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北朝鮮への経済制裁として、北朝鮮産のアサリを買わない運動が提唱されている。個人でできる、というものだ。 しかし、この運動が広まると、もっとも困るのは日本の漁業関係者や加工業者ではないだろうか。 まず、アサリが北朝鮮産かどうかを見分けることは難しい。「日本産」であっても、多くは外国産のはず。輸入して一定期間日本の海岸に置けば「日本産」になってしまう。それは買うな、ということになると、まず、アサリは買えなくなる。 これから潮干狩りの季節になっていくが、潮干狩り用のアサリだって、輸入品をまいたものなのだ。 今から17年も前に、個人旅行で中国を旅したことがある。吉林で日本語教師をしていた知人を訪ねていき、朝鮮族の人と知り合ったりした。その時、北朝鮮の実情をいろいろ聞いた。 「あと十年持たずに崩壊するだろう」というのが、その時の結論だったのだが、意外にも持ちこたえている。 ここで北朝鮮からの輸入食料品不買が広まったらどうなるだろう。北朝鮮内に食料が行き渡ることになり、国民の不満が弱まり、国家体制の延命に力を貸すことになりはしまいか。 人道的ではないが、むしろ、北朝鮮の食料を根こそぎ買いしめ、飢えた国民の爆発を誘う方が、北朝鮮崩壊を早めることができるのではないかと思う。
2005.01.31
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小三の息子の通っているスイミングスクールのイベントで日帰りスキーに。場所は福島県の安達太良。ここは去年の夏、息子を連れての旅行で訪れゴンドラに乗ったのだ。 朝5時出発、片道バスで3時間半という強行軍で、どうなるかと思ったが、バスの中では結構寝られたのでどうにか体が持った。 福島育ちなので、何度か行ったことがあるスキー場なのだが、大人になってから行ってみると感じが違う。スキーそのものも10年ぶりぐらい。 息子は全く初めてで、板をはいて歩くこともできない状態だったが、寒くても冷たくても泣き言を言わなかったのは偉い。 風が強く、ゴンドラが運休になるほどだったのだ。 実は、息子が滑れないので、ゴンドラで往復してみることにして、ゴンドラに乗り、上でココアなどを飲んで降りてきたらすぐに運休になってしまったのだ。もう少し遅かったら、歩いて降りてくるしかないところだった。 スノーボードも全面解禁(今はこれがふつうなのだろう)だが、スキー・スノーボード人口そのものが減っているらしい。休日なのに、混み合うという雰囲気ではなかった。
2005.01.30
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表裏一体のものであった「忠臣蔵」と「四谷怪談」を一つに融合させたもの。 民谷伊右衛門が、琵琶を奏でて金をもらうという、門付け生活をしているという設定で、琵琶の音が幽冥界を思わせる。 話の方は、「四谷怪談」の部分はあまりない。伊右衛門がなぜお岩ではなく、吉良家につかえる男(石橋蓮司)の孫娘(荻野目慶子)を選ぶのかよくわからない。お岩の顔が崩れてからの怖い場面はほとんどない。 そもそも、荻野目慶子たちは、人間ではないらしく、顔が白塗り。その女と祝言をあげることになると伊右衛門も顔が白塗りになって、あちら側の人間になったということを教えてくれる。 「様式美」や「芸術性」というものにとらわれすぎた感がある。悪く言えば鈴木清順をまねしたように見えてしまうのが残念。・忠臣蔵外伝 四谷怪談@映画生活
2005.01.29
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昔から、なんとなくケーナを吹いてみたいと思っていた。 フォルクローレの曲調に引かれるものがあるのだ。もちろん、最初に聞いたのはサイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んでゆく」。 数週間前、職場の近くに南米の物産を扱う店が出た。 そこは、貸店舗で、2週間ごとにいろいろな店が入れ替わりで営業する。洋服屋だったり靴屋だったり。 その時は、ポンチョや人形などを店先に出していた。 中をのぞいてみると、奥にケーナが数本あった。 サンポーニャ(長さの異なる竹筒を並べた楽器)もあった。 ケーナは一本3000円。 さわったこともないのでどれがいいのかわからない。とりあえず、黒い木製のものを買った。すると、教本を二冊おまけにくれたのだが、これが現地のもので、何が書いてあるのかさっぱりわからない。 ケーナは「quena」とつづるようだ。 中を見ると、ドコを抑えるとどの音が出るか、という説明、吹き方の図、そして楽譜。 その楽譜が、五線譜ではない。 最初に載っているのが定番の「EL CONDOR PASA」。これだけは、「コンドルは飛んでゆく」だな、とわかる。 「花祭り」もあるのだろうが、どれだかわからない。 で、その楽譜なのだが、こんな風に書いてある。 MI LA SOL# LA SI DO SI SO RE MI... どの音がどれだけの長さか、なんてことはわからない。一オクターブ低いのか高いのかもわからない。 曲をよく知っている人のためのメモのようなものだ。 これを頼りに何とか「コンドルは飛んでゆく」が吹けるようになった、と言いたいところだが、実は、音を出すのが大変。 最初は全く出ない。 インターネットでも入門コーナーを作ってくれているサイトがあるので、それも参考にしながら悪戦苦闘。 やっと音が出るようになったが、低音に比べると高音はなかなか出ない。安い楽器だからというより、技量のせいなのだろう。 こうして遊ぶこと3週間近くなって、楽天からスーパーポイントの使用期限が迫っているものがある、と通知が来た。 使わないともったいない。 そこで、楽天で「ケーナ」を検索してみたら、なんとたくさん出ている。その中の一つは、2本で1380円! 不安だったが、ポイントは900円ちょっとだったのでこれを購入。 品物はすぐに届いた。 で、吹いてみた。どれも手作りなので微妙に違う。 一本はなかなか音が出なかったが、一本は高い音も比較的楽に出た。「あたり」だ。いずれ飽きる日は来るだろうが、しばらくこれで遊んでみよう。 私が買ったのはこれ↓。追記。 音をうまく出すには息の量の調節が必要だった。 高音も息を強く出せば比較的きれいに出る。 ケーナ販売のページに、「コツは腹式呼吸です!」とあるのは、そのことだったようだ。(2005.2.3)
2005.01.28
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漱石の夏やすみ(著者:高島俊男|出版社:朔北社) 名著である。 漱石にも中国文学にも造詣が深く、なおかつ文章を書くということに人一倍注意を払い、自分の頭でものを考えることのできる人にして初めて書ける本である。 漢字だけで書かれた漱石の『木屑録』を原文の雰囲気を生かした日本語に訳す、というだけでも正直なところ人間業とは思えない。 続く「漱石と子規」も面白かったが、『「漢文」について』が圧巻である。 日本における「漢文」の中途半端さ、無意味さを徹底的に暴いている。いわゆる「漢文訓読」はそれで翻訳として通用したのかと思っていたのだが、そうではない。江戸時代の素読で音読し、暗記していたのはものと文章が道であったかを覚えるための「符号」だったのだ。 「おと」を知らずに韻文である「詩」を作り続けてきた、というのは頭脳のトレーニングにはなったろうが、「詩」本来の性質からすれば無理なことなのだ。 「木屑録を読む」では、漱石の漢文(著者は支那文と表記)に添削を加えてさえいる。おそらく、明治の漢学の先生よりも、知識・感性とも上であろう。ただしそれは、著者が漢字の「おと」を熟知しているという点で有利であるからではあるのだが。 「維新の変に政府は寺院の宅地田畑を没収し、山はほぼ廃墟となれり」(p32)のところ、伝統文化破壊に熱心だった明治政府の面目躍如というところだなあ、と思ったが、そもそも、日本には「自国の伝統」などという概念がなかったのだ。 『明治十年代に「自国の伝統」ということがいわれだしたとき、それは実に漢籍と漢文なのであった』(p170)ということだ。 最近、保守派の人たちが増えてきて、戦前を悪く言うと目くじらを立てくってかかったりするが、この本を読んだらどう思うのだろう。日本人の精神的支柱とされたのは日本の思想ではないのだ。 著者はこう書いている。「支那人のつくった書物が天皇に対する純一無雑の忠誠を教えているとはおわらいぐさだ」(p175) 戦前の日本人のようになろうという人は漢文の勉強に精を出さなければならなくなる。中国の古典はありがたいものだ、中国の伝統はたっといものだという姿勢を持たなくてはならなくなる。 同じ著者の『中国の大盗賊』を読めばわかるように、毛沢東は中国の伝統にのっとって天下を手に入れている。今の中国も、中国の伝統文化が生み出したわけだ。あれでいいのか? 中国文化を日本人の精神的支柱にすること自体が無茶なのだ。したがって、戦前のやり方は間違っているとしかいいようがないのではないだろうか。 この本は、時間をおいて何度も読み直すことになりそうだ。
2005.01.27
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雨の山吹(著者:山本周五郎|出版社:新潮文庫) 「暗がりの乙松」「喧嘩主従」「彩虹《にじ》」「恋の伝七郎」「山茶花帖」「半之助祝言」「雨の山吹」「いじが奢る」「花咲かぬリラの話」「四年間」 最初の、悪人が心を入れ替える話と次の武士道物語以外は恋愛の関係する話。そのうち時代小説はハッピーエンドなのだが、最後の二作は現代物で、暗い面がある。 また、「花咲かぬリラの話」は設定としては無理がある。 それでも、いずれも山本周五郎の味があり、読後に独特の味わいが残る。 これを読んだのは「初蕾」を見たのがきっかけだった。 妻にあらすじを話したら、「それは昔、秋吉久美子でドラマ化されたものではないか」と言うので調べたら、そちらはこれに収められている「山茶花帖」だった。 身分違いの恋の成就という点では同じだが、味付けが違う。 終わりの方は、妻に聞いたドラマのあらすじの方が面白かった。 当人が知らないところで計画が進められ、訳もわからずあっちこっち行かされて、という方が展開としてはいいと思うのだが、分量が多くなってしまうし、作者として描きたかったのはそういう解決法ではなく、主人公の心だったのだろう。 新字新かななのだが、「画期的」ではなく「劃期的」となっている。(P212) 「歴史のどの一頁でも」(P214)の「一頁」は「いちぺーじ」と読ませるのだろうか。「いちけつ」ではわからないし、「いちよう」と読ませるなら「一葉」と書いた方がわかりやすい。楽天ブログランキング←よかったらクリックしてください
2005.01.26
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という記事 漢字とコンピューターを巡る問題はいろいろある。 まず、その字体だ。 記事に、「日本の漢字政策は、常用漢字が文化庁、人名用漢字が法務省、パソコンなどに使われるJIS(日本工業規格)漢字が経済産業省と縦割りで所管されている。」とあるように、コンピューターで用いられている字体は工業規格であって、それが漢字として正しいかどうかということは問題にしていない。 「葛飾区」の「葛」、「徽章」の「徽」など、本来の字体とは異なっている。 「葛」は、「ヒ」の部分が「L」と「人」を組み合わせた形、「徽」は「山」と「糸」の間に「一」が入るのが本来の形。(本来といっても、字源までさかのぼっていくとまた違うのだろうが、ここでは、辞書で親字として示されている字体) ワープロが出始めた頃は、縦横16ドットで印刷していたこともあった。24ドットでもきれいな方だった。 そういう時代であれば工業規格として制定された字体を、一種の略字として通用させてもやむを得なかった。 しかし今や48ドットなど当たり前だし、トュルータイプのフォントが当たり前になってきて、活字に近いきれいな印字ができるようになっている。 ここで思い切って字体を訂正してもらいたい。コードの割り当ての変更ではないので、情報の引き継ぎには影響はないはずだ。 もう一つ、「常用漢字」そのものの性格の問題というより、受け取る側の問題。 「常用漢字」を金科玉条のごとく受け取り、それ以外の漢字は使わない、という姿勢が新聞にはある。(毎日新聞は、独自に常用漢字ではなくとも漢字表記する語を決めている) 公文書をわかりやすい文章にするためには意味はあるかもしれないが、出版活動に制限を加えるためのものではないはず。 漢和辞典でさえ「杜甫」に「トホ」と読みをつけていたりする。「李白」だと」「白」は常用漢字に入っているので、「李(リ)白」となっていたりする。 漢和辞典をしょっちゅう引くような人なら「李白」ぐらい読めるだろうし、そもそも、漢和辞典には読めない字の読みを調べる、という機能だってある。 むやみに常用漢字にとらわれるのはやめようではないか。
2005.01.25
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アーノルド・シュワルツェネッガーの出世作。 もう20年も前なのだ。若い。 今見ると、荒廃した未来がやや安っぽい。 特撮も手作り感があって、かえって好感が持てる。 ターミネーターが中の機械だけになると、レイ・ハリーハウゼンの特撮のような動きになるのが不思議。 主役は、ターミネーターに追われる方のはずなのだが、脇役のはずのシュワルツェネッガーばかりが印象に残る。 映画の話の通りになるなら、あと20年であんな世界が来てしまうことになるが、ターミネーターのような精巧なものを作る技術は20年たってもないのでは。 見ていてつくづく感じたのは「ドラゴンボールはうまくこれを使っている」ということ。 人造人間の恐怖や、未来から救援に現れるトランクス。 おそらく、この映画にヒントを得たのだろう。 盗作というわけではない。ターミネーターだって、既存のアイディアをうまく組み合わせているのだろうし。・ターミネーター@映画生活
2005.01.24
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DVD-RAMを使ってみたくて、買い換えた。 取り付けはいつも通り順調にでき、問題なく認識。 (ドライブ割り当てが変わったのでコントロールパネルの「管理ツール」で前と同じに直さなければならなかった) 付属のドライバをインストールし、さあ、一緒に買ったDVD-RAMを使ってみよう! と、トレイに入れてみる。 まずフォーマットしなくてはならないというので、マイコンピュータでこのドライブを選択して右クリック、「フォーマット」を選択すると、フォーマットの画面にはなるのだが、なぜか「ドライブを使用中」という内容のエラーメッセージが出てフォーマットできない。 添付書類を見ると、付属のソフト以外にDVD書き込みソフトがあってはいけないというので、あれこれ削除。でもだめ。 しばらくかかって突き止めた原因は、なんと、Nortonの「Auto-Protect」だった。これを無効にしたらすんなりフォーマット。 ファイルを書き込んだり削除したりしてみたが、全く問題ない。快適快適。 付属の「DVD Movir Writer 3.5 SE」はCM自動検出機能が売り物。使ってみると、CMかどうかを判断しているのではなく、シーンが切り替わる場面を検出している。便利なことは便利。
2005.01.23
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春香伝(訳者:許南麒|出版社:岩波文庫) 朝鮮の口承文芸。底本はなく、異本が数多くあるらしい。 誰が書いたのかもわからない。解説によれば18世紀頃らしい。 妓生の娘・春香と、両班の御曹司の恋。といっても、出会ったその日に将来を誓い合って春香の母親も了承して夫婦同然(とはいっても、男の方はまだ一人前ではないので愛人扱い)になってしまうのには驚く。 やがて男は父に従って都へ行き、残された春香は、赴任してきた悪徳役人に言い寄られるが、断ったために牢獄に。しかし、出世して役人となった男が帰ってきて……、と話の筋そのものは単純。修飾過多、故事の引用多用の語り口を楽しむものであるらしい。 それだけに翻訳者の苦心は並大抵のものではなかったと思われる。 地の文は擬古文、せりふは七五調と、こった日本語になっている。 中国の詩句の引用も数多く、注を付けるだけでも大変な労力を要したものと思う。 感心しながら読んだ。
2005.01.22
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中国の大盗賊・完全版 1989年に出た「中国の大盗賊」で削られていた部分を元に戻したもの。 以前の版も出たときにすぐ読んだ。 15年も立っているので、ほとんど忘れていて今回も最初から面白く読んだ。 削られていたのは主に「大盗賊」としての毛沢東を描いた部分。なるほど、毛沢東率いる中国共産党は、中国の盗賊の後継者であり、伝統にのっとって天下を手に入れたのだ。 まさに『水滸伝』の世界。 毛沢東の文才は高く評価し、政治家としてはほとんど罵倒している。中国共産党についても同じ。 そもそも、中国共産党は本来の共産主義とはかけはなれた存在なのだ。 しかし、著者は、中国自体に、マルクス主義を受け入れる素地があった。それは「経典」の必要だ、と述べている。 してみると、共産党が敗れ、国民党が政権を取ったとしても、何かが「経典」とされ、やはり同じような国になった可能性があるわけだ。 それにしても、毛沢東が天下を取る手助けをしたのがわが日本軍とはトホホである。 日本には「文武両道」という言葉があるが、中国にはない。(p269)というのは新知識だった。
2005.01.21
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「新選組!」で藤堂平助を演じた中村勘太郎がエッセイを書いている。「お世話になります、勘太郎です」というもの。 第1回は山本耕史について。 私は、「新選組!」を見るまでこの人のことを知らなかった。最初は、今残っている土方の写真にちょっと似てると思った程度。見ているうちに役者としてはかなりの実力者だとわかってきた。 勘太郎によると、俳優としてのキャリアが長く、筋トレ好きでマッチョなんだそうな。 そういう風に見えないところが実力があるところなのだろう。細身で神経質そうに見えたのは演技なのだ。 ところでこの山本耕史というひと、バラエティでは全然だめなんだよね。 「サタスマ」で2回見たけれど、香取慎吾に「もっとテンションあげていこうよ」なんて言われてた。 私は、そんなところに、かえって好感を抱いたのであった。
2005.01.20
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全日の三冠ベルトと新日のIWGPベルトをかけたダブルタイトルマッチが実現するという。 急に決まった、という感があるし、必然性が感じられない。プロレス界において、団体間の垣根は低くなりつつあるが、それぞれの団体の至高のベルトはそれぞれの団体で大切にすべきものであって、軽々しく一緒にしてしまうことは許されない。 元子社長体制の時、三冠ベルトが新日に流出してしまったことがあるが、IWGPと一緒にされることはなかった。 アジアタッグも新日の選手が保持しているが、これだってほかのベルトとダブルタイトルマッチなんてして欲しくない。 「小島は3冠、川田超えに集中」という記事で小島が言っているのがもっともなことで、順序として、三冠を取ったらIWGPに挑戦できる、ということになってしまっている。 なぜこういうことになったのかわからないが、武藤社長がゴーサインを出したのは確かだろう。 和田レフェリーの「人生は3つ数えてちょうどいい 」を読んだときのように、何年かたって、「そうか、そういう事情があったのか」と思う日が来るのだろう。
2005.01.19
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センター入試の国語で、教科書に載っているのと同じ文章が使われたことが話題になっている。 受験生にしてみれば、不公平な話だ。 問題作成側のチェックが甘かったといえばそうなのだが、これからも同じことは起こるのではないか。 教科書に載っているものは使えないとなると、古典など、有名なものはほとんど使えない。 しょうがないので、誰も知らないようなのを引っ張り出してくるしかなくなる。 かといって、古典には数に限りがあるだろうし。 以前から思っていたことなのだが、どうせなら、あらかじめ試験問題を公開してしまったらどうだろう。 もちろん、「今年の問題はこれです」というのではない。 問題を何千問か作っておき、それを公開してしまう。そして、その中から毎年無作為に50問なり100問なり出題するのだ。 これなら、どの受験生にも公平だし、新しい題材を探し出すという苦労もして済む。 さらに、センター入試を受ける人は、共通して一定の知識を持つことができ、ゆくゆくは日本全体の教養の底上げにもつながっていくだろう。 もちろん、知識と教養は同じではないのだが、教養以前に知識がない、というより、知識を身につけようという姿勢を持たない人間が多すぎる。 「これが高卒程度の人間に要求される水準だ」というのをあらかじめ示しておけば、大学進学希望者はその水準を満たそうと努力することになる。 では、進学しないものはどうなるのか。 無理に知識を身につける必要はない。頭で身につける知識よりも、体で覚える技能が要求される仕事だって多い。 そして、積極的に技能を身につけようとするぐらいの人は、まじめで勤勉なので、進学希望じゃなくてもちゃんと勉強する。したがって、知識も身につける。 目標がはっきりしていれば、勉強にも達成感があるだろう。 そもそも、「大学を出なければならない」「高卒じゃないと人並みじゃない」という考え方の方がおかしいのだ。 以前テレビで見たのだが、京浜工業地帯の町工場で、世界でそこでしか作れない製品を作っているところがあった。 手先を使う作業が中心で、機械化できない。 そこの社長は、「できれば中卒で来て欲しい、高卒ならまだ何とかなるが、大卒では遅い」と言っていた。
2005.01.18
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テレビ東京で日曜夜6時半からの番組。 去年まで放送していた「世の中ガブッと!」の後番組で、これも毎回一つのテーマを取り上げて考える、というもの。 考える、とはいっても、大上段に構えて結論を出すとか、責任を追及するとかいうものではない。 「こういうことがあるんだね」「へえ、そうなんだ」で終わる。これがいいのだ。 今回はボランティアということで、レギュラーのクワバタオハラ(女性二人組)が実際にボランティア体験。 ボランティアを受け入れる方もかなり大変なのだ。 また、救援物資として送られてきた古着が余った、どうするか、ということで、実際にボランティアに関わっている人は、「焼いてしまうのがいい」と言ったのには驚いたが、保管にお金がかかって本末転倒になってしまうのだ。 考えてみれば、古着なんて、もらい手はいないだろう。 ボランティアする側、救援物資を送ろうとする側の問題に目を向けたのがよかった。公式サイト
2005.01.17
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11日に放送されたものをやっと見た。 いつもの「剣客商売」そのまま。2時間を長く感じさせない。 小太郎はずいぶん大きくなった。何年もたっているのだ。 夏八木勲がゲスト出演。 はじめの方、診察を受ける場面で、上半身裸になる。鍛えられた体をしている。 永井源太郎(高杉瑞穂)という男、善人そうに見えて実は、というのかと思ったらそうではなかった。かえって新鮮。その女房になる百姓女、強烈な人だなあと思ったら、犬山イヌコだった。こんな歳なんだ。 盗賊の頭目・樺島長兵衛は渡辺哲。最近の「銭形平次」の万七親分。この人、根っからの悪人には見えないんだなあ。悪人だけと小心者、というのが似合う。 今回の収穫は、村松太九蔵(夏八木勲)の娘・さよを演じた宮本真希。 背筋が伸びていて姿もよく、意志の強そうな目をしている。武士の娘にぴったり。口元が愛らしい。こういう人がいるとホッとする。 毎度、最後は明るく終わるが、リアリティを追求するならくらい話もあって当然なのだが、せめてドラマの中ぐらい明るく終わって欲しいよね。 茅葺き屋根の並ぶ農村など、ロケーションにも力が入っている。スタッフの意気込みが伝わってくる。公式サイト
2005.01.16
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人生は3つ数えてちょうどいい(著者:和田京平|出版社:メディアファクトリー) 川田の「俺だけの王道」を読んだときに、「なんて正直なんだろう」と思った。 そして、この和田レフェリーの本にもまた同じことを思った。 馬場さんとの関係、元子さんについてどう思っているか。ジャンボや三沢たちに対する評価。 どれもこれも正直に書いてある。 単純な好き嫌いではない。 いい点はいい、よくない点はよくない。 誰についてもそういう態度をとっている。 意外ではあったが、「なるほどそうだったのか」と思わせられたこともたくさんある。 いわゆる暴露本ではない。 和田レフェリーの目に映った真実が書いてある本だ。 同じ事件でも、三沢が書けば三沢にとっての真実を書くだろうし、元子さんなら元子さんにとっての真実を書くだろう。 著者には、誰かを批判しようとする態度は全くない。 馬場さんと元子さんは親同然の存在で、プライベートな時間がないほど一緒にいたそうだ。自分が馬場さんを支えているという自負だってあっただろう。 馬場さんが亡くなった時のところ、電車の中で読んでいて、泣きそうになってしまった。 決して大きな所帯ではなかったはずだが、組織となると、いろいろな人間がいて、誤解や軋轢が生じる。和田レフェリーは、元子さんの味方という立場を貫きながらも、全日本プロレスを守るためには毅然とした態度を取っている。「誰にも見えない場所で全日本プロレスは一度消滅し、そして再興したのです」(p272)というところなど、大きな驚きだった。今にして思えば、これまた「そういうことだったのか」ということではある。しかし、こんなことがあったとは、プロレス記者も知らなかったろう。 プロレスの話というよりも、人間関係のおもしろさ、難しさを教えてくれる本だ。 天龍の離脱も、三沢たちの離脱も、元子さんとレスラーや社員たちとの確執も、誰も悪くはないのだ。 今の全日本プロレスは、こうなるべくしてなったのだ。 読み終えてしばらくして気がついたけど、タイトルに呼応するようなことは書いてなかったような気がするぞ。
2005.01.15
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今日の毎日新聞の「余録」にこんな文章があった。厚労省のホームページでも、大量の海水からプランクトンを摂取するカキがこのウイルスを体内に蓄積しやすいことが書き込まれている ほう、厚生労働省のホームぺージに掲示板があるのかと思ったが、そんなはずはない。念のために確認したところ、やはりない。 なぜ「書き込まれている」なのか。「書いてある」「載っている」でよさそうなものだ。 「書き込む」というと、「余白に書き込む」「掲示板に書き込む」というように、あいているところに後から自分の文章を加えているかのように感じられる。 そう感じるのは私だけだろうか。
2005.01.14
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お言葉ですが…(5) キライなことば勢揃い(著者:高島俊男|出版社:文春文庫) シリーズ5冊目。 この人の本は、どれを読んでも面白い。 なるほどそうだったのか、そういう見方があったか、と思わせられるものが多く、また、いつも比較的攻撃的な書きぶりなのだが、著者が自分の誤りを認めて謝罪する回もある。 読者からの手紙で題材を得て描いていることが多いようなので、気になることがあったら手紙を書いてみようかという気になる。 「目を細める」 「誤訳自殺事件」の回で、アメリカ人の書いたものを日本語に訳した本に「目を細めて見ている」という文章があったのを、日本語の「目を細める」とは意味が違うのだから誤訳と言うべきだろう、とある。 英語圏では「目を細める」のは警戒の目で見ることで、機嫌がいいことではない。 私がこの表現を初めて知ったのは、英語の時間ではなく、田中光二の小説でだった。 たしか「幻覚の地平線」だったと思う。 その小説の中で「目を細める」を「警戒の目で見る」という意味で使っている、ということを誰かが指摘していて、なるほど、アメリカの小説を読んで育った人は、描写もアメリカ風になるのかと感心したのだった。P105「我、拗ね音として生涯を閉ず」の「音」は「者」の誤植か?
2005.01.13
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私が生まれる前の旭の主演映画。 相手役は浅丘ルリ子。 白黒。 昭和18年、山陰地方の大地主の息子・順吉(小林旭)は、女中に来ていた山番の娘・小雪(浅丘ルリ子)と恋に落ち、親のすすめる見合いを断り、家を出て、宍道湖のほとりで二人で暮らし始める。 順吉は京都の大学に通っていたインテリで、読書会を開く仲間がいる。読書会の仲間が皆、仕事を持っていることに主人公はあこがれを抱いており、このあたりで、社会主義にかぶれているのかな、と思わせるのだが、それがはっきり出てくるわけではない。 肉体労働を始めてから、仲間に「思想に裏付けがなかったことになっちゃうもんな」などと言われるのがせいぜいそれらしい。 やがて順吉は招集を受けて出征し、残された小雪は、看護人や肉体労働をしながら一人で暮らすのだが……。 とにかく浅丘ルリ子が可憐で、丈夫そうでもない体で働く場面がいじらしい。 かつて順吉の婚約者になっていた女との再会もあるが、その女がその後どうなったかは描かれていない。 最後は、小雪が、やっと復員してきた順吉に看取られて死に、順吉は結婚式と葬式を一度に行う。 死んだ花嫁を、積み上げた布団に寄りかからせての華燭の典というのは、現実に見たらこの世のものとは思えないだろうが、出席者は皆落ち着いたもの。 式の後で、順吉が、村の衆に「これまでの封建的なやり方を変える」というようなことを宣言する。 これを見て、あっと思った。トルストイの「復活」だ! もちろん、話の筋は「復活」とは似ても似つかぬものなのだが、一脈通じるところがある。現実には、この後が大変なのだが、そこまで描いては悲恋が台無しになる。 これで終わるから悲恋を描いた名作となるのだ。 この映画は悲恋の定番として、1966年に舟木一夫・和泉雅子で、1975年に三浦友和・山口百恵で再映画化されている。
2005.01.12
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冒頭からビックリ。 本物の西山荘だ! 西山荘でこういった出演者もいるロケをしたのは初めてではないか? 第1回ということで、お約束の丹波哲郎。この人、主役じゃない時の方が、軽くてうまいんだよね。顔も老人らしくなっていい味を出している。 八重さんも出れば夜叉王丸も出て、にぎにぎしくてよかった。 今回、カメラワークがいつもと違うように感じたのは私だけだろうか。 手前にいる人の後ろ姿の肩越しに向こう側にいる人の顔を映すなんて、めずらしいのでは。 仙台伊達家の忍者集団という新しい敵を作り出し、新工夫もぬかりない。 マンネリのようでマンネリじゃないのがプロの腕。公式サイト
2005.01.11
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最近話題の宮藤官九郎の脚本。 借金の取り立てにきたヤクザ(長瀬智也)が初めて見た落語にはまって押しかけ弟子入り。 「三枚起請」を無理矢理教えてもらう一方、現実にも同じような出来事があって、落語家の息子(岡田准一)と女を探しはじめる。 女を探すところは設定に少し無理があるのだが、無理を無理と思わせない力がある。 初めて落語を見た時、それがリアルな映像となって自分も落語の世界に入ってしまうところなど感心した。 長瀬智也の、不器用で怒鳴るようにしかしゃべれない落語も面白かった。 久しぶりに尾見としのりを見た。かつて映画の中で角川三人娘全員に振られた男も中年おじさんになりました。 単発ドラマではあるが、これで終わりではやや中途半端。 連続ドラマ化する予定があるのではないだろうか。公式サイト
2005.01.10
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面白かった! 夏目漱石と鏡子夫人だけは実名で、後は、娘も友人も「吾輩は猫である」の名前を使っている。 「吾輩は猫である」という虚を実としフィクションとして現実とは別の話、としているのだが、これが現実に近かったのではないかと思う。 本木雅弘の精神病っぷりがよかった。 それにしても宮沢りえ、売れてるなあ。ここまでになるとは。 漱石も子規も食欲の人だったが、明治の人はみなそうだったのかもしれない。カロリー過多なんてことはなかったろうから。 演出の久世光彦については、ニホンゴキトクを読んで、漱石が好きだとは知っていたが、さすがよくわかっている。公式サイト
2005.01.09
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筑摩書房古典日本文学全集271960.8.5 馬琴の作の現代語訳。完訳ではなく、「この訳文では物語の展開に無関係な考証の類はすべて割愛した」と訳者の解説にある(p416)。 子どもの時に、子ども向けに書き直したのを読んだことがあり、源為朝が主人公であちらこちらをさすらうということだけ覚えていた。それは琉球のところは入っておらず、解説で続きがあるということを知って読んでみたいと思ったものだ。 とにかくまあ長い話で、よくこんなものを考えつくものだ。 解説によれば「水滸後伝」を粉本としているということで、確かに、李俊を為朝に、シャムの国を琉球に置き換えているとは言えるが、形は似ていても中身は全く違う。 「水滸後伝」では再び梁山泊の縁者が集って終わるのに対し、「弓張月」は主人公の死(というより昇仙)を以て終わり、家族は離散状態のままだ。 貴種流離譚であり英雄譚であり歴史物語でもある。 為朝はとにかく行く先々で子供が生まれ、それぞれ非業の死を遂げたり、他家で成長したり琉球の王となったり。 思わぬ人が思わぬところで結びついていたりして話は複雑。 最初から全体の構想はあったのだろうが、人気が出てのばしていくうちに思いついたものもあるだろうに、大きな破綻がないのは立派なものだ。 訳者解説のほかに、幸田露伴『馬琴の小説とその当時の実社会』、真山青果『馬琴と女』、中谷博『「椿説弓張月』とその影響」、花田清輝『「為朝図」について』を収録。
2005.01.08
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サントリーの「伊右衛門」というお茶が売れているという。 CMも目につく。 本木雅弘と宮沢りえの関係がよくわからなかったのだが、この記事によると夫婦だそうだ。 初めてCMを見た時から気になっていたことが一つ。 それは商品名。 なぜ「伊右衛門」なのだろう。 「伊右衛門」で真っ先に思い浮かぶのは「四谷怪談」の民谷伊右衛門だ。お岩の夫で、邪魔になったお岩を毒殺する男。 サントリーの人たちは「伊右衛門」という名から、何を連想するんだろう。
2005.01.07
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2003年に放送されたものの再放送。 最初の放送で見逃したのでみたいと思っていた。 今回はビデオに撮ることができたが、見るのは年が明けてからになってしまった。 山本周五郎生誕100周年記念として制作されたもので、いかにも山本周五郎らしいドラマだった。 主役が宮沢りえ、その妊娠を知らずに江戸に立つ男が東山紀之。この二人、NHKの「元禄繚乱」でも夫婦役だったがこっちの方がずっといい。 ほかは、池内淳子、泉ピン子、若尾文子と、石井ふく子プロデューサーの、いわば身内で固められている。 みんな手慣れたものでしっかりなじんでいるからたいしたものだ。 感心するのは、ほとんど全部がスタジオ撮影なのに、狭く思わせないこと。 海辺の漁師小屋も、山腹の隠居所もそれらしく見える。 こういうところをNHK大河ドラマのスタッフも見習って欲しい。 調べたら、すでにDVDが発売されていた。公式サイト
2005.01.06
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WWEには興味がない、というより、プロレスでも全日本プロレス以外には殆ど興味がないのだが、芸能人WWEサポーターズ!を見て、勉強。ほう、そういうものだったのか。 でもって、今やWWEのディーバの一人になっている“ヒロコ”こと鈴木浩子のエッセイ、ANOTHER FACEを見に行った。 すると、サービスについて、ある国では、何しろ、とにかく遅いし態度は悪いし、ミスも多いときてる(笑)。例えば、大行列ができてたって、店員は絶対ペースを上げないし、それどころか席を立ってリラックスし始めたり、しゃべったりし始める。で、それに文句を言ったりしたら逆ギレされるから(笑)。という状態だと書いている。 これだけ見ると中国のことかと思ってしまうが、そんなことはない。彼女が住んでいるアメリカのことなのだ。 何かというと「アメリカは……」という人たちについてもチクリ。 「共産主義だから」「資本主義だから」とレッテルを貼って、レッテル越しにしかものを見ない人はこういうのを読んで、自分の頭で考えることを学ぶように。
2005.01.05
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その昔、10回の連続ドラマとして放送したもののリメイクだそうだが、昔のものは全く知らない。 一見幸福そうな、社会的地位も高ければ収入も多い家庭の祖父(植木等)、父(國村隼)、母(樋口可南子)、主人公(岡田准一)。 それぞれに屈託があり、父も主人公も自分の父親との間に確執がある。 母親だけは比較的穏やかな人で、何とか波風を立たせずに家庭を切り盛りしていこうとはしているのだが、夫との間に溝を感じている。 という、まあ、ありきたりといえばありきたりの設定なのだが、それをどうドラマとしてみせるか、というのが腕の見せ所であるわけだ。 男はそれぞれ安らぎを感じられる場所が家庭以外にあるというのをわかりやすく描いていたのに感心。 画面はフィルム撮影かと思うような色調で落ち着いていた。 出会いが偶然すぎるといえばそうなのだが、ドラマなんだから。現実には、うちとけるまでに時間がかかるだろうけれど、見ている方としては、そんなところで時間を取られても困る。うち解ける過程を描くのであればべつだが。 見ていて気になったのは植木等が老けたこと。 晩年のアラカンのようだった。 ドラマの最初と最後に地下鉄の駅の近くが出てくる。 風景に見覚えがある。九段下だ。 ああ、なんど九段下駅を利用したことだろう。 かつて全日本プロレスは、シリーズ最終戦は日本武道館での興行にすることが多かったのだ。 今は一時的に武道館から撤退しているが、かならず復帰して欲しいものだ。 公式サイト 追記。 ビデオで確認したら、地下鉄の駅は九段下じゃなくて竹橋だった。すぐ近くだけど違っていた。
2005.01.04
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正直なところ、大化の改新といっても何がなんだかよくわからないのだ。 政権争いだということはわかっていたが、ドラマを見るとそうも見えない。 「大化の改新」によって何かよくなったことがあったのかなかったのか、それもわからない。 ドラマ化というと、あれこれ人間ドラマをからめなくちゃならなくなって、かえって矮小化されてしまっていたのではないだろうか。 見る方に知識がないからだ、といえばそれまでなんだが。 せめて「日出づる処の天子」ぐらい読んでればもう少しわかったかも。公式サイト
2005.01.03
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うるう年ではない年になるとエラーが出るという単純なミスで、その部分については、一日で修正できました。 「輾転反側」のトップからダウンロードできます。
2005.01.02
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あけましておめでとうございます。 新年早々、私が作成しフリーソフトとして公開しているランチャーソフト「Vランチャー」に不具合があることがわかりました。 年が明け、起動したところ「2/29は日付ではありません」というエラーメッセージが出ます。 さらに、カレンダー表示を次の月にしようとすると、勝手にどんどん次の尽きに移動し、エラーメッセージがどんどん出てきてしまいます。 WindowsXPSP2とMEで確認しました。 カレンダーの部分にバグがあるものと思われます。 回避法としては、プログラムと同じフォルダにある「VL.ini」というファイルの中のカレンダー表示1の部分の「1」を「0」に変えるとカレンダーが表示されなくなるので、とりあえずエラーメッセージはでません。 また、「VL.ini」そのものを削除すると初期設定になるのでエラーが回避されることもあります。 今までVランチャーを入れていなかったPCで起動しても同じエラーメッセージがでました。 おそらくカレンダーの部分にバグがあるものと思われます。 修正には時間がかかりそうです。 申し訳ありません。
2005.01.01
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