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赤穂浪士(上)赤穂浪士(下) 忠臣蔵もののもはや古典的小説。 単純に、吉良を悪とし、恨みを晴らすというのではなく、武士が武士らしくなくなり、権力ばかりがものをいうようになってきた社会に対して異議を唱えるのが討ち入りの目的となっている。 「亡君が御一個として天下に示そうとなされた御異議を、一団体を作って全身全力を挙げて叩《たた》き付けるのである。」「われわれの存在そのものが、天下、御公儀に向けての反抗、大異議だからである」(下巻)という内蔵助の言葉がそれを物語っているが、あまりにもあからさまな書き方だ。 刃傷沙汰の直接の原因は、吉良が、賄賂の少ないのを恨んで内匠頭に非道な仕打ちをしたためということになっていて、強いて言えば吉良が悪役なのだが、上杉家の千坂、色部といった人物はお家を守るために身命を賭した人物として描かれ、善悪の対立というだけの話にはなっていない。 本筋と平行したところに、蜘蛛の陣十郎、堀田隼人、お仙という人物も登場させて話をふくらませ、武士同士の争いなど知ったことではないという価値観も描いているのだが、どうもそのせいで焦点がぼやけてしまっているように見える。 気になる寺坂吉右衛門は、吉良家へいく途中で姿を消した、と吉田忠左衛門が説明するだけ。この小説の中ではそれだけで済まされている。 書かれたのは1927年から翌年にかけてだそうで、おそらく新鮮な忠臣蔵だったのだろうが、今日から見ると、特に目新しいところはない。この小説をきっかけに新しい忠臣蔵がどんどん書かれ、世界が広がっているからだろう。 断絶騒動の時期に、堀部安兵衛が赤穂にいたように書かれているが、彼は江戸藩邸で働いたことしかなかったのでは。 武林唯七を「この支那人の子孫は無謀なくらい勇敢だった」(下巻)とある。彼が中国人の孫であることは、昔から有名だったらしい。 知らなかった言葉。 「骨灰である」粉みじんという意味。
2004.06.30
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〈超〉読書法(著者:小林信彦|出版社:文春文庫) 「本は寝ころんで」の続き。 「週刊文春」以外のものに発表されたものも含む。 「本は寝ころんで」に続くのは第3部の「狂乱読書日記」なのだが、「本は寝ころんで」とは雰囲気が違う。 前作では「目が点になる」「点目」という表現が何度も出てきたが、これには1度しか出てこない。 そしてこちらは、怒りが根底にある。 書かれたのが1994年から1996年までで、阪神大震災、オウム真理教と、絶望的な気持ちになる事件が続いていたのである。 小林信彦は、「今」を記録することに熱心だ。 「文庫版のためのあとがき」に「阪神大震災とオウム真理教事件によって、読書人の気持が一変《いっぺん》するという時代の転換点を、数々の書評を通じて、リアルタイムで描いたことで、この本は一つの立場を主張できるように思いました。」(p292)と明確に書いている。 あの時期の「今」、あの時期に何が起こっていたかを記録した本なのである。 途中、ある人物を、やけに持ち上げているな、と思ったが、これについても、「文庫版のためのあとがき」で「判断ミス」と正直に書いている。
2004.06.10
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ベスト・オブ・ドッキリチャンネル(著者: 森茉莉 | 出版社:ちくま文庫) 森茉莉のテレビ評。1979年から1985年にかけて書かれたもの。 文庫に収められているのは一部なので、松田優作や小林旭について書いた文章があったら読んでみたいとは思うが、かといってそれをさがすために全集の文章全部に目を通す気はしない。 長嶋茂雄が森鴎外に似ているというのはどうかと思うが、森茉莉がいうのだからそうなのだろうか。また、当時は全く無名だった内藤剛志を高く評価しているのは慧眼である。 好き嫌いがはっきりしていて、それが基準なのだから、他人がどういおうが関係ない。自分の好みを押し通すだけ。悪く書かれた方は、反論のしようもない。 森茉莉の記憶違いを指摘したはがきが来たりすると、「私なぞに葉書を書く暇に一枚でも、半枚でも文章を書いて見たらどうだろう。そうすれば、文章を書く苦労が解るだろうから、他人(ひと)の書いたものに何(なん)のかのと文句をつけるようなことはしなくなるだろう。」(p279)などと書いている。これでいくと、俳優に「自分で演技をしてみれば、他人の演技に文句をつけるようなことはできなくなるはずだ」と言われたら言い返せないし、そもそも批評というものが成立しなくなってしまうはずなのだが、森茉莉はそういう世俗的な論理は超越してしまっているからこそ面白いのである。
2004.06.05
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NHKで1985年に放送されたドラマ「國語元年」を最近再放送で見直し、興味を持って読んでみた。 「国語事件殺人辞典」「花子さん」「國語元年」の三編収録。いずれも、言葉の虜になった人間の話。 最初の二編は、いずれもやや理がかちすぎ、説教くさくさえある。 解説(扇田昭彦)によると、作者自身も失敗作と思っているそうだ。 「國語元年」は、まずテレビ脚本を書き、それから舞台用に書き直してる。 テレビを見た時から、関西の言葉を話す人がいないな、と思っていたが、舞台用では、ちよ(テレビでは下町出身。島田歌穂だった)が、河内出身になっている。 テレビ版の主人公ふみは、舞台版では出戻り女ということになっていて、さらに語り手は修二郎に変わっている。 テレビ版も舞台版も、それぞれ面白い。 主人公は、伊沢修二に先立つこと七年、「小学唱歌集」を編んだばかりということになっている。それに収められている歌というのが、舞台版にはいろいろ出てくる。楽譜も載っている。南郷清之輔は実在の人物だったのかと思ったが、それらもすべて作者の創作。 言葉にとりつかれた人間は、幸福になれないという話ばかり。 客観的に、「全国統一話し言葉」を人為的に作り出そうとせず、自然に誕生するのを待て、と言う虎三郎の姿勢が印象に残る。(これは新潮文庫版の感想。現在は絶版。中央公論文庫で表題作を収めたものが出ている)國語元年(著者:井上ひさし|出版社:中公文庫)
2004.06.04
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