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第62回佐倉市民花火大会(佐倉花火フェスタ2023)を楽しんだ翌朝8月6日(日)、6時前に起床し、「ウィシュトンホテルユーカリ」の我が部屋からの「ユーカリが丘」駅北口を見下ろす。正面にショッピングモール「ユーカリプラザ (YOU!PLA)」。右側には発車を待つ「山万ユーカリが丘線」の電車車輌。広場には2体の像が。佐倉市在住・久保浩 氏 作、女性像「歡び 水の燦き」(右)、男性像「歡び 森の耀き」(左)。1982年(昭和57年)11月2日 - ユーカリが丘駅 - (女子大駅) - 中学校駅間開業。1983年(昭和58年)9月22日 - 中学校駅 - (井野駅) - 公園駅間開業により全線開業。 環状運転開始。1992年(平成4年)12月3日 - 地区センター駅開業路線距離(営業キロ):4.1 km駅数:6駅(ユーカリが丘駅・地区センター駅・公園駅はそれぞれ1駅として計上)車輌:3両編成帰路は、京成本線、横須賀線を利用して新橋駅で下車し、前回訪ねることが出来なかった新橋周辺の汐留・築地・明石地区の名所、遺跡、神社等を巡ったのであった。JR新橋駅にあった壁画。「吉岡堅二作 くじゃく窓」。ズームして。JR新橋駅の地下ホームへと降りる通路に飾られたステンドグラス。烏森改札から入って右奥へ進んだところにあった。新橋駅の地下ホーム開業を記念したもので、制作のためのガラスは欧州から直接取り寄せられ、完成まで約1年の月日が費やされたという。「この作品は、日本の伝統的な美しさと気品をたたえる孔雀と明治5年汽笛一声の由緒ある新橋駅に因み鉄道の力強さを表現する機関車を題材に制作されました。左側の機関車は新橋-横浜間を運転した1号機の正面像で往時の姿をそのまま伝えています。右側の動輪はE102号機のもので、現在、青梅鉄道公園に保存されているものです。パリのノートルダム寺院のバラ窓に想を得て描かれたことから「くじゃく窓」と命名されました。」とネットから。孔雀は日本の伝統的な美しさと気品を表しているのであった。そして「ゆりかもめ 新橋駅」に向かって進む。「汐留タワー」と「日本テレビタワー」を見上げる。「汐留タワー」の上層部にザ ロイヤルパークホテル アイコニック 東京汐留、下層部に資生堂汐留オフィスが入る。高さ172m、最上階38階。「日本テレビタワー」が建物外部四隅に柱を露出させた理由は、容積率緩和措置を受けるため。その他、地上2階の受付前フロアを自由通路とすることによっても容積率緩和措置を受けているとのこと。高さ169m、最上階32階。前回訪ねた「亀の噴水」を再び。港区東新橋1丁目8。幸運を呼ぶ動物とされているアカウミガメの学名『Caretta Caretta』から名付けられた『カレッタ汐留』のシンボルとして親しまれている噴水。中国出身の世界的現代美術のアーティスト蔡國強(ツァイグォチャン)により、風水思想を元に巨大な自然石を都市に持ち込むことで自然とのつながりを体感させようとするもの。噴水は10時~22時の毎正時ごとに約20分間行われる と。「カレッタ汐留」。「カレッタ汐留」は、さまざまな種類の飲食店やショップのほか、日本初の広告ミュージアム「アドミュージアム東京」、「大同生命ミュージカルシアター 電通四季劇場[海]」といった文化施設を併設した複合商業施設。46階の展望スペースでは、無料で地上約200mからの東京湾のナイスビューを一望でき、同フロアのレストランでは昼も夜も景色を眺めながら食事を楽しめると。港区東新橋1丁目8−2。大同生命ミュージカルシアター 「電通四季劇場[海] 」の看板。首都圏における劇団四季の常設専用劇場。浜松町の四季劇場にも近く、さながら" リトル・ブロードウェイ" とも称すべき劇場文化ゾーン。劇場の客席は2階層約1200席。2階客席が、1階中央近くまでせり出し、ステージの躍動感、感動がじかに伝わってくる舞台設計となっている と。港区東新橋1丁目8−2 カレッタ汐留 1階。「朝露童子/Child of The Morning Dew [B2F]」作者:藪内佐斗司「亀の噴水」越しに「カレッタ汐留」を振り返る。右手奥に「日本テレビタワー」。港区東新橋1丁目6−1。北玄関脇の正面に「案内板」が。「江戸時代の仙台藩上屋敷跡」。港区東新橋1丁目2−5。「江戸時代の仙台藩上屋敷跡ここは、汐留遺跡の発掘調査によって、仙台藩上屋敷跡であることが確認された場所である。江戸時代、全国の大名は江戸に藩主や家臣団が住む藩邸を設けており、初代仙台藩主伊達政宗の時代には、外桜田(日比谷公園)や愛宕下(新橋五・六丁目)などに屋敷があった。この地には、寛永十八年(一六四一)、下屋敷が設けられ、延宝四年(一六七六)には上屋敷となり、以後幕末まで仙台藩の江戸における拠点となった。屋敷の東北部から汐留川(仙台川ともいう)に接するかたちで大きな舟入場が発見されている。下屋敷時代は、藩の物資の集積場・倉庫の役割を担っていたので多くの物資の出入りがあったと考えられる。 仙台市 日本テレビ」「伊達家芝上屋敷絵図亨保~天明(1716~1788)頃のもの。」仙台藩上屋敷全体が描かれた唯一のもので、発掘調査で大小2つの池や遣り水跡が見つかった。絵図の右手は汐留川、浜御殿、海へと続く。さらにズームして。再び、建物外部四隅に柱を露出させた「日本テレビタワー」を近くから見上げる。日テレタワーのゼロスタジオから、正面玄関に続く階段を見る。上方にあったのが「宮崎駿の日テレ大時計」。港区東新橋1丁目6−1。正面に見えたのが「汐留シティセンター」。2003年1月23日に竣工した、地上43階 地下4階のオフィスビル。建物中層から高層部にかけては深いエメラルドグリーンのガラスを一面に貼り、優美な曲線を描いた外観が未来的なイメージを創出し、低層部は新橋停車場跡との調和を考えて花崗岩に覆われたクラシカルなデザインとなっている。1階ロビーには、ダイナミックで斬新なデザインのレリーフ、油絵、彫刻などを視覚的に配している。そして日本テレビ本社にある「宮崎駿の日テレ大時計」の前に。宮崎駿監督が手がけた、からくり時計として、日テレ観光の目玉のひとつでもある。幅が16m、高さが12mもあり、1228枚の銅板を一枚一枚加工して作られている と。この大時計が設置されたのが2006年。企画から6年をかけて、日テレとスタジオジプリが作りあげた。デザインは、少しハウルの城に近いものがあるとのこと。これは、宮崎監督が大時計のデザインを手がけた時期と、『ハウルの動く城』の製作時期が近かったため、似たようなイメージになったのではないかと。反対側の緑地の先には「ゆりかもめ」が。「宮崎駿の日テレ大時計宮﨑駿監督(みやざきはやお)がデザインした大時計。仕掛けが溢れる美しい時計が時を刻んでいます。」「宮崎駿の日テレ大時計 演出スケジュール演出スケジュール月~金:12:00、13:00、15:00、18:00、20:00土・日:10:00、12:00、13:00、15:00、18:00、20:00※毎回、およそ3分前から演出が始まります。」。「日テレ屋日テレキャラクターショップ「日テレ屋」では、大時計をデザインした宮堝駿監督をはじめとする「スタジオジプリ」グッズを多く取り揃えて皆様をお待ちしております。大時計をご覧いただいた記念にぜひお立ち寄りください!」時計版の右に鍛冶屋一族。時計版の左に鐘一族。からくりが作動すると、彼らが動き出すのであった。左斜めから見る。この烏脚のデザインは、ほんとうにハウルの城と似ているのであった。「宮崎駿の日テレ大時計」👈の仕掛け用の歯車を見る。そして次に「汐留シティセンター」を見る。港区東新橋1丁目5−2。「汐留タワー」と「日本テレビタワー」を振り返る。次に「電通本社ビル」を訪ねた。安田侃「妙夢」。六本木の東京ミッドタウンにも、色違いの「妙夢」が展示されている と。港区東新橋1丁目8−1。広々としたエントランスを歩く。カレッタ汐留46・47階にはレストランと地上200mの展望台があり、お台場などの湾岸エリアや勝どき・晴海エリアが眺められるとのことで向かう。カレッタ汐留 46F シャトルエレベーター前にあったのが「関根伸夫 / 豊穣の海 “The Fertile Sea“」。高層階レストランフロアのエレベーター前に設置された作品。1970年代前後の日本でものに加工をせずそのまま提示することで新たな芸術表現を試みた「もの派」を代表する作家関根伸夫の作品。関根は「公共空間を活性化させるアート」として環境美術に精力的に取り組んでいる。タイトルは三島由紀夫の小説から転用したもの。枯山水をテーマに波紋や波、山、円錐を配置した石庭を表現している。台湾産の大理石、緑色蛇紋岩を使用している。カレッタ汐留 46階展望スペースの壁の装飾。近づいて。LEDの色が変化。カレッタ汐留 46階展望スペースからの展望を楽しむ。「東海道貨物線支線 東京市場駅跡」。「浜離宮恩賜庭園」の先の「豊海」方向の眺望。「浜離宮恩賜庭園」。東京湾から海水を取り入れ、潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭。園内には鴨場、潮入の池、茶屋、お花畑やボタン園などがある。2000年代前半に西側の旧汐留貨物ターミナルが再開発されて汐留高層ビル群が林立し、庭園とコントラストを成している。江戸時代に甲府藩下屋敷の庭園として造成され、徳川将軍家の別邸浜御殿や、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として開放された。近年、かつて園内にあった複数の建築物の再建が進められており、4棟のお茶屋などが復元されている。中央区築地5丁目のビル街。写真右手が浜離宮恩賜庭園を囲んでいる「築地川」。昭和時代の地図をネットから。汐留から貨物線が築地市場へと通じているのであった。国鉄東京市場駅は東京都中央卸売市場築地市場内にあり、カープした屋根の水産物卸売場に直接貨車を横付けできるようになっていました。貨物線は昭和62年(1987)に廃線となりました。そんな「築地市場」は豊洲移転のため、平成30年(2018)10月6日に最終営業日を迎えましたが、築地場外市場はこれまで通りに残されることになりました。エレベーターホール。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.02
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さらに「山のホテル」前の庭園の散策を続ける。バラ園から見るとホテルの中央の高い部分は「展望室」 と。客室が4階までだが、そこから更に階段を上ると展望室がある と。階段以外はありません。6階ぐらいの階層になるのでは。 展望室からの「富士山」と「ツツジ庭園」の写真をネットから。 ここにも鮮やかな「シャクナゲ」の花。 前方に「三本杉」、実際は7本。岩崎男爵の別邸時代から見る角度によって大きな3本の杉に見えるのでしょうか。「三本杉」と呼ばれている と。これは典型的な「トピアリー(刈り込み造形)」であろう。この見事な刈り込みは、何をイメージしたものか?タヌキ?フクロウ?・・・・。見事に咲き乱れる「ミツバツツジ」。 鮮やかな紫がかったピンク色。新緑の美しい場所へ。「ここで見られる野鳥アカゲラ・ツバメ・ハクセキレイ・ツグミ・エナガ・メジロ・カワラヒア・オナガキジ・シジュウカラ・ホトトギス・モズ・ホオジロ・ウソ」 「ミツバツツジ」越しにホテルの最頂部・中央の「展望室」を見上げる。 歴史のある「シャクナゲ」と。 「こちらのシャクナゲは、岩小彌太男爵別邸(1911年竣工)時代の古木のDNAを受け継ぐ貴重なシャクナゲです山のホテルでは、由緒ある庭園を次世代に残すため、庭園プロジェクト「男爵の100年ツツジ100年先への挑戦」を行っています。男爵別邸時代の古い株の穂木を新潟の農園で数年育て、ホテルの庭園に植えたのがこれらの株です。詳しくは、QRコードからご覧ください。」 「日時計」。 「新しく動き始めた日時計「小田急 山のホテル」があるこの地は、かつて三菱4代目社長、岩崎小彌太男爵(1879- 1945)の別邸が建てられていた所です。男爵はイギリス留学から帰国し、イギリスで覚えたゴルフや狩猟を楽しむために1911年(明治44年)にこの別邸を建て、別邸は男男爵と親交のあった漢学者の諸橋徹次氏によって「見南山荘(けんなんさんそう)」と名付けられました。別邸はその後「小田急 山のホテル」となり、ツツジとシャクナゲの庭園は別邸当時から引き継がれてきました。そしてこの日時計も、岩崎男爵の別邸時代から今に至るまでずっと庭園にありました。長い年月の間に文字盤と針は失われてしまいましたが、「山のホテル」60周年を記念して、このたび文字盤と針を新たに造り、日時計として復活させました100年近い日々、この庭園でくつろぐ方たちを見守り続けてきた日時計は、これからも富上山や芦ノ湖とともに、多くのお客様をおもてなししていくことでしよう。 2009年5月太陽は、私たちに「時」を教えてくれました大昔の人びとは、地面に棒を立て太陽の影を記録して日時計を作り、時を知る道具としました。現代の日本では東経135度(明石市)を日本標準時の基本にしています。この日時計は「山のホテル」の緯度経度を測定し精密に設計してありますので、時刻盤面に示される影は「地方真太陽時」を示しています。「山のホテルの地万方真太陽時」と「日本標準時」には違いがあります。日本標準時を知るには、日時計の影から「時差表グラフ」の時差を引いてください。■計算例 6月10日 時の記念日の時差は、グラフで17分です。日時計の影が午前11時を示している時の日本標準時は、11時一17分= 10時43分となります。■日時計の先端に取り付けた「地球儀」について:この地球儀は、地軸と平行に取付てあります。そのため地球儀にあたっている太陽の光は、今地球にあたっている太腸の光と同じ状態になっています。この地球儀の頂点は「山のホテル」を位置しています。あなたは地球の頂点に立っているのです。」 「日本標準時」と「山のホテル」の地方真太陽時との時差表。 「三本杉」の先に富士山。 天気が良ければ。(ネットから)ネットから。そして「山のホテル」玄関へ。 フロントロビー。「山のホテル HOTEL DE YAMA 御案内 information」。 フロント。ロビー内を移動して。駐車場に引き返す。そして「山のホテル」を振り返って。 真っ赤な「シャクナゲ」と我が愛車とのコラボを再び。 枝いつばいに咲き誇る濃いピンクの花。大きな花房が集まり、まるでやかな雲のように広がる姿は圧巻です。近づいて。光沢のある常緑の葉とのコントラストが美しく、高貴で気品あふれる存在感を放っています。AI・chatGPTに合成写真を造ってもらいました。次に訪ねたのが「絶景日帰り温泉 龍宮殿本館」。開放的な食事処、サウナ、温泉、絶景が楽しめる日帰り温泉施設。神奈川県足柄下郡箱根町元箱根139。10円硬貨にプリントされている京都 平等院鳳凰堂をモデルにし設計された龍宮殿本館、かつては静岡県 浜名湖に建てられたホテルであった と。今をさかのぼること80 年以上も前、昭和13年(1938年)のこと、飛島組( 現在の飛島建設) の先代社長であった飛島繁氏が、静岡県の浜名湖にある景勝地・弁天島に画期的なホテルを開業した。「浜名湖ホテル」と命名されたこのホテルは、浜名湖の開発に携わった飛島氏が、自身の趣味趣向を存分に取り入れ、贅を尽くしたもので、当時わが国屈指の高級ホテルとして評判になった。外観は宇治の平等院をモデルにし、規模はその約2.7 倍の大きさで設計され、着工から2年の歳月を経ての竣工。材料はすべてに最高級のものが厳選され、木材もケヤキやヒノキなどがふんだんに使われていた。建物外観は純和風でありながら、客室はすべてベッドを備えた洋室、食事はフランス料理という先進的なスタイルであった。しかし創業からわずか1 年半後の昭和14年(1939年)10月、「浜名湖ホテル」は休業の憂き目に。その後、浜名湖畔からこの芦ノ湖畔への移築が決まった と。ここから「浜名湖ホテル」は、箱根プリンスホテル和風別館「龍宮殿」という新たな歴史を歩み始めることとなった。ただし、豪壮なたたずまいから容易に推察できる通り、まずは解体作業がたいへん多難だった。地元はもとより、東京からも専門業者が足を運び、作業はおよそ5ヵ月を費やした。当時はまだ陸上輸送が未発達だったため、解体された資材の大半は東海道本線の貨車を使用して熱海駅まで運搬された。熱海から箱根までは険しい十国峠越えの道を利用したのだが、今のような舗装路ではなかったため、運搬は難行を極めたと。やっと芦ノ湖畔に到着した後も、解体材の仕分作業に約半年間、その後の復元作業にも多くの人手と時間を必要とした。京都から宮大工を招き、各地から呼び寄せた多くの技術者が工事に携わり、移築作業には結局1年以上が費やされた。そして昭和32年(1957年)、「龍宮殿」が開業し新たな歴史が始まったのだ と。■ 建築の見どころ・豪壮な切妻式(唐破風(からはふ)風)屋根・寺社建築を思わせる重厚な構え・木造の伝統技術を活かした細部意匠・湖に面した圧倒的なロケーション 「登録有形文化財第14-0084号この建造物は貴重な国民的財産です文化庁」 2017年3月に国登録有形文化財に答申、7月に登録。「館内案内」。 ネットから。1階 ロビー。龍宮殿の荘重さを象徴する吹き抜け。玄関を入って正面突き当りに2階への階段。赤い絨毯の階段が中央に一直線。見事に幾何学的に組まれた照明が天井から。女性風呂「胡蝶」露天風呂からの富士山の写真をネットから。左側の建物は予約制の貸し切り個室の部屋があると。移動しズームして。ネットから。「箱根駒ヶ岳ロープウェイ」の山頂駅をズームして。駐車場に向かって引き返す。振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.05.05
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令和元年5月1日、今日から『令和』が始まりました。そして私は『令和』の年をいつまで元気にクリアー出来るのでしょうか。先月後半の無残に多くの人々の命が車やテロで奪われていく様は、悲しいことでしたが、災害や事故に襲われなくても、人は必ず死んでいかなければならないのです。この目出度き日に不謹慎な表現かもしれませんが、必ず死んでいくものが、今生きていることの不思議に思いをいたし、生きている今、何に出遇い、何を聞き、何をするべきか、1日1日を大事にしながら、充実した毎日を過ごすことが大切だと、最近ますます感じるようになって来ているのです。これも『旧東海道を歩く』で多くの神社仏閣を巡っている事が影響しているのかも。時代や社会がどのように変わったとしても、仏に成っていくような尊い『歩み』を、死すべき時まで大切にして行きたい、いや生きたいのです。そして、昭和と平成と令和---全ての世代が「絆」を大切にし、日本だけでなく世界の『平和』な社会が実現し、青い地球を永遠にと。ということで、今日も『旧東海道を歩く』の『歩み』の『備忘録』の続きのアップです。--------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次『江尻宿案内板』東海道の18番目の宿場であり、天保14年(1843年)には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋50軒、宿内家数は1340軒、人口は6498人でした。「江尻」とは巴川の尻(下流)を示し、巴川が作る砂洲上にできた宿であります。甲州武田氏が築かせた「江尻城」「浜清水城」があり、城下町も作られ、鍛治町、鋳物師町、紺屋町などが配置され繁栄していました。巴川河口を利用した清水港には、駿府町奉行支配のお蔵が18棟もあり、江戸へ物資を運ぶ重要な港として活気に満ちていました。しかし、本陣、脇本陣、旅籠など戦火で消失し残っていません。現在地は⑥の先。江尻宿の浮世絵のいくつかを紹介します。『東海道十九 五十三次 江尻』(隷書東海道)三保の松原越しの駿河湾、そして富士山の姿。駿河湾には多くの帆掛け舟が。歌川広重『冨士三十六景 駿河 三保之松原』空撮かドローンを使って描いたかのような構図。薩埵峠と富士山、そして愛鷹山(あしたかやま)が遠近法を使って描かれています。『東海道五拾三次之内 19 江尻《三保遠望》』画中に広がる海は駿河湾、前景の港は清水港である。江に突き出る三保の松原や湾内の帆船で風情をもたせ、遠景は愛鷹山らしい山並みの遠望から霞を隔てた海上に数多くの帆影で賑やかさを見せています。白い船の帆や港に停泊する船のかたちが様式化され美しい。広重は高い位置から見渡すようにこの風景も描いている。 『東海道五十三次(狂歌入東海道)江尻』 「花垣家寿子花の旅 駕をつらせて ゆたゆたと うばか江尻に みゆる児ばし・「うば」は、江尻の宿近くの「姥ヶ池」からの連想。「児ばし」は、江尻宿を出て巴川を 渡る橋の「稚児橋」。・「姥が江尻」で「目尻」に掛け、「児ばし」で、乳母と幼児に見立てる。」入江3丁目の交差点を通過し更に進む。左手に『追分羊かん 本店』があり、その手前に石碑が。『追分羊かん 本店』前に『是より志ミづ道』と刻まれた石柱道標が。『追分羊かん 本店』に立ち寄る。創業元禄八年 駿河国追分 東海道三百年の味 追分羊かん。「追分羊羹の由来」追分羊かんは、東海道五十三次の道中名物として300年余の歴史を誇る竹の皮包みの素朴な包装と竹の香りが深く染み込んだ風味。清水の伝統和菓子で有名であると。二女のご主人でドイツ人の工場長のレネさん。324年の伝統の味は来日9年目のドイツ人が支えているのだと。追分羊かんはちびまる子ちゃんとコラボもしており、ちびまる子ちゃんランド限定のコラボパッケージで羊かんを販売していた。追分羊かんは、素朴な竹包みの蒸し羊かん。小豆と竹の香りの風味が甘さに溶けてあっさりとした舌触りが人気であると。羊羹以外にも様々なお菓子が販売されていた。最中を一個購入し、店内で食べながら、美味しいお茶を頂いたのであった。多くの芸能人も訪ねているようであった。「追分羊羹」の本店を出て暫く行くと『遠州都田の吉兵衛の供養塔(清水の次郎長 都鳥)』が左手に。「春まだ浅き文久元年(一八六一)正月十五日、清水の次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛の(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。 此處を訪れる諸士は彼のために一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろう。 」『元追分』道標。江尻宿境まで七町(0.8km)、府中宿境まで二里七町(8.8km)。金谷橋(かなやばし)手前にあったのが『大澤川改修の碑』『金谷橋』。「追分と金谷橋の今昔昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道『志ミづ道』の分岐点であることから『追分』と呼ばれていた。周囲には数軒の家が並び、街道の両際は松並木が続き、その外側には田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが重い荷物を運搬する牛馬は橋横の土手を下り渡川して土手に上り街道に合流した。古来、牛道と言われた名残を今にとどめている東海道の史跡である。」『大澤川』の上流側。『追分』道標。JR東海道線と静岡鉄道の『追分踏切』を渡る。上下4本あるせいか、両線ともけっこう通過電車が多い。緩やかに上りながら道は右に曲がり、左からの道と合流する。そこにあるのが『久能寺観音道』道標。右に曲がった正面にある説明板。「久能寺観音道この道標は安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺観音道は、この平川地から有東坂、今泉、船越、矢部、妙音寺鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道のことである。久能寺は、もと久能山にあったが、甲斐の武田信玄が駿河の国の攻略の根拠地として久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の位置に移されたものである。明治維新となり廃寺、その後、明治16年(1883)山岡鉄舟が再興、鉄舟寺と改め現在に至っている。」現在いる場所、青い「上原堤」の上の合流地点。『東海道』の案内板。 「東海道という言葉は崇神天皇十年九月、四道将軍として武淳川別(たけぬなかわわけ)東海(うみつみち)に派遣した日本書紀の記事に始まる。ヤマトタケルが東征の道に草薙剣の物語りを残し、古代大和朝廷確立と律令国家のための重要路として、防人(さきもり)達が遠く九州に下り、調(ちょう)を積んだ荷駄が大和に向けて通ったことであろう。中世には「いざ鎌倉」のために整備され徳川時代になり東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。慶長十二年(1607年)徳川家康公の命により、当時の東海道は今の北街道を通っていたものを七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)を架け追分上原を通り駿府横田迄駅路(正規の道)となった。善男善女が旅を急ぎ、大名行列が通り村人は助郷の課役に難渋し、幾多の物語を残した東海道も国の発展と共に昔日の面影は消えてしまったがここに日本の歴史と共に歩いて来た古道が有ったことを末永く記憶の中に留めておきたい。」『上原堤(うわはらづつみ)「宋丹池(そうたんいけ)」』。「江戸時代に農業用水のため池として造られた人工池。永い間近隣の田んぼを潤して来た。戦国大名の嚆矢、北条早雲が今川氏に仕えていた時に作った農業用のため池だったそうで、早雲の名前から宗丹池と呼ばれたとのこと。つまりこちらも500年以上の歴史があるスポット。昭和2年に開園した狐ヶ崎遊園地のボート池として利用され平成5年に遊園地が閉園してからは釣や散歩を楽しみ人々の憩いの場となっている。」『上原子安地蔵堂』入口。「上原延命子安地蔵尊由来略記上原延命子安地蔵尊は、古来世の人々の、長寿、安産、子育、安全の守護として、近隣の人々の信仰を集めてきた。創建時代は明らかではないが、焼失した木像の御本尊は、行基菩薩作との伝説があった。之に従えば奈良時代となる。然し庶民一般に地蔵信仰が普及し、各地に地蔵堂が建立されるようになったのは、鎌倉時代とされている。上原の古地名は地蔵原ともいわれていたが、室町時代後期には既に正式に上原の地名が用いられている。これ等のことを思い合わせれば、創建は鎌倉時代戌はそれ以前と考えられる。永禄十一年十二月(1568)武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本隊の部将、山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする、上原の地に宿営布陣した記録がある。次いで天正十年二月(1582)徳川家康が武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻の城主穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。元和元年大坂夏の陣の直後秋十月(1615)吉川福聚院の住職明眼和尚の尽力と、付近住民の協力により、荒廃していた地蔵堂も立派な堂宇として再建された。然しこの堂も明治二十四年九月(1891)、何者かの失火により、御本尊と共に焼失した。以来地蔵堂は間口一.二米、奥行一.八米程の仮堂で、四十一年間を過ごすことになっなのである。昭和七年四月(1932)上原区民の、長い間の悲願であった地蔵堂も、区民四十余年に亘り積み立てた浄財により立派に再建され、今日に至っている。昭和五十七年四月(1982)昭和再建五十周年を記念し、御本尊を開帳し、盛大な大祭が執行された。平成三年一月(1991)境内入口にあった消防器具置場も撤去され、周辺の整備が行われ、石の道標が建立された。毎年八月十五日の祭礼の夜は、地蔵堂裏の広場で、大勢の人が集まり。盆踊りなどが盛大に行われる。」『上原子安地蔵堂』。『上原子安地蔵尊 保存樹木(まき)』。樹齢:約230年、樹高:10m70cm。「宋丹池(そうたんいけ)」を廻り込むように旧東海道を進む。『上原鎮守十七夜宮』入口が左手に。旧東海道より約100m入った十七夜山千手寺本堂の南にあると。『上原鎮守十七夜宮伝説の碑』石段の両脇に石塔が埋もれてました。右に「十七夜山」、左に「千手禅寺」と。千手寺は珍しい黄檗宗の禅寺。『上原鎮守十七夜宮伝説』「昔上原に大変信仰心のあつい人がいた。 ある日、夢の中にお不動様のお姿が現れ「わたしは浅畑(現在の静岡市葵区麻機)の滝の不動尊である。 お前の信仰心のあついのに感心した。 お前のような者の住む上原はさぞよい所であろう。 是非、上原に参って大勢の人々の難儀を救ってやりたいと思う。 早く浅畑へ来てわたしを上原へつれて来るように」とのお告げがあった。 不思議な夢を見るものだと思っていたが、それから毎晩のように同じ夢を見るのであった。彼は「これはまさしく浅畑の不動様のお告げに違いない。 浅畑の人達には申し訳ないが、不動様を上原へお連れ申し上げる亊にしよう」と決心した。 そこで彼は、わざわざ浅畑まで出掛け、滝の不動尊の扉を押開き、御神体を取り出して持ち帰ろうとした。 浅畑の人達は、これを見つけて追いかけて来て取り戻そうとした。 彼は「私は不動様のお告げで上原へお連れ申すのだが、皆さんがいけないと言われるならばお返しする」といって浅畑の人達に渡して帰り出した。 浅畑の人達は御神体を受け取ったが、急に岩のように重くなり動かすことも持ち上げることも出来ない。 浅畑の人達は驚き恐れて、急いで彼を呼び戻し、仕方なく御神体を彼に渡した。 彼は喜んで御神体を受け取った。彼が持つと途端に毛のように軽くなった。 浅畑の人達は御神体を持ち捧げて、上原へ帰ってゆく彼の後ろ姿を、いつまでも合掌して見送ったのである。 彼は上原に不動様をお迎えすると、庄屋さんとも相談して、十七夜山千手寺の裏手のお堂に、上原村の鎮守としてお祀りした。 これが現在の上原鎮守十七夜宮である。この御神体というのは45㎝ほどの漆黒の古い木であるという。」 境内の参道を上っていった。階段の先に『山門』が。『句碑の案内』。「柚子湯出て慈母観音のごとく立つ 五千石」ここに「上田五千石」の句碑がある理由は?先手寺の『山門』を再び。右手に『六地蔵』。『庚申塔』。『千手寺』。ご本尊は千手観音。黄檗宗の伝来は江戸時代の1654(承応3)年。改宗がないのならば、開山はそれ以降となりますが、裏手にある十七夜宮は古い記録には1651(慶安4)年に登場するそうです。この十七夜宮は上原の鎮守。シンプルな屋根に、朱色に塗られた窓格子、丸窓、アーチ状の出入り口などエキゾチックな雰囲気が。千手寺の裏手にあるのが、『十七夜宮』。何故か露出不足。境内の北原白秋『狐音頭(きつねおんど)』歌碑。御堂の右手には「白秋庵」という茶室があり、昭和2年北原白秋が「ちゃっきり節」を作詞した折、この寺に立ち寄り「狐音頭」という歌を作詞したのだと。「狐十七 千手の寺に こよい願あけ もちの月」。 その6 に戻る ・・・つづく・・・そしてテレビでは「明治」の「R-1」のコマーシャルが「我が意を得たり」と。
2019.05.01
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「照善寺」を後にして「丸子川」に架かる橋を渡ると正面の民家の塀に庚申塔が塗り固められていた。照善寺の門前にあたる場所である。ここは筏道でもあったので、江戸時代には青梅の筏師が続々と帰途を行った道で、途中には休み処もたくさんあったと。右隣りも昭和期までは酒屋をやっていて、賑わった街道筋だった痕跡があるのだと。庚申塔は駒型で、青面金剛像に三猿の図柄。造立年は元文元年(1736)11月と。正面右にシンプルに「奉納 庚申」とあるが、側面が埋められて見えないのでそれ以外の情報は分からない。大田区田園調布5丁目50-3 その先にあったのが「お鷹の圦(いり)堰」。用水の余水を多摩川に流す分水堰。現在もこの場所には多摩川への分水路の水門。さらにその下流の田園調布一丁目の多摩川浅間神社付近の丸子橋の上流で多摩川左岸に合流する。丸子川はここで終わるが、六郷用水は現在の大田区の東部まで続いているとのこと。 「お鷹の圦(いり)堰」を振り返って。鯉がのんびりと。丸子川沿いは桜並木となっていた。「樹木の根元に腐朽があり倒木の恐れがあったため伐採を行いました。」と。右手にあったのが「田園調布八幡神社」。 扁額「八幡神社」。 「八幡神社 案内」。 「御祭神 誉田別之命(ほむたわけのみこと) 創建 建長年間(西曆一二四九~一二五六年 鎌倉時代) 所在地 東京都大田区田園調布五丁目三〇番地 新建築物 社務所 木造モルタル 寄棟造 鉄板葺 その他の現存構築物 社殿 本殿 木造 一間社流造 板葺 年代 推定明治三十三年 社殿 本殿覆屋 木造モルタル 流造 瓦葺 幣殿 木造 切妻造 鉄板葺 以上二棟の年代 昭和四十六年 拝殿 木造 入母屋造 瓦葺 年代 推定 明治三十三年 稲荷神社 木造 一間社流造 鉄板葺 鉄造鳥居 鳥居 石造明神型 年代 享和二年(一八〇二) 石造明神型 年代 昭和十五年 狛犬 石造 年代 大正十年 手水舍 木造 年代 昭和四十七年 手水石 石造 年代 昭和十四年」 「由緒創建 田園調布八幡神社の創建は鎌倉時代の建長年間(西暦一二四九~一二五六)と 伝えられる。 この時代、鎌倉幕府は執権北条氏が実権を握り、国内基盤固めを 行なっていた。各地では 武士達はもとより村人達も幕府に忠誠を示す意味もあり、 源氏の氏神を祀る八幡信仰が盛ん で、多くの八幡神社が建てられた。 当時、この村の西側、現在の雙葉学園南側の盆地は篭谷戸(ろうやと…今もそう呼ぶ 年配者もいる)と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔々と打ち寄せる自然の良港であり、 物資を積 んだ舟が盛んに出入りしていた。また、この村の高台部分には東より西へ 貫いて鎌倉街道が 通り、篭谷戸の港に接続していた。港を中心としてこの一帯には 多くの鎌倉武士が駐屯し、 鎌倉街道の要衝の地となっていた。そして、この 八幡神社の地は港の入口に突き出した台地で、舟の出入りを監視できる重要な場所で あった。鎌倉武士はその重要な場所に祠を建て、 八幡神社を勧請した。以来、この 八幡神社の地は聖地となり、人々に崇められてきた。 中興 天正十八年(西暦一五九〇年) 小田原北条氏滅亡後、八王子城主、北条氏照の旧臣、 落合某が この村に庵を結び、主家の冥福を祈った。 そして、寛永年間(西暦一六二四 ~一六四四年)、 落合某の孫、落合弥左衛門らによりこの聖地に新たな社殿が創建 され、ご神体が祀られた。 江戸時代、この神社は武蔵国荏原郡世田ヶ谷領上沼部村に属し、明治中期の四村合併 まで 村社であった。 寛政四年(西暦一七九二年)には、この村の知行主となった神谷縫之助も氏神とする など、今日まで常にこの地域の人々の心の拠り所として崇敬されて来たのである。」 「丸子川」に架かる橋の先には、石段がありその先に一の鳥居が。 「八幡橋」 丸子川を見る。石段を上って行った。ユニークな手水場。手水鉢には「浄心水」と。 龍の吐出口に竹が。正面に社殿。御祭神 誉田別之命(ほむたわけのみこと) 創建 建長年間(西曆一二四九~一二五六年 鎌倉時代)狛犬(右・阿形) 石造 年代 大正十年。狛犬(左・吽形) 石造 年代 大正十年。本坪鈴(ほんつぼすず)。移動して。境内社・稲荷社。幟には「正一位 稲荷大明神」と。 朱の鳥居の先に小さな稲荷社社殿が。近づいて。さらに。社務所。境内のイチョウの黄葉。そして「田園調布八幡神社」を後にして、丸子川に沿ってさらに北方向に進む。 「庵谷橋(いおりやばし)」を過ぎて「吹上橋」へ。 「吹上橋」の欄干には花菖蒲の木彫りの姿が。吹上橋の前にあったのが「ゆうちょ銀行ATM 田園調布五郵便局」。 その先にあったのが「上の橋」。 丸子川に架かる橋の名前。更に丸子川に沿って進んで行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.03
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「神奈川県立近代美術館 葉山館」の屋外展示作品を楽しんだの後は、県道207号線・森戸海岸線を横断し振り返る。そして、道路沿いにあった案内板。「趣きのある美術館と日本庭園山口蓬春(やまぐち ほうしゅん)記念館国登録有形文化財この先右折」と。案内に従い、狭い坂道を上って行った。山口 蓬春(1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、大正時代から昭和時代後期にかけて活躍した日本画家。本名、三郎(さぶろう)。文化勲章受章者。この道は「蓬春こみち」と。細い坂道・「蓬春こみち」を上って行った。大きな石垣、そこに槙の新緑の生け垣が。そして「山口蓬春記念館」前に到着。鉄骨製の入口にガラス製ドアが。鉄骨製はややこの場所には不似合い。「山口蓬春記念館」👈️リンク 館案内板。料金:一般 600円。「生きものを愛でた蓬春」が開期:2024年4月6日(土) ~ 6月2日(日)【前期】で開催中であった。花や鳥、魚や小動物など「生きもの」を描くことは、古くから東洋では花鳥画として知られ、その多くの作例は時代を越えて人々を魅了し続けています。山口蓬春(1893-1971)は、そのような伝統的な画題を学びながらも新しい日本画の創造に邁進しました。昭和9年(1934)に野鳥の保護や調査を目的とした「日本野鳥の会」が創設されますが、蓬春はその発起人に名を連ねており、彼の野鳥や自然に対する造詣の深さがうかがえます。「花鳥畫の、作品の優劣は、その作家の自然への愛の深さと、観察のカの如何とのみが決定すると謂っていい。」(山口蓬春「花島去を描く心」「邦畫リ4月号、昭和10年〔1935〕)と述べていた蓬春。愛犬をわが子同然にかわいがる彼の作品には、生命への愛情をも実感できるほか、数多くのスケッチからは制作に対する真摯な姿勢が伝わってきます。本展ては、蓬春の日本画作品及びスケッチ・模写、ならびに彼が蒐集したコレクションを展示し、蓬春と「生きもの」という観点からその画業を探ります とネットから。その先左手にあった美しい健仁寺垣(けんにんじがき)風の竹垣。この日は、時間の関係上、入館はパス。道路から「山口蓬春記念館」の建物を見る。以下の「山口蓬春記念館」👈️リンク の写真3枚はネットから。1階の和室。庭園が見下ろせる大きな窓が開放感いっぱいの画室。山口蓬春「新宮殿杉戸楓杉板習作」昭和43年(1968) をネットから。「山口蓬春記念館」の生け垣の前を西に進む。右手には別の建物の木製の脇門があった。数寄屋門風の簡易引き戸の門。そして左手にあったのが「旧金子堅太郎葉山別邸 恩賜松荘」。この建物は一般公開されていないようであった。旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘は、明治から昭和にかけて活躍した政治家金子堅太郎の別邸として、葉山御用邸に近い三ヶ岡の山を背負い正面に海を望む斜面地に所在します。金子堅太郎(1853~1942)は、福岡藩の修猷館で学んだ後、明治4年(1871)、私費留学生として岩倉使節団に藩主とともに随行し渡米、ハーバード大学で法律学を修めました。帰国後は明治憲法の草案起草に参画し、後には伊藤博文の下で農商務相や司法相、枢密顧問官などを歴任した人物です。金子堅太郎は明治20年代から現在の葉山一色公園付近に別荘を構えましたが、大正8年の御用邸付属邸建設に伴い、大正11年頃、現在の地に転出しています。関東大震災後には、葉山別邸はほぼ常住の住宅として使用されたことが記録に残っています。現在地への移転に伴い、建物の一部が移築されたと伝えられ、照憲皇太后が訪問された「松の間」がそれに当たるとされますが、明治期創建の移築は部材の一部など限定的であったようです。戦後、所有者が変わり、昭和30年頃に改修が行われていると考えられますが、皇太后訪問時に使用された「松の間」の記憶を継承するべく、大正期の金子堅太郎別邸時代の意匠を強く意識していたことがうかがわれます。平成19年にも改修が行われていますが、現在に至るまで由緒ある別荘建築として大切に住み継がれています。「松の間」には、変木の床柱や琵琶棚をもつ床の間と床脇を設け、部屋境の欄間は銅板に梅花のすかし模様と竹をあしらった質の高い意匠が施されています。旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘は、明治20年代に海岸沿いに設けていた別荘が、御用邸付属邸建設に際し、大正11年頃に移転するという歴史を継承しており、御用邸とともに歩んできた葉山の歴史を反映する重要な建物です。以下の2枚の写真はネットから。旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘の座敷8畳「松の間」。こちらは「旧金子堅太郎葉山別邸 米寿荘」。そして引き返して、再び「一色海岸」へ。「旧ベルンハルド・モーア邸」この美しい建物は、ドイツ人の建築家アルヌルフ・ペッツォルドが戦前に設計した。今ではペッツォルドの名前を知る人も少ないと思うが、彼の設計で現存するのは筆者はここしか知らない。ハーフティンバー様式で木材の部分は濃い青で綺麗に維持されているが、近くで見ると少し塗料の剥がれた木材が年季を感じさせる。戦前の所有者は日本シーメンス社長、ベルンハルド・モーアであった。シーメンスは当時からドイツ有数の大企業だ。ここは歴史的建造物等の指定を受けていないがその価値は十分にある。現オーナーの意向であろうか とネットから。「三ケ下海岸」方向を見る。葉山御用邸、長者ヶ崎方向を見る。そして再び県道207号線に戻り、右手の山の裾野に建っていた建物は「旧鹿島守之助別邸( 旧住友家麻布邸)」。1903(明治35)年、麻布に旧住友邸として建てられた。住友家15代吉左エ門友純邸宅。1935(昭和10)年葉山に移築。この建物も、一般公開されていないようであった。「三ケ下海岸」と「一色海岸」の間にあった岩場を振り返る。長者ヶ崎をズームして。潮の満ちた長者ヶ崎の割れ目からは三浦半島の先端方向も見えたのであった。「三ケ下海岸」バス停前のプール付き?の建物の入口。再び、「三ケ下海岸」と「一色海岸」の間にあった岩場を。岩場をズームして。大きなプール?のある建物。入口には「WATABE & CO.」と書かれていたが。岩場には海鳥?が2羽。右手の「はやま三ヶ岡山緑地」の斜面は緑に覆われていた。その先、左手にあったのが「鹿島 葉山研修センター(旧小田良治別邸)」。「鹿島 葉山研修センター」。鹿島建設の葉山研修センターは、明治から昭和にかけて活躍した、実業家・小田良治の元別荘建物。銅葺き屋根の緑青が良い味を醸していますが、意外とシンプルな外観。しかし広い敷地にゆったりと建てられたその様は、実に存在感があった。照明や建具、ステンドグラスなど今では考えられないほど手の込んだものを使っていると。窓ガラスはドイツ製、床の大理石はイタリア製と建築材料は すべて外国から取り寄せたそうです。森戸海岸線からの写真をネットから。。銅葺き屋根の緑青が良い味を醸していますが、意外とシンプルな外観。「一色海岸」、「葉山御用邸」方向を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.23
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「妙楽寺」を後にして「八王子道」に戻ると、右手角にあった石碑と社。「田村 こまかへ𣘺 駒返橋 跡」碑。「田村駒返橋跡ここは、臨済宗妙楽寺の門前で古くから馬継の場であったので駒返橋の名が発生したものと思われる。古歌に「ふるさとを たちいでる幾月ぞ 夕月あおぐ 駒返の橋」天正十八年(一五九〇)徳川家康が関東に入国すると、このあたりは家康の最も好んだ狩場となった。たまたま家康が鷹狩にこの地に来たとき、大雨のあと道路がひどく悪かったので田村の人たちがたたみを出して運行の便宜を図ったので、家康は田村の人たちの苦労を思んばかって、ここから馬を返したという伝説がある。」「 馬を返した」とは山路等で、道を馬で進むのが困難になって、そこから先は馬では進めないため、乗ってきた馬を下りて、馬を返すこと。もう1基の石碑には「庚申供羪塔」と。天保13年(1842)1月山伏角柱右側面「天保十三壬寅正月吉日」台 石「講中」台石右面「世話人」・11人の名 が。祠の中には「道祖神」碑と「五輪塔」。祠内に新旧二基が五輪石に隠れるように鎮座している。右側後方の石塔:安永7年単体像:烏帽子を被る。 <形>舟型 <材>凝灰岩 <寸>42×25×13 <銘>(正面)安永□年下町 戌正月十四日氏子中央に新しい石塔:<形>自然石 <材>安山岩 <寸>52×28×11 <銘>(正面)道祖神そして手前に「五輪塔」が並ぶ。少し戻った右手奥にあったのが「諏訪神社」。神奈川県平塚市田村7丁目7−9。「諏訪神社」の鳥居と社殿。住宅街の民家と民家の間にぽつんと鎮座しているが、地域の人々に大事にされているのだと。扁額「奉納 諏訪神社」。内陣。「田村下町 諏訪神社新築落成記念 平成九年四月吉日」碑。次に訪ねたのが「常勝寺」。神奈川県平塚市田村7丁目6−47。「真言宗 宝幢山 常勝寺」。「本堂」。高野山真言宗寺院の常勝寺は、宝幢山と号す。常勝寺は、金輪寺の僧だった宥雄(寛文3年・1663年寂)が、小田原にあった常勝寺を引寺して創建したと。本堂の扁額「宝幢山 常勝寺(ほうどうざん じょうしょうじ)」。文化八年(1811)相模川の大洪水の際、当時の住職覚厳和尚が住民のために入定したと。「入定」とは、高僧が断食・生き埋めなど苦行の果てに絶命すること と。立派なそして歴史を感じさせる「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」。この宝篋印塔は享保20年(1735)建立、基壇部分には、田村の人の名前が刻まれていた。「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう) 」を納めた供養塔を宝篋印塔 と云う。最上部の棒状の部分は相輪と呼び、頂上に宝珠をのせ、下に請花、九輪、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪の下に露盤と階段状を持つ笠 があり、笠の四隅には隅飾(耳)と呼ばれる突起がある。笠の下の四角柱の部分は塔身という。江戸時代のものは、飾(耳)と呼ばれる突起が反りかえりひらいている。 その左に小さい石仏が左向きで。お釈迦様の姿であろうか。この石碑は?地蔵尊。「常勝寺」の前の道沿い東側にあった墓地。ここが「常勝寺」の墓地なのであろうか?立派な石塔があった。再び相模川の堤防に向かう。堤防に上がると正面にあったのが「駒返幹線排水樋管」。排水路や支川が堤防を横断して川へ流れ込む場合に、堤防の中をトンネルのように通り抜けるものを樋管または樋門という。堤防を分断し完全な開水路で通り抜ける場合の構造を水門という。水門はゲートを閉めたときに堤防の役割を果たす。「駒返幹線排水樋管」案内板。「神川橋」を振り返る。さらに相模川の右岸堤防を南下する。人の姿はなく相模川の右岸堤防を独り占め。堤防を下りてこの先を右折する。左手に「平塚市 リサイクルプラザ」。市内から発生する資源再生物のうち空き缶類、ビン、ペットボトル、容器包装プラスチックの4品目を合理的かつ経済的に処理し、有価物として鉄、アルミ、ビン、ペットボトル、容器包装プラスチック(プラクル)を資源化するための中間処理施設の工場部門と、廃棄物の減量化・資源化及び環境負荷の低減について理解することのできる施設の啓発部門を併せ持つ施設であると。その先にあった水路。「鹿見堂都市排水路」。神奈川県平塚市四之宮7丁目。橋の名は「しのみやはし(四之宮橋)」。そして到着した場所は「田村の一里塚の跡」。この辺りは平塚で最も古い道で平安時代の奥州道と云われ、後に中原街道・八王子道として利用され、榎を有した一里塚が設けられていたと 。東海道の平塚の一里塚が日本橋から15里60キロですから、中原街道では田村の一里塚が同じ地点になるのであろうか?そして中原に一里塚があるから、田村から中原まで一里4キロとなるのであろう。「南 中原道 北 奥州道ゑの木需?一里塚 跡」。石柱の建立年は不明であるが、なぜ石柱や石仏が左側の道に向いて、裏側の古道に向いていないのかが不思議であるが。「田村の一里塚の跡ここに平塚で最も古い道の一つで、平安の昔の奥州道であったといわれ、後に徳川家康が、江戸城から相州中原(平塚市中原)の宿舎まで、鷹狩にくるのに用いたと言う中原街道といわれる重要な街道があった。このあたりに、東海道などと同様に一里塚が設けられ、榎が植えらていたという。「新編相模國風土記縞」には八王子道にかかる一里塚であるとの記述もあり、このあたりでは中原街道と八王子道は、同一であったと思われる。」碑の右側の社の中の石仏。神奈中のバス停「鹿見堂橋」。家康が雨宿りした時に鹿を見かけたという鹿見堂は残らず、バス停にその名を留めるのみか。鹿見堂橋と、家康が箸(はし)を地面にさしたら森になったという弘法大師みたいな話の「箸立の森」はここより少し南にあったようだ。右手に「四之宮交番前」交差点。神奈川県平塚市四之宮5丁目29−13。更に南に進むと正面にT字路が。右に進むと「神奈川県下水道公社(四之宮水再生センター)」と。「神奈川県下水道公社(四之宮水再生センター)」入口が左側に。「四之宮水再生センター」は、相模川河口から5km上流の平塚市四之宮(ひらつかし しのみや)に位置し、昭和48年6月に流域下水道として、神奈川県内で最初に処理を開始した。相模川流域の関連市町3市2町(平塚市、伊勢原市、厚木市、大磯町、愛川町)の下水を処理。現在は、1日に306,150m3/日最大の下水を処理する水処理施設や汚泥処理施設が稼働している。「四之宮水再生センター」の航空写真をネットから。そして再び相模川右岸堤防に辿り着くと案内板があった。「四之宮の渡し江戸時代、幕府は相模川の架橋を禁止し、相模川の渡河は幕府が定める馬入や田村の渡しによって行われていました。相模川の対岸に飛び地を持つ村々は、飛び地に開けた農地を耕作するため独自に渡し場を設けていました。四之宮の渡し場の一つでした。江戸時代のはじめ、徳川家康が江戸と中原御殿を往来した時、四之宮の渡しも利用していたようで、その時の話が「四之宮の逆さ舟」「箸立の森」などの言い伝えとして残っています。実際の渡し場の位置は、川の流れの変動に応じて目久尻川合流点付近から前鳥神社付近の間でたびたび移動していました。四之宮の渡しは昭和30年(1955)頃まで使用されていましたが、その後廃止されました。」神奈川県平塚市四之宮4丁目20−37。昭和20年代の渡し(岸田實 画)。ここ「四之宮の渡し」のすぐ上流には、幕府直営の「田村の渡し」が設置されていた。ここは「中原街道」と、大山と江ノ島・藤沢を結ぶ「大山道」共通の渡し場だったとのことだが、現在この場所には「神川橋」が架けられているのであった。そしてここ「四之宮の渡し」は江戸幕府「直営」の渡し場ではなく、近在の村々が利便を図るために独自で設置されたとのこと。でありながら、鷹狩りで頻繁に訪れた徳川家康も利用していた と。徳川家康もいわゆる「白タク」ならぬ「白フネ」を利用したのだろう。「四之宮の渡し」の南側にあったのが「平塚 四之宮霊園」神奈川県平塚市四之宮4丁目20−8。「平塚 四之宮霊園」の墓地を見る。平塚市の中央に位置し、大山、丹沢山系を望む平塚エリア初の大型公園墓地。南側に「湘南銀河大橋」を見る。手前に「横浜都筑リトルシニアグラウンド」と「西湘パワフルズ 四ノ宮グラウンドがあった。「湘南銀河大橋」をズームして。神奈川県高座郡寒川町と平塚市を結び、神奈川県道44号伊勢原藤沢線(湘南新道)を通す相模川にかかる道路橋である。橋の名称は公募され、2371通の応募の中から「天にそびえる2本の塔に支えられ相模川をまたぐ壮大さと360度の広がりで見渡せる湘南の雄大な展望に、無限に広がる宇宙の夢、希望」(選考理由より)をイメージした「湘南銀河大橋」に決定したのだと。外観は、ペイブリッジなどと同じ斜張橋で、二本の主柱の高さは路面から48m。長さは520.3mで往復4車線と両側の歩道が設けられている。2007年7月までに片側2車線で本供用し、国道129号とも接続した。相模川河川敷にある「湘南銀河大橋ゴルフ」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.17
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さらに県道208号線「浦賀通り」を南に進むと、左手・旧住友重機械工業・浦賀工場の西門の横に「屯営(とんえい)跡の碑」案内板が置かれていた。幕末、築地新町(現在の住友重機械工業敷地内)にあった干鰯市場の一部が、幕府軍艦のための石炭囲置場となりました。明治8年この場所に水兵の基礎教育機関として「浦賀水兵屯集所」が設置され、その後「東海水兵分営」、15年には「水兵練習所」となり、18年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。ここで、水兵の基礎訓練を担当した士官たちは、病気やその他の事情で海上勤務ができなくなった者があたったため「屯営は生きた士官の捨てどころ」といわれ、嫌われていました。現在、住友重機械工業の船台の下に「屯営跡」の碑が建っています と。横須賀市浦賀3丁目2−26。「屯営跡の碑築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、明治五年(一八七二)、「海軍浦賀屯集所」が設置されました。その後、「東海水兵分営」、同十五年には「水平練習所」、同十八年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。その事績を残すため、昭和九年に「屯営跡の碑」が建てられました。この碑の石は、日露戦争のとき、旅順口の封鎖のために沈没させた弥彦丸に使用したものが使われています。」「浦賀屯営跡」碑の写真をネットから。 この碑は、昭和十年三月に建立されたもので、表は「浦賀屯営跡」と、当時の永野修身(おさみ)海軍大将が書いた。 裏には浦賀船渠(ドック)社長、のちの逓信大臣、寺島健海軍中将によって書かれた碑文がある。 碑の礎石は花岡(こう)岩で、日露戦争の時、旅順港内の敵艦を封じ込めるため、海中に沈めた石の残り。 同社川間工場で解体した弥彦丸から取り出したもの、という。碑文には、屯営は「明治八年に設けられた」とあるが、同六年(1873)の誤りだ、といわれている。 屯営は、八年に「浦賀水兵屯集所」と改称。 十年に逸見村、今の横須賀駅裏側に東海水兵本営が新設されると浦賀は、分営となった。 その後はー時、「浦賀水兵練習所」と改称、十八年に、再び浦賀屯営となった。 「海軍七十年談」によると「病気などで海上勤務に適さない期間は、定員外となり”屯営入り”した。 『屯営や生きた士官の捨て所』とうたわれた」とある。二十二年四月に逸見村の本営が横須賀海兵団となると、浦賀屯営は廃止。 この海兵団については、「三浦繁昌記」(明治四十一年刊)に、「汽車、田浦駅を出で将(まさ)に横須賀駅に着せんとする時に、 旅客は車窓より広闊(かつ)なー郭に事業服を着たる兵士の奔走し、又は練兵するのを見るであろう。これ即ち海兵団である」と書かれている とネットから。記念碑は造船所敷地内だという。道路の反対側にあったのが「大衆帰本塚の碑」。横須賀市浦賀3丁目3−13。「大衆帰本塚」と。石碑の下部。「大衆帰本塚の碑」。大衆帰本塚の碑は、元治元年(一八六四)九月に建てられました。篆額は江戸時代後期の国学者の大畑春国が書き、碑文は浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と筆跡がそのまま刻まれています。碑材には、安山岩の中でも板状節理が発達した箱根産の根府川石が使われています。なお、石碑は浦賀警察署裏手にあった山の中腹あたりに建てられていましたが、平成9年の造成工事により現在の場所に移りました。「この辺りの昔の様を想うに、沢の辺の田処にして葦蟹なども住みけむからに、蟹田(蟹田川はガンダガワと言う)としも呼び初めにしやあるらん。近くは薪樵る老翁、牛飼う童も行き交う道の便り悪しき片山陰の荒野にしあれば、朝の露、夕べの煙の空しき跡を訪う人ならでは、分け入るべくもあらぬ草むらになむありける。さるを大御代の栄行くに随い、湊の賑わい弥増さりつつ、野にも山にも家居立ち込み、往くも復るも所狭くなれば、かの立ち上る煙の末の里中かけて棚引き来るを、人皆いぶせく思いわびてありしに、このひた浦の事取り給いし大久保土佐守忠董朝臣の、えも言い知らぬ思したちにて、其墓所をも煙の場をも、いと遥かなる山辺に退け、なお朽ち残れる古き骸をば皆一処に集へ埋みて、大衆帰本(またはダイシュキホン)の塚と呼ぶべし。その記をも残すべしとこと定め給いてしかば、浦人拳りて尊び会える中にも、川島平吉という者殊更にこの掟を畏み、その故由を、碑を選り据え、千年の後も忘れざらしめ、また、そこばくの桜を植え添え、昔人の魂をも慰めむとなり。あわれいみじの心知らいや頼もしのまめ心や。かく言うは、この浦賀の湊に司たちて仕えまつる。中島三郎助永胤大畑春国篆元治元年甲子秋九月」と刻まれているのだと。『碑文の概要』この周辺の昔の様子を想えば、葦蟹が遊ぶところから蟹田といい、のどかな湿地帯であった。しかし、ここにも湊の賑わいから家並みが押し寄せてきた。この開発によって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養しようと、時の浦賀奉行の大久保土佐守が大衆帰塚を設けることを決めた。この話を聞いた奉行所付大工棟梁の川島平吉は、奉行の決定を神妙に承り、千年後までもこの事実を伝えるためにも石碑も良い物を選び、碑の周辺には何本かの桜の木を植えて、無縁になった人々の魂を慰めようと考え、実行した。立派でたいそう嬉しい心配りであり、なんと心強くまじめな心であろうか。このように言うのは、浦賀奉行所与力の中島三郎助永胤である。その隣にあったのが「横須賀南警察署 浦賀地区交番」。令和5年4月1日から浦賀警察署は横須賀南警察署に名称が変更となったのだと。横須賀市浦賀5丁目1−1。「旧浦賀警察所」の建物は閉鎖され、正面の窓には木製板が貼られていた。「浦賀通り」案内板。「浦賀丘入口」交差点の奥に「浦賀造船所跡・浦賀ドック」が見えた。「浦賀丘入口」交差点手前のT字路の交差点を右に入ると。前方の丘の斜面に神社の姿が。ズームして。この先の石段を上り神社の鳥居へと。石鳥居が2基。ニの鳥居の扁額「荒巻稲荷」。横須賀市浦賀6丁目1。「荒牧稲荷神社」の社殿。 本坪鈴(ほんつぼすず)とその奥に彫刻。内陣には狐様そして立派な「社(やしろ)」が。「江戸時代後期に作られたとみられる小型の社(やしろ)がこのほど、五十年ぶりに持ち主である横須賀市浦賀町の荒巻町内会(長谷川文次会長)の手に戻った。これまで詳しい調査が行われていなかった社には豪華な彫刻が残っていたほか、製作直後に書かれたとみられる「嘉永五年」(一八五ニ年)と記された文書も見つかった。専門家らも「当時の浦賀を知る貴重な資料」と太鼓判を押しており、同町内会は「歴史ある浦賀の街の宝物が見つかった」と喜んでいる。ケヤキで作られた社は高さ約一・ニメートル。約百五十年前の江戸時代後期に作られたとみられ、当時の社殿の建築様式を忠実に再現している。側面には鶴に乗った仙人などを表現したと思われる豪華な彫刻も。屋根などの一部に補修された跡があるが、ほとんどが当時のままで現存している。「嘉永五年」と記された文書は京都伏見区の稲荷神社から贈られたもので、社が江戸時代末期に作られたことを裏付けている。戦後の混乱期に町内会から保管の依頼を受けた近くの太子寺の境内で五十年間にわたって奉られていたが、町内会側が存在を忘れ、”日の目”を見ることはなかった。長谷川会長らがニ月に太子寺から社の返還を受け、現在は同町内会が大切に保管している。市生涯学習課は、市民文化資産に指定されている東耀(よう)稲荷(同市東浦賀町)などの彫刻に匹敵すると評価。彫刻に詳しい市文化財専門審議会委員の上杉孝善さんも「豪華な作りは、商人の町として繁栄した当時の浦賀をしのぶ貴重な資料だ」と話す。町内会では「夢の広がる宝物。できれは一般公開をして、街の活性化につなげたい」と話している と2004年(平成16年)3月25日(木)の神奈川新聞の記事も展示されていた。「社」の写真。そして次に訪ねたのが「浦賀丘入口」交差点を右に入った場所にあった「太子寺」。「太子寺」には先程の荒巻稲荷神社の社が50年以上置かれていたのであった。「日蓮宗 太子寺」。横須賀市浦賀6丁目3−6。正面の建物は一般住宅の様な外装であった。正面には掲示板と案内板が。「今月の聖語人身は持(たも)ちがたし草の上の露日蓮聖人ご遺文『崇峻天皇御書』」=心が肝心=ハダカデバネズミは老化現象が見られない、不思議な生き物です。これこそ多くの人が望む「不老長寿」!?…かと思いますが、老化しないだけで、やがて寿命やケガで死んでしまいます。彼らの身も、私たちと同じで「草の上の朝露のように持ちがたし」なのです。私たちは健康管理に努め、検査や人間ドックなどに通「いのち」を長らえようとします。でも肝心なのは、「人身(身体)」とその使い方を左右する「心のあり方」がセットであるということです。憎しみ奪い合うか、それとも敬い譲り合うかで、世の中はまったく違ってきてしまいます。でもわかっていても自分だけの利益を考えてしまう。やられたら仕返しをする。心のあり方次第で、ささいなことが大きな争いになったりもします。まず自分自身が敬う心を持った人身を目指しましょう。◎日蓮聖人ご遺文『崇峻天皇御書』法華経・日蓮聖人の教えを熱心に信仰する四条金吾に宛てたお手紙。人間社会の中で、組織の中で、どのような心構えで行動したらよいかを崇峻天皇の故事をあげ、細やかに指南します。建治2年(1277)聖寿56歳」「太子寺太子堂の名で親しまれている日蓮宗のお寺です。昔、佐原の聖徳院で火災があり、お堂が浦賀に疎開しました。地元の人に太子信仰として敬われ荒巻の太子堂として定着しました。本堂には背中に元徳三年(一三三一)と刻まれた聖徳太子の僧形の幼年像が祀られています。この木造は浦賀水道の海から出現したといわれています。太子は仏・法・僧の三宝を説き広く仏教の布教につとめました。ものづくりの神様としても知られ職人達の信仰をあつめています。浦賀行政センター協働事業・浦賀探訪くらぶ」本堂。扁額「聖徳皇太子」。墓地を見る。本堂の裏にあった稲荷神社。「妙法三田壽九稲荷大明神」と。「安楽喜墓」と。石仏。そして「浦賀通り」まで引き返す。正面に「mamaの広場 浦賀店」。先日訪ねた「浦賀ドック」👈️リンク 内の「浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T」と書かれたクレーンを見る。「横須賀市下水道 浦賀ポンプ場」。汚水を汚水処理場まで送る施設。基本的に汚水は自然流下って言って、高低差で流れるようになっています。ですがそうなると、汚水処理場は一番低い場所に造らなくてはならず!!。従ってポンプの圧力によって汚水を送水しているのだ。右手に「浦賀コミュニティーセンター分館(郷土資料館)」案内板。白色のツツジ。近づいて。ピンクのツツジの垣根。「浦賀ドック」越しに「西浦賀」方向を見る。そして「浦賀コミュニティーセンター分館」案内板。「浦賀コミュニティーセンター分館」。この日は訪ねなかった展示室をネットから。再び「浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T」と書かれたクレーンを見る。バス停留所「ドック前」。「浦賀通り」から1本山側の道・「浦賀道」に入る。右側にあったのが「横須賀浦賀郵便局」。横須賀市浦賀7丁目13−16。そして再び海岸線を走る県道208号線・「浦賀通り」に戻る。先日歩いた「浦賀ドック」👈️リンク の「ドックゲート」の上部の連絡歩廊を見る。移動後にズームして。浦賀湾の対岸の「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」。「浦賀湾」の先に房総半島の山々の姿が。再び元の山側の道・「浦賀道」に戻る。右手前方に案内板が見えた。「浦賀道浦賀道は、江戸時代に幕府と浦賀奉行所を結ぶ重要な連絡道でした。江戸幕府寛政十二年(一八〇〇)に五街道の測量図を作成し、その中に「浦賀道見取絵図」が含まれています。絵図では東海道戸塚宿から鎌倉・葉山・池上を通り、大津矢の津坂越えて浦賀に至ります。東岸のルートは、保土ケ谷宿から金沢町屋を経て武蔵と相模の国境(追浜)を過ぎると峠越えや尾根道が続き一三峠など相当な難路でした。金沢からは陸路より早くて楽な船便がよく利用されたといいます。幕末期、ペリーの黒船来航の際は大勢の武士や見物人がこの浦賀道を通ったといわれています。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探報くらぶ」。「浦賀道見取絵図」。江戸時代後期(天保年間の頃)の浦賀は東浦賀でおよそ2,000人の人口があった。西浦賀ははっきりした人口データがないが同じ頃の家数で比較すると東浦賀のおよそ450軒に対し西浦賀はおよそ550軒なので、東西浦賀ではおよそ4~5,000人の人口があったのだろう。「浦賀奉行所 開設300周年浦賀奉行所は2020年に開設300周年を迎えた」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.30
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蜜蜂の巣の中のダニ発生を抑制、駆除するために,オンラインショッピングでジャスミンの花の乾燥したものを購入しました。蜜蜂用に作られた製品ではなくハーブティ、ジャスミンティーの製品なのです。養蜂師匠の相模庵さん、から紹介して頂きました。このジャスミンの花をダニ駆除剤としてミツバチの巣箱内に収容することにより、ミツバチに寄生するダニを駆除するのです。ジャスミンの花から出る揮発性成分が効果があるようです。プロの養蜂家はミツバチを巣箱内において多数飼育しています。多量の蜂蜜を採取する上で、ミツバチの衛生管理は重要であり、種々のミツバチ特有の病気からミツバチを守るために、従来から種々の対策が講じられているようです。ミツバチ特有の病気の一つに、ミツバチに寄生するダニによって引き起こされるバロア病(ミツバチへギイタダニ感染症)と言うのがあるようです。このダニの成虫はミツバチの体表に付着、し吸血する他、このダニの繁殖はミツバチの巣箱内で行なわれ、母ダニが産卵し、孵化した子ダニがミツバチの蛹の体液を吸って成長し、親ダニとなって新たな巣箱に移ってまた繁殖を繰り返す、という被害の蔓延をもたらすのだそうです。体液を吸われたミツバチは成長不全になり、小型化したり、正常な活動ができなくなり、甚だしい場合は巣箱内のミツバチが全滅する結果をもたらすこともある と本に書いてありました。オオスズメバチによる全滅は聞いていましたが、ダニによっても全滅することがあるとは少しショックですね。早速、このジャスミン花を手の上に乗るぐらいの量を小分けし、家にあった網袋に入れて養蜂場に向かいました。ニンジンのようなものが袋に入れたジャスミン花です。大きさに大小がありますが、全く気にしていないB型人間の仕業です。これをそれぞれの巣箱を開け巣枠の上に置き、その上を麻布で再び覆い完了しました。昔はミツバチのダニ駆除剤として、化学合成品が使われていたようですが、蜂蜜への影響が心配され、天然素材であるジャスミンの花をダニの駆除剤として使用するこの方法が開発されたとのことです。この袋の中身の取替えを2~3ヶ月毎に行うことにより年間を通して使用でき、特に蜂蜜を採集する期間でも使用できるので高い効果が期待できるとのこと。また、ジャスミンは天然物であるので、ダニの耐性も生じないようです。とりあえず、家にあった網袋を利用しましたが、やや編み目が粗いため、ジャスミン花の細かい粉が抜けてしまいます。もっと目の細かい不織布の様なものの方が良さそうです。後で近くの百均に行って探してみたいと思います。いろいろと養蜂については、毎日が勉強と対策の日々です。そしてそれが面白いのです。ちょっと買いすぎましたので、ジャスミン茶を飲んでから百均へ。今や蜜蜂と運命共同体を少なからず感じている『アラカンおじさん』です。
2009.04.30
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク1番札所:霊山寺7時の開門を待つ間に駐車場裏の広場の様々な彫刻を楽しむ。ちょっとユニークな十二神像。鯨に乗った孫悟空。阿弥陀如来に土下座する孫悟空。お釈迦様の手のひらで 頭を抱える孫悟空。何かをして叱られている所でしょうか?横になって寝ころんでいますが、なぜかフクロウが膝の上に。全て若手の一人の作品の様に感じたが誰?そして漸く7時になり総合案内所も点灯しOPEN。お遍路グッズ販売店前のマネキンはお遍路フル装備。なぜ外人? なぜハイヒール?参拝をする前に境内外にあるこの総合案内所へ行き、白衣(びゃくえ)と輪袈裟(わげさ)を購入しました。「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と背中に書かれた白衣。これは御宝号(ごほうごう)といい、真言宗で唱える一番短い『お経』。仏さまの慈悲の光は、すべてのものに及びます。そして、すべてのものに幸せを及ぼそうという智慧(ちえ)の働きは、ダイヤモンド(金剛石)のように堅固で輝きを失いません。これが「遍照金剛」の由来とのこと。そしてその横に「同行二人(どうぎょうににん)」の文字も。「同行二人」とはお遍路がお大師さまと二人ずれという意味。遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けていると。そして一番上には、弥勒菩薩を表す梵字が。読みは「ユ」と。輪袈裟(わげさ)。輪袈裟は、僧侶が首に掛ける袈裟の一種で、作務(さむ)や移動の時に用いるのが一般的であるとのこと。そもそも袈裟とは、サンスクリット語kasaya(「色の濁った」「よごれた」の意)の音写で、仏教の僧侶のまとう衣のひとつであると。霊山寺境内案内図。本坊側駐車場にある発心の門をくぐると山門前に出て、山門を入るとすぐ左に手水鉢がありその後に鐘楼がある。先に進むと左手に多宝塔、その向かいの池の先に大師堂があり、正面の最も奥に本堂がある。本堂に向かって左に十三仏の最初の不動明王坐像が祀られ、その左に続く十二仏が立姿で並んでいる。納経所は個人用が本堂の中の右側に、団体用は東側の駐車場から入ってすぐの所にある。 【これからの境内案内はWikipediaより転載させていただきます。】 【これからの上記地図は 【http://boianuf.hatenadiary.com/entry/20140802/1406960227】 より転載させていただきます】 言い伝えでは空海が四国八十八ヶ所を定めたといわれますが、これは事実ではないようです。江戸時代に真念というお坊さんが『四国邊路道指南』というガイドブックを書いて八十八ヶ所と札所の順番を定めたのが事実と。 霊山寺入り口の発心の門より境内へ。四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、「同行二人」の長い旅となる。四国遍路では、徳島に始まり高知・愛媛・香川に至る霊場巡りをそれぞれ「発心・修行・菩提・涅槃」といい、人が悟りをひらいて心の平安を得るまでの4段階になぞらえているのだと。「発心」は悟りを求める心、これから始めますという決心。そして我々も四国八十八ヶ所お遍路の旅を、ここ「発願の寺」・霊山寺からいよいよスタート。寺伝によれば霊山寺(りょうぜんじ)は奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間留まって修行したと。空海はこの地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難をはらって、心身の救済ができる霊場を開こうと修行をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・一乗院 ・霊山寺(じくわざん いちじょういん りょうぜんじ)」と名づけられたのだと。仁王門は入母屋造楼門。 「四国第一番 霊山寺」と書かれた大きな提灯。仁王門には口を開いた阿形(あぎょう)像が正面向かって右側に。 吽形(うんぎょう)像も左側に。 水屋。手を洗う場所ではなく心を洗う場所「洗心」、「心洗」。縁結び観音。仁王門を入ってすぐの所にある縁結び観音は、恋愛はもちろん、仕事の縁や健康との縁、幸せの縁など様々な「縁結び」にご利益があると。水でお清めして心の底からお祈りすれば、さらに功徳があるとか。水屋の廻りにはカエルの置物と不動明王像が添えられていた。仁王門を境内側から。 水子地蔵の池。池(泉水池)の中には稚児像が沢山浮かんでいた。そして大きな鯉が悠々と泳いでいた。泉水池と大師堂。多宝塔。歴史を感じる多宝塔だが、応永年間(1394〜1428)の建造で、五智如来像が祀られている。天正十年(1582年)、長宗我部元親の攻撃で堂塔は炎上。現在の塔は、その後に阿波藩主・蜂須賀光隆公によって再建されたもの。ちなみに、明治二十四年(1891年)にも霊山寺は出火により、本堂と多宝塔以外を残して焼失してしまう。本堂と並んで600年近い歴史を持つ、数少ない遺構で組み物が見事。右下には1945年にアメリカ軍が広島に落とした原子爆弾で燃えた火が灯され続けているのだと。水子地蔵。弘法大師も旅立ちの姿。三鈷松(さんこまつ)。密教法具「三鈷杵(さんこしょ)」を空海が中国から日本の密教成就の地に向かって投げたところ、 高野山の松の木に引っ掛かっているのが発見されたということから、三鈷松と言われ ますが、この松の葉が驚いたことに3本(普通の松葉は2本)あると。 ここの三鈷松の松葉を財布にいれていると幸せに。黄金色になったのを入れると 金持ちにと。本堂への階段を上る。本堂。本堂は改修工事がされており、中に入れず残念。 竺和山 一乗院 霊山寺(じくわさん いちじょういん りょうぜんじ)宗派 高野山真言宗 本尊 釈迦如来 創建 天平年間(729年~749年) 開祖 行基 (聖武天皇勅願) 所在 徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126番地 本尊真言: “のうまくさんまんだ ぼだなん ばく”板塀の前には、心静かな仏像が。 聖龍美観音像。等身大の十三佛。実際は十二佛。 再び多宝塔。多宝塔は上層が円形、下層は方形で建立され600年近い歴史を持つ。鐘楼。1505年に移された県下で4番目に古い梵鐘であり、県指定有形文化財に指定。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。霊山寺は2回目ですので「重ね印」を頂きました。そしてこちらも2枚目の御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も。---------------------------------------------------------------------------------------2番札所:極楽寺1番札所霊山寺から2番札所極楽寺まで1キロ余り、あっという間に第2番札所極楽寺に到着。ここ、2番札所極楽寺は、安産祈願子授祈願にご利益のあるお寺。日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)と号する。寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に小山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。 三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門が迎えてくれた。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置 金剛力士像。 朱塗りの仁王門を入って先方には赤い旗で囲んだ願かけ地蔵堂が。お地蔵さんの真言を唱え、自分も精進努力すれば不思議なご利益があると。 日照山 極楽寺 境内配置案内図。招福弁財天。境内には「雲海の浄土」と呼ばれる庭園が広がっていた。 見事な彫刻の手洗場。見上げると、極楽浄土のような絵が彫られていた。 柱にも龍の見事な彫刻が施されていた。子授招福大師。極楽寺は子授け祈願ができるお寺として四国の中でも有名。境内に祀られた子授招福大師は、子供を抱いている数少ないお大師様で、子授けの強いご利益があると釈迦如来像。水子地蔵尊。 六地蔵。三界萬霊(さんがいばんれい)の文字が刻まれていた。三つの世界・三界、すべての精霊に対して供養することの大切さを示すものと。三界とは、無色界(むしきかい)、色界(しきかい)、欲界(よくかい)の三つをさすと。平和観音像。 阿弥陀如来像石仏。 鐘楼堂。薬師堂。江戸時代末期建立。 仏足石。釈迦が石の上で説法をすると、石に足形が残ったといわれるもので、本堂階段の上り口に。 44段ほどの石段を上る。正面に本堂が。本尊・阿弥陀如来像 は国重要文化財。「両界曼荼羅図」(二幅)と「地獄極楽図」はともに県指定文化財。日照山 無量寿院 極楽寺(にっしょうざん むりょうじゅいん ごくらくじ)宗派 高野山真言宗本尊 釈迦如来 創建 弘仁年間(810年 - 824年) 開祖 行基 (聖武天皇勅願) 所在 徳島県鳴門市大麻町桧字ダンノ上12番地 本尊真言: “おん あみりた ていぜい からうん”安産大師像。大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれたという由縁によるもの。 弘法大師像と聖観自在菩薩。太子堂。観音堂。観音堂には千手観音が祀られていると。本堂から右奥の大師堂の途中に 抱き地蔵の「重かるさん、軽かるさん」が。 地蔵さんを抱いて 軽いと感じたら 願い事が叶い、重いと感じたら悩みが長引くと。四国霊場会 特認大先達 田渕義雄さんの像。四国八十八ヶ所霊場巡拝百回成満記念に建てられたと。100回も納札に巡るのは、大変な時間と努力と労力が。長命杉。弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル周囲約6メートルもある霊木。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定 大杉に繋がっている紅白の綱に触れると霊気が伝わり長寿のご利益があるそうです。一願水掛不動尊水を掛けてお願いすると願いがかなうという不動尊。ただし一回だけ。欲張ってはいけません。 本堂下の階段を下りる。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。極楽寺も2回目ですので「重ね印」を頂きました。そしてこちらも2枚目の御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も。
2017.10.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に駿府・府中宿の散策を続ける。『静岡の由来』。「明治二年(一八六九)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された 重臣の間では賤機山にちなみ賤ヶ丘といったんは決まったが藩学校頭取の向山黄村先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決 同年六月二十日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた。以来百有余年富士を仰ぐふるさとの静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った。ここに市制施行九十年を迎え黄村先生の遺徳を敬仰しゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす」。『駿府町奉行所址』。『駿府町奉行』。「駿府町奉行は、老中直属の組織で、町政全般の掌握から訴えなどの裁き、城下の警備や府中宿の管理などまで、駿府の町民生活に直接関わる広範な業務を担っていました。寛永9年(一六三二)に大手組町奉行として駿府城大手御門前のこの地に設置され、明治元年(一八六八)までに旗本を主に六十三人が町奉行に任命されました。町奉行の配下には、与力八人と同心六十人がいてその職務にあたっていました。」『里程元標阯』。「道路の始まりと終わりを、「起点」「終点」と呼び、その路線を示すものとなっています。起終点とは、起点と終点をまとめた呼び方です。 道路元標(げんぴょう)とは、道路の路線の起点や終点や経過地を表示するための標識のことで、大正9年に設置されました。明治期に設置されたものについては、里程元標と呼ばれています。 また、起終点標とは、道路の起点や終点を表すための石標やモニュメントのことです。都市の中心地には、道路元標や、里程元標や、起終点標などがあります。」『札之辻址』。「江戸時代から昭和二十年まで呉服町と七間町の交差点付近には「札ノ辻町」がありました。東海道の道筋にもあたり、立ち並ぶ商家を訪れる人達などで賑わっていました。四ツ辻の中には幕府の政策や法令をかかげた高札場が駿府町奉行所により設けられ「札之辻」名の由来となっています。」『札之辻町』町名碑。「札之辻町の町名は、江戸時代、ここに高札場があったことに由来します。 「元禄五年駿府町数井家数人数覚帳」によると、札之辻町の家数は十一軒、人数百三十二人でした。 高札とは、幕府の法令を庶民に徹底させるため、各地域の要所に設置された掲示板です。札之辻の高札場は、現在の七間町通りと呉服町通りが交差する駿府城寄りの道の中央に立てられていました。札之辻界隈は、当時から商家が軒を連ね、多くの人々で賑わっていたようです。 また、近世の東海道は、この四つ辻で直角に折れ、七間町と呉服町を結んでいました。 昭和二十年、札之辻町は呉服町・両替町・七間町の一部となりましたが、「札之辻」の地名は今も市民に親しまれています。」七間町(ひちけんちょう)通りを更に進む。町名の由来には諸説あり、絹・米・油・魚・木綿等の座(同業者組合)が7軒あったとする説、道路の幅が七間(約13メートル)だったとする説、秤屋が7軒あったとする説などがある。七間町を貫通する七間町通りは、東海道府中宿と鞠子宿の間の経路となっていた。江戸時代には駿府の宿場としては伝馬町が栄えたが、1889年(明治22年)に鉄道の東海道線が開通するまで静岡でもっとも栄えた繁華街は七間町だったと。左手には大理石の球体のモニュメントが。「四十億年の眠りからさめて、石の沈黙がいまあなたをに語りかけます」と。静岡県と浙江省は1982年4月の友好提携以来、40年近くにわたり経済、文化、環境など幅広い分野における交流を積極的に促進し、相互理解と友情を深めて来ているとのこと。その関係のモニュメントなのであろう。そして確か浙江省の大理石は埋蔵量国内1位。平成3年(1991年)の文字があるから友好提携9年目のものか。両替町通りを進む右手に『駿府銀座発祥の地』の碑が。両替町の歴史は、慶長11年(1606年)、徳川家康によって駿府城の蓄財としての銀貨鋳造所(銀座)が旧二丁目付近に設置されたことに始まる。町名の「両替」は、銀座の業務として灰吹銀を買い入れ公鋳の丁銀と引き換えることである。また、この銀貨鋳造所の周辺には両替商が集積した。家康が隠居した後の慶長十七年1612年になると、銀貨鋳造所は駿府から江戸に移転した。この江戸に移転した銀貨鋳造所が置かれた土地が、東京都の銀座である。東京都の銀座は、江戸時代(特に慶長から寛永にかけて)には「新両替町」と呼ばれていた。江戸移転前のかつての駿府銀座の所在地である現在の静岡市の両替町(特に静岡駅に近い二丁目付近)は、静岡県最大の歓楽街となっている。また、江戸時代の銀座の中心的存在であった京都銀座は、現在では両替町通として名を残す。よって、今日の東京銀座のルーツはここ静岡にあると。更に右手に寺の如き山門が。静岡市葵区両替町一丁目に位置する『不去来庵(ふきょらいあん)』。「仙洞御所伝来の阿弥陀如来坐像を本尊とする、通称「伊伝」の名で知られた渡邉家の持仏堂。第二次世界大戦において焼失の激しかった静岡市中心部にありながら戦火を逃れ、明治・大正の粋を究める建造物として、国の登録文化財の指定を受けた。本堂には数々の意匠が施され、特に正面の左右扉にある漆喰鏝絵の金剛力士像は、静岡を代表する左官職人の森田鶴(かく)堂(どう)の手によるものです。」『不去来庵』と刻まれた石碑。『遍界山 不去来庵』。「伊伝」の通称で知られる渡邉家の持仏堂。光格天皇の御念持仏・阿弥陀如来像をまつるため1897年から18年かけて完成した。奥行き約9メートル間口約6メートル。明治・大正時代の技術の粋を集め、2000年に登録有形文化財に指定された。そしてその前には『東海道中膝栗毛 十返舎一九生家跡地』。駿府城の西、両替町通り沿いの住宅街のド真ん中に。「『膝栗毛』で名高い江戸の戯作者、十返舎一九は、駿府町奉行同心重田與八郎鞭助(べんすけ)・妻りへの長男として、明和二年(一七六五)両替町一丁目のこの地で生れた。幼名市九、通称七郎、名は貞一(さだかず)という。享和二年(一八〇二)三十八歳で『東海道中膝栗毛』を刊行し、一九の文名は大いに揚がり、以来文筆一本で生計を立てた我が国最初の職業作家と称された。若くして俳諧を始め、大阪では浄瑠璃作者としても活躍したが、後に江戸に出て自作自画の黄表紙を始め、洒落本・滑稽本・合巻・読本・人情本・咄本等に筆をとり、また、狂歌集・往来物等も多数出版した。生来まことに多芸多才の人で、武芸・香道・書法等にも通じており、絵師としても高い才能を認められている。一九は、継ぐべき重田家第九代を弟義十郎に譲って江戸へ出たが、義十郎に子がなかったため、一九の長男定吉が重田家第十代を継いだという。天保二年(一八三一)八月七日歿。六十七歳。浅草東陽院(現在は中央区勝どきに移転)に葬られた。戒名は、「心月院一九日光信士」とある。伝えられる辞世歌は、『十返舎一九研究』よりこの世をばどりゃおいとまと線香の煙と共にハイ(灰)さようなら」旧東海道に戻る途中、葵区梅屋町にあった『津島神社』。新通り角にあった『秋葉神社』。旧東海道とは異なる本通り(県道208号線)に一里塚があるようなので行ってみた。ネット情報の通りに『府中の一厘塚址』の石碑を発見。「一里塚は、江戸時代、徳川幕府が東海道をはじめ主要官道の里程を知らせるため、一里(約四キロ)ごとに直径七~八メートルの土饅頭を盛り、榎などの木を植えて旅人の目印にしたものである。 慶長九年(一六〇四)江戸(東京)の日本橋を基点として、東海道、東山道(中部や関東の地方)、北陸道(中部日本)の三街道に一里塚を設けた。しかし、現在では、交通機関の発達や道路拡張などによって大部分の一里塚が破壊され、残っているものは少ない。 一里塚は市内長沼、本通八丁目、丸子、宇津ノ谷の四ヶ所に設置されていたが、いずれも原形をとどめていない。ここ本通の一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである。 現在、県内に残っている三島市錦田の一里塚は、日本橋から二十八里の地点に築かれたもので、大正十一年、国の史跡に指定されているほどである。」旧東海道と言われている道とは異なる場所に設置されている。あえて人目に付きやすいように、現在の幹線道路に設置したのか、当時から設置場所が異なっていたのか不明??旧東海道に戻るべく本通り(県道208号線)を歩く。この先を左手に曲がり進むと静岡市葵区駒形通五丁目。現在は静岡県地震防災センターがある付近が駿府に在った二丁町遊郭の場所であると。大御所徳川家康の隠居の地である駿府城下に造られた幕府公認の遊郭で、1万坪もの広大な面積を誇っていた。後にその一部は江戸に移され、吉原遊廓になった。蓬莱楼など代表的な遊郭は明治時代以降も続いたが、第二次世界大戦の静岡大空襲で焼失したと。『歌川広重・東海道五十三次 佐野喜版・狂歌入東海道 府中/二丁町廓之図皎月楼演子 たび人も こひをするがの 二丁まち おもひはふじの 雪とつむらじ』「するが」は、「駿河」と「旅をする」の駄洒落なのであろう。『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 二十 五十三次 府中」。「家康が将軍職を退いた後に住んだ駿府城。その城下町には宿場とともに昔から遊女街があり、多くの人で賑わいました。」新通りに戻り県道354号線が前方に。静岡環状線(県道354号線)の横断歩道を渡る。静岡中央警察署 弥勒交番の傍らに立られていたのが「安倍川の川会所(かわかいしょ)跡」の説明板。「江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがある。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。川越人夫 による渡しでは、小型川越えの興津川、中型川越えの安倍川、大型川越えの大井川 などが、いずれも代表的な存在であった。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督するところが川会所であった。安倍川にも両岸に川会所 があった。ここには、毎日川役人が勤務して川越人夫を指示したり、川越え賃金の取り扱いをするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当っていた。この川会所は間口六間、奥行き四間半であり、五人位の裃を着た役人が務めていたといわれている。ちなみに、安倍川の川越え賃は、脇下から乳通りまでは一人六十四文、へそ上は五十五文、へそまでは四十八文、へそ下は四十六文、股までは二十八文、股下は十八文、ひざ下は十六文であったといわれている。」弥勒交番の後ろの三角形の緑地帯・弥勒緑地にあった大きな石碑。『安倍川架橋の碑』「この石碑は、宮崎総五郎氏が社会事業のためにと、明治七年に多額の私財を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治四十一年に建てられたものです。」夢舞台・東海道『弥勒』の道標。同様なものが何故か本通り(県道208号線)側にも。 途中、こんなマンホール蓋も見つけた。右下に「2015」と書かれた消火栓カラー蓋。富士山、駿河湾、美保が描かれている。手前には家康が祀られている久能山東照宮。その右側には「大御所家康公 顕彰四百年」の文字。新しいうちは白文字だったそうだが、文字部分が凸部だったため色が取れてしまったらしい、とのネット情報あり。静岡市街には、カラフルな色彩、そして様々なデザインのマンホール蓋が私を楽しませてくれたのであった。 その10に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.03
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「境川」に沿って暫く北上し、その後北西に向かい「浄照院跡」に到着した。「じょうしょういんあと。浄土宗親緑山一心院仏導寺の末寺。開山・開基は不明。昔は清浄院といい、遊行寺に属した寺で本尊は阿弥陀如来でした。」「昭和九年 南無涅槃釈迦年尼佛」(左)と右の塔婆には「施餓鬼会 為釈迦堂諸精霊追善菩提」と。「深見村傳兵衛 青木氏歴代諸霊之霊位」と刻まれた墓石。「青木家之墓」。そしてその先にあったのが「深見神社」の東参道の石鳥居(明治29年10月建立)。社号標石「郷社 深見神社」。「深見神社」の南側に廻り境内へ。正面に「拝殿」が見えた。大和市深見3367。「御由緒深見神社(旧社格郷社)御祭神 闇龗神 (くらおかみのかみ) 武甕槌神 ( たけみかずちのかみ ) 建御名方神 ( たけみなかたのかみ )例祭日 九月十五日我国の神社総覧とでもいう記録で最も古いものは延長五年(九二七)に奉進された「延喜式」神名帳であるこれに記載されている神社を延喜式内社と呼びならわし古社であることを意味し当神社も延喜式内社で相模国に十三座ある内の一座である創建年代と御祭神は「総国風土記」によれば「相模国深見神社雄略天皇二十二年三月(約一千五百年前)に祭るところ闇龗神なり」と記されている神社縁起によれば「武甕槌神東国鎮撫のため常陸鹿島に在られしとき船師を率いてここに進軍され伊弉諾神の御子の倉稲魂神と闇龗神(雨神)は美田を拓き土人を撫して郷を開かれた」とある 即ち深見の名の起こった所以である後世徳川時代になると深見は旗本坂本家の知行地となり坂本家の崇敬する鹿島神宮(武甕槌神)から分霊を受けて従来から祀られていた闇闇龗神は境内にある御倉稲荷神社に合祀された以来深見神社の祭神は武甕槌神(武運長久)となった平成二十四年三月に現社殿再建七十年を節目として 創建時の御祭神の闇霞神を本殿に合祀した明治九年 火災により社殿工作物などを悉く消失明治四十二年 末社の諏訪神社(建御名方神)合祀昭和十七年三月 現在の社殿再建」「手水舎」。「社殿・拝殿」。近づいて。深見神社の創建年代は不詳ですが、雄略天皇22年(485)の創建と伝えられ、延長五年(927)に完成した延喜式の神名帳に明記された延喜式内社の一社。江戸時代に編纂された新編相模国風土記稿には「鹿島社」として見え、明治6年には郷社に列格したとのこと。社殿前の両脇には五色の吹き流しが。真榊(まさかき)と呼ばれるものであろうか。真榊(まさかき)とは、神事の場で祭壇の左右に立てる祭具。 緑・黄・赤・白・青の五色絹の幟(のぼり)の先端に榊(さかき)を立て、三種の神器を掛けたもの。「五色」(ごしき)は、古代中国の「五行説」(ごぎょうせつ)に由来している。万物は、木・火・土・金・水の五つの要素で形成されているとの考え方であると。木は青・火は赤・土は黄・金は白・水は黒を表現しているのだと。社殿の見事な龍の彫刻。社殿横の建物は?ハルニレ(なんじゃもんじゃの木)「かながわの名木100選 深見神社のハルニレ和名:ハルニレ(ニレ科)幹はまっすぐに高く伸び、県内でも屈指のハルニレの巨木である。当神社の御神木で、樹種がわからなかったので「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれて親しまれてきた。大和市の天然記念物に指定されている。樹高30m 胸高周囲4.0m 樹齢 約400年(推定)」ハルニレは北海道から九州の夏緑林帯に分布する落葉高木である。樹高45m、胸高周囲8m、樹齢約600年に達するものもあると言われている。」「市指定史跡名勝天然記念物(記第ニ号) ハルニレ指定年月日 昭和四十七年ニ月ニ十五日樹種 落葉高木(ニレ科)形状 樹高30m胸高周囲 4m推定樹齢 約五〇〇年ハルニレは夏緑樹林帯(ブナ帯)の木で、北国の山地に多くみられます。県内では丹沢山地の一〇〇〇m以上の地にみられますが、深見のような低地では珍しいことです。このように珍しい木で、何という名の木かわからなかったため「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれるようになったと伝えられています。葉は鋸歯状で表面は脈がへこみザラついています。四、五月、葉の開く前に小さな花を七、十五個ほど束状につけます。六月には扁平な広い翼を持った果実が熟して落ちます。大和市教育委員会」「なんじゃもんじゃの木」の白い花をネットから。 【https://twitter.com/hiroshisj/status/1122266900367417345】より「靖國社」碑。「靖國社(厚木空神社)」。厚木空神社は、昭和19年11月に海軍厚木飛行場の敷地内に、首都防衛の任に就いていた第302航空隊の殉職将士を祭神とする天照大神を祭る社殿が鎮祭建立されたもの。終戦時、進駐してくる米軍が社殿を破壊することを恐れた若手将校により、祭神103柱の霊璽簿と鎮祭の時賜った宝剣(靖國神社宮司鈴木孝雄陸軍大将から奉納された靖國刀)とともに深見神社境内に奉遷された。その後、昭和26年4月7日、新たに祭神として深見集落出身で明治10年の役以来の戦没者を合祀し、厚木空神社を宝剣靖國刀に因み靖國社と改め、毎年4月第1日曜日を例大祭の日と定め祭事が行われている と。後方の石碑には「雄飛」の2文字が刻まれていた。「靖國社(厚木空神社) 内陣」。その横には「御倉稲荷社」。境内社であり、以前は闇龗神と倉稲魂神がお祀りされていた「御倉稲荷神社」。現在は闇龗神が本殿へ合祀されたため、倉稲魂神のみがお祀りされているのだと。深見神社の古社地と云われ、かつてはこの辺りに深見神社の拝殿が東向きにあったとされると。「御倉稲荷神社 内陣」。「御倉稲荷神社」の横にあった石碑「敬龍」ではないかと先生から。「社務所」。「神楽殿」。再び「深見神社」の東参道の石鳥居(明治29年10月建立)。扁額「深見神社」。そして石鳥居を潜り境内へ。右手に「社務所」。「靖國社(厚木空神社)」と「御倉稲荷社」を見る。こちらが「深見神社」の西参道の石鳥居、社号標「延喜式内 深見神社」。ちなみにこの地の名称「深見」は、『和名抄』に「布加美郷」と記されている古くから伝わる呼び名で、太古(どのくらい昔のことを指すのかは不明)この一帯は相模湾が湾入していて、古くは「深海」あるいは「深水」(どちらも読みはふかみですね)として相模原の東岸一帯のことを指していたと云われています。神社がある場所は境川によって削られなかった台地上に当たります と。「相模國十三座の内郷社深見神社碑」。尖頭角柱型(せんとうかくちゅうがた)の石碑で、高さ146cm×幅31cm×奥行25cm。寛政3(1791)年の銘があり、深見村の領主である旗本坂本家が造立したと伝えられている。正面には「相模国十三座之内深見神社」と刻まれ、延喜式内社であることがうたわれている。※延喜式内社…「延喜式」神名帳に載っている神社。神衹官のまつる官弊社と、国司のまつる国弊社に分類され、さらに大社と小社にわけられる。西参道の鳥居の横にあった「富澤稲荷神社」。大和市深見3367。「社殿」。「相武郷土熱愛之碑」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.21
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク旧街道沿いの昔の写真が紹介されていた。トランスボックスにプリントされた梶荘本店の古写真(右)。藤沢宿の街並み。左上から鎌倉屋、下が田村屋そして右が旧名主家・廣瀬家の門構え。 小田急線藤沢本町駅(昭和12~15年)。 そして「伝源義経首洗井戸」の標柱。交番の脇の細い道を奥に進む。 そして突き当たり右に井戸が。義経と言えば知らぬ人の無い稀代の、そして悲劇のヒーロー。平家滅亡の立役者でありながら兄・頼朝の不興を買い、逃げ延びた奥州・平泉でかくまってくれていた藤原泰衡に裏切られて攻められ、自刃したとされた人物。文治5(1189)年の事、討ち取られた義経の首は鎌倉に送られ、梶原景時らに首実検された後に海岸に晒され、腰越の海に打ち捨てられたと。しかし首は潮に乗って境川を遡り、この近くの白旗神社付近に義経の首が漂着。里人がその首をすくいあげ、洗い清めたのがこの井戸と伝えられているのだ。一説によれば、鎌倉に入る前に首実験に備えて化粧を施したとも、また、夜間に鎌倉方面から、首が目を見開いて亀の背に乗り飛んで来たとも。「義経首洗井戸」 首塚の石碑。 本町白旗商店街マップ。 ここにも藤沢宿絵図が。 この日に散策した旧跡、寺院の藤沢宿での位置関係が理解できたのであった。白旗交差点を右折。 前方に白旗神社の鳥居が見えた。 この白旗神社も藤沢宿巡りでは大事な神社であるが、この神社は何回か訪ねているのでこの日はパス。以下に私が今年2月ににブログアップした白旗神社は下記に。http://plaza.rakuten.co.jp/hitoshisan/diary/201602020000/狭い路地に入り藤沢本町駅方面に向かう。 諏訪神社の標柱が。藤沢本町駅の踏切手前で左折し急な坂を上る。学生時代はいつもこの坂を上り高校に通ったのであった。小田急線の線路の上の伊勢山橋。 伊勢山橋からの現在の藤沢本町駅。ここの町名の読みは「ほんちょう」で、郵便局も藤沢「ほんちょう」郵便局であるが、何故か駅は藤沢「ほんまち」。 この陸橋を渡った辺りが藤沢宿上方見附のあった所。見附は、宿場の入出口に設けられた見張所で、有事の際には、関所としても機能した場所。ここで、藤沢宿と別れ、いよいよ次は平塚宿への道程となるのだ。伊勢山橋の斜め向かいの階段の上の高台には寺が。 浄土宗 風早山 真源寺 本堂。創建は安永元年(1772年)空寂による。 文政3年(1820年)火災により本尊、過去帳はじめ全て消失。慶応元年(1865年)にも火災、仮本堂を建て現在は再興と。高校時代3年間、この寺の前を朝夕通ったのであるが全く記憶のない寺なのである。私の記憶も風早山 真源寺の名と同じく、風の如く早く頭から吹き抜けていったのであった。本堂には風早山の扁額が。 そして66年間住み慣れた藤沢の昔の姿を追いかける藤沢宿巡りをとりあえず終了し、藤沢本町駅から帰路に向かったのであった。
2016.08.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次高麗橋を渡り暫く歩くと右手にあった小さな堂は『秋葉山常夜燈』。御堂には、青銅製の秋葉山常夜燈が安置されていた。そしてその先直ぐ左手に『菊川の里』道標。日坂宿まで一里・3.9km。次の路地を左に曲がると鳥居と満開の桜が迎えてくれた。『菊川神社』と石鳥居。島田市菊川711にある『菊川神社』社殿。従来、菊川地内に産土神として祀られてあった①菊川 550 番地鎮座、村社宇佐八幡神社②菊川 711 番地鎮座、村社若宮八幡神社③佐夜鹿 217 番地鎮座、駒形神社④菊川 1472 番地鎮座、津島神社の 四社を合併して現在地に菊川神社を創立、昭和三十五年(1960)十一月十五日宗教法人法による神社 を設立登記した。御祭神は応神天皇・ 仁徳天皇・ 須佐之男・ 木俣大神 。境内には『菊川稲荷神社』も。満開の桜が青空に映えて。東海道道標の先に建屋の壁全面に描かれた『昔をしのぶ 間の宿 菊川』案内絵図が。「間の宿(あいのしゅく)は、日本の近世に当る江戸時代の主要街道上で発達した施設の一種。宿泊は禁止されていた。宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設である(一部例外あり)。宿場間の距離が長い、峠越え等の難路である等、旅人に多大な負担を強いる地勢があると、係る地点には需要に応える形で便宜を図る施設が自然発生的に興るものであるが、その様にして宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設が「間宿」である。ただし、宿場としては非公認であって、公式には宿ではなく村若しくは町とされ、旅人の宿泊は原則禁じられていたので旅籠(はたご)は存在しないし、駕籠や人足、伝馬を扱う問屋場もなかったがあくまでも名目上・表向きの事であった。間宿として異例であるが、東海道の金谷宿 - 日坂宿間にあるここ菊川宿の様に、徳川幕府による宿駅整備以前から存在していたものが何らかの理由で指定から外され、間宿となった場合がある。この場合もやはり、宿泊だけは許されなかったが、大井川の川留めなど諸事情により旅人の宿泊施設が足りなくなった時等は、宿泊が公認された。 尚、間宿より小規模な施設を立場(たてば)と言い、所謂“峠の茶屋”等がそれである。 間の宿のなかには立場が発展したものもある。」案内絵図の斜向かいに広場が。『間の宿、菊川』。「間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって作られました。普通、2宿間の距離は3~4里に及ぶ時に間の宿を置きますが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は特別に間の宿 「菊川」 が置かれました。間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では、金谷宿の許可がないと旅人を泊めることは出来ませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁じられていました。そこで生まれたのが菊川名物の 「菜飯田楽(なめしでんがく)。大井川の激流を渡り、金谷坂を登りきった旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。なお、下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別おいしかったと言われています。この店には御殿と呼ばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があったそうです。」広場の入口に昔を偲ぶ多くの石碑や案内板が設置されていた。『菊川由来の石』。説明板の足元にある石には、菊の文様らしきものが。「その昔附近から菊花紋の石が数多く出土されました。その石は菊石と呼ばれて、川の名前を菊川と名付け、地名も生まれました。白菊姫の伝説による菊石は北之11km位の処にある佐夜鹿公民館の傍にあります。」『宗行卿詩碑 日野俊基歌碑』「源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり公家と幕府の対立は表面化し、承久3年(1221)後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中御門中納言藤原宗行は捕えられ、鎌倉へ送られる途中の七月十日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に次の詩を書き残した。「昔は南陽県の菊水 下流を汲みて齢を延ぶ 今は東海道の菊川 西岸に宿りて命を失う」承久の変から約百年後の、正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次、菊川の宿で、宗行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ。「いにしえも かゝるためしを 菊川のおなじ流れに 身をやしづめん」間の宿菊川は史跡とロマンの里である。」右の石碑(日野俊基歌)『古も かゝるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん』左の石碑(宗行卿詩)『昔南陽懸菊水 汲下流而延齢 今東街道菊河 宿西岸而失命』(昔南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ今東海道の菊川西岸に宿りて命を失う)奥にあったのが『菊川の里会館』。『金谷宿の昔ばなし』のボードも。・「八挺鉦(やからかね)」(八挺鉦を打ち鳴らして投げ銭を受ける大道芸をする美少年と少女のお話。)・「与茂七越し」(東西の急坂を難なく行き来する与茂七、権七という名コンビの駕籠かき名人のお話)そしてこちらは『名物「飴の餅」のこと』⬅リンク。近くで工事中の473号バイパスの案内板も。斜向かいの民家のシャッターに、矢の根鍛冶が大きく描かれた家が。『矢し根鍛冶 五條才兵衛之図 慶長―元禄』ここは、その昔矢の根鍛冶をしていた才兵衛の家であったとのことです。才兵衛は古くからの矢の根鍛冶でしたが、『掛川誌稿』によると貞享以後断絶したらしく、その後矢の根鍛冶の職は別家の清次郎へと引き継がれたようです。矢の根とは弓矢の根、すなわち矢尻のことで、菊川の里に硬くて鋭利な矢尻をつくる者がいることが、書物などによって知らしめられ当地の名物となっていました。矢の根鍛冶清次郎は、参勤交代で街道を通る大名行列に献上しては、その優秀さを誇っていたといいます。その後、泰平の世となって矢の根の需要がなくなり、五條清次郎は土地を離れましたが、代々伝えられたと思われる矢の根鍛冶「秘伝書」は、今も菊川の旧家に大切に所蔵されており、この地には「鍛冶屋敷」という往時を偲ぶ地名が伝えられています。旧東海道を進んでいくと『小夜の中山 登り口』が現れた。四郡の辻から僅かな石畳を登った先に『青木坂』の登り口があった。『四郡の辻道標』佐墅郡、山名郡の文字が。『歴史ろまんコース』、『小夜の中山』、『火剣山』の案内板が青木坂の入り口に。青木坂登り口から先は、これまでの峠でもあまりなかった心臓破りの急坂が続いていた。そして茶畑が広がって来た。坂の左手は、緑一色の茶畑が広がっていた。更に上り坂が続いていた。日坂の宿と菊川の里の境界表示板。すなわち、ここが島田市と掛川市の市境である。ここから先には、「小夜(さよ・さや)中山峠」にちなんだ和歌や俳諧の碑が続いていた。『阿仏尼歌碑』登り坂の途中にある島田市と掛川市の境標を越えると右手の民家前に鎌倉中期の歌人阿仏尼の歌碑があった。 碑には、阿仏尼が記した紀行文 「十六夜(いざよい)日記」 の一節 『雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月』 と刻まれていると。「雲のかかる 小夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ。」『衣笠内大臣(きぬがさないだいじん)歌碑』。更に急坂を登って行くと左手の木の間に鎌倉時代の歌人衣笠内大臣の歌碑があった。 『旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり』。「旅姿に夕霜が身に凍みるここ小夜の中山の峠道は一面の笹原で、笹の葉をならして木枯らしが吹き渡ることだよ。」右手に『久延寺(きゅうえんじ)』の表示があったので訪ねる。立派な山門。境内の老木も街道に張り出して。『山門』を正面から。掛川市指定文化財『久延寺境内』。「久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山。本尊は聖観音で、昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の敵を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである」という夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称される。慶長5(1600)年、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大坂から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。右の絵は、天明6年(1786)に尾張藩士 高力種信が東海道の風物を描いたものの一枚である。久延寺とその西に並ぶ飴屋などが描かれていて、当時の風景を知ることができる。」大学山久延寺『本堂』。天平年間、三位中将良政が勅命によって蛇身鳥を退治して当寺を建立したと伝えられる。開基は行基菩薩と伝えられるが、戦国時代の度重なる兵火により古文書はなく寺暦は定かでない。 宗派:高野山真言宗 所在:静岡県掛川市佐夜鹿291 本尊:聖観世音菩薩『鐘楼』。『手水舎』と『地蔵堂』。『夜泣き石』。『伝説 小夜の中山夜泣石』。「その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刀研師の弟子となった。そこへ轟業右衛門が刀研ぎにきたおり、刃こぼれがあるので訊いたところ、「去る十数年前 小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。その後、弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。文化元年 滝沢馬琴の「石言遺響」より」『金次郎像』であっただろうか。『芭蕉句碑』。「馬にねて 残夢月遠し 茶のけむり」『茶亭跡の碑』。山門をくぐって西側、手水舎の裏手に接待茶亭跡の碑が。これは 松平土佐守が、家康を接待した山内一豊の史実を後世に伝えるために建立したもの。慶長5年(1600)掛川城主 山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。関ヶ原の合戦の後、山内一豊は功績を認められ、土佐二十万石に栄転したと。『西行の 命の山ぞ ふきのたう 太田鴻村』久延寺の前の駐車場の奥に在った『接待茶屋跡』。『接待茶屋跡』石碑。鎌倉時代・永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶などを接待し、旅人の憩いの場となっていたといわれる。「鎌倉時代・永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶等を接待し、旅人の憩いの場となっていたという。芭蕉の「馬にねて 残夢月遠し 茶のけむり」の句もこの辺りで詠まれたものといわれています。」『接待茶屋跡』碑の横から見た一面の茶畑。 その3 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.15
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「観音禅寺」を後にし、県道401号線を「阿久和川」に沿って下っていくと左手奥にあったのが横浜市認定歴史的建造物「中丸家長屋門」。横浜市泉区新橋町1290。右手の手前には「憩い(いこい)のまほろば」が。川沿いの中丸家長屋門のたたずまいに河川の風景が融和するように、また、人々が憩えるように配慮して、あずまや・ベンチ等の休憩施設、車椅子利用者対応のトイレや広場も整備されていいた。阿久和川は平成5年の「まほろばの川づくりモデル事業」(国土交通省)に、全国に先駆けて認定され、整備されていると。「まほろばの川案内図」であったが・・・・。「阿久和川」は、横浜市泉区から戸塚を流れ、柏尾川と合流する。さらに境川と合わさり、片瀬江ノ島の海に注ぐ川。 その区間を5つに分けて、それぞれ,「☆☆☆のまほろば」と名づけられているとのこと。川沿いは,遊歩道が整備されて、散策に適しているのだ。それぞれの「まほろば」はミニ公園のように整備されていると。この場所が「憩いのまほろば」そして下流に向けて「ふれあいのまほろば」、「出会いのまほろば」、「集いのまほろば」、「古のまほろば」があるとのこと。「まほろば」は、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。「まほらば」「まほらま」「まほら」ともいうと。ネットからわかり易い地図を。 「https://twitter.com/taku_rinbo/status/592456264816267264」より「中丸家長屋門」を正面から。手前に「阿久和川」に架かる「阿久和めがね橋」。1999 年12月竣工。明治時代中頃に建築された「中丸家長屋門」は、平成13年度には、「横浜市認定歴史的建造物」に選ばれ、また、「中丸家長屋門とその周辺」が「横浜・人・まち・デザイン賞(まちなみ景観部門)」を受賞するなど泉区を代表する建築物。「横浜市選定歴史的建造物 中丸家長屋門」。「中丸家長屋門」前の「長寿地蔵尊」。コロナ対策として「face Shield」を着けて。「中丸家長屋門」下から内部を。人力車も展示されていた。中は一般の住居のため、これ以上は立入禁止のようであった。左に中丸家母屋と正面に土蔵が見えた。「ぴんころ地蔵の案内板」「長寿地蔵尊(ぴんころ地蔵)信州佐久地方は、日本でも有数の長寿の里として知られています。住みやすい風土と、千曲川の清流、そこで育った佐久鯉、新鮮な果実、野菜などの食物と昔ながら勤勉さ、信仰の深さが健康長寿の秘訣とされています。健康で長生きし(ぴんぴん)楽に大往生(ころ)を願ってここに長寿地蔵尊として【ぴんころ地蔵】が建立されております。毎月第ニ土曜日を縁日とし、健康長寿だけでなく子供たちの健やかな成長、家運隆盛などの功徳がえられます。」「中丸家文書にみる新橋地域の文明開化」中丸家長屋門建築頃の阿久和阿久和村は、天正19年(1591)5月より旗本安藤領であった。江戸時代、中丸家は代々名主を務めた旧家で代々定右衛門を名乗る。定右衛門は明治初期第17大区4小区阿久和村村用掛(当時の村長に相当)の職にあり、明治15年7月~ 16年3月迄阿久和村戸長兼学務委員を命じられ、屋敷内に戸長役場があった。中丸家には戸長役場時代の村に掛かる税金などの請求書や村用掛時代の地租改正に関する上申書が残されている。その後、明治17年5月、阿久和・岡津・上矢部・秋葉・名瀬の各村が岡津向導寺に連合戸長役場を設け、明治22年これらの村々が合併して中川村となった。「鎌倉郡阿久和村戸町 中丸定右衛門」申付書。「幕末から明治期の中丸家婚姻関係図」。横浜市歴史的建造物指定の中丸家長屋門中丸家の門は明治18年頃建築され、2階建入母屋造鋼版葺。桁行8間・梁間3間の出桁造。瀬谷の大岡家長屋門と同じ頃建築された。中丸家と大岡家は姻戚関係にあり、定右衛門妻サキと鶴吉妻タイは二代にわたり大岡家から嫁いできている。関東大震災でもビクともしなかったケヤキ材の長屋門は入口の木組が珍しい鳥居の形をしている。「中丸家付近の航空写真」。長屋門は入口の木組が珍しい鳥居の形。「キリスト教 阿久和教会と中丸家」明治18年3月、定右衛門は横浜に出ていた次男の鈴木彦太郎の導きで、長男鶴吉と共に横浜海岸教会の宣教師バラと稲垣牧師により受洗してキリスト教徒になった。翌19年には中丸家邸内に信徒60余名の阿久和教会が出来た。下記は明治30年迄の阿久和教会構成員推移表(大橋俊雄著・戸塚区の歴史下巻より)「中川村の経済を支えた横浜貿易・一族協力し農業経営養蚕・製糸・百合根栽培と中丸家」◎明治28年(1895) 9月には、北井要太郎の改良合名会社に1,600円(出資率23分の1)を 払込み、有力社員として近隣10名の取りまとめをしている。◎明治45年6月には明治44年操業を開始した下和泉の清水製糸場と生繭の売渡契約を行い、 200円(1貫目に付約4円50銭)を約定している。清水一族には中丸家から道三郎が養子に 出ている。(現清水美宏氏宅)「昭和15年頃の中丸家の養蚕風景母屋一杯に蚕棚を並べて家族総出で蚕を飼う。鶴吉夫妻も健在」写真の左右に「蚕棚」が写っている。「中川村歴代村長一覧中丸鶴吉は関東大震災当時の村長で倒壊した村役場で机の下にいて災難をのがれた」。「明治31年当時の泉区域の製糸業改良合名会社と中丸家瀬谷の長屋門公園付近には、区役所の建てた「製糸場跡」の看板が建ち、【この付近には相州改良社と大剛社があり、その為人の出入、車馬の往来が激しく賑やかなことから『江戸阿久和』ともいわれていた。】とある。改良合名会社の設立は「神奈川県統計書」によると明治二十四年二月で、当初から蒸気機関を用い、生糸製造高は創業後増加し二十九年~三十八年頃までの十年間が全盛期で、以後減少している。工女数は百数十名、最盛期にはニ百名を越えていた。経営者は阿久和の素封家北井要太郎で、工場はその邸宅門前にあった。」「輸出用百合根の栽培と新橋町新橋町の中丸家と横山家二つの長屋門は、製糸、百合根と横浜貿易盛んな時代に建てられた。百合の球根は、キリスト教の復活祭にはイースター・リリーと呼ばれ、百合の花は欠かせないもので、中丸一族は横浜植木と契約栽培を行い、2月頃種の球根を受け取り、花の咲く頃まで畑で栽培し球根を採取、汲沢にあった試作場で土を入れ梱包しアメリカなどに輸出された。昭和7年を頂点に満州事変で衰退した。下新橋の相原家・大貫家・柳畑の横山一族は新井商店と契約栽培を行っていた。」「横浜市認定歴史的建造物『中丸家長屋門』保全活用計画」と「横浜・人・まち・デザイン賞(まちなみ景観部門)」を受賞。「1.歴史的建造物の概要 (1)名称 中丸家長屋門 (2)所在地 横浜市泉区新橋町1290 (3)建築年代 明治中期と推定 (4)所有者 中丸定昭 (5)施工者 不詳 (6)建築規模 桁行14.56m(8間) 梁間5.46m(3間) (7)建築面積 面積:97.46m2(29.48坪) (8)建築概要 木造、2階建、入母屋造、銅板葺(元トタン葺き) (9)台帳登録 平成2年3月中丸家は旧中川村の旧家で屋敷地の西側を流れる阿久和川沿いにあり、かっては石積みの眼鏡橋を渡って屋敷に入ったので屋号は「めがね橋」と言われた。現当主て18代目を数え中丸一家は近在に14 、5軒ある。屋敷前の阿久和川沿いにはかって谷戸田と呼ばれた水田が続き、裏山には杉林や竹林があって田畑合わせて約14 ~5町歩ほどあり、製糸場の経営や質屋も営んでいた。主屋の前には質蔵が2棟あったが、平成9年(1997)年に1棟は建替え、残りの1棟は取り壊した。当初、菩提寺は岡津町にある西林寺(浄土宗)で、その本堂は当家の祖先が建造したが、その後戦時中に改宗し観音寺(曹洞宗)となった。代々の墓が裏山にあり、内墓(屋敷墓)形式をとどめている。その中には横浜海岸教会の信者だった祖先も見られ、当時としては進取的であった事が伺える。」「中丸家長屋門」左側には住居スペース(隠居部屋)があるようだ。「中丸家長屋門」右側には川に沿って白壁が続いていた。「阿久和川」を渡って。「阿久和めがね橋」は以前は「眼鏡橋」であったが現在は普通?の橋になっていた。橋の欄干が眼鏡のようになっていたが、これが昔の形なのであろうか?そして次に「新橋」交差点を右に折れ、白梅の花を楽しみながら進む。そしてここを左に入る。前方にもう一つの長屋門・「横山家長屋門」を訪ねた。横浜市泉区新橋町。横浜市泉区新橋町にある横山家長屋門は中丸家長屋門よりは新しく、大正時代に建てられたようだ。関東大震災でもびくともしなかったと伝えられている。背が高く、二階建てだ。中丸家とよく似て向かって左側が住居になっているのも共通。ガラス窓にカーテンが掛けられているのだが、ここに何方かがお住まいなのであろうか?門を入った直ぐ左側に海鼠壁(なまこかべ)の土蔵が見えた。良く見ると、母屋は長屋門の右側に直角に建っている。母屋も最近になって建てられたものではないから、もともと、長屋門と母屋を直角に南向きで建てているようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.23
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「薬王院」を後にして「境川」に向かって歩を進める。左手にあったのが「日枝社」。大和市上和田2439付近。「社殿」。かつて中島と呼ばれた土地で、昭和7年に火事にあって立直したときは大字上和田で寄付を募ったが、以後は中島部落で 修理して来ているという。左側は青面金剛庚申塔で、元文4年の建立。右側は「為奉献御 覚 前」の文字が。背面を。そして前方に「境川」が姿を現した。右側に拡がる大きな団地・「上和田団地案内図」。前方に「下分橋」を見る。「境川」の上流側に沿って歩いて行く。ここは境川沿いのサイクリング道路にもなっていた。「境川」の川原の石の上で大きな亀が夫婦で?日向ぼっこをしていた。左手にあったのが、「内田稲荷大明神」。鳥居の扁額「内田稲荷大明神」。「社殿」。石塔には嘉永の年号が。そして「上和田城山遺跡」に建つ「神奈川県立大和南高等学校」の前を通過する。「上和田城山遺跡」案内板。「上和田城山遺跡神奈川県立大和南高校建設に先立ち埋蔵文化財の発掘調査が昭和52年・53年に実施され、この一帯は旧石器時代から縄文時代早期にかけての遺跡であることがわかりました。旧石器時代の狩人たちが残した石器は赤土(関東ローム層)の中から発見されていますが、最も深いところでは、地表面下約3.5mのところから狩猟具、加工具、調理具等の石器が出土しています。境川流域を狩猟対象地域としていた集団が、何回かにわたり残していったものと考えられます。特質されるものとしては、旧石器時代最終末に細石刃を主な狩猟具として使う時期があリますが、本遺跡からはその細石刃を大量生産するための製作技術を復元できる資料が発見されています。円礫を分割して複数の細石刃石核(石器をつくるための元になる石器)を作リ、その細石刃石核から細石刃を製作するという一連の製作工程が明らかになリました。(本選跡の出土資料は神奈川県指定第要文化財の指定を受けています。)大和市教育委員会」更に杉林の中を歩いて行く。そして再び「境川」に辿り着く。「上和田二号橋」を渡る。右手に「宮久保スポーツ広場」。大和市上和田2152−1。左手に「大和市 宮久保公園」。大和市上和田1320-1。この先にも橋があった。「境川」に流れ込む「相沢川」。「準用河川 相沢川」。「準用河川」とは一級河川及び二級河川以外の「法定外河川」のうち、市町村長が指定し管理する河川のことである。「相沢川」を渡ると「大和市」から「横浜市泉区」に入る。そして住宅街の坂道を東に向かって上って行った。突き当りを左折して進む。100mほどで右に折れ進むと右手にあったのが「神奈川県立横浜ひなたやま支援学校」。横浜市瀬谷区南瀬谷2丁目20。畑道の脇にはツクシ(土筆)の群落が。林に沿った細い道を進んで行った。そして目的地の「宮沢六道の辻」に到着。横浜市瀬谷区宮沢4-20。一面に農耕地の拡がる中の六叉路。六道の辻とは仏教でいう地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上への分かれ道のこと。昔は宮沢新田から藤沢道、弘明寺観音から座間星の谷観音への信仰の道として利用されていたと。「奉造立地蔵菩薩」碑。「六道の辻 改修記念碑」。赤い布で覆われた小さな地蔵菩薩さまが置かれていた。「宮沢六道の辻江戸時代の承応元年( 1652年)に行われた検地に先だち、旗本石川六左衛門重勝が領地内の米の取高の不足を補うために、支配下の上矢部村の村民数人をここに入植させ、開墾したと推測されています。六堂の辻とは仏教でいう地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上への別れ道ということで、地蔵尊がその道を示され、当時の農民はこの地に自分達の終生末代の安楽を求め願いました。この6本の道のうち、1本は宮沢新田よリ藤沢道、1本は横浜弘明寺観音よリ座間星の谷観音への信仰の道として残リ、今でも星の谷道と呼ばれています。地蔵吾薩の坐像と正徳5年( 171 5年)建立の石碑があり道標を兼ねています。現在の辻は、平成6 (1994年) 9月に改修されたものです。」小さな塚になっていた「宮沢六道の辻」。そして次の「山王稲荷社」に向けて畑道を歩いて行った。左手には濃いピンクの桜の花が八分ざきに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.14
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タイトル 発表日横浜市泉区の古道を巡る(その38) 2021.04.07 鎌倉街道西の道~八坂神社~福泉禅寺横浜市泉区の古道を巡る(その37) 2021.04.06 龍長院(横浜市戸塚区東俣野町)横浜市泉区の古道を巡る(その36) 2021.04.05 専念寺~三嶋神社(横浜市戸塚区深谷町)横浜市泉区の古道を巡る(その35) 2021.04.04 深谷通信所跡地横浜市泉区の古道を巡る(その34) 2021.04.03 イトーヨーカドー 立場店~かまくらみち道標~和泉町大丸の道祖神~馬頭観世音~遊林寺 ~下和泉地区センター前石碑群横浜市泉区の古道を巡る(その33) 2021.04.02 柏尾通り大山道~庚申塔道標~出羽三山供養塔~市川花十郎 生家~長後街道・立場交差点横浜市泉区の古道を巡る(その32) 2021.04.01 富士塚バス停~横根稲荷神社横浜市泉区の古道を巡る(その31) 2021.03.31 中田寺2/2~小山稲荷~奥津喬次郎翁頌徳碑~向森神社~中田駅~帰路へ横浜市泉区の古道を巡る(その30) 2021.03.30 中田町宮ノ前公園~石巻康敬の墓~稲荷社~中田寺(1/2)横浜市泉区の古道を巡る(その29) 2021.03.29 柏尾通り大山道~岡津公園~領家谷道祖神群~西恩寺~御霊神社横浜市泉区の古道を巡る(その28) 2021.03.28 永明禅寺(2/2)~白山社~石田建設(株)~永明寺別院~大山道道標横浜市泉区の古道を巡る(その27) 2021.03.27 永明禅寺(1/2)横浜市泉区の古道を巡る(その26) 2021.03.26 西林寺~阿久和川~新岡津橋~稲荷社~白山社~ルネ戸塚弥生台横浜市泉区の古道を巡る(その25) 2021.03.25 三嶋神社~稲荷社~普光寺横浜市泉区の古道を巡る(その24) 2021.03.24 五霊社~阿弥陀如来立像庚申塔~向導寺~富士塚~稲荷社~双体道祖神横浜市泉区の古道を巡る(その23) 2021.03.23 憩いのまほろば~中丸家長屋門~横山家長屋門横浜市泉区の古道を巡る(その22) 2021.03.22 観音禅寺(2/2)横浜市泉区の古道を巡る(その21) 2021.03.21 観音禅寺(1/2)横浜市泉区の古道を巡る(その20) 2021.03.20 四季の径~緑園都市駅東口~緑園都市噴水広場~フェリス女学院大学~庚申塔碑3基~神明社 ~新橋天満宮横浜市泉区の古道を巡る(その19) 2021.03.19 南万騎が原駅~相武国境之道碑~道しるべ碑~緑園須郷台公園~四季の径~山王神社横浜市泉区の古道を巡る(その18) 2021.03.18 佐婆神社~和泉第四遊水池~横浜市泉公会堂~横浜市消防局 泉消防署~横浜市 泉区役所 ~帰路横浜市泉区の古道を巡る(その17) 2021.03.17 和泉遊水地~正法寺~青面金剛塔+三猿 横浜市泉区の古道を巡る(その16) 2021.03.16 和泉川宮沢遊水池~めがね橋~ほしのや道・道標(庚申塔)~八幡神社 ~横山製糸跡 ~長谷川伸生母生家・横山家横浜市泉区の古道を巡る(その15) 2021.03.15 日枝神社~横山家のケヤキ~石塔群~六地蔵~青面金剛庚申塔横浜市泉区の古道を巡る(その14) 2021.03.14 柳明天満宮~柳明神社~観音堂横浜市泉区の古道を巡る(その13) 2021.03.13 せせらぎ緑道~第二柳明橋~羽太郷土資料館~石井仁左衛門翁之碑~稲荷社横浜市泉区の古道を巡る(その12) 2021.03.12 本興寺横浜市泉区の古道を巡る(その11) 2021.03.11 上飯田西公園~甲子塔~正一位飯嶋稲荷神社~いちょう団地~ニ十三夜塔横浜市泉区の古道を巡る(その10) 2021.03.10 持田製糸場跡~上飯田天神山古墳跡~小曲寺跡~神明神社~飯田神社横浜市泉区の古道を巡る(その9) 2021.03.09 いずみ中央駅~鎌倉街道上道~無量寺横浜市泉区の古道を巡る(その8) 2021.02.05 美濃口春鴻の地~日枝社~渡戸橋~子育地蔵~帰路へ横浜市泉区の古道を巡る(その7) 2021.02.04 いずみ中央駅~地蔵原の水辺~神明社~蚕御霊神塔~中和田村役場跡地公園~中和田公園 ~三柱神社横浜市泉区の古道を巡る(その6) 2021.02.03 中之宮左馬神社~泉小次郎親衡の館跡~長福寺~須賀神社~宮沢果樹園生垣横浜市泉区の古道を巡る(その5) 2021.02.02 左馬神社~和泉川親水広場~宝心寺横浜市泉区の古道を巡る(その4) 2021.02.01 中和田小学校南部分教場跡~東泉寺~琴平神社~双体道祖神~富士塚公園~古賢大菩薩横浜市泉区の古道を巡る(その3) 2021.01.31 密蔵院~鍋屋稲荷大明神~庚申塔~双体道祖神~矢澤家生垣~第六天神社横浜市泉区の古道を巡る(その2) 2021.01.30 俣野神明社~境川遊水地情報センター~天王森泉公園~天王森泉館~辨財天~鍋屋鯖神社横浜市泉区の古道を巡る(その1) 2021.01.29 俣野観音堂~俣野神社~相州春日神社~神鹿苑
2021.05.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「葛原岡神社」、「日野俊基卿墓」を後にして、「源氏山公園」に向かって進む。「源氏山公園案内図」。「現在地」「源氏山」は白旗山または旗立山とよばれたこともあると。緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある化粧坂が、園内には頼朝像・広場などがある。春には桜、秋には紅葉が楽しめるのだ。北鎌倉、大仏へぬけるハイキングコースがあり、近くには葛原岡神社、銭洗弁天、佐助稲荷等がある。-----がこの日に歩いた源氏山超えの道なのである。「源氏山公園管理詰所」が左手に。その先に、以前に上って来た「化粧坂切通」👈リンク の下り入口が左手に。そして「源氏山公園」の「源頼朝像」👈リンク。ズームして。「源氏山公園」から下って「寿福寺」の裏にある「源実朝・北条政子墓」を目指す。右手には大きな「源氏山公園トイレ」があった。案内に従い「寿福寺、鎌倉駅」方面に歩を進める。この辺りは石畳の整備された道が。しかし途中からは、これぞ「山道」が。そして「山道」の脇、右手にあったのが「太田道灌公の墓」。「太田道灌」の「首塚」、「供養塔」とも言われていると。近づいて正面から。「太田道灌公の墓江戸城築城で有名な太田道灌資長はこの地で生まれ、扇谷上杉家の家宰として活躍しました。その曾孫である太田康資の娘梶(後に勝)は、徳川家康の側室として水戸徳川家の初代徳川頼房の養母となリ、徳川家を支えました。彼女は出家後に英勝院と号し、三代将軍徳川家光よりここ源氏山一帯を賜って英勝寺を開きました。この太田道灌公の墓は文政九年(1826年)に水戸徳川家の子孫てある英勝寺住職が以前の墓を再建したものてす。」「太田道灌齋大居士」と刻まれているのであろうかそしてさらに進む。この先から、切通しの如き光景になり急坂が始まった。崖の下には大きな五輪塔のある墓地の姿も。ズームしたが・・・。更に下り坂を進む。この付近から岩肌が剥き出しになった切通しの如き坂道が。そして石段を下りると、「寿福寺」の大きな墓地が広がっていた。「デベッカ家の墓所」。小林 米珂(こばやし べいか、1863年7月 - 1929年2月10日)は、明治時代に日本に帰化したイギリス人の法律家。ジョージ・ベイカーというアメリカ人牧師として来日したとも言われるが、Joseph Ernest De Beckerの名で日本の性風俗や法律についての著作を出した。小林米珂名義で日本で弁護士登録し、鎌倉海浜院ホテル、日清蓄音器、帝国木製、帝国船舶の取締役のほか、鎌倉で不動産業を営んだ。デベッカー、デベッカ、米河、米加とも。高濱虚子の大家でもあったと。デベッカ家の墓所の先の石段を下りて振り返る。寿福寺の広い墓地が広がっていた。多くの墓が「やぐら」の中に。「池田家」の墓。恒達家?の墓。そして「大佛次郎(おさらぎじろう)」の墓。柵で囲いを作った一角に二基の墓石が建っており、一基が大佛次郎、もう一つは大佛の父である野尻政助の墓であった。「大佛次郎墓」。右側面には、「昭和四十八年四月三十日 野尻清彦」と本名で没年が刻まれていた。その左に「昭和五十五年五月十九日 妻 酉子云」と。映画女優だった妻吾妻光の本名(原田酉子)が記されており、二人がここに寄り添って眠っていることがわかるのであった。裏面には「昭和四十八年六月建立」一昨年、横浜・山手にある「大佛次郎記念館」👈リンク を訪ねたのであった。そして「源実朝・北条政子墓」に向かって墓地の中を進む。この寿福寺の背後の山腹には30穴からなるやぐら(横穴墳墓)群が。そして「北条政子の墓」に到着。「源頼朝公夫人 〇〇○ 北条政子 (現在)静岡県伊豆韮山町」「五輪塔」。桔梗の花が手向けられていた。そして「源実朝の墓」。「源実朝」は、「鶴岡八幡宮」の大イチョウの木に隠れていた、 二代将軍・源頼家の子・「公暁」に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶したのだった。「五輪塔」源実朝の「やぐら」は、牡丹唐草の文様が彩色されていたため「唐草やぐら」とか、「えかきやぐら」と呼ばれていたという。「源実朝の墓」の隣のやぐら内にも立派な五輪塔が。そして「源実朝・北条政子墓」を振り返る。帰路の大きなやぐらの中にあったのが「高浜虚子」の墓。深閑としたやぐらの中に、「紅童女墓」(孫娘)、「白童女墓」(四女)を左右に並べた真ん中に椿寿居士「虚子の墓」が。本名=高浜 清(たかはま・きよし)明治7年2月22日—昭和34年4月8日 享年85歳(戒名:虚子庵高吟椿寿居士)❖虚子忌・椿寿忌 墓地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17–7 寿福寺(臨済宗)墓石には「虚子」と刻まれていた。塔婆には戒名の「虚子庵高吟椿寿居士」の文字が。墓参者用の「御名刺受」も備えられていた。「森田愛子」👈リンク の墓。森田愛子は29歳で亡くなった俳人で虚子の孫弟子。「森田愛子之墓」という文字は、高浜虚子が書き、墓標は高浜虚子の墓の方へ向けて建てられていると。「紅梅の花一ぱいに蕊ひらき」、1931年(昭和16年)鎌倉の寿福寺で詠まれた句。そして寿福寺の山門に向かって進みながら墓地を振り返る。「寿福寺」の「中門」。「鐘楼」。「参道」。「総門」を境内から。「総門」。「庚申塔群」。そして鎌倉駅に向かって「今小路」を進むと「えびす屋」の人力車が。2名で60分貸し切りで17,500円と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.20
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「玉川大師」を後にして、次に隣りにあった日蓮宗の寺を訪ねた。「日蓮宗 常住山」。「敬親寺」。世田谷区瀬田4丁目13−4。参道を進む。右手に「六角宝塔」。正面に「本堂」。右手に石仏。合掌する石仏・「常不軽菩薩尊像」。「我深く 汝等を敬ふ 敢て 軽慢せず我深敬汝等不敢軽慢常不軽菩薩品常不軽菩薩尊像「心を拝む』昔、出合う人ごとに合掌して歩く修行僧がいました。拝まれた側の人は、訳が分からず戸惑ってしまい、中には「やめないか!」と、石を投げる者まで出てきました。しかし修行僧は、「あなたの心には、仏さまになれる宝の珠(たま)があるのです。私はあなたの心に手をあわせているのです」といい、決して拝むことをやめようとしませんでした。この修行僧の名は常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)。「どんな相手であれ、絶対に相手を軽んじない」ということを実践された菩薩さまだったのです。たとえ相手が自分の嫌いな人や苦手な人であっても、その姿やその行動だけでなく、相手の心を拝むように努めましよう。そして自分自身の心をも拝めるようにもなりたいものです。」「本堂」正面に到着。ガラス戸越しに内陣を見る。扁額「敬親 両親閣 五十八世 日信」と。切妻平入りというか、巨大な流造りのような建物で、向拝部分が小部屋のようになっていた。本堂の「壁」には漆喰仕上げの白波が。倒れかけている上人の墓石。この寺は「敬親玉川教会」ということから、布教のための拠点みたないなところで、参詣用の寺とは違うようであった。さらに西に向かって進む。車道と歩道の境には、丸い石を切ったものが、車止めの目的で埋め込まれていた。右折して、次の目的地の「カトリック瀬田教会」に向かって坂を上る。突き当りを右折して進むと右手に入口があった。「アリアの宣教者 フランシスコ修道院」と。マリア像であっただろうか。さらに東に進むと「カトリック 瀨田教会」の入口があった。銘板には「聖アントニオ 神学院、フランシスコ会 聖書研究所」の文字もあった。左手の銘板。「FRANCISCAN FATHERSST.ANTHONY SEMINARY」と。「カトリック 瀨田教会」掲示板。「カトリック 瀨田教会」聖堂正面。瀬田教会は1951年にフランシスコ会の神学院建築のために、シニューゼンベルグ神父によって瀬田の丘の土地が購入され、フランシスコ会聖アントニオ修道院の付属教会として発足された。世田谷区瀬田4-16-1。「シニューゼンベルグ神父」像であろうか?案内板。「聖アントニオ修道院 (旧神学院)」の中庭。中庭の「聖フランシスコ像」。「カトリック 瀨田教会」の奥の十字架。「カトリック 瀨田教会」聖堂入口の掲示板。「聖堂」の内陣。「カトリック 瀨田教会 アントニオ会館」。中庭には「将監山遺跡」柱。昭和49年に縄文土器などが出土し、昭和57年の発掘でもナイフ型石器や縄文•古墳時代の土器が多数出土しているようだ。中世の頃、雅楽の笛師:柳田将監が入定した伝承もある直径9mの塚があり一帯を”将監山(地元の人は、しょうぎやま)”と呼んでいるだようだ。「カトリック 瀨田教会」を後にして、来た道を引き返す。次の目的地の「慈眼寺」に向かって進むと、左手前方にあったのが「傘付庚申塔」。ここが「慈眼寺」の参道のようだ。笠付庚申塔 (左) と笠付庚申塔の標石と庚申塔と馬頭観世音菩薩 (右)世田谷区瀬田4丁目11−25。「傘付庚申塔」。唐破風笠付の角柱型庚申塔は元禄10年(1697)の造立。青面金剛像と三猿の図柄で、願主16人の名前と荏原郡瀬田村の銘がある。庚申塔 (左) と馬頭観世音菩薩 (右)向かって右に並ぶのは、駒型の庚申塔で摩耗が進んでいるが、青面金剛像と三猿の図柄で、造立年は享保16年(1731)とある。 その隣りは、馬頭観音で、こちらは新しく大正11年(1922)のもの。願主は中嶌忠次の銘。 この庚申塔から右に進むと、慈眼寺の山門が聳えていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.12.07
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青森・五所川原から青森空港に向かう途中、トイレタイムに立ち寄った公園の横の池の畔に久しぶりに見る植物がたくさん。蒲(ガマ)の穂。「因幡の白兎」 の伝説で有名な植物で、古事記には 「ワニ(サメ?)をだました白兎が皮をむかれて難儀しているのを通りかかった大国主命が哀れに思い、河口に行って真水で洗い、蒲の穂の花粉の上に寝転べば元の肌に戻ると教えた」 とある植物。子供の頃、『大黒様』と言う歌があったことを思いだし、調べてみると下記の如き歌詞。1.大きな袋を肩にかけ 大黒様が来かかると ここに因幡の白兎 皮をむかれて赤はだか2.大黒様はあわれがり きれいな水に身を洗い 蒲の穂綿にくるまれと よくよく教えてやりました3.大黒様の言うとおり きれいな水に身を洗い 蒲の穂綿にくるまれば 兎は元の白兎4.大黒様はだれだろう 大国主のみこととて 国をひらきて世の人を たすけなされた神様よこの後、白兎が、助けてもらったお礼に・・・・???。忘れました。太めのフランクフルトソーセージ、それともトッピングなしのチョコバナナ。『ガマ』で検索してみると色々なことが解ったのだ。1)「蒲団(ふとん)」の「蒲」の字は、 昔、ガマの綿毛を寝具に入れたことから。 2) 「蒲鉾(かまぼこ)」は、最初のころは 竹輪のような形をしており、ガマの花穂に 似ていたことから。 3) 「蒲焼(かばやき)」は、うなぎを筒状に 切って焼いていた形がガマの花穂に似ていたことから。ガマの穂は、蒸して食用にできるそうなのですが、どの様な味?秋が深まると綿をほぐしたようにほころびて,風に吹かれて綿毛のついた種が飛び出すのです。「ガマの穂にくるまりなさい」と大黒様に教えられたのは,この綿のようになったころのガマの穂なのであろう。 既にその準備が進んでいたのだ。子供の頃、近くの境川の近くで群生していた蒲の穂を見た記憶があるが、久しぶりにこのユニークな蒲の穂を見て帰宅し、いろいろと学んだのであった。
2011.09.20
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御岳山を後にし、奥多摩湖に向けて車を走らせる。途中左手に白丸調整池ダムが。発電専用ダムで、ダム直下に東京都交通局の白丸発電所があり、水力発電を行っている。東京都が運営するダム。電力は、東京電力へ売却と。白丸調整池ダムの下の多摩川の渓谷。小河内ダムに近づくと、余水吐水門が左手に見えた。大雨などでダム湖(奥多摩湖)に流入する水が増えてしまうと洪水の危険が。そんな時にはここから放流するのだ。 この日は僅かな水量を放水中。 淡い白の帯が。白き水の流れ、波紋が美しかった。 そしてダムの近くの駐車場に車を駐め散策開始。ダム湖百選の『奥多摩湖』。 余水吐水門には水門が5基設置されていた。東京都奥多摩町にあり、都心から約65kmにあって、標高530mに位置する奥多摩湖。奥多摩湖は正式名称を小河内貯水池(おごうちちょすいち)と言い、東京都西多摩郡奥多摩町と山梨県北都留郡丹波山村、同県同郡小菅村に跨る東京都水道局管理の人造湖(貯水池)。ダムの堤体上を歩き白い建物の展望塔に向かう。 小河内ダム概要の案内板。型式 :重力式コンクリートダム 堤高:149m堤頂長 :353m 堤体積:1,675,680m3流域面積:262.88km2 満水時の貯水量:185,400,000m3(東京ドーム150杯分) 小河内ダムの建設は、昭和13年11月に始まったが戦争のため昭和18年から工事が中断。昭和23年9月から工事は再開され、建設開始以来19年余りの歳月をかけて、昭和32年11月水道専用ダムとして完成・竣工したと。私が小学校2年生の時。小河内ダム展望塔入口。2階と3階が一般開放されており、入館料は無料。2階ではダムのジオラマや小河内ダムの歴史のパネル展示などがあり、小さな子どもから大人まで、ダムの事を学べるのであった。 竣工当時、水道専用貯水池としては世界最大規模の貯水池であったと。現在も水道専用貯水池としては日本最大級を誇る。現在、東京都の水源は利根川水系を主としているが、渇水時の水瓶として極めて重要な役割を担っているのだと。また、東京都交通局の発電施設(多摩川第一発電所)も併設(白の建物)されており、発電された電気は東京電力へ売却され、奥多摩町・青梅市などの多摩地区に電力を供給している。3階の展望台からは、ダムが一望出来た。特に、東側の窓からは、ダム下までの高さが100m以上のスリルある眺めが。 中央のプールは『水褥池(すいじょくいけ)』と言う難しい名前のついた池。目的はウォータークッション。すなわち下流部の水流を減勢するために施設する構造物。 なるほど発電で使った水の流れを直角に曲げているのであった。同様なウォータークッションが余水吐水門にもあったことでなるほどと。この日の小河内ダムの貯水量は89%であると。有効貯水量は、土砂堆積で減少していないのであろうか? 小河内ダム堤体上より奥多摩湖を望む。静かな緑の湖面に心が落ち着くのであった。オイルフェンスのみで流木等は一切浮かんでいなかったが、水道専用貯水池でもあり定期的に清掃しているのであろう。「奥多摩水と緑のふれあい館」を訪ねる。水と緑と奥多摩を再発見する場所。そして人と自然、都市と水源地のよりよい関係を考える場所。水源地と都民他の交流を図るため、水道水源林やダム、貯水池、水道の仕組みなどを映像や展示物を通して紹介。水をイメージした天井部分のデザイン。天井まで吹き抜け。 館内は、らせん状のゆるやかなスロープで結ばれており、誰もが安心して見学できるような構造。内部では奥多摩町の郷土芸能の紹介。東京都指定無形民俗文化財『小留浦の花神楽』小留浦の花神楽は獅子舞、江戸の里神楽、古狂言などの要素が混じりあった土の香の染み込んだ芸能として評価されていると。国指定重要無形民俗文化財 『 鹿島踊』。名前の由来は、三番叟の「鹿島大明神様は・・・」という歌詞から出たもので、似た踊りは新潟や伊豆地方にもあるが、男性が女装して踊るのは、小河内独特。江戸時代初期以前の歌舞伎踊の形を伝える貴重な芸能として高く評価されていると。小河内ダム工事の進捗状況をパネル展示している部屋もあった。 マスコット『わさぴー』 。名産のワサビを元に・・・。奥多摩町のキャッチフレーズ「人 森林(もり) 清流 おくたま魅力発信!」を実現するため今も身を粉(こ)にしてPR活動に活躍中と。マスコット『水滴くん』 。東京都水道局マスコットキャラクター「水滴くん」の木造。ここにも地元の蜂蜜が販売されていた。 奥多摩水と緑のふれあい館前の『自転車ゆりーと像』。2013年9月29日に行われた東京国体(スポーツ祭東京)自転車競技ロードレース本番の、前年のプレ大会(第2回東京ヒルクライムHINOHARAステージ)を記念して設置されたものと。 そして更に奥多摩湖岸を奥に進む。湖岸道路の青梅街道(411号線)からの小河内ダム、奥多摩湖。 緑の湖面の先に堤体そして白き展望塔も見えた。峰谷橋を渡る。奥多摩湖に流れ込む峰谷川に掛かる橋。赤い色が強烈で目立つアーチ橋。 浮き橋を発見し車を駐める。留浦(とずら)の浮橋。 多摩川特有の緑色の水面に、浮橋が長閑に緩やかな曲線を描いて浮かんでいた。里山感あふれる場所に架かる浮橋を渡る旅友Sさん。吊り橋は嫌いだが、浮き橋は大丈夫!と吊り橋とは異なる余裕の歩み。 そして更に進むと左手の山の頂上にある城の如き天守を発見。車を道の駅『たばやま』に駐める。この天守は、ふるさと創生事業(地方自治体に1億円配った伝説の事業)として平成2年に完成。全長247m、高低差42m、5,483本のローラーが使用されている日本一長いローラー滑り台として作られたと。しかし現在では4番目になっていると。滑り台の上にあるのは丹波山城と呼ぶ展望台である と駐車場のオジサンから。自然の地形を生かし、緑の木々をぬうようにして約2分30秒滑降、眼下にひろがる丹波山の自然を見ながら楽しめる「丹波山村営ローラーすべり台」である。 道の駅の中の農産物直売所。 駐車場には、うらやましい軽自動車タイプのキャンピングカーが駐車中。値段は300万円以上?更に車を進め、雄滝・雌滝を探しながら未舗装の山道を走り車を進めるが、渓流の姿・音は確認出来たが滝らしいものは・・・・。 車を降り下を探しながら引き返して行くと木々の間から目的の滝を発見。よく見ると木製の遊歩道が見えたので別の場所からアクセス出来る事が解り道を引き返す。 丹波山村営つり場のある川原に車を駐め散策開始。 丹波川支流貝沢川の区画の中の放流場所で子供達がニジマス釣りに挑戦中。 釣った魚は無料でさばいてくれる模様 。釣ったニジマスは250円/匹、焼き代50円/匹でこの場で楽しめると。池の中を元気に泳ぐニジマス。ここのニジマスを川に放流し、釣りを楽しむのであろう。 丹波山村 水車小屋。苔むした屋根が印象的。 雄滝・雌滝から流れてくる清流で水車が回るはずであるがこの日は?停止中。 そして木道を進んでいくと雄滝・雌滝が現れた。滝は2段の段瀑…確かにそうなのですが、それぞれ別々に滝名が付いていた。上段は雄滝、下段は雌滝。雄滝は近付きすぎると見えなくなるので、手前にある高さ5m程の展望台上からがベストポイント。 ズームで。いつまでも留まっていたい光景そして空間。そして奥多摩の観光を終え、大月方面に山道を進む。途中右手に見えたのが葛野川ダム(かずのがわダム)。 葛野川ダムは、山梨県大月市、相模川水系葛野川の支流・土室川に建設されたダム。高さ105.2メートルの重力式コンクリートダムで、東京電力の大規模揚水式水力発電所、葛野川発電所の下池を形成する。ダム湖(人造湖)の名は松姫湖(まつひめこ)。白き帯が美しかった。 そしてその下には深城ダム(ふかしろダム)が。高さ87メートルの重力式コンクリートダムで、洪水調節・不特定利水・上水道を目的とする、山梨県営の多目的ダム。ダム湖(人造湖)の名は、シオジの森ふかしろ湖。外見は葛野川ダムと双子のようなダム。そして山道を越え、大月の岩殿山丸山公園の脇を通り、国道20号線 甲州街道に出て名勝『猿橋』に到着。 駐車場に車を駐め散策開始。猿橋の横には山王宮があった。正一位 稲荷大明神。 そして『猿橋』を見上げる。江戸時代には「錦帯橋」、「木曽の桟(かけはし)」とともに「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であったと。長さ30.9m、幅3.3mの奇橋。深い谷間のために橋脚はなく、鋭くそびえたつ両岸から4層に重ねられた「刎木(はねぎ)」とよばれる支え木をせり出し、橋を支えているのだ。 刎橋(はねばし)では、岸の岩盤に穴を開けて刎木を斜めに差込み、中空に突き出す。その上に同様の刎木を突き出し、下の刎木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にするのだと。猿橋では、斜めに出た刎木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護していた。 猿橋のこの珍しい構造の起源は定かでないが、推古天皇の時代(西暦600年頃)、百済から来た造園博士の志羅呼(シラコ)が、深い渓谷に何度も阻まれて来たこの橋の建設を引き受けたと。色々な方法にチャレンジしたが、たくさんの猿が繋がりあって対岸へと渡って行く姿から思いつきこの橋を架けたと。 下を流れる桂川の渓谷美。水面からの高さは31m。 現在の猿橋から名勝『猿橋』を見る。橋の下奥に見えるのは、八ツ沢発電所に送水するために作られた水路橋、上に見える赤いアーチ橋は現在の国道20号の新猿橋。 水路橋を流れる水の音が清々しく響いていた。歌川広重の第一の傑作と言われる『甲陽猿橋之図』。猿橋の下には満月が描かれている、情緒豊かな風景。土産物屋で練乳入りイチゴのかき氷をしばし楽しむ。前回、外の店でかき氷を楽しんだのは何時のことであろうか? そして帰路は甲州街道を暫く走り、上野原ICから中央自動車道に。 そして八王子JCTから圏央道に進み、この日の走行距離225kmを走破(Sさんが終始運転)し茅ヶ崎に住む旅友Sさん宅に戻り我が愛車に乗り換え帰宅したのであった。 ・・・奥多摩周遊ドライブ 完・・・
2017.09.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次七ッ森神社を後にし、旧東海道を進むと直ぐ左手にあったのが『双筆五十三次 袋井』の浮世絵が。「双筆東海道五十三次 袋井」は、歌川国貞が人物を描き、歌川広重が風景を描くという、当時浮世絵界の大御所と言われた2人の合作の東海道五十三次です。ここ袋井市の道のいたるところに、東海道五十三次のポスターなどが貼られており、街道の風情や佇まいに思いを馳せることが出来るのであった。「初代歌川広重が得意としていた低視線の風景画を背景に、三代歌川豊国が巡礼に向かう母子を描いています。 二人とも抜け参りなのでしょうか、旅の途中、金品を無心する柄杓を持ち、母親は菅笠に 「同行二人」 「繁栄村」 墨書し、 着物の上にうわっぱりを着て 「(西国)三拾三番巡禮」 と記されたおいずいを羽おっています。東海道は、武士や商人、役人、僧侶のほか、伊勢参りをはじめ多くの巡礼者の通る道でもありました。」江戸幕府が整備させたと言われる松並木の一本道は、広大な田園風景とともに当時の面影を残していた。『東海道松並木』。初代歌川広重作山田屋版「行書東海道五十三次之内 袋井」「主要な街道の両側に並木を植えることは古代より行われ、天平宝字3年(759)に諸国の駅路に果樹を植えたのが始まりとされています。 「信長公記」 には天正3年(1576)に織田信長が「路辺の左右に松と柳植え置く」 と記され、 慶長9年(1604)には徳川秀忠が 「諸国街道一里毎に候塚を築かしめられ、街道の左右に松を植しめらる」 と、一里塚と一緒に松並木を整備したことが 「徳川実紀」 に記されています。江戸時代を通して旅人を日差しや風から守っていた並木も、明治維新以後その数を減らしてしまいましたが、現在地より東側には松並木が良く残り、 江戸時代の面影を今に伝えています。また、現在地の西側の道は真言宗の古刹油山寺へと至る油山道と呼ばれる道です。 入口には文政11年(1828)に再建された油山寺道標と火防の神として信仰のある三尺坊が祀られている可睡斎への道標が建てられています。」『山田屋版 行書東海道五十三次之内 袋井』その横に『従是油山道』。文政11年(1828)の油山寺道標。松並木は一旦途切れたが再び前方に。『是より可睡三尺坊道』これは曹洞宗の寺院 「可睡斎」 への道標である。応永年間(1394~1428)道元の法孫・如仲天誾和尚が草庵を結び、後東陽軒と称したのが可睡斎の始まりで、江戸時代、徳川家康の帰依を得て、駿河・遠江・伊豆・三河4ヶ国の僧録司の職を与えられ、寺号を可睡斎と改めた。」『東新屋』道標。新屋交差点手前で旧東海道は県道413号線に合流。道路の中央分離帯にあったのが『西新屋』の道標。新屋の交差点を左折すると直ぐ右手に『旧東海道』の案内板が。この様な案内が旧東海道沿いに充実することを願うのであった。そして丁寧に『新屋 旧東海道マップ』が設置されていた。袋井市の施策に歩き人として評価と感謝をするのであった。案内に沿って進むと右手に立派な祠が現れた。『新屋の秋葉山常夜燈』。「新屋の秋葉山常夜燈火伏の神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代に盛んになりなした。秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が多くな りました。袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、その地区の人々が火伏の神への信仰から建てられたものもあ りました。市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計で十四基現存しています。新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況のたいへん良い常夜灯です。かつては、東海道を行き来する旅人のよい目印となったことでしょう。」正面から。祠の屋根の下の彫刻も見事。横から。全周に渡り透かし彫りの彫刻が見事に。その奥にも小さな祠が。そして旧東海道は袋井市役所前を通過する道路に合流しここを左折。『市役所南』道標。再び袋井市役所南交差点を右折。広岡排水路沿いの桜も満開となっていた。既に花筏も。『袋井宿と天橋』。「袋井宿 は元和ニ(一六一六)年に設置されました。いわゆる東海道五十三次でいえば品川宿から数えてニ七番目の宿駅にあたります。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋です。天保一四(一八四三)年の調査によれば、宿内の街並みは西端の中川まで五町一五間人口は八四三人、家数は本陣三軒・旅籠屋の五〇軒を含め一九五軒でした。」この石碑は、「阿麻はし」??『これより袋井宿』昔の道標のイメージした新しい道標。『東海道どまん中茶屋』。東海道五十三次のどまん中・袋井宿をアピールし、初代広重の描いた「袋井出茶屋之図」をモチーフに建てられ観光案内所。袋井市観光協会が運営する店であろう。正面から。茶屋は小さいが、暖房が効いてとても暖かい、いやこの日には暖かすぎたか?ボランティアのオバチャンがお茶を入れてくれたので、話しながらしばしの休憩。ここには、食事提供の機能はなく、頂いたお茶を楽しみながら、持っていたオニギリと旅友からもらったバナナを楽しんだのであった。茶屋の前の小さな広場。『袋井 出茶屋ノ図』私が映ってしまっていた。こちらが広重の浮世絵。大きな木からヤカンがぶら下がり、お茶屋のオバチャンが、火の面倒を見ている。その横では旅人?がこの地域で盛んだっというタバコ栽培からの刻みタバコを煙管で火を付けようとしている姿であるとボランティアのオバチャンから。『袋井宿』道標。『食処 坂口屋』と書かれた木札が掲げられていたが、店は長い間閉店中であるとこれもオバチャンから。そして再び旧東海道を歩く。右手に『秋葉山 常夜燈』。『白髭神社(しらひげじんじゃ)』社標。白髭神社の鳥居。道路を渡ると白髭神社境内へ。本堂。祭神は猿田毘古神(さるたびこのかみ)。五穀豊穣を祝い、無病息災を願い行われる大祭・袋井祭りでが、白髭神社を始め、十二所神社、七ツ森神社、赤尾渋垂郡辺神社の四社の例祭として行われると。旧東海道まで戻り、次の細道入口に埋め込まれていた『秋葉線軌道跡』。帰宅して調べてみると、静岡鉄道の路面電車跡。袋井駅から北上して遠州森駅まで通っていたのだと。開業は明治35年で、当時はお茶や野菜を袋井まで運ぶ馬車鉄道であったと。その後景気が良くなり電車になり、太平洋戦争の頃は町の人が農家へ買出しに行く電車になって、客が屋根の上にも乗るほど賑わったのだと。しかし車社会になって昭和37年に廃止になってバス路線に代わってしまったのだと。そしてその先にあったのが『袋井宿東本陣(田代壱番御本陣)跡』『本陣跡の門』。正面から。「袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ、「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。 1、宿内惣家数 195軒 内 本陣 凡建坪290坪半 門構・玄関附 字新町 1軒 凡建坪219坪 門構・玄関附 字本町 1軒 凡建坪168坪半 門構・玄関附 同 1軒三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられました。三本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行った問屋場の最高責任者である問屋も勤めています。本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり、その規模の大きさがうかがわれます。」『東海道の本陣』⬅リンク が細かく説明されていた。興味のある方はリンクをご参照ください。『袋井宿東本陣 建物の一部』。「この場所は平成3年度に発掘調査が行われ、建物の一部が発見されました。現存する本陣絵図で本陣の最も東側の建物です。発掘では火災の跡も発見され、何度も建て直されていると考えられます。この建物は、俗にいう「ウナギの寝床」のように南北に奥行きのある建物で、本陣家(田代家)の生活の場であったと考えられます。南側の街道に面した所は土間で、8畳が3間続き、南側2間には天井がなかったと絵図は記しています。その北側は坪庭をはさんで4畳と8畳、湯殿などが接続していました。」『本陣絵図 解説図』。袋井宿には3つの本陣があってそれぞれ、東本陣・中本陣・西本陣と呼ばれていた。東本陣は壱番御本陣とも呼ばれ、代々田代さんが営んでいた。建坪は288坪もあったが、その後、郵便局となり、それも無くなり今は門のみ復元。なるほど『ウナギの寝床』。そして次に直ぐ先、左手にあった『袋井宿場公園』に。公園に隣接する建物の壁にも袋井宿の絵が。『此処はどまん中袋井宿』案内図。「遠州山名郡袋井宿掛川宿へ二里16町(約9.7キロ)見付宿へ1里半(約6キロ)当所うなぎすっぽん名物袋井宿の名は、すでに弘安の頃(1278~88年)に書かれた「遺塵和歌集」の長唄の一節に見ることができます。江戸時代の袋井宿は、徳川家康公により東海道の宿駅制度が定められてから15年後の元和2年(1616年)八月四日に開設されました。江戸日本橋から数えても京都三条大橋から数えても27番目、東海道五十三次のちょうど「どまん中」の宿です。」『北斎漫画と末広五十三次』。「北斎漫画絵手本としての「北斎漫画 袋井」には、石積みのある土塁の間を進む二人の旅人が描かれています。水害にみまわれることの多かった袋井宿は、こうした土塁(土手)に囲まれていたのでしょう末広五十三次天橋を越え、東へ向かう大名行列の姿を描いています。沿道には松並木、宿内から茅葺き屋根の家並みが続き、天橋は高欄付きの板橋です」公園の裏にあった『旧中村洋装学院』をズームで。原野谷川沿いに南北棟で建つ。木造二階建、切妻造桟瓦葺で、棟端のフィニアルに校章を表す。外壁下見板張で妻にガラリを付け、軒天井を廻す。内部は上下階とも南半を広い一室の教室とし、北半に和室・洋室を配する。戦後復興期の各種学校校舎の特徴を示す。公園の見事な噴水。ノズルの形状、水圧に元技術屋?として興味津々。『歴史の道 東海道 袋井宿』「袋井の宿が初めて歴史史料にあらわれるのは、約七〇〇年前につくられた「遺塵和歌集」の次の一節です。「・・・なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の・・・」これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と懸川宿の間に記されていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたものと思われます。鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。特に戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備はもっとも重要な課題の一つでした。徳川家康は江戸に幕府を開く二年も前、慶長六(1601)年に、いわゆる「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として、元和二(1616)年に開かれました。「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて二十七番目、ちょうど東海道の真ん中に位置しています。」 その5 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.26
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右手に斎館。参集殿。朱の太鼓橋の先に「来宮弁財天」。手前の巨石は「弁天岩」、古来神様が宿っていたと伝えられる磐座(いわくら)と紹介されていた。「弁天岩」の上には、蛇の彫像があった。カメラでズームしてみると歯が妙にリアルで、何か口にくわえていた。どうやらコレ扇子らしいのであったが、辨財天は芸能の神でもあり、熱海の芸姑さん達にあやかっているらしい。「来宮弁財天」の朱の鳥居、そしてその先に太鼓橋。熱海芸妓(げいぎ)が芸能の神様とあがめる「来宮弁財天」であると。本殿の隣に鎮座するこの弁財天は、もともとは金華山(宮城県)に祀られていたが、のちに秩父霊場(現秩父神社)を経て、卜占により 来宮神社に安置されたという。「七福神」の一員で財宝神としての性格を持つが、来宮神社では大正時代から芸妓衆が芸能の神として崇拝。現在でも熱海芸妓衆が連日、芸事の上達を願い参拝しているのだと。そしてパワースポットとされる御神木の「大楠」👈️リンク。樹齢2000年以上、周囲23.9m、樹高約25m、本州一位(全国二位)の巨樹、昭和8年2月28日文部省指定天然記念物になった「阿豆佐和気神社の大クス」日本第1位の鹿児島県蒲生町の「蒲生の大クス」に次ぐもの。此の大楠は来ノ宮大神の寄代とされた御神木で之を一周すると1つ願い事が叶う、そして一年寿命が延びると伝えられているのだと。「大樟(大楠)天然記念物文部大臣指定 昭和八年二月二十八日 樹令 二千年 周囲 二〇米 高さ 二〇米由緒(いわれ)大古には我国では現代の様な家屋はなく文字もなく言葉ばかりの時代が長く続いていました。其頃此の社の森には七本の楠や椎の木、細葉の大木、羊朶(しだ)類等が自生していて昼なを暗く大地を覆っていました。ところが今から約百二十余年前の嘉永年間と云ふ年に熱海村に大網(おおあみ)事件と云ふ(流刑者(しまながし)迄出した)全村挙げての大事件が勃発し其の訴訟費など捻(ねん)出するため、五本の大楠は伐(き)られてしまったのです。現在残されている其の中の一本の此の大楠をも伐ろうとして樵夫(きこり)が大鋸(のこぎり)を幹に当てようとしたところ忽然として白髪の老人が現れ両手を拡げて此れを遮(さえ)ぎる様な姿になると忽(たちまち)大鋸は手元から音をたてて二つに折れ同時に白髪の老人の姿は消へてしまつたのです。此れは神のお諭(さとし)であるとして村人等は大楠を伐る事を中止してしまいました。此の木が即ち現在ある御神木であります。此の大楠へ古代には「神の魂(みたま)にお降(さがり)を願ひ」いわゆる神の依代(よりしろ)として此の御神木の中に宿る神の魂(みたま)と人々は対面していたのであります。斯(か)くて二千年の長い間世の天変地異を経て現代に至りました。 此の大楠を人に例へれば世の中の有らゆるものを知り盡くしてござる大古老(だいころう)とでも申しましようか、然るに二千年を経ても尚樹勢は少しも衰へず、根は深く大地に食い込み巨岩を抱きかかへ、幹は巌石の様相を呈し内に溢るる生気はますます、旺(さかん)にして枝葉は毎日西に東に伸(の)びゆき未来永劫生き拔こうとする生命力の強靱さには恐ろしきものさへ感じとれます。 右の様な次第でありますので大楠は「不老長生」「無病息災」の象徴とされているのです。それ故に二千年の大楠の長寿に肖(あやか)ろうとする願ひからか、此れを一廻りすると「一年寿命が延びる」、又「願ひ事」のある人はそれが必ず叶うと云い伝えられて来ました。今の世に大楠の様に長命で然も厳然として物に動ぜず、ひたすら正しく生きる道に徹する事が出来たならば何と幸せなことでありましょう。 世の貴顕紳士(きけんしんし)を始め国の内外から訪ねて来られる方々は毎日後を絶ちません。」「樹齢二千年超 御神木の根を守る「大楠」保護工事」案内板。令和2年6月(今月)末 完成予定とのこと。「御神木」の手前に参拝用の濡れ縁の如き構造物を設け、直接地面を踏みしめてしまうことをなくし「御神木」の根を守る大楠のだと。工事前の写真をネットで見ると、「大楠」の手前の一部は舗装されており、根に優しくなかった事が理解できたのであった。「日本最樹齢の碑 国指定天然記念物 大樟 文部大臣指定 昭和八年ニ月二十八日樹齢 ニ千年以上周囲 ニ十三.九米高さ ニ十六米以上御由緒 古代においては此の樟へ神の御霊をお招きしてお祀りしております。現在は当社の御神木となっております。此の大楠はニ千年の間、世の天変地異を経て今の世に至りましてもその樹勢は衰えずいよいよ旺にして根は深く大地をふまえ巌石の如き様相を呈し『延命長寿』の象徴とされています。世の貴顕紳士をはじめあらゆる方々が訪ねて来られ、此の大楠の前たたずみ何物かを感得されて帰られます。」本州一位(全国二位)の巨樹。此の大楠は来ノ宮大神の寄代とされた御神木で之を一周すると一年寿命が延びると伝えられています。「大楠」も幹の内部が空洞の部分も。御朱印と共に頂いた絵葉書。夜間はライトアップされたとパンフレットより。現在は??「徳富蘇峰顕彰碑」・「餘香碑(よこうひ)」。昭和32年(1957)、熱海で95歳の天寿をまっとうした『徳富蘇峰(とくとみそほう)』の業績を顕彰して立てられた碑。この碑は、元内閣総理大臣中曽根康弘氏の書によるもので、昭和60年に建立されています。徳富蘇峰氏「国民之友」、「国民新聞」を創刊したほか、著書には「近世日本国民史」などがあり、明治・大正・昭和にかけて活躍したジャーナリスト、思想家、評論家などとして有名。「御神木」の裏の滝。雨天後でもあり白き流れが激しかった。滝の後の川の流れを上部から。この川は「あたみ桜 糸川桜まつり会場」の糸川に続く流れ。白のカオス。再び「大楠」を振り返る。大楠「五色の杜」。 拝殿前から「参集殿」を見る。「来宮神社」拝殿を別の高い場所・参集殿の2階「杜の屋上」から振り返る。ご神紋は「五七の桐」紋。階段を降り、「参集殿」の中に入った。「参集殿」の中の「来宮神社 宮神輿」。札所。御守りが並ぶ。様々な種類の御札も。「来宮神社」紹介のビデオコーナーも。「新日本風土記 熱海」のポスターか?「日本三代巨樹」。今回で、制覇していないのは鹿児島県にある1位のみになったが・・・。3位の佐賀県武雄市のものも「大楠」よって3位までは皆、楠なのである。御朱印を頂きました。帰路は濃霧の中、静岡県道20号熱海箱根峠線を利用し小田原に戻る。小田原漁港内にある「ひもの屋 半兵衛」に立ち寄る。店舗内部。鯵、えぼ鯛、サンマの干物を買って再び帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2020.06.20
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先日、地元の市民センターを自治会連合会の会議で訪ねた折、「あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩」と言う小冊子を頂いて帰りました。小冊子には下記のごとく書かれていました。「藤沢市アートスペース(FAS)では、市内に点在するパブリックアートの調査を2018年から開始しました。これまでに、関連事業として、専門家指導のもと作品を美しく蘇らせる「まちの彫刻ピカピカプロジェクト」や、展覧会「Fujisawa Art Re;public - 藤沢で再発見! まちのアート探訪 - 」を実施しています。これまでの調査と活動についてまとめた冊子『あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩』を刊行しました。ぜひお手に取り、街を歩きながら、藤沢のパブリックアートの魅力に触れてください。」と。「いつもの通動、通学や買い物の途中で見かける、何となく気になるポーズの像や不思議な形のオプジ。でも、立ち止まってじっくり見つめることなく、通り過ぎてしまう人も多いのではないでしようか。「あるいて。みつけて。ふじさわパプリックアート散歩」はその名の通り、敗歩の途中などに気軽に、身の回りにあるアートに触れてほしいとの思いから生まれました。冊子をつくるにあたり、まず行ったのは、”誰でも見られる場所に置かれた立体造形作品"である市内のパプリックアートの情報を集めること。すると、作品が集まっている場所や、広く分布している場所など、各地域の状況が見えてきました。そこで、実際に足を運びやすいよう、市内を四つの地域に分けて紹介することにしました。もちろん、鑑賞の仕方は人それぞれです。設置された理由や、使われている素材、表現されている人や物など、情報から入るもよし。もしくは、まず作品と対面して、心の声で話しかけてみるのもまたよし。時には作品の目線に立って見えるものを確認したり、周囲の風景を眺めたりするのも楽しいかもしれません。パプリックアートは、美術館などの建物の入口をくぐらなくても、好きな時問に自由に見ることのできる芸術作品です。みなさんの日々の暮らしの中で、そんな作品との出会いや新しい発見があればと思います。」この日は10月5日(月)、『小出川彼岸花』を訪ねた帰りに、『あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩』👈リンクの小冊子に紹介されている「藤沢北部1」を下の地図に基づき訪ねる事としたのです。訪ねた順番は異なりますが、地図の下側から数字の順番に従い紹介致します。まずは天神橋へ引地川に架かる天神橋。 左側の欄干の上にのみ何か突起物が。「天神橋」。㊲「引地川親水公園の 欄干の彫刻」相撲の立会いから取り組みまで、そして行司を含め全部で10匹が向かい合うように。平安末期から鎌倉前期にかけて描かれたといわれる、京都・高山寺の国宝"鳥獣戯画"から抜け出してきた蛙たちが、相撲をとっている姿に出会うことが出来たのであった。しかし鳥獣戯画は蛙と兎だったのでは。行司のカエルが軍配をふるっているところから始まるのであった。軍配には三日月が描かれているのみのシンプルなもの。様々なポーズをとったカエルの像が並んでいた。相撲の仕切りのポーズ。残った!残った!浴びせ倒し!!何故か南京錠が。ワッハッハ。酔っぱらっちまった!!橋の中央から、微妙に姿は異なりますが対称的な姿で順番に。欄干上に金属製の蛙作品が等間隔に並んでいたのであった。「引地川」の下流側を見る。「引地川」。次に訪ねたのが湘南大庭市民センターへ「湘南大庭市民センター 湘南大庭公民館」。神奈川県藤沢市大庭5406−1。正面のアプローチの左右に向かい合う像がニ体。「湘南大庭市民センター 湘南大庭公民館」に近づいて。㊳「春の詩」作者:桒山 賀行氏(くわやま がこう) 竣工年:1995年。作品材質:ブロンズアプローチを挟んで二体の作品が向かい合っていた。鳥と戯れる二体の少女像は、さわやかな春のイメージなのであると。少女の掌、頭の上には羽ばたく鳩の姿が。そしてもう一体。こちらの少女は右の掌の上に鳩が。近づいて。更に。正面から見て右側の少女像の後ろから二体の姿を。鳩がアプローチを進んでくる訪問者を迎える位置にあることが解るのであった。次に訪ねたのが大庭城址公園藤沢市大庭5230。㊴「自然」作者:熊坂兌子(なおこ)作品材質:大理石竣工年:1995年ほのぼのと、ゆったりと親子のひととき。次に藤沢市立ニ番構公園を訪ねた。「藤沢市立二番構公園」案内図。南北に長い公園。この場所までが、大庭城の範囲であるとの説があると。㊵「ニ番構公園の彫刻」「二番構(にばんかまえ)」という名前は、すぐ近くにあった大庭城に由来する地名で、湘南ライフタウンの区画整理事業によって生まれた近隣公園。本丸を守るように堀や土塁を備えた武士などの屋敷のことだそうで、裏門に隣接した場所を二番構と呼んだのだと。南側の公園入口に廻り込むと二人の幼児の像が。作品名:2人の子ども作者:山岸伸一裸で仲良く向かい合って。反対側から。㊶「ニ番構公園の彫刻」細長い布をふわりと体にまとわせ、「水瓶を抱えた女性像」。作者:山岸伸一この日は噴水、壺からの水は出ていなかった。角度を変えて。㊷「ニ番構公園の彫刻」岩や水の配置が工夫されて。瀧からの水はここにもなく。噴水池のある広場。手を上げながら様々なポーズをした裸婦像が3体。作者:黒川弘樹(原画) 山崎豊三(塑像)池の中の踏石を利用して、像の周囲を巡る。それぞれの女性にズームして。ここはフジの花の名所であるようだ。フジの花が咲くと。 【https://lovegreen.net/flower/p137752/】より「フジロード Fuji Road」案内板。来年はフジの咲く時期に「フジロード」を歩いて見よう。4.に二番構公園が。藤沢市の「雨水管マンホール蓋」にも市花のフジの花が。大庭丸山公園遊びながらトレーニングができるアスレチック器具がたくさん設置されていた。㊸「光る風」。正面に立つと、風が左から右へと吹き抜けて行く姿をイメージした作品であると。裏側も同様に。遠藤公園中央に石像が。「人間にとって大きな存在である太陽、自然、地球と共に生きる」というコンセプトで作られた作品であると。㊹「駆ける太陽と共に」。作者:熊坂兌子当初は純白であったのだろうが。北永山公園へ藤沢市遠藤742㊺「空の表情」太陽と雲のレリーフが施された石彫彫刻。公園入口の中央に立っていた。裏側。「ふじさわ パブリックアート散歩」の本には紹介されていないが東急ストア湘南とうきゅうにあった作品。藤沢市遠藤698−10。作品の題名は「水・浮遊」。作家は池田徹氏。石碑。大庭城址の城郭と湘南の海を象徴的に表現した彫刻とのこと・秋葉台運動公園へ藤沢市遠藤2000-1こもれび広場に立つ㊻「シャツブラウスの娘」作者:佐藤忠良氏竣工年:1983年作品材質:ブロンズ「シャツを大胆な着こなしや質感はもちろん、手を腰にあて足をクロスさせた全身の絶妙なバランスが特徴的な女性像」「日常生活の中で一瞬だけ見える「人間の美」を追求した作品の一つである」と。そして秋葉台文化体育館。秋葉台体育館 配置案内図。第二体育館。そして体育館。「藤沢市秋葉台公園概要秋葉台公園は建設省のカルチャーパーク構想に基づく都市公園として整催が進められ、運動施設としては現在、体育館、球技場、プール等のスポーツ施設が設置されており、北部方面におけるスポーツレクリエーションの拠点施設として、多くの市民にご利用いたたける様、開設しております。」「藤沢市秋葉台文化体育館」正面入口。「ふるさとマップ 遠藤」ここは、神奈川県藤沢市遠藤2000−1。㊼「大黒橋小公園のモニュメント」「大黒橋」の横にあった「大黒橋小公園」とモニュメント。小出川の流れと、水面にきらめく陽光をイメージしたが如きモニュメント。「大黒橋その昔、窪島氏が寄付された伊豆小松石ニ本の橋であった。この橋の近くには比丘尼橋があって、玄光院(廃寺)から宝泉寺に通う尼さんが掛けた橋といわれる。比丘尼橋に対して、大きな橋こう名付けたという説や、黒い立派な橋だったので、という話もある。新編相模国風土記稿にも大黒橋の名がある。」大庭台墓園「藤沢市 大場台墓園」と刻まれた石板。駐車場に車を駐め、目的の像を探す。正面が「立体墓地」。大庭台墓園の「立体墓地」は屋内に設けられた納骨壇で、上部に墓石を設置できる「普通納骨壇」とアルミ製のいわゆる"ロッカータイプ"の「集合納骨」に加え、承継者がいない方むけに20年間の期限付きで納骨し、その後に合祀墓へ共同埋葬される「合葬納骨壇」が用意されているとのこと。像のある場所が判らないので、管理事務所に行き「施設案内図」を頂き説明していただく。場所は管理事務所前のロータリーから5区の前の駐車場に車を駐める。ブロンズ像を発見。作品名は??㊽「大庭台墓園のブロンズ像」碑の台座には、平安時代の歌謡集『梁塵秘抄』から、童心を詠んだ有名な一節が刻まれていた。「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ揺るがるれ」無心に戯れ、喜々として声をあげる子供の姿に、忘れていた童心を呼び覚まされた大人の感懐を詠んだ歌。「 遊びをしようとして生まれてきたのであろうか。あるいは、戯(たわむ)れをしようとして生まれてきたのであろうか。無邪気に遊んでいる子供のはしゃぐ声を聞くと、大人である私の身体までもが、それにつられて自然と動き出してしまいそうだ。」裸で両手を上げて空を見つめる男の子。ズームで。その姿を下から見上げる男の子。後ろからも。弟の姿であろうか。 「少年の森」へ藤沢市少年の森は、国際児童年記念事業として、昭和55年5月5日に建設された、青少年野外活動施設。藤沢市打戻2345。敷地面積:93,642.43m²主な施設:アスレチック(20ポイント) 木製遊具(9基) 自然散策路 キャンプ場(テントサイト・野外炊事場) じゃぶじゃぶ池 多目的運動場(クローバー広場・さわやか広場) 宿泊研修施設「かわせみハウス」㊾「友情」フォークダンスをする若い男女の像。作者:安田周三郎皇帝ダリアに囲まれて。お互いに目を見つめ合って楽しそうに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2020.11.07
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「永福寺跡」を堪能した後は先程訪ねた「通玄橋」を渡り、久しぶりの「瑞泉寺」に向けて坂道を上って行った。途中、左手の小さな広場にあった「庚申塔」。左の立て札には「「荏柄天神社御旅所」と書かれ、石柱には「三社大権現」と刻まれているようであった。そしてここから瑞泉寺の参道になる。石柱には「旧関東十刹第二位 錦屏山瑞泉寺」と刻まれていた。狭い山道を進むと前方に総門が見えて来たがトラックが邪魔。気持ちが通じたか、直後にトラックが移動してくれた。総門の左側が工事中であった。「佛さま写真観山門鎌倉市内49寺社の非公開も含めた230点の尊像写真。それに朝日新聞神奈川特集に連載された「かながわの仏像」(1980年3月~1985年3月)「野の地歳」(1985年4月~1999年4月まで)10年間毎月1回掲載した仏像と石像130点を展示致しました。」「錦屏山 瑞泉寺蔵 木造 千手観世音菩薩坐像」。「長州藩士吉田松陰と瑞泉寺かって、吉田松陰の伯父「竹院和尚」が住職を務めていた瑞泉寺。嘉永六年( 1853年) 5月、松陰は拍父を瑞泉寺に訪ね、語り明かし、ともに鎌倉・江ノ島を巡りました。その後、ペリーの浦賀来航を間近に見た松陰は、翌年、下田で密航を企てる直前にもここを訪れています。山門の前には「松陰吉田先生留跡碑」があります。」「総門」を抜け、更に長い参道を進む。前方に受付小屋が見えて来た。受付小屋で拝観料200円を払って進む。そして木々に囲まれた坂道は石段に変わる。紅葉ヶ谷の奥にある境内は三方を山に囲まれているので、山が間近に迫って来るのであった。「夢窓国師古道場」と刻まれた石碑。夢窓国師は、瑞泉寺の開山であり後醍醐天皇や足利尊氏も深く帰依し、鎌倉~南北朝期に重きをなした僧。作庭にも才を発揮し、昭和四五年に発掘、復元された仏殿背後の庭園は夢窓国師の作として、国の名勝に指定されているのだ。瑞泉寺(ずいせんじ)鎌倉公方(鎌倉府の長)の菩提寺として、鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられた格式ある寺院です。山号の錦屏山は、寺を囲む山々の紅葉が錦の屏風のように美しいことから付けられたといわれています。また境内は、四季を通して様々な花を楽しむことが出来ます。開山の夢窓国師は、後醍醐天皇や足利尊氏も深く帰依し、鎌倉 ~ 南北朝期に禅宗で重きをなした僧です。作庭にも才を発揮し、昭和45年に発掘、復元された仏殿背後の庭園は国師の作として、国の名勝に指定されています。 ● 宗 派:臨済宗円覚寺派 ● 山号寺号:錦屏山瑞泉寺 (きんぺいざん) ● 建 立:嘉暦2年 (1327) ● 開 山:夢窓疎石 (夢窓国師) ● 中興開基:足利基氏写真は、国指定名勝の庭園文学案内板「瑞泉寺」境内が史跡、背後の庭園が名勝に指定されているこの禅刹瑞泉寺には、多くの文人が来訪し、数多くの文学作品が創り出されているが、この案内では文学遺跡、文学碑と、ゆかりの文人を紹介する。〇 中世文学遺跡 徧界一覧亭 夢窓国師の草創で、五山文学発祥の地と伝える。〇 文学碑 大宅壮一評論碑 「男の顔は履歴書である」 (昭和46年建立) 久保田万太郎句碑 「いつぬれし松の根方ぞ春しぐれ」(昭和54年建立) 吉野秀雄歌碑 「死をいとひ生をもおそれ人間ゆれ定まらぬこころ知るのみ」 (昭和43年建立)〇 ゆかりの文人 大宅壮一(評論家) 大佛次郎(小説家) 梶山季之(小説家) 川端康成(小説家) 久保田万太郎(小説家・劇作家・俳人) 久米正雄(小説家) 高浜虚子(俳人) 立原正秋(小説家) 永井龍男(小説家) 山崎方代(歌人) 吉野秀雄(歌人)尚、詳細は鎌倉文学館にご照会ください。瑞泉寺境内にはたくさんの歌碑や文学碑があった。吉田松陰・留跡碑や方代歌碑の他、久保田万太郎、吉野秀雄等歌人の碑も。前住職の大下豊道和尚が和歌に理解があったのだと。山門に至る参道は、苔むした古くからの石段と新しい石段があった。やはり苔むした古くからの石段の方が気持ちが引き締まるので、こちらを慎重に進む。右手にあった新しい石段。そして「山門」前に出る。山門左手前に「松陰吉田先生留跡碑」。前述のごとく「吉田松陰の伯父「竹院和尚」が住職を務めていた瑞泉寺。嘉永六年( 1853年) 5月、松陰は拍父を瑞泉寺に訪ね、語り明かし、ともに鎌倉・江ノ島を巡りました。その後、ペリーの浦賀来航を間近に見た松陰は、翌年、下田で密航を企てる直前にもここを訪れています。」と。裏面には「瑞泉寺竹院上人松蔭吉田先生伯父也先生訪上人於瑞泉寺前後四回其在埜山獄也賦詩日山光竹色人窓青方丈幽深倚錦屏今我為囚空憶昔月中一夜叩雲扁可以知先生魂魄存于此地也昭和四稔四月 蘇峰菅原正敬撰并書」と刻まれているとネットから。山門前右手前には山崎方代の歌碑が。「手の平に 豆腐をのせて いそいそと いつもの角を 曲りて帰る 方代」山崎方代(1914~1985)甲州右左口生まれ、鎌倉手広に没す歌人。歌集に『方代』『右左口』『迦葉』など。随筆集、全歌集手水場山門前にあった、境内配置図「国之指定 史跡 瑞泉寺境内、名勝 瑞泉寺庭園」「瑞泉寺」といえば、庭園が有名だが、敷地内には様々な花が植えてあり、四季折々の花を楽しむこともできるのだ。「瑞泉寺」は「花の寺」とも呼ばれている人気の寺。「国指定史跡 瑞泉寺境内国指定史跡 瑞泉寺庭園 昭和46年11月8日 文部省指定創建は、嘉暦2年(1327)、錦屏山と号し、開山は夢窓疎石、臨済宗円覚寺派に属する。徧界一覧亭も創建と同時期に建てられ、亭の前庭を兼ねた書院庭園もそのころに造られたものと思われる。南北朝時代に入ると、鎌倉公方足利基氏が疎石に帰依したため公方の塔所となり、関東十刹に名をつらぬ、礎石派の拠点として関東禅林に重きをなした。現在、寺内に古建築は残っていないが、発掘復元された池庭と、十八曲して一覧亭にいたる登坂路の遺構はよく保存されている。また、背後の山に多くのやぐら群をふくむ境内地がほぼ全 域にわたって保持されていることは貴重である。 注 意 この史跡、名勝の現状をみだりに変更し、滅失、き損、衰亡等保存に影響を及ぼす行為は 禁止されています。」「山門」。扁額「瑞泉蘭若」「蘭若(らんにゃ)」とは元来は梵語で「町村を去ること近からず遠からず、修行に適した所」の意だが、転じて中国では官寺=公の寺に対して私寺を表すと。よって「瑞泉蘭若」とは、ご自身が気に入って住まう庵、という意味になるのだと。「青蛙木々の涙を仰ぎ見る 風天」「風天」は、たしか渥美清の俳号であったが・・・・。「一覧亭 復興碑」。瑞泉寺の徧界一覧亭は、夢窓疎石が1328年(嘉暦3年)に庭園の山上に建立したもので、富士を正面に望む景勝の地だったという。徧界一覧亭では、鎌倉五山の僧が集まり詞会が開かれた。「前もまた重なる山の庵にて梢(こずえ)に続く庭の白雲」は、疎石がこの亭で詠んだものと伝えられている。その後、荒れ果てた「徧界一覧亭」をみた徳川光圀(水戸光圀)が堂を建て、そのそばに東屋を造り「一覧亭集詩板」を掲げたというが今はない。「山門」を潜り進む。仏殿(本堂)が見えた。「境内 配置図」。 【http://www.kamakura-zuisenji.or.jp/guide/】より左に進むと、久保田万太郎の句碑。「いつぬれし 松の根方ぞ 春しぐれ」久保田万太郎(1889~1963)小説家、劇作家、演出家、俳人。浅草生まれ。小説に『春泥』『末枯』。句集に『道芝』、全集あり。文化勲章受賞「男の顔は履歴書である 大宅壮一」。「男の顔は履歴書である大宅壮一(1900~1970)評論家、大阪府生まれ。「大宅壮一全集」全三十巻。マスコミ塾を記して人材を育て、大宅壮一文庫を残した」「大宅壮一」はキャッチコピーや造語つくりの名人で、駅弁大学、一億総白痴化、恐妻、家庭争議、太陽族、虚業家・・・など、いくらでも挙げることができるが、「男の顔は履歴書」もそのひとつ。そして彼の墓はこの瑞泉寺にあるのだと。「鐘楼」。近づいて。「梵鐘」。「鐘楼」近くの石仏。半跏の地蔵菩薩が新緑に染まって。藤棚は既に花が終わって。「鐘楼」の奥にはこんもりした場所が有り、法衣姿の狸の石像があり、それを囲む様に様々な石仏が並んでいた。「むじな塚」と呼ばれていると。鐘楼の近くにあった「錦屏晩鐘」碑。瑞泉寺の山号が錦屏山(きんぴょうざん)。「安國利生塔(あんこくりしょうとう)」足利尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓疎石の勧めで全国に安国寺を建てこの利生塔を置いたと。「大玄関」の案内板。「大玄関」。「庫裡」。茶室「南芳庵(なんぽうあん」。平成二十三年(2011)の建立。「本堂」。建物は昭和五十年(1975)の再建。「本堂」の脇には、鎌倉市の指定天然記念物である黄梅と冬桜が植わっている。鎌倉三十三観音霊場札所。「本堂」に近づいて。開山は鎌倉時代末期から南北朝時代初期の禅僧、夢想国師(むそうこくし・別名、夢窓疎石 むそうそせき)によって開山された古寺。夢窓疎石が「禅院相応の勝地」(禅宗寺院にふさわしい景勝の地)として創建した瑞泉院が前身。その後足利基氏(あしかがもとうじ)が中興して寺名を改めました。北条高時(ほうじょうたかとき・鎌倉幕府最期の執権)や後醍醐天皇に帰依された有名な禅僧で、円覚寺や浄智寺の住持を歴史した名僧として有名。稀代の作庭家としても有名で、京都の天龍寺や西芳寺の庭園を設計した作庭家としても優れている。鎌倉市二階堂710大雄寶殿(佛殿)右側:開山夢窓国師坐像中央:本尊釋迦牟尼佛左側:阿弥陀如来 千手観世音 水戸黄門様奉安 札所六番「本堂」には中央に本尊である「釈迦牟尼仏」、右に「夢窓国師像」、左に「木造千手観音坐像(市文)」が安置されていた。本尊である「釈迦牟尼仏」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.23
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次に訪ねたのが「八雲神社」。〒253-0061 神奈川県茅ヶ崎市南湖4丁目4−29。狛犬(右)。角度を変えて。足下に、見上げる子供?の狛犬の姿が。狛犬(左)。石鳥居を潜った先正面に「拝殿」。左手に「神楽殿」。「松苗植樹記念之碑」大戦末期、連合軍の本土上陸に備えた陣地構築の用材として、八雲神社の松が伐採されてしまった。戦後、復元のために地域の協力によって植樹を行ったことを記念して、昭和54年3月に建立された。碑碑高126㎝、幅63㎝、厚さ11㎝、台石25㎝。碑正面:「松苗植樹記念之碑(篆書)時ハ昭和十九年大東亜戦争モ決戦 ノ時ヲ迎ヘテ敵ノ本土上陸ヲ阻止 スルタメ日本軍ハ湘南ノ海岸線ニ 陣地ヲ作ル用材トシテ八雲神社ノ 松モ古木数本ヲ残シテ伐採サレ終 戦後ハ神社トシテノ荘厳サヲ失イ 見ルニ忍ビズ中町同志会員ガ発起 シ区民多数ノ協力ヲ得テ昭和二十五年四月二十九日会員ノ奉仕ニヨ リ目的ヲ達成セリ」裏面:「発起人(中町同志会員)尾高長吉 青木武重 青木義治 池田重太郎 飯島元義 飯田梅吉 岡崎正則 鈴木仙太郎 鈴木長五郎 鈴木冨士松 鈴木孫丈 竹ノ内金太郎 永島大次 林梅吉 三橋卯之助 三橋武重 山本菊司 米山芳男昭和五十四年三月吉日建之 松涛書」幕末の嘉永4年(1851年)銘のあった「双体神祇道祖神」。「〆金神・風神」この石碑は?「南湖麦打唄記念碑」と。下部には朱書きの文字が。「拝殿」を斜めに。境内の南側に建つ「戦没者慰霊碑」。中町区の戦没者58柱(日清戦争1柱、日露戦争1柱、大東亜戦争56柱)を合祀する慰霊碑。昭和37年3月15日に同地区民らによって建立された。裏面に建立由来及び戦没者氏名、享年、戦没年月日が刻されている。碑碑高259㎝、幅106㎝、厚さ19㎝、台石48㎝、基壇70㎝。「戦没者慰霊碑」に近づいて。碑正面:「戦歿者慰霊碑 八十□ 重郎書」碑裏面:「日清・日露及大東亜戦争に應召され幾多の困苦の末不幸戦歿された方ゝに対し其の靈を永久にお慰めし平和な国を建設することを誓って中町区民の総意によりこの碑を建立しました 昭和三十七年三月十五日 中町区・・・日清日露戦争、大東亜戦争での戦没者の名前、年齢、歿日が数多く刻まれていた・・・ 松濤鈴木冨士松 謹書 四ツ角 富田石材店刻」「石鳥居」と桜を振り返る。「神輿殿」。ネットより「八雲神社」の神輿を。 【http://www.scn-net.ne.jp/~mickun-7/konjyaku/yakumo/yakumonomikosi.htm】より正面に「拝殿」。石灯籠(右)。台座がユニーク、地震等で倒れないのであろうか、心配。石灯籠(左)。右手に「手水舎」そして両脇に「奉納碑」。右側の「奉納碑」2基。左側の「奉納碑」2基。「拝殿」を再び。「南湖中町八雲神社とも呼ばれていると。現在は市内中島の日枝神社の兼務神社である。創建年代は不詳。口碑によれば、郷土が拓けてより、郷民が産土神として奉祀したものだという。御祭神は素盞嗚尊。江戸時代前期の正保・慶安年間(1644年-1652年)の頃、徳川幕府により茶屋町が東海道の宿場として指定されると、宿泊の旅人は当社に参詣して道中の安全を祈願したという。また、大山阿夫利神社詣の人々は、当社で遠く大山を望んで遙拝することが多かったために、当社境内を石尊山と称したという。江戸時代中期の宝暦12年(1762年)、当地が幕府の天領となり、また附近に砲術場もあって、幕府要人も来往の度に当社に参拝したという。江戸時代後期の天保2年(1831年)、当時の名主である茶屋町の重田八郎左衛門により社殿が再建された。明治に入り、社殿は改築されたが、明治24年(1891年)12月、火災により焼失。翌明治25年(1892年)には本殿を、明治37年(1904年)7月には拝殿が再建された。大正12年(1923年)9月の関東大震災では、本殿を残して倒壊。昭和5年(1930年)から3ヶ年計画により、昭和8年(1933年)3月、完全に復興した。昭和19年(1944年)、太平洋戦争の際、米軍の本土上陸を阻止するため、湘南海岸線に築く陣地の用材として、当社の古木が使用された。境内の古木は数本を残して伐採されたという。現在は、松苗植樹記念の碑がある。また、平成13年(2001年)7月、屋根が修復された。」とのネット情報。「注連縄」の後ろにあった「扁額」には「八雲社」と。唐破風下・唐破風懸魚の彫刻。水引虹梁の上の中備(なかぞえ)の見事な彫刻。「素戔嗚尊(すさのおのみこと)のオロチ退治」の場面と。「素戔嗚尊」の後ろにいるのは「奇し稲田(くしいなだ)姫」。オロチに呑まれるところを「素戔嗚尊」に助けられたと。木鼻(右)。木鼻(左)。拝殿の扉にも見事な鳥の彫刻が。精緻なキジ?の彫刻なのであろうか?右側。左側。拝殿の扁額「八雲大神」。脇障子(右)。脇障子(左)。旗竿が邪魔!!海老虹梁(右)の龍の彫刻。海老虹梁(左)。「八雲神社の由来 祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)創建年代は不詳なるも、口碑によれば郷土が開けてより、郷民が土産神として奉祀せるに始まり正保(1644~1648) 慶安(1648~1652)の頃、徳川幕府により茶屋町が東海道の宿場として指定されるや宿泊の旅人は当社に参詣して道中の安全を祈願する者多く、特に大山阿夫利神社詣の人々は、遠く大山を望んで遙拝するを常とせり故に境内を石尊山と称した。宝暦十二年(1762)、当地が幕府の天領となるや、又、附近に砲術場もあって幕府要路の人々も来往の都度当社に参拝するを常とせり。社殿建立の記録は天保二年(1831)、当時の名主茶屋町の重田八郎左衛門により再建され明治十四年一月これを改築、明治二十四年十二月火災により焼失。翌二十五年本殿を、三十七年七月拝殿を完成した。大正十二年九月一日の関東大震災には本殿を残し倒壊。昭和五年より三ヶ年計画にて、昭和八年三月完全に復興した。平成十三年(2001)七月、屋根を修復する。この由緒ある当社は、南郷地方の総鎮守として古来より郷民の尊崇をあつめ、今日の荘厳をみるに至る」屋根をズームして。「本殿」を右側に廻り込んで。南湖の最も歴史のある神社で、南湖全体の氏神だったが、明治に入り、地域が大きくなると、南湖は茶屋町・鳥井戸・上町・中町・下町の5つの町内に分かれた。当社はそのうち、「なか」と呼ばれる中町の氏神になっている。他の地区にも現在はそれぞれの氏神が祀られている。・茶屋町…茶屋町大神宮・鳥井戸…御霊神社・上町……金刀比羅神社・中町……当社・下町……住吉神社」とのネット情報。本殿を左側から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.06
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この日は5時過ぎに起床し、仕事への出発の準備を完了し、6時前に彦根城への早朝散歩に出発。ホテル2Fの展望デッキからの彦根城。 天守閣の姿も。 天守は3階3重。 ホテルを出発。 ホテルの隣にある、妻に頼まれた「酒々まんじゅう」販売の和菓子処 さわ泉(わがしどころ さわせん)はもちろん閉まっていた。 中濠沿いの松並木を歩く。この場所は藩主の参勤、着城で必ず通る場所で、当時47本植えられていたことからいろは47文字にちなみ「いろは松」と呼ばれるようになったのだと。当初、人馬や車などの通行の邪魔にならないよう、根が地上に張り出さない土佐松が植えられたとのこと。 徳川四天王の一人・井伊直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始。幕末における幕府の大老を務めた井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしている。井伊大老の歌碑。この歌碑は直弼の死から100年後にあたる1960年(昭和35年)に行われた「大老開国100年祭」に先がけて市内の有志29人によって建立されたのだと。 「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」「琵琶湖の磯うつ波が、打ちくだけてはひき、また打ちくだけてはひくことを何回も繰り返しているように、大老就任以来難問が何回となく押し寄せてくる。しかし、わたしは国の平和と安心を願って、全身全霊を尽くして心を砕いてきたので悔いは残らない」というような意味と。 佐和口多聞櫓。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに彦根城の4つの門のひとつ。表門に通じる入口として、大手門がある京橋口とともに彦根城の重要な城門のひとつ。現在の彦根城のメインの入口。朝日を浴びる佐和口桝形。左側の多聞櫓は明治六~八年に再建されたもの。佐和口を入ってすぐの場所にある家老 木俣屋敷跡。 彦根城 案内図。 国指定重要文化財 彦根城 馬屋は工事中。内堀に架かる表門橋。この橋を渡ると復元の御殿があり、本丸へと続いていく。 しかし橋の手前には午前8:30開門の文字が。 諦めて内堀沿いを歩こうと思っていた時に、早足で歩く早朝散歩のおじさんがこの表門橋を渡って行くのを発見。慌てて私もその後を追う。 城内への入り口。 復元された表御殿。ここは彦根城博物館になっている。 彦根城管理事務所ももちろん閉鎖中。 彦根城管理事務所の横のゲートが1ヶ所開いており、オジサンの後を追う。階段道を登り天守閣を目指す。1段1段の幅が広く、また登るに連れて傾斜が急になってきて実に登りにくかった。これは意図的に造られたものであること間違いなし。天秤櫓・廊下橋(表門側)。 空濠(通路)を跨ぐようにして鐘の丸から天秤櫓の門へ架けられている木製の橋で、もともとは橋に覆い屋根と壁がつけられていた事から、廊下橋の名で呼ばれていると。この橋にかつて屋根や壁が設けられていたのは、城の防備のために城兵の移動を敵方に知られないようにするためだったと。また、この橋には「落とし橋」としての機能もあり、非常時にはこの橋を落下させ、敵の侵入を防ぐ事ができたのだと。廊下橋を渡る直前に、鐘の丸側から廊下橋と、その先にある「天秤櫓」という櫓を。天秤櫓は、上から見ると「コ」の字形をしていて、両端に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造があたかも両端に荷物を下げた天秤のように見えるため、天秤櫓と。詳細に見ると両隅の2階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違うなど決して左右対称ではないのであった。この鐘楼は、かつて鐘の丸にあったが、井伊直滋の時代にここ、本丸南腰曲輪「お鐘の台」に移設されたと。今でも1日5回 鐘を鳴らしているとのこと。鐘楼の隣にあるのは聴鐘庵と言う茶屋。有料でお抹茶がいただけるようだ。本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓。 太鼓門櫓を城内側から。この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄(手すり)を設置して1間通りを廊下にしている。櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも。そして天守閣に到着。こじんまりした彦根城天守がお目見え。 天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成。規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど) 」、3階には高こう欄らん付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せていた。 本丸からの眺め。琵琶湖が見えた。中央の白の建物は彦根ビューホテル(旧彦根プリンスホテル)。彦根から6km、琵琶湖の真ん中に浮かぶ多景島が見えた。元は島内に竹が多く自生していることから「竹島」といっていたが江戸時代に荒神山から土を運び植林。木が成育すると島を眺める方向によって多様な景色に見えることから多景島と呼ばれるとのこと。1655年(明暦元年)に長浜・妙法寺僧慈雲院 日請上人が島内に日蓮宗見塔寺を開寺。島内全域が見塔寺の敷地になっているとのこと。
2015.05.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次新年の1月4日に箱根関所~三島大社を歩きましたが、引き続き1月16日(水)に旅友のSさんと三島駅から原宿に向かって歩きました。この日の三島~原への旧東海道ルートマップ。JR東海道線に乗って8:01に三島駅に到着し南口を出る。駅前広場の水飲み機能を一体化した『水琴窟』。水琴窟は窟内に水滴を落としたとき発生する反響音を楽しむもの。少し金属的な音で、琴の音に似ていることから水琴窟と呼ばれています。三島市内にはこのように水を用いた仕掛けが点在しているとのこと。そして散策開始。駅前から旧東海道に向かって歩く。左手の分離帯の中には『愛染院(あいぜんいん)跡の溶岩塚』が。この溶岩塚は今から一万年ほど前、富士火山の爆発により噴出した溶岩が、約40㎞流下し凝固したものであると。溶岩は表面が冷却し凝固しても、内部から突きやぶり小丘となる場合があり、本溶岩塚もその活動がうかがえる貴重な例であると。そしてその近くにあったのが、『交通安全祈願の母子像』。「交通の災禍を絶とう愛の手で」。道路右側には『三島市 市民文化会館 ゆうゆうホール』が。そして赤い板状のモニュメントは「『からくり時計』⬅リンク。毎時0分になるとホイッスル調のオープニングメロディーが流れ、それと共にミラーボールの様な丸い扉が回転し、3体の人形が出て来るのだと。そして『寿楽園』入口。ここ以降しばらくは、前回に訪ねブログにアップ⬅リンク していますが、旅友が未だであるとのことでしばし案内しました。『浅間神社』入口。『源兵衛川(げんぺいがわ)』入口。静岡県都市景観賞 優秀賞の石碑。富士山の伏流水が湧く楽寿園内小浜池を水源とする清流。「オランダカイウ」であろうか、この日も白きカラーの花に似ていた。シロサギであろうか、2羽が仲良く。『旧中央水道水源』。旧中央水道の水源は富士山からの湧水を、この界隈の飲み水として使用してきたが、平成15年度に三島市の水道への切り替えに伴い廃止されたもので、普段は自噴していたが、水位が下がった時はポンプアップしていたと。『鎌倉古道』。「鎌倉古道は、伊豆国分寺前から赤橋・祓所神社まで通じる道で、平安時代から戦国時代頃まで伊豆の主要道として用いられた。その沿道には、多くの寺院などが立ち並び、江戸時代初めに近世東海道が整備されるまで、大変な賑わいを見せていました。」と。『伊豆国庁址碑』。iPhoneで『国庁址(こくちょうあと)』を探すが、民家のオバチャンに聞いてもわからない中、ブロック塀と一体化された碑を見つける。掘立柱建築跡や布目瓦を出土したことから、軽部慈恩氏が国庁跡と推定し、碑を建立したとのこと。そして『廣澄山 圓明寺(えんみょうじ)』へ。円明寺『表門』(伝旧樋口本陣表門)。円明寺 『本堂』。そしてこれからは新たな散策道。赤い欄干の橋が眼前に。三嶋大社の西側にある『祓所神社』から西へのびる道(桜小路)を横切る御殿川にかかっている橋がこの『赤橋』です。この橋の欄干が赤く塗られていることから赤橋と呼ばれており、江戸時代には駿豆五色橋の1つに数えられていたと。 三島市ではレンタサイクルも行われている模様。『問屋小路(とんやこうじ)』。三島宿でみんなに親しまれ、その名が知れていた八つの小路や七つの石、七つの木。江戸時代、箱根の関所を通るのに、これらをスラスラ言うことができれば三島人の証明となり通行手形を持たなくても通行することができたと。問屋小路は三島田町駅を起点として北へ向かい、UFJ銀行を通過し、市役所中央町別館横を通り過ぎて赤橋の通りまでをいうと。江戸時代には現在の市役所別館の所に問屋場があったと。三島中央郵便局のところにあったのが『問屋場跡の碑』。三島の宿は、慶長6年(1601)徳川幕府の交通政策として宿駅に定められ、東海道有数の大宿として認められたが、この宿場の施設として同年この場所に問屋場(現・市役所中央町別館)が設置されたと。そして旧東海道に出る。せせらぎルート 『全体案内図』と『静岡県景観賞の記念碑』。『御殿川』。御殿川は白滝公園付近の水門で桜川から分流するが、この水門は水量が多く、川の落差を利用して激しく流れ落ちることから「どんどん(どんど)」と呼ばれていると。三島駅方面に曲がる交差点を直進する。『世古本陣址』。三島の宿には世古本陣と、道を挟んで樋口本陣があった。本陣の建物は書院造りで、門構え、玄関、上段の間、控え の間などの部屋や湯殿、庭がある広大なものだった。郷土館には宿泊した大名 の関札があり、樋口家にある『樋口本陣文書』と『織部灯籠』は、市の文化財 に指定されている。なお、三嶋大社には茶室『不二亭』も移築されていると。道路の反対側にも『樋口本陣』の石碑が。江戸時代格式の高い樋口本陣は、現在の山田園のあたりにあり、その門は今は先ほど訪ねた芝本町の円明寺山門になっていると。『東海道三島宿・樋口本陣跡』案内板。「本陣について本陣とは江戸時代五街道などの宿場 に設けられ、大名、公家、幕府役人などが宿泊した施設で、大名宿とも言った。三島の宿にはここに樋口本陣、道をはさんで北側に世古本陣があった。本陣の建物は書院造で、門構え、玄関、上段の間、控の間などの部屋や湯殿、庭がある広大なもの。三島市郷土資料館には樋口本陣文書(市指定文化財)と宿泊した大名の関札があると。なお三嶋大社には樋口本陣の茶室「不二亭」も移築されているのだと。三島宿について三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていました。慶長6年(1601)徳川家康 は宿駅制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿 は江戸日本橋から数えて11番目の宿駅でした。また、三代将軍家光が参勤交代を制定した事により各大名の東海道往来が多くなり、箱根に関所が設けられると三島宿は「天下の険」箱根越えの拠点としてさらに賑うようになりました。また、東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあった三島宿は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点ともなっていました。伝馬、久保、小中島、大中島の4町辺りが宿の中心地で、実際の運営もこの4町が核となり行われていました。三島宿は初代安藤広重 の浮世絵代表作「東海道五十三次」では、三嶋明神鳥居前を出立したばかりの旅人が描かれています。また文政9年(1826)に訪れたオランダ人医師シーボルトが三島・箱根の自然観察記録を、安政4年(1857)には三島宿に泊まったアメリカ人ハリスが、宿泊先(世古本陣)の日本庭園の素晴らしさを日記に書いています」と。『中央水道跡公園』『四ノ宮川』四ノ宮川は、広瀬橋下で源兵衛川から分流する小さな川だが、近年は湧水の枯渇や街中での占用が多く忘れ去られた存在であった。周辺の開発に伴い、街中の貴重なせせらぎとして修景整備をした。廃止された近くの簡易水道「中央水道」の水源井戸の清流を利用し、四ノ宮川の水源地のように表現してある。周辺には中央水道のノスタルジックな建物も残っていると。『曹洞宗 向富山 常林寺』。『山門』。『法堂』。天正元年(1573)開創の曹洞宗の寺で、開山は麒庵東麟大和尚(きあんとうりんだいおしょう)。本山は永平寺、總持寺。法堂(はっとう)には本尊として聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)が祀られている。現法堂は、昭和5年(1930)の北伊豆地震の直後に再建立され、三門・庫裡とともに木造の伝統的な建築物。「 向富山 」と書かれた『扁額』。境内の『慈母観音』。『西国観音礼場巡拝記念供養塔』。多くの石仏が並んでいた。一体一体異なる『観音像』。『庫裡』。質素な石仏も。そして三島大通りに架かる『原兵衛橋』。源兵衛川にかかる源兵衛橋は『源兵衛白旗橋』とも呼ばれて江戸時代に駿豆五色橋の1つに数えられていた橋で、三島市には他に青木橋・赤橋があり、沼津市には黒瀬橋・黄瀬川橋があるのだと。 ・・・つづく・・・
2019.04.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道257号線の高塚駅入口交差点を通過。高塚駅は浜松市南区内に設置されている唯一の駅。高塚駅とは反対に写真の方向・南方向に2kmほど進むと海岸に出る。そして国道257号線は分岐し、右側の分岐を進むと旧東海道・県道316号線。分岐の中央にあったのが、『東海道夢舞台道標・浜松市『篠原』』。浜松宿 宿境まで一里十三町舞阪宿 宿境まで一里十五町国道257号線と別れて旧東海道を進む。『立場跡』。真新しい『立場跡』案内板。「立場は、慶長六年(1601)東海道に宿駅伝馬制度ができた時に、宿場と宿場の中間の休憩の施設として設けられました。ここは立場本陣とも言われ、大名等身分の高い人達が多く休憩しました。明治元年(1868)に明治天皇が御小休されたという記録ん「御東幸御小休帳」や文化年間の「御大名様御小休帳」が残されています。筋違いには、道中案内記にも載っている茶屋「浅田屋」がありました。現在この辺りの字名は立場といいます。」次に右手の『神明宮』を訪ねた。入口で境内樹木の消毒を行っていた神主の方が、説明して下さいました。格式ある「神明造り」の『拝殿』。『本殿』。「祭神 天照大神 豊受姫大神 由緒 当神社は、「伊勢神鳳抄」に記される。「篠原村神戸九町三反」に当たり 建暦二年(1212)浜名湖中ノ島の小島神明島に鎮祀せられたが、 地震津波等により永正年間(1504~12)に当地に遷座された。 徳川幕府により御朱印五石を拝受、村民の崇敬を得て今日に至る。 天正八年(1580)の棟札が現存。 社殿 昭和7年に建立。神明造り。伊勢神宮正殿を根本とする様式。 柱は丸柱で両妻に棟持柱が独立。破風枝は長く突き出して左右に交わり 先端は千木となる。 棟の上に竪魚木が六本。屋敷の勾配は四十五度、床は高欄。 灯籠 五対一基ある。そのうち一対は江戸の伊丹屋善助又三山の鈴木十四郎の 寄付。他に明治三十五年、三十九年、征露軍人三十四名の名前が刻まれている。 拝殿扁額 「神明宮正二位勲一等公爵九条道實勤書」とある。」『篠原の一里塚跡』(日本橋より六十七里)前。「徳川幕府は、慶長九年(1604)東海・東山・北陸の三街道に方五間(約9m四方)の一里塚を築くことを命じました。江戸日本橋を基点とし、一里(三十六町=約四キロ)毎に街道の両側に一里塚が築かれました。東海道宿村大概帳に「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原地内」と記されています。(左側とは南・右側とは北を指す)当時の旅人は、一日十里(約40キロ)を歩くのが普通であったといわれていました。」両側に住宅街が続く旧東海道。『高札場跡』。「藩は一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるため、村の中心または目立つ場所に高札場を設けた。高札には親孝行・忠孝の奨励や賭博の禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の禁止などがあった。高札の文面は簡易な仮名交じり文が用いられていた。明治政府も高札を使ったが、明治六年(1873)太政官布告をもって廃止された。高札のあったこの辺りは、札木という地名になっている。」道路脇に小さな社が。(この後も同じような社をいくつか見掛けた)。古い建物の『柳本診療院』。浜松市西区篠原町の旧東海道沿いに建つ柳本診療院は、昭和2年(1927年)に建てられたとされる木造二階建ての擬洋風(洋風を真似した様式)の建物。この診療院を開業した柳本満之助は、豊橋出身で日露戦争で軍医として従軍した後ここ(現浜松市西区篠原町)で開業。現在は閉院しているようですが、そのモダンな外観は大変印象的で、目を楽しませてくれたのであった。玄関屋根の鬼瓦には「Water」、「MIZU」の文字が刻まれているようであったが、その意味は?そして左手に浜松市立篠原小学校の校庭内の大きな石碑が。浜松市立篠原小学校『正門』。篠原村立篠原尋常小学校、篠原村国民学校の歴史を持つ小学校であると。こちらも校庭内に。『長里橋』を渡る。前方右手に現れたのが『愛宕神社』。安全祈願の社か?この手前右奥にも同様な社があった。『愛宕神社』正面に石鳥居が。坪井町東端に鎮座する愛宕神社。『愛宕神社』「鎮座地 浜松市西区坪井町一番地の六」 祭神 軻遇突智命(かぐつちのみこと)、素盞鳴命(すきのをのみこと) 由緒 当社の創立は文禄元壬辰年(一五九二)、坪井郷新田村開発当時に、氏神として 京都愛宕神社から御分霊を奉斎し、 慶長六辛丑年(一六○一)二月、徳川家康公が 鷹狩りの折、御祈願をしたとの古老の言い伝えがあり、 武将の崇敬が厚かった 坪井郷の内、新田の氏神として崇敬され由緒不詳ながら、神社宝物として 棟札八枚が現存する。」 『拝殿』。『愛宕神社』横にあった『光雲寺』。『臨済宗愛宕山 妙心寺派 光雲寺』。庭先の槇も見事に手入れがされていた。生垣の槇も見事に。『明治天皇御東幸野立所跡』。「明治元年」(1868)9月20日、明治天皇は岩倉具視以下三千余人を従え京都を出発し、二十三日間を懸けて東海道を下り東京へ進みました。行列は十月ニ日に、新居から舞阪へ船で渡り坪井村の杉並木の中のこの辺りで歩を止めて短い休憩(野立と言う)をされました。当日は今の暦では十一月十五日にあたり、記録によれば天気は快晴でした。行列はこの先の篠原村立場本陣で小休され、浜松へ向かいました。」明治天皇は、下図の如く駕籠に乗られた移動であったようだが、それにしても23日間で京都から東京までの移動は信じられないのであるが。『明治天皇の東京行幸フランスの新聞雑誌(英語版)『ル・モンド・イリュストレ(フランス語版)』1869年2月20日刊行号内の挿絵。』【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%A1%8C%E5%B9%B8】より右手に『稲荷神社』。『郷社 稲荷神社』社号標。『稲荷神社 由緒案内』一.祭神 稲荷大神 宇加之御魂之大神 佐田彦大神 大宮売大神一.由緒の概要●永享十二年(一四四○)伏見稲荷より勧請したと言われる。 ●天正十六年(一五八八)九月十八日拝殿再建の棟札が現存すると言い伝えられている。 ●現在の拝殿は大正十一年に建てられた。境内の森の木が建築材として利用された。 村内の大工数名が建築に携わった。境内入口の門柱にその人達の名前が刻まれている。 ●慶安元年(一六四八)時の幕府から朱印五石が禄(与えられる)された。 ●境内に入ると立灯篭が左右に見える。文化年間と刻字されている。 ●両部鳥居と稲荷鳥居が続いている。 両部鳥居は朱色に塗られ、四本の稚児柱と呼ばれる控柱で 支えられている。稲荷鳥居は石造りで文化十三年丙子年(一八一六)十一月吉日 遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎と刻まれている。 ●稲荷の名のごとく、元来農耕神であるが、中世以降から漁業神また産業神、商売神として 崇められ、近郷からの参詣者も訪れるようになった。」『稲荷神社』境内。『社殿』。『常夜燈』と『坪井村 高札場跡』。「一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるために、村の中心または人通りの多い往来などに高札を掲示した高札場が作られました。高札には親孝行、忠孝の奨励やバクチの禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の禁止などがありました。高札の文面は簡素で庶民にも理解しやすい仮名交り文が用いられていました。明治政府も高札を使いましたが、明治六年(1873)に廃止されました。近くの元庄屋にはキリシタン札などの高札が永年保存されていました。」「坪井西」バス停を過ぎ暫く進むと、再び右手のここにも常夜燈が。『忠魂碑』。坪井西バス停の先右側に入った草地に石碑が立っていた。 『史蹟引佐山大悲院観音堂聖跡』。「この地に永く安置されていた観世音菩薩は、引佐細江の観世音と言い、高さ一尺二寸五分(約三十八センチ)の立像で、定朝法橋上人の真作であると伝えられる。 第六十八代後一条天皇の治安元年(一○二一)定朝上人諸巡行の途中山住神社(水窪町)に山籠もりされた時神託を感じ、引佐細江の里に行き老杉の元で一心不乱に大悲十句の秘文を唱え祈りつづけられた。 七日七夜の三更(午前0時前後)老杉の頂が光り輝き、忽然として聖観世音菩薩が応現された。 その慈悲に感激し、ありがたさの万分の一をも残そうと老杉を伐り、聖観世音菩薩の尊像を一刀三礼して彫り上げ、国下安民五穀豊饒のため引佐の地に堂宇を建てて、安置し奉った。 第七十六代近衛天皇の久安五年(一一四九)八月下旬に天災地変あり、山崩れや洪水によって田野は流れ、山川村里は一時に大海となった。 この時、菩薩の霊訓によってこの地に遷し、草庵を造り安置申しあげた。 仁安の頃(一一六六)多田満仲五代の孫、従五位の下、伊賀守源光行公の紀行に、筑紫(九州)の人、頼み事があって鎌倉に下るとき参詣して、 望み叶うならば御堂を建立申そうと祈願し、目的を達してお礼に堂を新しくしたとある。 それ故に光行公も詣でて、多くの人々の願望成就のしるしを見、大悲大慈の恵は広く、深く、たのもしく思われて歌を詠んだ。 たのもしな 入江に立つる 身をつくし 深き志るしの ありと聞くにも 右の一首、光行公が観世音を前に詠まれたと東海道名所図会に見える。 第句十代後宇多天皇の弘安年中(一二八三)佐夜の中山(掛川菊川の境)の化鳥退治のために勅命を受けた上杉三位高実公が下向の折りも当観世音にご祈願なされ、成就速やかであったなど伝わる。 また、寛文十二年(一六七二)四月二十三日、新居宿の住人片山権兵衛紀州熊野浦にて難破したが、大悲の感応を得て助かった。 その礼謝としてお堂を建立、寄附した。 以上は、延宝五年(一六七七)五月八日、如意寺四代利州艱禅和尚の書き遺された観音由来を略記したものである。 その後も東海道を往来する人々にご利益ある観音として聞こえ、文化年間(一八○四~一四)江戸の商人遠州屋源人、相良屋茂七など多くの人から大般若経六○○巻が奉納された。 今も、毎年一月十七日の大般若法要で目にすることができる。 観音像は、昭和四十二年(一九六七)以来、如意寺に安置してある。 」バス停『馬郡観音堂』「馬郡東」バス停付近の旧東海道を振り返る。『馬郡村 高札場跡』「一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるために、村の中心または人通りの多い往来などに高札を掲示した高札場が作られました。高札には親孝行、忠孝の奨励やバクチの禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の禁止などがありました。高札の文面は簡素で庶民にも理解しやすい仮名交り文が用いられていました。明治政府も高札を使いましたが、明治六年(1873)に廃止されました。このすぐ近くには「札木さ」と呼ばれている家があります。」馬郡町自主防災隊倉庫の横の鞘堂にも秋葉燈籠が納まっていた。 その2 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次先に進むと右手の筋角に『新善光寺道道標』と明治24年(1891)の『常夜燈』が建っていた。 先にあった『新善光寺道道標』より大きく、道標には 「是より一町餘」 と刻まれ、傍らに新善光寺300mの道路標識があった。『新善光寺道』(左)、『是より一町餘』(右)、『為浄徳妙蓮菩提 施主今里村中』(裏)と刻まれた道標。明治24年(1891)の『常夜燈』。『新善光寺』への道。草津線を渡り進むと、この角から300m程で『新善光寺』へ。旧東海道はこの先の突き当りを左折。先に進んでY字路を右に進むと、左手に『法界寺 地蔵院』があった。「重要文化財 木造地蔵菩薩立像 明治33年4月7日指定 福正寺(法界寺)法界寺の本尊である当像は、僧形の丸い顔で、半眼・閉口し、衲衣の端を右肩に懸け、偏衫と裳を着けて直立する。 現状では右手に錫杖、左手に宝珠を執る。像高96.5㎝ヒノキの一木造。平安時代(10世紀)ころの作とみられる。 ここ六地蔵の地名となった六躯の地蔵像の一躯であると伝わる。」『地蔵院 山門』。大正15年(1926)の『国寶 地蔵尊』碑。『地蔵院(旧法界寺』ごあんない』「当院は奈良時代(聖武天皇)の天平6~7年(734~735年)頃「陀羅尼寺」として創立。その後戦火等で焼失。寛永16~18年頃(1639~1641年)現在地に法界寺地蔵堂として建立された。昭和初期まで尼寺でした。昭和53年8月地蔵院を新築し今日を迎える。本尊の地蔵菩薩立像は平安時代に造られたもので、像高96.5cm、重要文化財に指定されている。『近江興地志略』には地蔵堂六地蔵村にあり。「相伝往古は六体ありと、今僅かに一体存す、長尺三尺三寸、行基菩薩の作なり」とある。」『地蔵堂』。地蔵堂に掛かる『地蔵尊』の扁額。『昭和御大典記念碑』。昭和3年(1928)の昭和天皇即位を記念した御大典記念の碑。『昭和御大典記念碑』のご案内。昭和天皇が即位した御大典の記念事業として建設。朱の鳥居の先には『白龍稲荷大神拝殿』そして内部には『本殿』が。こちらは『愛宕神社』『愛宕神社』の内陣。愛宕さんと呼んで、観しまれている愛宕神社のこの建物は、それ迄のお社が雨漏り等老朽化した為、平成8年8月に新築されました。(鳥居は朽ちて取り外し)。愛宕さんとは、京都に有る山で、山頂(標高924m)に愛宕神社が祀られています。旧称は、阿多古神社。京都の愛宕神社は、全国に約900社を数える愛宕神社の総本宮として京都の愛宕山上に鎮座され、古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られています。愛宕の神とされるイザナミは神仏習合時代には、勝軍地蔵を本地仏とし、火産霊命(かぐつち・ほのむすぴ)が祭神とされていました。これ等から、現在でも愛宕さんの縁日は、地蔵さんと同じ毎月24日です。勝軍地蔵を本地仏としたことから、火伏せの神としてだけでなく、武神としての信仰もされてきました。愛宕神社の御祭神は、本社雅産日命(生産水の神)、埴山姫命(土の神)天熊人命(稲司の神)、豊受姫命(五穀の神)、若宮社雷神・伽俱槌命(火の神)、大國主命以下17柱の神々に防火、火伏、鎮火の神としてお護り頂いている愛宕神社のご神体をお祀りし「愛宕講」と呼ばれる講も組織されてきました。六地蔵民は、冬期には山仕事が主になる為、山を火災から守る大切さは肌身に沁み込ませており、更に、家族がよりどころとする家を火災から守ることは、戦の六地蔵大火での恐ろしさも冷めやらずその上落雷も多く有って、火事を起こさない事、延焼させないことは、最も肝要な事でした。当地六地蔵では室町時代(1336~1573)中頃、法界手{現地蔵院・当時は130m北側・JR草津線の走っている所}を陣所に、足利九代将軍側と六角佐々木軍側との大きな戦いがあり六地蔵大火(1487)と呼ぱれる戦災大火があり、法界寺や六地蔵村・隣の今里村は壊霞的戦禍に遇しました。(時は12月・この頃の家は、わら屋根・おくどさんの傍や、家の周囲には 冬の寒さしのぎで、山からの枯れ木や木の葉、田のわらが積まれていた)年代はまだ未確定なれど、小宇野田口道への始点で、山へ行く道筋の入口である葉山川堤防道口、里道との分れとなる、ぜさいや横の角地に、村を火災から守る事は重要な課題で、巨石のご神体が愛宕さん信仰として祀られていた。江戸時代の末期、法界寺中興の祖義陽尼が病で寂され、法界寺は無住職。時代は、直ぐに明治となり新政府方針で、廃仏毀釈が推進(住職や檀家の無い寺は取り壊し、神杜があれば免除)の為、庄屋・年寄・地元民は対策に苦慮し困感するも、愛宕さんを地蔵院へお移しし、神社である事が一目で判るようお社と鳥居を建て、更にお稲荷さんを祀る事で確実に法界寺・地蔵菩薩様・観音菩藍様・諸佛様を御護りし、明治の廃仏殺釈の波を乗り越えてきました。(愛宕さんに移座頂いた後地には、戦禍等で長年ハゲ山だった日向山を私財で明治期に全山松苗を寄贈、今の緑豊かな山・保水の山になった大恩人)のお名前 塚本定右衛門様の顕彰碑を滋賀県が建立、後世にその功績を残す碑があります) 地区民は毎年、当番家を決めておいて。当年度役の家・来年度役の本を持ち廻り順番で、八月二十四日に愛宕さんへのお供え物を欠かす事なくされてきた。役の当たらないお家や自治会も、愛宕さんにご献酒・スルメや野菜、菓子等のお供え物をし、夜には献燈して、日頃の感謝を込めてお祀りしてきました。地蔵院境内へ愛宕さんがお移りあって、宿場所も本堂で行なえ今迄にない団欒も出来、楽しい一日(平成二年迄は毎月二十四日、家廻り順で百灯の燈火を点けていました、硯在は、神事の日のみ点燈)・・お供え物は今も続く。※当地、愛宕さんにも、火伏の神花である樒が有ります。一葉を摘まんで持ち帰り、竃(火元の上部棚)等にお供えし、お祀り下さい=防火の御まじない。(神社ですので、お榊も植えられています。お社の左前と後方に植栽されています)」旧東海道に戻るとここにも旧家が。水路を過ぎた左手に浄土宗の『日向山 印松院 浄玖寺』があった。『浄玖寺』は、天正13年(1585)定玖の開基であり、境内には一石六地蔵尊、男女双体道祖神などがある。『浄玖寺 山門』。『鐘楼』。「六地蔵像地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。像容は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。」と別のネット情報より。『一石六地蔵尊』。『浄玖寺 本堂』。本堂に掛かる『日向山 印松院』の扁額。『旅立ちの法然様』像。「十三才御姿 父の遺言を胸に最愛の母と別れ比叡山へ旅立たれる幼名勢至丸さま」。続いて右手に真宗大谷派の『高野山 福正寺』があった。『福正寺』の創建年代は不詳であるが、寛政2年(1461)蓮如上人に帰依した住職・正善が浄土真宗に改宗し、その後の大谷本願寺の破却 「寛政の法難」 で逃れた蓮如上人は一時、福正寺に逗留しているのだと。左手参道入口に『蓮如上人御舊跡碑』、右に『真宗大谷派 福正寺』寺標。『福正寺 山門』。『蓮如上人御像』。『常夜燈』。『福正寺 本堂』。『本堂』前にあった『石造多層塔』。「石造多層塔当寺は真宗寺院であるが、元は金勝寺二十五別院の一つ多喜寺の一院で六地蔵を安置していたと言われ、寛政2年(1461)僧正善の時に本願寺蓮如の教化に帰して真宗道場となり、後に親鸞の弟子円鸞が開いた松原興敬寺の配下に入ったと伝えられる。当寺にある層塔は、塔身に四方仏を配し本来九層塔であったと思われ、笠の第4・6・7層と相輪部が失われているものの、鎌倉時代末期の美を今に伝える貴重なものである。」本堂前の枝を広げた見事な枝振りの松。『福正寺』を出ると街道が右にカーブしたところに『史跡旧和中散本舗(大角屋)』が。ここ六地蔵には江戸時代、旅人のために道中薬を売る店が数軒あり、大角家は、その中で和中散という薬を売る「ぜさいや」の本舗として栄えました。薬を売るだけでなく、草津宿と石部宿の「間の宿」として、公家・大名などの休憩所も務めたといいます。和中散という名は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々付けられた名前といいます。ここ六地蔵には江戸時代、旅人のために道中薬を売る店が数軒あり、大角家は、その中で和中散という薬を売る 「ぜさいや」 の本舗として栄えたのだと。手前に『史跡舊和中散本舗碑』が建つ『表門』。『史跡 旧和中散本舗』。「国指定名勝 大角氏庭園平成一三年一月二九日指定書院の南庭(離れ家の西庭)である。 正面に芝生張りの大小の築山を配し、背後にツバキ、カエデ、ヒサカキ、カナメモチ、アオキ、マキ、ネズミモチ等の混植の生垣を仕立て外部との仕切りとしている。 背後の日向山を借景とし、築山上からは三上山が眺望できる。 築山の西部に滝石組があり、山裾の東西に細長い池に注ぐ。水は、葉山川から取水していた。 池の護岸は石組でめぐらし、池中には中島と平天の浮石があり、東部には切石橋を設け、築山へ渡れるようになっている。 ただし、中島は明治の後設とされる。建物に沿って大小の飛石を打ち、沓脱石から池畔や石橋へとたどることができる。」小堀遠州作という言い伝えがある池泉鑑賞式庭園の本庭には、東海道という連続した旅情の一場面を切り取った庭という趣が感じられるのだと。『根本梅木 本家 ぜさい』の木製吊り看板。ここが店内への入口であったが、見学は予約制のようで『旧和中散本舗(大角屋)内部』👈リンク に入れなかったのでご興味のある方はリンクにアクセス願います。街道の反対側には『大角屋隠居所』隣に建つ『薬師堂』が。左の塀が見える家が『大角屋隠居所』である。「大角屋住宅隠居所隠居所は、真向かいの本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物で、江戸時代中期に主屋に引き続いて建てられたと考えられる。その後、所蔵文書より十数回にわたり小修理が行われたことが明らかで、昭和46年には半解体修理が行われ、玄関屋根や台所部分等が復原整備された。建物は床と付書院を備えた6畳の座敷の南に4畳間を並べ、その奥に仏間と奥の間の4室を配した東西棟に、式台付玄関、台所、土間を配した南北棟がT字形に接続している。この建物は、屋根が二重で、入母屋破風が多く、本瓦葺のため、重厚な外観を呈しており、玄関及び座敷廻りには彫刻欄間を入れる等、江戸時代の豪華な住宅建築の好例であり、貴重である。」『薬師堂』の奥に、先程訪ねた『福正寺』の鐘楼も再び見えた。『旧和中散本舗』、『大角屋庭園』が5月末の土、日を中心に『特別公開』される予定であるとのことであったが・・・・。新型コロナウィルスの影響でどうなるのであろうか?やはり中止。ここは『栗東八景』の『積日の街道と城壁~深緑の日向山と和中散~』の場所であると。漢詩碑があるのが『栗太八景』であり、紛らわしいのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.09
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「材木座海岸」沿いのバス通りまで下り左折し、国道134号の下を潜ると右手にあったのが「国指定史跡 和賀江嶋(わかえのしま)」石碑。鎌倉市材木座6丁目22−4の先。「国指定史跡 和賀江嶋和賀江嶋は、日本に現存する最古の築港遺跡です。このあたリは、遠浅で荷の上げおろしが難しく、大風や波浪で難破する船が多くあったことから、貞永元年(1232)に勧進僧の往阿弥陀仏が港を造ることを幕府に求め、第3代執権北条泰時の援助を受けて完成したことが『吾妻鏡』に記されています。その際、石材は相模川や酒匂川、伊豆半島海岸など遠くから運ばれてきたと考えられています。この付近は和賀江津と呼ばれ、中世都市鎌倉の海の玄関口として、海上交通や物流の拠点となっていました。江戸時代までは修復されながら利用されていましたが、潮の流れや災害などで石が散乱しており、築造時の姿はわかっていません。現在も普段は海没していますが、干潮時には正面に島状の石積みが姿を現します。」この時は、幸い引き潮時であったため「和賀江嶋」が姿を現していた。岬の突端から西方に200メートルほどにわたって巨石の石積みが見られ、往時の姿を偲ばせる。かつては北側に数本の石柱があり、南風を避ける船を係留していたと。1968年(昭和43年)10月14日 「和賀江嶋」として国の史跡に指定された。この日も近くに漁船が停泊していた。これが船を係留していた石杭なのであろう。完成から約800年弱であるが、よくぞ津波、台風の荒波等に耐えて遺っているのである。そして左手の岩場の上には石碑が。残念ながら左の石段は閉鎖されていた。「和賀江㠀」碑。「和賀江㠀」碑「和賀トハ 今ノ材木座ノ古名ニシテ 此ノ地住昔筏木(ばつぼく:木材)運湊(集散)ノ港タリシヨリ ヤガテ今ノ名ヲ負フニ至レルナリ 和賀江島ハ其ノ和賀ノ港口ヲ扼(やく:保持)スル築堤ヲ言ヒ 今ヲ距(へだて)ル六百九十四年ノ昔 貞永元年(1232) 勧進(かんじん)聖人往阿弥陀仏カ申請ニ任セ 平盛綱 之ヲ督(とく:督促)シテ七月十五日起工 八月九日竣功セルモノナリ」【和賀とは、現在の材木座の昔の名前であります。この場所は昔、木材の集散する港であったために、まもなく現在の名前が付くようになりました。和賀江島は、その和賀の港の崩れるのを防ぐために築いた堤をいいます。 今から約768年前の1232年の昔に、僧侶の往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)が、構築を申し出たのを、平盛綱(もりつな)が、この工事を援助し、7月15日に起工し、8月9日に完成させる事ができたものです。】国土交通省東京湾航路事務所作成の「江戸時代、明和年間(1764~72)の和賀江島の復元想像図」。「想像図は、北から回り込み入港するように構築されている。確かに北側に深いところはある。もともと南西に開いている相模湾は、南風に弱く、理にかなった想像図であろう。この日も島の北側に漁船が三杯停泊していた。ここが船の進入路として適度の水深があるのだろう」と ネットより。 【https://kamakurawake.blog.fc2.com/blog-entry-475.html】より左には白い灯台模型が。そして前方の「小坪海岸トンネル」手前を右に入って進む。眼下に先程の鎌倉青年會の「和賀江嶋碑」が確認できた。「和賀江嶋」も眼下に。そして右手にあったのが「六角の井(ろっかくのい)」。井戸は残念ながらブルーシートで覆われてしまっていた。鎌倉市材木座6丁目23−9。新旧の「六角の井」碑。「六角の井この井戸は、鎌倉十井の一つです。井戸端は八角あり、そのうちの六角が鎌倉分、二角が小坪分といわれています。別名、矢の根井戸ともいい、源為朝が伊豆大島から射た矢がこの井戸に落ち、やじりが残ったことからこの名がついたといわれています。 かつては井戸替えの際に、やじりを入れる竹筒を取り替えていましたが、これを怠った年は悪い病がはやったと伝えます。 やじりは、今も竹筒に封じて井戸の中段にまつってあります。」以前は木製の井戸小屋があったようだが朽ち果ててしまったのであろうか。 【http://www.izumi-loc.com/kamakura/wakaejima/index.html】より。井戸を覗く。 【https://naemon.jp/kanagawa/rokkakunoi.php】よりそしてその先、小坪路には水運の神を祀るという石の祠・「白鬚社(しらひげしゃ)」があった。ここは既に逗子市内であったようだ。「小坪飯島白鬚神社の創建年代等は不詳ながら、新編相模国風土記稿が編纂された江戸時代後期には、村民持(個人持)の社として記載されています。昭和3年に発行された「逗子町誌」には、十数年前までは木々に囲まれた社叢だったと記していることから、関東大震災による津波に呑まれてしまったのかもしれません。」とネット情報から。逗子市小坪5丁目13。内陣には黄金色の仏像が。白髭神社は龍神様とされ、小坪の八大龍王祭では御神酒を捧げて海上安全と大漁を祈願する。横には「海事遭難者一切精霊菩薩」と書かれた木札が立っていた。そして前方に「逗子マリーナ フェニックス」が姿を現した。1976年竣工の逗子マリーナリゾートマンション群。「逗子マリーナ フェニックス」は材木座海岸を真正面に見渡せる場所にあり、海側の部屋は、相模湾、江ノ島など海の眺望に優れていること間違いなしであるが値段は??再び「和賀江嶋」を見る。ズームして。稲村ヶ崎が見えたが、富士山の姿はこの日は残念ながら・・・。この場所からはこんな絶景が見られるのだと。 【http://www.azami.sakura.ne.jp/miurahantou/fuji/fuji-point/a03.htm】よりそして山の中腹の見晴らしの良い場所にはガラスに覆われた白き建物が。「シーサイドコート逗子望洋邸」。2010年10月竣工のこれもリゾートマンション。地上8階建て・総戸数66戸。逗子マリーナを見下ろす丘に建つ、白い豪華客船をイメージした外観が特徴と。この写真はS棟の地上4階。ネットには1億9,800万円の文字が。フェニックスに囲まれた「逗子マリーナ フェニックス」を再び。「住吉城址この断崖の背後に続く丘陵と谷戸を含めた一帯は、中世の山城の性格を備えた住吉城の跡で、戦国時代の歴史の舞台となった場所です。永正9年(1512)、小田原を本拠として、関東制覇を目前にした北条早雲が、再興三浦氏の盟主・三浦道寸の居城・岡崎城(平塚市)を落とし、三浦半島に攻め入りました。道寸と道香の兄弟が立て籠もるこの住吉城も、昼夜を分かたぬ攻撃に落城し、弟の道香主従七人は、逗子の延命寺近くで自刃したと言われています。一方、兄の道寸は、三浦氏の本拠・新井城(三浦市三﨑町)まで逃れましたが、ここも三年後に落城し、三浦氏が滅亡しました。これまでの調査で、土塁や平場、掘割、間道などの山城の遺構が見つかっていますが、近年の開発事業によって、昔の面影は見られなくなりました。」「埋立前の住吉城址」逗子市小坪5。「住吉城」のあった場所は、現在の「シーサイドコート逗子望洋邸」が建つ場所なのだ。 【https://kamakura8.blogspot.com/2013/08/blog-post_2.html】より「住吉城址」案内板横から再び「住吉城址」を見上げる。プールは逗子市の「小坪飯島公園」。案内に従い「正覚寺」を訪ねることに。「浄土宗 正覚寺 住吉山 悟眞院浄土宗三祖記主禅師然阿良忠上人駐錫の地(1240年)住吉古城趾、正覚寺背後の丘陵一帯といわれている。三浦道寸の支城、小田原の北條早雲に攻められ落城する(1520年)」。「正覚寺」への石段を上って行った。石段横にあった石仏、五輪塔。無縁仏となった中世の石塔群なのであろう。永代供養墓か。正面から。「厭離穢土 (えんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)」の文字が。徳川家康公が旗印に使っていた言葉。「穢れた(けがれた)この世を厭い(いとい)離れたいと願い、心から欣んで(よろこんで)平和な極楽浄土をこい願う」という意味。「本堂」山号寺号 住吉山悟眞院正覚寺建立 天文十年(1541)開山 然阿良忠開基 -寺の開山は鎌倉光明寺の開山浄土宗三祖良忠上人で、初めは良忠院悟真寺と号したようです。「新編相模風土記」には、「記主禅師駐鍚の旧跡なり、師の閑居せし岩窮今に境内にあり、其頃は悟真寺と云へり」と書かれています。寺伝によれば、良忠上人が仁治元(1240)年に念仏布教のため鎌倉に入り、執権北条経時の帰依を受け住吉谷(現在の正覚寺所在地)を拠点に念仏信仰を広めました。執権経時は良忠上人のために佐助谷に蓮華寺を建立し、のちに材木座に移し、光明寺と改称したと伝えています。「光明寺開山御伝」には「葬送住吉瓶子山麓茶毘所」とあり、この地は良忠上人を茶毘に付した所ともいわれています。また浄土宗十夜始祖であり、大本山光明寺第九祖である観誉祐崇上人の五百年遠忌記念で光明寺から発行された『観誉祐崇上人について』では、祐崇上人は神奈川県鎌倉井之島(正覚寺のある地名である飯島)住吉谷に入り、岩窟に移住して、念仏を業としたとある。これから推測すると、正覚寺の前身である悟真寺に良忠上人がまず居住し、その後、祐崇上人も住んでいた事になるとの記述がありました。寺の背後の丘陵一帯は、三浦道寸(義同)の支城の住吉城であり、永正9(1512)年に北条早雲に攻められて落城し、寺も兵火で焼失しました。その後、光明寺十八世眞蓮社快譽上人がこの地は「是れ三祖上人の遺跡也」と述べ、天文10(1541)年3年に悟真寺を再建し、開山を良忠上人として、寺号を正覚寺と改めました。本尊阿弥陀如来は十世報譽上人が尾張中納言宗春の側室民部女の病気平癒の祈願を行い、そのお礼として民部女が自らの稔持仏を寄進されたものです。享保20(1735)年に入仏供養を勤修しました。境内には、良忠上人あるいは頼朝が数珠を掛けたと云われる「数珠掛松」がありました。本堂裏には、良忠上人が籠居し、「伝通記」を書したといわれる洞窟(矢倉)「然阿洞」があり、「伝通記」巻三に「悟真寺」の名が見えます。三十一世正譽流暢代の昭和四十五年に本堂の屋根をスレートに葺替え、庫裡を改修しました。三十二世清譽正暢代の平成十九年に墓地整備を行いました とネットより。苔むした石仏。墓地。宝篋印塔も。そして「正覚寺」を後にして、「逗子マリーナ フェニックス」を再び見る。学生時代には何回と無くこの場所に友人達と来たのであったが。そして帰路のバス停に向かって進む。右手に断崖のコンクリート擁壁・格子状擁壁工を見る。こちらは吹付工(コンクリート吹付工)であろうか。その先には格子状擁壁工が再び。折しもこの日の3日前の7月3日に静岡県熱海市で土石流が発生し多くの犠牲者が出そうなのであった。自ずと急ぎ足になっている私がいたのであった。そして「飯島」バス停から京急バスにて鎌倉駅に向かう。JR横須賀線、東海道線、小田急線を乗り継いで帰宅の途についたのであった。この日の歩数は「22,570歩」であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.31
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更に「臼杵城跡」の散策を続ける。多目的広場の北側の散策道を進む。現在地は多目的広場の北側の場所。右手にあったのが「勤皇臼杵隊之碑」。「勤皇臼杵隊之碑この碑は、明治十年(一八七七)に起きた西南戦役において、順逆を誤らず義のために郷土を守り、東上してきた薩軍と戦い、その進撃をはばみ敗走させたものの、この臼杵における戦いにおいて、尊い命を落した臼杵隊隊士四十三名の功績を永く伝えるために建てられたものです。当時、臼杵に侵攻してきた薩軍の数は約三千人、これを迎え撃った臼杵隊は七百八十五人、来援の警視隊百人と薩軍の三分の一にも満たない人数であったと記されています。」「明治十年六月一日薩軍臼杵に迫ル 舊臼杵藩士八百之ヲ邀撃シテ利アラス 死スル者四十三 當時薩将西郷ノ勢望天下ヲ壓シ 人皆歸趣ニ迷フノ時 臼杵藩士ハ克ク順逆ヲ誤ラス 必死ヲ期シテ寡以テ衆ニ敵ス 其ノ勤皇ノ精神ト悲壮ノ決意トハ炳乎鬼神ヲ哭カシム 郷黨ノ有志時勢ニ鑑ル所アリ 茲ニ碑ヲ建テ以テ其ノ忠烈ヲ後昆ニ貽サントス昭和十七年六月臼杵隊義戦顕彰會 戦死者 片切八三郎 遺腹 中根貞彦撰竝書」「中根貞彦歌碑」。「ちゝのみのちゝは 吾をみず ははそばの母は わが知らず 恋しき父母」「中根貞彦歌碑この碑には、次のような歌が刻まれています。「父のみの父は 吾をみず ははそばの母は わが知らず 恋しき父母」中根貞彦氏は明治十一年(一八七八)二王座の片切家に生まれました。早く父母を亡くしたため、父母の顔を知らずに育ち十五歳の時、佐伯の中根家に養子に入り、昭和八年(一九三三)三和銀行の初代頭取に就任しました。また、彼はアララギ派の歌人としても知られ、早くして亡くした父母に対する深い思慕の念を歌に詠んでいます。」多目的広場の本丸寄りに「俳諧塚」があった。「俳諧塚この碑には「稲妻や 闇の方ゆく 五位の聲」の句が刻まれています。「五位」は五位鷺(ごいさぎ)のこと。夜行性があり、夕方、不気味な声を出して飛ぶ。稲妻が発している方角は黒雲が立ち上り、そこが無気味に光っている。その反対側の空は闇の暗さだ。その中を飛んでいるのであろう五位鷺が不気味な声を張り上げなら渡っていく。この五位鷺の姿は見えないと。この句碑は、臼杵の横町で生まれた久家常蔵(俳号嵐影)が、大正11年(1922年)臼杵の俳句同好者と図って「南欧吟社」を組織し、その仲間と共に昭和14年(1939年)6月に建てたものです。臼杵では誹諧が盛んな時があった様で、このほか龍源寺に蓑塚、平原地区にしぐれ塚などの俳諧塚が建てられています。」夕日が山の端に沈みかけていた。そしてこの場所からの日没が迫っていた。日没を追う。そしてこの日の日没。時間は16:58。「着見櫓跡」の石垣を見る。そして「臼杵護国神社」に立ち寄る。本殿の手前に池があって、そこに石橋・神橋が架かっていた。「顕彰 砲弾記念碑」。「顕彰 砲弾記念碑明治二十九年四月奉納 陸軍歩兵中尉 平井富蔵清國威海衛戦利品威海衛の要塞砲口径二十三・四糎弾の長さ八十四糎黄海海戦 明治二十七年九月十七日威海衛占領 明治二十八年ニ月十ニ日講和条約(下関条約)明治二十八年四月砲弾は昭和二十年終戦後地下に埋没されたが現在その場所不明現砲弾は模造品」「臼杵護国神社」碑。「臼杵護国神社由緒略記御祭神 稲葉良通ならびに歴代藩主と国家公共につくした人の神霊境内地 七六九八・八三平方メートル主な祭典 一月一日 歳旦祭 四月十日 春季例大祭 十月十日 秋季例大祭由緒臼杵護国神社は明治十一年創立の招魂社(昭和十四年四月一日臼杵護国神社となるが、終戦後は招魂社と称した)を明治十二年創立の稲葉神社に昭和三十五年合併、稲葉神社を臼杵護国神社と名称を変更した。旧招魂社は、明治十年西南の役で薩摩軍が臼杵に侵入した時、旧臼杵藩士の日下東命等らが、臼杵隊を組織して防戦したが遂に破れ四十三名の戦死者を出した。明治十一年六月有志が戦死者の霊を祀るため、臼杵城趾に一社を創建した。以後、臼杵町に本籍がある者、或いは縁故がある者で、戦時又は事変で戦死し、靖国神社に奉斎された者すべてを合祀した。又市制施行により合併した旧六カ村の戦没者も合祀した。旧稲葉神社は稲葉家の旧臣が、臼杵藩祖稲葉良通公(一鉄)と歴代藩主の霊を祭祀するため建てられた。明治十二年十一月五日勘請式を行い、稲葉神社と公称した。」この神門をくぐって神橋を渡る。神門には「臼杵護国神社」と。「神橋」を渡る。「拝殿」西南の役で薩軍が臼杵に侵入したとき、臼杵隊が防戦したが、43人の戦死者をだした。この霊を祭ったのが神社の始まりで、明治11年の創建当時は招魂社といった と。・明治11(1878)年創立の招魂神社に西南の役の戦死者を祀る。 以後日清、日露戦争の戦死者を合祀・明治12(1879)年 臼杵藩祖稲葉良通公をはじめ、歴代の藩主の霊を祀る・昭和35(1960)年 招魂社と稲葉神社が合併。稲葉社は残し、招魂社は現在の臼杵八坂神社へ 粟島社として移築・昭和53(1978)年 護国神社と名称を変更「拝殿」、「本殿」を横から。そして「神橋」手前にあった「遥拝所」?を振り返る。昔の「招魂社」の名残の建物なのであろう。天井には臼杵市指定有形文化財である南画家による絵が描かれていた。鎌倉八幡宮で言えば「舞殿」のある位置にあったが。内部には「招魂社」と書かれた扁額が。「招魂社」という扁額の文字は、15代藩主稲葉久通の書であるようだ。「神楽殿」「稲葉神社」と書かれた扁額が掛かっていた。「臼杵市指定有形文化財臼杵護国神社神楽殿右を臼杵市指定有形文化財に指定する平成二十年六月三十日臼杵市教育委員会明治四十ニ年十月稲葉神社神楽殿及び神門を増築する」初冬の夕焼けを桜の木越しに見る。「大東亜戦争(第ニ次世界大戦)硫黄島の玉碎臼杵の人で死亡場所硫黄島と確認された人田井ヶ迫 阿南藤吉 命 江無田 首藤都彦 命 栗林 大戸貞雄 命高倉 安東克己 命 尾本 首藤 弘 命 南海添 野川 武 命洲崎 板井 守 命 下末広 武生 輝 命 中津浦 東 正信 命立野 大塚数雄 命 本町 歳国 鼎 命 宋広 藤澤芳生 命尾本 河野 渉 命 板知屋 冨田杉雄 命 城南 三島忠美 命港東 木元太郎 命 掛町 中西秀男 命 ニ王座 村本辰生 命尾本 小坂文作 命 浜 仲村 修 命 破礎 薬師寺信彦 命清太郎 佐世四郎 命 浜 西山孝夫 命 清水 吉水信清 命昭和ニ十年三月十七日、栗林中将は大本営に決別電を発した後みずから先頭に立っての攻撃にあたり、次の訓示を述べた。「いま日本は戦いに敗れたといえども、日本の国民は諸君の忠君愛国の精神に燃え諸君の霊に対し涙し黙祷を捧げる日がいっか来るであろう。安じて諸君は国に殉ずべし」硫黄島にて戦死せられたニ万一千の英霊に対し後世の日本人が涙して感謝の誠を捧げることを固く信じていたのである。大本営に決別電国の為 重き勤めを 果たし得て 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生まれて 矛を執らむぞ醜草の 島に蔓る その時の 皇国の行く手を 一途に思ふ平成六年ニ月初めて硫黄島の土を踏んだ天皇はこう詠った精魂込め 戦ひし人 未だ地下に 眠りて島は 悲しき 「散るぞ悲しき」梯久美子より」「大東亜戦争全般作戦図」。これは「砲弾記念碑」。「砲弾記念碑 明治二十八年九月十七日 敬献 海軍中将軍医総監 河村豊州臼杵藩士として代々医療を業とする。河村三達(太順)と白須豊子の二男として、嘉永二年(一八四九)一月二十六日生まる。荘田氏及び白須両氏更に日田咸宜園等の塾にて漢籍を学ぶ。明治初年藩命により鹿児島にて同藩の学校に入り洋学を修め次で医学校に移り、英人教師ウィリス氏に就き医学を研究した。明治八年 海軍中軍医となる明治十年 西南戦役に功あり海軍大軍医となり勲五等を受く明治十五年 朝鮮事変に旗艦「金剛」に乗り同地に派遣さる明治二十七年 軍医長として旗艦「松島」に乗り黄海海戦にて名誉の重傷を受く明治三十八年 功四級金鶏勲章を賜り九月十七日招魂社に砲弾と台座を奉納する (現在の砲弾は実物大レプリカ)明治三十五年 従四位高等官一等に叙せられ予備役となる退役後 貴族院議員 宮内省の要職を断り、北海道開拓に尽力する昭和八年(一九三三)十一月八日 八十五才にて永眠 青山墓地に眠る」「稲葉良通(一鉄)公一鉄の祖父・稲葉塩塵(通貞)は伊予国の名族越智河野氏の一族で、美濃に流れ国主土岐成頼に仕え土豪になったとされている。永正十ニ年(一五一五年)、一鉄は稲葉通則の六男彦六(良通)として、美濃国に生まれる。幼少時に僧侶となり学んでいたが、大永五年(一五ニ五年)に父と五人の兄たちが全て牧田の戦いで浅井亮政と戦って戦死したため、還俗して家督と曽根城を継いだ。はじめ土岐成頼の子土岐頼芸に、次にそれを追い出し継承した斎藤利政(道三)に仕え、西美濃三人衆の一人として活躍する。永禄十年(一五六七年)に三人衆は道三の娘婿でもある織田信長へ内応し、道三の孫龍典が稲葉山城の戦いで美濃からの敗走を決定的にした以後、信長に従う。永禄十一年(一五六八年)、信長の上洛に第一隊として従い、姉川の戦いでは徳川家康と共に戦功を挙げた。一鉄の号の初見はこの後の頃である。その後も、殿軍を指揮、軍使も務め、後詰め、先鋒など各地に転戦して武功を発揮したことから、美濃清水城を新たに与えられた。天正五年(一五七七年)には有岡城の戦い(織田信孝の副将として安土城の留守居役を務める)に参加し、武功を挙げた。各地の戦に参加しその戦功は、二十年負けなしと言われるほどである。天正七年(一五七九年)家督と曽根城を嫡子の稲葉貞通に譲り、美濃清水城に移る。天正十年(一五八ニ年)、武田攻めより凱旋した信長を、領内の呂久の渡しにて饗応する。本能寺の変の後、織田信孝と対立を深める羽柴秀吉に従うようになる。天正十三年(一五八五年)に秀吉が関白になると、法印に叙され「三位法印」と称した。同十五年(一五八七年)、「島津攻め」から斡旋してきた秀吉を、西宮に出迎え、大阪城山里丸の茶室に招かれる。天正十六年(一五八八年)十一月十九日、美濃清水城にて死去。享年七十四。後を子の稲葉貞通が継いだ。一鉄は敬神崇祖の心も厚く伊勢神宮への寄進や寺の建立保護に務めた。又歌道や茶道のみならず、医道においても造詣が深く、覚書きを伝えている。頑固な一面があり、そのことから号の「一鉄」にかけられて、「頑固一徹」の言葉が生れたとされている。文武両道、智勇兼備の名将と言われる由縁である。臼杵では廃藩にあっても、なお一鉄の威徳を仰ぎ稲葉神社を設立した。」「稲葉歴代藩主とその時代」。江戸時代の大名。先祖は代々美濃国土岐(とき)氏に属し、土岐氏没落後斎藤、織田氏と主家をかえ、良通(よしみち)(稲葉一鉄)のとき豊臣秀吉に仕え、美濃郡上八幡(ぐじょうはちまん)城主となった。良通の子貞通(さだみち)は関ヶ原の戦で東軍に属し、戦後豊後国(ぶんごのくに)臼杵(うすき)に移り(4万石)、同地で15代続いた(臼杵藩(うすきはん))。1.稲葉貞通(1546-1603)👈リンク 豊後国臼杵藩の初代藩主。2.稲葉典通(1566-1626)👈リンク3.稲葉一通(1587-1641) 👈リンク4.稲葉信通(1608-1673)👈リンク5.稲葉景通 (1639-1694) 👈リンク6.稲葉知通 (1652-1703)👈リンク7.稲葉恒通(1690-1720)👈リンク8.稲葉董通 (1709-1737)👈リンク9.稲葉泰通 (1730-1768)👈リンク10.稲葉弘通(1752-1818)👈リンク11.稲葉雍通(1776-1847)👈リンク12.稲葉尊通(1801-1821)👈リンク13.稲葉幾通(1815-1844)👈リンク14.稲葉観通(1839-1862)👈リンク15.稲葉久通(1843-1893)👈リンク 明治4年(1871年)の廃藩置県により藩知事を免官される。 「稲葉家下屋敷」👈リンクは、廃藩置県に伴って東京へ移住した旧藩主・稲葉家の臼杵滞在所として建築されたもの。「西南の役」案内板。「西南の役藤丸宗造命弘化ニ年(一八四五年)臼杵町海添で生誕した。明治十年西南の役で、藤丸宗造は重岡警察分隊長であった。薩摩西郷軍が延岡から重岡に侵入すると直ちに敵情を熊本鎮西総府に報告した。そののち、竹田地方の敵情探索中に捕えられた藤丸は、西郷軍に強く降伏を進められたが、「捕えらるるは命なり。降らざるは義なり。顧ふに唯一死あるのみ。余は、大分県警部を奉ずる。請う死せん。」と従容として刃をうけ、警察官として殉職した。享年三十ニ歳。明治十年五月ニ十三日竹田市稻葉川原でのことである。日露戦争宗造の子陸軍歩兵大尉藤丸宗造は、明治三十七年九月一日 日露戦争で戦死。藤丸宗造と子宗造のニ柱共臼杵護国神社にお祀りされている。「近代臼杵人物事典」より」大分縣護國神社(大分県大分市)にある「大分県十等警部藤丸宗造の墓」 【https://ameblo.jp/oitajapan/entry-10546767685.html】より「藤丸宗造墓碑文大分県十等警部藤丸宗造の墓碑文「大分県臼杵市出身。宮崎県日向方面からの薩軍の侵入に備え、1877年(明治10年)3月1日、大分縣佐伯署 重岡(しげおか)分署長として赴任。薩軍の延岡侵入、そして重岡侵入の際に、その報告と出兵要請に熊本鎮台や竹田署にいた政府軍に通報し、帰路捕えられて5月23日、竹田町会々(現竹田市)にある西光寺の前に流れる川の畔で斬首された。その場所には藤丸警部殉職の地の石碑が立っています。西光寺には銅像が建立されています。」と ネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.17
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「荏原(台)古墳群の成立ち多摩川下流沿岸、現在の大田区田園調布・世田谷区尾山台・等々力・野毛、かつての武蔵国荏原郷と呼ばれた地域には、古墳が数多く分布しており、これらは「荏原(台)古墳群」と呼ばれている。これは、田園調布を中心とする「田園調布古墳群」と、尾山台から野毛にかけての「野毛古墳群」とに二分して考えることもある。この一帯は、多摩川の豊富な水資源と広い平地を利用した農耕を地盤とする強力な首長により治められていたと考えられる。荏原(台)古墳群は、その代々の首長と一族の墓地だったのであろう。4世紀~5世紀古墳の発生期にあたる。田園調布古墳群での大形前方後円墳が築造される。5世紀野毛古墳群で大形円墳が築造される。6世紀田園調布古墳群の中で、中・小形前方後円墳が築造される。6世紀~7世紀前半古墳の終末期にあたる。小形円墳が多数築造される。」「荏原(台)古墳群の分布」 多摩川下流沿岸、大田区田園調布から世田谷区尾山台・等々力・野毛に分布する。昭和初期に54基の古墳が確認されていたという。近づいて。分布パネルの下端に古墳の名称が列挙されており、名称の左にある赤いボタンを押すと上面の航空写真上に古墳の位置を示すランプが点灯する仕掛けとなっているのであった。さらに。左から1列目 一本松古墳、扇塚古墳、亀甲山古墳、観音塚古墳、狐塚古墳、スクモ塚古墳、浅間様古墳、 浅間神社古墳、大日塚古墳、多摩川台古墳群第1+2号墳、多摩川台古墳第1号墳 (※注1)2列目 多摩川台古墳群第3号墳、多摩川台古墳群第4号墳、多摩川台古墳群第5号墳、多摩川台古墳群 第6号墳、多摩川台古墳群第7号墳、多摩川台古墳群第8号墳、マスキング(※注2)、 田園調布埴輪製作址、天慶塚古墳、天神山古墳、西岡第5号古墳、西岡第7号古墳、西岡第9号 古墳、西岡第13号古墳3列目 西岡第16号古墳~西岡24号古墳、西岡26号古墳~西岡第30号古墳4列目 西岡第31号古墳~西岡第33号古墳、西岡35号古墳、西岡47号古墳、西岡49号古墳、 西岡50号古墳~西岡52号古墳、八幡塚古墳、蓬莱山古墳、御岳山古墳、 古墳展示室(現在位置) (五十音順) ※注1:「多摩川台古墳第1号墳」の前に「多摩川台古墳群第1+2号墳」とあり、重複? ※注2:「マスキング」されたところには「多摩川台古墳群第9号墳」と書かれていた?。 多摩川台古墳群は円墳9基と考えられていたが、調査の結果、実際は円墳8基で あったため、第9号古墳は抹消?多摩川台公園内・周辺の古墳。多摩川台公園内の古墳と勾玉が見つかった古墳。次は「武蔵国造の乱」のコーナーへ。「武蔵国造の乱」案内。 「武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん)「日本書紀」巻十八 安閑天皇元年の条武蔵国では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)とその同族小杵(おぎ)が国造(くにのみやつこ・国を治める豪族)の地位を争っており、年を経ても決めがたい状態であった。小杵の性格は、けわしく逆らうことがあり、心は高慢で素直さがなかった。そしてひそかに上毛野君(かみつけのきみ)小熊(おぐま)に援助を求め使主を殺そうとした。このことを知った使主は、逃げて京へいたり、そのありさまを訴え出た。朝廷は裁断を下し、使主を国造とし、小杵を誅した。国造使主はかしこまり、喜んで横停 (よこぬ・多摩横山と埼玉県横美郡の2説がある)橘花 (たちばな・川崎市と横浜市港北区の一部) 多氷 (たひ・多末の書き誤りといわれ、東京都多摩地域とされる)倉樔 (くらす・横浜市南部)の四ヶ所の屯倉(こゆ・朝廷の直轄地)を朝廷に献上した。」 上段、挿絵付きの文章を右から左へ(その1)小杵と使主の対立時は、安閑天皇元年(534)、6世紀初めの頃のことである。武蔵国では首長になる権利を幾つかの勢力の間で持ち回りしながら、代々の首長が引き継いでいた。しかし、引き継ぎをめぐり、南武蔵の小杵と北武蔵の使主の対立が起きた。(その2)同盟を結ぶ小杵と小熊ずるかしこく、心が傲慢な小杵は、すでに上毛野国との関係を強めていた。そして、ひそかに上毛野君小熊に援助を求め、使主を倒そうと目論んだ。(その3)使主、大和政権に助けを求めるしかし、これに気付いた使主は自ら大和政権の朝廷に出向き、助けを願い出た。こうして単なる武蔵国の内紛から、大和政権と東国の強国上毛野国との対立という大きな争いへと発展することとなる。笠原直使主の本拠地は、埼玉県鴻巣市笠原と考えられ、この地は埼玉古墳群の南に位置している。使主の墓はこの古墳群の中の二子山古墳群ではないかという説もある。(その4)使主の勝利と屯倉の献上国家統一を成し遂げようとしていた大和政権は、小杵を討ち倒し、使主を国造とした。喜んだ使主は、4ヶ所を屯倉として大和政権に献上、小杵の勢力に大きな打撃を与えた。「小杵(おぎ)、使主(おみ)、小熊(おぐま)の勢力圏と屯倉(こゆ)の位置使主が大和政権に献上した屯倉のうち、「橘花(たちばな)」「多氷(たひ)」「倉樔(くらす)」の三ヶ所は小杵の本拠地と考えられる。「横渟(よこぬ)」は、多摩横山説なら小杵の本拠地にあたり、埼玉県横見郡説であれば南武蔵と北武蔵のほぼ中間に設置されたことになり、両地域を見張る軍事的・政治的役割を果たす屯倉と考えられる。なお、『安閑紀』の最後に屯倉設置の記事があり、その中に上毛野国緑野屯倉の名が出てくる。「緑野(ろくの)」は、この乱に加わった上毛野国に対する懲罰として、その領地に設置され、大和政権の国家統一への戦略拠点として利用されたと考えられる。(図示)橙色●:小杵の勢力範囲の中の主要古墳群・・・荏原(台)古墳群、川崎、横浜、多摩黄色●:小熊の勢力範囲の中の主要古墳群・・・埼玉古墳群、笠原水色●:使主の勢力範囲の中の主要古墳群・・・太田、伊勢崎、前橋、高崎、白石四角印■:屯倉「上毛野国と荏原(台)古墳群を結び付ける副葬品」滑石製模造品滑石製模造品は、武器や生活用具をまねて滑石を材料に作られた、マツリなどで使われる道具と考えられている。荏原(台)古墳群の野毛大塚古墳出土のセットは、上毛野(群馬県)の白石稲荷山古墳のセットとよく似ており、上毛野の以外の関東ではみられない飲食用具の模造品を含まれている。そのため、上毛野で作られ、南武蔵に持ち込まれたのではないかと考えられる。比較写真左:上毛野国からの出土品 右:荏原(台)古墳群からの出土品上毛野国(左):石製杵、石製坩、石製盤、石製履、石製案(あん)、石製刀子、石製勾玉(群馬県藤岡市 白石稲荷山古墳出土、写真提供 東京国立博物館)荏原(台)古墳群(右):石製坩(かん)、石製槽(ふね)、石製履(くつ)、石製槽形品、石製刀子、石製勾玉(世田谷区 野毛大塚古墳出土、写真提供 東京国立博物館)※坩(かん):壷※槽(ふね):水、酒などを入れる箱型の器※石製案(あん):物などを載せる台、机甲冑野毛大塚古墳から武蔵では最古とされる甲冑が出土している。これも上毛野の首長の元にあった甲冑が分け与えられたと考えられる。上毛野国:短甲(群馬県太田市 鶴山古墳出土、写真提供 群馬県立歴史博物館)荏原(台)古墳群:短甲復元図(世田谷区 御岳山古墳出土)鈴鏡6世紀前半を盛りに、上毛野を中心に流行したと考えられる鈴鏡が荏原(台)古墳群の御岳山古墳と西岡第28号古墳でも出土している。これら両地域は鈴鏡を使ってマツリを行う共通の文化圏としてとたえられるのではないだろうか。上毛野国:五鈴鏡(群馬県高崎市 観音塚古墳出土、写真提供 高崎市教育委員会)荏原(台)古墳群:六鈴鏡(大田区 西岡第28号古墳出土、慶応義塾大学所蔵)こららの資料は、野毛大塚古墳が築造された5世紀前半頃、南武蔵の首長が、当時先進的であった上毛野国の政治勢力下に入ったことを暗示している。その結果、①鈴鏡を用いた祭礼(マツリ)が荏原(台)古墳群でも行われたり、②武蔵国造の継承権の争いに上毛野君が介入した事件が起こったと考えられる。「古墳散策コース現在保存され見学可能な古墳を散策するコースの一例。全工程約5km、徒歩4時間の半日コース。」 「古墳の造り方」 「古墳の造り方前方後円墳の築造過程を紹介します。大田区で最も近い例は観音塚古墳です。築造地 関東地方時期 6世紀全長 50~60m内部施設 横穴式石室」「古墳を設計し、地割線を引く」上段/古墳築造のときに利用する仮家。右上/二人の人物図。古墳を造るための計画全体のことを考え、働く人々に指示を出す人々。首長一族。中央/働く人物図。・先の尖った棒で地割線をひく・設計図で確認しながら指示を出す・中心杭、メジャーとなる縄・後円部の地割線と中心杭にできる朝夕の影を利用して東西の方位を直線で示す左下/二人の人物図。埋葬施設・副葬品・棺・埴輪・祭祀用具など、古墳に付属する施設や必要な道具を準備したり、作ったりする人々。「墳丘を盛り上げ、横穴式石室を組み立てる中央/作業をする人々。・石室石組裏込用年度を採掘する・石材を運ぶ・石材の整形加工・根石の上に壁石を組み上げる・石組の裏込をする・擂鉢状の傾斜を利用して土を流し込むように重ねていく・モッコに土を入れ、天秤棒で担ぎ、盛土を運ぶ・墳丘面を叩き固める・周溝を掘る・墳裾(古墳の裾)の位置を定めながら盛土をする・(周溝を)平らにならす・周溝に土橋を残す左上/三人の人物図。力仕事をする人々。古墳の土を盛り上げたり、埋葬施設の石材や棺・埴輪などを運び、設置する。」」 「石室の天井石をのせる中央/作業をする人々。・丸太のコロを敷き、天井石を所定の位置まで移動させる・天井石の運搬路 石室天井レベルまで運び上げられるように緩やかな坂を作る・修羅や梃子などを利用して天井石を運ぶ左上/二人の人物図。高い専門知識をもち、古墳を造るために必要な技術を指導する人々。首長一族に仕え、仕事を手伝い、助ける。「埴輪を設置し、石室を閉塞する中央/作業をする人々。(後円部)・横穴敷き入口を閉じるための扉石、閉塞石、封土・石室に棺を運び入れ、石室入口を閉める(前方部)・杭と縄で埴輪を並べる位置を示す・埴輪製作所から埴輪を運ぶ・埴輪を墳丘に運ぶ・埴輪を並べる「いろいろな古墳とその大きさ紀元前外国の遺跡、日本の遺跡と2-3世紀弥生時代の日本では、盛んに米作りが行われるようになった。静岡県・登呂遺跡の田んぼの大きさはどのくらいだろうか、比べてみよう。エジプト ギザ。ピラミッド・スフィンクス。4世紀、5世紀4世紀古墳が各地で造られるようになる。古墳時代が始まった。日本だけしか見られない形といわれる前方後円墳も現れる。最も古い前方後円墳は、前方部の形が三味線の撥形をしていたり、全体が柄鏡形だったりする。また、後円部に比べて前方部が低く造られているという特徴がある。5世紀巨大な前方後円墳が造られる。応神天皇陵(全長420m)や仁徳天皇陵(全長486m)は、世界で最も大きな築造物のひとつに数えられる。この頃の前方後円墳は、前方部の先端が広がり、高さもだんだん高くなってくる。前方後円墳以外の変わった古墳も増えてくる。上段、右から/ 大阪府 仲津姫命陵(仲津山)古墳・・・前方後円墳 大阪府 応神天皇陵(誉田御廟山)古墳・・・同上 大阪府 仁徳天皇陵(大山)古墳・・・同上 大阪府 にさんざい古墳・・・同上下段、右から/ 東京都 亀甲山古墳・・・同上 栃木県 上侍塚古墳・・・前方後方墳 奈良県 乙女山古墳・・・帆立貝型古墳6世紀、7世紀。「6世紀前方後円墳の前方部の幅や高さが、後円部の直径や高さより大きくなってしまう。同し前方後円墳でも、時期によって形に変化があることがわかる。各地に、多摩川台古墳群のような、小さな円墳の集まった群集墳が見られるようになる。」 上段、右/千葉県 稲荷山古墳・・・前方後円墳上段、左/埼玉県 山王塚古墳・・・上円下方墳下段、右/東京都 船田遺跡 集落址下段、央/大阪府 金山古墳・・・双円墳下段、左/群馬県 芦田貝戸遺跡 水田・畑址「7世紀古墳が造られなくなってくる。その代わり、各地に寺院か建立されるようになる。日本への仏教伝来は538年、または552年とされる。」上段/奈良県 法隆寺 中段/奈良県 舒明天皇陵(段ノ塚)古墳・・・八角墳(上八角下方墳)下段/千葉県 龍角寺岩屋古墳・・・方墳「8世紀奈良時代に入り、律令制国家として日本が統一される。国の政治を司る中心して平城宮のような都か造られ、各地には国分寺が建立された。上段 奈良県・・・平城宮下段 東京都・・・武蔵国分寺」 現代古墳展示室周辺のようす。すぐ側を多摩川か流れ、多摩川台公園の中には古墳も残っている。東急線の多摩川駅・田園調布駅、学校、野球場なとか見える。みんなが知っている現代の建物とも比較してみよう。」 「古墳の埋葬施設古墳に遺骸を埋葬する施設のことで、内部主体とも呼ばれる。その構造は、遺骸を納める「棺」と、棺を納める「槨」または「石室」からなっている。」 右から箱型石棺、箱型木棺、長持形石棺。割竹形木棺・舟形木棺 丸太を縦半分に割り、その中を刳り抜いて棺身と蓋にする。竹を割った形に似ているのが 割竹形木棺、割竹形木棺より断面か儷平て棺身の両端か舟の舳先のように加工してあるのが 舟形木棺。木材は高野槇か多く、檜なども利用される。古墳時代初期より、全時期を通して 用いられた。割竹形石棺・舟形石棺 割竹形木棺・舟形木棺の形を模し、石材を利用して作られた。4 ~ 5世紀にかけて盛んに 用いられた。家形石棺 棺蓋が寄棟造り家屋の屋根に似ていることからこの名がある。5世紀代、棺身はまだ舟形石棺の 伝統を残すが、蓋は家形をしている。6世紀以降は棺身か箱形に整えられる。埴輪棺・埴輪円筒棺 円箇形埴輪や朝顔形埴輸を棺に転用することは、埴輪の元となった弥生時代後期の 特殊器台形土器からみられ、埴輪が作られていた期間を通して行われ、埴輪棺と呼ばれる。 また、5世紀になると、最初から棺として円筒形埴報と同じ方法で作られる埴輪円筒棺が現れ、 盛んに利用されるようになる。これらは、古墳の中心となる埋葬施設として利用されることは 少なく、墳丘麓や外堤.あるいは周辺部に直接埋葬される。陶館 焼物の棺で、土師質と須恵質がある。また、蓋が丸く盛上かり全体に亀の甲羅のような 格子状文様のある亀甲形陶棺や、切妻や寄棟の屋根形の蓋をもつ屋根形陶棺がある。 古墳時代後期から終末期にかけて、主に近畿・中国地方で用いられた。槨 古墳の盛土に、直接木棺を埋葬する際に用いられ、棺を覆う材料によって粘土槨、木炭槨 礫槨に分類される。発生期及び前期の古墳によく用いられ、特に、東日本の初期古墳に多く 採用されている。竪穴式石室 礫を張った床に粘土で棺を設置し、これを覆うために周りの型を積石て造り、最後に天井石を のせて密封した施設。 発生期及び前期の古墳に盛んに用いられた。横穴式石室 積石による部屋の一ヶ所に、外部に通じる出入口が設けられ、ここを開閉することにより 追葬や合葬など、数回にわたる埋葬が可能な施設。 中国の墓制の影響を受け、日本へは5世紀後半に伝わり、8世紀初頭まで造られていたとされる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.29
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塩山での仕事を終え、恵林寺(えりんじ)にお参りに立ち寄る。恵林寺は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院。山号は乾徳山(けんとくさん)。臨済宗妙心寺派に属する寺院。甲斐武田氏の菩提寺として知られる名刹。山門は黒門とも呼ばれ、「雑華世界」 と書かれた大木板が掲げられていた。この門より外は 複雑世界、この門より内は 静寂世界と。恵林寺境内略図。参道を進む。 四脚門。丹塗りの門であるところから通称「赤門」と呼ばれている、切妻造り、檜皮葺。その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく表していると。門をくぐると見事な庭が。 三門。天正十年四月、甲斐武田氏を滅ぼした織田信長の軍勢は、武田信玄が深く帰依していた快川国師のいる恵林寺に押し寄せた。この時、かつて信長に滅ぼされた六角氏らが恵林寺にかくまわれていたために、織田氏は恵林寺に対して、引渡しを要求。それに対して恵林寺側は断固としてはねのけ、六角氏らをひそかに逃がした。信長は怒り、恵林寺の焼き討ちを命じたのだと。信長は甲斐きっての名刹・恵林寺に火をかけるだけでなく、快川国師ら約百人の三門の楼上に押し込め火を放った。その時、焼ける三門の中で快川国師は唱えたと言われている「心頭を滅却すれば・・・」が掲げられていた。 「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」)安禅は必ずしも山水を須()いず 心頭を滅却()すれば火も自()ずから涼し。「安らかに座禅するには、必ずしも山水の地に出かける必要はない。無念無想の境地に入れば、火中にあっても涼味を感ずるものだ。」と。 有名な辞世を残し、亡くなったのが、快川 紹喜(かいせん じょうき)和尚像 三門からは開山堂が前方に。堂内には、夢窓国師、快川和尚、末宗和尚の三像が安置されていると。佛舎利宝塔(三重塔)。 武田信玄公訓言。「五分の勝ちであれば今後に対して励みの気持ちが生じ、七分の勝ちなら怠り心が生じ、十分つまり完璧に勝ってしまうと、敵を侮り驕(おご)りの気持ちが生まれるからだ」と言ったと。よって信玄は常に程々以上を超える勝利は求めなかったと。上杉謙信はこれを評し、「いつも自分が信玄に及ばぬ所は実にここである」と言ったと。
2015.01.16
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我が家の庭の「庭梅(ニワウメ)」 が満開を迎えています。庭梅の名前の由来は「庭に植える木で梅に似た花を咲かせる」という非常にわかりやすくストレートな意味なのだと。見た目はあまりサクラっぽくないですが、分類上はサクラの仲間とのこと。 高さ1m前後の低木でそれ以上大きくならないのが特徴。低木のこの庭梅は手入れがいらないので楽なのです。この時期の4月初め頃、葉が出る前に2~3輪ずつ固まって枝を覆うほどたくさんの花を咲かせています。同時に薄緑の葉も下部を中心にところどころに。花びらは5枚で、花の中央にたくさんの雄しべが放射状に。原産地は、中国だが、万葉集に出てくるほど古く、万葉集では「唐様花(はねず)」と呼ばれていると。『山吹の にほへる妹が 朱華(はねず)色の 赤裳(あかも)の姿 夢に見えつつ 万葉集 11-2786』枝に沿ってたくさんのうすピンク色の花をつけています。庭桜(にわざくら)に形がよく似ていますが庭桜は八重で庭梅は一重なので区別できると。 下部の方には未だ丸いピンクの蕾も。 花後に球形で直径1cmほどの果実ができて6月~7月頃に赤く熟します。赤く熟した果実は新緑の葉とのコントラストも非常に良く鑑賞価値が高いのです。また、この果実は生食できますし果実酒、ジャムにもなるとのことですが未だTRYしたことはありません。
2017.04.04
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先日、養蜂場のある農園の耕耘作業を行いました。隣の農園をやられているSさんが、所有の耕耘機を貸してくれ、その使い方を指導してくれました。 まずはイチゴ栽培の場所を耕しました。耕耘機の作業は初めての経験。Sさんが付きっきりで指導してくれました。 深く耕そうと前進速度を遅くすると、その場所に潜り込んでしまい前進が不可能になってしまいます。早すぎると深く耕耘出来ないためその調整が難しいのです。 この場所にハクサイ、ブロッコリーを定植したいと考えています。養蜂場の前も。 箱の前はさすがにネットを被りました。ミツバチが耕耘機の音と振動で興奮する可能性があるからです。 来年用のイチゴの苗を育てている苗床の隣も。 そして人工分蜂した巣箱の前も。 未だ小玉スイカは成長を続けていますので、かたづけずに残しています。9月の第2周頃にはこの場所もかたづけて、再度耕耘機をお借りしたいと考えています。この場所は来年用の『空豆』を11月初めに定植したいと考えています。 台風10号の風を心配しミツバチの巣箱の転倒防止、育苗箱養生等を行い心配していましたが、被害もなく安堵しています。耕耘の残っている、蕎麦畑、スイカ畑も片付けて耕したいと思っています。
2016.08.31
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海の日の夕方に養蜂場に行ってみると、巣箱の入り口にミツバチたちがお尻を外側に向けてそろって羽根をばたばたさせて並んでいました。J2群の巣箱入り口の働き蜂たちです。これは働き蜂達が巣箱の入り口に出て、頭を巣箱側に向けて羽を震わせ、入り口から巣内の熱気を外に追い出しているのです。これが蜜蜂の「夕涼み」現象なのでしょうか?そして巣箱の壁に張り付いている働き蜂は、皆お尻を上に向け羽を振るわせていたのでした。巣箱から出てきた暖かい空気を更に上方に追い出しているのでしょうか?暖かい空気ですので上方に追い出すことは理にかなっているのです。西洋ミツバチは30~36℃の体温を維持しているのです。巣温が下がりすぎたときは胸をふるわせると共に蜂集団の個体密度を上げ、冬期でも、蜂集団内温度をほぼ一定温度(育児房で33~36℃)に保っています。 これは、室内を過ごしやすくするだけでなく、蜂蜜中の水分を蒸発させる効果もねらって行っているのです。驚いたことには、こうしてハチミツに含まれる水分は、20%くらいに濃縮されてしまうのです。また、室温が上がりすぎたときは水を撒いて旋風行動を取ることで冷却することもしているのです。J1群も全く同じように並んでいました。女王蜂が3群全てに存在した養蜂場の様子です。ところで先日のニュース記事に下記の如きものがありました。【ミツバチに4つまで数える能力】 [シドニー 26日 ロイター] オーストラリアとスウェーデンの研究者が26日、ミツバチが4まで数えることができるとの研究結果を発表した。豪公共放送のABCラジオが伝えた。穴の中に5つの目印を付け、うち1つに果汁を置いて実験。ミツバチを放つと、果汁のある目印に向かって飛ぶが、果汁を取り除いた場合でも同じ目印のところに飛んだという。クイーンズランド大のマンディアム・スリニバサン氏は、「ミツバチを3つ目の印に飛ぶように訓練すると、その後も3つ目の印に行くことが分かった。4つ目の印に導くと、4つ目の印を目指すようになるという具合。ただ4つまでしか数えられないようだ」と語った。 蜜蜂嬢達は1ミリ程の脳を持っているのです。そして『ミツバチはダンスで会話している』のです。オーストリアの学者はミツバチの驚異的な能力の一端を明らかにし、1973年にノーベル医学生理学賞を受賞しました。彼は、ミツバチ達が巣の仲間に蜜や花粉、水源等があることを知らせることができる【8の字ダンス】を行っていることを発見したのです。このような信じられない能力を保有しているので、4までの数を認識できると言うNewSはさもありなんとの納得のNewSでした。
2009.07.23
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参道から大殿前に至る階段...18段。阿弥陀仏の本願、第18願。 大殿に登る階段...25菩薩をあらわし、25の階段となっています。 増上寺・大殿と東京タワーのコラボレーション。「増上寺」と書かれた扁額。 正面では無く右側の入口から本堂へ。大殿の内部。ご本尊の阿弥陀如来。 高祖善導大師。 僧侶が舞楽を奉納する際に使う太鼓等の道具か? 大殿回廊から境内、三門を見る。 増上寺境内の西側を大殿回廊から見る。 正面左側は増上寺会館。蘇鉄と三波石(さんばせき)。三波石は、群馬県藤岡市などで産出される岩石。青緑色で白い縞模様があるものが、よく庭石などに利用されているのだと。 安国殿と東京タワー。戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和49(1974)年、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、御堂「安国殿」とした。老朽化のため、平成23(2011)年法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた"天下泰平の世(安らかな国づくり)"を願い、新しい安国殿が建立したと。 安国殿には、徳川家康が深く崇拝した念持仏の秘仏、黒本尊阿弥陀如来が祀られている。安国殿内部。本堂中央に本尊である、恵心僧都の作と伝えられる秘仏「黒本尊」。そして右側には阿弥陀如来立像。左には皇女和宮の等身大の御像および徳川家御歴代並びに一門の尊霊の位牌等が祀られていた。安国殿前から大殿を見る。西向聖観世音菩薩方面を見る。 西向聖観世音菩薩(にしむきせいかんぜおんぼさつ)。鎌倉時代、執権・北条時頼公が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、鎌倉街道(現:六本木方面)に向けて安置した石像の観音様。子育て・安産に霊験あらたかと。昭和50(1975)年浄土宗開宗八百年記念の境内整備事業として、現在の安国殿前に尊像を遷座、昭和55(1980)年1月に観音堂落成。江戸三十三観音札所で聖観音像は子育て開運の利益大と言われていると。「西向観音」と書かれた扁額。西向聖観世音菩薩の前には、おびただしい数のお地蔵さんが。子どもの無事成長や健康を願って、順次奉安されていると。風車が圧巻。「千躰子育て地蔵尊」。安産、子供の無事成長、健康を願っていると。 ズームで。 石仏も。 増上寺境内の西側には、可愛い地蔵がずらりと並んでいた。4月2日~7日に開催される「御忌」のポスター。「一筆写経」 の案内。安国殿の片隅に筆ペンと用紙が用意されていて、書写した写経と納経料の500円を納めると南無阿弥陀仏の御朱印がいただけると。「黒本尊」の御朱印を頂きました。こちらにも「千躰子育地蔵尊」。千躰子育地蔵尊は子育てや安産にご利益あり、子供の無事成長や健康を願って、子育て地蔵が順次奉安され続けていて、赤い頭巾をして風車を持っている服を着た可愛い地蔵さんが並んでいた。熊野(ゆや)神社。元和10(1624)年、当寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したもの。『熊野』は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称がありますが、ここでは「ユヤ」権現として親しまれているのだと。手水舎。「熊野みこし講 創立40周年記念碑」。記念碑正面には、創始者である綿貫次郎氏の名前と熊野みこし講の発足について、石碑に彫刻されていた。「め組」殉難碑。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたが、火事を消し止める火消しは、その「粋」のさいたる職業であったかもしれない。芝で火消しというと、「め組」である。実際、増上寺の境内には、増上寺門前を守った町火消し「め組」の碑がこれ。享保元年(1716)建立というから290年前に建てられたものである。これは、「め組」の殉難者・物故者の供養碑であるが、増上寺自体は寺社奉行、大名火消しの管轄であったと。弔魂之碑(ちょうこんひ)。西南の役(せいなんのえき)で戦死した看護卒(かんごそつ:看護師)の供養碑で、明治11年(1878)に建てられた。題額は山岡鉄太郎(鉄舟)。筆塚。比較的新しい石碑のようで「心と創造」と刻まれていた。筆塚は古くなった筆を供養し、筆への感謝と勉学の向上を願うもので、こちらの筆塚は平成16年に建てられたもので子どもたちへ 学べよ 努めよ 今がその時ですと彫られていた。。阿波丸事件殉難者之碑。第二次世界大戦も終りに近い、昭和20年(1945)4月1日夜半、台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈され、2000人以上の乗船者のほとんどが死亡した事件。この不法撃沈され世界最大の海難事故となった犠牲者の御霊を慰める慰霊碑。南無阿弥陀仏平等・・・と刻まれた石碑。再び安国殿と東京タワー。
2017.03.30
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西安3日目の朝の我々のホテルの部屋のある7Fの中央通路。エレベータホールには盆栽が飾られていた。この日の朝食バイキング。キムチや豆腐餻(とうふよう)?が旨かった。我が部屋の窓からの風景はホテル裏側。1Fロビー売店の絵画。楊貴妃の姿か?バスにてこの日の最初の観光地に向かう。この日の最初の観光は『興慶宮公園』。大明宮、太極宮とともに唐代三大宮殿跡に建てられた広大な公園。玄宗皇帝が楊貴妃と過ごしたと言われる、唐時代の宮殿跡・興慶宮(こうけいきゅう)。公園内 案内図。興慶殿、南熏殿、大同殿、勤政務本樓,花萼相輝樓、彩雲閣、沉香亭等の建築物があると。公園には様々な飾りが。慶宮公園号遊図。 散策案内の石碑。「紅軍林」と刻まれた石碑。水曜の朝であったが、公園内には合唱をしている多くの人達が。マイクも用意され、公園内に響き渡っていた。指揮者の夫人も紅いコートを纏い張り切って本格的。生演奏で。戦時中の「中国共産党軍」を称える歌も歌われていると添乗員から。「まさに中国ならでは」という光景に出くわしたのであった。楽譜。牡丹の庭園と。この日は僅かに葉が芽生えていた。芍薬のような気もしたが・・・。 公園の中のあらゆるところで所狭しと太極拳、独楽回し、凧揚げ、合唱等々様々なレクリエーションが行われていた。老いも若き?も、公園内でダンスを踊ったり、バトミントンや音楽演奏に興じていたのであった。沈香亭 (じんこうてい ) 。玄宗皇帝と楊貴妃が過ごした建物であると。この沈香亭はもともと沈香(じんこう)という香木を使って建てられたのだと。 楊貴妃と玄宗皇帝の石版画。楊貴妃の顔が描かれている場所を撫でると美人になれると、我がツアーの若き旅友も。玄宗と楊貴妃の一族が宴を催したという彩雲閣。興慶宮公園は、広大な敷地を持っており、中央に人工湖の興慶湖が。多くの老々?男女が元気よく。ここ中国では、高齢者の定義は、60歳以上であると。「高齢者」の人口は2014年では2億1200万人に達し、総人口の15.5%を占めるようになったと。中国の定年年齢は、男性60歳、女性50歳、幹部クラスの女性は55歳と規定されているため、多くの人々は50歳から60歳の間で定年となるのだと。中国では、「颐养天年(イーヤンテェンニアン)」ということわざがあり、「晩年を楽しむ、寿命が来るまで静養する」ことが一番理想的な老後生活だと思われているのだと。子供が定年後の親に仕事をさせる事は、周りに親不孝だと思われるのだと。民族衣装を纏って踊るオバチャン達も。正面に廻って。 墨汁の代わりに水を使って書道に勤しむ老人。有名な漢詩なのだろうか。水を使い大きな筆でコンクリートのタイルに書いていた。漢字の故郷・中国へ来たと言う気持ちが心の中に湧いて来たのであった。しかし我々を韓国人と勘違いし、急にハングル文字を書き始めたのであったが。 初春にもかかわらず真っ黄色に黄葉した銀杏の葉が。これも全て造花。この後も至る所で、桜、桃の造花そして銀杏の造花が。 季節感がないのであろうか?不思議な光景なのであった。 安部仲麻呂記念碑。スマホによる説明用音声案内板。阿倍仲麻呂記念碑。大理石作りの美しい記念碑の高さは6.1m、碑の正面には金文字で「阿倍仲麻呂記念碑」と刻まれていた。西安と日本の奈良市の友好都市関係締結五周年を記念して、1979年7月日に建立されたと。阿部仲麻呂は一度 日本に帰るチャンスがあり 船に乗っが、乗った船は途中で暴風雨に逢い遭難し、ベトナムに漂着、陸路で再びここ唐・長安に戻ることになってしまったのだ。長安に無事到着した仲麻呂は帰国を断念、結局その後日本の地を踏むことがかなわぬまま、その後も 玄宗皇帝に支え72歳の生涯をこの地で閉じたのであった。仲麻呂が難破して亡くなったと伝えられた時に李白が作った追悼の七言絶句が哭晁卿衡(晁卿衡を哭す) 「日本晁卿辞帝都 征帆一片遶蓬壷 明月不帰沈碧海 白雲愁色満蒼梧」訳は「哭晁卿衡日本の晁卿は、長安の都を辞した。我が友が乗った船の帆影は、仙人が住むという蓬壺の島をめぐって行ったのだ。しかし、明月のように輝いていた君は帰らずして、碧海に沈んだという。ああ、白い雲とともに悲しみの色が、蒼梧の空に満ちている。」 「哭」とは慟哭(どうこく)を意味し晁卿(ちょうけい)は、阿倍仲麻呂の中国名であると。17歳(または19歳)で唐土に渡り、その地で学問を修めて高官にまで昇った。異説もあるが、仲麻呂は官吏登用試験である科挙に応じて、最難関の進士に及第したとされると。 「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」 百人一首で有名なこの短歌を五言絶句の形にして詠ったものが隣の面に刻まれていた。「翹首望長天 神馳奈良辺 三笠山頂上 想又皎月圓」この歌を詠んだ経緯については、天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂を送別する宴席において友人の前で日本語で詠ったとするのが通説だが、仲麻呂が唐に向かう船上より日本を振り返ると月が見え、今で言う福岡県の春日市より眺めた御笠山(宝満山)から昇る月を思い浮かべ詠んだとする説も存在するのだと。日本から多くの英才が唐土に渡った。なかには、唐において相当名を知られた人物もいた。『続日本紀』によれば、それは吉備真備とこの阿倍仲麻呂(698~770)の二人であると。 しかし、この公園を訪ねる「現代」の中国人の中に、この阿倍仲麻呂について知る人はどの程度いるのだろうか?そしてこの石碑を訪ねるのは日本人のみか? 赤、ピンクの花が咲き乱れて。いや、実はこれらは全て造花。興慶宮の見学を終えバスにて青龍寺へ向かう。 交通大学 正門が車窓から。西安交通大学は、陝西省西安市にある理工系大学で、上海交通大学と並び国務院教育部直轄の理工系重点大学の一つであり1921年に設置された。学院(学部)数は19。3つの付属病院を有する。 学生数約3万人(うち大学院生1万2千人)、専任教職員数は5600人であると。 ・・・つづく・・・
2018.03.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『弥勒歩みの跡(案内図)』。近くにある石塔、石碑等が示されていた。「江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で「正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗(げんぞく)して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を“安倍川餅”という。これが「弥勒町」の名の由来となった」と記されています。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、『ほどなく弥勒といへるにいたる ここは名におふ安べ川もちの名物にて 両側の茶屋いづれも奇麗に花やかなり』と著され“弥勒茶屋”と呼ばれた茶店の賑わい振りをうかがうことができます。弥勒町は、駿府の城下町の西の見付けの前面に位置し、駿府96ヶ町に準じた扱いを受けていました。近代の安倍川は、徒歩(かち)渡りの川として川越のための川会所が設けられていました。しかし、明治4年の渡し船と仮橋、明治7年の宮崎総五の手になる安水(あんすい)橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変わりと共に、弥勒の町も大きく変化を遂げてきました。弥勒の町には、近世以降の歴史の中で、「由井正雪墓址碑」、溺死や劔難者のための「慰霊碑」、幕末から明治にかけて広く社会に尽くした宮崎総五の篤行(とくこう)を称える「頌徳の碑」と「安倍川架橋の碑」をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。」『駿府キリシタン殉教之碑』が本通り(県道208号線)の右側に。「 慶長17年(1612)年3月、徳川幕府はキリシタン禁教令を発して原主水、おたあジュリアら直臣のキリシタン武士や侍女を駿府から追放し、当時2つあった駿府の協会を破壊した。禁教は次第に強化拡大され、慶長19年3月には町人キリシタンの中心として、8名が逮捕牢送りとなり、棄教を迫られた。しかし、あらゆる責め苦を耐え忍び、いかなる甘言をも退けたそのうちの6名は、同年11月1日、額に灼熱の鉄で十字架の焼印を押され、市中引き廻しの後、正念寺(当時は安倍川原千日堂)に着いた。両手の指、足の腱を切られた彼らは、そこにそのまま放置された。このうちジョアン道寿は同夜、ペドロ角助は翌朝早く息絶え、駿府キリシタン殉教者の先達となった。」石碑の両脇には、白きユリの花が手向けられていた。そして三角形の弥勒緑地には『安倍川の義父の碑』が。「この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。元文三年(一七三八)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金百五十両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落し主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。昭和四年(一九二九)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川の近くのこの地に碑が建てられたのである。 碑文 難に臨まずんば忠臣の志を知らず。 財に臨まずんば義士の心を知らず。 」『由井正雪公之墓址』「軍学者として名高かった由井正雪は、1651(慶安4)年7月26日、市内梅ヶ崎の旅籠で捕り方に包囲され自刃した。江戸幕府の武断政治による浪人の増加をうれい、江戸・駿府・大坂で幕府転覆のため蜂起する計画であったという。この慶安事件は、その背後関係も含めて不明な点も多く、さまざまな憶測をよんでいる。正雪は駿府宮ヶ崎の出身(由比説もあり)といわれ、この時宮ヶ崎に住んでいた両親や親戚も捕らえられた。河原では、正雪の親類ほか43人も処刑されたという。河原にさらされた正雪の首を埋めた塚は、はじめ正念寺にあったとも伝えられる。」安倍川餅の老舗『石部屋(せきべや)』⬅リンク を訪ねたが既に?この日は閉まっていた。時間は16:36。石部屋の創業は文化元年(1804年)。「安倍川もち」の誕生は慶長年間(1596-1615)だという。安倍川上流では、金の採掘が盛んであり、検分に訪れた徳川家康にきな粉をまぶした餅を「金粉餅(きんこもち)」と称して献上したところ、いたく気に入り「安倍川餅」と命名したのが始まりという。元々の「安倍川もち」は餅に、きな粉をまぶしたもの。のちに餡をまとった餅が作られるようになる。「安倍川もち」の名を世間に知らしめたのは、砂糖がまだ貴重品であった頃に、駿河特産の白砂糖を上に乗せたことで評判になったそうだ。本来ならば・・・。 【https://www.travel.co.jp/guide/photo/10024/3/】歌川広重『東海道五十三次之内 府中 あへ川遠景』。左手には「石部屋」の中で餅をつく姿が描かれているのだ。杵でついているのは、女性のようだ。旅人はリラックスして大きな口を開けて、そして後ろにぶら下がっている扇子?は蝿避けであろうか?石部屋のこだわりは、絵にもあるように、毎朝ついた餅を注文を受けてから仕上げるという、作り立ての味!もち米100%のつきたての餅に、こしあんを絡めたものときな粉をまぶし上から白砂糖をかけたもの、2種類の味を楽しむことができるのだと。しっかりとした米の旨味のある餅に、滑らかでほど良い甘さのこしあんときな粉の香りが広がる、とても上品な味であると。この味を楽しみたかったのであったが・・・・・。きな粉の上に砂糖を乗せて。現在の15代目店主。そして安倍川に架かる安倍川橋(あべかわばし、別名弥勒橋)を渡る。安倍川橋は、安倍川に架かる静岡県道208号藤枝静岡線の橋。『安倍川橋の歴史』。1871年(明治4年)6月 - 安倍川の川越人足が廃止になることに伴い、渡し船を配置する ことになったが、秋冬期(10月〜2月)は川の流量が少ないため、 この期間に使用するための木製の仮橋を架設した。1874年(明治7年)3月24日 - 本設の木橋が完成し、「安水橋」と命名。全長509m。 総工費は当時の金額で7,000円。渡り賃は一人金4厘。 これが県内で最初の橋。 その後、大井川、天竜川、興津川、富士川と橋が架けられる ようになった。1896年(明治29年)10月 - 県に移管され、通行料が無料となる。1903年(明治36年)4月 - 架け替え(木橋)。総工費は当時の金額で14,900円。1923年(大正12年)7月23日 - 鉄橋(トラス橋)に架け替え。「安倍川橋」に改称。 総工費は当時の金額で594,000円。1968年(昭和43年)4月 - 歩道を新たに設置。1990年(平成2年)3月 - 右岸側一部(2径間分)架け替え。1923年(大正12年)の安倍川橋の工事風景の写真が示されていた。1968年(昭和43年)4月 - 歩道を新たに設置したと。現在の年齢は96歳であると。1968年(昭和43年)4月に完成した歩道橋を歩く。下を流れる川は『一級河川 あべ川』。安倍川は静岡県と山梨県の境にある、大谷嶺・八紘嶺・安倍峠に源を発する川。清流としても有名で、その伏流水は静岡市の水道水にも使われている。大河川でありながら本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川であると。橋の入口の道路の反対側の奥にあった『関東大震災供養塔』を訪ねたかったが、交通量が多く道路を渡れなかった為諦めたが、振り返ってカメラの望遠で何とか確認できたのであった。写真中央の2本の石碑が供養塔。更に安倍川橋を進む。下流側。流れが全く確認できず。上流側も同様に。上流左に見える山。この裏を流れているのが藁科川で安倍川に流れ込んでいるのである。『東海道五十三次之内 府中 安部川 / 歌川 広重』。「駿河の国府の府中は現在の静岡市であり、安倍川の川辺にある。山を背景に川を広く描き、川渡りの様子がよくわかるように描かれている。輦台渡しや駕籠に乗った女性、肩車で渡る姉さんかぶりの女性、荷をつけた馬を引く人足(にんそく)などを丹念に描き分けています。女性の旅人の緊張感も表現されている。」山の姿が、上の写真にそっくり!!広重もこの方向からの安倍川の川渡りを描いたのであろう。輦台に乗せた駕籠に乗る女性が人夫を振り返り「大丈夫?チャント渡してよ!!」と。この女性は人夫にオンブされて。この日の安倍川はひたすら砂利の世界。実は今年の1月下旬?のニュースで、安倍川では雨の少ない状況が続いたため、水の流れが途切れる「瀬切れ」⬅リンク が発生しているとの報道があったことを想いだしたのであった。砂利の採石場にもなっているのであろうか?そして下流側には新幹線の姿が。そして安倍川橋を渡り終わる直前で、川の流れを発見したのであった。これも春になり雪解けが進んだためなのであろうか。安倍川を渡り終わり振り返る。『千手(せんじゅ)の里 手越(てごし)』案内ボード。『千手』とは千手の前(せんじゅのまえ、永万元年(1165年) - 文治4年(1188年))で平安時代末期の女性。『平家物語』によると駿河国手越長者の娘。源頼朝の妻北条政子に侍する。寿永三年(1184)捕らえられ鎌倉に送られた平重衡は身柄を狩野宗茂に預けられたが、身の回りの世話をしたのが千手前であったと。ただし『平家物語』や『吾妻鏡』は捏造部分も多いため実在については怪しまれていると。手越地区の『史蹟案内』。現国道1号線の手越原東交差点を通過。道路脇の表示。R1は国道1号線、数字184.258は日本橋からの距離であろうか?旧東海道を離れ、JR安倍川駅に向かう。東海道新幹線のガードを潜る。JR東海道線沿いに安倍川駅に向かう。そしてエスカレーターで改札口に。橋上駅から藤枝方面を。そして安倍川駅から帰路に。JR東海の『休日乗り放題きっぷ』。熱海~豊橋間で利用可能と。我々が使うコストメリットはあるや?安倍川は『あべかわ』であり『あべがわ』ではなかった。そして17:29発の電車で熱海駅に向かったのであった。この日の自宅からの『歩数』です。40,000歩超え、頑張りました。 その11 に戻る。 ・・・完・・・
2019.05.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に磐田市見付の見付宿場通りを歩く。見付十七小路『北井上小路』。「旧地名の見付町北井上が小路名称の由来です。現在では小路の面影はなく、中央幹線(県道横川ー磐田線)として東名高速道路へのアクセス道路になっています」『遠州見付宿 本陣跡』旧見付学校を目指して右折。左手前方に美しい姿の旧見付学校が姿を表した。まずは最初に隣りにある『遠江總社 淡海國玉神社(おおみくにたまじんじゃ)』を訪ねた。見付宿の中央に位置することから「中の宮」とも呼ばれていると。鳥居の扁額には『總社大神』と。平安時代、見附に国府があったときの遠江国総社。拝殿と幣殿は文久年間の再建。幣殿は三棟入母屋造りで、本殿は明暦2年(1656)再建で三間社流造。主祭神は大国主命ですが、多くの神々(十五柱)を相殿に祀っています。山門。拝殿。左甚五郎の流れをくむ立川流の建築士「昌敬」の遺作として有名で、特に「子持ち龍」「ふり向き獅子」「十二支」の彫物が見事です。また、遠江国の「総社」として多くの方々が参拝に訪れると。拝殿前の石像が狛犬でなく、主神が大国主命なので兎。見付天神祭では神輿がここに渡御します。境内の桜。『淡海国玉神社』案内板。そして境内を戻り『旧見付学校』を訪ねた。旧東海道とは歴史が異なるが磐田市の観光名所の『旧見付学校』。旧見付学校は明治5年(西暦1872年)の学制発布を受け、翌年8月に宣光寺、省光寺などを仮校舎として開校したと。『旧見付学校』。「「旧見付学校」は、明治五年(1872)の学制発布後まもない明治8年(1875)8月7日に落成した。現存する日本最古の擬洋風木造小学校の校舎です。当初は4階建てでしたが、就学児童の増加に伴い、明治16年(1883)に3階部分を増築し、今の5階建てとなりました。5階は太鼓楼で、早朝の登校の合図や正午の時報が打ち鳴らされていたといわれています。見付学校は大正11年(1922)3月に閉校し、小学校としての役割を終えましたが、その後は裁縫女学校や教員養成所、病院等、さまざまな施設として利用されました。昭和44年(1969)に、北側にある磐田文庫とともに国指定史跡となり、現在は教育関係の史料等を展示しています。」『入館案内』。入館料は無料であり月曜日が休館日。『史跡旧見付学校』「見付学校を第12中学区内第1番小学校にと地元の熱意で、明治7年堂宮棟梁伊藤平右衛門の設計で着手、翌8年に開校しました。 基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12間・奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2層の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付き窓の日本最古の現存木造洋風校舎です。 明治16年に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になりました。」エントランス。入口が男女別に2つあったのだと。初代浜松県令の林厚徳から贈られた扁額であるとのこと。『木縄受即直金礪就則利』木縄(きなわ)を受くれば則ち直く(なおく)、金礪(きんれい)に就けば(つけば)則ち利し(するどし)。中国の「荀子」(じゅんし)勧学編の文中の一説で、「曲がった木も墨縄を当てて切ればまっすぐに切れ、金物も砥石で磨けば切れるようになる」という意味教育の重要性、方法論を説いているのであろうか。『見付の街をめぐる風物詩』。『見付学校開設当時の状況』。明治時代の職員室であると。校長の姿であろうか。旧見付学校教室内部を再現。教室は文房具も含め再現されています。各自の机に小さな黒板が帳面替わりに?。『いろは図』。『いろは図 基の漢字』。再勉強しました。国内にある、明治の学校建築の紹介。中央に旧見付学校。マスコミにも何回か登場したと。サザエさんにも。旧中学校を描いた水彩画。係の方に最上階・5階から順にと。最上階『5階は太鼓楼です』。太鼓当番の上級生が叩いていたと。4階には伝酒井の太鼓が。開校当時は最上階に「伝酒井の太鼓」が置かれ、時を告げていたのだと。伝酒井の太鼓とは、三方原の合戦の際に浜松城で酒井忠次が打ち鳴らしたと伝えられる太鼓と。先程訪ねた愛宕神社をズームで。先程訪れた『遠江總社 淡海國玉神社』も。2階の展示は、民族資料館という感じ。縄なえ機が展示そして縄の加工具や仕上げ品も。多くの農機具も。台所や囲炉裏の姿も。勉強机は親から子へ、兄弟、姉妹へと受け続かれたものだそうです。机以外に蓄音機、火鉢、草履等の懐かしい品物がたくさん展示されていた。当時の子供達の着物姿も紹介。見付宿の古地図も。 その9 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.30
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8月1日のNHKのニュースで、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れるユダヤ人のために、本国日本の指示に背いてビザを発給した杉原千畝の命日に合わせ、功績を紹介する特別展が31日から都内で始まったと。杉原千畝は第2次世界大戦中、ナチス・ドイツの脅威にさらされていたリトアニアに駐在する外交官として、迫害から逃れるユダヤ人のために当時ドイツと同盟を結ぶ直前だった日本政府の指示に背いてビザを発給し、およそ6000人の命を救ったとされています。7月31日は33年前に亡くなった杉原千畝の命日で、これに合わせ東京・中央区の博物館では、杉原のゆかりの品や、同じようにユダヤ人を救うために奔走した各国の外交官の功績を紹介する特別展が開かれていると。この日8月3日は、佐倉で開かれる花火大会に向かうので、早めに家を出て、東京駅で途中下車し、八重洲南口に向かったのであった。八重洲南口のJR長距離バスターミナル。JR高速バスのりばの案内。数寄屋橋方面に歩を進める。東京都道405号外濠環状線の先に東京・八重洲ブックセンターが。スーパーゼネコンのリーディングカンパニー鹿島建設本社跡地に建設された書店。当時の社長鹿島守之助が日本最大の書店を作ろうと鶴の一声で誕生したのであると。横断歩道を渡り、東京駅南口方面を振り返る。グランルーフ=大屋根が見えた。東京駅のノースタワー棟とサウスタワー棟をつなぐ渡り廊下で張り出した屋根を「帆」と表現しているのだと。東京・八重洲ブックセンターの入口横の二宮金次郎像。1978年、JR東京駅八重洲南口に開業した大型書店の入口にある金箔で覆われた銅像。1991年6月設置。台座プレートには、「勤勉にして片時も本を手離さなかった二宮金次郎こそは、真に理想の読書人である。」という株式会社八重洲ブックセンター会長河村金次郎氏の言葉が刻まれていた。そしてブックセンターの横の道を奥に進むと正面には京橋トラストタワーが。『京橋エドグラン』。そして柳通り沿いににあったのが『杉原千畝 SEMPO Museum』が開かれていた相模ビル。相模ビルの入口には『杉原千畝 SEMPO Museum』のプレートが。ドアを開けると杉原千畝の写真が迎えてくれた。会場は2階とのことで階段を上がる。2階会場入り口の写真。『任務を終えて 諸国民の中の正義の人として表彰された外交官ホロコーストと正義の外交官 特別展』。7月31日~9月1日の1ヶ月間の開催であった。チケット代500円を払い、パンフレットを頂き入場。『SEMPO MUSEUM』の文字が。開催会場は、中央区八重洲2丁目7-9 相模ビル2階。「杉浦千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスでナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6000人のユダヤ人民を救った。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫を合わせて現在25万人以上に及ぶと言われ、世界各国で活躍している。海外では、チウネ・センポ・スギハラとも呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばれた理由は「ちうね」という発音が難しく杉原自身がユダヤ人に「センポ」呼ばせたとされている。」杉原千畝(すぎはらちうね)は第二時世界大戦中にリトアニアで外交官として多くのユダヤ系難民を救った人物。「東洋のシンドラー」とも称されている。「1900年1月1日」に生まれて、「1986年7月31日」に逝去された。現在の岐阜県美濃市に生まれ。父親は税務官で、その仕事の都合で、幼い頃は様々な土地を転勤する生活を送った。その後、早稲田大学へと進学。しかし親の希望に反しての進学だったため、学費が続かず中退することに。その時に、外務省の留学生の試験があることを知り、受験、合格した。留学生として、ロシア語を学び、中華民国、ハルビン総領事館などを経て、満洲の外務事務官となった。そこで、ロシア語のスキルを活かして、ロシアとの交渉を担当。1937年に、フィンランドのヘルシンキの日本領事館、1939年には、リトアニアのカウナス日本領事館へ赴任した。カウナスに赴任したのは、「1939年8月末」のことであった。赴任直後の「1939年9月1日」、ナチスドイツがポーランドの西側に侵攻し、第二次世界大戦が勃発。この時、ナチスドイツとソビエト連邦はこっそり不可侵条約を結んでおり、直後にポーランドの東側にはソビエト連邦が侵攻を開始した。リトアニアを始めとするバルト三国は、ソビエト連邦と相互に援助するという関係で、ソビエト連邦軍の駐屯だけは認めていたが、中立の立場であった。ナチスドイツはユダヤ人を迫害していた。そのため、ポーランドを追われたユダヤ人たちが隣国で中立の立場のリトアニアに殺到することとなったのであった。そんな状況下の「1940年6月」に状況が一変した。ソビエト連邦は相互に援助するという約束を破り、リトアニアに侵攻。中立の立場だったリトアニアは、ソビエト連邦に併合されることになった。この時に、リトアニアに避難していたユダヤ人たちが、併合される前に日本を通して他の国に逃れようと、領事館にビザの発行を求めて押しかけてくる事態に陥ったのだ。そのほとんどの避難民が、政府の定める外国人入国令による通過ビザの要件を満たしていなかった。彼は、人道的な観点から、ビザの発給を認めるよう日本本国へ打診をしたが、認められなかった。「本国の規律」と「人道的な立場」で葛藤し、彼は、ビザを発給することを選んだのであった。戦争の拡大により、領事館からの退去も決まっていましたが、その直前までビザを発給し続けた。その結果、「6000人」ものユダヤ系の人々を救うことになった。戦後、日本へと帰国した彼を待っていたのは、無断でビザを発給したことへの退職通告であった。彼の行動が知られるようになるのは、1969年のことであった。彼のビザにより命を救われたイスラエルの政府高官が、人道的な観点から独断でビザを発給した経緯を知り、その行為を賞賛、イスラエルで表彰された。これにより、彼の行動が広く世間に知られることとなったのであった。日本で彼の名誉が政府により正式に回復されるのは、更に月日を経た2000年のこと。彼の発給したビザは、現在では「命のビザ」と呼ばれている。葛藤の後に、「命のビザ」の発給を宣言したのが「1940年7月29日」だったと。その直後の「1940年8月3日」にリトアニアはソビエト連邦に併合されてしまった。すぐに日本やソビエト連政から退去命令が出たが、無視し、自身が退去する「8月末」までビザを発給し続けたのであった。正面のテレビ画面では杉原千畝の生涯、足跡がビデオで紹介されていた。以下の写真は、『杉原千畝Sempo Museum』👈リンク のホームページから転載させて頂きました。「米IT大手グーグルは7月29日、検索画面トップのロゴマークに日本の外交官、杉原千畝(1900〜86年)をあしらった1日限定の記念デザインを採用した。この日は、40年にリトアニアで領事をしていた杉原が本国の方針に反してユダヤ難民に日本通過ビザの大量発給を決断した日とされ、ナチスドイツの迫害から多くのユダヤ人を救った杉原の行為をたたえたものだ。グーグル本社が作成した今回の記念ロゴは、見開きのパスポートに杉原の顔が描かれたデザインで、「Google」の文字の部分がビザのスタンプ風になっている。また人の形が多く描かれ、杉原が出した「命のビザ」で救われた数千人のユダヤ人を表現している。」と。右下には「LITHUANIA:リトアニア」の文字が記載されていた。イスラエル、ポーランドなどから贈られたメダルや勲章など貴重な品の数々を展示されていた。カウナス(KAUNAS)に赴任したのは、「1939年8月末」。命のビザが発給されたパスポート。杉原千畝略年譜。約6000人の「命のビザ」・「杉原リスト」。「決断のスタンプ」が置かれた机が正面右に置かれていた。「決断のスタンプ」。以上の写真は『杉原千畝Sempo Museum』👈リンク から転載させていただきました。この日の記念に「決断のスタンプ」を頂いたパンフレットに押しました。記念にクリアーファイルを購入しました。ミュージカル『SEMPO』-日本のシンドラー杉原千畝物語 の再公演の予定はあるのだろうか?そして、バルト3国のリトアニアの元日本国在カウナス領事館、現杉原千畝記念館を私が訪ねたのは、2017年4月22日👈リンク。以下の写真は、当時の私がリトアニアの元日本国在カウナス領事館、現杉原千畝記念館で撮った写真です。正門には「希望の門 命のヴィザ」 の文字が。『元日本国在カウナス領事館、現杉原千畝記念館』入口。正面の窓が当時の執務室。門の前に集まるユダヤ人に次々にビザを発給していたと言われているのだ。リトアニア日本領事館前でビザ発給を求めるユダヤ人 1940年7月。「命のビザ」を発行した机。杉原千畝の家族の写真。左から(敬称略)奥様・杉原幸子、長男(弘樹)、次男(千暁)、杉原千畝、奥様の妹(菊池節子)。元日本国在カウナス領事館で働いていた人々と杉原千畝の家族の写真。杉原千畝が領事館から退避し、自ら列車にてリトアニアを避難する寸前に滞在していたホテルこそが、このホテル・メトロポリス。このホテルでもひたすら最後まで通過ビザを書き続けていたと言われる歴史を作ったホテル。プレートには1940年8月28日~9月4日まで滞在し、「命のビザ」を発給し続けたと。そしてカウナスの中心部で、今も当時のままに営業を続けていたのであった。リトアニアの首都ヴィリニウスにも杉原千畝の記念碑が建っていた。更に岐阜県八百津町にある「杉原千畝記念館」👈リンク を訪ねたのは2017年11月23日。こちらは杉浦千畝氏の生まれ故郷なのであった。ここでも入場券(パスポート)に「決断のスタンプ」を押したのであった。そして今年2019年6月20日に訪れたハルビン(哈尔滨)の『旧日本総領事館跡』杉原千畝は外務省に採用され、ハルピンの日本総領事館にロシア係として勤務していたのはこの場所であったと。そしてウィキペディアより『杉原千畝 語録』です。・「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」。・「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。 しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」。・”Vaya con Dios!"-- 千畝の激励としてソリー・ガノールが記憶している言葉。・「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、 みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません・・・。 では、お元気で、幸運をいのります」 --ビザ発給の際にある難民にかけた 千畝の励ましの言葉。・「全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、 旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわない とでもいうのか? それがはたして国益に叶うことだというのか?」・「新聞やテレビで騒がれるようなことではない」・大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。・「難民たちには、男性だけでなく、女性や老人、子供までいた。みな明らかに 疲労困憊している様子だった」。・「あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、 だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ。」-- モシェ・ズプニックが聞いた言葉。本国の考えに背き、また困難な状況であっても力の限りビザを発給し、ユダヤ人を救おうとした杉原千畝の勇気と人道性は、日本人として、「感謝」 「感動」「感銘」 「感服」 「敬服」。皆さん、一度訪ねてみてください。
2019.08.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『法蔵寺』の参道を進む。境内入口から本殿までまっすぐ参道が伸びていた。『法蔵寺』。「浄土宗西山深草派の三河三檀林のひとつ。二村山と号し、本尊は阿弥陀如来像。寺伝では行基と空海の伝承があり、二村山出生寺と称し、古くは法相宗、真言宗であったと伝える。至徳2年(1385)京都円福寺より来往した教空龍芸が浄土宗に改宗し、その時法蔵寺と改められた。江戸時代には、東海道に接していることから、参拝者も多く、かつ、幕府の庇護も厚かったため、大いに権勢をふるった寺であった。家康が幼児この寺で勉学したとされ徳川家ゆかりの宝物が多く残されている。以下略」『岡崎観光きらり百選 No26 法善寺』の看板。「大宝元(701)年、僧行基の開山と伝えられ、松平初代親氏が深く帰依して、嘉慶元(1387)年に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺としたと言われています。家康が幼いころ、手習いや漢籍を学んだとされ、数々の遺品が現存しています。桶狭間の合戦以後、家康は法蔵寺に守護不入の特権を与えるなど優遇しました。また、境内には新撰組で有名な、近藤勇の首塚も祀られています。」『掲示板』。朱の欄干の橋の下を『鉢地川』が流れる。橋の名は『来迎橋』。『来迎橋』手前左の石碑には浄土宗の『南無阿弥陀仏』?と刻まれていた。『来迎橋』を渡りながら『鉢地川』を見る。正面に『山門』、左手に宝形造の『地蔵堂』が。『地蔵菩薩像』か?『山門』貫まで袖壁が設けられた薬医門の山門。門を車で通り抜けできるという事は、今まで見てきた薬医門の山門の中では規模が大きい山門。山門には『浄土宗西山深草派 檀林 大神光 二村山 法蔵寺』と。『法蔵寺』の『山門』には狛犬の彫刻が掲げられていた。山門を超えて石段の参道が続く『二村山 勝徳寺』の山門が右手に。「三河新四国霊場三十六番札所」の幟が立っていた。『二村山 勝徳寺』本堂。『賀勝水』。徳勝寺の対面にあり、竹千代が手習いの際にここから水を汲んだといわれいる『賀勝水』と呼ばれる湧き水とのこと。寺伝では日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で天照大神ら諸神を勧請して東夷征伐を祈願し、その效験(霊験の徴)を見せ給えと念じて巌を突くと冷泉が湧き出したので勝利の祥瑞として日本武尊は「賀勝ゝ」と三度唱えたと伝わる と。『ムラサキツユクサ(紫露草)』であろうか。階段上の『鐘楼門』を見上げる。ここ法蔵寺には、三河海岸大師霊場を巡礼するとよく見かけるという一間鐘楼門が石段を上がった先に建てられていた。『本堂』。入母屋造瓦葺平入の向拝が設けられた本堂。高覧のある濡れ縁も設けられていた。また、向拝が三間幅(柱が四本)と広く設けられている本堂。『本堂』に近寄って。『本堂』内部は色彩豊かに。御本尊『阿弥陀如来像』。『本堂』前から『鐘楼門』を見る。『法蔵寺境内案内図』本堂左手の入母屋造妻入りの『太子堂』。三河三十三観音霊場十二番礼所 法蔵寺。『太子堂』の裏には『六角堂』が。大宝二年、行基がこの地を訪れた時、輝く杉の大木を見つけたという。すると突然現れた瞳子に「ここは釈迦如来降臨度生の霊山で、この杉は日本武尊が諸神を勧請した際に一夜で生まれた霊木です。この木で観音像をつくりなさい」と啓示を授かり、行基は童子(実は救世菩薩の化身)と共に長さ三尺三寸の正観音(聖観世音)像を彫刻し、山上に六角堂を建てて安置したと。現在の六角堂は、山頂にあった六角堂が大風により倒壊してしまった為、本堂脇に移築再建したもの。『新選組隊長 近藤勇首塚』と書かれた真新しい立て札が。『近藤勇』像。そして首塚台座になっている石に刻まれた氏名、建立の年のところだけ、判読出来ない。土方歳三 戸村静一郎 小笠原新太郎 内田良太郎 鈴木万之助 佐藤善二郎 鈴木源兵衛 菰田幸之助 松下信三郎 市原鐘太郎 太田政一郎 世話人 清水三右エ門、堀川廉之助慶応?年 建立者 内山勝行『近藤勇首塚の由来』。「新撰組隊長近藤勇は、慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五才で東京都板橋の刑場の露と消えました。刑後、近親者が、埋められた、勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。また、勇の首は、処刑後、塩漬にして京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同士が三晩目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。しかし、和尚は、その半年前から、三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏の様にして沓華していました。そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果埋葬の由来が明らかになりました。今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにいたしたのであります。」なんとか読み切り書き込みました。更に坂道を登っていくと見えてきたのが『東照宮』、そして手前には『三方ヶ原合戦忠死者の墓』が。『松平家御霊廟と三方ヶ原合戦忠死者の墓』。『松平家御廟』家康公が父の廣忠公(慈光院)をここに内葬し、のちに大樹寺に本葬。また、家康公により三方ヶ原の戦いの戦没者もここに祀られている中央の松平廣忠公の五輪塔の墓を中心に松平氏の墓が並んでいた。亀姫(加納御前。家康の長女)の墓。永禄3年生。母は築山御前。天正4年7月奥平信昌に嫁ぐ。寛永2年(1625)5月27日に夫の領地の美濃加納(岐阜県岐阜市)で逝去。誠徳院。徳川家康が九死に一生を得た戦いの一つとされる三方ヶ原の戦いで戦死した武将の墓も名前が添えられて。『東照宮』徳川家ゆかりの東照宮や寺院といえば朱塗りの建物に色鮮やかな彫り物達が想像するが、ここ法蔵寺内の東照宮もまさにそんな感じの建物であった。入母屋造の大屋根に切妻破風が設けられ、さらに向拝が設けられており、その向拝の屋根には唐破風が設けられるという、屋根装飾がこれでもかと取り入れられた本殿。『法蔵寺山内 東照宮』。「■由緒寺伝 御太祖源頼義公 御父子勅命東國御下向の節富山に御参詣有 御子義家公(號 八幡太郎) 両度の御下向御参詣 戦勝御謝恩の為 難事闘戦御勝利の御甲冑御供養の御儀奉る 始祖松平親氏公 三河渡御の折御武運御勝利を御祈願 御手自ら 正八幡之神像を御彫刻 當寺に御宮を御建立され 義家公御甲冑と 御神像を御宮に御遷座奉り 松平御當家の守護神とされた 松平元康(後の家康公)岡崎ご在城の砌 所々ご出陣の節は勿論 平日共に御開運御祈祷を仰付の為 當寺教翁洞恵上人弟子の教山坊 に命じ 元康様初陣御甲冑の御木像を彫刻安置 御供養の御神体は 御相宮にて御遷座 臨時長日共御後裔様御治国平天下の御祈願奉る 御宮は変遷を重ね のち「東照宮」と改められ現在に至る■本殿入母屋 銅板莓 唐破風 極彩色文政 三年(1820)修覆される文政 四年(1821)御遷座平成十一年(1999)大修覆された神前寶鈴「東照宮 元禄元年(1688)」の銘がある神前實鈴が現存する元禄期 御宮は既にこの地に遷座していた神額文政十二年(1829)旗本柴田氏 本宿陣屋代官富田群蔵常業の 願いにより 神祇伯白川雅寿王の染筆である■旗本と御鏡講文化十二年(1815)旗本石川左近衛将監忠房 御宮荒廃を慨嘆 修覆基金「御鏡講」旗本有志の賛同を得て設立する神前には旗本大御番組寄進の奉献石造物が数多く現存している」法蔵寺境内を望む。手前に本堂と回廊で繋がっている『六角堂』が。『東照宮』への階段を振り返る。階段下の鐘楼を入れて。『太子堂』、『六角堂』の屋根越しに『東照宮』を見る。天然記念物 『法蔵寺のイヌマキ』根元近くの幹には、腐朽により空洞があり、年代の古さを物語る。下枝は横に長く伸び、樹冠の拡がりなど自然の樹姿で。『岡崎市指定文化財 天然記念物 法蔵寺のイヌマキ』樹齢1200年、樹高13.0m、幹周2.6m、根周4.0m、枝張り15.0m。行基菩薩が当寺を開創した際に植えたといわれ「行基の開山槙」と称されている。御朱印を頂きに『納経所』へ。『納経所』内部。『納経所』の天井の丸太梁材に歴史を感じるのであった。御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.29
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6月12日(金)に旅友Sさんを誘って熱海海岸のジャカランダを愛でに行って来ました。数日前にテレビのニュースで、満開に近いと知ったのでした。6:30にSさんの愛車で熱海に向けて出発。前日の雨もなんとか上がり、富士山の姿も。西湘バイパスを進む。相模湾上空の雲。西湘バイパス、小田原市・御幸の浜近く。そして早川出口から一般道へ。手前に新早川橋が姿を表した。国道135号線を進む。前方左手に真鶴半島、そして三ッ石の姿も。「都道府県をまたぐ移動は慎重に」との表示が。途中県道740号線に入り真鶴駅横を通過。そして熱海城が姿を表す。ショウワパーク熱海に駐車しジャカランダを愛でに。熱海のマンション群、正面にゼファー熱海ビーチタワーが。ジョナサン前のジャカランダの花。ジャカランダ(Jacaranda)の花はノウゼンカズラ科。カエンボク(火炎木)、ホウオウボク(鳳凰木)と並んでシウンボク(紫雲木)と呼ばれ、世界三大花木のひとつとされているジャカランダ。自生地では10mを超す高木になるのだ。花一つ一つをよく見ると、なるほどノウゼンカズラの花に似ている。花径5㎝くらいの釣鐘状の花を枝の先に塊のように咲かせるので、遠くから見ても存在感がある。ジャカランダの木は枝を横に広げる樹形なので、高木の枝いっぱいに青紫色の花をいっぱいに咲かせる姿は息を飲むほどの美しさになるのだと。昨年訪ねたポルトガルでは、初夏になると青紫のジャガランダで街が紫一色に染まるのだと。さしずめ紫の桜といったところ。ポルトガルではジャカランダの紫色の花が満開になる頃はちょうどイワシ祭りというお祭りの時期。賑やかなイワシ祭りと、ジャカランダの満開の花を見る為に海外からもたくさんの人が訪れるのであるというが今年は??。こちらが、南アフリカの首都・プレトリアのジャカランタの並木。熱海のジャカランダは、残念がら花のボリュームより葉のボリュームが多いのだが。これも天候、土地の質等が微妙に影響するのであろう。 前日の強風で花は落ちて。こちらは比較的花のボリュームが多いジャカランダ。「ジャカランダ世界三大花木(カエンボク・ホウオウボク・ジャカランダ)の一つで、いまでは熱海の初夏を告げる花となりました。街路樹がジャカランダなのは温暖な熱海だからこそ、本州では珍しい風景です。また、ジャカランダの日本での認知度は、海外のリゾート地への渡航者増加に伴って広がりつつあります。熱海での開花は折しも傘の花開く梅雨のシーズン。ラッパの形をした小さな青紫色の花がブーケのように熱海の梅雨空を彩ります。」ラッパの形をした小さな青紫色の花。こちらは、ブットレア・ブラックナイト。蝶やミツバチの集まることでよく知られた花木。こちらは、ブラシの木。再びジャカランダの花をカメラで追う。ジャカランダは、樹木が大きく生長しないと花が咲かないのだと。樹木が生長するには温度と日照等の必要条件があり、日本では冬を越せず生長できないので、開花が難しいと言われていたのであったが。ポルトガルのジャカランダは、ポルトガル人が大航海時代にブラジルから持ち帰ったものだと。緑豊かな南米の国で霞むように咲き誇るジャカランダの花は、ポルトガル人たちの心を癒したのだと。ポルトガルはヨーロッパの最西端に位置するため、夏はとても暑くなるのだ。よってブラジルから持ち帰ったジャカランダがそのまま育ったのだ。緑の芝生に花びらが散って。熱海市の汚水マンホール。明治時代に熱海温泉を一躍有名にした尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の名場面と「お宮の松」、そして背景の夜空には「花火」を図案化したもの。葉は鳥の羽のように繊細で細かく、非常にやわらかな感じが。ジャカランダとブーゲンビリアのコラボ。青紫というよりは藤色か。「カスカイス市・熱海市 国際姉妹都市提携紀念樹木」。カスカイス市は、ポルトガルのリスボン県の都市。市内には、国際的なリゾート地であるエストリルを含む。 また、ユーラシア大陸最西端のロカ岬へのバスがここから発着しているのだと。お宮緑地のこのジャカランダは平成2年7月にポルトガルのカスカイス市と国際姉妹都市提携を記念して植樹された木であるのだ。ひとつの花房に50~90コの花を付けるのだと。陽光があれば藤色が更に神秘的に輝くこと間違いなし。こちらはカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)。「熱海八景画家、山本光一は、天保13年(1842)江戸下谷に生まれた。名は信教。明治36年(190)10月6日、61歳で没した。墓は臨済宗南禅寺派の月州寺(東京都台東区竜泉2丁目2-15)にある。山本家は代々江戸で儒学を教授していたが父素堂は二男で画もまたよくし、生涯を画家として終えた。光一の兄、学半も画家を志した。評価は2人とも不明である。光一は熱海の風土が好きだったにちがいない。度々来遊して、明治21年には「熱海梅園之図」と「改正熱海市全図」を、翌22年には「伊豆の浦づたい」と第する絵入りの和綴本を刊行し、熱海の紹介に努めている。「この熱海八景色紙」は明治21年の刊。八景とは、かって成島柳北(1837~1884)が選んで話題となっていた景勝の地8ヵ所、すなわち梅園の春暁、来宮の杜鶘、温泉寺の古松、横磯の晩涼、初島の漁火、錦浦の秋月、魚見崎の帰帆、和田山の暮雪を、版画にしのであろう。現今の風景と比べて興味津々たるものがある。今を去90余年前の熱海である。」「サンゴシトウ」。サンゴシトウはオーストラリアのシドニー植物園で、アメリカデイゴと北アメリカ原産のヘルバケア(Erythrina herbacae)を交配して作られた園芸種です。 アメリカデイゴと間違われることがありますが、別名をヒシバデイゴというように葉の形が菱形に近いことと、アメリカデイゴと異なり、サンゴシトウの旗弁は完全に開かずに花が筒状になることで見分けられます とネットから。この花の蕾はキング・プロテア(King protea) 。プロテア(Protea) とは、花の王様と賞賛される南国のヤマモガシ目ヤマモガシ科プロテア属の常緑低木です。 花色や形、大きさ、感触、光沢などが異なる多数の種類があります。 中でも、このキング・プロテア(King protea) は、代表的な品種とされ、 南アフリカ共和国の国花ともなっています。 熱帯植物なので日本では高価な花でありあまり生花では使われませんが、 ハワイではホテルやレストランのフラワーアレンジメントの花材としてふんだんに使われています。とこれもネット情報から。キング・プロテア 説明板。そして「貫一・お宮の像」に到着。「尾崎紅葉記念碑」。「紅葉山人記念 金色夜叉の碑」「宮に似た うしろ姿や 春の月 風葉」。「「お宮の松」の由来。お宮の松は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し、命名されたものである。この松は、江戸時代前期(1645年頃)、智恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松の一本といわれている。この松は、その姿が美しかったことから、「羽衣の松」とも呼ばれていた。1897(明治30)年から読売新聞に連載された「金色夜叉」により、熱海海岸の場が登場したことから人気を集め、また、演歌師のつくった「金色夜叉の歌」が流行し、熱海温泉の名は一躍脚光を浴び、天下の熱海温泉を不動としたものである。このことから、1919(大正8)年熱海に別荘を持っていた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に「金色夜叉」の碑が建立された。この碑には、紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」が刻まれ、羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となった。 また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可憐な女の後姿に似た記念碑」と認めている。1949(昭和24)年、キティ台風により道路が崩壊されたことにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう「お宮の松」は枯れだした。(初代「お宮の松」の樹齢はおよそ300年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約2メートルの場所にあった)。市では、市民皆様の協力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めた。その結果、50数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏により寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大な協力により、1966(昭和41)年現在の場所に二代目「お宮の松」として完成したものである。「お宮の松」の樹齢は、2001(平成13)年現在でおよそ95年、添松はおよそ75年になる。」再び「貫一・お宮の像」とその後ろに熱海城。「熱海城」をズームで。「お宮の松」。「初代のお宮の松」。現在のお宮の松は昭和41年に植えられた2代目で、初代は排気ガスの影響などで枯れてしまったとのこと。2代目の脇に展示されている初代の切り株をみると相当大きな松の木だったことが分かるのであった。 ・・・つづく・・・
2020.06.17
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「宗川寺」を後にして寺の横の「橋戸197号線」を北上する。直ぐ右手、石段の上ににあったのが「新道稲荷神社」。横浜市瀬谷区北新26-20付近。石段の途中から「社殿」を見る。住所は北新(きたしん)であるが、名前には「新道」と近くの地名が。北新は、「昭和57年の 町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は、「北村」、「新道」の字名があり、 通称の「北新」を地元の要望により採った」と。昭和14年に瀬谷村が横浜市に編入合併され戸塚区の一部となり 昭和44年に旧村域が瀬谷区に分区しているようであった。「内陣」。そして更に進むと民家の塀に濃いピンクの「アセビ」の花。更に住宅街を北上する。「左馬神社」の手前の三叉路の中央が三角形状のロータリーの如くになっており、そこには石碑が並んでいた。瀬谷区橋戸3-20-6付近。向かって左から、石祠、庚申塔、地神塔、道祖神の4基。一番左の「石祠」。「青面金剛刻像」。上部に梵字。青面金剛が餓鬼をふみつけ、その下に三猿。元禄十年(1697年)と古い建立。「文字型地神塔」。明治四十三年(1910年)の文字が。「文字型道祖神」。明治四十四年(1911年)四月建立。左側面には「橋戸講中」と刻まれていた。その先に「瀬谷左馬神社」の石鳥居が。大正七年九月十日 建立と刻まれていた。横浜市瀬谷区橋戸3丁目20-1。扁額は朱の文字で「左馬社」と。「鐘楼」。「梵鐘」。「左馬社と梵鐘その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民族信仰が盛んでした。(七サバ参り)当左馬社は、「七サバ神社」と呼ばれるうちの一つであり、祭神は佐馬頭源義朝です。隣接の真言宗西福寺が、この社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことです。梵鐘は江戸時代の文久元年(1861年)に鋳造されましたが、太平洋戦争の際供出したため、昭和32年(1957年)氏子の協力によって新たに現在の鐘がつくられました。」「神輿舎」。「手水舎」。「神楽殿」。「社務所」。狛犬・阿形像(右)。狛犬・吽形像(左)。そして「拝殿」。扁額「左馬神社」。「内陣」。「境内社」の石鳥居。境内社(右から豊受大神、稲荷社、天満宮、古峯神社)。豊受大神。稲荷社。瀬谷天満宮。古峯神社。新しい石の方に「文塚」と。「文塚」とは詩文などの草稿を埋めて供養や記念のために建てた塚とネットにはあるが。そして次の目的地「西福寺」に向けて進む。満開のこの桜の種類は?既に散り始めていたが。椿の花も豪華に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.19
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「瀬谷左馬神社」を後にし、北側近くにあった「西福寺」を訪ねた。「西福寺」参道入口より境内に入る。横浜市瀬谷区橋戸3丁目21-2。「西福寺」と刻まれた石碑。「横浜瀬谷 八福神 西福寺 布袋尊」と書かれた幟が。この石碑の文字は?「花下祖神現手身 水透尊者匿頭御」ではないかと先生より。左手に「六地蔵尊」。その横に「子育地蔵尊」。「六地蔵尊」を正面近くから。宝永4年( 1707 )の富士山大噴火の災害供養のため、宝永7年(1710 )に建てられたといわれ、身代わり地蔵尊として信仰された。前面の六地蔵像は昭和51年( 1976 )に奉納された。後ろには、お顔のない先代の?六地蔵様が並んでいた。「・自利利他の精神とは、利は仕合せという意味とされ相手の幸せを思いやるままが自分の 幸せとなるというそれが大乗仏教の理想とされています。 おもいやりがめぐってゆきますように。 ・あなたにも私にもありがとう ・信じて行けばあなただけの道となる。 ・疲れたら休め平常心が戻るから ・今月の花 匂い椿:港の曙(みなとのあけぼの)」「本堂」。猿王山本性院西福寺、本尊は不動明王、真言宗豊山派で奈良県の長谷寺の末寺。記録によると、善海和尚が天文3年(1534 )に創建、中興開山は江戸時代初期「円仲和尚たち」と伝えられています。関東大震災で倒壊した本堂は昭和5年(1930 )に新築、昭和57年(1982 )に増改築が行われて現在に至っています。かつては、極楽浄土があるとされる西を正面として、境内の地形が扇状に広がっていたことから、西福寺と名付けられたのだと。「本堂」の扁額は「猿王山」。「内陣」。写真での「西福寺」紹介書。「本堂」前には江戸時代(明和7年)の「宝筺印塔」が。中には陀羅尼経が収めらていると。「本堂改修浄業記念」碑。「南無大師遍照金剛」 の文字と空海の姿が描かれていた。「茶筅塚」。今まで色々な塚を見たが、茶筅の塚は初めてではなかろうか。古くなり使わなくなった茶道具を供養する茶筅(ちゃせん)供養を執り行うと。「水を運び 薪をとり 湯をわかし 茶をたてて 佛にそなへ 人にもほどこし 吾ものむ」千利休の名言であると。「水を運び、薪をとってきて湯をわかし、茶をたてます。 たてた茶を仏様にお供えし、客に飲ませ、自分も飲みます。 それが茶の湯です。」と。「山王堂」。「当山鎮守 吉縁守護 山王堂」と刻まれた石碑。裏面には「さびさびと 心静もる西福寺の 千年椎のかえに 佇て生(たてば)」「山王堂」正面。「千年椎」樹齢約800年と推定される大霊木で、幹の周囲は6メートル余り、市の名木古木指定を受けている。「名木古木指定 スダジイ」。小僧さんが座っている柱には、『とわのひじりに まもられて つきぬいのちの ひとしさは みのりのさけび きよらかに すくいのみちぞ かぎりなし』と刻まれていた。「小僧さん」をズームで。「寺務所」。「さいふくじ ほてい堂」と刻まれた石碑を斜めから。「法悦も かく日當れる 花の寺」(小林三青)の句碑。「ほてい堂」を正面から。近づいて。「内陣」。背伸びをする布袋様の姿も。「布袋尊」大きなお腹に思わず顔がほこ ろんでしまう布袋様は、唐の時代に実在したお坊さんがモデルであると。福徳円満の神様。「瀬谷八福神」が描かれた絵皿。「仏足石」。「光明 真言 佛足跡」と刻まれた石碑。根府川石の自然石に刻したという「筆塚」。裏面には「ふるき筆 きりぎりすとや 成りぬらん 土の中にぞ ふみはをさめし」の舟芳自作の歌が刻されていた。「横浜市瀬谷区橋戸、閑静な住宅地の一角に樹々の美しい寺がある。天文3年(1584)に創建された猿王山本性院西福寺(現住・備前恭忍師)である。静かな参道行くと、境内中央には樹齢約八百年といわれる「千年椎」(横浜市名木古木指定)が姿を現し、幽玄な風情がただよう。本堂前には江戸時代(明和7年)の宝筺印塔があり、中には陀羅尼経が収めらている。西福寺には、参道の寺号碑をはじめ、水川舟芳揮毫の石碑が11基もあり、小林三青の句碑などとともに、「いしぶみの寺」としての風韻を漂わせる。寺の玄関には、「諸法無我」の衝立、・「愛幽棲」の扁額が飾られ、本堂や庫裏には20点を超える舟芳作品が収蔵、展示されている。本堂にある山号を刻した「猿王山」の額も舟芳の揮毫で、玄関前の庭には三連の漢字かな交じり文の「得度式記念三碑」が立てられている。本堂前には「本堂改修浄業記念碑」、「茶筅塚」。布袋堂前には、「ほてい堂碑」、「千年椎」を挟んで山王堂前には「山王堂碑」、その横の仏足石に並んで「仏足石碑」。墓地に近い裏手には、根府川石の自然石に刻した「筆塚」がある。彫りが深く「筆塚」の文字が雄渾に響く。碑陰には、「ふるき筆きりぎりすとや成りぬらん土の中にぞふみはをさめし」の舟芳自作の歌を刻している。台座を含め3 メートルを起えるこの筆塚は、舟芳書業30年、芳林書道院20周年を記念してたてられたもので、住職とともに根府川まで足を運び石を選んだと言い毎年11月3日(文化の日)に、この前で供供養のお燹き上げが挙行されている。」「西福寺」を後にして、橋戸第122号線を北西に進むと県道40号線・厚木街道の合流地点の手前の右側の高台にも神社があった。横浜市瀬谷区橋戸3丁目5-12。石鳥居の扁額「稲荷神社」。新しい小さな社殿。近づいて。そして県道40号線・厚木街道を境川方面に西に進む。そして前方に境川に架かる橋が。前方の尖塔がある建物をズームで。「末日聖徒イエス・キリスト教会日本藤沢ステーク大和ワート」。「末日聖徒イエス・キリスト教会(まつじつせいと イエス・キリストきょうかい、英: The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, 略称: LDS)は、1830年にアメリカ合衆国で宗教家ジョセフ・スミス・ジュニアによって回復されたキリスト教系の新宗教。通称のモルモン教は教典の一つである『モルモン書』に由来する。ただし教会の指導部は「モルモン教」という呼称について、信徒に対し「使用を推奨していない」」とウィキペディアより。そして「境川」を渡り再び大和市に戻った。橋の名は「境橋」と。境橋を渡り、川に沿って上流方向に進むと、「境川」のコンクリート製の堤防の擁壁には「水位計」が取り付けられていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.20
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鎌倉・円覚寺内の緑溢れる参道を奥に向かって進む。左手に石段、その先の両脇に石仏が。右手の石仏。錫杖(しゃくじょう)を持っているので「地蔵菩薩像」。左手の石仏。仏像の手の指の形・印相は、「禅定印」。境内にも様々な石仏が。奥には「やぐら」が。左手には古い建物が。ここにも塔頭があったのだろうか?しかし、案内板等はなく。更なる詳細は不明。そしてその前の参道の反対側が「法堂跡」。「法堂跡法堂とは禅宗寺院で住持が説法をする重要な場である。円覚寺法堂は北条高時公の時代、北条貞時公十三回忌にあたる元享三年(一三ニ三)に建立。「直指堂」と命名された。円覚寺が創建されてから約四十年後のことであった。鎌倉時代未期には山門、法堂はもちろんのこと、方丈・華厳塔・佛日庵なども揃い寺の諸建物がことごとく整えられた。法堂落成から応安七年(一三七四)の大火で全山が焼亡するまでの約五十年間が寺勢の最も繁栄した時期だったのである。」。「旧法堂跡地」。右手の「百観音霊場」の壁の角にあったのが「佛牙舎利塔道」と刻まれた石碑。これは「佛牙舎利塔道」、「正続院」への「道標」であろうが数箇所にあった。左手にあったのが「寿徳庵」への石段。寺号標石「寿徳庵(じゅとくあん)」。前方に「山門」が見えた。通路が開いていたので、行けるところまでと進む。「山門」。「南山」という篇額が掲げられていた。「山門」が開いていたので中に入らせてもらった。正面に「本堂」が見えた。「寿徳庵」は、円覚寺第150世・叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。墓地には中興の三浦道寸(義同)一族の墓がある。三浦道寸は1516年(永正13年)北条早雲により滅ぼされた。これにより三浦一族は400年の歴史に終止符を打ったのだ。山号:南山(なんざん)寿徳庵宗派:臨済宗・円覚寺派中興開基:三浦道寸本尊:聖観世音菩薩寺宝:木造月潭中円坐像扁額「寿徳庵」。墓地の奥には「やぐら」があった。「寺務所」であっただろうか。ここまでに訪ねて来た「円覚寺」の境内を見下ろす。朽ち果てた藁葺き屋根の建物の姿が見えた。「寿徳庵」を後にし、緑豊かな石段を下りて行く。前方に帰路に訪ねた「方丈書院」の「信徒会館(宗務本所)」の屋根が見えた。更に参道を奥に進む。左手の「やぐら」の中の石仏。秋の紅葉も見事なのである。そして右手に「方丈」の庭園が姿を現した。心字池のある美しい「方丈」の枯山水の庭園。秋にはこの様な紅葉の絶景が。 【https://4travel.jp/dm_shisetsu/11348207】より帰路に訪ねることに。左手に「大用国師塔所」の標石が立つ。「大用国師(誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)延享2年(1745年)〜文政3年(1820年))」は伊予国出身の臨済宗の僧・歌人で、無用道人と号した。香川景樹に和歌を学び、歌集「誠拙禅師集」がある。また、円覚寺仏日庵の東山周朝に師事してその法を継ぎ、天明3年(1783年)に円覚寺前堂首座に就任した。晩年は京都相国寺に移ったとされるが、塔所は円覚寺塔頭「正伝庵」なのだと。江戸時代後期、修行道場を再興するなど、それまで一時衰退していた円覚寺を再興した人物であると。ここが「正伝庵」への入口。門扉越しに「山門」を見る。扁額「正伝」。正伝庵(しょうでんあん)は、第二十四世明巌正因(みょうがんしょういん)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。1348年(貞和4年)、万寿寺(廃寺)内に創建された寿塔を、1354年(文和3年)、円覚寺に移した。正因は、円覚寺の国宝「洪鐘」の撰文をした西澗子曇(せいかんすどん)の弟子。南北朝期の「本尊宝冠釈迦如来像」と開祖「木造明巌正因坐像」(1365年(貞治4年)作 鎌倉国宝館に寄託)が安置され、木造明巌正因坐像は、2020年(令和2年)、国の重要文化財に指定された。禅の普及に努めた鈴木大拙が住まいしたことでも知られる と。「佛日庵墓地」への門扉は閉められていた。そして左手に「妙香池(みょうこうち)」。「妙香池」の上に見えているのは、国宝舎利殿がある塔頭「正続院」境内の「一撃亭」。「妙香池総門前の白鷺池と並び、円覚寺創定当初から知られた放生池である。建武ニ年( 1335 )頃の円覚寺境内図にすてに見られる。今回江戸時代初期の絵図に基づき、自然風の姿に戻し「虎頭岩」と呼ばれる岸の露出岩盤を景観の中心として復元した。」夢窓疎石の作庭であると。「虎頭岩」。波浪の浸食に模して造られているとのこと。数匹の亀の姿が。そして前方に「舎利殿」への道が見えて来た。「贈従一位北條時宗御廟所」碑と「国宝 舎利殿」案内板。「正続院」の「山門」・「修行道場入口門」に向かって進む。新緑のモミジ葉が青空に映え輝いていた。「正続院」の「山門」前に「佛牙舎利塔」と書かれた石柱があり、表に「従大唐國能仁寺拝請」、裏に「寛政四年壬子十月十五日」、そして「征夷大将軍源実朝公」と刻まれていた。舎利殿には、実は佛牙舎利(ぶつげしゃり)、つまりは釈迦の歯が納められているそれを南宋から請来したのは源実朝であることがわかるのであった。「山門」・「修行道場入口門」には「本派専門道場」、「臨済録提唱」と書かれた木札が。その奥に「座禅道場に付き立入り禁じます」、「入制大攝心(にゅうせいおおぜっしん)」と書かれた看板が。「入制大攝心」の「攝心」とは、心を攝(おさ)めるという意味。正続院(しょうぞくいん)は、円覚寺の開山無学祖元(仏光国師)の塔所(開山塔)。本尊:文殊菩薩。鎌倉地蔵巡礼第13番札所(手引地蔵)。もともとここは、三代将軍源実朝が宋より請来した「仏舎利」を納めるために、九代執権北条貞時が1285年(弘安8年)に創建した祥勝院(舎利殿)があった場所。「舎利殿 国宝円覚寺の舍利殿には「佛牙舍利」と尊崇されるお釈迦様の歯牙をおまつりしております。その由来は将軍源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものです。この舍利殿は鎌倉にあった大平寺(尼寺・庭寺)の佛殿(鎌倉時代未~室町初期に再建)を移築したもので、中国、南宋時代の建築様式に学んだ禅宗様建築の代表的な遺構です。関東大震災に倒壊しましたが、昭和四年に復元しました。内部正面に佛舍利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥壇があり、観音菩薩と地藏菩薩がまつられています。隣は円覚寺派の厳格なる修行道場となっており、円覚寺開山無学祖元祥師をおまつりした開山堂とともに円覚寺随一の幽邃の地となっています。正月の三が日、五月の連休日と十一月の宝物風入などの特別期間以外は修行の為、孫観を制限させて頂いております。」扁額「萬年山」。「山門」とその奥に「舎利殿」。ズームして。「舎利殿」をネットから。正続院の中心となる建物は舎利殿(昭堂)。源実朝が宋より請来した「仏舎利」を納めていることから舎利殿と呼ばれる。当初の舎利殿は、1563年(永禄6年)の火災で焼失し、現在の舎利殿は、西御門にあった尼寺太平寺の仏殿を移築したもの。我が国最古の禅宗様建築物といわれ、国宝に指定されている。 【http://www.a-utsunomiya.com/photos/uncategorized/2010/05/07/p5030335_2.jpg】より以前戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第十三番の「正続院」の「手引地蔵尊」の御朱印です。「正続院」の「山門」近くの建物・「一撃亭」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク藤沢鎌倉線を先に進むと前方に「大仏前」交差点が。左に入り「鎌倉大仏殿・高徳院」の「仁王門」に向かって進む。鎌倉市長谷4丁目2−28。「聖武帝草創 東三十三箇国 総国分寺 大佛」碑。【右】享保元 丙申 稔九月二日再興開闘【左】本尊仏腿1庫裂並仏具器財等建主施主野島氏 三界万盆同生極楽 高徳院浄泉寺【裏】天照山五十六主南無阿弥陀佛演巻智願悔阿(花押)と刻まれた石碑が参道左側に。参道右手にあった石碑には「鎌倉大仏坂記鎌倉之為地南瀕海環東西北皆山也有七路鑿山通之其西北之路曰大仏坂最険且隘負擔過之者不数歩而口喘背汗矣郷父老三矯小左衛門矢澤小左衛門徳増七三郎等二十餘名相謀募金修之官嘉其志賜以金百圓明治己卯夏五月興役至庚辰春三月竣功凡五町之間削両崖三丈畳石以防崩壊而得平坦者八十餘歩廣可容二軌用工二千三百五十餘人費金一千餘圓昔之口喘而背汗者今則謳歌而過焉衆皆徳之夫施恵於人者金帛為小修道路為大以其迨于久遠也小左衛門等二十餘人能擇其大者率先成功可謂偉矣余及記其事以勤石郷人之志也明治十四年五月 阿波 伊藤士龍撰並書」と刻まれているのだとネットから。そして正面に「仁王門」高徳院(鎌倉大仏)の「仁王門」は、18世紀初めに他所から移されてきたものと考えられ、安置されている仁王像も同時期のもの考えられている。再建年:1758年(明和五年)頃建築様式(造り):八脚門大きさ(幅):約7.3m (中央約3.3m、両脇各約2m )屋根の造り:切妻造、銅板葺(ニ重虹梁大甁束式)「高徳院境内図」。「仁王門」の両側には朱の「仁王像(金剛力士像)」が。残っている史料によると、高徳院がほぼ全焼した江戸時代の1742年(寛保ニ年)の火災や、同じくほぼ全壊した1923年(大正十ニ年)の関東大震災の際も、この「仁王門」は失われず、その形を留めたと。扁額は「大異山(だいいざん) 」。高徳院の正式名称は「大異山 高徳院 清浄泉寺」。仁王像は、平成23年秋に吽形像の頭部が破損したため、阿形像ととに修復が行われた。約2年の修復作業を経て、平成26年春、再び「仁王門」に戻って来たと。「仁王像」(金剛力士像)・阿形像。制作年:江戸時代中期( 1742年(寛保ニ年)頃か)仁王像の造り:木造寄木造阿形像の大きさ:250.0cm、重さ:195kgお顔をズームで。横から見上げて。吽形像吽形像大きさ:242.2cm、重さ:187kg。お顔をズームで。横から見上げて。大佛側から見た「仁王門」。裏側の間口には何も置かれていなかった。「文学案内板高徳院境内境内にある文学碑について紹介します◯与謝野晶子歌碑かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな 晶子与謝野晶子 歌人 一八七八年堺市生、一九四ニ年没。新詩社の社友となり『明星』て活躍。「みだれ髪」の奔放自由な歌風は一世を風靡した。〇星野立子句碑大佛の冬日は山に移りけり 立子星野立子 俳人 一九〇三年東京生、一九八四年没。高浜虚子の次女。父の薫陶を受け「ホトトギス」で活躍。俳詩「玉藻』を主宰。〇金子薫園歌碑寺々のかねのさやけく鳴りびびきかまくら山に秋かぜのみつ金子薫園 歌人 一八七六年東京生、一九五一年没。落合直文の門に入り、和歌革新運動に参加。〇飯室謙斉句碑春の雨かまくらの名も和らぎて飯室謙斉 医師 一八八三年山梨県生、一九ニ八年没。高浜虚子から俳句を学んだ。〇吉屋信子句碑(高徳院墓地)秋燈下机の上の幾山河 信子吉屋信子 小説家 一八九六年新潟県生、一九七三年没。「海の極みまで」で文壇的地位を確立。代表作に「花物語」「徳川の夫人たち」がある。」「鎌倉市観光案内図」。「私たちの宗旨名稱 浄土宗宗祖 法然上人[源空](西暦一一三三~西暦一ニ一ニ年)開宗 承安五年(西暦一一七五年)ご本尊 阿彌陀佛[無量壽佛]稱明 南無阿彌陀佛教え 阿彌陀佛を深く信じてひたすら南無阿彌陀佛と稱えるだけで、どんなに罪深い人でも 必ず救われて明るい毎日を送り浄土に生まれることができる教えです。お經 お釈迦様が説かれた無量壽經、観無量壽經、阿彌陀經の三部經をよりどころとします。」正面の門の名は「??門」手前には「阿吽」ではなく「阿阿」の狛犬一対。由来記には『1979.4月中華民国台中西北扶輪社(ロータリークラブ)の一行が鎌倉西ロータリークラブとの友好倶楽部結縁を記念して当地に来訪された際、大佛の慈愛と尊嚴さにいたく感銘を受け高徳院大佛殿に台湾特産の白色大理石に依る呵、吽狛犬一対寄贈の意向を表明された。1980.5月完成し開眼供養除幕式を行った。大佛殿護持佛心の絆を以って国際親善、両クラブ友好の象徴として末永く鎮子することを祈念する。』と。受付・参拝券券売場。御参拝券。「鎌倉大佛の名で親しまれてる高徳院の本尊、国宝銅造阿弥如来坐像は、一ニ五ニ(建長四)年から十年前後の歳月をかけて造立されたとみられる。制作には、僧淨光が勧進した浄財が当てられたという。鋳工として丹治久友、大野五郎右街門の名を記す史料もあるが、原型作者を含め、創建に関わる事情の多くは謎に包まれている。尊像を収めていた仏殿は、一三三四(建武元)年と一三六九(応安ニ)年に大風で損壊したらしい。ー五世紀以後、同仏殿が再建された形跡は認められない。台座を含む総高約十三.四m、仏身高約十一.三m 重量約一ニ一t鎌倉大佛殿 高徳院」と御参拝券の裏には。「手水舎」はコロナ対策で閉鎖中。ここにも「高徳院案内図」。「鎌倉大仏」を正面から。外部からは全く見えない大仏の姿がようやく目の前に。そして左にあった木々の下には様々な石碑が立っていた。大きな松の樹。「暹羅國皇太子殿下御手植之松」碑。【裏面】明治三十五年十二月廿七日植樹 鎌倉大佛殿別當 轉法輪行念建碑「タイ王室来院記念樹明治35(1902)年12月27日に来院されたタイ王国皇太子Maha Vajiravudh毅下(のちのRamaⅥ世)はここに松の木を植樹されましたが、惜しくも同紀年樹は2009年9月に虫害に遭い、手当ての甲斐もなく枯死に至りました。この松の木は、タイ王国Bhumibel Adulyadej国王陛下の勅命に生り、2010年7月3日、Virasakdi Futrakul駐日夕イ王国特命全権大使が植樹された代替木に当たります。」「タイ国皇太子殿下 御手植松」。「タイ国皇太子殿下 御手植松 昭和六十ニ年九月二十五日」「タイ国のワシラロンコーン皇太子が昭和六十ニ年九月二十五日に御来院を記念に御手植された松」と。まだ細いこの木は。「シュリ・チンモイ・ワンネスピース・ツリー(世界平和のために捧ぐ)染井吉野」。「飯室謙斉 句碑」 春の雨 かまくらの名も 和らぎて【裏面】奉寄進境内敷石五十七間 為種杏院殿遜窓謙斉大居士菩提 鎌倉町大町塔之辻百八十番地 故医学士飯室立遺族 昭和八年四月十九日建立「暹羅國皇帝陛下御手植之松」碑。【裏面】昭和六年四月九日 暹羅國両陛下御手植 材木座石工 杉山簾次「シャム(現タイ王国)のプラチャティポック国王陛下(ラーマ7世)が昭和六年四月九日にランパイパンニー王妃殿下と共に御来院を記念に御手植えされた松」。「六観音御施主増上寺演誉大僧正 南無阿弥陀佛」碑。【右面】梵字金五百両明蓮社大僧正顯誉祐天大和尚金五百両光寿院殿明誉月清貞松大姉金五拾両雄蓮社大僧正松誉詮察大和尚金五両本山五十七主学誉上人冏鑑大和尚【左面】梵字右者 増上寺演誉大僧正御世話 山一ヶ所享保元丙丁申酉両年之内御寄付 施■■仰蓮社信誉上人法察和尚金三拾両光安院殿浄屋養清大姉正徳壬辰十二月十四日金十五両御両人松誉春香院■産■「金子薫園歌碑」寺々のかねのさやけく鳴りひびきかまくら山に秋かぜのみつ昭和七年十一月 金子薫園【裏】昭和七年十月 雑誌「光」十五周年に際し記念として門人等相計り之を建つ「梵字 南無阿弥陀佛源家一門無縁諸霊位」碑。【裏面】大正八年三月 鎌倉大佛殿別當轉法輪行念「奉寄進境内敷石 施主江戸飯田氏女」【右面】法名清浄院宣誉得法大師【左面】維時安永九庚子歳四月造立之【裏面】當山現住彰誉然的代 石工江戸八丁堀伊勢屋丁右衛門そして大佛に向かって進む。「國寶 鎌倉大佛」碑。【裏面】眞覚院釈圭浄居士一周忌志 大正十季十月二十三日建立「大仏様」をズームで。建造当初は金色に輝いていたと推定されている鎌倉大仏。金箔とも鍍金(メッキ)とも言われているのだ。大きな青銅製灯籠一対(左)。大きな青銅製灯籠(右)。灯籠(左)奥に十三重石塔。蓮の彫刻と大佛のコラボ。大仏前の蓮常花(三世の蓮)一対(左)三世の蓮はそえぞれ蓮の実(過去・前世)、花(現在・現世)、蕾(未来・後世)を表すのだと。蓮の彫刻(右)。「阿弥陀三尊香炉」。大仏前の「阿弥陀三尊香炉」には、阿弥陀如来の脇侍(きょうじ)の観音菩薩(左)と勢至菩薩(右)のレリーフが。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.03
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「平安座海中大橋」を後にして県道37号線の海岸線を北に引き返し、途中左折して33号線➡85号線を利用して次の目的地・「泡瀬塩田跡」に向かってひたすら進む。そして「泡瀬塩田跡」に到着。沖縄市泡瀬3丁目32−1。「泡瀬塩田跡之碑」。「泡瀬塩田跡之碑一七六八(尚◯一七)年頃、無人の小島であった泡瀬に首里・那覇から移住者が入植し、農業のかたわら島の南西砂州に続く干潟を開拓し、「入浜式塩田(シンナー)」を作り製塩業を興した。廃藩置県(明治十二年)を境に「泡瀬」の製塩業は急速に発展し、一九〇五(明治三)年頃には、県内一の生産量を誇る。「アーシマース」は県下にその名を馳せた。製塩業と樽皮製造業は戦前の「泡瀬」の発展を支える二大基幹産業であった。戦後、一九四六(昭和二一)年には製塩業は復活し、一九五〇(昭和二五)年に沖縄製塩株式会社が設立された。一九五五(昭和三〇)年入浜式製塩法を改良、真空蒸発釜を導入、新工場を設立したが一九七二(昭和四七)年沖縄の本土復帰に際し、塩専売法の適用を受けて製造を停止、二百年に亘る製塩の歴史は幕を閉じた。広大な塩田地は、一九七三(昭和四八)年の干潟事業によって埋立てられ住宅地になった。本碑周辺は塩田跡地の一角である。」「泡瀬塩田風景」。泡瀬塩田は、18世紀中頃、高江洲義正という男が初めて移住し、干潟を利用して入浜式塩田による製塩をしたのが始まりとされていて、高江洲義正の製塩技術は首里勤務の時に那覇の泊りなどで修得したものと推測されている と。ネットから「泡瀬塩田風景」を2枚。石碑の「泡瀬塩田風景」は下の写真のようであった。「入浜式塩田」の光景。「入浜式塩田」は日本に近世初期から行われた製塩施設。遠浅海岸の満潮水位以下の場所に堤防を築き、その内側に砂層地盤の塩田を設けたもの。塩田は溝によって短冊形に仕切られ、潮が満ちてくると堤防に設けられた樋門を通って溝から海水が塩田に浸透する仕組みで、太陽熱で水分が蒸発すると塩田の砂に塩分が付く。それをかき集めて海水をかけて濃厚な塩水 (鹹水) をとり、釜で煮つめて製塩を行なった。干満差が大きく遠浅の瀬戸内海沿岸を中心に発達し、近世から昭和年代にいたるまで、長く日本における製塩の中心をなしたが、1950年代に流下式塩田に転換した と。「ハマトリ」のオバちゃんの姿。日本復帰当時の「泡瀬塩田」周辺の地図。旧「泡瀬集落」の北部に「ぐるくん公園」がありその中央に丘があったが。沖縄県の県魚、「ぐるくん(タカサゴ)」の名前を冠した公園。しかし、丘に登ってみても上の方には特に何もなくその向こう側に砂場とすべり台があるだけ。すべり台以外の遊具は特に無く、つまりは、「ぐるくん」と名前が付けられている理由は良くわからずじまいであったが・・・。次に近くにあった神社「泡瀬ビジュル」を訪ねた。「ビジュル」の語源は、<賓頭慮(ビンズル)――不動の意>。十六羅漢の中の第一の尊者で、その名前の意味は不動であるという。「ビジュル」とは、石神のことで、その石神を信仰する、いわゆる石体信仰の態容をなすもので、沖縄県下に91カ所あるといわれる。泡瀬の「ビジュル」の形態は、自然の陽石を思わせるもので、安置される場所は神社にならって神殿をつくり、扉の奥深くにビジュルを祀っている。御利益は無病息災、子安(子育て或いは子授け)、航海、交通の安全。上記の祈願をするので、住民は年中行事として、ビジュル物参りをする習俗があると。祭祀は専ら、男性司祭者にゆだねられており、その係を「ビジュルヒチ」といい、ここ泡瀬の場合は、義正翁の末裔にあたる高江洲義総氏がその役目を果たしているとのこと。沖縄市泡瀬2丁目1。「泡瀬ビジュル」の「一の鳥居」。「泡瀬ビジュルの由来」碑。「泡瀬ビジュルの由来泡瀬はその昔「あせ島 」「あわす小離 」と称され高原村より東へおよそ九町、隔海に突出した無人の小島で、自然に形成された砂州と南西には広い干潟を有していた。一七六八年頃、読谷山間切の在番役を退役した樊氏高江洲 (筑登之親雲上 )義正は、初期の居住者としてこの地に入植し、広い砂州と干潟を開墾して、農耕のかたわら塩を焚き安住の地をここに定めた。ある日、漁猟に出た義正は海面に浮かぶ霊石をみつけてもちかえり霊験あらたかなるビジユル神 として、島の西側磯のほとりに石祠を建てて安置し、信心したのがビジュル神信仰 の始まりといい伝えられている。旧暦の九月九日にはビジュル参りの例祭があり、無病息災、子安、子授けなどの祈願に参詣者がたえない。一九三八年(昭和十三年)有志の尽力で旧石祠を改修して、社殿と二基の鳥居内外玉垣が建立され境内が整備された。一九八三年(昭和五十八年)泡瀬土地区画整理事業 にともなう土地の全面嵩上げ工事の際に境内を拡張し、社殿と一の鳥居、二の鳥居はそれぞれ四尺嵩上けして移設、一の燈籠を新設、玉垣を改築した。」「泡瀬ビジュル(社殿、鳥居、手水鉢」案内板。「泡瀬ビジュル(社殿、鳥居、手水鉢) 沖縄市指定文化財 平成21(2009)年3月27日指定泡瀬ビジュルの由来については、泡瀬の初期開拓者である高江洲義正が、海に浮かぶ霊石を見つけて持ち帰り、ビジュルとして祀ったのがはじまりといわれている。現在のビジュルは、昭和13年に改修されたものである。ビジュル参詣(ビジュルムヌメー)は旧暦9月9日に行われ、祈願の内容は子安、子育て、旅の安全などである。現在でも各地からの参拝者がたえない。桁行1間(1,820㎜)、梁間1間半(2,800㎜)、高さ約12尺(3,940㎜)の一間社流造り、鉄筋コンクリート造、人造石洗出し仕上げである。従来木造とすべき建物を鉄筋コンクリート造りとし、鉄筋コンクリート造りでは難しい屋根の曲線や円柱、梁、桁、貫、斗、垂木などを丁寧に仕上げてある。昭和13(1938)年に旧石の祠を改修し、社殿と2基の鳥居、灯籠、手水鉢、内外玉垣を鉄筋コンクリートで建立した。昭和58(1983)年、泡瀬土地区画整理事業にともなう土地の全面嵩上げ工事の際に境内を拡張し、社殿と一の鳥居、二の鳥居はそれぞれ四尺嵩上げして移設、一の灯籠を新設、玉垣を改修した。また、手水鉢は、昭和61(1986)年9月に竣工した。指定対象は、昭和13年に改修、建立された社殿と2基の鳥居、手水鉢である。それらは、当時の建築技術を知る上で貴重である。「二の鳥居と社殿」。「社殿」に近づいて。桁行1間(1,820㎜)、梁間1間半(2,800㎜)、高さ約12尺(3,940㎜)の一間社流造り。鉄筋コンクリート造りとし、鉄筋コンクリート造りでは難しい屋根の曲線や円柱、梁、桁、貫、斗、垂木などを丁寧に仕上げてあった。「絵馬掛所」。「子宝祈願」。「安産祈願」。「泡瀬ビジュル」のお守りなどが販売されている社務所「千秋堂」。近づいて。「千秋堂無人の小島泡瀬の地に首里、那覇からの移住者が入植し、定住を始めたのが一七六八年頃と伝えられています。当時「泡瀬島」は美里間切高原村の属地でしたが、1903年(明治36年)に県令により高原村から分離され泡瀬村が創設されました。二〇〇三年(平成十五年)の泡瀬村設立一〇〇周年を迎えるにあたり、その記念事業の一環として泡瀬ビジュルの社務所・千秋堂を建立する。」表道に面した入口の横には、「泡瀬土地区画整理事業記念碑」が。「泡瀬土地区画整理事業記念碑中頭郡東部地域唯一の商工業地として、繁栄していた泡瀬は、第二次世界大戦の戦災により壊滅し、引き続き米軍の軍用地として接収された。昭和四十二年二月から昭和四十五年七月までに、この軍用地の大半が返還されると、地主組合による土地区画整理事業が計画され、認可申請はしたが施工するには至らなかった。そこで当時県会議員であった現衆議院議員、復興期成会会長 小渡三郎氏からの強い要請を受けた県当局によって、県の事業として推進されることになった。工事は県土木部都市計画課によって施工され、昭和五十三年に着工し、八年後の昭和六十一年三月に竣工した。総工費三十六億五千万円、施工面積は、戦前の泡瀬住宅地と塩田跡地、公有水面埋立地などを含む凡そ七十七ヘクタール(約二十三万坪)である。この泡瀬の区画整理地域は、快適な居住環境として蘇り、泡瀬繁栄の基盤は確立された。ここに画期的な事業の竣工を記念してこの碑を建立した。」沖縄市の「汚水マンホール蓋」。市の木・ビロウと市の花・ハイビスカスをデザイン。中央に沖縄市の市章、下部に「おきなわし」「おすい」の文字。 そして次に訪ねたのが「中村家住宅」。中頭郡北中城村大城106。石塀に囲まれた「中村家住宅」。中村家住宅は戦前の沖縄の住居建築の特色を全て備えている建物。沖縄本島内では、第二次世界大戦の沖縄戦を経てこのように屋敷構えがそっくり残っている例は極めて珍しく、当時の上層農家の生活を知る上にも貴重な遺構であるとのことで、1956年(昭和31年)に琉球政府から、1972年(昭和47年)復帰と同時に日本政府によって国の重要文化財に指定された。約280年の歴史をもつ民家。約1500平方mの敷地にシーサーをのせた赤瓦屋根の母屋、高倉、豚舎など5棟が建っている。中村家は当時豪農だった。中村家の先祖である賀氏(がうじ)は、護佐丸(中城城主)が読谷(本島中部)から城を中城に移した際に、築城の師としてこの地に移り住んだと伝えられている。古い沖縄の民家の建築様式で、人々の生活の様子がしのばれるのであった。「国指定重要文化財 中村家住宅」。門扉は開いていたが、この日は休館日となっていた。中に人の姿があったので、入っていったが結婚式前の「前撮り」が行われていたのであった。そこへ係の女性が現れ、今日は休館日なのでご遠慮くださいと。やむなく外に出て。門を入った正面突き当たりには「ヒンプン(屏風)」と呼ばれる石積みの目隠塀があり、中国の屏風門(ぴんふぉんめん)の琉球化したものであると。わざわざ目隠しをすることからも、一般庶民の住宅にない手法がここでもよくわかったのだ。この日の午前中に訪ねた「屋部の久護家」にもあった「ヒンプン(屏風)」なのであった。「中村家住宅 👈リンク中村家住宅は沖終本島中部の豪農の屋敷跡で、国指定第要文化財に指定されています。屋数地内には高倉や畜舎、井戸などが備えられておリ、当時の上層農家の生活を知ることができます。」。「中村家住宅」を後にして、県道146号線を下る。眼下に見えたのが「沖縄電力(株) 吉の浦火力発電所」。ここは石炭火力発電所ではないようであった。新たな埋立が不要で、大型LNGタンカーの着岸が可能であることから、新日本石油(後のENEOS)沖縄油槽所跡地が選定された。沖縄電力初のLNG(液化天然ガス)火力であり、初のコンバインドサイクル発電方式を導入した発電所となる。天然ガスの一部は都市ガス用として、2013年~2014年度をめどに沖縄ガスに供給されることが2009年に公表され、2015年8月12日に沖縄ガスへの供給を開始した。2012年6月に1号機が試運転を開始し、同年11月27日に営業運転を開始。2013年5月23日には2号機が運転を開始した。LNGは化石燃料の中で単位発熱量あたりのCO2発生量が最も少ない燃料。また、コンバインドサイクル方式はガスタービンと蒸気タービン両方で発電機を回すことから、従来の汽力発電方式(蒸気タービンのみの発電)と比べて発電効率が高く、より少ない燃料で同じ量の電気を作ることができるのだ。これらの特性から、吉の浦火力発電所の発電電力量(kWh)あたりのCO2排出量は沖縄電力の火力発電所の中で最も少なく、地理的・地形的な特性から火力発電に頼らざるを得ない沖縄電力にとって、温暖化対策の要の発電所と言えるようだ。LNGを貯蔵するために容量14万kLのタンク2基と、LNG輸送船が接岸するためのバース、LNGを陸上に運ぶ配管橋など約1350mの設備も確認できたのであった。そして次に訪ねたのが「護佐丸公之御墓」。この西側には以前に訪ねた「中城城跡」👈リンク がある場所。中頭郡中城村泊886。「護佐丸公之御墓」碑。石段を上がって行くと、中城城跡近くの台グスクと呼ばれる丘の麓にあった。1458年勝連按司「阿麻和利」を総大将とする王府に攻められた護佐丸一族党が、三男盛親を残し中城城で無念の死をとげた。謀反の疑いも晴れ1686年にその子孫毛氏豊見城家八代目盛定によって、王府から拝領した土地に建てられたものである。「毛國鼎護佐丸之墓」と刻まれた石柱。護佐丸(生年不詳-1458年)」は恩納村出身の15世紀に活躍した琉球王国(中山)の按司。大和名は中城按司護佐丸盛春(なかぐすくあじごさまるせいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)。1422年、第一尚氏王統の第2代国王となった「尚巴志」は二男「尚忠」を北山監守に任じ、「護佐丸」を読谷村の「座喜味城」に移して北山の統治体制を堅固にした。その後「護佐丸」は「座喜味城」に18年間居城し、中国や東南アジアとの海外交易で黎明期の第一尚氏王統の安定を経済的にも支えたのだと。次に訪ねたのが「沖縄成田山福泉寺」。最初に訪ねたのが「交通安全祈願の社」。中頭郡中城村伊舎堂617。「シーサー」(右)。「シーサー」(左)。「交通安全祈願所」の内陣。内陣には不動明王像が・・・。「参拝御案内成田山では、ご信徒の皆様の家内安全 商売繁盛 交通安全 開運厄除などのさまざまのお願いをすべて御護摩という法要儀式を通じご本尊≪不動明王≫に祈願しております。又、成田山のお守りはお不動様が御分体となって皆様方が災難にあわれるような時に皆様のみがわりになって災難をよけてくれますので「みがわりお守り」と言われております。」「水子地蔵尊」。「祖先霊供養 水子霊供養」と。「生目八幡大明神」近づいて。手前に「おかけ水」が。明神様のお顔に3度おかけし、自身や周りの人の目の健康をお祈りするとのこと。「人生の幸福は五体健全にして家庭円満なるに勝れるはなし 然るに種々の病に苦しむ人数知れず殊に生れながらにして明るい世界があたえられない者又不幸にして美しき両眼を失明され悲しみに暮れて居られる方あるいは眼悪く苦しみ淋しき人生を何の因縁因果か業かわからねど美観を感ぜず見る楽しみも出来ない方々多し 我が亡き母も其の類にもれず医術を尽くし種々の薬効の甲斐もなく遂に眼病治ゆすることなく遷化せり我もし力強く祈りて眼病治ゆせばとこゝに生目八幡大明神を建立し奉る 世の人々の不自由なる目に光明を授け賜らんことを祈ろう南無生目の神 影清く照らす生目の氷鏡 末の世までも曇らざりけり生前の母の目に捧げこゝに沖縄県民の目の不自由なる方々に生目の神の御利益があります様衷心より祈念する。」そして「沖縄成田山福泉寺」の「拝殿」が石段上に。成田山福泉寺は、沖縄県の中部、中頭郡中城村にある真言宗山派の大本山、成田山新勝寺(千葉県)を総府とした「成田山」の末寺です。交通安全、商売繁盛、学業成就、家内安全などの参詣はもちろんのこと、毎年、初詣でには多くの人が訪れる、沖縄中部で指折りの初詣スポットでもある と。再び「沖縄電力(株) 吉の浦火力発電所」。ズームして。左側に1号&2号ガスタービン建屋と煙突が。右側にLNGタンクが2基。LNG タンク概要・ 容 量:140,000kL・ 直 径:75.2m・ 側板高さ:31.8m PCLNGタンク方式が採用されている。従来の金属二重殻LNGタンクとPC (Prestressed Concrete)構造の防液堤を一体化している点が大きな特徴である と。「全景写真」をネットから。液化天然ガス(LNG:Liquefied Natural Gas)は、天然ガスを-162℃まで冷却し液化させたもの。液化すると体積が約600分の1になることで、タンクローリーや鉄道での輸送やタンクでの大量貯蔵が可能になる。なお、日本で供給されているLNGの大半は、海外から外航船で輸入されている。またLNGは、石炭や石油に比べて燃焼時のCO₂(二酸化炭素)や酸性雨や大気汚染の原因とされるNOx(窒素酸化物)の発生量が少なく、SOx(硫黄酸化物)とばいじんが発生しない、環境負荷の低いエネルギーとしても注目されているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.02
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この日は11月22日(火)、平塚へ仕事の打ち合わせに車で向かう。新湘南バイパスを利用して、茅ヶ崎海岸ICを目指す。「湘南ベルブリッジ」を通過。「茅ヶ崎料金所」を通過。そして国道134号にて「相模川」に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡る。箱根の山の姿は確認できたが、富士山の姿は雲に隠れていた。そして右手に見える「デニーズ平塚海岸店」で暫しの仕事の打ち合わせを行う。そして、打ち合わせ終了後、「平塚市田村地区から相模川の流れに沿って」のブログが東海道線の北側・(その19)までで、2022年8月29日で中断しているので、急遽この日に東海道線の南側地区・千石海岸、札場町、久領堤、夕陽ヶ丘、幸町、高浜地区を海側から東海道線方向に向かって巡ることを決断したのであった。よって相模川の流れに逆らって上流に向かって歩くことになった。既に、Googleマップに訪ねる場所はチェック済みであったので、スマホさえあれば、事前準備は不要なのであったのだ。「デニーズ平塚海岸店」を後にして、「ひらつかタマ三郎漁港」にある駐車場に向かい、車を駐めこの日の散策開始。「ひらつかタマ三郎漁港」の防波堤から遠く我が藤沢市の「江の島」を見る。ズームして。相模川対岸にある相模川左岸・「柳島水再生センター」が見えた。「柳島水再生センター」は、相模川河口の茅ヶ崎市側に位置し、昭和52年12月に処理を開始。現在は、一日に531,700m3 /日最大の下水を処理する水処理施設(9系列)や汚泥処理施設が稼動している。写真左側が下水処理設備、右側が汚泥焼却炉設備である。「ひらつかタマ三郎漁港」を見る。平塚市では、平成28年度から平塚漁港にネーミングライツを導入。「ひらつかタマ三郎」は、平塚の漁業のPRキャラクター。東海大学教養学部芸術学科デザイン課程の研究室と平塚市漁業協働組合とのコラボレーション企画で誕生したのだと。平塚の漁業をPRするキャラクター「ひらつかタマ三郎」。“タマ三郎”は「猫」とのこと。。そして荒くれ漁師をイメージしたことで「ワイルド」「酒が好き」「女好き」「意外とやさしい」「川柳好き」といった性格付けがなされていると。日を重ねるごとに少しずつだが、“タマ三郎”の素性が明らかになって来たと。「妻子がいた」「趣味はテニス」「チョコバナナが大好物」などなど・・・・と。反対側には、遠く平塚市・湘南平の旧展望台の姿が。「ひらつかタマ三郎漁港」には多くの釣人の姿が。「トラスコ湘南大橋」越しに「湘南ベルブリッジ」のアーチを見る。「トラスコ湘南大橋」。神奈川県平塚市の相模川に架かる国道134号の橋。相模川に架かる橋の中で最も河口側に存在している。全長698m。現在の橋は2代目。2010年4月1日より5年間の契約で機械工具卸のトラスコ中山が命名権を獲得し、「トラスコ湘南大橋」の愛称が付けられている。橋への命名権導入は全国初。再び「江の島」をズームして。相模川右岸の堤防上を「トラスコ湘南大橋」に向かって進む。波も比較的大きく満潮の時間のようであった。相模川河口には水上バイクの姿が。釣り船の「庄三郎丸」、「庄治郎丸」。「庄三郎丸」。「庄治郎丸」。オーナーの名前は「庄三郎丸」のオーナーと同じ後藤さんとのことであるが、血縁関係はないとのこと。「津波に注意●大地震があったら津波に用心、すぐに海岸からはなれる●地震のゆれが小さくても津波情報に注意●「津波注意報」であっても、海辺での遊びや釣りは危険、すぐ避難を●津波は-度だけではなく、くりかえしおそってきます●情報はラジオ・テレビ・広報無線・広報車・サイレンなどで正確な情報を く津波予報サイレン〉予報の種類 「津波注意報」 「津波警報」 「大津波警報」サイレン音 約10秒 約5秒 約3秒休みの間隔 約2秒休み 約6秒休み 約2秒休み」危ない!!(ダムの水をながし川の水がふえることがありますから気をつけて下さい)ダムの放流による増水に注意この川の上流三十七キロメートルのところに城山ダムがあり、ときどきダムに貯った水を流し、この川の水が急に増えることがありますから注意して下さいまた、ダムに貯った水を流すときは、左記のとおりサイレンやスビーカーなどで知らせますので、そのときには危険ですから河原に降りないで下さい。サイレンの吹鳴方法20秒サイレン➡5秒休止➡20秒サイレン➡5秒休止・・・・・・・・・・・・・👈リンク。「相模川」。相模川と本流沿川の市町村。山梨県南都留郡山中湖村、富士五湖の一つでもある山中湖を水源とする。富士山北麓の水を集めながらまず北西に流れ、富士吉田市で北東に折れる。都留市を経て大月市で流路を東に変える。相模湖と津久井湖(ともに相模原市)という2つのダム湖を経て、ゆるやかに進路を変え、厚木市からは南にまっすぐ下り、神奈川県中部を貫き、ここ平塚市・茅ヶ崎市の境付近で相模湾に注ぐ1級河川。相模川の名前は相模国に由来する。上流の山梨県では、桂川(かつらがわ)と呼ばれている。「トラスコ湘南大橋」の横の下方にあったのが「龍宮社」。水を司る龍神様は漁業の神として、豊漁祈願や水難除けとして地元漁師の信仰が深いと。平塚市千石河岸57−6。朱の鳥居には「龍宮社」の扁額が。朱の鳥居の柱には「平塚市漁業協同組合」と。「平成十八年五月吉日」と。狭い境内の奥に石祠、木祠、そして奉納塔が並ぶ。「龍宮社」の社は石祠。この「龍宮社」は1月、2月、9月に漁業関係者が近くの三嶋神社の宮司を招いて大祭を行うと。隣には木祠が。内陣を。紙垂の奥には「八大龍王神」と書かれた御札が。茅ヶ崎市には「八大龍王神」の社が数多くあったがここ平塚市にも。「一金百五拾圓也 寄附昭和二年十二月」と刻まれた「奉納塔」。「鰤大謀網(ぶりだいぼうあみ)」の奉納塔であると。こちらは「奉納 一金壱百圓也 大正十年五月」と刻まれていた。三島神社にある奉納塔と同じ年月に建てられていると。「大謀網」は天保大網とよく似た構造だが、魚群が入ると入り口の網を閉めて、魚群が逃げることを防ぐ。この網は大敷網に変わって導入され、神奈川県では大正11年から昭和10年頃までブリをたくさん獲り、相模湾の寒ブリとして全国的に有名になった。網の規模が大きく、網を揚げて魚を獲るのには150人ほどの人手を必要とした と。その隣の石碑には、「高雄山大権現」と刻まれていたが・・・。その隣にも石祠が。再び堤防に上がって「トラスコ湘南大橋」の下部近くまで歩く。この日は「大潮」で海水が上って。「トラスコ湘南大橋」のRC製の橋脚を見る。「トラスコ湘南大橋」の下には釣り人の姿が。滔滔(とうとう)と流れる相模川。下り車線の橋脚を見る。巨大なボルト・ナットで二重に固定されているようであった。下り車線の橋脚を見る。北側の堤防を望む。「トラスコ湘南大橋」の端部を見る。「塗装記録表」。6年半前の平成28年(2016年)3月が最終の塗装日と。塗装面積は約□43m。端部の基礎工事の仕様。1986年に橋脚の老朽化に伴い、2代目橋梁(現在の下り線橋梁)に架け替えたので1981年はその5年前ということになる。 ・・・つづく・・・
2022.11.25
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「三仏堂」を後にしてその奥の墓地の中にある「開山歴代上人御廟」に向かって「中品堂」の先を左に折れてて進む。「中品堂」の北側の墓地への参道を進む。「淨眞寺境内墓地 檀家使用区画見取図」。突き当りの左側にあった石碑・石仏。「本堂石墻(せきしょう・塀)建立供養塔」(左)、右の石仏には「延宝丁巳(5)年(1677)ニ月四日 浄譽一廟?元水居士」他多くの戒名が刻まれていた。「開山珂碩大和尚第参百年遠忌追恩寶塔」。「延命地蔵尊」であろう。「延命經日 一者女人泰産」と刻まれた石仏。女人泰産とは、女性がやすらかなお産が出来ること。「先祖代々一切精靈 清智院大譽浄倫超運居士 大智院觀譽照妙壽善女」と。「南無阿弥陀仏」碑。横には「文化十酉年七月二十日」と。正面に「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地。墓石・「無縫塔(むほうとう)」に近づいて。ここにも「南無阿弥陀仏」。その横にも大きな「無縫塔」が。「歴代上人の墓石」が並ぶ。基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせた「無縫塔」が並んでいた。「兼齋大人之塚」。歴史を感じる多くの墓石が並ぶ。こちらの無縫塔墓石は?こちらは比較的新しかったが。墓誌碑には「中興十五世、中興十六世」 と。歴代上人の墓石を反対側から。こちらにも無縫塔が並ぶ。墓地を望む。「中品堂」裏の墓地には「名木百選 イヌシデ」の老木が。そして墓地入口に向かって引き返す。この場所には火灯窓・花頭窓(かとうまど)の建物が建っていたが。これが、以前の建物の写真であるが。「中品堂」前から「本堂」への参道を進む。これぞ紅葉のトンネル。「本堂」の北側の林も紅葉のカオスが拡がっていた。角にあったのが「河口慧海師碑」。「我国最初のヒマラヤ踏破者 日本西蔵学の始祖 在家仏教の首唱者雪山道人河口慧海師は慶応二年堺市に生る 十五歳釈迦伝に感激精進に入り哲 学館に学ぶ 廿五歳得度 仏典の正解は原典乃至西蔵訳によるに如かずと悟り 渡印入蔵を志し明治卅三年単身ヒマラヤの嶮を越え秘境西蔵に入る セラ大学 に学び傍ら医療を施す為に声名高く法王の知遇を受く 帰国に際し西蔵蔵経を 将来す 後再び入蔵梵蔵両蔵経並に仏像仏具博物標本等多数を携えて大正四年 帰朝 爾後諸大学に西蔵学を講ず 神足其許に集る師持戒堅固肉食妻帯を退け 在家仏教の宣揚に努む 信者其門に参ず 梵蔵仏典の和訳西蔵文典西蔵旅行記 等の著あり 昭和十五年将来蔵経を東洋文庫に寄贈し蔵和辞典編纂会を起す業 半ば戦禍国中に及ぶ 廿年二月廿四日円寂寿八十昭和三十二年二月二十四日 文学博士 椎尾弁匡撰 日本芸術院会員 桂月松林篤書」塔身部237×136×22cm、真鶴の石とのこと。「和」と刻まれた球状の石碑。「平和の塔(へいわのとう)」であると。台座には「超世無倫」と刻まれていた。「經日」とは一日、また一日と時がたつこと、「超世無倫」とは世に比べるものがないこと。昭和四十年(1965)建立と。本堂前の「花供養塔」。母の日が終わった5月第3日曜日に、ここ浄真寺で花供養が行われると。戦後から長く続く法要で、お花屋さんの有志が1年間お花にお世話になった、花の生命を使わせて商売をさせて頂いたことへのご供養であると。「本堂」の北側の林の中にも石仏や庭石が並んでいた。石仏をズームして。左前方に「本堂(龍護殿)」が見えて来た。輝く紅葉を見上げて。「南無阿弥陀佛 傳通院四十九世」と刻まれた石碑。「本堂(龍護殿)」前には「さぎ草絵馬」がニ体。白鷺の足に結んだ常盤姫の願いが成就した事に由来し、龍護殿前の白鷺の像に願い事を結ぶことができるようであった。「常盤姫伝説今から400年以上も昔、世田谷城主吉良頼康には奥沢城主大平出羽守の娘で常盤という美しい側室がいました。常盤姫は頼康の愛を一身に集めていましたが、それをねたましく思った側妾たちは、つくり話によって頼康につげ口をしました。度重なるつげ口から頼康もそれを本気にして常盤姫に冷たくあたるようになりま した。愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがってい た白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたが、すでに姫は息をひきとっていました。その時、白さぎの血のあとから、一本の草が生え、サギに似た白いかれんな花を 咲かせました。これがサギソウと呼ばれるようになったのです。」とネットから。こちらの白鷺の像は口を開けて。この白鷺の像も阿吽像の如し。「本堂(龍護殿)」前から「三仏堂」の「上品堂」を見る。「本堂(龍護殿)」前の「半跏思惟地蔵菩薩」。歩いて来た、「本堂」前の参道を振り返る。「本堂」前に「金千五百圓」と刻まれた大きな石碑が鎮座。再び「河口慧海師碑」の方向を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.24
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