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夕暮れ時、やっと涼しい風が吹く。昼間の蒸し暑さを想うと、夏の到来を感じる。暑い季節は、いつまでも好きになれない。雨が降れば、蛙の合唱が聞こえる。この土地に引っ越してきた頃より田んぼは減ってしまったけれど、水田で風にそよぐ青々とした稲やそこで啼く蛙たちが否応無しに季節を告げている。地面を叩く雨音と蛙たちの啼く声が耳に響くと何故か切なくなる。最近、物凄い不安感に襲われることが多い。それは、“何か取り返しのつかない事をしている”という感覚を伴ったものである。その“何か”とは“時間”だろうと気付いている。いつも祖父や祖母の傍に居たいと想うのに、身体が想うように動かなくてそれが出来ない。祖父が生きている時間は、明確なほどに少なくなってきているというのに、私は、その時間を共有できていない。そう。「祖父との時間を少しでも長く共有したい」とこころから望んでいるのに、それが出来ない自分が情けなく、悔しい。病気の症状が酷く出ているから困難であるという理由はあれども、病気の所為にしたくない。なのに、身体が動かない。アンビバレンスな状態に、疲れ始めている。今週の火曜日こそは、祖父の所へ行きたい。祖母にも、会いたい。祖母も時々、夜中に胸騒ぎがして目が覚めてしまうという。「おとうさんに何かあったのでは」その想いで、寝付けなくなると言っていた。祖父が入院している病院が、私が住んでいる所からとても遠い所となってしまったため、容易に行く事が出来なくなった。車や原付の運転免許書さえ取得していたら、こんな事で悩む事はなかったはずだと想うと、病気で動けなくなった自分が本当に恨めしい。全てが、億劫だと感じる。何もしたくない。ずっとずっと、眠っていたい。過食と嘔吐は、無理矢理している。食べるものを用意した時点で、もう気分が悪くて食べる気なんて失せているのに、何故か吐き気を再度催すまで食べ続ける。気分が悪くなる頃、また怠い気分になり、吐く事さえ億劫に想う。でも、太るという事が何よりも怖いから必死に自分を衝き動かして胃の中を空っぽにする努力をする。無駄な、努力を。もう、疲れてしまった。徒労感ばかりが襲ってくる。生きている事自体に、疲れた。ただ、それだけである。けれども、生きなければならない。こころの糸は、ピンと緊張しきっていていつ切れてしまうか分からない。ゆったりと過ごせる時間など無い。睡眠は、全てに疲れきり、お薬を服用する事によってやっと得られる。ほんの少しだけ。訳の分からない恐怖感と、これからもまた、共に過ごすのだろう。両手から溢れ、零れ落ちる取り返しのつかない何かに、痛みを感じながら。
2008.06.29
身体が、想うように動かない。時々、生きている事が物凄く苦痛な事だと感じる。祖父は、一生懸命生きようとしているのに。その祖父と、今という時間を一時でも長く共有したいと想うのに。なのに、私の身体は動かない。栄養不足だとか、うつ状態であるとか、様々に理由は付けられるのだろうが、悔しくて仕方がない。本当に情けない。祖母だって、80歳を超える高齢で祖父の入院している病院へ行ったりその合間に体操の先生をするために道場へ通ったりしなければならない。それは身体に、相当な負担となっているのではないだろうか。周りの人々は一生懸命動いているのに、私は1人、お蒲団の上で固まっているか、過食と嘔吐をしているか、お酒を飲んでいるか。そういった生活をしている。なんて情けないんだろう。しかし、お酒に頼らないとこの荒くれるこころを宥める事ができないし、食べたり吐いたりする事でしか何かを昇華させられない。此処の所、余りにも心身の調子が悪いので主治医の診察も受けられずにいる。電話を掛けられない。言語化できない想いばかりが澱のように、胸の中に溜まっている。倒れたばかりの祖父は、ずっと眠ってばかりだった。でも、転院してリハビリが進んでいる今、動く左手で様々な事ができている。以前は食事の最中でも眠ってしまっていたのに、現在はスプーンで自ら口に食べ物を運び、食事をしている。暑いのか、器用にボタンダウンのシャツのボタンを外す事も、もしかしたらリハビリになっているのかも知れない。指を動かすことは、脳に刺激を与えるから。しかし、時々オムツを脱ごうとしてしまうため、夜は手袋をさせられていると聞いた。行動が制限されている祖父を想うと、胸が疼く。祖父が入院している病院は、家から今までよりも遥かに遠い場所となるため、母の仕事が休みの日でないと行けなくなった。バスを乗り継ぎ、シャトルバスに乗れば行けない事は無いけれど、今の私はうつが酷く、それが出来ない。近所のスーパーへ行くだけで精一杯だというのだから、本当に情けない。そういう状態が続いているため、益々抑うつ感は酷くなり皆に責められているのではないかという被害妄想まで感じている。働いていないのだから、祖父に毎日会いにいくのは当たり前だろうという私が作り上げた想いと、それを適えられない自分と、周囲の目とが私の中で混同して結果、罪悪感ばかり覚える。実際、悪いのは私なのだからどうにかしたいと考えている。夜は少しこころが楽になって明日こそ外出できると想えるのに、朝を迎えると忽ち駄目になってしまう。最近は、見る夢も自分が死ぬものが多い。先日は、斧で殴られても死なず、相手にマシンガンで頭を滅茶苦茶に打ち抜かれた。殺される夢ばかり見る。話は逸れたが、夜は本当にこころが少し楽になって本が読めたり、録画していたドラマを観たりできるのに朝になると身体は動かないし、動けなくなる。うつ病。バイポーラ。病名ばかりが頭を駆け巡るけれど、そうした所でどうにかなる訳ではない。相変わらず、眠るのは怖い。先日述べた睡眠時間より、眠れなくなっている。処方されているお薬は、強いお薬以外、一応服用しているけれど、それでも3時間で目覚める。目が覚めたら過食して、嘔吐して、眠る。それ以外の時間は、発泡酒を飲んでいる。殆ど栄養を摂っていないので、物凄く身体が怠い。だから、うつ状態になるし身体も動かなくなることも分かっているけれど、そこに、“太る事への恐怖”が複雑に絡んでくる。この世から消えることは、赦されない。だから、生きねばならない。祖父が生きている限り、生きていたい。今は、その想いをもって生きている。
2008.06.28
時々、自分に問う。「私は誰なのか」名前はある。けれどもしっくりこないし、人と殆ど関わりあわなくなった現在、名前で呼ばれることも無くて一体自分は何者なのかが分からない。27年前に、母から産まれた事や、祖父母の初孫である事も事実として受け止められているけれど、アイデンティティというものが全くない私にとって、生きるということが、無意味だとか虚しいとかそういう風にしか感じられない。今まで、自分のために生きた事なんてなかったから、病気が治るよう静養していても、何か申し訳ないことをしているような気がしてならなくて罪悪感が次から次へと溢れてくる。何よりも問題なのは、己が、“私は生きていても良い”と認められない事なのかも知れない。「誰かの、何かの役に立ちたい」なんて烏滸がましい考えはやっと薄れつつあるけれど、生きている意味が全く見出せない、何の役にも立てない自分が生きているなんて、それこそ馬鹿馬鹿しいとさえ想ってしまう。大切な家族に迷惑をかけてまで生きている事が、私は哀しいし、そんな自分を赦せない。「病気なんだから仕方ないよ」と母は言ってくれるけれど、それでも、私が生きている事でやはり迷惑をかけているのは否めない。祖父を、想う。祖父を想うと、中々会いに行けない申し訳ない気持ちやいつも祖母が傍に居ないと不安になる祖父が1人、病室で過ごさねばならない時間がある事に胸が痛くなる。けれども、リハビリの成果が出ているのか、先日、言葉を喋る事ができなくなったはずの祖父がはっきりと自分の名前を言ったのである。妹が、それを聞いたと言っていた。それまで、ごにょごにょと何か呟いていたらしいが、突然、名を名乗ったらしい。前の病院に入院していた頃は、「ああ」「おお」としか発せられなかったが、今回はっきりと「○○です」と言ったと聞き、私は奇跡というものが本当に起こる事を涙を流しながら喜んだ。実際、食事は進んでするようになったし、暑いのか、来ているボタンダウンのシャツのボタンを利き手ではない左手で器用に外してしまうらしい。人間は、生きている間にその脳の数%しか使用しないという。今回、祖父が脳卒中の為、失ってしまった機能を補うように、眠っていた脳の機能が働き始めたのかもしれない。人間の身体、特に脳は未知の分野であると想う。「祖父に早く会いたい」この想いは何よりも強いけれど、今回の月経痛が余りにも酷かった事や、抑うつなどの症状も強く出ている事で外出もままならない。そんな自分が、本当にじれったいし、悔しい。祖父に、会いたい。私は、母の初めての子どもであり、祖父母にとっても初めての孫である。父方の家にしてみれば、何だか60年振り位に産まれた女の子だと物心つかない頃は可愛がられたらしいが、母は、その父方の親戚に苛められていた。「私は一体何者なんだろう。誰なんだろう」答えのない問いを、今日もまた無駄だと想いながらも私は只管、考え続ける。
2008.06.26
何もかもが 駄目な1日だった。 今回も月経痛は物凄く酷いもので 祖父の所へ行く機会も逃した。 今日も今日とて 心身の具合は最悪で、 まるで鉛が流し込まれたかのように 重く、怠く、動けないので また母に迷惑をかけてしまった。 生きている事自体、 悔しく、虚しく、申し訳なくて 私はただ、途方に暮れている。
2008.06.25
眠ること。それは、一時の現実逃避であり、また、恐怖を感じる時でもある。先日も述べたように、私は昏々と眠り続ける事が怖くなった。夢も見ないほど深く深く眠っている間に、祖父に何か起きたらどうしようという想いが恐怖に繋がるのである。だから私は、3時間ほどの睡眠を朝・昼・夜に分けて得ている。それはどれも、過食と嘔吐の疲れで眠っているだけである。ぐっすり眠っている訳ではないので夢ばかり見る。昨日は、拒食症で死ぬ夢を見た。身体は今以上に痩せ細り、頭髪や歯が抜け落ち、走ろうと想った途端に腰が抜け、骨折し、その場に倒れこみアスファルトの上で誰かの罵倒を聞きながら死んでいくというものだった。実際、14歳の頃少しの間だけ拒食症だった事がある。私の場合は、すぐに過食嘔吐へと症状は移行した。拒食症だった頃は、1日の殆どをミネラルウォーターだけで過ごし、食べ物は、パンを1口だけ齧る位だった。まだその頃、“摂食障害”に対する知識など無くて、自分がその時拒食状態だとも分かっていなかった。兎に角、食べる事はいけない事だと考えていて、食べなければ痩せるのだから良い事だと捉えていた。今回見た夢で、自分に問うた。「もっともっと痩せたいと想っているけれど、 そうやって痩せた先には、何があるのか。 夢で見たように、ただ命を縮めるだけではないのか」と。摂食障害・・・特に拒食や過食嘔吐は“緩慢なる自殺”とも称されている。確かに私はこの夢を見て只管に痩せる事だけを欲する無意味さを感じた。けれども、過食して嘔吐する行為や痩せている身体を維持する事で私は何かを訴えたいのかもしれないとも考えている。だが、その何かがまだ分からない。小さな頃から、沢山傷を負い過ぎて、また、その傷口を手当てする事などなかったから今になって漸く始めた手当てが私が死ぬまでに間に合うかなんて、分からない。閑話休題。毎晩、祖父を想う。いつしか感情が鈍磨してしまっていて此処の所泣いていなかったけれど、ふとしたきっかけでさっき、涙が溢れて止まらなくなっていた。様々な感情が綯い交ぜになって、こころの均衡が崩れひとりで泣いた。祖父の事を、強く想いながら。「どうか、これ以上悪くなりませんように。 少しでも、良くなりますように」と願いながら。「毎日会いに行けなくてごめんね」と謝りながら。どんなに泣いても、時間はいつもと同じ速さで流れ、もうそろそろ空も白むだろう。私の時計は、祖父が倒れた5月30日で止まってしまっているような気がしてならない。現実に、ついていけない。だけど残酷なまでに現実は私を突き刺していて、痛みを覚えながら、生きている事を感じざるを得ない。毎日が、無駄に過ぎていく。現実の“時間”に置いてけぼりにされ、でも追いつこうとして足掻き、もがく。毎日、自傷の衝動が襲ってくる。その衝動から逃れる事だけで疲労してやはり無益な時間を送っていると痛感する。祖父のために生きたいと想っていても、実際やっている事は、阿呆な事ばかりでつくづく自分が厭になる。生き続けること。これだけは、頑張らねばならない。祖父は認知症で、その上言葉と右半身の自由を失い私なんかよりももっと辛いのに一生懸命生きているのだから。祖母は毎日祖父のところへ行っている。今までの病院よりも近い場所なので少し楽になったと言っていたが、毎晩、今まで2人で過ごしていたのに1人暮らしの状態になってしまったのはとても心細いのではないかと感じる。もう少し、余裕が出来たら祖母の家に泊まりに行って、一緒に祖父のところへ行ったり、買い物をしたりと祖母との時間も大切にしたい。愚図愚図といつまでも自分の事だけで悩み腐るのはやめたいものである。
2008.06.23
最近、熟睡できない。できないと言うよりも、意識的にそうしないようにしている。お薬を調整して。それは、もしも私が強いお薬を服用し、10時間以上目覚めないという状態になっている時、祖父に何かあったらどうしようという気持ちが強いからである。1年位前から、その強いお薬は熟睡できなくなる時期に限って服用していた。1ヶ月に1週間ほど、毎日服用するだけである。しかし、そのお薬は毎日2錠ずつ処方されている。今やもう、そのお薬は全て服めば死んでしまえるくらい、お薬袋に入っている。「これさえあれば、死にたくなったらいつでも死ぬことが出来る。」何故か、そういった安堵感さえある。祖父が転院してから、まだ会いに行けていない。毎日、祖父の事を想わない日は無い。いつでも会いに行きたいと考えているのに、如何せん、身体が動かない。また、そういう自分に苛立ち、腹が立ち、憎くて仕方がなくてアルコールに逃げる兆候が現れている。過食と嘔吐、眠っている時間以外は、発泡酒を飲んでいる。何も食べずに。しかしやがて、その飲酒が切っ掛けで過食へと繋がってしまうのであるが。現実が、近付いたり遠ざかったりしている。今を生きねばならないと分かっているけれど、この現実を受け容れるのは私にとって遣り切れなさが先立ち、つい逃げようとしてしまう。逃げる先は、“病症”であると感じる。祖父は、こんな私よりももっともっと辛く苦しい想いをして過ごしているというのに、私は楽な方へと逃げようとする。だが、よく考えてみると病症は決して楽なものではない。深く深く心を探れば、過食と嘔吐をしたり、アルコールを飲んだりすることは、“自傷のひとつ”と受け止められなくもない。実際に、手首を切ることは赦されないので、過食や嘔吐という、苦しい想いをしたり、昼夜構わずアルコールを身体に入れて内臓を壊す方向へ持っていく事で自分を傷つけているような気がする。阿呆だとしか言いようがないけれど、私はそうする事でしか精神の均衡を図れない。どんどん、自分が汚れていくのをつぶさに感じる。時に、私は死んでしまいたいと考えている事に気付く。未来など無いのだからと。もうこの先、長くは無いのだからと。希望に満ち溢れた何かなんて、決して訪れないのは分かっているのだからと。だけど、祖父母や母が生きている限りは私も生きていなければならない。祖父が倒れたというショックからは、生きていてくれたからこそ少しずつ立ち直りつつあるけれども、死に向かっているという事を覚悟しなければならない。けれど、私は大切で、愛している人の死に直面するのが一番怖い。自分が死ぬことよりも、怖い。母は、人が死んでいくには順番があると言ったけれど、私はそんな事を無視したい気持ちに駆られる。早く、自分を消してしまいたいと強く願ってしまう。けれども、祖父との残りの時間をもっと沢山一緒に過ごしたいと切に願う。今は心身の具合が悪く、動けないのは仕方ないが、少しずつこころの整理をして祖父と過ごせる時間を増やしたい。そしてまた、毎日祖父の所へ行っている祖母とも一緒に過ごす時間が増えればと考える。祖母はお喋りが大好きなので、話し相手になれたらと、想う。
2008.06.21
朝も昼も夜も眠くて仕方がない。でも、それを阻むのは様々な病症。私の心身の事なんてどうでもいい。祖父は、リハビリが進み最近では自ら動く左手で食事が摂れるようになってきている。しかし、傾眠傾向は相変わらずで自分で口へ食べ物を運び咀嚼している最中でも目蓋を閉じて眠ろうとしてしまう。食べ物が口の中に入ったまま眠ってしまうと誤嚥する可能性が高くなるのでとても危ない。車椅子に乗るというリハビリも、座って10秒は持つけれど、それ以上経つと、眠ってしまう。19日、転院先に決まっていた病院に空きのベッドができたという事で転院した。しかしその前日、祖父はベッドの柵を自ら外し、転がり落ちてしまっていたのである。母が祖父の所へ行ったとき、ベッドの下にマットが敷いてあるのを不思議に想って看護師さんに訊いたらしいが、的を射ない答えを返してくるので詰問したという。そうすると、やっと看護師さんのミスで祖父がベッドから落ち、しかもそのまま長い時間気付かれず、同部屋の患者さんがナースコールをして下さったお陰でやっと祖父はベッドの上に戻れたとの事であった。右半身が動かないので頭から地面に落ちていたり、点滴の途中で針が折れたりしていたら本当に大変な事になっていた。なのに、家族が祖父の傍に居るときも、変わった点を尋ねるまで病院のスタッフ達は何も言わなかった。医療の現場は、人手不足で大変だと言われて久しいのでどんなに忙しいかという事は分かっているけれど、大切な事、特に命に関わる事は気をつけてほしいと想った。現にその日、祖父はまたCTを撮らねばならなかったのであるから。転院した病院はリハビリ専門なので、スタッフの方々は気をつけて下さると信じたい。祖父は、ベッドから落ちても、痛くても、言葉を発せないのだから周囲の人間が気付かねばならない。出来れば毎日、行きたいという気持ちはあるけれど、今まで入院していた病院よりも遥かに遠い場所となり、タクシーでは行けない。今の私には、公共交通機関を使うことが難しい。特に今の時期、PMSの症状が強く出ているので抑うつ感が強く、身体が動かない。また、そんな理由で祖父に会えないことが悔しく哀しい。祖母も、毎日転院先の病院へ行くのは大変だと想う。一応、シャトルバスが出ているけれど、そのバスが出ている所までは、祖母の家から10分ほど歩いた場所にある駅の電車に乗り、1駅先まで行かねばならない。胸が、苦しい。それは、私が無力な人間だという事が今まで生きてきた中で一番強く感じられるからであろう。生きているのが、虚しい。来週の火曜日には、祖父のところへ行けると想う。「行こう」と気張ったり頑張ろうとしたりしてしまうと、駄目になってしまう。身体が動かなくなり、また自責の念に駆られる。祖父のところへ行くのは“義理”ではない。“祖父に会いたい”“祖父の傍に居たい”という気持ちがあるから行くのである。この想いを忘れず、大切にしたい。そして、祖父の状態が少しずつでも良くなる事を今日も空に願う。
2008.06.20
身体が動く事を拒絶する。 こころだけが逸り、 でも動けない。 何かが機能しなくなって やがて私は凍えたように固まる。 祖父に会いたいだけなのに それすら出来ない私は、 劣等な人間だ。
2008.06.17
“祖父に会いたい”その想いだけが先走って身体が、付いていかない。今日は、祖父の傍へ行けなかった。少しずつ、祖父のリハビリが進み、笑う事が多くなっている。食事も、以前のように途中で眠ることは余りなくなった。MRI検査の結果では、やはり出血の部分から考えると右半身の麻痺は、快復を見込めず、言葉も殆ど戻らないらしい。その上、認知症であるから、祖父は文字を書いたり読んだりする事が出来ない。だから私達家族は、語りかける事で祖父の想いを汲み取る必要がある。転院先は、決まった。祖父母の家から近いところなのだが、急斜面な坂がある、小高い山の上の病院となった。祖母としては、徒歩での行き来が不便な場所ではある。しかし、その病院には母の、高校生時代の親友である人の母親が入院しているので、少し安心していると母は言った。とても綺麗な病院で、明るい雰囲気であると聞いた。祖父はそこで、これからもリハビリを続ける。しかしそこが、もしかしたら終の棲家となってしまうのかも知れないと想うと私のこころは否応無く沈んでしまう。現在、私の病症が爆発したように出現している。祖父の所へ行けない日は朝、少し眠った後、また発泡酒を飲み始める。そして、過食と嘔吐をする。「なんて馬鹿なことをやっているんだ!」こころの中でそう叫び声が聞こえるのに、私はそれを無視している。ただ、病症の成すがままとなっている。食べて吐いて、眠り、目が覚めたらまた食べて吐いて、眠る。そして夜になったらお酒を飲み続ける。まるで、現実から逃れるように。この、哀しくて苛酷な、苦しくて無常な今という時間から離れようとするように、病気の世界に浸っている。なんて情けないのだろう。自分が、憎い。食べたり吐いたりしている時間があるのなら祖父の所へ行き、手を握り、話しかけたい。そして祖父の笑顔を見たい。一生懸命生きようと、リハビリに励んでいる祖父を応援したい。支えたい。しかし、それを阻むうつ病の症状と摂食障害、強迫観念。また、恐怖もある。大切な人が、日々死に向かっていく事。それが怖くて仕方がない。でも、その残りの時間を出来るだけ一緒に過ごすということが祖父にとっても私にとってもとても尊いものとなり、大事な想い出となるのだろう。でも、時に身体が動かなくなる。どんなに祖父に会いたくても、身体が動かない。病気である事が、治らない事が、本当に悔しく、哀しい。父の日だった今日、母は仕事が1週間の内で1番立て込んでいたため、会いに行けなかった事を悔やんでいた。でも、明日は行けるらしいので私も一緒に過ごす予定である。父の日・・・私にとっては、関係ないものとなった。高校生の頃までは、まだ父の事を考えられていたが、現在、妹と孫・弟の世話は借金までしてするけれど私の事は殆ど考えていない事を知ったし、祖父の方が父親的存在としてあるので何もしなかった。だから月曜日、祖父にお花を持っていこうと想っている。綺麗な、お花を。今日もまた、「少しでも祖父の調子が良くなりますように」と雨雲に隠れた星に願いながら長い長い夜を、過ごす。
2008.06.15
14日は、母の誕生日だった。 また私は、お手紙しか渡せなかったけれど 母は嬉しそうに微笑んでくれた。 しかし、この現実は 果てしなく残酷で虚しく 苛酷であると感じる。 逃げたくても逃げられない。 生きている限りは。 だから、消えたい気持ちが 途絶える事なく存在して 生きることに疲れてしまうんだろう。 けれど、母の誕生日を 2人で過ごしたこの夜、 生きている現実を 受け容れようと想った。
2008.06.14
午前4時。雨が落ちてくる。空が、私の代わりに泣いている。疲れてしまった。もう言葉も出ないほど。哀しくて堪らない。それは言葉にならないほど。私はそれでも生きなければならなくて、“生きる”という事がこんな荷までも残酷だという事実を改めて感じている。祖父は、少しずつ快復の兆しを見せている。看護師さんの介助により車椅子に乗る事ができるようになった。また、ベッドの上の食事から、車椅子に乗って食事室へ行き、そこでまだゼラチン食ではあるけれど、食事をしている。時には、動く方の左手を使いスプーンで自分の口に重湯などを運んでいる。言葉を失った祖父。右半身の自由を失った祖父。けれども、一生懸命生きようとしている。認知症ではあるけれど、祖母が近くに居るとそれが分かるようで、食事室に行っても祖母を探してきょろきょろしている。少し前まで、ずっと眠ってばかりいたので随分身体とこころが動き始めている感じがする。それなのに、私は希死念慮で覆われている。主治医は、「家族は何も出来ないから、無力感を覚え 疲れるのは当たり前だよ。 でも、あなたはおじいさんの傍に居たいと想っている、 その気持ちを大切にしたら良い」という意味のことをお手紙に書いて下さっていてた。しかし、今の私は毎日祖父の所へ行く事が出来なくなっている。自分の無力さに苛立ち、腹が立ち、兎に角自分を傷つける・・・自傷をする事ばかりが頭を過ぎる。“辛いのは、家族みんな一緒”それは分かっているけれど、余りにも理不尽な病・・・5年ほど前も脳出血で倒れ、それで認知症となりあんなに矍鑠としていた祖父が変わってしまった・・・それだけでも物凄いショックを受けたのに、その上、右半身の自由を奪い、言葉までも奪ってしまったこの脳卒中という病が本当に恨めしい。認知症になった祖父とは、祖父自身の“素”の魂と接しているような感じがした。10秒経つと、それまでの事を忘れてしまう。けれども、遠い過去の事は覚えていて、船乗り時代のお話を私は楽しみに聴いていた。最近は、戦時中よく唄っていた歌を、聴いていた。それらの事が、全て不可能となった。哀しいとか、辛いとかそんな言葉では言い尽くせないほどこころに痛みが走る。ひ孫と遊ぶ祖父の姿は、両者とも無邪気で本当に微笑ましかった。けれども、もう、その姿も見られない。ひ孫の名を呼ぶ祖父を、私の名を呼ぶ祖父も、もう、見られない。人間は、生まれた時点で死に向かって生きている。それは重々承知している。祖父もまた、死へと一歩一歩と近付いている。だけど私は、大好きで大切な人が死んでしまう事・・・それをまだ受け容れられない。そんな光景を見るより先に、私は先に消えてしまいたいと願ってしまう。しかし、母より先に死んでしまうという事は、病気を患って迷惑をかけている事よりも遥かに親不孝であると気付いた。気付かなければ良かった。何事にも、順番がある・・・祖父や祖母、親が先に死んでしまうのが当たり前だという、そんな事、無視してしまいたいのに出来ない。けれども、私の中では日々自分を壊すような自傷願望が膨らんでいる。あの頃のように、毎日手首を切り裂く情景が浮かんでは沈む。私には、それさえも赦されていないので必死に我慢しているが、日々膨らむこの想いは、いつ爆発するか自分でも分からない。金曜日、病院側が告げた2週間という入院期間の終わりを迎える。まだまだ、祖父は普通食を食べられないし、ベッドの中で姿勢は少し変えられるものの、喉に絡まったタンを吐き出すことは出来ない。看護師さんに吸引してもらわなければならない状態である。1日、眠っている時間の方が多い。母が、ホームヘルパーとして働いているので、この先どうすれば良いのか相談相手がいるという事だけが救いである。しかし、今まで通りには過ごせない。私は、祖父が倒れるまで現実と少し離れた所で生きていた。それが突然、現実に引き戻され、現実の時間で生きている内に私は体調を崩した。微熱が此処の所ずっと続いていて、空咳が止まらなくなっている。なので、毎日祖父のところへ行きたくても行けないジレンマが、悔しさが、病症を酷くして過食と嘔吐も、強迫性障害も、バイポーラも強く現れている。祖父が、私を見て微笑んでくれるだけで私はホッとする。とても、嬉しい気持ちになる。その想いを大切にして、過ごしたい。
2008.06.12
皆が、辛いのは分かっている。 だけど、もう 生きている事に疲れてしまった。
2008.06.09
嬉しいのは、 祖父が自ら動く左手で 食事が出来たことである。 時間によってむらがあるから いつも調子が良い訳では無いし、 相変わらず傾眠傾向にあるので 戸惑ったり不安になったりする。 しかし、祖父は “生きよう” としている。一生懸命。 その生命力を信じて、 今ある高熱が下がること、 血圧が安定することを こころから祈りたい。 ただ、私は弱い。 どうしてこんなにも 希死念慮で溢れているのだろう・・・。 疲れてしまった。
2008.06.07
祖父が倒れ、もう今までのような穏やかな日々は送れなくなった。そんな事よりも私は、祖父が苦しんでいる事・・・想っている事を言葉に出来ない苦しみ、右半身が麻痺して身体を想うように動かせない苦しみ、85歳なのに余生がより一層辛くなった事実、祖父と、今までのように会話ができなくなった事実、病院で夜を独りで過ごしている祖父、家で、独りで過ごさねばならなくなった祖母の事etc...それらを考えると否応無しに涙が流れるのである。けれども、母は泣くなと言う。これからが辛いのだからと。現実を真摯に受け止めろと。その理屈も、過去を思い起こして嘆いていたって仕方がないという事も分かるけれど、私は、やはり沢山の想いに溺れる。祖父が初めて脳卒中で倒れた時も物凄いショックを受けた。それまで、どんな遠い所へだって自転車で走って行っていたし、祖母が体操の先生をやっているのでいつも道場までその自転車の後ろに乗せて一緒に行動していた。お酒と映画と時代劇が好きで、私達が遊びに行くといつも、一升瓶を傍に置き柔らかい座椅子に座って日本酒を飲みながら洋画を観ていた。夕方になると、『水戸黄門』を観ていた。そして、祖父の手料理はとても美味しくて、船乗り時代に培ったその腕はどんな料理にも申し分ないほど発揮されていて、特にお漬物や煮物は祖母が作るものよりも繊細な味がした。勿論、祖母が作る料理もとても美味しい。祖父母夫婦は2人とも短気なのですぐ口喧嘩をしていたが、数分後にはけろっと忘れて仲良く話していた。それらが、最初の脳卒中で全て崩れ去った。なのに今回、祖父は言葉と身体の自由を失った。昨日、虚ろな表情で重湯が口の中に入っても飲み込む事さえせず、目蓋を閉じようと、眠ろうと、私達とのコミュニケーションを一切閉じようとした祖父の姿が脳裏に焼きついている。ショックとか、そういう言葉では言い表せない。ただ、自分の無力感を突きつけられ矍鑠としていた祖父から認知症になり、柔らかくそして寂しげになった祖父、その上、まだ残りの能力をも奪った病気を、私は憎んでしまう。こんなにも大切で、大好きな祖父からゆったりとした余生を奪うだなんてなんて無常なんだろうと、力が抜けていく。そしてまた、83歳の祖母も同じく脳血管に問題を抱えていて気をつけねばならなくて、以前ほどの元気はない。耳が少し遠くなっているし、物忘れもかなり多くなってきた。何も出来ない私がここに浮き彫りとなり病気である私が何とも情けなくもあり、しっかりしなければならないのにそうできない自分が何よりも一番憎々しい。腹が立つ。泣くなと言われてから、泣かないようにしている。こころの叫び声に私は只管、耳を塞ぐしか術はない。けれども先日、主治医の診察を受診した際、「1人のときは、泣いたっていい。 辛い時、涙が流れるのは自然な事なんだから。 我慢しなくていいんだよ。」と諭してくださった。だから私は相変わらず毎晩泣いているけれど、それは決して、悪い事ではないと考えられるようになった。夕方、祖父のところへ行った。既に祖母や叔母は帰ってしまっていて、私は1人、祖父の傍に居た。静かな時間だったので、ゆったりと祖父に語りかけた。先ず、「じいちゃん、○○(私の名前)よ!来たよ! 私の事、分かる?」と話しかけると祖父は目を覚まし、「ああ、おう。」と頷いてくれた。そして、少し微笑んだので私は嬉しくなった。「調子はどんな?しんどい事ない?」と訊く頃にはもう眠ってしまった。どうやら発熱しているようで、両脇に氷枕を挟んでいた。今朝から血圧も高いようだった。しかし、リハビリは行なったそうで、それで具合が悪くなったのではないかと感じた。時折、苦しげな表情を見せるので胸が痛んだ。はっと目蓋を開けるときがあり、そのタイミングで私が顔を見せると、祖父は安心したように微笑んだ。その際は、必ず私のことが分かるかどうか訊ね、「分かる」というリアクションをしてくれるのでホッと胸をなでおろす。ただ、肘の骨のところに青痣が出来ていたり、赤く皮膚の色が変わっていたりしていた。何故だろうと想い、看護師さんに尋ねてみると、日勤の看護師は帰ってしまったので分からないとの事だった。でも、この事はリハビリの先生にも他の看護師にも報告しておいて下さると仰ったので信用する事にした。動かない右肘に酷い青痣が出来ていたから本当に心配である。祖父は言葉を発せないから「痛い」という事も訴えられない。とても、哀しい。毎日頑張りすぎると、私もダウンしてしまう事を痛感した。自分が病気である事を、つい忘れてテンションを上げて頑張ってしまう。祖父の所では常に元気でいなければならないから帰宅すると、その反動で沈み込む事も多い。しかし、出来る限り祖父の元に居たい。眠っている時間の方が長くても、祖父と共に時間を過ごしたい。けれども、無理をしてまたダウンしないよう気を付けたい。
2008.06.05
身体が動かなくて 祖父の所へ行けなかった。 まるで身体の中に鉛が 詰め込まれたように重く 苦しく、そして哀しかった。 毎日哀しい顔を見せてはいけないと テンションを上げてきたが その疲れが出たのかも知れない。 自分が病気である事を痛感した。 それにしても 私は駄目な人間だ。 毎日祖父の所へ行くと決意したのに、 それすら出来ない。 悔しくて、哀しい。
2008.06.04
夜中になるとやはり祖父を想い号泣する。まるで子どものように、私は声を上げて泣いている。母が起きている間は、心配を掛けないようにと自分のこころに対して鈍感になっている。何も感じないようにしている。けれども夜中、独りっきりの時間が訪れると忽ち祖父との想い出が胸に溢れそしてまた、この時間、ひとりで闘っている祖父を想い滂沱する。「じいちゃんは、もう言葉を喋る事ができない。 喉が渇いた時、どこかが痒いのにそこに手が届かない時 病院でどうやって伝えられるのだろう」「今までは、話す事ができたから、 入院しても独りじゃなかった。胃潰瘍の時も、大腸ポリープの時も。 でも今は何も訴える事ができない。 ただ独り、ベッドの上で闘っている」これらの事を想うと、何も出来ない非力な自分が恨めしい。あの、胃潰瘍や大腸ポリープ摘出で入院した際は、祖母が病室に泊まって看病していた。祖父は、祖母が居ないと忽ち不安になり、病室から出てしまうから。家に帰ると、聞かなくなるから。しかし、今回の脳出血は、言語野と運動を司る部分を侵してしまった為、自分の意思を正確に人に伝える事が出来ずどこが苦しいとも表現できない。また、右半身が麻痺している事で褥瘡が生じる可能性もある。「どんな状態でも2週間で退院してもらう」と告げた病院側に、どこまで患者の状態が分かるのか、信頼できない。だから私の不安は際限なく膨張してゆきそれは、涙へと変わる。水無月の初日、日曜日。面会時間、祖父はずっと眠っていた。どんなに呼んでも、身体を軽く叩いて刺激を与えても、昏々と眠り続けていた。一言も話せなくて哀しくなった。しかし6月2日の今日、お昼は調子が良かったようで、集中治療室で昼前にゼラチン食を食べられたと聞いた。レントゲンを撮った結果、初診の時より出血範囲も広がっていなくて病状も安定したので昼過ぎ、一般病棟に移ることもできた。話しかけると、一応目蓋を開いて私のことを分かってくれた。「私の事、分かる?」と訊くと頷いてくれて安堵した。祖母の事も、母の妹の事も分かっていて、特に祖母が顔を見せると笑顔も浮かんだ。しかし、夕飯は調子が悪かったようである。看護師さんが食事だよと重湯をスプーンで祖父の口の中に入れても直ぐに目蓋を閉じて眠ってしまい、飲み込めない。重湯は、口から出てしまう。祖母と私も手伝って、「じいちゃん、起きて食べよう。おいしいよ! ごっくんって飲み込もう?」と大き目の声で話しかけても、やはり目蓋が閉じてしまい、寝息を立て始めてしまう。ほうれん草をミキサーで潰し、ゼリー状にしたものを看護師さんが口に入れたけれど、咀嚼する事もできなかった。嫌がり、苛々と動く左手で拒絶の意を表しているようでもあった。とろんとした眼で、口が半開きである祖父の表情を見ていると何だか哀しみが溢れてきた。あんなに、食べる事が好きな祖父が、食事をしているという事さえも理解できず眠り続ける様子が・・・。でも、希望は棄てたくないと今は考えている。明日からは、リハビリが始まる。車椅子に乗って移動したり、食べる練習をする。ただ、眠り続けているという事が、脳出血による影響でこのままいつまでも眠り続けてしまうのではないか心配で堪らない。不安で不安で仕方ない。こころに、たくさんの想いが溢れるけれど、それを言葉にする行為が苦痛になっている。毎日、祖父の元に行きたい。その為にも、自分自身体調に気を付けて疲れたときは素直に休めるようにしたい。
2008.06.02
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