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普段と異なった行動をしたり、緊張したりして余り心身の調子は良くなかった。水曜日、殆ど眠らなかったので木曜の朝、仮眠する際多分ぐっすり眠れるだろうと想った。しかし習慣の為か、いつも起きている6時には目が覚めた。可燃ごみの日なので、ゴミをまとめゆっくりゴミ置き場まで歩いた。玄関まで戻ってきた時、空を見上げた。明け方の、まだ薄暗い空。冷たい、朝の空気を胸いっぱい吸い込んだ。朝の空気は、何だか力強い。全ての始まりを感じさせるような、そんな力が凝縮されている気がする。2~3度、深呼吸を繰り返したら清々しい気持ちになってすっきりした。水曜日は、強迫観念から無理やり引き剥がされた状態だった。それが良いのか、悪いのか分からない。思い通り事が運ばない為に、苛立ったのは事実である。日中は過食と嘔吐をしたくないと常々想っているのに、苛々しているものだから、過食の衝動は襲ってきて、それに抗う術はなかった。その苛立ちは、不安感からきていた。PCの大切なデータをUSBに移すのは自己流だったし、PCの再セットアップは、説明書だけが頼りだったのであるが、その通りにしていても、間違っていたらどうしようと不安で堪らなかった。ちょっとした事で、忙しいサポートセンターの方の手を煩わせるのも申し訳ないような気がして電話も出来なかった。4時間強かかって、大方、作業を終えた。そして、過食と嘔吐を始めたのである。ぐったりとした。自業自得であるが。唯一の救いは、その日大好きなドラマが2つも放送されたという事である。『相棒』と『斉藤さん』は今の私にとってナチュラルにこころを和らげてくれる。お薬のように強力ではなく、飽く迄も自然に、なだらかな感じなのである。特に私にとって“観月ありささん”の存在は特別なので、癒された。今回放送分のストーリーの内容も素晴らしく、こころ温まるもので凍えていた私の気持ちも、少しずつ融解していくのを感じた。ドラマを観て胸が温まるのは、久し振りの感覚である。苛立っていた胸中が、少しずつ穏やかになったのは、観月ありささんお陰であると言っても過言ではない。それほど、私は小学生の頃から彼女の存在自体に癒されているのであるから。美味しい熱燗を少しずつ飲みながら、その時だけは、PCの作業を止めてゆったりした気持ちでドラマに集中する。評判の良いドラマであるだけに、とても面白く、最後には胸がすっきりする。今回は、すっきりする上にもっともっと温かいエンディングを迎えたので自然と笑みが零れた。だからきっと、無茶をしないで済んだのかも知れない。その後の私は、比較的落ち着いていたから。しかし、疲れは確実に蓄積しているので以前経験したように、まるで筋肉痛のように明日か明後日頃突然、ガクンと堕ちる恐れもある。過眠気味になっていて、サイクルが狂っている。いつもなら10時に眠れたら18時には目覚めるのであるが、最近は19時前まで起きられない。だから、シャワーを浴びるのはスーパーで買い物を済ませて帰ってきた後になってしまう。だから自然と、こうしてブログを綴る時間も遅くなる。今までの、○時までには~~をして、○時には~~をしなければならないといった強迫観念に基づく行動から外れている。それが気持ち悪くて堪らない。僅かな罪悪感さえ覚える。全て自分が決めてやっている行動だから、【それさえもきちんとこなせない自分】というのが赦せないのであろう。主治医の言葉を想い出す。「論理ではなく、感覚を大切にしなさい。」という印象的な言葉を。私は、つい何でも論理的になってしまう。電話診察を受信している際も、主治医に対して自分の状態を「~~だから○○なので死んでしまいたい。」という言葉を良く用いる。この、「~~だから」という部分が論理的過ぎるのである。もっと感覚を大切にして話しなさいと注意を受ける。でも、こうして毎日文章を綴っていると話す言葉も文章的になり、自分で勝手に原因を突き止め、“気持ち”を“論理的”にしてしまう。こころの病気は、論理ではどうにもならない。“感覚”こそが大切なのである。例えば、“疲れたと感じたら、ゆっくり休む事”や“母との他愛ない話で笑い合い、ぽかぽかする事”等、そういった事を感じ取り、糧にするのが病気が治る切っ掛けにつながるのであろうと考える。摂食障害にしてみても、無理矢理ただ口に入れ胃に詰め込んでいくのではなく、ちゃんと料理して、味わい、咀嚼して飲み込む。これが、【症状を大切にする】という事なのかも知れない。かなり難しい事だとは感じるが。何よりも感覚が大切な事は、そこはかとなく分かる。大好きな香りのボディソープで身体を洗っている時、心地好くて摂食障害の事は頭にない。ただ、身体からいい香りが立ち上るのが、嬉しい。大好きなドラマを観ている時も、論理的ではない。感覚で観ている。だから、感動して泣いたり笑ったりする。感想を述べる際は、どうしても論理的になってしまうのは否めないが。青い空を見上げている時、朝の新鮮な空気を吸い込んだ時。その心地好さは、感覚である。言葉する必要はない。ただ、「ああ、気持ち良いなあ。」と感じるだけである。そういった、感覚的なものを感じる時間を増やす事によって、病気に囚われないで済む時間もあるという事だと考える。特に、強迫神経症の縛りからは少しだけ解放されている。そこから、ゆっくりと治る過程を歩めるのではないかと希望が持てる。ニュースでは、食品の問題が叫ばれている。私は今まで、「どうせ吐くんだから」という気持ちで今問題になっている国のものが原材料に含まれている食品や、その国の食品も購入して食べていた。でも、食して数分後で具合が悪くなるという事を聞いて、流石に困った。ただでさえ、私はいつもお腹を下しているし、いつも調子が悪い。その上、入院という事になったら今もまだ本調子ではない母に、多大な迷惑をかけてしまう。しかし、その国の食品は安いのである。無論、その安さを選び入院という事になったら高い治療費を払わなければならなくなるので寧ろ大変である。話は変わり、今日もまたPCの新たな作業をした。セキュリティソフトをインストールしたのである。簡単な作業ではあるが、また不具合が起きたらどうしようかと気が気ではなかった。無事、済んでホッとした反面、精神的に疲れてしまった。これから、熱燗でも飲んでゆったり過ごしたい。
2008.01.31
何だかかなり頑張った。そしてとても疲れた。今、こうしてPCに向かえている事、ドラマ『斉藤さん』をこのPCに録画できた事。それは、正午過ぎから夕方までかかって大切な大事なデータをUSBに移す作業を黙々と行ない、再セットアップが出来たからである。前回とは違い、かなり時間がかかった。心身ともに参ってしまった。困るのは、頑張ってしまうと、神経が昂り落ち着かなくなる事である。まだまだやらねばならない作業は残っているが、もう今日、明日は休もうと想っている。今朝私は一睡もせず、母と共にPC専門店へ行った。久し振りの遠出であり、初めて行くお店だったので、予め訊ねたい事を頭の中でまとめておいた。しかし、店内に入った途端、物凄い大音量で様々な方向から携帯電話CMやそのお店のテーマソング(?)音楽、それぞれのコーナーに置いてある商品のCM等、本当に騒々しかった。いつも静かな所に居るので、こんなにも様々な音が騒然と混ざり合う所には、30分と堪えられないと感じた。そして、音に気をとられて自分が何者か、何を訊ねたかったのか、おぼろげになってしまった。しかし、どうにか店員さんにPCの状況を話して、どのようなUSBが良いか、データに関しては再セットアップ後、どうしたら元に戻せるか、セキュリティソフトはどのようなものが良いか、いろいろと相談に乗って頂けた。映画やドラマ等も保存するので、大容量のものが良いと勧められ、お値段もお手頃な商品を購入できた。やはり、専門店の方が良いと感じた。某大型電機店では、説明があやふや過ぎるのである。そこでは、大学生の頃ノートパソコンを購入する際に、「DVDも観る事ができる」と言われたのであるが、いざ起動してみると、そんな機能はなかった。その大型店は言わずもがな、「そんな事いった覚えはない。」と逃げた。泣き寝入りした。このPCも、その某大型店で購入したが、何故か2年半でもう2度も再セットアップしなければならない羽目に陥った。不信感が、倍増した。でも、こうしてやっと落ち着けたのは、母のお陰である。母はPCの事について全く分からないけれど、私が悪戦苦闘している最中も、「どう?大丈夫?あんまり無理したらいかんよ。」と度々声をかけてくれた。母はお昼ご飯を食べた後はゆっくり眠っていてくれて、安心した。まだ、本調子ではないのにお店に連れて行ってくれたのだから、本当にありがたかった。そんな中で、心配までしてくれてとても嬉しかった。私はずっとPCの前に座って、説明書を読みながら、また試行錯誤しながら、そして持ち前の大雑把さを発揮する事によってどうにか夕方にはTVの設定まで終わらせる事が出来た。「これで、今夜『斉藤さん』を録画できる!」そういう状態までに復帰できたのは、大切なデータをUSBに移し始めてから4時間経っていた。流石に胃が痛くなり、お腹も下り始めていて、過食の衝動が襲ってきた。身体もこころも悲鳴を上げ始めたのである。USBをPCと繋ぐのも簡単な作業なのに、私は難しく捉えすぎて混乱したり、元々PCに備わっていたバックアップをとる操作も、エラーメッセージが出て出来なくて焦ったりして1人、空騒ぎをしていた。かなり、疲れた。再セットアップ後の画面は、本当に寂しい。シンプル過ぎる。でも、余計なものは何にもないから、どことなく今までの苦しみが吹っ切れたような気もしている。「漸く、あのしつこいエラーメッセージから解放された。 大切なデータはUSBにある。 セキュリティソフトも購入した。 これで後、1年は持って欲しい。」そんな考えを抱きながら、ネットに繋いだ途端、ウィンドウズの更新が80個くらい出てきたので些かうんざりしながらも、それを終えて再起動したりインターネットのお気に入りを早速USBから取り込んだりして私の分身である、私に似た頑固で我侭ですぐ不調を訴えて、拗ねるこのPCと半日ずっと付き合っていた。何れにせよ、また新しい気持ちでやっていきたいものである。ドラマ『相棒』と『斉藤さん』が癒してくれた。『相棒』はまだ、余裕を持って観られなかったけれど、『斉藤さん』が始まる頃には幾分落ち着き、ゆったり日本酒を飲みながら観ていた。今回のストーリーもすごく胸の温まるもので、今一度、自分を省みなければならないと想った。“悪い事をしたら、「ごめんなさい」と謝る”という事。こういった基本的な事が、世の中では意外と蔑ろにされているように感じる。なあなあになっていたり、変に空気を読む事に必死で誤魔化す事だけに必死になっていたり。それは、自分にも思い当たる節がある。ドラマの中で、斉藤さんが潤一君を抱き締める姿がとても印象的だった。その様子はとても温かく、本当の親子のように愛情が通い合っているように感じた。今回のストーリーも、凄く楽しめた。是非、原作のコミックも購入して読みたいと強く想った。何だか、余りにも疲れ過ぎて少しテンションがおかしい。夕方、ある程度設定を終えてから過食と嘔吐をして、疲れ果て2時間ほど眠った。その所為か、スーパーで買い物をしている時は嘔気が酷かったし、今もお腹が下っている。やたらと足が攣る。これは、野菜ジュースやスポーツドリンクを多めに飲む事でどうにか解決できた。兎に角本当に、こんなに頑張ったのは久し振りである。そしてまた、PCの大切さやそのデータが自分の分身のように無くなってしまうと絶望してしまうものなのだと改めて感じた。今回、大容量のUSBを購入したので、こまめにバックアップを取るようにしたい。いざという時、焦らないで済むように。【喉元過ぎれば熱さを忘れる】といった状態にならないよう、気を付けて過ごしたいものである。
2008.01.30
とうとう、PCがおかしくなった。起動するたびに、エラーチェックを始めてしまうのである。サポートセンターに電話をしてスタッフの方の力を借りた。しかし、セーフモードでも起動できなくなっているこのPC。もう、再セットアップしか手段は無いと聞かされた。30日の朝、ヤマダ電機ではなく主治医が勧めた下さったPC専門店へUSBメモリを買いに行き、大切なデータはそれに移して再セットアップするつもりでいる。もう、こころは弾けてしまった。跡形もない。疲れた。その一言に尽きる。エラーチェックも、3時間はかかる。途中で止める事は出来なくてそれが終わらないと正常に起動しない。実は、バックアップする機能も、正常に作動しない。だから、ファイルをそのままUSBへ移動させるだけになってしまうが、それで良いのかどうかさえも分からない。だが、今日の電話診察で聞いた主治医の「PCはその本体よりも、 “データ”の方が自分の分身のように大切なんだよね。 だからクラッシュしたら がっくり来る気持ち、分かるよ。」という言葉から、“データ”だけは本当に大切なんだと改めて思い知った。私が日々集めた大切なものなのであるから。これからは眠れない。眠らずにPC専門店へ向かいUSBを購入してデータを移し、再セットアップを行ない、データを元に戻してネット環境を整える。それは、ドラマ『斉藤さん』をこのPCに録画しながら、この大きな画像で観たいからである。執念であろうか。たった一つのこころの拠り所が、私にとっては観月ありささんなので、眠らない事なんて、問題ない。電話診察から得たものは多かった。けれども今日は此処に記す気力はない。この私のPCは、まるで手が焼ける子どものようである。再セットアップも2回目なので、一応流れも分かっている。困ったときには、サポートセンターの方が親切に教えて下さる。PCの事で酷く落ち込む私は、おかしいのではないかと想っていたが、主治医は理解して下さった。実際、主治医も5年ほど使っていたPCが、バックアップも取っていないのに突然クラッシュした事があったそうである。主治医は、論文も沢山書いている為に、そのデータはPC内にあった。無論、プリントアウトもしてあったし他の媒体に保存もしたあったけれど、長年かけて溜めたデータはもう自分の分身となっていたので、本当に呆然としたと、がっくりしたと仰っていた。「私の気持ちは、おかしくはないんだ。」と分かって、ホッとした。私の分身、そして大好きな女優さんのドラマやその他大好きな映画のデータが詰まったこのPC。クラッシュしたら、1ヶ月は絶望の淵に立つ事になるであろう。立ち直るには多分、1ヶ月はかかると想うから。今はネットに繋がっているので、先程まで色々調べてコマンドプロンプトを立ち上げてまで試行錯誤した。多分、今日はPCの前から離れられない。唯一の救いは、母の風邪が少しずつ治りつつあり、熱も下がり、食欲が湧いてきている事である。私も弱っていたので、少しの間だけ一緒に過ごした。共に、『あしたの喜多善男』を観た。でも、ドラマの内容よりも、おしゃべりの方に夢中になっていた。久し振りに共に過ごした。この感覚が、とても温かく嬉しかった。私は、少しずつ何かを取り戻せているのであろう。大事を取って、母は明日もお仕事をお休みにした。そんな中、PC専門店まで車で連れて行ってもらうのは忍びないが、自分で出来る事は頑張ろうと想えた。PCが中途半端な状態なのではなく、サポートセンターの方に「こちらとしては、再セットアップをお勧めするしかありません。」と言われた事で、何だか吹っ切れた。その際は、起動できている状態でバックアップを取る事は忘れずにと言われたが、もう、それさえも出来ないので、データを移すだけになり、後は説明書を読んで何とか頑張るしかない。タイムリミットは、『斉藤さん』が始まる10分前の21時50分。たっぷりある。1日くらい、ゆっくりするのは我慢して、ちょっと頑張ってみようと想う。
2008.01.29
やはりこころが、折れている。そしてダメージを受けてぼこぼこにへこんでいる。立ち直るのが難しい。PCの不調がこころの不調と直結しているのは否めない。抑うつ感が身体中に広がって何をするのも億劫である。今は、母が最も辛い状況にある。風邪は本当に辛い。発熱・咳・はなみず・喉の痛み等、常にそれらの症状で苦しい。苦しんでいる母を見ているのがとても心苦しい。母に代わって、私がその風邪の症状を引き取りたい。PCトラブルさえなければ、もっと余裕を持って母の事を考えられたと想う。今はPCの事で、これからしなければならない作業がこころの大半を占めている状態である。ヤマダ電機に行って、USBを買う。PCに接続して、大切なデータのバックアップを取る。USBに移すのである。その後、昨年の夏やったように、再セットアップを行なう。これは1時間ほどかかる。そして、USBに移したデータをPCに戻す。説明書を読みながらやれば大丈夫かも知れないが、今、生きることで精一杯の私にとって果たしてこれらの事が出来るのかと考えただけでうんざりしてしまう。誰にも頼れず、1人で行なわねばならない。その事が、心身に重く圧し掛かっている。PCトラブルが、私のストレスとなる事を、母も承知している。だから母も、風邪を引いているのに私の事を心配している。本当に申し訳ない・・・。雨降り月曜日。久し振りに1人で買い物をした。母に頼まれたのは、白菜とお豆腐だけだった。先日、白身魚の切り身を買っていたので、それでお鍋を作るらしい。人が多くて息苦しいとか、考える暇はなかった。早く母の元に戻らねばと想っていた。さっさと早足で狙い定めていた商品を次々にカゴへ入れて、レジでも、丁寧かつ速やかにお仕事をこなす店員さんの所に運良く並べた。酒屋さんでも、いつもはおつまみのコーナーで悩んでいるのであるが、いつもと同じものをカゴに入れ、「そういえば母さんのポカリスウェットが 残り少なかったぞ」と想い出し、それもカゴに入れ、此処最近では最短時間でお店を出て、家路を急いだ。家に帰り着いて気が付いた。自分の判断で母に“冷えピタ”を買うつもりだったのに忘れていた事を。閉店まで時間があったので、「冷えピタ、いる?」と尋ねると、母は、「ううん、いらん。ああいうの、嫌いなんよ。」という事だった。確かに、高熱が出る気配は去り、解熱剤もある。それに、母は何かが顔にくっついているのが嫌いだと言っていた。そういえば、私も好きではない。もう1つ、母が私に頼み事をしてくれた。頼ってくれるのが、何だか嬉しい。それは、【大家さんの所へお家賃を持って行く事】であったが、私は快く引き受けた。お家賃持って行き、領収書を受け取るだけで良い。正直、大家の顔を見るのは厭だけれど、母のストレスが1つでも軽減されるのなら“何でもどんと来い”といった感じである。大家の大きな家は、歩いて30秒くらいの所にあるが、私が家賃を持っていくのは初めてだったので、大家は少し驚いていた。なので話しかけられた。「今日は母さんじゃないんか。」と言われたので、「母は、風邪を引いて熱があるんです。」と返した。「ああ、電話の声が確かにおかしかったなあ。 それで寝よんかい。」と言うので、「はい、熱があるので・・・。すみません。じゃあ、失礼します。」と切り上げてその場を去った。母が風邪を引いて熱があると言うのに、大家の顔はにたにた笑っていたので段々腹が立ってきたのである。でも、腹が立っているなんて表情は出さず、こちらは偽りの笑顔で、最後に「おやすみなさい。」と告げて玄関から立ち去った。どうして、母が風邪だと聞いてにたにたしたのであろう。心配そうな顔を、嘘でもできないのがやはり年寄りなのであろうか。私は、やはり大家に対する積年の恨み辛みを捨てられないでいるという事が分かった。いつも気丈な母が、弱っているので哀しい。そして母に対して何も出来ない自分が、悔しい。また、その上私まで弱っているのが心苦しい。親族まで範囲を広めるとPCに詳しい、IT関係に進む為の専門学校に通っている人はいる。母の妹夫婦の、息子である。しかし彼は、今名古屋にいるし、連絡先など全く知らない。叔母夫婦は2人とも朝が早い為、20時には床に就くから電話は掛けられない。だから、PCに関しては自分の力そしてサポートセンターの方の力を借りてどうにかするしかないが、どうも他人と話をするとなると緊張してしまって、後に胃が痛くなる。【システムの復元】を一応やってみたが、それによって復旧されたのは、スクリーンセーバーが出るようになっただけであった。早い内にUSBを買いに行かなければ話にならない。ドラマ『斉藤さん』は、一度このPCに録画して、後程DVDに焼くつもりだったのでクラッシュしてしまう前に、早くデータをUSBに移さねばならない。そして、好きなHP・ブログ、画像等をこのPCに記録してあるのでそれも・・・。その後の再セットアップも大変である。考えただけで、こころが沈んでいくのを感じる。底なしの泥沼にはまって久しい。顔だけが出ていて、辛うじて息だけを繋いでいる。昨日も綴ったように、悪い時には悪い事が重なる。キッチンの蛍光灯が、切れそうな兆候を見せている。私の部屋の蛍光灯も。多分、PCの復旧は水曜日放送の『斉藤さん』には間に合わないので、DVD録画出来ないであろう。それも、哀しくて仕方ない。お酒の量が、増える。煙草を吸う本数も、知らず知らずのうちに増えている。死んでしまえたら、全ての事に患わなくて済むという考えが頭の中を支配する。そんな時、ふと聖書の言葉を想い出した。高校生の頃、大好きだった箇所である。“マタイによる福音書第6章”からの抜粋であるが、『野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。 働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、あなたがたに言うが、 栄華をきわめた時のソロモンでさえ、 この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる 野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、 あなたがたに、それ以上良くして下さらない筈が あろうか。 ああ、信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、 あるいは何を着ようかと言って思い煩うな。』というものである。高校生の頃の私は、摂食障害の症状、成績が常に上位ではならない事、妹が非行に走った為に自分は良い子でいなければならない事等常に煩悶としていた。その上、原因不明の酷い頭痛が毎日襲ってくるようになり、悩みは増えた。看護科もある高校だったので図書館で医学書を調べて、勝手に「私は脳腫瘍があるのかも知れない。 だからこんなに頭が痛いんだ。」とまで想っていた。思い込みの激しさは、子どもの頃からのものである。しかし、牧師先生に相談したり、その牧師先生に看護科の生徒が実習に行く病院へ連れて行って頂いたりした。それによって、頭痛の原因は、生まれつき首の骨が“猫背状態”に曲がっていて肩が凝りやすい事に起因している事が分かった。その後も、牧師先生が気にかけて下さり、そこで、上記の言葉と出会った。明日は炉に入れられる野の花でさえも神は平等に命を与えて下さっている。私達は些細な事で何を思い煩う事があろうか。あの時は本当にこころが晴れた想いであった。今も、あの時のように、この言葉がこころに響く。【思い煩うな】という、厳しくも温かい心強い言葉。大切にしてきたものが失われるかもしれないのは哀しい事だけれど、それによって全てが終わる訳ではない。もう少し、しっかりしなければと考え直せた。先程、嬉しい事があった。ブログを綴る手を休め、家の中をうろうろしていたら、母に声をかけられた。「○○ちゃん、大丈夫~?」と。「う~ん。何とかね。」と応えると、母は「ねえ、○○ちゃん、ピザが食べたい。」と可愛い声で言った。私が、冷凍食品のピザがお得な価格で売られているので、何枚か買い溜めしていたのを母は知っていたのである。勿論私は、「いいよ!お腹空いたん?どれくらい食べる?」と訊いた。半分くらいで良いというので、レンジで温めた。レンジで出来上がるピザなのである。母曰く、お鍋の白菜やお豆腐、お魚の切り身は食べたけど何だかお腹が空いたらしい。風邪の症状が酷い時は、殆ど食べなかったので、食欲が出てきたという事が本当に嬉しかった。出来上がったものを渡すと、にこにこしていた。私も、つられて笑顔になった。こころが弱っている私にとって、些細なトラブルやハプニングが大打撃へと繋がる。現に、こころが目に見えるとしたらハート型の段ボール箱がハンマーか何かで叩かれてもうハートの形を成していないという状態だと想う。けれども、こころはダンボールではないから、また新しい形が生まれていく。叩かれてへこんだ部分は、次に叩かれた時ダメージを緩和する為の工夫を凝らし、強度を増しているかも知れない。今日は聖書の言葉を用いたが、私は子どもの頃から【言葉】によってこころが瀕死の状況に追いやられたり、逆に、より強い状態に復活したりとその力には大変な影響力があると考える。言葉は時に鋭い刃のナイフとなり、人を傷つける事もあるが、時に、もふもふの大きなコットンのようにこころを優しく包み込んでくれたり、包帯となって傷口を守ってくれたりする。だから、【言葉】を大切にしたい。その点で、私は未熟である。明日には、少しでも母の調子が良くなっている事を雨雲に隠れた星に願い、休もう。
2008.01.28
冬の季節、日を追う毎に気温が下がり続ける中、不安に想っていた事が現実になった。母が風邪を引いてしまったのである。寒い中での、お仕事。利用者さん宅での水仕事や調理、お掃除。徒歩でのお買い物。疲れて帰ってきたらもう自分の為に料理をする気がないからと湯豆腐だけしか食べない日が続き、殆ど野菜を摂取していなかった事も一因だったのかも知れない。私の所為でもある。私が、お料理を作ればよかったのである。熱が38度出ていて、咳き込んでいる母を見ていると、胸が痛む。体調の変化があったのは、昨日だった。少し熱っぽく、寒気がするけれど、無理をしてお仕事をこなした。昨晩は、PL顆粒を服用したので今朝起きた時、大分調子が良かったからお仕事へ行った事が、風邪をこじらせてしまったのであろう。貼るカイロを2つ渡して、母のお腹と背中に貼ったのであるが、余り効き目は無かったようである。熱が上がり続ける中、今日も最後まで仕事をこなして帰ってきた。でも、もう限界だったようで、明日のお仕事はお休みする旨を上司に電話をしていた。私は安心した。月曜日、お休みすれば火曜日は休日なので2日間ゆっくり母は身体を休められる。多分、私が色んな事で弱りきっていて負担になっていたのも、母が体調を崩した一因だと考える。私は殆ど食べ物を食べていないけれど、野菜ジュースは飲んでいる。しかし、母は殆ど野菜を摂取していない。これからは、母と共に野菜ジュースを飲もうと想う。母の苦しみは、私の苦しみでもある。風邪の、症状の辛さ。【熱が出る時に感じる悪寒の苦しさ】【熱が出ている時、身体や関節が痛む辛さ】【鼻が詰まり、息苦しい上に咳が出る為呼吸が苦しい事】等、辛さは枚挙にいとまがない。私も病気を患っていて苦しいと感じ辛いけれど、【楽な時間】もある。しかし、風邪の症状は治るまでずっとずっと辛いのである。それを想い、母が苦しんでいる様子を見ていると「どうにかできないものか・・・。」と想うだけで何も出来ない自分の無力を情けないと感じる。ここで、私が崩れてはいけないと己を律する気持ちで無茶はしないでいられた。病症は相変わらずだったけれど、母に心配をかけるような無茶な事はしなかった。【病気の症状を大切に過ごす事】というのは、主治医の言葉であるがなるべくそれを意識した。抑うつ感が酷くて自分を責め、貶める気持ちが高じても、なるべく落ち着いて通り過ぎるのを待つ事。過食と嘔吐も、ゆっくり食べて焦らない事。なるべくこころがなだらかであるように、無理し過ぎない事などを心掛けた。そして、お薬を服用する際も、ちゃんと処方どおりに服用した。ただ、ベゲタミンAは久し振りに服用したので昼間、健忘を起こしたようである。これは、母から聞いて初めて分かった私のおかしな言動である。昼、母はご飯を食べる為に帰宅した。私は完全に眠っている筈なのに、「おかえり。もうお仕事終わったん?早いね。」と言ったらしい。母は、「お昼ご飯食べに帰ってきただけよ。 まだこれから仕事はあるよ。」と言った。すると私は「そうなんや。あのね、私、なんか風邪引いたみたい。 熱があるし、咳が出るんよ。」と言ったという。なので母は、「いかんがね。体温計って、風邪薬飲んでおきよ。」と言った頃には、私はぐうすか眠っていたらしい。全く記憶にない。寝ぼけて嘘をつくなんて、吃驚した。風邪気味なんて事など全くなかったのであるから。これは明らかにお薬による健忘であるが、何故こんな事実でない事を母に言ったのか、不思議でならない。まるで、健忘を起こした自分は、潜在意識に潜むもう1人の自分であるような気がした。今までも何度か、ベゲタミンを服用した日は記憶にない会話を母と交わしていた事があった。でも、こころにもない事を話していた事は、初めてだった。多分、ベンゾジアゼピン系のデパスと、ベゲタミンの併用が、健忘を起こす原因なのかも知れない。健忘を起こして何か食べているという事はまだないので、それだけは避けたいものである。きっと、食べてしまっていたら起きた時、相当なパニックに陥るであろうから。22時頃、サポートセンターからの電話を受けた。ソフト内に録画した、映画やドラマを消さない為には、外付けのUSBメモリハードディスクを購入して、そこに内容を保存してから、ソフトのインストールとアンインストールをする事を勧められた。それで解決すると想った・・・のだが、しかし、どうやら他の捜査をしている途中、何度もエラーメッセージが出る事から、PC自体に問題が出ている事も判明した。これはかなり痛い。相当なショックである。また、再セットアップしなければならない。今のところ、こうしてネットは出来ているので早いうちにUSBを購入して大切なものは全てそちらに保存しておき、再セットアップしなければならない。それにしても、このPCはトラブルが多い。大学生の頃はノートパソコンを使用していたが、こんなにもトラブルはなかった。様々なコンテンツやソフトが備わっている分、壊れやすいのかも知れない・・・。サポートセンターの方はとても分かりやすく説明して下さったのでもう、外出が辛いなんて言わず、早いうちにUSBを購入して録画しているドラマや映画を保存しておきたい。そして、ネットのお気に入りや、保存した画像なども。でも、崩れ落ちそうである。母は、今風邪で苦しんでいるからこれ以上負担になってはいけない。誰にも、この心細さや悔しさ、哀しさ心許なさを伝えられないのは、辛い。【悪い事は、重なる】これは、言い得て妙であると痛感した。溜め息ばかりが出る。有害と想われる、セキュリティソフトの削除をしようと想っても、コントロールパネルその項目さえ立ち上げられない。PCの不調は、私の不調に直結していると言っても過言ではない。今までがそうであったように。サポートセンターの方にお礼の言葉を述べて電話を切った後、ズドンと落ち込んだ。そして、他の作業もこのPCでは出来なくなっていた事が分かり、茫然自失となった。こうしてブログが綴れている事だけが救いである。また、インスタント機能で録画してあるものが観られたり、CD・DVDの再生も何とか可能である事にも救われている。病気によって弱りきり、外出できない事でこのPCでネットの世界に繋がり、社会を感じられる事で何とか普通の人についていけている。それが壊れるとなると、ブログも綴れないとなると、私はたちまち孤独になる。それを恐れている。夏に1度、再セットアップを行なったが、その時、PCがまっさらになって頭の中も真っ白になった。TVチャンネルの設定をしたり、ネット接続の設定をしたり、お気に入りに設定していたブログを記憶の中からだけで探したり・・・。大変だったし、ストレスにもなった。今回は、そんな羽目に陥らないよう、明日か明後日にでもUSBを購入して全てを確実に残しておこうと想う。母が体調を崩し、PCも壊れかかっている。言わずもがな、何よりも母の事が大切であるから母にはゆっくりと過ごしてもらいたい。ヤマダ電機が近所にあるので、明日、スーパーで買い物を終えた後、早速行こうと想う。店員に聞いて、早々に買い物を終えたい。母の負担とならないように。ぼっこぼこにへこんだこころは、元には戻らなかった。アンインストールしてインストールする作業もエラーメッセージが出て、出来なかったのであるから。ずぶりずぶりと底なしの泥沼にこころが沈む。辛うじて、呼吸をしている。それは、自業自得である。「明日できることは明日で良いや。」というスタンスでいた事が、このトラブルを招いた。もう少し、学習をしなければならないと反省した。取り敢えず、症状を大切にして、無茶だけはしないように過ごしたいものである。
2008.01.27
窓を開けると、冷たい風が吹き込む。とても寒いけれど、身もこころも引き締まる。早朝の空は澄み切っていて、流れる雲を見ていると何となく和んだ。深呼吸をして、新鮮な空気を肺に満たした後、窓を閉めた。凄く寒かったけれど、こころは鎮まった。憂鬱な気持ちは、消えない。唯一の救いは、暴走していた病気の症状が落ち着きつつある事である。自傷したいという衝動も余り顔を見せなくなったし、眠剤を服用した後は、過食したいと想う事無くすっと素直に眠れている。ベゲタミンを服用しなくても、断眠する事はなくなり、目覚めた後の怠さも緩和されているので、ぼやぼやとした思考を持て余す苛立ちも余り無い。だが、相変わらず強迫観念による拘りが強い。時間や数字に拘泥している。過食を始める時間や、睡眠時間、煙草の本数など、数え始めたらキリがない・・・。でもそんな中で、低空飛行を続けている。PCソフトの故障に関してはまだこころが痛くて憂鬱だけれど、母の笑顔を見ていると、落ち着く。母の真似をした、悪戯心が生まれた。偶に、私がシャワーを浴びている間に母が帰宅したら、母は私の部屋に隠れていて私を驚かせる悪戯をする。母はまだ帰ってきていないと想っている私は言うまでも無く物凄く吃驚する。「わっ!」とか言うのではなく、部屋の扉の陰に密かに隠れているだけなので余計吃驚するのである。今日、私が丁度シャワーを浴び終えた時、母が帰宅して玄関から入ってきた。母の部屋に行くまでに、この浴室の横を通る。だから私は息を潜めて満面の笑みを浮かべて立っていた。バスタオルを巻いただけの姿で。母が現れた時、小さな声で「おかえりぃ。」と言うと、母は「おおっ!」と飛び跳ねて吃驚した。私の目論見は大成功だった。今までたくさん驚かされたので、そのお返しという形になったが、後に2人で大笑いした。「ああやって飛び跳ねられる俊敏さがあったら、 何があっても助かるね。」と私が言うと、「まあね!あんたよりは、早く動けるから 何かあった時、私の方が助かる確率が高いよ。」と母は言う。その通りだと想う。でも、心臓に悪いのでお互いこういうことはもう止めようねという事になったが、多分、母は遣り返しのプランをもう練っているであろう。ドキドキする。ネットのニュースで嬉しい記事を見つけた。冬ドラマ勝ち組は、月9のドラマと『斉藤さん』だという事である。“勝ち組・負け組み”という表現は正直嫌いであるが、私が面白いと想って観ている、大好きな女優さんが出ているドラマが順調である事を知ると、自然に笑みが零れた。昨年放送された、『鬼嫁日記いい湯だな』も結構面白かったけれど、視聴率は良くなかった。だから、面白さと視聴率について私は余り関連付けないでいる。実際、ありささんが出演したドラマで余り面白いと感じないドラマもあった。それは大体、『ナースの仕事』というドラマの“ドジでも明るく天真爛漫”というキャラクターの役が多かったからであろう。今回の『斉藤さん』は、それとは異なったイメージの役である事が良かったのだと想う。でも、今回ドラマがヒットした事によって、ありささんの素晴らしさがまた注目されるかも知れないので、嬉しいのである。だから今日は、“レディーボーデン~ストロベリー~”を購入した。これからは、抹茶とストロベリー交互に楽しめる訳である。今日は、ストロベリーを初めて頂こうと想っている。とても楽しみである。嬉しい事と、楽しみ。苦しくて辛い事ばかりの毎日だけど、タイミングの神様は、決して私を見放していないのだなと感じた。未だに、「気の持ちようだろう」という言葉が横行している。時と場合、その人の状態によっては、もしかしたらその言葉も、有効的かもしれない。しかし、こころの病を患って苦しい最中にある―特に、うつ状態が酷い場合―そんな時、「気の持ちよう」だと言われても、閉口してしまう。どうしようもなく困り果て、何も言えない。「気の持ちよう」で全てがどうにかなっていたら、こころの病気など端から存在しないであろう。精神科の医者も、臨床心理士もこの世に必要ないであろう。こころを患う環境があった。そしてこころの病気を生きている。そこには、辛苦がある。決して【気の持ちよう】では如何にもならない状態に陥るのである。健常者とされている人々は、そのこころの痛みには鈍感である事、それは仕方が無いと私は想う。私は、骨折した事がなくて、その痛みが分からないように、こころの病気を患った事が無い人はやはりその苦しみは分かり辛いと想う。でも、ほんの少しの【慮り】が存在すれば、状況は変わってくると想う。私の祖母は、心理学でいうヒステリーだった事がある。祖父は外国船の船乗りだったから年に数回しか日本に帰ってこない。祖父の兄は、米屋へ婿養子に行ったので祖母は身体が弱かったけれど、その店の手伝いをしていた。頼まれたら断れない性格だったので、心身ともに擦り切れていたのであろう。胃痛をはじめ、呼吸器官の異常が起きた。そしてとうとう、黄疸が出て肝臓が悪くなっていた事が分かった。そして、祖母は入院した。母はもう社会人となっていてとある病院の受付で働いていた。毎日祖母が入院している病院へ行っていたが、いつの頃からか、祖母は病室の壁に向かってぶつぶつと呟くように会話するまでになっていた。そこには、決して【気の持ちよう】と言葉を挟むことは出来ない。母も、そんな祖母の姿をみてかなりのショックを受けたのであるから。でも、祖母は強かった。このままではいけないと決意して、処方されていたお薬を全て捨て、主治医に「私は大丈夫です。もう退院できます。」と言ったのである。うつ病など重篤な病気ではなくヒステリーであったから、少しずつ調子が良くなってきたのだと考える。そして、40代で今も続けている体操と出会った。その頃は一生徒でしかなかったが、熱心に毎日通い続ける事によって師範の資格を取り、今では本部がある地域の会長となった。82歳の今でも、先生として生徒の方々に体操を教えている。これは、生半可なものではない。2時間半はずっと身体を動かすのであるから。祖母の場合は、【気持ちの方向転換】でその後の人生は変わった。それだけ強い何かが祖母のこころにあったのだと想う。でも、祖母と私は血が繋がっていても違う人間である。摂食障害、うつ病、強迫神経症、PTSD、バイポーラetc...私が患っている病気は多い。どれも、【気の持ちよう】ではどうにもならない。それは、一般常識になぞらえた悪魔的な言葉だと感じる。病気の苦しみというものを無視して、病気を患った事自体を責めている。そういった考えが横行している事が、本当に哀しいと私は想う。全てに疲れてしまったと想う。その想いは、簡単に【希死念慮】へと繋がる。過食と嘔吐は、身もこころも切り刻まれるような痛みと罪悪感がある。抑うつ感は、目に見えるもの全てを真っ暗にする。PTSDの症状であるフラッシュバックでこころと身体が凍りつく。バイポーラの所為で精神が安定しない・・・これらが1日の間に絶え間なく身の上に起こる。時々、数分から数十分だけ、落ち着いている事はあるが、それは多分アルコールによる意識が鈍くなっている状態だからこそもたらされているものであり【本物の意識、本当の自分】ではない。「疲れた・・・。」気付けばいつも、そう呟いている。「死んでしまえたら、この疲れからは解放される。」その想いだけがこころを支配する。主治医も、死ぬ事はいけないけれど、疲れたら死にたくなるという気持ちは分かると仰っていた。しかし、だからといって死ぬ事はできない。祖母の強さを少しは受け継いでいるのであろう。「ここで諦めて逃げ出したくない。それは悔しい。」そういった想いが溢れてくるのである。きっと、ひとりだったらこの想いは生まれなかったであろう。私が生きている上で、お世話になっている人々のお陰で、こうして今も何とか息を繋げていられる。それに感謝しなければならない。【感謝の気持ちを忘れない事】【常に謙虚な気持ちでいる事】これらを心掛けたいと想っている。だが、病症に侵されている時はそれらを忘れているのであろう。自分の事だけで頭がいっぱいになって、兎に角逃避する事しか考えていない。自傷する事も、過食と嘔吐が酷くなる事も、母にとっては心配で仕方が無いであろうと想像に難くない。なのに、そういう状態になる。今日、母は少し体調を崩し風邪気味であった。料理を作る気にもなれなかったみたいで、冷凍食品のお好み焼きを購入して、それを食べ、日本酒を熱燗にして飲み、PL顆粒を服用して早い時間に眠った。私の調子の悪さが、母のダメージとなってしまった事が本当に申し訳ない・・・。今は、少しずつ無理をしない事が大切なのだと感じる。日曜日には、現在ある懸念もきっと解消できると想うのでそれまでは、どんなに病症が酷く出ても余り動揺しないで過ごしたいものである。
2008.01.26
一旦、悩み始めるとその事で頭がいっぱいになる。もっと他にやるべき事はあるのに、煩悶とする時間がいつまでも続く。PCソフトの故障は、どうやら私にとってかなり大きなダメージのようである。それに、いつもこのブログを推敲する際、プレビュー画面を開こうとしてもエラーになる。どういうことであろう。ソフトについては、思い当たる節の無い突然の故障だったので、私のこころはぼこぼこにへこんでしまった。こころの調子が崩れると、必ず病症として酷く出てくる。眠れなくなったり、過食と嘔吐の回数が増えたり、強迫観念が強くなったりする。例に漏れず、今日は病症のオンパレードで苦しんだ。悪足掻きばかりしていたように想う。今朝、凄く落ち込んでいて、母に「私、こころが折れそう・・・。」と伝えた。誰かにこの苦しみを伝えたかった。ひとりでは抱えきれなかった。少し、母に甘えた格好となった。そうしないと、本当に駄目になりそうだった。自傷する事。そればかりが頭に蔓延っていた。また、4時半から1時間半ほど眠った後、発泡酒を飲むという【アルコールに逃げる】状態であった。何も食べず、只管お酒を飲んでいた。でも酔う事は疎か、ふわふわする事もなかった。“SmartVision”というTV番組を録画したり、DVD・CDを再生したりするソフトが壊れた24日の夜、母にその事は伝えており、凄くショックを受けている事は母も分かっていた。なので、仕事に行く前母は、「今日、お仕事休もうか?一緒に居ようか?」と言ってくれた。その慮りが、とてもとても嬉しかった。私は、「ううん、大丈夫やけん。ありがとう。」とこころを込めて言葉を返した。“辛そうだから一緒に居ようと想ってくれた”それだけで、胸がいっぱいになった。本当にありがたかった。いい加減、PCトラブルには慣れなければいけない。一々落ち込んでいたら心配をかけるばかりだから駄目だと自分に言い聞かせた。それでも、相変わらず私は落ち込んだまま、発泡酒をぐびぐびと飲んでいた。過食をするのも面倒だと想っていた。しかし、今までずっと続いてきた事が突然止まる訳は無く、惰性で過食を始めていた。そうしていると、物音がして吃驚した。母が帰ってきたのである。突然の事で呆然とし、私は「どしたん?お仕事でなんかあったん?」と聞くと、母は穏やかな笑顔で「今日は早出のお仕事だけにして 後はお休みにした。 私も人間不信に陥っとるし、今は あんたの顔をみて過ごす方が良いもん。」と言ったのである。母が、私の事を心配してお仕事をお休みにしたのは明らかである。最近、母が仕事の事でショッキングな事があり落ち込んでいたのも、事実である。でも今回は、私の事を想ってお仕事を休んでくれた。それが凄く凄く嬉しかった。同時に、お仕事を休ませてしまうほど心配をかけてしまった事を申し訳ないと想ったが・・・。母の、思い遣りが温かかった。事実、私はあのまま1人で過ごしていたらどんな無茶をしていたか分からない。ちょっとしたハプニングでも、私は酷く動揺する。それを、母は見抜いていたのであろう。ありがたいと想った。でもその分また母の負担になってしまった事を反省した。しかし、心身の調子は相変わらず悪く、私は病気の症状に踊らされた。普段、夜中に1度、朝に1度という2回の過食と嘔吐で済んでいた。だが、こころに荒波が立っている状態である今の状態では落ち着かず、眠れず、3度目の過食と嘔吐を始めてしまった。母がいたのにも拘らずである。母はただ、「無理したらいかんよ。」と言ってくれるだけで、私を責めはしなかった。「私もこれから朝昼兼用のご飯、食べるんよ。 一緒に落ち着いて食べようね。」と優しい言葉まで掛けてくれた。今の状態は、所謂【緊急事態】である。だから、病症が酷く出ても仕方が無い。それを、自分が受け容れる事も大事であり、母も何となくそれを分かっていたのであろうと感じた。部屋は別々で食事をしたが、時々「寒いねえ。何か温もるものを食べな。」という言葉がそっとこころに響いた。母が心配してくれている事。気にかけてくれている事。いつも綴っているが、これは3年前までは考えられなかった事なのである。過食も嘔吐も苦しかったけれど、母がいる安心感から、全てを終えた後すっと眠れた。母もまた、日頃の疲れが溜まっていたようで昼から夕方まで眠っていたようである。私は、眠る時間が遅くなった為、起きる事が出来ず、電話診察を受診できなかった。でも、いつもより安心して眠れたので良いと想っている。“レディーボーデン抹茶”を食べた。1スプーン。それは、今まで食べたどんなアイスよりも美味だった。アイスクリーム自体、凄く久し振りに食べた。“レディーボーデン”または“ハーゲンダッツ”等高値のアイスを食べたのは、よく祖父母の家に泊まりに行っていた小学生以来である。というのも、祖母は北海道生まれで濃厚なアイスクリームが好きなので、冷凍庫には常にリッチなアイスが常備されているからである。小さい頃は、祖父母の家に泊まりに行く度、眠る前の夜食としてアイスを祖母と一緒に食べた。祖母は、そのリッチなアイスクリームに牛乳を少しかけるのがお気に入りだったのを覚えている。私もそうして食べた事があるが、それが意外と美味しいのである。ドラマ『斉藤さん』の視聴率が良かったお祝い。そしてぼこぼこにへこんでしまった私のこころをふんわりさせる為の1口。その効果は大きかった。口の中いっぱいに幸せが広がったと言っても過言ではない。久し振りに、美味しいアイスクリームを食べられて私はその後、少しの間だけ厭な事はこころから追い出せていた。レディーボーデン1口で増える何百gの体重なんて全く気にならないし、気にしない。少しストレッチの時間を増やしたり、食べる量を減らしたりする事で調整すれば良い。痩せ願望。今だけの「太ったのではないか」という想いを抱くから、苦しいのだと分かった。人間の身体は、日数をかければ調整可能である。少し浮腫んでいると感じたら、野菜ジュースの摂取を増やせば良いし、低血糖の症状が出たら迷わず甘いものを補給したら良い。それが“臨機応変”なのだろう。未だ、ぐさぐさとこころを刺し続ける観念には参ってしまうが、ぼちぼちやっていきたい。今夜もまた、母と共に過ごした。一緒に、金曜ロードショーを観た。『X-MEN2』という映画である。母と肩を寄せ合い、母にとっては夕飯の、湯豆腐とホッキ貝のサラダを私も少しだけもらって、お酒を酌み交わし、映画を堪能した。先週放送された、『ファンタスティック・フォー』と同じく、このような映画が母娘共に好きなのである。私は、21時に綴り始めたこの文章を一旦下書きに残しておいて、閉じ、母の部屋へ日本酒とコンビニで購入した“よっちゃんのす漬けいか”を持って「お邪魔します。」と言って入った。「ようこそ。」と母は迎え入れてくれた。そして、「やっぱり一緒に過ごせる時間があるんは良いね。 こうやって肩寄せ合ってTV観て。 お酒も一緒に飲んで。あんたと一緒におれるだけで 私、嬉しいよ。」と言ってくれたのである。今まで、いつも別々の部屋でご飯を食べて別々の時間を過ごしていた事。それを母は勿体無かったと感じていたそうで、またいつでもおいでと、寒かったら一緒に寝ようねと言っていた。私は、本当に不思議だと感じる。今の、母と私の関係の事を。子どもの頃を振り返っても、今のように温かく感じる事はなかった。いつも母に対してびくびく怯えている子どもだったからであろう。いつ、母の怒りや苛立ちが爆発するか、いつも顔色を窺わねばならなくて、そして毎日打擲されていた。痛かった。怖かった。哀しかった。でも今は違う。母娘の関係を、やっと築き直せているのだと感じている。母と共に過ごす時間。21時過ぎから23時前までのほんの2時間弱であるが、私はそれを一番大切にして過ごしたいと考える。以前は、「○○時までにブログを更新しなければならない」という強迫観念もあった。でも最近は、ブログよりも【母と過ごす時間】に重きを置いている。母もまた、私と共に過ごせる時間を持てる事で、「一緒に過ごせる事が、一番嬉しい。」と言ってくれるのである。ぼっこぼこにへこんでいたこころも、少し修復しつつあるのを感じた。機械よりも何よりも、こころの方が大切である事は当たり前であろう。ただ、ソフトの中にたくさんの大切な映画やドラマを録画していた事と、直す場合にはそれが消えるかも知れないという事が、私のこころを締め付け、ナイフでグサグサ刺される痛みを生じさせているのである。「仕方の無い事。ハプニングは、勉強になる。」そう自分に言い聞かせて、修復できるであろう日曜日を待ちたいものである。
2008.01.25
早朝、空を見上げると、満月が悠然と浮かんでいた。それは美しかった。いつまで眺めていても飽きない、ゆるりとした気持ちが生まれた。だが、時間を経るにつれて、どんどん調子は悪くなった。抑うつ感は酷くなる一方で、それに伴い、厭な事が周辺で起こり始めた。それらの1つ1つは何てこと無いものだったけれど、“PC内のソフトが壊れる”“エラーが出る”という事に止めを刺された。どうにか復活させようと足掻いていたら、こんな時間になってしまい、しかもどうにもならなかったのでサポートセンターに後日相談する事にした。その上、ブログを書き終えてプレビューで確認しようと想っても、出来ないので困る。PCの調子が悪いと、こころの調子も悪くなる。こころが折れてしまいそうだったので、母の部屋へ行った。夜、母と一緒に出掛けたスーパーでも色々とあった。先日、とある冷凍食品を購入したが、それは380円と表示されていたのに、レジでは570円となった。何週間も前から380円と表示されていたのに、私がその日レジを通して570円だったという事は、他の消費者の方々も、考えていたよりも余分にお金を払っていたという事になる。私の場合は、半額商品を購入する事が多く、半額シールが貼られているのに元値でレジを通してしまうレジの方が多いからどうしても表示に注目してしまう。打ち間違えている際、即、「それ、半額ですよ。」と言わないと、後でレシートを見て払い戻してもらうという面倒な手続きをして頂く事になってしまうからである。それに、大体の商品の値段は、携帯電話の電卓機能で計算しているから覚えている。なので、店内で表示されている値段と、レジでの値段が違うとつい言ってしまう。今日はその事で色々あった。それについては割愛するが、たった190円の違いでも、私にとっては大きいので、それを正してもらうのに疲弊してしまった。そして家に帰ってきたら、PCの不具合が出たのである。もう、うんざりだと想った。どうにかならないものかと、説明書を読んだり、ヘルプトピックを参照にしたりして頑張ったが、自分1人の力ではどうにもできないと諦めた。そして母の部屋へ行った。1人でいるのは、余りにも辛かったから。母に、起きた事を簡潔に話したら、「おお、よしよし。大変やったねえ。 それにしても、よう壊れるねえ。 あの店で買ったのがいかんかったんやろうか!」と最初は慰めてくれていたが、最後には怒っていた。母はPCの事については全く分からないので、何処で買っても、同じである事を説明しておいた。でも、慰めてくれた事が嬉しかった。本当に涙が出た。1人の作業は余りにも孤独で寂しかったからであろう。早く母の所へ行きたいと想っていた。このトラブルさえなかったら、一緒に『とんねるずのみなさんのおかげでした』を観る予定だった。『食わず嫌い王』のコーナーで、母と一緒に、出演者の嫌いなものを当てあおうと想っていた。スーパー内で、そこまで予定を組み立てていたのである。【予定は未定】とは本当だと感じた。不具合があったソフトは、TV番組を録画するものである。だから私のこころは崩れたのである。面倒くさがりの私は、直ぐDVDに焼く作業をしなかった。前回、再セットアップする時に気をつけようと想っていたのに、また同じ失敗をしてしまったのである。愚かな自分に一番腹が立った。また、面白いと想って録り溜めていた映画が消えてしまうと想うと、気が遠くなりそうである。だが、自業自得であるから諦めよう。日曜日、サポートセンターから電話があるのでその時PCは多分、直る。諦めも肝心である。しかし、嬉しい事もあった。ドラマ『斉藤さん』の視聴率が1話より2話の方が上がっている事である。これは、良い兆候らしい。このニュースを観た時、本当に嬉しかった。嬉し過ぎて、私は今日、ついに『レディーボーデン』を購入した。その値段分、他の食べ物は安く抑えた。“バニラ”が欲しかったが、おかしなスーパーで、最初から“抹茶”と“ストロベリー”だけしか売っていなかった。私は、“抹茶”を選んでカゴに入れた。すると母は、「おお!とうとう買ったね!」と言うので、「これはね、視聴率が良かったお祝い。 最近のありさちゃんのドラマはあんまり 視聴率が良くなかったけんねえ。」と返した。そして、「これはね、少しずつ食べるつもり。 1日1スプーン。」と言うと、「それが良い。ちょっとずつ食べな。」と母は言った。【1日1スプーン】・・・お酢の様である。でも、楽しみが出来た。いつから食べ始めるかは決めていない。勿体無くて、中々食べられない。病気を患っていると、困難な事も多いけれど、たくさんの事に気付ける。特に今は、母との関係の中で気付く事が多い。共に過ごす時間が少しずつ増えてきた事。一緒に、お酒を飲む。他愛ない話をして笑い合う。そこには、ちょっとした食べ物もある。今、母はよく湯豆腐を食べている。それは、私がTVで観て得た知識で、“豆腐や納豆などの大豆製品を毎日食べたら 自律神経失調症の症状である【ほてり・のぼせ】が 食べない人よりは軽い”という事を母に伝えたからである。私は、母と共にお酒を飲む時、冷酒を飲んでいる。それとなく、母は「お食べ。」とお豆腐を勧めてくれる。母は、何にでも七味とお酢をかけるので辛くて余り食べられないけれど、意外と冷酒と合い、また食べても罪悪感は不思議と無い。きっと、母と共に過ごせている温かい時間が、一時でも病気の事を忘れさせてくれているのであろう。しかし、独りになると忽ち寂しさや不安感が膨張し始め、私のこころは崩れ始める。凍り始める。母に迷惑をかけている事、そして負担となっているという申し訳ない気持ちが、溢れて止まらなくなる。生きている事自体、悪いと想い、死んでしまえたらと、消えてしまえたらと願っている自分がいる。だがその思考は、摂食障害とうつ病から派生しているものであろう。また、バイポーラの症状が出たら、テンションの調整が出来なくなる。上がったら、上がりきり、疲れる。下がったらとことん下がり、堕ちる。けれども、今はこの症状が必要だから出現しているのであろう。過食と嘔吐はとても辛い。分かっていても始めてしまう。だが、食べている間は、不思議とこころが落ち着いているのに気付く。苛々していた事柄や、死にたいという気持ちまで何処か隅の方へ追いやられている。決して、自分のこころから出て行った訳ではないので全てが終わった後、また同じ苦しい想いが襲ってくるけれど、一時的に私は楽になっているのである。それらを鑑みると、病気の症状は私を救っているのには違いない。だから主治医は、無理矢理病症を止めたり、きつく叱ったりしないのであろう。自傷も、過食と嘔吐も、今は私にとって落ち着くために必要な、行為だから。今、病気の症状が全て無くなったら、多分、嬉しいと想うけれどどうしたら良いか困惑するであろう。覚悟が、出来ていない。この先、どうやって生きていけば良いのか。今までの私をどう解釈すべきか。それらをこれからは考えていくべきなのかも知れない。それは、ゆっくりやっていこうと想う。兎に角、今日は疲れてしまった。PCの不具合が、今の私にとって一番のダメージとなる。その上、夢の中でも私はあたふたしていてきりきり舞いだったのであるから。こころが折れる寸前である。明日は、漸く電話診察の受診日である。辛かった事、苦しかった事を纏めておいて、それは告げるだけでさらりと流してもらおう。そして、建設的な話し合いをしたいと想う。今の私は少し戸惑っている。母との距離感や、周囲に起こる変化。だが、主治医と診察として話し合える時間も【贅沢な時間】であると考える。PCのトラブル・・・これはとても痛いが、明日にはもう少し落ち着いていたいものである。
2008.01.24
久しく太陽の光を見ていない。ぴかぴかと朝陽の射す私の寝室はこの頃いつも暗い。流石に、少し気分が塞ぐ。24日もまた、気温が低く寒くて暗い1日になるようである。母にとって、仕事上、哀しい事があった。母は、とても真っ直ぐで、人の心の裏等を読めない人である。だから、掛けられた言葉をそのまま受け止める。なので、誤解が生まれたり、傷付いたりする事が多い。今回も、その性格から利用者さんとの間で誤解が生まれ、母はとても落ち込んでいた。利用者さんは、目の不自由な方であり、いつ、何をしていたか逐一報告しなければならないという法則があった。しかし、母の上司はそれを半年も母に伝えていなかった。母は、やるべき事を終えても、仕事の範囲を超える事でもガスコンロ周りのこびりついた汚れを綺麗にしたり、部屋に掃除機をかけたりしていた。そうして、与えられた仕事の時間を全うにこなしていた。だが、利用者さんは母に対して疑心暗鬼を抱いていたようで、母の上司に「あの人は時間が余ったら、台所に突っ立っていて仕事をしない。」と告げたそうである。母は、本来の仕事“外”に関して一々報告するとまるで「私はこんな事をやってあげたんですよ。」と言うようで厭だという気持ちがあった。別に、感謝されたいからしている訳ではない。時間が余っているから、他の作業もしているだけで、その事を気に留めていなかった。しかし、それが全く汲み取られておらず逆に、まるで「サボっている」と職場に告げ口みたいな事をされて、母は酷く悲しみ、これまでの頑張りが無駄に終わった事を悔しく想い、半ば人間不信に陥っていた。夜、スーパーでの買い物を終えて家に帰った後、少しずつ母の苦い想いを私に話してくれた。利用者さんは、職場に母の行動をサボっていると告げたその日、母に対して温かい待遇をしていた。その日の仕事を書類に書く際、温かい所で書きなさいと、炬燵に入れてくれたという事だったのである。母は、その人の事を利用者さんとして良い印象を持っていたし、その奥さんも良い方だと想っていた。だが、利用者さんは正反対の感情を母に対して抱いており、目が不自由であるが為に、何をしているか逐一伝えられていないという事でサボっていると想い、職場に物申した。その事が、母にとって物凄くショックだったと言う。私が聞いても悔しかった。私も、自分のした事をわざわざ人に告げない。感謝をしてもらう為に、やった事を言うなんて、下心があるようで厭だからである。それが、母の場合は今回、裏目に出てしまった。母の上司が、その人にはそういうことが通用しないという事を伝えていなかったから生まれた哀しみである。母の、落ち込んだ姿。「もう、何もする気になれない。何も食べたくない。」そう言って全てを投げ出そうとする姿。側で見ていて哀しかった。だから私は、スーパーの惣菜コーナーで売られていた“おかずの盛り合わせ”の【半額】が残り1つになっているのを素早く自分のカゴに入れ、後で落ち合った母に渡した。例の場所では調理のお仕事だったので、それを想い出すお料理をする気にはなれないだろうと考えたからである。母は、喜んでくれた。しばし腕を組んで、お買い物をした。哀しい気持ちも、分かち合って【半分こ】すれば、痛みは和らぐ。夜は大体、母と別々の部屋で過ごしているが、今夜は母も私も楽しみにしているドラマがあったので、それを一緒に観る事にした。そのドラマは、『相棒』である。今回のストーリーは、前回からの続きであった。『相棒』の後には『斉藤さん』がある。母も前回のストーリー分から『斉藤さん』を観始めていて楽しみにしていた。それはさて置き、『相棒』を寄り添って観ていると温かかった。母は熱燗を、私は冷酒を飲みながら。母が最後の力を振り絞って作ったエノキと春菊入りの湯豆腐を私もほんの少しだけ頂きながらドラマに見入った。終わりの方のシーンで、右京さんがピンチの際に表れた瞬間には、2人で「わあ、かっこいい!!!」と言い合った。素敵過ぎると。私は、「右京さんみたいな人がお父さんなら良いなあ」と呟いた。すると母は、「お父さんはもう無理よ。恋人で、そういう人を探しな。」と返してきた。でも私は、水谷豊さんの奥さんである蘭ちゃんには勝てないから「こんな格好良い人は、いないよう。」と笑って言い返した。2人でドラマを楽しみながら観る時間も、母が抱いた哀しい気持ちを少しでも和らげてくれたらと願う。半分こ。楽しい気持ちも、哀しい気持ちも分かち合えたら、それで良い。22時からは、ゆっくりのんびり、『斉藤さん』を観た。あらすじに関しては割愛する。斉藤さんは、毎週記しているように筋が通っていて、それを貫き通し、正しい事は正しいと言える今時珍しい人間である。それ故に敵が多く、特に“事なかれ主義”の人々には忌み嫌われている。でも、斉藤さんは滅茶苦茶強いスーパーマンのような女性ではなく、人間としての弱さを併せ持っている。今回のストーリーは、息子の潤一君が通う幼稚園のママたちに糾弾されて斉藤さんは酷く心が折れていた。その前に、高校生達によってカラースプレーを降りかけられる暴力を受け、弱っていた。しかし、以前斉藤さんが、同じ高校の女子高生が落とした財布を拾って一生懸命追いかけて渡した事で、女子高生達の斉藤さんを見る目は変わり、それによって、新たな展開があった。女子高生達は、きちんとした大人に関して見る目は有るんだと主張したのである。丁度、事なかれ主義のママ軍団に斉藤さんが1人責められている所であった。そこに斉藤さんを援護する女子高生軍団が表れて、彼女達なりの大人に対する想いを言ったので、凄くスッキリした。斉藤さんを責めるのは止めろと言った事。そのシーンはとても印象深かった。私も普段生活していると、「それは間違っている。」と感じる事が多い。スーパーでも、子どもが走り回って暴れて商品を乱しても注意しない大人をよく見かける。でも私は、注意が出来ない。こころでは、「親がきちんと注意すべきであり、叱るべきだ。」そう想っていても、言葉には出来ない。斉藤さんは、それを全て自然にアクションへと繋げている人である。私もいつか、【正しい事を正しい】といえる人間になりたいと考えた。しかし、それは難しいとも想う。正しい事を通したとしても、それが全てに於いて物事を良い方向へと繋がるとは限らないからである。難しい世の中になったと感じる。母の経験を通して、ドラマ『斉藤さん』の世界も感じた。正しい事、きちんとした事をしていても、相手の捉え様によって、それは時に“悪いもの”と映るものなのだと・・・。本当に、哀しく、悔しく感じた。母の側で一緒に『相棒』を観ていた際、CMの間に他愛ない話をしていたら、次第に母の表情も柔らかくなり、笑顔が戻ってきた。それが、私は嬉しかった。「世の中、色んな人がおるんよね。お母さんの事、 分かってくれとる人の方が多いんよ。」と言いながら背中を擦ると、「ありがとうねえ。」と言い、しかし「ああ、でも今食べ物食べたけん、 背中撫でられたら出てきそう・・・」とふざけて顔を歪めた。そして、同時に笑い合った。「あんたも、細かい事を余り気にすんなよ。」と私の背中をぽんぽん柔らかく叩いてくれたので、「母さんもね。」と背中を叩き返した。『相棒』は、1人で観ている時よりも面白く感じた。『斉藤さん』は、没頭してみる為に、1人で観たが、CMに入る度、「凄いねえ。」「やっぱり格好いいねえ。」等母と一言、二言交わした。母との時間。今はそれを大切にする時期だとタイミングの神様が与えてくれたチャンスだと感じる。だからこの機会を大切にして、余り無理をし過ぎず、母に哀しい想いをさせないようにしたい。
2008.01.23
雨は、止まない。こころの動きも下降線を描き、止まらない。只管苦しくて、足掻く。雨音が、今は怖くて仕方が無い。暗闇に、天から落ちてくるその粒は休む事無く地面を叩く。耳を塞ぎたくても、そんな事をしようとも意味が無い事位分かっているから、漠然とした不安と恐怖感を抱え続ける。夜中、私は自らが作り出した闇の恐怖に飲み込まれた。抑うつ感が酷く、生きているのが辛いのに生きねばならない苦しみが、どうしても哀しくて、そう考える自分の傲慢さに呆れていた。そういう時、私は必ず自傷する。沈んだ気持ちでも、そこで安定させる為に。いつもと同じ場所を、同じ回数剃刀で切る。傷の上をなぞって重ねて切るので、中々血が止まらなかった。ぴりぴりとした痛みを感じて、ただ流れる血を眺めている時は、解離している。沢山の想いに耐え切れなくなったら、こころはそれ自身を守る為に解離するのである。こころが、壊れてしまわないように。所謂自己防衛機能であろう。気持ちが沈んだ切っ掛けは、やはり摂食障害の症状である。過食をする為にお金を使う事に対して申し訳ない気持ちでいっぱいであり、毎日、【昨日より1円でも少なく】を目標にしているけれど、それでも母の負担になっている事は、間違いない事である。しかし、だからと言って急に過食と嘔吐を止められない。自分は本当に駄目な人間だ。だから、己を傷つけて痛めつけ、罪を償わねばならない。こういった一連の考え方は昔から変わらない。自傷は私にとって、自分を罰する行為なのである。だから、仕方が無い。主治医もそれを分かっているから、その行為を無理矢理取り上げない。今のこころを守る為に、大切な行為だからであろう。しかし、母はとても哀しむ。自傷している時は、その事だけで頭がいっぱいであり、その後は解離するのでその後の事は何も考えられない。「傷跡が出来てしまった。」ぼんやりと、そう感じているだけである。しかし、傷跡は赤く腫れる。だから、小さな傷跡にも拘らず母に見つかってしまって、哀しませてしまう。でも最近は、少しずつ「どうして傷つけてしまったのか。」という想いを汲み取ってくれるようになった。それでも、「もう、いやよ。大切な身体を傷つけんといて・・・。」と泣きそうになりながら、傷跡を撫でて言う。今回は、正直に話した。【過食の食べ物を買うお金の事を申し訳ないと想っている事。】【それが母の負担になってしまっていて哀しい事。】【この症状さえなければ、皆美味しいものを食べられる事。】【私さえいなければ、もっと皆、幸せに過ごせているであろう事。】etc...しかし母は、「過食とかは、病気なんやけん、しょうがないやろ? 負担になっとるとか考えんで良いんよ。 徐々に治っていくもんなんやから。 美味しいもんも、私食べてるよ。 あんたがおらんかったら、贅沢なもの食べたって 美味しくない。 あんたがおらんかったら、幸せなんかない。 あんたがおるけん、私は働ける。 あんたと一緒に暮らしていけるけん、 私も生きていけるんよ。」優しく諭すように、私の頭を撫でながらそう、母は言った。眠剤を服用した後だったので、お蒲団の中に入っても、母は側にいてくれて手を握って、ひたいを撫で続けてくれた。母のてのひらは、優しい。ささくれていた私のこころは、すうっと穏やかになだらかになり、暗闇からは抜け出せた。母の、温かな光を放った存在によって。私は日常、いつも孤独だと感じているが、母がこうして休日の朝、会話できる時間があると、本当に幸せだと感じる。私は、生きねばならない。寿命が尽きるまでは。電話診察を受診する日だったが、眠くて起きられず電話を掛けられなかった。母の手から放たれた癒しのパワーが効いたのであろう。余りにも癒され過ぎて、リラックスしてぐっすり眠っていた。ベゲタミンというお薬――私にとっては長時間眠る為のもの――を服用しなかったのにも拘らず。日中薬と、抗不安薬のデパス、テシプールそれだけで、10時から18時まで目覚ましのアラームにも気付かず眠り込んでいた。私にとっては、睡眠もとても贅沢なものである。母の手によるおまじないで、私はたっぷり贅沢を味わえた訳である。摂食障害の症状は、意外と体力を消耗する。食べる事も疲れるし、嘔吐する事で体内の電解質バランスが崩れる為全てが終わった後はぐったりしている。疲れていても、腹筋やストレッチをしなければ気が済まない。全てが自業自得である事は承知している。胃が限界になるまで食べて食べて食べて。そして胃が完全に空っぽになるまで嘔吐する。何度も繰り返し、満足がいくまで。どんなにぐったりしても、食器を洗い、全ての後片付けをする。それでやっと、【過食と嘔吐】という行為は終わる。今は、この【摂食障害の症状】が中心の生活となっている。でも、母と一緒に過ごす時間が徐々に増え、“共に”お酒を酌み交わしながら他愛ない会話をする、笑い合う時間。そしてこうしてブログを綴る時間。ひとり、熱燗を飲みながらぼんやりする時間。そうした、【その他の時間】が充実するようになってきたら摂食障害の症状だけに囚われず、落ち着く時間も作れるようになった。そういった【プロセス】を経て病気は“治る”のであろう。主治医曰く、「この病気は“治す”じゃなくて“治る”もんだよ。 “なおす”だと、“直す”みたいな感じが して、どうも機械的だから、違和感がある。」という事である。そして、【治るプロセス】は人によって異なるものである。置かれている環境がそれぞれ違っているように。共通しているのは、“休養、静養を心掛け、こころを大切にする事”であろう。時と場合によって、テンションを上げねばならない状況があったり、無理をしなければならない状態になったりする事もある。その場合、短くても4~5日はしんどい想いをするであろう。だから、そこから学んで、【どのようなテンションでいれば、余り疲れないで過ごせるか】という事を考えるのも大切だと考える。私は不器用なので、いつもその場その場でテンションが上がったり下がったりして最悪の場合、自傷に繋がる。過食と嘔吐の症状も酷くなる。如何にこころを大切に出来るか。これを念頭に置いて、過ごしたいものである。久し振りに、フジテレビのドラマを観た。『あしたの、喜多善男(きたよしお) ~世界一不運な男の、奇跡の11日間~』というものであるが、私は原作本を、数年前に購読していた。このドラマが始まる前、楽しみにしていたのであるが、何日の何曜日から始まるか確かめていなかったというかその余裕が無かったので、今日、初めて観る事が出来たのである。原作とは、かなりイメージも違うし、設定も変わっているから、違う作品として楽しめる。3話から観たので、分からない部分も多かったが、フジテレビ系のドラマとしては面白いと感じた。何よりも、主演の小日向文世さんが11日後に自殺する事を決めている、でも、その残り時間をどう過ごしていいか戸惑っている、そんな姿が儚くて哀愁が漂っていて、涙を誘う。来週からも観てみようと考えている。『余命1ヶ月の花嫁』も、半分読み終えた。読み進めるのが実は怖くて凄くスローペースで読んでいる。もう、何度も泣いた。千恵さんの事を想うと、涙が止まらない。病気になっても、打ち勝とうとする精神、病気でも、普通の人のように仕事を頑張り資格を取り、沢山遊び楽しむ姿が本当に素晴らしいと感じた。今日は、わざと途中で読むのをやめた。このまま読んでいたら最後まで止まらないと想ったからである。もっと大切に大切に、読みたいから私は傍らに本を置いた。続きを読んだら、涙が止まらない事は想像に難くない。明日は、違う本を読もうと想う。まだ、彼女の素晴らしい生き方を受け容れる姿勢が整わない・・・。今朝は、母の優しいてのひらが、私を救ってくれた。自分が自分を追い詰めていた。「生きているだけで迷惑だ。母親の負担になるばかりの存在だ。」その考えでいっぱいになり、自責の念に駆られた私は、手首を傷つけた。傷の事など、私はどうでも良いのである。その時に痛みを感じられたら、そして血が流れたら、もうそれで良い。思い起こせば初めての自傷は幼稚園の頃で、寂しさや心細さ、恐怖感を消す為に、腕を想いっきり噛んだ。皮膚に血が滲むほど力を込めて何度も噛んだ。やがて、中学生になってそれが裁断バサミによるカッティングとなり高校生ではカッターによるものとなった。小さい頃から自分を傷つける事、痛みを感じる事で不安や心細さ、そして罪悪感を消そうとしていたのであろう。不安感等はその時に消えても、傷跡だけはくっきりと今でも残ってしまっている。でも、後悔はしていない。水曜日は、1週間のうちで一番幸せな日である。『相棒』と『斉藤さん』という大好きなドラマが放送される日だからである。今日は母のお陰で穏やかな気持ちを取り戻した。明日はドラマによって、楽しい気持ちを育める事を願って止まない。
2008.01.22
大寒というだけあり、朝から物凄く冷たい風が吹き窓から外を眺めてもグレーがかった風景が広がっているだけであった。山間部では雪が降り積もったようで、その方向から吹いてくる強い風が、骨身に沁みるような寒さを広げた。こんなに寒いのであれば、雪が降ればいいのにと想ったが、そんな願いは叶わなかった。こんな寒い日は、やはりホットココアが一番美味しい。仕事から帰ってきた母は、余りにも寒い為か、口数が少なかった。私は丁度シャワーを浴び終えてお下げを編んでいる所だった。私のいる部屋はエアコンを付けてあったので暖かいから、母を呼び、隣に来てもらった。そして一緒に温まりながら、私はニュースを観ながら支度を進めた。スーパーへも一緒に行ったが、想った通りそこも寒かった。粗方、購入するものをカゴに入れた後、いつもの様に母をココアブレイクに誘った。1杯のココアを、2人で分け合う。丁度良い量だから、満足できる。プラスチック製の椅子も冷たかったけれど、2人でココアを共に飲むと、「あ~、あったまるねえ。」と声が揃った。それが何だか可笑しくてけらけらと笑い合った。ココアを飲みながら、色んな会話を交わす。今月の16日は祖母、19日は祖父の誕生日だった。だから、今月中にお花を持って祖父母の家へ行こうと想っている。祖父は年男で84歳、祖母は82歳になった。祖父は認知症が進んでおり、祖母も年齢なりに、身体の不調がある。しかし祖母は今でも体操の先生をしているので私よりも元気な部分が多く、所謂【スーパーウーマン】だと感じている。これ以上祖父母に心配をかけない為にも、少しずつ、健康を取り戻す努力をしたい。静々と、こころが沈みつつある。この頃安定していた方が“奇跡”なのであり、調子が悪くて当たり前という捉え方をしているので、慣れてはいるけれど、やはり苦しい。母の負担になっている事や、迷惑ばかりかけている事を考えると、申し訳ない気持ちが膨らみ続け、やがてそれが「死ぬしかない。」という考えに至る。死んでしまったら、この迷惑は終わると本当に短絡的な考えが浮かぶのである。だが、【死んでしまったらもっと迷惑がかかる】という事実もある。生きるのも死ぬのも、大切な人の負担となり迷惑をかける結果を導いている。憂鬱な想いが頭をもたげて息が苦しくなる。自分は生きていていいのかと自分に問う。母は、死ぬのは許さないと言う。どうしたらいいのか分からなくなって、こころはずぶりずぶりと底なし沼に沈んでいく。そういう時、表情は固まっている。俯いたままで、前を向くのも億劫になり空を見上げる余裕も無い。一旦、【悪魔的な考え】に取り憑かれたら私はそこから脱け出せなくなる。いつまでも暗い顔をしていたら、もっと状況が悪くなる。母も寡黙になった私に苛立ってくるし、私も、いつまでも鬱々としている自分に腹が立つ。そういう時は、のんびり、ぼんやり過ごすに限る。こころを追い立てる、強迫神経症の症状をことごとく無視して、「ブログを綴らねばならない」という焦りも、「まあ、後でも良いや」とゆらりとかわして、兎に角、せかせか急がず過ごす事。そうしなければ、精神的に持たないとこの頃気付いた。以前の私は、ブログを綴り始めると、ずっとそれに集中していた。吸う煙草の本数を決めていたり、書き終えるまでのタイムリミットを気にしたりして落ち着かなかった。だが最近は、文章が出てこなかったら一休みする。日本酒を熱燗にしてゆったり飲んでみたり、本を読んだり、TVを眺めてボーっとしたりする。夜は、長い。私にとっては昼のようなものであるから。過食を始める時間を先延ばしにする為にも、こうしてブログを綴る時間がゆったりしているのも丁度良いのである。そうした、【のんびりゆったりした時間】によって憂鬱で沈みこんだ気持ちも、少しずつ浮上してくるものである。日本酒を飲んだ事による、身体がぽかぽかと温まり、こころもフワフワしてくるそんな感覚も手伝ってくれるのであろう。寒さが1年のうちで最も厳しい大寒。そんな日は、熱燗がぴったりである。20時頃の私は、絶望しか感じられなかったけれど、ようやく、生きていかねばならないという気持ちが少しずつ馴染んできた。だが、それも安定はしないと想う。こころの病気は、精神の安定が一番難しいと考えるからである。けれども、母が支えてくれる。その事に対して感謝の気持ちを忘れず、お互い【共に】という時間を大切にして過ごしたいものである。こころの安定は、滅多に得られないのだから、揺らぎに一々動揺していたら身が持たない。【揺らぎ】があるからこそ、人のこころは広がりを持つチャンスが生まれる。その揺らぎを自分のものに出来たら、こころはより大きくなる。世の中の、瑣末で下らない【一般常識を気取った悪魔的な声】など、無視できるであろう。そういった声は、こころに配慮のない言葉であり、そのこころを、傷つける事を厭わない。人にはそれぞれ事情があり、暮らしている環境も違う。だから、同じ病名の、こころの病気を患っているとしても、症状は十人十色である。また、私が複数の病気を患っているように、その組み合わせによって人それぞれ苦しみは違う。なのに、短絡な考え方を持つ人は、病気に関する考えを十把一絡げにして捉え、非難する人が少なくない。“うつ病”も“統合失調症”も、人によって現れている症状は様々なのである。特に統合失調症に関しては、妄想型・破瓜型・緊張型etc...と様々な類型が見られる。けれども、知識が浅い人は少し大袈裟に言うと、【精神病院に通っている人だから・・・】と差別するケースも見られる。社会的弱者を貶め、罵り、傷付くことを平気で言う社会。その中で、生きていかねばならないのは時に息苦しさを覚えるが、仕方のない事なのであろう。病気になって学んだこともあるのだから。どういう事を言われたり、されたりしたら傷付くか。家族や他人とどのような気持ちで接するべきか。それらを少しずつ学べたような気がする。大切なのは実践する事だと想う。努力したい。決して、病気を患ったこの時間が無駄ではなかったと考えられるようになる為にも。どんなに冷たく、こころまで凍えそうな風が吹いても、私と母が作り上げた関係、雰囲気の中にはゆったりと暖かい空気が漂っている。まるで、春のように。しかし、どちらかの調子が悪い時は、忽ち真冬の風が吹き荒れてしまうけれど、回復する時間は早くなってきたように感じる。母のこころの、温かさ。それによって、私は随分救われている。母がいなければ、私は生きていなかったであろう。若しくは、この関係を築けていなかったら・・・。そのきっかけとなったのは、私がお薬を服用した量が少し多くて主治医の前で倒れ、生死の境を彷徨い入院した事だった。思いも寄らないきっかけだったが、それは【タイミングの神様】が導いた事であろう。寒い日は、母と共に一緒にお蒲団の中でおしゃべりするのも楽しい。でも今日、母は疲れていたため先程もう眠ってしまった。また、今度。楽しみが先に延びただけである。冬の寒さはまだまだ続くのであるから。またこれからの時間ものんびり過ごそうと想う。
2008.01.21
久し振りに聞く、雨音。朝からずっと、今もまだ降り続けている。だからなのか、いつもより寒さが厳しい。足元からしんしんと冷えて、冬という季節を改めて実感する。ヒーターの前から中々離れられない。温かさがこんなにも愛おしく感じられるのも冬ならではであろう。雨音を子守唄に、すうっと眠りに落ちた。PMSの症状もなくなったので眠剤を服用した後、何かを食べたいという衝動に襲われる事もなく、ゆったりした気持ちでお蒲団に入り、静かに目蓋を閉じる。TVの音を小さくして、雨音が響く中、色んな事をゆらゆらした感覚で考えながら、段々意識が遠退いていく感じが、今の私にとっては一番幸せな瞬間なのかも知れない。昔からずっと変わらない事である。眠っているときは、病気の症状に苦しむ事はないからという理由が大きいと想う。流動物で、主に栄養を補っている。生きている。過食と嘔吐以外では、ミルクティーやもずく入りのお味噌汁、インスタントのお吸い物、発泡酒や日本酒などを飲んでいる。ただ、母が作ったものは例外で、お鍋でくたくたに煮込んだ、白菜などのお野菜や春雨、スープなどは頂けるようになった。また、母が病みつきになっていたしらすの釜揚げを大根おろしで頂くというお酒の御肴も、食べられている。その他の食べ物は、多くが過食に繋がる。それがこの病気の症状であろう。お肉は、牛肉をはじめ、豚肉も鶏肉もどれも「脂肪分が多いから太る」といったイメージが強く、怖くて食べられない。【怖くて食べられない】という感情は、中学生の頃摂食障害を患う切っ掛けとなった間違ったダイエットによるものであろう。中学生の私は、ダイエットに対する知識が乏しかった。例えば、“食べる量を減らせば痩せられる”“その上で運動量を増やせば痩せられる”という考えが大きかった事である。だから、拒食状態に陥ってもそれと気付かなかったし、何も食べず、水を沢山飲むだけで毎晩のウォーキングだけは欠かさなかった。無論、栄養が足りないのだから、痩せた。そしてそれらの行為をやめて、以前の食生活に戻した途端、リバウンドは始まった。それは、恐怖だった。必死になって痩せたのに、体重計の数値は増えていく。だからまた食べる量を抑えたが、我慢する力は残っていなかった。その頃、母は仕事のストレスで夜中にお酒を飲みながら食べたいだけ食べて、吐いていた。私は或る日、我慢しきれずスナック菓子を1袋全て食べきってしまった。あの時の、罪悪感や自己嫌悪の念は今でも覚えている。だから、母の真似をしてトイレで嘔吐した。それが、病気の始まりであった。この事は、何度かこのブログに記した。なので、これまでに留めておく。寂しかった。哀しかった。心細かった。摂食障害を患って間もない私の気持ちは、それだけに尽きた。母は相変わらずお仕事で大変な上、ストレスを溜めていた。妹と弟は宿題もしないし勉強もしない。作ったご飯もちゃんと食べないし、そのマナーも悪過ぎた。妹と弟の事については、全て私の責任となり、私はいつも叱られていた。怒られていた。打擲されていた。その内、精神のバランスは静かに私の知らない所で、崩れ始めた。何をやっても裏目に出てしまう事。学校で過ごす事も、家で過ごす事も辛い。歪が大きくなってからは、こころのバランスを崩しやがて摂食障害は酷いものへと進行した。その頃の記憶は、少しあやふやになっている。きっと物凄く辛い事があったのであろう。閑話休題。23時前まで、私は母と一緒にいた。「一緒に映画観ようよ。」と母が誘ってくれたからである。日曜洋画劇場でやっていた、『エイリアンvs.プレデター』を、共に観た。母の部屋には、4.5畳なのにアップライトピアノと箪笥があるためお蒲団を敷いたらそれでいっぱいになる。TVとテーブルもあるので、お蒲団は1組しか敷けない。だから母と2人、ホットカーペットをベッドマット用のマットの上に、そしてその上に敷布団を敷いている温かい場所で、小さなTVを眺めた。私は、湯呑みに日本酒を入れて持ってきて飲みながらTVを観て、母は、熱燗を飲んでいた。祖父母が昔から映画が好きなので、母も映画が好きなのだと言っていた。母が子どもの頃、父親が船乗りの一仕事を終えて、数週間の休みがある間には、映画館に連れて行ってもらっていたという。それが母は、とても嬉しかったらしい。幼き頃の記憶は、甘い記憶となる事もある。私にも、遠く甘い記憶がある。3歳位の頃、祖母が体操の先生をしていた道場で、授業が始まる前に母と鬼ごっこをした事。怖い夢を見て泣いていたら、母が抱き締めて「夢やけん、もう怖い事ないんよ」と涙を拭いてくれた事等・・・数え切れないほどある。14日に、少し酔った母から聞いた事も、胸が温かくなる話だった。日中に怒り、頭に血が上って叩いたり蹴ったりした事を反省して、大丈夫かと心配になり、私達子どもの寝顔を見つめ、謝りながらその寝顔にキスをしていた事。母は決して非情で冷酷な人間ではなかった。ただ、暮らしている環境が、母を追い詰めていた。暴力によって、子どもを躾けねばならないと想うほどまで、こころは逼迫していたのであろう。それが、今となっては理解できる。だからもう、【ゆるす・ゆるさない】の問題ではなくなってきているのを感じる。あの頃の母の気持ちを汲み取り、現在、如何に母が私の事を愛してくれているかという事実を大切にすべきだと考える。もう、過去の母と現在の母が繋がらないという事はない。私の母は、母である。唯一無二の存在である。夜、母と共に過ごす時間を大切にしたい。ブログなら、いつでも綴れる。母と過ごせるのだから良い事である。ブログの更新が遅れたりお休みする事になったりしても余り悪い事はない。一緒にお酒を飲みながら、映画の感想を述べ合う時間。母の存在を物凄く身近に感じる時間。今までの私には無かったものである。また、母もそういった時間を積極的に持とうとはしなかった。お互い、心に少しこころに余裕がある時、【共に過ごす時間】が実現する。私にとっては本当に幸せなことである。何しろ、こころにぽっかり空いた穴を、正しいもので埋められている時間なのであるから。そういう時間を持てたら、過食や嘔吐への興味が失われるのを感じる。ただ、感じるだけで強迫行為である為、やらねばならないという気持ちが強く、夜中にはその行為に及んでしまっている。でも、母との時間を過ごせたか、過ごせなかったかという違いは大きい。これからも、少しでも多く母と共に過ごしたいものである。いつものように、スーパーで同じコースを歩き同じ商品をカゴに入れていた。ふと、雑誌・本のコーナーを見たら『余命1ヶ月の花嫁』という本が1冊だけあった。私が以前から読みたかった本である。今は、本屋まで行く気力が無い。それに、此処にも1冊しか置いていない。「買うしかない」そう想った。予算内に抑える為、カゴに入れていたものを3つくらい、元の場所に戻したが、それでも予算はオーバーしてしまった。母に、そのことを謝ると、「本なら、残るんやから。買っても後悔せんでいい。」と言ってくれた。今月は、妹の彼氏が正式に結婚の挨拶をしたいという事で、居酒屋へ行って、全員が飲食した料金を払った為、金銭的に逼迫した状況にある。それでも、私が本を読むことが大好きである事を分かってくれていて、その事を責めなかった母にこころから感謝している。妹の彼氏はかなり食べる為、大衆居酒屋でも量の割には料金が高い場所だったので、かなりの支出となった。【私も居たから】というのが大きな原因でもある。お金がないと、どうしても余裕がなくなるが、それはこころの贅沢とは関係ない。お金で得られないものが、こころの贅沢となり、こころが潤ってこそ、生きていく活力が発生する。今は、兎に角焦らない事を心掛けたい。
2008.01.20
夜、外に出たらほんのりとした明るさを感じた。ふと空を見上げたら、少しふっくらと丸みを帯びた月が月光を放っていた。それはとても優しく、柔らかかった。大きく息を吸い込んで、大きく一歩踏み出した。ゆっくり眠れて、疲れも取れてきたら、少しずつのんびり過ごせるようになった。今までにない感覚である。以前は、ゆったりしたりのんびりしたりするのは罪悪感を伴っていた。何かしていなければならない、悠長に構えていてはならないと。上記の気持ちは完全になくなった訳ではない。少しでも不安が生まれると、忽ち私は焦り始め、強迫観念の虜になる。しかし今日の夕方は、比較的ゆったりとしていて紫煙を燻らし、ミルクティーを飲み、シャワーを浴びても疲れなかった。それだけ余裕があったという事であろう。シャワーを浴びて疲れるのは、何度も“やり直し”をする事があるからである。髪を洗うのにも順番があり、自分が決めた基準ほど泡が立たなかったら、また最初からやり直したり、身体を洗う際にも、順番を間違えたらまた首から肩・・・とやり直したりするのである。だから、疲れることが多かった。だが、こころに余裕がある時は、「少々順番を間違えたって身体の隅々まで 洗えたらそれで良い」と考えられる。だから、疲れない。此処の所そんな感じだから、今日も昨日と同じくさっぱりした気分で乾ききっていない髪をお下げにした。穏やかな気持ちでいられると、母との間に流れる空気も平穏である。スーパーで落ち合った時も、「明るい声で良かった。今日は物凄く調子が悪いって 訳じゃないみたいやね。」と、母も嬉しそうだった。母が笑顔だと、私も自然と笑顔になる。他愛ない冗談で笑ったり、昨日作ったお鍋に追加して入れるものを一緒に必死で悩んだり、楽しい買い物となった。私も、予算より少なく買い物を終える事が出来た。こころの状態が悪いと、余計な食べ物まで購入してしまう。予算ギリギリまでお金を使ってしまい、後悔する。殆どが半額の、閉店後は破棄される商品を買うけれど、こころの状態と、購入する食べ物の多さには関連性がある。だから落ち着いていれば、余計なものは買わないで済むし、その夜の過食と嘔吐も落ち着いている・・・と言ったらおかしいが、無茶はしない。過食と嘔吐も、無茶をしない事が大事だと、大切に扱うべきだと主治医は仰っていた。その意味が、少しずつ分かってきた。ほぼ毎日のように、観月ありささんが夢に出てきてくれて嬉しい。その日によって、彼女との関係や環境、設定は違うけれど、途中で必ず友達のように話している。最初から友達だったり、誰かに紹介されて仲良くなったり、でも最後には離れ離れになったりと本当に様々であるが、夢の中でも彼女を感じられるのは不思議だし、楽しい。いつか、夢の中で出演料を請求されそうなほどに家族や友達よりも出てくる回数が多い。今日の夢は、不可思議だった。少し端折るが、こんな夢だった。【ありささんには入院している弟がいた。 でも、TV番組の収録があり、私もそれに出演していた。 そして一緒にお見舞いに行こうと約束した。 収録が終わろうとした頃、私の父方の伯母が出てきて 外に出させないよう妨害してきた。 私は抵抗した為、腕を刃物で切られた。 私は憤り、その伯母さんを振り切って外に出た。 ありささんと共に、ハーレーに乗って 病院へ向かった。 ハーレーには何故か、緑の公衆電話が付属されていた。 それが流行りだという事で、 道路を見ると、確かに多くの大型バイクは 緑の公衆電話を付けていた。 そして、ハーレーを路肩に停めてその電話で 病院に連絡を済ませてから、弟さんを見舞った。 その弟さんは、私の大学時代の友達だった。 ありささんは、 「今日は、もう疲れたから、此処で寝るね。 じゃあ、またね。」 と言い、「じゃあ、また明日。」と私も言って病院を出た。】纏めたけれど長くなってしまった。印象的だったのは、ありささんのファッションがとても素敵だった事である。最新のモードだった訳ではなく、彼女に凄く似合ったファッションだった。色使いがとても綺麗で、すらりと長い脚に似合うパイル地のスカートを穿いていた。この夢は、主治医との診察を受けている中で報告しようと想っている。心身ともに疲弊しているときは、ストーリー性のある夢を余り見ないので、夢診断は長い間お預けになっていた。どういった意味がこの夢に含まれているか主治医の考えを聞くのが楽しみである。毎晩、私は相変わらずブラッディメアリーを作っている。それは先ず、ロック氷を砕く所から始まる。これは始める前まで、面倒臭いと想う。だからそれまで、だらだらTVを眺めているけれど、大袈裟だが決意して始めると案外砕くのが楽しくなって集中できる。無心になれるので、出来上がったクラッシュアイスの山を見ると、何だか嬉しくなる。それを氷専用の冷凍庫に仕舞い、大目のクラッシュアイスをグラスに入れて、ウォッカを目分量で少し、トマトジュースをこれまた目分量でなみなみ注ぐ。塩でスノースタイルにするカクテルなので、本当は予めグラスの淵にレモンを塗りつけて塩を付けておくのであるが、いい加減な私は、カクテルが出来上がった後で、一つまみの塩を指で淵に飾りつける。そして最後に荒引き黒胡椒を振る。一口目を飲むのは、必ず母である。いつの間にか、そう決まっている。私も、母のために美味しいカクテルをと想ってこころを込めて作る。今日は、出来上がったとき母はお仕事の電話をしていたので、私はグラスを持ったまま、ぼんやりしていた。待っている事は全然苦にならず、寧ろ、飲んでもらえる楽しみが膨らんだ。電話が終わった後、「どうぞ、召し上がれ。」と差し出したら、「あら!待ってくれとったの?ありがとう。 うん。おいしいわあ。もう、本当 あんたは可愛いねえ。」と、抱き締めてもらえるという想いもよらない嬉しいハプニングがあった。母の体温を久し振りに感じ、その温もりが凄く心に沁みてじんとした。たった1杯の、素人が作るカクテルでも、母のこころと私のこころが温まった。毎日、病気の症状は苦しい。過食と嘔吐の症状が出る度、「どうしてこの行為をしなければならないのか。」と考える。主治医は、この症状が今の私にとって【こころを保つ為に必要なもの】と捉えていらっしゃって私もそう感じている。心身ともに疲れ果てると、希死念慮が激しく出てくる。自分など生きていない方が、周りの皆は幸せになるのではないかと考える。強迫神経症の症状や、PTSDの苦しみ。自分の身の上に表れる病気の症状、全て苦しい。けれども、生きねばならない。母の為にも、家族の為にも。そして、病気が治らないまま死んでしまうのは悔しい気持ちもある。身体の病気、こころの病気。私はこれらを患っているが、病気なのだから苦しく辛いのが当たり前であろう。それでも生きていけるのは、周囲の人々のお陰である。独りだったら、もうこの世界にはいなかったであろう。だからこそ、感謝の気持ちは決して忘れてはならないと自分に言い聞かせている。先日、電話診察の話し合いで、主治医の印象的な言葉があった。「あなたは多分大切にする人だから分かると想うけど、 1つ1つの言葉には、必ず花があるんだよ。 だから、言葉について、じっくり考えてみるのも良いね。」というものである。何気なく会話で使っている言葉、そして此処で綴っている言葉。私は想い付いた言葉を即座に、指に伝えてキーボードを叩いているけれど、もう少し熟考して【1つ1つの言葉がもつ意味】を大切にしたいと想った。会話をする際も、言葉として発する前に一息おいて意味を考える事、ブログを綴る時も、言葉の意味をきちんと理解しておく事を大切にしたい。知らず知らずの内に、私は今まで沢山の間違った日本語を使っている事も鑑みて、本屋などで、日本語の勉強が出来る本を購入したいと考えている。今は、その余裕がないので出来ないけれど、今年の目標の1つとしたい。言葉を大切に、その言葉に咲く花を慈しむ事。汚い言葉、人を蔑むような、自分をも貶める言葉は吐かないように気を付けて生きていきたいものである。
2008.01.19
時々、焦っている自分が厭になる。何も焦ったり慌てたりする必要なんて全くないのに、何かに急き立てられている様な錯覚を本物と感じて、あたふたしている。もっとゆったり、悠然と構えていたいものである。意識すればするほど、余裕がなくなり、焦る。だから、寝起きでぼんやりしている時や、読書に集中している時は然して何かに追い立てられている感覚はないし、のんびりしている。温かいミルクティーを飲みながら紫煙をゆっくりとくゆらせる時間。これもまた、時間の経過を気にしていない。焦り始めるのは、何かを食べ始めてからである。幾ら、消化を許せる食べ物だとしても、何故か落ち着かなくなる。【胃の中に何か食べ物がある感覚】これに中々慣れる事が出来ない。飲み物は何とか大丈夫になった。けれども固形物はどんなに噛み砕いてから飲み下しても、「食べてしまったから太ってしまう」という短絡的な考えに支配される為、落ち着かなくなるのであろう。普通ならば、美味しいものを食べたら、満足感を覚えて、ゆったり出来るであろう。その感覚を、私は忘れてしまった。否、覚えているのかも知れないが、【痩せていなければならない】という気持ちが高じている為に厳重なボックスに閉じ込め、鍵もかけてこころの隅に追いやっているのであろう。月曜日の疲れも大分取れたので、電話診察を受診できた。受診できて安心できたのは、父への想いについてである。月曜日、妹から父の様子を聞いて、今、孤独の中に生きていると知った。孫が出来てから僻まれて、兄弟とは殆ど縁を切った状態で、ひとり、生きていく為に某ジュース工場で働いている。パート扱いだから、数年前、車が廃車になってからは買う事もできず、1時間以上否、1時間半はかけてその工場まで自転車で通っている。雨の日も、この冬の寒い日も。父の唯一の楽しみは、月に1度、孫と会う事である。どうして月に1度かというと、父は妹達に会うとどうしてもお小遣いを上げなければ気が済まないからである。だが、弟が働いていないから弟にお金を上げている為に父はかなり節制して生活している。その中で月に1度なら、我が孫にお小遣いを渡せるからなのであろう。妹は勿論、毎回、「お金を貰いにきた訳じゃないんだから。」と受け取るのを拒否するが、父は、愛情の示し方がそれしか分からないと言う。だから、お小遣いを渡す事、受け取ってもらう事で父なりの愛情の遣り取りをしているのだと考える。妹や孫と会った時、父は私の事も心配しているという。私の所に来たくても、お小遣いを渡せないから行けないのだという。私は・・・私は。お金など要らない。偶に会いに来てくれたらそれで充分である。少しは会話が出来て、妹のように仲良くはなれなくても、以前のように忌み嫌っていたそんな状態にはならないと想う。父の気持ちは、妹を通じて分かった。人間的に以前よりは丸くなったが、まだ頑固過ぎる所や自分勝手に突っ走る所もあるけれど、その孤独の中で生き続けるのを見るのは哀しい。それらの気持ちを凝縮して主治医に伝えた。「まだ許せないところはあるけれど、父の事を可哀想だと想う。」そうすると主治医は、「“許せない想い”と、“可哀想だという想い”は 併存し得る想いだよ。 “許す”“許せない”は併存しない。 だから、許せなくても、父親の事を想っても良いんだよ。」と仰った。すっと、こころが軽くなった。今まで、何か拘り過ぎていたような気がした。“許す”とか“可哀想だ”など子どもの私が考えるなんておこがましいし傲慢であるかも知れないが、私は小学生の頃から、父の精神的虐待に必死に耐えてきた。一方的に父が母を罵倒して貶す姿を泣きながら見てきた。非力な子どもでは、止められなくて悔しかった。だから、物凄く父の事を憎んでいた。しかし、人の気持ちは変化する。両親が離婚して15年経った今、私はあれだけ憎んでいた父の事をもう、孤独の中で生きて欲しくは無いと考える。ただ、もう元通りの家族には決して戻らない。妹は結婚して新たな家庭を作り、弟はやがて自立する。私は、母と共に生きていく。でも、父が私の父である事には変わりないから、時間をかけて分かり合えたらそれで良い。母との関係でも、3年前まではこんなに良好なものではなかったのであるから。主治医は仰った。「今は、お母さんとの事だけでいいんだよ。」いたわるこころを忘れず、過ごす事。悪魔的な言葉、観念に支配されない事・・・それは一般常識になぞらえた、こころに配慮のない言葉や観念の事である。そして何事も素朴に感じたり受け取ったりする事を大切に、母と暮らしていく事である。『千と千尋の神隠し』の登場人物全て、人のこころの中に存在すると想う。私のこころには、“顔なし”も“千尋”も“ハク”もまた、“湯婆”も存在する。主治医とは、この物語を元に話し合うと、摂食障害についても、こころの中の事についても、スムースに気持ちを伝えられる。週に2回、長時間、長年話し合っている事なので此処で説明するのは難しいが、それだけ、あのストーリーは深い意味を持っていると感じる。今の課題は、【私の中の“ハク”を如何に救うか】という事である。支配され、それでも名前を取り戻そうとしていて、自暴自棄になって自分が傷付いても命令を全うしようとしている自分。その命令とは、“痩せていねばならない事”“強迫神経症による様々な症状”“悪魔的な観念に囚われ、自分自身がその観念を 洗脳している事”等を遂行しようとしている部分である。もう少し、こころにゆとりを持ちたい。うつ病である為、外出は本当に疲れるものである。最近は、スーパーに行く前も苦しい。人が多い所に行くのが怖いのである。そうして精神を疲弊させて帰ってきたら、休むという事が大切である。“へとへとに疲れた自分を認める事”これが大切だとも主治医は仰っていた。それが出来ず、無理を重ねて、疲れて疲れて何もかもが厭になってしまうから、死んだ方が楽だと想ってしまう。疲れを溜めれば溜めるほど、一層死にたくなってしまう。その気持ちは分かると主治医はいつも汲み取って下さる。一昨年までは、“死”についての話題をずっとしつこく話していると、叱られた。だが、主治医にも変化があり、患者が「死にたいと想う気持ち」について話す事を禁忌とせず真正面から向かい合って下さるようになった。それが、本当にありがたい。人間は、日々変化する。病気の症状によって、苦しく辛くて泣いてもどうにもならなくて消えたくなってしまう事もある。けれども生きていられるのは、母と共に過ごしていられる事や、主治医との診察を受診している事、カウンセラーも心配して下さっている事が大きい。そして、この場でコメントを下さる方々、メッセージを下さる方の言葉の力は、温かくて、本当に力強い。こころから感謝したい。疲れたら、休む。それを大切に過ごしたい。
2008.01.18
ゆらりゆらり、たゆたうような眠りから醒めて暫し私はお蒲団の中でぼんやり夢を反芻していた。また、観月ありささんが出てきてくれて何だか嬉しかったという事だけを覚えていた。目覚めが良かったので、ミルクティーを飲みながら一服した後、ゆっくりシャワーを浴びた。余り、疲れなかった。三つ編みを結んでお下げにして低血糖を避ける為、一欠片、クッキーを食べた。そうして背筋を伸ばしてスーパーへ向かった。まだ母は帰宅していなかったのでのんびり歩きながら、空を見上げたり花屋を覘いたりして時間を潰した。身体もこころも、軽かった。冬の花は美しい。シクラメンやクロッカス、パンジー、ビオラ。黄色の水仙もあった。もう、桜草も花開いていた。なんて可愛らしいんだろうとこころを潤した後、スーパーでいつものコースを辿って商品をカゴに入れて歩いた。普段、茸類は隣の八百屋の方が安いので、一旦カートをスーパーの端に寄せておいて、買いに行く。そして今日もいつも通り行こうと想い、お財布に幾ら入っていたか確かめようと想ったら・・・バッグを家に忘れていた。携帯電話はちゃんと持ってきているのに、お財布の入った、いつも斜め掛けにしているバッグを忘れていたのである。これではまるで、学校に行くのにランドセルを忘れる小学生みたいだ。それに、サザエさんみたいである。本当に吃驚した。ブレスレットや指輪を付け忘れたり、マスクを装着し忘れたりする事は何度かあった。だけど、肝心なお財布を忘れるなんて初めてだった。アワアワと慌てて、母に携帯で電話して事の顛末を話したら、大笑いしていた。電話越しでも、お腹を抱えて笑っている様が分かるほどの大笑いだった。私も可笑しくなって一緒に笑った。バッグを取りに帰る間も、可笑しくって笑っていた。夜だしマスクもしていたのでひとりで笑っている怪しいヤツだとは想われなかったと、多分想う。帰ってからも、母と顔を合わせたら自然と笑いが零れた。昨日まであんなに鬱々としていて、今日はとても寒かったのに、どうでもいいような厭な事はすっかり笑い声と共に飛んでいって、身体はぽかぽか温まった。『相棒』と『斉藤さん』という大好きなドラマを観て楽しんで、良い夢を見て目覚めて、そして、間抜けな失敗をやらかして母と共に大笑いした。ずっとずっと苦しい日々が続いていたけれど、この私の間抜けな出来事は、明るい笑いを誘い、楽しい気持ちになった。案外近い場所に、落ち込んだこころが浮上する切っ掛けはあるのだと感じた。笑えない日々が続いていた。楽しい時間を過ごせた日もあったけれど、こころの底から笑えていた訳ではなかった。14日は、妹の彼氏であるS君がいたから、やはり緊張していた事も否めない。おかしな事を言って場を和ませたくても、S君がどんなツボで笑うかを知らないのでしらけさせてしまうのではないか、その所為で妹に気まずい想いをさせてしまうのではないかと物凄く遠慮していたし、その場に打ち解けるのは難しかった。だが、何れは親戚になる人である。【親しき仲にも礼儀あり】を基本とした付き合い方が出来ればと考える。眠る前、うとうとしながら考えていた事がある。妹の旦那様となる人は、私より1歳年上である。しかし、義理の“弟”である。年上の人だから敬意を払って、話す際は丁寧語を貫き通すべきか、それとも親戚になるし“義弟”だから少し軽い感じで話しても良いのか・・・ちょっと悩んでいた。S君は、【時々丁寧語、時々フランクに】と言った感じである。私は今のところ、丁寧語で話している。だから他人行儀である所は否めず、距離感も縮まらない。姪っ子に関しては、最初からS君の事を呼び捨てにしたし、結婚の話が具体的になってからは「パパ」と呼ぶようになったが、それでも凄く子どもらしく甘えているし安心しきっている。姪っ子が、S君と過ごす姿を見て、私は安心だと想った。妹もS君も短気な所がありすぐ喧嘩をしてしまうらしいが、姪っ子はそれを解消できる、温かく柔らかく大きな存在だと想う。子どもに親の喧嘩を聞かせる事ほど苦いものはない。自分が子どもの頃、両親の喧嘩・・・といっても毎回父が母を一方的に罵るだけであるが・・・それを、毎日見ていてストレス性胃炎を患った。それほど、大人の喧嘩は子どもにとって大きな負荷となる。この事は、時機を見て妹達に話しておきたい。日本酒の銘柄を変えてみた。今まで、“月桂冠”を飲んでいたが、今回は“土佐鶴”を選んだ。やはり、日本酒も銘柄が違うと味も違う。どちらも美味しいが、“土佐鶴”の方がまろやかな感じがした。“月桂冠”は、室温の方が美味しい。“土佐鶴”は、熱燗も室温でも中々美味しい。もしも、私が働いていてそれなりに金銭的余裕があったら飲んで見たい日本酒がある。それは、“越乃寒梅”である。高級感が漂っていて、私よりも大人の人たちは皆、美味しいと言う。少し興味深い。お猪口に一杯で良いから飲んでみたいと想っている。病気の症状は、相変わらず酷い。消えてしまえたらどんなに良いかと毎日考える。過食と嘔吐は、1日2回に落ち着いた。ただ、PMSの時期は、それが崩れる。けれども、1回の過食と嘔吐でぐったりするので2回が限界となっている。強迫性障害・・・強迫神経症も相変わらずで数字に関する強迫観念や物事をこなす時間や順番が決まっている、強迫行為がある。それらが乱れると、苛々して言葉を発するのも億劫になり、母と話すのも、しんどいと想ってしまう。頭の中で組み立てた物事のやり方が、1つでも崩れると、不機嫌になるのを自分でも分かる。私が不機嫌になると、母との間に不穏な空気が漂い、余計に苦しくなるのは分かっているのに、不機嫌な私は寡黙になってしまう。苛々している時は、言葉を発する際どうしてもぽんぽんと放り投げるような話し方になってしまい、母も厭な想いをする。また、このブログも強迫行為が入っていると感じる。何も食べたくないから。過食をしたくないから。だからこうしてPCに向かいキーボードを叩いている。時間をたっぷりかける為に、一旦休憩してTVを観たり、日本酒を熱燗にして飲んだりしてぼんやりする時間も取り入れている。いつも何かに追い立てられているような感覚。急かされているような感覚。ゆっくりしていたら叱られるのではないかという感覚。これらは多分、子どもの頃に経験したものからきている感覚なのであろう。私は、いつも熟考してから行動に移す子どもだったので、大人からみたら、【鈍臭い】としか捉えようがなかったのであろう。なので母からはその事でいつも打擲された。子どもの頃から、物事の順番を決めて始めなければ混乱しそうだったから、考える時間が欲しかった。けれども、母は「何で臨機応変に出来ないの!」といつも叱り付けた。だから4~5歳の子どもでも【臨機応変】という言葉の意味を知っていたしそれが出来るようになる為に、必死だった。でも、出来なかったから、沢山殴られたし蹴られたし、突き飛ばされた。母からみれば、私は小児喘息を患っていた事で身体が弱かった上に、内気過ぎる部分が目立った。だから、母は私を鼓舞する為に躾と称した打擲をしていたのだと今なら理解できる。ただ、母には余裕がなかったから、言葉で諭し、意味を分からせて促すという時間のかかる事ができず、【力】で子どもを動かしたのであろう。14日にぽろっと母が零したのであるが、子どもを沢山叩いたり蹴ったりしてしまった夜、寝顔を見つめ、泣いていたそうである。「ごめんね」と謝り、私達子どもの寝顔にキスをしたそうである。それを聞くと、少しずつ凍えているこころが融解し始めている部分が面積を広げているけれど、未だに傷となって残っている部分からは目を背ける事ができない。でも、今の母を責める気は全くない。仕方のなかった事として、いつか昇華させられたらと想っている。本当に、凄く久し振りに、大笑いをした。お買い物をするのに肝心なお財布を入れたバッグを忘れるなんて自分でも吃驚した。でも、そんなお馬鹿なミスのお陰で母と共に大笑いする事が出来たので、良かったのだと想う。話は変わるが、今朝私は5時に目が覚めた。可燃ごみの日なので、ごみを纏めてごみ置き場に置いてきた後、TVを観ていて、漸く今日が阪神淡路大震災から13年経った日だったのだと想い出した。5時46分。TVで流れる映像と共に、黙祷を捧げた。涙が、頬を伝った。一瞬の内になくなった命。そして今でも続く、年配の方々の孤独死。被害は、13年経った今でも続いている。私が住んでいる地域でも、大地震が30年以内に起こる確率が50%とされている。古い借家なので、このままだと家は潰れもしも家の中にいたら私は天井・屋根に押し潰されるだろう。何よりも、病症が出ている時に地震が起きのではないかと想うと恐怖感を覚える。こうして、ヒーターによって温まりながら、PCで自分の思いを綴れる事。そして母と【共に】笑い合いながら過ごせる事。それは途轍もなく幸せな事だと改めて思い知らされた。感謝の気持ちを絶対に忘れないよう過ごしたいものである。
2008.01.17
麗らかな朝。その陽が射し込む部屋で微睡み、やがて深い眠りに落ちる。生活リズムは普通の人と逆転してしまったが今のところ、それで落ち着いている。今の私はマイナス思考で、母を困らせてばかりいる。私がネガティヴな言葉を言うと、母は哀しむ。分かっているのに、私の口をついて出るのは「私は駄目な人間だ。迷惑ばかりかけている。」「妹のように幸せにはなれないし、そんな資格なんかない。」「病気なんて治らない。治ったとしても 後遺症で苦しむ余生を送るだけ。自業自得だ。」「生きていたくなんてない。私は死んで今までの罪を 償わねばならない。」といった類の言葉ばかりである。母の前でも、「こんな私みたいな人間生きていても仕様が無いんだよ・・・。」と呟いてしまう事がある。だから母は、その度に落ち込み、哀しみ、黙って私の背中を撫でる。「もう、そんなに悲観的にならんといて・・・」と慰めてくれながら・・・。こころの底から、本当は【母さんに笑っていて欲しい】と想っている。だから「このままでは絶対に駄目だ。」と考えている。母と共にお酒を酌み交わしながらTVを観る時間、他愛ないおしゃべりをする時間が何よりも楽しくて、嬉しくて、温かい。それを自ら擲っている。その上、母を哀しませている。こんな自分から、卒業したいと強く願う。まだ、摂食障害という病の病症は必要でも、私は母を笑わせるだけのユーモアだけは持ち合わせている自信はある。日常生活でも硬い事ばかり言っているけれど、お笑い芸人を真似たり、おバカな事を言ったりするのが大好きなのであるから。私が笑っていると、母も笑ってくれるのである。だから、私はもっと笑顔を増やして過ごしたい。14日、家族で交わした想い出話を今、少しずつ整理している。私は14歳で摂食障害を患った為か、忘れてしまった事が多い。それだけ、自分の苦しみで精一杯になり、その時までの辛苦を記憶の隅に追いやってしまっていたのであろう。逆に妹は、子どもの頃の事をよく覚えていて、私の想い出を目覚めさせてくれた。弟は、小さい頃から妹に懐いていて、妹の姿が見えないと泣いていた事。弟は、寂しさからか母や私、妹にやたらとチュウをせがんだ事。妹と弟はいつも結託して悪戯をした事・・・例えば祖母の漬けた梅酒の梅をみんなの目を盗んで食べていた事や沢山、お菓子のつまみ食いをした事。母に肝臓の病気が見つかり、当時母は私達兄弟を脅すために、余命幾許もないと言った事etc...最後の、肝臓の病気に関しては、すっかり忘れていたがはっきり想い出した。私が摂食障害を患う前である。登校拒否気味になり、それでも母に殴られたり蹴られたりして無理矢理学校へ行かされた。母は、ひとりで3人の子どもを育てなければならなかったのだから、相当のストレスだったのであろう。言う事を聞かない、子どもの私達に業を煮やし、つい大袈裟に病気の事を言ってしまったのであろう。その時、妹は余命の計算をしたらしい。私は、物凄いショックを受けて、立ち直れなかった事を想い出した。生きた心地がしなかった事を。弟はどうだったか分からない。まだそれが分かる年齢に達していなかったと想う。実際、母の肝臓にはレントゲンで見るとピンポン玉位の影があるらしい。それは決して悪性腫瘍などではないと母は14日、言っていた。脅した事も、覚えていないらしい。それだけ母も、当時は相当追い詰められていたという事なのだと考える。ドラマ『斉藤さん』を観終えた。本当に見応えのあるドラマだと感じる。先週も綴ったと想うが、正しい事を貫ける世の中ではなくなっている。悪い事は悪いと注意しても、無視されたり、逆ギレされたりするのが当たり前の世の中となってしまった。今回のストーリーは、斉藤さんにとって凄く胸の痛む結果となるものであった。斉藤さんの息子、潤一君の通う幼稚園でチャリティーバザーの催しがあった。そこには、近所の柄の悪い高校生が授業を終えた後、冷やかしに来るのである。事なかれ主義代表の、幼稚園を仕切る保護者は斉藤さんに何事も起こさないよう、殆ど苛虐かと感じられるような役を与えていたが、高校生達は、斉藤さんに目を付けていたので斉藤さんが受け持っているスーパーボール掬いコーナーを取り囲んだ。斉藤さんは、大人たちに煙たがられているが、子ども達には大人気で、好かれている。だから、斉藤さんの周りに沢山いた子ども達は柄の悪い高校生達を見て怯えていた。高校生達は見ているだけだと主張したが、明らかに視線で妨害したり脅したりしていた。斉藤さんはそれを許す訳なく、「このバザーを楽しむ気がないのなら出て行きなさい!」と注意した。それまで、市会議員である不良息子は、何かに苛立っていて、取り巻きはそれを切っ掛けに暴れた。園児達は、斉藤さんの言葉に協調し、「出て行け!出て行け!」とコールしたものだから、取り巻きは色んなものを壊した。そこには、警備員がいたので、その日はそれ以上何事もなく終わったが、次の日幼稚園は、生ゴミを含めたゴミが園庭に沢山ばら撒かれていた。園児のママ代表となっている三上さんは、それは全て斉藤さんが高校生達を刺激した所為だと罵った。そして幼稚園を出て行けと。だが、そこで最近引っ越してきた例の真野さんが自分の意見は言わなければならないと前々から想っていた事を他のママさん達の中で発言した。「斉藤さん親子が幼稚園を出ることはおかしい。 妨害する高校生達を追い払ってくれて私はスッキリした。 大人たちが注意すべき事をしてくれた。」と・・・。そのミムラさん演じる真野さんのお陰で事なきを得た。斉藤さんは、自分のポリシー・・・「悪い事は悪いと言う。正しいと想うことを貫く」という生き方によって、誤解を受け易いが、真野さんは少しずつその斉藤さんの生き方に感化されて生きているようである。来週は斉藤さんが大変なことになるみたいなので本当にどきどきしている。今週のストーリーは、母も観ていた。母は、「何だか凄くリアルやね。でも凄く面白いしスッキリするわ。」と言っていた。ドラマの中で、斉藤さんは意外と可愛い部分を見せる。息子の潤一君に「これ、お母さんね。」と渡されたのは折り紙で作られた、たてがみのある雄ライオンだった。「じゃあ、仲間を作って・・・お父さん。」と、潤一をと頼むと、「じゃあ、チーターとウサギね。」と潤一君は返した。その遣り取りも可愛らしかった。また、園庭がゴミだらけになっていた時、斉藤さんは凄く動揺していたし、孤高の人でも、自分を曲げてまで友達になるのなら友達はいらないという考えを持っているが、自分を保てるのなら人を受け容れられる、決して孤高の人を無理して気取っている人ではない愛に溢れた人であると今回、感じられた。いつも怒っているイメージがあるけれど、マナーの悪い高校生が財布を落としていたら、バザーに持ち込む荷物を抱えてその子を追いかけて、ちゃんと渡した。その事で、女の子達は実は斉藤さんは不条理に怒ってばかりいる人じゃないと感じ取ったという部分も私は何だか嬉しかった。リアリティに溢れたドラマは、昨今見られなかった。だから、このドラマは本当に面白いと想う。21時からは『相棒』を観て、22時からは『斉藤さん』を観られる幸せ。水曜日はハッピィデイなのかも知れない。単に、好きなドラマが2つもあるというだけであるが。PMSの症状は完全に治まったので安心しているが・・・。だが、もう、疲れてしまった。下剤は全く服用していないのにお腹はずっと下っていて電解質のバランスが崩れているのであろう・・・手が痺れる。そして、よく足が攣る。一応、ちゃんとカリウムが多く含まれている野菜ジュースをきちんと飲むようにしているのであるが、食事をまともに取っていないのだから異常があって当たり前であろう。元日、祖母に最近はあまりげっそりしていないと言われた事から、もっと痩せねばならないと決心した。祖母は、褒める気持ちだったのだと分かっている。その日は眠っていない上にお酒を飲んだし、結構厚みのある洋服を4枚重ね着していたので顔は浮腫んでいたし身体も膨らんで見えたと想う。だが、【いつも痩せて見られていなくてはならない】といった自分でも訳の分からない強迫観念が、より一層「痩せねばならない」という気持ちを強めた。正直な所、混乱している。母は、それ以上痩せたら危ないという。体重は計っていないので分からないが、確かに胸もないし、手足は細い棒のようである。下痢が酷くなると、腕に血管がもりもり浮かぶ。気持ち悪い体になる。なのに、もっと痩せねばならないと想う気持ちを抑制する事はできない。一層の事、生命の限界まで痩せ細って限界を見たらやっと治る方向へと進めるのではないかとさえ考える。なのに、私は過食をしてしまう。【食べる事】は最も最速に楽に、こころを満たせるからであろう。しかしそれは仮埋めだし、こころを満たせる正しいものではないから、吐き出すのである。周りに迷惑をかけているのは充分承知しているが今は、生きる事だけで精一杯である。水曜日は、私にとって幸せな曜日である筈なのに、心身の調子がすぐ悪い方へ傾いたり、ネガティヴな想いが湧き上がったりする。母を哀しませたくないと想っているのに、私は自分を、罵り続け止められない。故に母を哀しませる。病気に取り憑かれ、身動きの出来ない状態であり、それは、マイナス思考しか呼ばない。承知しているから、明るい事を考えようと想っても、それは一瞬で儚く消え去り、次の瞬間には如何に自分は情けない人間であるかを思い知らされる。夢の中で、病気の事など関係なくアクティヴに、まるで名探偵のように走り回っている自分が本当に不思議でならない。人を助けたり、窮地に陥っても挽回する行動を起こしたりと夢の中の私は、かなり行動的である。夢の話をすると、いつも主治医も不思議がっている。現実の私と、余りにもギャップがあるからだろう。現実では、近所のスーパーへ行くだけで疲労困憊しており、帰り着いたら放心している。そして、暗い言葉ばかり呟いてしまう。それは、母の気持ちをも塞いでしまっている。少しでも、母には笑っていてほしい。お仕事で疲れて帰ってきた母を、私のふざけた、おかしな、ユーモアを超えた部分を、笑って欲しい。それも、少しずつという所が妥当であろう。ゆっくりと、母との雰囲気を温めたい。
2008.01.16
外で過ごす時間が長いと、テンションが上がってしまうのは想像に難くなかった。その通りになって、今日、私は疲弊しておりこころがざわつき、ぐったりしたいた。だから今日、電話診察は受診できなかった。予定通り、14日は妹の彼氏S君が、母に結婚の申し込みをする為の日だった。しかし“外出する”と考えただけで私の心身はお蒲団から出る事を拒否した。でもギリギリの時間になって母に、キッチンにおいてある買い置きの小さなクッキーを1枚取って来てもらい、それを食べて糖分補給をした後、ようやく支度を始められた。白のコンシーラーと基礎メイクでメリハリをつけただけという薄化粧だったので、メイク時間は10分程で済んだ。スーパーで買い物を終わらせて、母がきっちりとした洋服に着替え、そして共に徒歩で居酒屋へ向かった。20時からという約束だったが、妹達は早目に到着したので、先に飲んでいてもらった。また既に、珍しく弟も先に到着していて私達が着いたのは姪っ子はカルボナーラを食べている時だった。妹達はお腹が空いていたので、先ず乾杯して、お腹を満たそうという事になり、思い思いのものをそれぞれ頼んだ。弟は、いつも生ビールでなく女の子のように“カシスオレンジ”を頼む。私と母、妹やS君は生ビール、姪っ子はカルピスで乾杯をした。兎に角寒かったので、メニューを見ながら温かいものを探した。アサリの酒蒸しや牛すじと豆腐の煮物、具沢山味噌汁、山芋とねぎの鉄板焼きを選んだ。後は私の大好きなとろとろ系の山芋とネギトロのユッケ・・・久し振りにししゃもが食べたくてそれも。S君は沢山食べるし、沢山お酒も飲む。けれども、背が高く痩せている。だから、パクパク食べている姿をみていると小気味好いし、羨ましいとも想う。やはり私は、程々で抑えておく事は出来ず、胃に何かあるのが耐えられず嘔吐してしまった。それが、哀しかった。みんなのお腹が落ち着いたとき、S君の挨拶が始まった。タイミングが悪い事に、丁度姪っ子のむし歯が痛み始め、泣き叫び、妹が痛み止めを飲ませた。その後は「トイレ!トイレ!」と大騒ぎするので、妹と姪っ子が不在の中、母と私、弟に向かって、S君は正座をして真摯な態度で真っ直ぐな視線でゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。その言葉は、ストレートで、胸に深くしみこんだ。とてもこころに響く言葉だった。この人だったら、妹も姪も幸せにしてくれるだろう。そう、確信できる深みが、あった。母は、「あの子は、口が達者で過ぎる事もある。短気な所もある。 やから、お互い【思い遣りの気持ち】だけは 忘れんと、やっていかないかんよ。 想い合うこと。これが一番大切やけんね。 うちの娘には至らない所もいっぱいある。 こちらこそ、宜しくお願いします。」と応えていた。2人の遣り取りが、胸に迫って泣きそうになった。妹が、やっと幸せになるんだと想うと、私も凄く幸せだと感じた。今まで、妹は余りにも辛い過去を背負ってきた。漸く、その辛苦を分かち合って生きていける人を見つけられたんだなと感慨深い気持ちになった。姪っ子が、幼稚園に入学する前には入籍するという。それは即ち、家族が増えるということである。少し臆病な気持ちが出てきているが、余りS君側のご家族とお会いする事はないので大丈夫であろう。妹達はよく、S君の妹さんとその息子さん達と遊んだり、お義母さんお義父さんに会ったりと仲良くさせて頂き、とても優しくしてもらっていると聞いて安心している。場の緊張は緩み、後は沢山の想い出話に花が咲いた。言わずもがな、私達家族の事で。そして父の話題になったとき、不穏な空気が漂ってきた。発生源は母だった。自分に相談しないで、父に相談していたという事実が、哀しかったらしい。もう大分、母はビールを飲んで酔っていたから仕方のない事である。妹や弟は、私と違い子どもの頃から父親に可愛がられていた事から、今も父親と少なくても月に1度は会っている。孫の顔を見せる為である。父は、孫の顔を見る事が何よりも幸せだと感じていると聞いた。妹によると、「お父さんは、人間的に丸くなった。」らしい。確かに、母と結婚していた間は人として心が狭くて、まるで子どものようでしかも母を強く束縛していた。父には、友達がいなかったという要因が大きい。しかし、離婚後数年経ってようやく父方の親戚連中が母にしてきた苛虐、そのこころの汚さ、意地悪さを思い知ったという。それは、父に孫ができた事が切っ掛けだった。父は、4人兄弟の三男である。長男次男はいつも威張っていて、四男は足が少し不自由だったから甘やかされ可愛がられていた。一番影が薄く、でも愛して欲しくて父は子どもの頃から哀しい想いをしていたのであろう。厭な想いをさせられても、【家族の絆・温かさ】を求めていた。だからこそ、自分に孫が出来たとき、お正月くらい家族みんなで集まって食事をしようと言ったらしい。だが、長男の息子は所謂母親にべったりな人間で一時期、一人暮らしをしていたが、洗濯機があるにも拘らず洗濯物は実家に持って帰ったり食事も自分のアパートに来てもらって作ってもらったりと全て母親任せだった。だから長続きせず、未だに親の元でフリーターとして過ごしている。次男の息子は、遊びたいと言う目的で大阪の大学に進み、今も食べ歩きして容貌は変貌した。四男の息子は、今大学院で勉強しているらしい。父は唯一、弟である四男の世話を焼いていた。四男はそろばん塾や学習塾を営んでいたが、それを縮小し、資格を取って八百屋を営むようになった。最初は、食べていけるだけの食べ物とほんの少しのお金をもらうだけで早朝から野菜を仕入れ、店頭に並べるという仕事を父がしていた。だが、長男が定年退職をしたら生活をする為にその父の仕事を取り上げ、しかも四男にはそれなりの報酬を要求するという状態になった。だから父は、とあるジュース工場に1時間以上かけて自転車をこいで雨の日も陽が強く照る日も、雪の日も台風の日も出勤して生活している。話は脱線してしまったが、孫が生まれたというのは、4人兄弟の中で父だけである。長男・次男の息子には結婚の気配すらない。姪っ子が1歳の時、私を含めた父方の親戚が集まった食事会の際、この1回きりでもうおしまいにすると長男は宣言したのである。そこで、父は絶望したらしい。もしかしたら、こうしてこの家に孫が生まれた事で【家族の絆・温かさ】を今手に入れる事が出来るかも知れないと考えたのに、それが見事に裏切られたのであるからであろう。勿論、長男の宣言は父が考えた通りの、孫が出来た幸せを見せ付けられるのは真っ平だというものであった。私はあの、最後の食事会で見たおじ・おば達の偽善的な、腹の底に黒いものを抱えたあの表情だけは忘れられない。父の哀しみが、14日静かに落ち着いていた水面に落とされた雫の波紋が広がっていくかの如く沁みていった。初めて父を、実は哀しい生い立ちで今、寂しい想いをしていて実は、孤独で堪らないのだと想えた。だから、今まで父の事を憎んできた私のこころは混乱して哀しくなって、どうしたらいいのかも分からなくなってしまった。その事を電話診察で相談したかったから、かなりお薬の量は削ったけれど、起き上がれなかった。そして、さっきまでこころが疼いて苦しかった。だから、途中でブログを中断して母の部屋へ入った。「こころがね、ざわざわするんよ。」と。正直な想いを話すと、母は「時々、お父さんに電話してみれば? それだけでも大分胸のつかえは取れるよ。」と優しく諭してくれた。でも、私は離婚前の時期、母がリストカットするまでに追い詰めた父が許せないという部分がある。まだ、憎んでいる所があるのは否めない。でも、父は父で今、あの頃の事を後悔している。反省しているという。だからこそ、人間が丸くなったのであろう。私も、父に対して鋭利になっている部分をやすりで削り、丸くしたいと感じた。そう想ったら、少しこころが楽になった。母の言葉は、時にお薬よりも効果的である。また、母と私を包む雰囲気が温かくなったと感じる。居酒屋で、目新しい焼酎を試したいと想ったが、大衆居酒屋なので飲んだ事のある麦焼酎や芋焼酎しかなかった。諦めて、飲んだ事のない日本酒を熱燗で飲んでみようと想ったら、それらは全て冷酒でしか頼めず、結局松竹梅の熱燗を頼む事になった。だが、それはぬる燗だった。カクテルも、ちょっと甘いものを飲んでみたくてバナナミルクを頼んだら、自分でも作れる家にあるグリーンバナナリキュールに牛乳を混ぜただけのものが小さなグラスに入っていた。こころの中だけでぷんぷん怒ってやった。話は飛躍するが、何れにせよS君の真摯な想いは確かなものだと感じたし、何より目が綺麗で、視線が真っ直ぐであり、人の裏をかいたり、暴力を振るったりする人ではないという事は確かである。また、母もS君も人のこころの裏を読むのは苦手としており、だからこそ、人には真っ直ぐでいたいと考えている。温かい人たちが周りにいて、私は本当に恵まれていると感じた。弟もまた、ちょっと問題はあるけれど、こころは凄く優しいヤツなのである。だから、姪っ子は弟に懐いている。かなり疲れてしまったけれど、良い1日だった。機会があれば、勇気を出して、父に電話を掛けよう。
2008.01.15
20時過ぎ、近所の居酒屋さんに母・妹・妹の彼氏・姪っ子・私・弟が集まり和気藹々とした雰囲気の中お酒を酌み交わした。とても寒い日で、居酒屋の中も寒かったけれど個室を包んでいる空気は和やかで柔らかかった。数ヵ月後には、義理の弟になるS君の、真摯な言葉。家族の想い出話。良き1日だった。
2008.01.14
抑うつ感に埋もれていると、本当に周囲が見えなくなって己が作り出した殻から出られなくなる。狭くて暗い、硬い殻。でも、外界の痛い空気からは逃れられる殻。その中で私は、膝を抱え小さくなっている。ずっとずっと、「消えてしまいたい。」とばかり考えている。だが、硬い殻のほうが、割れ易い。強い衝撃を受ければひびが入り、自分自身でそのひびをもっと広げていって抜け出す事ができるのである。今回、私の殻に日々を入れてくれたのは、母であった。PMSは脳で分泌される物質や女性ホルモンと関係があるらしい。それらに関して、私は自力でコントロールできるものではないし、これ以上沢山のお薬を服用するのも抵抗があるので、1ヶ月の内1週間、特別酷いうつ状態の時期は我慢するしかないと考えている。でも、母は何かと心配してくれて、温かく接してくれる。近付き過ぎず、離れ過ぎない距離で。それがとても心地好い。特に、今回は私が苛々しながらロックアイスをクラッシュアイスにする為黙々と力を込めながらアイスピックを操っていたら指を思い切り刺してしまった。想像以上に流血した。その際、母は「あ~あ、痛いねえ。」と言いながら、また手際よく指にくるりと絆創膏を貼ってくれたのである。そういった“手当て”が凄く嬉しい。冬、私の寝室には朝陽と夕陽が射す。見た目は温かそうであるらしいが、隙間風の酷いこの古い借家はエアコンを稼動させていないと寒くて寒くて我慢できない。先日、母は私が眠っている昼にエアコンのスイッチを切ってしまったので目覚めたとき私はがたがた震えるほど冷え切っていた。なのでその時、「寒いから、エアコンは付けといてね。」と言ったのである。しかし今日、天気が良くて夕陽がきらきらと部屋に射していた事から温かそうだと感じたらしく、母は先日の私の言葉を忘れてエアコンのスイッチを切ってしまった。目が覚めたのは18時。陽は完全に落ちていて只管寒く、シャワーを浴びた後もまたお蒲団に潜り込んでいなければ過ごせなかった。そしてまたそのまま眠ってしまったようである。「もうお店に行く時間やないの?」と母に起こされたが、寒くて起きられなかった。馬鹿な私は余裕がなくて自分でもエアコンのスイッチを入れ忘れていたのである。だからお蒲団から出られなかった。うだうだしていたら、スーパーに着いている筈の時間を10分くらいオーバーしていた。「お母さんがエアコンのスイッチ切ったんよね?」と尋ねると「太陽が照って温そうだったから。」とさらりと答えた。先日私が「エアコンは付けたままにしておいてね」という言葉はやはりすっかり忘れられていた。その事を言うと、母は不機嫌になり雲行きが怪しくなった状況で私に謝った。「もう、終わった事やから、ええんよ」と言っても、「そういう風に言われたら、余計に責められているみたい。」と、どんどん声音が怖くなっていく。今度は私が謝る番だった。上記の言葉を交わした1時間くらいは、只管下手に出て、謝りに謝った。そして色々と話しかける事で不穏な空気を打開したら、何とか母に笑顔が戻った。母に厭な想いをさせてしまった私は最低である。物凄く自分に腹が立った。うつ状態である事に変わりはないが、低空飛行を保っている。主治医も、どちらかと言えば元気いっぱいでいる状態よりも、少しうつ傾向にあるほうが無理しないで過ごしやすいと仰っていた。確かに、元気であるという事は、かなりテンションが上がっているという状態である。これは、普段の状態に戻った時との落差が余りにも激しく、心身を追い詰めてしまう。だが、テンションもまた、容易にコントロールできるものではない。遠出したり外食したりする際は、お化粧をして、好きなお洋服を着るので自然と気分が上昇していく。普段よりも多弁になり、やたらと笑う。姪っ子のパワフルさについていく為にもっともっとテンションを上げる。そして、家に帰り着いたときにどっと疲れが出るのである。こういう場合は、【今、自分はしんどいんだ。】と念頭に置き、そのしんどさを感じながら、なだらかで柔らかな気持ちで過ごす事が重要だと主治医は仰っていた。しかしこれがまた、難しい。その場の空気に、私は容易に流されてしまう。そしてその後1週間ほど疲れを引き摺る。明日、早速外食があるので少し気をつけたいものである。日本酒を飲むようになってから、何だかお肌の調子が良い。日本酒は、必ず量を決めている。小振りな湯呑みに1杯である。それを熱燗にしてちびりちびり飲み、時間を空けてぬる燗としてまたちびりと飲む。そして室温でまた味わう。発泡酒のようにごくごく飲めるものではないので、全体的にお酒を飲む量も抑えられて、発泡酒の消費量も少なくなった。高い日本酒は買えないけれど原材料名はきちんと確認して、米・米麹・醸造アルコールだけのものに拘っている。美味しくする為に、糖類や酸味料などを入れている日本酒もあるけれど、私が拘っている原材料のものが口に合うと感じている。日本酒に拘っている方なら、米と米麹だけのものを選ばれるであろう。私も一度カップ酒でそれを試した事があるが、ちょっとお値段が張った上に、物足りなさを感じてしまった。私が好んで飲む銘柄は、『月桂冠』である。その中で、一番安いものを900ml詰めの紙パックで購入している。この寒い時期は、身体がぽかぽか温まる。そして、最近食べられるようになっている“しらすの釜揚げと大根おろしを混ぜ ポン酢で頂くもの”と日本酒がこれまたよく合うのである。しらすも大根おろしも余り固形物といった感じがしないのでゆっくりであれば食べられるし、そのペースに合わせて日本酒をちびりと飲むと、何だか至福の時であるような感覚さえ抱くのである。その上、肌の調子が良いのは嬉しい。日本酒といえば、東北地方を思い浮かべる。東北の女性は、美しくお年を召した方でもお肌が綺麗である。また、高知県も想い出したが、やはり高知県の女性もお肌が綺麗で綺麗な印象がある。お酒は、“ほどほど”であれば良い効果をもたらすのであろう。“程々・適度”という感覚を、とても難しく感じる。それは正に【ALL OR NOTHING】という私の観念が強いからであろう。それに伴った強迫神経症がその色を濃くしている。“0か100か”・・・それは主に摂食障害の症状として出現する。全く食べないでいるか、食べたら胃が限界になるまで食べて、嘔吐してそして、0にするか。こころの中は、沢山の感情が犇いていて悲鳴を上げている。なのに、ぽっかりと穴が空いている感覚は拭いきれず、私はその空虚な穴に食べ物を詰め込む事で、一時の安心感を得ているのであろう。しかし、いつも綴っているようにその空虚さや寂しさ、哀しみといった空間を埋めるのは食べ物ではない。だから、異物である食べ物を吐き出す。無論、吐くまで食べているのだから胃に留めて置けないし、太るのが怖いという理由もある。複雑に絡み合ったこころの糸。今はこれを解す為、主治医との診察という話し合いの中で様々な言葉を交わし、精神を広げている最中である。こころや精神は、どんなに太っても構わない。病気が治る為に、大切な事なのであるから。明日の外食は、近所の居酒屋さんである。いつも行っているスーパーから徒歩で3~4分ほどの所にある。成人の日なので、妹達が一応予約を入れてくれておいてくれた。妹の彼氏・・・S君の普段のファッションはソフトなパンク系である。スカルをモチーフとしたアクセサリーやデザインの洋服を着ていて、姪っ子もお気に入りとなっており、元日もピンクの長袖Tシャツに可愛い感じのスカル柄が入っていた。月曜は、そのS君がスーツを着て現れる。「娘さんを僕に下さい!」と、ドラマで聞くような台詞を言うのだろうか。何だか私まで緊張する。絶対、私の何十倍も涙もろい母は号泣するであろう。妹は、余りにも不幸な過去を背負った為、こんなに良い人を見つけられた事、血が繋がっていなくても、我が子のように姪っ子を可愛がっている事を感じると、妹もやっと幸せになれるのだと感慨深いものがある。姉として、本当に嬉しい。母と一緒に、遠慮なく泣こう。普段より早起きしなければならない明日は、ベゲタミンの服用は止めておかねばならない。特に今は頻繁に貧血を起こすのでその分、お薬の効果が強く出るから、お薬の調整は難しい。この3日、1日2錠の鎮痛剤を服用し続けた所為か、胃の上部辺りがじわりじわりと痛む。また胃腸科に行かねばならないのかと想うと気分がずぶずぶと沈んでいく。また、吐血があったら考えたい。今は、目の前にある事で精一杯である。母との事、そして妹達が向かっている未来、父が負った怪我の事、弟の事。そして自分の病気がどんどん重くなっている事から目を逸らさず主治医に与えられた課題を考えたいものである。
2008.01.13
「おなか、痛いよう。」昨夜からずっと呟いていた気がする。一応、消炎鎮痛剤であるロキソニンは服薬したが、効いてくるまで地獄の苦しみである。毎月、律儀に訪れてくれるのは良い事なのかもしれないが、結婚しない私にとっては、この月経は辛いだけとしか捉えられない。一応、カイロでお腹を温めたら幾らか痛みは緩和した。消炎鎮痛剤は、胃を荒らす。数日前に胃に傷がついて吐血してしまい、まだ違和感が残っている状態で、このお薬を服用するのはリスキーな感じもするが、月経痛はどうにも我慢できないのである。余りの痛みに七転八倒すると言っても過言ではない。それに、ロキソニンは食後服用とされているが、私は決まった時間に決まったものを食べる事しか出来ない。だから、胃薬と共に服用する事でどうにか胃が荒れるのを避ける工夫をする。胃の痛みと、下腹部の痛み。身体のどこかに痛みがあると、精神的にも疲弊してしまう。こころと身体は、繋がっているのを痛感する。明日辺り、痛みは引くので鎮痛剤と離れられるであろうが、本当に疲れてしまう。母と私が作ったカプセル。今朝それについて考えた。【カプセル】と表現すると、何だか硬質な感じがする。だが、私が想像する母と私が作り上げた雰囲気は、柔らかい透明なフィルムというか膜のようなもので包まれていると感じた。頑丈ではないから、すぐ破れてしまってギクシャクしてしまう事もあるし、他人からの攻撃を、柔らかく受け弾み返す時もあれば破られて傷つけられる場合もある。“柔らかい”と感じたのは、それだけどんどん広がりを持たせられるからである。昨日、右手第三指第一関節を怪我してしまった。この箇所は、以前にも怪我してそれがまだ治りきっておらず、傷口は開いたままだった。なのに私は、大根おろしを作っている時、大根と一緒に下ろし金で一緒にすってしまったのである。思い掛けないほど血が溢れてきて少し慌て、「ああ、やってしまった。」と独り言を呟いていたら、母は部屋から出てきて、「また怪我したんかね。ほら、消毒しな。」と絆創膏を取り出していた。自分で消毒したあと、私は自然に指を差し出し、母はまた同じく自然にくるりと綺麗に絆創膏を巻いてくれた。「もう。血がもったいないねえ。」と笑いながら、また部屋に戻っていった。その一連の流れが何故か凄く嬉しかった。3年前では考えられなかった出来事である。怪我の手当てをしてもらう事、それをいたわってもらう事。手当ても、いたわってもらう事も、子どもの頃体験した事は殆どなかったように想う。あったとしても妹が生まれる3歳までだろう。妹が生まれてから、どんどん母に余裕がなくなっていくのが、子どもながらに分かった。全く構ってもらう事はなくなり、躾と称する虐待が酷くなる一方だった。印象深いのは、「叩くこっちの手だって痛いんよ!分かれ!」と怒鳴られ今度は蹴られた事であった。その時は、瞬時に涙が止まった。自分が鈍い動作をしている事で叱られ叩かれた上に、親の気持ちを分かれと言われて今度は蹴られている状況を、子どもの頭では把握できず混乱したのだと今ならそう考える。突然、涙が止まったのであるから。話は飛躍してしまったが、あの頃とは全く違う空気が私と母の間に流れている。自然に、お互いを慮れる空気。色で例えるなら、淡くて薄い桃色かも知れない。または、冬の抜けるような快晴の綺麗な空色。だが、どちらかが調子の悪い時は、それに黒い色が混ざったり濃くなったりして、桃色は臙脂色になり、空色は紺色になる。でも、相変わらずフィルターは柔らかく、うっすらしている感じなのでそこに穴を開ければ、循環可能である。母と私の雰囲気が作り上げた膜・フィルター。包み込まれている感じは、とても温かい。主治医との電話診察の中で、【悪魔】というフレーズが出た。これは俗に言う【残虐非道な人間】を言っている訳ではなく、【人を傷つける事を平気で言い、それを厭わない人】の事を主に表している。勿論、“人の立場になって物事を考える”のはとても難しい事であるし、いつも人の事を思い遣り、人の為だけに生きているという聖人の存在は希少だと考える。私も、やはり自分を守る為だけに精一杯になることが事がある。そんな時は、周囲が見えないのできっと迷惑をかけていると想う。だが、「こんな事を言ったら人が傷付き哀しむ」という事は分かっているつもりである。自分が言われたら傷付き哀しい事が即ち、人も嫌悪感を覚える事なのであるから。でも、それが分からない悪魔的な人は多いし、私も時に悪魔的な人間になる。そしてそんな自分に対して堪らなく気持ち悪さと嫌悪感を抱くから、自傷したり、死にたいと想ったりする。病気を患っている私にとっては、【一般常識に即したような説教に似た貶める言葉】こそが、悪魔的なもの感じられる。病気を患っていたら、出来る事と出来ない事がある。症状が酷く出ている時は、身体を横たえたまま動けなくなるし、食べる事で頭がいっぱいになると酷く苛々して他の事を考えられなくなる。自傷している時は、その行為だけで頭が真っ白になっているし、解離すると、1週間は心身の具合が悪い。辛く苦しい事でいっぱいであるが、それでも生きようとしていて、生きるだけで精一杯なのである。そこに、所謂一般常識を持ち込まれても困る。世間でよく言われる「働かざるもの食うべからず」という言葉があるけれど、これが適応されている空気が濃い所と薄い所がある。だから、日本の自殺者は年に3万人強出るし働けないうつ病の自分を許せないのであろう。日本で、この言葉が横行しているから、うつ病になっても休養する事ができず病気が治る見込みもないのであろう。実は、私にもその言葉が根付いていて、いつも「このままではいけない。」と感じている。元日に親戚の人が言った言葉「いつまでも母さんが働けるわけじゃないんぞ。」というもの。「何れはお前が母さんの面倒をみんといかんのぞ。」という予言。それは、今私が26歳で働いていない事を暗に非難していた事は分かっている。あの場所に母がいたら、何らかのフォローがあってこれらの言葉に未だ苦しんでいる事はなかったかも知れない。この悪魔的な言葉は、さらりと言い渡され、私のこころを容易に抉った。脆弱な自分を、情けなく想う。すぐに、命を放擲しようとする。それこそ、周囲に哀しみと痛みを与え一生苦しませてしまう結果をもたらしてしまうというのに・・・。それが分かっていて、逃げたいと考える。生きるのが、もう、苦しいと。それが本音であり、内なる叫びかも知れない。未だ、“役割”を生きようとするきらいがある。その方がきっと分かりやすいからであろう。何故、自分が生きているか。何の為に生きているかを。しかし、それはとても虚しい事なのである。小さい頃から私は、“お姉ちゃん”という“役割”を生きてきた。3歳ずつ離れた妹と弟の面倒を見て、彼らの模範となる人間になること。習い事やテストの点数、どれも優秀でいなければならなかった。本来の私は、外で遊ぶのが大好きで、習い事に時間を費やすくらいなら放課後、学校の校庭で走り回っていたかった。公園の遊具で陽が暮れるまで遊んでいたかった。それが許されたのは、習い事が早く終わる土曜日か、習い事がない日曜日だけだった。夏は、陽が暮れる時間が遅いので、ピアノレッスンが終わった後は校庭で延々と高い鉄棒で逆上がりの練習をしたり縄跳びで三重飛びやハヤブサ、後ろ二重あや飛びの練習をしたりしていた。うんていをしたり、アスレチックで遊んだり、うんていの上を走ったりもした。だからいつも怪我をしていたのである。活発に動き回る事で、きっとこころの均衡が保たれていたのかも知れないが、両親の離婚が近付くにつれて、もう保てなくなった私は、神経症を患った。それが、神経性胃炎である。どんなに腹痛を訴えても、仮病とみなされた。学校では担任のオバサン教師に馬鹿だ阿呆だ、情けないヤツだと貶された。私は、その頃フィルターを作る力がなかった。きっと、フィルターとは1人では作れないものなのかもしれない。自分で自分を守るのには限界がある。だから人は、人との繋がりを特に信頼の置ける――私なら母である――人と手を繋ぐのであろう。ぬくもりを作り上げるのであろう。フィルターの中で思い遣りあうのであろう。お腹は痛いけれど、精神的に落ち着いているので余り死ぬ事を意識しなくなった。これは、随分楽な事である。生きる為に精一杯であるという事は、余計な事を考えなくて済む。今のところ、自傷衝動もなく過ごせている。だが、どんなにお腹が痛くても、過食と嘔吐だけは止まらない。この行為をしないと、不安になるほどに私は、追い詰められている部分があるのは否めない。ただ、少しずつ笑えるようになった。今日も色々母と他愛ない話をして笑い合って過ごせた。それが、良いお薬となって嬉しくなった。月曜日、外食へ行く気力を溜めておく為にも、ゆったり過ごしたいものである。
2008.01.12
物凄く酷かった抑うつ感が、昨日の夜辺りから少しずつ薄れてきていた。それはまるで、重く垂れ込めていた雨雲が風に乗って彼方へ去っていって太陽の光が微かに射すような感じだった。漸く、低空飛行を保つ感覚を取り戻せた想いで安心している。こころが落ち着いた要因。それはPMSの症状が落ち着いたからである。月を経る毎に、どんどんこの症状の抑うつ感は酷くなっていく。きちんと抗うつ薬などのお薬を服用していても、唯一外出するスーパーへ行く時間や、帰った後などは、自己嫌悪が強くなり罪悪感でこころは覆われ自分の存在を消したくなる。仄暗い気持ちを抱えている時は明るい事を考えられない。唯一、大好きな女優さんや俳優さんがTVに出演している時は追い詰められた苦しさから少しだけ浮上しているが、終わった途端、すぐ前の感情に戻る。これもPMSの期間だけ物凄く酷くなるだけだからと我慢するしかないのであろう。現に、今は落ち着いているのであるから。眠る前、お薬を減らして服用したのが良かったのか夕方はきちんと目覚め、病院に電話を掛けられた。本来なら1月4日が年明け最初の電話診察を受診する日だったのであるが、余りにも落ち込みが激しく、電話を掛ける気力はなかった。8日の火曜日も同様である。だから、2週間振りの受診となり主治医の声がとても懐かしく感じてその柔らかく温かい声に、こころが落ち着いた。緊張もすぐ解けた。元日に親戚の人達から言われた事、それによって相当落ち込んだ事は既に母から主治医に伝わっていた。今までの、主治医との話し合いによって私がかの『千と千尋の神隠し』に登場する“顔なし”を少しずつ大事に出来るようになってきている事は分かった。だが親戚が言い放った、所謂【一般常識という名の勝手な言い分】を私は飲み込み、傷付き、その意のままに自分を貶めた。その事で自分を蔑ろにして、私にとっては辛辣な言葉の刺激によって“顔なし”を邪険にして阻害する状態に戻ってしまった。親戚の人達から、一般常識に即した説教を受けたのは、母が妹と姪っ子を連れて寝坊した弟を迎えに行っていた時であった。だからその場所には妹の彼氏であるS君、祖父母しかいなかった。母の妹夫婦は、私しか気軽に話せる人がいなかったので、病気の事を知らない彼らにしてみたら怠けているとしか見えない私に何か物言いを付けたかったのも仕方が無いであろう。ただ驚いたのは、母がそういった【私が一般常識によって責められる】という隙を作ってしまった事を悔いていると知った事である。これは、主治医から伺った。母は主治医に、「私があの場にいれば、あの子を今は常識に即して 頑張れるような、そういう状態じゃないと フォローする事ができて、その後何日も あの子が自分を責めたり手首を切ったり する事はなかったのに・・・。」と言ったそうである。母も、母自身を責めていたのである。自分の事しか考えていなかった自分が情けない。私が苦しむ事でまた、母も苦しんでいたのである。でもそれについては、主治医と母が話し合う事で、母なりに納得のいく答えを見つけ出せたようである。私と母を包む空間・・・つまりその2人で作った【カプセル】がある時は、周りの言葉に毒されないで済む。そう、主治医は仰った。【カプセル】とは、主治医と私の間ではイメージする形は違うかも知れないが、私はお薬のカプセルを先ず、思い浮かべた。長細い、2色のカプセルである。それぞれに重要な要素が詰まっている。両方が相俟って、きちんとした効き目があるもの。噛んで割ってしまうと胃を荒らしてしまうから、カプセルというものは重要なのである。私と母は、そのカプセルの中にいる。カプセルの中で2人、生きていく為に大切な思い遣りや雰囲気を守っている。だから、どちらか一方が欠けていると一方は傷付いたり、弱くなったり毒になったりする。今、こうして母と“共に”生きていける事は、苦しく辛い事を経験してきた結果である。その中にも喜びや楽しみの時間があったから、お互いを尊重できる関係を築けたのであろう。だからこそ、元日に私があらゆる言葉によって傷付いた事を母は気に病んでいたのである。母の想いが、胸に沁みる。だが、親戚の人達・・・母の妹夫婦は決して悪い人ではない。極めて一般常識に生きている人であるだけというだけで。そして、“人の身になって考える”のは誰もが出来るほどではないほど難しいものである。だから、軽い気持ちで放った言葉が実は思い掛けなく人のこころを傷つけている事もあり得る。それは自分自身も当てはまる。言葉は、薬になる事もあれば、時に殺傷能力の高い凶器にもなる。それを考慮に入れておきたいものである。『千と千尋の神隠し』という作品が、主治医との話し合いの中、“摂食障害”を考える上でとても重要な物語となっている。“顔なし”についての話し合いが深まったので、次に重要となっているキーパーソンは“ハク”である。自分が傷付く事を厭わず、油屋の中では孤立していても邪魔者・・・その中に顔なしが含まれているが・・・それらを排除して従業員をも監視する。湯婆の元で魔法を身に付け、でもそれは、自分の名前を取り戻す為であった事。自分の名前を取り戻せたのは、その昔、現世の川の神だったころ、千尋を救ったからであった事。それを鑑みると、私の中で“ハク”について考えつつも未だ油屋という別世界で怖がっている“千尋”を育てなければならない。でもこれは、【病気は治る】という希望が持てるという意味も含んでいる。努力が出来るという事は、幸せな事だと主治医は仰った。世の中には不治の病を患い、治らないから努力も出来ずそのための苦労も出来ない人もいると仰った。ただ、【役立たずだから捨てる】というあの物語にある通りにしてしまうと自分の中の“ハク”も救えないであろう。今日のブログは観念的になってしまった。だが、今、私は母と力を合わせる事でこうして生きられているという大事な、大切な事を忘れないで生きていこうと考えた。
2008.01.11
大好きな女優さんの連続ドラマが始まった嬉しさ。それまでどん底にあった私のこころは、少し浮上した。やっとこころが低空飛行を行ない、それを保てるようになった気がする。身体は、経絡で全てが繋がっている。内臓の調子が悪いと、そこに繋がるツボを押すと痛むように、経絡を考えてツボをマッサージすると内臓の調子も少しは良くなる。しかし夜中、背中の痛みが酷かったのは本当に参った。家には、ツボを押す用具がある。鉄アレイを細くしたような感じで、掌に収まる程度の球が、ツボにしっかり当たるよう、丁度良い間隔で4つ付いているものである。それを背中に当ててゴリゴリと筋肉を解していたが、余りの痛みに、「ううっ!がっ!いでっ!」と言葉が漏れてしまい、母を起こしてしまった。胃の調子が悪いので、丁度胃のある部分の背中辺りが特に痛んだ。母が私の背中を触ると、余りにも凝り過ぎていると言い、アンメルツを塗った方が良いとの事で肩から背中、背骨を中心に背中の真ん中辺りにかけて塗ってもらった。暫くしたら凄く楽になった。そうしたら、背中の痛みで中々寝付けなかったのに2時間近くうつらうつらと眠っていた。母の心遣いのお陰である。本当にありがたかった。今朝から年末に購入した文庫本を読み始めた。宮部みゆきの『誰か』である。私は、少しでも難しい言葉が出てくるとすぐ辞書を引くようにしている。貫井徳郎や貴志佑介、宮部みゆきの本は、日本語がしっかりしているので難しい語彙が出てくる事がある。大体の意味は分かるけれど、その深い意味を知りたくて、こまめに辞書を引くのが癖となった。でも、辞書を引くのは意外と楽しい。一度で調べたい言葉が出てくると何だか嬉しい気持ちになるし、調べたい言葉の前後に、興味深い言葉を見つける場合もある。私は語彙が乏しいので、そういう時、本当に楽しいという気持ちが溢れるのである。そして好きな作家の本を読んでいる間は、過食したいと想わない。夜であれば、ゆっくり日本酒を飲みながら読書を嗜み、それは即ちリラックスした時間となる。その分、過食する時間を先に延ばせる。そう考えると本当は夜、私は余り過食をしたいと想っていないのかも知れない。ただ、毎晩やっているからという強迫観念に衝き動かされ強迫行為となっているのであろう。朝の過食と嘔吐も同じだと感じる。だが、酷くこころが乱れている時、私は食べる事によって気持ちが鎮まる。不安感や恐怖感、それらは漠然としていて掴みどころが無い。己に対する苛立ちや、破滅願望、自傷衝動など、病気から生じる観念が心身を雁字搦めにする。そういう状況に陥った際、今の私には【健康的に解決する方法】が分からない。唯一、【胃が苦しくなるほど食べて、吐き出す事】により気持ちが鎮まる方法しか知らない。食べる気力が無い時は、自傷をする。手首を傷つける瞬間、カッと全身に血が巡るような感覚がある。そして身体に力がみなぎる。精神的にも、自分が自分でないような感じになっていて、手首と剃刀だけしか見えなくなる。その後は、傷口と流れる血を見つめるだけである。痛みを感じた時に初めて、身体の力が抜けて暫し放心状態になる。そういった流れを終えると、いつの間にかぐじぐじと悩んでいた事が発散されているのである。これは、過食と嘔吐をした後の虚脱状態とも似ている。これは私の考えであるが、精神が昂っていると、様々な想いが頭の中を駆け巡る。特に、厭な事や苦しい事が沢山・・・。だから、考えないようにしたい。それらの想いから、一時的に逃れていたい。そういう想いから、過食をしたり自傷したりするのではないであろうか。少なくとも、私の行動パターンを鑑みると、その要素が含まれている。病気の症状以外で、精神が普通の状態になるのは大好きな女優さんや俳優さんをTVで観ている時かも知れない。思い当たるのは、まず毎週水曜日21時から放送されている、『相棒』である。私は水谷豊さんが大好きであり、『相棒』は毎週欠かさず録画して翌日の朝、観ている。水谷豊さん演じる右京さんがにこっと笑う時、私も一緒に頬が綻ぶ。なんて素敵な俳優さんだろうとわくわくする。勿論、寺脇康文さん演じる薫ちゃんも良い味を出していて、2人のコンビネーションが最高に生かされていたお正月SPドラマは、本当に面白かった。私は裏番組の『はじめてのおつかい』を観ていたので、その日には子どもの健気さに涙を沢山流し、翌日には右京さんの頭の良さに圧倒された。元日に落ち込む事はたくさん言われたけれど三が日中に何とか持ち直すことが出来た。そして、また酷く落ち込んだ後、観月ありささんのドラマが始まった。それによって私は漸く低空飛行へと自分を持っていくことができた。今クールのドラマは、『斉藤さん』と『相棒』が楽しみである。しかも同じ曜日にあるので水曜日が待ち遠しくなった。TVドラマによって私は救われている状態であるが、今はこれでも良いと想っている。救いが何もないよりは、本当にありがたい。閑話休題。私の祖父は、脳出血で倒れるまで毎日朝から日本酒を飲んでいた。“小原庄助さん”を地で行くような生き方をしていた。TVまたはビデオに録った映画を観ながら、傍らに日本酒のビンを置き、お気に入りの湯飲みに、少しずつ注ぎ足しながら夜まで飲んでいたのである。その時使っていた湯飲みには、お寿司屋さんで使用されているような魚偏が毛筆体で書かれたものだった。私が日本酒を飲むときも祖父に倣って湯飲みを使っている。それには、【心の健康法】が書かれてあるので皮肉なものである。例えば、“妬みはその身の仇”とあり、解説として「人を羨んだり妬んだりしていても落ち込むだけ。」と記されてある。他には、“諦めは心の養生”として「過去の事を思い悩むより現在を充実させる。」とある。「確かになあ。そうだよなあ。」と感じるが、難しいとも想う。言わずもがな、現在祖父は一滴もお酒は飲まない。煙草も全く吸わない。身体は私よりも元気であろう。ただ、祖父は時々自分が認知症である事を忘れてしまい、祖母に辛くあたる。そして祖母のストレスが溜まり、血圧が上がる。祖母は心臓に病気を抱えている。祖父母のことを想うと哀しくて仕方が無い。祖母は、外出をする事でストレス解消となるので体操の先生を今でも現役でしているし、日曜、祖父はデイケアに行くのでその際、祖母は街に出掛けてお買い物をしたりデパートでお洋服を見たりする。とてもお洒落な人なので、とても82歳には見えない事が孫である私の自慢だと感じている。東京に住んでいた期間も長いので江戸っ子気質もあり、私の病気に関しては理解を得られない。だが、「兎に角外に出なさい」と。「外に出るんだったら家に来なさい。 一緒に洋服でも買いに行こう。」と言ってくれるので胸がじんと温かくなる。私は、改めて愛されている事を思い知った。だから、ひとりで悩み続け死ぬ方向にばかり考えを巡らせないようにしたいものである。全てを、マイナスの方向に考える癖がどうも抜けない。来週の月曜日、外食する事も少し億劫であったが、楽しみが出来たのである。【珍しい焼酎を飲んでみる事】これは桃尻さんのお陰である。本当に感謝してもし足りない。それに、月曜日を乗り越えたら次の日は電話診察があり、その翌日は『相棒』と『斉藤さん』がある。週の前半は様々な事が目白押しなので少しあたふたしてしまうかも知れないが、どうにか乗り越えたい。明日こそ、電話診察を受診できるよう体調を整えて早目に就寝したいものである。
2008.01.10
新ドラマ『斉藤さん』をじっくりゆっくり観ていたのでブログの更新時間が遅くなった。多分、ドラマが終わるまで毎週水曜日の更新はこの時間になるであろう。胃痛は少しずつ緩和してきている。まだ、食べ物を摂取する時や嘔吐の際は違和感があり、痛みを覚えたり少し血が混じったりしている事もあるが、昨日のような酷いものではなくなった。精神科で、胃酸を抑えるもの・胃の粘膜を保護するもの2種類の胃薬そして漢方薬を処方されているので、それを服用する回数を少し増やしたのが良かったのかも知れない。具合が悪くても過食と嘔吐という症状が止まる訳ではないので治るまでには時間がかかるであろう。******心配して下さった方々、本当に感謝します。****** 皆様の温かい励ましのお言葉が、******とても胸に沁みました。嬉しかったです。******憂鬱な気持ちは、依然続いている。否、憂鬱という言葉では生ぬるいほどに完膚無きまでに自分を嫌悪し、否定する。何処からともなく湧いてくる罪悪感や生きていてはいけないという気持ち。もう、それらを受け容れるしか術はなかった。無理にこれらの気持ちを否定しても、次々に湧いてくるのであるから、“これは、PMSの症状であり、 また、うつ病から来る思念である”と考えるようにしてみたら、少しは楽になった気がする。病気に対して、無理に抗わない事。これが大切なのであろう。22時から新ドラマ『斉藤さん』が始まると想うと私は今朝、少し元気が出てきていた。『ズームインSUPER!!』や『スッキリ!!』という朝の番組に、番組宣伝として観月ありささんが出演していて、嬉しかった。『スッキリ!!』では、ありささん自身の言葉で沢山の事を話していたので、何だかこころがほこほこした。嬉しい出来事があったからなのか、眠剤を服用した後も然して過食したいという気持ちにはならず久し振りにゆったりした気持ちで眠る事ができた。目覚めは少し悪かったが・・・。夜、スーパーへ行く為に外に出て大きく息を吸い込んだら、冷たい空気がとても心地好かった。一歩一歩を少し大きめに踏み出し、大地を思い切り踏みしめながら歩いたら案外気持ちよかった。肌寒さも、こころを引き締めた。「新しいドラマが始まるんだなあ。」とこころで呟きながら、その嬉しさに憂鬱な気分はほんの少し陰に隠れて私は雑誌のコーナーでTV雑誌にありささんが載っているのを発見した。購入するかどうか迷ったが、1日の予算をオーバーしてしまうので、彼女の姿や言葉を脳に焼き付けておいた。新ドラマ『斉藤さん』を観終わった。どちらかというと、ドラマの中心はミムラさん演じる、引っ越してきた真野さん一家の出来事であったが、ありささん演じる斉藤さんが“悪い事は悪いと言うポリシーを貫く”という所がとても印象的だった。けれども、全員がそれを歓迎してスーパーヒロインとして受け容れている訳ではなく、斉藤さんの息子である潤一君の通う幼稚園のママ達はみんな斉藤さんを煙たがり、忌み嫌い陰口を叩いている。斉藤さんは孤高の人だと感じた。ストーリーの中で、真野さん親子にトラブルが生じた。駅で、歩き煙草をしていた男性の煙草の火が真野さんの息子である尊君の頬に触れたのである。その歩き煙草の男性は謝る所か「気をつけろ」と言った。そこに居合わせた斉藤さんは怒り、毅然たる態度で男性に「謝りなさい。」と言い放った。そこで一悶着あり、男性の力には敵わない斉藤さんは突き飛ばされて、多数に駐輪されていた自転車にぶつかり倒れ、額に怪我をして血が流れた。息子である潤一君が母親の姿を見て怒り、男性に向かったけれど、逃げていってしまった。その場面では警察も出てきてちゃんと歩き煙草の男性に注意した斉藤さんは周囲の人々から拍手で温かく迎えられた。他のシーンでは、斉藤さんの“悪い事は悪い”という行為が煙たがられていた事と比べて、そのシーンは斉藤さんの気持ちが報われ、私のこころもホッとした。しかし、現実は難しい。悪を悪だと言った事で物事が収まる訳ではないし、正しい事が決してその場面で正しい事として通る訳ではないからである。このドラマでは、その事もきちんと描かれていた。斉藤さんも、いつも強い訳ではなく、夫は海外赴任している事から息子と2人暮らしである。歩き煙草の男性に突き飛ばされ怪我を負ったときは物凄い恐怖を感じたとドラマの中で真野さんに告白していた。でも、斉藤さんにはポリシーがある。そして芯が太い。チャーミングなのは、幼稚園の近所にある余り品行の良くない高校の、高校生が行なったマナー違反に対して斉藤さんが注意したら、みんな「うるせえ!ばばあ!」と言う。だが、斉藤さんは必ず「ばばあじゃない!まだ30歳!しかもなったばっかり!」と言い返すのである。その点に関してだけ、丁寧に言い返している所がとてもチャーミングだと感じた。この世の中は、事なかれ主義が蔓延している。よく言えば平和主義なのかもしれない。私も、事を荒立てるよりは、見て見ぬ振りをしてしまったり、怒らず物事を平穏に収める方向へ持っていこうと頭を働かせたりしてしまう。だからなのか、ドラマ『斉藤さん』を観ていたら何でも“悪いものは悪いんだ”という考えを貫き妥協しないで何者にも立ち向かう斉藤さんの姿が本当に凛々しくて清々しくて気持ちが良かった。こころがスッキリ晴れたような気がした。ドラマの主人公なので、斉藤さんの家庭が中心となるかと想ったが、意外と中心なのは真野さん一家である事も、ストーリーに馴染めた一因かも知れない。彼女の一家が如何に斉藤さんの影響を受けるか、それによってこの物語は面白くなると考える。本当に、観月ありささんのドラマで彼女が凛とした持ち味を生かした興味深いドラマを観られて大満足である。今日まで生きてこられて良かったと過言ではなくそう想う。母も、この『斉藤さん』というドラマを楽しみにしていたのだが、力尽きて21時には眠ってしまった。DVD録画、VHS録画もしたので、機会があったら母と“共に”観ようと想う。親子で観ても面白いドラマだと感じる。ただ本当に、【正しい事だけで社会は動いていない】という事が印象的であった。正義だけを貫こうとすると、やはり何か弊害や問題は生じてしまう。私が子どもの頃は、悪戯などをしたり悪い事をしたりすると叱るおじいさんやおばあさんおじさん、おばさんの存在がいたように想う。今、そんな存在を全く感じない。スーパーで嬌声を上げながら走り回り転げ回る子どもを見ても誰も何も言わない・・・親でさえも。そして私も同じく何も言えない。小言を呟くだけである。とある親が、スーパーで子どもを必要以上に叩いたり酷い言葉を吐いたりする場面に出くわした事もあるが、私は恐怖で言葉が出なかった。本当に様々な事を考えさせてくれるドラマである。来週も、更新は遅くしよう・・・ドラマを観る為に。鬱屈としていた私の精神も、斉藤さんが余りにもズバズバと気持ちよく悪を切ってくれる部分があったのでちょっと上昇傾向にある。ありささんを感じる事は、どんなお薬よりも元気になれる事なのかも知れない。質の良いドラマであったのも嬉しかった。古田新太さんの、気の弱い園長先生役も凄く味があって笑えた。9日朝までの抑うつ感、希死念慮は一旦どこかに飛んで行ってくれた。そして明後日には電話診察があるので一応、こころはそんなに酷く落ち込まないで済むかも知れない。そう願いつつ生きていきたいものである。
2008.01.09
日を経る毎に心身の具合が悪くなる。その原因は、今朝、やっと分かった。PMSである。想えば、先月は9日に始まったのでもうPMSの時期である。その事を失念するほど、私は本当に疲れていて鈍くなっていたのであろう。自分の事を全く把握できないほどネガティヴな感情に振り回されていた。中々消えない希死念慮や自傷衝動、身体全体を重く覆う抑うつ感。そして訳の分からない己に対する苛立ち。今までの、【PMS】の症状にぴったり当てはまる。それが分かったら、もう只管耐えるしかない。処方されているお薬をきちんと服用してこころを休ませる他に術はない。しかし、火曜日は電話診察の日なので、お薬の量を減らした事から不運が始まった。向精神薬や抗うつ薬の量を減らすと、普段からお腹が下り気味なのにそれがもっと酷くなる。お蒲団とトイレとの往復が何度も続き苛立ちが膨らんでくる。そしてその苛立ちが、過食したい気持ちへと繋がった。30分くらい、我慢した。食べても後々苦しいだけだと。無理矢理食べても美味しくはないと。しかし、またトイレへ行った事から苛立ちが頂点に達し、滅茶苦茶に食べ始めてしまった。そして嘔吐時、吐血した。結構、吐血の量は多かった。胃がぴりぴりと引き攣るように痛み、それでも胃の中を空にしたくて水を大量に飲み、もう一度嘔吐したらまた血を吐いた。その時にはもう、母は病院へ行く為外出していたのでぐったりしながら胃薬を服用して蒲団に横たわった。また去年の夏のように吐血してしまった事やあと1週間はこの胃痛と吐血が続き、過食と嘔吐は止められない自分の状態を考えると何もかもが厭になった。そして私は、電話診察の時間になっても起き上がれず、ぐだぐだと眠り続け自己嫌悪を増加させて18時過ぎにふらふらしながらシャワーを浴びた。マイナス思考がマイナス思考を呼ぶように、悪い出来事も、連鎖して起こるものである。明日から、大好きな女優さんのドラマが始まるというのに、以前のようにわくわくしない。嬉しさに変わりは無いけれど、きっと私は集中して観られないであろう。今は兎に角、生きている事が苦しい。死ぬ事もできないのが苦しい。主治医と苦しみの種について話し合う時間を持つ事が困難であり、助言を求める手を伸ばせないほど、疲労している。うつ状態に針が振り切れたまま戻る気配が無い。出来るだけ笑顔で過ごそうと想っても、無表情のまま動かない。うつ状態が酷いと、今までどうやって笑っていたかを忘れてしまう。哀しくなっても涙が出ない。嬉しくても微笑むことが出来ない。声の高さや低さだけで、気持ちを表現している状態である事に気付いた。そうして落ち込んだまま、スーパーで買い物を済ませたら、母が久し振りにお寿司を食べたいと言った。なので出前をとる事になった。私にとっては物凄い贅沢である。だから、母と一緒に吐かない程度、少しだけ日本酒と共に頂いた。2人とも熱燗で、ゆっくりと味わいながら。同じセットを頼んだのであるが、私の方が、ガリの量が多くて「いいなあ。差別だあ。」と母が可愛らしく言うので思わず笑みがこぼれた。多分、今日始めて笑った瞬間であったと感じる。【共に時間を過ごす】という事で、母の思い遣りを感じ、私の凝り固まったこころや表情も少しは解され、和らいだような気がする。母には深く感謝している。また、外食の予定が入った。今回は、妹の彼氏・・・S君が正式に母に対して妹と結婚を前提に付き合っていく上での挨拶がしたいとの事で、来週の月曜日、夜に比較的静かな居酒屋で行なわれる事になった。S君は、きちんとスーツを着るという正式で来るそうで、私達もそれなりに綺麗な格好をしなければならない。去年、年が明ける前までには延びてきた根元の黒い部分にヘアカラーを施し前髪を切るつもりだったが、そんな気力はとうとう出なかった。元日、親戚の人達や祖母から色々言われた言葉にまだこころは傷付いたままである。前々から、S君は母に「今度、正式に挨拶をしますから。」と言っていたので、多分、私はいなくても良いのではないかと少し想っている。でもこの場合は、家族みんなが揃っていなければならないのであろうか・・・。分からない。もしも精神状態が今よりも良くなっていたら参加できるか考えたいと想う。S君は長男なので、S君側の家族が、式を挙げたいと望んでいる。妹は、最初の結婚で式を挙げていない。入籍より前に、姪っ子がお腹にいたからである。それに、毎日、元旦那からのドメスティックバイオレンスが酷かったのである。今もこれだけは腹が立って仕方が無い。一時、妹と私は不仲の時期はあったけれど、女性では敵わない男性の力をもって激しい暴力を振るうだなんて、人間として最低である。まだ赤児だった姪っ子を抱いていた妹を殴ったり蹴ったりしたのである。その上、脳が腫れ上がるまで頭を殴った事もある。これは、近所の脳神経科に証拠が残っている。離婚まで時間はかかったが、離婚後、元旦那は事務所荒らしの現行犯で捕まった。その上刑務所の中で他の女性と結婚した。慰謝料も、養育費も送ってきた事は無い。姪っ子にとっては、私よりもはるかに辛く哀しい出生の理由を背負ってしまっているがきっと家族の誰も、この不幸な事実を告げる事はないであろう。もう、これは消去すべき事である。もしも意味のあるべき過去であれば、話す事も必要かも知れないが、この件に関しては、姪っ子にとって不必要な重荷を背負わせるだけである。そんな不幸や辛酸を嘗めるような事実を話す必要など、どこにもない。S君は、本当の父親のように姪っ子に接していて、とても優しい。私なら、「もう、あっちで1人で遊んでなさい」と言いたくなるほど疲れてしまっても、S君はずっと姪っ子の相手をしていて本当に素晴らしい人だと感じる。妹も、やっと幸せになれるのだと想うと私も嬉しい気持ちになれる。【家族の、誰かの幸せは、家族みんなの幸せ。】これは、生まれたときから【共に】生きてきたから共有できる幸せであろう。妹のことを想っていたら、去年から本当に様々な事があったけれど、幸せに向かって着実に歩みを進んでいる様を感じられて、笑みがこぼれる。やっと、強張った表情が解け、口元が緩んできた。母と共に食べたお寿司。シャリはまだ受け容れられないのでネタだけを少し頂いたが、ホタテが特に甘くて美味しかった。そして熱燗にとても合うものであった。TVではよく、“お寿司にワイン”というスタイルがとられているけれど、母と一緒に「はぁ~。やっぱりお寿司には日本酒だねえ。」と語り合った。熱燗によりすぐ酔いが回ってしまった母は、抑制が取れてしまったためか、私の病気に関して「もう、胃を切り取れば良いんやない? そうしたら、あんまり食べられなくなるし。」「そうやって血を吐いても、また夜中になったら 食べて吐くんやろ?痛いんやったら 胃を切り取れば良いんよ。」と、しきりに「胃を切り取れ」と勧めるので母は酔っているから仕方ないんだと我慢しながら「そうやね。胃がなくなったら、食べられんなるけん 病気自体なくなるかもね。」と、必死になって言葉を繋いだ。やがて、「あ~。やっぱり熱燗は酔いが回るわ。」と言って寝室に入ってしまった。1人になった私は、それまで消化出来る範囲でネタだけしか食べなかったのに、静かな気配の中、黙々とお寿司を食べ始めそれは過食と嘔吐となった。そしてまた血を吐いた。きっと、明日この事を言っても母は絶対覚えていないであろう。それを分かっていて、哀しくなったと言う理由で私は過食を始めてしまった。だから、ブログを綴るのが遅くなり内容もバラバラ、支離滅裂になった。それもまた、8日の記録としておこう。抑うつ感と、吐血と、希死念慮。暫くは、これらと共に、生きる。
2008.01.08
毎晩、買い物から帰ってきたら冷え切った身体を温める為もずく入りお味噌汁を飲む。しかし最近はそれさえも【太るのが怖い】という理由から、1回分のインスタント味噌汁を3回に分けて使用する。無論、薄いお味噌汁になるが、もずくの酸っぱさでどうにか誤魔化されているし、身体が温まるので、それで良いとも想っている。身体がぽかぽかしている間に、カクテル用のクラッシュアイスを作る。お店で買うロックアイスは大きく硬いので結構骨の折れる作業である。でも、黙々と集中してやる作業は嫌いではないので時々アイスピックで誤って指を刺して流血しながらも十数分後にはクラッシュアイスの山が出来上がる。私は何だか満足感を覚えて少し、笑みが浮かんでしまう。それを氷専門の冷凍庫に入れた後ブラッディメアリーを作る。このカクテルを飲むのも、楽しみの1つである。100%トマトジュースにはリコピンとカリウムがたっぷり含まれているので過食と嘔吐を毎日している身体には優しいカクテルかも知れない。夜中、眠る前突然、自傷したいの衝動に襲われた。今となっては何故あんなに強い衝動が襲ってきたのかあやふやとなっている。ただ、「傷つけねばならない。」という想いでこころが一杯になった。自分に対する苛立ちや、己の情けなさ、生きている事に対する申し訳ない気持ちが一気に高まったのだと想う。気付けば新品の剃刀で小さい傷を創り、同じ場所を何度もなぞって深いものとしていた。側に消毒液が無かったので滅菌用アルコールをコットンに滲ませそれで何度も傷を拭いたけれど、中々出血が止まらなかった。手首の表側と裏側にそれぞれ3箇所ずつの傷。掌側の手首は、大学生の頃から毎日切っていたので皮膚がごつくなっている。シャワーを浴びる際、傷は案の定沁みたけれど、無視してごしごしとタオルで身体を洗った。自傷する事でしか、気持ちを抑えられない。大学の頃のように、1日分の新聞がたわむほど出血するような酷い自傷はしないけれど、自分に痛みを与える事で、何らかの気持ちを抑えたり、発散させたりしている。これでは悪循環を断つ事が出来ないので、もっとこころも身体も大切にせねばならないと肝に銘じたい。母にもまた、傷が見つかってしまって哀しませてしまった。申し訳ない気持ちで一杯だ。こころの調子が悪いと、身体の具合も同じく悪くなる。私の場合は、胃腸に症状が現れる。胃に疼痛が走ったり、下痢が続いたりする。だから中々眠りにつく事ができず、お蒲団とトイレの往復をせざるを得なくなって夕方起きる時間になってもお薬が抜け切らず、脳がぐだぐだしている感じである。起きてからもお腹が下っているのは続く事もあり、買い物をしている間も脂汗が出そうになる。余りにも、自責の念が強くいつもいつも自分を責めているから体の具合も悪くなるのであろう。自分を責め過ぎて、結局周りに迷惑をかける。負担を与えてしまう。“自分を生きる”という事は、一体どういうものなのであろうか。それを掴みかねている。どういう生き方をする事が、大切な人の負担にならないものとなるのであろう。考えて、考えて、考え過ぎるから、いつも失敗する。裏目に出る。漸く、それは分かってきた。普通に呼吸をして生きる事。家族とは持ちつ持たれつといった関係で甘え、甘えられながら過ごす事。それは、例えば自転車に乗っているのと同じ事なのである。この例え話は以前も記したが、誰も自転車に乗りながら「あの道はハンドルの角度は何度でやや足に力を込めて・・・ そして砂利道ではペダルを踏む強さをこれ位にして・・・」と“細かく考えながら”走ってはいない。自然と、それぞれの道々を走っている。だから、私が「どうやって生きていいのか分からない」と考えているのは、自転車で走るのにどうやって走ればいいのか悩んでいる事に似ているのである。もっと自然に身を任せて、考え過ぎない事が一番重要なのであろう。だがこの、【考え過ぎる癖】は子どもの頃からのものであり中々脱け出せないものでもある。常に2歩先、3歩先の事を考えていなければ、母の手や足が私を打つ羽目に陥る。鈍臭い私は、そうやって常に何か考えて動いていたのであるが、だからこそ動きが鈍くなったのかも知れない。私は同時に2つ、3つの事が出来るような器用な人間ではない。母はその不器用さも責め、打擲した。小さい頃の、私の不器用さ・・・例えば鋏を使って紙を切る際真っ直ぐ切れたためしがない。ぎざぎざで、歪んでいた。線の上を切れば良いのに、必ず脱線するのである。そういえば、自転車の想い出もある。補助輪を取る練習は、片方ずつ取っていくという方法だった。勿論、今までに無いバランス感覚が求められ何度も転んだ。父の仕事が休みである日曜日に練習に付き合ってもらった覚えはあるが、「ちゃんと掴まえてる」とか言いながら絶対手を離していて、私はすぐ転んだ。それを父は笑って見ていた。やがて補助輪は完璧に取れて友達の家に行くのにも自転車に乗っていたらカーブを曲がりきれず学校のブロック塀に衝突して顔から大出血した事もある。加減を知らない子どもでもあった。スピードが出過ぎた時はブレーキをかける事、カーブを曲がる際は速度を落とす事。普通なら誰に学ばなくても分かる筈なのに、私は教えてもらっていなかったからと怪我ばかりしていた。教えられた事ばかりに忠実で、そればかりを考え過ぎていた。つまり、臨機応変が出来ないという事である。これに関しても、耳にたこができるほど母に叱られた覚えがある。小さい範囲で、考え過ぎる癖。これが、私の障壁であろう。今朝は、繰り返し過食する事無く、ゆっくり眠れた。夜中、自傷した時のようにこころはざわざわと波立っていたのであるが、お薬を服用した後、朝の過食と嘔吐による疲れが強かった為、眠気がいつもより早く襲ってきた。「朝からお酒を飲んで、身上を潰したい。」そういった自暴自棄めいた考えが浮かんできた事は否めない。いい加減、自分が厭になってきた頃眠りに落ちたら変な夢を見た。もうひとつ、ブログを持っているという夢だった。それは全て文字が斜体で綴られていて、読んでも意味が分からないような、何だか思い切り自分の全てを曝け出している恥ずかしいブログであった。私は何度も削除しようと想うのに、パスワードは分からないし、PCに近づけないように沢山の人々が邪魔するのであった。そして途方に暮れながら雨の降る以前住んでいた家の近所を歩いていたら、白いワンピースを着たCoccoさんに会った。丁度、一緒に遊びに行く予定だった事を想い出した。私も白いふんわりとした服を着ていたが裸足だったので、家で靴を履いてくるからとCoccoさんに傘を渡して待ってもらっていた。だが、家には可愛い靴はあるけれど全て大き過ぎてサイズが合わなかった。仕方なく白い服に合う、レースのブーツを履いて不自然な歩き方になりながらも彼女の元に戻ったら、「雨に濡れて歩こう。」と言うので少し冷たい雨を感じながら、何故か近所の小学校に生えている大きな木で木登り競争をした。という夢だった。最初の、自分のブログがおかしい事からCoccoさんまで凄い飛躍があるけれど、夢なのだからそういうものであろう。私の夢に一番良く出てくるのは、やはり観月ありささんである。同じ設定ではなく、やはり女優さんと一般人という関係であったり、親友だったり、家族だったりする。夢とは本当に面白い。だが、夢の中まで過食と嘔吐に悩まされるのは本当に苦しくて仕方が無い。確か今日の夢の最後でも、「吐かねばならない」と思い詰めていた。今、気付いたのは、また強迫観念が私を覆い始めたという事である。先程から、時計ばかり見ている。なるべく食べ始める時間を遅らせたいから、こうしてブログを綴る時間を引き伸ばす為、私は何もない所から文章を捻出している。そう。私には何もない。空っぽである。病気に侵された13年で、私は沢山のものを失った。勿論、得たものも沢山あるけれど、大切なものを失い過ぎた。元から持っていなかったものも多いが・・・。だからこそ、主治医が仰っていた【取り戻す】という事が必要となってくるのであろう。得られる時に得られなかった慮りや想い。心遣いや気持ち。現在、母と一緒に暮らす事で、様々な事を取り戻しつつある。こういった事を大切にしたいものである。そして、強迫観念や強迫行為に関しては仕方のないものとして考えたい。生きていく上で、大切なのは想い合う気持ちと、笑顔かも知れない。側にいる人の気持を慮る事もできず、自分勝手に過ごしていたら、生活は崩壊してしまう。それは、妹が非行に走った時に痛感した事である。そして、私の病気が酷くなり死ぬ事だけしか考えていなくて自殺未遂をした頃の事も挙げられる。家族がばらばらである事は哀しい。今は、ばらばらに暮らして入るけれど、妹は子どもを育てていく上で、分からない事があったり心配な事があったりすれば母を頼るし、弟も怠けている部分は否めないが、姪っ子と一緒に過ごしていると、凄く面倒見がいいという良い所がある。また、弟はとても温かい血が通っている。つまり優しい人間なのである。働かずに、いつまでも両親に、交互にお金をせびるのは少し哀しい事ではあるが・・・。家族だからこそ、力を合わせられる。また、今年は家族が増える可能性もある。妹の彼氏は私より1歳年上であるが、義姉となるので、“おねえさん”と呼ばれてしまう。不思議なものである。楽しい事は自らが見つけないと、見つからない。仄暗く辛い事は目の前に広がっているから見つけ易い。だから、私はそれに溺れているのであろう。その想いにこころを凍らせていくのであろう。何れにせよ、私は考え過ぎる癖をどうにか直していかねばならないと感じた。
2008.01.07
食べなくて済むのなら、ずっとずっとお酒を飲んでいたい。若しくはずっとずっと眠っていたい。そう、願って止まない。もう、疲れてしまったから。こういった想いが現実逃避であり、何の為にもならない事は自覚している。けれども、本当に疲れてしまった。「隠居したい」こころからそう想う1日だった。元日に、親戚の人達に掛けられた言葉の数々が、まだ胸に残留していてもやもやと霧のように広がりつつある。両親が離婚した時、親戚の人達は「これからは○○ちゃんがお母さんを支えるんぞ。 それで、ちゃんと兄弟の世話もするんぞ。」と何度も何度も私に言い聞かせて、私はそれを忠実に守った。だが、私も辛く苦しい想いを抱いていた。けれどもそんな想いをネグレクトしない事には母の支えにもなれなかったしまだ幼い妹や弟の面倒も見られなかった。段々と歪が大きくなり、やがて私は摂食障害を発症する事で自分の苦しみを表出した。だが、私が14歳の頃は摂食障害という病に対する周囲の理解は全く無かったので、責められるばかりだった。それらに耐え、10年以上経って漸く母から理解を得られるようになり、自分の生きる道を模索しつつあった所にまた、親戚の人達の言葉に苛まれる事となった。「お母さんがいつまでも働ける訳じゃないんぞ。 何れは○○がお母さんの世話をせんといかんのやけん。 いつまでも甘えとったら痛い目見るぞ。 まあ、お母さんが倒れんと分からんかも知れんが。」妹と弟の面倒を見る事から解放されたら、今度は母の世話をしなければならない年齢になっている事を突きつけられた。だから、私は私の人生を生きる為に生まれた訳ではないのである。改めて痛感した。投げ遣りな気持ちになると、消えたくなる。母は、度々アルコール性健忘の症状が見られる。それが顕著になっていくのは時間の問題であろう。私は、自分の問題を沢山抱えていて病症に振り回されている。どうしたらいいのか、分からない。結局、自分の人生を生きるのは諦めろという事なのであろう。それを、周りの人々は望んでいるのであろう。勿論、妹や弟に親戚の人達は上に記した事を決して言わない。私が、長女だから。結婚するわけでもなく母の脛を齧って生きているのだから老後の世話をするのは私に決まっている、当たり前だと言う事なのであろう。「隠居したい」だなんて。祖母でさえ、今もバリバリとお仕事をしているのに。私は本当に人生をなめている。愚か者である。祖母が、体操の先生として活動を開始したのは40代だったという。でもその前に祖父と結婚して子どもも2人、産んでいた。体操の師範の資格を取るまで、沢山の努力をした事を聞いた。ヨガやピラティスのような要素も入っているが、東洋医学をまず把握していなければならず、体の経絡に関しては完璧に覚えておかねばならないものである。体操の動作1つ1つが、そのツ経絡・・・ツボと関係しているからである。そしてその体操は1人でやるものと2人1組でやるものがある。それらを合わせると150強の体操があり、順序も間違えてはいけないし、呼吸法や掛け声も必要である。この体操の支部は北海道から沖縄まであり、大会となると、東京の武道館がいっぱいになる。祖母はそこで審判員をしている。体の柔軟さや、筋肉の力が必要とされるかなり厳しい体操であるが、これを週に3回続けていると、本当に健康になるのである。祖母は、この体操に出会うまで内臓のあちらこちらが悪かった。だが、続けた事で一番悪かった肝臓が快復し、こころの面でも健康的になった。本部は、私が住んでいる地域であり、祖母はそこの会長である。これはとても誇らしい事と考えている。ただ、祖母の跡を継ぐ人間が居ないという事なので私は、この職業も考えている。近所の公民館でも、この体操が行なわれている事を知ったし、十代の人も習っているという事なのでもしも心身に余裕が出来たら、申し込んでみたいと想う。月謝も、ピアノの月謝より安い半額という格安である事も嬉しいし、身体も健康になるのであるからそれを目標としてみたい。今朝は苛立ちが募り、眠剤を服用した後にも拘らずまた過食を始めてしまった。自暴自棄であったというのが本当の気持ちである。アルコール度数の高いお酒が手元にある事でそれを飲んで、手早く意識を消したかった。意識のある自分が厭だった。周囲に迷惑を振り撒き、母に負担を与えて生きている自分が途轍もなく腹立たしかった。自傷するか、お酒を飲むか、過食と嘔吐をするか。どれも自分を傷つける事には違いない。私は徳利に日本酒を注ぎ、お猪口で少しずつ飲みながら読書をした。すると、言わずもがな、過食したい気持ちに衝き動かされて、寒さを感じながら甘い菓子パンや冷たいカフェオレを胃に詰め込む作業に没頭した。眠剤が効き始めて頭がぼんやりしたり立ち上がった時によろけたりしながらも私は吐くまで食べた。もう、何も考えたくなかった。だが次から次へと自分の醜さや愚鈍さがこころに突き刺さった。何も生産しない自分。無駄に息を繋ぐ自分に苛立ち以上の嫌悪を感じ、生きているのが厭になった。何故、生きなければならないのだろうか。私が生まれてきたこと自体、間違っている。それを痛感する度に、己を傷つけたくなる。傷つけるのを我慢すればするほど衝動は高まり、やがて大きな力で自分を破壊しようとする作用が働く。私は生きていても、仕様が無いのに。弟がまた、母にお金をせびっている。今回は、【歯の治療】という理由があるけれど、原付の修理代、歯の治療費、それは母からだけではなく父からも同じ理由でもらっているので弟は、2倍お金を得ているという事であろう。それを考えると、「私さえいなくなれば、母さんの負担は減るんだ。」という想いに繋がる。そう。私さえいなければ良いのである。でも、死ぬ勇気が出ない。また、私が死んでしまったら、母はその事実を受け容れられずもっとお酒に溺れてしまうであろう。働けなくなってしまうであろう。だから私は母と、「お母さんが生きている限りは生きているよ」という約束をした。この約束だけは破ってはならないと想いながらも、“死”という【楽になれる】誘惑になびいてしまう事もある。でも生きよう。生きる事が最低限、私の出来る事であるから。どんなに手首が傷だらけになろうとも、摂食障害の症状が出ようとも、それで苦しかろうとも、私は生きねばならない。生きる道を歩む事がこんなにも苦痛だとは子どもの頃、考えもしなかった。子どもの頃は、母が結婚した24歳には私も結婚していて、赤ちゃんも産んでいる筈だと信じて止まなかった。きっと、どこかで正しい道を踏み外し考え過ぎる私の癖が悪い結果へと導いたのかも知れない。自業自得。自業自得・・・。それ以外の何ものでもない。だから私は己を傷つける事で何らかの赦しを乞うのであろう。もっと、明るい陽差しの射す方向へ視線を向けて温かい気持ちで歩みたい気持ちがある。このブログに、【楽しかった】【嬉しかった】という言葉を綴りたいという想いもある。けれども私は、生きているだけで精一杯であり、これから先の事を考えると、粘度の高い底なし沼にずぶりずぶりと沈み込む感覚に陥る。何れにせよ、今のところ解決策は皆無である。今を生きる事。これを大切に過ごせればもしかしたら、光も見えてくるかもしれないという希望を持ちつつ過ごしたいものである。
2008.01.06
1月4日・・・昨日は妹の誕生日だった。私は昨日の朝、おめでとうメールを送った。返事は、デコメールで返ってきた。それがまたキュートで可愛らしく、メッセージも嬉しいものだった。こうした大切なことを綴り忘れるなんてどれだけドジなんだろう。想えば、大晦日に1年を振り返った時も、夏に大阪へ母と2人、観月ありささんの舞台を観に行った事も綴り忘れていた。あれだけ大きな出来事はなかったというのに。本当、私はどこか抜けている。コンスタントに睡眠時間をとれているので徐々に落ち着きを取り戻しつつある。それは自分1人の力ではなく、一緒にいてくれる母の温かい心遣いがあるからこそ、ゆったりとした想いで過ごせるようになってきているのだと感じている。とてもありがたい。でも、何か小さな事に躓くと、私はすぐ落ち込む。どんなに些細な、普通の人なら笑って吹き飛ばせるような厭な事や失敗でも、私はそれが自分の駄目な部分を象徴しているのだと考え、自らを貶める想いを持つのである。考え過ぎである事は承知しているし、それがマイナス思考へと導いているのも分かっている。だが、小さい頃から身に付いている思考回路はそう簡単に変えられないものだと痛感している。小さい頃は、親に罵詈雑言を容赦なく浴びせられた。特に父親の口汚さは酷かった。母はすぐに怒りの沸点に達して、激しく私を打擲した。それは、私に鈍臭い部分があり、不器用で物事を上手く運べない所が大人にしてみれば苛立ったのであろう。罵詈雑言を浴びる度、「私は駄目な人間なんだ。」「叩かれたり蹴られたりするのは当たり前なんだ。」「私がこんなにも鈍臭くて不器用だから、怒られるんだ。」「私は誰よりも劣っているんだ。」という想いでいっぱいになり、泣きながら打擲に耐えた。しかし、それはもう【過去】である。無論、それらの想いをこなして発散させる事は出来ていない。パンドラの箱に仕舞われていて偶にその蓋が開いた時、苦しくなる。だが、どこかで【割り切る】という事も必要であろう。それには【時間】というお薬が必須だと想う。だから、焦らず時間をかけて過去の自分と対峙したい。妹は4日で24歳になった。年女である。そして祖父は年男で今月84歳になる。元日、久し振りに会った祖父は、軍歌を歌うようになっていた。1曲しか覚えていないらしいのでそれを何度も唄っていたが、表情はとても柔らかく、そして楽しそうだった。姪っ子も、普段聞き慣れているアニメ主題歌ではない曲なので珍しく感じたようで、何故かノリノリであり喜んで踊っていた。その光景が脳裏に焼きついていて、とても幸せそうだった印象がある。妹は、姪っ子と祖父と共に携帯で写真を撮っていた。妹の携帯電話はワンセグ携帯でレンズが何処にあるのか分かり難く、祖父も何処を見たらいいのか戸惑っていたが、とてもいい写真が撮れていた。祖父の和んだ笑顔、キメ顔をした姪っ子、微笑む妹。何かにこの幸せな時間を残せるというのはとても良い事だと感じた。私も姪っ子と弟と共に撮られたが、眠っていない事と、お酒を飲んだいた事で顔がパンパンだった。でも健康そうに見えたのでそれだけは良かったと想っている。やっと、近所のスーパーが営業を開始した。元日はお鍋の材料を買うために午前中に行ったけれど、こうしていつもの感じで出掛けられたのは5日振りであった。ジャスコは、品揃えも良いし冷凍食品も安い。調味料の類も発泡酒も安値だからお得な感じはある。けれども、広さと人の多さ、各コーナーで流れるそれぞれのミュージックとその賑やかさは精神的な負担となっていた。家に帰り着く頃には、本当にぐったりした。それに比べて、いつも利用しているスーパーの静けさと落ち着きには改めて吃驚した。ジャスコに行く前の私であったら、今日くらいの人出でも、「しんどい」と感じたかもしれないが、大袈裟に言うと何処に何があるかを完璧に把握している私にとっては、何だかとても買い物が楽だったのである。携帯電話の電卓機能を駆使しながらとぼとぼ色んなコーナーを歩きながら、いつも購入しているものをカゴに入れていく。母と共に、「何か、やっぱりここが落ち着くねえ。」と言いながらココアをシェアして飲んだ。ジャスコはジャスコで良い所がある。でも今の私にとっては、精神的な負担が大きいと気付いた。近所のスーパーはお惣菜類が半額になるのでそれを利用すれば、予算を超えなくて済む。そしてリカーショップでは顔馴染みの店員さんと年始の挨拶をした。いつもカップ酒を買っていたのであるが、それでは余り経済的でないの為、同じ銘柄の、量が多い紙パック酒を購入した。そして試してみたかった濁り酒も。これもまた、同じメーカーが出しているお酒である。家に帰り、色々な片付けを済ませてから、わくわくしながら濁り酒をお猪口に一杯飲んでみた。香りは、雛祭りで飲むような白酒のようで最初にほんのりとした甘味があり、最後に酸味が残った。アルコール度数は、日本酒でも低い方なので、少しずつ飲もうと想っている。やはり私の楽しみが、お酒に傾いている事を感じる。でも、酔えない。少し、身体やこころの緊張が解れる位でふわふわしたり、ぼーっとしたりする事はない。多分、量はそれほど飲んでいないからかもしれない。考えてみたら、お酒を沢山飲んでいた大学生の頃より、およそ半分の量になっている。それは、太るのが怖いからであろう。だったら水でも飲んでいれば良いのかも知れないが、何か味のあるものを欲している。そうする事で、何も食べないで済んでいる。発泡酒だと、その炭酸でお腹が膨れるし、日本酒はお米から出来ているので何だか満足感がある。兎に角、お酒は適量にしておきたい。果たして今年、妹は結婚するのであろうかという事が疑問である。今年から、姪っ子は幼稚園に入園する。その途中で苗字が変わると、色々と面倒な事が起きる。またそれは、小学校に入ってからでも同じである。妹は、去年親友を超えた家族以上の繋がりを持っていたKちゃんと死別した。その事で、もう1人の親友と大晦日に大喧嘩をしたそうである。そのもう1人の子が、実はKちゃんに対して、自殺する前まで物凄く冷たい態度をとったり邪険にしたりしてきたのである。その子にとっても、Kちゃんが自殺したという事はかなり深い傷となっていると想う。そして妹は、其処まで思い詰めていたKちゃんの動向に気付けなかった事を今でも悔いている。一応、その子とは年明けに仲直りしたと言うが【人の命はこの世の中で何よりも重く尊いもの】だという事を改めて感じた。今もまだ、こころに苦しみを抱えている妹。きっと、自分ひとりが幸せになっていいのかと悩んでいるのかも知れないと感じる。でも多分、Kちゃんは妹が幸せになる事を願っていてくれる筈である。姪っ子も、Kちゃんの事を覚えていて、髪飾りをしているのを「可愛いね」と言うと、これは神様の所にいるKちゃんが贈ってくれたプレゼントだから宝物だと言っていた。少しずつ、少しずつ、彼女達の良い想い出となればと考える。私は、自分の命を蔑ろにしている。常に己に対して自己嫌悪の念を感じ、生きている事に対して申し訳ないと考えている。周囲に迷惑ばかりかけいて、少しの躓きで“死”を考える。「私など、生まれてこなければ良かった。」幾度となくそう想った。だが、生まれてしまった限りは、この命を全うしなければならない。そして母が私を産んだ理由、想いを成し遂げるまで。だから、其処に自分の意志はない。ただ、母が生きているから生きている・・・病気の治療途中で今までやってきた事を放棄する事は主治医やカウンセラーをも裏切る事になるから生きている。私自身の意志が、何処にあるかも分からない。元々、優柔不断で何をどうしたらいいのか、自分は何をしたいのか分からない。私はこれからどうやって生きていきたいかさえも。だから、母の命が尽きた時点で、私の命も終わる。それで良いじゃないかと、投げ遣りになる。ただ、観月ありささんの活躍を楽しみにしているのは自分の意志であると感じている。彼女の出演する番組を観たり、舞台を観劇したり、ドラマを観たりする事。実は、この意志があったからこそ、父と母の関係が険悪になり毎日父が母を一方的に怒鳴り罵言を浴びせる様子を感じても、どうにか生きてこられた。以前にも記したように、ストレス性胃炎を患ってそれでも病院へ連れて行ってもらうのは症状が出始めてから遅くなってしまったが。私にとって、観月ありささんが唯一の生き甲斐だったのであろう。そしてそれは、今でも変わらない。彼女の活躍を感じると嬉しくなるし、1月9日から始まるドラマも楽しみである。だから今は死なないでいようと想う。死んだら母が哀しむから。そして観月ありささんの活躍も見られなくなるから。生き甲斐は、他にも色々あると想う。もしも病気が治ったときの事を考える。病気が治る事があれば、美味しいものを嘔吐するという事など考える事無く頂きたい。勿論、太ってしまうという事も考えず目の前にあるご馳走を、こころから感謝して頂きたい。それが、最終的な目標かも知れない。人間は、食事をしないと生きていけない。人間から“食”を切り離す事は出来ない。その、食べる事に病気を抱えてしまっている現在をどう生きていくか、それが問題である。摂食障害は、病気であると何度も記したように、過食や嘔吐という症状も、“今”の自分をどうにか保つためのものだと考える。この症状は、【緩慢な自殺】とも言われている。死を招く症状だからである。でも、そういう症状を丁寧に扱う事で少しでも母の為に生を延ばしたいと想う。息を繋ぎ明日を迎えることに対して感謝の気持ちを忘れないでいたい。
2008.01.05
どうやらまだ疲れは残っているようで、どんなにたっぷり眠っても眠り足りない感じがする。精神的にも、急に無力感に襲われたり、虚無的になったりしてまるで筋肉痛のように遅れて疲労が出てきたようである。今日まで近所のスーパーはお休みなので、母と共にジャスコへ向かった。ジャスコはとても広く、そして人も多い。また、物凄く寒い。人が多いと、息も苦しくなる。少し憂鬱な気分を携えたまま、車に乗り込もうとした時空を見上げたら、濃紺の空にちかちか光を放ちながら飛行機が飛んでいた。星が瞬いている合間をすり抜けるように。夜、飛行機には乗ったことがない。どんな雰囲気なんだろうと想像を巡らせていると何となく楽な気持ちになってきた。ジャスコへ行って学んだのは、寒過ぎて手がかじかむという事だった。なので昨日から、母よりクリスマスプレゼントとしてもらった手袋を着用してお店の中をぐるぐる歩いた。大学生の頃、いつも利用していたので、大体何処に何があるかは覚えていた。だが、近所のスーパーより敷地面積が2倍はあるので、すぐ母とはぐれてしまう。私も母も、必要なものを求めすたすたと歩いていってしまうので、中々出会わない。「まあ、どこかで出くわすだろう。」と軽く考え、私はお酒のおつまみを見たり、レトルト食品やスーパーでは考えられないほど安い調味料の類をカゴに入れたりしていた。野菜コーナーで、今日はやっと母に会えた。安いと言えば、発泡酒6本セットが近所のリカーショップより85円も安かった。玉に瑕なのは、閉店時間が遅い為、お惣菜類が半額にはなっていない事である。殆どを、安い冷凍食品で代用したのでやはりスーパーより高くついてしまう。それは、痛かった。恒例の、ココアブレイクは欠かさなかった。自販機は離れた所にあるので、カートは食品売り場の端に寄せておき、温かいココアを買って、母と一緒に飲んだ。“プレミアムココア”というもので、苦味も利いている美味しいもので身体も温まり、こころもホッとした。しかし、精算を済ませた後、段々こころが悲鳴を上げ始めた。どうして私は生きているのか。親戚の人達にあれだけ言われたではないか。「こんな状態では駄目だ」と。でも今はこんな状態でも生きるのに必死であるが普通の感覚では非難に値する事でもである。どうしたらいいんだろう。生きていていいのだろうか。商品を袋詰めしている最中から呼吸が乱れ始め、指先の痺れを感じた。此処で倒れても、誰も助けてはくれない。悲劇のヒロインになるなと己に言い聞かせ、この場所では誰もお前の事なんて考えちゃいないと自分に対して冷酷になる事でどうにか乗り越えた。両手に大きな袋を携え、駐車場を歩いていたら身体がフワフワした。これは解離の始まりである。まるで、エレベーターから降りた後のような、重力の感覚がおかしい感じでそれでも只管、私は車のある所まで歩いた。帰り道の途中、母が新年会の事を話題にした。去年、ホルモン焼きを食べに行こうと色々ネットで調べていた事である。だが、その時点で私は生きる気力も明日の事も、未来の事も考えられなかった。一言、「気力が、ないよ。」と返事をした。母は凄く落胆した声で「楽しみにしていたんやけど・・・気力がないか・・・。」と言った。どれだけ私は身勝手なのであろうか。でも、母は待ってくれると言った。病気の事を理解してくれつつある母の想いが、凄く胸に沁みた。今はまだ、元日に出掛けた疲れが実は取れていなかった事が分かった状態なので、待っていてくれるという言葉を聞いて、とても安心した。元日、祖母や母の妹夫婦に指摘された言葉が胸に深く突き刺さっている。祖母や彼らは所謂【普通の感覚】を以って私への戒めの言葉やこのままじゃ駄目だという事柄を言ったのであって、真に受けていたら、こころも身体も持たない。勿論、働けるこころと体力があるなら今すぐにでも働きたいし、外に出たい。誰かと出逢い、恋愛をしてみたい。でも今、責任感を持って働けるかと問われると自信がないし、恋愛にも興味が持てない。出来る事なら、このまま死んでしまいたいとさえ想っているが、それは“現実逃避”に他ならない。現在は、私が沢山抱えている病気が“治る”為に如何に生きていくか、それが課題である。充分なこころと身体の静養。そしてきちんと睡眠をとる事。これらが一番大切であり、そして無理をし過ぎない事も重要である。私はうつ病でもバイポーラの気があるので一旦“躁”へ針が振れると後々物凄い疲労感が押し寄せる。元に戻るまで、1週間はかかる。主治医曰く、軽いうつ状態が丁度良いという事である。そして、外出・人と会う事がある時は、「今、自分は疲れながらも対応している。」という感覚を忘れないのも大切である。そうしたテンションでいると、躁になる事もなく、なだらかな気持ちでいられるとコツを教えて下さった。だが、それがまた難しいのである。解離。今までは家でゆっくり過ごす事が多かったので余りその状態にならなかったが、一旦解離症状が出ると、次から簡単に解離してしまう。いつもと違う場所や状態にいると、こころが慌てている感じを覚える。その場所に何とか慣れようと、適応しようと目まぐるしく動きが活発になる。だが、慣れない事なのでその動きについていけない自分が、在る。やがて混乱して訳が分からなくなり、解離する事によって自分を守るのである。摂食障害、解離性障害、強迫神経症などの症状は、全て自らを守る為の症状である。だから忌み嫌ったり、邪魔なものとしたりする必要はないと考える。勿論、これらの症状は苦しく辛い。しかし、こころはプロテクトされているのである。いつか、それらの症状以外で自らの心を守る方法が見つかれば、病気は治る。絶対に、治る。だから今は、過食や嘔吐をしたり解離したりする事はあっても、それは自分を守っているのだと考えたい。この頃、日本酒が美味しいと感じる。最近は、発泡酒や少量の本格焼酎、自分で作るカクテル以外のお酒は飲めなかった。大学生の頃は、手っ取り早く酔いたいからとワインは安値の赤・白・ロゼ、ウォッカにオレンジジュースをちょっと入れただけの濃いスクリュードライバー、アルコール度数の強い酎ハイや泡盛、安い麦焼酎を速いペースで飲んでいた。味なんて関係なかった。酔った勢いで、手首を切るのも頻繁にあった。だが、23歳の誕生日、お薬を少し飲み過ぎただけで昏睡状態に陥り生死の境を彷徨った際、24時間点滴を1週間強続けた。それによって体質が変わったみたいで先ず辛い食べ物を全く受け付けなくなり、お酒もアルコール度数が低いものでもすぐ酔ってしまうようになった。3年経って、未だ唐辛子系の辛いものは食べたら口唇が腫れてしまうから敬遠しているけれどお酒は結構飲めるようになった。やはり、“血”であろう。祖父が、酒飲みさんで、母もまた酒飲みさんである。冬の寒さが厳しくなって、毎日熱燗を飲むようになったが、次は濁り酒を試してみたいと想っている。辛口よりも甘口の日本酒が好きなのでちょっと楽しみである。しかし、私の楽しみはお酒だけかと想うと虚しくなり、ブラックホールのような無力感がすぐ側まで迫ってきているような気がする。いつも張り詰めている意識をほぐす事でどうにか今を生きている状態である。其処には常に虚無感があり、無力感が蔓延っているのは否めない。「普通に生きたい」と願えども、私は出生の理由からしてそれは無理だという事を分かっている。父と母は、純粋に愛し合って私という命が育まれたわけではないのであるから。母の結婚という時点から、不幸だった。無理矢理結婚させられたという事実、父方の親戚達に酷く虐められた事を聞く度、私は絶望の淵を覗く感覚に陥る。無理矢理結婚させたのは祖父母であり、母は家出までして抵抗したのに、無理矢理連れ戻されて、強引に結婚させられたのである。父と母の間に、愛なんてなかった。そんな家庭など、この世にはごまんとあるだろうから、私1人が不幸だとは決して想わない。ただ、私が子どもという幼い時期にその事実を聞かせないで欲しかったというのが本音である。物事の分別がつく、今くらいの歳に聞かせられたら、哀しい事だったんだったねと母の気持ちと共に感情を分かち合う事が出来たかも知れない。10代の私が聞かされるには、少し荷が重かった。そして母が私を産んだ理由というのも、その頃聞いて哀しかったのを覚えている。全うするまでは死ぬ事は出来ないと苦しくもなった。何れにせよ、大した事ない理由で考え過ぎるという自分の癖により酷く自分を追い詰めている状態にある事は分かった。今のところは、ゆっくりとお酒を飲んで、緊張しきったこころを、緩和させたいものである。
2008.01.04
寒いからといってエアコンを付けたまま眠ると、喉がからからに渇いてしまう。そして肌はかさかさに乾燥している。お蒲団は最初冷たいから、ドライヤーを強風にして暫く吹かせて足元を温める。それで漸く、私は落ち着く。夕方、雨が降ったみたいであったが、夜には止み、夜空には星が瞬いていた。昨日までは空を見上げる余裕はなかったが今日は大分、こころが落ち着いているようだった。昨日の続きになるが、1つ想い出話が出ると、するすると様々な想い出が甦る。祖母が生まれ育った北海道の話やその祖母が子どもの頃の話はとても興味深かった。勿論、母が子どもの頃の話も聞いたし、私が覚えていない幼少期の特徴を教えてくれた。祖母は北海道でも室蘭で生まれ育った。北海道でも南の方である為、積雪は少なかったが物凄く寒かったという。海が近いので、【豆腐売り】みたいな感じで魚介類を売り歩く商売があったそうである。多種の魚は勿論、雲丹や鮑等の今となっては高級食材も安く売られていたらしい。だから、祖母の家庭ではいつも食卓に鮭や貝類、雲丹などはいつも上っていたそうである。また、祖母は鮭の皮が苦手だったので、2人いる兄と、鮭の身と皮を交換してもらっていたそうである。祖母は末っ子でたった1人の女の子だったから甘えるのも上手だしけれども今では1人で何でもしゃきしゃきこなす体操の先生であり、80代のキャリアウーマンである。船乗りをしていた祖父。北海道の彼女である祖母の他に、沖縄の娘とも付き合っていたことがあるという。確か、しーちゃんと言っていた。それは祖母も承知していた。昔のアルバムで祖父の若い頃の写真を見ると、今の感覚でも物凄い男前なのである。日本人離れした、足の長いスタイル。高い鼻と大きな目といった彫りの深い顔。だから、昨日記した軍歌の他に、「沖縄の娘は~~」みたいな曲も唄っていた。船乗りは、下働きから始まる。だから、掃除・洗濯・料理はお手の物である。祖父は、料理に関して認知症になる前は祖母よりも上手であった。おせち料理の栗きんとんも、秋に栗を茹でて冷凍保存しておき、普通は薩摩芋を混ぜるが祖父は栗だけで何時間もかけて大晦日に栗だけの栗きんとんを作った。それがまた物凄く美味しかった。私が子どもの頃は、祖父母の家へ泊まりに行くのがとても楽しみだったので月に2回くらいは行っていたが、出てくるおかずの殆どは祖父の手作りだった。そして「これ、美味しいやろう。じいちゃんが作ったんぞ。」と得意気だったし、本当に美味しかった。私がまだ病気になる1年位前、祖母が出掛けている時、共に昼食を食べる機会があった。祖父は手早く、ピーマン・玉葱・人参・ウィンナーの入ったナポリタンを作った。それがまた本当に美味しくて私はお代わりをした程である。祖父は、スプーンとフォークを駆使してくるくるとパスタをフォークに巻きつけ音を立てず食べていた。「スパゲッティーは音を立てずに食べるもんぞ。」という言葉と共に。余りにもしっかりとした祖父の想い出があるから、現在、湯飲みとお茶碗の区別がつかなくなって湯飲みにご飯をよそってしまう祖父を見ると胸が締め付けられて涙が出てしまう。ただ、私の名前こそ間違うものの、顔はちゃんと覚えてくれているのは嬉しい。名前を間違えるのは、妹夫婦の子どもに似た名前の子がいるからである。1字違いで、その子の方が呼びやすいので祖母も間違ってしまうのだから仕方が無い。しっかりしていて、誇り高くプライドも高かった祖父。認知症という症状の残酷さ。哀しさ。今でも祖父はプライドを保っていて祖母を困らせている部分もあるがギャップが、こころを締め付ける。前回会った時には、軍歌を唄う事は無かった。だが今は、頻繁に唄っているという事も、坂道を下っていると言う証拠である。私に出来る事は何もない。けれども、祖父母は私の顔を見ると喜んでくれる。だから今年こそは、頻繁に祖父母の元へ行きたい。これを今年の目標の1つとしたい。飽く迄も、目標である。体調とこころの調子を鑑みて、実行に移せたらと考える。姪っ子と朝から夜までいたら、疲れてしまった。勿論、姪っ子はとても可愛いし、大好きである。けれども、私の母が厳しく私達を躾けたのとは時代が違い、姪っ子は良く言えば本能のままに動く活発な子どもであるが、言うなれば我儘放題な子どもである。気に入らない事があると、叫び声を上げるし、やってはいけない事を注意をしても、聞かない。これは、妹の彼氏が余りにも姪っ子を甘やかし過ぎている事にも一因があるかも知れない。妹は、どちらかと言えば厳しい面もあり、悪い事をしたらペシッとおしりや頭を叩く。だが、そうすると姪っ子はパパとなる彼氏の元へ飛んでいき、甘えているのである。その内私は、鍋の白菜や久し振りに食べるお肉、茸類、くずきり、豆腐などを過食の為だけに食べていて嘔吐するまで必死だった。その他にも、気まぐれで買ったお寿司や祖母の家に沢山あった数の子や松前漬けなどを黙々と食べ、全て吐いた。過食と嘔吐はその1回で済んだが、それによって低血糖症状を引き起こし、身体が震えて気が遠くなっていた。その中で聞こえる、姪っ子の金切り声。私のこころがどんどん自分から離れていくのを感じた。解離状態である。どんなに疲れていても、症状が出ているから眠ることも出来ない。祖父はこの寒いのに突然外に出ようとするから気が気ではなくて見守らねばならない。祖母からは説教を受け、それを聞かねばならない。だんだん、自分と言う人格がばらばらになっていった。帰りの車の中、とうとう解離した。今までは、自分を一歩後ろ所から感じている感覚であったが、今回は全く眠っていなかった事から、5歩後ろから自分を見ていた。もう、無理に戻ろうとしなかった。頭を抱え、一切の音をシャットアウトして目蓋を閉じた。隣では、母が運転している妹に話しかけその反対の隣では弟が姪っ子の相手をしている。私は声が出なかった。夜、食べるものがないのでお正月でも開いているジャスコに寄った。店に入るまでに、何故か母を見失った。自分は何をしているのか、何処を歩いているのか、自分とは一体何なのかが分からなかったが、買う必要のあるものをカゴに入れていた。そして漸く母と落ち合ったが、私は視線が合わせられなかった。何もかもがぼやけて見えて、頭ががんがんと痛み、何故今、この場所にいるのか失念しかけていた。レジにて精算をしてお金を払い、商品を袋詰めしている間も、訳が分からなかった。魂が、抜けた感じだった。そして、家に帰り日中薬を服用した事で漸く自分を取り戻したのである。『相棒SP』と『はじめてのおつかい』の録画準備をして、インスタントのお吸い物を飲んだら身体が温まり、意識もはっきりとした。『はじめてのおつかい』をPCで観ていたら、子ども達の健気さに涙が溢れた。祖父母の所で感じた事。私は涙を流したかったのに流せなかったのである事に気付いた。だから、その番組を観ていて涙を流している自分を感じると祖父母の事も想い出し、解離状態から戻りつつある自分もあり、落ち着けたのである。2日にはたっぷり眠れたことで、3日である今日はもう普段の自分に戻った。想い出話は、初めて知る新鮮さ、そして想い出す懐かしさがあるけれど、それらが現在という時間を揺るがすほど、哀しみをもたらす事もある。祖父が祖母よりもしっかりしていて元気だった頃を想うと、切なさを通り過ぎて、哀しみが膨らむ。でも、まだまだ想い出を作る事は可能である。私は、その可能性を捨てたくない。だから、祖父母や母が生きている限りは私も生きていようと想っている。時の流れに、身を任せて、ゆったりと。でもいつか、病気は治る事を信じて。
2008.01.03
*********************************************遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。皆様、どうぞ今年も宜しくお願い致します。*********************************************時は遡り、元日は様々な想いがこころの中に去来した。母と私、妹と妹の彼氏、姪っ子と共に祖父母の家へ1台の車で向かった。途中、弟を迎えに行くはずだったが、眠っていた為連絡がつかなかったので先に行って、鍋の支度をしていた。鍋の材料は、近所のスーパーで購入した。【かに鍋】かにを食べるなんて、何年振りだろう。かには、祖母が大好きなので、水炊きにかにを入れるものとなった。他には、白菜・ねぎ・椎茸・牛肉・鶏肉豆腐・くずきり等が入っていた。出汁もよく効いていて、ポン酢で頂いたのであるが、凄く深い味がした。最初から過食前提で食べたくなかったので私は白菜とお豆腐とねぎを少しだけよそってちびちびと頂いた。その間に漸く弟と連絡がついたので妹と母と姪っ子が迎えに行った。妹の彼氏と私と祖父母が居るという状態になったので、ほんの少し気まずい空気が流れた・・・と想ったけれど、それはすぐに解消され妹の彼氏・・・S君はビールを飲み沢山食べてリラックスしている様子だった。鍋が出来上がったとき、先ず祖父にたっぷりよそった。酸っぱいものが駄目になったらしく、お醤油で食べていた。「おお、美味い!おいしいなあ、これは!」と笑顔で食べていて私まで嬉しくなった。作ったのは母と祖母であるが。私は、祖母とおしゃべりしながら常温の日本酒をお猪口でちびりちびり口に運んでいた。かなり美味しいお酒だった。そうしていると、母の妹夫婦がやってきた。予定はなかったのであるが、祖母の家にお米が少なくなったとの事で持ってきたそうである。母の妹夫婦は兼業農家である。そして鍋の材料はまだまだ沢山あるので、食べていってもらうことにした。母の妹も、久し振りに妹の子どもと会いたいと言っていたので丁度良かった。しかしやはり、私はそこで色々とツッコミを入れられた。「旦那さんの紹介するんは○○ちゃんが先やろう! しっかりしろお!」と笑いながら肩を掴まれ揺さぶられた。「やっぱり外に出ないと出逢いは無いよ。」「その歳で勿体無い。私がその歳に戻れたら もっと一杯やりたい事やりたいなあ。」「青春を自ら捨ててどうする!」矢継ぎ早に入ってくるツッコミに曖昧な笑顔を見せる事しかできなかった。自分の病気の事は、余り詳しく母の妹夫婦には話していない。そして働いていない事に対しても、叱責の言葉があった。今はお母さんに頼れていてももしもお母さんが倒れたらどうするのかと。これは言い訳であるが、今を生きるだけで必死である私にとって、未来はおろか明日の事すら考えるのも辛い。出来る事なら普通の人みたいに年齢に相応した暮らしをしたいと願う。仕事をしたり恋愛で悩んだりしてみたい。でも今は、生きる事自体に疲れている。余りびしびしツッコミを入れられると結構胸は痛む。久し振りにお化粧をしていたので元気そうな表情であり眠っていないから顔が浮腫んでいて4枚も服を着るという厚着をしていたのでガリガリには見えなかったようだ。その点では成功していたけれど、だからこそ、沢山叱責を受けたのであろう。一応、それらの言葉はこころのどこかに仕舞っておきたい。弟とも久し振りに会ったが、吃驚した。「お前はどこかのミュージシャンか!」と私がツッコミを入れたくなった髪形と眉毛の形をしていた。左眉毛を二箇所、剃っていて似非パンクのようであった。ヘアースタイルは言うなれば“スーパーサイ○人”だった。呆れて声も出なかった。そして働かないのは、彼女がお金持ちで一緒に住んでいる所も結構広いオートロックのマンションでCATVが観られる為、アニメばかり観ているからという理由もある。一旦、心地好い生活に浸かると脱け出せない。特に弟は意志が弱いので働く気になれないのであろう。そして新しい事実を知った。母からだけではなく、父からもお金をもらっていたのである。しかも父は、弟が働いていると信じているらしい。生きていく気が、失せてきた。祖父の認知症は、進んでいた。脳出血による認知症であり年齢も今月84歳になる事から坂道を下るように症状は酷くなっていた。祖母はしっかりした人なので、認知症だから仕方ないと想えばいいかも知れないと想うけれど、どうしても腹が立ってしまう事が多いと言っていた。祖父に、“誇り” “プライド”は残っているのである。だからこそ、見ているだけで哀しくなってしまう。お茶碗にご飯をよそうのにもやり方を途中で忘れたり、おかきを食べていても、途中で目の前にあったお酒のあてであるボイルたらこを食べていたりしていたのである。そして、寡黙である時間が長くなった。幾ら皆と一緒に炬燵に入って温まろうと言っても、ダイニングキッチンにあるテーブルの所で椅子に1人で座ってぼんやりしていた。「寒いやろ?こっちでお話しよ。」と誘ったら、「いや、寒くない寒くない。此処でええんよ。」と、またぼんやりしている。そんな祖父も、ひ孫と一緒の時はずっと笑っていた。軍歌を、歌っていた。姪っ子は、それに合わせて踊ったり、手を叩いてリズムを取ったりしていた。姪っ子は言葉が達者なので、「じーちゃん、ここはこうして、こうしてね!」と指導しながら一緒に踊っていた。そのときの祖父の笑顔は、嬉しそうで嬉しそうで私は鼻の奥がツンとした。私達が、やっと皆揃って落ち着いてお鍋をつついている時、祖父はひ孫とダイニングキッチンで遊んでいた。姪っ子もご機嫌だった。ただ、祖父は前に会った時、軍歌を歌う事など無かった。しかし最近は、同じ軍歌を暇さえあれば口ずさんでいるという。桜と共に、散っていこうというような歌詞の軍歌だった。祖父は、船乗りだったので徴兵制度で一応兵隊にとられたけれど、訓練で散々殴られたり蹴られたりしている内に終戦を迎え、戦地に赴く事はなかった。そしてその後も同じく船乗りを続けたという。私はずっと船乗りをしていたものだとばかり想っていたので、そういった苦しみがあった事を初めて知った。そこからまた思い出話が沢山出てきたが、此処からの続きは明日にしたい。元日は、色々な想いを感じたので2日に分けて綴りたい。最終的に、私は帰りの車の中で解離してしまったのである。それほど感じる所が多く、疲れてしまったのである。しかし、帰宅した後きちんとお薬を服用して『はじめてのおつかい』という番組を観て涙を流し、過食と嘔吐をしてもっと疲れて眠ったら、少し楽になった。また、今日も10時間ほど眠っていたので精神的にも体力的にも回復傾向にある。今年は様々な変化がありそうなのでそれに備える為にも、休養を大切にしたい。
2008.01.02
午前中に祖父母の元へ行くとの事で一睡もしないで支度をした。久し振りに会った祖父母。とても温かい気分になったが祖父の認知症が進んでいて哀しい事に気付いた事も多かった。しかし、家族みんなで炬燵に入り鍋を囲む楽しさ、あたたかさ。それらが堪能できて嬉しかった。良い元日だった。
2008.01.01
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