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学校対抗の囲碁団体戦は、小中高とも、同一校3名のチーム。 一番弱い子を主将に立てて、残り二人で勝つということも起こる。 十数年、あるいは二十数年前だったか、 その年の高校選手権女子団体の部で優勝した某県代表チ-ムは、 主将が全敗で、副将・三将が全勝だった。 表彰式の記念写真で、 真ん中でカップを持った3年生の主将の表情が微妙で、 副将・三将の子と対照的だったのが、印象に残っている。 当時、これは相当にアジが悪い、と感じたのを憶えている。 大学のリーグとなると、多人数でもあり、 局数も多く、総力戦だ。 回戦ごとにオーダーをいじれるなど、戦略的な色が濃いようだ。さて、小中学校囲碁団体戦の都道府県予選がたけなわだ。 とりわけ三将の棋力が二桁級というチームが多い。 そこで、”その子を主将に立ててみようか?” と、妄想する事態が発生する。 主催者による大会要項には、 ”選手三名は、棋力上位順に主将、副将、三将と記入する” とあるものの、 25級だろうが、3段と申告してしまえば主将になってしまうのである。 そもそも、こどものパフォーマンスは、安定しないし、 対戦相手の棋風との相性もあり、 棋力認定というのは、絶対とはならない。 副将も3段、三将も3段と申告するなら、むず痒い事態だ。 これを戦略と呼べるか? 強いところで戦い、弱いところでは戦わないというのは、兵法の常道。 ルール(法)に違反するかどうか、証明する手段はあるのか? 卑しかろうが、それは感じる人の勝手で、当事者判断なのである。 一番厄介なのは、 「あのチームの主将は、本当は弱いじゃないか」 と、 他のチームの親(選手)が文句を言い出した場合である。 その文句には、理がある。 つまり、正しいのだ。 言っておくが、ただ、正しいだけだが。 さて、棋力詐称で、全国大会へ行ったとして、 その子供たちには、何が残るだろうか? それぞれの子供にとって、また、見守る親にとって、 囲碁とは何か? そういう問題かもしれない。 冒頭の、高校選手権の表彰写真を思い出すと、 このチームの一人ひとりには、 遠い昔のあの夏が、どんな思い出として、残っているのかな? そう、思うのだ。
June 11, 2012
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鳩サブレをもぐもぐしながら、敗局を思い出す。じっくりと息の長い碁にしていた。弱石はひとつだけで、ひっそりの生きも見えており、生きる前にシメツケとしてキカシを打った・・・アタリ。そこで、相手は、私の捨て石を取り上げた。だが、その捨て石は、まだシメツケ仕事の途上でダメが空いている。抜き跡に欠陥のある、不思議な形が盤上に残っていた。数年前、棋士の手合いで、取り上げ忘れすら反則、と明文化された程だから、取れない石を取り上げた、となれば反則である。困惑しつつ、3秒ほど相手を観察していたが、動きがないので、私は次の手を打った。無論、相手が取れない石を取り上げた瞬間に、反則は成立しているが、事態が先へと推移したことで、碁会所の風景としてありがちな、いわゆる、なあなあで後戻りすることの、ハ-ドルが上がっている。相手は依然として気づかず、さらにその次の手を打った。それを見て、もはや、相手は言い逃れ不能の状況となった、と確信した。そのとき、隣の観戦者が、「いまのところ、アタリじゃなかったんだから、まだ取れないよね。」 (碁会所かよ!)相手は、「あっ、すいません」、と謝りながら、アゲハマを元の位置に戻した。 (やはり碁会所であったか)あれ、伊角くんのような大人の対応じゃないの? ご丁寧に、そのあと幾度と無く、「すいません」を繰り返していた。自分の心を鎮めるためなのか、周囲の空気を刺激しないように祈りながらなのか。 「すいません」を繰り返すたびに、自らの誤りを認めているわけだが。観戦者の助言によって、自らの反則行為に気づき、それを謝りながら、何事もなかったように、盤面を手直しした、というだけのことである。ここで、開会式の時、運営者によって告げられた、ご丁寧な注意どおりに、私が時計を止めて審判を呼べば、相手の反則負けになっただろう。ただ、なにかしら、ためらいがあった。法律より空気が優先されるこの国のありように、軽い失望を覚えるようなものか(苦笑)。私にとって、その地は完全アウエーであり、相手も、助言者を含めた観戦者も親しげで、仲間のようである。ここで県外からやってきた私が反則を主張したらどうなるか。審判長の九段の棋士を呼んでもらうことも、浮かんでいたが、運営スタッフ全員が、私と顔見知りであり、私が、年に数回は囲碁大会の運営をしていることも、よく知っている、という事情が、私を妙に厄介な気分にさせていた。反則がらみのトラブルは、対局者や関係者だけでなく、運営スタッフにも、極めて不愉快な苦味を残す。優勝を争っているト-ナメントだから、決勝戦も一回戦も重みに違いはない。大会の種類やレベルによっても重みは違わないだろう。数年前、世界アマ日本代表決定戦の3回戦で、元院生の選手が、ハガシをやり、自分に向かって、「何をやっているんだ」などと、いいながら、ア-モンド・チョコを食らってふかしこいている様子を目の当たりにして、私は唖然とした。それを見ていた元アマ本アマ名優勝者が、顔をしかめていたものの、椅子にあぐらをかいて打っていた相手が、大目に見ていたことに、「これが、日本の碁なのね」と苦笑するしかなかった。正確に言うと、「ひとりの元院生A組の対局態度」である。 「反則を主張してまで勝ちにいくのは、卑しい人」ということは、勝負の世界では、問題外だが、本人が、「卑しい人だ」と思う限り、それは「卑しい」行為なのである。反則をされた側の選手にとって、卑しい行為の対極にあるふるまいとは何か?「盤上の技芸を高めて、勝つだけだ」と、淡々と語るのであろう。事実、反則を許したこの相手は、世界アマの日本代表になっているから、さらに男前なのだが。 さて、私が審判を呼ばなかったことを後悔しているかといえば、あれで良かった、と思っている。その思いに、棋力は関係ないのである。ザル碁であっても、卑しくはなりたくないのである。 ところで、若者の「ら抜き」表現が拡散している。「食べられる」を、「食べれる」といってしまうわけだ。 要するに、私が言いたいのは、私が、「ら付け」表現を好むという点である。 私が、「いやしい人」ではない、ということを宣言したがるくらい、私は、「いやらしい人」なのだ、ということだ。 さきほどより、一升瓶から注いだ 『白壁蔵』を飲みながら、これを書いているが、別に酔っ払ってはいない。 相変わらず、「凄い」レベルの大会だ。
June 4, 2012
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