全39件 (39件中 1-39件目)
1
タイトル 発表日横浜市泉区の古道を巡る(その38) 2021.04.07 鎌倉街道西の道~八坂神社~福泉禅寺横浜市泉区の古道を巡る(その37) 2021.04.06 龍長院(横浜市戸塚区東俣野町)横浜市泉区の古道を巡る(その36) 2021.04.05 専念寺~三嶋神社(横浜市戸塚区深谷町)横浜市泉区の古道を巡る(その35) 2021.04.04 深谷通信所跡地横浜市泉区の古道を巡る(その34) 2021.04.03 イトーヨーカドー 立場店~かまくらみち道標~和泉町大丸の道祖神~馬頭観世音~遊林寺 ~下和泉地区センター前石碑群横浜市泉区の古道を巡る(その33) 2021.04.02 柏尾通り大山道~庚申塔道標~出羽三山供養塔~市川花十郎 生家~長後街道・立場交差点横浜市泉区の古道を巡る(その32) 2021.04.01 富士塚バス停~横根稲荷神社横浜市泉区の古道を巡る(その31) 2021.03.31 中田寺2/2~小山稲荷~奥津喬次郎翁頌徳碑~向森神社~中田駅~帰路へ横浜市泉区の古道を巡る(その30) 2021.03.30 中田町宮ノ前公園~石巻康敬の墓~稲荷社~中田寺(1/2)横浜市泉区の古道を巡る(その29) 2021.03.29 柏尾通り大山道~岡津公園~領家谷道祖神群~西恩寺~御霊神社横浜市泉区の古道を巡る(その28) 2021.03.28 永明禅寺(2/2)~白山社~石田建設(株)~永明寺別院~大山道道標横浜市泉区の古道を巡る(その27) 2021.03.27 永明禅寺(1/2)横浜市泉区の古道を巡る(その26) 2021.03.26 西林寺~阿久和川~新岡津橋~稲荷社~白山社~ルネ戸塚弥生台横浜市泉区の古道を巡る(その25) 2021.03.25 三嶋神社~稲荷社~普光寺横浜市泉区の古道を巡る(その24) 2021.03.24 五霊社~阿弥陀如来立像庚申塔~向導寺~富士塚~稲荷社~双体道祖神横浜市泉区の古道を巡る(その23) 2021.03.23 憩いのまほろば~中丸家長屋門~横山家長屋門横浜市泉区の古道を巡る(その22) 2021.03.22 観音禅寺(2/2)横浜市泉区の古道を巡る(その21) 2021.03.21 観音禅寺(1/2)横浜市泉区の古道を巡る(その20) 2021.03.20 四季の径~緑園都市駅東口~緑園都市噴水広場~フェリス女学院大学~庚申塔碑3基~神明社 ~新橋天満宮横浜市泉区の古道を巡る(その19) 2021.03.19 南万騎が原駅~相武国境之道碑~道しるべ碑~緑園須郷台公園~四季の径~山王神社横浜市泉区の古道を巡る(その18) 2021.03.18 佐婆神社~和泉第四遊水池~横浜市泉公会堂~横浜市消防局 泉消防署~横浜市 泉区役所 ~帰路横浜市泉区の古道を巡る(その17) 2021.03.17 和泉遊水地~正法寺~青面金剛塔+三猿 横浜市泉区の古道を巡る(その16) 2021.03.16 和泉川宮沢遊水池~めがね橋~ほしのや道・道標(庚申塔)~八幡神社 ~横山製糸跡 ~長谷川伸生母生家・横山家横浜市泉区の古道を巡る(その15) 2021.03.15 日枝神社~横山家のケヤキ~石塔群~六地蔵~青面金剛庚申塔横浜市泉区の古道を巡る(その14) 2021.03.14 柳明天満宮~柳明神社~観音堂横浜市泉区の古道を巡る(その13) 2021.03.13 せせらぎ緑道~第二柳明橋~羽太郷土資料館~石井仁左衛門翁之碑~稲荷社横浜市泉区の古道を巡る(その12) 2021.03.12 本興寺横浜市泉区の古道を巡る(その11) 2021.03.11 上飯田西公園~甲子塔~正一位飯嶋稲荷神社~いちょう団地~ニ十三夜塔横浜市泉区の古道を巡る(その10) 2021.03.10 持田製糸場跡~上飯田天神山古墳跡~小曲寺跡~神明神社~飯田神社横浜市泉区の古道を巡る(その9) 2021.03.09 いずみ中央駅~鎌倉街道上道~無量寺横浜市泉区の古道を巡る(その8) 2021.02.05 美濃口春鴻の地~日枝社~渡戸橋~子育地蔵~帰路へ横浜市泉区の古道を巡る(その7) 2021.02.04 いずみ中央駅~地蔵原の水辺~神明社~蚕御霊神塔~中和田村役場跡地公園~中和田公園 ~三柱神社横浜市泉区の古道を巡る(その6) 2021.02.03 中之宮左馬神社~泉小次郎親衡の館跡~長福寺~須賀神社~宮沢果樹園生垣横浜市泉区の古道を巡る(その5) 2021.02.02 左馬神社~和泉川親水広場~宝心寺横浜市泉区の古道を巡る(その4) 2021.02.01 中和田小学校南部分教場跡~東泉寺~琴平神社~双体道祖神~富士塚公園~古賢大菩薩横浜市泉区の古道を巡る(その3) 2021.01.31 密蔵院~鍋屋稲荷大明神~庚申塔~双体道祖神~矢澤家生垣~第六天神社横浜市泉区の古道を巡る(その2) 2021.01.30 俣野神明社~境川遊水地情報センター~天王森泉公園~天王森泉館~辨財天~鍋屋鯖神社横浜市泉区の古道を巡る(その1) 2021.01.29 俣野観音堂~俣野神社~相州春日神社~神鹿苑
2021.05.25
コメント(0)
「龍長院」を後にし、「鎌倉街道」を左手に進むと左手に「八坂神社」があったが、まずはそこには立ち寄らず更に進んでいくと左手の道路脇にあったのが石鳥居。その周囲に多くの石碑が並んでいた。これが、この後訪ねた八坂神社の鳥居で、現在の道のために参道が分断され、鳥居だけが建っているように見えたが、坂をくだると「八坂神社」の社と境内があるのであった。一番手前にあったのが「東俣野町道路改修工事協力者」碑。「道路改修記念碑」。「鎌倉街道西の道鎌倉街道西の道とも上の道とも言われるこの道は、鎌倉と地方を結ぶ重要街道の一つで新田軍が鎌倉攻略に進撃したのはこの道と伝えられ、歴史ある古道である。元弘三年(一三三三)五月八日新田義貞は上州新田庄の生品神社の境内で鎌倉幕府討伐のため挙兵した。はじめは其の数わずか百五十騎だったが呼応する者が激増し、小手指原(所沢)、分倍河原(府中市)で幕府の大軍を撃破、さらに村岡(藤沢市) 洲崎(大船)で大勝し、鎌倉の包囲網に成功した。新田軍はついに稲村ヶ崎、極楽寺、化粧坂、巨袋、亀ヶ谷の各方面から鎌倉市中に突人し北条高時ら一族門葉八百七十余人が東勝寺で岳火の中に自刃、鎌倉幕府は滅亡した。ときに五月ニ十ニ日、源頼朝が鎌倉人りしてから百五十三年目のことである。平成ニ年十月吉日 大正地区歴史散歩の会、十周年記念建碑」その横にも石碑、庚申塔が並んでいた。「堅牢地神塔(嘉永4年(1851年)銘)」。側面には「天下泰平」と彫られていた。「笠塔型青面金剛庚申塔(延宝8年(1680年)銘)」。「如来庚申塔」(延宝3年(1675年)銘)」。こちらも「笠塔型青面金剛庚申塔」側面右には「右ハ かまくら道」と彫られており、道標を兼ねていたようだ。側面左に「左ハ 八王じ道」と彫られていた。「角柱型 像形・銘不明 一猿」そして「八坂神社」を正面から。横浜市戸塚区東俣野町1637。「八坂神社」の社号標石。「神楽殿」。2世代の狛犬が並ぶ(右側)。2世代の狛犬が並ぶ(左側)。「本殿」。八坂大神(やさかおおかみ)とも呼ばれるこの神社は、神奈川県横浜市戸塚区東俣野町にある神社。単に八坂神社とも、東俣野八坂神社とも。近代社格では村社。現在は御嶽大神の兼務社である。江戸時代中期の享保18年(1733年)、創建されたと伝わる。寛政7年(1795年)3月に社殿造営、江戸時代後期の文政3年(1820年)に覆殿を修造した。明治6年(1873年)、村社に列し、明治13年(1880年)4月には氏子中にて改築した。昭和61年(1986年)、氏子中にて再度改築し、現在に至る。御祭神は素戔嗚尊。例祭は9月15日に近い日曜日。扁額「八坂神社」。「本殿」の龍の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。「蔵」。「本殿」の右側の石碑群。「庚申塔(延宝7年(1710年)銘)」。「庚申塔(延宝3年(1706年)銘)」。「庚申塔(天保10年(1839年)銘)」。「道祖神」。「石祠」群。「境内社」。「石祠道祖神」。そして「八坂神社」の近くには柿畑が。最後に訪ねたのが「曹洞宗 北谷山 福泉禅寺」。横浜市戸塚区俣野町585。社号標石「曹洞宗 北谷山 福泉禅寺」。「山門」。「六地蔵」。「山門」の扁額は「太祥門」。そして「本堂」。「寺務所」とその奥に「横浜薬科大学図書館棟(旧ホテルエンパイア)」。「本堂」の扁額は「福泉禅寺」。「本堂」前の「道元禅師像」。正面から「高祖道元禅師」。お顔をズームで。「鐘楼」。「梵鐘」。「十三重塔」。泰山木(タイサンボク)の大樹。「名木古木指定 タイサンボク」。「アセビ(馬酔木)」の白い花であろうか。ここは「福泉寺」の墓地への入口であるが、私が子供の頃は、ここから坂を上っていくと旧ドリームランドの旧ホテルエンパイアの近くまで行けたのであったが・・・。「福泉寺」を最後に我が藤沢市に隣接する横浜市泉区の「鎌倉街道上道(かみつみち)」沿いの神社仏閣散策をほぼ制覇し、併せて同じく隣接する戸塚区の社寺仏閣散策に帰路に立ち寄ったのであった。「福泉寺」を後にして、20分ほど坂道を歩き無事帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・横浜市泉区・戸塚区 完・・・
2021.04.07
コメント(2)
そして次に訪ねたのが1km程南に歩いた場所にあった「龍長院」。横浜市戸塚区東俣野町1666。入口には石碑群と案内板があった。門前を通る道は、鎌倉街道古道の道筋でもある。「旧鎌倉街道」の道筋蘢長院を南へ行くと東俣野町の鎖守八坂神社があり、その鳥居を左に折れ、堂坂を上り「旧東海道を横切って影取町に入り、大船方面へ通じている。」影取(横浜市)と柄沢(藤沢市)は市境にあり、「旧鎌倉街道」は藤沢市にある柄沢神社へと続くのだ。 「庚申塚」。「青面金剛文字庚申塔(文政8年(1825年)銘)」。「青面金剛庚申塔(明和8年(1771年)銘)」。「地蔵尊(寛永5年(1628年)銘)」。その先には寺号標石「曹洞宗 天王山 龍長院」。慶安元年(1648)、村の領主がそれまでの竜滝庵という庵を改築し寺名を龍長院と改めた、という。坂を更に上っていくと左手にあったのが「地蔵堂」。地蔵堂内に安置されていた「延命地蔵菩薩」。室町時代の作と伝わり、金箔が施された三尺七寸(約1m)の仏像。江戸時代中期から戦前まで村のお地蔵さんとして親しまれた仏像は、明治33年(1900)よりこの寺に安置された。平成二年(1990)には傷んでいた堂宇が再建され仏像が修復された と。ズームして。「延命地蔵菩薩」碑。左手には小さな滝・「不動の滝」が。「掲示板」には様々な説明文が。自宅で学ぼうと取り敢えずカメラに収める。「六波羅密布施・・・見返りを求めず、純粋な心で人の役に立つことをすること持戒・・・自分の我を通すことなく約束や決まりをまもること忍辱・・・忍耐すること、我慢とは違い怒りやすい自分の心を養うこと精進・・・日々努力を重ねて怠ける心に打ち勝つこと禅定・・・心を安定させること 穏やかな心にすること智慧・・・正しいものの見方・考え方 振る舞いをすること。 「自分」というものにとらわれないで・・・。「お彼岸お彼岸の期間の七日問は、お中日(春分・秋分の日)が御先祖様に感謝する日その前後、六日間は人が生きいく上で、良い事・悪い事をきちんと判断し、正しい行いができるようになるための六つの行い(六波羅蜜)布施・忍辱・精進・禅定・智慧を一日一つずつ行う大切な期間です。ご先祖様への感謝の気持ちを持って、普段の生活の中では、正しい行いをするよう心掛けたいものです。お墓はご先祖様が眠るとても大事な場所です。心静かに手を合わせ、今生かされてる自分に感謝し、お彼岸の期間には家族皆でお墓参りに行き、大切に守っていきたいものです。」『延命地蔵尊菩薩縁起』時代・・室町時代仏師・・不詳造り・・寄木造・さし首構造・金箔仕上げ総高・・三尺七寸(約一メートル)当院のお地蔵様は江戸時代中期から昭和の初め頃まで『(俣野の)村のお地蔵さん』と親しみを込めて呼ばれていました。村のお地蔵さんは東俣野地区を転々とされた末に、明治三十三年二月、龍長院不動殿(現在の銀杏脇あたり)に安置されました。当時は祭礼も一月・七月・一〇月と年三回催され、露天も出て盛大に行われていました。しかし、戦争が激しさを増した昭和十五年。食糧事情も悪くなり、祭礼も長期に渡って中断せざるを得ず、後は静かに村の信仰を集めるのみとなりました。その後、平成に入り、長年の風雪に耐えてきた堂宇やお地蔵さまも共に痛みが激しくなっていたところ、町の有志が発起人となり、町民あげて堂宇の再建とお地蔵さまの復元をする運びになりました。そして、平成二年三月二十九日。現地蔵堂の落慶式を迎え、当院の管理の元、現在に至っております。「地蔵」という名は「全ての人々を救う大きな力を所蔵するが如し」という事から名づけられたと言われております。また、あるお経によれば「延命の徳あれば延命地蔵菩薩と、慈悲の眼差し和らぎて、毎日毎朝諸定に入って六道を遊化して苦を除き、楽を与える」とも説かれ、「地獄・餓鬼・畜生・人・修羅・天」の六道において、苦しみを取り除き楽しみを与えてくれる功徳や長寿の功徳があると言われております。さらには、賽の河原で石を積む子供をお地蔵さまが守ってくれるという信仰から、子供の供養や成長祈願などの信仰も広く受け継がれております。『地蔵祭り』当院ではお地蔵さまの縁日でもある十月二十四日に、古くは江戸時代より地元で親しまれてきた地蔵祭を行っております。当日は大般若法要と数珠回しを行った悛、最後に茶話会を設けております。この機に地城の皆様、お檀家の皆様も延命の功徳や苦を除き楽を与える功徳を受けられ、更にはお地蔵さまの崇高なご尊顔を拝しながらご一緒に法要にご參加して頂けまようご案内申しあげます。」「松無古今色 竹有上下節 松に古今の色無し 竹に上下の節有り松は季節によって緑の色を変えたりせず、いつも平等である。平等といっても区別はあり区別があっても平等である。本来の姿、役割を認めてこそ、円満だということ。竹の上下の節は硬く互いを支え合いながも自分の領域をきちんと持っているという関係出典は、臨済宗の大本山のひとつである天龍寺(京都)を開いた「夢窓疎石(むそうそせき)」の語録『夢窓録』と。こちらも「六地蔵」か?ズームして。最上部中央は「天和三年(1683)銘」。中央段左から「延宝三年(1675年)銘。」「延宝六年(1678年)銘。」「天和三年(1683)銘」。「宝永2年(1705年)銘」。下段左から「宝永3年(1706年)銘」。腐食が激しく「???」一番手前の石仏群。「六地蔵の持物・印相持物や印相(指の形)は、仏の願いや救いの方法を表現しています。地蔵によって荷物や印相は必ずしも統一されていませんが、一般的に、右手に錫杖左手に宝珠を手にします。」右手の持物。「六地蔵菩薩と六道の世界地蔵菩薩は「お地蔵さん」と親しまれ最も身近な存在としている菩薩様です。お釈迦様が亡くなられて、56億7千万年後に弥勒菩薩様が現れるまでの間人間の世界は仏のいない時代となる為、人々を守るようにとお釈迦様より厳命されたのが地蔵菩薩様でした。主な役目は、天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六道を輪廻転生しながら苦しむ人々を救う事です。天上道 天人が住む世界、天人は、人聞よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも、 人間道に比べてほとんど無いとされる。 また、空を飛ぶ事ができ、享楽のうちに生涯を過ごすといわれている。人間道 人間が住む世界、四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかり ではなく、楽しみもあるとされる。 また、仏になりうるという救いもある。阿修羅道 阿修羅の住む世界、修羅は終始戦いに明け暮れ争うとされる。 苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく苦しみ・怒りは自らに原因する ところが大きい世界である。畜生道 牛・馬など畜生の世界、ほとんど本能ばかりで生きており、働かされなされるがままという 点からは、自力で仏の教えを得る事の出来ない状態で救いの少ない世界とされる。餓鬼道 餓鬼の世界、餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口にしようとすると火となって消え、 飢えと渇きに悩まされる。 餓鬼を教うため毎年、各寺院では施餓鬼会という法要を営んでいる。地獄道 罪を償わせるための世界、一般的に大いなる罪悪を犯したものが死後に行かされる世界。六地蔵というのは、一人で六道を巡るのは大変だろうと分身が造られたものと言われています。」「六地蔵」。庫裡の「天心閣」。「本堂」。当寺は天王山と号し、もと鎌倉市本木亀宝寺の末寺で尊に釈迦牟尼仏を安置している。延徳年間相模竜滝庵を草創し、開山に堅心(文亀二年四月十五日寂)を迎えたのが起立のはじめで、その後慶安元年(一六四八)永井丹波守白元が領主となったとき、鎮護国家の祈願所として辰岩を迎え堂宇を改築し、竜長院と改めたという。従って、辰岩(寛文二年四月三日寂)を中興開山の仰いでおり、時に辰岩は境内に鎮守不動堂を建立、知証作高さ一尺二寸の不動尊を安置した。なお境内には近年まで、滝が落ちこんでいたが、付近の開発にともない、今は枯れてしまった。昭和四十二年近代建築による本堂が新築された。扁額「龍長院」。「本堂」前から境内を見る。銀杏の大木。見上げて。境内の左側の斜面にも石仏が。ここには昔は山からの湧水が流れ落ちていたのであろう。池には巨大な鯉が悠々と泳いでいた。こちらは「不動明王」。「弁財天」か?境内の右手の丘の上にある墓地の墓地に上がってみた。「永代供養塔」。「観音像」。お顔をズームで。境内のソメイヨシノも花を開き始めていた。ズームで。そして「六地蔵」見ながら「龍長院」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.06
コメント(0)
次に訪ねたのが「専念寺」。ここも我が藤沢市に隣接する横浜市戸塚区深谷町1021。旧東海道沿いの「戸塚区」👈リンク は既に歩いていたのである。寺号標「浄土宗 深谷山 青陽院 専念寺」。脇門入口には元禄6(1693)と刻まれた石道標(尖頭角柱)。高155㎝(塔身部)、幅35㎝、厚24㎝。正面:「(梵字)婦可や藥師 青陽院江之道」右面:「深谷山」左面:「専念寺」と 刻まれていた。「法然上人像」。ズームして。「ただ一向に念佛すべし」と。勲八等瑞寶章を受勲された川邊氏御兄弟の墓碑であろうか。そして手前に墓地、その奥に本堂。「鎌倉権五郎景正と専念寺の深谷目薬師前九年の役の鎮定功労者陸奥守源頼義の嫡男八幡太郎義家は陸奥守となり赴任したが、奥州の覇者清原武則家の家督争いにまきこまれ、まれに見る大乱となった、戦場は沼冊からさらに要害の地金沢冊に移るが義家軍の苦戦の報が都に届くと義家の弟新羅三郎義光(甲斐源氏武田祖)が京から来援 これに力を得た義家が総政撃し非常な苦戦の末、寛治元年十一月(一〇八七)、金沢冊を陥落させ、家衡と武衡を討つことに成功し、後三年の役はようやく終冪となった。この戦いに弱冠十六歳の鎌倉権五郎は金沢冊の戦いで敵の矢に左目を射抜かれると戦友三浦為次が駆け寄り、景正の顔に足を掛け、その矢を抜こうとするや景正は「武士の顔に足を掛けるとは」と怒り刀を抜いて切りかかったと言う。凱旋後景正は守り本尊の深谷薬師に治療の願をかけ、寺の前の深谷薬師で目を洗ったところ、たちまちにして目の傷が癒えたと言われる。深谷薬師は霊験あらたかな目薬師如来として信仰厚く、今も十ニ年毎に開扉している。鎌倉時代に活躍した大庭、俣野、梶原一族も戦国大名上杉謙信も鎌倉権五郎景正の子孫である。」そしてこちらが「かまくら道」側の正門で「宇田川」に架かる赤い欄干、親柱に擬宝珠(ぎぼし)を載せた橋。橋の名は「専念寺橋」。「宇田川」の下流方向を見る。この先1.5km程先で「境川」に流れ込む川である。本堂への参道を進む。正面に「山門」の冠木門が。「是者鎌倉権五郎景正守本尊 ふかや薬師青陽院江之道」と刻まれた石碑。寺号標石「浄土宗 深谷山 専念寺」「鎌倉権五郎景正守本尊 薬師如来」鎌倉権五郎景正の守本尊薬師如来(行基作)を安置していると。「山門」と「本堂」。「本堂」。「当寺は深谷山青陽院専念寺(しんこくざんせいよういんせんねんじ)と言い、元は鎌倉岩瀬にある大長寺の末寺でした。開山は大長寺と同じ鎮連社感誉存貞(ちんれんじゃかんよぞんてい)上人で、鎌倉権五郎景正(ごんごろうかげまさ)の祈願所として、康平五年(1062)に起立したと伝えられています。その後文治年間(1185~89)景正の末裔である梶原景時が再建し、福泉寺といって当時は真言宗でした。永禄年中(1558~69)住職であった長順法師が感誉存貞上人より浄土の教えを聴き、その素晴らしさに感銘し、以来浄土宗に改宗し、一心院専念寺と呼ばれていました。」と「専念寺」👈リンク のHPから。扁額「専念寺」。「本堂内陣」。新装なった「納骨堂」。右手に「六地蔵」。「六地蔵」を正面から。両脇に市松模様の描かれたガラス窓の奥の堂内にも地蔵様が。蓮の花のエッチングガラスの姿も美しく。エッチングガラス(彫刻ガラス)とは硝子表面にサンドブラスト処理(金剛砂等を圧縮空気で吹き付けて削る)を行いさらにフッ素加工(薬品処理)を施したガラスのこと。「本堂」手前の2本のイトヒバの大木は切られていた。専念寺の本堂は一見すると近代以降の建築のようであるが、享和元年(1801)の再建になる、という。昭和44年(1969)には屋根の大がかりな改修が行われ、部材が新しいものに置き換わっている、と。墓地内の「永代供養塔」。「南無阿弥陀仏 ○源空」、「俱會一処(ぐえいっしょ)」と。「源空」は法然(ほうねん)上人の諱(いみな・生前の実名)。「俱會一処」とは「たとえこの世で大切な方との別れを迎えようとも、南無阿弥陀仏とお念仏をおとなえする者どうしは、阿弥陀さまのお迎えをいただき、必ず俱(とも)に一つの処(ところ)、すなわち西方極楽浄土でまたお会いすることができるのです」という教えであると。墓地内の「永代供養塔」から「本堂」を見る。枯山水の庭園の中の「十三重塔」とその奥に「客殿」、「庫裡」が。正面が「客殿」。「庫裡」、「寺務所」。「会館」。「トイレ」。次に隣の山の上にある「三嶋神社」に向かった。「専念寺」の川沿いのカイズカイブキの生け垣も見事に刈り込まれていた。三嶋神社参道入り口の専念寺側にある「石碑群」。「川邊勝三郎君頌徳之碑」。横浜市と合併したこの地域、大正村の村長だった人物のようだ。富士塚の富士講碑。「富士元一講長 中講義川邊徳次郎君之碑 登山参拾参回」。「富士仙元大菩薩 元一○照?」(照の文字を○で囲っている?)。「小御嶽 后尊 大天狗 大権現 小天狗」。「石碑群」の前の橋は「宇田川」に架かる「宮前橋」。「宮」とは三嶋神社のことであろう。そして「三嶋神社入口」碑。石段を上って行く。竹藪の前に「三嶋神社」があった。「三嶋神社」の石の鳥居。鳥居を潜って進む。「社殿」。大正3年(1914)築。扁額「三嶋神社」。「三嶋神社祭神 大山咋命 鎌倉権五郎景政所在地 戸塚区深谷町一〇ニ六番地宮司 中川 港由緒今より約七百七十余年前の文治年間に梶原平三景時が創建したものである。景時はその祖、鎌倉権五郎景政が崇敬していた専念寺を再建するに当り傍の丘陵を開拓して社殿を建て景政の神靈をまつり相殿に伊豆三嶋神社を勧請して御靈社と稱した。後に至り社名を三嶋神社と改め現在に至った。社殿については寛延二年十二月八日(今より三百余年前徳川時代)の棟札があり現在の社殿は大正三年三月三十日新築され昭和四十九年十月修理改築されたものである。」水引虹梁の上の中備(なかぞえ)に龍の彫刻がおかれていた。右側の「木鼻」は獅子鼻、獏(ばく)鼻。左側の「木鼻」。「社殿」の廻廊の両側にある彫刻(左側)、鷲の姿であろうか。「社殿」の廻廊の両側にある彫刻(右側)。「社殿」前から境内を見る。境内の「稲荷社」。「秋葉神社」。火除けの神・秋葉大権現を分祀する。「地神塔」(文久元年(1861年)銘)。大地を司る神様を祀る。「大六天神社(大六天様)」。名木古木指定「スダジイ」。名木古木指定「樅(モミ)」。名木古木指定「檜(ヒノキ)」。そして竹林。「三嶋神社」からの帰路に「専念寺」の「本堂」を裏から見る。そして再び「専念寺」の生け垣と「宇田川」、前方に朱の欄干の「専念寺橋」。ハクセキレイ(白鶺鴒)に似ているがそして「横浜市 消防訓練センター」の案内板を見つけたので行ってみた。坂を上っていくと左手にあったのが「横浜市消防局 消防訓練センター」入口。この訓練センターでは、消防学校教育として次の教育を実施していると。・新採用職員教育 新採用の消防職員に、消防業務に必要な基礎的知識・技術を修得させるとともに、 「自ら考え行動できる職員」を育成。・現任教育 活気ある強力な組織を作るため、経営・運営責任者に対する教育や、救助隊員等の養成教育、 各種資格取得講習等を幅広く実施。・消防団員教育 それぞれの職責と階級に応じて、消防団の活動に必要となる規律、活動要領、安全管理などの 教育を実施。建物内に見学用ブース等はないのであろうか?門の前の道路を進んで行くと左手に、様々な訓練用施設が確認できた。隊員が消防自動車の前でミーティング中?訓練用タワー。反対側には消防自動車や救急車の姿も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.05
コメント(0)
次に訪ねたのは「深谷通信所跡地」。神奈中バス停を通過し振り返る。ここ神奈川県道402号阿久和鎌倉線(かながわけんどう402ごう あくわかまくらせん)は、神奈川県横浜市瀬谷区阿久和東(阿久和交差点)から鎌倉市岡本に至る県道である。この路線は通称「かまくらみち」と呼ばれるのである。1180年(治承4年)頃、源頼朝が鎌倉から府中方面へ抜ける街道として整備したと。別名「陣街道」、「西の道」とも呼ばれたのだと。「通信隊前」。近くにあった「モクレン」の花。ズームして。ハクモクレンに似た花で、薄いピンクが入ったモクレンが咲いていた。ハクモクレンとシモクレンの交雑種のサラサモクレンであろうか。道路の反対側のバス停の横には立派なトイレが設置されていた。横浜市泉区和泉町 で番地はない様子。「深谷通信所跡地」の入口ゲートは固く閉ざされていた。「この区域は、在日米軍から日本国政府に変換された国有地です。当局の許可なく当該区域への立入りを禁止します。またこの区域の以下の行為は固く禁止します。・喫煙及び火気の使用・ゴミ等の投棄・ゴルフ、ラジコン(飛行機)等危険な行為・ペットの放し飼い横浜市関東財務局関東財務寺務所」との表示。当時は下の如きプレートが設置されていたと。「U.S NAVAL RADIO TRANSMITTING FACILITY TOTSUKA JAPAN」と。当時はここは横浜市戸塚区であったのだ。 【http://home.p04.itscom.net/yama/US_Fukaya/Fukaya.htm】より左手に入る道もゲートで塞がれていたが、散歩されている方がいたので、私も内部に入って行った。車両のみの進入禁止のようであった。「右のサインを読みなさい」と上から目線の文字が。しかし右側には特別の案内はなし。ここ深谷通信所(ふかやつうしんじょ)は神奈川県横浜市泉区に所在していた旧在日アメリカ海軍基地(面積:773,747m2)。旧日本海軍の基地を第二次世界大戦後に接収し、運用していたもので、2014年6月3に施設を含めた土地全体が日本へ返還されたのだと。横浜市泉区の和泉町および中田町に位置。全域が国有地であり、アメリカ海軍厚木航空施設司令部が管理を行っていたのだと。googleマップより。まるで巨大なミステリーサークルの如し。旧日本海軍時代には、電波干渉を防ぐため直径約1kmの円形状に用地買収され、米海軍がその形状のまま接収した。接収後、米海軍は施設中心部に事務所等やアンテナ部分の囲障区域(フェンス等で囲まれた内側)を設け、関係者以外立入禁止としていたが、囲障区域外は野球場、ゲートボール場、菜園耕作等の使用が認められ、さらに神奈川県道402号阿久和鎌倉線が通過し一般の通行が認められていた他、バス停も設置された。衛星通信が発達し送信機能が他施設に集約されたことで部隊は撤退し遊休地化していたが、2014年6月末を目処として囲障区域も含めた土地全体を米側から日本へ返還することが決定し、予定通り手続きが完了したことから同年6月30日に返還が行われたのだと。当時の通信施設をネットから。 【http://prc77.livedoor.blog/archives/471356.html】より当時の通信施設をネットから。 【http://prc77.livedoor.blog/archives/471356.html】より当時の通信施設をネットから。 【http://prc77.livedoor.blog/archives/471356.html】より右手の忍び返し(有刺鉄線)を取り付けた進入防止用フェンスの奥には「FIRE STATION NO.10」と記された建物が残されていた。有刺鉄線を取り付けた進入防止用フェンスに沿って進む。「旧深谷通信所跡地中央広場」案内板。そして正面に真っ白な雪を戴いた富士山の勇姿が現れた。ズームして。右側には大山の姿も。「中央広場」の掲示板。「ノーリードでの愛犬の散歩はご遠慮下さい。」と。直径1kmの緑地には大小の野球場が10ヶ所以上。芝生広場では富士山を背景にゲートボールを楽しむ老人の姿が。電線が邪魔、しかしここは昔の通信所であるので・・・・。頂上では強風で雪が舞っているのであろうか。大山をズームして。「中央広場」を独り占め。再び「旧深谷通信所跡地中央広場」案内板。広大な跡地。横浜薬科大学の図書館棟(旧ホテルエンパイア) の姿も。こちらにも建物がそのまま残されていた。そして入口まで戻ったが、立派なテーブルと椅子が置かれていたが散歩の休憩用か? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.04
コメント(0)
長後街道の「立場」交差点を渡り、「かまくらみち」を南下していくと左手に「イトーヨーカドー 立場店」が現れた。この手前が立場バスターミナルになっていた。更に進むと右手にあったのが「和泉町第二公園」。横浜市泉区和泉中央南1丁目4。「伊勢山小学校入口」交差点を渡り振り返ると、交差点の角にある石碑が目に入り横断歩道を戻ることに。「かまくらみち」に立つ道標。正面「東かし(かしを)とつか」と右面「北八(八王子)江戸」と読めた。裏面には「西大山 厚木」と読めたが、下の方は大きく欠けていたのであった。左面には「地蔵坐像」が。そして道標の上には数珠が奉納されていた。そして右に折れ進むと、民家の庭に初めて見る樹に黄緑色の花がたわわに。樹の名前は何というのであろうか??後日、学友から「シキミ(樒)」の花ではないかと。お墓にお供えしてある葉っぱは知っていましたが名前が「シキミ(樒)」と言うことを初めて知ったにでした。ズームして。花は細い10数枚の花弁からできていて淡い黄色がかかっていた。この「シキミ(樒)」は古来から仏事に使われたので寺院に植栽されたりしますが、日本でも各地に自然にあるらしい。この木・花が仏事につかわれるのは、その香りから。花だけではなく葉など全体からでているようです。抹香くさいとかいう言葉があるけど、この木の香りに由来しているのだと。一方で有毒の植物であると。有毒植物もガーデニングでは色々とありますけど、この花の毒性は半端ではないようです。この花の実は植物で唯一、毒物及び劇物取締法による劇物に指定されているのだと。毒成分は木全体にあるようで特に種子に多いと。誤食すると量いかんでは死にいたるそうです。葉や花に触っても皮膚からの吸収はないそうですが、気をつけたほうがよさそうです。以上、ネットからの情報でした。更にネット情報です。「なぜ樒をお供えするのか」「それでは、なぜ仏教では樒をお供えすることが多いのでしょうか?これには、先ほども見た樒の持つ特徴に加え、日本でもともと土葬が広く行われていたことと深い関係があります。土葬は文字通り故人のご遺体を土の中に埋めるという埋葬法ですが、昔は野犬などが土を掘り返してご遺体を荒らすということも少なくありませんでした。そこで、毒の成分を含む樒をご遺体の埋まっている場所の近くに植えることで、死体を荒らされるということを防ぐようにしたのが、樒をお供えするようになった理由です。加えて、樒は強い香りを発する特徴も持っており、その香りでご遺体の発する腐臭を消すことにも用いられていました。また、その香りはお線香の香りを彷彿させるものでもあるため、現代でもなおお線香の香料に使われています。」と。更に、樒は、猛毒をもつことから「悪しき実」と呼ばれ、「あしきみ」の「あ」が取れて、「しきみ」と呼ばれるようになったと。要は、樒は『仏事』に、榊は『神事』に用いられるのだと。またまた勉強になりました。 【http://i-iyokan.com/kawa/?author=1】よりしばらく南下して住宅街を進んで行くとY字路の角に2基の石碑が。横浜市泉区和泉中央南1丁目。和泉町大丸の道祖神。左が地蔵尊。左側の石碑は光背型地蔵菩薩立像・・1770(明和6)年 、「現覚㳒師」、「相州鎌倉郡和泉村」の文字が。頭部には梵字が刻まれていた。こちらは角柱型双体道祖神塔、文化8年(1811)。そして再び「かまくらみち」に向かって東に進むと左手にも石碑が二基。いずれも「馬頭観世音」碑。横浜市泉区和泉中央南1丁目35。「馬頭観世音」は馬を含める家畜の安全と健康を祈る観音でもある。昔、馬は武家にとっても農民にとっても生活にはなくてはならない動物であった。農耕に活躍し、移動手段としてとても大切だった馬。旅の道中を守る観音として、路傍には石の馬頭観音像が刻まれるようにもなったと。人々の生活とは切っても切れない関係の家畜の象徴として、最も大切だった馬を掲げた観音さまであるのだと。右手の角柱型文字「馬頭観世音」塔、文化6年(1809)の文字が。左側の駒型文字「馬頭観世音」塔 そして再び「かまくらみち」に出た。近くにあったのが「真宗大谷派 遊林寺」。「この状況をウンザリ過ごすのかこの状況から大切な意味を見出すか」「真宗大谷派 遊林寺」の山門。駐車場側に廻ってみると民家の如し。そして再び「谷戸川」に向かって進むと右手に神社が。社殿は朱色ではなく純白であった。そして「下和泉地区センター」の前まで歩くと石碑が並んでいた。横浜市泉区和泉が丘1丁目26-1。正面から。右から、角柱型文字「庚申塔」左面には天保13年(1842)の文字が。角柱型「西国/坂東/秩父」百ヶ所供養塔。西国三十三番・坂東三十三番・秩父三十四番計百か所の観音霊場の供養塔である。江戸時代には、この百番巡拝を行う人があらわれてくる。百番巡拝を記念し供養した塔であると。光背型「南無阿弥陀仏」塔・・1835(天保6)年「かまくらみち」を通行する巡礼者や旅人の安全を願って建てられたと。年角柱型文字「堅牢地神」塔。春・秋の彼岸に一番近い「戌」の日を社日と言い、その日は、農耕を休み「地神さん」の周りで祭礼を行った。地神塔(じじんとう・ちじんとう)も、大地の神・農業の神を祭った塔であり、春分・秋分の日に最も近い戊(つちのえ)の日に、田の神と山の神が交代するので、農業の始まりと終わりであるという信仰から、鋤鍬を休ませて田畑を耕さないという。「下和泉地区センター体育館」を左手に見ながら進む。民家の角にあった「庚申塔」。唐破風笠付角柱型庚申塔・・安永2年(1773)。そしてここから東に向けて「深谷通信所跡地」へと歩を進めたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.03
コメント(0)
「横根稲荷神社」を後にして「神奈川県 泉警察署」方面に向って富士山を見ながら進む。途中から畑道を左に折れて進み富士山にカメラを向けたが。見通しが悪く、山頂の雲も多くなり。そして「かまくらみち」に出て右折して「和泉小学校交差点」に到着。「和泉小学校交差点」角にあった案内板と石碑。「柏尾通り大山道柏尾町の不動坂から岡津・和泉町・上飯田町を経て大山へ向かう大山道は「柏尾通り大山道」と呼ばれ「大山参詣の道」とし内陸部とを結ぶ「くらしの道」として賑わった。大山の信仰圏は、県内・千葉・東京の商人・職人層をはじめ、関東地方・東海地方まで広がり大山参詣が盛んになり、門前町ができ、大山道が開かれた。」「江戸時代の大山道主要八道」「柏尾通り大山道」は東海道方面からの経路で、現在の神奈川県横浜市戸塚区柏尾町、不動坂から大山へ向かうものである。この経路の起点は不動坂と呼ばれ、道標や石碑が多くみられる。明治5年のころに、講衆同士が大げんかを始め、「戸塚の血の雨」と呼ばれる騒ぎになった。なお、下粕屋からは矢倉沢往還(青山通り大山道)を利用して大山に至る。 【http://blog.livedoor.jp/enoshimaoyaji/archives/32156811.html】より八王子道との「和泉小学校交差点」の角にある「庚申塔」。側面に「東かしお道 西大山道」「南ふじ沢道 北八王子道」と刻まれており道標を兼ねていた。「柏尾通り大山道」を西に進んで行くと農園の中の林には桜の花が。「横浜市立和泉小学校」前を通過。横浜市泉区和泉中央北1丁目31-13。農園の中の菜の花。そして道路脇あった石碑。鎌倉郡、天保十四年卯年四月の文字が。「出羽三山供養塔(でわさんざんくようとう)」のようであった。出羽三山供養塔は、山形県の出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)参拝の記念に造立された石塔であると。道路脇にあった「蔓日日草(ツルニチ二チソウ)」の可憐な花。ズームして、雑草化しているのであろうか?そして八重の斑入り椿の花。ズームして。「柏尾通り大山道」の住宅街を進むと前方右にある石碑を発見。破損してしまったものも。これは道祖神であろうか。隣の石碑は笠?がなくなっていた。中には雨水が溜まり。寂しそうに。そして右手にあった集合住宅の建物のある場所が「市川花十郎 生家」👈リンクのようであった。市川花十郎は、県内を代表する農村歌舞伎「市川花十郎一座」の座長。「柏尾通り大山道」を離れ左に折れて進むと、前方の電柱の下にも石碑が。小さな石碑。庚申塔道標であろうか。「右・・・」そしてここには石鳥居と石の祠があったのだが、なくなってしまっていた。現在のGoogle Mapのストリートビューでは下の写真の如くに。長後街道を東に進むと「立場」交差点の角にあった庚申塔。角柱型「文字庚申塔」。「中田邑」の文字も確認できた。一時的に、中田広町庚申群に含まれていたが、こちらに再移設されたとネットから。向かって左側には。道標:「南 婦ぢ沢 北 八王子道」と。向かって右側には「東 戸塚柏尾道 西 大山厚木道」と彫られているのだと。そして長後街道の「立場」交差点を渡り「かまくらみち」を南下して行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.02
コメント(0)
「横浜市泉区の古道を巡る」の4回目のスタートは相鉄いずみ野線の「弥生台」駅から。前回は訪ねられなかった場所を、ひたすら南下しながらの今回の散策。「弥生台」の町名は、町内に弥生時代の遺跡があることから名づけられたのだと。弥生台駅の桜は既に満開であった、しかし駅構内の待合室のガラスの壁。昭和51年(1976)年の開業以降に植えられたと言う数多くの桜は開花を初めたばかりであった。「弥生台駅北口」。線路に沿って西にむって坂道を上って行った。線路の斜面には、薄膜太陽電池が設置されていた。これは神奈川県が実施している「薄膜太陽電池普及拡大プロジェクト」による助成を受けて、導入されたものであると。有機薄膜太陽電池は、シリコン半導体の代わりに、安価になることが期待されている有機半導体を用いた新しい太陽電池の一つ。有機薄膜太陽電池には、軽量でかつ曲げられるという特徴がある。3月下旬になれば・・・ネットから。 【https://mitaphoto.exblog.jp/22123435/】より「弥生台西公園」の横を通過。そして県道218号線・権太坂和泉線と県道402号線・かまくらみちの交差点を左折し、南下する。そして泉警察署入口を右折すると直ぐにあったのが神奈中「富士塚」バス停。バス停の奥に「富士山」の姿が見えた。ここ「横根稲荷神社」東側の場所は、標高約 65 m位の高台。西を見れば遮えぎるものはなく、富士山を中心に、右は大山、丹沢山塊、左に箱根連山が一望できるビューポイント。ここにあった「富士塚」は信仰の対象として、また、この塚の上にあった「航空灯台」👈リンク は名所として歌・「戸塚音頭」にまでなっていた。三、恋のやみ路も雲間の闇も たよる心の二筋道や 様のプロペラ間近に聞いて、戸塚灯台空の路 恋のハンドルしっかりと 相州戸塚の空あかりこの航空灯台も、太平洋戦争が勃発すると、敵機の目標になるということで、昭和十九年頃取り壊された。今は跡形もなく、バス停にその名を残すのみとなっていた。この日は、やや見通しが悪く、富士山頂の上には笠雲がかかっていた。運が良ければ・・・ネットから。【https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/meisho/izumi/izmei5-7.html】そして右手にあったのが「横根稲荷(よこねいなり)神社」。昭和39年認可された「土地改良事業完成記念碑」が正面右手に。「横根稲荷神社」は、和泉全域を氏子とし、また昔から「横根のいなり様」といわれて近郷住民や商人の信仰を集めて来た。さらに大山道に近いことから大山参りの人達も立ち寄り、旅の安全を祈願したといわれている。境内には巴御前(ともえごぜん)が信濃に落ちて行く途中で化粧に用いたという「横根感念(かんねん) 井戸」があった。横浜市泉区和泉町5963。参道入口左手には「馬頭観世音塔」が。「横根稲荷神社」の回りでは、昭和12年(1937)頃まで「旗競馬(はたけいば)」👈リンク が催されていた。廻り馬場で、農耕馬や荷馬車の馬を走らせた。近郷近在から集まった老若男女の見物人は、見せ物小屋や露店をひやかし、見合いの場所にもなっていた。裏には「大正十四年四月建立」と。その周囲には小さな「馬頭観世音」碑が並んでいた。馬頭観世音塔は、高座郡、鎌倉郡の荷馬車運送組合が建てたものなど数基あった。競馬に出た馬も供養されているのだろう と。「横根稲荷神社この神社は和泉全域を氏子とし、周辺の住民や商人の信仰を集め、大山参りの人達も旅の安全を祈願したといわれています。境内には巴御前が化粧に用いたという「横根感念井戸」があります。神社の周りでは、昭和1 2年頃まで農耕馬などが走る「旗競馬(はたけいば)」が催されていました。見世物小屋や露店が立ち並び、周辺の男女の見合いの場所にもなっていました。鳥居横には馬頭観音碑が数基あります。また近くにあった富士塚には「航空灯台」👈リンク がありました。」今は姿を消した「富士塚」は神奈中バス停留所の名称で、わずかに名残りを止めているのであった。社号標「正一位横根稲荷神社」。石鳥居。参道を進む。境内の「梛(なぎ)」の木。梛はマキ科マキ属に含まれる常緑高木。雌雄異株であると。初めて見る?木「なぎ(梛)」。珍しいと感じた「梛」の葉の写真をズームで撮り帰宅後ネットで調べてみると「梛は熊野の御神木。その葉は金剛童子(仏教徒の守護神で、阿弥陀如来の化身とされた)の変化身と考えられ、参詣者は帰途の安全を願い、梛の葉を護符として袖や笠などに付けました。あるいは武士が戦場で兜や鎧に付けました。梛の葉が災厄避けのお守りとして使われたのです。梛はマキ科の常緑高木。針葉樹でありながら、広葉樹のような幅の広い葉をもちます。その葉には、縦に細い平行脈が多数あって、主脈がありません。その独特の構造のため、梛の葉は、横には簡単に裂くことができますが、縦にはなかなかちぎることができません。葉の丈夫さから梛にはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗がありました。梛はマキ科の常緑高木。針葉樹でありながら、広葉樹のような幅の広い葉をもちます。その葉には、縦に細い平行脈が多数あって、主脈がありません。その独特の構造のため、梛の葉は、横には簡単に裂くことができますが、縦にはなかなかちぎることができません。葉の丈夫さから梛にはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗がありました。」と「ネット」👈リンク から。更に陽光の射している場所をズームで。なるほど針葉樹なのに広葉樹の如き葉、葉脈の中心の太い主脈、主脈から放射状に分かれ出ている側脈がないのであった。手水場。「巴御前ゆかりの感念井戸」碑。「巴御前ゆかりの感念井戸。むかし、木曾義仲の夫人、巴御前は女武者として義仲とともに勇名をはせていました。しかし、寿永3年(1184)に近江で義仲が敗れると捕われの身となり、和田義盛に引き取られて、義盛の本拠地三浦で暮らすことになりました。そして建歴3年(1213)の合戦で義盛も敗れ、巴御前は木曾へと落ち延びていきました。途中、横根稲荷神社で一夜を過ごした巴御前は、境内にある鎌倉石と七沢石で囲われた古井戸の水を化粧の水として使ったと言われています。その後、この井戸は「横根の感念井戸」といわれるようになったということです」とのこと。手押し井戸ポンプは現役中のようであった。御神燈。「拝殿」前の「老松の根」。こちらにも、かなりの古木であったのだろう。「拝殿」。勧請年代は不詳であるが、明治の神仏分離までこの神社の別当であった密蔵院に文政二年(一八一九)の文書が伝わっている。要約すると、昔、村内に病人や厄災が度々発生した。老人が言うには、昔、横根原に小さな社が祀られていたが、跡かたもなく廃祠同然になったので、社の神の崇りであろうということになり村中で相談して再建した、と記されている。(和泉全域が氏子)。祭神は宇迦之御魂大神(うかのたまのおおかみ)。玉を咥えた狛狐(右)。「玉(宝珠)」は霊の力、「鍵」はその霊力を引出すカギ、「巻物」は神様からのお言葉、「稲」は富、子キツネは「子宝」などを象徴しているのではないかと言われているのだ。巻物を咥えた狛狐(左)。「拝殿」には扁額はなかった。「内陣」。「拝殿」前から境内を振り返る。祭り備品用の倉庫であろうか?境内の多くの木々が何故か切られていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.01
コメント(0)
この日は「中田寺」の「本堂」では法要が行われていた。よって遠くから正面を。扁額は「慈悲」であると、今回も高校の学友から。「浄土宗開宗八百年記念」碑。「法然上人 御歌『月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ』月影とは月の光、すなわち阿弥陀如来のお慈悲のみ光です。このみ光はあまねく一切の人々をお照らし下さるが、その光をながめなければ、お慈悲に気づくことが出来ないのです。阿弥陀様はすべての人々をお救い下さるが、そのお救いを願わず、喜ばず、お慈悲に背をむけるものは、如何ともしがたいのです と。「佛足石」。「本堂」前のピンクの「枝垂れ梅」。「記念碑宗祖法然上人開宗八百年を明後年に控え、当山檀信徒一同報恩の誠を集め、本堂を中心に着々と整備を計り、如来のみ栄えを顕わすべく念佛を巳証の信となし、宗祖の遺徳を茲に宣場せんとす。当中田町の戦後の発展は誠に目覚ましく、昭和二十年代頭初の百七十余戸は今日、六千余戸の多さに達し、生活環境の変転は遂に土葬を許さざるの状勢に至れり。この時に当たり、本堂南側に墓地を設けし者一同、当山十九世住職香川隆善師に相計り火葬への必然性を考慮して整然たる墓地とするべく区画をととのえ、以って祖先の諸精霊の冥福を祈り佛祖に対し報恩の微意を捧げ奉らんとす。願わくは、宗祖 吾等の事業完遂を納受し哀愍護念し給い、吾等と吾等の子孫の上に永久に加護あらんことを。昭和四十七壬子四月二十三日」「地蔵尊」と「歌碑」。「夢の世に あわれはかなき 身を知れと 教えて帰る子は 仏なり」。和泉式部の歌に「夢の世に あだに はかなき 身を知れと教えて帰る 子は知識なり」とあるが。境内の左側の墓地の最前列には戦争での戦死者の大きな石塔が並んでいた。こちらは、「力士 戸田川の墓」であると。戸田川鷲之助(とだがわしのすけ)は享保20年(1735)に中田の小山家で生まれました。江戸角界の名門2代目玉垣の弟子として入門し、宝暦6年(1756)5月の上方番付では戸田川鷲之助の四股名で小結、翌年の京都興行では関脇に、やがて玉垣親方となり、角界第一人者が名乗る3代目雷(いかづち)権太夫を襲名、将軍家上覧<(じょうらん)相撲を実現させ、相撲の黄金時代を築いた人であるとのこと。「故近衛兵伍長 勲八等功七級 鈴木才助之墓」。「故陸軍歩兵軍曹 勲七等功七級 小山由蔵之墓」。「故陸軍歩兵伍長 功七級 小山順治郎碑」。故陸軍工兵 二等卒勲八等 鈴木○吉之墓」寺務所であろうか。「大本山増上寺吉水講 中田寺支部」の木札が。戦後の混乱期に浄土宗諸師により発足した吉水流詠唱の集いであり、吉水講の吉水とは、法然上人が当時住した辺りを吉水の地と云うことに由来。「中田寺」の入口左にあったのが「小山稲荷」。扁額「小山稲荷」。「小山稲荷」の「社殿」。赤の涎掛けをつけた狛狐が対で。さらにズームして。「中田寺」駐車場隅にあった「道祖神碑」。横浜市泉区中田北2丁目12付近。近寄って。そしてその先にあった石碑。真新しい「中田学舎誕生の地」碑。「明治六年(一八七三)七月 第十中学区鎌倉郡第二百六番小学」。石柱側面には「無限責任中田信用組合創立の地」とある。中田信用組合は浄土宗祖法然上人遠忌700年記念事業として創設されたようだ。「奥津喬次郎翁頌徳碑」。昭和36年(1961年)に浄土宗祖法然上人遠忌750年記念事業として建立され、後にここに移設されたものであろう。「奥津喬治郎は明治7年(1874年)生まれで、中田信用組合の創設者であり初代組合長を勤めた。昭和22年(1947年)に74歳の生涯を終えている。奥津喬次郎翁頌徳碑は昭和36年(1961年)にJA中田横に建てられた。信用組合の精神と奥津喬次郎翁の指導方針は受け継がれ、戦後は農協に発展し、現在のJAに結びついている。面白いことに、中田信用組合創立は浄土宗祖法然上人遠忌700年記念事業として、奥津喬次郎翁頌徳碑は浄土宗祖法然上人遠忌750年記念事業として建てられていることだ。中田寺との係わりの深さが知れる。なお、浄土宗祖法然上人遠忌800年には取り立てて記念事業は行われなかったようだ。明治5年(1872年)に学制が頒布され、小学校が設立されるが、それ以前の江戸中期頃から寺子屋があった。江戸時代から明治の初期にかけて、寺子屋師匠の学恩に報い死後の菩提を弔うために筆子と呼ばれた教え子たち筆子塚を造立した。中田寺墓地にも小山三郎兵衛の筆子塚が残っている。鎌倉郡ではお寺に学舎(小学校)が設けられた例が多い。文献が見つからないのだが、おそらくはこうした寺小屋跡か中田寺に中田学舎が誕生したのではあるまいか?」とネットより。駐車場から「中田寺」を見る。そして「中田寺」を後にして、県道22号線・長後街道の「中田小学校入口」交差点に出る。交差点を渡り左に進むと右手の奥にあった小さな「神社」。「向森稲荷」。そして横浜市営地下鉄ブルーラインの駅・「中田駅」に到着したつもりで下って行ったが、実はここは「中田駅自転車駐車場」であることに気が付き、途中から引き返したのであった。ここが横浜市営地下鉄ブルーラインの駅・「中田駅」入口。エスカレーターで降りて行く。ホームに到着。そして「湘南台」行きの電車に乗り込み帰路についたのであった。この日の「歩数」は33902歩。頑張りすぎました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.31
コメント(1)
「御霊神社」を後にして、県道22号線・長後街道に向かって進む。「中田町宮の前公園」が左側にある「東中田小学校入口」交差点まで進む。交差点角の公園入口には2基の石碑が。二基の「庚申塔」「中田町宮ノ前公園」の南端、東中田小学校入口の信号柱の傍らに2基の庚申塔が立っていた。横浜市泉区中田東4丁目58。大きい方は元禄15年(1702)2月、南ふじ沢道、北八王子道と刻まれて、道標もかねていた。小さい方は安政7年(1860)2月の建立。「石巻康敬の墓」に向かって左折し住宅街を進み右に折れる。右手に「横浜市地域史跡 石巻康敬の墓」があった。江戸初期に中田村の領主になった石巻康敬の家は、戦国時代に小田原北条氏の評定衆や相模西部の郡代を勤めた家で、本国は愛知県姫街道沿いの、石巻山を越える本坂峠を下った辺りです。康敬は中田の石巻館で23年間を過ごし村の発展に力をそそぎました。慶長18年( 1613 ) 10月1日80歳で逝去、持仏の観音堂(稲葉堂)の地であったこの地に眠っています。横浜市泉区中田東4丁目56-19。「横浜市地域史跡 石巻康敬(いしまきやすたか)の墓石巻下野守康敬は小田原北条家の重臣で北条氏康、氏政、氏直の三杙に仕えた後徳川家の旗本に入り、中田村を知行し、慶長十八年(一六一三)八十歳で逝去しました。その地に七代の孫、康福が康敬の一五〇回忌の法要(宝歴十ニ年、一七六ニ)に当って、撰文を岡井孝先に依頼して墓碑を建立しました。」石段を上がって中央墓石に近づく。「墓誌」碑。「墓誌江戸時代中田村領主鎮守御霊神社再興中田寺開基石巻康敬殿法名至徳院殿譽歓翁宗喜大居士慶長十八年十月一日逝去まで二十余年当地開発に務む宝暦十二年九月康敬百五十回忌法要に当たりその末裔康福墓碑を建立す。爾来二百十二年を経過今年法然上人浄土開宗八百年に当たり当山慶讃事業として開基の遺徳を偲び墓所の大改修を志し完工し報恩謝徳の微意をささげまた永く当地開発の一端を後世に伝えることを願い謹んで誌す。維持昭和四十九年浄土開宗八百年記念修復昭和四十九年十月吉詳貯徳山盁満院中田寺十九世住職香川隆善撰」「故従五位下(じゅうごいのげ)下野守石巻君墓」と刻まれた墓石が中央に建ち回りは岩垣で囲われていた。彼の功績をたたえる和歌『中田寺の御詠歌』の『福田の 石巻さまの 御功徳 貯めたる中に 念佛聞こゆる』が刻まれていた。そして来た道を引き返し県道22号線・長後街道に交わる道を渡り奥に進むと向かいには石の鳥居の小さな「社」があった。「稲荷社」。横浜市泉区中田北2丁目14。「社殿」。そして次に訪ねたのが「中田寺」。横浜市泉区中田北2丁目11-41。江戸期に中田村の領主であった石巻康敬(いしまきやすたか)が開基となり、慶長17年(1612)に本誉良廓上人(ほんよりょうかくしょうにん)が創建した、本尊阿弥陀如来像を置く浄土宗の寺。境内には石巻康敬の持仏堂であった十一面観音を置く稲葉堂や、「南無阿弥陀仏」と刻まれた十七世住職香川法隆上人(かがわほうりゅうしょうにん)の頌徳碑、当地小島家出身の中田寺二世辨良上人(べんりょうしょうにん)の墓や力士戸田川の墓があった。寺号標「浄土宗 貯徳山 示福院 中田寺」正面に「山門」。山門屋根に上がる蕾付き牡丹の飾り瓦が印象的。扁額「貯徳山」。「貯徳山 示福院 中田寺」碑。ここにも『中田寺の御詠歌』の『福田の 石巻さまの 御功徳 貯めたる中に 念佛聞こゆる』が刻まれた碑が。「山門」を潜り境内に。正面に「本堂」。「森菊松君碑」。日露戦争で明治37年(1904年)に戦死した陸軍上等兵であると。「六地蔵」。「六地蔵」の横に地蔵さま。「稲葉堂」。扁額にも「稲葉堂」と。「慰霊塔」。「鐘楼」。鐘楼の屋根には「蕾付き牡丹の飾り瓦」が。「梵鐘」「南無阿弥陀佛」碑。(昭和15年(1940年)銘)と刻まれた香川法隆上人の頌徳碑(しょうとくひ)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.30
コメント(0)
「永明寺別院」を後にして「柏尾通り大山道」を西に進む。「永明禅寺」の裏山に沿って進むと、左手の荒れ地の奥の高台にあったのが大きな「忠魂碑」👈リンク。「旧中川地区出身各戦役戦没者諸英霊荘厳菩提供養塔」と刻まれた石柱が「忠魂碑」の前に。「忠魂碑」の左側に「戦没者芳名碑」そして「旧中川地区出身戦没者名碑」があった。この敷地は岸井家によって寄付されたと。神奈川県横浜市泉区岡津町1574 岡津公園。「岡津公園」の前の家の表札も「岸井家」。「柏尾通り大山道柏尾通り大山道は、東海道の前不動(柏尾)から岡津の永明寺別院前の大山道道標前を経て、大山へ向かい、西田谷(にしだやと、現、桂坂)で坂道(男坂・女坂)へとつながる道です。「上り 大山道・下り かしを道」と刻まれた道標になっている地神塔は、坂の上り口に立っていましたが宅地造成のとき現在地に道されました。地神塔の立っている前の土手(現在は住宅)にあった庚申塔などは、現在、中川地区センター駐車場横にあります。また、周辺には製糸場もありました。 泉区役所」2基の庚申塔が左手に。左:駒型双体道祖神・・1813(文化10)年右:角柱型文字「地神塔」・・文字「秋葉大権現」「庚申供養■■ 巳待祭神」「桂坂公園」内を歩く。「領家西側」交差点を左折して進む。「西田・領家土地区画整理事業竣功記念之碑」が道路沿いに。その周囲の石碑群。そして左に折れて進んだ所の左手高台にも朱の鳥居の先に石碑群があった。横浜市泉区岡津町1294-3周辺の領家谷(りょうけやと)地域。正面に朱の鳥居と小さな「社」が。左手に丸彫双体道祖神・・1794(寛政6)年と石灯籠。左から角柱型文字「庚申塔」・・1859(安政6)年唐破風笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+三猿・・元禄??(1688~1704)角柱型文字「庚申塔」左から角柱型文字「猿田彦大神」塔唐破風笠付角柱型聖観音立像笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+日輪月輪+三猿その後、南下した後「弥生台駅」方面への道を進む。左手にあった「老人福祉センター横浜市泉寿荘」前を通過する。横浜市泉区西が岡3丁目。そして「浄土真宗 本願寺派 西恩寺」に立ち寄る。「龍王山 西恩寺」掲示板。「本堂」。宗派は浄土真宗本願寺派に属す。通称西本願寺、又は「お西」と言われています。東京で言えば、築地本願寺と同じ宗派になると。ご本尊は阿弥陀如来。「特別養護老人ホーム恒春ノ郷」の美しい生け垣のある坂道を上って行く。そして「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」に到着。横浜市泉区中田北3丁目42-1。神社の前の河津桜も満開に近かった。見上げて。中田町御霊神社の鳥居横に石碑が建っていた。「この碑の建つ土地は大正七年に当時御霊神社総代人であり、また同碑建立世話人であった小山良作氏によって寄進されたもので、このたびの参道改修に際し嫡男小山俊雄氏の赤誠により、整備された。後世のために之を誌す。昭和五十乙卯年二月吉日 宮司 宮本忠直」と刻まれた石碑。「宮本湊(いたる)先生頌徳碑(しょうとくひ)」👈リンク。中田の子弟の教育に尽力された中田学校教師宮本湊の頌徳碑である。「御霊神社戸塚区・栄区・鎌倉市域の御霊神社と同しく鎌倉権五郎景政を祀った神社で、昔から中田のごりょう様と呼ばれていました。明治の廃仏毀釈前は宮司家の東端に実相院の不動堂や護摩堂がありました。保安林に囲まれた石段下の弁天池は村岡川(宇田川)の源流になっています。池の前の庚申塔は、区内最古のもので、地域文化財に登録されています。鳥居横には、中田の子弟の教育に尽力された宮本湊先生の頌徳碑があります。 泉区役所」「御霊神社 石鳥居」。扁額「御霊神社」。社号標「村社 御霊神社」。参道を進むと掃除中のおばあちゃんの姿が。右手にあったのが「弁天池」と「厳島神社」。「弁天池」の傍らには石碑が建ちそこに「弁天の湧水 村岡川源流」と。村岡川とは宇田川の別名。弁天池に湧いた水は流れ出て宇田川となって境川に合流し相模湾に流れ出るのだ。「弁天池」のすぐわきに「ふどうばし」がかかり、そこにも「村岡川源流」と記されていた。「手水舎」。「石造庚申塔」が左手に。泉区内で最も古い庚申塔といわれていて、横浜市指定有形文化財に指定。「横浜市指定有形文化財(石造建造物)石造庚申塔指定年月日 平成十三年十一月一日所有者 宗教法人 御霊神社所在地 横浜市泉区中田北三丁日三三六五番地時代 江戸時代 寛文六年(一六六六)在銘法量 総高一〇九・〇 cm 笠高 一八・〇cm 巾四四・〇cm 奥行き三九・〇cm 塔身高 六六・五cm 巾ニ七・〇cm 奥行きニ五・五cm 台石高 ニ四・五cm 巾五三・五cm 奥行き四七・〇cm形状 角柱笠塔婆型員数 一基この塔は、横浜市域に所在する庚申塔の中でも古く、方形の台石の上に角柱の塔身を立て、笠を置く角柱笠塔婆型で、台石の上部には、コの字形の池をめぐらし、正面の左右に円形の半島をつきだし、花立を造っている。塔身の四面には、南無河弥陀仏の名号が刻まれ、正面には耳をふさいだ猿、向かって左側面にはロをふさいだ猿、右側面には目をふさいだ猿がそれぞれ浮き彫りにされている。」平成十四年三月 横浜市教育委員会」「庚申塔(大山道道標)」。「この庚申塔は、今から百五十九年も前の嘉永六年(一八五ニ)に、根下集落の庚申信仰集団(根下講中)の人たちによって、中田東ニ丁目一六九七番地先の大山道(旧長後街道)と柏尾道(戸塚を経由せず白百合を越えて江戸方面への近道)の分岐する道端に建立されました。道路の北側に南向きで建立されましたから、「右 とつか道」、分岐の「東 かしを道」、また反対方向の「西 大山道」と、碑面の左右に記され、庚申信仰の対象物だけでなく、道案内(道標)も兼ねています・今回、今までお祀りされていた場所が開発によって鎮祭が不可能となったため、現在の根下講中及び向根下自治会の人たちが相談し、鎮守様、御霊神社参道のこの地に遷座しました。」「狛犬(右)・阿形像」。狛犬(左)・吽形像であるはずだが・・・。「社殿」。御祭神:鎌倉権五郎景政(かまくらげんごろうかげまさ) 平安時代後期の武将、相模国鎌倉の領主、後三年の役で右目を射たれながらも 奮闘した勇将、関東平氏五家(鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏)のひとつ「社殿」は享保11年(1726)に再興されたといいます。しかし関東大震災で倒壊し、その主要部分を再利用し翌大正13年9月に現在の本殿が再建された。さらに昭和7年に拝殿、渡殿など新築され、社殿となっている。扁額「御霊神社」。「神楽殿」。「敬神崇租(けいしんすうそ)」碑。神を敬い先祖をあがめる、 尊いものとしてあつかうこと と。「敬神崇祖」 の四文字熟語は、 第二次世界大戦(太平洋戦争)までは国語辞典に記されていたとのことですが、 戦後教育において“政教分離”のもとに、現在、国語辞典には掲載されていないと。社殿の向かって右側に境内社が並んでいた。「矢並稲荷社」「大日大聖不動社」「日枝山王社」「金比羅社」、石廟数基。境内社「矢並稲荷社」。扁額「矢並稲荷」。「矢並稲荷」の「社殿」。境内社「大日大聖不動社」。「???」。境内社の「日枝山王社と金比羅社」。境内社「石廟」。「御神木」。「神輿庫」横浜市最古の木造学校建築物であると。「お知らせこの建物は大正十五(一九ニ六)年六月に、中和田小学校の奉安殿(その頃の学校では、主要行事が行われるときに、講堂の正面に、天良皇后両陛下のお写真をお飾りした。また、主要行事が行われるときには、校長先生が教育勅語を奉読して子供たちに聴かせ、その情神を伝えた。お写真は普段は取り外し、教育勅語と一緒にこの泰安殿に納めて置いた)として建てられたもので、横浜市最古の木造学校建築物となりました。平成ニ十六年ニ月の大雪で、上部の楠の技か折れて瓦屋根が壊されました。先ごろ、瓦下地の木工事や高価な特注の鬼瓦や平瓦を焼いて、修理が終わったばかりです。この建物には現在お祭りの時に使う、大人用と子供用のお神輿が納められています。」「御霊神社幼児園」正門。地域の鎮守さまの「御霊神社」が、昭和43年4月に境内の続きに開園したと。帰路の参道横にあった「石塔」。これも庚申塔であろうか?「山岳信仰碑と起立講遥拝所(きりゅうこうようはいしょ)」本社鳥居前の右手に石段が山を上って行く。この石段の上り口に建つ石柱には「木曾御嶽神社」とあった。この石段を上ると起立講(きりゅうこう)の御嶽山遥拝所(おんたけさんようはいしょ)に至っる。各地に残る山岳信仰の場の一つ。遥拝所には山岳信仰碑が立ち並んでいた。向かって左に板石碑が建ち、「國常立尊」(くにとこたちのみこと)、「三笠山神社」、「御嶽山神社」、「八海山神社」と刻まれていた。その右わきに、大黒天像がありその台座には「起立講中」と刻まれていた。その右わきに板石碑が建ちそこには「神武天皇白川神社」と。起立講とは木曾の御嶽山を信仰する山岳信仰をおこなう集まり。この御嶽山遥拝所でお参りし、また木曾の御嶽山に登りお参りをしていたのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.29
コメント(0)
更に「永明禅寺(ようめいぜんじ)」の境内の散策を続ける。屋根付きの白壁に「本堂再建銘」が。「本堂再建銘当時再々移転 復興計画の中心的伽藍として当処に再度の建立を発願する最中興開基 全之大居士を筆頭に檀信徒並びに十方遊縁の各位の多大なるご賛助ご協力を得てここに荘厳なる大本堂の竣功をみる。この浄業を末永く顕彰し銘とする。以下略」新本堂の前庭にあった「大観音菩薩石像」。「大観音菩薩石像」をジワジワとズームで。「慈母大観音由来」碑。「全友会(石田建設株式会社協力会)では従来より会員相互の親睦を深めるとともに会員各位の企業の安全のための研修を種々企画し実施してきている。さらに災害対策には一致協力し万全を期しているが残念ながら不慮の災害により殉職者を出し全友会としてこのような状況から脱却するために会長の島本忠司殿を中心とした役員会において思案していたところ石田建設株式会社代表取締役である石田全久殿の助言勧めもあって全友会並びに石田建設株式会社が共に協力して災害殉職者の供養と各関係企業の社運隆昌安全を祈願し大観音像の造立を発願することになった。観音像造立については永明寺先住(二十五世故圓嚴租峯師)の遺志と合致することであり特に石田建設株式会社ゆかりの永明寺境内に選定し境内地の中でとりわけ高く眺望のよい当処に建立することになった。観音さまは一切衆生(あらゆる人)を救済し慈悲(与楽抜苦)をたれることを本願とする菩薩であり観音経には三十三身に化身してすべての人を救済すると説かれている。その救済の様相(姿かたち)より多くの名前がつけられている。この大観音は聖観世音菩薩であり名づけて慈母大観音と言う。全友会並びに石田建設株式会社はもとより当町地域の帰信の象徴としてさらに未来永劫に亘り観音さまの大慈悲をたれ賜わんことを念じここに由来を誌す者也」「大観音菩薩石像」手前にあった仮設の「鐘楼」。「梵鐘」は先代のものであろうか?ここにも「十六羅漢像」。ここにも「十六羅漢像」。「十六大阿羅漢 㐧八伐闍羅佛多羅尊者(ばじゃらぶたらそんじゃ)」とこの像にのみ案内板が置かれていた。「大圓鏡智」碑。『もし、ここに水の入った壺があったとして、水面が風で波立っていたとしたら、この水は、物を正しく映すことができるであろうか?またもし、この壺が火にかけられて煮え立っていたとしたら、この水は、物を正しく映すことができるであろうか?さらにまた、この壺の水が、長く放置されて、腐り、水苔に覆われていたとしたならばどうであろうか?もちろん、これらの水は、物をありのままに映すことはできない。それと同じく、もし我々の心が、貪り(むさぼり)で波立ち、瞋り(いかり)で煮え立ち、愚痴(ぐち)で腐っていたならば、我々は正しく物を見ることができるだろうか?皆の者よ、もちろんそれは不可能なことである。』この言葉は、釈尊が弟子たちに向かって話した言葉だとネットから。その奥にも「十六羅漢像」。そして境内を後にして石段を下って行くと、立派な墓石の「岸井家之墓」。この岡津の町のは多くの「岸井」家があることに気がついたのであった。昔からの名家が続いているのであろう。階段途中から「山門」、「鐘楼」を見る。入口上にあるのは「寺務所」であろうか。そして正面には急過ぎる石段が目に入って来たのであった。それにしても、途中の踊り場もなく超急な石段、法律的に問題ないのであろうかこれぞ神のみぞ知る石段なのであった。手摺に捕まりながら一歩一歩足下を確認しながら上って行った。すると、最上部の狭い土地に小さな社が2社。「御嶽山」(右)。扁額「御嶽山」。「白山社」(左)。扁額「白山社」。石段の上から「永明禅寺」の「山門」を見る。この後、再び手摺をしっかりと握りながら一歩一歩階段を下りたのであった。そして北に進むとあったのが「石田建設㈱」の社屋。「永明禅寺」の縁者が経営する会社ののであろうか?前庭に立っていたのは創業者の像であろうか?「永明寺 法輪殿」の文字も。これは双体道祖神像であろうか。「福袋をひっぱる福引ねずみの石像」。ねずみの親子の姿が。そして次に訪れたのが「永明寺別院」。入口にも「十六羅漢像」が。ここにも「永明禅寺」にあったものと同じの「永明寺由緒」案内板。横浜市泉区岡津町1569-9一、宗旨 曹洞宗(大本山總持寺の孫末寺)ニ、名称 岡津山(こうしんさん)永明禅寺(よらめいぜんじ)三、本尊 木造聖観世音菩薩立像(像高三六・五)奉安四、勧請開基 前太田左衛門大夫持資入道道灌(江戸城築城) 開基 悟眞寺殿花林道灌栄公大禅定門 文明十八年(西暦一四八六)七月ニ六日寂 太田越前守入道宗真、祖父太田道灌の菩提を弔う為五、開創 天文十一年(西暦一五四ニ) 川上町徳翁寺第ニ世典舜養大和尚を勧請六、中典 当他願主黒田直綱の後継、黒田用綱が中興の祖 中興開基 玄融院殿泰嶽道安居士 寛文十ニ年(西暦一六七ニ)十一月七日寂七、前立本尊 木造聖観世音菩薩立像(像高一〇四・五)奉寄進 桂屋妙貞大姉淑霊 繁翁教栄居士覚霊 為両霊位善提 施主 武蔵州江戸霊厳島 梅村 八郎次 第三世傑州順英代【寺城内で三度移転】一五六九番地(基苑下の住宅地)に建立、延宝六年(西暦一六七八)現山門 建立地に引移した。大正十ニ年(西暦一九ニ三)関東大震災に裏山の崖、堂宇が崩壊し、 岡津町一六一六(現別院)に移転した。平成ニ年(西暦一九九〇 )周囲の開発と、河川の氾濫による 浸水も度重なり、山頂の現在地に再度移転した。【寺城の整備】寺城南側に、歴代住職の基地を整備、併せて檀信徒の墓地(やまふき墓苑)を 整備拡張し、各檀信徒の先祖を大切に祭祀している。墓苑入口に六地蔵尊、苑内に釈迦如来立像 (やすらきの墓)子育、水子地像尊像、北側に釈迦如来坐像、岡津八景歌碑等、本堂前に 大観世音菩薩立像、寺城内に十六羅漢石像を奉安している。」「十六羅漢像」がここにも。永明寺別院の「本堂」永明寺(ようめいじ)は関東大震災で崩壊し、阿久和川沿いに移転してきたが、やまぶき墓苑(永明寺墓地)横の旧跡地山上に本堂や慈母大観音菩薩像、山門、鐘楼などの伽藍が再建され本院に復し、阿久和川沿いの境内は永明寺別院となっているのであった。扁額「岡津山」。こちらが山門。「岡津山永明禅寺」の寺号標石。左手には「永打虚空去㨂択」と刻まれた石碑も。今回も、学友からご教示頂きました。禅宗の言葉であるとも。左手にも「明珠璨乎含十方」と。「不動明王像道標」・・上部の「不動明王像」。「不動明王道標」・・「正面:大山道」阿久和川の向かいには大山前不動を祀る向導寺があり、不動橋を渡ったここ永明寺別院前が大山道だったのだと。また、出羽山山(月山・湯殿山・羽黒山)供養塔は、上倉田南バス停(横浜市戸塚区上倉田町)と光長寺(横浜市栄区飯島町)の手前にもあるとのこと。また、先程訪ねた西林寺(横浜市泉区岡津町)にもあったのだ。右側面 :「右ほし乃やミち」ほしのや道とは坂東三十三観音札所めぐりの巡礼道で、座間のほしのや観音(星谷寺)(8番札所)と横浜の弘明寺(ぐみょうじ)観音(14番札所)を結ぶ「ほしのや・ぐみょうじ道」である。左側面:「享保10年(1725)」 の文字が。「角柱型出羽三山供養塔」・・「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」 「文政13年(1830年」の文字が刻まれていると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.28
コメント(0)
「永明寺」に向かって進むと大きな広さの墓地の角にあった観音像。ズームして。墓地入口左手にあったのがコンクリート製の四阿(あずまや)の如き建物。そしてその場所近くから「鐘楼」を見上げる。そして「曹洞宗 岡津山 永朙禅寺」参道入口に到着。寺号標「曹洞宗 岡津山(こうしんざん) 永朙禅寺(ようめいぜんじ)」。石段の上に「山門」が見えた。「永明寺由緒横浜市泉区岡津町1569-9一、宗旨 曹洞宗(大本山總持寺の孫末寺)ニ、名称 岡津山(こうしんさん)永明禅寺(よらめいぜんじ)三、本尊 木造聖観世音菩薩立像(像高三六・五)奉安四、勧請開基 前太田左衛門大夫持資入道道灌(江戸城築城) 開基 悟眞寺殿花林道灌栄公大禅定門 文明十八年(西暦一四八六)七月ニ六日寂 太田越前守入道宗真、祖父太田道灌の菩提を弔う為五、開創 天文十一年(西暦一五四ニ) 川上町徳翁寺第ニ世典舜養大和尚を勧請六、中典 当他願主黒田直綱の後継、黒田用綱が中興の祖 中興開基 玄融院殿泰嶽道安居士 寛文十ニ年(西暦一六七ニ)十一月七日寂七、前立本尊 木造聖観世音菩薩立像(像高一〇四・五)奉寄進 桂屋妙貞大姉淑霊 繁翁教栄居士覚霊 為両霊位善提 施主 武蔵州江戸霊厳島 梅村 八郎次 第三世傑州順英代【寺城内で三度移転】一五六九番地(基苑下の住宅地)に建立、延宝六年(西暦一六七八)現山門 建立地に引移した。大正十ニ年(西暦一九ニ三)関東大震災に裏山の崖、堂宇が崩壊し、 岡津町一六一六(現別院)に移転した。平成ニ年(西暦一九九〇 )周囲の開発と、河川の氾濫による 浸水も度重なり、山頂の現在地に再度移転した。【寺城の整備】寺城南側に、歴代住職の基地を整備、併せて檀信徒の墓地(やまふき墓苑)を 整備拡張し、各檀信徒の先祖を大切に祭祀している。墓苑入口に六地蔵尊、苑内に釈迦如来立像 (やすらきの墓)子育、水子地像尊像、北側に釈迦如来坐像、岡津八景歌碑等、本堂前に 大観世音菩薩立像、寺城内に十六羅漢石像を奉安している。」「山門」。「山門」の扁額は「岡津山」。阿形像が「金剛力士像」、阿形像は「那羅延堅固王」(ならえんけんごおう)、吽形像は「密迹金剛力士」(みっしゃくこんごうりきし)と呼ばれる。横から。吽形像が「密迹力士」(みっしゃくりきし)。横から。「金剛像」の裏側にも木造の仏様が。向かって左側の上には「七福神」の姿が。向かって右側の上には色鮮やかな「十二神将」の姿が。そして「山門」を潜り「本堂」への石段を見る。石段下に「六地蔵」。「山門」の左側に先程見上げた「鐘楼」。石段下横の池と十六羅漢像。境内には十六羅漢像が祀られていた。この石段を上って行った。石段前の「伝光閣」。石段の横で白梅が迎えてくれた。十六羅漢像が石段の上で迎えてくれた。羅漢は阿羅漢の略称で、一切の煩悩を断って修行の最高位に達し人びとの供養を受けるに値する仏弟子や聖者と言う。十六羅漢は跋羅駄闍尊者(ばらだしゃそんじゃ)、迦諾迦伐蹉尊者(かにゃかばっさそんじゃ)、諾迦跋釐駄尊者(だかはりだそんじゃ)、蘇頻陀尊者(そびんだそんじゃ)、諾矩羅尊者(なくらそんじゃ)、跋陀羅尊者(ばだらそんじゃ)、迦哩尊者(かりそんじゃ)、弗多羅尊者(ほったらそんじゃ)、戎博迦尊者(じゅはくかそんじゃ)、半諾迦尊者(はんだかそんじゃ)、羅怙羅尊者(らごらそんじゃ)、那伽犀那尊者(なかさいなそんじゃ)、因掲陀尊者(いんかだそんじゃ)、伐那婆斯尊者(ばなばしそんじゃ)、阿氏多尊者(あしたそんじゃ)、注荼半託迦尊者(ちゅうだはんたかそんじゃ) と呼ぶのだと。石段の上から山門を振り返る。ここにも十六羅漢像。「本堂」。十六羅漢像。「螢山禅師御尊像」。曹洞宗の大本山總持寺は、元亨元年(1321年)瑩山禅師が能登半島の櫛比庄「現在の石川県鳳至郡」にある諸嶽観音堂に入山し、諸嶽山總持寺と改号、元亨2年(1322年)後醍醐天皇より紫衣を拝領、曹洞宗の大本山となったといわれているのだ。ズームして。扁額「永明禅寺」。寺務所であろうか。一休さん石像。日本の曹洞宗の開祖「道元禅師御尊像」。ズームして。「本堂」を横から。「本堂」を斜めから。「本堂」前の境内を見る。「本堂」前の石柱には「大圓鏡智」の文字が。その奥に十六羅漢像。『もし、ここに水の入った壺があったとして、水面が風で波立っていたとしたら、この水は、物を正しく映すことができるであろうか?またもし、この壺が火にかけられて煮え立っていたとしたら、この水は、物を正しく映すことができるであろうか?さらにまた、この壺の水が、長く放置されて、腐り、水苔に覆われていたとしたならばどうであろうか?もちろん、これらの水は、物をありのままに映すことはできない。それと同じく、もし我々の心が、貪り(むさぼり)で波立ち、瞋り(いかり)で煮え立ち、愚痴(ぐち)で腐っていたならば、我々は正しく物を見ることができるだろうか?皆の者よ、もちろんそれは不可能なことである。』ありのままを素直に映す鏡のような心、落ち着き払って正しい判断ができる心、これを「大圓鏡智(だいえんきょうち)」と言うのだと ネットから。石柱の先にも「十六羅漢像」の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.27
コメント(0)
そして次に訪ねたのがスーパーTAIGA 岡津店の前にある「西林寺」。横浜市泉区岡津町1432。「浄土宗 亀鶴山 一心院 西林寺」寺号標碑。掲示板には「冬のあとに 春は訪れ 闇の向こうに 光は見える」と。「冬」を「コロナ」と読み替えられる日を待ちたいと。入口左にあったのは「西林寺」の「斎場」のようであった。「枝垂れ桜(シダレザクラ)。樹齢百六十年といわれ四月の花祭(八日)ごろ美しい花を咲かせます。昔はこうした枝垂れ桜の下で歌会を開き和歌や俳句をつくったものです。それを花の下の和歌と呼んでいます。」春には・・・・!!!。 【https://4travel.jp/travelogue/10871200】より「本堂」。本尊は、約一四五cmの座像の阿弥陀如来で、安永五年(一七七六)、品川願行寺十五世檀誉性善作といわれている。戸塚区郷土誌(昭和四十三年刊)によると、西林寺は、長禄四年(一四六〇)の開創で、開山は、慶運寺開山聖観の弟子で、新橋町の中丸氏から出た円蓮社団誉閑悦といわれている。開創当初は、念仏堂であったが、三世称念によって一寺になったということである。この称念も新橋町の中丸氏の出身で、左衛門尉道昭の子で、晩年には浄土宗本山知恩院の山上に一心院を開いた捨世派(しゃせいは)の鼻祖(びそ)である。寺の入口にあるしだれ桜は有名で、花の咲く頃には、見物客で賑わっている。境内には、江戸時代の後から明治初期にかけて寺子屋「不及庵稽古所」を開き、明治六年に開校した小学校「岡津学舎」の先生をした原田由右衛門の碑「朴翁居士之碑」や西林寺住職で寺子屋の師匠をしていた栄隆の筆子塚がある。また、境内には「ほしのや・ぐみょうじ道」の道標を兼ねた出羽三山供養塔がある。扁額「西林寺」。「本堂 内陣」をネットより。 【https://4travel.jp/travelogue/10930050】より豪華な天井。 【https://4travel.jp/travelogue/10930050】より「亀鶴山一心院西林寺長禄四年(一四六〇)中丸左衛門尉定昭が神奈川宿慶運寺音誉聖観上人(増上寺第三世)の弟子団誉閑悦上人を招き、藤沢道に沿った向い山=天台山(通称首切山)の麓に建立したのが西林寺の初めです。徳川家康の側女於万の方は岡津の人で、代官頭彦坂小刑部元正の推挙によって大奥に仕えていましたが、四十歳のころ辞任したのち清源院尼と称し、竹の鼻に草庵を設けて住んでいました。その後戸塚に清源院を建て移住した跡地に移転したのが、今の西林寺です。三世称念上人は浄土宗捨世派の派祖で、京都知恩院の南隣に一心院を建立したり、知恩院の御影堂に屋根瓦をのせるために努力した高僧です。本尊は阿弥陀如来で、浄土宗です。」原田由右衛門の碑「朴翁居士之碑」。「原田由右衛門の頌徳碑原田由右衛門は江戸末期に寺子屋師匠をつとめた人で、この碑は筆子中が建てたものです。筆子とは教え子ということです。明治六年(一八七三)はじめて岡津に小学校が建てられた時には、一年間だけですが先生になっています。そのあと継いだのは西林寺二十九代目の住職であった栄隆和尚で一時小学校は西林寺の本堂を使用していましたが、のち岡津橋のたもとに移されました。そのとき教師になったのが宮本臻でした。」「文殊菩薩像学問を身につけ、知恵を授けて下さる仏さまといえば、『三人寄れば文殊の知恵』といわれていますように文殊菩薩です。右手に剣を持っているのは知恵をみがくという意味が左手に本(経巻)を持っているのは、本には知識がいっぱい収まっているということをあらわしています。獅子は百獣の王といわれ、その獅子ですら知恵にはかなわないというのです。知恵の方がより勝っているのです。住職智誉俊雄上人は、平成四年の春、文学博士の学位を得られました。そのとき檀信徒や有縁の人たちからいただいた祝金をもとに、上人の発願によって『学問や知恵の仏さま』である文殊菩薩を建立いたしました。原型は日展会員田端功一、鋳造は佐脇義光、仕上は矢木紀行、着色は立川善信諸氏の優れた技能によって造られたものです。学問は巾広く生涯を通じて大切なものです。仏さまは皆さんの願いごとを聞いて下さいます。合掌してお詣り下さい。」。ズームして。「観音像」。「観音像昭和五十五年七月皆さんのご協力によって造立されたもので台石の下にはアメリカ・イギリス・フランス・チェコスロバキア・ロシアをはじめ、各地の知人から平和を祈っていただいた石が納められています。観音さまは三十三の姿に身をかえ・人びとに楽しみをあたえ・苦しみを取り除いてあげようと白夜のぞんでおられる仏さまです。観音さまにお願いすれば、水火・刀剣・悪魔・怨霊などの難から逃れ重い病気もまた軽く受けることがてきるのです。」「石仏」(左)と「徳本上人の名号塔」(右)。「徳本上人の名号塔徳本上人は徳本行者ともいい紀伊国(和歌山県)の人で全国にお念仏を弘めて歩いた高僧です。文政二年(一八ニ一)十月西林寺の檀家の人は神奈川宿の慶運寺まで行き教えを受けました。その人たちの名前が台石に刻まれています。」。「地蔵尊」。「六地蔵」。「地蔵菩薩地蔵菩薩はお地蔵様と呼ばれて親しまれています。お地蔵様は境内や墓地の入口あるいは辻なのに建てられています。地蔵様の建てられているつじ辻が六道の辻です。六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことで、お地蔵さんの建てられている所までが六道、苦しみの世界なのです。それを越えると仏の世界です。仏の世界に導かせようと案内している仏が地蔵さんですからお地蔵さんの前でも阿弥陀さんのおられる本堂の前で手を合わせたように、手を合わせ幸せが得られるようにお願いしましょう。」「鐘楼」。「梵鐘」。昭和57年(1982年)銘が。「角柱型出羽三山供養塔」正面-「月山 湯殿山 羽黒山供養」道標:東-「かまくら ぐみょうじ道 江戸」 西-「あつぎ ほしのや 八王子道」「弘明寺道(ぐみょうじ道)」とは、東海道の保土ヶ谷宿から弘明寺観音を経て鎌倉へ通じる道として利用されていたと。「ほしのや」は座間の「ほしのや観音」のことであると。「本堂」を斜めから。「老松」。「老松宮内庁植木職の調査によりますと盆栽仕立てとして植えられていたものが、植木鉢ではたえられなくなって大地に植えられたもので少なく見積もっても五百年はたっているだろうと言うことです。」「西林寺」を後にして、「阿久和川」まで北に進み「堂の前橋」を渡る。下を流れる川は「阿久和川」。そして民家のフェンスの奥に石碑を発見。「光背型双体道祖神塔」。そして横浜共立鋼業の先、左奥にあった小さな社。「社」の名前は?「稲荷社」であろうか?「社」の裏には「阿久和川」に流れ込む小川があった。再び「阿久和川」まで戻る。前方に「新岡津橋」。「新岡津橋」を渡る。川にたくさんいる「鴨」をデザインに入れていると。「新岡津橋」を渡り50mほど真っ直ぐ進むと左手高台にも神社があった。階段を上がると新しい石造りの社殿の姿が。「稲荷社」。横浜市泉区岡津町1529-2。地面もすべてコンクリートで固められ、新しくなり過ぎたという印象。ここは泉区岡津町の、かつて中川村と呼ばれていた地区でこの辺は昔の大山道の街道沿いでもあったのだ。東海道の戸塚から大山を目指してここを歩いたのであろうが・・・。そして「稲荷社」の前の急な坂道を上っていくと、右手に白壁の塀が現れた。この近くに「白山社」があるのであったが。手前のネットフェンスの入口は施錠され閉まったいた。隙間に手を入れ、感でシャッターを押したが。先に木製の「社殿」が写っていたが、これが「白山社」なのであろうかと。横浜市泉区岡津町1552。そしてその先左には「ルネ戸塚弥生台」が。岡津町に建つ、1989年10月築、RC造地上10階建、総戸数238戸の大規模マンション。横浜市泉区岡津町1500番2号。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.26
コメント(0)
そして次に「三嶋神社」を訪ねた。右手に石造りの一の鳥居が。横浜市泉区岡津町2352。この周辺は「岡津城」が有った場所であると。一の鳥居に前、横浜市立岡津小学校への裏門前のこの盛り上がった場所が「岡津城」の土塁のようであった。城跡は、標高59m、比高(ひこう)40mであったと。岡津城は扇谷上杉氏・上杉定正の養子、上杉朝良の居城。1512(永正9年)には相模に進出した伊勢宗瑞(北条早雲)によって攻略された。早雲は岡津城を江戸衆の太田大膳亮に与えた。1590年(天正18年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入封したのちは彦坂元正が当地の代官として赴任し、岡津陣屋が置かれたが、1606年(慶長11年)に改易されたため陣屋も廃さた。現在城址は本丸跡が三嶋神社の北側上方には横浜市立岡津中学校のグラウンドになっており、曲輪跡とされる三嶋神社の前には土塁を確認することができる。また陣屋が築かれたのは横浜市立岡津小学校のあたりで、ここが岡津城の最下段の曲輪で、近くにかかる鷹匠橋と呼ばれる青い橋が大手道とされていると。そして再び「三嶋神社」の一の鳥居を潜る。石造りの扁額「三嶋神社」。そして二の鳥居。この鳥居は六脚の両部鳥居であった。左右に石灯籠が。右手の手水舎。水盤には手造りの屋根が。目的は??そして正面に「社殿」。岡津全域の鎮守さまで、天文5年(1536)に創建と伝えられ、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)。天正18年(1590)に今の岡津小学校地に陣屋を築いた代官頭の彦坂小刑部(こぎょうぶ)元正をはじめ、その後の岡津村の領主は守護神として三嶋神社を信仰した。昭和47年(1972)まで神社の参道は県道から鳥居まで真っ直ぐで、岡津小学校は神社の参道を校庭として借りていたのだと。扁額は「三島大明神」。「社殿」前から境内を見る。階段下を真っ直ぐ進むと、参道であるが横浜市立岡津小学校のグランドを横断していたのであった。「由緒御祭神 大山祇命(おおやまずみのみこと)開拓 農耕 治水 山の神社創建 創建の年代と創健者は明らかでないが和銅六年(七一四)奈良時代相模国風土記に 鎌倉郡中川村字岡津三嶋神社として文献にある。再興 天文五年(一五三六)室町時代乱世の代より多くの武人・農民が岡津の地に住み 心の拠り所として祭事を行った。天正十八年(一五九〇)安土桃山時代、時の 代官が守護神として社を造営整備信仰につとめた。 文化四年(一八〇七年)江戸時代名主四人世話人九人により社を再建昭和四十四年 (一九九九年)昭和時代旧社殿は建立後約百六十年経過し修復も難しくなり地域の 人々の浄財を仰ぎ現社殿が新築されました。御祭典 一月一日 元旦祭 九月七日 例大祭 十一月十五日 七五三祝 十一月二十三日 新穀感謝祭 三嶋神社」神楽殿。社務所。「皇紀二千六百年記念植樹之碑」。石の社があったがやや荒れ果てて。「奉納」と書かれた石碑もあった。「岡津城」に関連した石塔であろうか。そして次に小高い山上にある神社に向かった。神社への坂道から新たに出来る工事中の道路を見る。「阿久和川」に向かう直線のバイパス工事の様であった。正面に小さな神社。小さな「稲荷社」社殿。朱の鳥居の前右にあったのが「庚申供養塔」。「文字庚申供養塔」で寛政八(1796)年の文字が。双体道祖神昭和四十五(1970)年に移設と有るだけで年代は不明。そして来た道を戻り「阿久和川」を渡る。橋の名は「伊勢堰橋」。県道401号線に突き当たり左折して進むと直ぐにあったのが「岡津町」交差点。ここを右折して坂を上って行く。この道路は横浜市営地下鉄ブルーライン(1号線)の「踊場駅」方面への道で、道路の両脇には様々なファミレスが賑やかに並んでいた。南に進んで行くと道路脇の花壇の菜の花が美しく。そして次に訪ねたのが右手にあった高野山真言宗「光應山 普光寺(こうおうさん ふこうじ)」。この寺は「光應山 東光院( とうこういん) 普光寺」といい、本尊の玉眼、彩色の聖観世音菩薩像の大慈大悲の光が普く(あまねく)輝いているという意味が込められていると。本堂は平成3年の建築、本堂の内陣には弘法大師の一生を描いた欄間があり、境内には歓喜天(かんきてん)堂や四国八十八カ所の砂が敷き詰められた砂踏霊場があった。寺入口右の盛土の上に天神社が祀られ、その境内に原田由右衛門門人建立の「筆塚(ふでつか)」も。「光應山普光寺」の寺号標石。「ほほえみ観音」。お顔をズームして。参道脇には「六地蔵堂」。真っ赤な頭巾、涎掛け姿の「六地蔵」。小高い場所に「神社」が。名前は「天神社」。原田由右衛門(よし(う)えもん)門人建立の「筆塚」👈リンク。「天神社」裏の桜の大樹。春になれば見事な姿に変身するのであろう。庚申塚の「舟形光背型地蔵立像+三猿」台座には「同行四人」正面右側 「奉庚申供養成就」正面左側 「寛文十戌十一月六日」(1670)の文字が刻まれていた。右側には「駒型〇〇塔」。正面に「普光寺」の「本堂」の姿が。左手には小さな「弁天池」が。「弁天堂」。技芸上達、商売繁盛にご利益があるとされる。「子育観音像」と「〇〇地蔵」。「水屋」。「水天」と刻まれた石塔。「神奈川宗務支所」。境内の「石仏群」。絵を描いているのか?本を読む。これは?小さな琴を弾く?涅槃仏?「聖天堂」。商売繁盛、夫婦和合にご利益があるとされる「大聖歓喜天様」をお祀りしていると。双身像の聖天様は、夫婦和合・安産・子宝の神様として信仰されていると。「本堂」を正面から。室町時代中期に開山したと伝わる。開山は円威和尚、二世円成和尚であり、ご本尊様である聖観音菩薩像は、開山円威和尚の追善のために、二世円成和尚が造立されたとの記述が残っていると。それによると、聖観音菩薩像が安置されたのが長禄三年(1459年)。その二年前に円威和尚が入寂されたと記されているので、少なくとも当山は1450年代には開山していたことがわかるのだと。「弘法大師像」。周囲には「四国八十八ヶ所霊場」の寺院名と御本尊の刻まれた石柱が円形に並んでいた。別の角度から。懐かしき「四国八十八ヶ所霊場」👈リンク 碑。私は2018(平成三十年).03.30に「結願」したのであった。「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」案内板。四国八十八ヶ所御砂踏み霊場の第一番「霊山寺」の石仏。四国八十八ヶ所御砂踏み霊場の第八十八番「大窪寺」の石仏。参道中央に「香炉堂」と「香炉」。「横浜市名木古木指定 ヤマモミジ」。前方に石仏、左手には「賽の河原」。石仏は「水子地蔵尊」。「賽の河原」。「本堂」。「普光寺本堂」に掛かる「光應山」の扁額。「本堂」前から境内を見る。「本堂 内陣」。ズームして。「本堂」左側斜面には墓地が拡がっていた。その上に「鐘楼」が見えた。再び「本堂」を見る。屋根には「五三の桐」、「左三つ巴」の施された鬼瓦等が。「普光寺」を後にして「観音谷北側」交差点を左折して進むと左側にあったのが「防災協力農地」の案内板があった。「防災協力農地」とは、地震災害が発生した場合に、農地所有者の協力により、農地をあらかじめ登録することによって、市民の避難空間としての活用と、災害復旧用資材置場を確保することを目的とした制度とのこと。そして右手奥には朱の鳥居のある小さな「社」があったが。その隣は「なかまる動物病院」の駐車場であったが、関係があるのだろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.25
コメント(0)
「横山家長屋門」を後にして、来た道を戻り、途中右に折れ住宅街に入る。右手の擁壁の下に石碑群が。そしてコンクリート擁壁の水抜き穴にスズメの姿が。この穴に巣を作っているのであろうか。アンテナ線の様なものを持ち込んでいたが巣造りに使うのであろうか?そして石碑群の中に左から「道祖神」、「双体道祖神」が。再び県道401号線・県道瀬谷・柏尾線に入り「新橋」交差点を右折し相鉄いずみ野線の高架を潜る。直ぐ左手に急な長い階段の上にあったのが「五霊社」。横浜市泉区新橋町109。道路を渡り、階段を上って行く。階段の上に石の鳥居が。扁額「五霊社」。「五」のくずし字なのであろうか?友人より「象形文字「五」の甲骨、金文文字」であると。「社殿」。ここ下新橋地域の鎮守さまで日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りしている。勧請は、永享三年(一四三一)で、社伝に、「当地の開拓が進んでしばらく経った頃大凶作を迎え、しかも盗賊の害が多発したので村人一同が対策を合議した時に、一老人が「吾人鼓腹して楽しみとするも、唯吾力のみにして衣食得べからず。天地神明の加護なくんば之を得ず。足りて驕れば賊を招くなり。宜しく日本武尊を奉祀して報賽祈請(ほうきんきしょう)し、かっ霊威によりて鬼賊を封止すべきなり」と述べたので、一同非を悟り、直ちにお宮を建てた。再び豊作になり、賊害も消滅したという」とある。享和年間(一八〇一~三)と文久元年(一八六一)に、社殿の改修、改築した折の棟札が保存されている。社殿の扁額「五霊社」。欄間の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。階段横にあった「稲荷大社」。扁額「稲荷大社」。内陣の狐様(右)。咥えている「玉(宝珠)」は霊の力。内陣の狐様(左)。咥えている「巻物」は神様からのお言葉。そして更に県道411号線を南下する。「新橋町西田橋」交差点を左折する。(行き過ぎました)上り坂の途中、左側の「新橋ホーム前バス停」手前の植栽の中にあった石塔。角柱型文字「庚申塔」・・道標: ほしのや/〇〇道。そして再び新橋町西田橋」交差点まで戻り、県道411号線・瀬谷柏尾道路を「阿久和川」に沿って東に進む。すると左手の階段上に石塔群が保護された状態で。左から「文字道祖神」、昭和7年の建立中央に「阿弥陀如来立像庚申塔」右に「」中央はどっしりとした笠塔婆の付いた「阿弥陀如来立像庚申塔」。寛文8年の建立。下部には庚申の「申(さる)」で「言わざる・聞かざる・見ざる」の順番で三猿がいた。右側には蓮の姿が。左側も同様に。斜めから。そして、直ぐ東にあった「富士塚」に向かって進む。階段を上がっていきうと案内板があった。「向導寺と富士塚浄土宗の向導寺には、明治22年、中川村が誕生したとき、翌年11月、役場の庁舎が新築されるまで仮庁舎が置かれました。墓地には寺子屋師匠吉田雄山の筆子塚があります。寺の裏山には、富士山を信仰する集団である富士講の人々が、富士山の遙拝所として、また信仰の対象として富士山を模った人工の富士塚があります。塚の前には不動堂があり、阿久和川にかかる不動橋を渡ると永明寺門前に大山道道標が立っています。」するとその先に「岡津不動尊堂再建工事の為、1月20日より7月未日まで通行止めといたします。」の表示とバーフェンスが設置されていた。諦めて戻り、「向導寺」に向かって進む。正面に「向導寺」山門が現れた。「横浜市指定有形文化財 木造阿弥陀如来座像」案内柱。山門前右手に「六地蔵」が。「山門」。扁額はなんと「徹底山」と。境内の石仏・光背型地蔵菩薩立像・・1712(正徳2)年。境内の石仏・光背型地蔵菩薩立像・・1659(万治2)年。「松本家先祖代々菩代」碑。「山門」を寄進された家のようだ。手水場。文字は「報恩」であろうか。「向導寺」の「本堂」。横浜市泉区岡津町にある向導寺は浄土宗のお寺であり、徹底山本覚院向導寺という。元京都知恩院の末寺で、善蓮社知誉上人が開山といわれており、創建は知誉上人が亡くなる天正10年(1582年)以前と思われる。本尊は阿弥陀如来で、平安期の仏師定朝の作風が見られるとされる。扁額は「向導寺」。そしおて「向導寺」境内から「富士塚」に向かった。「岡津不動尊堂再建工事」の基礎工事が行われていた。小さな「御堂」が「富士塚」の下にあった。そして「富士塚」を見る。4基の富士講碑が建っているとのこと。その中に「ゑぼし岩 食行身禄杓」(享保11年(1726年)銘)(杓には木偏が付く)の石碑があるが、食行身禄とは伊藤伊兵衛をいい、関東地方に富士講を爆発的に普及させた人物であると。富士塚は小さい分、その山姿は富士山に似ている。岡津富士塚とも呼ばれている。横浜市や東京都には今も富士塚が何箇所か残っているが、これらと比べると小さなものだ。塚の石碑をズームで。「ゑぼし岩 食行身禄杓」(享保11年(1726年)銘)。そして「向導寺」、「富士塚」を後にして東に進むと、左手の小高い場所に小さな社殿が。「稲荷社」で社の中には石の社が。そしてその先、民家の庭の中の如くの場所にあった石塔。「道祖神」の文字が確認できた。双体道祖神 年代不明珍しく大きく「道祖神」の銘が、平成六(1994)年境内修復と。そしてその近くの梅林の白梅は満開であった。青空に映えて白が輝きを増す。そして多くのメジロが密を求めて。メジロの姿をしばし追う。そして岡津A遊水地の脇を通り坂道を上って行った。高台からの岡津の街並み。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.24
コメント(0)
「観音禅寺」を後にし、県道401号線を「阿久和川」に沿って下っていくと左手奥にあったのが横浜市認定歴史的建造物「中丸家長屋門」。横浜市泉区新橋町1290。右手の手前には「憩い(いこい)のまほろば」が。川沿いの中丸家長屋門のたたずまいに河川の風景が融和するように、また、人々が憩えるように配慮して、あずまや・ベンチ等の休憩施設、車椅子利用者対応のトイレや広場も整備されていいた。阿久和川は平成5年の「まほろばの川づくりモデル事業」(国土交通省)に、全国に先駆けて認定され、整備されていると。「まほろばの川案内図」であったが・・・・。「阿久和川」は、横浜市泉区から戸塚を流れ、柏尾川と合流する。さらに境川と合わさり、片瀬江ノ島の海に注ぐ川。 その区間を5つに分けて、それぞれ,「☆☆☆のまほろば」と名づけられているとのこと。川沿いは,遊歩道が整備されて、散策に適しているのだ。それぞれの「まほろば」はミニ公園のように整備されていると。この場所が「憩いのまほろば」そして下流に向けて「ふれあいのまほろば」、「出会いのまほろば」、「集いのまほろば」、「古のまほろば」があるとのこと。「まほろば」は、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。「まほらば」「まほらま」「まほら」ともいうと。ネットからわかり易い地図を。 「https://twitter.com/taku_rinbo/status/592456264816267264」より「中丸家長屋門」を正面から。手前に「阿久和川」に架かる「阿久和めがね橋」。1999 年12月竣工。明治時代中頃に建築された「中丸家長屋門」は、平成13年度には、「横浜市認定歴史的建造物」に選ばれ、また、「中丸家長屋門とその周辺」が「横浜・人・まち・デザイン賞(まちなみ景観部門)」を受賞するなど泉区を代表する建築物。「横浜市選定歴史的建造物 中丸家長屋門」。「中丸家長屋門」前の「長寿地蔵尊」。コロナ対策として「face Shield」を着けて。「中丸家長屋門」下から内部を。人力車も展示されていた。中は一般の住居のため、これ以上は立入禁止のようであった。左に中丸家母屋と正面に土蔵が見えた。「ぴんころ地蔵の案内板」「長寿地蔵尊(ぴんころ地蔵)信州佐久地方は、日本でも有数の長寿の里として知られています。住みやすい風土と、千曲川の清流、そこで育った佐久鯉、新鮮な果実、野菜などの食物と昔ながら勤勉さ、信仰の深さが健康長寿の秘訣とされています。健康で長生きし(ぴんぴん)楽に大往生(ころ)を願ってここに長寿地蔵尊として【ぴんころ地蔵】が建立されております。毎月第ニ土曜日を縁日とし、健康長寿だけでなく子供たちの健やかな成長、家運隆盛などの功徳がえられます。」「中丸家文書にみる新橋地域の文明開化」中丸家長屋門建築頃の阿久和阿久和村は、天正19年(1591)5月より旗本安藤領であった。江戸時代、中丸家は代々名主を務めた旧家で代々定右衛門を名乗る。定右衛門は明治初期第17大区4小区阿久和村村用掛(当時の村長に相当)の職にあり、明治15年7月~ 16年3月迄阿久和村戸長兼学務委員を命じられ、屋敷内に戸長役場があった。中丸家には戸長役場時代の村に掛かる税金などの請求書や村用掛時代の地租改正に関する上申書が残されている。その後、明治17年5月、阿久和・岡津・上矢部・秋葉・名瀬の各村が岡津向導寺に連合戸長役場を設け、明治22年これらの村々が合併して中川村となった。「鎌倉郡阿久和村戸町 中丸定右衛門」申付書。「幕末から明治期の中丸家婚姻関係図」。横浜市歴史的建造物指定の中丸家長屋門中丸家の門は明治18年頃建築され、2階建入母屋造鋼版葺。桁行8間・梁間3間の出桁造。瀬谷の大岡家長屋門と同じ頃建築された。中丸家と大岡家は姻戚関係にあり、定右衛門妻サキと鶴吉妻タイは二代にわたり大岡家から嫁いできている。関東大震災でもビクともしなかったケヤキ材の長屋門は入口の木組が珍しい鳥居の形をしている。「中丸家付近の航空写真」。長屋門は入口の木組が珍しい鳥居の形。「キリスト教 阿久和教会と中丸家」明治18年3月、定右衛門は横浜に出ていた次男の鈴木彦太郎の導きで、長男鶴吉と共に横浜海岸教会の宣教師バラと稲垣牧師により受洗してキリスト教徒になった。翌19年には中丸家邸内に信徒60余名の阿久和教会が出来た。下記は明治30年迄の阿久和教会構成員推移表(大橋俊雄著・戸塚区の歴史下巻より)「中川村の経済を支えた横浜貿易・一族協力し農業経営養蚕・製糸・百合根栽培と中丸家」◎明治28年(1895) 9月には、北井要太郎の改良合名会社に1,600円(出資率23分の1)を 払込み、有力社員として近隣10名の取りまとめをしている。◎明治45年6月には明治44年操業を開始した下和泉の清水製糸場と生繭の売渡契約を行い、 200円(1貫目に付約4円50銭)を約定している。清水一族には中丸家から道三郎が養子に 出ている。(現清水美宏氏宅)「昭和15年頃の中丸家の養蚕風景母屋一杯に蚕棚を並べて家族総出で蚕を飼う。鶴吉夫妻も健在」写真の左右に「蚕棚」が写っている。「中川村歴代村長一覧中丸鶴吉は関東大震災当時の村長で倒壊した村役場で机の下にいて災難をのがれた」。「明治31年当時の泉区域の製糸業改良合名会社と中丸家瀬谷の長屋門公園付近には、区役所の建てた「製糸場跡」の看板が建ち、【この付近には相州改良社と大剛社があり、その為人の出入、車馬の往来が激しく賑やかなことから『江戸阿久和』ともいわれていた。】とある。改良合名会社の設立は「神奈川県統計書」によると明治二十四年二月で、当初から蒸気機関を用い、生糸製造高は創業後増加し二十九年~三十八年頃までの十年間が全盛期で、以後減少している。工女数は百数十名、最盛期にはニ百名を越えていた。経営者は阿久和の素封家北井要太郎で、工場はその邸宅門前にあった。」「輸出用百合根の栽培と新橋町新橋町の中丸家と横山家二つの長屋門は、製糸、百合根と横浜貿易盛んな時代に建てられた。百合の球根は、キリスト教の復活祭にはイースター・リリーと呼ばれ、百合の花は欠かせないもので、中丸一族は横浜植木と契約栽培を行い、2月頃種の球根を受け取り、花の咲く頃まで畑で栽培し球根を採取、汲沢にあった試作場で土を入れ梱包しアメリカなどに輸出された。昭和7年を頂点に満州事変で衰退した。下新橋の相原家・大貫家・柳畑の横山一族は新井商店と契約栽培を行っていた。」「横浜市認定歴史的建造物『中丸家長屋門』保全活用計画」と「横浜・人・まち・デザイン賞(まちなみ景観部門)」を受賞。「1.歴史的建造物の概要 (1)名称 中丸家長屋門 (2)所在地 横浜市泉区新橋町1290 (3)建築年代 明治中期と推定 (4)所有者 中丸定昭 (5)施工者 不詳 (6)建築規模 桁行14.56m(8間) 梁間5.46m(3間) (7)建築面積 面積:97.46m2(29.48坪) (8)建築概要 木造、2階建、入母屋造、銅板葺(元トタン葺き) (9)台帳登録 平成2年3月中丸家は旧中川村の旧家で屋敷地の西側を流れる阿久和川沿いにあり、かっては石積みの眼鏡橋を渡って屋敷に入ったので屋号は「めがね橋」と言われた。現当主て18代目を数え中丸一家は近在に14 、5軒ある。屋敷前の阿久和川沿いにはかって谷戸田と呼ばれた水田が続き、裏山には杉林や竹林があって田畑合わせて約14 ~5町歩ほどあり、製糸場の経営や質屋も営んでいた。主屋の前には質蔵が2棟あったが、平成9年(1997)年に1棟は建替え、残りの1棟は取り壊した。当初、菩提寺は岡津町にある西林寺(浄土宗)で、その本堂は当家の祖先が建造したが、その後戦時中に改宗し観音寺(曹洞宗)となった。代々の墓が裏山にあり、内墓(屋敷墓)形式をとどめている。その中には横浜海岸教会の信者だった祖先も見られ、当時としては進取的であった事が伺える。」「中丸家長屋門」左側には住居スペース(隠居部屋)があるようだ。「中丸家長屋門」右側には川に沿って白壁が続いていた。「阿久和川」を渡って。「阿久和めがね橋」は以前は「眼鏡橋」であったが現在は普通?の橋になっていた。橋の欄干が眼鏡のようになっていたが、これが昔の形なのであろうか?そして次に「新橋」交差点を右に折れ、白梅の花を楽しみながら進む。そしてここを左に入る。前方にもう一つの長屋門・「横山家長屋門」を訪ねた。横浜市泉区新橋町。横浜市泉区新橋町にある横山家長屋門は中丸家長屋門よりは新しく、大正時代に建てられたようだ。関東大震災でもびくともしなかったと伝えられている。背が高く、二階建てだ。中丸家とよく似て向かって左側が住居になっているのも共通。ガラス窓にカーテンが掛けられているのだが、ここに何方かがお住まいなのであろうか?門を入った直ぐ左側に海鼠壁(なまこかべ)の土蔵が見えた。良く見ると、母屋は長屋門の右側に直角に建っている。母屋も最近になって建てられたものではないから、もともと、長屋門と母屋を直角に南向きで建てているようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.23
コメント(0)
「観音禅寺」の「釈迦殿」の横を上って行くと正面にあったのが「三尊像」。左から「文殊菩薩」、「聖観音菩薩」、「弥勒菩薩」。「三尊像」に更に近づいて。前方に石の太鼓橋そして「本殿」が見えた。左手に「水子地蔵菩薩像」。そして「本堂」を斜めから。「本堂」前には多くの履物が並べられており、内部では「法事」が行われているようであった。正面には寺の関係者の姿も。柘植の老木。「本堂」を正面から。旗本・安藤治右衛門正珍(まさとし)が阿久和村に知行地を賜り、元和元年(1615年)に先祖の冥福を祈るために創建した寺である。開山は快応孝頓大和尚禅師である。本尊の守本尊聖観世音菩薩立像(高さ80.5cm)は行基作と伝えられ、楠の一木造りである。鎌倉郡三十三箇所観音霊場第23番札所の観音さまであるが、33年毎にしか開帳されない秘仏である。次回の開帳は2048年であるとのこと。扁額「観音禅寺」。「本堂」前から「釈迦殿」の後ろ姿を見る。「本堂」の左側を見る。禅宗特有の「花頭窓」が周囲に。そして小高い場所にある墓地の斜面には多くの石仏が。「観音像」。「不動明王像」。「昇龍観音菩薩」像。こちらも「不動明王像」。境内の「道泉閣」横には「横浜ルンビニー保育園」が併設されており、子供たちの姿が。「横浜ルンビニー保育園」銘板。「ルンビニー」は仏教の開祖・釈迦(本名・サンスクリット語:ガウタマ・シッダールタ)の生まれたとされネパールの地。可愛らしい案内板。この保育園は、昭和12年から今日に至るまで、当地で保育を行なっている保育園。2015年4月より新園舎で保育を行っていると。施設の概要定員:122名(0歳:6名、1歳:20名、2歳~5歳:各24名)職員:37人(保育士:25名、栄養士:1名、保育補助者:4名、調理員:3名、その他:4名)園舎:鉄骨造3階建(990.57㎡)園庭:1534㎡休園日:日曜・祝祭日、12月29日~1月4日、8月1日、9月7日開園時間:月~金 7:30~19:00、土 7:00~15:00現在の入所状況(2/1現在)0歳:3名、1歳:20名、2歳:23名、3歳:23名、4歳:24名、5歳:24名 入所については 泉区こども家庭支援課(800-2413)へお問い合わせくださいと。保育児童たちの散歩の時間なのであろうか。境内を保母さんに連れられて。そして山門を出て「観音禅寺」を後にしたのであった。山門の扉には寺紋の「丸に下り藤」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.22
コメント(0)
「新神明橋」を渡ると正面にあったのが、曹洞宗の寺で「阿久和山観音禅寺」。元和元年( 1615 )、阿久和村の領主であった徳川家康の家臣、安藤治右衛門正珍が、先の冥福を析るために創建したといわれています。宗派は曹洞宗で、旧鎌倉郡観音三十三札所のニ十三番札所です。本尊の聖観世音菩薩立像は、行基作と伝えられ、33年に一度に御開帳を行う秘仏です。また、釋迦殿には、スリランカから送られた仏舎利と涅槃像が安置されています。「曹洞宗 観音禅寺」の寺号標石。観音禅寺「山門」。観音禅寺山門に掛かる「鎌倉二十三番 札所 観音禅寺」の木札が右手に。山門前のお地蔵さま。「山門」前にも「曹洞宗 観音禅寺」の寺号標石が。この石碑は「奉納大乗妙典 坂東 西国 秩父 供養塔」。そして「坂東・西国秩父観音百か所供養塔」であろう。「山門」を潜る。扁額は「阿久和山」。山門横の白山堂基礎石。これが「白山堂」であろうか。山門横には俳号「行々子」の「句碑」が。「献句 晩鐘に 濡れて暮るる 花の雨」。そして境内参道から正面に「観音堂」が。参道の両脇には白梅が咲き始めていた。「鐘楼」と手前に「六地蔵」。「梵鐘」は昭和44年(1969年)銘。廻り込んで。赤い頭巾に赤い前掛けというお揃いの装いの「六地蔵」。「地蔵菩薩」ーーこれがお地蔵さまの正式な名前である。「菩薩」の名前からも察せられるように、数ある菩薩の中の一つに数えられている。お釈迦さまが入滅し、次の新たな釈迦如来が誕生するその時までの世の中を救う存在が地蔵菩薩であるとされている。そんな大役を担う地蔵菩薩は弱い立場の者から救うと考えられていることから、幼くして亡くなった子供や水子(流産などで産まれる前に亡くなってしまった子供)など、子供と縁の深い仏様とされているのである。赤い頭巾と前掛けは幼子の装いを想起させる江戸時代に入ると賽の河原の物語が流行し始める。賽の河原の物語とは、幼くして亡くなった子供が徳を積むために賽の河原(三途の川の岸辺)で石を積み上げる。しかし、そこに鬼がやってきて折角積み上げた石を崩してしまう。そこに地蔵菩薩がやってきて子供たちを冥界へと導いて行く。そんなお話が江戸庶民の間に流行し、「地蔵菩薩=子供の仏」というイメージが付いたのである。そこで思い浮かべていただきたいのは地蔵菩薩、つまりお地蔵さまの格好である。前述した頭巾に前掛けという装いは正に子供の格好そのままではないだろうか。更に「赤」という色も子供を表している。幼子を表す言葉に「赤ちゃん」や「赤ん坊」、また赤は太陽を表し、生命の起源を、さらに迷子になりやすい子供がしっかりと黄泉の国へと行けるように目印としての赤など、現在ではその赤色について様々な解釈がなされている と。「お掃除小僧掃けば散り 払えばまたも 塵つもる 人の心も 庭の落葉も」。正面に「観音堂」。扁額「大雄寶殿」。「平和観音」と右手に球状の「慰霊」碑。「平和記念日の碑第二次世界大戦終結以来三十七年月を迎えるに 日本経済は世界の尖端をゆき国内挙げて平和な日おくりを謳歌する今日隅々 世界大戦の激発により挙世惛乱赤誠応徴され国難に殉ぜられた英霊とその遺族に思いを至すとき 今ありし日の姿なきを見るに寂寥の感に堪えず 洵に哀悼の念深く感慨尽くるところなし 昨今世相安泰機縁熟し寺租一同本堂の再建と諸堂の伽藍復元を発願 祖徒一同この勝縁浄業に随喜し大願成就落慶された これを記念し篤信者より平和観音像竝びに各戦役戦死病没者諸英霊の慰霊碑寄進建立を期に当山租徒出身にして郷土の衆望を担い勇んで国難に赴き 再び生きて還らざる諸英霊のみ魂を祀り永く後世に功績を伝承しもって英霊を慰めんとす 願わくば諸英霊永久に阿久和山上より郷土の平和守護たらんことを茲に縁起由来を謹記する者也。昭和五十七年八月十五日 平和記念日」「阿弥陀如来像」と「佛足跡」。「佛足跡」。「足に描かれた模様」👈リンク。「佛足跡お釈迦様の平らな足の裏には、めでたい印の模様があります。そして人々はお釈迦様を慕っていまもその足跡を拝んでいます。お釈迦様が石の上に立って説法されると、そこに足形が残りました。この足跡を佛足石(ぶっそくせき)といい、これを拝み、手に触れ、沓(くつ)を脱ぎ足跡に自分の両足を重ねて立つと、とても清浄で心地よくなり智慧と慈悲の光明に照らしつつまれ、安楽な生活を送ることができると云われています。」観音禅寺「道泉閣」。「道泉閣」前の稚児像。園児の姿であろうか。「慈母観音像」。「一休さん」木魚を枕に居眠りする一休さん。観音寺「龍吟殿玄関」。「手水舎」と手前に「厄除地蔵」。龍の手水口からは水が流れ出ていた。「厄除地蔵」。六地蔵と同じく赤い頭巾と前掛けをして。「観音堂」を斜めから。「釈迦殿」内陣には釈迦如来像、仁王像が。 【https://bunbun410126.blog.ss-blog.jp/2015-12-31】よりその後ろには「涅槃像」が安置されていると。 【https://bunbun410126.blog.ss-blog.jp/2015-12-31】より「釋迦殿縁起由来記阿久和山観音寺は古くは公儀寺格の御朱印地の格式を持った四百年の歴史のある徳川一門の古刹であります。此の度当山は御縁を得ましてスリランカ国より佛舎利が奉安されました。併せて篤信の信者より釋迦涅槃像の寄進を受け安置されました。佛舍利は云うまでもなく佛陀の遺骨の事であります。舍利はサンスクリット語、シャリーラの音訳で、もともと佛陀または聖者の遺骨のことですが佛教ではいつしか佛の遺骨を意味するようになりました。当山と致しましてはこの様な尊い佛舍利と釋迦涅槃像を鑚迎申し上げなければと云う願いから釈迦殿を建立致しました。釋迦殿は檀信徒への教化は申すまでもなく広く世界と人類の平和と発展を祈願する生きとし生けるものの安らぎの象徴でもあります。茲に大願成就に当たって謹記する者也。平成十年四月吉日 当山二十ニ世 龍吟文丈 撰文」「孝順心」と刻まれた石碑。「孝順心」とは、親に孝行を尽くし、その意に逆らわない心。「合掌小僧」であろうか。「本堂旧跡地」碑。「阿久和山 観音禅寺 本堂再建記」。「阿久和山 観音禅寺 本堂再建記昭和五十ニ年一月一日当山住職ニ十ニ世龍玲文丈大和尚が発願し檀家の総意により昭和五十ニ年八月ニ十一日建設委員会を結成、同年十ニ月十七日名古屋市加納社寺建築事務所と契約し約五ヶ年の歳月と四億円の浄財幷びに植木、天水桶、平和観音像及び慰霊碑灯篭等の寄贈に依り本堂、位牌堂廻廊及び客殿并竝びに境内地の一切の整備が竣工いたしました。竝びに建設委員会を解散するに当り尽力された役員の芳名を記して永く後世に伝う者也」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.21
コメント(0)
「山王神社」を後にし、相鉄いずみ野線のトンネル上部の「四季の径」に戻る。下に見えたのが相鉄いずみ野線の「緑園都市駅」。「四季の径」の絵タイルにはイチョウの葉の模様が。坂道を下っていくと左手にあったのが「セントラルフィットネスクラブ緑園都市」。「緑園都市」案内図。1986年(昭和61年)には戸塚区(当時)岡津町の一部が駅名を採って南から北へと緑園一丁目 - 七丁目となったと。相鉄「緑園都市駅」東口。相鉄いずみ野線「緑園都市駅」は、昭和62年( 1987 )、新しい駅作リを推進するため、全国から「これからの駅」というキャッチフレーズて募集したアイデアをもとにつくられた駅舎。多くの緑、明るい採光、現代建築ながら利用者をホッとさせる配慮を忘れないユニークな駅。平成9年に「関東の駅百選」(国土交通省関東運輸局)に選ばれている と。横浜市泉区緑園3丁目。東口のロータリーには河津桜が3本、8分咲きか。そして、駅前広場の群像。緑園都市駅を中心とした、土地区画整理事業 の完成を記念して、駅の東口広場に昭和 62 年(1987)に建てられた記念碑であると。「緑園都市駅を中心とするこの広域にわたる街つくりは、相模鉄道株式会社の地域開発にかける情熱と関係地権者等の多大な協力の下に、中川第一土地区画整理組合事業として、十有余年の歳月と約三七三億円の巨費を投じ完成したものである。この事業推進の過程においては、多くの困難に遭遇したが、役員及び組合員の努力と監督官庁の適切な指導並びに業務に関係された方々の協力によって住みよい新住宅の誕生を見たものである。この地域の町名は緑豊かな街の発展を念じ「緑園(一丁目~七丁目)」と命名された。そして、緑と澄み切った空気に包まれた美しく輝かしいこの街が永遠に繁栄するように祈念してこれを建立する。中川第一土地区画整理組合付記一、組合設立 昭和四十九年十一月五日一、組合解散 昭和六十ニ年四月十五日一、施行地区 岡津町、名瀬町、新橋町、の各一部一、施行面積 一ニニ万ニ七三八平方メートル一、総事業費 三七三億五ニ三五万円一、組合員名簿はこの下に収める。組合事業代行者 相模鉄道株式会社工事設計・施工業者 相鉄建設株式会社」なんとか転写しました・・・・。この記念碑は、台座部分が地区内の旧町名岡津町、新橋町、名瀬町の三町を表しているのだと。人物像は、そこに住んでいた戸数46戸、約200名を表現しておリ、過去から現在、さらに未来へと続く都市と個人の歴史を「一筋の列」として作られたものである と。近づいて。反対方向から。そして再び河津桜をズームで。更に。駅舎を再び。「緑園都市駅」の駅前大通リ沿いにある商業街区を東に進む。建物間や内部に通リ抜けの通路を作ることをルールとして造られた、ユニークな8つの建物から構成されていると。いすれのビルも、吹き抜けや通路等を設け、光と風のふれあいのある開放感あふれる設計となっていた。平成8年に横浜市まちなみ景観賞を受賞しているのだと。「緑園都市駅入口」交差点を渡る。正面に「緑園都市噴水広場」が見えた。横浜市泉区緑園4丁目3−1。入口左には「サン・ステージ緑園都市 東の街」の銘板が。「噴水広場」(東の街入口)。コロナ禍で多くの噴水が止まっているが、この噴水広場には水の姿が。別の角度から。「フェリス女学院大学 緑園キャンパス」の正門が道を隔てた反対側に。横浜市泉区緑園4丁目5−3。「フェリス女学院大学」。文学部、国際交流学部、音楽学部1・2年次があるようだ。「「フェリス女学院」は、キリスト教の信仰に基づく女子教育を行うことを建学の精神としています。フェリス女学院大学の学則第1条にも、「キリスト教を教育の基本方針となし、学問研究及び教育の機関として、女子に高度の教育を授け、専門の学問を教授研究し、もって真理と平和を愛し、人類の福祉に寄与する人物を養成することを目的とする」と明記されています。」と「フェリス女学院大学」のページに。そして、来た商店街の道を戻り、「緑園都市駅」横のガードを潜り西に向かう。ここも急な坂道。右手にあった建物は?民家なのであろうか?ここ「緑園3丁目」交差点を左折する。途中、民家の塀の上、民家の庭先に石碑が。「道祖神」の文字が刻まれた石碑等が3基並んでいた。右側から双体道祖神?中央は駒型文字道祖神 左に駒型文字道祖神 いずれも年代は不明であった。「新橋神明谷第二公園」前を通過。そして「神明社」を訪ねた。横浜市泉区 新橋町1377。左手に手水舎。境内参道から社殿を見る。「神明社氏子会館 新橋上自治会館」の表札が掲げられていた。掲示板には「神明社」のお祀りや湯立神事等の様子の写真が掲載されていた。境内にある大ヒノキは幹の周囲が3.2 mもあリ、昭和49年( 1974 )に市の名木古木に指定された。むかし、神明谷戸といわれたこの地域の鎮守さまで、祭神は天照大神(あまてらすおおみ)と国常立神(くにとこだちのみ)のニ柱を祀っておリ、鎌倉時代末期嘉元年間( 1303 ~ 6 )の創建と伝えられている。扁額「神明社」。境内のピンクの枝垂れ(しだれ)梅。 「神明社」を後にして、「阿久和川」に向かって進む。途中、左手に折れ坂道を上がって行った場所にあったのが「新橋天満宮」。横浜市泉区新橋町1335-6。「社殿」。創建年代等は不詳ですが、泉区新橋町・瀬谷区阿久和にある阿久和熊野神社、新橋五靈社、新橋神明社などと共に旧阿久和村の鎮守社であったといいます。扁額「天満宮」。社殿の内陣の御本殿。坐像は、菅原道真公であろう。境内には、「天満宮改築記念碑」が。碑題のほか草書で刻まれた文字があり、おそらく、「昭和三十一年三月 □□相澤長三郎」と刻まれていた。他に、昭和五十四年九月吉日の灯籠、天保三年壬辰年(と思はれる)灯籠、昭和五十四年九月の手水鉢があった。新編相模国風土記稿の阿久和村の条には天神社の名があり他五社とともに村内の鎮守で村持ちとされている と。そして更に進むと「新神明橋」手前の右角にあった「庚申塔」。そして前方に「新神明橋」。「しんめいはし」。下を流れる川は「阿久和川」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.20
コメント(1)
この日は2月24日(水)、「横浜市泉区の古道を巡る」の3回目のスタート。横浜市泉区の最北近くにある「南万騎が原駅」から横浜市営地下鉄「中田駅」まで南下して行くルートを計画して進む。相鉄いずみ野線「南万騎が原駅」東口に出る。そして駅前の道路を西に進む。「南万騎が原駅」前の商店街。「そうてつローゼン」、「ダイソー相鉄ライフ南まきが原店」、「ハースブラウン 南万騎が原」等の店舗が確認できた。その先には集合住宅「KNOCKS みなまきみらい」が見えた。「南万騎が原駅前」交差点を左折し坂道を上り南下する。横浜市泉区と旭区の区境の道を進む。民家の横の河津桜も咲き終わり新芽が増えて来ていた。運動場「柏町グラウンド」の横を進む。そして、民家の門の前に立つ「相武(そうぶ)国境之道碑」前の路地に到着。横浜市泉区緑園6丁目53-7。「相武国境の道の碑」は泉区と旭区の境である緑園六丁目の角地に、昭和49年(1974)、地域の人が建てた武相国境の道の道標。この道標には「相武国境之道 南 相州鎌倉郡岡津村 北 武州都筑郡二俣川村」と刻まれていた。この国境に沿って、古代より国境(くにざかい)の道と呼ばれる道があり、細いながらも海と内陸部を結ぶ重要な道となっていたのだと。相州とは相模国(神奈川県)、武州とは武蔵国で現在の東京都、埼玉県のほとんどの地域、および神奈川県の川崎市、横浜市の大部分を含む。更に詳しく「現在地」を。「旧武蔵国都筑郡」と「旧相模国鎌倉郡」との国境の道。そして「旧武蔵国都筑郡」と「旧相模国鎌倉郡」との国境の道を東に進むと塀沿いにも石碑があった。「道しるべ」碑。「相模武蔵乃境 道しるべ 相模国鎌倉郡中川村 岡津字須郷谷しんたく」と刻まれていた。ここは「相模国鎌倉郡中川村 岡津字須郷谷しんたく」」武蔵は東京、相模は神奈川で境界は多摩川との思い込みがあったので、なぜここに国境碑があるのか解らなかった。帰宅してネットで調べてみると、相模もののふたち(永井路子著)によれば、北から武蔵系の豪族が南下し、海老名、二俣川あたりまで進出していたようだ、と。現在は旭区柏町の須郷谷(すごうやと)公園、泉区緑園の須郷台公園として名が残っている、と。そしてその「緑園須郷台公園」に向かって「池の谷」の丘の裾野沿いを進み途中左折し住宅街を進む。この周辺はアップダウンの多い場所であった。そして「緑園須郷台公園」に到着する。緑園六丁目にあリ、四季の径沿いに設けられている公園。「緑園須郷台公園」銘板。公園内には、つたのからまるアーチ、古代ギリシャ風の円柱の立つ広場、絵タイルで星座の位置が表示された円形広場等があった。緑園都市駅までは遊歩道が続いておリ、安心して歩くことができた。公園から駅に向かっていくと、高台から電車が眺められるのであった。星座のマークが敷き詰められているスペースがあり、自分の星座や家族の星座を探して楽しめるようであった。星の観察の宿題や星座の勉強にはもってこいの場所であると。真ん中には東西南北の方角が描かれていた。その周りにわし座などの星座の絵があった。「四季の道」を歩く。緑園都市駅からこども自然公園に続く歩行者専用道路。全体を春・夏・秋・冬のゾーンに分け、季節を彩る樹木を植え、四季にちなんだ絵タイルも施されていた。各ゾーンのポイントには、三角広場、レンガタイル貼リの洒落たアーチ形陸橋、公園などが配置されていた。平成元年度に横浜市まちなみ景観賞を受賞し、緑園のシンボル的存在となっている、と。そして次に訪ねた「山王神社」の姿が現れた。「山王神社」入口。横浜市泉区緑園3丁目23。緑園3丁目にある地元の鎮守さま。石鳥居の扁額「山王神社」。境内には庚申塔、道祖神塔がひっそりと残っていた。7基の庚申塔、道祖神塔を正面から。左側の4基。左から隅丸形文字道祖神、双体道祖神、共に昭和57年(1982)10月吉日の銘が後ろに。両方とも古いものの再建であろうか?その隣に法輪塔が。一番右は下記に。右側の4基。一番左には庚申塔。阿弥陀如来立像は元禄13年(1700)のもの。隣の笠塔婆の付いたものは貞享4年(1687)の建立。三猿、「庚申」の文字もあるので、庚申塔。その隣は宝暦13年( 1763)の文字庚申塔。一番右の大きなものは、笠塔婆型の文字庚申塔。建立年は寛文2年と書かれているのであろうか。そして「社殿」。この神社の本社は比叡山山麓にある日吉大社で大山咋神(おおやすくいのかみ)が祀られている。神社の周辺の地形は宅地開発により、すっかリ変わってしまったが、神社は開発前から今と全く同し場所、同し高さに社があるとのこと。「社殿」前から境内を振り返る。狛犬とその後ろでモクレンの蕾が膨らんでいた。台座には昭和五十七年十月の文字が刻まれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.19
コメント(2)
そして「相鉄いずみ野線」まで戻り、線路沿いにあった「佐婆神社」を訪ねた。横浜市泉区和泉町4811。ここ境川流域には『サバ』神社という一風変わった名の神社が複数点在し、泉区内には「鯖」、「佐婆」、「左馬」などと表記される5つもの『サバ神社』があるのであった。神社名の由来としては、サバ神社の祭神が「源義朝(みなもとのよしとも)」もしくは「源満仲(みなもとのみつなか)であり、両者共に官命が「左馬頭」であったこととの関係が指摘されるが定かではないのだと。また、「鯖」、「佐婆」、「左馬」など表記の違いについても詳しいことはわかっていないと。尚、境川沿いの「飯田神社」「下飯田の左馬神社」2社は源義朝(みなもとのよしとも)が祭神であり、境川支流・和泉川沿いの、ここ「上和泉の佐婆神社」そして「中之宮左馬神社」「下和泉の鯖神社」は源満仲(みなもとのみつなか)が祭神であるという違いがあるのだ。はやり病に罹ると「七サバ参り」をすると治るという風習もあったという境川流域のサバ神社。古くは相模国鎌倉郡に属し歴史ある寺社が残る泉区の5つのサバ神社を巡ったのであった。石段を上っていくと正面に「佐婆神社」社殿が。社号標石「佐婆神社」。「佐婆神社」の裏を「相鉄いずみ野線」の電車が通過。「狛犬(阿形像)」。「狛犬(吽形像)」。樹齢が推定三百八十年を経たタブノキ(犬楠)の古木があった。横浜市の名木古木に指定されている「タブノキ」。「佐婆神社」の「社殿」この神社は、泉区役所の北西部の丘陵上に、相模鉄道線の高架線路を背にして祀られていた。通称「へっついさま」といわれ、むかし社殿がへっつい(竈)のように土塁に囲われていたからだといわれている。祭神は源満仲と、富士山の祭神である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀る。勧請年代は不明であるが、伝承では寛文年間(一六六一~七二)に地元の石川治右衛門が勧請したといわれ、また明治十一年に汲沢の森織部繁春が、和泉の古記録や伝承などを書いた『和泉往来』には、慶長年間(一五九六~一六一四)の勧請と記されている。天保六年に社殿を修復したときの棟札が残っている。また大正時代の物と思われるが、地域の俳句を好んだ人たちが献句した額が奉納されている。内陣。扁額「佐婆神社」。境内の「石塔群」。「相鉄いずみ野線」の高架線路が「佐婆神社」の奥に。そして「佐婆神社」を後にして「和泉川」に架かる「神田橋」を渡る。前方には「和泉川」から遊水池への溢流場所が確認できた。桜の季節には美しい光景が楽しめるのであろう。ここが「和泉遊水地」の「和泉第4遊水池」。そして「和泉第4遊水池」を廻り込み、「和泉川」から「和泉第4遊水池」への溢流部分をズームで。堤防上端より1m以上?下がった場所に溢流堤(いつりゅうてい)が設置されているのであった。大雨の際、低くしておいた堤防・溢流堤から、わざと水をあふれさせ遊水地(池)に一時的に溜めることで、下流に流れる量を減らす治水対策の1つ。 【https://www.fukushima-tv.co.jp/tv-news/bousai/】より「記念植樹泉区制20周年を記念して和泉遊水地ニ池、三池、四池の外周堤面に桜を植樹しました。和泉小学校の生徒と平和幼稚園の園児が近隣の人たちと一緒になうて植えました。桜の種類:工ドヒガン40本 カンザン30本 ウコン30本 平成18年12月1日」そして右手に「横浜市 泉土木事務所」が。隣りにあったのが「横浜市泉公会堂」。横浜市泉公会堂は講堂内の音の反響が良いため、小中高生の合唱や吹奏楽、地域の音楽サークルよる演奏会やリハーサル利用で多く利用されていると。その隣に「横浜市消防局 泉消防署」があった。梯子車の操作訓練中であった。消防署の前にあったのが「消火用 腕用ポンプ」。正面から。「防災モニュメント私たち一人ひとりが、平成2 3年3月1 1日の東日本大震災を忘れないため、防災の基本であるよこはま地震防災市民憲章(平成2 5年3月11日制定)と郷土を守っていた腕用ポンプを設置する。腕用ポンプこの腕用ポンプは、大正15年1月に横浜の製作所で作られたもので、中川警防団第二分団(現泉消防団)が消火活動に使用していたことが判っています。大正12年9月には、関東大震災により、横浜市も甚大な被害を受けたことから、当時の人々の災害を軽減するための期待を一身に、様々な災害で活躍したことがしのばれます。モニュメントのシンボルとして消防職員・消防団員の手により、思いを込めて復元しました。」「よこはま地震防災市民憲章 ~私たちの命は私たちで守る~ここ横浜は、かって関東大震災に見舞われ、多くの方が犠牲になりました。大地震は必ずやってきます。その時、行政からの支援はすぐには届きません。私たち横浜市民はそれぞれが持つ市民力を発揮し、一人ひとりの備えと地域の絆で大地震を乗り越えるため、こに憲章を定めます。穏やかな日常。それを一瞬にして破壊する大地震。大地震はいつも突然やって来る。今日かもしれないし、明日かもしれない。だから、私は自分に問いかける。地震への備えは十分だろうかと。大地震で生死を分けるのは、運・不運だけではない。また、自分で自分を守れない人がいることも忘れてはならない。私は、私自身と周りの大切な人たちの命を守りたい。だから、私は考える。今、地震が起きたら、とう行動しようかと。」不安の中の避難生活。けれどみんなが少しずっ我慢し、みんなが力を合わせれば必ず乗り越えられる。だから、私は自分に言い聞かせる。周りのためにできることが私にも必ずあると。東日本大震災から、私たちは多くのことを学んだ。頼みの行政も被災する。大地震から命守り、困難を乗り越えるのは私たち自身。多くの犠牲者のためにも、このことを風化させてはならない。だから、私は次世代に伝える。自助・共助の大切さを。」>そしてこの日の最後に、「横浜市 泉区役所」を訪ねた。横浜市泉区和泉中央北5-1-1 。「泉区 総合庁舎」。「横浜市泉区の市制を司る存在である「横浜市 泉区役所」は、いずみ野駅を最寄駅とする泉区総合庁舎に入っている。4階まであるフロアのうち、1階から3階までに区民からの申請・届出を受け付ける各課の窓口があり、各種証明書を発行する戸籍課や、国民健康保険などの申請を受け付ける保険年金課など、区民生活に密着した手続きを行う窓口は2階に集中している。一部の窓口は、通常は休庁日である第2・第4土曜日の午前に限り、窓口を開けて申請を受け付けている。」とネットから。入口左の像。「泉区制2 0周年記念モニュメントこの作品は、泉区制2 0周年を記念し、制作者のご好意と、泉区連合自治会町内会長会のご協力を得て、この地にモニュメントとして平成19年1月から設置しているものです。作品名 アニマ(Animaー魂・精神・生命の意味)作者 江田正盛(Masamori KODA)館内に入る。人の姿は少なかった。そして1階ロビー最奥の壁にあった書・「和」。書「和」 金澤翔子氏揮毫。そして、「泉区総合庁舎前」の交差点を渡り「いずみ野中央駅」へ向かい帰路に。そして相鉄線に乗り、小田急線へと乗り換えて帰宅したのであった。この日に歩数は「27,075歩」であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.18
コメント(0)
「和泉川」に沿って下流・南方面に進み「上分橋」で左折し「和泉川」を渡る。「上分橋」の名の由来は???「上分橋」を渡った右側は和泉川の「和泉遊水地」。「和泉遊水地案内図」。第1池~第4池に分かれていた。「和泉遊水地」を見る。この先に、テニスコート、サッカー場、野球場等があるようであった。そして次に訪ねたのが「正法寺」。道路からもひときはこんもりした林が見え、その中にあった寺。寺号標石「浄土宗 正法寺」。境内の「六地蔵」。多くの墓石が並んでいた。石祠も。新装なった「本堂」。浄土宗・宝心寺(和泉町)の住職が兼務しているというから無住なのであろう。鎌倉郡三十三箇所観音霊場の第25番札所になっているようであったが。扁額「正法寺」。多くの無縫塔は「歴代上人之墓所」。御神木は「タブノキ」であろうか。「正法寺」を後にし、再び「和泉川」に戻り進む。道路の右側からは養鶏場からの鶏、「和泉川」からは雀の鳴き声が賑やかに。「和泉川」には巨大な鯉が。足の疲れを癒やしてくれたのであった。「相鉄いずみの線」を潜り「上飯田交番前」交差点まで歩く。交差点の角にあったのが「金剛塔+三猿」。「笠付光背型形角柱青面金剛塔+三猿・・1729(享保14)年」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.17
コメント(1)
神奈中「柳明」バス停から「和泉川宮沢遊水池」の広場を見る。横浜市瀬谷区宮沢4丁目6-2。「和泉川宮沢遊水池」。「和泉川宮沢遊水池」は、和泉川の洪水を貯留する施設で貯水量は約5万m3。地下水を利用した池や水路には小魚などが生息し釣り人が訪れていた。「和泉川宮沢遊水地」案内図。宮沢遊水地の概要宮沢遊水地は、和泉川流域の市街化に伴う雨水流出量の増大による河川の氾濫を防止する目的で、河川の水を貯留する施設てす。また、治水上の機能に加えて、野外レクリエーションや環境学習の場として、さらには多目的広場など市民の皆様が有効に利用てきる施設です。●貯留容量: 48,650m3●貯水深: 3. Om釣り人の姿が。何か釣れたようであったが。「和泉川宮沢遊水池めがね橋」。1988年(昭和63年)の建造のようであった。下に降りて。そして再びこの日の復路に向かう。ここを右手に折れ、出発点の「いずみ中央駅」方面に南下する。しばらく南下していくと松陽高校の前の道路の向かいがわに,「道標(庚申塔)延享三年(1746)」と「馬頭観音」が立っていた。ここで、道標わきから狭いほうの右に入る道(この時に歩いて来た道)が「ほしのや道」であると。道標の庚申塔には、「右ハほしのやみち」「左ハ大石堂道」とあったのだと。現在は,下部から破損が進んで,下の方の文字はくずれてしまい、解読不能。道標の前の道は、鎌倉郡33ヶ所札所の「大石堂寺(現 柳明神社)」へ向かう道。「大石堂寺」は明治の初めに廃寺になり、現在は、跡地に先程訪ねた「柳明神社」が。左の「庚申塔」は、昔からの台座をふくめて、高さ104cmほど。右側面、「庚申供養」、「右ハほ・・・」の文字が確認できた。左は解読不可。右の「馬頭観音」は昔からの台座を含めて、高さ64cmほどであるとのこと。どちらも,新しいコンクリートの台座の上に、古い石の台座が乗っていたが。「道標とほしのや道庚申塔は、順礼者や村人たちのくらしの道として、賑わった「ほしのや道・大石堂道」の道標にもなっています。新橋小学校、松陽高校前、宮沢六道の辻へとつながるほしのや道は、坂東観音8番札所になっている座間の星谷寺へ通じる道です。大石堂道は、旧鎌倉郡観音2 4番札所になっている上飯田の柳明にあった大石寺へ通じる道です。」「神奈川県立松陽高等学校」正門が道路の向かいに。「松陽高校前」交差点を右折し、「いずみ野駅」方面に南下して進むと左手にあったのが「横浜市立いずみ野小学校」正門。その先に「泉消防署いずみ野消防出張所」。「いずみの団地5号棟前」交差点を右折して進むと、左手にあったのが「八幡神社 (はちまんじんじゃ)」。横浜市泉区和泉町6287。神社であるが立派なそして大きめの屋根のある「鐘楼」が。「梵鐘」。「社殿」。和泉川沿いの上和泉、主水分(もんとぶん)に昔から住む二十三軒の氏子が維持管理する鎮守様で、祭神は八幡神社共通の応神天皇である。この神社がいつごろここにお祀りされたかは不明であるが、享保十三年(一七二八)に社殿を再興したとの棟札が残されているのでそれ以前の勧請(かんじょう)であろう。この神社の呼び名を昔から「織部(おりべ)八幡」といっており、元亀(げんき)年間(一五七〇~三)に、汲沢の郷士、森織部義秀が勧請したと伝承されている。石段を上がって。現在この神社の境内地は、いずみ野住宅地より一段低い所になってしまったが、住宅が開発される前は主水分(もんとぶん)集落の一番上手の、和泉川に面したなだらかで豊かな森を背景に持つ丘陵の末端に鎮座していた。現在の社殿は大正六年(一九一七)十月、当時の氏子によって建立された。境内にはお宮には珍しい立派な鐘楼があった。扁額「八幡神社」。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。見事な向背下の龍の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。そして「八幡神社」西側横の道路沿いにあった石仏・石塔群。右からマスク姿の地蔵尊(小)。地蔵尊(大)。嘉永3年建立の「文字庚申塔」。享保17年建立の「笠塔婆型青面金剛庚申塔」。顔の部分が修復された様で、おしろいを塗った如くに。比較的新しい「文字庚申塔」が一番左に。右側面に、「元禄15年12月吉日」とあったが・・・・。左側側に、「昭和60年春彼岸 再建」と彫られていて納得。そして「和泉川」枝流の「宮西橋」を渡る。「宮」とは「八幡神社」のことであろう。そしてその先に本流の「和泉川」に架かる「新宮西橋」を渡る。更に進むと、前方左に大きな民家が高台にあったが「横山製糸跡」であると。織部八幡から和泉川の宮西橋を越えて西に出た主水分 (もんとぶん)には横山姓の数軒の旧家がある。そのうち の1軒が、かつて旧泉区領域に 多かった製糸業の1軒、 「相鉄いずみ野線」が前方に。「横山製糸跡」を振り返る。横山製糸であった家であると。50名以上の従業員が働いていていたと。そして右手に小さな「神社」があった。内陣。「いずみ野駅」西の急カーブの場所。そして右側奥にあったのが「長谷川伸生母生家 横山家」。「『瞼(まぶた)の母』の作者として知られている長谷川伸は、和泉町出身の母「コウ」と横浜日の出町の長谷川寅之助の間に生まれました。その後コウは、事情により子を残して離別し、京都の生糸問屋で神奈川の青木町在住の三谷宗兵衛と再婚しました。宗兵衛との間に生まれた子には、一高教授で神学者隆正、昭和天皇の侍従長隆信らがいます。」とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.16
コメント(0)
「柳明神社」を後にし、東に歩を進める。そして新幹線の跨線橋「第2和泉原Bo」39K960Mを渡る。「第2和泉原跨線橋」交差点を渡る。「いしかわ幼稚園」前を通過。横浜市泉区和泉町7308。そして懐かしい名前のバス停に遭遇。「早稲田(わせだ)」「和泉川」の支流の「上和泉橋」を渡る。山の斜面に小さな社が。そして「和泉川」の本流に架かる「和泉三家橋」を渡る。この付近の集落を三家(さんや)という。昔は石井・石 川・横山の3軒しかなかったというのが語源だと…。「和泉川」の上流を見る。前方に新幹線の高架が見えた。右手にこの後訪ねた「横山家」の大きな屋根が。そして左手にあったのが「(和泉)日枝(ひえ)神社」。横浜市泉区和泉町7445。「悠仁親王(ひさひとしんのう)殿下 誕生記念樹 高野槇」と刻まれた石碑が石灯籠の横に。「悠仁親王」のお印が「高野槇」であると。皇位継承順位は父・秋篠宮文仁親王に次ぐ第2位。「日枝神社」の「社殿」。和泉三家自治会の中心部に大山咋命(おおやまくいのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀った日枝神社。大永6年(1526)、近江国一の宮の日吉大社を当地へ分祀したといわれ、和泉川沿いのこの地を開発し、新しい集落をつくった人々が勧請した。享保11年(1726)、天明3年(1783)、享和2年(1802)にそれぞれ氏子の寄進によって社殿を修復した。現在の社殿は関東大震災によって倒壊したものを、大正15年(1926)に新築したものである。境内には、第六天神社・御嶽(みたけ)神社があり、4月の春祭りには湯花神事、正月にはドンド焼きが行われていると。扁額「日枝社」。「神楽殿」。かつて、日枝神社の神楽殿が中和田小学校北部分教場(現飯田北小学校)の仮教室や分散授業の教室として使われたことがあったと。境内社「第六天神社・御嶽(みたけ)神社」。境内の石碑「・・・神」。「社殿」、「神楽殿」を見る。「日枝神社」の前の道路の反対側にあったのがバス停「三家(さんや)」。そして「日枝神社」交差点を左折した場所にあったのが「横山家のケヤキ」。「名木古木指定 ケヤキ」。夏になり葉が生い茂ると。ネットからそして近くにあった、赤桃の花であろうか?坂道の石垣の下の凹地に石碑群が安置されていた。坂の途中の石垣の中にあった石塔群。中心に「青面金剛像」、上に月・日そして邪気、三猿を刻んだ最も形の整ったもの。「正徳四甲午年」(1714)、左 「十一月吉日」「同求光院」。 「庚申塔」。右 「明治二十九年」(1896)左 「丙申十月吉日」台座には「和泉」と。「庚申塔」。右 「明治五申年」(1872)左 「正月吉辰」台座には「講中」「庚申塔」右側面「文政七甲申年」(1824)左側面「十一月吉日」そして再び「横山家のケヤキ」の前を通り北へと向かう。そして新幹線のガード下「和泉C・39k395m」を潜る。道路脇右手の「六地蔵」。マスクは付けていなかったが。横浜市泉区和泉町7554-1。そして「横浜市瀬谷区」の区鏡を走る道路に到着。二俣川の駅近くから境川までの連絡道である。そして道路脇の新しい「青面金剛庚申塔」を発見。道祖神は世代交代がありますが庚申塔は庚申供養成就で建てるのでこんなに新しいの見た事がないのであった。左側面に「左 神奈川道」「庚申□□」右側面に「宝暦六丙子十一月□□」「相州鎌倉郡□□□」「右 戸塚□」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.15
コメント(0)
「柳明神社(やなみょうじんじゃ)」への坂を上っていくと、左側に石碑群があった。右二つの石碑には「道祖神」の文字が。左側から①五輪塔②角柱型文字「道祖神」塔(上部丸)・・1874(安永3)年③角柱型文字「道祖神」塔・・1822(文政5)年そして正面に見えて来たのが「柳明神社」と「柳観音堂」。その前方に向かい合うようにあったのが「柳明天満宮」。横浜市泉区上飯田町4103。社殿。もちろん菅原道真を祀っている。「柳明神社」の末社なのであろう。天神さんにつきものの梅の花も咲きだして。そして向かい合う形で「柳明(やなみょう)神社」。「柳明神社廃寺になった鎌倉郡24番札所「大石寺跡」に、村境の伊勢山に祀られていた神明社を遷したものです。昭和50年に「柳明神社」と改められました。大石寺が廃寺になっとき本尊の観音像を阿久和村の観音寺に預けました。その後、村に不幸が起こったため、境内に観音堂を建て観音像を安置しました。神社裏の道の分岐点には、八王子道(鎌倉道)と神奈川道の道標が立っています。神社前には柳明天満宮もあります。泉区役所」実際には、「八王子道」と「大山道」でなのだろう。新装なった「柳明神社」。扁額も「柳明神社」。内陣。「日露戦争従軍碑」👈リンク明治三十七年(一九〇四)に始まった日露戦争に、泉区上飯田町柳明からも従軍したのであろう。柳明神社の境内に明治三十九年に地域の人々や「子供中(こどもちゅう)」によって造立された「日露戦役従軍之碑」と刻まれた碑が立っていた。碑には、柳明から従軍した「桑原林蔵、石井治三郎、羽太喜兵衛、石井広助、石井元太郎、石井佐市、石井庄太郎」の六人の名前が刻まれている。この碑にある石井広助は、村長、県会議長等を勤めた石井仁左衛門の子息である。明治三十七年に乃木大将の第三軍に属し、小隊長として旅順(りょじゅん)攻撃に参加し、銃弾に倒れた。享年二十八歳の時あった。境内の御神木・欅。境内の石塔群。角柱型文字「奉再興山王大権現」塔・・「寛政十一己未年」(1799年)と刻まれていると。笠付角柱塔庚申+三猿?。??????「観音堂」を見る。扁額「南無十一面観世音菩薩」。内陣。鍵のかかった扉の奥に「十一面観世音菩薩」が納められているのであろう。「六地蔵」「観音堂」の前に、「當寺本尊十一面観世音」と刻まれた石塔があった。「宝暦十庚辰霜月吉日」(1760年)と刻まれていると。台石には「大石寺」と彫られていた。側面には「鎌倉郡二十四番札所 上飯田村 鎮守 大百権現 十方施生」とある。碑文から、当時は、大石寺と呼ばれ、鎌倉郡観音三十三か所の二十四番札所になっていたようである。「西国・坂東・秩父観音百か所めぐり」だけでなく、当時は、「三浦郡観音三十三札所」「鎌倉郡観音三十三札所」などのように、郡単位の観音札所めぐりも、盛んに行われていた。「観音堂」。角柱型文字「堅牢地神塔(けんろうじしんとう)」。横浜市泉区上飯田町4579。台座には「柳明中」と刻まれていた。堅牢地神(けんろうじしん)は、仏教における天部の神の1 つで大地を司る。通常は女神であるが密教では男神と一対とする。十二天の一である地天と同一視される向きもある。堅牢地天、堅牢地祇、あるいは単に堅牢と呼ばれる場合もある。大地女神として、地の堅牢と神の不壊とに解釈される。つまり大地を堅固ならしめる神である。また仏法が流布される処に赴いて、その仏・如来の法座の下にあって警護するという。南大山道/北八王子道/東神奈川道道標、1861(文久元)年上飯田町4572から宅地造成のため移転したのだと。「柳観音堂」の裏は「柳明会館」が。そしてネットには柳田国男の「水曜手帳」👈リンク に「柳明」に村についての記事があるのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.14
コメント(1)
「本興寺」を後にし、寺の横を走る石畳の道・「せせらぎ緑道」&「五軒庭プロムナード」を新幹線の線路に向かって進む。杉林の中を歩くが、マスクの端を顔の頬、顎そして鼻に再度押し付けて進む。右手に「本興寺」の墓地、そして「本堂」が見えた。そして新幹線の跨線橋・「第二柳明橋」を渡る。東京駅から40K752M。跨線橋の記号はOverBridgeから[Bo]であるようだ。美しい富士山の姿が現れた。ズームして。折しも新幹線が通過。新幹線「跨線橋」を渡り、「せせらぎ緑道」を更に北に進む。突き当りを左折して進むと左手にあった「羽太(はぶと)郷土資料館」提供の「「江戸柳明(えどやなみょう)」古地図」。江戸時代には大いに繁栄していたという柳明の様子が描かれていた。きちんと「かまくらかみのみち(鎌倉街道 上の道)」👈リンク も描かれていた。地図の上部にある「かまくらいくさみち(たつみち)」の文字が。「たつみち(たつ道)」は地元では新田義貞鎌倉攻めの道と言い伝えられているとネットから。そして「羽太郷土資料館」。横浜市泉区上飯田町3590。「羽太郷土資料館」。羽太郷土資料館は、羽太俊一氏(故人)が私財を投じて「鎌倉道(藤沢八王子道)」沿いの羽太氏の屋敷跡に昭和62年(1987年)開設した。資料館には泉区内外から寄贈された古民具などが数多く陳列されていると。入口の扉は開いていたが、中には入らず。玄関には昔の懐かしい脱穀機等が置かれていた。羽太郷土資料館は34年前、同地区の羽太俊一氏が開設した民営の資料館で、農具や民具など千数百点もの資料を所蔵・展示して来たのだとネットから。 【https://art.kita-colle.com/museum/detail/400】よりそして「グローバー団地入口」交差点を左折し暫く行くと左手に墓地があった。墓地の入口左にあったのが「石井仁左衛門翁之碑」👈リンク。碑文によると、石井仁左衛門は、中和田村長や郡会議員、神奈川県議会議長として地域や県政の発展に尽くした人物。仁左衛門は、嘉永四年(一八五一)二月十日、高座郡福田村(大和市福田)に、斎藤庄兵の次男として生まれた。明治十九年(一八八六)上飯田村柳明の石井家の養子となり、二代目仁左衛門を襲名して家督を継いだ。明治二十二年二月、大日本帝国憲法が発布され、同年四月には市町村制の施行による町村の合併が行われた。加えて、同二十七年には消防組規則の制定などにより、従来村落がもっていた制度的な秩序が次第に崩壊していった。そのため、今まで若者組(青年集団)が担っていた地域社会での役割が低下していった。こうした社会の変化や若者の動向にいち早く目を向け「北部金蘭会」という青年集団としての会を組織し、地域の若者たちの教育に努めたのが石井仁左衛門であったのだと。その先右手の小さな林の中に小さな神社があった。「稲荷社」。手前には「油揚げ」が2枚奉納されていた。久しぶりに奉納された「油揚げ」を見たのであった。カラス等に突かれずに無傷で。前日は節分会であったのだ。「内陣」。ここでもお賽銭箱は内部に。そして道路を隔てた場所には、幟が立っていた。「稲荷大明神」の文字が確認できた。昔は、道路がなく、ここが「稲荷神社」への参道入口であったのだろう。周囲には歴史を感じさせる墓地も散在していた。そして「柳明神社」に向かって境川沿いを走る鎌倉街道を進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.13
コメント(0)
そして次に訪ねたのが「本興寺(ほんこうじ)」。横浜市泉区上飯田町3624。「本興寺」の「総門」は「冠木門」。二本の柱の上部に冠木を貫き渡し、上に屋根をかけた門。現在は屋根のないものをいうことが多いと。「日蓮宗本山 法華山 本興寺」案内。寺号標石「本山 本興寺」。日蓮宗別格本山の寺で、鎌倉の本興寺が幕府の弾圧に遭い、万治3年(1660)、日蓮ゆかりのこの地に移転したと言われています。55代住職日感(にっかん)の時、現在の本堂が再建(明治4年・1871)された。本堂の釈迦・日蓮・日什(にちじゅう)の一代記や七福神の彫刻は素晴らしいものと(非公開)。墓地には寺子屋師匠の筆子塚が3基あり、境内には中屋敷の鎮守さまである「天満宮」があった。「本興寺 参道」。参道の路地の角に3本の石碑が。歴史を感じさせる「題目法塔」。この石碑には「南無妙法蓮華経」の文字が。この石碑には「南無妙法蓮華経 元祖日蓮大上人 開山日什大聖人霊場」の文字が。この石碑には「南無妙法蓮華経 一萬部供養」の文字が。「南無妙法蓮華経」と一萬回読誦した時の記念に建てた石碑であろう。そしてその右奥の階段の上には「中屋敷天満宮」があった。横浜市泉区上飯田町3630-1。「本興寺」境内にある菅原道真を祀る神社。参道に戻り「本堂」に向かって進むと右手にあった「稲荷社」。オバチャン二人が神社境内の草取りを行っていた。「稲荷社」の「社殿」。そして正面に「仁王門」。天明五年(一七八五)に建てられた、仁王門と仁王像が迎えてくれた。この「仁王門」は戸塚区の文化財に指定されていると。掲示板には「日蓮は安房の国片海(かたうみ)の海人(あま)が子なり」と。「本尊問答抄」に記載された言葉であると。「横浜市指定有形文化財(絵画) 絹本著色法華宝塔曼荼羅 一幅平成2年11月1日指定 所有者:宗教法人 本興寺(ほんこうじ)寸法:縦 99.8センチ 横 42.3センチ虚空に湧出した宝塔中の多宝如来が、釈迦如来を迎えいれて併坐したという法華経説話を図示したものです。塔の上部に天蓋(てんがい)を浮かべ、その左右に日月を配し、九輪の塔頭(たっちゅう)から軒先に引かれた索条(さくじょう)に左右六体ずつの化仏(けぶつ)が懸かり、両如来の中央には「南無妙法蓮華経」の銘札が置かれています。塔の周辺には四天王、愛染・不動両明王、四菩薩、十羅刹女(じゅうらせつにょ)、鬼子母神などが配されています。この図様は、『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』に依拠する「曼荼羅本尊」を図絵したと思われ、京都・直行寺(じきぎょうじ)本が知られるほか、類例が少ないようです。截金(きりかね)を用いるなど華麗な色彩を以って描出された、14世紀末葉(まつよう)の制作と思われる佳作です。なお、本寺には永徳4年(1384)の年記のある同図様の版木と、その版刷りも伝存しています。」仁王門の屋根には「唐獅子と蕾付き橘の飾り瓦」が。その先には「鳩の飾り瓦」も。「仁王門」の扁額は「法華山」。そして仁王像(阿形像)は金網に覆われて。仁王像(吽形像)。「本興寺 縁起 当山は日蓮聖人が鎌倉に於いて辻説法をなされた旧地に弟子の天目上人が休息山本興寺を建立せられましたが、其の後日什上人が法華山本興寺と改称され自ら開基となられました。日什上人は比叡山学僧三千の学頭でありましたが、日蓮聖人の教風に感激し御年67才の時、天台より日蓮宗に改められ、称?来鎌倉本興寺を據点とし京都との間を往返数次、禁裡の奏聞三度、武家の諫暁数回、寺院の建立数ヶ寺に及び大いに宗風を宣揚せられました。其の後当山二十七世常楽院日経上人は各宗と法論して之を撃破せられ、殊に徳川家信奉の浄土宗と江戸城中にて法論に及び、為に慶長14年弟子五人と共に京都六条河原に於いて「耳鼻そぎ」の極刑に処せられました。己来当山に対する圧迫甚だしく、為に万治3年本立坊は什宝と共に担家を引き連れ当所に移転せられました。本年より310余年前であります。仁王門は天明5年建立。本堂は明治2年に再建せられ、堂内の欄間には釈迦、日蓮、日什の諸聖の一代記を表す54面の彫刻、扉には七福神の彫刻あり、又御宮殿の造作は大変精巧を極めて居ります。宝物として日什上人の絵曼荼羅、上人ご使用の桧扇、日経上人の血曼荼羅等があります。」正面から。「仁王門」を潜り「本堂」に向かって進む。右手に「手水舎」。「本堂」。万延2年(1861年)、本堂再建に踏み切り、明治2年(1869年)に落成した。外廊を入れて十間四面、彫刻は武州伊奈(五日市町)、小川長恒の作による扉四枚の七福神を始め、内陣・欄間のお釈迦様・日蓮聖人・日什上人の一代記を表す五十四面があると。境内は落ち葉一つ無く、見事に掃除が。毎日早朝に行われるのであろう。「本堂」の「唐破風下彫刻」の見事な精細さに驚く。ズームして。上部に本堂の懸魚。見事な彫刻が随所に組み込まれていた。七賢人の彫刻であろうか。「木鼻」(右)。帰路に撮影した左側の彫刻も見事。「木鼻」(左)。キロに撮影した右側の彫刻も見事。「本堂」入口扉は七福神の彫刻(右)。武州伊奈(五日市町)小川長恒の作であると。「本堂」入口扉は七福神の彫刻(左)。「本興寺」の「本堂」扉の日蓮宗の寺紋・「井桁に橘」。確か井伊家の家紋は「丸に橘」であるが、日蓮の出自は井伊家と関係があったのか?「本堂」の内陣。ズームして開祖日什上人の寄木造り玉眼入り木座像を。「十三重塔」。この碑も「題目法塔」か、「南無妙法蓮華経」と。手前には見事な箒目が。土蔵造りの御堂。昭和末あたりの建立とのこと。27世・常楽院日経上人の血曼荼羅や、開山日什上人のお曼荼羅・絵曼荼羅などが納められていると。日経上人は理不尽な慶長法難で、耳鼻そぎの惨刑を受けてしまった僧。一段高い墓地の中に「鐘楼」が。石段を上りながら「鐘楼」を。「梵鐘」。「梵鐘」にはお寺の縁起の文字が。歴代上人の御廟。開山の日什上人から66世の上人までの名が刻まれていた。「鐘楼」横から「本堂」を見る。見事な「三堀家」の墓碑と石仏。「永代供養塔」。一段高い場所には「慈母観音立像」が。お顔をズームで。足下にも小さな観音像が並んでいた。大きな五重石塔も。墓地の中から「本堂」を振り返る。墓地の端にも神社が。小さな「社」も。本堂の屋根には、「丸の内に二つ引き」の寺紋が。再び本堂の見事な向背の彫刻を追う。この時期にも関わらず、落ち葉一つ無い美しい境内。「本堂」前から「仁王門」方面を見る。「本堂」奥の「大客殿」。宗祖700遠忌・什祖600遠忌事業として昭和57年10月31日に落慶。再び「仁王門」を「本堂」側から見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.12
コメント(0)
「飯田神社」の横の道を北上する。左手にあったのが「上飯田西公園」。「いちょう団地入口」交差点を通過する。その先の信号のない交差点の左角に白い石碑があった。「甲子塔(かっしとう、きのえねとう)」(元治元年(1864年)銘)。横浜市泉区上飯田町2391。泉区唯一の「甲子塔」👈リンク。西暦年を60で割って4が余る年が甲子の年となると。因みに、昨年は中止になったが、今年は来週3月19日より13日間、春のセンバツ高校野球が開催される阪神甲子園球場であるが、大正13年( 1924年) 8月1日に竣工式が行われたがこの1924年が、甲子の年だったのであると。なるほど!!そして「60年に1度の縁起の良い年」だから、「長く続けたい物事はこの日に始めると良い」ということで「甲子園」と名付けられたのだと。甲子園は、1984年に還暦を迎えた。次に甲子の年になるのは2044年。あと23年・・・??。「甲子塔」は甲子日待ちを行っていた甲子講の人々が建てた供養塔。甲子日待は甲子の夜に禍を転じて福を授けてくれる大黒天を祀り、夜遅くまで飲食を共にしながら語り合う行事だったと云う。左手のものは道祖神なのか庚申塔なのかは判別不能。庚子塔左側面にある文字の中に「上飯田村」だけがなんとか判読できたが。更に「いちょう団地」に向かって進むとY字路があった。左手の付け根にあった「南無妙法蓮華経一千部供養」と刻まれた石碑。「南無妙法蓮華経題目塔」であろうか。「明和九・・・」の文字が。どこか懐かしい昭和レトロな「いちょう団地」には、巨大な給水塔が立っていた。「上飯田せせらぎ緑道案内」は悲惨な姿で。ここを右折して「正一位飯嶋稲荷神社」に向かう。立派な民家の冠木門の先に大きな幟が翻っていた。個人宅の敷地内にあるが如くに。今年の節分が前日であったため、大きな幟旗が。「稲荷」ではなく「稲成」。その名前には、大願成就などの意味が込められているのだと。社号標「正一飯嶋稲荷神社」。石鳥居の先に「社殿」。狛犬ならぬ狛狐(阿形像)が、よって稲荷社なのであろう。「玉」を咥えているのであろうか?玉は昔から「神の霊力」を象徴するものとされているのだと。狛狐(吽形像)。咥えている巻物は知恵・神様からのお言葉をあらわしているのだと。そして「正一位飯嶋稲荷神社」の「社殿」。「社殿」の内陣。幟には「奉献飯嶋正一位稲成大明神」と。隣の民家は「飯嶋家」、個人所有の神社なのであろうか?この付近に「飯嶋家」が多いようであったが。左手に「いちょう団地」を見ながら北上する。左手にあったのが「旧横浜市立いちょう小学校」・「横浜市立飯田北小学校」と平成26年4月1日に統合し、「横浜市立飯田北いちょう小学校」になり移転した模様。建物は「いちょうコミュニティハウス」になっていた。「いちょう団地前」交差点を進むと「いちょう小学校前」交差点の角に石碑が。「いちょう団地」碑。横浜市と大和市にまたがる神奈川県最大の公営住宅であると。広さは27万2476.9m2。境川を挟み、住所が横浜市側の「上飯田」と大和市側の「下和田」の2つに分かれている。建てられたのは今から約40年前の1971(昭和46)年。以後、改築や増築を行い、現在の棟数は1から84棟まで と。この団地は40年ほど前に作られた県営住宅で、近くの大和市に東南アジアからの移民受け入れセンターがあったことから、この団地にも多くの外国人が住むことになったのだと。日本語、カンボジア語、ベトナム語、中国語、スペイン語、英語の案内板が。「韓国語」がない理由は??そして再び「いちょう団地前」交差点まで戻る。この先、右手の細い路地にあったのが「ニ十三夜塔」と「道祖神塔」。横浜市泉区上飯田町3635-3付近。二十三夜塔とは、庚申講(こうしんこう)と同じく民間信仰のひとつとして、人々が集まって月を信仰の対象として「講中」といわれる仲間が集まり、飲食をし、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという月待行事(月待行事)を行い、その記念や供養のあかしとして建てられたもので、月待塔(つきまちとう)ともいいます。「ニ十三夜塔」👈リンク は泉区では唯一つのもので中屋敷の二十三夜講の人達が月待の記念か礼拝祈願の対象として建てたものとのこと。正面「二十三夜塔 講中 中屋敷 両山野」と。全国的には二十二夜塔や十五夜塔も多くあるが、二十三夜は月齢でいう「下弦の月」で、月が出る時間がほぼ午前0時で、その時刻と幻想的な月の形が信仰と重なり、「二十三夜」を一般的なものとしたようだと。「二十三夜」は月齢でいう「下弦の月」と。 【https://ameblo.jp/anglersstuff/entry-12596882467.html】より左側面 「相州鎌倉郡上飯田村 両山野」。右側面 「壬 文久二年 戌 正月吉祥日」。「道祖神塔」。左側面。右側面。「上飯田村」の文字は読めたが・・・。「五軒庭プロムナード及びせせらぎ緑道案内図五軒庭プロムナードは、「魅力ある道路づくり事業」の一環として本興寺仁王門から第ニ柳明橋を経由し、羽太郷土資料館(郷土の農機具等展示)付近までの道を整備したものです。また、せせらき縁道は「小川アメニティ事業」として大山道に沿って整備され一部五軒庭プロムナードと結ばれており、約1.8kmの散歩道とし一周できるようになっております。歴史的な資産や自然を楽しみながら魅力ある散策路としてご利用下さい。」そして次に訪ねた「本興寺」に向かって坂道を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.11
コメント(2)
ここ「JA横浜」の場所に「持田製糸場」👈リンク の工場があったとネットから。「持田製糸場」(中和田村)は、市内最古で規模も大きい製糸工場だったと。持田家は、幕末にはすでに副業として養蚕を営んでいた。明治になってから角左衛門は、酒造業を営むかたわら高座郡六合村(藤沢市)に一町歩(1ha)ほどの土地を取得して桑園に開墾。明治16年(1883)頃から座繰器(ざくりき)二台を購入し、女工員二人で製糸を始め、湘南社を通して出荷を始めた。明治22年、横浜の生糸売込商若尾幾造と提携して器械製糸を始めた。これが持田製糸場の始まりとなる。明治25年、角左衛門は自社敷地内に 「販売組合盛進社」 を設立。持田萬治は、明治27年(1894)5月、鎌倉郡中和田村上飯田3721番地(泉区上飯田町)に製糸場を設立した。泉区内には、所在が確認されているものだけでも8か所の製糸場があり、横浜市域では、瀬谷区とともに製糸業の盛んな所であった。生糸の技術の向上、製品の均一化をはかり、共同出荷を行った。持田初治郎は、創業者・角左衛門の子。そして次にこの場所に「上飯田天神山古墳」👈リンク があったと。かつて横浜市泉区上飯田町字天神山に存在した古墳時代中期末(5世紀末〜6世紀初頭頃)の古墳。径約30メートルの円墳で、泉区内唯一の高塚古墳だったと。発掘された当時の古墳の写真を「ネット」👈リンク から。 そして「鶴島弁財天」。この辺りの字を「鶴島」と呼んだが、上飯田地域ケアプラザの傍らの墓地に、小さな堂があり、周りに十数基の立派な石塔が立っていた。これは近くに数軒ある旧家、小曲(こまがり)家の墓地であるが、ここにはむかし「鶴島山(つるしまさん)小曲寺」という土地の旧家、小曲家の菩提寺があったが。幕末に廃寺になったのだと。「鶴島弁財天」碑。小曲有志一同と。上飯田団地の中を進む。右手にあったのが「神明神社」。横浜市泉区上飯田町1862。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「鳥居」と「拝殿」。「拝殿」の奥に「本殿」。祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)。勧請年代は不明ですが、須賀神社と同様、建暦2年(1212)、泉小次郎親衡ちかひらが館を築いた折、その鬼門除け守護神として当社を勧請したと伝えられています。昭和10年(1935)11月、氏子の寄付により社殿が修復されています。神明社の隣には、農家の経済を支えた養蚕にちなんだ蚕霊(さんれい) 供養塔が(横浜市登録文化財)あったとのことであったが見つからなかった。「神明神社」を後にすると、前方に大きな生け垣が現れた。「イヌツゲ」の生け垣であると。横浜市の「名木古木指定」であると。そして更に進むと民家の跡地?に小さな社が2基。中を覗いたがお姿はなし。何処かに移転したのか?そして次に訪ねたのが「飯田神社」。解りにくかったが社号標は「村社 飯田神社」。社号標の手前にあった石祠。鳥居の前の地蔵像。祠に入った「地蔵尊」。台座の横には石の猿の姿が。七観音。右の2体は首のところで補修されていたが。 9基の「庚申塔塚」。左から庚申塔。右側面には(明治9年丙子(1876年)歳・・・三月吉祥・・・)銘。一番右には「北八王子道」その他「相州?鎌倉郡上飯田村」の文字も。左側面には、「東かまくら」、「西あツ木道」、「南ふじさは」と彫られているのだと。右隣の石碑。その隣。庚申供養塔であろう。金剛神供養霊塔(享保9年(1724年)銘)。右側面には「金剛神供養霊塔」と刻まれていた。その右の石塔・庚申塔。その右の石塔・庚申塔。割れの入ってしまった石塔。道祖神であろうか。「‥王大‥」(宝暦9年(1759年)銘)。供養塔か?(明和3年(1766年)銘)。そして「飯田神社」の「石鳥居」。「飯田神社境川や和泉川沿いに見られる「サバ神社」の一社で、祭神は源義朝を主神に宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)・大山昨神(おおやまくいのかみ)です。伝承によると、飯田五郎家義がお祀りしたといわれています。縄文時代、境川沿いは入り海で、神社の境内の土手から縄文後期の人々が使った注ロ(ちゅうこう)土器が出土しました。境内の神楽殿は、明治20年頃、飯田学校校舎として使われていました。鳥居前には地蔵像・七観音像・庚申塔・道祖神が立っています。」狛犬(阿形像)は毬を踏みつけて。狛犬の足元にある毬は、財産、あるいは吉祥の象徴。狛犬(吽形像)は子宝の象徴・子供を踏みつけて。「鐘楼」。「梵鐘」。昭和46年(1971年)銘の梵鐘。「手水舎」。「飯田神社 由緒」碑。「勧請年代は定かでないが、往古から当地に鎮座していり古寺であると伝えられている。社伝に、延應元年(一二三九)飯田三郎能信、当郷の地頭ニ復スルヤ厚キ奉幣ノ儀アリ。猶知行平山源太郎ノ崇敬特ニ深アリシ社ナリ」と伝え、寛政十二年ニ月、式部権大輔菅原長量が「飯田大明神」の神号額を奉納、また文化十三年ニ月に神祇管領卜部(うらベ)良長が京都から参向して奉幣、祝詞を奉上しているから有数の古社であった事が知られる。新編相模風土記稿に「飯田明神社、鯖明神とも唱ふ、村の鎮守なり、稲荷、山王を合祀す、村持。」とある如く記され、境川添いに祀られている往古から相模七鯖の一社で境の神として幾多の伝承も残されている。昭和三十年に現社殿を、また五十五年には参道並びに境内地の玉垣設置等氏子の赤誠の浄財により、各々完成、社頭の面目を一新した。」「飯田神社」👈リンク の「「社殿」。頭貫上の見事な彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。明治20年頃、「飯田学校校舎」👈リンクとして使われていたという「神楽殿」。「社務所」。「お囃子後継者募集中!」と。何処も同じ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.10
コメント(0)
この日は、先日に引き続き「鎌倉街道 上道」に沿った横浜市泉区上飯田町にある社寺仏閣等を訪ねた。小田急線そして相鉄いずみの線を利用し、自宅から約30分近くで「いずみ中央駅」に到着。1990年の相鉄いずみの線の開業時はここが終点駅であったが、1999年に相鉄いずみ野線が湘南台駅まで延伸し途中駅になったのだ。「いずみ中央駅」のコンコース。「いずみ中央駅」西口広場にあった少女?像。西口広場から「いずみ中央駅」を振り返る。「Eバス」は2014年4月より、ここ相鉄いずみ野線いずみ中央駅を起点とし下和泉住宅地区を循環する路線バスのこと。県道22号線・「長後街道(ちょうごかいどう)」に架かる「相鉄いずみの線」の高架橋が右手に。「「長後街道」として整備される前の旧道は、戸塚みち(大山道とも)や八王子街道と呼ばれていた。高座郡の長である「長郷」が変化した「長後」が地名の由来となっている。開通当初は新道・厚木街道と呼ばれていたが、昭和50年代頃から現在の名前で呼ばれるようになった。明治から大正時代にかけて藤沢市北部・横浜市泉区・瀬谷区周辺では養蚕が盛んで、長後街道周辺には製糸工場も数多くあったため、国道467号経由で八王子方面から繭の集荷や、東海道の宿場であった戸塚・保土ヶ谷経由で横浜港へ絹糸を運ぶための道として重要な役割を果たしていた。」とウィキペディアより。長後街道を西に向かって進む。道路の反対側・ガソリンスタンド脇にあった「庚申塔」をズームで。正面一杯に「庚申塔」の文字が彫られていた。文化12年(1815年)建立と。右は、「阿弥陀如来庚申塔」で延宝5年 (1678)の建立。阿弥陀如来の下には三猿が。「和泉坂上」交差点を渡る。左手に進むがこれが「鎌倉街道 上道」であるようだ。この日に歩いた場所には青線-----の如くに「鎌倉街道 上道」が走っていたのであった。進んでいくと左手に「上飯田けやき公園」。見事な生け垣のある「鎌倉街道 上道」を進む。石塀に囲まれた敷地の奥に石仏の姿が。光背観音立像+三猿の「三猿庚申塔」であるようだ。横浜市泉区上飯田町1094。正面に「大山」の姿が現れた。そして白き「富士山」の姿も。ズームで。「鎌倉街道 上道」は右手に折れ、正面にこれから訪ねる「無量寺」の前へと進んでいた。鎌倉時代には、「鎌倉街道 上道」を横切る「長後街道」はなかったのであろう。横浜市の汚水マンホール蓋。横浜のシンボルであるベイブリッジを中心に据え、周囲を船の操舵輪でデザインし、「のびゆく港・未来」を表しているのだと。「無量寺」の山門に向かって右側には白塀が続く。ここが「鎌倉街道 上道」。そして「無量寺」に到着。横浜市泉区上飯田町1112。「無量寺」の山門前から境内を見る。寺号標「浄土宗 帰命山(きみょうさん) 長寿院 無量寺」新編相模風土記稿に「浄土宗、鎌倉大町安養院末、本尊、阿弥陀を安ず。開山は善如、承応二年四月六日寂」とある。無量寺は、鎌倉安養院第十九世深誉上人が文禄2年(1593)に創建したと。「山門」前の左手にあったのが、家畜の霊を供養するために造られた「畜霊塔」。その奥に「六地蔵」。更にその奥に「無縁之墓」。「帰命山 長寿院 無量寺当山は鎌倉安養院第十九世深誉呑霊上人が文禄ニ年(一五九三年)に開創したと伝えられている。また『相模風土記稿』には、開山は善如(承応ニ年寂一六五三年)とある。伝承では、初め他所に創建されたが天災によリ本堂庫裡等すべて倒壊してしまい、現在地に移転して再建されたという。本尊 阿弥陀如来像は、相州鎌倉郡扇ケ谷の仏師 後藤左近の作。(元禄十五年、一七〇二年)宗旨 浄土宗総本山 京都知恩院宗祖 法然上人本尊 阿弥陀如来称名 南無阿弥陀仏所求 極楽浄土往生 合掌」。「山門」の扉には寺紋が。浄土宗の宗紋は『月影杏葉(つきかげぎょよう)』と呼ばれる紋。杏葉(ぎょうよう)とは、大陸伝来の“馬具”の事で、馬の鞍をつなぎ止める紐に付ける飾りのこと。金属・皮などで作られた物が多く、杏子(あんず)や銀杏の葉の形に似ている事から“杏葉”と呼ばれた。この杏葉は法然上人の生家の漆間家の紋に由来し、大正4年(1915)に、蕊(しべ)は7個とし、宗歌「月かげ」の月を配した現在の紋が定められたと。「鐘楼」。「梵鐘」。山門脇右にある高さ20m以上あるイチョウの大木は、横浜市指定の名木古木。高所の枝の場所には、南天の幼木がヤドリギの如くに。「本堂」正面。扁額「無量寺」。「寺務所」。寺務所の前には石仏と石碑が。石仏。元徳年間(1329~32)に造立された「板碑(いたび)」。「板碑」は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆とも呼ばれる。基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。頭部に二条線が刻まれる。実際には省略される部位分もある と。その隣りにあった一遍上人52代の「名号碑(みょうごうひ)」は大山道の道標を兼ねていたと。大山参詣の人々は、この寺で足をとめて参拝したことであろう。寺の墓地には、「道者の墓」といわれる古くて苔むした無縁の墓があった。「下総・上総」と刻まれていたところから、下総、上総(千葉県)から大山参詣に行く途中に行き倒れになり、この寺に手厚く葬られたのであろう。「江戸時代の大山道 主要八道」。大山道(おおやまみち・おおやまどう)とは、主に江戸時代の関東各地から、相模国大山にある大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の総称。大山街道(おおやまかいどう)とも呼ばれる。代表的なものとして、「田村通り大山道」や「青山通り大山道」などがある。上記の道標は「柏尾通り大山道」にあったもの東海道方面からの経路で、現在の神奈川県横浜市戸塚区から大山へ向かうものである。この経路の起点は不動坂と呼ばれ、道標や石碑が多くみられる。明治5年のころに、講衆同士が大げんかを始め、「戸塚の血の雨」と呼ばれる騒ぎになった。なお、下粕屋からは矢倉沢往還(青山通り大山道)を利用して大山に至るもの。境内のイチョウの大木と鐘楼を見る。境内横の墓地。「本堂」前の「手水場」。「本堂」の屋根の上にも浄土宗の宗紋『月影杏葉(つきかげぎょよう)』が。「掲示板」には「日々実践をこつこつと」。再び「無量寺」👈リンク を振り返る。「山門」の先にも「浄土宗 無量寺」案内が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.09
コメント(0)
「三柱神社」を後にし、「境川」に沿った東の道を南下する。横浜市泉区上飯田町190付近の旧家・宮崎家長屋門の前を通過。道路向かいに、日産自動車の配送センターがあったが、以前にはここが「宮崎製糸場」👈リンクがあったところであると。「宮崎製糸場」は、大正時代には女工330名を擁する大製糸場であったのだと。そして「美濃口春鴻(みのぐちしゅんこう)の地」👈リンク に到着。「美濃口春鴻」は享保十八年(一七三三)に、下飯田村の美濃口源左衛門の子として生まれた。幼時は虎松、のち源吾次(げんごじ)と称した。美濃口家は代々名主を勤め、また村制が布かれてからは村長も勤めた家柄であったから、人の出入りも多く、また公私を問わず外出することもたびたびで、世間の文人との交流も多かったのだったと。横浜市泉区下飯田町1744。立派な長屋門に圧倒されたのであった。飯田の鎌倉道は「上(西)之道」と呼ばれ、新田・足利ゆかりの地や信濃方面と鎌倉を結ぶ重要な道でした。美濃口家は代々名主や村長を勤め、当家出身の春鴻しゅんこうは芭蕉の流れを汲む蕉門の俳人で、関係資料は横浜市地域有形文化財(歴史資料)になっています。(一般の家屋のため、門の中の見学はできなかった。)また、近くに持田・美濃口両家の氏神と伝えられる日枝神社があった。玄関の南側を見る。玄関の北側を見る。「横浜市地域有形文化財(歴史資料)美濃口春鴻関係資料一括 二十三件美濃ロ春鴻は、亨保一八年(一七三三)相模国鎌倉郡(現泉区)下飯田村の美濃ロ源左衛門の子として生まれ、幼名は虎松、のち源吾次と称しました。下飯田村は、旗本筧(かけい)家領にあり、美濃ロ家は、代々名主を勤め、また村制がしかれてからは村長も勤めた家柄です春鴻は、江戸時代中期の相模を代まする俳人で、はじめは舂江と号し、明和ニ年(一七六五)松露庵鳥酔に人門、戸塚宿のニ之日庵鶏父の連に属していました。後に、関東の蕪村と称された舂秋庵白雄の門人となり、白雄の八大第子の一人に数えられました。寛政五年(一七九三)には、白雄追善集「冬瓜汁」を出版しています。また、相模俳諧の長老として鴫立庵(現大機町立鴫立庵)を後見しました。(鴫立庵は、江戸時代中期に大淀三千風が中興した俳諧道場で、明和四年(一七六七)鳥酔が入庵し再興しました。京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つと言われています。)春鴻は、享和三年(一八〇三)六月七日、七一歳で没し、追悼集に門人雉啄(ちたく)編の「鴫の井」があります。美濃ロ家には、「芭蕉翁百年忌追棹の巻」(写)をはじめ句会での記録が数多く遺されています。これらは、江戸時中期の相摸の俳諧の様子を知る上で貴重な資料です。」そして近くにある「日枝社」の入口を探したが漸くここであることに気がつく。案内等は全く無く。丘の上に向かって参道を進んでいく。正面に「社殿」が現れた。横浜市泉区下飯田町1750。「馬頭観世音菩薩碑」。新しい鳥居、社殿も。「美濃口」と書かれた表札の家が交通量の多い道路側に。こちらが現在のお住まいなのであろうか。美濃口春鴻の墓は下飯田の生家の東方、道路沿いの美濃口家一門のこの墓地にあるようだ。そして境川に架かる木製の「渡戸橋」を渡って帰路に。下飯田町と藤沢市高倉を結ぶ「渡戸橋」。当初は自動車・歩行者兼用であったが、その後、隣に新しい橋が架けられ、写真の橋は歩行者専用になっていた。そして我が市内に入り進んでいくと、左手に「子育地蔵」が。「子育地蔵南北朝時代の一三〇〇年代に創建されたという臨済宗円覚寺派寺院・点燈山東勝禅寺、その古刹の境内北西角に建っ立派な御堂、この御堂に祀られているお地蔵様が下高倉の「子育地蔵」です。堂内は色鮮やかな千羽鶴や飾り玉で所狭しと飾られ、御堂の前には「奉納・子育地蔵菩薩」と書かれた数本の真っ赤な幟が風にはためいています。この御堂が面している四ッ角(現・三叉路)は、地元では「坂上十字路」と呼ばれる交差点で、付近は今でも昔懐かしい農村の風景を残すところです。このお地蔵さまは、江戸時代中期の延享三年(一七四六年)に七ッ木村の観音講の人々により造立されたと銘文に記されています。お地蔵様のまわりにはたくさんの白い小さな石が置かれていて、この石で子供の切り傷や、おでき、やけど等を撫でさすると早く治り、また赤ちゃんの歯固めに用いると丈夫な歯が生え、誕生餅とともに背負わせると強い足腰を育むと言われています。なお、借りた小石はお礼の気持ちを込め、倍にしてお返しすることになっているとのことです。この「子育地蔵」にはそんな我が子を思う親たちの感謝の気持ちが込められ、今でも地域の人々の信仰を集めています。(中島淳一氏著『湘南のお地蔵さま』より文章の一部を引用させていただきました。)」。祠に入った子育地蔵尊。延享3年(1746)の銘がある地蔵尊で、地域で大事にされているのだと。毎月24日が地蔵様の日になっていると。地蔵尊の左右には色鮮やかな千羽鶴が何本も奉納されていた。そして地蔵尊は黄色いTシャツを着ていた。数多くの絵馬札には願い事が。この日の散策はここまでとし、長後街道より北にある上飯田町等の散策は次回としたのであったそして、この後国道467号・町田街道を進み、帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.05
コメント(4)
「長福寺」を後にして、「和泉川」沿いを北上し「いずみ中央駅」前の「曙橋(あけぼのばし)」に到着する。この「曙橋」の周囲は和泉川「地蔵原の水辺」と呼ばれているのだ。「和泉川 お散歩マップ」。左から、この日に訪ねて来た「県立境川遊水地公園」、」「天王森泉公園」周辺。「四ツ谷湧水」、「泉中央公園」周辺。そして現在地の「いずみ中央駅」前に辿り着いたのであった。「地蔵原の水辺」。そして次に訪ねたのが県道22号線・長後街道沿いにある「神明社」。横浜市泉区和泉中央南4丁目5-12。ここにも「横浜市地域史跡 泉小次郎伝承地---神明社---」碑。「社殿」。祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)。勧請年代は不明ですが、須賀神社と同様、建暦2年(1212)、泉小次郎親衡ちかひらが館を築いた折、その鬼門除け守護神として当社を勧請したと伝えられている。昭和10年(1935)11月、氏子の寄付により社殿が修復された。神明社の隣には、農家の経済を支えた養蚕にちなんだ蚕霊(さんれい )供養塔(横浜市登録文化財)があった。そして「神明社」の下の石碑群。県横浜市泉区和泉中央南4丁目5。左から「蚕御霊神塔」、「庚申塔」。「横浜市 有形民族文化財 蚕御霊神塔」碑。正面の文字は「蚕御霊神」、右側面と裏の文字は判らなかった。「蚕御霊神塔現在、泉区和泉町三六九六番地に所在する本塔は、明治一一年(一八七八年)に造立された角柱塔で、その規格は、高さ七〇・五cm、幅三三cm、厚さ三一cmを測ります。塔の背面には、慶応ニ年(一八六六年)三月に、霜害のため桑が枯れてしまい蚕を育てることができなくなり、蚕を地中に理めてしまったことが記されているとともに、台石には、六十余名の連名が見られることから、一村あげて、その時の蚕の慰霊を行ったことを知る貴重な資料です。」この蚕霊供養塔は大山道の道標も兼ねていて、塔の向かって左側面に「大山道」の文字とともに二本指で方向を示した手の線画が刻まれている。正面の文字は「蚕御霊神」。そして長後街道沿いにあった「中和田村役場跡地公園」を訪ねた。「史跡 鎌倉郡中和田村役場跡地」碑。「旧中和田村の有志により横浜開港百五拾年を記念しこも碑を建立します。」横浜市泉区和泉中央南4丁目5。碑の裏面には「中和田村役場跡明治ニ十二(一八八九)年の市制及び町村制の施行により、鎌倉郡の一部、中田村、和泉村上飯田村、下飯田村の四カ村が合併して鎌倉郡中和田村が誕生、明治三十四(一九〇一)年四月、当時小高いこの地に、中和田村役場が建設され、村の行政事務が執り行われた。昭和十四(一九三九)鎌倉郡中和田村が横浜市に編入され戸塚区となり、中和田村役場は、戸塚区役所中和田地区事務所となった。昭を二十六(一九五一)年に戸塚区役所中田出張所と改称され、昭六十一(一九八六)年十一月三日、横浜市泉区が誕生する行政事務が執り行われた。そして長後街道を相鉄いずみの線に向かって進む。「和泉川・地蔵原の水辺」案内柱。その先に相鉄いずみの線の高架が。相鉄いずみの線の高架を潜り進むと道路の反対側に石仏を発見。「庚申塔」であった。横浜市泉区和泉町5丁目12。長後街道沿いにあった「中和田公園」に立ち寄る。横浜市泉区和泉中央南5丁目1。公園に入った右の松の樹の下の石碑。「明治三十七八年戦役紀年林」と刻まれていた。「明治四十二年十一月 日」に設置されたようだ。正面と左側に各種の石碑が。「中和田公園この公園は明治3 8年に持田製糸工場の社主、持田初治郎氏の寄付した土地を公園としたもので、かっては招魂社(しょうこんしゃ)と呼ばれました。境内には西南の役から第ニ次世界大戦までの忠魂碑、地域の青年集団「北部金蘭会(きんらんかい)」の教育に尽力した石井広助の碑があります。さらに中和田小学校の初代・2代目校長を務めた山田専成、山田豊治郎や養蚕・生糸の改良・普及に尽力した持田初治郎の各氏の顕彰碑が立っています。」公園の南側には複数の大きな石碑が。「石井広助之碑」。「石井広助之碑」は、明治三十八年十一月に建てられたもので題額は陸軍大将乃木希典の書。石井広助陸軍少尉は、上飯田町柳明に生まれた人で、父仁左衛門は神奈川県会議長をつとめた人であるとのこと。「忠魂碑」。「忠魂碑」は、日露戦争で有名な陸軍大将乃木希典の筆によるもので明治四十二年に建てられた。終戦後取り壊されたが、昭和二十九年十一月に中和田忠魂碑再建会により再建された。再建された碑の正面の題字は、元中和田小学校長山田豊次郎の筆である。その後連合町内会主催で招魂祭が行われていた。合祀されているのは、西南の役、日清、日露戦争、日中戦争から太平洋戦争までの二百三十四柱である。「持田初治郎君頌徳之碑」「持田初治郎君頌徳之碑」は、大正六年(一九一七)十一月に建てられたもので、題額は大正十三年に総理大臣になった清浦圭吾の書である。持田初治郎は、先進的な創業者、父角左衛門の志を継いで、蚕種の改良を図り全国に普及させ、事業の拡張にも努めたので「相模国の産額諸州に冠たり」と刻まれている。初治郎が共進会、博覧会に出品した生糸は優秀で、県内はもちろん、他府県からも金杯、銀杯、銅杯、賞状等が数十贈られている。また、伊太利国(いたりあ)万国博覧会では金賞が授与されている。社会に尽くした名誉職、寄付行為も数多く、県知事より、褒状、木杯、賞状が授与されている。「山田先生紀徳㞢碑」。「山田先生顕彰碑」。「和泉坂上」交差点を渡り進み、「三柱神社」を目指す。途中右側に塀で囲まれた空き地にポツンと鎮座していた石碑を発見。光背観音立像+三猿の「三猿庚申塔」であるようだ。そして南に向かって折れ「三柱 ( みはしら )神社」に到着。横浜市泉区上飯田町840。「三柱神社の由来当社は、上飯田下組みといわれた地区内に古くから祀られていた三つの神社を大正元年十ニ月に寄宮して、三柱神社としたのが、初めである。(中和田郷土誌より)祭神は、大山咋命(おおやまくいのみこと 山王社)、豊受姫命(とようけひめのみこと 稲荷社)、菅原道真(天神社)が祀られています。山王社上飯田町字島廻一八八番地に祀られておリました。稲荷社上飯田町字溝下三八八番地に祀られておリました。当時、大きな赤松があったと伝えられています。今、稲荷坂と呼ばれているところてす。天神社上飯田町字天神山一一一八番地に祀られておリました。大正元年十ニ月、持田初次郎、宮崎芳松、持田寿作、持田元治、麻生喜作、中野林之助、野渡儀兵衛の各氏が古くからあった三社を現在の地に寄宮しました。地域の人々が集会所と呼んでいる三柱神社です。各氏は、境内に記念碑を建て、次のような文面を後世に伝えています。当部落統一上、集会所設置の議が熟し、各氏は敷地の選定に苦しんだが、地主の利益を捨て、便益に資せんと、土地を譲与されました。その徳を頌し、併せて一般寄付の方々の名前を記し、紀年としました。畑・・・一反四畝ニ十九歩(一四八六m2) 持田寿作畑・・・四畝四歩(四一〇m2) 中野林之助現在の鳥居と参道は昭和三十一年、拝殿と奥の院は昭和四十四年氏子の寄付によって再建したものてす。」「社務所&町内会寺務所」。「上飯田南町々内会寺務所」。「三柱神社」👈リンク の「社殿」。社殿の右側に石碑が並んでいた。「蠶(蚕)霊神鎮座」碑。「蠶(蚕)霊神鎮座」碑を正面から。「上飯田下組」の文字も。右側面には「明治廿九年申一月吉日/相州鎌倉郡中和田村」と。左側面には「宇氣母智命」。角柱型文字「庚申供養塔」。光背型六手合掌青面金剛+二鶏三猿・・1722(享保7)年。角柱型文字「庚申塔」・・道標:「此方 かしを道」「此方 大山道」、1861(文久元)年。「庚申塔」の先に御神木が。この石碑は「集会所建設記念碑」。近くにあった「持田初次郎」の眠る持田家の墓地に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.04
コメント(0)
そして次に訪ねたのが「中之宮左馬神社(なかのみやさばじんじゃ」昔から「相模七左馬(鯖)の一社」と崇められた社で、新編相模風土記稿にも「鯖明神社」と記されていると。横浜市泉区和泉町3253。参道とその先に「本殿」。祭神は左馬頭源満仲(さまのかみみなもとのみつなか)・天照皇大神(あまてらすおおみかみ)で、中和泉地域の鎮守様。和泉川沿いに見られるサバ神社の一社で、源家隆盛の頃の勧請とのこと。明治6年12月に和泉村の「村社」に列せられた。寛永2年(1625)12月、和泉村の領主となった松平勝左衛門昌吉は、この神社を村の鎮守として再興し、能見(のみ)松平家の累代の祈願所とした。また代々の領主は氏子と共に社の護持や社殿の修復に尽力しており、文化13年、天保6年の棟札が残されている。平成16年にその本殿を保護する総けやき造りの社殿が新築された。境内には木食觀正碑(もくじきかんしょうひ)・庚申塔・西南の役の忠魂碑などがある。扁額「中之宮左馬神社」。「本殿」の右側にあった境内社。「本殿」の左側にあった左から「光背型青面金剛塔+三猿」・「庚申塔 1861(文久元)年」・「木食觀正碑」・「地神塔1861(文久元)年」が。中央は「「盡忠(じんちゅう)報国」碑・・1877(明治10)年の西南の役の戦死者2名の慰霊碑、裏面に「招魂」の文字、1888(明治21)年。」右手にも小さな境内社?が二基。「神楽殿(かぐらでん)」。そして次に「泉中央公園」に向かって細い坂道を上って行くと左側に小さな神社が。横浜市泉区和泉中央南4丁目32付近。そして「泉中央公園」に到着。横浜市泉区和泉中央南4丁目22。「泉中央公園案内図泉中央公園は昭和61年に、泉区誕生と同時期に開園した近隣公園です。水と歴史を活かした公園として長年、親しまれて来ました。泉中央公園の敷地には、中世の城郭である空堀や土塁の一部が残っています。鎌倉時代の武士、泉小次郎の館跡とも言い伝えられ、また公園内には「泉小次郎馬洗いの池」と呼ばれる池があり、泉小次郎の伝承地として知られています。再整備により平成28年3月に再オープンした。この地は鎌倉時代の武将泉小次郎親衡の館跡と伝えられている。遺構として、東側と南側に空堀と土塁が残っています。公園の周辺には歴史ある寺院や神社などがあり、かっての面影を残しています。」「泉小次郎親衡の館跡(いずみこじろうちかひらのやかたあと)」の南側を見る。1213年(建暦3 年)に起きた北条義時打倒未遂事件(泉親衡の乱)の首謀者・泉小次郎親衡の居館とする伝承がある。横浜市地域史跡。城跡は南北400m、東西200mを測り、曲輪と見られる平坦地は現在「泉中央公園」となっている。公園東端には南北に走る高さ1mほどの土塁が残り、埋没しているがV字に掘られた空堀も見つかっている。「空堀」の如きものが確認できたがこれがそうか?「泉中央公園の館跡」案内板。「泉中央公園の一帯は、鎌倉時代の武士の泉小次郎親衡の館跡と言い伝えられていますが、ニ重堀や板碑の紀年などから、南北朝時代のものではないかともいわれています。公園の西側は和泉川を天然の水堀とし、東側と南には箜堀と土塁が残っていま。現存する土塁は基底が約3m、高さlm、空堀は幅が約4 ~ 5m程であり、遺構は、南北400m東西200mに及びます。東側の土塁は堀の前面にあり、土塁前が道路になっていることから、ニ重堀があったと推定されています。」「堀敵の侵入を防ぐために城の周りに造られる防御施設のひとつです。水を引き込んだものを水堀といい、水のないものを空堀といいます。中世の城郭の多くは、山城と呼ばれる山の地形を利用したものであったため、ほとんどの堀は水のない空堀でした。水堀を設ける場合は一定の堀幅を必要とするのに対し、空堀は幅が狭くても深く掘ることで威力を発揮するため、山城においては有効な防御手段でした。掘り方により底面はV字型、凹型、丸型など様々なものがあります。土塁土塁は地面を掘って、その土を盛り、つき固めて造った塁壁で、城郭の防衛線として造られました。城郭の最も外側にかれ、傾斜ができるように土を盛ることで、外部からの敵の侵入を防ぐことが主な役割でした。戦国時代末期から江戸時代の城には土塁を石で覆った石垣が多用されるようになりました。」西側は斜面の下は平らな場所であったが。「泉」が湧き出していた。園内には、空充秋(そらみつあき)の彫刻「門」が立っていた。銘板には「空充秋」の名が。「泉小次郎馬洗いの池」「泉小次郎馬洗いの池」案内板。「この池は、「泉小次郎馬洗いの池」といわれ、泉小次郎が馬を洗ったと伝えられています。その昔から一年中水が枯れたことがなく、昭和20年頃まで、干ばつの時には、近隣の農家の人々により、池の水が汲み千され、雨乞いの行事が行われてきました。この池の底に沈んでいた小さな島には貞和三年( 1347 )造立の五輪塔があったといわれ、池のほとりには数基の板碑もありました。公園の北西に隣接する長福寺は泉小次郎が道場として創建したもので、守護神として祀ったのが須賀神社であると伝えられています。また、中和田村役場跡地公園西側にある神明社は、泉小次郎が館の鬼門除けとして勧請したものであると伝えられています。長福寺の西方約200m先に祀られている不動尊は、泉小次郎の守り本尊といわれています。不動尊の左右には「男瀧」「女瀧」があったので、土地の人々はこの付近を「の前」と呼んでいます。板碑(いたひ)板碑は、石塔婆の一種で、板状の石で製作された供養塔です。発見された板碑の中には、「元徳(1329 - 32 )」、「建武四年( 1337 )ニ月」、「康永元年( 1342 )」「貞和四年( 1348 )」「延文六年( 1361 )」の銘が刻まれた鎌倉時代末期から南北朝時代のものもあり、貴重なものとなっています。五輪塔(ごりんとう)仏教の五大思想の教えによる宇宙観を表した地・水・火・風・空の五つの元素から形成されているという考えから発したもので、石造物としては平安末期頃から造立されました。泉親衡(ちかひら)の乱泉小次郎親衡は、鎌倉時代の武士で信濃国(長野県)の住人だったといわれています。親衡は、ニ代将軍頼家を幽閉、殺害し幕府の実権を握った北条義時を討っため、建保元年( 1213 )ニ月、頼家の遺児千寿を擁し、旗上げを計画しました。しかし、計画が事前に発覚し、多くの御家人が捕らえられました。鎌倉にいた親衡は、計画が露見すると、逃亡し行方をくらましたことが「吾妻鏡」に見えます。計画に加わった御家人の中には、幕府実力者であった和田義盛の子や甥もおり、それが元で、後に和田合戦に至りました。この戦で北条氏により和田義盛一族は減亡させられました。」そして坂道を下り「泉小次郎親衡の館跡」の下にある「長福寺」を訪ねた。臨済宗天王山(てんのうざん)長福寺は、円覚寺末で本尊は釈迦牟尼(しゃかむに)仏。泉小次郎親衡(ちかひら)が道場として創建したと伝えられている。泉小次郎は、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁して北条氏を打倒しようとしたが、その計画が事前に発覚し、逃亡したと伝えられている。隣の須賀神社は小次郎が鎮守神として祀った神社といわれているのだ。横浜市泉区和泉中央南4丁目18-11。「長福寺」の白の漆喰塀が続く美しい光景を振り返る。「山門」。扁額は「天王山」。「横浜市地域史跡 泉小次郎伝承地---長福寺--」碑。「本堂」。長福寺は、鎌倉時代の武士泉小次郎が創建した道場だといい、大覚禅師の法弟・空山円印禅師が開山、円覚寺102世大雅省音禅師(応永26年寂)が円覚寺派として応永2年(1395)に中興開創したといいます。自然石から彫られた手水鉢には湧き水が。「六地蔵」。美しい枯山水の庭には蓮の大きな鉢が並んでいた。別の場所からも。「ネット」👈リンク より。次回は蓮の花の時期にと。「本堂」に近づいて。扁額「長福寺」。長福寺の境内に南北朝期の年代(1300年代)が記された「板碑」が立っていた。泉中央公園を整備したとき、池のほとりから出土したものであると。「板碑」は、石塔婆(せきとうば)※1の一種で、死者の追善(ついぜん)※2及び生前の逆修(ぎゃくしゅう)※3供養の塔で、本興寺墓地・無量寺・密蔵院・東泉寺の宝物殿(非公開)などに多くあります。板碑は、泉区域の石造物では、最も古いものです。※1石塔婆:石で作った供養塔※2追善:亡くなった人の冥福を祈ること※3逆修:生前にあらかじめ自分のために死後の冥福を祈ること。「長福寺の歴史---伝承泉小次郎親衡縁起大凡長福寺の歴史を遡るに鎌倉時代泉小次郎親衡の創建道場と伝う。開山は大覚禅師の法弟・空山円印洋師なり。中興の祖は円覚寺百二世大雅省音禅師にて応永ニ年(一三九五年)開創し以来 法燈連綿として今日に至る。泉小郎郎親衡は信濃の国(上田市小泉)の住人にして信濃源氏の嫡流なり。建暦三年(一ニ一三年)ニ代将軍源頼家の遺児千寿を擁して、執権北条家打倒(源氏再興)を企てるも事前に発覚し追手を討ちて行方を晦ます。小次郎と意を同じくする越後・伊勢・下総の衆三百三十余名に及ぶ。この泉親衡の乱がロ火となり侍所別当和田義盛の乱起り、北条体制に不満を持っ相摸武士団が挙兵する(吾妻鏡より)泉小次郎の行方については諸説あるも、唯一川越市最明寺縁起に鎌倉退出後諸国を転々とした後、武蔵の国三芳野(川越市)の豊田源兵衛を頼り千寿と共に出家、名を静海と改め文永ニ年(一ニ六五年)八十八歳で没す。現在川越市小ヶ谷の墓所は戸泉氏を名のるニ十五代当主守れり。当寺裏山中央公園には、小次郎館跡・馬洗いの池と呼ばれる史跡あり。また隣接の須賀神社に守護神を奉斎、鬼門除けに神明社、守り本尊として滝の前不動尊を請したとの伝承ありここに祀りし板碑は南北朝時代(元徳・建武・康永・貞和・延文等)の墓石で豪族や武士が供養の為建立せしものにて古き歴史を物語る。この度長福十開創六百年を迎えるにあたり泉小次郎親衡の伝承を記すと共に有縁 無縁三界万霊安らかならんを事を祈念するものなり。」そして「長福寺」の直ぐ隣りにあった「須賀神社」を訪ねた。横浜市泉区和泉中央南4丁目18-14。社号標「須賀神社」。「横浜市地域史跡 泉小次郎伝承地---須賀神社--」碑がここにも。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「社殿」。明治の神仏分離までは牛頭天王社と称しており、現在も「和泉の天王様」とも呼ばれている。扁額「須賀神社」。広場から「長福寺」の山門と「須賀神社」の石鳥居を望む。「長福寺」境内の大銀杏も美しいのであろう。境内広場の石仏・石碑。左は「六道能化地蔵菩薩」であろうか。右の石碑横には「昭和八年吉日」と刻まれた石碑も。そして「長福寺」を出て右に折れると「宮沢果樹園」の見事な生け垣が。手前はモチノキの生け垣であっただろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.03
コメント(0)
「横浜市営地下鉄線ブルーライン」、「相鉄いずみ野線」の下をくぐり北上する。そして「左馬神社」に到着。境川沿いに多く見られるサバ神社の一社。祭神は左馬頭源義朝で、平安末期に飯田五郎家義が勧請したとも、小田原北条時代に領主川上藤兵衛が勧請したとも言われている。天正18年(1590)に領主となった筧越前守助兵衛為春(かけいえちぜんのかみすけひょうえためはる)は地域の鎮守さまとして信仰し、社殿を修復した。境内のイチョウは市指定の名木古木。他に堅牢地神塔・庚申塔などがある。横浜市泉区下飯田町1389。木製の一の鳥居。「鯖社境内払下記念碑」。二の鳥居脇には「供養塔」、「不動明王」?。「馬頭観世音」碑。「庚申塔」。石造りの二の鳥居の扁額は「左馬神社」。前方に社殿。境内の樹叢は神奈川県の風致保安林に指定されており、中でも横浜市の名木古木にも指定されている大イチョウは自然と畏怖の念を覚える迫力があるのであった。社殿創建は平安末期とも小田原北条時代とも伝えられ、以前は「鯖神社」と表記されたと。この付近には「鯖神社」、「左馬神社」、「佐婆神社」といろいろとあるのであった。扁額は「左馬神社」。「境内社」。そして再び「和泉川」に戻り「和泉川親水広場」を進む。そして和泉川沿いにあった「宝心寺」を訪ねた。寺号標「和泉山 松雲院 浄土宗 宝心寺」。台座階段部分含めた総高5m近く、先のほうに車輪のような石の輪っかがついていた。「車塔」とよばれるものだと。石の輪っかの下に「南無阿弥陀仏」の文字が。側面に歌が刻まれていルとネットより。『昨日みし 人はと問えば 今日は無し 明日は我が身も 人に問われん』『末遠く 思ふうちにぞ 近くなる 身のたねまきよ 日の暮れぬ間に』十八世住職の頃、明治四年に約60名の寄付者によって建立。「宝心寺と松平家宝心寺には、江戸時代の和泉村領主松平氏の墓があります。松平氏の先祖の光親(みつちか)が三河国額田(ぬかだ)郡能見に住んだことから能見松平を名乗り、その6代目が和泉村領主松平昌吉(まさよし)です。松平は徳川家に仕え、後に2000石余の領地を与えられました。旗本になった昌吉は慶安4年、和泉村に菩提寺として宝心寺を創建し、父昌利の墓を改葬して以後松平家の墓としました。境内には、岩舟地蔵、廻化地蔵(地域文化財)、大山道道標になっている庚申塔があり、また明治初期には和泉学校が置かれました。 泉区役所」。境内との石垣、そして立派な桜の木々が。「南無阿弥陀仏」と刻まれた無縁仏供養塔?であろうか。その後ろには、無縁仏となった古い墓石が集められていた。正面に白き「本堂」。「鐘楼」。近づいて。境内を進むと、古そうな石碑に、馬頭観音が刻まれていて…これが先程の由緒書きにあった大山道道標になっている「庚申塔」であっただろうかと?「故陸軍歩兵一等兵 勲八等 山村柳助之碑」。日清・日露戦争に従軍したが、明治38年5月20日清国鉄嶺の西方九里遼河の右岸籃楳保子にてコサック兵の襲撃にあい戦死された、本村和泉田中徳左衛門の二男・山村柳助さんの慰霊碑。昭和12年3月20日、遺族によって建立されたと。境内を更に進むと、フェンスがされている覆い屋が。「和泉廻化地蔵(いずみかいかじぞう)と岩舟地蔵尊(いわふねじぞうそん)」「和泉廻化地蔵和泉廻化地蔵と呼ばれる「安産子育諸願成就」の木像で金塗りの地蔵尊である。昔、この地蔵尊は三家から下和泉までの和泉町全城の各戸を、休むことなく一晩泊まりを原則に廻されて安産や子どもの健康を願いお参りされていた。赤ん坊を抱いて蓮華台に座ったお地蔵さんは、漆塗りのお厨子に安置され、幅約七十cm、高さ約九十cm、の背負式のお堂に納められ、後部の背負いひもで背負って隣家に廻した。春と秋のお彼岸には廻って当たった家を宿として、和泉全域の地区世話人がお賽銭を集め、ご詠歌連も加わって賑やかに供養したものであった。お堂の横にはよだれ掛けやぼうしなどが作って下げられ、また「奉納南無廻化地蔵尊・住所・子供の名」が書かれた赤や白の一m程の幟旗(のぼりばた)が宿の道案内に各所に立てられた。供養当日配られるお札地域住民の増加と共に次第に廻すことが困難になったので、昭和四十六年秋に取り止めになった。翌年春、宝心寺の住職の計らいもあり、四百数十戸の寄付により、境内の岩舟地蔵尊のお堂を建て替えてそこに並べて安置することになった。また、供養当日配られるお札を印刷した版木の裏には、「明治三庚午年四月日、十六世長福寺文道拜写」とあり、明治三年に版木を作り替えていることからも、この信仰が江戸時代から続いていたことがわかる。春秋の彼岸に供養していた和泉廻化地蔵尊も、昭和四十七年にお堂に安置されてからは、岩舟地蔵尊と共に宝心寺の住職を中心に、春の彼岸に賑やかに供養されている。」「岩舟地蔵尊岩舟地蔵尊(舟乗り地蔵尊)は、長さ一mの石造りの舟の上に起立している。今から二百数十年前の享保年間に下野国岩舟山高勝寺より伝えられたと思われるもので、台座の石の舟には「享保四巳亥年十月二十四日 岩舟山相州和泉村念佛供養」と彫られている。また、この地蔵尊は、こぶやいぼ取りの信仰もあって、額などにこすってくぼんだ跡が見られる。」「横浜市指定有形文化財(石像建造物)岩舟地蔵尊所有者 宗教法人宝心寺時代 江戸時代寸法 総髙一ニ三・五像高 七九・五cm舟全長 九七・〇cm 岩舟地蔵像は、石彫の舟に乗る地蔵菩薩立像で、舷側に「享保四己亥年 相州和泉村 岩舟山 念佛供養 十月ニ十四日」の刻銘があり、この石像が栃木県下都賀郡岩舟町の岩舟山高勝寺の地蔵尊を奉請供養したものと知られています。享保四年(一七一九)、岩舟山地蔵尊の信仰が一時に昂揚して、関東及びその周辺にまで広まり、各地で念仏衆の信仰によって石仏が造立供養れました。当時の岩舟地蔵像はそれらのうち最も早く造立されたもののひとつとして、貴重な石造文化財です。」境内にあった「名木古木指定 イトヒバ」。寺務所であろうか。「手水舎」。「閼伽(あか)」の文字が刻まれていた。ネットで調べて見ると「仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。 サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水(くどくすい)と訳される。」と。現在の仏壇にお祀りされている物は、水、花、線香、ご飯、ロウソクの五種類が一般的ですが、お大師様はこれに塗香(体に塗る香)を加えた六種類のお供えが大切であるとのこと。そしてこれら六つのお供え物は、一、閼伽(水)二、塗香(体に塗る香)三、華鬘(花)四、焼香(お線香)五、飲食(ご飯)六、灯明(ロウソク) でこれを「六種供養」と呼ぶと。 「本堂」宝心寺のおこりは、泉小次郎が菩提寺として建立した泉竜寺という禅寺であった。小次郎の末孫が絶え堂も大破してしまったのを領主の松平勝左衛門昌吉が慶安四年(一六五二)浄土宗として建立し、昌吉の法名「松雲院殿業蓮社定誉法心庵燈居士」から松雲院宝心寺となった。現在の堂宇は、昭和四十四年に再建されたものである。境内には昭和四十九年に横浜市の名木古木に指定された数本の大木が立ち並んでいる。扁額「和泉山」。左手の墓地への入口。完全防備の地蔵尊九体がマスク姿で。コロナ終息、仏の力で-。境内の地蔵が愛らしいマスク姿で並び、新型コロナウイルスの感染拡大防止を祈っていたのであった。墓地の奥の方、「本堂」の裏に進むと、石積みに囲われ整備された墓域があった。ここが「旗本能見松平家の墓所」。能見松平家の墓域に入らせていただいて。墓域入口正面の墓石(写真右)は大きくて、供花もされていたが。反対方向からも。墓石には、立派な長い戒名が刻まれていたが、どなたになるのか、判明せずに。「横浜市地史跡 旗本能見松平家(のみまつだいらけ)の墓所和泉山松雲院宝心寺のおこりは、鎌倉時代の武将泉小次郎が菩提寺として建立した泉竜寺という禅寺です。その後、小次郎の末孫が絶え、廃寺となり、慶安四(一六五一)年に、鎌倉郡和泉村の領主てある松平勝左衛門昌吉が、再建しました。松平勝左衛門昌吉は、次郎左衛門光親に始まる三河国能見松平家の六代目で、宝心寺を開基した際に能見の観音寺から五代庄右衛門昌利の墓を宝心寺に移しました。以後、ここには五代(但し墓石は確認出来ない)・六代(昌吉)・七代(昌秀)・八代(昌永)・九代(甫昌)・十代(親喜)・十一代(光寛)・十ニ代(親遂)・十三代(光福(親福) )・十四代(親鈞)・十五代(光哉)までの歴代当主とその妻などの親族の墓石など計21基(五輪塔を入れると22基)があり、「宝心寺の殿墓」と呼ばれています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.02
コメント(0)
「四ツ谷の石仏」を後にし、環状4号線の「赤坂橋」交差点に向かう。「赤坂橋」交差点手前にあった小さな社。「赤坂橋」交差点の工事の際に近くから移設されたのであろうか。横断歩道を渡った「赤坂橋」交差点角に案内板が立っていた。「中和田小学校南部分教場跡この地は、中和田小学校の前身の中和田小学校南部分教のあったところです。明治六年頃、中田村に中田学舎、上飯田村に飯田学舎、和泉村には和泉学舎が置かれ、和泉村と下飯田村の子どもは和泉学舎で学びました。明治八年、学舎は学校と呼ばれるようになり明治十五年の記録によれば、和泉学校には上泉分校と四谷分校があったことがわかります。明治二十二年、中田・和泉・上飯田・下飯田の四ヶ村が合併して中和田村となり、翌二十三年には中田学校、飯田学校、和泉学校の三校も合併して中和田学校になりました。中和田学校は、明治二十五年一月に、地蔵原(現在のJA横浜和泉支店)に本校として新築移転し、中田に東部分教場、上飯田に北部分教場、そしてこの地(字鍋屋九七三番地、現在この地の大部分は環状四号線の道路敷地となっています)に南部分教場が置かれました。案内板の写真はこの頃の南部分教場の写真です。大正五年頃には、南部分教場は、二教室複式学級で、尋常小学校一年生から四年生まで百二十二名の子どもが学んでいました。南部分教場は、大正十年、現在の中和田南小学校のある字赤坂九八七番地に、建物の柱などをそのまま移転し、昭和四十三年に中和田南小学校として独立するまで、南分校(南部学校)と呼ばれ、親しまれてきました。」明治から現在までの「学び舎」の変遷。明治25年頃の南部分教場の写真。そして「下飯田」交差点を右折し「東泉寺」を訪ねた。以前は境川沿いにあったが、度重なる水害で、天正18年(1590)頃、当地の領主の筧為春(かけひためはる)によって移転されたと伝えられている寺 と。曹洞宗で鎌倉龍宝寺の末寺。山号を巨木山(こぼくさん)と称し、山門前の大イチョウは市の名木古木に指定されている。また、境内の薬師堂には飯田五郎家義の守本尊と伝えられる薬師如来像のほか、相模国準四国八十八ケ所五十九番札所の弘法大師石像が安置されている と。「禅 曹洞宗巨木山 東泉寺」寺号標。東泉寺の門前は鎌倉道(上之道)。鎌倉と越後、信濃、上州と結ぶ古道で、江戸時代には鎌倉街道と呼ばれた。参道の石段そして山門が前方に。「相模国準四国八十八ケ所 第五十九番札所」碑。山門前の樹齢四〇〇年ともいわれる一対の大イチョウは市の名木古木に指定。「名木古木指定 イチョウ」。「東泉寺本堂再建記念碑」。本堂は、大正12年9月の関東大震災での倒壊後、再建されたものだと。「山門」には禅の言葉が書かれていた。「吾唯知足而(われただたるをしりて)」意味は『わたしは、満ち足りていることだけをしっている。』不満を感じず満ち足りた気持ちを持つことが大事だと、そんな意味がこめられた言葉であると。位富楽安穏 ( ふらくあんのんにいく ) 『心が豊かで安穏としていて、天上ではなくこの世界にいても安楽を得ることができる。』すなわち「足る事を知る人は不平不満が無く、心豊かであることが出来る。足るを知ることは、欲望が制御され、煩悩妄想による迷いも消え、心清き態でおれる。逆に、足ることを知らぬ者は常に不満足の心が支配し、例え冨があったとしても、不平が多くその心は貧しい。」との禅の言葉であると。扁額は「巨木山(こぼくさん)」。「天明門縁起天明三年(一七八三)七月ニ十三日建立。当山十一世春長義天大和尚普山の年。屋根裏の書付によれば、この年、浅間山が噴火して、当地にも昼夜地震が八日間、雨天が一ヶ月も続いたとのこと。各地で飢饉に見舞われ、多くの被害者が出たため、世の平安を願ってこの山門が建てられた。この世情を記したのは、色蕉門下、春秋庵白雄の門人で後に大磯鴫立庵にも関わった当地の俳人、美濃ロ春鴻(露柱庵)で、佛句五首も肘木に記してある。句碑にある「人もかく老て秋たっ眉毛哉」は、春鴻四十九歳の自筆である。平成五年(一九九三)に、中和田建設株式会社(加質宏子社長)の寄進により修復再建。解体工事に際して右記のことが判明。柱の聯は、大川武夫氏寄進。当山廿七世慧雲宗孝大和尚の揮毫で「吾知足而位富楽安穏」とあることより、別称「知足門」ともばれている。山号額「巨木山」は、宗孝和尚の本師、品川海震寺野口蓮生師の揮毫で、福島栄子氏により修復寄進された。」「本堂」開創は不明であるが、当地の言い伝えによれば、以前は境川べりにあり、川の氾濫により再三流されたため現在の地に移されたといわれている。もとの土地は、「寺分(てらぶん)」という呼称で下飯田町四九〇番地付近に今なお一部が残っている。中興開基(復興の祖)と呼ばれる人は旗本の筧助兵衛為春であり、天正十八年(一五九〇)より知行地として当地を治め、間もなくこの寺を再興したと思われる。なお、同時期に薬師堂も境内に移転している。「東泉禅寺」の扁額は、明治三十一年に、当時の名僧として誉れ高かった、鎌倉円覚寺管長、釈宗演(しゃくそうえん)禅師によって書かれたものであるとのこと。可愛い地蔵さんと犬も仲良くもマスクを着けて。「薬師堂」👈リンク。「薬師堂」は、鎌倉時代の当地の地頭職飯田五郎家義が、字本郷の通称「薬師薮(やくしやぶ)」(下飯田町一三七一番地)と呼ばれる所に建立したことに由来する。山田豊次郎著『中和田史話草案』によれば、飯田家義は鎌倉二階堂にあった永福寺(ようふくじ)薬師堂の薬師如来を信仰しており、社寺のなかった飯田の地に、この薬師如来を勧請して薬師堂を建立したとされている。「堂内に安置されている薬師如来は、鎌倉時代、飯田五郎家能が信仰し、武運や災害、人々の平和と安寧を祈願して参りました。コロナ禍が心配される中、この度守護神十二神将を勧請いたしました。」「人もかく 老て秋たつ 眉毛哉」が刻まれた石碑。江戸中期に活躍した俳人で同寺とゆかりのある、美濃口春鴻(みのぐちしゅんこう)の句。石仏が並んでいた。墓石群。中央に「飯田五郎家義供養塔」👈リンク。平安末期に、この地を治めていた飯田五郎家義は、治承(じしょう)四年(一一八○)、源頼朝が兵を挙げたとき、平氏側大庭景親(おおばかげちか)らの兵とともに、石橋山の合戦に参じたが、多くの相模武士団の若武者と同様に、源氏の再興を望んでいたと思われる家義は、意を決し、頼朝軍の味方をした。また、合戦の際に頼朝が紛失した数珠(じゅず)を家義が拾って届けたところ、頼朝は大いに喜んだ。家義は随行を申し出たが、敗走に際して目立つといけないという土肥実平の進言から、涙ながらに別れたということが『吾妻鏡』などの史料に記録されている と。「薬王院殿家興順能大居士」の戒名。「延命菩薩」。ズームで。そして隣接していた「琴平神社」。水難除け治水の守護神を祀った琴平神社は、江戸期には東泉寺が別当を務め、飯田の金毘羅様として親しまれてきた。明治2年(1869)の神仏分離令によって、大物主神と崇徳天皇を祭神とする琴平神社として独立している。境内には天満宮、八坂神社などが祀られていた。横浜市泉区下飯田町742。石灯籠の扁額にも「琴平神社」。石灯籠にも瓢箪の彫刻が。「琴平神社」境内から「東泉寺」の「本堂」、「薬師堂」を見る。道祖神・庚申塔群であろう。この石碑は?「琴平神社」の「社殿」が階段上に。「琴平神社」👈リンク の「社殿」。琴平社は、当地の領主寛助兵衛為春が天正18年(1590)に菩提寺として東泉寺を創建、東泉寺鎮守及び字元木の鎮守として当社を勧請したと。祭神は大物主神、崇徳天皇。扁額「琴平神社」。境内社の「八坂神社」。扁額「八坂神社」。そして「琴平神社」の近くの道路沿いの石垣の窪みに安置されていた「双体道祖神」。「双体道祖神(そうたいどうそじん)道祖神は、厄除、災害の防止や子孫繁栄を祈願するために村の守神として主に道の辻に祀られてきた民間信仰の石仏です。地域に災いが入り込まないようにという意味で'塞の神、道陸神などともいった。この道筋は、「鎌倉上之道(かまくらかみのみち)」と呼ばれる主要古道であったため、旅や交通安全の石仏としても信仰を集めたものと思われます。また正月の民俗行事の一つである道祖神祭りの「さいと焼き」は、セイトヤキ、・ドンドヤキ・ダンゴヤキなどとよばれて、この道祖神の前で昔から盛んに行われてきました。ここに祀られてい男女和合と村の平安を願った双体道祖神は、泉区内では数が少なく、貴重な石仏であります。(文・郷土の歴史を知る会)多くの花が手向けられて。道を戻り南下していくと正面の窪地の青いパネルの前に石碑が。横浜市泉区下飯田町636付近。これも「双体道祖神」のようにも見えたが。横浜市泉区下飯田町 636付近。更に進み「下根広町線」を渡った場所にあった小さな稲荷神社。横浜市泉区下飯田町 650近く。そして横浜市営地下鉄方面に北上して次に訪れたのが「富士塚公園」。横浜市泉区下飯田町1015-1。大きな石碑には「富士塚」の文字が。「富士塚公園」何子供たちの姿はなく。「富士塚城址」と刻まれた大きな石碑。この碑の裏には「ここは源頼朝延命の恩人飯田五郎家義の館跡の地である。治承四年(一一八〇)四月頼朝関東に挙兵、僅か三百余騎で石橋山に陣を構えたが、一夜大庭景親伊東祐親の軍三千三百余騎の夜襲を受け惨敗した。家義は景親に追われ、すでに危うく見えた頼朝を救い、夜陰風雨の中を箱根山に導き、厳しい敵の目をくぐり奇蹟の安房脱出に成功させた。さらに同年十月、頼朝の黄瀬川出陣に従い、平維盛数万と対戦した時、一子太郎は射殺されたが奮戦して怯まず、敵伊藤小次郎を追い、その首級を頼朝に献じた。「前にはわが命を救い、今また戦功をなす、本朝無双の勇士なり」と賞され、この地を与えられた。家義は鎌倉に近い相模野の要地に館を定め、一族の墳墓とした。以来この地を飯田と称し、さらに中田、和泉を含めてその一字づつをとる中和田は、現在小中学校の校名として残っている。」と刻まれていると借りて来た本から。「富士塚城址公園建設賛助者芳名」碑には400人にも及ぶ名前が刻まれていた。「富士塚公園公園の周辺は、源頼朝が石橋山に兵を挙げたとき、平家側関東総大将大庭景親に従いながら、頼朝を助けた飯田五郎家義の館があったといわれるところで、公園には富士塚城址碑が建てられています。明治32年、五輪塔や納骨瓶の出土を機に家義を偲び公園裏の竹藪に「古賢大菩薩」の石塔が建てられました。近くの東泉寺境内には「薬王院殿家興順能大居士」と刻まれた家義の供養塔や家義ゆかりの薬師堂があり、薬師如来像にまつわる伝説も残っています。」「古賢大菩薩」の石塔が近くの竹やぶの中に建てられたとあったので探しに行く。倒れた姿の石碑を発見。「奉納古賢大菩薩」の文字が刻まれた石碑。「明治三十年四月二十五日再建」の文字も。こちらにも「奉納古賢大菩薩」の文字が刻まれた石碑が。昭和五年一月一日 と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.01
コメント(0)
そして環状4号線・横浜市主要地方道18号沿いにある「密蔵院」を訪ねた。横浜市泉区和泉町727。寺号標「高野山 真言宗 南竺山 正覚寺 密蔵院」高野山 真言宗寺院の密蔵院は、澄貴(寛永16年・1639年寂)が開山となり創建したと。「寂」とは涅槃(ねはん)に入る。仏教の僧が死ぬこと。しかし開山は祐海法印で1500年代前半であるとの説もあるようだ。旧和泉村内の神社や石仏、それに出羽三山講の先達としてその名を刻まれているから、かつては和泉村の民間信仰の中心役を務めていたと。 門前の文政4年(1821)建立の「南無大師遍照金剛木食観正」と刻まれた「木食観正(もくじきかんしょう)碑」。江戸時代後期、小田原を拠点に、加持祈祷(かじきとう)などしながら関東地方へ布教し、弘法大師の再現と世間の評判となった1人の民間宗教家が「木食観正」。木食とは、木の実や果実を食べ、米や野菜を常用しない修行を意味し、また、このような修行を守る遊行(ゆぎょう)僧で、一般に僧侶としての資格を持たない、民間の下級宗教者のことでもあったのだと。石碑の最上部の文字は梵字の「ア」であるとのこと。大日如来をさし、すべての最初という意味のある言葉であると。密教の主要な瞑想法である「阿字観」で「ア」が本尊とされることから、極めて重要な梵字であることがわかるのだと。褝宗では仏像などの前で座する「褝」になるが、真言宗における瞑想は阿字観になり、「阿」と書かれた梵字の前で瞑想すると。褝は何も考えず、ひたすら無心で座るが、真言宗は大日如来の世界(宇宙)と一体化するべく真理を追求しながら瞑想するのだと。 【https://kotodama-shodou.com/1753/】よりその下に「南無大師遍照金剛」、「木食観正」と刻まれているのだと。掲示板には「ありがとうの一言が幸せの扉を開く」と。参道の石段を登る。正面に本堂。「本堂」。御本尊は願行作とされる「不動明王」。扁額「南笠山」。「本堂」破風?の彫り物。「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」。修行大師の像。「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場 参詣作法お寺の名前の下の丸い筒の中に夫々のお砂か人っています。合掌なされて、南無大師週照金剛乂はお願い事を一心に念じ乍、一番より順に八十八番までお巡り下さい。最後にお大師様の正面で「南無大師遍照金剛」とお唱え下さい。どなた様もどうそご自由にお詣り下さい。」私の「四国八十八ヶ所遍路旅」👈リンク は2018.03.30に「結願」したのであった。「四国八十八ヶ所 霊場地図」で四国の地図の中に八十八ヶ所の寺の位置が示されていたが・・・・木々が御影石に映り込んでしまい・・・。境内の「稲荷大明神」。扁額「稲荷大明神」。「稲荷大明神」の「社殿」。「鐘楼」は茅葺き。「梵鐘」。「南無大師遍照金剛」と刻まれていた。境内の黄色の蠟梅も開花して。素心蝋梅(そしんろうばい)であろうか。蝋細工のような花で、芳香が周囲に。12月から2月ごろ、冬枯れのなか、葉の展開に先立って花を咲かせていたのであった。鐘楼横には宝篋塔、板碑などがきれいに並べられていた。ネット情報によると写真向かって右から。「建立年不明の宝篋塔(台石の裏側に宝篋塔と刻まれてます)。その横後方、元禄十四年(1701年)阿弥陀如来。手前が板碑、板碑横後方が宝永六年(1709年)合掌した地蔵(と思える)。横手前、元禄四年(1691年)阿弥陀如来。横後方、天和三年(1683年)阿弥陀如来。横手前、慶安元年(1648年)の蓮を持つ聖観音(たぶん)。横後方、慶安二年(1649年)如意輪観音。横手前、建立年不明の合掌した地蔵(と思える)。横後方、貞享四年(1687年)右手に錫杖、左手に宝珠を持った地蔵。」とのこと。新装なった寺務所・庫裡・客殿であろうか、立派な大きな建物が「本堂」の右手に。境内の階段上から見下ろす。環状4号線により境内が分断されてしまった事が判るのであった。昔境内にあった銀杏の老木が環状4号線の先の左手で寂しそうに立っていたのであった。今は石段の下から「本堂」の屋根が見えたが、道路が開通する前は、鬱蒼とした木に覆われた急な長い石段の参道があり、寺の「本堂」姿が全く見えなかったのであろう。そして次に訪ねたのが「和泉川」の対岸にあった「稲荷社」。横浜市泉区和泉町966近く。鍋屋の森内にある「稲荷大明神」。小さな「本殿」。「密蔵院」の裏を北に向かって進むと、下和田二丁目の外れにあった小さな社。社の隣には「密蔵院」入口の案内柱が立っていた。横浜市泉区和泉町696-11。神社の先の小さなT字路の角にあった「庚申塔」。横浜市泉区和泉町698-4付近。その先のY字路の「庚申塔」横浜市泉区下和泉5丁目11-19付近。日露戦争に従軍し、明治37年8月22日、清国盛京省の寺児溝西方で戦死された「入内島元治郎」さんの慰霊碑。そしてその隣に小さな堂に納められていた「双体道祖神」。横浜市泉区和泉町1500-4付近。そして北に向かい近くの矢澤家の見事な生け垣の前を歩く。ここの防風用の生垣は、2種類の樹木によって2段造りになっていた。下部は2mほどの高さまで常緑の低木のツゲを、その上には常緑の小高木のモチノキを10mほどの高さまで配していた。側面を垂直に、上部を水平に刈り込んだ緑の壁は、延べ70mにも及んでいるのであった。生け垣からの屋敷内への脇入口。そしてこの場所からは2段でなく、ツゲの木とモチノキが交互に。正面に「矢澤家」の立派な墓地が。右に折れたその先にも小さな神社が左手にあった。そして引き返して、直ぐに右に折れ、細い急な坂道を下って行き、次に訪ねたのが「第六天神社」。横浜市泉区和泉町785。石鳥居と参道の石段。鳥居の扁額「第六天神社」。「第六天神社」という名前の神社はかつて無数にあったが、今は数えるほどしか残っていないのだと。鳥居奥にある狛犬と参道の階段。「第六天神社と酒湧池(さくわくのいけ)鎌倉幕府以前からこの地に祀られているといわれている古い神社です。祭神は「面足能命(おもてたるのみこと)・惶根能命(かしこねのみこと)」のニ柱です。境内の隣には池があり、弁天様が祀られ、弁天池と呼ばれています。親孝行の息子がこの池の水を樽に汲んで病気で酒好きの父に飲ませたところ酒になり、それを知った村人が一儲けしようと池の水を汲んだところ、ただの水になったという「孝子伝説」👈リンクが残っています。」昨年訪ねた千葉・酒々井町にあった「伝説 酒の井」👈リンクにも同様な伝説が残っていたのであった。「社殿」を斜めから。正面から。勧請年代は不詳であるが、鎌倉開府以前からの社と伝える。社前の道は古鎌倉道という伝承があり、近くに陣屋敷、御畝、隠忍坊などという地名が残っている。また社殿の傍らに酒湧地または弁天池と呼ぶ泉があり、孝子伝説を伴っている。和泉町の地名もこの泉から出たという。社伝には延宝年間、領主松平五郎兵衛甫昌の崇敬、社参を伝える。第六天神社の左側の坂道を上って、社殿の裏手に進むと、右側に「酒湧池」の案内が。竹で作られた垣根の間の急な階段を下っていくと「酒湧池」が現れたのであった。「和泉町」の町名の起源はこの池だとも言われているのだと。次に「稲荷神社」を右手に見る。横浜市泉区和泉町1393-3付近。そして「四ツ谷の湧水」付近の和泉川。「四ツ谷湧水」と書かれた案内柱。この日は「四ツ谷湧水」には湧き水の流れはなかった。湧水があれば・・・(ネットから) 【http://tottokocubtaro.seesaa.net/article/107742273.html】より「和泉川」に架かる「草木橋(くさきはし)」。横浜市泉区和泉町 2338 番地 2付近。「魅力発見 泉区散策 ガイド」。現在地は中央の5「四ツ谷の石仏」。そして「草木橋」を渡り東に進むと突き当りに「石仏群」が。近くに平安時代の住居址を中心とする草木遺跡があるのだと。「四ツ谷の石仏」。横浜市泉区和泉町2267。左から、宝篋印塔(ほうきょういんとう)残欠(年代不明)、道祖神塔(明治3年・1870)、地蔵庚申塔(寛文10年・1670)、出羽三山供養塔(文化2年・1805)、石祠(年代不明)などであると。ズームして。そして150mほど南に行った場所にあっ庚申塔。劣化が激しく・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.31
コメント(0)
旧横浜ドリームランドにあった「春日大社」を後にし、「境川」に向かって坂道を下って行くと、「神明社」手前の畦道のT字路にあった2基の石碑。左手の「道祖神」は昭和57年(1982年)銘。横浜市戸塚区俣野町1271。右手に「農地環境整備記念碑」。「農業生産基盤の整備を実施生産性の向上と農業環境の改善を図るため昭和四十七年より二ヶ年に亘り本事業を実施せり」と。そして「俣野神明社」。横浜市戸塚区俣野町1270。「俣野神明社」は、宝暦十年(一七六〇)四月三日の創建である。文政三年二月、明治八年九月それぞれ社殿を改築したが、昭和五十二年九月更に改築を加えて、従来の茅葺屋根を鋼板茸とし、堂舎の面目を一新した。祭神は天照皇大神。例大祭9月19日。狛犬(左・吽形像)。狛犬(右・阿形像)。本殿の横には小さな朱の境内社「稲荷社」が。「神明社」を北に進んだY字路にあった3基の「庚申塔」。左は、笠付庚申塔であるが年代不明、真中のものは、昭和43年-明治満百年とあり、右側面に「至 長後厚木」左側面に「至 藤沢戸塚」と刻印されていると。3基の台座には、右 至 飯田村 と刻まれていると。そして「境川」の堤防上を上流に向かって進む。前方に見えて来たのが「旧俣野堰」と「境川遊水池情報センター」。横浜市泉区下飯田町5−5。ここから横浜市戸塚区⇒泉区に入ったのであった。「境川 俣野遊水池」。境川の治水のために1990年度から神奈川県藤沢土木事務所が総合治水対策「かながわSafetyリバー50」に基づいて着手した俣野遊水地、下飯田遊水地、今田遊水地を県立公園として整備している。当公園で境川に和泉川が合流する。公園の設置は2004年度から事業に着手し、現在、俣野遊水地と下飯田遊水地の一部を開園している。指定管理者は、財団法人神奈川県公園協会。中心管理施設として「境川遊水地情報センター」が設けられている。「境川遊水地情報センター ・境川の自然や遊水地の仕組み・役割などを紹介する展示コーナーや会議室を備えている 情報発信・交流の拠点。 ・公園の利用案内、少年野球場や会議室などの施設の利用申し込み、公園で行う自然観察会等の 受付窓口。 ・公園管理と共に水防時の管理機能を備える。「俣野遊水地」、「下飯田遊水地」周辺案内図を県立境川遊水地公園公式サイトより。現在地は①境川遊水地情報センター上記の地図の右側に続く「今田遊水地」周辺案内図を県立境川遊水地公園公式サイトより。。エントランスホール内の展示品。「境川遊水地に出現した地層」。遊水地の整備工事に伴い出現した地層の、7mにも及ぶ貴重なはぎ取り標本やウラカガミ(二枚貝)の化石を含む、12.5万年前の下末吉海進期にできた地層の化石ブロックを展示していた。「境川遊水池の魚たち」。遊水地周辺の水辺の生き物を飼育・展示している120cm水槽と90cm水槽。私の姿が映ってしまいましたが。鮒(ふな)でしょうか。「境川遊水地 いきものMAP」。「境川遊水地公園に飛来したコウノトリの軌跡」。2014年10月12~15日に飛来したのだと。4日間は確認できたが、その後の飛来は確認できていないのであろうか?翌16日には静岡県焼津市まで移動したと言うこと??「境川の特徴城山湖付近を源とする境川は都県境を南下し、町田市の南端から横浜市と大和市や藤沢市の市境を流れ、江の島付近で相模湾に注いでいます。流域の概要流域面積:210.69km2流域延長: 52.14km流域関連市町村:6市(横浜市、町田市。鎌倉市、藤沢市、相模原市、大和市)※流域とは、地上に降った雨があるひとつの川に流れ集まる範囲を言います」。「俣野堰の変遷の写真」。「1961年の俣野堰(59年前)」この頃の私は、家の近くにプールが無かったため、この堰に溜まった上流側の水場をプール代わりに利用して幼友達と遊び、ここで泳げるようになった事を懐かしく想い出したのであった。1990年(30年前)。この状態の後、ゲートを締めると川の水が溢れ出てくるまでゲートの下流は、水の供給がしばしなくなり、凹みに鮎が取り残されているので、これを捕まえて塩焼きにして食べた事も懐かしく想い出したのであった。1998年(22年前)。そして平成19年(2007)頃の写真であろうか?この頃は、ゴム引布製のチューブに空気を注入・排出することで起伏させる堰・ゴム引布製起伏堰(ラバーダム、バルーンダム)であった事も想い出したのであった。そして遊水地の完成と共にこの堰は無くなったのであった。昭和60年(1985)当時の航空写真。広大な水田が広がっている。赤い線で囲まれた三か所が現在は遊水地となっているのだ。平成19年(2007)の航空写真。今田遊水地はまだ水田跡が残っている。境川遊水地は、俣野遊水地、下飯田遊水地、今田遊水地の3つの遊水地によって構成され、合わせて約30haの広さを有し、最大で約104万m3の洪水を一時的に貯留することで、藤沢市中心部など下流域の洪水被害の軽減を図っているのだと。104万m3と言われてもピンと来ないが、確か東京ドームは124万m3だったと。そして「俣野遊水地」にある「少年野球場」と「境川遊水地情報センター」を見る。「境川遊水地情報センター」を後にし、「天王森泉公園 くわくわ森」に向かって進む。天王森泉公園(泉区)入口三叉路(俣野町)の庚申塚。左:庚申塔(安永5年(1776年)銘)、中央:庚申供養塔(昭和43年(1968年)銘)、右:庚申塔(弘化3年(1846年)銘)。「天王森泉公園 くわくわ森」の入口の一つ。「天王森泉公園」は和泉川沿いに広がる水田,それを縁どる斜面緑地が昔懐かしい農村の面影を今に伝える泉区の南部。台地の崖線から湧く豊富な湧水をいかして、流域には20に上る製糸場が営まれた歴史を持ちます。清冽な湧水にはホタルも棲息し、かつては谷戸中を乱舞したと。「くわくわ森」は、昔この近辺の農家の薪や炭、落ち葉の堆肥を作るためクヌギ、コナラを植樹した薪炭林でした。横浜市から管理委託されたボランティア活動によって四季を感じられる森となりました。 散策はもちろん、植物、昆虫、野鳥観察には手頃な広さであると。 道路脇の「ミツマタ」。花もこれから開花。これが横浜市泉区から発行されている「泉区散策ガイド 水と緑と歴史の散歩道」👈リンク。この日は、下記のピンクと緑の散歩道を左右に行ったり来たりして周遊したのであった。そして「天王森泉館(てんのうもりいずみやかた)」を訪ねた。横浜市泉区和泉町300。入口横にあった「天王森泉公園」案内板。「天王森泉公園和泉川沿いに広がる水田とそれを縁どる斜面緑地が昔懐かしい農村の面影を今に伝える泉区の南部、台地の崖線から湧く豊富な湧水をいかして、流域には20に上る製糸場が営まれた歴史を持ちます。清冽な湧水にはホタルも棲息し、かつては谷戸中を乱舞していました。その一角に雑木林を主体とした面積約35haの面積を持つ本公園があります。正面には製糸場の本館が再生され、今でも水が湧き出ています。」「天王森泉館」。「旧清水製糸場本館 天王森泉館」案内板。「この建物は、1911 (明治44 )年ごろ和泉町内に建てられた市内に残る唯ーの製糸関連施設の遺構で、かっての製糸場を移築して当地で住宅に使用されていたものを公園施設として1997 (平成9 )年に復元しました。建物の特徴は明治期の近在農家に見られた四つ間取りを基本とした木造ニ階建てで、座敷を続きで取る新興産業資本家層の典型的な住宅形式が伺えます。平成10年1月、横浜市歴史的建造物に認定されました。」旧清水製糸工場は大震災などで廃業したが、建物自体は近くの人に買い取られて、住居として現存していたのだと。公園が計画される際、持ち主から市に譲り渡されたと。 「本館正面。向かって左側が復元されました。右側の一階は繭選り場と食堂で二階は女工の宿舎でした。」「本館の後ろに続くエ場内部の様子。通路をはさんでニ列に並んで作業しています。」指定管理者は「天王森泉公園 運営委員会」のようであった。玄関から内部を見る。左手に二階に上がる階段が見えた。玄関付近は板の間構造。和室。縁側。外から見ると、独特の歪み、いや「ゆらぎ」のあるガラス戸を懐かしく見る。輸入品の昭和レトロガラス「レトロン」であろうか。「旧清水製糸場本館 天王森泉館」を後にし、北に進むと右手の山の斜面にひっそりと建っていたのが「辨財天」。ネット情報によると、この後訪ねた高野山真言宗の「密蔵院」が管理している「辨財天」であるとのこと。「辨財天」を通過して進み右に折れ坂道を上っていくと右側にあった「石仏群」。横浜市泉区和泉町287。石仏や庚申塔(右側)をズームで。五輪塔には栗が奉納されていた。石仏や庚申塔(左側)をズームで。更に進むと三叉路にも「庚申塔」。横浜市泉区和泉町357-2。横浜市の汚水マンホール蓋。横浜のシンボルであるベイブリッジを中心に据え、周囲を船の操舵輪でデザインし、「のびゆく港・未来」を表していると。旧横浜ドリームランドの北側に建つ「ドリームハイツ」を見る。下和泉交差点の手前に到着。左-泉中央、右-原宿下和泉交差点の「庚申塔」地神塔-文政12年文字-弘化4年、「下和泉村」。そして「鍋屋鯖神社」を訪ねた。横浜市泉区和泉町705。「鍋屋鯖神社」は、慶長年間(1596-1615)、当地の郷士清水・鈴木の両氏が氏神として勧請したと伝える。元禄二年氏子住民の浄財で社殿の修復が行なわれたが、天保七年五月には神祇管領卜部良長が京都から参向奉幣し、「鯖大明神」の額を奉紳している。往古から氏子の篤い崇敬を集めていたと同時に、格式ある社であったことが知られる。「本殿」。祭神は左馬頭源満仲。扁額は「鯖大明神」。ここの神社の“さば”は魚を表す“鯖”の字を冠している。馬匹の監督・管理を指す「左馬」が、当て字とはいえ「魚」になってしまった。どうしてだろう? 資料の読み込みや伝承を調べていると「かつて境川が氾濫を起こし、水が引いたら辺りの木々に鯖がたくさんかかっていたから」という記述あった。だから「鯖」神社。しかし民俗学者の柳田國男氏(1875~1962)の説もあると。海岸の住民が魚を捕って、これを内陸の農産物などと交易に行くのには、昔は境の神を祭り魚を供へる風があった。漁民たちが鯖を、境の神に供えていたのだと。真相は如何に?紫の----が鎌倉街道上道。鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉へ馳せ参じた道である。各地から鎌倉を結ぶ街道は関東地方に限らず、ほとんどが鎌倉街道と呼ばれたという。街道は古代の官道や地方道を繋いだり、不足部分は幕府自体が建設したりして造られた。江戸時代に五街道を始め街道が整備されると、その役割を終えたが、中世から江戸期にかけて政治的、文化的に果たした役割は大きい。 鎌倉街道と称される枝道などは数多くあるが、主要な道としては上道、中道、下道の3本の道がある。その内、この日に歩いたのが「鎌倉街道上道」で鎌倉から化粧坂を越え、武蔵西部を経て高崎に至り、信濃、越後へ抜ける古道である。再び「鎌倉街道」案内図。 【http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/kamakura/uemiti/kamakurauemichi1.html】よりこの日に歩いたのが横浜市戸塚区・泉区の境川沿いの「鎌倉街道上道」👈リンク の---の部分。「鯖神社」は横浜市瀬谷区に1、横浜市泉区5、大和市2、藤沢市3の11社あると。それに法人化されていない社が藤沢市に1社ある。これで数は12社。これらすべてが境川流域に建てられているのだ。(江戸時代まで東俣野、現在の横浜市戸塚区俣野と東俣野を合わせた地域にもう1社が存在していたそうだ)そして「さば神社」の“さば”とは、古い官職で左馬頭(さまのかみ)を指す。左馬頭とは馬や馬具、牧など馬匹(ばひつ)に関するすべてを司る左馬寮(さまりょう)の長官のことを言う。祀られているのは平安末期の武将で、左馬頭だった源義朝(みなもとのよしとも)、あるいは源満仲(みなもとのみつなか)。「サバ神社」のリスト。👈リンク ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.30
コメント(0)
我が家から徒歩で15分ほど歩くと横浜市との市境を流れる「境川」がある。その先が横浜市戸塚区。そして北に向かって進むと直ぐに横浜市泉区。1986年11月3日、栄区と同時に中和田支所管轄の地域が戸塚区から分区し、泉区が誕生したのだ。「泉区」案内図を『YAHOO地図』から。心臓のような形の「泉区」。この日は、この戸塚区から入り泉区にある神社仏閣を中心とした古道散策に向かったのであった。泉区内には「鎌倉街道(かまくらかいどう)」そして「柏尾通り大山道」等の古道が通っていたのです。鎌倉街道は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ、また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在するのです。そして今回歩き始めたのが「鎌倉街道上道」。「鎌倉街道上道」として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、鎌倉 - 化粧坂 - 瀬谷 - 本町田 - 小野路 - 府中 - 所沢 - 入間 - 笛吹峠 - 奈良梨 - 山名 - の高崎のルートなのです。【http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/kamakura/uemiti/kamakurauemichi1.html】よりそして下図がこの日に主に歩いた「鎌倉街道上道」。「境川」に沿って上流・北に上がっていくことが判るのであった。我が市の図書館から「旧鎌倉街道探索の旅Ⅰ 上道・山ノ道編」も借りました。そしてこの日の自宅からのスタート。時間は8:50。我が市から「境川」に架かる「俣野橋」を渡り、横浜市戸塚区に入る。私は「泉区」の南端から入って行ったことが先頭の地図から判るのであった。「俣野橋」から上流を見る。この付近は私が子供の頃と全く変わっていない田園地帯。下を流れる「境川」は東京都町田市相原町大戸の同市最高峰・草戸山(365 m)北東面(町田市大地沢青少年センター付近)に源を発し、東京都と神奈川県の境界に沿って南東に流れる。神奈川県大和市付近から南へ流れを変え、藤沢市の江の島付近で相模湾に注ぐのだ。川の名称はかつて武蔵国と相模国の国境とされたことに由来し、現在でも上流部(町田市最南部まで)は概ね東京都と神奈川県の都県境となっているのだ。右側の「境川」の堤防上が「境川サイクリングコース」になっている。大和市国道246号 ~ 江の島入口間の24.5km。そして「俣野橋」から100m程で「俣野観音堂前」交差点に到着。右手の高台に見えたのが、旧横浜ドリームランドのホテルエンパイアであった建物。現在は横浜薬科大学図書館棟となっている。大林組により1965年(昭和40年)に竣工した。完成当時は地下2階地上21階、高さは建物部の高さが68m、尖塔と避雷針を含めて93mであり、工事期間は僅か1年という突貫工事だった。最上階の21階は回転する構造になっており、回転展望レストランとして使用された。21階という階数は、来るべき21世紀を象徴したもので、ホテルでありながら五重塔をモチーフとした和風建築とし、内装について“桃山時代の文化の復元”を標榜したのは、「日本にしかない、日本でしかできないホテルを目指すべき」という意図によると。五重塔を伸ばして二十段にしたような独特の形状で、高台の上に建っており近くに高い建物や大きな山が存在しないことから、多少離れた場所からでも目立つ建造物で、周辺が田畑ばかりだった完成当初は、ひときわ異彩を放つ存在であった。その後開発によって周辺の宅地化が進んでも、ホテルエンパイアの建物は横浜ドリームランドの観覧車とともに周辺一帯(戸塚区南西部および藤沢市北部)のランドマークとして長年親しまれたのであった。高校の頃、私も21階の回転展望レストランで江の島の姿を見ながら家族、友人と食事をした記憶があるのだが。そしてここからが「鎌倉街道上道」散策のスタート。交差点の角にあったのがこの「俣野観音堂」。俣野景久の守護仏といわれる「十一面観音」が安置されていると。横浜市戸塚区俣野町1023。「俣野五郎景久と観音堂治承四年八月ニ十三日(一一八〇)伊豆に配流中の源頼朝か平家政権打倒のため石橋山に拳兵すると、平家側の総大将として是を襲ったのは藤沢の大庭景親てあったが、弟俣野五郎景久は家臣長尾兄第(上杉謙信の祖)と源氏の先陣佐奈田与一を討ち取り、頼朝軍は敗走辛うじて房総に逃れた。頼朝が源家累代の家臣、千葉一族の協力を得て勢力を恢復し十月鎌倉に人府すると大庭景親を片瀬川畔て梟首し、五郎景久を遠く京都に敗走させて石橋山の報復を遂げた。寿永ニ年五月、俣野景久は平宗盛軍の将とし、頼朝の従弟木曽義仲の軍と加賀の篠原て対戦したが、平家の敗色濃厚で、武将の間から、いっそ源氏に鞍替えしてはとの話か出ると景久は強く反対し「武士としていさぎよく討死」の覚牾を示し、守護仏の観音像を家臣に託して母の待っ故郷、相模国俣野村に送って自らは壮烈な最期をとげた。いま篠原には景久の戦友て共に討死した斎藤実盛の墓はあるが、景久等の墓はない。推うに実盛はまだ三歳だった義仲が殺されるのを救けた生命の大恩人であるが、是に反し景久は徹底した反源氏の将なるが故に、その墓の建立が憚られたものに相違ない。景久に由緒のある観音堂は、茲、鎌倉街道西の道に接してはいるが、治承の昔からこの地に建立されていたかは定かではない。」「俣野観音堂」の横には比較的新しい「五輪塔」が。五輪塔の5つの石材パーツには、それぞれ名称が付いているのだ。仏教における自然界の5大要素といわれる「空・風・火・水・地」という意味合いと名称が五輪塔には付けられているのだ。上から宝珠形=空輪(くうりん)半月形=風輪(ふうりん) 三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)円形=水輪(すいりん) 方形=地輪(ちりん) 各石材には仏教のサンスクリット語(梵字)が彫刻されているのが特徴。仏教における読み方は上から「空(キャ kha)、風(カ ha)、火(ラ ra)、水(ヴァ(バ) va)、地(ア a)」。そして卒塔婆も同様である事を初めて今知ったのであった。 【https://www.otsukastone.co.jp/blog/category/2min】よりそして北に向かって細い畑道・鎌倉街道上道を進むと右手にあったのが小さな「地蔵堂」。堂内には、赤い頭巾を冠り赤い衣を身にまとった地蔵様が白いマスク姿で道を見守ってくれていた。そして次に訪ねたのが「俣野神社」。この「俣野神社」境内に沿う道が古道のようであった。しかし鳥居の脚が骨折し?ギブス固定であったが。これぞ村の神社!!本殿に向かって進む。俣野氏は「桓武平氏良文流の系統で鎌倉党の嫡流景宗の子・景久が相模国鎌倉郡俣野にて俣野五郎を称したことに始まる。俣野は現在の横浜薬科大学一帯で、境川を挟んで藤沢市西俣野から戸塚区俣野町、東俣野町にまでおよぶ。大庭御厨の一部であった。境川は古くは「俣野川」とよばれていた。景久(初代)平安時代末期の治承・寿永の乱において平氏方につき石橋山の戦いなど各地で転戦したものの、最後は信濃国飯山で敗死したためその後の俣野氏の動向は明らかでない。俣野にあった大日堂(現・御嶽大神)は鎌倉景昌ゆかりのものであったが『吾妻鏡』によると景久死後は荒廃していたというから鎌倉時代には既に没落していたものと思われる。」とネットから。手水舎。「俣野神社御祭神:須佐之男命、欽明天皇。古くより欽明天皇御宇の創立と伝えられ、「欽明天王社」と称したが、明治初年「上俣野神社」と改称した。安政3年社殿を再建、明治6年村社に列格。同32年氏子中にて改築。平成16年銅板葺に葺替る。横浜市戸塚区俣野町763。これは「鞘堂」であったことは、このブログを書きながらであった。扁額は「俣㙒神社」。神社の内陣。以下の内陣の写真はネットから。一説によると左甚五郎が彫ったともいわれているとのこと。 【https://meseta.muragon.com/entry/370.html】より見事な彫刻。一度この眼でと!!鐘楼には鐘の姿は無かった。天井には吊り金具のみ。いつ頃から無いのであろうか?天井にも穴が開いて。「俣野神社」を後にし、鎌倉街道を大きくハズレて、途中急な細い坂道を上った角にあった「相州春日神社」と「神鹿苑」を訪ねた。戸塚の遊園地と言えば、今はなき懐かしのドリームランド。その横浜ドリームランドの建設に際し、その発展と繁盛を願って敷地内に奈良の春日大社の分霊を勧請し「ドリームランド春日神社」が建立されたのであった。その後、神社とドリームランドとは敷地・組織とも切り離され、「相州春日神社」と改名。ドリームランドがなくなった今でも神鹿は健在とのことを聞いたので神鹿を訪ねたのであった。横浜市戸塚区俣野町700。社号標「相州 春日神社」。手水舎には可愛い鹿が二頭。この日はコロナ禍の影響で口から清水が出ていなかったが。鮮やかな朱色の楼門が美しかった。奈良の春日大社にそっくりであった。境内には凛とした空気が漂い、気持ちを落ち着かせてくれたのであった。この春日神社は、奈良県の春日大社と同じ神様を祀っているのだろう。扁額は「春日神社」。「由緒当春日神社は、昭和三十九年八月に奈良春日大社の 御分霊を勧請し、ここ俣野の地にご鎮座なされました。 御祭神は皇祖肇国(ちょうこく)の折、神功あらせられた武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめのかみ)を奉斎(ほうさい)し、武甕槌命、経津主命二柱の神は、国土開発の守護神として、天児屋根命は文筆の神と仰がれ学業成就を願う崇敬神として、比売神は安産の神として御神徳いよいよ高くこの四柱の神々を尊崇して春日皇大神(かすがすめおおかみ)と申し上げ、皇室に於かれましても代々御崇拝遊ばされ、又国民等しく敬仰する神々であります。殊に武甕槌命が奈良にお移りの際、本社鹿島の宮を御出発になり、途中無事奈良にご到着になったことから、鹿島立の信仰が生れ、爾来旅行安全、交通安全の神として尊ばれています。此処に横浜ドリームランド開設されるに当り、開発の神殖産興業、安産の守護を仰がれる春日大社の御分霊を勧請し、奉斎されたものであります。」右手に「社務所」。「拝殿」。「拝殿」の内陣。相州春日神社には春日大社と同じ神様・武甕槌神(たけみかづちのみこと)・経津主神(ふつぬしのみこと)の二柱をお祀りしているのだと。境内末社 「正一位稲荷大明神」「正一位稲荷大明神」。境内を右に行くと「神鹿苑(しんろくえん)」。「神鹿苑」。「神鹿について」境内には春日大社から賜わった「神鹿」の子孫が飼育されており、奈良に行かずしても奈良観光の気分を味わう事が出来るのであった。10頭はいたであろうか。社務所にて鹿せんべい(100円)を購入し、直接鹿たちに上げることができると。せんべいをもらった鹿はちゃんとお辞儀をし、とにかく可愛らしいのだと。再び「拝殿」前から「楼門」を見る。神社の敷地からは、旧ドリームランドのシンボル「ホテルエンパイア」が見えた。今は、横浜薬科大学図書館棟となっているのだ。そして「楼門」前の梅の木には既に花が。 ・・・つづく・・・・
2021.01.29
コメント(0)
全39件 (39件中 1-39件目)
1