平安後期の代表的尊像として、大正四年(1915)国宝(重要文化財)に指定されている。」『大聖院本堂』。日永の不動さんと呼ばれ三重四国八十八箇所 9番札所の寺院。参道の真ん中に灯篭があった。『松井寺 本堂』。「真言宗 大聖院当山は、天平10年(738)行基菩薩による開創にして、平安末期、醍醐寺座主定海僧正の御住坊なり。醍醐三寶院直末、神戸藩主の祈願所として信仰を集め、現在に至る。本尊の不動明王は、鎮守府将軍源頼義の念持仏にして、源氏歴代の武将によって信奉され、大正4年(1915)8月国宝に指定されし尊像なり。」『十三重塔』。『国寶不動尊碑』。境内には、地蔵堂・庚申堂・弁天堂があった。『地蔵堂』『庚申堂』『辨天堂』『重要文化財(彫刻) 木造不動明王立像(秘仏)』「重要文化財(彫刻) 木造不動明王立像(秘仏)無動山大聖院本尊不動明立像は、安時代後期の柔和で優芙な特徴をよくとらえた、像高95cmの桧材一木造の彫像である。彫眼、切歯、怒顔で、鬢髪を縄状に組み、左肩に垂らし条帛を左肩から斜めに掛け、薄く絵画的に折りたたまれた裙を身に着ける。右手は屈腎して宇剣を握り、左手は垂下して分銅を結ぶ絹索を持つ。なお、僅かに右足に重心をかけて岩座に立ち、火焔光背を身にまとう、全形の素地の材目を巧みに、また、忿怒の相が十分表現されており、胸には涙をたたえ、宝剣は衆生の悪疫を除き、福徳長寿を与える大慈悲の姿である。そして、通常不動明王像は両犬歯の牙を強く現すが、本尊像にはそれがなく、歯並みのよい上歯で下唇を咬みしめる端正な顔立ちが特徴であり、現代人には畏怖よりもむしろ気品を感じさせる。したがって、信仰だけでなく、造型全体を支配する優美な感覚は、美術的価値も遺憾なく発揮する稀に見る尊像といえる。」『寺務所』。『日永2・3丁目自治案内板』。旧東海道に戻り暫く進むと『駒寄垣 晒竹(こまよせがき さらしたけ)』が施された旧家が左手に。建物の腰や塀を保護するために設ける、壁や塀の裾まわりに寄せてつくる低い垣根。『駒寄垣 晒竹』が施された大きな旧家の向かいに真宗高田派の『日永山興正寺』があった。「日永山興正寺当山は浄土真宗高田派で、創建は貞観6年(864)と言われている。 登城山にあったときは天台宗であったが、文暦元年(1234)親鸞聖人が当寺に立寄られたとき浄土真宗に改宗した。その後200年くらいして、本山の第10世真慧上人が津の一身田に本山を定められ、高田派となった。 天文13年(1544)本山第12世堯慧上人は当寺で「日永千部」という本寺の復興勧進法要を勤められ、興正寺は有力な末寺となった。天正2年(1574)現在地に移る。 堯慧上人は織田信長にも治安維持を願い、滝川一益が興正寺に対して出した 「日永興正寺四至傍至の事」 という寺領を与える文書、 豊臣秀吉の寺内 「禁制状」 などを有している。 また、徳川家康もこの寺を保護するよう配慮した。天白川がこの寺を囲むように曲がっているのも瀧川一益が堀の役目をするようにしたと言うことで、この堤を昔の人は滝川堤とも言った。」寺標『真宗高田派 日永山 興正寺』。『興正寺山門』。『手水舎』。『本堂』。境内から『鐘楼』、『御堂』を見る。『御堂』に掛かる『染?堂』の扁額。『御堂』の屋根頂部。『鐘楼』。ズームで。境内の観音像。そして再び川に架かる橋に向かって坂道を上る。『天白川』に架かる『天白橋』。『天白川』。『天白橋』を渡って先に進むと、右手に浄土宗の『林光山両聖寺(りょうしょうじ)』が。『四日市指定無形民族文化財 つんつくおどり』案内板。「司馬江漢が「誠に田舎の踊りなりけり」(文化12年(1815)刊行 「西遊旅譚」)と評したつんつくおどりは、大勢の人々が手をつなぎながら太鼓や笛などの囃子に合わせて円陣をつくっていくという所作を持つ、日永地区に古くから伝わる郷土色豊かな踊りである。その起源は、昔、同地区を流れる天白川の堤防を固める時に村人が踊ったのが始まりとも、また、織田信長の武将である勢州長島城主滝川一益の母が実蓮寺境内に居住した隠居所を造る際に唄った地築唄に振り付けたものともいわれているが、定かではない。その記録は、昔、同地区を流れる天白川の堤防を固める時に村人が踊ったのが始まりとも、また、織田信長の武将である勢州長島城主滝川一益の母が実蓮寺境内に居住した隠居所を造る際に唄大正時代末期までは、8月14日から17日にわたり、大瀬古・天白・中之瀬古・南市場の4町それぞれの東海道筋で長い輪となって踊られており、4日ともに唄う歌が異なる上、日によって決まっていたというが、現在は中之瀬古町によって8月第2土曜・日曜日に漁聖寺の境内で催されるのみとなり、両日共に同じ唄が歌われている。」「林光山両聖寺当山は昔、天台宗林光山西教院と称したが、住職の專阿上人が浄土宗第三祖記主良忠禅師と比叡山で一緒に修業された縁で、 宝治2年(1248)記主良忠禅師が当山で大いに浄土教を宣布された。それ以来当山は浄土宗となった。このため、記主良忠禅師を開基とし、專阿上人を第2代とした。 第3代道阿玄忍上人の時、前期両聖人に因んで寺号を両聖寺と改めた。 その後寺院は度重なる火災に遭い、本尊の阿弥陀如来も焼失し、幾多の災厄変遷を重ねてきた。寛永2年(1625)に第18世完誉月帚上人は阿弥陀三尊仏を寺に奉納し、開眼法要を営まれた。明治40年(1907)両聖寺の鎮守であった八幡社は分離され、大宮神明社に合祀された。今でも中の瀬古の獅子を八幡獅子と言うのはこのためである。 また、お盆には寺の境内で市の無形文化財の「つんつく踊り」が披露される。」『山門』。『鐘楼』。『鐘楼』の屋根には鯱が。『両聖寺本堂』。『開山 浄土宗第三祖記主良忠上人』と刻まれた石碑。『十三重塔』『地蔵堂』。『地蔵堂』の左側には石仏が安置されていた。『地蔵菩薩』。その左後ろに『役行者』。右側には『弘法大師』像。旧東海道に戻ると『日永 つんつくおどり』👈リンク の手作り4ポスターが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次赤堀『八阪神社』に到着。『一の鳥居』。「八阪神社京都祇園八坂神社の分社。御祭神は建速須佐之男命。日本神話で須佐之男命は、八俣大蛇(あらゆる災厄)を退治し地上に幸いをもたらした神とされ農神疫神として、信仰されている。勧請年代は不詳であるが、もと牛頭天王八王子社と称し赤堀城の鎮守神として祀られていた。戦国時代、織田信長の北伊勢侵攻の際、赤堀城は落城するが、赤堀一族の忠保は助命され牛頭天王社の神官となり、以後社家として続いている。明治二年(一八六九)八阪神社と改称。当社は、明和七年(一七七〇)より豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の中重鳥居を拝領し、以来神宮式年遷宮ごとに中重鳥居の下附を受け、現在の鳥居は平成二十七年に建立したものである。昭和二十年(一九四五)六月の大空襲により社殿は全焼したが、昭和三十年伊勢神宮別宮の瀧原宮長由介神社の本殿の下附を受け現社殿を再建し、今日に至っている。」境内の左側にあったのが『三徳稲荷社』右手には『神崇百度石』と刻まれた石碑が。拝殿と入り口にある百度石の間を行き来して祈願する「お百度参り」。朱の鳥居には『三徳稲荷社』と書かれた扁額が。そして『八阪神社』の『拝殿』が。そして『八阪神社』を後にし、旧東海道に向かって戻ると再び『四日市あすなろう鉄道内部線』そして3輌編成の電車が。踏切を渡ると右手に『四日市赤堀郵便局』が。東海道に繋がる路地の角まで進む。『東海道』道標が。そして旧東海道を進むと、前方が急な坂になっておりその先に川の橋が。典型的な『天井川』に似て。『天井川』👈リンク とは、川底がまわりの地面よりも高くなってしまった川のことである。上流から流されてくる土砂の川底への堆積と、堤防の上積みが繰り返されることによって生まれる。ひどい場合は、川底が地上数メートルの位置になることもあり、川の下にトンネルを掘って道路が通されている光景も一部では見られる。『鹿化川(かばけがわ)』に」架かる『鹿化橋』。脇の歩道橋を渡る。再び『東海道』道標。『鹿化川(かばけがわ)』。民家のシャッターには折り紙の鶴と紙風船が描かれていた。鹿化橋を渡ると日永に入る。右手に『大宮神明社』が。「大宮神明社当社は永宮さんとも呼ばれ、主祭神として天照大御神を祀る。 昔は現在の南高校のある岡山の麓まで海があって、その海辺に舟付明神があった。 垂仁天皇の時代に倭姫命が天照大御神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもある。 その舟付明神が四百年ほど前に炎上し、当時出来つつあった道路(東海道)に遷ってきたのがこのお社である。 例祭は十月の体育の日である。 この日には獅子舞があり、現在では八幡獅子が家々を回って獅子を舞わしている。 本殿の右横には大己貴命、少彦名命を祀る摂社二柱大神社(センキさんとも言う)があり、病気を直す神様として有名である。 六月三十日には那護志大祓があり、一般には「輪くぐり」といって茅の輪をくぐると夏負けしないという言い伝えがあり、 近在近郷から老若男女が大勢参拝し、夜店がぎっしり並んで大変な賑わいで、有名な祭りとなっている。」一の鳥居の扁額には『大宮神明社』と。石鳥居のある参道を進む。『手水舎』。「御由緒当神社は岡山(現県立南高校)に鎌倉時代より奉斎たれていたが、永禄五年この地に遷る。祭神は伊勢の神宮とご同神を祀る。摂社二柱大神(大己貴命、少彦名命)は古来諸国より病気平癒祈願のため参詣される一名永宮神社と云う。例祭日 十月十日摂社例祭日 十一月二十日 那護志大祓 六月三十日」『拝殿』。『拝殿』に掛かる『大宮神明社』の『扁額』。『拝殿内部』。『二柱大神社拝殿』。『無病息災 二柱大神 童の守り神 稚児の宮』。『社務所』。『皇大神宮遥拝所』石碑。『靖国社』『天神社』。『稲荷社』『山之神社』。床屋さんの前にあった『広重 東海道五拾三次 四日市』と『行けるはず まだ渡れるは もう危険』と書かれた張り紙が。旧東海道を先に進む。右手に連子格子の旧家が建っており、この向かいにも壁が総板張りの旧家があった。旧家の先の信号交差点を過ぎると、右手に『東海道道標』と『大聖院』案内板が。『水沢道標(すいざわどうひょう)』案内板と『日永郷土史地図』。大聖院へ入るこの筋の右角に小さな道標が建っていた。今から約200年ほど前に大坂の古銭収集家の河村羽積という人が、東海道から水沢道が分かれる角に立てたのがこの道標であると。「水沢道標大正12年(1923)の水害まではこの横の道が水沢方面に通じる道路であった。 このため、今から約200年ほど前に大坂の古銭収集家の河村羽積という人が東海道から水沢道が分かれる角に立てたのがこの道標である。水沢の楓谷は紅葉の名所であり、昔は菰野藩主の土方公が必ずこの紅葉を愛でられたと言う。この碑の表面には 「水澤は藍より出て紅葉哉 大坂 羽津み」 裏面には 「猿丸大夫名歌古跡すい澤へ是ヨリ三里」 と彫られている。猿丸大夫の名歌とは 「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき」 と詠まれたものである。」表面には『水澤は藍より出て紅葉哉 大坂 羽津み』と。 裏面には『猿丸大夫名歌古跡すい澤へ是ヨリ三里』と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日(2020年1月20日)も早朝起床し、ホテル内で朝食を取る。そして6:45過ぎにホテルを出発し、朝の繁華街を旧東海道に向かって歩く。そして人の姿のない旧東海道に入り、旧東海道アーケード街を進む。『東海道 四日市宿』と書かれた幟。ゆるキャラグランプリにも登場し、何かと話題を振りまいた『こにゅうどうくん』の姿も。アーケード街の歩道にはモザイクタイルで『歌川広重 東海道五拾三次四日市 三重川』が大きく描かれていた。強風に葦がなびき、合羽の裾が翻す旅人と、飛ばされた笠を追う旅人が叙情的に描かれています。動きのあるこの図は、東海道五十三次のなかでも秀作として評価の高い作品です。この絵は四日市宿の近くを流れる三重川(三滝川)のあたりの様子で、二人の旅人の様子や柳枝のしなり具合からも、この地方の風の強さがわかります。風に転がる笠をあわてて追いかける旅人の姿がコミカル。こちらが『本物』。こちらは『広重 東海道五拾三次 四日市(狂歌入り東海道)』。「狂歌 緑庵松俊 「梅か香に 袖ふりあふて 泊り村 つえつき坂を のぼる旅人」四日市宿の先に架かる橋を、巡礼者、天狗(てんぐ)の面を背負った金毘羅(こんぴら)参(まい)りの男性、伊勢(いせ)参(まい)り(抜け参り)の子供たちなどが行き交う様子を描いています。四日市宿には、東海道と伊勢街道の分岐である日永(ひなが)の追分(おいわけ)があったので、多くの旅人でにぎわっていたそうです。」こちらが『本物』。『広重 東海道四十四 五十三次 四日市 隷書版』。東海道は四日市から少し行った日永の追分で伊勢神宮に向かう伊勢街道と分かれます。鳥居の下では飼い主に代わって伊勢神宮に参詣する犬が名物の饅頭をもらっています。犬のお伊勢詣りといって、自分ではお伊勢詣りの出来ない人の代わりに飼い犬が参詣するもの。飼い主の名前や住所を書いた袋に餌代や初穂料を入れ、それを担いでいくので、道行く人は行ける所まで連れて行って代参を果たさせるのだと。犬のヒッチハイクというわけですが、江戸時代の人びとの人情と信仰心が偲ばれるのだ。横の少年たちの一人も伊勢詣りのしるしである野宿用のござを担いでいる。こちらが『本物』。こちらは『三代豊国・広重 双筆五十三次 四日市』。四日市の浮世絵には、那古の浦(霞ヶ浦あたり?)の蜃気楼がよく描かれている。蜃気楼は春から夏の晴れた日に見られ、南から北へ移動しながら消滅するところから、伊勢大神宮が熱田神宮に遊幸されるのだと信じられ、「那古の渡り」といわれていた。いずれも女人と蜃気楼の組み合わせで描かれているが、風景が広重、人物が豊国という珍しい合作。こちらが『本物』。更に旧東海道・アーケイド街を二人占めして進む。そして中央通りに出る。『東海道』道標が右手に。中央通りを横断して更に進む。小さな橋が前方に。『阿世知川』に架かる『阿世知橋』。川縁に円柱の 『阿せちはし』の標石が。『阿世知川』。阿瀬知橋を渡ると直ぐ左手に真宗高田派の崇顕寺があった。崇顕寺は、織田勢の滝川一益に滅ぼされた田原家の一族丹羽弥八郎時定が菩提のため、創建したと言われている。『佛法山 崇顕世舎』と『丹羽文雄生誕之地』と刻まれた石柱が左手に。左手に『崇顕寺』の境内が。奥には「浜田保育園」。鐘楼。国道1号線側に回り込み入口を探す。『真言高田派 佛法山 崇顕寺』の文字が。『本堂』。そして旧東海道に戻り進む。『東海道』案内板。次の『日永宿』まで約2.4kmと。街道沿いには連子格子の旧家が。右手に『東漸寺』。『東漸寺』の『山門』。『境内』と『本堂』。真宗高田派の寺で、童話作家東光敬(あずまこうけい)氏の生誕地だと。『鐘楼』。『本堂』。『経蔵』。街道沿いに連子格子の旧家があちこちに。更に旧東海道を進む。前方に近鉄名古屋線の高架が姿を現した。民家の格子には『東海道』と書かれた手作りの案内板が。突き当りを左手に進む。鈴木畳店の駐車場の先には小さな地蔵堂が。旧家が続く。更に進むと旧家の寛延3年(1750)創業の『鈴木薬局』が右手にあるはずであったが。鈴木家は代々勘三郎の名を受け継ぎ、現在の当主鈴木友造氏で第11代を数え、同家に伝わる家系図によると、第四代勘三郎高春が、寛延3年(1750)2月に蘭学勃興の地長崎に赴き、漢方を伝授されたと言われているのであったが。旧家の姿はなく、立派なガレージ、門、壁、住居が。旧家の保存に耐えられなくなったのであろうか。持ち主の旧家保存と通常生活との葛藤が見えて来たのであった。それにしても『当時の建物』は全て解体されて処分されてしまったのであろうか?以前はこの様な建物が。 【https://ameblo.jp/cum-sancto-spritu/entry-12511156506.html】以前にあった案内板には「鈴木薬局(旧鈴木製薬所)竹の切り口を示す「丸二つの組合せ」の登録商法に、「赤万能即治膏」・「無二即治膏」・「萬金丹」・「真妙円」などの膏薬の名前が書かれた古い看板を掲げる鈴木薬局は、二○○年以上も製薬業を営む旧家である。 当家は、代々勘三郎の名を受け継ぎ、現在の当主鈴木友造氏で第十一代を数えるが、同家に伝わる家系図によると、第四代勘三郎高春が、寛延三年(一七五○)二月に蘭学勃興の地長崎に赴き、漢方を伝授されたといわれている。 当家の建物は、東海道沿いの古い家の中でも一際がっちりとしたものである。 これは、第六代勘三郎高光が、嘉永五年(一八五二)に建てたものであることが、家系図によってわかる。 玄関には、約六○kgの重い木製の上げ下げ戸があり、東海道に面した家の表には連格子がはめられ、六畳から十二畳の部屋が奥に続き、そのうちのひとつの欄間には、厚い檜の近江八景を形どった一枚彫りがある。 また、土蔵とともに膏薬をつくった作業場があり、薬研などの貴重な道具が保存されている。」と書かれていたのだが。『東海道』道標と『加藤翠松堂製薬と八阪神社』の案内板が右手に。右手に折れ『八阪神社』方面に進む。『四日市あすなろう鉄道 内部線』の踏切を渡ると左手には『赤堀駅』が。『赤堀駅』入口には『赤堀城跡』案内板が。「赤堀城跡当駅より徒歩約一五分(北西へ約六〇〇m)赤堀城は.田原(俵)藤太藤原秀郷の子孫、田原孫太郎景信が室町時代の応永年間(一三九四~一四二八)に上野国赤堀庄から伊勢国栗原に移り、ここに築城したもので、現在の「赤堀」という地名もこの時に改められたといわれています.景信は、後に肥前守と称し、次男秀宗に赤堀城を継がせ、長男盛宗を羽津城に、三男忠秀を浜田城に配し、赤堀三家としての基礎を築き、この地方を支配するようになりました.江戸時代の軍記物には、安土桃山時代の天正三年(一五七五)、織田信長の家臣滝川一益によつて赤堀城は攻撃を受け、落城したと伝えられますが、実際には織田信長の家臣団に組み込まれたようです。城跡は、現在都市化のため記念碑があるだけですが。旧「三重郡赤堀村字城西・同城東・同新三郎縄」の地籍図には主郭の土塁や堀が認められ、かなり大きな城であったことがうかがえます。」当時の旧東海道絵図。『赤堀駅』周辺の観光案内図。更に進むと右手に『天理教一神分教會』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年1月19日(日)、『旧東海道を歩く(四日市宿~関宿)』の初日の移動日。前日の出発予定であったが、箱根周辺の積雪が予想されたため1日出発をずらす。そして、この日の朝も箱根の山越えは、路面凍結の可能性があるため、茅ヶ崎から県央自動車道、東名高速道路で富士川スマートICまで行き。ここから一般道に降り西に進んだのであった。そして、前日1月17日~18日の降雪で車窓からの富士山や周囲の山々は白く輝いていたので車窓からカメラで追いかけ続けたのであった。これぞ『絶景かな!!絶景かな!!』👈リンク薩埵峠からの富士山の絶景。そして薩埵峠からの絶景を後にし、『興津川』に架かる『興津大橋』を渡る。そして『大井川』に架かる『大井川橋』を渡る。そして国道1号線から、静岡県掛川市東山にある『茶文字の里 東山(ちゃもじのさと ひがしやま)』が見えた。国道1号線・浜松バイパスを進む。前方に見えたのが新幹線高架橋。浜名湖の入口付近の防風林の中に建つ『舞阪灯台』は、静岡県浜松市西区舞阪町舞阪にある白色の灯台。国道1号線・浜名バイパスに架かる『浜名大橋』を進む。『浜名大橋』は、浜名湖の今切口に架かるPC橋。国道1号浜名バイパスの馬郡IC〜新居弁天IC間にある。『浜名大橋』は浜名バイパスの一部に属しているため、浜名バイパスが日本道路公団の管理する有料道路時代においては、『浜名大橋』の通行には必然的に通行料金が発生した。2005年(平成17年)3月30日に浜名バイパスが無料開放されたことに伴い、以降は無料で通行することができるのであった。『道の駅 潮見坂』で休憩。『道の駅 潮見坂』は静岡県の最西端の浜名湖西岸、湖西市白須賀にあった。潮見坂は東海道五十三次の白須賀宿にほど近く、京(都)から江戸(東京)に向かうときに、初めて太平洋が見られる場所で、この太平洋の大海原を見ると「江戸の町まであと半分」と言われていたのだと。内部には『地場産品』売り場が。野菜果物直売所の大きなイチゴ。海産物直売所の干物類。そして『無料足湯』。足湯に浸かりながら太平洋を一望することができるのであった。ドライブの疲れを癒すこと間違いなし!体験したかったが、先を急ぐので諦める。『潮見トンネル』が前方に。豊橋東 I.C.を通過し国道23号に入る。左手奥に新来島豊橋造船のゴライアスクレーンが見えた。三河港コンテナターミナルの巨大クレーン。豊橋バイパスの豊川橋を渡る。『日色野町』交差点を右折し、岡崎&豊川市街方面に向かう。国道1号線に入り岡崎I.C方面に向かう。左手に『岡崎城 東隅櫓』を見る。『浄瑠璃姫の墓』。「浄瑠璃姫は、年老いて子供のいなかった矢作の長者が、日頃から信仰していた鳳来寺の薬師瑠璃光如来にお願いして授かった子といわれます。1174年3月、牛若丸(後の義経)は、東北地方の藤原秀衡を頼って旅を続ける途中、矢作の里を訪れ長者屋敷に泊まりました。その娘の弾く琴にひかれ、持っていた笛で吹き合わせたことから二人の間に愛が芽生えます。しかし義経は東北へと旅立たなければならず、笛を形見に預け、旅立ちます。姫は笛を大事にしていましたが、義経への思いは日に日に募るばかり…悲しみのあまり、とうとう菅生川(乙川)に身を投げて死んでしまいます。このとき姫は17歳だったとか。二人が分かれて10年が経ち、義経が矢作に戻ったときには、姫は亡き人になっていたという、悲しい話」があるのだと。『岡崎城 大手門』。『八帖』交差点を過ぎると前方に『愛知環状鉄道』の高架橋が。そしてこの後、愛知県知立市八橋町寺内61番地1にある『無量壽寺』👈リンクを訪ねた。室町時代の延文5年(1360年)臨済の僧恵玄が中興し、江戸時代の宝永8年(1711年)にいたり、同宗妙心寺派になった寺。文化9年(1812年)方巌売茶翁により再建が行われ、かきつばた庭園はこのときに完成した。三河富士と呼ばれる村積山及び逢妻川を借景した雄大な煎茶庭園はかきつばたの匂うばかりの濃紫と相まってその美しさはまた格別の風情がある寺なのであった。『無量壽寺』本堂。『在原業平像』。そしてその後に『熱田神宮』👈リンクを訪ねたのであった。そして『熱田神宮』を」後にし、国道23号線を四日市に向かって走る。名鉄名古屋線『神宮前』駅前を通過。『庄内川』に架かる『庄内新川橋』を渡る。前方に鈴鹿山脈が大きく姿を現す。『日光川大橋』を渡ると左手に『日光川水閘門』が見えた。『日光川大橋』は、全国最大の海抜ゼロメートル地帯を流れる日光川流域を、伊勢湾台風規模の高潮や、南海トラフ地震で発生が予想される津波から防御する防災の要となる施設。昭和34年の伊勢湾台風の未曽有の被害を受けて昭和37年に設置し、運用から56年が経過。愛知県海部郡飛島村大字梅之郷を走る。『かつや 愛知名四弥富店』で腹ごしらえ。『木曽川』にかかる『木曽川大橋』が前方に。左手に『JERA 川越火力発電所』の煙突が。前方に夕焼けを背景に『富州原橋』が姿を現す。そして車窓から日没の絶景を楽しみながら『近鉄四日市駅』前のホテルに向かったのであった。ホテルにチェックイン後に、近鉄四日市駅前のイルミネーション散策に向かう。青とオレンジのLEDによるイルミネーションが美しく迎えてくれた。駅前の様々なデザインのイルミネーションを楽しんだのであった。『躍進』と書かれたモニュメント。頭には帽子を被っており、右腕のところに縄かタオルかなにかを引っ掛けていた。ちなみに裏には説明書きがあったのだが、「此の青年像は躍進する四日市の将来を象徴し産業安全を祈念するものである」と書いてあった。更にイルミネーアションを楽しむながらの散策。『祝 東京2020オリンピック出場』の横断幕が。019年9月15日のマラソングランドチャンピオンシップに出場、最終盤まで大迫傑(ナイキ)、服部勇馬(トヨタ自動車)と激しく競り合う中から抜け出し、1位でゴールし2020年東京オリンピック男子マラソン日本代表の切符を獲得したここ四日市市出身の『中村匠吾』選手。そして2019年6月の全日本選抜選手権では53kg級決勝で世界チャンピオンの奥野春菜を2-1で破って、世界選手権代表に選ばれ、世界選手権では決勝で北朝鮮のパク・ヨンミにテクニカルフォール負けを喫して2位にとどまったが、メダルを獲得したことにより東京オリンピック代表権を獲得した四日市市出身の『向田真優』選手。ホテルへの帰路。四日市市の汚水管マンホールの蓋上部は四日市港と石油コンビナート。下部には、姉妹都市のオーストラリアのシドニー市のコアラと、中国の天津市のパンダのカラーデザイン。 左右に鍵穴、受枠に溝ありタイプこちらは再び安藤広重の「東海道五十三次」四日市宿のカラーデザイン。そしてホテルの部屋に戻り、二人でこの日の反省会と翌日の『旧東海道を歩く』の予定を打ち合わせ。そしてアルコールも十分入り爆睡したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次近鉄四日市駅から近鉄名古屋線を利用して桑名駅に向かって戻る。桑名駅前のホテルの駐車場に戻り車に乗り込み東岡崎の向かって進む。国道23号線を利用して、木曽川大橋、揖斐川大橋を渡る。ひたすら国道23号線・名古屋港近くの高架を走る。西の空には夕焼けが。助手席から夕焼けの刻々の変化をカメラで追う。そして旅友Sさんの巧みな運転で東岡崎駅近くまで戻る。乙川に架かる名代橋から岡崎城のライトアップを車窓から。乙川沿いのオトリバーサイドテラスを車窓から。そして再びライトアップされた岡崎城天守を。乙川の川面も灯りに映えて。そしてこの日のホテルに1日ぶりに戻ったのであった。そしてこの夜は「ルーマニア・ブルガリアの旅」に同行されお世話になったここ岡崎に在住の旅友K.さんと久しぶりに合流し反省会。いつもは「世界の山ちゃん」だがこの夜は「メリケン 東岡崎」にて暫し旅行の想い出話を。そして翌日も、早朝起床して『小原の四季咲き桜』👈リンク、『香嵐渓の紅葉』👈リンク を楽しみその後帰宅の途についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.02.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を進むと森源八酒店のところで左にカーブし、その先で国道1号線に合流した。森源八酒店は、江戸時代には夫婦鈴という土鈴を造っており、「鈴屋」 と呼ばれていた。明治に入って酒造業に転じ、昭和56年(1981)まで酒造りが行われたが、現在は酒の販売店になっていた。国道1号線に合流し右に進む。はんこ焼卸『谷口商店』の店先にはタヌキやフクロウの置物が「超特価 売りつくし」販売中。日本橋から393km、400kmまであと7km。サルビアの花がデザインされた四日市のマンホール蓋のカラー版。右手のガソリンスタンドENEOSの角に大正12年(1923)の道標が建っていた。道標には、正面に 「右 桑名 ・ 左 四日市 道」裏面に 「羽津四區除雪記念」 と刻まれていた。左面に 「右 四日市 ・ 左 大矢知 道」。『金場町』交差点を通過する。四日市市の下水マンホール蓋は「東海道五十三次」宿場町「三重川」の図をデザインしたもの。そして旧東海道は『多度神社』前で再び国道1号線と別れて左斜へ。『元三大師道道標』国道1号線の左側を進んで行くと、左手に分岐する旧道口があり、この旧道口のところに大正4年(1915)の道標が建っていた。道標には、正面に 「国宝元三大師道」、右面に「垂坂山観音寺是より二十三丁」 と刻まれている。これは此処より直線で3.5㎞程北西に進んだ垂坂町にある観音寺への道標であるのだと。『多度神社』元三大師道道標から旧東海道に入って直ぐ左手に多度神社が。多度神社は、明治18年(1885)多度大社(桑名)より分霊を祭祀し、産土神として奉斎したものであると。『第六十二回神宮式年遷宮 奉献記念』説明板。『多度神社拝殿』。さらに旧東海道を『海蔵川』の堤防に向かって進む。見事な紅葉が民家の庭先に。『多度神社』の先で『海蔵川』に突き当たるが、その手前に旧東海道 『三ツ谷の一里塚跡』碑が。「三ツ谷の一里塚跡前半略・・・・東海道の三ツ谷には、かつて一里塚があった。しかし、その場所は昭和二十年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。「東海道分間之圖」(元禄三年(1690)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されている。そこで、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚とし、石碑を建てて後世に伝えることにした。」『東海道分間之圖(部分)元禄3年(1690)』の絵のようだ。橋の袂から、海蔵川の土手の左側にある『三ツ谷の一里塚跡』石碑と解説板を見る。そして『二級河川 海蔵川』を渡る。『海蔵川』は、三重県北部を流れる河川。二級水系の本流である。幹線流路延長としての法定区間は18.7kmにおよぶ。三重県三重郡菰野町に源を発し、三滝川とほぼ平行に四日市市を流れ伊勢湾に注ぐ。支流に竹谷川がある。『海蔵橋』を渡る。護岸は工事中。海蔵橋の渡り詰めで左に折れて旧道に復帰すると、更に右への急カーブが。萬古焼(ばんこやき、万古焼)キャラクター「ポツターくん」の道標。萬古焼は、陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される。三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年(昭和54年)1月12日から伝統工芸品に指定されている。その耐熱性の特徴を活かした紫泥の急須や土鍋が有名であり、特に土鍋の国内シェアは約8割を占めるとのこと。四日市中心部に向けて更に旧東海道を南下する。『法泉寺』。右手に浄土真宗本願寺派の法泉寺があった。『本堂』。法泉寺の創建年代等は不詳であるが、明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府方の桑名藩主松平定猷の嫡子定教は、ここ法泉寺に幽閉されたと。『三滝川』に」向かって進む。そして『三滝橋』に到着。三滝橋は、江戸時代、東海道を往還する人馬で賑わう土橋であったが、明治10年(1877)に板橋に架け替え、さらに大正13年(1924)に鉄構橋に改築された。歌川広重の描いた『東海道五十三次之内 四日市 三重川』は、この三滝橋あたりだと言われている。三滝川上流域を見る。直ぐ上流に国道1号線の四日市橋が架かり、遠くに鈴鹿山脈が見えた。「三滝橋四日市市街の中央部を東流する三滝川に架かる橋。江戸期は東海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架け替え、さらに大正13年6月、鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)に改めました。近世までに何世紀にもわたって市の文化や生活の中心地でした。」『三滝橋』の歩道には七夕祭りの山車が描かれていた。こちらは『織女星』。こちらは『牽牛』。下流域の先には四日市工業地帯の煙突やプラントの姿が。「東海道 ここは四日市」と書かれた幟で「こにゅうどうくん」が迎えてくれた。『なが餅笹井屋』。三滝橋を渡ると四日市宿に入り、直ぐ左手に天文19年(1550)創業の笹井屋があった。「なが餅」 と呼ばれる名物餅は、初代彦兵衛氏がここ勢州日永の里に因んで創ったもので、伊予今治藩主で、後に伊勢津藩の初代藩主となった藤堂高虎も足軽の頃、永餅の美味しさに感動し、「武運のながき餅を食うは幸先よし」と大いに喜んだと。『帯や脇本陣跡』。街道に戻って進むと、右手に近藤建材店があった。ここは、かつて『帯や脇本陣跡』があった場所であるが、現在、標柱や解説はどこにもなかった。『問屋場跡』近藤建材から3~4軒先に福生医院があった。ここは、かつて『問屋場』があったところであるが、現在は『東海道四日市宿資料館』になっていた。『東海道四日市宿』「ここは東海道四日市宿です。この場所に、「問屋場」がありました。四日市宿は東海道五十七次の43番目の宿場です。幕府直轄の天領であり、代官所(現:中部西小学校)が置かれていました。」内部に入ると、ボランティアのオジサン、オバサンが椅子に座らせてくれし暫しの雑談を。お茶もご馳走になりました。再び館内には『東海道五十三次之内 四日市 三重川』が。強風に葦がなびき、合羽の裾が翻す旅人と、飛ばされた笠を追う旅人が叙情的に描かれています。動きのあるこの図は、東海道五十三次のなかでも秀作として評価の高い作品です。この絵は四日市宿の近くを流れる三重川(三滝川)のあたりの様子で、二人の旅人の様子や柳枝のしなり具合からも、この地方の風の強さがわかります。ここは四日市でしたが『連鶴』が展示されていた。一般に千羽鶴というと、「折り紙で1羽の鶴を千羽折り、糸などでつないだもの」をいいます。桑名に伝わる千羽鶴は、「1枚の紙に切り込みを入れるだけで連なる複数の鶴を折る」独特の「連鶴」なのです。桑名市では「連鶴」を「桑名の千羽鶴」として、市の文化財に、折り方・技術を無形文化財に指定して保護育成を図っているのでしたが・・・ここ四日市にも。そしてボランティアの方々と記念撮影し『東海道四日市宿資料館』を後にする。そして更に通りを二つ越えた右手に黒川農業商会があった。ここは、かつて『黒川本陣』があったところであるが、黒川の名は有るものの標柱や解説はここにもなかった。黒川農業商会の先で国道164号線を横断して進むと、変則十字路の角に『道標』が。 この『道標』は、札の辻(問屋場跡近くの今の伊藤皮膚科医院の角)に建っていたものを複製したもので、正面に 「文化七庚午冬十二月建」、右面に 「すぐ京いせ道」、左面に 「すぐ江戸道」、裏面に 「☞京いせ道☜ゑどみち」 と刻まれていたのであった。旧道はここからこの先の諏訪神社へと斜めに続いていた。『旧町名 南町』の傍示石が隣に。「東海道と港へ通じる東西道路の交差する四つ辻の南に位置した市場であることから弘治・永禄年間(1555~1570)に南市場と称された。江戸時代には宿場町として栄え、寛文三年(1663)には町名が南町と改められた。問屋や脇本陣、飛脚などとともに多くの旅籠が集中し旅籠町とも呼ばれた。その後、東西に新開地として広がった。」国道1号線に出る。四日市市の下水マンホール蓋。四日市市と友好姉妹都市のロングビーチ市、シドニー市及び天津市の代表的な動物等をデザインしたものであると。そして国道1号線を渡り、再び旧東海道に入る。アーケード手前を右に折れ『諏訪神社』に向かう。二の鳥居を潜り境内に入る。このにも『東海道五十三次之内 四日市 三重川』が。「当諏訪神社は鎌倉時代の初め建仁2年(1202)信州諏訪神社の御分霊を此地に奉遷しましたもので四日市開拓以来の氏神であります。」『御神馬像』。『拝殿』。『山津見神社』と石鳥居。『政成稲荷社』の朱の鳥居が並ぶ。扁額『政成稲荷大神』。『天神社』と石鳥居。『誓之御柱』。昭和6年実業家 村山清八が市民壇や国旗掲揚塔と共に寄付した建造物であると。周りに五箇条の御誓文が書いてあるのだと。そして折しもこの時は、『四日市よさこい祭り~やったろ舞~』が行われていた。ここ諏訪公園の会場では、公園内ステージと噴水まわりとその間の通路をセットで使い、ステージで踊り通路で流し噴水で円になり・・・と元気に激しく。しばし若者の激しい踊りを楽しんだのであった。そしてアーケードを通り四日市駅に向かう。駅前の通路でも。もっと見ていたかったのだが・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次常照寺を出ると旧東海道のT字路突当りに、『新設用水道碑』と『力石』が。『新設用水道碑』「新設用水道碑明治35年(1902)頃より大字茂福地内の耕地整理事業が行われ、十四川の改修工事に伴い茂福町へ流れる水路が無くなり、東茂福町の水田に水が入らなくなりました。そこで此の碑より北西に十四川の中間より(7町)760mの暗渠による水路を通し各家々の敷地内に(マンボ)を設置して、明治37年(1904)8月完成より、大正・昭和中期まで、生活用水・防火用水として利用をしていました。しかし、東茂福の水田地帯に国道1号線の開通に伴い水田は埋め立てられ、その後昭和34年(1959)伊勢湾台風の水害により暗渠に土砂が流れ込み、 また水源地の十四川の環境悪化のため、此の用水道は消滅しました。」『力石』が大小2個。「力石の由来明治の中頃、この村にある二ヵ寺の御堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。 また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。その節、土台石の中よりこの石を選び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられている。その後、茂福地区の青年若衆が大正の終わり頃までこの石で力比べをして競い合ったと言う。およそ32貫(約120㎏)を肩越しまで担ぎ揚げた人は幾人もいなかったといわれる。 茂福町においては、この由緒ある力石を健康長寿の石と名付けてここに保存することにした。 石に32メと刻まれている。 下にある小さな石は重さ5貫(約19㎏)で子供用であろうか。 」突き当りを左折し進み、次は右折に。直ぐ右にクランク状に曲がると、右手に浄土真宗本願寺派の『林光山 證圓寺』があった。「林光山 證圓寺当寺は、天台宗であったが、天文(1532~55)のころ住職が浄土真宗本願寺の第十世證如上人に帰依して改宗したと伝えられている。その後、永禄十年(1567)、茂福掃部輔盈豊が滝川一益に謀殺され、茂福城が落城するや、臣林玄證は盈豊の遺子(当時二歳)を敵より隠しひそかに鍋坂の村中に逃れて養育し、成人の後、我が娘と娶わせて家督を譲った。遺子すなわち林三郎左衛門盈景およびその末葉は茂福證圓寺住職になる。境内には、開法蔵があり、一切経を初め多くの経文が収蔵されている。また、仏足跡や親鸞上人像が見られる。境内には古木多く、緑の松、黄色の銀杏、紅の紅葉と秋の彩りはみごとである。」『山門』。『いつの間に昨日はすぎて今日もまたくれんとすいりあいの鐘』と書かれた境内の石碑。我が心境に同じか?鐘は我がカウントダウンの鐘か?『證圓寺本堂』。『親鸞聖人御像』。『鐘楼』。一切経などが収蔵された『開法蔵』。駐車場からの『開法蔵』横の入口。『道標』。證圓寺の左手筋の角に道標が建っていた。道標には、「左四日市」 「右いかるが」 と刻まれていた。道標の建つ筋を北西に2㎞程行くと伊賀留我神社があるのであった。道標の直ぐ先で前川橋を渡ると、右手筋の奥に『茂福神社』が。「茂福神社(もちぶくじんじゃ)祭神 建速須佐男命ほか八柱応永28年(1421)摂津守政平が越前朝倉よりこの地に赴任すると、建速須佐男命と天照皇大神をお祀りした。 祭祀を引き継いだ城主茂福掃部輔盈豊は永禄10年(1567)伊勢長島城で謀殺され茂福城も落城した。その後、盈豊の遺志は受け継がれ祭祀が続けられてきて茂福の産土神となった。 明治42年(1909)鳥出神社へ合祀となり、従来からの祭の日には御神霊を御輿で奉迎し、現在の茂福神社を御旅所として祭りを行ってきた。 昭和25年(1950)鳥出神社から分社、正式に茂福神社として再祀、祭神を旧社に奉還して現在に至る。境内には、鳥居・石灯籠・狛犬・太鼓橋など、石造物が多く奉納されている。 古くは寛文12年(1672)を始めとして明治・大正・昭和と時を追って奉納されていて、この地の人々の信仰の篤さをのばせている。」この神社はズームで『茂福神社拝殿』の撮影のみを。旧東海道にあった『史跡 茂福城跡 ➡330m』との案内板。「近鉄名古屋線の富田駅と霞ヶ浦駅の中間の軌道東側に位置し、城跡を標示する石柱と最後の城主茂福盈豊(みつとよ)の碑が建てられています。この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。また、朝明川上流の保々に城を構えていた朝倉氏は、その同族といわれています。「伊勢軍記」によれば、永禄3年(1560)に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したとあり、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益(かずます)に謀殺されたとあります。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。この時の戦いで茂福城は落城したとされます。昭和52年の発掘調査で、外堀の一部とされる遺構や土器、山茶碗などが見つかりました。」県道64号線・上海老茂福線の高架下の「八田三丁目西」交差点を渡る。『米洗川』の手前右手にひときわ大きな『常夜燈』が建っていた。竿石に 「大神宮」 と刻まれていることから、『十四橋』の先にあったものと同じ、伊勢神宮への導光であろう。『常夜燈』と向き合うように左側にも石碑が。(社)北勢自動車協会による「加藤茂雄」氏の顕彰碑であるようだ。『米洗橋(よないばし)』。『常夜燈』の前を流れる米洗川(よないがわ)に『米洗橋』が架かっていた。米洗川は、天武天皇元年(672)に勃発した壬申の乱の際、大海人皇子が奈良の吉野を離れて伊賀に入り、鈴鹿から三重郡衙(三重郡の役所)に進み、さらに朝明郡迹太川(あさけぐんとおがわ)のほとりで天照大神に戦勝祈願したというが、その迹太川ではないかと言われているのだと。さらに住宅街を南西に進む。『地蔵堂』。米洗橋を渡って先に進むと、八田第一自治会集会所の脇に地蔵堂が建っている。地蔵堂の前には、『真誉法願上座碑』が建っており、地蔵堂の横の空き地奥には『伊勢国八幡神社碑』が建っていた。『伊勢国八幡神社碑』ここは伊勢国八幡神社の跡地であり、八幡神社は明治41年(1908)に志氏神社に合祀されたと。「八幡地蔵堂と旧八幡神社 この地蔵尊は、金場の地蔵尊と同じ一つの石から造られた兄弟地蔵で羽津村の北入口に置かれた結界地蔵である。江戸時代には、旅人が道中の安全や延命を祈願していくようになり、いっしか延命地蔵と呼ばれるようになった。この地蔵は地蔵でありながら、頭は螺髪、手は来迎印を結ぷ阿弥陀如来の姿をしており、仏のことをよく知らない石工が刻んだものと言われている。かつては、米洗川北岸の常夜灯の向かい辺りにあつたか、昭和四年(1929年)に八幡神社址地である現在地に移設された。地蔵堂の前にある石碑は、堂守の真誉師の徳を偲んで建てられたものである。この地にあつた八幡神社は、江戸時代の旅行案内記に 「一国一社にして村名も八幡と称し、皇国六十六拝の一つに数えられているむ拓である」と紹介され、『東西十間、南北五十五問』の広い社地を有する著名な神社だったが、一村一社制により明治四十一年(1908年)に志氏神社に合祀され、旧社地には社名碑だけが残っている。八幡神社の遺品は、八幡鳥居様式の鳥居が志氏神社東口に、石灯篭が東海道沿いの志氏神社一の鳥居脇に移設されて残されている。」扁額『地蔵尊』。堂内部には『八幡地蔵尊』が。『羽津ふれあいマップ』と『羽津地区の見どころ』。ここは「三重県四日市市羽津町」。現在地はここ。羽津地区も静かな街並み。前方に老松が1本。先に進むと街道左手に、『かわらずの松』と言われる名残松があった。松の木の傍らには、『かわらずの松』 案内板が建っていた。「東海道 かわらずの松この松は、樹齢約200年で江戸時代より東海道を行き交う旅人を見守っていたことだろう。 昭和13年国道1号線が出来るまでは、幹線道路として往来が激しく賑わった道路であった。戦前は、この付近の東海道沿いには多くの松が植えられていて、松並木の風景が見られたが、戦後経済の発展に伴い道路の拡幅と松くい虫の被害を受けて東海道の松並木が姿を消した。 現在四日市市では往時の松が残っているのは、日永地区と羽津地区の2本だけとなった。そこで、羽津地区の松を、昔からこの付近の町名が川原須(かわらず)と言われていたので、この松も昔の町名から『かわらずの松』と命名し、いつまでも愛護していきたい。」小さな川に架かる『堀切橋』を渡る。川というよりは水路。名前があるのだろうか?『かわらずの松』の先で『堀切橋』を渡って先に進むと、右手に『志氐神社』の一の鳥居と社標『懸社 志氐神社』が建っていた。ここから北西に350m程進むと小高い場所に『志氐神社』があるのだと。「志氐」の「氐」は「氏」の下に「一」を書くのが正しく、ワープロでは表現できないと諦めたがなんと出来るのであった。『志氐神社』は、垂仁天皇の頃の創建で 「志氐」は天武天皇が皇子の頃、壬申の乱を避け吉野から鈴鹿を経て桑名への途次、迹太川の辺りで伊勢神宮を望拝されたことに由来する。境内には、4世紀末頃築造された前方後円墳がある。冠木門を持つ民家のブロック塀の隙間から中を覗き込む怪しい人物を発見。誰かが通報すれば現行犯逮捕か??「妋石(みよといし)かって東海道は伊勢への参宮者の往来が多く東海道に面した志氐神社第一鳥居の辺りに道を隔てて西側にも大きな石がありこの二つの石は「妋石(夫婦石)」と呼ぱれいます。志氐神社は、イザナギ、イザナミという、夫婦の神様もお祀りされており、縁結び・夫婦円満のご神徳があります.そのことから古書にも「婦女の婚姻を求むる祈願を之になす」と記述あり古来より、東海通を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対妋石をなでて、縁結び・夫婦円満の願いを込めました。」旧家の連子格子。そして50m程先の右手に浄土真宗本願寺派の『初野山光明寺』が右手に。寺標・『浄土真宗本願寺派 初野山光明寺』の隣には、『八十宮御遺蹟碑』が建っていたが・・・。『山門』。境内から『本堂』、左手に『鐘楼』。『鐘楼』。『本堂』。光明寺は、元々は大矢知村青木谷にあって、弘仁年間に空海が諸国を巡回した時に小堂を建てたのが始まりと伝えられている。その後の変遷を経て、天正年間(1573~1591)に京都興正寺の勧めにより高田派から本願寺派に転じたと言われる。『本堂』の透かし彫り。『親鸞聖人像』。『経蔵』。観音像の腰のひねりが魅惑的!!。『旧本堂鬼瓦』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『冨田の一里塚跡』近鉄名古屋線の高架を潜って直ぐ『一塚橋』を渡ると、右手に『冨田の一里塚阯』があったここは江戸日本橋から数えて98里目の一里塚阯。『史跡 冨田の一里塚阯』を正面から。「史跡 富田の一里塚跡昔、街道の両側に一里(約4km)ごとに土を盛り上げえのき等の樹木を植えて旅人の目じるしにしたものが一里塚である。 すでに戦国末期に存在していたが江戸の初めごろから江戸日本橋を起点として五街道を中心に設けられていた。しかし明治以降は、交通機関等の発達によりほとんど取り除かれてしまい、本市においてもその面影をみることができなくなった。 古地図や文献によると四日市には、富田・三ッ谷・日永・采女の四ヶ所にその跡が判明されており、 これはそのうちの一つで日永の一里塚跡とともに県の史跡に指定されている。」ところで『跡/阯/址/迹』の使い分けの基準があるのだろうか?そして『富/冨』は?街道を進むと左手に『八幡神社』があった。「八幡神社祭神 応神天皇「富田六郷氏神記」に「八幡大菩薩は弘安二年(1279)二月十五日、富田地頭佐原豊前守政盛によって、東富田に勧請される」と記されている。これが、富田西町の八幡神社の起こりである。更に「氏神記」には「社地東十六間二尺、南北八間、面積百四十五坪、本村の元標より北の方、字茶屋町に鎮座す」とあり、かつてはこのあたりの地を八幡と呼んだと伝えられている。明治四十二年(1909)鳥出神社に合祀され、社殿址に「八幡神社址」の石碑が建立された。昭和四十年(1965)頃現在の社殿が再建され西町の産土神として戻された。昔は、東海道五十三次富田立場の西端が八幡の森で、昼でも暗く鬱蒼と樹木が繁っていたと伝えられている。現在では当時をしのぶ面影はないが社殿西に数百年を経た椋木の古木が名残をとどめている。また、境内には力石も残されている。」『八幡神社の力石』「八幡神社の力石「力石」は、鎌倉の頃より、江戸、明治、大正と時代を超えて若者たちに愛され継承されてきた。「力石」は豊作の願いと村一番の力持ちの競い合いと仕事士の証としての踏ん張りの精神力、そこに集まった人々の笑いを意味していて「生きる喜びの証」であったろうと思われる。「力石」の中には重軽石といって、願掛け、占いに使われたものもあるが、ここ八幡神社の「力石」は、力比べ体力養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって、健康長寿への信仰を深めたのであろう。しかし、この「力石」も労働の機械化、生活の変化に伴って次第に忘れられ、神社や広場の片隅に放置される存在となってしまった。昔日の人々のこの思を引き継ぎ、ここ八幡神社の神前に捧げ末永く保存することにしたものである。重量 およそ百キログラム「力石」は、ここ八幡神社のほか、北村若宮八幡神社、茂福にも存在する。」旧東海道は住宅街を進む。旧東海道は、このT字路を右に進んで行った。ここにも手作りの東海道標識が。「江戸⇔京都 ここは四日市 楽しい旅を」『道標』街道に戻ってT字路を左折して進むと、右手2本目の筋角に道標が建っている。この道標は明治時代のもので、正面に 「津市元標へ拾里」、「三重県富田町」右面に 「四日市市大字四日市へ壱里八町」、左面に 「桑名郡桑名町大字桑名へ貮里貮拾町・員辨郡大泉原村大字楚原へ四里拾参町貮拾四間」と刻まれている。更に交通量の少ない旧東海道を進む。「キャッスルハイツ富田」前にあった家族像。『わが家がある幸せよ サトウハチロウ』「青空を わが屋で眺める幸せよ 窓から見えてる木立から 小鳥の声さえながれてるこの幸せに包まれて 毎日たのしく行きているそよ風を わが家で受けてるよろこびを 朝でも夜でもこの家に みどりの匂いがしみているこのよろこびは はげまされ いつでもうれしく生きている晴れた日は 我が家で山みる うれしさよ微笑みわすれず 毎日が 心もからだも はずませるこのうれしさが 身にしみて 胸まではずませ 生きている」『道標』富田地区市民センター入口脇に、街道からは頭しか見えない道標が建っている。この道標は、明治時代のもので、大正6年(1917)に再建され、「右 富田一色・東洋紡績・川越村 道」 と刻まれている。『四日市市富田地区市民センター』。ここにも手作りの道標が。『東海道総合案内』。『四日市市立富田小学校』正門。『明治天皇碑』富田地区市民センターの隣に位置する四日市市立富田小学校の校門脇に、明治天皇富田御小憩所阯碑が建っている。ここには公爵近衛文麿筆の明治天皇御駐輦跡碑が建っており、その解説もある。ここにも東海道『道標』が。「明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)跡維新の偉業もようやく成って、明治天皇は江戸を東京と改称された。明治元年(1868)九月二十日、車駕にて京都を出発し東京へと向かわれた。二十四日には四日市に御駐輦、翌二十五日富田茶屋町広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を御賞味になられ、十月十三日東京に入られた。その年の十二月八日、京都へ帰られる途中、十九日に再度五郎兵衛方に御少憩になられた。翌明治二年三月七日、京都をお発ちになり、神器を奉じていよいよ東京に遷都されるとき、三月十五日、またもや五郎兵衛方に御少憩になられた。明治十三年陸軍大演習をご覧になるため県下に行幸になると、七月三日、五郎兵衛方に四度目の御少憩になられた。広瀬五郎兵衛方の敷地は東海道に沿い、現在の富田小学校正門付近から富田地区市民センターにかけてであった。明治天皇御駐輦跡の碑は、公爵近衛文麿の筆である。」善教寺の前を流れる『十四川(じゅうしがわ)』に『十四橋』が架かっていた。「十四川堤の桜並木富田の町を西から東へ流れる十四川堤の両岸一.二キロメートルにわたってソメイヨシノが約八百本植えられています。毎年見事な桜並木となり、満開のあとは桜吹雪となって散る姿にも味わいがあり、花見客で大変賑わいます。この桜の歴史は大正十二年に地元製鋼業を営んでいた伊藤勘作氏ほか有志により植樹したのが始まりで、昭和五十三年には開花ぶりが良いと「日本さくらの会」より全国表彰を受賞しております。現在は桜の名所を守り育て後世に伝えていこうという願いから、富田地区住民により大切に管理しております。」桜の葉も見事に紅葉していた。橋の手前を左に折れ川沿いを進むと大きな寺が左手前方に。 「成徳山善教寺昔、このあたりを海戸尻と呼んだ。そこに、地域の篤き願いの人々の信仰の場、海戸尻道場があった。成徳山善教寺の前身である。寛正のころ(1460~66)東海・北陸地方を布教中の真宗高田派十世真慧上人が当道場に名号・野袈裟と御書を授けられたと、伝えられている。残念ながら当時のものは現存しないが、慶長一五年(1610)同高田派十三世尭真上人より新たなる名号・野袈裟が下付され、今も本堂に祀られている。元和三年(1617)十一月二十八日本山より「善教」の寺号、正徳元年(1711)八月十二日「成徳」の山号が授与され、明和八年(1771)七月七日釣鐘が許可された。本堂は、三代目の堂宇(専修寺如来堂模倣)で、それまでの本堂が築約二百年を経て老朽化した為昭和十年(1935)再建、客殿(書院)を新築した。境内西側の収蔵庫には、国指定重要文化財「阿弥陀如来像」が安置されている。」『善教寺寺標』『国宝 阿弥陀如来立像 真宗高田派 成徳山 善教寺』。『木造阿弥陀如来立像』案内板。阿弥陀如来立像は、像高79㎝の桧材寄木造りで玉眼・漆箔が施されてあり、いわゆる安阿弥風(鎌倉時代初期の仏師快慶の穏やかで優美な作風)の来迎印を結ぶ通形の像である。袖口と両手が後の補修であり、螺髪前両部も少し削り直された形跡があったが、昭和26年8月の修復時に、原状に近い形に戻された。製作年代は、作善日記から鎌倉時代の仁治2年(1241)正月頃と推定されている。像内納入文書は、修復時に発見され、その種類は般若経と阿弥陀経・尊勝陀羅尼・摺仏・作善願文・作善日記である。特に摺仏は、願主藤原實重が嘉禎4年(1238)2月1日から千日かけて摺ったものである。納入状態は、元文5年(1740)、文化9年(1812)、明治5年(1872)の三回に分けて奉納物が取り出されているため、当時の姿は不明である。」『山門』。『本堂』。『鐘楼』。『鐘』境内から『本堂』を見上げる。旧東海道に戻り『十四橋』を渡ると右手一本目の筋角に天保10年(1839)の『常夜燈』が建っていた。桑名川口から伊勢までの街道に有る常夜燈は、伊勢神宮への導光と考えられていると。 「常夜燈常夜燈は神に捧げる灯である。神社の境内にあるときは献灯であろうが、町の中や街道で見る常夜燈は、それぞれの意味をもっている。桑名川口より伊勢までは、神宮への導光であろうと思われる。碑表には「常夜燈」と刻まれ下に「氏子中」とある。碑陰(裏)には「天保十己亥年」(1839)とあり昔を伝えている。この、常夜燈の小さな灯が、明るく感じとられて、淋しい夜の街道の旅人をどんなに勇気づけたことか。雨の夜、風の夜、絶え間なくこの灯を守りした人々の心意気を感じて、この灯篭を見つめてほしい。今一基、中町にあった常夜燈は鳥出神社に移されている。」街道沿いの旧家の前を進む。その先『薬師寺』の山門手前の道路脇には巨大な石碑群が。『薬師寺』の『山門』。石仏が並ぶ。「薬師寺五十一代平城天皇の大同年間(806~10)の頃、このあたりに百薬に手を尽くしてもなお治らない疾病が流行し諸人は大変苦しんでいた。このことを東国の旅の途中に知った弘法大師は、ここに足を止め、薬師如来を彫り、開眼した。すると、たちまち夕立の雲の晴れるがように諸人の難病は平癒していった。諸人は弘法大師に感謝するとともに、城山にお堂を建てて、この薬師如来を祀ったという。その後、茂福(もちふく)城主朝倉下総守盈盛(みつもり)は、ここを菩提寺として、大伽藍を建立し、報乳山洪恩寺と号したが、永禄十年(1567)に、滝川一益の兵火にかかって焼失した。このとき本尊は自ら火中を逃れて、門前の松に避難され光明を放っていたのである。諸人は再度の奇跡に深く感じて、翌年現在地に草庵を結び本尊を祀った。その後、桑名船場町の十念寺の芳誉上人によって、再建されたと伝えられている。現在、本尊薬師如来は秘仏として扉は閉ざされている。当地唯一の尼寺である。」「薬師寺『本堂』。51代平城天皇の大同年間(806-10)の頃、このあたりに百薬に手を尽くしてもなお治らない疾病が流行し諸人は大変苦しんでいた。 このことを東国の旅の途中に知った弘法大師は、ここに足を止め、薬師如来を彫り、開眼した。 すると、たちまち夕立の雲の晴れるがように諸人の難病は平癒していった。諸人は弘法大師に感謝するとともに、城山にお堂を建ててこの薬師如来を祀ったという。その後、茂福城主朝倉下総守盈盛は、ここを菩提寺として、大伽藍を建立し、報乳山洪恩寺と号したが、永禄10年(1567)に、滝川一益の兵火にかかって焼失した。 このとき本尊は自ら火中を逃れて、門前の松に避難され光明を放っていたのである。 諸人は再度の奇跡に深く感じて、翌年現在地に草庵を結び本尊を祀った。」その後、桑名船場町の十念寺の芳誉上人によって、再建されたと伝えられている。現在、本尊薬師如来は秘仏として扉は閉ざされている。当地唯一の尼寺である。」旧東海道に戻り進むと見事な紅葉が。ズームで。歩道が色分けされた旧東海道を進む。旧東海道を進みT字路に突き当たる手前右手に浄土真宗本願寺派の『光明山常照寺「光明山常照寺天文七年(1538)釈法導によって開山された。寛文年間(1661~73)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派して以来四百余年今日に至っている。本堂は明治四十二年(1909)に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられた。平成七年十一月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われた。境内左側小堂に千手観音像が祀られている。明治十八年、住職大忍のころ矯風会(茂福町内会)より預かったものであるが、百余年を経た今も毎年八月十八日のお参りが続けられている。鐘楼の鐘は昭和二十七年(1952)三月、四日市大博覧会において「平和の鐘」として展示されたものを答辞譲り受けたものであり、池の間には常口の歌「一筋に世界の平和祈りつつつくやこの鐘永久にひびけと」が刻まれている。」『山門』。『本堂』『鐘楼』。『旧本堂の鬼瓦』。巨大な境内の『蘇鉄』。「大寺の 甍の反りや 秋の雲」。鎌倉時代初期の僧である浄土真宗開祖の『親鸞上人御像』。『観音堂』。この観音堂は茂福町内会が管理しているのだと。『観音堂』の『千手観音菩薩』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『伊勢湾岸自動車道』高架を潜り『朝明川(あさけがわ)』に架かる『朝明橋(あさけばし)』を渡る。『朝明川』の上流側は『伊勢湾岸自動車道』が川に沿って走っていた。遠くに関西本線の鉄橋も見えた。橋を渡ると四日市であり、渡詰めの左の小さな公園には、東海道の案内図や力石などが。ここで一休みし、旅友から頂いたバナナと水分を補給。東海道四日市の街道筋案内板。「ここは四日市 東海道 北玄関 松寺」。43番めの宿場町・四日市は松寺➡蒔田➡西富田と続いているのであった。昔の『朝明橋』の写真も。『力石』。「力石この力石は、江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶店「橋南(はしみなみ)のつる」の主・大久保つるが後世に残したものである。石には 「二十七メ」 と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100㎏)と想像される。北勢地方で見かける力石は、その多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家の軒先に保存されていたものである。東海道を往来した旅人や篭かき衆等が休んだおりに余力を誇示するがごとく自慢げにこの石を持ち上げたであろう往時の様子が偲ばれる。またこの辺りの地名を 「茶屋の前」 と称するのは、この茶店に由来するものと言い伝えられている。」公園での休憩を終えて坂道を下って変則十字路に出ると、右手の防火水槽金網に東海道案内が貼ってあり、四日市宿まで9kmとあった。 ここから先は、民家の塀、生垣など所どころに「東海道」 の道標が貼ってあり、IphoneのGoogle Mapを見ることなく歩くことができたのであった。変則十字路を進んで直ぐ右手に『御厨神明社』があった。御厨神明社の創建年代等は不詳であるが、祭神は豊受姫命、大山祇命である。『御厨 神明社』の社標が左手に。『一の鳥居』。『二の鳥居』を潜ると『御厨神明社拝殿』。四日市市のマンホール蓋は四日市市の花となっているサルビアをデザインしたもの。タカハシ酒造の南を通る筋を過ぎると、左手に『松寺の立場跡』があった。当時、桑名宿と四日市宿の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、南は富田の立場があったのだと。「松寺の立場跡東海道松寺の立場跡には昔は大きな榎があり街道を往来する旅人や人足などが、籠や荷物を降ろして杖を立て一休みした所を言う。 公の休憩所のことで茶屋などがあり立場茶屋とよんでいた。 当時、桑名宿と四日市宿の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、南は富田の立場があった。」奥にあったのが『輝子頌徳記念碑』。「輝子頌徳(てるこしょうとく)記念碑解説伊勢国三重郡大矢知村字松寺にて佐藤庄九郎の一女として生まれる。弘化3年(1846)4月4日生まれ。25歳の時に夫が他界。50年1日の如し輝子は教育・裁縫の教育をし、門者千数百人に及ぶと言う(実際には三千人ほどの子弟がいたとも)。大正6年(1917)11月13日病気にて享年72歳で世を去る。翌年3月門人によって碑を建てる。」立場跡から20m程先の右手に浄土真宗本願寺派の『松栄山蓮證寺(れんしょうじ)』があった。『鐘楼』。『本堂』「松栄山蓮證寺当山は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺である。松寺三丁目に建立されていて、阿弥陀如来が安置されている。口伝によれば、四百年位前に、現在地にお堂があり、本堂も二百年位前に建てられたと伝えられる古い寺である。昔の太平洋戦争中に供出された凡(梵)鐘も、地元の篤志家のご尽力により立派に再建された。また、戦争中には学童疎開で寺を利用していただいた時もある。山号は松栄山といい、<松>栄山蓮證<寺>と町名の松寺とは何か関係が有るのではないかと思われる。尚、鐘楼は平成五年・山門は平成六年に再建された。桑名に続く東海道の道すじにある。」蓮證寺を過ぎて暫く旧東海道を進むと、右手に大きな『御厨神明社』社標と『龍王山 宝性寺』寺標が建っていた。様々な手作りの道標が。「龍王山 宝性寺奈良時代聖武天皇が天平12年(740)朝明行宮の際、摩伊多の里に御野立された地で勅願により建立されたのが当寺の創建とされる。創建時は樹木か鬱蒼とした敷地8450坪の中に七堂伽藍の荘厳なお堂が立並んでいたと伝えられる。御本尊としては江州石山寺を開基した良弁僧正による一刀三礼の彫刻になる十一面観世音曹薩像を安置して祀り、長く隆盛をみた。しかし永禄11年(1568)の織田信長の家臣滝川一益の長鳥一揆攻略の戦火に遭遇して焼失した。その後現在地に小堂を建立したが正徳元年(1711)再度の火災により焼失、事保4年(1719)第六代桑名藩主松平忠雅公の寄進によって再興されたのが現在の本堂であり、御本尊とともに蒔田観音と愛称され、今日まで広く信仰されている。」 奥に進むと正面に宝性寺、右に御厨神明社があった。宝性寺は天平12年(740)聖武天皇の勅願によって創建されたといわれ、もとは天台宗であったが現在は単立で地元の観音堂として信仰を集めている。御厨神明社はここ蒔田村の氏神様である。『奉建立十一面観世音菩薩専祈』と刻まれた石碑。文化11年(1814)の重層の『宝性寺本堂』。『大矢知想像絵地図』。街道に戻ると直ぐ右手に浄土真宗本願寺派の『長明殿長明寺』参道が。この地は文治年間(1185-90)に蒔田相模守宗勝が居城した蒔田城址といわれ、境内は濠と築塀に囲まれて、参道正面入口に文化3年(1806)に築造された『参詣橋』が架かっていた。そしてその先には、桑名城より移築された長明寺『山門』が。山門に掛かる『長明殿』の扁額。『本堂』。「朝明殿 長明寺当寺は浄土真宗本願寺派の寺である。創立年代・開基など不明であるが、寺誌によれば、もと真言宗潮音寺と称し、近郷の喜田村(現三重郡川越町豊田)に字長恩寺があり、この地を当寺の旧地と伝える。文明十七年(一四八五)画像本尊を下付されたというから、この頃に真宗に改宗したのであろう。下って、慶長九年(一六〇四)現在の寺号を公称し、寛永元年(一六ニ四)に木仏の許可を得て寺院化したようである。のち慶安四年(一六五)領主松平隠岐守より現在の寺地を賜わり、翌年に寺基を移し今日に至っている。境内は落と築堺がめぐり、参道正面入口に文化三年(一八〇六)に築造された参詣橋が架かり、その奥に昭和初年に建立された山門が建つ。山門をくぐると、正面中央に、昭和三一年(一九五六)再建された入母屋造の大規模な本堂がある。山門左脇に建つ桜はす誌では延宝年間(一六七三~八〇)に建立したと伝える。」「蒔田館(城)寿永年間(一一八二~一一八五)に、伊勢平氏の一族の平家資が、富田館と同時期にこの地に築城。四方を素掘りの堀で囲み、外堀は南の鏡が池まであった。平氏が壇の浦(一一八五年・山口県)で滅亡すると、源頼朝は各地の平氏掃討を行い、鎌倉幕府方の大内氏に攻められ富田館・蒔田館ともに落城する。その後、この地は後白河院の領地となり、都より守護職として、藤原宗勝が蒔田に居館し、蒔田相模守宗勝と名乗る。宗勝は深く仏教に帰依し、この地にお堂を建立し、長明寺の基となる。現在、宗勝のお墓は、西富田の三光寺本堂南側にある。戦国時代になると、蒔田城として萱生城の春日部氏の一族である春日部家春が城主となるが、永禄年間、織田信長の北勢侵攻で本家萱生城とともに降伏、帰順した。」桑名城より移築された山門脇には延宝年間(1673-80)に建立した『鐘楼』。帰路に『参詣橋』から濠と築塀を見る。『長屋門』長明寺を過ぎると蒔田信号交差点の手前左手に長屋門の大きな屋敷があった。『鏡ヶ池跡』蒔田信号交差点を渡ると左側の二軒目の民家前に鏡ヶ池跡が。聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ち、 ちょうど傍で洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げた。これが縁で天皇はこの田村家に宿をとられたという。『聖武天皇 御遺跡 鏡ヶ池』と刻まれていたのであろうか。「鏡ヶ池(笠取り池続日本紀』によると、聖武天皇は、奈良時代の天平十二年(七四○)に伊勢国を行幸になり十一月に一志郡河口をたち、鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て、 二十三日に朝明郡の頓宮に着かれたとる。 その場所の所在は不明であるが、当地近辺であり、松原町のもと松原姓を名乗っていた旧家田村氏宅に伝わる話では、 聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ちた。 ちょうどその時、傍に洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって天皇はこの田村家に宿をとられたという。 明くる朝、旅立ちの日は風もなし、空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。 以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになったといわれる。」鏡ヶ池跡の直ぐ先にJR関西本線の『西富田踏切』が。ここは三岐鉄道の高架の下をJR関西本線が交差し、そこを東海道が通る珍しい踏切なのであった。西富田踏切を渡ると100m程先、右手に浄土真宗本願寺派の『木下山三光寺』が。『山門』。RC製の『本堂』。三光寺は、この地を治めた蒔田相模守宗勝が没した後、子々孫々その菩提を弔い、11代正了の時、蓮如上人の教理にふれ、一宇の坊舎を建立したのが始まりと言われる。享保3年(1718)に建立された堂宇は安政大地震により崩壊し、その後再建された堂宇は昭和37年の火災で焼失し、現在の堂宇は昭和47年に建立されたものである。「木下山 三光寺当寺院は浄土真宗本願寺派の寺であり、山号を木下山と称し、平安時代末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑のある寺として知られている。承久3年(1221)法名を祐善と号した宗勝が示寂し、時の富田郷木下にあった江戸報徳寺(真言宗)の分地に埋葬された。子々孫々その菩提を弔い、11代正了の折り、真宗八代門主蓮如上人の教理にふれ、一宇の坊舎を建立したのが、この寺院の開基と伝えれている。江戸徳川氏の御代(慶長11年)、長福寺の寺名をもって本願寺の末寺に列し現在地に寺院を建立するも、寺名が時の幕府に忌避され、享保2年(1717)三光寺と改名され、翌年に寺院御堂が建立された。130年後、安政大地震により破壊され、明治20年(1887)に再建されるも昭和37年(1962)の火災により焼失、現在の堂宇は昭和47年に建立されたものである。」『蓮如上人像』。『春日部家之墓』と刻まれた石柱。地元の名士なのであろうか。『蒔田相模守宗勝墓』。『蒔田城』は、文治年間(1185-90)に、『蒔田相模守宗勝』が築城したと伝えられているのだ。『三岐鉄道三岐線と近鉄名古屋線』街道に戻ってT字路を左折して行くと、前方に三岐鉄道三岐線と近鉄名古屋線の高架が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道に入って南下し小川に架かる橋本橋を渡ると、右手に『十一面観世音菩薩』標柱が建っており、奥には高野山真言宗の『雨宝山金光寺』があった。金光寺は、もともと天台宗で、その後真言宗になったと言われている。延宝2年(1673)に現在の公民館縄生分館の辺りに小堂が建てられ、本尊十一面観世音を祀ったが、寛政年間(1789-1800)に現在地に移った。本堂の裏には貞享2年(1685)に亡くなった中興開山 「良弄律師」 の墓があるとのこと。高野山真言宗の寺、『雨宝山 金光寺(うほうさん こんこうじ)』。三重県三重郡朝日町の汚水管マンホールの蓋町の木・シラウメと上部に町章。「おすい」の文字。朝日町にある『桔梗山 真光寺』が右手に。『山門』。「真光寺浄十真宗本願寺派。山号を桔梗山という。大同二年(八〇七)、最澄が天神山の西北、お坊ヵ谷に天台精舎として創建、興国元年(一三四〇)に本願寺第三世覚如上人の教化を受けて、浄土真宗に改宗した。明暦三年(一六五七)には、桑名藩主松平定良公が有馬温泉の帰途病死し、町屋川の洪水のため足止めとなったため、遺体を三日間安置した。本堂前にある松平家の梅鉢の定紋入り大手水鉢は、万治三年(一六六〇)に定良の従兄の子定重から、また、鐘撞堂は定重の孫定賢から返礼として拝領した物である。」『本堂』。『親鸞聖人御像』が本堂前に。『袴腰鐘楼』。寺紋であろうか。「丸に一の字に三枚笹」に似ているが。こちらは浄土真宗の「下がり藤」の宗紋。三重郡朝日町縄生水谷タバコ店前の『山口誓子句碑』調べてみると句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ祷りの指を唇に触れ 誓子」と刻まれているのだと。山口誓子句碑から左手3~4軒程先の民家前に『縄生一里塚跡碑』が建っていた。ここは江戸日本橋から数えて97里目の一里塚跡である。『みえ歴史街道 東海道』。三重県内を通る東海道は約45km。海上七里を渡って東海道42番目の宿・桑名宿にはいり、四日市・石薬師・庄野・亀山・関・坂下を経て天下の難所鈴鹿峠へと向かう。 国道工事などで様変わりした所もあるが、関宿など街道の面影を今に残すところもたくさんあるのだ。 【http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/kaidou/rekisi/rekisi1/index2.htm】より『安達本家酒造㈱』が右手に。先に進むと近鉄名古屋線の手前右手に安達本家酒造株式会社がある。安達本家酒造は、明治43年(1910)安達常右衛門氏が創業し、現在で4代続く酒蔵である。代表銘柄に 「富士の光」 「清鷹」 があると。近鉄名古屋線の『伊勢朝日』駅横の踏切を渡る。近鉄名古屋線沿いの歩道にあったのが『古萬古発祥の地 朝日町』案内板。「三重県でも北部に位置する朝日町は、北は町屋川(員弁川)を挟んで桑名市へ、南は朝明川を隔てて四日市市へ、東は川越町を経て伊勢湾に達します。西には標高50m前後の朝日丘陵があり、その東麓には旧東海道がほぼ南北にはしり、それを境に丘陵地帯と田園地帯に分かれる5.99km2の小さな町です。朝日町には弥生時代以降の遺跡が西部丘陵を中心に点在しています。なかでも、昭和61年の発掘調査によってその塔跡が明らかになった縄生廃寺跡は、白鳳時代創建と考えられる寺院跡で、全国的に注目を集めました。塔心礎から一括出土した舎利容器は、平成元年に国重要文化財に指定されました。この町は、日本書紀に「朝明駅」(縄生付近と考えられている)と記述され、壬申の乱(672年)の時には、大海人皇子らが美濃国へたどった道筋にあたります。また、江戸時代には東海道筋として栄えたところでもあります。この町からは、著名な国語学者橘守部、萬古焼を再興した森有節、日本画家栗田真秀・水谷立仙らが生まれました。」後ろに「TOSHIBA」の文字が、東芝㈱三重工場であった。地図の『現在地』をズームで。ここが東芝㈱三重工場の正門であろうか。踏切を渡ると左手に角に『道標』や『案内板』のある広場が。『ここは東海道』碑。「打興じてなを村おぶけ村にたどりつく。 此あたりも蛤の名物、旅人をみかけて、火鉢の灰を仰立て仰立て女「おはいりなさいまアせ。諸白もおめしもございまアす。 おしたくなさりまアせ」・・・」とは十返舎一九の東海道中膝栗毛の一節です。 ここ朝日は東海道に沿ってできた町です。昔は多くの旅人がひっきりなしに往来していました。「膝栗毛」に登場する弥次さん、喜多さんもそのひとりでした。 道筋には、わらぶき茅ぶきの農家がならび、村はずれには見事な松の並木が見られました。桑名の宿から一里(約4㎞)の地点に位置する縄生村には一里塚もありました。 また、小向村には桑名や富田とならんで焼き蛤を名物として商う茶屋がありました。 火鉢に松かさを燃やして蛤を焼き、店先では大声で客を呼込んでいました。旅籠も数軒あり男達は、「往還かせぎ」といって、駕籠かきや馬方などをしていました。 今は、どこにでもある町並みですが、往時は、たいへんにぎやかな街道風景がありました。ちょっと立ち止まって、昔をしのんでみませんか。」『朝日町史跡案内図』。これが先程見た『山口誓子句碑』の句の内容が判読できる写真。左手の家の前に塚があり、榎の古木が1本立っていた。『榎』 推定年齢 約300余「この木は東海道の並木として植えられていたものです。並木には、松の木がおなじみです。この朝日町地内も同様でした。ところが、こうした雑木に類するものも混じっていました。松は、太平洋戦争末期、松根油をとるために痛めつけられたり、その後の松くい虫の被害などによって、あとかたもなくなくなってしましました。もしこの木が話せたならば、私たちに、この街道や村で起こったことをたくさん語ってくれることでしょう。」『榎』の石碑。上記と同じ内容が書かれているようであった。そして更に旧東海道を南西方向に進む。榎から500m程進んだ十字路右手角に『御厨 小向神社』社評石碑が前方に。社標から北西に300m程進んで、関西本線を渡って右に200m程線路に沿って行くと、左手段上に小向神社があるようであった。関西本線の向こう側にある神社であったのでパス。左手角にあった案内板を見落とすところであった。「三重県指定史跡 橘守部誕生地遺跡橘守部(一七八一~一八四九)は、江戸時代後期に活躍した国学者です。 守部は、伊勢国朝明郡小向村(現朝日村小向)の大庄屋格であった飯田長十郎元親の長男として生れ、十七歳で江戸へ下り学問を志しました。 二十九歳の時、武蔵国葛飾郡内国府間村(現埼玉県幸手市)へ転居し、四十九歳で再び江戸へ戻り、地庵と号しています。 当時、国学者の多くが本居宣長の門人であった中で、ほとんど独学で国学を学び、独自の学説を展開した守部は異色の存在であり、平田篤胤、香川景樹、伴信友とともに天保の国学四大家に数えられています。 『稜威道別』『稜威言別』など多数の著者があり、嘉永二年(一八四九)六十九歳で没しました。お墓は、東京都台東区向島の長命寺にあります。」その先右手が『浄泉坊』。「浄泉坊浄土真宗本願寺派。山号を小向山という。 慶長八年(一六○三)に伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことにはじまる。 寛永十五年(一六三八)に西本願寺より寺号の公称を許された。 徳川家にゆかりのある桑名藩士の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っている。 そのため、参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられる。」『山門』。『本堂旧鬼瓦』には三つ葉葵の紋が。「浄泉坊の由来当坊は正治元年(1199)正治寺として小向の寺山に小向御厨神明宮の別当寺として建てられ、禅宗であった。その後、愛洲宗貫が小向に城を構え、延元4年(1339)に朝明郡の地頭職に補せられて伊勢守を名乗り、この寺を菩提寺として愛洞山と言った。寛正の頃(1460-65)伊勢左衛門尉真弘の末裔が出家して小向坊浄泉と言って正治寺に住み、応仁元年(1467)蓮如上人が関東より帰洛の節、其の教化を受けた。天正の頃、沼木宗喜や飯田庄之助の城が寺院付近に有り、この城を攻めた滝川一益の兵火にかかり焼失した。今も字名に寺山阿弥陀堂の名が残っている。慶長8年(1603)伊勢氏の末裔慶昭が正治寺を再興して小向山浄泉坊と改称し、寛永15年(1683)西本願寺より木仏及び寺号の公称を受けた。山門の扉や屋根瓦に徳川家三つ葉葵が貼ってあり、徳川家に由緒ある桑名藩の奥方の菩提寺であった。参勤交代の大名は、この寺の門前で駕籠から一礼したと言う。現本堂は明治43年の建立であり、今度本堂屋根修復工事を記念して旧本堂の鬼瓦をここに安置せり。」『浄泉坊 本堂』。『鐘楼』境内には様々な石碑が立っていた。『日露戦役従軍者碑』。『明治廿七八年戦役従軍者記念碑』。『???』これも日露、太平洋戦争での全戦没者(戦災、準戦病者含む)183柱英霊を称える殉国之碑なのであろう。そして県道66号線・四日市朝日線の交差点を渡る。県道66号線を越えて進むと、右手に真宗大谷派の『朝明山西光寺』があった。『山門』。「西光寺真宗大谷派。朝明山と号する。 当寺は確実な證跡はないが、現存する絵像御本尊の裏書に、「明應五年丙辰年六月二日 願主釋念正 本願寺釋実如(第九世)判」とあり、 この時(一四九六)をもって開基とし、その後貞享二年(一六八五)大谷派に転じ現在に至る。本尊阿弥陀如来立像 寛永十五年(一六三八)下附絹本宗祖聖人御影 寛永十七年(一六四○)下附半鐘 桑名 広瀬九郎兵衛道次作 安永六年(一七七七)現在の建物は、明治十年~二十三年にかけて建立され、街道に面する松も風雪に耐え、松並木の面影をとどめている。」『鐘楼』。『本堂』。『本堂』にあった透かし彫り。静かな旧東海道を更に進む。突き当りを左に。正面には大きん旧家が。手作りの道標『東海道はこちらでござる』。水田の拡がる、水路に沿った道を進むと『伊勢湾岸自動車道』が前方を東西に横切っていた。『伊勢湾岸自動車道』は、この近くの東名阪自動車道の四日市JCTから東に進んで、名古屋港を横断して新東名高速道路と東海環状自動車道の結節点である豊田東JCTに至る高速自動車道である。朝明川(あさけがわ・昔は朝餉川と称した)の少し手前の右手の道路脇にあった『常夜燈』。弘化3年(1846)建立の多賀大社常夜燈。竿石に 「壽命長久」 と刻まれたこの常夜燈は、元々、朝明川堤にあったものをここへ移したものであると。この辺りから東海道を分岐して滋賀県の多賀大社へ行く道があったようである。『伊勢湾岸自動車道』の下を通過。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次右角に『火の見櫓』があるT字路の交差点を左折し、『火の見櫓』を振り返る。東海道道標の先を150mほど進むと、右手に『神戸岡(ごうどおか)神社』があった。『神戸岡神社舊磧』神戸岡神社の創建年代等は不詳であるが、もとは街道の左手(東)にあり、明治29年(1896)に立坂神社に合祀され、その後、昭和35年(1960)に現在地に移されたと。狛犬の奥には拝殿が。『神戸岡神社』の鳥居の前を奥に入っていくと、右手に『稲荷神社』が。『拝殿』。旧東海道を先に進むと、左手に浄土真宗本願寺派の『桑部山了順寺』があった。『浄土真宗本願寺派 桑部山 了順寺』の寺標が『山門』前に。『山門』は桑部城の門を移築したものといわれているのだと。立派な袴付きの重厚な『鐘楼』『鐘楼』と『本堂』。その前には枯山水の石庭が。『本堂』。了順寺は、桑部城主毛利秀重(織田信長によって落城)の孫の秀元が出家して、元和7年(1621)に創建した。桑部城は、室町時代末期に町屋川南岸に舌状に張り出した低丘陵地の先端部に築かれた城である。帰りに再び『山門』&『鐘楼』を振り返る。日立金属㈱桑名工場の横を進んで行くと右手にあったのが『江場松原跡』。「江場松原跡七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が建ち並んでいたが、江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていた。眺望がよく、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。昭和34年(1959)の伊勢湾台風ごろまでは松並木も残っていたが、現在は家が建ち並び、一本の松も残っていない。」そしてその先、右にあったのが『城南神社』。「城南神社御祭神 天照大御神配祀 豊受比賣命外五柱御由緒 当神社は垂仁天皇の御代皇女倭姫命天照大御神の御杖代として御神慮のまにまに大和の国より日出づる倭寇の国に御巡幸ありし時、御停座の旧地と伝承されております。 桑名の神戸でも伊勢の神宮との御縁故殊の外深い御社であります。 古来神宮式年遷宮ごとに皇大神宮一ノ鳥居及び古殿舎の一部を拝戴改築の古例になっております。」更に進むと『ここは桑名 東海道』と53次 浮世絵の上に。『一の鳥居』。『皇大神宮一ノ鳥居御下賜碑』が手前右に。『乙石稲荷社』。「乙石稲荷社古来、明王院の邸内社で古くは越後高田に御鎮座宝永7年(1710)桑名から高田へ國替えになられた松平越中守の崇敬厚く明王院は守護所を仰せつかり、家中同様のお取扱いを受け、寛保元年(1741)奥羽白河、文政6年(1823)桑名へと越中守に随従、文政6年(1823)桑名柳原 、同12年(1829年)矢田川原、大正3年(1914)安永に御遷座になりました。」『二の鳥居』と『拝殿』。『拝殿』御祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)配神 :豊受比売神(とようけのおおかみ) :保食神(うけもちのかみ) :少彦名神(すくなひこなのかみ) :天目一箇命(あめのまひとつのかみ) :大山津見命(おおやまつみのみこと) :火産霊神(ほむすびのかみ)拝殿の扁額『城南神社』。拝殿の右側には『天照大御神御神幸旧蹟』の石碑。『拝殿屋根鬼瓦 大正4年~平成22年』『歌碑』「手水舎乃 上棟木の香 はつもみじ 斉月」次に真宗大谷派『清浄山 晴雲寺』。『山門』。『本堂』。『鐘楼』。『如来堂』。宗祖である親鸞聖人像。『阿弥陀経』の「倶會一處」の文字が。『山門』を境内から。この『句碑』は?『本堂屋根旧鬼瓦』「この鬼瓦は明治時代中期に愛知県三河の国佐藤正蔵氏によって製造されたものである。昭和60年本堂大修理の際大屋根瓦も新装され。昭和63年4月修理報告、厳修を記念して此処に残し置くものである。」大きな道を横断した先には古い家も残っていて、やがて町屋川北詰へやって来る。右側には立派な『常夜燈』と『道標』が建つ。 『伊勢両宮常夜燈』「有形民俗文化財 昭和46年4月15日指定この常夜燈は、文政元年(1818)に東海道の灯標として伊勢神宮への祈願を込めて桑名・岐阜の材木商によって寄進されたものである。 石工は桑名の根来市蔵とある。 安永は、町屋川の舟運や東海道筋の通行客を相手とする茶店などで賑わった場所であり、この常夜灯は、その頃をしのばせる遺物である。 竿正面 大神宮常夜燈 右面 五穀成就 左面 国家安全 裏面 文政元年寅九月吉日 」『石造里程標』が右に。石造里程標:明治26年建立。「従町屋川中央北桑名郡」「距三重県庁舎拾一里□町余」と刻まれている。端に向かって堤防の上まで進むと『東海道五十三次 町屋橋跡』案内板が。「江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集まっている所)であり、また町屋川の舟運の船着場でもあったので、大いに賑わい、茶店では街道名物の安永餅を売っていた。この地点から対岸の縄生(三重郡朝日町)の間に町屋橋がかかっていた。寛永十二年(1635)にはじめて架橋され、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本のいたばしであったり、しばしば変わっている。下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が待避できるように橋がやや広くなっていた。昭和八年(1933)、国道1号の橋がかけられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。」下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が待避できるように橋がやや広くなっていた。昔はこの先に『町屋橋』が架かっていたのであった。街道に戻ると『道標』も。『町屋橋北』交差点を右折して川に架かる『町屋橋』に向かって進む。橋には『町屋川』と書かれていた。『員弁川(町屋川)』からの下流側の風景。上流側。日本橋から384.7kmと。橋の名は『町屋橋(まちやはし)』。橋を渡るとここは三重県三重郡朝日町。『文学のなかの町屋川と橋』「江戸期の町屋川東海道が渡る員弁川(町屋川)は、江戸期より人々の往来が盛んでした。 文学作品にその様子をみることができます。「一目玉鉾」 井原西鶴 元禄2年(1689)刊桑名宿はづれより、若松の長縄手をすぎて矢田の片町、大福村、やなか村をこして、町屋川小橋有、大橋は160間の土ばし也、縄生村、あふせ村、かき村を行て濱邊はる(か)に玉垣の里、久しき名所也、「東海道名所図会」 秋里籬島 寛政9年(1797)刊 名物焼蛤、東富田、小向の多所の茶店にて火鉢を軒端へ出し、松毬にて蛤を焼き旅客を饗す。桑名の焼蛤とはこれなり。町屋川、尾州小牧合戦、和睦の後、内大臣織田信雄公と豊臣秀吉公と此川原にて対顔ありしところなり。「伊勢参宮名所図会」 蔀関月 寛政9年(1797)刊町屋川 橋の長さ160間、此所より西、正面に近海(江)の山々見ゆ。此西、近海(江)伊勢の境なり。「東海道中膝栗毛」 十返舎一九 享和2年(1802)~文化6年(1809)刊旅人を茶屋の暖簾に招かせてのぼりくだりをまち屋川かな斯打興じてなを村おふけ村にたどりつく。此のあたりも蛤の名物、旅人を見かけて、火鉢の灰を仰立中村古松の句に詠まれた町屋橋中村古松(本名喜三郎 明治34年(1901)ー昭和54年(1979))は、朝日村大字縄生(現朝日町縄生)に生まれて町屋川のほとりに住み、 銀行員、農業を営むとともに生涯俳句を詠み続けた俳人です。 大正10年(1921)俳句結社 「不老会」 を設立し、機関紙 「松の葉」 を刊行しました。通巻六百七十六号に及ぶ「松の葉」には町屋を詠んだ句が下百あまりもあります。昭和のはじめから半世紀にわたって町屋川を見つめ、読み続けた旬からは、変わらない自然と変わりゆく道や暮らしが浮かびあがってきます。その中から橋を読んだ句をいくつか紹介します。風涼し 橋を隔へだてて 町屋の灯(昭和十四年)町屋の橋の 長さを踏んで 月涼し(昭和二十五年)冬日割る 町屋の橋を バス白し「昭和二十六年)靴の破れ 淋しくも朝の 橋が凍てる(昭和二十七年)観光バス 相次ぐ町屋の 橋うらゝ(昭和三十年)冬雲の 流れ町屋の橋に トラック繁く(昭和三十三年)けふうらゝ 町屋歩道の 渡橋式(昭和三十九年)町屋師走 四万台の トリックしげく 昭和四十二年)町屋橋 下おこもの家や 春めける(昭和四十九年)鮎網を 張るを見て侘ち 町屋橋(昭和四十九年)町屋橋 月を背負いて 帰路急ぐ(昭和五十三年)我が写真は解読不能に付き、ネット情報から転記させていただきました。橋には『町屋川』とあったが『二級河川 員弁川 三重県』との表示。「鈴鹿山脈に源を発し、桑名市と三重郡の間を流れて伊勢湾に注ぐ員弁(いなべ)川。その下流部は町屋川と呼ばれています。現在では、桑名市の町屋橋より下流のみを町屋川と称するのが正式のようです。しかし、以前はそれよりも上流の坂井橋より下流部分だったようです。」とのネット情報。こちら側からも『町屋橋』の架かっていた場所を見る。『みえ歴史街道 東海道』。この写真の対角線上に橋が架かっていたのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次さらに桑名の寺町巡りを続ける。『鎮照山 凝念院 光徳寺(ちんしょうざん ぎょうねんいん こうとくじ)』右手に『圓光大師遺跡』碑。「光徳寺浄土宗。古くは泡洲崎念仏道場と称した。明治7年(1874)進善学校(日進小学校の前身)が当寺で開かれた。県指定史跡の沼波弄山墓がある。沼波弄山(1718~77)は桑名船馬町の商人で、万古焼の創始者である。また、大阪の市岡新田を開発した市岡宗栄(1644~1714)や、万古焼継承者加賀月華(1888~1937)の墓がある。」『本堂』。『本堂』の鬼瓦。『光徳寺』を後にし、寺町の旧東海道を更に南下する。『十念寺』の先にあったのが『日蓮宗 妙延山 寿量寺』。「寿量寺日蓮宗。元は今一色付近にあったが、慶長町割の際に現在地に移る。市指定文化財として狩野光信墓、銅磬、日蓮聖人御本尊がある。狩野光信は江戸城の障壁画を描いて、京都へ帰る途中、慶長13年(1608)6月桑名で没した。参道入口すぐ南側の小さな五輪塔が狩野光信の墓である。境内には明治2年(1869)銘の仏足石がある。境内には様々な墓石が並んでいた。そして参道入口のすぐ左側にあった小さな五輪塔が『狩野光信の墓』。『狩野光信の墓 1基』。「材質は御影石、一石で作られた五輪塔で幅18.5cm高さ60cm狩野光信(1565~1608)は、室町時代の狩野宗家の始祖祐勢正信の直系永徳州信の長子で永禄8年(1565)生まれ、幼名四郎次郎、のち右京進、父から画を学び豊臣秀吉、徳川家康に仕え画工として障壁画、天井画の名作を残している。慶長11年(1606)江戸に下向し、慶長13年(1608)6月4日帰洛の途中桑名で病没し、寿量寺に葬られた。戦災後、復興都市計画により道路が墓地を縦断したため、墓所は、現在の位置に移された。」『寿量寺旧大黒殿』。東海道七里の渡しの南方に位置する寿量寺の堂。寿量寺は昭和20年の空襲で被害を受けたが、この旧大黒殿と鐘楼のみが焼失を免れた。建築時期は昭和10年前後と伝えられ、当時桑名で盛んであった大黒天信仰を受けて整備されたものと見られる。もとは大黒天を祀っていたが、現在大黒天は本堂に安置されている。平屋建ての建物で、主体部にはヴォールト屋根をかけ、前方に設けた向拝には簡略化された和風意匠を用いている。鉄筋コンクリート造に寺院建築を導入した貴重な例である。『鐘楼』。「旧大黒殿建築時期:昭和10年頃(1935年頃)建築面積:16m2ヴォールト状の屋根をかける鉄筋コンクリート造りで妻入りとする。正面向拝では、フルーティングを施した角柱に枠肘木を置いて唐破風屋根を受ける近代和風建築として特異な意匠。」「鐘楼宝形鉄筋コンクリート造、柱間上部をアーチで繋ぎ、洗い出して文様をつける伝統的な鐘楼の形態を基調とし、簡略化された和風の意匠とアーチとの折衷を試みた。当地域での鉄筋コンクリート技術を知る上で欠くことのできない建築。」『本堂』。境内の小さな祠と石碑が2本。県道401号線・桑名四日市線との交差点を横断して進む。右手前方に旗が見えて来た。右手に『浄土真宗 本願寺派 大悲山 長圓寺』。「長円寺浄土真宗本願寺派。古くは江場村にあったが、慶長町割の際に現在地へ移る。市指定文化財として、桑名名勝志、久波奈名所図会、桑名の千羽鶴がある。これらは当寺第11代住職魯縞庵義道(1834没)の作品である。桑名の千羽鶴は1枚の紙で連続した鶴を折る、珍しい手法である。境内に大阪相撲の千田川善太郎の(1804没)墓がある。」『本堂』。隣りにあったのが『高竜山 謝徳院 報恩寺』。『本山』。そして日進小学校前の広い道に出るる手前右にあった『東鍋屋町 石取祭車蔵』。県道613号線・福島城南線に合流しここを右に進む。『日進小学校南』交差点を右折し進むと右手に立派な塀の豪邸が。本多忠勝が城建設のため、広瀬氏を招いてここに鋳物工場を与えたという。「広瀬鋳物工場跡江戸時代のはじめ、城の建設などのため、桑名城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いて、ここに工場を与えた。そのためこの付近を鍋屋町と称するようになった。この工場では梵鐘や日用品も造り、鋳物製品は桑名の特産品となった。東海道に面しており、文政9年(1826)にはシーボルトも見学している。」現在は個人の豪邸に。天武天皇を祭祀する全国唯一の神社であると言われている『天武天皇社』。『天武天皇社由来』「御祭神 天武天皇 持統天皇 高市皇子当社ハ壬申ノ乱ニ天武天皇皇后ト共ニ吉野ヨリ潜幸 桑名郡家ニ御宿泊アリシ深キ由緒ニヨリ創立セラル明治天皇御東幸ノ際 当社ノコトヲ聞召サレ特別ノ思召ヲ以テ明治二年六月十四日左ノ如キ御沙汰アリ伊勢国桑名郡本願寺村地内鎮座天武天皇社ハ御旧跡ノ義ニツキ永世湮滅無之様ナサレタキ思召ニ付同所取締中其藩ニ於テ取計ルベキ旨御沙汰候事」壬申の乱の際、大海人皇子臨時の宮をここに置かれたのに由来している神社だと。参道を進む。『拝殿』。創建は天武天皇元年(672年)、天武天皇元年(672年)の壬申の乱に皇后と共に吉野より大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、後年、創建されたというが、具体的な時期は不明と。御祭神は天武天皇(てんむてんのう):第40代天皇、横大路下三栖の産土神、 日本で初めて天皇と称された人物、 「別名]大海人皇子(おおあまのおうじ)持統天皇(じとうてんのう):第41代天皇、女帝、天智天皇の娘高市皇子(たけちのみこ):天武天皇の皇子(長男)『境内社』の『正一位稲荷神社』。次に左手にあったのが、『梅花佛鏡塔(ばいかぶつかがみとう)』。参道口に建つ『善光寺一體分身如来碑』。この奥に『地蔵堂』があり二体の地蔵菩薩が祀られていた。「本願寺当寺の由来は不詳であるが、 江戸時代は本願寺村があり、古くからの巨刹であったと思われます。境内に俳聖松尾芭蕉の門人である各務支考(俳号東華坊など)の分骨供養塔である「梅花佛鏡塔」があります。支考は蕉門十哲の一人で美濃派の創始者であり、美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていましたが、支考が享保16年(1731年)美濃国で亡くなると、桑名の美濃派俳諧の指導的立場にあった雲裡坊杉夫は支考の墓に参詣しやすいよう分骨を受けこの地に鏡塔を建立しました。他に松尾芭蕉の「今日斗り人も年より初時雨」や雲裡坊から続く桑名の俳句結社「間遠社」の歴代社長句碑10基があります。」伽藍等は全く面影さえもないが『本願寺』の境内であったのだろう。梅花佛鏡塔の他10基の句碑。梅花佛鏡塔墓の上部は円形の石で「梅花佛」と刻まれた珍しい形をしていた。(写真右)『梅花佛鑑塔』梅花仏、一名鑑塔は俳聖松尾芭蕉の門人の各務支考(俳号獅子庵、東華坊など)の分骨供養塔である。支考はいうまでもなく蕉門十哲の1人で、美濃派の創始者であり、美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていた。支考は宝永8年(1711)に佯死(ようし)して、住んでいた同国山県郡北野村(現岐阜市山県北野)の獅子庵に自分の墓を建てた。この墓は各務の姓にちなんで、円形の鏡を模しており、鑑塔と称した。支考が実際に死んだのは享保16年(173 1)である。この頃桑名では美濃派の俳諧が流行しており、その指導的立場にあったのは支考の直門の雲裡坊杉夫(別号有権坊)であって、彼は桑名本願寺住職を務めていたと思われる。そして彼は師支考の没後に、その人物を片田舎に埋もれさせることを惜しみ、分骨を受けて北伊勢の門人たちの手により本願寺に鑑塔を建立し、「桑名万句」を編するなどして支考の霊を供養するとともに、東海道を往来する旅人にも参詣させようとしたのである。そしてこの前後に雲裡坊を初代社 長として北伊勢美濃派俳人等を統合し、「間遠社」が結成されて、これが200年後の昭和18年頃、社長は10代まで存続してきていたのである。鑑塔は獅子庵にある鑑塔である。また美濃国本巣郡北方村(現同郡北方町)西運寺境内にも同様の鑑塔がある。銘文は最上壇の円鏡形の正面「梅花佛」、裏面「享保辛亥二月七日」右「東華坊分骨」左「門人小子杉夫建之」最下壇台石の正面「北勢門人等恭建」と彫っている。このようにこの鑑塔は桑名における俳諧史の隆替を 理解する上で大きな役割を果たすものである。なお雲裡坊は宝暦12年(1762)66才で没した。また松平越中守再封後に蕉門雪中派(十哲の1人服部嵐雪の一派)が桑名に移植され藩士を中心に流行したようである。『芭蕉句碑』「今日斗り 人も年よれ 初時雨」次に訪ねたのが右手にあった『一目連神社』。中央奥に拝殿が。一目連神社の御祭神は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)で、大津彦根命の御子神であって天照大神の御孫神にあたる。一目連神社は、我が国金属工業の祖神であり、鋳物及鉄工に関して御利益がある神として知られていると。「一目連神社の由来御祭神は天目一箇命にして大津彦根命の御子神であって天照大神の御孫神にあたらせらる一目連神社は我が国金属工業の祖神である鋳物及鉄工に関する御利益殊に顕たかな神として知られ御神徳のお高い御神であらせらる 鍋屋町は町名の如く鍋屋の多き所にして一目連神社の新興篤く ある日町民が一目連神社に商賣繁盛の祈願をせるに祈祷も終り賽銭をあげたるに不思議にも供酒皿の中に飛びこみたるを見て町内繁盛の御印しなりと深く感激し守護神として神社を建立し御祀りすることになったと伝えらる(今より約百五拾年前) 以来商賣益々繁盛し非常に発展せり 又一目連神社は天変地異ある毎に現に御霊を現はし諸難を救い給ひ時に竜神となりて天翔り干天に慈雨を恵み給うことは廣く世人の知るところにして農業水産の神としての信仰者も多くあり其他不思議なる御利益の伝説も少なからず 月並祭 毎月一日 例 祭 五月五日 例大祭 十月十六日」『一目連神社』の前の角にあった明治20年(1887)建立の『道標』。右手に「左東海道 渡船場道」「右西京 伊勢道」と書かれていた。まだまだ神社仏閣は続いていた。『一目連神社』の先で信号十字路を渡ると、右手に真宗大谷派の『明圓寺』があった。『明圓寺』の創建年代等は不詳であるようだ。『明圓寺』の『本堂』。ラッピングされた鐘が『本堂』の前に。。続いて右手に浄土真宗本願寺派の『教覚寺』があった。教覚寺の創建代等は不詳であるが、境内には天保6年(1835)の手水石があり、鐘楼は戦災で焼失して土台だけが残っていた。『本堂』。『墓地』の角には多くの無縁仏の墓石が。国道1号線『矢田町』交差点が手前に。横断歩道を渡り更に西に進む。次に訪ねたのが『走井山 善西寺』。右に『寺標』と中央に『山門』。『鐘楼』。『本堂』。善西寺の西筋入り口に『懸社 立坂神社』の一の鳥居が建っていた。神社は鳥居から300m程北に進んだところに。立坂神社は、桑名藩主本多忠勝の宗敬深く、以後代々の藩主の保護を受けた。もともと立坂町(東方)に建立されており、矢田八幡社と称していたが、明治以後は式内立坂神社と称していると。その奥に二の鳥居、山門、拝殿の姿が。『矢田立場・火の見櫓』街道に戻るとT字路突当りの右角に火の見櫓が建っていた。ここ矢田町は江戸時代の立場がったところで、ここから左に曲がって福江町に入っても立場が続いていたという。この角には東海道道標も建っていた。「矢田立場・福江町江戸時代の矢田町は、東海道の立場(宿場と宿場の中間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まっている所)であった。「久波奈名所図会」には、「比立場は食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無きなし」とある。福江町八曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成三年に再建したもの)もあった。現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家も見られる。福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引き止めるために、宿屋の人たちが集まっている宿引小屋があった。また西国からの大名などが通行の際には、桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内をした。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『歴史を語る公園』の先には堀に架かる太鼓橋が。京都の『三条大橋』を模した橋。我々の当面の目標地点がこの京都の『三条大橋』なのである。『三の丸堀』を『三条大橋』から見る。歩いて来た『三の丸堀』沿いの旧東海道を振り返る。ここを右折すると右手に『石取会館』。入口には『桑名の石取祭は鉦や太鼓でゴン チキ チン』の石板のついたオブジェ。『石取会館』案内板には『登録有形文化財』のプレートが。「年代:大正14年(1925) 建築面積:168,393㎡ 鉄筋コンクリート造2階建、一部1階建 四日市銀行桑名支店として建築された。その後、昭和10年(1935)に桑名信用組合(桑名信用金庫の前身)、昭和30年(1955)には京町支店として利用された。 内部は平成3年(1991)の改修で、当初の状況を伺えない。 外観は風徐室を設けた以外、建設当時の姿を残しており、北に金庫室を付ける。 東南角を曲面として、縦長の窓を二層に開ける。 南・東面は簡潔で幾何学的な柱形を表し、縦長窓上部には歯飾りを施し、陰影の深い意匠を見せている。『歌碑』。「揖斐の闇 潮さし満ちて 石取の太鼓の響き 狂いて止まず」。そして県道613号線・福島城南線が前方に。其の左角にあったのが『桑名市博物館』。桑名市博物館は、1971年(昭和46年)に桑名市立文化美術館として開館し、1985年(昭和60年)10月1日に三重県初の市立博物館として改組された。 折り上がった「桑名の千羽鶴」も展示されており、有料で連鶴(千羽鶴)を折る体験もできる。その他、桑名藩や松平定信の関係史料、古萬古焼、萬古焼そして浮世絵も展示されていると。見学したかったが、まだ開館していなかった。『桑名市博物館』の前には『東海道』道標が。石取祭の山車を描いたプレートが埋め込まれていた。『道標』「右京いせ道」「左江戸道」とある。移設されたもので元の場所は不詳とのこと。『桑名市観光案内図』。『三重県 電話発祥の地』「明治33年4月1日、桑名吉津屋町に名古屋電話交換局桑名支局が設立され、88名の4お客様により三重県で初めて電話交換業務が開始されました。」そしてこの先の道が旧東海道と思ったが、よくGoogle Mapを見てみると違うことが解り一つ奥の道に引き返す。右角にあったのが『毘沙門天堂』と東海道『道標』。『ここは東海道 桑名京町見附跡付近』。この道を南に向かって進むと、寺町という通りがあり、その名の通り分譲宅地をお寺さんの団体?が買い占めたかと思いたくなるほど寺が並んでいたのであった。人通りの少ない旧東海道を南下する。中央通り手前にあった『道標』「右京いせ道」「左江戸道」。『東海道道標』。『吉津屋見附跡』碑と名所距離案内板。「吉津屋見附跡江戸時代の始めは、この付近は吉津屋町に属しており、東海道上に吉津屋門と番所があって、吉津屋見附と言った。のち鍛冶町として独立したので、鍛冶町門(または小字名の七つ屋門)と言う。ここの道路は四角形の三辺をまわる升形道路になっていた。この升形道路は現在でも使われており、石取祭車が通る道である。」この辺りは旧東海道が右に左に。住宅街を進む。東海道『道標』。旧東海道のクランク。再び右折してさらに旧東海道を進む。右手にあったのが『四宝山 教宗寺』。『本堂』。次に西山浄土宗『瑠璃山 光明寺』。『本堂』。県道613号線・福島城南線の向こう側にあったのが『般若山 法盛寺』。『本堂』とその前の大きな柳の木。境内の紅葉。その隣に『最勝寺』。『本堂』であろうか。そして次に訪れたのが『仏光山 九品院 十念寺』。『桑名七福神 浄土宗 十念寺』。重要文化祭礼屏風絵図(江戸初期 一双)釈迦涅槃絵図(室町初期 一幅)観圣涅槃絵図(鎌倉時代 一幅)桑名義士森陳明翁御墓所(戊辰役)「十念寺浄土宗。古くは朝明郡切畑(現三重郡菰野町)にあったが、室町時代に桑名へ移り、慶長町割の際に現在地に移る。県指定文化財として祭礼図屏風(江戸時代初期の作と思われる)市指定文化財として当麻曼茶羅図、仏涅槃図、森陳明之墓がある。森陳明(1826~69)は明治維新の際に、桑名藩が敗北した責任をとり、藩を代表して切腹した。」『桑名七福神 浄土宗十念寺』「人皇四十代、天智天皇の勅願寺として、朝明郡切畑村に創建され、行基菩薩により興隆す。嘉禄元年(1225)、開山誉阿弥陀佛上人、浄土宗第三祖記主良忠上人と師弟の約を結び浄土宗となる。大永元年(1521)桑名城本丸の地にあり、天正十四年(1586)築城の為、請により泡洲崎八幡宮の東に移り同宮別当を兼ね、慶長の町割に際し、現在地に移る。寛永十七年(1640)七堂伽藍が完成、寛文年中、松平定重公御夫人より書院一棟の寄進あり、塔頭三院と共に、北勢地方中本山と稱せられた。昭和二十年七月、戦災により伽藍焼失、昭和四十三年十一月二十三日、信州善光寺一条智光上人御親修の大法要を修し、寛文以来の伝統行事、七福神まつりを復活し七福堂の建立、二千躰佛の造塔、納骨堂、書院、鐘楼堂、山門などを檀信徒協力して再建す。」『桑名義士森陳明翁墓所』碑。『桑名市指定史跡 森 陳明 (もりつらあき)之墓 一基』。「昭和41年11月22日指定森陳明は、文政9年(1826)6月12日に江戸桑名藩邸で藩士小河内殷秋の長男として生まれましたが、、殷秋の兄森陳功に男子がいなかったので養子となりました。 陳明は、藩主松平定敬(1846~1908)が京都所司代在職中に公用人となりました。 戊辰戦争(1868~1869)では、東京上野で新政府軍と戦ったあと、定敬に付き従い、函館に渡りましたが、その後降伏しました。 戊辰戦争後、新政府から桑名藩は、戦争の責任者を差し出すように命ぜられ、陳明は藩の全責任を一身に負い、明治2年(1869)11月13日、東京深川の桑名藩邸で切腹しました。 陳明の墓は、桑名の十念寺と東京深川の桑名藩主の菩提寺である霊厳寺にあります。 十念寺の墓の正面には、陳明が仕えた松平定敬の手で「森陳明之墓」と記されています。 なお、墓は十念寺境内の西墓所の入口にあります。」『桑名七福神 浄土宗十念寺』山門。『参道』の先に『本堂』。『本堂』。「人皇四十代、天智天皇の勅願寺として、朝明郡切畑村に創建され、行基菩薩により興隆す。 嘉禄元年(一二二五)。開山誉阿弥陀佛上人、浄土宗第三祖記主良忠上人と師弟の約を結び浄土宗となる。 大永元年(一五二一)桑名城本丸の地にあり、天正十四年(一五八六)築城の為、請により泡洲崎八幡宮の東に移り同宮別当を兼ね、慶長の町割に際し、現在地に移る。 寛永十七年(一六四○)七堂伽藍が完成、寛文年中、松平定重公御夫人より書院一棟の寄進あり、塔頭三院と共に、北勢地方中本山と稱せられた。 昭和二十年七月、戦災により伽藍焼失、昭和四十三年十一月二十三日、信州善光寺一条智光上人御親修の大法要を修し、寛文以来の伝統行事、七福神まつりを復活し七福堂の建立、二千躰佛の造塔、納骨堂、書院、鐘楼堂、山門等を檀信徒協力して再建す。」『鐘楼』。『桑名七福堂』。『筆塚』。中央に『行基』上人、左に『弘誉上人』、右に『光誉上人』。『永代供養納骨霊廟』と正面に『阿弥陀仏』。そして裏の道路を隔てた墓地にあったのが『森氏累代之墓』。「桑名市文化財 史跡精忠苦節 桑名義士森 陳明翁御墓所「うれしさよ つくす心の あらわれて 君にかわれる 死出の旅立」は辞世の句。慶應四年 以身贖戊辰役桑名藩君臣之罪乃就死干東京深川藩邸 時年四十四」と刻まれた石碑。『森 陳明之墓』。そして再び旧東海道に戻り『泡洲崎八幡社』。『泡洲崎八幡社の由来』。「御祭神 誉田別命(ほむたわけのみこと) 相殿 天照大神(あまてらすおおみかみ) 相殿 天児屋命(あめのこやのみこと)江戸時代以前、桑野の町中は、町屋川の流れにより自凝洲崎、加良洲崎、泡洲崎の三洲に分かれており、この付近一帯を泡洲崎と称し、當社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。慶長年中(1596~1614)町割の時旧地今の一色町より光徳寺門内北側に鎮守され郷司出雲守を神主として奉仕されていた。明治41年に合祀令が下り桑名宗社に合祀されていたが、昭和二十五年十月十日、新町の産土神として現在地に分祀遷御された。境内に天保十三年(1842)新町北端に建立された導石「右きやういせみち」「左ふなばみち」がある。」。『拝殿』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次桑名市川口町の旧東海道を春日神社方面に南下する。『左 集会所跡 右 問屋場跡』の案内板が左手に。「左 集会所跡 舟会所は宮および佐屋へ渡る旅人のために渡船の手配をする事務所であった。 旅人はこの舟会所に乗船の申込をして料金を支払い、乗船した。現在は跡地は定かでない。」「右 問屋場跡 問屋場は東海道を旅する旅人のために人足や馬を手配する事務所で人馬継問屋場とも 人馬会所とも言う。宿場町には必ず設けられていた。現在は跡地は定かでない。」この辺りが『集会所跡』か?この辺りが『問屋場跡』か?更に進む。左手の路地の奥にあったのが『北大手橋』。『通り井跡』の案内板と路面に嵌め込まれた石。「通り井跡桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の升を開けて、一般の人々が利用した。これを「通り井」と言う。昭和37年(1962)工事のため道路を掘っていて、「通り井」跡の一つが発見された。現在は道路面に「井」と書いた石がはめこまれている。」『井』の文字は??『歌行燈 本店』が右手に。そして『八間通り』との交差点を渡る。渡った先の左手にあったのが『歌行燈』の駐車場横にあった看板。美味しそうな『名物「蛤料理」』。「歌行燈は創業明治10年の老舗。風流うどんそば料理を名乗る伊勢路桑名のうどんやでございます。明治の文豪泉鏡花(いずみきょうか)の名作「歌行燈」のその舞台なるうどん屋の風情を味に残しております。「だし」の仕込み、「天ぷら」は名代の技ものでございます。歌行燈。」そして街道沿い右手に『春日神社の銅鳥居』。とその横に『しるべいし』(志類べ以志)が建っていた。ここは『桑名宗社』で、『桑名神社(旧三崎大明神)』と『中臣神社(旧春日大明神)』の両神社があった。正式には桑名宗社というが、一般に春日神社と呼ばれる。 古来から桑名の総鎮守。 県指定文化財として石取祭、青銅鳥居があり、市指定文化財としては、千姫が寄進したと伝えられる徳川家康坐像、松尾芭蕉真蹟短冊、村正作の太刀および短刀、 千子正重作の太刀、御車祭奏楽、御膳水井、銅鏡及び古鈴などがある。 境内には山口誓子と千葉兎月の句碑がある。「春日神社の銅鳥居三重県指定有形文化財 昭和四十年十二月九日指定この鳥居は、寛文七年(一六六七)に七代桑名藩主松平家重によって建てられました。 この鳥居の前には、初代藩主本多忠勝が慶長七年(一六〇二)に寄進した鳥居(木造)がありましたが、承応二年(一六五三)に大風で倒壊したと言われています。 治工 辻内善右衛門種次(鋳物師) 寸法 高さ六m九○㎝・笠木長さ八m一○㎝・柱回り五七.五㎝ 銘文(表)華表巍巍 惟直惟圜 神威可畏 保定萬年 (裏)寛文第七祀秋八月穀旦しるべいし「しるべいし」は「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まる所に立てられました。 同じものが多度大社の鳥居の横にもあります。 自分の子供が迷子になると、左側面の「たづぬるかた」に子供の特徴や服装などを書いた紙を貼って、心当りのある人が右側面の「おしゆるかた」へ子どもが居た場所などを書いて貼ります。 『正面の「たづぬるかた」(志留べ以志)と右側面の「おしゆるかた 」』『たづぬ留かた(左面)』。そして『桑名宗社』の『随身門』が正面に。『右大神』。『左大神』。随神門の天井。案内板には、教室の黒板の如き数式が。「奉納江戸時代,旅人が七里の渡しに無事着けば、ここから伊勢路の東海道七次が始まります。七里の渡しには「伊勢国一の鳥居」が立っており、東海道から伊勢街道へと続く伊勢参宮街道の起点でもあります.七里の渡しの傍には六華苑があり、7×6=42番目の東海道宿場 町が桑名(九華)で、桑名城跡が九華公園となっています。江戸時代の桑名藩は桑名市史によれば算学が盛んで,桑名藩士 不破梅仙、『大日本数学史」を著した日本最後の偉大な和算家 遠藤利貞のほか、宮崎善之、小川師戻、庭山政勝などの算学者の名が見られます。小川師房は天保9年に、春日神社に算額を奉納しています。一方藩内には数学局が設けられ、藩士、町人の教育に努めたとあります。今次、七に因んだ数学の問題を春日神社に奉納します。1.循環小数に関する分割和2.正七角形調和3.正七華形興味のある方は、ジックリと考えて下さい。私も悩んでみます。石燈籠が並ぶ『参道』。文化11年(1814)の『石燈籠』(手前)と『手水舎』。春日神社(桑名宗社)『拝殿』。左が中臣神社、右が桑名神社で両社で桑名宗社というのだと。左手の『中臣神社』。『金龍桜』『橘』。『社務所/授与所』。『社務所』の脇の境内社を訪ねた。『正一位春日稲荷大明神』の幟が並ぶ。『桑名東照宮』。「桑名東照宮御祭神 徳川家康公御神徳 勝負/美容/良縁成就元和3年(1617)千姫が東照宮を勧請し、徳川家康坐像を祀る。当社は元禄14年2月に焼失するが、火災を免れた神宝は明治初年まで神宮寺に祀られる。其の後、願により呑日神社の境内社として再び遷し祀る。逸話千姫は徳川幕府第二代将軍秀忠の長女であり、聡明さと美貌を兼ね備えた美しい姫君とされます。慶長20年(1615)に大阪夏の陣で徳川軍が豊臣軍を滅ぼすと豊臣秀頼に嫁いでいた千姫が救出されます。江戸に向かう途中.桑名藩主の息子本多忠刻一行が千姫をもてなし「七里の渡し」の船渡しの指揮を執りました.忠刻は武芸の達人で眉目秀麗な美男子であり.指揮を執る忠則の姿に千姫は一目惚れをしてしまいます。千姫は江戸に着くと直ぐに祖父の家康の許しを貰い、翌年桑名へと嫁人りしました。嫁人り直前に家康は帰幽してしまいますが、桑名の地で出会い恋愛結婚を成就させた千姫は家康にまつわる神宝を当社へ奏納し。感謝の意を込めて東照宮を建立しました。千姫と忠刻は仲睦まじい夫婦であったと言われ、本多家が姫路へ移るまで僅か1年ではありましたが幸せな新婚生活をこの地で過ごしたとされます。」『稲荷社』。「春日稲荷神社御祭神 倉稲魂命御神徳 商売繁盛/五穀豊穣/家内安全当社は文政8年(1825)に山城国紀伊郡稲荷神社(現・伏見稲荷大社)より御分霊を勧請し、今日に至るまで桑名市民の篤き信仰を捧げて来た神社である。明治の末より大正の初めにかけて市内各町々に旧来より御鎮座する稲荷神社を同じ社殿に合祀せられ、御神霊も多く信者も広く、あらゆる階級職業の人に崇敬される神社である。以下略・・・・」『皇大神宮』。「皇大神宮分霊社御祭神 天照大御神御神徳 国家安泰/衣食住・産業の繁栄当社は、明治の初年当地北魚町に融通会いう庶民の金融機関あり、その社員一同は祐宮崇敬の念殊に篤く、相謀りて御供講と称うる奉祀の会を結成し、神宮司庁に願い岺て、その頃例の尠きを特に許されて、天照大御神の御分霊を勧請し奉り、春日神社境内の吉方乾の角に浄域と卜し、荘厳なる新殿をしつらえ、明治9年(1867)11月17日御鎮座の式を挙げたる社にして、皇大神宮御分霊社と号し、通俗みたま様と申し上げ奉る。爾来、御供講の母体の融通会所は、桑名銀行と改められ、後又百五銀行桑名支店と遷り変りても、御供講創始者の子係と共に、年々11月15日を例祭日として、祭祀を続く。」『母山神社』。境内の黄葉もエピローグを迎えた銀杏の木とその下に句碑が。『山口誓子句碑』「山車統べて 鎧皇后 立ち給ふ」。『二川のぼる句碑』「山車の燈に 夜は紅顔の 皇后よ」。『句碑』案内板。「いずれも石取祭の山車に立つ神功皇后を詠まれたものです」と。銀杏の葉も境内を黄色く染めていた。『石取祭』のポスター。「日本一やかましい祭り」「天下の奇祭」として知られる、桑名市の春日神社を中心に行われる祭。華麗な装飾を施した30数台の祭車に鉦や太鼓をつけ、それらを一斉に打ち鳴らす音が、見る者を圧倒させる勢いある勇壮な祭りで、桑名の夏の風物詩として、地元の方に昔から親しまれているのだと。開催日は8月3~4日と。『随神門』を境内側から。桑名石取祭りの祭車行司がユネスコ無形文化遺産登録が決定したと。日本時間2016年12日1日(木)2時2分であったと。『東海道五十三次 桑名 七里渡口』。旧東海道に戻って進むと左手にあったのが『歴史を語る公園』の入口。『桑名城城壁』案内板。「正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で、川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約五○○メートルが現存し、市の文化財に指定されている。 積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎの二方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多くみかけられる。 片町に面したところには、出隅、入隅があった。 各所に堀川に向って狭い通路が設けられているのは、明治以後、廃城になってから便宜上付けられたものであろう。 戦前までは南大手橋から京橋裏、それに三之丸立教小学校横まで堀川は続いていたが、終戦直後、またたく間に埋めたてられた。 この城壁には老松が並木を作り、枝は堀へ垂れ、川水は満々と美しく、行き交う荷船で賑わった。」『歴史を語る公園』案内板。「桑名は、東海道四十二番目の宿駅であり、桑名藩の城下町であり、また、木曽三川の河川交通、伊勢湾の海上交通を担う港町でもあった。 その上、桑名は、熱田宮宿に次いで、東海道中第二位の宿数を誇り、一の鳥居を擁す伊勢路の玄関口として、賑わいを見せていた。 このような史実に着目し、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られたのがこの公園である。」ボートが停留する堀には桑名城城壁の一部が。『日本橋』前で旅友が記念撮影。原の先には富士山が。黄葉、紅葉も美しかった。『東海道五十三次 桑名宿』案内板。「江戸時代の東海道は、慶長六年(一六○一)正月に定められ、桑名宿も設けられた。 江戸から約九六里(約三八四㎞)、京都から約三十里(約一二○㎞)であった。 宮宿(熱田)から海上七里(約二八㎞)、四日市宿までは陸上三里八町(約一三㎞)、七里の渡し場から川口町、江戸町、片町、京町、吉津屋町、 鍛冶町、新町、伝馬町、鍋屋町、矢田町、福江町までが桑名宿であり、さらに大福、安永を通り、町屋橋を渡って、東海道が続いていた。 天保一四年(一八四三)調べでは、宿内人口は八,八四八人であり、本陣二軒、脇本陣四軒、旅籠屋一二○軒があった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次八間通りを東に進むと、交差点右手にあったのが『寺町通り』と書かれた木製風アーケード。ここが『桑名寺町通り商店街』。桑名は中世より「十楽の津」と呼ばれ、商人の港町と交易の中心地として発展した。永正12年(1515年)頃の連歌師・宗長の手記では「港の広さが5、6町。寺々家々の数が数千軒、停泊する数千艘の船の明かりが川に映って、星のきらめくように見える」とある。江戸時代には東海道宿場の整備も行われて、伊勢の国、三重県桑名市は東海道五十三次の宿場町(七里の渡し)として栄える。「その手は桑名の焼き蛤」とは、宿場町として栄えた江戸時代につけていただいた「歴史上最高のキャッチコピー」と言える。更に、桑名特産品である「志ぐれ蛤」は、当時、松尾芭蕉の高弟の一人である各務支考が、ここ寺町通り商店街にある本統寺に宿泊の際、「蛤の美味しい時期は11月ごろ」「それは俳句の季語で言う時雨(しぐれ)の時期」ということで「時雨蛤(しぐれはまぐり)」と命名したことが始まりという。幕末~明治期は、豪商諸戸家がおり、その邸宅である「六華苑」は鹿鳴館で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計したものである。昭和に入ると大きな戦争があり、桑名も空襲を受けた。本統寺の「親鸞聖人像」の傘の穴が空襲の被弾を今も物語る。戦後の闇市もたち、そんな時代も桑名の商人はたくましく立ち向かってきたのだと。『通り井』の説明板があった。「桑名は木曽川の土砂が堆積してできたとちであるため、海岸に近い所は昔から水質が悪く、住民は飲み水に苦しんでいました。町屋川や大山田川から水を汲んでいて売る「水売り」の商売が成り立っていたほどでした。桑名藩第4代目の藩主松平定行(1587~1668)は、寛政3年(1626)町屋川の水源から吉津屋御門(現在の吉津屋町と鍛冶町の境目付近)までを、掘って水路を作り、御門から町の中へは地下水路を通し、所々に井戸を設けて住民の用水にしました。この水道は「町屋御用水」と呼ばれ、明治時代まで使用されました。井戸の数は、始め吉津屋に3ヶ、京町に2ヶ、宮通筋に6ヶでしたが、寛永12年(1635)には片町筋に4ヶ、船場に5ヶ新しく設けられ、江戸時代中頃には27ヶ所にまでなりました。現在、町屋御用水の跡はありませんが、江戸町に「井」の印を見ることができます。これは「通り井」があった場所をしるすものです。通り井とは「通り道に設けられていた井戸」の意味です。」正面に赤煉瓦で囲まれた、揖斐川に続く水路(運河)・『住吉入江』が現れた。『住吉入江』の末端は階段状になっており船の乗り降りが水位に関係なく可能なようであった。『住吉入江』に沿って揖斐川に向かって北上する。『住吉入江』を振り返る。『住吉入江』は右手に折れ揖斐川に繋がっていた。旧諸戸(もろと)清六邸の総称、『六華苑』と呼ばれる国の重要文化財・名勝が正面に。六華苑は、二代目諸戸清六の邸宅として大正2年(1913年)に完成した。本苑には、鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計による4層の塔屋をもつ木造2階建て天然スレート葺きの洋館、和館や蔵、池泉回遊式庭園などがある。和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な文化遺産であり、国の重要文化財に指定されている。また、庭園は国の名勝に指定。現在は、一般公開され、人々が語らい、憩い、交流する空間として、また、文化を創出する空間として多くの観光客でにぎわっていると。しかしこの日は改修工事中であった。元は桑名藩の御用商人であった山田長者屋敷が、明治17年に『日本一の山林王』と言われる諸戸(もろと)家当主諸戸清六が購入し、その後は店を兼ねた本邸、御殿や洋館など建築されて拡大していったのだと。『住吉入江』に近い手前の建物は、現在改修工事中であった。こちらが『六華苑 日本庭園 旧諸戸清六邸』(ネットから)薄い青色が目を引く洋館の外壁は、2014(平成26)年に修理と。『重要文化財 諸戸家住宅 保存修理第3次2期工事』松井建設 と。なまこ壁野先には古そうな蔵が並んでいた。古いコンクリート造りの蔵。『諸戸家煉瓦蔵』。『住吉ポンプ場』。そしてここが『六華苑』入口門であったのだろうか。時間はまだ7:40。紅葉も始まっていた。『諸戸家の煉瓦塀の基礎』が芝生の中に。『諸戸家の煉瓦塀の基礎』案内板。福島城南線の下を潜る。ここが『住吉浦』。揖斐川に臨み松林に二基の石燈籠が風趣を添え、特に満潮時の満水に浮ぶ様は、水郷ならではの佳景。その昔この辺りでは、廻船の船溜りで、江戸中期船奉行の歓請で住吉神社が祀られていた。『住吉神社』。境内入口の石灯籠2基は江戸時代の材木商達が寄進したものと。「住吉神社桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用し応広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、木材や米などの集散する自由活発な商業都市として発展してきました。ここ住吉浦は、廻船の船溜まりで、全国から多数の廻船業者が集まっていました。これらの人たちによって航海の安全を祈り、正徳五年(一七一五年)に摂津の国「住吉大社」より勧請してこの住吉神社が建立されました。神社前の石鳥居や石灯篭は江戸時代の材木商たちによって、狛犬は明治中頃に備前・備中や阿波の国の廻船業者たちによって寄進されたものです。近年には、西船馬町にあった「玉重稲荷」が合祀されるなど、桑名宗社境外末社として、一貫して当町がご奉仕しております。なお平成十五年には、ここ輯斐川防潮堤が高潮対策とLて改修整備され応ため、冠殿が新しく建て替えられましたが、以前と同じく元旦には初日の出が鳥居の真ん中から上がることで初詣の人気スポットとなっています。さらに伊勢大橋、多度山方面の眺めは、水郷桑名ならではの絶景の趣があり「七里の渡し」と共に、水郷めぐりの発着点として大いに利用されています。平成二十七年 勧請三〇〇年記念 西船馬町氏子中住吉神社御祭神 表筒男神 中筒男神 底筒男神 息長帯姫命(神功皇后)合 祀 天照大神 明治四十年 住吉町・東太一丸神明社 明治四十年 倉稲魂命(玉重稲荷) 大正十五年例祭日 五月第三日曜日」俳人 山口誓子作「水神に守られ冬も大河なり」碑陰には「昭和四十九年六月 絲遊俳句会」と。『有本芳水の詩碑』「揖斐乃ながれのしがらみに にほいあせたる花うきて 波にうたひて波に去る 可もめよ何を鳴き行く可」大正5年(1916年)につくられた「桑名にて」という詩が彫られているのだと。『拝殿』そして『拝殿』と近すぎる?『三の鳥居』。揖斐川の上流側を見る。『長良川河口堰』。「三重県の長良川の河口部に治水と利水を目的に作られた堰(河口堰)。その建設に当たり、利水や治水の観点から建設を望む声がある一方、長良川の生態系や漁業などへの悪影響などが懸念され、漁協や自然保護団体、日本全国のカヌーイストらなどによって激しい反対運動が起き、建設の是非をめぐる論争が発生した。もともとは工業用水を溜めるために計画されたが、計画が30年以上紆余曲折しているうちに重工業がさして水を必要としなくなったため、洪水防止に名目を変更して建設が押し進められた。本来の目的を失ったにも関わらず計画を中止しない建設省の強硬な態度は、建設省と土建屋の癒着があったからと言われている。」とウィキペディアより。堤頂長:661m 堰高:8.2m。漁船は蜆(しじみ)の漁か?遠く名古屋市の高層ビル群がカメラズームで見えた。『アクアプラザながら』。映像やパネルで長良川や河口堰について学べる資料館。『住吉水門』の建屋屋根が左側に。住吉水門。高潮堤補強工事に伴う排水機樋管を併設した防潮水門。ドルフィンゲートと言う方式で、写真だとわかりにくいが、今は「開」状態。円形の回転体が手前側にもあり、今は屋根状に見える仕切り板をグルっと下に持ってきて「閉」と成る。自分でも分かりにくいので、下に他の河川管理事業のウェブサイトから引用した解説図を載せる。 【https://ameblo.jp/clemonjhonson/image-12442211143-14360960094.html】幅12.5m×高9.05m×1門。住吉水門を渡って、住吉浦を見る。揖斐川下流、長良川との合流地点が見えた。七里の渡跡の鳥居が見えた。七里の渡跡から蟠龍櫓と鳥居を見る。蟠龍櫓をズームで。七里の渡跡の大鳥居。鳥居が建てられたのは天明年間(1781~1789年)と。桑名の商人、矢田甚左衛門・大塚与六郎が発起人となり関東地方を廻って寄付を集めて建立された。当時は、東海道をまたぐように道路上に建っていたと言われている。正面から。『東海道五十三次 七里の渡跡』案内板。「桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約二八キロ)あることから、七里の渡と呼ばれました。 七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(一七八一~一七八九)に建てられました。 七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。 昭和三三年(一九五八)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。 昭和三四年(一九五九)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。 現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は、江戸時代とは異なる表情を見せています。」東海道沿いに走る水路・船溜まりを見る。この水路は桑名城外堀であったようだ。『宝暦治水』。木曽三川流域の輪中(わじゅう)地帯の歴史は、水害の歴史であり、水害がおきるたびに田畑はもちろん、家も流され、家族の誰かが溺れて亡くなっていきました。人々はこうした度重なる水害に対応するため、村を輪中堤で囲むなど個別に対策をとる一方、水害の大きな原因となっていた木曽三川合流を解決することを悲願としてきました。木曽三川は当時伊勢湾の上流14kmのところで合流していましたが、三川それぞれの川底の高さは同じではなく、木曽川・長良川・揖斐川の順に低くなっていたため、水が増えるとみな揖斐川の方へ流れてきてしまったのです。こうした時代背景の中、宝暦3年(西暦1753年)江戸幕府はこの美濃から1,200kmも離れた薩摩藩に、幕府の設計に基づいて、人手・お金・材料を負担して工事を実施するよう命令を出しました。これには、旧高須藩主であった尾張藩主徳川宗勝(むねかつ)が今は実子が藩主を務める高須藩領や尾張藩領、幕府領を水害から守り、さらに雄藩であった薩摩藩の経済力を弱めるねらいがあったと考えられています。薩摩藩ではこの命令に対し、おもだった家臣の全てが集められての会議が行われましたが、意見はまとまらず、むしろ「命令を突き返し、一戦を交えてでも断るべき」という意見が大勢を占めました。そうした中、薩摩藩家老平田靱負(ゆきえ)公の意見は「縁もゆかりもなく、遠い美濃の人々を水害の苦しみから救済する義務はないかもしれないが、美濃も薩摩も同じ日本である。幕府の無理難題と思えば腹が立つが、同胞の難儀を救うのは人間の本分であり、耐え難きを耐えて、この難工事を成し遂げるなら、御家安泰の基になるばかりでなく、薩摩武士の名誉を高めて、その名を末永く後世に残すことができるのではないか」というものでした。これによって、薩摩藩は幕府の命令に従うことを決め、翌宝暦4年(西暦1754年)2月に工事は開始されたのだと。『蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)』が復元され水門統合管理所となっている。歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名城の象徴として蟠龍櫓を描いている。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことで水を司る聖獣、航海の守護神として据えられたものと考えられている。『水門統合管理書』「水門統合管理所の概要管理所周辺は、城跡や名所旧跡・リクレーション施設等が整備された公園として、市民や観光客の憩いの場となっています。揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し、陸側および川側からの眺めを阻害しないよう、堤防上部から突出した構造物をなくして景観に配慮した三つの水門、住吉水門・川口水門・三之丸水門が計画されました。これら三つの水門は高潮警戒時に操作する防潮水門で、安全性・効率性・迅速性を考慮し集中操作できるよう統合管理所を設置しました。 管理所は、かつて桑名城の隅櫓の一つである蟠龍櫓が建っていたところに位置するため、建物の設計にあたってこの櫓の概観復元を目指すこととなりました。伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史資料は限られましたが、絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿になるべく近づけられるよう推定復元しました。4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701)に天守閣が焼失して以降、桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。 蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)についてこのなかでも、川口にある七里の渡しに面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。 歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。 蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644~48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。 蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所絵図」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。 この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。 「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。 龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。 蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。 文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。 ゆへに、海魚住ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。」『三の丸公園』のモニュメント。この先に『九華公園(桑名城跡)』があった。「九華→くはな→くわな→桑名」ということで、「九華=桑名」とは気づかなかったが、長良川と揖斐川の合流地点に当たる桑名城跡の本丸・二の丸一帯を整備して公園化した桑名公園は、七里の渡跡のやや南側一帯である。昭和3年(1928)、楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後百年記念に、桑名町(当時)が桑名城跡の本丸・二の丸一帯を整備し公園にしたもので、園内には、辰巳櫓跡・神戸櫓跡が残っている。伊勢国の東入口を表す伊勢神宮一の鳥居。明治以降は神宮式年遷宮のたびに宇治橋外側の鳥居を削って建て直されている。 1959年(昭和34年)、三重県の指定史跡となった。ここから桑名宿の東海道53次が再び始まるのでもあった。『旧跡 七里のわたし』碑。そしてその左の路地の右手、明治38年創業の老舗料理旅館「山月」の入口下にあったのが「勢州桑名に過ぎたるものは 銅の鳥居に 二朱の女郎」の石碑。桑名の春日神社の青銅大鳥居や、高級な女郎(のいる遊郭)は、桑名には釣り合わないほどである…といった意味であるとのこと。更にその先が『桑名宿大塚本陣船津屋跡』。大塚本陣は、桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で、裏庭から直接乗船できた。建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船津屋」として営業しているとのこと。その先の板塀の中にあったのが『歌行燈句碑(うたあんどんくひ)』。「歌行燈句碑(うたあんどんくひ)かはをそに 火をぬすまれて あけやすき 万明治の文豪・泉鏡花(1873~1939)は大泉原村(現いなべ市員弁町)の高等小学校で講演するため明治42年(1909)11月に来桑、ここ船津屋(東海道桑名宿大塚本陣跡地)に宿泊した。この時の印象を基にして、小説「歌行燈」を書き、翌年一月号の「新小説」に発表した。昭和14年(1939)、東宝映画から依頼を受けた劇作家・久保田万太郎(1889~1963)は船津屋に泊まり、三ヶ月ほどで戯曲「歌行燈」を書き上げた。昭和15年7月に、まず新生新派により明治座で上演され、昭和18年に成瀬巳喜男の監督で映画化された上演・映画化にあたり、万太郎は手直しのため再度船津屋を訪れている。船津屋は当初から格式高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸から「かわうそ」が這い上がってきて悪戯をするという噂話が登場する。俳人としても著名だった万太郎が、船津屋主人の求めに応じてその情景を詠んだのがこの句である。自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本健吉画伯がデザインしたもので、昭和31年6月に建てられた。」そしてすぐに旅友の待つ場所に引き返し、旧東海道歩きに戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は11月24日(日)、近鉄・JR桑名駅前のホテルを7時に出発し桑名の七里の渡しに向かうが、寄り道をすることに。国道1号線を長良川方面に北上。桑名市のマンホール蓋。揖斐川の流れと「七里の渡し」が描かれているようだ。橋は現代の伊勢大橋。こちらは桑名といえば「ハマグリ」。浮世絵-歌川(安藤)広重「東海道五十三次・桑名」の一部のデザイン。駐車禁止の文字が入っていた。そして桑名市参宮通にある『参宮国道』碑に到着。正時代,木曽・長良・揖斐の三大川は渡船に頼っていたようで,ここに橋を架ける運動が進むとともに,「東海道国道」が新しくつくられることになりました。これが現在の国道1号線です.町屋橋から伊勢大橋までの3.87㎞は,昭和6~7年(1931~32年)にかけて,当時のお金で55万円でつくられました。その竣工記念として西桑名町(当時)によって建てられたのが,この参宮国道碑.参宮町の国道1号線の傍らに建っていた。『参宮国道』碑を横から。『参宮国道』碑の裏側。「昭和7年3月竣工」の文字が。『美濃街道』を桑名・七里の渡しに向けて歩を進める。『北桑名神社』手前にあった祠。そして『北桑名神社』前へ。佐乃富神社、中臣神社、太一丸神明社などを合祀し、現社名に改称。右側に社号標が。「持統天皇御舊跡」の石碑が左に。壬申の乱の際、持統天皇が滞在したと伝わっていると。『北桑名総社北桑名神社由緒書』。『北桑名神社』の参道を進む。右手に『拝殿』と『本殿』が。扁額『北桑名神社』。『狛犬阿形像』。『狛犬吽形像』。『境内社』。桑名の千羽鶴のデザインのマンホール蓋。一枚の紙で連続して折れる桑名の千羽鶴として桑名市の無形文化財に指定されている。[千羽鶴の由来] 桑名に伝承されている千羽鶴は、一枚の紙から数羽の連続した鶴を折る独特の連鶴です。これは、江戸時代、長円寺の住職だった魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)によって考案された連鶴で、2羽から97羽の鶴を、一枚の紙に切り込みを入れるだけで繁いでいく方法です。義道のこの折り方は「桑名の千羽鶴」と名付けられていると。そして次に訪ねたのが今中町にあった浄土真宗本願寺派『専正寺』。『山門』と『三竜山 専正寺』の寺号標。江戸時代から桑名は蛤で有名。江戸の文政年間に建てられた蛤に対しての感謝と供養の意を込めた供養塔「蛤墳」が境内にあったた。また長篠城の戦いで有名になった鳥居強右衛門の子孫で、桑名藩に仕えた代々の鳥居強右衛門の墓も境内に。「専正寺真宗本派元正念寺戦後専久寺と合わせて専正寺と称するこの辺りは、江戸時代初期には漁村で、当地名産蛤の貝殻で地面は覆われていました。文政六年この地の住人谷氏が、これら無尽蔵の貝殼をみて、蛤の供養を思い立ち、正念寺の墓地に碑「蛉墳」を建てた。もとはlm足らずのものでありましたが、大正に入り「桑名の蛤」として全国に桑名を宣伝し又商売繁盛をさせてくれた感謝の為、時雨蛤商の業者によって改築されました。昭和四十一年十一月二十二日市の有形民俗文化財に指定されております。」『本堂』。『本堂』内部。本尊は阿弥陀如来。『蛤墳(こうふん)』「蛤墳昭和四十一年士月二十二日指定昔このあたりは漁村で、付近一帯にたくさんの貝殻が埋もれていたので文政六年(一八二三)に今一色に住んでいた谷氏が蛤の供養のために、この碑を正念寺(現在専正寺)に建てた。碑文は、桑名の狂歌師里沢行業(一雲山人)に依頼したものである.行業は国学者・歌人として有名だった桑名藩士黒沢翁満の父。今でも時雨蛤の業者が毎年、供養を行っている。「あまおふね のりのみ声にはまぐりの 貝の耳にもと めてしのばむ」八間通りを東に進む。こちらはマンホールでは無く、広重「東海道五十三次・桑名」のデザインを使ったプレート。上記と別バージョンのプレート。 こちらは船が3艘。左手にあったのが曹洞宗(本山 永平寺 総持寺)『法性山海藏寺』。『本堂』。「天正2年(1574)ごろに創建され、ご本尊は「十一面観世音菩薩」で、宗派は曹洞宗(禅宗)に属し、本山は福井の永平寺・横浜の総持寺であります。旧伝によれば、昔は西方村にあって現在地に移りましたが、その時期は明らかではありません。後年本末改めの際、津の四天王寺より『啅州有暾(タクシュウユウトン)大和尚』を請うて 当山の改組となりました。特に当寺は、徳川幕府のお手伝い普請の『宝暦治水工事』における自害者51名の半数に近い24名の薩摩義士の墓所であります。(3基は明治までに墓碑湮滅、うち1基は平成6年に鹿児島の遺族の子孫により再建され、現在は22基)」『さざれ石』。日本の国歌である「君が代」の歌詞に歌われることで、その名が知られている。ただし、歌詞中のさざれ石(細石)は文字通り、細かい石・小石の意であり、それらの小石が巌(いわお)となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い歳月を表す比喩表現として用いられているのである。さざれ石は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化した「石灰質角礫岩」を、日本の国歌である「君が代」の歌詞にある巌(いわお)であるとして、この岩を指してさざれ石と呼ぶことも少なくないと。『六地蔵』であろうか。薩摩藩士を祀ってる神社には堤防に千本松原が続いている。 枯れた松の巨大な幹がこの様に置かれていた。「千本松原の松の木ここに展示してあります輪切りは宝暦治水工事(一七五四~五五)の際に薩摩藩士が植えたとされる千本松原(岐阜県海津市)に生えていた松の木です。松くい虫被害などにより枯れたため、平成十八年十月に伐採されこの度 国土交通省木曽川下流河川事務所のご厚意により寄贈されたものです。この松の木は現存する中で最も幹が太いものであり千本松原を守る活動を続けてきた人々の間で「守り松」と呼ばれていたものでした。(参考)生きていた時の大きさ 幹廻り約3.52m 樹高約29m」『薩摩義士 墓所』案内板。『寶暦治水薩摩義士之碑』『薩摩義士 墓所』。「桑名市教育委員会指定史跡 薩摩義士墓所 二十四基 昭和四十一年十一月二十二日指定 桑名市北寺町十番地 海蔵寺宝暦年間、木曽、長良、揖斐三大川治水工事 に際し御手伝普請(おてつだいぶしん)に当った薩摩 藩士の工事の難関に処してよくこれを克服したが その間悪疫に紛争にまた重大な工事費の超過 など責任を負って殉職した二十四名の墓所(三名の墓碑は湮滅) である。この二十四名は凡て割腹した藩士ばかりで 中央は総奉行平田靱負(ゆきえ)正輔 (戒名 高元院殿節岑操大居士 宝暦五年五月二十五日没 行年五十二才)の墓碑である。」『薩摩義士墓所』中央部。私のカメラでは1枚には入りきれなかったため、ネットより、」 【https://blog.goo.ne.jp/arai1130/e/81a8e9ac8a11016afab342df5bce10a5】海蔵寺に埋葬並びに墓碑建立、再建された薩摩義士二十四名 右欄 ● 印 は安龍院より改葬戒名 氏名 没日 死因實宗玅真居士本田甚兵衛 宝暦四年九月 九日割腹功外宗勲居士江夏次左衛門 〃 六月 五日 〃 堅心元固居士井出上渡右衛門 〃 七月二十八日 〃 ● 〔正面右側〕荷月良圓居士音方貞淵 〃 四月十四日 〃 以心相傳居士滝聞平八 〃 八月二十九日 〃 ●---------------------------------實田法心居士濱島喜左衛門 宝暦四年八月二十七日割腹實傳要眞居士永吉惣兵衛 〃 四月十四日 〃 桂林智昌居士崎本才右衛門 〃 九月十六日 〃 月庭楚天居士藤崎伊右衛門 〃 七月 八日 〃 本室智空居士川上島右衛門 〃 十月十九日 〃 高元院殿節岑操大居士平田靱負 宝暦五年五月二十五日 〃 ● 〔正 面〕大運玄道居士家村源左衛門 宝暦四年十月二十四日 〃 靑岳徹霜信士同右、下男長助 〃 〃 〃 〃 功岩良節居士野村八郎右衛門 〃 八月十四日 〃 本窓要源居士四本平兵衛 〃 十月 七日 〃 悦岩共忻居士山元八兵衛 〃 十一月二十一日 〃 ---------------------------------瑞應玄的居士鬼塚喜兵衛 宝暦四年十一月二十八日割腹提岩智全居士姓名不詳 〃 八月二十三日 〃 ●鎖定要關居士永田伴右衛門 〃 七月二十六日 〃 ● 〔正面左側〕靑林宗松居士前田兵右衛門 〃 八月十九日 〃 ●達翁宗本居士恒吉軍太郎 〃 八月 五日 〃 ●秋林宗仲居士薗田新兵衛 〃 八月二十二日 〃 ●●青岳徹相信士の墓石は、二百四十年忌(平成六年)の 追悼大法要時に、家村源左衛門の子孫家村美代氏(鹿児島市) により再建される。●即如傅心居士(茂木源助) 高雲青峰居士(永山孫市) 右二名の墓石は二百五十年忌(平成十六年)の追悼供養特別大法要記念に 海蔵寺(二十世代)が再建する。 この案内板は、顕彰奉賛会元会長 加藤勝巳氏の寄贈による。『治水観音』。伊勢湾台風の犠牲者の冥福を祈るものと。「治水観音観音さまは三十三の姿に変身して一切の衆生をお導きヽお救い下さると、古天から伝えられています。宝暦の頃、薩摩義士が治水の大事業を完遂して岐阜、愛知、三重の三県下にわたる三大川沿岸の百万以上の人々の生活を護って下さった行為は全て観音さまの権化と信じます。昭和三十四年の伊勢湾台風では有史以来の五千人余の犠牲者がでました。この度、治水観音と御名を稱(とな)えあげ、ここに安置いたしまして亡き人々の冥福と国土の繁栄をお祈りする次第であります。皆さま、朝な観音を想い、夕に観音を念じて下さい。」海藏寺を後にし、八間通りを東に進むと左手には桑名市消防団の火の見櫓が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年1月19日(日)、『旧東海道を歩く(四日市宿~関宿)』の初日の移動日。四日市に向かう途中に、旅友のSさんが訪ねたことがないとのことで、熱田神宮に立ち寄る。熱田神宮 東門駐車場を目指したが、参拝客の車の大渋滞で諦め、秋葉山 圓通寺の境内駐車場に車を止め、熱田神宮南門に徒歩で向かう。南門にも駐車場への車が大渋滞中であった。南門が熱田神宮の正門である事を初めて知る。熱田神宮 境内案内図。熱田神宮には正門、西門、東門の3つの門があるのだ。解りにくいのでネットから。 【https://hachiki.net/archives/595】より正門の鳥居の手前を左に折れて進むと『上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)』正面に『拝殿』。現在、『上知我麻神社』は熱田神宮の境内にあるが、以前は「ほうろく地蔵」がある場所にあったと。しかし、昭和20年(1945)に上知我麻神社は戦災で消失し昭和24年(1949)に現在の位置へと移ったとのこと。ご祭神は乎止與命(おとよのみこと)。日本武尊(やまとたけるのみこと)のお妃・宮簀媛命(みやすひめのみこと)の父神。社格は、式内社 。上知我麻神社の両脇に、大国主社(おおくにぬししゃ・大黒様)、事代主社(ことしろぬししゃ・恵比須様)がお祀りされている。毎年1月5日はこの両社の祭「初えびす」があり、商売繁盛・家内安全を願う人々で盛大なにぎわいを見せ、正月の風物詩として知られている。『社務所』。別宮 『八剣宮(はっけんぐう)』。元明天皇の和銅元年(708)、宝剣を新たに鋳造し創祀された。一の鳥居(南門)の西側に鎮座し、本宮と同じ祭神をお祀りしている。社殿も本宮と同じ造りで年中祭儀も同様に行われるとのこと。八剣宮は武門の信仰が篤く、織田信長、徳川綱吉等により社殿の修造造営が行われて来た。なお、別宮とは名が示すように本殿の別れとして祀られ篤い崇敬を受けていると。『別宮 八剣宮』。拝殿の奥に見える本殿は格式の高い熱田神宮本宮と同じ。熱田神宮 拝殿に向かって参道を進む。二の鳥居。手水舎境内からわき出る湧き水を使っており、その泉は、どんなに日照りの時も枯れたことがないと。既に桜の花?が咲き始めていた。左手に熱田神宮の『大楠』。「大楠境内には多くの楠の木が茂生している。その内、特に大きなものが七本あったので、俗に七本楠と称している。この楠は弘法大師お手植とも伝えられ、樹齢は千年以上といわれている。」幹周:7.70m、樹高:20m。大楠には蛇が住んでおり、時折その姿を見せると。7本ある大楠では3番目に大きい楠であるとのこと。三の鳥居。『信長塀』がここにも。右手に『授与所』。多くの参拝者が破魔矢や御札を購入するため長蛇の列が。『本宮(ほんぐう)』。熱田の杜(もり)奥深く鎮まる本宮は、明治26年までは尾張造りの社殿であったが、三種の神器奉斎の社であることから伊勢の神宮とほぼ同様の社殿配置・規模の神明造りに改造された。昭和20年3月・5月と、2回の戦災を受けたが、昭和30年10月に造替。本宮の拝所は外玉垣御門(とのたまがきごもん)の前で、この御門と四尋殿(よじんでん)を併せ拝殿と称し、東西翼廊を付設している。参拝の長蛇の列が。よって遠くから参拝。『拝殿』より御垣内を拝すると、一番奥に最も高く千木(ちぎ)・勝男木(かつおぎ)の見える社殿が『拝殿』で、熱田大神はここに鎮座。『拝殿』から順に「外玉垣」「内玉垣」「瑞垣(みずがき)」の垣があり、垣の各南正面には御門が。内玉垣と外玉垣との間の広場を「中重(なかのえ)」といい、正面中程に立っている鳥居を中重の鳥居というと。例祭をはじめ祭典の多くはこの中重にて斎行されるのだと。『本宮』の『拝殿』を横から。屋根の装飾と千木。いろいろな願いが書かれた絵馬。『斎館・勅使館(さいかん・ちょくしかん)』。 斎館とは神職が祭典神事に先立って先籠し、潔斎する建物。 又皇室からの勅使をお迎えするのが勅使館で、勅使専用の斎室。 『神楽殿(かぐらでん)』 初宮参り・安産・厄除け・家内安全などのご祈祷を奉仕する社殿。又、1月1日午前零時の「初神楽」はここで奉奏されるのだと。平成21年、創祀千九百年の記念事業で新しく造営した建物。 『ならずの梅』。西楽所の北に、高さ3mほどの梅の木があり、江戸時代模写の享禄古図(室町時代の境内)にも描かれている古木で、花は咲くが実がつかない。したがってならずの梅といわれていると。『安永・天明頃の俗謡』に「ひんやれ、宮の熱田のならずの梅はやれよいとやれよいと花はさけども実はならん、しょんがゑ…」などとさかんに謡われたようであると。「ならずの梅この梅は享禄の古図(1529年頃)にも描かれている奇木で毎年ニ月上旬頃から薄桃色の清らかな八重の花が咲き始める。一度も実をつけたことがないので「不実梅」(ならずのうめ)と名付けられ古くから有名ぞある。」『西楽所(にしがくしょ)』。神楽殿の前にあり、桧皮葺(ひわだぶき)が美しい建物。元は海上門(かいじょうもん・昭和20年焼失)内に相対して東楽所もあったとのこと。この西楽所は貞享3年、将軍綱吉の再建で神宮にあっては数少ない明治以前の建造物の一つ。5月1日の舞楽神事ではここで楽が奏され、5月8日の豊年祭にはおためし(田畠の模型)が奉飾されると。「西楽所貧享三年(一六八六)五代将軍桐吉の再建による。毎年五月一日の舞楽神事にはこの楽所前に特設舞台を組み伶人がここで楽を奏する。もとはこの西楽所(右楽所)に相向いあって東楽所(左楽所)もあった。」『信長塀(のぶながべい)』。熱田神宮境内にある信長塀は、織田信長が熱田神宮に寄進した築地塀。築地塀(ついじべい)とは、土をつき固め、上に屋根をかけた土塀のこと。永禄3年(1560)、信長は桶狭間の戦い出陣の際、熱田神宮に願文を奏して大勝。その御礼として奉納した瓦ぶきの塀が信長塀と呼ばれると。信長塀は土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねて作られている。当時は全長400メートルあったといわれたが、現在は120メートル程。西宮神社の大練塀(兵庫)、三十三間堂の太閤塀(京都)と並ぶ日本三大土塀の一つとして有名。「信長塀永禄三年(一五六〇)織田信長が桶狭問出璋の際、当神宮に願文を奏し大勝したので、その御礼とし奉納した塀である。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねている。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び日本三大土塀の一つとして名高い。」『熱田神宮宝物館』入口。日本古代建築を彷彿とさせる校倉風鉄筋コンクリート造の建造物で、昭和41年5月竣功、同年12月開館。収蔵品は皇室をはじめ、将軍・藩主・一般の篤志家に及ぶ広い層から当神宮に寄進された資料約6,000点を収蔵、なかでも古神宝・刀剣・和鏡・舞楽面・古文書・什器などには貴重なものが多く、国宝・重要文化財・愛知県文化財に指定されたものは、177点にものぼっているとのこと。又、熱田神宮に草薙神剣を奉斎する縁由から、刀剣類はとくに多く、名刀の宝庫とも言われていると。参道に『天皇陛下御即位 奉祝紀年造営事業』案内パネル。来年・令和三年秋に竣工予定と。『剣の宝庫 草薙館』。『くさなぎ広場』。『佐久間灯籠』旧参道が文化殿に突き当たる所、新参道との間にある『佐久間灯籠』。熱田神宮文化殿は、熱田神宮宝物館の付属施設であり、神宮が祭典・行事などに施設を使用しない日に、熱田神宮の崇敬者の方に限って、各種文化事業実施の為に利用出来ると。「佐久間燈寵尾張国御器所の城主佐久間盛次の四男大膳亮勝之が海上で台風に遭った際、当神宮に守護を祈り難を免れたので寛永七年(一六三〇)その御礼として寄進された。京都南禅寺 東京上野東照宮の大灯籠と共に日本三大燈寵として名高い。」『二十五丁橋(にじゅうごちょうばし)』。尾張名所図会(おわりめいしょずえ)や名古屋甚句(なごやじんく)で名高く、板石が25枚並んでいるところからこの名がついており、名古屋では最古の石橋とのこと。昔ながらの優雅な姿は見事。現在は通行禁止。「二十五丁橋尾張名所図会や名古渥甚句で名高く、板石が二十五枚並んでいることから二十五丁橋といわれる。甚句には「宮の熱田のニ十五丁橋で西行法師が腰を掛け、東西南北見渡して、これ程涼しい此の宮をたれが熱田と名を付けた」とある。」『名古屋甚句』碑。『名古屋甚句』の中には西行法師(さいぎょうほうし)が、これほど涼しい宮を誰が熱田と名をつけた、というユーモラスな唄があるのだと。「ア~ 宮の熱田の二十五丁橋で エ~ ア~ 西行法師が腰をかけ 東西南北見渡してこれほど涼しいこの宮を たれが熱田と ヨ~ ホ ホ ア~アア 名をつけたエ~トコドッコイ ドッコイショ」と。 『二十五丁橋』を横から。『南神池』。 境内中心あたり西よりに位置し、池の周辺一帯を整備して参拝者の憩いの場に。隣設する休憩所「お休み処 清め茶屋」から眺める景観は大変美しかった。熱田名物の食事が楽しめる喫茶店、土産物にもなっていた。急ぎ足での散策であったが、2016年12月にゆっくりと訪ね、その1~その3で『ブログアップ』👈リンクしていますのでアクセス願います。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場だった『宮の渡し公園』に到着。『宮の渡し公園』東海道五十三次のうち41番目の宿場である宮宿。東海道にある宿場のなかでも最大級の規模を誇り、たくさんの人で栄えました。さて、42番目の宿場である桑名宿に行くには、船で海路を行かねばなりません。その距離は当時の単位で七里。そのため「七里の渡し」と呼ばれていました。船で渡ることがなくなった現代では、船着場として栄えた宮宿側の遺構には当時の常夜燈や時の鐘、船着場などが復元され、「宮の渡し公園」として歴史香る憩いの場となっていた。『時の鐘』延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時を知らせるこの鐘は熱田に住む人々や東海道を旅する人々にとって重要な役割を果たしていた。昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を想い起こすよすがとしてこの公園に建設したものである。『熱田湊常夜灯』「熱田湊常夜灯この地は宮(熱田)の神戸の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。 常夜灯は寛永二年(一六二五)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。 その後風害で破損したために、承応三年(一六五四)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。 寛政三年(一七九一)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和三十年復元した。」『堀川』そして『伊勢湾』に夕暮れが迫ってきていた。『七里の渡し舟着場跡』と『浮世絵』。『東海道五十三次(隷書東海道)宮』「七里の渡し舟着場跡江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていた。 昭和58年に復元されて往時の名残をとどめています。 歌川広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができます。」『熱田湊常夜灯』と『七里の渡し』碑。「松尾芭蕉と七里の渡し松尾芭蕉(1644-94)は、日本を代表する俳人で、「野ざらし紀行」 「おくの細道」 や 「古池や蛙飛込む水の音」 などの句が有名です。「この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ」「海暮れて 鴨の声 ほのかに白し」「なんとはなしに 何やらゆかし すみれ草」この舟遊びで五・五・七の歌などを開拓し、生涯作風が十二たび変化する 「芭蕉の時代」 となるきっかけが生まれました。後に名古屋が 「蕉風発祥の地」 と言われる由縁です。また、熱田神宮が 「蓬莱宮」 と読んだのに因み、芭蕉は名古屋を(京都から見て)蓬左として、書状などに度々使っています。」『七里の渡し』碑とその後ろに『熱田湊常夜灯』を再び。「宮の宿とシーボルトここ宮(熱田)の宿・神戸の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。 名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトが文政九年(一八二六)二月オランダ使節に随行して江戸へ参府する際と、 四月長崎への帰路、宮の宿で会見し、教えを受けた。 彼らは名古屋の医学・植物学の研究に多大な貢献をした。 」『船着場』。『丸清版・隷書東海道五十三次」より(宮・七里の渡し 熱田鳥居 寝覚の里)』。『船着場』。ズームで。実は船が苦手な人向けに「姫街道」と呼ばれる陸路もあったとのこと。その陸路というのが「佐屋街道(さやかいどう)」と呼ばれた道であり、「宮宿(七里の渡し)→佐屋宿→桑名宿」というルートも整備されたようです。ただし、佐屋街道はすべてが陸路ではなく、さすがに濃尾平野最大の川幅を誇る木曽川には橋を架けることはできなかったようで、木曽川まで来たところで船着場が設けられることになります。その木曽川ほとりに築かれた船着場を「佐屋宿」と言い、ちょうど佐渡宿から約3里(約12㎞)下った先が桑名宿だったというワケです。このことから七里の渡しに倣い、別名で「三里の渡し」とも呼ばれていました。『ネット』👈リンクで詳しく説明されていましたので、興味のある方はアクセス願います。 『尾張名所図会』絵中央部の様々な船を係留する港に熱田常夜燈が見える。ここが七里の渡しの渡船場(宮の渡し)。右端に東浜御殿、中央左のなまこ壁を持つ長屋門らしき建物の左側一帯が西浜御殿。その門前の東海道上に熱田浜の鳥居が立つ。「七里渡船着(尾張名所図会)この絵は七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠屋などの家々や、岸につながれた船、道を行き交う人の多さから当時の賑わいがわかります。この渡し場は城下町名古屋の玄関口としても人と物資の輸送の面で重要な役割を果たし、そのため尾張藩は東西浜御殿のほか、浜鳥居の西に船番所、船会所などの役所を設け、船の出入りや旅人の姓名などを記録していました。」ネリネ(ダイヤモンドリリー)であろうか。茎の先に開く花が彼岸花によく似ているネリネ。花びらに光が当たるとキラキラ輝いて見えることからダイヤモンドリリーの名前で親しまれる秋に花を咲かせる球根植物。『丹羽家住宅(旧旅籠屋 伊勢久)』「丹羽家住宅(旧旅籠屋 伊勢久)丹羽家は幕末のころ、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各大名の潘名入り提灯箱が残されている。正面の破風付玄関はかつての格式の高さを残している。屋根に上がっていた卯建は戦災で破壊され、現在は袖卯建のみである。天保12年(1841)の「尾張名所図会・七里渡船着」には、当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。昭和59年、市の有形文化財に指定された。」『熱田荘』。丹羽家住宅と同じく宮の渡し場跡の前には『熱田荘』。この建物は明治29年(1896年)に”魚半”の店名で開業した料亭で、太平洋戦争中は三菱重工業の社員寮として、現在は高齢者福祉施設として利用される。真っ赤な夕焼けを期待して待っていたが・・・。しばしカメラで夕景を追いかける。そして帰路に。『大瀬子』交差点を右に入り『熱田神宮』方面に向かう。『真言宗 東覺院』が左手に。『景清社』国道247号線の「熱田神宮南」交差点に向かうと、七里の渡しから熱田神宮に続く道の中程にある景清社を訪ねた。平家残党の逸話は各地に残りますが、ここ景清社もその一つ名古屋市熱田区には、祭神を平景清とする景清社があった。この地は景清の屋敷跡といわれ、現在、熱田神宮に所蔵されている太刀癬丸(あざまる)は、景清が奉納したと伝えています。『景着社』碑。西を向いて祀られる『景清社』。「景清社藤原景清(平景清)は平家の侍大将藤原忠清の次子で、腕力に優れていた。平家没落後。縁あって熱田の地に隠れ住んだといわれる。歌曲「景清」では「尾張の国熱田にて遊女と相馴れ一人の子を設く」とうたわれている。後年、景清は眼病を患い、失明したという伝説から、この景清社は、眼病に霊験があるとして信仰が篤い。」『円福寺』の『山門』。「円福寺亀井山と号し、時宗。元応元年(1319)足利市の一族と厳阿の開基で、足利尊氏も祈願所としたといわれる。永享四年(1432)九月、六代将軍義教は富士遊覧のため下向の折、当寺に三日間逗留し、連歌会を催した。当寺にはこの時の連歌懐紙や尾張円福寺文書、伝小栗宗湛筆紙本墨画豊千禅師図(いずれも県指定文化財)を伝えている。また、当寺は尾張二代光友の時、芝居興行が行われたところで、亀井道場の名で知られる。」山門の扁額には『亀井山』と。『尾張名所図絵 圓福寺』。『本堂』。やや赤くなった夕焼けを楽しみながら進む。刻々と空の色が変化。『熱田神宮南』交差点に架かる歩道橋を渡りながら名古屋中心部方向を見る。歩道橋からから、日没の瞬間をカメラで追う。国道1号線に沿って伝馬町交差点方向に進むと、日本橋から358.2kmの表示版が。そして伝馬町交差点を左折し名鉄名古屋本線『神宮前駅』方向に向かうと『圓通寺』の『山門』が左手に。そして『圓通禅寺』の寺号標が。手水場には『羽休』と。『本堂』。『補陀山圓通寺』は山号を羽休山、秋葉山ともいう。境内は宮簀媛命が夫の日本武尊より預った草薙剣を奉じて熱田神宮を造営された際、この神剣と一体になって火難より救い、中部地方の平定を助けた秋葉権現を祀った「秋葉社」の地にあたる。この霊地に一小宇があった。白鳳年間(六七三〜六八五)には加賀の白山神社を開いた泰澄大師が錫を留め、自ら十一面観音を造作した。次いで、弘仁二年 (八一一)に弘法大師空海が熱田神宮に参籠された折、やはり自彫の十一面観音を奉納安置して.寺を創建した。これが圓通寺の始りである。『本堂』正面。赤い提灯が輝く。『本堂』の右に位置する『毘沙門天』熱田神宮から徒歩で行ける距離にある『圓通寺(円通寺)』。日本最古で唯一の“秋葉大権現”の霊場で、「熱田さま」「秋葉さま」と親しまれている“秋葉大権現”は、日本武尊を火難から守ったといわれる火の神様。こちらは旧本堂であるが、現在『円通寺斎場』になっているようであった。『子育て・水子地蔵尊』扁額『補陀山』。ここ『圓通寺』では毎年12月16日には火渡り神事が行われると。約7メートル四方の大護摩を焚き、修験者や信者が裸足で渡る様子は圧巻とのこと。境内には『毘沙門天像』。『子授石』。 願ってきました??が・・・・??????御朱印を頂きました。そして名鉄名古屋線の『神宮前』駅に到着。そして車の待っている『豊明駅』に向かったのであった。そして豊明駅前の駐車場で旅友Sさんの愛車に乗り換え、この日宿泊の桑名駅前のホテルまで国道23号線を利用して向かい、順調に到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に歩くと左手に『鈴之御前社(れいのみまえしゃ)』。『鈴之御前社』は愛知県名古屋市熱田区にある神社。熱田神宮の境外末社で、祭神は天鈿女命。地元では俗に「鈴の宮(れいのみや)」と呼ばれる。かつては精進川という川がこの宮のそばを流れており、東海道を往来する旅人が熱田に参拝する時はこの社で鈴のお祓いを受けて身を清めてから参拝する事になっていた。戦後、旧東海道に面した現在地に遷座した。『鈴之御前社』社号標。『社殿』主祭神は天鈿女命(あまのうずめのみこと)。そして『名古屋東港線』の大通りに出る。熱田区伝馬1丁目にある『総本家 亀屋芳広』で一休み。「塩豆大福」を食べたかったが品切れとのことで「車楽」を注文。「車楽」は白あんとこしあんを合わせたあっさりあんに、ふっくら炊き上げた丹波黒豆入りの年末年始限定どら焼とのこと。1個200円であった。お茶も添えて下さいました。半割にしたところを撮るべきでした。よって『総本家 亀屋芳広』さんのHPより。これが食べたかったのでしたが。更に熱田区伝馬1丁目の旧東海道を進む。『道標』や案内板が角に。『道標』。「道標ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道 と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標の位置(T字路の東南隅)は、建立当時(一七九〇年)そのままである。四面には、次のように刻まれている。 北 さやつしま(佐屋津島)東 道 同 みのち(美濃路)南 寛政二庚戌年(かのえいぬ) 東 江戸かいとう(街道)西 北 なこやきそ道(名古屋木曽) 南 京いせ七里の渡し(伊勢)北 道 是より北あつた御本社貳丁(にちょう)なお、この三叉時路の東北隅には、これより三二年前(宝暦八年)に建立された道標があった。道標は、「京いせ七里の渡し」以外はこれと同じである。戦災で破損したが復元され、十mほど北側にある。」『源太夫社(上知我麻神社)と東海道』。「尾張名所図会(おわりめいしょずえ)にも描かれている江戸時代の「上知我麻(かみちかま)神社」。熱田神宮の摂社で、江戸時代には「源太夫(げんだゆう)社」とも呼ばれ「智恵の文殊(もんじゅ)」様としても知られています。江戸時代の「源太夫社」前は、東海道と美濃路の分岐点ともなり、往来する多くの人々でにぎわっていました。・北へ行くと「熱田神宮・名古屋城下」へ、・南へ行くと「七里の渡し(桑名)」へ至ります。「源太夫社」は、戦後の復興事業のため、昭和24年に熱田神宮境内に遷座され、その後、現在の地には、別の地にあった「ほうろく地蔵」が祀られました。場所を変えながら当時から残る「道標」が、在りし日のにぎわいを今に伝えています。」正面に『ほうろく地蔵』。ズームで『ほうろく地蔵』を。「ほうろく地蔵「尾張名所図絵」によれば、この石地蔵はもと三河国重原村(現在知立市)にあったが野原の中に倒れ捨石のようになっていた。 ところが三河より焙烙を売りに尾張へ来るものが、荷物の片方の重石としてこの石仏を運んできて、ここで焙烙を売りつくした後石仏を海辺のあし原に捨てて帰った。 地元の人がこの石仏を発見し安置しようとしたが動かないので怪しんでその下を掘ってみると、土中にこの仏の台座と思われる角石が深く埋もれていたので、 皆が不思議なことだと思いその台石を掘り出し、この石仏を置いたのが、すなわちこの地蔵である。」「ほうろく地蔵「尾張名所図会(天保十二年脱稿)」によれば、この石地蔵は、もと三河国重原村(現在知立市)にあったが、野原の中に倒れ、捨石のようになっていた。 ところが、三河より焙烙を売りに尾張へ来るものが、荷物の片方の重しとしてこの石仏を運んできて、ここで焙烙を売りつくした後、石仏を海辺のあし原に捨てて帰った。 地元の人がこの石仏を発見し、安置しようとしたが、動かないので怪しんでその下を掘ってみると、土中にこの仏の台座と思われる角石が深く埋もれていたので、 皆が不思議なことだと思い、その台石を掘り出し、この石仏を置いたのが、すなわちこの地蔵である。」堂内。国道247号線に架かる『熱田区伝馬一丁目』の歩道橋を渡る。こちらが海の方向。路地を少し入った場所にあった『宮の宿赤本陣跡』案内板。「宮の宿赤本陣跡宮の宿は熱田宿とも呼ばれ、勅使や大名、旗本らの公用の宿泊施設である本陣が二軒あり、赤本陣と白本陣と呼んで区別していました。本陣職を承った者は土地の有力者に限られ、代々世襲で、赤本陣は南部新五左衛門が務め、苗字帯刀を許されていました。天保年間(1830~44)の「東海道宿村大概帳」によれば建坪236坪となっており、南部家の記録では、間口数16間、奥行き21間であったと記されています。戦災によって本陣の遺構は全くない。」そして大行列の横を通過。ここはうなぎ料理屋の老舗『あつた蓬莱軒 本店』。この日は勤労感謝の日の休日。「ひつまぶし」は「あつた蓬莱軒」の登録商標。昔、仕事の帰りにここを訪ね「ひつまぶし」を食べたことを想い出したのであった。その隣りにあったのが『宝勝院』。「宝勝院蓬寿山と号す西山浄土宗の寺である。 昭和二十七年近くの高仙寺と合併したが、その際移安された木造阿弥陀如来立像の胎内から仏や菩薩などを木版刷りした摺仏(すりぼとけ)や写経などが多数発見された。 その写経の一部に僧永厳が貞永元年(一二三二)仏道成就を願って阿弥陀如来の造立を企てた旨の奥書があり、造像はそのころと思われる。 昭和五十八年、本尊、納入物とも国の重要文化財に指定された。 また熱田湊常夜燈は承応三年(一八九一)まで当寺が管理をしてきた。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に南区呼続の旧東海道を進む。『東海道碑 山崎の長坂』坂を下ると山崎川となり『山崎橋碑』が右側にあった。右手に白い立て看板・『曹洞宗 龍雲山 法泉寺』が。入口には、宿駅制定400周年記念で建てられた東海道の道標が。『法泉寺』の『山門』。土壁の白や真新しい瓦を見る限り近年に建替えられたのであろう。山門扁額には『龍雲山』と。瓦葺きの『山門』の左には地蔵堂。地蔵堂には二体の地蔵様が祀られていた。赤い前掛けを付けてもらい、山門から訪れる人々を見守っていた。『本堂』昔尾張国愛知郡井戸田(現在の瑞穂区)の里に行基菩薩開基の薬師寺という大寺があった。弘法大師の巡錫にあい以来真言道場として栄える。一時滅びるも笑顔悦公和尚が浜海道(現在の南区)に再興し、龍雲山法泉寺と改める。薬師通(南区呼続:岩戸町)の由来は法泉寺の薬師詣から始まったと伝えられる。寛永十九年(1642)二代壽公和尚が現在地に易地す。寛政年中(1789~1801)曹洞宗大本山永平寺五十世玄透即中禅師を請し法地開山となし曹洞宗となる。本尊 薬師如来、日光菩薩、月光菩薩は弘法大師の作と伝わる。段丘の地に緑に囲まれた境内は訪れる人の心を癒してくれる寺である。東海四十九薬師霊場第三十一番札所の表札が右手に掲げられていた。扁額には『法泉寺』。 この句碑は?そして旧東海道は『山崎橋』手前に。『山崎橋(やまざきはし)』。往時はもちろん板橋であった。『山崎川』は猫ケ洞池に源を発し、流末は伊勢湾に注いでいる。川を渡り、直ぐに旧東海道は左折。川の対岸にあったのが『秋葉神社』。川沿いの一段上がった場所にあった『手水場』。『御大典記念』の文字が確認できた。秋葉神社の二つの『祠』と『常夜燈』。『御大典記念』の文字が。『大典』とは皇位継承の事。名古屋市瑞穂区神穂町に入っていく。右手にブラザー工業㈱ 瑞穂工場。前方に名古屋高速3号大高線の高架が。この先角には東海道道標があった。『松田橋』交差点に架かる歩道橋を渡る。上は名古屋高速3号大高線、下は空港線(右)と国道1号線(左)。歩道橋を降りて直ぐ鉄板居酒屋の前に『二宮金次郎像』。国道1号線を進む。東海道本線の踏切を渡る。高架が国道1号線。そして旧東海道を左に入っていく。しばらく歩き右への路地を進むと右手にあったのが『浮島神社』。再び旧東海道に戻ると『熱田橋』が現れた。流れる川は『新堀川』。野鳥が川面にのんびりと。そして名鉄常滑線のガード下を通過。前方のY字路の中央に案内板が。この後、Y字路を左に進む。公園の中央には木が植えられ、一里塚のような雰囲気であったが、説明は見当たらなかった。しかし、ここまで、一つ前の『笠寺一里塚』からほぼ4㎞の道のりがあった。これが日本橋から89里目となる『伝馬町一里塚』ではないかと思ったのであったが。『水と歴史のまち 宮地区』案内板。「熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、 東海道五十三次の41番目の宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。 また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも呼ばれていました。 江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によって、さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました。」ここが41番目の宿場町「宮宿」の東側の入口。『宮地区の歴史的遺産分布図』。「宮地区の歴史熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、 東海道五十三次の41番目の宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。 また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも」呼ばれていました。 江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によって、さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました。」そしてその先左にあったのが『裁断橋址(さいだんばしあと)』。「裁断橋跡宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。 天正十八年(一五九○)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。 三十三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たせず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和八年(一六二二)に完成させた。 この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を渡る旅人に多くの感銘を与えた。 現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。」 『裁断橋』と『擬宝珠(ぎぼし)』。『擬宝珠』には文字が刻まれていた。ネットで調べてみると「てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、ほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見さるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやう ふつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、此かきつけを見る人は念仏申給へや、卅三年のくやう也」と。すなわち「天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也。」とのこと。奥には『都々逸発祥の地』と刻まれた石碑そしてその右に『姥堂・裁断橋』案内板。「都々逸発祥の地碑について寛政12年(1800)ごろ、今の熱田区伝馬町の東方付近で歌い出され大流行した。江戸時代、この辺りは東海道五十三次の1つ宮の宿と呼ばれ、旅篭が約250軒もあったと。その中の“鶏飯屋”で働くお手伝いさんが大変な美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、終わりに「どどいつどいどい」などという囃子を入れたのが始まりで飲食関係の女性から名古屋全域に広まっていった。やがて七・七・七・五の字数に合わせ、土地の情景や人情ものを歌い込む人が現れ、名古屋の名物となった。歌碑は縦1.8m、横30cmほどの御影石で、裁断橋跡の西側のたもとにある。」『姥堂・裁断橋』案内板。「姥堂延文三年九月(一三五八)法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。 本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。 旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており尾張名所図会にも登載されている。 昭和二十年三月の戦災で堂宇本尊ともに焼失したが、姥像は高さ八尺の坐像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。 尊容から奪衣婆と見る説もあるが、両手に童顔の御像を捧持していること、熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮簀媛命の像ではないかとも想定されている。 昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。 現在の本尊は平成五年五月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。」「裁断橋 文献では永正六年(一五○九)「熱田講式」に名が見られるのが初見とされている。 姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正十五年に川が埋立られ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。 大正十五年出版の「橋と塔」浜田青陵により全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。 昭和二十八年三月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬宝珠四基が移設保存され、後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。 しかし、青銅の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚しくなったので平成四年三月に名古屋市当局がこの場所より撤収した。 圓福寺では、金助の母が「後の世のまた後まで」と願った思い、子を思う煩悩を昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、 母の銘文の拓本を取り平成五年五月此処に架設した。」『姥堂』。折しも、ボランティアのオジサンが数名の観光客を連れ、この場所の案内をされていたので我々も聞かせていただいたのであった。案内用の資料も充実。『旧裁断橋桁石』再び『裁断橋址』、『姥堂』他を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に訪ねたのが『長楽寺』。長楽寺 『弘法堂』。弘仁12年(811年):弘法大師(空海)が呼続に七堂伽藍を創建。真言宗戸部道場 寛蔵寺と名付け、清水吒枳尼眞天を鎮守神として安置する。『長楽寺』案内図。境内の至るところにあった石像。『趣味の素人養蜂家』の私にとっては嬉しい案内板が。『~ミツバチは宝物です~』「養蜂の起源は、おおよそ紀元前1万5000年前の頃とされております。スペインのアラニア洞窟の古い壁には、女性が手で伸ばし高い崖で自然巣を採集しようとする姿が描かれております。日本では、縄文の頃から家の一角にくぼみを作り蜂蜜を採取していたと伝えられ、竪穴式住居の一角に40cmほどの穴を作り、蜂達とハチミツを共有していたと報告されております。当山の境内では、養蜂を行っておりませんが、縄文式の文化と同じで、ミツバチとも共存しております。また彼らの天敵はスズメバチで、その天敵から身を守る為お墓の所に巣を作る場合がございますが、静かに見守っていただきますようお願い申し上げます。」境内の至るところにあった石仏像がここにも。道路沿いには『動物観音』の姿も。優しいお顔をズームで。『長楽寺』入口。長楽寺は、長い歴史を持つ寺。1200年ほど前に弘法大師が巡礼したときに、夢のお告げによって七堂伽藍を創建し、真言宗戸部道場 寛蔵寺と名付けたところが、その後、曹洞宗に改宗され、名前も長楽寺と改められた。『遺品供養祭』。亡き愛ペットの使っていた遺品をお焚き上げ供養をすると。『立木観世音菩薩』が祀られる『立木観音堂』。『立木観世音』と書かれた扁額。堂内の『立木観世音菩薩像』。1798(寛政10)年に当山17世の智海和尚が、境内にあった松の木の下に観音石像を安置して霊木としていたが、その木が枯れかかった時、一人の老人に弘法大師の夢告があり、立木のまま十一面観世音菩薩の尊像を彫刻した。これが現在のご本尊の立木観世音菩薩で、尾張三十三観音・東海百観音の第四番霊場として全国各地から厚い信仰を集め、日々参拝が絶えないのだと。石を刳り貫いた『水場』『蓬莱の水、由来』案内板。『井留薬師如来像』。『水場』。『盲導犬慰霊碑』。「目の不自由な方々にとって、かけがえのない光であった盲導犬たちが眠るお墓です。毎年、春と秋のお彼岸には、中部盲導犬協会の供養祭が行われています。また、ここには名犬サーブ号も眠っています。ご家族の供養にとともに、ここで彼らの冥福を祈ると、日々忘れがちな福祉の大切さを思い起こさせることでしょう。」「盲導犬たちよ、天国で遊んでください。盲人の目となり、最良の友となり、明日への光となって、愛と献身に生きたあなたたちの日々は、私たちの心に生き続けています。盲導犬たちよ、ハーネスを外して飛び跳ねてください。」『長楽寺石濵殿』。この日もたくさんの方が参拝に訪れていたが、その理由のひとつに「動物供養」があるのだと。動物・ペットを家族の一員として、最後の別れをきちんとしたいという方々が、名古屋市内はもちろん、東海三県、遠くからも来るのだと。この日にペットの法要をされる方の名前とペットの名前も。堂内部(ピンぼけ)では法要供養が行われていた。『日守弘法大師像』。『長楽寺』を後にし、旧東海道に向かう途中には『稲荷出現道場 四国八十八ヶ所 長楽寺』と刻まれた寺標石柱が。そして再び旧東海道『呼続小学校前』交差点を渡る。左にあったのが『正覺山 誓願寺』寺標とその前に『東海道道標』が。『南区史跡散策路 東海道周辺めぐり 湯浴地蔵』案内板。南区役所を出発し、笠寺観音や呼続公園をめぐって名鉄呼続駅にいたる、約5.2キロメートルの散策路。右手奥左にあった『湯浴神社(ゆあみじんじゃ)(鉄地蔵(てつじぞう)』。赤い幟と参道左の百度石、右の湯浴地蔵尊の石標も。『鉄地蔵大菩薩』。地蔵院に安置され、鎌倉時代のころに鋳造されたと伝えられています。高さ2.3メートルのめずらしい坐像です。「湯浴」とは、人びとが湯を浴びせ祈願したことに由来しています。戦災と伊勢湾台風の被害にあい、今では仏頭と両掌だけが旧形をとどめています。こちらは『湯浴地蔵菩薩坐像』。「尾張名所図会」にも記述が残り、1205年(元久2)に北井戸田村の海中から拾われた地蔵菩薩の泥を湯で洗い流した事から湯浴地蔵菩薩の名が付いたと云われています1292年(正応5)に戸部村に移され崇拝され続けられます後に堂の焼失を機に1600年(慶長5)現在の山崎村に移されたようです。『東海道 鎌倉街道』の道標。その先にあったのが『秋葉社』。左の道が『鎌倉街道』、右手にも道標が。ここは鎌倉街道「中の道」と東海道が交わり、街道の名残りを感じる静かな住宅地。再び旧東海道を北上する。左手に『村社 熊野三社』。『宿駅制度制定四百年記念碑』。松巨嶋、あゆち潟、呼続の謂れが簡潔に書かれていた。「古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。 西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。 芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。 また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。」一の鳥居から参道を進む、直ぐに二の鳥居と右に社が祀られていた。何故か二の鳥居、三の鳥居には貫(かんぬき)がなかった。二の鳥居を過ぎると参道は左に折れた。三の鳥居の先に境内が広がっていた。鳥居の右に由緒書きと御神木の楠木樹齢は500年とも云われますが、この巨木が神社の歴史を物語っていた。『御由緒』御祭神:伊邪那美命、事解男命、速玉之男命、創建 :1558年~1570年(永禄年間)、山崎城主佐久間信盛が城中の守護神として祀った事から 始まります。後の1627年(寛永4)に山崎村並びに付近一帯の住民の守護神として 現在地に再建された。『手水舎』。『拝殿』。境内社の『津島社』(左)と『浅間社』(右)。『八幡社』(左)と『八王子社』(右)。朱の鳥居が続く『山崎稲荷社』。見事な枝振りの『御神木』の『楠』。切断面の保護も行われていた。落ちないのが不思議。ここにも保存樹『楠』。社務所。『手洗松巨嶋』「松巨島」と呼ばれるようになった由縁は、昔の熱田方面からこの地を眺めると、この一帯が「松の大きな島」に見えた事から呼ばれるようになったと伝えられ、古い地史にもその名は出て来ていると。中央の手水鉢は、何らかの理由で境内に埋められていたものを1960 年頃に掘り出されたもの、正面に「松巨嶋」と刻まれ、この地が松巨嶋と呼ばれていたことを伝えていた。『松巨嶋』と刻まれた『手水鉢』。この鳥の名は?白鳥に似ていたが脚と首が黒いのであったが。帰路に再び三の鳥居から境内、拝殿を見る。この鳥居はなんと呼ぶ鳥居なのであろうか、あとで調べて見たい。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次笠覆寺西門(江戸時代 文化十一年 1814年、一間薬医門)を出て振り返る。「笠覆寺天林山と号し、真言宗。俗に笠寺観音の名で知られ、尾張四観音の一つである。天平年中(729~)禅光上人の開基で、十一面観世音を安置する。初め小松寺と称したが、延長年中(923~)藤原兼平が堂宇を再興し、今の寺号に改めた。のち再び荒廃したが、嘉禎四年(1238)僧阿願が朝廷に願い出て、宣陽門院庁より田畑の寄進を受け堂塔を建立した。当寺には重要文化財・県指定文化財が多数ある。」次に『笠覆寺西門』前の道路を経だてて左手の段上に真言宗智山派の『天林山西方院』があった。西方院は、笠覆寺塔頭の一つであり、境内には木曽義仲の母が持仏として信仰していた『烏瑟沙摩明王(うすまさみょうおう)』と粕畠観音と言われる十一面観世音菩薩碑が祀られている。朱の鳥居が西方院の『山門』。通りからは『笠寺 烏瑟沙摩明王(うすまさみょうおう)』と刻まれた石柱が右に。『四国百八弘法大師、日本百八観世音菩薩、南無水子地蔵尊』の幟が。右は弘法大師、左は観世音菩薩、その前にはお砂ふみ。右に烏瑟沙摩明王の石標と2体の石仏が祀られていた。左に可愛いおもちゃが供えられた『水子地蔵』の小さな堂が。『烏瑟沙摩明王』は聞き慣れない仏。良く聞く不動明王や愛染明王と同じ明王で、この明王は母親が身ごもった女子の胎児を男子に変える力を持っていると伝わり、男子を求めた戦国時代の武将達に厚く信仰されてきたと。木曽義仲の母が守護仏として信仰し、出産の際にも安産だった事から安産にご利益があるとされた。また不浄を浄化するとして、密教や禅宗等の寺院ではトイレの守護仏とされ、下の病に霊験あらたかだと。『粕畠観世音大菩薩』と書かれた幟が立ち並ぶ。『粕畠観音大御縁起』。「現在、粕畠貝塚のある場所は、「観音塚」「元観音」と呼ばれ、享保元年(1716)加藤又兵衛勝貞氏が寄進した「南無十一面観世音大菩薩」と刻まれた碑と、千手観音さまの坐像が安置してあります。笠覆寺(笠寺観音)の縁起によれば、奈良時代の天平年間に此の地に小松寺が建てられ、笠覆寺発祥の地とあります。この近くに住む信心深い住民が御堂を建て、立派な観音像を祀られました。近隣信者の方々は「粕畠かんのんさん」とお慕い申して日々ご参詣され、御線香の絶えることがありませんでした。平成4年6月に、御堂が取り壊しとなり、縁ありまして西方院の明王堂に入れられました。厄難を除き、所願を成就してくださる観音さまとして、皆様にご参詣されています。」『笠寺明王御縁起・烏枢沙摩明王の功徳』。「烏枢沙摩明王の功徳当院明王堂に安置されている烏枢沙摩明王は、今から八百年程前木曽義仲公の母君が日頃持仏として信仰され、御子出産の折にもその功徳により安産されたと伝えられて居ります。母君の死後、奥女中いと女がお祀りしておりましたが、義仲公粟津にて戦死されたため、後を追い自害する際かたわらに仕えていた河内、今井の両名にご尊像をたくしました。両名は各地を転々とした後、美濃の小木村に永住し、ご尊像は河内家の秘仏として奥深く祀られてまいりました。河内家20代彦太郎氏は火災に遭い、家宝一切を焼失しましたが、ご尊像のみは無事に助かりました。氏は悟るところあって当院18世政愉和尚について得度、僧となり堂を建てご尊像を祀られましたが一夜、烏枢沙摩明王、夢枕にたたれ、我が功徳を広く人々に授けんと告げられたため、戒師寺たる笠寺西方院にご尊像を移すことを決意。一堂を建て笠寺明王として安置し、以後多くの善男善女の厚い信仰を集めています。烏枢沙摩明王の功徳うすさま明王様は不浄を転じて清浄にする功徳をもっていますので、不浄除の守護仏(便所の守護仏又毒蛇などの虫の害から守って下さる仏)として信仰されております。尚この明王様は安産、婦人病、しもの病に霊験あらたかであります。老若男女を問わずお「下」のお世話をかけないようにと祈願し、心身ともに不浄を除き和やかで幸せな生活ができるようにとご参詣ください。」『真言宗智山派 天林山 西方院』寺標石柱とその奥に山門。『本堂』は南を向いて鎮座。近年建て替えられた様で、新しく綺麗な外観であった。西方院を後にし、笠覆寺西門前の旧東海道を西に進む。『笠寺観音商店街』の建物の壁には多くの人々の似顔絵が描かれていた。地元で様々なプロジェクトの参加された方々の似顔絵であるようだ。笠覆寺西門を振り返る。『笠寺の歴史』「笠寺の歴史江戸時代の笠寺村は、東海道第四十番目の宿場である鳴海から熱田宿を結ぶ東海道筋にあたり、農業を主な業とし、町並みには、小商家、茶屋などがあった。笠寺観音は、尾張四観音の一つとして人びとにも親しまれ、今も節分などには露店が並ぶにぎわいを見せている。寺伝によれば、笠寺観音はもと小松寺といい、天平五年(七三三)浜に流れ着いた霊木に僧禅光が十一面観音像を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。その後荒廃し、仏像が雨露にさらされているのを見た土地の娘が、自らの笠をかぶせた。この娘はやがて藤原兼平の妻となり、その縁によって兼平は堂舎を再興した。これが笠覆寺の名の由来となる。寺はその後再び荒廃したが、嘉禎四年(一二三八)僧阿願が再興した。現存する建物は、正保年中(一六四四~四八)に建った多宝塔を最古とし、本堂は宝暦十三年(一七六三)の建立で、その他江戸時代の各時期に建った仁王門、西門、鐘楼、護摩堂及び大師堂などが軒を列ね、密教寺院の特色をよく示している。また、笠寺観音境内には、笠寺千鳥塚、春雨塚といった芭蕉碑も残されているほか、笠寺観音から東南約六百メートルの旧東海道沿いに、市内に現存する唯一の一里塚がある。」『笠寺西門』交差点を渡る。南区笠寺西門バス停の脇に『戸部蛙(とべかえる)』の焼き物が。「笠寺観音の節分は、例年にぎわい、露店が並ぶ。 この中に郷土玩具として売り出されたものに「戸部の蛙」がある。 戸部の蛙は、昔、戸部城主、戸部新左衛門にまつわる伝説もあるが、文化文政の頃、笠寺の瓦職人が瓦粘土で手なぐさみに作ったことに始まると言われている。 手作りの陶蛙で大小あり(3cm~5cm)、あまがえる、しまがえる、がまがえる、とのさまがえる、かぶり相撲、子負びなど数種がある。 素焼きの極めて素朴なものであったが、現在は釉(うわぐすり)のかかったものとなっている。」右手に『笠寺町西之門公会堂』と『秋葉社』。更に街道を進む。名鉄名古屋本線の踏切を渡りその後右にカーブし北上していくと右手にあったのが『玉泉寺』。『玉泉寺』の本堂なのであろうか。『東海道碑』が道の両脇に。桜神明社 塩付街道東海道を左に折れて塩路街道を西に進む。道路脇の民家の庭には巨大なウチワサボテンが。右手に『金比羅社』。そしてその先に『富部神社』一の石鳥居が。左手には『郷社 富部神社』の社号標も。鳥居の扁額・『富部神社』。鳥居のすぐ左に『秋葉社』。『富部神社本殿 重要文化財指定記念』碑。「富部神社当社は慶長八年(1603)津島神社の牛頭天王を勧請したもので、「戸部天王」とも「蛇毒神天王」とも呼ばれてていた。牛頭天王は神道だけでなく、仏教、陰陽道でも奉られる神で、神道では病魔を自在に操る神として、仏教では病魔を操り四季を掌る神として、陰陽道では天体と方位を掌る神として、大切に奉られている。主祭神は素戔嗚尊(牛頭天王)で明治十一年(1878)になって田心姫命、瑞津姫命、市杵島命、菊理姫命の四神を合祀した。清洲城の城主松平忠吉(徳川家康の四子)は当社の霊験あらたかなるを知り、病気平癒の祈願をしたところ、快方に向い日ならずして回復したといわれその恩に報いるため慶長十一年(1606)社領として百石を与え、本殿、祭文殿、回廊を建て、神宮寺として天福寺(真言宗智山派)を興した。(天福寺は明治政府の神仏分離令により廃寺、この時神社では牛頭天王を同一神とされる素戔嗚尊の名を借り存続される。)回廊は改築されているが、本殿と祭文殿は造立当時のものである。本殿は一間社流造、桧皮葺で、正面の蟇股、破風、懸魚、等桃山時代の建築様式をよく伝えており、昭和三十二年(1957)国の重要文化財に指定された。祭文殿は回脚門形式、回廊は切妻造左右四間の複廊で桧皮型銅版葺である。平成八年(1996)名古屋市文化財に指定される。境内の山車蔵には、享保十二年(1727)作といわれる高砂車山車が納められている。この山車は車体が大きく三階の上に更に高く、いわゆる高砂車を象徴する大きな松の木を背景にして屋形を据え、その前にと姥の人形が置かれている。昭和四十八年(1973)名古屋市文化財に指定される。江戸時代、旧暦六月十二日の例祭日には金繍の幕を巡らし、氏子が挙って曳行したが近年老朽化が著しく、十月の例祭日には蔵の中で組立られ、祭の象徴となっている。」境内から『本殿』を見る。『本殿』に向かって進む。まだ銀杏の黄葉はこれから。『本殿』。祭神:須佐之男命・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命・菊理姫命当社はもと「戸部天王」ともいわれ、松平忠吉(徳川家康の四男)が病気平癒を祈願・快復した報恩のため、慶長十一年(1606)本殿、祭文殿、回廊、拝殿を建てたと伝えられる。本殿は慶長当時の形態を今に伝え、とくに正面の蟇股、屋根の懸魚、桁隠などによく桃山時代の特徴をそなえており、国の重要文化財に指定されている。祭文殿と回廊は、市指定の文化財となっている。境内社の富部龍王社(左)と八王子社・居森社(右)多くの菊が展示されていた。嵯峨菊も様々な種類が。ズームで。そして次に『清水稲荷殿』を訪ねた。境内を進むがこの付近の黄葉はこれから。『手水舎』。境内南に『清水叱枳尼眞天(しみずだきにしんてん)』を祀る『清水稲荷殿』。この『清水叱枳尼眞天』は、豊川稲荷と同じ神様であると。毎年02月03日には、家内安全・商売繁盛・学業成就などを祈願する厄除の節分祈祷会が修行されるなど、隣接の富部神社と合わせて、地元住民の方々から厚い信仰を受けていると。『社務所』であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次常夜灯の先にあったのが『鉾ノ木貝塚』。杭で囲われた草地で案内板のみ立っていたのであった。「鉾ノ木貝塚縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器、上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平部の深鉢型土器を主体として出土しており、上層土器の形式をとらえ「鉢ノ木式」と呼称されている。野村三郎氏により発見された。」鉾ノ木貝塚の直ぐ先右手奥にに石鳥居があり、石鳥居に向かって細い道を上って行くと『千句塚公園』があった。芭蕉の句がこの公園の入り口に掲げられていた。「星崎の 闇を見よやと 鳴く千鳥 芭蕉」星崎というのはこの付近の地名である。ここで芭蕉はどのような景色を見ていたのであろうか、今はその景色は無い。句だけがその当時に引き戻してくれる。ここの公園には、唯一芭蕉が存命していた時に建てられた碑があるのだった。『千鳥塚』。「千鳥塚この碑は、貞享4年(1687)冬11月、寺島安信宅での歌仙「星崎の闇を見よやと啼く千鳥」の巻が、満尾した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆、裏面には連衆の名、側面に興行の年月が刻んである。これは芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってよい。昭和52年(1977)名古屋市史跡に指定された。」『千鳥塚碑』。高さ34cmの自然石の石碑には芭蕉直筆になる『千鳥塚』の文字が刻まれており建立に際しては芭蕉自ら小石を運んだとされています。碑の裏に「知足軒寂照 寺島卜言 同 安信 出羽守自笑 児玉重辰 沙門如風」と鳴海六俳人の名が刻まれているのだと。緑区鳴海町三王山の千句塚公園にあった『緒畑稲荷神社』。『緒畑稲荷神社(おばたけいなりじんじゃ)』。緒畑の名は伊勢の緒畑原から倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を勧請したことから来ているという。『山下』交差点まで『千句塚公園』の坂道を下る。『山下』交差点を渡って更に旧東海道を西に進むと先に進むと、『天白川』に架かる『天白橋』が。『天白川』下流を見る。天白川は、愛知県日進市東部の三ヶ峯上池付近を源とし、名古屋市を流れて伊勢湾に注いでいる。天白川は明治時代になって付けられた名前で、それ以前は米野木川と呼ばれていたと。橋の下には巨大な鯉がのんびりと。小魚も群れをなして。『天白橋』は塗装補修工事中であった。名古屋市南区赤坪町に入り旧東海道を進む。弥次さん、喜多さんの東海道案内標識。『知多郡道道標』。天白橋を渡り、赤坪町交差点を越えると、左手の笠寺精治寮病院前の歩道に『知多郡道道標』が建っていた。道標には 「知多郡道この先50m南へ」 と刻まれており、道標の先の歩道上には、『東海道分間延絵図』が設置されていた。『知多郡道道標』前からこの先の旧東海道を見る。『東海道分間延絵図』。現在地は「名古屋市南区笠寺町下新町」。そしてこの後に訪ねた『熱田宿(宮宿)』の様子が。『熱田宿』からの距離も記載されていた。「桑名宿江海上七里、四日市宿江海上拾里」。そして街道が右にカーブした先のY字路中央に『笠寺の一里塚跡』があった。この塚は東塚で、塚上にはエノキが植えられており、西塚は大正時代に取壊されてしまったと。ここは江戸日本橋から数えて88里目の一里塚である。『笠寺一里塚』碑。「笠寺一里塚一里塚は、慶長九年(1604)幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなった。ここは江戸から88里のところにあり、名古屋市内を通る旧東海道唯一の一里塚で、東側の塚だけが残存している。」塚の高さは3m程か?支保丸太で枝がかなりの場所で支えられていたが頑張って欲しいのであった。『保存樹 エノキ 都市景観保存樹 一里塚』と。更に旧東海道を進む。建物の先端のプロペラの如きものは?『玉照姫』と刻まれた石碑。カーブの右手にあったのが真言宗智山派の『天林山笠覆寺(りゅうふくじ)』の寺標石柱が。放生池に架かる文化3年(1806)の『太鼓橋』の先には巨大な『山門』が。『笠覆寺』の巨大な『山門・仁王門』が。文政3年(1820)の仁王門。笠寺縁起(かさでらえんぎ)によれば、天平8年(736)浜に流れ着いた霊木に僧善光が十一面観音を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。尾張四観音の一つで、仁王門・多宝塔・鐘楼・本堂等見事な伽藍(がらん)の数々を配し、四観音の中でもひときわ荘厳。木々の間から『鐘楼』が見えた。『阿形仁王像』。『吽形仁王像』。『笠覆寺(笠寺観音)』。天林山と号し、真言宗。俗に笠寺観音の名で知られ、尾張四観音の一つである。天平年中(729~)禅光上人の開基で、十一面観世音を安置する。初め小松寺と称したが、延長年中(923~)藤原兼平が堂宇を再興し、今の寺号に改めた。のち再び荒廃したが、嘉禎四年(1238)僧阿願が朝廷に願い出て、宣陽門院庁より田畑の寄進を受け堂塔を建立した。当寺には重要文化財・県指定文化財が多数ある。現在の本堂は、宝歴13年(1763)に建造されたもの。『教え地蔵、学び地蔵』の2体が本堂に向かって立っていた。『玉照姫堂(たまてるひめどう)』。玉照姫と兼平の像が置かれています。『笠寺善光寺堂』。『薬師堂』。貞享元年(1684)の『鐘楼堂』。「笠寺観音と玉照姫の歴史・開基呼続の浜辺に流れ着いた霊木が、夜な夜な不思議な光を放ち、人々はそれを見て恐れをなした。近くに住んでいた僧・善光聖人は夢のお告げを受け、その霊木を彫って十一面観世音菩薩の像を作った。上人は寺を建て、そこに観音像をおさめ、その寺を「天林山 小松寺」と名付けた。天平八年(736)の事である。・玉照姫と観音様その後、約二百年の歳月が流れ、小松寺は荒廃、お堂は崩壊し、観音様は風雨にさらされるようになってしまった。ここに一人の美しい娘がいた。彼女は鳴海長者・太郎成高の家に仕えており、その器量を妬まれてか、雨の日も風の日も、ひどくこき使われる日々を送っていた。ある雨の日、ずぶ濡れになっていた観音様の姿を見た彼女は、気の毒に感じ、自分がかぶっていた笠をはずして、その観音様にかぶせたのであった。その縁か後日、関白・藤原基経公の息子、中将・藤原兼平公が下向のおり、長者の家に泊まった際にその娘をみそめ、自分の妻として迎えようと決心した。兼平公の妻となった娘は、それから「玉照姫」と呼ばれることとなった。(図) 玉照姫(左)と兼平公(右)この観音様の縁によって結ばれた玉照姫・兼平公ご夫妻は、延長八年(930)、この地に大いなる寺を建て、姫が笠をかぶせた観音様を安置した。このとき寺号も小松寺から「笠覆寺」に改めた。これが「笠寺観音」「笠寺」の名の由来である。以来、笠覆寺は縁結びや厄除けの寺として、多くの人々の信仰を集めることとなる。・興廃の波さらに年月は経ち、嘉禎四年(1238)に阿願上人が寺を再興したのを始め、幾度か再興を繰り返してきた。現在の堂塔の多くは江戸期(正保~宝暦年間)の再建になるものである。・玉照堂の破壊明治時代に入り、再び笠覆寺は荒廃の憂き目に遭い、そのさなか、境内に建っていた玉照姫の安置されていた堂は失われてしまった。しかし、玉照姫・兼平公ご夫妻のご本体とご位牌は幸いにも散逸の難をのがれ、変わらず縁結びや開運栄達の信仰を集め、長らく玉照堂の再建を待つこととなる。・昭和の復興昭和時代に入って住職となる政識和尚は、荒れ果てた寺を憂い、寺の再興のために各地を托鉢し、また、多くの信者の帰依も受け、真言密教の道場であるこの笠覆寺を復興、かつての壮観を取り戻した。・玉照堂の再建玉照堂が失われたまま百年余が経ち、ついに、悲願であった玉照堂再建を果たす事となった。観音様とあわせて、縁結び、交際円満の信仰を集めて来た、玉照姫・兼平公ご夫妻は、現在このお堂に入られて、参拝に来る善男善女を静かに見守っている。(図) 江戸時代後期の笠寺観音(○印は当時の玉照堂)。」『本堂』を横から。『白山社』。正保元年(1644)の『多宝塔』。明和7年(1770)の『六地蔵尊』。『延命地蔵堂』。『役行者堂』。境内を振り返る。『人質交換之地碑』天文18年(1549)織田家に捕らえられていた竹千代(家康)と、今川家に捕らえられていた織田信広(信長の兄)との人質交換が境内で行われた。『信長攻略 桶狭間の戦い 人生大逆転街道』桶狭間の戦いで織田信長が通ったと言われる道を基にした『信長攻路~桶狭間の戦い 人生大逆転街道~』。3月18日(日)まで、信長攻路スポットに設置された5ヶ所の「信長の名言スタンプ」を集めながら、信長攻路を巡るスタンプラリーを開催中であると。『春雨塚 芭蕉』。『笠寺や もらぬ岩屋も 春の雨』。『暁台塚』暁台の門人井上士朗が、亡き師を追慕し、同門青山圃暁の助力を得て、享和三年(1803)の春建てたものである。自然石に『さむ空や ただ暁の 峰の松』と暁台の代表作が刻まれているのだと。しかし、石の表面が風化判読できなくなっていた。延享元年(1744)の『宮本武蔵之碑』宮本武蔵の100回忌を記念して武蔵の孫弟子によって建てられたのだと。享保14年(1729)の『千鳥塚 芭蕉』がここにも。『星崎の 闇を見よやと 啼く千鳥』。御朱印を頂きました。境内の様々な堂の多さにびっくりしながらカメラに納めていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.02
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次街道に戻り進むと左手には山車倉庫らしき目新しい建物があったがこれが『根古屋山車庫』。その前に、案内札がありこの辺りが『鳴海宿 本陣跡』と。「鳴海宿 本陣跡鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。宿駅には、一般の旅人用の旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた。鳴海宿の本陣は、ここにあり、幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・旅籠68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。また、予備の脇本陣は、二軒あった。」更に旧東海道・県道222号線を進む。右手にあったのが『曹洞宗 如意寺』の参道。『山門』。『如意寶珠寺』と青く書かれた扁額。『鐘楼』。鐘楼脇の観音像。寄進者の名が。『本堂』『如意寺』は、康平2年(1059)上ノ山に青鬼山地蔵寺として創建され、応永5年(1398)東区長母寺の無住国師が現在の場所に移転し、その後、応永20年(1413)如意寺と改称した。本尊は伝定朝作の一丈六尺地蔵菩薩で、昔正月に歩射の行事で蛤を放生したので蛤地蔵の名がある。また江戸時代時の鐘を鳴らし別名鳴海寺ともいわれている。境内には、飢饉のとき地蔵尊の足元から蛤が出てきて村人を救ったという蛤地蔵尊が安置されている。山門脇にはせき地蔵尊が祀られた弘法堂もある。本堂に掛かる『頭護山』の扁額。『地蔵堂』。『蛤地蔵菩薩』と書かれた標札。地蔵堂に掛かる『遊戯三昧(ゆげざんまい)』の扁額。蛤地蔵尊が祀られた地蔵堂内陣。蛤地蔵は毎年正月24日、近在の漁師が山のように蛤を捧げ、放生する風習があったからと言われており有名であると。何が書かれていたのであろうか?街道に戻ると名古屋市の『アメンボマンホール蓋』が。アメンボは水のあるところへ素早く飛んで行く。また、渓流など清流のある水域にも生息するため、水道・下水道のイメージにもぴったりと。『作町』交差点を右に。作町のT字路を右へ曲がり進む。この日は11月23日・勤労感謝の日で日本国旗を出す民家。古い民家の板壁には『東海道鳴海宿』に関する書物の紹介であろうか。『東海道 鳴海』。右手にも美しい作りの民家が。そして『三皿』交差点を渡り右折し県道36号線を進む。その先、左手にあったのが『長翁寺』の『山門』。『本堂』。曹洞宗の『白龍山長翁寺』『長翁寺』は、永正7年(1510)鳴見町薬師山の地に創建されt、天正年間(1573-91)に現在地へ移転した。本尊の薬師如来は織田有楽が信長の念持仏を貰い受けたものと言われ、織田薬師とも呼ばれている。本堂に掛かる『覚王殿』の扁額。『薬師堂』。薬師堂に掛かる『醫王殿』の扁額。境内の『水子地蔵尊』。旧東海道に戻り更に進む。長翁寺の先の街道は微妙にくねっており、町並みには連子格子の旧家が残っていた。T字路信号交差点の右手に篤志家の寄進により設置された、寛政4年(1792)の常夜燈が建っていた。『丹下町常夜燈』。「丹下町常夜燈鳴海宿の西の入口丹下町に建てられた常夜灯である。表に「秋葉大権現」右に「寛政四年一一」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。」傍らには 『安産守護子安地蔵大菩薩光明寺』 と刻まれた、大正15年(1926)の光明寺寺標が建っていた。『丹下町常夜燈』のT字路信号交差点を右に入ると、左手に曹洞宗の『一国山光明禅寺』が。光明禅寺は、当初、真言宗の清水寺と称し鎌倉海道筋にあったが、弘治2年(1556)現在地に移転し、瑞泉寺九世剛菴洞金大和尚が開山となり、曹洞宗に改宗し光明寺とした。階段の上に『山門』が。見事な『山門』。山門の手前には、2体の地蔵菩薩が祀られた『地蔵堂』が。『山門』には風神、雷神が祀られていた。『風神』。『雷神』。『山門』に掛かる『天女』の扁額。『山門』に掛かる『天女』の扁額。境内のモミジも紅葉。『本堂』。本堂前には小型地蔵も。『本堂』内部。本堂に掛かる『光明寺』の扁額。『手水舎』手水舎に掛かる『大慈祠』の扁額。文政4年(1821)の『手水石』。篆書体(てんしょたい)で『洗心水』と刻まれているようであった。裏の墓地。『本殿』の右側に座禅の修行をする僧堂・『選仏場』。そして境内の見事な黄葉。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『浄泉寺』を下り、坂道を降っていくと右手にあったのが『鳴海万福寺』の扁額が掛かる表門。表門の奥に石段が続き『万福寺』山門が現れた。階段の途中から、この前に訪ねた『浄泉寺』の鐘楼(右)、納骨堂(左)が見えた。『手水舎』。『鐘楼』。『本堂』。『万福寺』。享栄年間 三井右近太夫高行の創建 真宗高田派。永禄3年(1560)兵火で焼失したが再建され、江戸時代末期にも再々建された。明治6年(1873)に鳴海小学校仮校舎となり、校名を広道学校と称した。境内のツワブキ(石蕗)の花も美しく。寺務所であっただろうか。見事な彫刻。街道に戻って『枡形』を曲がる。鳴海町本町の旧東海道を進む。左手に緑生涯学習センターがあるが、敷地手前角にあった石碑には『旧愛知郡鳴海町役場跡地』と刻まれた石碑が。ここは現在「緑生涯学習センター」があるが、ここはかつての『東の問屋場跡』であると。『東海道の宿場 鳴海宿』。鳴海宿には、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒、宿の東と西に常夜灯が両方残されており、約1.5㎞の宿場町であったと。江戸から87里(341.7km)、京へ38里21丁 人口約3,650人。『本町』交差点を右に折れると左にあったのが『来迎山誓願寺』。天正元年(1573)、僧・峻空の開山で、西山浄土宗、山号は来迎山。本尊は阿弥陀如来で境内に芭蕉供養塔、芭蕉堂がある。この供養塔は、元禄7年(1694)10月(芭蕉死去の翌月)の命日に建立された。芭蕉の供養塔としては最古のもので、昭和52年、名古屋市指定文化財になっている。芭蕉堂は、安政年間に永井士前という門人の建立で、芭蕉手植えの杉の古木で彫刻した芭蕉像が安置されている。徳本の『南無阿弥陀仏名号碑』。德本上人(徳本上人)の独特の字体で南無阿弥陀仏と書かれていた。徳本上人は,江戸時代の念仏行者で全国的にも高名であり,ただひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えて日本各地を行脚し,庶民の苦難を救った清貧の思想の持ち主です。信者は,近畿,東海,北陸,信州,関東地方にまでも広がり,現在でも「徳本講」は引き継がれ,その気高い生き方は時代を超えて人々に大きな影響を与えて来たと。境内の奥の石碑の場所を寺の関係者?に教えていただく。『芭蕉翁』 と刻まれた最古の『芭蕉供養塔』。「芭蕉最古の供養塔誓願寺の芭蕉堂南東脇に建てられた高さ60cmほどの青色の自然石で、表面に「芭蕉翁」、背面に「元禄7年(1694年)甲戌10月12日」と没年月日だけが刻まれている。芭蕉が没した翌月の忌日、当地の芭蕉門下が追悼句会を営んだ折、如意寺に建てられたもので、その後、翁の門人下里知足の菩提寺である当寺に移された。芭蕉最古の供養塔で昭和52年市の史跡に指定。」『芭蕉堂』。安政5年 (1858)に永井士前始めその門人により建立された。『碓氷君徳政碑』鳴海代官だつた碓氷清八郎重治の顕彰碑である。『碓氷君徳政碑』の文字が確認出来た。県道に面して建つ『観音堂』。『聖観世音菩薩』と刻まれた石柱が『観音堂』正面右に。観音堂の前の道路の向かいにあったのが『鳴海宿高札場』。『東海道 鳴海宿高札場(復元)』案内板。東海道 鳴海宿では、江戸時代、宿場に中央にあたる東海道と鳴海駅前通りの交差点東北角に大きな屋根付きの高札場が作られ、高札が掲示されていました(ここより南に約70mの場所)。この高札場の図面や絵図などは残されていませんが、東海道宿村大概帳によると、高さ二間二尺、長さ三間、幅一間との記述が残されています(一間:約180㎝、一尺:約30㎝)。また、当時の高札八枚が名古屋市博物館に保管されています。宿場間の駄賃や人足賃を示した高札は、宿場町ならではのもので、当時の様子をうかがい知ることができます。現存する鳴海の高札 高札場には、現存する鳴海の高札8枚のうち①~⑤の5枚のレプリカを掲出しています①太政官高札:慶応4年(1868年) 「徒党・強訴・逃敗を禁ず」②太政官高札:慶応4年(1868年) 「外国人への乱暴を禁ず」③江戸幕府高札:正徳元年(1711年) 「キリスト教を禁ず」④江戸幕府高札:慶応3年(1867年) 「駄賃人足賃を記す」⑤太政官高札:慶応4年(1868年) 「五倫の道を記す」⑥太政官高札:慶応4年(1868年) 「逃散を禁ず」⑦太政官高札:慶応4年(1868年) 「キリスト教を禁ず」⑧行政官高札:慶応4年(1868年) 「金札の流通の妨げを禁ず」高札の実物は名古屋市博物館に保管されています東海道 鳴海宿 東海道鳴海宿は、東海道五十三次の四十番目の宿場です。東海道五十三次とは、江戸時代に整備された五街道のうちの「東海道」の五十三の宿場のことをいいます。」そして坂道を上るとその先にあったのが『史跡 鳴海城阯』。『史跡 鳴海城阯』石碑。『天神社(鳴海城址)』『社殿』。近くの乙子山に鳴海神社の本社があるから、その境外末社の『神明社』のようです。右手に『成海神社御旅所竣工記念碑』。まだ新しい石碑。『御旅所」とは、『成海神社の祭神が故地(ふるさと)を訪ねられる際に、お寛ぎ(くつろぎ)になられるようにと願って造営されたもの』とネット情報より。『鳴海城跡碑』。「鳴海城跡根古屋城ともいい、応永年中(1394-1427)安原宗範の築城といわれる。永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後まで立てこもって奮戦した。その後、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、天正18年(1590)廃城となったと伝えられる。「尾張志」 は東西75間、南北34間で四面に堀跡、本丸と二・三之丸にも堀を残すと記している。」高札場のある三菱東京UFJ銀行の裏手に真宗大谷派の『竹林山圓龍寺』があった。『竹林山圓龍寺』は、当初、天台宗の善正寺と称したが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの前哨戦で寺が焼失し、寛永10年(1633)この地に再建され、浄土真宗竹林山圓龍寺と改称された。そして下に戻り、道路を渡ると『圓道寺』の『山門』が。曹洞宗の『庚申山圓道寺』。圓道寺は、天正年間(1573-91)の創建で、当初庚申山猿堂寺と称していたが、本堂は有松に移転し祇園寺となった。一方、旧地に残った地蔵堂は安永3年(1774)に庚申堂と改称し、昭和17年(1942)に圓道寺となった。本尊は青面金剛で、山門には『見ざる・聞かざる・言わざるの三猿』が扁額代わりに?『本堂』。屋根にも 「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が据えられていた。ズームで。本堂の扁額には『庚申山』と。一面六臂の青面金剛(左)、くくり猿柄(右)。『青面金剛明王』の幟が並んでいた。『秋葉社』。『弘法堂』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『毛越川』にかかる『鎌研橋(かまとぎばし)』を渡る。この『毛越川』はこの先で『扇川』に合流していた。旧東海道を『鳴海宿』に向かって進む。しばらくひたすら歩くと『月日教おうかんみち教会緑教会』が左手に。『月日教おうかんみち教会緑教会』どのような宗教法人なのであろうか?右手に『神明社』経の階段が。階段に立札があり、この神社は 「元伊勢伝承の神社です」 と記されていた。 「元伊勢」というのは、倭姫が天照大神の鎮まる場所を探して各地をさまよっているとき、その御神体である八咫鏡(やたのかがみ)を一時的に祀った場所をいい、元伊勢と称する神社は愛知県にもいくつかあるのだと。石の鳥居の先に拝殿が。『神明社』の創建年代等は不詳であるが、境内には宝暦6年(1756)の「宿中安全」と刻まれた『手水石』があった。そして『拝殿』。「『愛知縣神社名鑑』の諏訪社(諏訪山)の項を見ると、「昭和27年8月鳴海町字神明千八番地もと村社神明社を合併、飛地境内神社とした」とある。現在は曽根という地名になっているこのあたりは以前は神明という地名だったようだ。曽根の町名は昭和51年以降のことで、字名の曽根田から来ている。」とのネット情報。『平部北』交差点を渡った左手にあった『常夜燈』。ここが『鳴海宿』の東の入口。「平部町常夜燈東海道品川より40番目の宿場町、「鳴海宿」の東の入口平部町に建てられたものである。表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜灯」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。文化3年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影をしのぶことができる。」現名古屋市緑区鳴海町平部の『鳴海宿』の旧東海道を進む。『鳴海宿』の『鳴海』は古くは成海とも書き海に面していたが、今は土砂の堆積で海は遠く離れてしまった。鎌倉時代は鎌倉街道が通り、戦国時代は織田・今川両勢力の接触地点で、鳴海城が設けられた。江戸時代から始まった木綿の鳴海絞は東海街道の名産品として人気をはくし、現在も伝統産業として続いている。本陣:1、脇本陣2:、旅籠68:、人口:3,643人『鳴海宿』の町並みは平部町東端のここ秋葉常夜燈から始まり、平部町から中島町まではほぼ直線の旧東海道が走り、中島橋で扇川を渡ると相原町に入って行くのであった。街道右手に曹洞宗の『紫雲山金剛寺』が。「紫雲山金剛寺宝暦10年(1760)瑞泉寺20世呑舟和尚が創建、本尊は行者菩薩像。そのことから行者堂と云われた。昭和17年(1947)瑞泉寺31世道本蜜成和尚を寺号開山とし、本尊行者菩薩の金剛杖や金剛般若経と縁深いところから、紫雲山金剛寺と改称した。堂前の石仏三十三観音は明和4年(1767)に作られ、以前は街道に面して並んでいた。本尊行者菩薩のほか薬師如来像、なるみ焼きの十六羅漢像が寺宝としてある。町並みの中にある寺だけに、江戸時代には寺子屋として使われていた。」『金剛寺本堂』。扁額には『金剛寺』。『クロマツと旅姿碑』先に進むと左手の民家前にクロマツがあり、その傍らに『旅姿碑』が建っていた。編笠女と手代?飛脚?の『旅姿碑』。『中島橋』の手前を左折して扇川と手越川の川縁を回り込んで行くと、標識の先10m程先に『中島砦跡(なかじまとりであと)』の案内板が民家のフェンスに。名鉄鳴海駅より扇川に沿って約500mほど歩くと、扇川と手越川の合流地点に。(橋の袂に案内板がある。)中島砦は、この三角州に築かれていた砦なのだと。現在は、遺構は何も残っていないようだ。永禄2年(1559)織田信長が今川義元の尾張進攻に備えて築いた砦であり、桶狭間の戦い後、その役目を終えたのだと。『中島砦跡(なかじまとりであと)』の案内板があった個人宅の庭に1927年(昭和2年)に鳴海町により建立された『中島砦跡』碑が隠れるようにあったのであった。そして旧東海道に戻ると前方に橋が。『中島橋(なかしまはし)』と濁らないようであった。下を流れる川は『扇川』。『扇川』に架かる『中島橋』を渡ると相原町へ入って行くのであった。そして右手前方に立派な山門を持つ寺が現れた。『瑞泉寺』曹洞宗大本山総持寺直末の『龍蟠山瑞泉寺』。瑞泉寺は、鳴海根古屋城主安原宗範が応永3年(1396)に創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。 初め瑞松寺と称し、その後、兵火により焼失し、 文亀元年(1501)現在地に移り、後に寺号を瑞泉寺と改めた。山門は、切妻屋根の中央部が上方に突き上がった、宇治の万福寺の総門を模したもので、県の有形文化財に指定されている。『禅(曹洞宗)大本山総持寺直末 龍蟠山瑞泉寺』と刻まれた寺標石柱。「龍蟠山(りゅうばんざん)と号す曹洞宗の寺院である。鳴海根古屋(ねこや)城主安原宗範(やすはらむねのり)応永三年(1396)に創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。初め瑞松寺といった。その後、兵火により焼失。文亀元年(1501、永正元年等の説も)現在地に移り、後に寺号を瑞泉寺と改めた。二十世呑舟は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷弥兵衛の援助により、宝暦五年(1755)堂宇を完成した。山門は、宇治市の黄檗宗(おうばくしゅう)万福寺総門を模した中国風の形式の門で、県の有形文化財に指定されている。」「アメジストセージ」?の花が参道脇に。実物はもっと赤紫色をしていたが、写真に写すとこんな色に・・・・。白塀に映る陰も美しかった。京都府宇治市の黄檗宗万福寺総門を模したという宝暦5年(1755)の『山門』。『山門』は、三間一戸の重層門で、主柱の前後に控柱を4本たてた四脚門の形式をとり、屋根は本瓦葺で、中央を一段上げて造られていた。山門の左右に接続している建屋が、ただの塀ではなく、回廊であった。屋根両端に鯱(しゃち)。『山門』から『本堂』を。山門に掛かる「曇華峰(どんげぼう)」の扁額。曇華峰は山号の別称。天保11年(1840)の手水石が置かれた『手水舎』。寛延元年(1748)の『鐘楼』。扁額の文字は『???』。宝暦5年(1755)の『瑞泉寺本堂』。『本堂』に近寄って。前庭には見事な景色で小石が敷き詰められていた。本堂に掛かる『龍蟠山』の扁額。『本堂』内部を撮ったのであるが・・・。慶應3年(1867)の『僧堂』。僧堂に掛かる『選佛場』の扁額。『弘法堂』。『境内』。『瑞泉寺』から鳴海の町並みを見る。次に右手路地に入り『万福寺』山門の前を通って『木林山 浄泉寺』を訪ねた。浄土真宗の寺院がある。永享四年(1432)鳴海の領主森山左近三郎吉勝が帰依し入道浄空となって浄泉寺を創建したのが始まりという。文明十年(1478)兵火により三町(330m)南の現在地に移転していると。『山門』と『鐘楼』。『山門』。扁額『木林山』。『境内』の正面に『本堂』。斜めから『本堂』を。『手水舎』。『納骨堂』。扁額『横超門』??『鐘楼』。『日本武 天に森山 地に熱田 草薙鳴海』と刻まれた石碑。『浄泉寺』から『万福寺』を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道筋の祇園寺手前から北へ入り天満社の鳥居までの約 150m程で天満社山道へ導く参道を進む。この間に名鉄本線の踏切があった。 頻繁に電車が通過、朝は開かずの踏切になっているのではと。後ろに見えるのが名古屋第二環状自動車道の高架橋。『有松天満社』の一の石鳥居と扁額には『天満宮』と。天満宮らしく梅の御紋が鳥居の扁額の下の左右に。『有松天満社 施設案内図』。そして二の鳥居。二の鳥居前の車止めも神社ならではのユニークな形状。『有松天満社 由緒』「菅原道真公を祀る。元祇園寺境内の神祠であったが、寛政10年(1798)この地に奉遷せられ、当地新興特産の絞り業最盛期を迎えて文化7年(1810)八棟造りの荘麗な社殿が建立され、以来絞り産業の町、有松の産土社と仰がれている。例祭(3月第3日曜)は有松天神春祭として親しまれ、進学祈願祭並びに秋祭り(10月第1日曜)も近在に広く聞こえている。特に秋祭りに曳き出される山車3台は布袋車(延宝4年製作)唐子車(天保年間製作)及び神功皇后車(明治8年製作)相共に屋台にからくり人形を載せて精巧優美な伝統芸術の粋を誇り、昭和48年名古屋市の有形民俗文化財に指定されている。」 一つの山が全て神社かのよう。 中に入ると『虹橋こみち』と刻まれた石柱がありここを上って行く。太鼓橋・『虹橋』を渡る。更に石段を上っていくと三の鳥居が前方に。三の鳥居の先には『手水舎』が。更に『有松天満社』と書かれた紫色の幟が両脇に立てられた長い石段を上って行く。『有松天満社』と書かれた紫色の幟。そして更に四の鳥居が前方に。更に拝殿への石段が続く。石段を上りきると正面にあったのが『神門』。門は閉ざされていた。変わった形の『献燈』。『天満社と鷽(うそ)』「鷽は鳥の一種、日本の130円切手のデザインにも使われている美しい鳥で、菅原道真公の愛鳥だったと伝えられています。道真公が大切な神事を行っていた時に無数の蜂が襲来し、そこへ鷽が飛来して蜂をすべて食べ尽してくれたという伝説より、「災いや悪事を嘘(鷽)にする」と云われ、災いを排除してくれたいわれから道真公のご仁徳の賜物で、ついてしまった嘘(鷽)や災いが真(まこと)や幸運に換える縁起物として祀り伝わっています。」『天満社 由緒』がここにも。『神門』から見た『天満宮拝殿』『臥牛』。道真公は丑(うし)年の生まれ(承知十二年(845年)六月二十五日「丑の年の丑の日の丑の刻」生であるという伝説的な話)や、 大宰府で生涯を閉じ、亡骸を牛車に乗せて運ぶ途中、牛が伏して動かなくなり、「これは道真公の御心であろう」と、その地に埋葬されたことなどから、牛は「天神様のお使いの牛(神使)」、「前進」「隆盛」「幸福」の象徴として夢を叶えてくれると云われ、道真公を祀る天満社には臥牛が置かれているのだと。自身の身体と同じ『臥牛』の部位を祈願しながら手で撫でれば、身体は健全に病気は快癒すると云われ、また筆で頭部を「頭が良くなりますように」と撫でれば、知恵が付き賢くなると云われているのだ。『筆塚』碑。「祭神・菅原道真公は学問の神様です。学業上達のためご精進された古いお筆をここにお納め下さい。」『天満社の境内神社』一、神明社 天照大神(あまてらすおおみかみ) 日本の神様の中で最高神の地位の神様であると共に太陽の神様であり、 高天原(たかまがはら)の主祭神です。総本社は三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮です。一、稲荷社 宇迦之御魂(うかのみたま) 京都府の伏見稲荷大社が総本社であり、「お稲荷さん」として広く信仰されています。 農耕・商工業・商売繁盛の神様として、全国の稲荷神社で祀られています。一、秋葉社 火之迦具土神(ひのかぐつちかみ) 静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社が総本社であり、愛宕神社や野々宮神社等でも 祀られています。「火之迦具土神」の名前には「輝く火の神様」「ものが燃えている においのする神様」という意味があることから、火・鍛冶・火伏の神様として信仰されて います。一、琴平社 大物主神(おおものぬしのかみ) 香川県の金刀比羅宮が総本宮であり、五穀豊穣・開運除厄・酒造り等の神様として 祀られています。これは大物主神は蛇の御姿をしていることから、水神や雷神としても 信仰されています。 また、「大国主(おおくにぬし)」という別名があり、「大黒天」として祀られることも あります。一、御鍬社 金山彦之神(かなやまひこのかみ) 神名の通り「金山(かなやま、鉱山)」を司る神様で、鉱業・鍛冶等金属に関する 技工の守護する神様として祀られています。お参りを済ませ階段を下る。四の鳥居、そして石段を振り返る。そして再び名鉄名古屋線の踏切を渡る。旧東海道に向かって歩くと、正面に見えたのが『神功皇后車(西町)の山車庫』「神功皇后車(西町)の山車庫ここ西町の山車庫には、「神功皇后車」と呼ばれる山車が格納されている。かつて祭礼に曳航した山車は、祭りが終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、格納している。昭和二〇年以前の木造の建物で、町並みの景観になじんだ造りとなっている。神功皇后車は、明治六年(1873)、西町が名古屋の大工 久七に発注して造ったもので、有松に現存する三台の山車の中で最も古くから曳かれている。昭和四十八年(1973)、市の文化財に指定された。毎年十月第一日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳きだされる。」『東海道五十三次二代目松』とその『石碑』は『西町年行司』の前に。『東海道五十三次二代目松』碑。村に最初から生えていたといわれる樹齢300年の松の古木があったが、初代の松が枯れて現在二代目が植えられているのだと。隣に『梅屋鶴壽の歌碑』が。「あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ 梅屋鶴壽」「梅屋鶴壽幕末の狂歌師、享和元年(一八○一)江戸神田佐久間町に生まれる、 姓はは諸田、通称は初め佐吉、後、亦兵衛と称した、株をあきない、尾州家の御用を勤める。 若い頃から狂歌を得意とし、始めは長屋姉子、又は松枝鶴壽とも号したが、 後に長谷川町に待合茶亭、梅の屋を出し梅屋鶴壽と言うようになった、 狂歌人物誌に「花街戯場のことをよくうがちて秀吟おほし本町側糸巻連の魁首にして其名四方に鳴る」とある。 老後は号を株翁とも言うようになった元治元年(一八六四)正月十二日享年六十三歳で亡くなる。」東海道より古い道・「長坂道江戸時代以前から、祇園寺前から桶狭間を通り大府や刈谷へ行く古道があり、戦前までは多くの人に利用されていた道であった。現在は小道が1号線まで続いています。」有松の西、祇園寺門前から国道 1 号線に通じる道幅 1 間ほどの小道の入口があった。 この道は天保 12 年(1841)の桶狭間村絵図にも記載されている東海道より古い道。 古道北端は祇園寺で、当時は東西をつなぐ重要な道であったと。別名桶狭間村道、 刈谷街道と呼ばれていた。絞りで繁盛した時代、商家の裏道でもあり、道脇には紺屋(こん や)などの絞りの下職が点在していた。 右手に『祇園寺』の『山門』が。山門前に例の「不許葷酒入山門」の石柱が立つ。『曹洞宗 祇園寺』寺標石柱。『本堂』。1592年から1595年(文禄年間)の創建。当初は円道寺といい、鳴海にあったが1706年(宝永3年)に猿堂寺と改称、1755年(宝暦5年)現在地へ移動し祇園寺と改められた。境内に33観音石仏や奈良薬師寺の仏足石を模したものがあり、その横には1828年(文政11年)の豪潮の歌碑が建っていると。又、本堂西には お釈迦様の足跡に由来する仏足石があり、文政 11 年(1828)に作られたもの。 奈良の薬師寺の模写ですが歌碑には光明皇后(こうみょうこうごう)によるもので「御跡つくる 石の響は天に至り地さえゆすれ父母がために諸人のために」と刻まれていると。 現在は幼稚園が同じ敷地内に。この日は境内でこの幼稚園のバザーが行われ、混雑していた。ここにも有松絞りの『絞』の暖簾が街道沿いの店頭に。有松絞りの染め工場はこの日は休みのようであった。美しい有松の町並みもここで終わり。名古屋第二環状自動車道・(名二環:伊勢湾岸道方面)の高架橋。高架橋下に『有松一里塚』碑があった。鎌研橋(かまとぎばし)一里塚とも言われ江戸から『八十七里』。比較的新しそうな『有松一里塚』碑。江戸から87里。ここ緑区史によると、「有松一里塚の大きさは、方五間(約 9.1m)で、松並木から目立つ様に塚頂上に榎を植えた。鳴海町字鎌研4・5番地の両側に完全な姿の一里塚が残っていたが、 大正13年国から民地に払い下げられその後 塚が消滅した」と記載されていると。 民地に払い下げられて無くなってしまったが、名古屋環状2号線整備に合わせ2012年に90年ぶりに復元されたようだ。「有松一里塚一里塚は、慶長9年(1604年)、幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、 道程一里(約4km)ごとに道の両側に5間四方ほど(約9.1m)の塚を築き、 榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、 荷物その他の運賃計算の基準にもなりました。 この辺りに、江戸から87里を示す一里塚がありましたが、大正13年、払い下げられ民地となり、無くなりました。 しかし、歴史ある有松の地の発展を願う地元の強い熱意により、平成24年、当地に復元されました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次再び『服部家住宅』、屋根には『卯建(うだつ)』が。『卯建』とは切妻の屋根の妻側(棟(むね)に直角に接する側面)の壁。特に、これを屋根より高いところまで延長して小さな屋根をつけたもの。おもに近畿地方の町屋でみられた。家の格式の象徴とされ、瓦(かわら)や漆喰(しっくい)を施したものは、防火・防風に役立った。店舗並居住部 一棟、井戸屋形 一棟、 客室部 一棟、土蔵・絞倉・藍倉 六棟、門並門長屋 二棟。当住宅は東海道に面する町屋建築の遺稿であり、有松における絞問屋として代表的な建物である。主屋は塗籠造りで卯建を設け、倉は土蔵造りで腰に海鼠壁を用い防火対策を行っている。服部家は屋号を私にも身近であった「井桁屋」と言う。板塀の後ろには老松が旧東海道を覗き込む如くに。『つつみ病理 診断科クリニック』の看板が。ここは枡屋、山口邸のあった場所だが。更に『重要伝統的建造物群保存地区』を進む。右手に『中川橋』と刻まれた石碑が。中町と東町の境を流れる中川は、現在は暗渠でそのまま手越川に流れている。その上が遊歩道で、入口にこの碑が建っている。「天保村絵図」(1841年)によると当初は板橋で、ここから西町の一部まで尾張藩の除地(無税地)が設定されていた。右手にあったのが『中濱商店』。中濵家住宅は、有松東海道に面して建つ町屋で、主屋を中心に西側に土蔵、東側に塀・物置と、有松の大規模な絞り問屋に見られる典型的な屋敷構えとなっています。建築面積240㎡、木造、厨子(ツシ)2階建、切妻造桟瓦葺、平入りの商家で、1階は正面全体を木格子で統一し、江戸期の蔀戸を採用せず、雨戸を入れたり出格子を採用し、内部には、入口から裏口までの片土間式を採用しています。2階は、軒を出桁造とし、虫籠窓を並べ、黒漆喰で塗籠めています。屋敷を囲む塀および石垣は、西側の塀は腰を杉皮張りとし、東側は人の頭の大きさの玉石を積んだ擁壁が連続し、北側手越川面は切石を積み上げた精密な亀甲積みの擁壁となっています。明治時代に遡る遺構と考えられ、これら敷地境界の石垣も手越川沿いの歴史的景観を形成する貴重な工作物となっています。塀に沿った山与遊歩道から塀、石垣が観察できます。 建築年:明治中期頃 国登録有形文化財(2008年) 現在の使用:絞り商 『中濱商店』前の歌碑。「上代より 千世の契りや 有松の 千しほ八千しほ くくり染けむ 加茂季鷹」。『登録有形文化財 中濱商店』。藍と有しぼりの店。ここも有松絞りの店『十八番』。多くの有松絞りのTシャツが。欲しかったが・・・・・。振り返って。県道237号線・新田名古屋線との交差点まで進む。この交差点から北東に500mほどの場所にあるのが『有松天満社』。『有松天満社 由緒』「有松天満社は寛政年間の始め(一七八九~)に旧東海道の私面すの回せ文章によって現在地に遷座され、文政七年(一八二四)現在の「八棟造」の社殿が造営され、今日まで守り続けられてました。有松天満社と菅原道真 有松天満社は菅原道真公を祭神として祀られています。道真は平安時代の貴族で優れた学者で あった事から朝廷では要職についていましたがある日、太宰府(福岡県)へ島流しとなり 波乱の生涯を閉じました。道真の死後朝廷は「天満大自在天神」の神号を贈り神格化された 実在の人物です。江戸時代は寺子屋にも道真を祀り 天神ま」は学問の神様として 親しまれてきました。有松天満社の祭礼春季大祭 毎年三月第三日曜日 道真の命日が旧暦二月二十五日に当たる事から以前は三月二十五日に行われていましたが 昭和三十九年から毎年三月第三日曜日に行われる様になりました。 春季大祭は天満社境内において学業成就・厄除け・家内安全・商売繁盛等を祈願する行事が 行われます。周辺には屋台の出店も多く大変販やかな一日となっています。秋季大祭 毎年 十月第一日曜日 その昔秋祭りは五穀豊穣を祈り感謝の祈念を捧げ、盛大に祝ってました。明治時代に入り、 町の繁栄と共に山車による豪華な祭りへと変わり、今日では名古屋市文化財に指定された ニのからくり山車が旧東海道を現行されます。 山車から流れるお囃子の音色は雅楽の流れを汲み優雅と言えましょう。 夜は色とりどりの提灯に飾られ、山車は幻想的雰囲気に包まれます。年間祭事 元旦祭 一月元日 初天神前夜献灯 一月二十四日 初午前夜祭 二月五日 初午祭 二月二十五日 金毘羅春祭前夜献灯 三月九日 春季大祭前夜祭 三月第三土曜日 春季大祭 三月第三日曜日 津島祭迎え 七月十五日 津島祭中祭 八月二十三日 津島祭送り 九月三十日 秋季大祭前夜祭 十月第一土曜日 秋季大祭 十月第一日曜日 金毘羅秋祭 十一月九日 新嘗祭 十一月二十五日 秋葉大社祭 十二月十六日」県道237号線・新田名古屋線以西の有松の建築物の案内図。『山田家住宅・旧山田薬局』にあったこの大きな白玉は?これは絞りの提灯の様で、不思議な形に見えるのは、絞りの提灯カバーによるもの。その先の店舗のこちらは浴衣の生地であろうか。『唐子車(中町)の山車庫』が『山田家』の先右側に。「唐子車(中町)の山車庫ここ中町の山車庫には「唐子車」と呼ばれる山車が格納されている。 かつて祭礼に曳航した山車は、祭が終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、格納している。 平成十七年、土地区画整理事業にともない、本来建っていた場所より多少東側(右側)の現在地に新築された。 木造で、街並みの景観に配慮された造りとなっている。 唐子車は、天保年間(一八三○~四四)に知多内海で造られたものを、明治八年(一八七五)に中町が購入した。 昭和四十八年(一九七三)、市の文化財に指定された。 毎年十月第一日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳きだされる。」『中舛竹田荘』「デイサービス 松柏苑」と書かれた木札が。『中舛竹田荘』「中舛竹田家は、旧東海道の歴史的な町並みを伝える貴重な建物であり、有松絞りの開祖である竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物であったと伝えられています。老朽化が進み建物と町並みの存続が危ぶまれる状況の中、保存について検討がなされ、所有者である竹田様と地元の方々・名古屋市・事業者・市民の協力で、「有松まちなみ保存ファンド募金」を活用し、梁などの材料を活かしつつ、外観は江戸期の様式を再現しました。」左手に案内板が。『名古屋市有松伝統的建築物群保存地区 名古屋市有松街並み保存地区』案内板。「まちの成り立ち 慶長13年(1608)、有松は東海道の鳴海宿と池鯉鮒(ちりゅう)宿の間に尾張藩によって 開かれました。東海道を往来する旅人の土産物として絞り染め(有松絞り)が考案され、 以降、有松絞りとともに有松のまちは発展しました。 町並みの特徴 東海道約800mの区間に沿って、広い間口を持つ絞商の主屋や門・塀が数多く見られます。 比較的ゆったりとした町並みが継承されています。 また、江戸後期から昭和前期までの様々な時代の建物がみられ、全体的にゆったりとした印象の 町並みとなっています。」 『重伝建保存地区並びに町並み保存地区』。左手に『竹田家住宅』。竹田家は、有松絞の開祖竹田庄九郎の後裔で300年以上の伝統を持ち、有松における代表的家系の一つです。江戸末期における屋敷全体は、小田切春江によって描かれた俯瞰図でもうかがい知ることができ、正面外観の様子は、同じく春江の筆「尾張名所図絵巻之六」でも知られます。俯瞰図の右上に描かれている「申々居」は、春江院(緑区大高町)に移築され現存しており、棟の鬼瓦には、家紋の菱印が認められます。主屋は、木造切妻造二階建、桟瓦葺、平入りですが、明治から大正にかけて屋根を上げ、しっかりした2階形式にし、表側に下屋(庇)を付設し土庇にしたり、出格子窓を造り、併せて、「申々居」移築あとの敷地に新たに書院が建造され、主屋と書院との間の間取りも大幅に改築されています。また、屋敷内の南方に、築200年以上とされる茶室「裁松庵」がある。同家の造りは、絞問屋としてはもとより、接客用としての性格も強く、右側の門や玄関、書院、茶室などはこれらを具体的に示すものです。外観の偉容は、全盛時代の有松の豪華さを誇った代表的な建築の面影を偲ぶことが出来ます。『竹田家住宅』「市指定有形文化財(平成7年) 主屋一棟、書院棟一棟、茶席一棟、宝蔵一棟、一・二番蔵一棟、縄蔵 一棟、附属棟(西門・長屋門・味噌蔵)三棟当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。 建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。 とくに主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的にたいへん優れている。 竹田家は、屋号を笹加と言う。」看板には屋号『絞染類 笹加』と。のれんの上の屋根に「明治期のガス灯」が残る。有松絞りの傘が入口に。玄関?の看板には「竹田嘉兵衛商店」という会社名も。内部。左側前方に『木全家』、『岡田家』、『山田家』そしてその先に『岡家』。左手に『岡家住宅』が。当住宅は、江戸時代末期の建築で、当時は丸屋丈助の店として、小田切春江の錦絵にも描かれています。敷地は奥行が深く、主屋は木造切妻造二階建、桟瓦葺、土庇付の建物で、二階窓は優美な縦格子、塗篭漆喰塗になっています。お勝手の釜場の壁は、防火上の配慮から柱を巻き込んで塗りこめられた土壁が、独特の波形を描いています。主屋の裏の敷地に、座敷、作業場、東倉、西倉が立ち並んでいます。有松の幕末における典型的な町屋形態を示しています。『広重 東海道五拾三次 鳴海 名物有松絞』駕籠に乗った女性と馬に乗った女性が供を連れて街道を行く。絞りを買いに来たのだろう。主屋 一棟、 作業場 一棟、東倉 一棟、 西倉 一棟当住宅は、江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物である。また勝手の釜場の壁は防火上塗籠であり、このような形式では現存する唯一の例で、意匠的にも優れている。『名古屋市指定有形文化財 岡家住宅』。「岡家住宅市指定有形文化財(昭和六ニ年)主屋一棟、作業場一棟東倉一棟、西倉一棟当住宅は江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗篭造の建物である。また勝手の釜場の壁は防火上塗篭であり、このような形式では、現存する唯一の例で意匠的にも優れている。」『岡家住宅』内部。有松に関する様々な紹介パネルが展示されていた。『有松の町並み』と『有松の沿革』。『江戸後期の代表的な建物』「竹田家住宅(竹田嘉兵衛商店)」『江戸後期の代表的な建物』「服部家住宅(井桁屋)」服部家は1790年創業の絞り問屋。屋号が井桁屋。11棟の建物が県の有形文化財。主屋の2階は黒漆喰の塗り籠造、屋根に卯建が上がる。土蔵は漆喰の塗り籠造、腰はなまこ壁で防火対策を行っている。連子格子、虫籠窓等、美しい姿の江戸時代の建物。『岡家住宅の概要』『明治期の代表的な建物』「中濱家住宅」『その他の代表的な建物』「棚橋家住宅」、「小塚家住宅」、「服部良也家住宅」。『岡家住宅』の屋根の明り採り。この「絞りはっぴ」を着て記念撮影ができるとのこと。畳表も美しく。天井を見上げる。右手にあった建物の郵便ポスト。前方に「名古屋第二環状自動車道」の高架が見えて来た。正月の牛蒡注連の如きものを縦にし連子格子に取り付け花挿に。『小塚家住宅』『小塚家住宅』「市指定有形文化財(平成四年) 主屋一棟、表倉一棟、南倉一棟当住宅は、重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめている。 主屋の一階は格子窓、二階は塗籠壁、隣家との境に卯建があり、塗籠造のうち最も古いものの一つと思われ、有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物である。 小塚家は屋号を山形屋として明治まで絞問屋を営んでいた。 」「祝 重伝建選定記念」の短冊がぶら下がっている有松絞提灯。提灯を有松絞りの絞りを施して包んでいるのであろう。『重伝建』とは『重要伝統的建造物群』保存地区の事。ここにも『卯建(うだつ)』が。左手にあったのが『文章嶺(ふみのみね)天満宮』社標石柱が。有松天満社がこの先100mの場所にあると。天満社が有松に勧請された年代は詳(つまび)らかでないが、江戸時代後期の『尾張名所図会』によれば次のように記されている。文章嶺(ふみのみね):祇園寺の後の山をいふ。天満宮を安置す。神廟もと祇園寺境内にありしが、寛政の初め、寺僧卍瑞(まんずい)の開基にして、数千人より捧げし詩歌文章等をこの山頂に埋め置き、文政七年(1824年)、その上に今の神廟を基立し、あらたに八ツ棟造りの高廟を構え、以前に百倍の荘厳とはなりぬ。こは当所有信のやから、莫大な資材を寄附せしとぞ。それよりして文章嶺と称す。山の中腹に滝あり。いろはの滝という。これ御手洗なり。また瑞垣の内に、冷泉為泰卿御自筆の御詠をそのまま石に彫りて建つ。今左に記して以て世に公にす。有松天満社の祭神は、菅原道真公。社標石柱の前には『切通し』の文字が。東海道筋の祇園寺東から北へ入り天満社の鳥居までの約 150m程で天満社山道へ導く参道。この切通し入り口には、天保 13 年(1842)建立の常夜燈一対が立ち、それには刻銘が以下の ように刻まれていた。 東側(正面):文章嶺天満宮(右)神徳昭 昭光放家門 祖業繁栄永福兒孫 西側 正面):文章嶺天満宮(左)天保十三年壬寅春正月吉日 竹田庄九郎直行・服部清兵衛守信 久田伊左エ門庸治 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次地蔵堂の先のY字路左に橋があり、この橋を渡ると『有松宿』に入って行くのであった。東海道五十三次、40番目の宿場が鳴海宿。一方の有松は、尾張藩の命によって鳴海宿と池鯉鮒(ちりゅう)宿(知立市)の間に開かれた間宿(あいだのしゅく)。有松といえば、江戸初期に人々の生業として導入された絞り染め。尾張藩の保護もあり、東海道随一の名産品として育ち、「有松絞り」「鳴海絞り」として生産や取引が大きく伸びた。町には重厚な造りの絞り問屋が軒を連ね、大層栄えたのだ。『近崎道』のスタート地点有松の『松野根橋』。有松から近崎村(ちかさき)、現在の大府市北崎町に向かう道が『近崎道』。桶狭間合戦で織田信長や今川義元の両軍がこの道の一部を通ったと云われる道であると。東海道の有松の『松野根橋』の手前を右に曲がる道が出発地点だと。この細い道の先は国道一号線に出るようであった。『手越川』に架かる『松野根橋(まつのねはし)』を渡る。ここからが『有松宿』。有松は、旧東海道の鳴海と知立の宿の間に、慶長13年(1608)に、合宿(あいのしゅく)として開かれた。尾張藩の奨励により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九郎により、絞り染めが考案され売り出されると、藩の庇護も受け、絞は有松名産として、全国にその名を知られた。有松はこの絞と共に繁栄したが、天明4年(1784)、大火が起り全村ほとんどが焼失した。村の復興に当り、建物は従来の茅葺を瓦葺にし、壁は塗籠造り、2階の窓は虫籠窓に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。商家の建物は、中2階建切妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞の店頭販売の為に、大きく開かれていたが、今は格子がついている。名古屋市は、有松を町並み保存地区に指定し、伝統的建造物や、町並み保存上必要な物件を定め、古い町並みに調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助を行っている。欄干には「有松絞り」の絵柄が嵌め込まれていた。『有松駅』東の建築物配置図。更に『ありまつ』絞りの暖簾が家ごとに。『ありまつ』しぼりの暖簾。路面のマンホール蓋にも『有松絞り』の絵柄が。右手には白壁・なまこ壁の土蔵が。なまこ壁という名前は、この盛り上がった漆喰の形状が海に住む海鼠(なまこ)に似ているから名づけられたと言われている。このなまこ壁は、風雨から建物を守るため、そして、火災の延焼を防ぐという目的も。雨に弱い土壁の表面に、防湿のために平瓦を並べて貼り、その目地を漆喰で厚く塗ることで耐久性も高まり、長い年月の風雨に耐える造りになっているのだ。古い有松の町並みが前方に拡がる。中2階建切妻平入り、壁は塗籠(ぬりごめ)造り、2階の窓は白の『虫籠窓(むしこまど)』。虫籠窓は、窓の形式の一つで、目の細かい縦の格子が等間隔に並ぶ虫籠格子(むしこごうし)をつけた窓のこと。 虫籠窓は、「虫篭窓」、「虫子窓」、「蒸子窓」とも書かれ、形状が虫籠(むしかご)に似ているところからこの名があるとも、竹を編んで作った蒸子(むしこ、蒸籠)に似ているところからとも。『愛知県絞工業組合』の建物は『森井家』。「『愛知県絞工業組合』では伝統工芸品「有松鳴海絞」の技術の継承、発展、また将来絞り産業に何らかの形で携わる人材を育成するために絞りの体験教室を開設していると。本事業は伝統工芸士による直接指導をする機会を提供することにより、養成された技術を活かし、当産業の絞り技術者として従事し、伝統工芸品の発信する豊かなメッセージによって個人の感性が養われると共に、日本固有の歴史や文化に対応する関心・理解が求められ、伝統的工芸品産業のみならず芸術・文化の継承・発展に貢献することを目的としています。」とネットには。『絞りLab』の看板が入口の上に。『愛知県絞工業組合』先のここにも『地蔵堂』が。中の『地蔵様』。『有松郵便局』にも『ありまつ』の暖簾が。『有松郵便局』を振り返る。右手には板塀のある建物・『加藤家』が。ここも中2階建切妻平入り、2階の窓は虫籠(むしこ)窓。左手の建物・米穀商『永井家』は、店での取扱商品をムーミンがいろいろな衣装で紹介していた。有松絞りの『暖簾(のれん)』が様々な絵柄で。更に有松宿の散策を楽しむ。電柱・電線がモール化されていたのであった。右手に有松絞りを行い繊維製品の製造を行う会社・橋爪合資会社。愛知県名古屋市を拠点とし、有松絞りを行い、繊維製品の製造や卸売を手掛ける。また不動産管理も取り扱う会社とのこと。『有松山車会館』。有松にある山車三輌〔布袋車・唐子車・神功皇后車〕を毎年交代に展示し、まつり文化を紹介している。慶長年間より現在まで400年を経て、まちなみも江戸風情を残し落ち着きと潤いを感じさせてくれるとともに、生きた歴史資料として貴重なものと。この日は残念がら閉まっていたのであった。「布袋車(東町)の山車庫奥に鎮座する大将人形が、七福神の一人・布袋であるところから「布袋車」と呼ばれている。明治二十四年(1891)に玉屋町(現在の中区錦)から有松に譲られた。延宝三年(1675)から若宮祭へ参加している記録は残っているが、いつ製作されたかは明らかではない。この山車には、布袋、文字書き唐子、蓮台を廻す唐子とざい振童子の四体のからくり人形が乗っている。大幕四枚(鳳凰、亀、龍、麒麟)の下絵は、山本梅逸であり、猩々緋(しょうじょうひ)に金糸で刺繍されているのは、市指定文化財の山車では唯一である。毎年10月第一日曜日の「有松祭」に曳きだされる。」『寿限無茶屋(じゅげむぢゃや)』は『服部家』。創業昭和59年2月、ここ町並み保存地区有松で開業。 以来、築100年の名古屋市の「伝統的建造物家屋」の店とともに、町に溶け込むような感じで独特な風情をかもし出しているのであった。店の中程にある大黒柱は、明治後期の濃尾地震、昭和初期の三河地震、二度の大震災のためか、ねじれているのが確認できたのであった。『有松・鳴海絞会館』が左手に。『昭和六十一年十一月十日 皇太子殿下 皇太子妃殿下 行啓(ぎょうけい)記念』碑。「行啓」とは太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫などのお出ましの事。『有松・鳴海絞会館』入口と右側の石碑。左の石碑は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人で幕末、明治維新から昭和の戦前期まで広く影響を与えた『日本外史』(幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書)などの著者、頼山陽(らい さんよう)が1813年11月、有松 井桁屋に一泊することになった時に見た当時の有松の街、絞り染めのすばらしい衣、桶狭間の古戦場を、 頼山陽の感性によて見事に描かれた漢詩・『過 有松邨』であると。右手は『旧知多郡有松町役場跡地』そして『有松・鳴海絞会館』に入る。右に『有松・鳴海絞会館』の案内、左に表にあった頼山陽の漢詩の案内板が。中央の版画は『東海道五十三次 鳴海 (名物有松絞)』。鳴海は絞り染の名産地であり、店が並んでいた。この図は鳴海より約一里東にある有松絞を売る店を描いたものである。建物や樹木を暗く着色し、地面も単純に描き、店の中に目が行くように描かれている。駕籠、馬、徒歩と、女性の旅人が通る。歌川広重「丸清版・隷書東海道五十三次」より「鳴海・名産絞り店」。有松絞で知られた尾張の国、鳴海宿を描いた歌川広重の隷書版東海道五十三次中の一図。この図で、広重は商店や旅籠(はたご)が軒を並べる宿場町の景観を、透視遠近法を用いて描きだしている。伝統工芸である有松の鳴海絞りを知れる博物館のようになっていた。1階は、絞の種類や作り方をパネルで紹介。ハンカチから洋服まで幅広い商品が販売されていた。値段も比較的安いものがあり、土産にも最適ではと。時間があれば、2階は資料館として有料施設になっていた。職人さんの実演も見学が出来るのであったが。左上に、「幕府が管理した江戸~大阪の東海道五十七次」の案内地図が。様々な有松絞りの作品が販売されていた。見事な絞り模様。「代表的な有松しぼり」案内。三浦絞、手蜘蛛絞、縫(杢目)絞、鹿の子絞、手筋絞。実演の紹介コーナー案内も。傘や毛布?やソファー用クッション等も。和服様帯。紅葉も映えて。『有松 名古屋 日本』と。『揚輝荘』のポスター。揚輝荘は、大正から昭和初期にかけて(株)松坂屋の初代社長15代伊藤次郎左衛門祐民によって構築された別荘。かつては迎賓館、社交場として華やぎ、国際的なコミュニティを形成した場所でもあったと。その後、世の移ろいを経て、5棟の文化財と庭園が残されていると。場所は名古屋市千種区法王町2-5-17 。外にある頼山陽の漢詩の石碑の案内がここにも。売 絹 小 市 絹綿の絞を商うこの町枕 隆 坻 両側が起伏した谷間の村で一夜を泊まった聞 説 英 雄 織田・今川の合戦史を聞き此 折 旆 勝敗決して今川方は破れ碧 血 爛 斑 決戦の様相古戦場の姿は 千 載 在 永久に書き残されている纈 文 染 上 九九利染めの古文書を知り 女 児 衣 優雅な衣料を見た 過 有 松 邨 有松の村を通り歩くと邨 民 粥 撮 村人は縫い絞を手業とし縫 為 業 村 村の産業となっている東 即 桶 峡 村の東端に桶狭間がある山陽 外史 妻への土産のスカーフ?を購入して外に出る。この周りが『重要伝統的建造物群保存地区 名古屋市緑区 有松 (染織町)』。『服部幸平家住宅の倉』。「服部幸平家住宅の倉服部幸平家は、西隣り(左側)の絞問屋・服部家から分家した家柄であり、かって屋号を井桁一といった。 明治時代中期、分家の際に譲り受けたこの倉は、切石の土台の上に建てられた木造切妻二階建桟瓦葺で、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とし、江戸時代の様相を呈している。 服部家住宅と一体をなしている点で、有松の街並み景観上、非常に重要である。 昭和六十二年(一九八七)、県の有形文化財に指定された。 」『服部家住宅』。有松の町並み保存地区内にあり、主屋は1階が連子(れんじ)格子、腰は簓子(ささらご)下見板張り、2階は虫籠(むしこ)窓で連続して設けられ、妻側に卯建(うだつ)のある黒漆喰の塗籠(ぬりごめ)造り。土蔵は白漆喰の塗籠造りで、腰は海鼠(なまこ)壁としています。主屋と土蔵は有松の絞問屋の代表的な造りであり、町並み景観を形成する建物の一つ。「服部家住宅服部家は、寛政二年(一七九○)創業の絞問屋で、屋号を井桁屋という。 屋敷地は、東海道に面して広い間口を有する。 中央部に店舗及び居住として利用する二階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍蔵、門など合わせて十一棟の建物が有力な絞問屋の屋敷造構の典型として、 昭和三十九年(一九六四)県の有形文化財に指定された価値のある遺構となっている。 主屋の二階は黒漆喰の塗籠造、屋根両妻に卯建を設ける。 土蔵は漆喰の塗籠造で、腰は海鼠壁とし、防火対策を行っている。 有松を代表する価値ある建物群である。」『服部家住宅』の入口には『愛知県指定文化財』と書かれた木札が。『有松山車祭り』の写真・『凛として、有松』と。『有松山車祭り』、有松天満社秋季大祭として、毎年10月の第1日曜日の前日及び当日に分かれ、それぞれ前夜祭、本祭があると。前夜祭・本祭・夜祭と構成されている。『有松山車祭り』で使用される山車は名古屋市の有形民俗文化財として登録されており、全3輌が曳きまわされる。夜祭では提灯を灯し、とても幻想的で美しい山車が曳かれ、夜の車切りが行われると。舞妓さんの姿で有松散策の様子も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次桶狭間古戦場の向かいの高台に高野山真言宗の『香華山高徳院』があった。高徳院の創建年代等は不詳であるが、幾多の変遷を経て明治26年(1893)に高野山より寺の名を請い受けて高徳院とした。桶狭間合戦当時にはなかったが、この地は今川義元の本陣があったとされる場所であり、境内には今川義元公本陣跡碑があり、本堂には今川義元公の位牌を安置している。写真右上の朱の塔が『高徳院 永代供養塔 瑜祇塔』。『高徳院』と言う名前はどこかで聞いた覚えがあったが、考えてみると鎌倉・長谷大仏の寺であった。『高徳院 永代供養塔 瑜祇塔(ゆぎとう)』。瑜祇塔は金亀の上に立つ多宝塔を指し、屋根の上に五本の相輪があるのが特徴である。元々のモチーフは、池に映った月と池の亀に立つ瑜祇塔というもの。亀に立つ塔のため「涌亀塔」とも呼称される。平安時代の実運(1105~60)撰『瑜祇経秘決』には、塔の下の「金亀」が「世界建立」を表し、塔の上の五本の相輪(「五峯」)に布された梵字が、金剛界三七尊を表しているという。『仁王門』の『山門』高徳院金剛生門(仁王門)。高徳院は、真言宗高野山において9世紀に「高貴徳王菩薩」を本尊として建立され、明治26年、桶狭間の合戦の戦没者の供養と布教のため、豊明村(現豊明市)に移転された。この金剛生門は昭和62年(1987年)11月に落慶竣工。山門に掛かる「金剛生門」と書かれた扁額。向かって右方が、開口の「阿形(あぎょう)」。金剛、金剛力士といわれる。左手に金剛杵(こんごうしょ)を持ち、右手は金剛手印。上半身をズームで。彩色が忿怒の相をいっそう際立たせる。心を開き真実を見ることを諭す阿形。衆生を救済するため、門前で諸悪を断ち切る手印とされる右手の金剛手印。下半身。右脚を右斜め前に踏み出して構えている。左方は、口を結んだ「吽形(うんぎょう)」。力士、密迹(みつしゃく)力士ともいわれる。左手は、五指を開き正面を向け、右手に金剛杵棒(こんごうきねぼう)を担ぐ。上半身をズームで。心閉じて、煩悩を断ち切れと諭す吽形。右手で担ぐ金剛杵棒。智恵(ちえ)をもって煩悩を打ち砕く武器。左手の金剛手印。五指を開いた形は、敵の攻撃に対し盾、剣のように敵を切り倒す強力な武器。下半身。左脚は左斜め前に踏み出して構える。そして『仁王門』を潜り境内へ。『今川義元公本陣跡碑』今川義元が織田信長に討たれた地はよくわかっていないらしく、名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園(田楽坪)という説もあるのだと。戦国時代の一ページを飾る重要な場所であるにもかかわらず、ここ豊明市側の桶狭間古戦場跡には資料館ひとつないようだ。別のページには「名古屋市側の説によると緑区にある「おけはざま山」に、豊明市側の説では現在の「高徳院の敷地内」に今川義元の本陣があったとされています。どちらの説が正しいのかは現在も定かではありませんが、名古屋市側の方が今川軍の武将の陣地や信長の進軍ルート、また義元を討ち取った時の様子など具体的な仮説が多いことから名古屋市側有利との声が上がっています。」と。いずれにせよ、それぞれが、ここが本当の「桶狭間古戦場」と主張しているのだと。『大正天皇 東宮殿下御時行啓』碑。『鐘楼』。鐘の中央に、『南無当山代々先師尊霊』の文字が鋳込んであると。角度を変えて。背後に見える建物は、『高徳院愛昇殿』と呼ばれる、葬祭施設。『高徳院持仏堂』。御本尊は弥勒菩薩。石段の上の、一段高い場所に。本堂に掛かる『高徳院』と青字で書かれた扁額が鮮やかに。『徳親龍神堂』。紫の帽子に前掛け姿は、地蔵様の普段着だが、どういった訳か、この地蔵様はポシェットを肩に掛けられていた。これからお出かけでしょうか。『本堂』前の紅葉も美しかった。『本堂』。『本堂』の階段を上がって。『本堂』内部。本尊:高貴徳王菩薩。『本堂』の建物の軒下光景。吊り下げタイプの灯篭。『持仏堂』の奥に『高徳院 永代供養塔 瑜祇塔』が見えた。場所を変えてズームで。境内のこちらの紅葉も進んでいた。竹林の中の『石仏群』。竹林に『石仏群』は似合うのであった。『子安観音像』。小ローソク、お線香が売られていた。『タブの木』の巨木。『松井宗信の墓』。明治9年(1876) 有松の住人 山口正義が建立した。 今川家重臣 松井宗信(二股城主)の墓碑で、隣に七石表二号碑があり、宗信戦死地と伝わる。駿河今川氏の臣。貞宗の子で通称五郎八、兵部少輔。享禄二年、兄信薫の病没後に家督を嗣ぎ遠江二俣城主となる。永禄三年、今川義元勢の先鋒を務めての上洛途中に尾張桶狭間(田楽狭間)で織田信長の奇襲を受け、奮戦及ばず戦死した。そして『香華山高徳院』裏の墓地の奥にあったのは『瑜祇塔』。瑜祇塔は、屋根に5本の相輪がある多宝塔、RC造、高さ29mであると。永代供養納骨堂『瑜祇塔』。『石仏群』。再び『今川義元公本陣跡碑』。香川景樹の『桶狭間古戦場 歌碑』。「跡とへは 昔のときのこゑたてゝ 松にこたふる かぜの悲しさ」。御朱印を頂きました。『高徳院』を後にすると、道路の反対側にあったのが先程訪ねた『桶狭間古戦場跡』。国道1号線に戻ると、中京競馬場駅のホーム下に『よろいかけの松の旧地』碑。信長が桶狭間の戦いで勝利した後に鎧をかけたと伝えられる松が大正12年まであったのだと。直ぐに旧東海道は国道1号線から分岐し有松に向かって進む。そして再び国道1号線に合流するが『大将ヶ根』交差点から旧東海道は再び右手に分かれる。分岐場所にあった『地蔵』様。ここ大将ヶ根の信号交差点を渡ると、私たちは名古屋市へ入って行ったのであった。路面には『東海道』の文字と『弥次さん喜多さん』の姿が。旧東海道を進むが車の数は少なかった。古い建物が左手に。ここは名古屋市緑区境松1丁目。伝統工芸有松絞りの製造元の株式会社・近喜は 創業明治32年より絞りゆかたの製造一筋に110年余の歳月を数えていると。道路脇右手、Le abbollire前の歌碑。「たちならぶ 花にしきと家ごとに かけ渡したる くくり染かな」。と有松染に関する詩。作者は鈴木 朖(すずき あきら、1764~1837)。原典は国学者らしく万葉仮名で書かれているのだと。「多知奈羅夫 波那能二志畿能以敝吾登爾 加計和多之太留 玖々里曽米迦奈」 発巳仲夏 離屋 鈴木 朖。鈴木朖歌碑の直ぐ先、右手に『地蔵堂』が。中には平たい石が祀られていた。そして旧東海道沿いの両脇の建物には『ありまつ』の暖簾が増えて来たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次前後駅前交差点を渡った最初の右手筋を入ると、Y字路中央に『地蔵堂』があった。『地蔵堂』をズームで。『地蔵堂』には、陽刻の地蔵尊が祀られており、碑面には文字が刻まれ、道標を兼ねているようである。街道に戻ると5~60m程先の右手に『道標』(写真右)が建っていた。この道標は風化が激しく文字は正確に判読できなかったが、ネットで調べてみると「祐福寺ふくた原道」 「文化四丁卯年」 などの文字が確認できるのだと。祐福寺はここより4km程北にある浄土宗の寺院で、桶狭間の合戦の前日に今川義元が宿泊したと伝えられているのだと。道標の直ぐ隣に連子格子の『旧家』。旧東海道を更に進むと、右手に『神明社社標』と明治43年(1910)の『常夜燈』が建っていた。右手に折れ進んでいくと、その先国道1号線を渡ったところに『神明社』があった。昔の参道が、国道1号線によって分断されてしまったのであろう。『手水舎』。『神明社拝殿』鎮座地は、愛知県豊明市前後町宮前、祭神は天照大神。『末社案内板』。■『津島社』祭神 素戔嗚尊創建勧請年月日は不詳伝説によると寛延二年(1749)五月本殿、拝殿建て替えと同時に創建と言い伝えれれており御神体は現在の愛知県津島市明神町より鎮座と伝えられており、厄除け・諸災害祓い病の御利益がある■『秋葉社』祭神 加具都知命創建勧請年月日は不詳伝説によると寛延二年(1749)五月本殿、拝殿建て替えと同時に創建と言い伝えれれており、御神体は現在の静岡県周智郡春野町より鎮座と伝えられており。鎮火・防火守護神の御利益がある。■『山神社』祭神 大山衹命創建勧請年月日は不詳伝説によると明治五年(1872)七月に三ツ谷部落より勧請したと言い伝えられており、御神体は現在の愛媛県越智郡大三島村より鎮座と伝えられており、家内安全・商売繁盛の御利益がある。鉄柵に覆われた『境内社』。国道1号線への合流地点手前。国道1号線に合流し左に折れ藤田外科病院前を進む。前方に名鉄名古屋本線のガードが姿を現す。ガードの手前、『競馬場前』交差点。交差点角にあった巨大な馬の蹄鉄とその上に競走馬の姿のモニュメント。この場所から3~400m先が『中京競馬場』正門。名鉄名古屋本線のガードを潜る。そして次の信号のある交差点には『桶狭間古戦場』案内標識が。T字路交差点には『桶狭間古戦場まつり』の横断幕が。T字路交差点を左に折れ進んで行く。そして『国指定史跡 桶狭間古戦場 伝説地』に到着。『伝説地』の表示が意味深長なのであった。『桶狭間古戦場伝説地』入口。『史跡 桶狭間古戦場』の石柱が入口に。『古戦場』案内板。「この地は、永禄三年(一五六○)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。 今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和八年(一七七一)七石表が建てられた。 文化六年(一八○九)には、桶狭間弔古碑が建立された。 また、戦死者を弔って建てられた、おばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。」一帯は公園になっており、遊歩道を進む。道路沿いの『一号碑』。今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和8年(1771)『七石表』が建てられ、文化6年(1809)には桶狭間弔古碑が建てられた。『七石表(1号碑)』「桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、最も古いものである。 明和八年(一七七一)尾張藩士人見弥右衛門黍、赤林孫七朗信之により建てられた。北面 「今川上総介義元戦死所」東面 「桶狭七石表之一」南面 「明和八年辛卯十二月十八日造」と刻まれている。」道路を隔てた竹藪の法面にも多くの石碑や石仏群が立っていたのでこの後に訪ねた。『今川治部太輔吉元(いまがわじぶだゆうよしもと)の墓』『今川治部太輔吉元の墓』。「駿河・遠江・三河の国守、今川義元は西上の途次、永禄三年(一五六○)五月十九日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。 ここには、その霊が祭られている。以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治九年五月に、この墓を建てた。」『桶狭間の戦いと進軍ルート図』と『桶狭間古戦場 石碑配置図』案内板。戦国時代の武将である今川義元(いまがわよしもと)は、三河(みかわ)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)の領主でしたが、さらに領地を広げるために、織田信長の領地である尾張への侵攻の機をうかがっていました。鳴海(なるみ)城、大高(おおたか)城を織田家から奪った義元に対し、信長も鷲津(わしづ)砦、丸根(まるね)砦を築くことで対抗します。このような動きを阻止すべく義元は1560(永禄3)年に国境の沓掛(くつかけ)城に入城します。義元の命により松平元康(のちの徳川家康)は丸根砦と鷲津砦を落とし、信長は義元への応戦を決意します。信長は5月19日の明け方、出陣前の清洲城において「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」というフレーズで有名な幸若舞(こうわかまい)の「敦盛」を舞います。清洲城を出発した信長は、熱田神宮で戦勝を祈願します。信長はこの熱田において鷲津砦と丸根砦から煙が上がっているのを知ったと言います。昼になり信長軍は中島砦より出撃を開始します。3,000という少数の兵で進軍した信長軍は、相手に気づかれることなく桶狭間で休息中の今川義元本陣を急襲しました。この急襲に際し信長は「運は天にあり、敵が懸(か)からば引け、退けば押せ、個々の巧名争いを避け、常に組織的に行動せよ」との訓示を兵に与えました。先遣隊が敵を引き付けて、残りの2,000の兵が本陣を攻めたのです。この際、空が曇り大風雨が起こります。敵の攻撃拠点を落とし安心していた義元ですが、豪雨が止んで視界が開けると信長軍が目前に迫っており、急いで陣を引き払い退却します。しかしこの退却の混乱の最中、義元は討ち取られてしまいます。『桶狭間古戦場 石碑配置図』案内板。七石表は、古戦場伝説地の中で一番古い史跡で、明和8年(1771)12月18日に尾張藩士人見弥衛門・赤林孫七郎により建立された。全部で7本あり、全てに「桶峡七石表之一」と彫られ、6本は伝説地内にあり、一号碑には、「今川総介義元戦死所」と刻まれている。二号碑は高徳院墓地内にあり「松井八郎塚云五郎八」と彫られている。『桶狭間古戦場の古絵図と古写真による変遷』案内板。『桶狭間合戦戦場 地形図と戦いと進軍ルート』『今川義元公 生誕 五百年』案内板。『今川義元公 肖像画』以上の案内板の前で、ボランティアのオジサンが我々二人に『熱く』説明してくれたのであったが知識不足の私には少し辛い時間でもあったのだ。『桶狭間古戦場趾 愛知縣』石柱。『弔古碑』。下記の如き内容が書かれているのだと。1、永禄3年駿河の今川義元侯が西へと軍を進め、5月19日桶狭間山の北に陣をしいた。 織田公奇兵をもって之を襲い義元侯を滅ぼした。2、今川義元は大軍を率いて尾張に侵入、鷲津・丸根の砦を攻めて陥落させ 『明日、朝食する頃には清洲城は取れているだろう』と豪語 した。家臣たちは勝利を祝賀し、 陣中で祝い酒が出された。その時、黒雲が沸き起こり暴風雨となった。 織田軍が攻め込む振動音と鬨の声が背中のほうから聞こえたが、誰も突然襲われると思って おらず、本陣は大混乱となり、格闘するが2500人の死者が出た。この碑を建立した津島神社の神官 氷室豊永は、この戦いで戦死した今川家の重臣 松井宗信の子孫で、24歳で氷室家に養子に入った。 碑文の内容は、松井家に代々伝わる今川側の「戦いの状況」と思われる。 また、碑を建てるに当たり、この文面と建立場所は尾張藩の初代藩主徳川義直書いた『成功記』と一致しており、尾張藩は正しいと認め、建立を許可した。と。「弔古碑文化六年五月(一八○九)津島の神官、氷室豊長が建てたもの、碑の表面は「桶狭間の戦い」を回顧する文と往時を偲ぶ詩、裏面には建碑の趣旨が彫られている。 文章は尾張藩の儒学者秦鼎(号は滄浪、字は士鉱)、碑面の文字は尾張藩の大阪用達役(文中「天満邸令」)中西融の筆跡。 石工河内屋孫右衛門の手により刻されたものである。 」『3号碑』。桶狭間大きさ15×15×95 (全長123.5cm) 東 人見弥右面門あつし 赤林孫七郎信之西 士隊将塚南 本田尚澄書北 桶峡七石表之一『4号碑』。大きさ 15×15×84東 人見弥右衛門あつし 赤林孫七郎信之西 士隊将塚北 桶峡七石表之一『5号碑』。大きさ 15×15×90東 人見弥右衛門黍 赤林孫七郎信之西 士隊将塚北 桶峡七石表之一『6号碑』。大きさ 15×15×90西 桶峡七石表之一南 士脇将塚『7号碑』。大きさ 15×15×105東 人見弥右衛門疫 赤林孫七郎信之西 士隊将塚北 桶峡七石表之一小さな池には水はなかったが石橋が。『句碑』が小高い場所に。『香川景樹 句碑』歌人香川景樹(桂園派の巨匠)が江戸での会派獲得の為、京より出府した。 だが失敗、失意の帰郷のおり文化15・文政1年(1818)、この地を訪れ弔古碑の前で詠った歌が刻まれているのだと。「あと問へば 昔のときの こゑたてて 松に答ふる 風のかなしさ 景樹」小高いこの場所には『東屋』。『東屋』。『とよあけ桶狭間 ガイドボランティア案内書』とトイレ。古戦場伝説地の脇の道路を挟んで反対側の高台には「高徳院」という寺が堂宇を構えていた。実はこの高徳院の斜面に多くの墓石や石仏群が安置されていた。道路を渡る。『徳本行者名号塔』江戸中期の浄土宗の僧。庶民の教化に努め、その足跡は畿内・北陸・東海・関東に及ぶ。桶狭間古戦場を訪れたことは明らかで、豊明市内に数基建てられている。『今川義元の仏式の墓碑』。万延元年(1860)建立者は「某」と刻まれて不明。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔形式で、戒名が刻まれている。 そのため「今川義元仏式の墓」と呼ばれている。『阿闍梨諦念墓』 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.25
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