2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全30件 (30件中 1-30件目)
1
゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚神前式が、始まった。゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚新郎一族、新婦一族がそれぞれ一列になって、その部屋へ入っていく。厳かな雰囲気が、漂っていた。私達の、列の先頭は姪っ子だった。その後ろに母、私、弟・・・と並んで部屋に入った。相手の家族と対面する形で座った。その式での細やかな説明は省略する。立ったり座ったり、頭を下げたり。ただ、新郎新婦が声を合わせて誓いの言葉みたいなものを読み上げる時、何が可笑しいのか2人は笑い始めたのである。厳かな雰囲気で誰かが笑い始めると、何故かそれは伝染していく。先ず、新郎のお母さんが噴き出して笑ってしまい、私達も母を始めとして、くすくすと笑っていた。きっと、斎主は「不謹慎な!」と憤っていたと想う。しかし、厳かな場ほど、“笑い・可笑しさ”はどうした事か増幅するので、困る。「笑ってはいけない!」と言い聞かせば言い聞かせるほど、おかしくなってしまう。親族達が、お神酒を飲む時がやってきた。何故か、こども達にも注がれた。姪っ子は、終始落ち着かないので、注がれた途端、そのお神酒をぐいっと飲んでしまった。「うげえっ!まずい!」隣に居た母が止めようとした時には、もう飲み干してしまっていたのである。ほんの少量ではあったが、お酒なので姪っ子はずっとそれからティッシュを口に含んで顔を顰めていた。また、その様子が可笑しくて妹達やみんながクスクス笑っているのである。もう、厳かな雰囲気はそこにはなく、妹達らしい、楽しい式になっていた。神前式の次は全員での写真撮影。そして披露宴という流れになっていた。まだ幼い子どもが2~3人いたので、写真撮影には少し時間がかかった。けれども、昨日記したようにこの写真には私達家族が全員写っている。だから、絶対に後生大切にするし、宝物になるであろうと感じている。披露宴が行なわれる部屋に入ったら、想ったより人が多かった。新郎側の招待客が多かったのである。残念な事に、親族は末席である。だから、妹達が遠く感じられた。各々決められた席に座り、弟にはビデオ撮影を頼んだ。私は専らデジカメでの撮影をするつもりだった。けれども、料理が並べられ始めた頃から、私の意識がおかしくなった。食べてしまったら、過食になって吐かねばならなくなる。だから食べてはいけないという気持ちと、今日は特別な日なのだから、比較的カロリーの低いものを少しだけ、少しずつ食べるくらいなら大丈夫だろうという想いが抗争してパニックになりかけた。「私は、母に写真を撮れと言われている。ビデオを撮れと言われている。 度々席を立っていたら大事なシーンを逃してしまうから 食べられない。けれども、こんなにも美味しそうな食べ物を 目の前にして、果たして私は何も食べないでいられるのか」逡巡したが、結局私は少し、美味しそうな一品を口に運んだ。でも、そこで一旦、止められた。やはり、今日は何よりも妹の事が大切だから。食べて太ってしまっても、それは後日調整できるけれど、今日という日はもうないのだから。その想いが、勝った。一応、デジカメとビデオカメラを両方担うのは無理だからビデオカメラは弟に任せ、私は場所を移動しながら妹達を沢山撮影した。゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚まだ、身体が怠く、抑うつ感が酷い。漫然と、過食と嘔吐を繰り返しそして疲れて横たわるという状態が続く。無気力・無力感に覆われ、また、母の怪我が少し悪化したのでそれも心配で堪らない。無理をしないよう、過ごしたい。続きは、調子の良いときに綴れたらと想う。゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚
2008.04.30
本来なら、昨日の続きを綴らなければならない。けれども今日は昨日よりも更に頭痛が酷くまた、うつ状態が続いていてPCも立ち上げられない。疲れが中々取れない。今晩、明日とゆっくり休んで想いが新鮮な内に結婚式の事を記したい。
2008.04.29
゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚4月27日、日曜日。妹の、結婚式。゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚この日の為に私は、精神を奮い立たせて先ず美容室へ行き、そして祖父母と共に買い物へも行き、前日の夜には準備万端だった・・・のだがしかし、弟は、違った。式の1週間位前から母は、弟が着て行くスーツを買うからと、何度も弟の携帯に電話していたけれど中々連絡が取れなかった。やっと電話が繋がったと想ったら、「スーツとか靴は全部友達が貸してくれるから買わなくていい」と言うのである。しかし、サイズを合わせた訳でもなく、手元にも無かったみたいなので、母はずっと心配していた。そして火曜日、母は美容室で転倒し、捻挫する。怪我の程度が少し酷かったので少しでも良い状態で結婚式に出席できるよう兎に角安静にしてもらっていた。だからその間、弟の事は考えていなかった。そして前日の土曜日。最終確認としてスーツの事を弟に訊ねた。すると弟は、「スーツ、借りれなくなったから、これから買いに行く」と言ったのである。母は勿論物凄く怒った。前の日になって何を言い出すのかと。スーツを買うお金を出すのは、母である。まだ痛む足で、弟を迎えに行き、紳士服の青山かどこかに連れていった。しかし、買いに行くと言った時間がお昼過ぎでお店に到着したのは、夕方。裾上げをしてくれる店員さんはもう帰ってしまっていた。なので、ズボンの裾上げはテープとアイロンで一時的に出来るものを、母がやる事となった。最高潮に、母の機嫌は悪くなっていた。「式の前の日は落ち着いて過ごそうと想っていたのに!」私は、未だに母の機嫌が悪いと怖い。だから手伝っている時は怯えながら、過ごした。夕飯の買い物を終えたらすぐ、裾上げに着手したが、仕上がったのは午前0時前だった。母は苛々しているので言葉遣いも乱暴で、私に対しても八つ当たり気味の態度だったので少し傷ついた。「どうして私がこんなに怒られなきゃいけないんだろう 確かに私は不器用だから、苛々させてしまっているけれど・・・」釈然としないまま、少しずつストレスが溜まり、段々頭と胃が痛くなってきた。折角喜ばしい式の前の日なのに、こころは沈んだ。その後は、母と一緒に食事をして・・・といつもの感じで過ごした。いつものように、やはり私は過食と嘔吐をした。その後、ぐったり疲れて1時間半ほど眠った。なので実質上、1時間半の睡眠時間で結婚式に出席した事になる。3時位からずっと起きていた。眠ってしまったら絶対起きられない事は分かっていたので、読書をしたり、ネットで様々なブログを読んだりしていた。ちびりちびりと日本酒を飲んでいると、私が花嫁でもないのに、どんどん緊張してきた。その緊張は、沢山人が集まる場所へ行かねばならないといったいつもと全く違うシチュエーションで過ごす事。また、神前式なのでその場でどのようにしていれば良いのかという不安感・・・様々な想いが一度に押し寄せてきてそれが“緊張”へと繋がり、胸がどきどきして手が震えた。式当日の朝。8時半には家を出発する予定だったので余裕を持って行動できるよう、6時過ぎにはシャワーを浴びてお化粧を始めた。だが、眠っていない私は行動がいちいち遅く、変わった形のピアスを付けるのに戸惑ったり久し振りに穿くストッキングに悪戦苦闘したりしたので結局時間ぎりぎりになってしまった。母は、レンタルの黒留袖を式場で着付けしてもらうので支度は直ぐに済んだ。私は、ヘアセットをしてもらえるので若干時間に余裕が出来るかと考えていたが、髪はウエストまであるので乾かすのにも時間がかかって本当、大変だった。タクシーの中で、「支度するだけでかなり疲れたよ・・・」と弱音を吐いてしまったほどである。だが、父の家に居る弟を拾って式場に到着した途端、“わくわく”の方が勝って、疲れは幾許か吹き飛んだ。9時過ぎ、私のへアセットも終わって、妹が準備をしている部屋へ向かった。白無垢を着るのは大変なので、時間ぎりぎりになってから着るのだとピンク色の肌着姿だった。それでも、お化粧はばっちり仕上がっていて不思議な気持ちになった。祖父母との買い物で購入した今日の私の格好を、妹がたくさん褒めてくれて、凄く嬉しかった。ワンピースを着るのも高いヒールの靴を履くのも凄く久し振りだったし、パーティー仕様のヘアースタイルは滅多にしないので鏡に映る自分を見ても、自分でも他人を見ているようだったから妹に「似合うやん!かわいい!」と言ってもらえてくすぐったい気持ちになった。弟は、その場でスーツに着替えた。金髪で、少し伸びた坊主頭の弟だが、結構スーツが似合っていた。前日は、あれだけ母と私を困らせたのでとても腹が立っていたけれど、弟は飄々としていて憎めないヤツなので一言、苦言を呈しただけで、許してしまえるのである。スーツが初めてなら、ネクタイも結んだ事がない弟。結局、ネクタイは後に、叔父によって結んでもらう事になる。暫し歓談していたら、黒留袖を着た母が姪っ子を連れて来たので早速デジカメで写真を撮った。そろそろ祖父母や叔父叔母が来る頃なので控え室へと向かった。久し振りに、家族が揃った。残念ながら、叔母の娘と息子はそれぞれ千葉で働いている事、愛知の学校に通っている事で今回来られなかったけれど、祖父母、私達家族、叔父叔母という親族での写真が撮れて嬉しく想った。ただ、姪っ子は新郎の妹さんのお子さんと遊び回っていて掴まらず、一緒に撮れなかったのが心残りではある。でも、神前式が終わった後、新郎の親族、新婦の親族全員の集合写真を撮ったのでこれを一生大切にしたいと想う。控え室にいる間、みんなと他愛ない話をした。弟は、叔父にネクタイの結び方を習っていたが、何だか難しい結び方だったので覚えられず「今日だけきちんとしておけば良いだろう」という事で、きっちり締めてもらっていた。祖父は、私の姿を見て「ありゃあ、○○ちゃんは本当、べっぴんさんやなあ。かわいいなあ。 こりゃ男が放っとかんよ。 誰もが“わしん所へ嫁に来てくれ”っていうぞ わしは、許さんけどな!」と何度も言ってくれた。また、目が合う度に祖父は目を見開いて「その洋服、本当に似合うなあ。かわいいなあ。うん。かわいい。 ぱあっと輝いとるがな」と言うので、もう、とてもくすぐったかった。認知症の祖父だから、その言葉には裏なんて無い。ひねくれものの私でも、ありがたく受け止められた。こんなにも私を肯定してくれて温かい気持ちになったのである。「そんなに褒められたら、私、どこまでも鼻が高くなっていって大変な事になるわ!」と笑いながら答えたら、皆も笑ってくれて本当に和やかな時間が過ぎていった。そして、神前式の時間がやってきた。゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚まだ疲れが残っていて、頭痛が激しいので今日はここまでにしたい。明日は、神前式から披露宴の事を綴りたいと想う。゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚
2008.04.28
゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚妹の結婚式。私の大切な、妹の。それは、とてもスペシャルな日だった。この日の事を、28日から少しずつ綴っていきたい。゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚
2008.04.27
知らず知らずの内に、テンションが上がったのだろう。遠出して、ショッピングをする事、しかも街へ出るのは本当に久し振りだったから昨夜は帰宅後、激しい頭痛に悩まされた。でも、達成感のある心地好い疲れだった。祖父母の笑顔が見られた事、楽しくお喋りできた事は、宝物だと感じる。睡眠をとったら、大分頭痛は治まって今日は幾分落ち着いて過ごせた。時々、静寂が怖くなる。本当は、静かな所でゆっくりと落ち着いた気持ちですごしたいという気持ちが強いけれどその“静けさ”が恐怖に変わる時がある。TVも電気もつけない朝という時間。勿論、全くの静寂がそこにある訳ではない。外では小鳥が囀り、車が走り去る音も聞こえる。隣の家の生活音もある。けれども、私の中ではぽっかりと穴が開いたように闇と言うべきか、そのような暗い閑寂さがあって堪らなくなる。そして私はすぐにTVのスイッチを入れて音量を上げる。内容は関係ない。何か音が流れていれば不安は忽ち消えてくれるから本当に不思議である。何故、こんなにも静かな事が怖いのか。孤独感が際立つという事も1つの理由かも知れない。未だに、“ひとりぼっち”というのが辛い。子どもの頃は、そんな事全然感じなかった。寧ろ、“独りになりたい”と望んでいた。だから押入れに潜り込んだり、放課後、夕闇迫る門限ぎりぎりの時間になっても校庭で独り、遊び続けたりする事もあった。そこには、自分の世界があった。まだ、完全に病むには至っていない健康な部分を充分に持ち得た私という世界が。いつ、それを見失ってしまったのか分からない。こころの中にはいつも、まだらに“寂寥”が潜んでいる。だから、心細く静けさが怖いのだろう。なのに、喧騒の中にいると苦しくなる。人々の声、存在感、物音が一気に押し寄せると呼吸が出来なくなるほどに。中庸が、難しい。全てに対して敏感になってしまっていて、聴かなくてもよいものまで聞こえてしまう。神経が参っている証拠だと考える。バイポーラという病との共存は、本当に難しい。テンションが前触れもなく上がったり下がったりする。そして疲労困憊する。生きていくのが、辛くなる。全て、自業自得なのに。母が怪我をしてから、買い物は全部担っていたが、日頃の運動不足が祟って、筋肉痛になった。往復で10分かそこらの距離なのに、重い荷物を持って歩くと、脛の外側が痛む。でも、何だかこの痛みが嬉しい。2人分の買い物なので、それだけ重く大変だけど、少しは母の助けになっていると感じられるからかも知れない。母は、この何十倍も痛くて辛く、不便で大変な想いをしている。働けないという事にもこころを痛めているかも知れない。けれども、昨日から母は車の運転を出来るまで快復している。松葉杖も、病院に返却した。まだ、少し歩き辛そうだが、明日の結婚式で黒留袖という着物姿で歩くのには余り支障は無いようである。今までいつも、何かしてもらってばかりだから何か出来る事があると、嬉しい。助け合う事。それが、家族みんなに広まりつつある温かい力である。大切にしたいと強く想う。いよいよ、明日が結婚式だ。花嫁でもないのに、そんな感じの緊張がある。妹の花嫁姿を見ると、きっと母と共にだばだばと涙を流してしまうに違いない。私はこっそりと、感動に泣く母の姿をデジカメに収めよう。結婚式には、家族が全員集合する。祖父母、そして弟も揃う事は、滅多にない。主治医は、家族全員の写真を絶対に撮りなさいと仰った。こんな機会はもう訪れないかも知れないし、そしてその写真は、とても大切な宝物になるからと。家族全員の写真・・・祖父母と姪っ子を含めた写真は、考えてみたら撮った事がない。今日はゆっくり休んで明日に備え、存分に家族である妹たちを祝福したい。
2008.04.26
綺麗に晴れた朝。それほど気分は悪くなく、私は祖父母の家へ行く支度出来た。かなり無理矢理、勢いをつけて頑張った結果ではあるが。でも、それが良かった。麗らかな春の陽射しは、心地好かった。祖父母宅へ向かうタクシーの中から流れる景色を眺めていると、沢山の花々が咲いているのに気付いた。私の知らない間に、桜はすっかり散って青々とした緑が茂っていた。すれ違うスーツの人々を見ると私はすっかりドロップアウトした気持ちになった。そして、次第に解離していき気付いたら到着していた。祖父母はまだ支度をしていなかったので、暫しゆっくりコーヒーを飲みながら歓談した。認知症の祖父は、10秒おき位に「みんなは元気か?」と私に訊く。無論私は、訊かれる度に笑顔で「みーんな元気よ。ありがとう」と答える。すると、祖父も笑顔で頷く。そんなのんびりした時間が、温かかった。お買い物は、デパートで済ませられた。「ワンピースを買う」と決めていたから2つ目のショップで、もう靴まで買い揃えられた。購入したワンピースは殆ど一目惚れだった。試着してみると、ぴったりだったし祖父も祖母も「ありゃあ、可愛らしいなあ」「あら、似合うじゃない」と勿体無いほど褒めてくれたので優柔不断だったはずの私が即決した。店員さんが、そのワンピースに合うパンプス・・・オープントゥで少し細身の、ヒールも高めのものを選んでくれて、それもまた、脚が綺麗に見えて「これしかない」と感じた。ワンピースだけではカジュアルすぎるのでボレロも何着か試着して、着回し出来るものを選んだ。後は、バッグだけだった。これもまた、色んなシーンで使えるものを選択した。私はきっと、この革のバッグを後生大切にすると想う。それほど、こころにぐっと来る素敵なものだったから。いつもならば、熟睡している時間に活動した。歩いたり、笑ったり、考えたり、悩んだりと本当に心身を駆使した気がする。なので、今、相当ぐったりしている。10時前に家を出て、帰宅したのは16時半頃だった。そして、18時に主治医との電話診察を受診した。この1年の中で一番慌しい1日だったと想う。なので、今日は“出来事”しか綴れなかった。というよりも、解離していた為に記憶が抜け落ちている部分が多い。でも、祖父母の笑顔、お喋りした内容は憶えている。とてもとても温かい時間だった。これからも、祖父母との時間を大切にしたい。疲れを取る為に土曜日はたっぷり眠ろうと想う。だが、あと1つ、やり残している事がある。ビデオカメラの取り扱い方をマスターする事、デジカメの使い方を母に伝授する事。あと一息。頑張ろう。
2008.04.25
妹の結婚式まであと3日。カウントダウンは始まった。行動できるのは、残り2日金曜日と土曜日のみである。私はやらねばならない事があと1つ残っている。祖父母との買い物である。その買い物は、結婚式に参加する際に着る洋服を購入するのが目的である。何となく、着たい服のイメージは決まっているが、その洋服を探す為歩き回ったり、試着したり悩んだりするのが正直しんどいと感じている。想像するだけで。祖父は認知症なので、負担にならないようにしなければならない。ただ、私は極度に優柔不断な人間である。デザインが良くても値段が高かったらそれだけで何十分も迷い、値段は良い感じでも、着心地やデザインが引っかかるとまた迷う。予定では、街中のデパートで買い物する予定である。高島屋や三越なら、私の世代にも合うショップも入っているだろう。ただ、洋服だけでなく結婚式に相応しい小物も買わねばならない。小さめのバッグやアクセサリー類。なにしろ、大人になって初めて結婚式に出席するので何も揃っていない。靴・・・私はスニーカーやごついブーツ、カジュアルなミュールやサンダル位しかないのでこれも購入する必要がある。その点、デパートなら買い揃えられるので安心している。しかし、人が多い事は覚悟しなければならない。私は確実に解離するだろう。途中、食事をしなければならないし、それを考えると今から不安になる。祖父母に会えるのはとても嬉しいから、買い物の時間は、それを充分に堪能したい。祖父母に会うのは、お正月以来である。何度も会いに行こうと想っていたけれど、毎日うつの症状が襲ってきて身体が重くなり負けてしまう。外出すらままならない、情けない自分。だが、昨日美容室へ行けた事で少し、勇気が出てきた。睡眠をたっぷり摂取して、過食と嘔吐の回数を減らせば外出も難しくないと分かった。こころの調子によって、過食と嘔吐が酷くなったりしなくて済んだりと波がある。ただ、何か目的があればお薬をきちんと服用する事によりある程度調整できるのは分かっている。少し、努力したい。今週の火曜日に、お薬の処方が変わった。変わったと言うよりも、減ったと言うべきだろうか。セレニカRという抗てんかん薬が削られて、眠る前に1日1錠だったトピナが量的には少し増え(多分1.5錠分位)、粉状にされ1日3回分の日中薬の中に入っている。この処方に変わって、眠気が多少強くなったものの前よりこころが落ち着いている感じはする。母が捻挫して衝撃を受けた事と共にその、感情がなだらかになっている事を金曜日の電話診察時、主治医に報告できればと想う。あらゆる痛みは、少しずつ落ち着きつつある。今月は、本当に酷かった。腹痛と腰痛で吐き気がするというのは本当に久し振りの経験だった。消炎鎮痛剤の効き目がすぐ切れてしまうのにも吃驚した。今まで、ロキソニンを服用すれば何とか落ち着いて過ごせていたのであるから。しかも、甚だしいほど調子が悪い時に母の怪我が重なってしまったので、共倒れ状態になってしまった。そして私は機転が利かない。本当に母には申し訳ない。少しずつ、母の具合は良くなっているようである。家の中でなら、松葉杖なしで歩けるようになった。まだ、足を引き摺る様は痛そうでどうにかして助けたいが、何をしたらいいのか分からなくて本当に自分を情けなく感じる。妹の結婚式で、黒留袖を着るのは大変だと想うから洋服にしたらと提案したが、「大丈夫よ」と言っていた。着物だと、洋服よりも歩きにくいし、トイレも大変なのに、「もうレンタルしてしまったから」という理由もあるらしい。祖父母と買い物へ行った際、母が着ていける洋服も探したいものである。
2008.04.24
耐えられない痛み。毎月訪れる、痛み。下腹部と腰にかけて疼痛が走る。ロキソニンがないと、過ごせない日々。月経の際、腰が痛む症状が出るのは子宮後屈だからだと聞いた事がある。これは、祖母から教わった体操をずっとしていなかった所為で身体に歪みが生じてしまったのであろう。骨盤が歪むと、内臓も歪む。それは、病気に近づく事でもある。手首の切り傷という、自分で創った傷の痛みは平気だけど私は毎月、この痛みに耐えるのにはもう辟易している。PMSの症状の1つ、抑うつ感は薄れるので助かるが、その分痛みが襲ってくる。消炎鎮痛剤は、胃を荒らして胃腸の弱い私は胃痛にも苦しむ事になる。生きている事で、痛みにまみれるこういう日々が何とも滑稽だと自分に対して嘲笑が漏れる。母は、本当にとてもとても辛そうである。何をするにも痛みが伴うのだから、苛々するだろうし、もどかしいであろう。美容室へ行く前までは、当たり前に出来ていた事が今はスムースに出来ないというのは凄いストレスだと想う。私は、そんな母を見ていると自分の事のように苦しい。もしも神様がいるのなら、母の怪我を私の足に移してほしい。「苦しむのは私1人で充分でしょう!」そう、言いたい。どうして、母までもこんなに苦しめるのか。母は、私のことを想って苦しみ、その上怪我までして痛みで苦しんでいる。そして働けないもどかしさで苦しもある。4日後の結婚式だって、まだ多分、怪我は治りきっていないだろうから黒留袖を着たりそれで動いたりするのは困難が伴うと想う。そして、母は怪我をしていてもビールだけは飲むので治りは少し遅いかもしれない。無力な自分。非力な自分が露になり情けない事この上ない。またタイミング悪く、身体の不調が続く。下腹部と腰の疼痛、その痛みによる吐き気。母を助けたいのに、足手まといになりそうで怖い。車の運転が出来るのは家族で他には妹と弟だけである。しかし今日は雨が降っているからと弟が家に来なくて妹が病院へ連れて行ってくれた。丁度、姪っ子を幼稚園に迎えにいくところだったらしい。妹も、母の姿を見てショックを受けたようだった。松葉杖をつく母の姿は、私の胸を衝く。「負担になってはいけない」「これ以上心配を掛けてはいけない」そういう想いと共に“心細さ”がふとこころを過ぎる。「時計を、母が美容室へ行く前までに戻せないだろうか」という夢物語ばかりが頭に浮かぶ。そしてまた願う。「母さんの痛みをこの私の身体に半分以上分けてください」叶わぬ願いを。私が出来る事など、高が知れている。ちょっとした家事の手伝い、買い物をすべて担う事・・・後は母の傍にいる事くらいだろうか。本当に何も出来ない。私には看病がどういう事か分からないどころか未だ看病が必要な人間であり、情けなくて情けなくて涙が出そうになる。母の心細さも、心許なさも、寂しさも受け止められず、成す術もなく見ている事しかできない。私は、やはり欠陥人間だと考える。美容室へ行けた事が、今日唯一頑張れた事かもしれない。母も喜んでいた。「よく行けたね!」と。朝の過食と嘔吐をしないでたっぷり眠ったのが良かったのだろう。予約している時間を守れた。いつもと違う美容室なので行く前まで凄く緊張した。しかし、入店した途端、緊張は解けた・・・というよりも、半ば解離していたと想う。ふわふわした感じで、美容師さんたちと会話していた。カラーの色合いと、前髪の長さという重要な部分だけは確実に伝えられたが、他の事は余り覚えていない。16時半から19時近くまでかかったが、あっという間だった。顎の下5cm位まで伸びていた前髪も、眉毛が見えるくらいまでカットした。すると、かなり幼い感じになった。というよりも、前髪を伸ばしていた頃かなり老けて見えていただけかも知れないが。また1つ、やらねばならない事をこなせた。もう、パーマをかけるのは諦めた。まだ良い感じに残っているから、式場でアレンジしてもらったらそれで構わない。後1つは、祖父母と洋服を買いに行くだけである。明日はゆっくり休んで今日の疲れを取る。残りはあと1つ。頑張ろう。
2008.04.23
母が、怪我をした。私は物凄いショックを受けた。母は今日、美容室へ行った。妹の結婚式の為に、少しカットをしてパーマをかけ、カラーリングする予定で。その前に、私のお薬を朝1番で病院へ取りに行き、主治医に私が書いた手紙を渡してもらった。その後すぐ、母は美容室へ行った。だから折角の休日なのに、早起きだった。美容室で母は、大体眠っている。個人の美容室なので、全面的に美容師さんを信頼しているから安心して眠っていられるし、心地好い洋楽が流れているのでうとうとするのが気持ち良いらしい。それに、1週間の疲れもあり熟睡してしまっていたらしい。カラーリングを施してもらっている間、母は、足を組んだまま眠っていた。そして、カラーリングが終わり、シャワーで流すためそこまで移動する時足が痺れている事に気付かなかったと言う。ふらついた母は右足首をぐきっと捻ってしまい、左足で立て直したものの、また右足を出した時、また捻って、転倒してしまった。あまりの痛みに気が遠くなり、そして気分が悪くなり過呼吸を起こしそうになったと言う。なので、抗不安薬を飲んで落ち着いたらしい。5~6年前、母は同じ所を怪我している。玄関の上がり框から落ちたのである。夜で暗かったし、右足首が内側に曲がったまま着地したので見る見るうちに腫れ上がっていったのを覚えている。その時は靭帯が切れただと診断されたらしいが、今回、病院でレントゲンを撮ったら骨が折れていた痕跡があるという事だった。だから、今もちょっと右足に体重がかかるとすぐ足首を捻りそうになると言っていた。それが、妹の結婚式5日前になってぐっきりいってしまったという事である。不幸中の幸いというか、弟はお仕事のない日だったので美容室まで母を迎えにいって、車を運転して病院へ連れて行き、家まで送ってくれた。美容室から駐車場までは母を背負っていったという弟のこころの優しさ、温かさも垣間見られた。昨日まで、私は弟に対して「定職に就かず、お金がなくなったら親に無心して本当に困ったやつだ」としか想っていなかった。けれども、これは弟の表面上しか見ていない私の愚かさが露呈しているだけである。弟は、私の何万倍も何億倍もこころの優しい人間である。恥ずかしがらず、怪我をして痛みで苦しむ母を優しくおんぶして、車に乗せ、病院も付き添い、家へ入るまでちゃんと力添えした。弟を見直した。ただ困った事に、家はかなり古い日本家屋である。玄関から上がり框まで結構高い段差があり、トイレも和式である上に、そこにも段差がある。普段なら何気ない段差でも、怪我をしていたら不便なこと極まり無い家の構造である。また、タイミングが悪い事に丁度私は月経2日目で、一番具合が悪い時期である。下腹部と腰の疼痛、その痛みによる吐き気、貧血、立ち眩み、倦怠感。でも、母は怪我をしたばかりだから色々と家の事も協力しなければならない。先ず洗濯物を干したり、取り込んだりした。後は1人での買い物。スーパーで母の分も一緒に買い物を済ませたら、一旦帰って荷物を置いて、今度はリカーショップへ行く。そして母のビールと私の発泡酒、捻挫部分を冷やすための氷を購入して帰宅する。調子の良い日なら、何でもない事だが、いかんせん、今日は1ヶ月で一番調子が悪い日だった。買い物したもので、冷蔵庫・冷凍庫へ入れるものを片付けた後は、私もぐったり倒れこんだ。母が怪我をしたという事。これは、私にとってショッキングな出来事であった。勿論母にとっても辛い事であろう。少し酷い捻挫なので、取り敢えず1週間はお仕事が出来ない。ヘルパーのお仕事は、身体が資本であるから。勿論、お仕事が出来ないと、その分お給料も無い。母も不安が募っていると想う。松葉杖をついて家の中を移動する姿を見ると哀しくて泣きそうになる。弱々しい母の背中が、誰にも頼る事ができない現実を明白なものとしていて、寂しい。でも、私は出来るだけ母を助けたい。右足の怪我なので、当分車の運転も出来ない。松葉杖で外を歩けるほど快復したらゆっくりとスーパーで買い物をしようと想っている。夕飯を作るのも手伝うつもりでいる。明日は、私が美容室へ行く日である。これ以上、母に心配を掛けないために、頑張りたい。
2008.04.22
突然、頭の中に響く声は「どうして私は生きているんだろう」という、私を奈落の底へ突き落とす言葉である。その言葉は、ずっとずっと頭の中そして身体中を血液と一緒に廻り続ける。妹の結婚式まであと6日。カウントダウンが始まった。こんなに喜ばしい事はないのに、私はそれまでにこなさねばならない様々な用事を想うと落ち込んでしまう。一応、水曜日の夕方にカラーリングの為美容室に予約は入れた。デジカメも、説明書を隅々まで読んで使い方を大体マスターした。試しに今朝、植え込みの花を撮ったらとても鮮明に、綺麗に写っていた。1つだけ、“やらねばならない事”をこなせてほんの少し、安堵した。後は、使い方を母に教えるだけである。もう、シャッターを押せば撮れる状態にすれば良いだけではあるが。デジカメの色は、母の愛車の色とお揃いである。とても小さくて、メニューボタンは扱い辛いけれど何とかなるであろう。だが、相変わらずうつ状態は続く。自分が生きている事に対する申し訳なさ。毎日の、過食と嘔吐。その他病気のあらゆる症状。気力ばかりが消耗していき、息をしている自分を漫然と感じているだけである。そう。漫然と、生きているだけの自分。これが赦せないのかも知れない。頑張ろうと想ったら、途端に挫ける。まだ、カーテンを開けて太陽の光を浴びる元気もない。暗い部屋が、余りにも自分にしっくりとしていて脆弱な自分が憎々しい。相変わらず、母の前では条件反射のように笑顔になっている。声をあげて笑っている自分に違和感を覚える。もう少し、こころの叫びに耳を傾け素直に生きねばならないと考えるが、難しい。イメージは、霞草と考えてみる。真っ白で、柔らかくそして可憐で儚い。けれども、他の花々を引き立てる素晴らしい花。花屋でその花を見つけたとき、こころが奪われた。そんな風に生きてみたい。少しずつ、やっていこうと想う。うつ状態が酷くなって、音楽が聴けなくなった。調子が良いときは、音楽を流しながら読書をするのが唯一の楽しみだったのに今は、TVの音量もかなり小さくして本の“ストーリー”の中に埋没する。本の内容はフィクションだから、とても楽なのかも知れない。うつが酷くても、読書できる力が残っている事は救いである。そうした、“ゆったり出来る時間”を大切にして妹の結婚式には、こころからの笑顔で祝福しながら出席できるよう今から努力したい。
2008.04.21
ふと想う。幸せだなと感じている時や楽しくて笑っている時。そういうこころが温かい瞬間に自分を終わらせる事はできないだろうかと。子どもの頃から、私は臆病だ。だけど、時に誰もが予想しないほどの思い切った大胆な事をする、おかしな人間である。否、臆病であるが故に、大胆である時の私は“解離している状態”とも言える。臆病で、怖がりだったら自分の手首を傷つけてそこから止め処なく流れ出る血をただただ見つめるという事なんて出来ないだろう。自分の傷だから、受け容れられるのであって、もしも大切な家族が手首から血を流していたら目の前が真っ暗になるほど茫然自失となりまた慌てるだろう。それは小学生の頃経験済みである。20代前半の頃、手首の傷は絶えなかった。毎日、右手首・左手首と順番に切っていた。大学を卒業し、半年間派遣の仕事を勤め終えたら私は生きる価値がないと感じた。勉強もしていない。働いてもいない。なのに過食と嘔吐でお金ばかり使っている。こんな自分は生きている価値はない。毎日死を望みながら、それに充分な向精神薬が溜まるまでは手首を傷つける事によって己が生きているという汚らわしさを罰していた。日に日に傷つける力が強くなり、痕が消えない傷が多数残っている。だけど私は後悔していない。あの頃は、そうしなければ息を繋げなかったのだから。もしも、自傷という手段を知らなかったら私は生きていなかったかも知れない。自分が生きている事に、違和感を覚える。中学生の頃、漠然と「私は15歳になったら死ぬんだ」と想っていた。現に、14歳で摂食障害を患い生きているのが苦しくなった。でも、私は生きていた。大学の卒業が間近になった時。もう卒業に必要な単位を取得し終えていたし目標は“大学卒業”だったから「もう自分には何もない」と想った。生きていても仕方がないと常々想っていた。そして私は、向精神薬中毒で生死の境を彷徨い栄養失調で2週間弱入院した。でも、生きていた。そこからずっと、だらだらと何を生産する事もなく生きている。否、生かされている。それには感謝しなければならないが、覆しがたい違和感はずっとまとわりついている。生かされている事への感謝の気持ちはある。けれども、それに対して申し訳ない気持ちが大きい。私なんかを生かしてくれているという事実が重く、背中に圧し掛かる。いつも、私は生きていても良いのだろうかと答えのない自問を繰り返しているから。産まれて来た限りは、死ぬまで生きるしかない。どんなに病気の症状で苦しくても。身体が固まって動かなくても。いつか、こころだけでも成長できる事を信じてみたいものである。
2008.04.20
締め付けられるような胃の痛みで目が覚めた。強烈な痛み。こころも身体も限界が近いのか。私はまた横たわったまま暫く動けなかった。ただ、昨日睡眠をたっぷり取れたのでアラームが鳴る頃にはすっきり目覚められた。でも、こうして痛みが身体に走るのは厭な夢を見た事も関係あるのだろうか。その夢では小学生の頃のクラスメイトがいて皆で食事をしていた。私はこんなに大量な、しかも脂っこいものを食べられないと想いつつ、「残してはいけない」と言う暗黙の了解があったので私は必死で食べた。勿論、頭の中では「早く吐かねば・・・早く早く」と焦っていた。しかし、学校の中なのにトイレがなくて仕方なく誰も居ない所で吐こうと想っても誰かがやってきて出来ないという繰り返しだった。焦りは頂点に達して「もう見られていてもどうでもいい」という想いで吐いたら、青いスライム状のものが延々と出てきて息が出来なくなってそこで夢が途切れた。気付けば、胃から食道にかけて疼痛が走っていた。しかし、先ず最初に「何か食べてしまったのではないか」という不安でお腹の膨らみを確かめた。周りを見渡し、何か食べた形跡もなく、安堵したのも束の間、痛みでうずくまった。ホットミルクティーを飲んだら、大分痛みは治まったのでホッとした。閑話休題。主婦である妹は、最近よく、母に料理の質問をしている。何でも旦那さんはよく食べるのでメニューに困ってしまうそうである。食卓には必ず、お肉とお魚がなければならない。でも好き嫌いが多く、酢の物やパスタ、チーズ系・・・イタリアン系は駄目だと言う。妹は、母が作る酢がガツンときいたとても酸っぱい酢の物が好きなのだが、食べられなくて寂しいらしい。旦那さんは、朝も夜もお茶碗2杯食べ、しめに卵ご飯を食べる。でも、痩せているのである。ビールもかなり飲む。脂っこいもの・・・中華料理系が好きらしい。とても、羨ましい。きっと、太りにくい体質なのであろう。妹はあっさりしたものが好きなので、今日は“筍とわかめの煮物”の作り方を母に聞いていた。因みに、姪っ子は塩っ辛いものが好きらしい。目を離すと、お醤油を舐めているという。私が子どもの頃は、母の目を盗んでお砂糖を舐めた事があった。駄菓子を買うのは許されなかったから。時々、妹や弟も呼んで、蜂蜜をスプーンで一匙ずつ妹と弟の口の中に入れてあげたらその美味しさに物凄く可愛らしい笑顔を零した。あの頃は、スリルと共に兄弟で甘い幸せを味わう楽しみを満喫していた。少し甘い想い出である。こころが重い。抑うつ状態であるのは、PMSの症状であるのは分かっている。ただ、月によってどういった症状が酷く出るのか分からない。どうやら今月は、うつが酷いらしい。きちんと変わらない処方量のお薬を服用していても、急に身体が動かなくなるのは本当に苦しい。でも「しんどくて身体が動かない」という事を母が理解してくれるのには助かっている。4年前なら責められていたであろう。けれども今はゆっくり休ませてくれるので安心できる。母にはこころから感謝している。部屋のカーテンを開ける気力がない。仄暗い部屋で、ぼんやりとTVの明かりだけを頼りに放心している。何も考えたくないというのが本音である。これからは、忙しくなるから今、充分に力を溜めておかねばならない。デジカメもまだ使い方を紐解いていない。でも、使いこなせたら姪っ子を沢山撮りたい。結婚式で、きっと姪っ子はとても可愛いお洋服を着てはしゃぐだろうから。楽しみかもしれないと想い始めた。少しずつ、出来る事からやっていこう。
2008.04.19
余りにも酷い抑うつ状態だった。電話診察の日なのに電話も掛けられずその事がまた、自責の念となり余計にこころは沈んでいった。蒲団と枕と身体が一体になったかのようにそこから抜け出す事ができず、結局10時半には眠ったのに起き上がれたのは21時を過ぎていた。食べるものがないので必死になって起き上がりシャワーも重い身体を持て余しながら浴び、ジャスコへ行く支度をした。ジャスコしか、もうお店は開いていないからである。酷いうつ。その状態で人が沢山居るところに行くと、必ず解離する。食べ物コーナーを回っている間、私の意識は一歩後ろに退いていた。ぼんやりとした意識の中、いつも購入しているような冷凍食品などをカゴに入れていったが、いつもより時間がかかった。それは、意味もなく何を買いたいかも分からずうろうろと歩いていた時間が長かったからであろう。案の定、家に辿り着いたらぐったり疲れてまた横にならざるを得なかった。一応、食事のときは母と共に食べたが、やはりそれは過食と嘔吐に繋がってまた疲労を感じ、2時間ほど眠った。どれほど眠れるんだろうと自分でも驚いた。その後は、発泡酒を飲みながらぼんやりと本を読んでいた。自分から何か文章を捻り出すのは無理だった。久し振りに、起き上がれないほどの酷い抑うつ状態に陥った。うつは、うつを呼ぶ。暗い思考が身体全体を覆って動けなくなる。そういう時は、ブログもお休みしてゆっくり身体を休めるのが一番だと感じた。もう少し、養生しよう。
2008.04.18
段々、妹達の結婚式が近付いている。私は焦っている。未だに美容室へ行っていなければ予約さえ入れていない。洋服も買っていない。焦るこころに反して、身体は重く、動かない。どんどん鉛のように心身ともに沈み行く。想えば、私は子どもの頃からそうだった。例えば夏休みの宿題。最初の1週間で半分位仕上げるけれどそれに安心して、後は放置してしまう。「明日やればいい」という想いが延びに延びて夏休みが終わる2~3日前に慌てて自由研究や図画工作、読書感想文、残りの宿題を仕上げるのである。それを6年間、懲りる事無く繰り返した。大学生になっても、1回生の頃こそレポートは早目に仕上げていたが慣れてくると提出期限5日前にやっと手をつけて1日前に提出するという感じだった。試験の場合は、前の日に図書館で勉強する。家には私の居場所がなく、また乳児の姪っ子が居たため、勉強できる環境ではなかったから。私が在学していた頃、図書館が閉館するのは確か21時半だったと想う。家に帰り着くのは、途中のスーパーで食べ物を買わねばならなかったから22時半過ぎ。昨今、世間はかなり物騒になってきているのでよく自転車で夜遅くに女1人、暗い道を走っていたなと想う。そういえば夜道を帰っていたら前から来た自転車の変な爺さんがいきなり叫んで脅してきたり、後ろから原付が速度を落として傍に寄って来て私の胸を掴んで逃げて行った事もあった。痴漢・・・それは今でもトラウマで、あの道は未だに明るくても通れない。話は逸れてしまったが、妹達は結婚式の準備を着々と進めている。一昨日、ウェディングドレスを着て写真館で夫婦の写真を撮ったと聞いた。私の役目は、結婚式の写真を撮る事である。母の恋人がデジカメを贈ってくれて、私はこれからその説明書を読んで取り扱い方を紐解かねばならない。今まで、携帯電話のカメラで写真を撮るのは事足りていたので文明の利器が突然家にやってきて戸惑っているのが正直なところである。凄く喜ばしい事を控えているのに、私の半径1mはまるで黒い雨雲に覆われているように不安定である。頭が酷く重くて只管眠い。無論、お薬は処方通り量を守って服用している。そして脈が頻繁に乱れたり飛んだりする、不整脈。歩くだけでその振動が頭に響く、知覚過敏。私の身体は一体どうしてしまったんだろうと不思議でならない。母に苦しみと辛さを与えている罪と罰。そう考えたら納得がいく。病気の全てが枷になっているとは考えない。なるべくしてなった、患った病気。3歳にして、私はこころに問題を抱えていたのだから。24年、私はこころの病気を抱えている。3歳の頃は勿論自覚なんてなかった。でも、顔が引き攣って気持ち悪いとは想っていた。チックである。そして小児喘息。小児喘息を患うのも、色々な説があるが、それを全て信じてはいない。また、胃腸が弱い私が初めて腹痛により登校拒否になったのは小学3年生だった。担任は、お腹の大きい妊婦の先生で、精神的に不安定だったのか、いつも苛立っていた。忘れ物をした子に対しては、頬をビンタ、そしてつねり、またビンタ。頭を叩く。その情景を真後ろの席で見ていて、私は酷く恐怖感を覚えた。家でも母が私に対しての打擲があるからこころが休まる時などなかった。忘れ物がないように、お蒲団に入っても、10分おき位に2階の自室へ行き、ランドセルの時間割や宿題などを確かめ、またお蒲団に潜るという行動を一晩に5~6回繰り返していた。そしてとうとう、学校へ行く前になるとお腹が痛くなる症状が出始めた。勿論、腹痛では学校を休ませてくれない。無理矢理外に出され、1分で辿り着く学校までゆっくりした足取りで向かった。お腹を抱えながら。毎日、私が腹痛を訴えるので、やっと母が私の話を聴いてくれた。「先生がとても怖い」泣きながら、言った。その日も休む事は許されず、お腹が痛いまま少し遅刻して学校へ行った。確か、その日は体育で水泳があった。着替えを終え、教室へ1人、戻ろうとしたらその途中で担任が待っていて、私の傍に来た。一瞬身構えたが、担任は私の肩を抱きしめた。「先生の事、怖い?先生はちょっと厳しいかも知れんけど、 怖くないよ。ね。」と笑顔で言っていた。私は、吃驚して、ただ頷くだけだった。そして去っていった先生を見て、「ああ、母さんが先生に言ってくれたんだ。」と理解した。初めて、母は私の事をこころから心配してくれていると実感した瞬間でもあった。ちょっと、胸の辺りが温かくなったのを憶えている。その後すぐ、担任は産休に入って、代理の先生はとても優しい女性の先生だったので安心した。勿論、学校へ行く前にお腹が痛くなる事もなくなった。父と母の仲が険悪になり、毎晩父の怒鳴り声に怯えストレス性胃炎になり、学校でも意地の悪いオバサン教師に毎日口汚く罵られるようになるまでは。一時期、緩和する事はあっても、私はずっとこころに何かしら抱えるものがあったのだと改めて感じる。現在は、もう無理が出来ない身体になった。無理をしようとしても、余程の事がない限り動かないのである。頑張れない自分を情けなく想う。周りの人々は、苦境の中でも努力したり、頑張ったりして壁を乗り越えようとしているというのに。怠けている私を赦せない。ただ、主治医が仰るように3歳からの病気を今、癒しているのであればそれなりの時間がかかるのを覚悟しなければならないだろう。マイペースを忘れずに、焦らずに。それがまた難しいけれど、そのスタンスでやっていきたいものである。
2008.04.17
感情が、鈍麻している。辛い事や哀しい事、苦しい事が沢山ありすぎて、何が何なのか分からない。それらの感情を整理していくのに疲れてしまった。思い当たるきっかけはある。母の言葉である。先日、母が泣きながら「つらい」と言った事。私の事を想うと辛いと言った。病気の症状で1日が潰れ、20代なのに、周りの同年代の人達の様に楽しい事を全く感じず終わろうとしている事が辛いと。私は想った。これ以上母の負担になってはいけないと。だから、どんなに苦しくても、苦しいと伝えたらまた母は“辛い”と想ってしまうから黙っていようと。ただ生きているだけなのに、こころの病と共に生きるという事は途轍もなく疲弊する。でも、母の前でその草臥れた姿を見せると心配を掛けることになる。だから私は、なるべく笑顔で母に接する。本当の気持ちを押し殺し、笑顔でいる事。そうしている時間が長ければ長いほど、本当の気持ちがどこにあるのか分からなくなった。母と過ごしていても、私の意識は一歩後ろに退いていて、ぼんやりと現実の自分を感じている。喜び・楽しみ・哀しみ・怒り・楽しみ・苦しみ・辛さ。それらがこころに刻まれているのは確かなのに、鈍麻している私には、何も感じない。ずぶずぶと泥沼を只管歩いているだけである。そして頭の片隅にふと死んでしまえたら楽になるんだろうなといった想いが湧き上がる。漠然とした日々を、私は呆然として生きている。そこに何の意味があるのだろう。姪っ子の、クラス名が分かった。“コスモス組”だという。私が幼稚園のときは、色で分けられていた。年中の時は青組。年長になったら藤組だった。私は紫系の色が小さい頃から好きなので、藤色の帽子や名前のバッジがお気に入りだったのを覚えている。コスモスという花の名前の組も可愛いなあと感じる。姪っ子の事を考える際は、正常な思考が戻っているかも知れない。愛おしく想う気持ち、その輝かしい存在を大切にしたい気持ち。少しずつ、自分のこころを取り戻したい。
2008.04.16
外に出ると、どこからか甘い香りが漂ってくる。その在り処を辿ってみると、可憐で鮮やかな黄色の花に行き着いた。私にはその花の名が分からなかったので母に聞いた。「フリージアよ。」お向かいとお隣の家の奥さんは、植え込みに沢山の花を植えている。季節によって、色とりどりの花が咲き乱れる。特にお向かいの家は、壁に薔薇の蔦を這わせているので、その真紅の薔薇が咲くと、本当に美しい。私の家は、母と私2人暮らしだけど植え込みに植物を植えて世話をする余裕が殆どない。でも時々、お向かいやお隣の奥さんが綺麗な花を株分けしてくれるのである。だから水仙が咲いたり、ミントが群生したりフリージアが可愛らしく花開くのである。手入れは、偶に雑草を抜く事や晴れが続いた日に水をやる位しかしていないが、植物は本当に強い。それでも枯れず、美しい花を咲かせる。私は暫し、フリージアの甘く馨しい香を堪能した。昨日の1件以来、出来るだけ母との会話を増やしている。笑顔で。素直に言うと、酔った母は余り好きではない。アルコールは抑制を取ってしまう為、こころにぐさぐさと刺さるような事を平気で言われるからである。また、主語のない話が始まるので、その時点で何かを食べていて「早く吐きたい」と想っている私には辛い事がある。けれども夜だけが、母とゆっくり過ごせる唯一の時間である。だからもっともっと大切にしたい。そんな胸裏に反して、摂食障害の症状が、悪魔の呟きを続けるので悔しい。早く過食して吐かないと太ってしまうと。胃の中に食べ物がある事が耐えられないと。最も己を嫌悪する時間でもある。最近、母と私はとある食べ物に凝っている。“もんじゃ焼き”である。27年生きてきて、数週間前、初めて食べた。母も5●年間生きてきて初めてだと言っていた。偶々スーパーで、“もんじゃ焼きの素”みたいなものが安売りしていて、試しに作ってみようかという事になったのである。わざわざホットプレートを出すのは面倒だったのでフライパンで作ったが、ちゃんとおこげも出来てそれがとても美味しかった。母と共に「意外といけるねえ。」「美味しいねえ。」「ビールもすすむ!」と楽しみながら食べた。ゆっくりと。それ以来、夕飯のメニューに迷ったり、野菜をたっぷり食べたい時は、「今日はもんじゃにしよう」という結果になる。2回目以降は、もう“もんじゃ焼きの素”を使わず作り方をマスターした母流のもんじゃが登場する。オーソドックスなものに、チーズを入れたりシーフードを入れたりする。さきいかを細く細く裂いて入れても美味しい。やはり、母との時間が楽しいと想えるのは幸せな事だと感じる。常に、私が生きているという事で母が辛い想いをしているのを忘れてはいけないと言い聞かせている。「病気を治す努力・・・そういう類の努力はないよ」とは主治医の言葉である。病気とは、治すものではなく、治るものだと仰っていて私もそう考える。だが、他の部分で出来る“努力”はある。必要以上に酷く自分を責め苛まない事や自分で自分を傷つけない事。また、楽しみや喜びを見つける事など様々にある。自分の中の硬い殻に閉じ篭るだけでは、病症は今のまま動かない。春の新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んで分厚いコートを着込んだままのこころを少し軽くしたい。
2008.04.15
「つらい」そう言って私の部屋に入ってきた母は、涙目だった。母との食事を終え、私は過食と嘔吐をして暫くたった頃だった。身体が怠かったので、読書をしていた。そこに、瞳を赤くした母が入ってきて傍に座った。突然、「辛い。辛いよ。」と繰り返すので何かあったのかと吃驚して何かあったのか訊いた。「違う。私の事じゃない。○○ちゃん(私の名)の事を考えたらね、辛いんよ。 だって、20代って一番楽しい時期やし、 色々遊べる花盛りやろう? なのに○○ちゃんは、ずっと家でこうして、病気で。 外にも出られない。それ考えたら、辛くて。」そう、母は言った。私は、胸が押し潰されそうだった。母が、私の事を考えて辛い想いをしているという事。その事実が物凄く私にとって哀しかった。母に、「今は病気やから仕方がないよ。それに、何にも興味が持てない。 遊ぶ事の何が楽しくて、嬉しいのかが、 今は分からない。それも、病気の症状だと想う。 だから、先生と話し合いを続けてるんよ。」と正直な気持ちを幾分柔らかく伝えた。けれども母は、「先生と話しても、何の進展もないじゃない。 全然、状態も変わらない。良くなってない。 ○○ちゃんが、この状態のまま終わると想うと、本当に辛いんよ。」と、涙声で訴えてくる。私はどんどん胸が苦しくなっているけれど、動揺を表に出さないようにして、「この病気はね、先生と話したり、お薬を飲んだりしただけで すぐ治るもんじゃないんだよ。 風邪だってそうやろ?お医者さんに症状を伝えて お薬を飲んでぱっと治るわけじゃない。 私の病気は、治るまでの期間が凄く長いんだよ。」ゆっくりと言った。確かに、傍にいる人の立場で考えると、日がな1日病症に苦しみ、眠っている時だけ幸せそうにしている状態の人間を見るというのは哀しく、辛いであろうと想う。それが、愛する娘であったら。でも私は、こうして生かしてくれているだけで母に感謝しているし、母と共に良い関係を築きつつあるという事実がとても嬉しい。本当に少しずつ少しずつ、動いてはいるのである。けれども母にとってはそれが余りにも微小なものだから、もどかしいのであろう。母の想いが、痛いほどに伝わってきて私は、母の為にも早く健康にならなければならないと考えた。けれども、それは焦燥感ばかりを生む。「やっぱり、生きているだけで母に負担をかけ、 辛さや苦しみを与えていたのか」そう想うと、自分が酷く憎々しくなった。何度も此処に記してきたが、病気が治るまでには、様々なプロセスを経る必要がある。こころの傷、苦しみ、痛み。それらの意味を考え、癒していく事を目指す。1人で考えていては殻に閉じ篭り、卑屈になってしまうので主治医との話し合いが重要である。現に私は、電話診察によって救われている。また、こころの問題とは目に見えないもので難しく、デリケートなものである。こころの傷に直接付ける事の出来る傷薬もない。だから、言葉や対話、相手との関係性や時間など様々な要素の中で癒されていくものだと考える。正直なところ、哀しかった。母が、涙を流すほど、溢れて零れんばかりに私を想うと辛さを感じている事が。母の笑顔が見たい。母と共に、また家族みんなで笑顔の溢れる毎日を送りたい。
2008.04.14
どんよりと、頭と目蓋が重い。相変わらず眩暈と怠さは続いていて、知覚過敏の症状は日増しに酷くなる。昨日、やっと晴れたと想ったら未明にはもう雨が降り始めた。主治医との電話診察を受診した際、メモをした紙を見直してみた。いつも、主治医と話し合いをすると、閉鎖した私の考え方に新しい風が吹き込んで少し、光が射す。そして、考え方の方向転換も出来る。今回は、「生きるのが苦しい意味を考えてみる」という所から始まった。すぐに、取っ掛かりが見えた。「こころを無視しているから苦しい」という事である。ずっとずっと、目前にある「生きている事に疲れた。」「もう、病気の症状が苦しい、辛い。うんざりだ。」・・・そういう事しか考えられなかった。そこから、発展しなかった。だから、前に進めないしその場で蹲ったままだし寧ろ、後退するばかりだったのだろう。意味を考えていたらキリがないけれど、先ず、どうして自分が苦しいのかを考えないと動けないのは事実である。“こころを無視している”とはどういう事か。余りにも漠然としているが、思い当たる節はある。小さい頃から自分の本当の気持ちを押し殺して生きてきた癖は直っていない。そして子どもの頃から天邪鬼である私。大人の顔色を窺い、どのような選択をしたら怒られないで済むか、打擲されないで済むか、喜ばれるか。そればかりを考えていた。いつしかそれが当たり前となって、“素直な気持ち” “自分に正直な気持ち”というものに、鈍感になっていった。長年かけてこのような状態になったのだからいきなり「こころを無視しない」というのは難しいかもしれない。けれども、私には身近にお手本となる人物がいる。それは、愛する姪っ子である。少々我侭でお行儀が悪い所もあるけれど、彼女はいつも自分のこころに正直で大人の顔色を窺わない、素直な子どもである。こころは純粋であり、天真爛漫で輝いている。何も、子どもっぽい事を真似るのではない。彼女の“素直さ” “純粋さ”を見習いたい。私に欠けているところを、姪っ子は沢山持っているのだから。身体が余りにも怠いので無理が出来ない。それは、良い事なのかも知れない。だが、こういう自分を情けなく感じて普通にならねばならないと強迫的になり足掻いている事は否めないが。ぐっすり眠れなくて、夢ばかり見るが、荒唐無稽で滑稽なものが多くなり面白いから、悪夢でなければ良いと少し気楽に考えられるようにはなった。もう少し、こころと身体が楽になったらそろそろ美容室に予約を入れよう。
2008.04.13
息が苦しい。手が痺れる。身体を動かすと、その振動が頭に響く。過呼吸一歩手前の症状と知覚過敏の症状が一度に出てきた。精神的に、大分参っている。眠りが浅いから、夢ばかり見る。夢の中の私は何故か物凄く行動的である。ハリウッドのアクション女優みたいに。大切な家族を守る為、襲ってくる敵達をばったばったと薙ぎ倒し胸倉を掴み階段から突き落とし、私はその20段くらいある階段から飛んで突き落としたアンドロイドに向かって膝から落ち、完璧にやっつけるといった暴力的な色合いが強いものをよく見る。現実の世界では内向的なのに、夢の世界の私は、物凄くアクティヴである。背景には必ず、いつも何故か「家族を守る為」といった大義名分にもとっている。けれども、もう疲れてしまった。「何もかも、全て疲れてしまってうんざりしている。」金曜日の電話診察の際に、真っ先にそう、主治医に告げた。よく考えてみたら、妹の結婚式に出席する事への緊張だけではない。それに、主治医が気付き、思い当たる事はないかと私に尋ねた。一番に想い付いたのは、“弟と同い年の親戚の子が、アパレル関係の会社に 就職する為、関東へ行った事”である。彼女は、とある有名ブランドの本社に就職した。20代から30代の女性なら誰でも知っているブランドの会社である。しかも、服飾専門学校に通っている間に彼女は高校で『家庭科』の教師になれる資格も取得している。本当にこころの底から羨ましい。彼女が、飛躍した事。けれども私は相変わらず、同じ場所で同じ病気と同じ苦しみで燻っている。「私はなんて情けないんだろう。」また、同じ想いが浮かんでくる。そういう自分にもうんざりする。そして、現実感が薄れ、解離する。弱音を吐いていると限りがない。でも、現実の世界には、主治医とのホットラインである電話以外どこにも弱音を吐ける場所がない。母の前で「辛い」「哀しい」「苦しい」「生きているのがしんどい」等と言ってしまったら、余計な負担をかけるだけで、母までもが参ってしまう。そして迷惑もかけてしまう。だから私はこのブログという場所で少しだけ正直になって弱音を言う。愚痴を零す。いつか、読み返した時恥ずかしくなるかも知れないが、今の私は、本当に生きる事全般が苦しく辛くてうんざりしている。もう涙さえ出ないほどに。闇に飲み込まれたら、このような状態になるのだと改めて判った気がする。無理をして生きる努力をしなくても良いかも知れない。けれども、生きていて心地好いと想える“何か”を探す努力はするべきだと考える。例えば、花屋さんで植え込みに植えたい花を探し、それを育てるとか、古本屋まで行ける体力を付けて大好きな本を安価で沢山買ってみるとか。過食の食費に使うより、本に費やす方が有意義である。正直なところ、定価で本を買うのは勿体無いと想ってしまうのである。また、やる事はこれからまだまだある。美容室へ行くのを楽しみにしてみるのはどうだろう。髪色が変わったり、スパイラルパーマがかかった髪型はお気に入りなので元気が出るかも知れない。結婚式に参加する為の洋服も、ワンピースと決めている。姪っ子と一緒に過ごすためには動きやすい格好が良い。考え方を方向転換すれば、苦しい事も楽しみに変わる可能性も捨てきれない。難しいが。しかし、解離の症状が頻繁に出てくるのでもう少し心身を休めたい。
2008.04.12
久し振りに雨が止み、植え込みの桃の木は、活き活きしていた。花弁は散ってしまったけれど、その代わり、青々とした葉っぱがみずみずしい葉が上へ上へと広がっていた。去年の春は、油断していてその綺麗な葉は毛虫に食べられてしまった。余りにも悔しかったので私はその毛虫を枯れ枝に乗せ、道路を隔てた所にある草ぼうぼうの空き地に放った。その草を食べて、毛虫は生き続けただろう。葉が無くなってしまった桃の枝は、細く、とても哀しげだった。今年は、気を付けてケアしたい。姪っ子が通う幼稚園は、妹一家が住んでいる家からは少し遠い所にある。園バスに乗るほど遠い場所ではないので、妹が車で送り迎えするようである。これから妹は、朝早く起きて旦那さんの為にお弁当を作り、車で会社に送る。そして戻ったら姪っ子に幼稚園へ行く支度をさせて幼稚園へ送る。その後、妹はバイトに出掛ける。仕事が終わったら、子どもを幼稚園へ迎えに行って夕飯の買い物をして、夕飯を作る。旦那さんの仕事が終わるのは22時を過ぎる事が多いが会社へ迎えに行き、そしてやっと休めるであろう。私には到底、こなせないスケジュール。妹は、結婚式を控えているから精神的にもいっぱいいっぱいだと想う。それでも、毎日の生活を成り立たせる為に必死で頑張っている。幸せな家庭を築きたいと願っている事がひしひしと感じられる。妹は余り身体が強い方ではない上に去年、大切な人を喪ったばかりである。だから、「そんなに頑張り過ぎないで、無理をしないで」と言いたいけれど、弱音を吐かない子なので心配ばかりが募る。それに引き換え私は1日中、病気の身体を抱えて暴発寸前である。幸せを追い求める気力すらない。否、幸せとは何なのかさえ分からない。だが、妹の事を想うと、自分の存在が恥ずかしくなる。生きている意味ばかり考えているが、それは無意味かも知れない。行き着くところは結局、「私は周囲に迷惑ばかりかけている。だから生きていては駄目だ」「私が生きている事で、周囲が傷つく。生きていてはいけない」「母や主治医、カウンセラーが見放してくれたら きっと私は消えられるんだろう。 けれども私は見放される事を恐れているという 情けない人間だ」そういった類の戯言である。自分を責めても、何も発展的な事が無ければ何も始まらない事も分かっている。また、私が突然消えてしまったら、母が生きていけなくなり家族に深い傷を残してしまう。“生きていくしかない”覚悟を決めて。風に乗って漂ってきた甘い香の正体は、花の香りだった。花屋さんにある、沢山ある花々の中の何かの花の香り。一番、目を引いたのはシャクナゲの花だった。美しい東雲色・・・それに白を混ぜたような花が集まり大きなぼんぼり状になっていた。母と、ゆっくり眺めた時間が、少し嬉しかった。喜びは、其処彼処にちりばめられている。でも今の私にはそれを掬い上げられる感覚が鈍っている。いつか晴れたら、春の暖かい光を浴びて、少し気分転換を図りたい。
2008.04.11
雨降る日は、身体が怠い。眠いのに何故か何度も断眠する。なのに、起きねばならない時間になると身体は重くなり動かなくなる。そんな自分が情けない。生きる事の辛さとか苦しさを考え始めると果てがない。また、それを言葉で表現しようとするとどこかで使い古されたような何となくピントが外れた単語しか思い浮かばない。摂食障害。罹患している人によって症状は様々である。その中の1つの症状である過食と嘔吐。物凄い量を食べて、吐くという病症は共通している。しかし、その時に感じている想いは千差万別である。だから、私は私なりの言葉で自分の想いを綴りたいけれど、何故か陳腐な言葉しか浮かんでこない。または、どこかで読んだり見たりした言葉。そして私は私でないような感覚に陥る。だが、バイポーラの症状は未だに自分でも掴めない。今はまだ、この病症に振り回されている。日によって、気分が良く調子もそこそこでテンションが上がっていたり、そういうのがまるで嘘のように固まった表情のまま只管膝を抱えて俯いたままで、テンションが下がっていたりする。その乱高下に身体もこころも消耗していく。比較的気分が楽である日は、母や周りの人々に感謝して過ごせるし必要以上に自分を責める事もない。だが調子が悪いと、「何もかも私が悪い。」「私なんか生きていてはいけない。」「私が生きていたらろくな事はない。」そういった感情がこころの中で膨らんでいき自分を傷つけたくなる。自傷は、今の所しないで済んでいるけれど、PMSの時期になると自分に対する苛立ちの沸点が低くなるのか、すぐにカッとして己を傷つける。そうする事で、苛立って頭に上った血がすうっと下りていく感じさえする。そして、そんな汚い己を憎む。自己嫌悪などという生易しいものでなく、悪寒が走るほど自分が大嫌いだと感じる。「自分を愛せない人に、人から愛してもらおうなんて 虫がいいにも程がある」という主治医の言葉が、胸に突き刺さっている。けれど、どうしても自分を好きにはなれない。生きていても良いと、自分を肯定できない。今日、姪っ子の入園式だった。病気を患っていても元気な頃の私なら、喜び勇んで、しかも自転車で幼稚園まで駆けつけただろう。今は、無理である。雨が降っていたので、母が妹と姪っ子を幼稚園まで車で送った。姪っ子の要望で、髪型は母が編んだおさげだった。妹は、みつあみが苦手らしい。母の携帯で撮った姪っ子の写メを見た。いつもなら、変な顔をしたり、ポーズを決めていたりするのに、かしこまって写っていて、それがまた可愛らしかった。本当に、愛おしい存在である。こうして嬉しい事があると、少し私の気分は持ち直す。だが、テンションを上げてはならない。その調節が、上手くいかないから苦しいのだろう。バイポーラ。なんて捉え所のない難しい病気だろう。低空飛行で良いから、穏やかに過ごしたい。先日購入した本は、既に読んでしまったので、また本棚をあさって大学生の頃に購入した本を読み返している。読書をしている時は、落ち着いているかもしれない。そういった、落ち着いてゆったりしている時間を大切にしたいものである。
2008.04.10
春の太陽は、柔らかさの中に全ての生物に力を与えるような強さを持っている。私には余りにも眩し過ぎるから、今日みたいに1日中雨が降っていると何故か落ち着いた。植え込みにある桃の木も、雨水を飲んでいるのだろう。昨日、怪我をした膝。まるで小学生の足みたいだと想った。小さい頃から走り回る事が好きで、勿論高いところから飛び降りるのも好きで、良く転び、膝が傷だらけだった。幼稚園くらいの頃は、まだ“あかちん”なるものがあった。消毒液なのだが、毒々しい赤色をしていて、傷口は真っ赤に染まるのである。昔の写真を見ても、何枚か膝頭が赤く染まっているものがある。確か、その赤い消毒液は余り身体に良くないとの事で、いつからか見かけなくなった。懐かしい。シャワーを浴びている時、とても傷口が沁みた。この痛みもまた、懐かしいと感じた。子どもの頃は兎に角怪我ばかりしていたので、お風呂に入る時は本当に辛かったのを憶えている。バスタブに入る際は、傷口に水をかけながらゆっくりとお湯に浸していくという技を使っていた。結局お湯に入ってしまうと痛いのだが、水をかけながら入る事によって、少しは痛みが和らいでいたような気がした。大人になった今は、この膝の痛みが懐かしく、普通に熱いシャワーを傷口にかけて洗った。痛みが懐かしいって何だかおかしいけれど、御転婆だと言われていた少女時代には少なからず、健康的な部分も残っていたのだと改めて気付いた。桜を見た昨日の感動が、もう薄れている。無論、「綺麗で美しかったな」「花びらが風に乗って舞うのも趣深いんだろうな」という想いはある。しかし、今はあの時まるで分厚い硝子越しに見たような、そんな現実味のない印象となってしまっている。考えてみれば、全てにおいて現実感がない。目に見えるもの、感じるものに薄い膜が張っていて、そしてやはり硝子越しという感じがする。唯一、“痛み”だけはつぶさに感じ取れる。怪我をした、膝頭。膝を曲げたり伸ばしたりする時の痛み。それを感じて漸く“生きているような感じ”がする。後は全て、TVでも観ているような別世界にいる感覚がある。これは多分、現実から逃避したいための一種の解離状態に陥っているのかも知れない。かなり、疲れている。何も生産もしないでただ、同じ毎日を過ごしているだけなのに。同じ毎日を辿る。○時になったら~~をして、○時までには~~をしなければならないと何故かいつも焦っている。そうして自分なりの規則を決めていないと、どんどん堕落してしまうようで怖い。堕ちて、堕ちて、堕ちていくというそこはかとない恐怖感がこころを縛っている。私は何をすべきなのか。今は、妹の結婚式に向けて美容室に予約を入れたり、式のための洋服を買いに行ったりする事が先決であるのは分かっている。けれども身体が動かない。こころが、動く事を拒絶する。もう少し、気楽に生きられたら笑顔を湛えて生きられたら、少しは現状が変わるかも知れない。先ずは、面白い事を見つけて沢山笑うという習慣を身につけたい。
2008.04.09
母と買い物をしている途中、何故か桜の話題になった。仕事の際、通る道には桜並木があるらしくもう満開に咲き誇っている事を聞くと、見てみたくなった。そして、買い物帰り、足を延ばして見に行こうということになった。夜だったので、桜並木は余り見えなかったが公園の裏山に咲き誇る大きな桜は堪能できた。私は携帯のカメラで撮ろうと、岩場をよじ登り、桜の花に近付き撮影したり、近くで花をじっくり見たりした。今年初めて見た桜。そして私を想って連れてきてくれた母。少しテンションが上がったのか、ホクホク嬉しくなって、さあ帰ろうと2m位の岩場から下りようとした時、私はバランスを崩した。ゆっくり落ち着いて下りれば良かったのに、こころが浮き足立っている私は、ぽんと飛び降りるように地面に落ちた。あまり外出をしない私の筋力は勿論弱っている。上手く着地できず、ぽてっと地面に転がった。更に運が悪い事に、膝の部分が破けているジーンズを穿いていた上、そこで身体を支えてしまった。「痛い!」と想ったときには時既に遅く、擦り傷と共に血が出ていた。母は車の中からその様子を見ていて、私が車に戻ったら、大笑いしていた。「ゆっくり下りればいいのに、急に飛び降りるんだもん。 その上、着地したと想ったら ポテって転ぶし。あーおかしかった」私も照れくさくて一緒に笑った。痛みには慣れているので、「いやあ、小学生の頃だったら、あれ位の高さなら 簡単に飛び降りられたのになあ。 筋力が弱ってるんやねえ。でも自分でも吃驚したわ。 一瞬、何が起こったか分からんかった」家に帰り着いて消毒したら、案の定傷口に沁みた。ちょっと皮膚がはがれた程度のかすり傷だったが、今は少しじんじんと痛む。でも、母と共に綺麗な桜を見られたことが何よりも嬉しかったので、こんな怪我は何とも想わないし、逆に面白い出来事として印象に残った。もう、何も考えたくない。現在、自分と向かい合う時間がたっぷりある為、私は毎日自分のこころを見つめている。そして病気になって一番真剣に“摂食障害”そしてその他の病について考えている。振り返れば、こんなにも自分と向き合う時間はなかった。高校生の頃は、大学入学を目指して必死に勉強をしていた。毎晩、過食と嘔吐を繰り返しながらも精神科に通うまでは、誰にも自分が抱えている悩みを話さなかった。大学に入学してからは、卒業する為に必死だった。大学3回生になる直前、大失恋をして自殺未遂に至った。2回生の頃から今のカウンセラーと出会い、週に1度カウンセリングを受けていたが、今のように自分が抱えている問題とそれほど向き合えていなかった。そして段々家庭環境も悪くなり、私の居場所もなくなった。そして祖父が脳出血で倒れ、認知症になった。退院するまで数ヶ月、祖父の病室へ行った。大学卒業を目前にして、卒業の単位は全て取得した後、私はお薬を服用しすぎて昏睡状態に陥り、入院した。卒業後、半年ほど派遣で働いた。周囲に起こる事が大き過ぎて、自分を見失いかけていた。だから、高校生から大学卒業後半年まで自分と向き合わず、ずっと「もう、病気の症状が苦しい。死ぬ事でしか解決されない。」としか考えられず、自分の本当の想いが分からなかった。全て、“病気の所為”にして何もかもを投げ出そうとしていた。転機は、母と2人で暮らすようになった頃である。母が、私の病気に理解を示してくれるようになった。母が、進んで主治医の話を聴いてくれるようになった。そして、私はゆっくりと家で静養する事が何よりも大切だと分かってくれて今に至っている。こうして、静養できる事は本当にありがたいが、同時に申し訳ない気持ちもある。“大学を卒業したのに働いていない自分”を持て余している。しかし、こうして自分と向き合う時間ができた事こそ病気が治るチャンスなのかもしれない。そう、信じたい。問題なのは、“自分のこころ、病気と向き合う事は、苦しい”という事である。だが、これも病気が治るプロセスには必要なものである。苦しく辛いものであり、また、自分の醜い部分が露呈して己を憎々しく感じるけれど、いつかは乗り越えられるだろう。否、乗り越える必要はないのかもしれない。上手く付き合っていく事だって出来る。難しく考えるのが、私の悪い癖。少し、頭を柔らかくしたい。相変わらず抑うつ感は酷いけれど、母と共に大笑いした事で、少しこころが軽くなった。高い所から飛び降りるなんて、私も無茶したものである。そういう所で、自分の不器用さとか、臨機応変が出来ない部分が見受けられる。まあ、笑って済ませられる程度の怪我で良かった。桜も見られた事だし、この春、やらねばならない事を全て終わらせた気分に何故かなっている。疲れたので取り敢えずゆっくり休もう。
2008.04.08
自分の中には、いつも相反した想いを抱く私が居る。特に朝、服薬後「このまま眠りたい」と願う自分と「起きて本でも読みながら何か食べたい」とおぼろげに想う自分が存在する。心身は疲れているのだから、本当はお蒲団に身体を沈めて眠りたい。けれども、私はおもむろに起き上がり、自室へ入って読書を始める事の方が圧倒的に多い。私の中では、もう「何か食べたら全て吐かねばならない」という考えが定着して久しい。常に胃が空っぽの状態でなければ、気分が悪い。美味しいものを食べて「お腹がいっぱいで幸せだな」と感じていたのは小学生までの事で今はもう、その感覚を想い出せない。お腹がいっぱいになると、不快感が襲ってきて「早くこの身体から全てを出したい。 そうしなければ太ってしまう」という恐怖にも似た想いばかりになる。食べる事を避けるために、私は煙草を吸い始めた。24歳になって、初めて煙草を吸った。最初は、葉巻に対して興味を持ち、専門店で安い葉巻を色々試していたが、そのうち、フレーバー煙草たるものを試して、結局、ラッキーストライクやマルボロといった普通の煙草に落ち着いた。煙草を吸うと、食欲が失せる。意識も少しぼんやりとしてまた、時間も潰せる。身体に物凄く悪いという事は十二分に承知しているが止める気はない。先日購入した本を、1冊読み終わってしまった。久し振りに、ハードカバーの作品を買った。貴志祐介の『狐火の家』である。この作家さんの作品は大好きなのでじっくり読もうと想っていたが、長編ものではなかったのでいつもかける時間の半分くらいで読み終わり少し残念だった。文庫本を選ぶ際、先ず作家さんの名前を優先するが、その次は“本の厚さ”である。長く長くその作品を楽しみたいので、上・中・下巻に分かれているものだとなお嬉しい。ただ、私は何故か時代物だけは読めない。宮部みゆきの本は大体持っているけれど、時代物は1冊も持っていない。本当は、好き嫌いなく本が読めたらもっと自分のこころの幅が広がるだろうと考えるけれど、どうも受け付けないのである。不思議だと感じる。4月7日は、大学時代からの親友の誕生日である。卒業してからもう何年も会っていない。飛行機だと、その県まで直通便がある。時間も私にはたっぷりあるけれど、病気を抱えていると身体が動かない。彼女と、一晩中色々話しながら飲み明かしたいといつもいつも想う。いつか、叶うと良いなと願う。゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★K、お誕生日おめでとう。いつか絶対、一緒にお酒を飲みながら色々語り合おうね。゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★
2008.04.07
外の空気は心地好い。特に朝、外に出て深呼吸するだけでまるでこころが洗われるような感じがする。夜は、また空気のにおいが違う。それもまた、心地好い。気候に少しずつ変化がある事で、私のこころが悲鳴を上げている。歪が酷くなっている感じがする。スーパーですれ違う人々は軽装になり表情も明るい。私の内側はまだ、真冬のように寒い。適応しようとするのか、身体やこころが、軋む。焦燥感がむくむくと膨らんで私は成す術もない。そして、時々本当に叫びたくなる。「もう厭だ。何もかも、もう厭だ」それはまるでむずかる幼児のようで、聞き分けのない人格がそこにある。母も私も、疲れている。もうすぐ共倒れしてしまうかもしれない。そんな危惧がある。思い起こせば、母は春になると毎年過呼吸の発作を起こしていた。それは、この時期仕事先の変更があり環境も変わるから、それに適応しようと母はいつも以上に頑張ってしまうからであろう。けれども、そんな母に私は何も出来ないどころか迷惑をかけたり負担になったりしている。そんな不甲斐ない自分を想うと、消えてしまいたくなるほど、羞恥心でいっぱいになる。母は緊張しているらしく、肩や背中が凝っているみたいなので、今日は肩揉みをしようと考えている。母の肩はがちがちに凝っていた。少し手に力を加えただけで、「いたたたた。でも気持ちいい・・・」といった具合だった。触っただけで、どこが凝っているのかが分かるほどで、知らず知らずの内に姿勢が悪くなっている事や激務の為である事が胸に沁みた。こんなにも、母は身体を酷使しているのかと・・・。血行が良くなるように、血流を考えて揉み解していく。最初は指が入らないほど張っていたけれど、徐々に柔らかくなっていった。肩甲骨の部分をぐっぐっと押してそして首の回りは優しく触る程度に揉んで、母の「ありがとう。もういいよ」という言葉で肩揉みを終えた。「あー、すっごいすっきりした。 こめかみの辺りも痛かったんやけど、 もう全然痛くないわ。 目もね、すっきりした。ぱーって抜けた感じ。 本当、ありがとう!」感謝される事が、くすぐったかったが、喜んでもらえてとても嬉しかった。私にも、何かが出来たという事実が、温かく、こころに留まった。うつ状態は相変わらず続いている。主治医が指摘した通り、妹の結婚式が決まった時点からずっと。妹の幸せな日を祝い、喜ぶ気持ちは強いのに、やはり緊張感が強く、それを想うと身体が動かなくなる。そして、少しずつ変わっていく空の色や空気のにおい。冬は終わってしまって、春という新しい季節でいつまでも動けない私を急かすような、そんな感じがする。叫びだしたくなったり、奈落の底に落ちたような落胆を感じたりと、精神は安定しない。夢の中には久し振りにカウンセラーが出てきて私はカウンセリングを受けていた。少々、想いを内に溜め過ぎている。火曜日、診察を受診する際は自分の正直な気持ちを自分なりの言葉で話したい。
2008.04.06
ふと桃の木を見たら、もう、2~3枚花弁が落ちていた。少し、物悲しくなった。遅咲きだったものは、まだ立派に咲き誇っているけれど、こうして花が咲きやがて散っていくのを見る度時間の経過を感じる。そして、私は全く成長が無いという事を強く突きつけられる。諦めてしまったのだろうか。自分でも分からなくなる瞬間がある。「生きていきたいのか、死んでしまいたいのか」一度その観念にこころ奪われると私はそこで停止する。動けなくなる。私が初めて“人の死”を見たのは小学2年生だった。父方の祖父が、癌で亡くなったのである。勿論その頃は入院している理由や死因は聞かされていなかった。父から「夜中、息する所に繋いでたチューブに 痰が詰まって息が出来なくなって死んだ」そう聞かされた覚えがある。今から考えれば、それは医療事故であり有り得ないと分かるが7歳の私はそれで納得した。命をなくした祖父が、ベッドに横たわっていた。目が、少し開いていたのを覚えている。だから、まだ生き返るのではないかと感じた。呼びかけたら、こちらを向いて私の名前を呼び笑いかけてくれる気さえした。そっと、腕を触ったり胸の辺りを触ったが祖父は微動だにしなかった。そしてやっと、「おじいちゃんは、死んだんだ」という事が判ったような気がする。その後は大人達が淡々と通夜、お葬式を進め祖父の身体を荼毘に付した。骨になった祖父。私は長い箸を不器用に使って骨壷に入れる作業を行なった事も鮮明に覚えている。それから暫く、「死ぬってどういう事なんだろう」という事を毎日考えていた。再び“死”について考え始めたのは、母が手首を切っているのを見てしまった時である。ショックだったという一言では言い尽くせないくらい衝撃的で、未だにその憧憬が脳裏に焼きついている。10歳か11歳くらいの事だったから、手首を切ったら死んでしまうというドラマで観た知識しかなかった。だから、母が死のうとしたのだと私は考えそして途方に暮れた。その頃から、母は父や父の兄弟夫婦連中からのモラルハラスメントに関して我慢の限界に達していたようで、でも、全て自分が悪いと想っていたと私が大人になってから母は言った。だから、手首を切ったのだと。でも子どもの頃の私は「お母さんが私達兄弟をおいて死んでしまう」という事しか考えられず、「それならば私もお母さんと一緒に死のう」と想い付いて、自殺の方法を考えた。毎日、毎日。そして私の寝床にはいつも首を吊るためのロープを忍ばせる日々が続いた。人は、簡単に死ぬ事はできない。オーバードーズという言葉を知らずに向精神薬を大量に飲んで死のうと想った時も、毎日深く手首を切り続けていた時も、死にはしなかった。死ぬつもりなどなくて、お薬を多めに服用して昏睡状態に陥り、生死の境を彷徨った事もあるが、それでも生きている。きっと、生かされているのであろう。その、4年前の昏睡状態に陥った後から私と母との関係が少しずつ良いものへと変わっていった。少し、生き易くなった。あらゆる病気の苦しみは変わらないけれど、生きていけるのは、そしてこうして生きていられるのは偏に母のお陰である。抑うつ感に支配されると、もう全てを放擲してしまいたいとしか考えられなくなる。また、自分という存在を憎み消し去ってしまいと想うが、母が存在しているから踏み止まる。生きていく事。辛いけれど、受け容れねばならない。雑草を抜いた植え込みは、さっぱりと綺麗になったが、徐々に罪悪感が湧いてきている。雑草にだって生命があった。私はそれをいとも簡単に奪った。この、両手で。花が咲いているものもあった。それを、私は殺してしまった。食べ物に関しては、それこそ命あったものであり自分の身体に吸収させる事でその食べ物となった命も報われるのかもしれないが私は食べ物を受け付けられずたとえ食べても吐いてしまう。太る事が、何よりも怖いからである。怖いという観念は、言葉で全てを言い表せない。しかし、植物に関しては、私の手で、私の目の前でその命がなくなった。だから塞ぎこんだ。自分こそ死に値する人間なのに、そんな人間が健気に生きる草花の生命を容易く奪ってしまったことが赦せない。だが、雑草を放置していたら大家が厭味を言ってくる。手紙で、“雑草だらけだから除草剤を撒いた。 きちんと管理をしなければ困る”というような内容のものもあった。うつ状態である今は、何もしないほうが得策なのかも知れない。全て、悪い方向へ、そして自分を責める思考へと考えは変換してしまうから。悪夢ばかり見るのもその所為かもしれない。落ち着いて過ごせたらと、ふと想った。
2008.04.05
早朝、満開に咲いた桃の花を眺めていた。すると、雑草が目に付いた。取り敢えず、桃の木の周りにある雑草だけ抜こうと想いざくざくと作業をしているとふんわり土の匂いが漂ってきた。それは何とも言えないほど懐かしいにおいだった。興に乗った私は、桃の木の周りだけでは飽き足らず水仙の周りや他の花の周りの雑草もバツバツと抜いていった。余りにもするっと抜けるので手が汚れるのも気にせず両手で様々な種類の雑草を根こそぎやっつけた。段々疲れてきたけれど、一度やり始めたら納得いくまで止められないのが強迫観念のなせる業だろう。しかし、適当なところで切り上げた。「残りは次にすれば良いんだ」と強く言い聞かせねばならなかったが。土のにおいは、小学生の頃の私を呼び起こした。あの頃は、厭々やっていたけれど土の香りは厭じゃなかった。抜いても抜いても雑草は広い範囲に蔓延っているので無くならなかったけれど、苦痛ではなかった。草の青い香りや土の湿った香りがこころを落ち着かせていた。丁度その頃、家では父母の仲が険悪だったのでその香りにこころが癒されたのだと想う。目の前で、私という人間を作った人が怒鳴りあう・・・と言うよりも父が一方的に母を詰っていたのであるが・・・そんな姿を見るのは、苦痛であり哀しかった。ストレス性胃炎を患うほどに。苦い想いでもあるけれど、「土いじりも悪くないな。 雑草を全て抜いて土をならしたら、 花屋で綺麗な花の苗を買って何か植えよう」と少し前向きな事を考えられた。これは、昨今に見られないほどポジティヴな考えである。4月4日。私が住む地域では、節句である。雛祭り。なので、個人企業や医院は休みである。だから電話診察も受診できなかった。本当は、「生きている事にうんざりしている。 もう、疲れた。」そう主治医に零したかったけれど、胸の内に留めておくしかない。ただ、主治医が貸して下さった本が手元にある。『心と身体をつなぐトラウマ・セラピー』というタイトルである。摂食障害に関する著述はないけれど、私のこころの傷について、またそれを癒す参考にはなると主治医は仰っていた。ただ、この本を読む事によってフラッシュバックが起こるので、その時は本を閉じねばならない。自分の判断で。時間はたっぷりある。本を読むのは大好きだ。ブログを綴り終わったら、早速読もうと想う。こころの中には、沢山の想いがあり、此処に記したい事も勿論いっぱいあるけれど、それが負担となっていることを最近感じている。一時期、4000文字位綴っていた事があった。今は1000文字綴ると疲れてしまう。自分がバイポーラである事を忘れてはならない。無理をしてテンションを上げたら、下がっていく時に物凄く辛いのだから。しかし、私はそろそろ妹の結婚式のために美容室へ行ったり、洋服を買いに行ったりしなければならない。その為には、かなり無理をする事になる。だから、次の日はゆったり休める状態にする必要がある。病気と上手く折り合いをつけながら毎日をこなしたいものである。
2008.04.04
一言で言えば、私は私自身にうんざりしている。勿論、この“うんざり”の中には沢山の意味や想いが含まれている。生きていく事への想いやこの毎日について等・・・。私自身に辟易していて疲れていてもう停止したいと考える時もある。しかし、時の流れが止まらないように私はこうして生きている。母といる時だけは、このような事は考えていない。母と過ごせる時間を大切にして存分に楽しめる方法を考える。今日はどんな1日だったかを聞いたり、ニュースを観ながら世の中を憂えたりする。そこには感情を“共有”する時間があり私は孤独ではないと感じられる。だから、「生きる事とは・・・」と考える暇もない。問題は、孤独な時間である。母が仕事に言っている間や母が眠ってしまった後の時間。自分の内側との対話が始まる。内側の私は、傷ついた過去の事を持ち出してきたり生きる事の苦しみ、辛さ、哀しみ、寂しさを前面に押し出してきたりする。そしてそんな自分に“うんざり”するのである。生きる事に対しても。毎日、同じ事を繰り返しているからだろう。しかしこれもまた、自分自身が変化を恐れて同じように過ごしているからである。いつも本の同じページを読んでいるようで何度も同じシーンを読んでいるから、内容は分かっていて面白さもなくなっているのに先には進めないのである。つまらなくても、同じ所を目で追い続ける。即ち、自らが“うんざり”の世界に留まっているのである。そろそろ、頁を繰りたい。次のシーンを読みたい。そう、想っているけれど少し怖い。同じ事を繰り返す安心感はあれども、“うんざり”は生きる気力を失くすのだとつくづく感じている。また、疲れてしまう。言わずもがな、毎日小さな変化はある。比較的沢山笑えた日があれば哀しくて涙を流す日もある。全く同じ事を繰り返している訳ではない。けれども、頁を繰ればそこにはまた違う展開が待っているかも知れない。偶然という名の風が、この頁をはらりと捲ってくれるのを今は待とう。自分の力で動く気力は、まだ無いから。
2008.04.03
爽やかな朝の空気も最早私にとってこころをちくちくと刺すような痛みを誘う。ただ、早朝にぼんやりとTVを眺めているとき、鶯の鳴き声が聞こえると、少し落ち着く。最近、上手に啼けるようになってきている。ひとりになると、鬱々とした気分が覆い被さってくる。払い除ける事など出来ない。私にはもう、そんな気力など無い。母といる時は、普通にしている。意識して少しテンションを上げて笑いながらお喋りしたりおバカな事を言って笑わせたりと「生きている事なんてなんでもないよ。 死にたいなんて想ってないよ」という振りをしている。実際、そういう振りをしている時は“死”について考えてはいない。1人になった時、まとめて襲ってくる。傲慢すぎるんだろう。生かされる事に感謝できていないんだろう。そう想うけれど、実際こんなにまで生きるのが苦痛になるとは考えもしなかった。生きていると、大好きな母に迷惑をかけるばかりだが母は私が生きる事を望んでいる。私は迷惑をかけたくない気持ちでいっぱいで、早く病気が治る事を願うけれどこればかりはどんなに焦っても頑張っても努力しても一朝一夕には治るものではない。だが、治るまでは迷惑をかけ続ける。こころの中で、葛藤が生じる。母や主治医は私を肯定するけれど、私は自分を否定する。自らが生きる道をどんどん難しくしていっていると分かっているけれど、考えれば考えるほど袋小路に迷い込む。読書をしているときは、落ち着いている。今までは、ネットでブログを読む時間が楽しみだったけれど、“本”というフィクションの中に没入すると私は一旦私から離れられる気がする。だから、少し楽になれるのだろう。その時間をもっと大事にすれば、鬱々としたこの息苦しい泥沼から這い出る事が出来るかも知れない。私の希望は、姪っ子の存在である。あの子が、幼稚園の制服を着てどんどん大きく成長していく様子を見られる事こそ、私の幸せだと感じる。姪っ子が、「おねえちゃん」と私を慕い抱っこをせがむ時、「なんて愛おしいのだろう」「この子は輝いている」と感じる。辛く苦しい時、どうしても暗い事柄ばかりを見つめてしまう。光を、避けてしまう。余りにも眩しくて熱くて壊れてしまいそうになるからだろう。でも、姪っ子は優しい柔らかい光を放っていて、それは即ち希望でもある。生きたいと想い直せるのは、やはり周りの人々に支えられていると感じたときである。取り敢えず、ゆっくり休みたい。
2008.04.02
卯月は始まった。春だという事を強く押し付けられる・・・そんな気持ちになる。こんなにも生きるという事が辛いと苦しいと感じるのは初めてかも知れない。何をしていても苦痛だと感じる。こうして生きている事全てに疲れきっていて私はアクションを起こせない。ならばじっとして休んでいれば良いのにそれすらも出来ないほど落ち着かない。ただただ、こころばかりが急いていて身体がそれに追いつかない感じである。「私なんかが生きていていいのか」という疑問ばかりが頭の中で渦巻いていて結局生きなきゃいけないから生きているだけである。主治医が仰るには「妹さんの結婚式が決まってから、うつが酷くなったね。 生きるという事に疲れている。」という事だった。それは半分当たっている気がする。確かに、晴れ晴れしい所に私などが<居る>という事に引け目を感じるし、人が沢山いる場所で何時間も座っているという事に危惧を覚えているのも事実である。でも、それだけではない。私は、私という人間にほとほと愛想が尽きたのである。「疲れた。」語彙が乏しい私の脳裏にはその言葉しか浮かばない。こころの支えは、母である。母と支え合いながら生きている現実を受け止め何とか生きている。きっと、私がいなくなってしまったら母も生きていけなくなってしまうだろう。母もまた、脆い人間であるから。それを、子どもの頃から感じていたから。足掻きながらも、もがきながらも私は“死”という甘い誘惑に惹かれつつ生きるしか術はない。何が楽しい事なのか、何が嬉しい事なのか、現在見失ってしまった。そんな中でも、桃の花が満開に咲いているのを見た時、胸の中に柔らかく優しい風が吹き、春が舞ったのを感じた。私のアンテナは物凄く鈍ってしまっているけれど今は仕方ないだろう。“疲れて”いるのだから。どうすれば疲れが取れるかなんて分からないが兎に角、母との時間を大切にしてやっていくしかないのだろう。そして、感謝の気持ちだけは、忘れないで。
2008.04.01
全30件 (30件中 1-30件目)
1

![]()
