2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全28件 (28件中 1-28件目)
1
今年も、もうあと数時間で終わりですね~ みなさま、私自身のマトメのような日記を、いつも読みに来てくださり、ありがとうございました♪ 今年は、自分自身にとって、とても大きな転換期であったように思います。今まで柱にしていた考え方が、私自身の中で揺れだし、本当にこれでよいのだろうか?という気持ちが起こってきました。 ですが、今までに学んできたことは決してひとつもムダになることもなく、すべて、さらなる飛躍のためにあった土台だと考えるようになりました。私の心を通過していったすべては、ハイヤーセルフ(聖霊)によって軌道修正されながらも、少しずつ道を整えてくれたように思います。 それに、「神の使者」をはじめ、ACIM(奇跡のコース)に出会ったおかげで、ブレのない一貫した姿勢を養うことができるように感じています。まだまだ初心者で、わからないところだらけなのですが、自分が興味を持ったものは徹底的に学んでいくことが得意なので、ここ数年はじっくりACIMと向き合っていこうと考えています♪ 前置きが長くなりましたが、年を越す前に、「ゆるすということ*ジェラルド・G・ジャンポルスキー著*サンマーク出版」の各章の終わりにある「ゆるすためのヒント」を抜粋しておきたいと思います。これは「奇跡のコース」から抜粋されたもののようです♪ ******************************** 「序章」-28 他人をゆるせないとき、それはいままで目を背けてきた、あなた自身を見ているときかもしれない。 心安らかに生きる。ただそれだけを目標にしてもいい。 あなたを幸せにするのは、あなた。 「読者のみなさんへ」-37 ゆるしとは、あらゆる人の中に神の光を見ること。たとえ何をした人だとしても。 幸せな結婚はまずゆるしあうことから。 第1章-なぜ不幸になるのだろう?-52 虹の向こうに黄金の宝物を探しているせいで、自分自身が虹であり宝物であることがわからなくなってしまう。こんな簡単なことに、なぜ気づかないのだろう? ゆるさないと決めれば、苦しみを味わうだけ。 裁くのをやめる。それだけで幸せになれる。 ゆるしは癒しの特効薬。 第2章-「ゆるし」ってなに?-58 「いかに生きるべきか」とお説教するのをやめ、ただ愛し、ただゆるせば、みんなと穏やかにつきあえる。 ゆるしとは、後悔をすべて手放すこと。 愛と赦しは奇跡をもたらす。 「ゆるそう」という心が、ゆるしへの鍵。 第3章-「ゆるさない」ということ-67 副作用がある薬を、あえて使う人はいないだろう。しかし、たいていの場合、私たちは心に浮かべる思いを吟味しないし、思いが肉体を毒しかねないことに気づかない。 ゆるさないと考え、怒りや憎しみにしがみついているとき、人は自分がとらわれの身であることに気づけない。 他人をゆるすことは、自分をゆるす第一歩。 ゆるすと免疫力が高まる。 第4章-ゆるさない20の理由-75 私たちはいつも選ばなければならない。愛に従うか、エゴに従うか。 ゆるせば、つらい過去から自由になる。 完全にゆるすか、まったくゆるさないか、道は二つに一つ。 ゆるすためには、怒りと苦しみのすべてを神さまにゆだねること。 第5章-ゆるせない理由をとりのぞく-103 心に思い浮かべる思いは選択できる。 ゆるせば、思うぞんぶん愛することができる。 犠牲者としてふるまうのをやめれば、簡単にゆるせる。 ゆるすとは、一度や二度ではなくゆるし続けること。 第6章-ゆるしは奇跡を起こす-137 ゆるしは幸せに続く道。そして苦痛を消す一番の近道。 神への一番の近道は、ゆるすこと。 ゆるしは過去の傷を消す消しゴム。 死につつある人にとってだけでなく、遺された人にとっても最も大切なプロセスは、ゆるしかもしれない。 第7章-ゆるすためのステップ-147 心の安らぎだけを目標にしよう。他人を変えたり罰したりせずに。 穏やかさと優しさは、ゆるしの兄弟だ。 ゆるせば、人生の重荷がうんと軽くなる。 ゆるしには、早すぎることも遅すぎることもない。 ******************************** 来年もよろしくお願い申し上げます♪
2007.12.31
コメント(0)
今日は、奇跡のコースを学ばれ、世界各国に百カ所以上の「生き方を変えるヒーリング・センターを設立されたジェラルド・G・ジャンポルスキー著による「ゆるすということ」から抜粋したいと思います。 幸せ、そして心の平安を本当に望まれる方に、「赦し」というあり方は必要不可欠なものであるように、最近個人的に感じています。 そこで「赦す」ことでいったい何が私たちに手に入り、赦さないことでそれがどのような影響を及ぼすのかを見つめるきっかけとして、ジェラルド氏の詩をご紹介しますね♪ この詩は、ジェラルド氏が1998年、ボスニアで「宗教指導者・霊的指導者のための、ゆるしと和解」というワークショップの会場に向かう途中で書かれたものだそうです。 「ゆるすということ」 ゆるすことは 幸せになるための処方箋 ゆるさないことは 苦しむための処方箋 苦しみの原因が何であれ 苦しみにはすべて 「ゆるさない」 という種が 宿っていないだろうか? 復讐の念を燃やし続け 愛や共感を出し惜しみすれば 健康を害し 免疫が低下することは まちがいない 当然だと思われるような怒りでも こだわり続けていれば 神の安らぎを味わえなくなる ゆるしとは その行為をよしとすることではない 残虐な行為を 見逃すことではない ゆるしとは 恐れに満ちた過去に こだわり続けるのをやめること ゆるしとは 古傷をひっかいて 血を流し続けるのをやめること ゆるしとは 過去の影に惑わされなく 今この瞬間に 百パーセント生き 百パーセント愛すること ゆるしとは 怒りからの解放であり 攻撃的な思いにさよならすること ゆるしとは 誰に対しても愛を拒まないこと ゆるしとは ゆるさないという思いから生じた 心の空洞を癒すこと ゆるしとは 過去に何をした人でも すべての人のなかに 神の光を見ること ゆるしとは、相手のためだけでなく 自分自身のためであり 自分が犯したまちがいのためであり くすぶり続けている罪悪感と 自分を恥じる気持ちのためである。 最も深い意味でのゆるしとは 愛に満ちた神から自らを 切り離してしまった自分を、ゆるすこと ゆるしとは 神をゆるすことであり 神は自分を見捨てたという おそらくまちがっている考えをゆるすこと 今この瞬間にゆるすということは もう先延ばしせずに ただゆるすこと ゆるしは心の扉を開け 感情をスピリットと一体にし すべての人と一体にし すべての人を神と一体にする ゆるすのに 早すぎることはない 遅すぎることもない ゆるすにはどれだけの時間が必要だろうか? それはあなたの価値観しだい 絶対に無理だと信じるなら 絶対に起こらない 半年かかると信じるなら 半年かかる 一秒ですむと信じるなら 一秒ですむ 私は心から信じている 一人ひとりが 自分も含めてすべての人を 完全にゆるせるようになったとき 世界は本当に平和になるということを ********************************
2007.12.31
コメント(0)
「コース」のJ(イエス)はキリスト教のJと同じではないし、二つの思考システムは両立しない。キリスト教ではJの身体的苦しみのイメージが非常に強烈な意味を持っている。彼は君とは違う、彼だけが神の一人子だから、というわけだ。だが、「コース」のJは、彼と君は一つだから君もまた神の一人子、キリストだ。少しも違わないし、しかも君はいずれそれを体験できる、と教えている。 *私(イエス)に関わることで、あなたが達成できないことは何もない。私が持っているもので、神から来たものでないものは何もない。 今の私たちの違いは、私はほかに何も持っていないということだ。 3-139 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「感想」 今日の言葉は、イエスと私たちとは能力的にも何の違いもないということが書かれています。それでは、どこに違いがあるのかというと、イエスは神こそ唯一の源であることを完全に理解し、それ以外の全ては幻想であることに気づいていたということだと思います。 ******************************** この後、ゲイリーは「二つの思考システムが調和しないキリスト教徒はどう「コース」を勉強するんです?」と尋ねています。 今日、こうして私の日記に足を運んでくださっている方も、いままでに色々と学ばれてきたことだと思います。また、コースの説くあり方と現実との関わり方が、あまりに理想的すぎているため、とまどわれている方も見えると思います(私もそうです・笑)。 ******************************** それに対してアーテンは、こう答えています。 簡単だよ。少なくともキリスト教徒以外と同じくらいに簡単だ。「コース」はつねに心のレベルで行われるのであって、世間的なレベルではないからね。教会や寺院やその他の礼拝場所へ行くのは社会的現象と見るべきなんだ。ある種の公的な礼拝はつねに社会の重要な一部だし、現代の宗教組織の多くは明らかにコミュニティに良い影響を及ぼしている。だが、本当に救済が見出せるのは心だよ。ある場所やモノが本来的に神聖だなどということはない。それはただのシンボルだからね。だからある宗教や組織に属していて、あるいはふつうの生活を送りながら、心のレベルで「コース」の思考システムを実践することは充分に可能だ。 別にほかの人たちを「奇跡のコース」に改宗させる必要もない。もちろん、そういう方向に導かれるのを感じたら、「コース」の話をしてもかまわないよ。だが大事なのは、そうしなくてはならないわけではない、ということだ。君の霊的なひらめきが自分の中にだけ留まっていたっていいんだ。どっちにするかは君が決めればいい。 「コース」は物理的な世界でに義務とはいっさい関係ない。繰り返しになるが、これは君がどういう世界観を選ぶかって問題なんだからね。 3-140 ******************************** 理論と実践のなかでとまどわれたとき、この文章を思い出すことでそのギャップが少し軽減されるかもしれませんね♪
2007.12.31
コメント(0)
神から離れたという感覚だけが唯一、 あなたが本当に修正しなくてはならない欠落である。 3-139/3-144 覚え書き:この言葉は、3-144で24日目の言葉と重複します♪ 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「文脈抜粋」 *神から離れたという感覚だけが唯一、あなたが本当に修正しなくてはならない欠落である。 「コース」のJ(イエス)は、キリスト教のJと同じではないし、二つの思考システムは両立しない。キリスト教ではjの身体的苦しみのイメージが非常に強烈な意味をもっている。彼は君とは違う、彼だけが神の一人子だから、というわけだ。だが「コース」のJは、彼と君は一つだから君もまた神の一人子、キリストだ。少しも違いはないし、しかも君はいずれそれを体験できる、と教えている。 ******************************** 「感想」 今日の言葉は、コースが贖い(atonement=償い・キリストの贖罪、人が神と一体であることの例証・一つの状態に戻る)によって、何を癒そうとしているのかを説明していると思います。 また、相対性の宇宙という夢の世界から、私たちをつれ戻すこと(atonement)が、時空を超えた真の現実である神の計画・目的ということなのかもしれません。 いっぽう、キリスト教における「キリストの贖罪(atonement)は、神への「罪」を救うためにキリストが、全人類の犠牲として十字架にかかって死んだことを強調し、その意味で「贖罪」という言葉が使われているようです。これは、神が自分の子であるキリストを犠牲にしたことで「私たちに罪がある」という強烈なイメージが残ってしまうように思います。 しかし、ACIMでは神は犠牲を求めたことは一度もないし、神と離ればなれということも実際には起こっていないと説いています。それに、私たちは決して霊として死なないということを、イエスはその復活により示し、その犠牲は起こらなかったということも示しているように思います。ですから、ACIMのイエスは、この世界で起こっているすべてのことは夢であるがゆえに誰も罪の意識など抱く必要もないと強調しています。そして、兄弟姉妹である私たちに、自らの意志で分離という幻想を終わらせ、私たちに本来の姿であるキリスト・聖霊として戻ることを勧める意味で「贖罪」という言葉を使っているようです。 今日出てきた二つの思考システムとは、エゴの思考システムと聖霊の思考システムを指しています。 このエゴの思考システムとは、心理学的なエゴという意味より、もっと大きな意味があり、ACIMでは、この物質宇宙そのものがエゴの心によって投影され存在しているようにみえると考えています。 聖霊の思考システムとは、私たちの完全な本質であり完全な世界(天国)とつながり続けている霊(スピリット)が導く愛の思考システムということだと思います。 従来のキリスト教では、イエスの身体を重視し、その再臨により地上天国が世界に到来するという考え方ですが、「奇跡のコース(ACIM)」によるイエスのメッセージは、心がつくりだした物質世界の夢・幻想を終わらせ、神と共にある霊の国・本質的な世界に帰ることが、神の子である私たちの究極の目的であると説き、その道筋をコースは示しているようです。 最後に、神の使者とACIMでは「救済」についてこう書かれています。 *救済とは(エゴの)解体である。あなたが身体を見ることを選ぶなら分離と無関係な事柄と無意味な事柄と無意味な出来事とでできあがっている世界を見るだろう。この世界は現れては死の中で消える。この世界は苦しみと喪失を運命づけられている。誰も一瞬前と同じではなく、一瞬後もまた同じではない。これほど変化する場所を誰が信頼できるだろう。誰もがはかない塵に過ぎないとしたら、どんな価値があるだろう。 救済はこうしたすべてを解体する。罪悪感を持ち続けることをやめた代わりに見ることから解放された者の視界に、救済による安定性が立ち上がる。その人たちは罪悪感を手放すことを選んだから。 17-505
2007.12.30
コメント(0)
神の使者の*マークの見落としがありましたので、変更したいと思います。今日ご紹介する17番の文章が抜けていたので他の日記の番号も一緒に変更しておきますね。 ******************************** *「声」が言うことを書き留めたヘレン・シチュクマン博士って人と、続けなさいと彼女を励ましたビル・テットフォード博士は、一緒にビッグ・アップルで働いていた心理学研究者で、あんまり仲がよくなかったんだよね。だけどある日、ビルが二人の関係をなんとかしたいと言い出した。 3-133 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「文脈抜粋」 ゲイリー:「コース」の作成に参加した人たちのことを聞きたいんだけど。 アーテン:「コース」の誕生の物語に深入りするつもりはない。君はもう本を一冊読んでいるし、ほかに二冊、その事を書いた本がある。興味があるなら読んでみればいい。だが、それについては「コース」の前書きだけで充分だ、と思う人たちもいる。いまの君の印象は? ゲイリー:すごくおもしろそうだと思っている。 *「声」が言うことを書き留めたヘレン・シチュクマン博士って人と、続けなさいと彼女を励ましたビル・テットフォード博士は、一緒にビッグ・アップルで働いていた心理学研究者で、あんまり仲がよくなかったんだよね。だけどある日、ビルが二人の関係をなんとかしたいと言い出した。 アーテン:どこかで聞いたような話だ、そうじゃないかい? ゲイリー:まったく。ぼくもそうだったけど、ビルの言葉はもっと良いものを見出したいという心の表れだった。 アーテン:そうそう、そうなんだ。それがJ(イエス)にとっては「コース」を与えようとする。君にとってはそれを発見しようとするきっかけになった。Jはヘレンとビルに「コース」を与えただけじゃない。 「コース」は聞く用意のある者すべてに向けられていた。ヘレンにしてみれば、いつまでたってもこの仕事は終わらないんじゃないかと思うほどだったし、ビルの助けがなければ完成させられなかっただろうね。あとのほうでは、彼女が速記したメモを読み上げ、ビルがタイプしたんだよ。 彼らを聖人扱いしないほうがいい。繰り返しになるけれど、彼らもまた君と同じふつうの人間だった。二人の関係だってましになったけれど、二人とも引退し、ビルがカリフォルニアに引っ込むまでには、衝突することもあったんだよ。彼らも人間だった。でも学んで努力したんだ。 ゲイリー:それからヘレンやビルに協力して、「コース」を世界に広めた「内なる平和財団(Foundation for Inner Peace)」の創始者たちがいる。ヘレンとビルに続いて登場するのがケン・ワプニクで、「コース」が出版されるまで二年間、二人を手伝った。彼はヘレンと一緒に「コース」を編集して章のタイトルを付け、文章を整えた。それからジュディ・スカッチ、彼女は「コース」を新しい考え方をする友人知人へと広めた。それがボブ・スカッチという人がいるけど、彼は本の中では自分のことを詳しく書いていないので、よくわからない。 結局彼らはJの導きによって、「コース」をそのままの形で広めるには、自分たちの手で無削除完全版を出版するしかないと決意した。この人たちはある意味で霊的な家族みたいなもので、その真の目標は赦しの実践だったと思うけど。 パーサ:その通りよ。「コース」にあるわね。 *救済に偶然はない。 ジュディとボブは「コース」を世界に伝えるうえで欠かせない役割を果たしたの。ケンは「コース」の意味を人々に教える責任を担うだろう、とJは指示したのね。彼はヘレンととても親しくなった。 現在、「コース」が外国語に翻訳されるときには、千三百ページにわたる本の一字一句を翻訳者が本当に理解しているかどうか、ケンが確認するのよ。これはケンが「コース」の唯一の教師であるという意味ではないけれど、彼は偉大な教師の一人だと言われるでしょうね。これから何百年、何千年も、学習者も学者も彼の書いたものを読むでしょう。そして優秀な学習者であるあなたがその気になれば、この生涯でじかに彼から学ぶ機会があるでしょうよ。 ********************************
2007.12.29
コメント(0)
ACIMや神の使者では、この世界をつくり出しているのは「たった一つの心である」という概念があります。その心が投影したものが、この相対性の宇宙であるという考えです。 今日は、その「心の投影とは何か?」について考えてみました。 じつは、私がこのような霊的な考え方に惹かれるようになった一番の出来事として、アメリカのナショナル・カイロプラクティック・カレッジで解剖実習をさせてもらえる機会がその大元であったように思います。ある女性の献体を解剖されてもらっているとき、ふと変な考えが浮かびました・・・ この人、身体があるのに、何で死んでるんだろう?って・・・ ほんと変な疑問ですよね。 死んでんだから、死んでんだよってどこかで声が聞こえてきそう(笑) まぁ~それはひとまずおいといて・・こんなふうに考えるようになりました。 身体はあっても動かない・・・ ということは、身体を動かす別の何かがあるのでは? ってことになるわけです♪ 当時は、何気なくこの疑問をやり過ごしましたが、治療家としてやれどもやれども、肉体を癒す技術の限界を感じるようになってから、癒しとはいったい何なのか?と考えるようになりました。 まぁ~この話はけっこう何度も書いたと思いますので、このくらいでやめておきます。それでは今日の本題です。 私たちが日常生活のなかで感じるあらゆる対照は(物体、身体も含めて)、物質だけがある状態では何も感じることはできません。 ちょっとゾンビを想像してみてください。 ゾンビ自体は、身体を持っていますが何も感じないと思います。 身体が崩壊しても、動ける間は動いています。 ちょうど、そのゾンビを動かす親玉が「心」だと考えるとおもしろいかもしれませんね。 さて、今度はシーンを変えて、ゾンビを見てそれに恐怖を感じている人が出てくるとします。 押し寄せるゾンビの群れが、その人を囲み、かみ殺してしまいます。 うきゃ~ 恐い・・・ そして・・・ 一緒にマイケル・ジャクソンのスリラーを踊り出す(笑)♪ って、そんなの関係ねぇ~ ですよね♪ まぁ~変なたとえ話になりましたが、私たちは身体を持っているように感じていますが、身体というものはそもそも、それを動かす何かがあって初めて、感じたり、動いたりできるというのがわかると思います。 では身体を感じ動かしているのは何・・・? 現代医学では、知覚・感覚が脳という集積回路に送られて、この世界におけるすべての情報を処理しているように見えるので、そこから先について、あまり議論はされていません。 しかし、脳そして心臓も、もとをただせば、一つの受精卵、そして受精卵という物質的な細胞があっても、「それを動かす何か?」がなければ、DNAに指令を送り、細胞分裂を行い各器官をつくりだすこともできません。つまり、脳や各内臓諸器官がない状態であっても「何らかの司令塔がある」ことがこれでわかると思います。 じゃあその「司令塔とは何か?」 ここまでの推論から、脳ではないことがわかると思います。 では何なのでしょうか? いままでの私の結論としては、生命エネルギーもしくは霊でした・・・ でも、本質的な生命=霊まではよいのですが、この世界そのものが幻想であるという考えにのっとると、それは「心」である、という新たな定義の洗い直し、組み替えが私の中で起こっているところです。 そして、それは何のために身体をつくっているのか? 身体をつかって何がしたいのか? どうして身体というものがあるか・・・? また、身体や物質は何のためにあるかについて考えてみると、結局のところ、身体が何かを感じることで、心・気持ちを満たそうとしていると考えることができます。人間が身体を持って、何かをしようとする動機のすべては、結局のところ、目には見えない要素のために何かをしているということです。 このように考えていくと、物質的なすべて(肉体も含め)、それがある理由は、物質というものを媒体にして、心を満たすために、すべてのことが行われていることがわかると思います。 身体や物質が存在する(しているように見えるの)は、結局のところ、見えない何か(たぶん心)を満たすためにあるようにみえる・・・ ついついこの世界では、焦点がモノばかりにいっているため、自分が何をしているのかについて一般的には取りざたされることはありませんが、これは事実だと思います。 しかし、このような結論は、頭の良い人だったら誰でも気づくと思うのですが・・・なぜ、こうならないのでしょうか? 思考がわからないことになると停止するようにできているのでしょうか? ACIMや神の使者を読んでいて、たった一つの心がすべてを投影し、この現実世界という夢を想像している、という考え方は、神から離れている世界をその一つの心がまず最初に「もし、私が神から離れられたら? そして、神とは違う世界を創造できるとしたら?」という夢を見ます。これが自分を持てるというエゴの夢ということかもしれません。 心がもつ機能として、神の創造力を活用し、宇宙という相対性の世界のすべての背景を投影します。 ビックバンを起こしたように見せかけます。 次に心の映写機は、さらなる分裂を起こし、その世界に登場人物を振り分け、その前の段階、自分がその映写機を回していることを忘れさせます。 このさらなる分裂によって、一つ前に何をしたかを完全に忘れ去る仕組みを作り出すことで、たくさんの人・心があるようにでき、何人もの人がそれぞれの映画、物語をつくりだすような形が生みだされます。(漫画家の方が日常的に行っている作業を思い浮かべられるとわかりやすいかもしれませんね。) この構造をリアルにするためには、心の分裂が起こるたびに、一つ前に知っていたことを忘れなければならないという性質・仕組みがあるように思います。 もうひとつ考える材料として、私たちは知覚・感覚器官の性質上、「決して今を見ることができない」ように思います。 それは神経系の機能として、感覚が伝わるまでに必ず時差があるからです。今を見ているつもりが、つねにそれは過ぎ去っているという性質があるということです。 このような仕組みが、一つの心から生み出される映写機が、さらに各個人の夢・人間の人生という物語として延々と流れているというのが真実だとしたら・・・ 私たちが日常生活だと信じていたことが、 じつはこんなトリックによってでできていたとしたら・・・・ うきゃ~ 恐いですね♪ ******************************** 私が神との対話やACIMの世界が真実であるように感じるのは、このような論理の展開が何となく想像できるからです。 一人一人の人間に残されている想像力の働きをみるとき、漫画家の方が描き出す世界が二次元の世界でそのイメージをつくり出すことと類似しているように思います。その想像の世界では、舞台背景にはじまり、登場人物のキャラ設定、そして物語の帰結も含めて、いろいろなバージョンがありますが、どのような帰結になろうと、それはある時点ですでに決まっている・・・ 霊の機能とこの世界におけるイマジネーションの働きは、一緒ではありませんが、何らかの形で霊の働きが模倣されたものであるようにも思います。 霊の時空を超えた自在性を想像できるなら、立体で感覚つきの物語を作り出すことなど、容易いことではないでしょうか?
2007.12.28
コメント(0)
*何かものが奪い取られる(これは何かを犠牲にすることを求めている)ように見えるかもしれない。そんなもの(幻想の世界で獲得できると信じているもの)は無価値だと認識されるだけだということが、初めのうちはなかなか理解できない。 3-139 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「文脈抜粋」 「コース」を勉強し始めた人は、きまって何かを犠牲にすることを求められると誤解する。教師用のマニュアルにはこう書いてあるね。 *何かものが奪い取られる(これは何かを犠牲にすることを求めている)ように見えるかもしれない。そんなもの(幻想の世界で獲得できると信じているもの)は無価値だと認識されるだけだということが、初めのうちはなかなか理解できない。 「コース」では、このことと幻想の世界の無意味さを詳しく教えている。ゲイリー、君にもわかるだろう。誰でも自分の人生には意味があって欲しいと願うが、その意味を間違った場所で探しているんだ-この世界でね。人々はどこかに空虚感を覚えていて、その穴を形のレベルでの達成や関係で埋めようとする。だが定義からして、そんなものはすべて一過性だ。 ******************************** 「文脈抜粋」(12-429) Jが「世界と世界のあり方を否定しなさい。それはあなたにとって無意味なものとしなさい」と言ったのは、君が見ているものは存在しない、ってことなんだよ。それは本当はないんだから、無なんだ。無が何かを意味するわけがないだろう? 善にしろ悪にしろ、君がそれに何らかの意味を持たせたら、君は無を何ものかに変えようとしていることになる。君がすべきことはただ一つ、無意味にすることなんだ。 だけど人々の偶像や夢を取り上げようとしてはいけないよ。君だってとても大事なものがあったことを思い出してごらん。子供の頃、ボストンのビートルズのコンサートに行っただろう? 誰かにそんなことは重要じゃないと言われたら、納得したかい? ******************************** 「文脈抜粋」13-438 もう一度言うけれど、物質的なものをすべて放棄しろとか、そんなことを言ってるんじゃありません。見方を話しているの。何かが必要だと感じたら-必要だってことは欠けているってことね-それは神の代わりにすぎないし、本当の問題は神から離れたという思いだけだと思い出すのね。 あなたが乏しいという夢を見ているけれど、それは真実じゃない。形のレベルで何かをとくに大事だと思い込むよりも、無ということではすべて同じなんだと思い出したらどうかしら。 キリストは何も必要としない。何かが必要だと感じたら、あなたは弱さから生じているけれど、何も必要ではないとしたら、あなたは神の力から生じているのよ。 ゲイリー: もし僕がハワイを愛して、その美しさを選んだのだとしたら? パーサ: それなら、あなたが見る(あるいは考えるだけかもしれない)美しさを、キリストとしての自分の豊かさの象徴とみなすことね。そうすれば、あなたの誕生日が雨降りで、外に出て目指す美を見ることができなくても、その美はやっぱり前からいつもあったところにあるわ-あなたの心にね。 ******************************** 「感想」 私自身、よく感じることは底知れぬ罪悪感の世界を感じています。 この信念を書き換えるために、色々とやってきましたが、誰にも罪をかぶせない無辜(罪がない)の状態を見るためには、ここで起こったと信じられているすべてのことを無にする(といってもデータが完全に消去されるわけではありませんが)見方を獲得するしかないように思えます。ここでの生を幻想と考えない限り、この世界で起こっている様々な出来事のすべてを赦すことは不可能ではないでしょうか? 特に人生の苦痛にまつわる感情的なデータの数々には、今現在の身体に投影され続ける性質があるようです。身体を持つがゆえの自己嫌悪と失望・絶望を癒すうえで、この考え方は大きな救いと考えることもできるように思います♪
2007.12.28
コメント(0)
彼(J)のそれ(聖霊=いつもあなたと共にある「者」のシンボル)は 「神のための声(→神に代わる御声/神を代表する御声)」であり、 それゆえに形をとっている。 この形は彼(J)の現実(リアリティ)ではない。 彼の現実は、その真の子であり、 彼の一部であるキリストと共に、神のみが知っている。 3-137 ふうさんによるアドバイス 「神のための声」のという訳のところです。 >原語はたしかに、「Voice for God」なんですが、田中百合子さんはこれを、「神に代わる御声」と訳しています(「V」が大文字なんで田中さんは「御」をつけています)。 >で、調べてみると、「for」にはたしかに、「~を代表する、代弁する」というような意味があり、この場合はそれのようなんです。というか、そのほうがしっくりきますね。 こちらのほうがわかりやすいですね♪ 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「文脈抜粋」 ゲイリー: 前に絶対的な真理は二語で言い表せる、って言ったよね。テキストを読んでいて、その二語が何なのかわかったと思うんだけど、でも確かめたいんだ。その二語って何なの? パーサ: そう急がないで。八回目の議論で、悟りとは本当は何なのかを話し合うときに出てくるわ。ところで先日の朝、Jにちょっとびっくりさせられたんじゃなかったっけ。 ゲイリー: ちょっとなんてもんじゃなかった! すごかったよ。あれは確かに彼だった。 パーサ: そう、あれはJ(イエス)の「声」、「神のための声(神に代わる御声)」、「聖霊の声」よ。いずれあなたも経験するけれど、真のあなたのシンボルでもある。 結局は「コース」が聖霊について説明しているとおりですもの。 * 彼(J)のそれ(聖霊=いつもあなたと共にある「者」のシンボル)は「神のための声(神に代わる御声)」であり、それゆえに形をとっている。この形は彼(J)の現実(リアリティ)ではない。彼の現実は、その真の子であり、彼の一部であるキリストと共に、神のみが知っている。 つまり「声」は聖霊、いつもあなたとともにある「者」のシンボルなの。もう気づいたと思うけれど、聖霊は男性でも女性でもない。キリストでもない。Jが「コース」で聖書的な隠喩の言葉を使っているのは、キリスト教を修正するためです。神の子キリストは男性でも女性でもない、あなたの現実(リアリティ)よ。そしてあなた個人じゃない。ただあなたという個人を体験しているだけ。訓練は体験のレベルで行われるけれど、現在の体験をはるかに超えたところに導かれるでしょう。 コースがあなたとあなたの兄弟について語るときは、放蕩息子という集合のなかの一見ばらばらに分かれて断片的に見える部分を意味している。その部分が、あなたが今見ている偽りのイメージに象徴化されているわけ。 ******************************** 「感想」 つまり私たちの本質は、聖霊であり、分裂した一つの心がつくり出した相対性の宇宙にあるいかなるものでもない、ということだと思います。私たちは、霊の夢から想像された心の世界で夢を見続けている、ということをACIMでは言っていると思います。 ACIMのレッスンは、日々一人一人が自我の声に振り回されずに、神とつながる習慣を作り出す構成になっています。 まだ私も実はレッスンは60課ぐらいしか進んでいません・・・ でもそのようなレッスンを通じて、源とのパイプが太くなるにつれ、恐怖を感じたり、自身が揺らぐときに、少しずつでもその揺らぎに振り回されなくなるように思います♪
2007.12.27
コメント(0)
人はなぜ幸せになりたいと思いながら、 この現実の中で、不幸を感じてしまいがちなのか? 人はなぜ真実を求めながら、真実に背を向けがちなのか? そして、人はなぜ愛を求めながら、逆に(無意識に)愛を遠ざけようとするのか? について、思いを巡らしていました。 なんとなくわかったことが、究極の愛や一体感を味わってしまうと、この(物質)世界での生が終わる、この宇宙で体験することが終わってしまう、無意識で自我の消滅を恐れてしまうからだ、と思いました。 だから、人は愛を恐れ、無意識に愛を遠ざけるようになる・・・ 愛、幸せ、真実、それはきっと喜ばしい状態であり、本当はそれを心から求めているはずだと感じてはいても、まだこの世界で遊んでいたい、自我を体験していたい、と望んでいるのかもしれません。 肉体的な愛、特定な人に対する愛にしても、お互いに愛に近づくにつれ、離れることを選ぶことってありませんか? そして、なぜ自分がそんなこと(自分の幸せから離れること)をしているのかがわからない体験ってありませんか? そのような体験の無意識的な背景には、エゴがもっとも恐れている「幸せな状態を味わってしまったら終わりだ」という仕組みが、究極・最後の恐怖として残っているのかもしれません。 満足や幸せな心の状態は、エゴにとっては自分自身の存在を消滅させる性質があることを、エゴ自身が一番よく知っています。ですから、エゴは決して満足するな、満足してはいけない、永遠の満足なんて幻想だから、この世界にあるもので我慢し続け、それを追い続けることこそ幸せなんだよ、といかにも友人のように囁きかけることでしょう。 その言葉に耳を傾け信じることに慣れている私たちは、そうだよね、この世界にはまだ体験していないことがたくさんあるし、それを終わらせるなんてとんでもないよね、っと同意してしまいがちになります。 つまり、それ(究極の愛)を体験してしまったら、自分という存在が消滅してしまうのでは?という無意識の恐怖が、最後のところで、愛・幸福・神・真実を避けるということだと思います。 このような無意識が働くため、この世界に苦痛や不幸、恐れがある世界が正当化され、自らを幸せにしない狂気の言葉を愛と錯覚・勘違いし、本当の愛を遠ざけることになっているのかもしれません。 また、私たちが陥りがちな最大の誤解は、「苦痛を愛だ」と勘違いしていることによるのかもしれません。 ですから、愛に近づくたびに、一体感をそのまま継続することを避け、代わりにエゴが提供する終わりのない欲望、それに対する不平不満、犠牲に満ちた体験というような不幸のほうがよいと感じてしまう仕組みが働き続けるように思います。 でも私たちは、この決して人を幸せにしない仕組みを見る必要があるように思います。いきなり、究極の愛を体験してしまうとびっくりしてしまうので、自分がなぜ愛を求めながら、愛を恐れるのかという仕組みを理解し、愛は本当は誰よりも愛情深い存在であり、究極の幸せであり、究極の真実であることを、私たちの限られた意識が心を開く選択をするようにゆっくり準備していくプロセスがとても大切なのかもしれません。 みなさまも、一度、自分自身が本当は何を一番恐れているのかについて考えてみてください。そして、よかったらそれについてシェアしていただければ嬉しく思います♪
2007.12.26
コメント(0)
救済には偶然はない。 3-134 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「感想」 各人にとって、いま起こっている出来事の中で、何を求めているのかによって誰もが最適なプロセスの上にいるということなのかもしれません。 コースの救済という言葉は、真の現実に目覚めることだけを言っているように思います。単にこの相対性の世界でより快適な人生を過ごすというマニュアルをつくろうとしているものではなく、この世界を超えて生きることに焦点を定めているという意味で、現在までに紹介されているすべての教えとはちがう視点で書かれているということです。 それがほかより優れているということを言っているわけでもなく、この道を選ぶかどうかについては、最終目的地である神以外を選択しない、つまり、その他の選択肢に見えるこの世界が提供する偶像を選ばないという意味で、必要なコースであると「奇跡のコース」では述べられています。
2007.12.26
コメント(0)
訓練されていない心は何も成し遂げられない。 3-131 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「文脈抜粋」 神の使者1-35で、今日のテーマのなぜ心を訓練する必要があるのか?について、以下のように述べています。 君の世代には、もうすぐ地上から脱出するときが来る、と想像している人たちがたくさんいる。残念ながら、ことはそう簡単じゃない。そんなに簡単にネバー・ネバー・ランドに飛び出せるなら、誰もがとっくに王国を経験しているよ。君たちはやっぱり自分がここの存在だという経験をしている。そうでなけりゃ、ここにいる自分なんか経験しないですむはずだ。それが君の友人たちを引き止めている大きな問題なんだ。人気のニューエイジの著者はそれについては話してくれないけどね。 ニューエイジを含めてすべての宗教や哲学で見過ごされている間違いがある。ポジティブ・シンキングや「いま、ここ」を大事にする、祈る、肯定する、否定的な考えを捨てる、有名人の講演を聞くなんてことは、当座は役に立つかもしれないが、それだけでは深い谷に閉じこめられた無意識の心を解放することはできない、ということだよ。 君たちの無意識の心-それに君たちはまったく気づいていない。そうでなければ無意識じゃないさ-は、偽りの宇宙にやってきた全員が、集団としても個人としても共有する病んだ思考システムに支配されている。そうでなけりゃ、そもそも地上には来ていないよ。君たちの考えが聖霊によって点検され、正しい赦しを得て解放され、聖霊の考え方に取って代わられるまで、その状態は続くだろう。そのときが来るまでは、筋書き通りに君たちの隠れた信念が支配し、はびこっている。世界というのはただの舞台だ。そこで、地上に来る前に参加することに全員が同意した象徴的なシナリオが演じられている。 ゲイリー: 今さらいわれなくたって、確かにこの世界にはうんざりすることもあるけどね。でも、良いことだってあるじゃないか? 楽しいときだってあるだろうし。 アーテン: 良いときというのは、悪いときと比較してのことだろう。そんな比較はあてにならないよ。良いだの悪いだのと言ったって、しょせん天国ではない。いずれわかるだろうが、すべてはトリックで、知覚-君たちはこれをとても高く評価しているが-に騙されているだけなんだ。 君たちの無意識の思考システムが隠れておらず騙しもしなければ、君たちはそんなものに耳を傾けはしないだろう。一目で卑劣だとわかるし、従うのは苦痛だから、わかっていればとっとと逃げ出すよ。その点検をJ(イエス)は手伝ってくれる。彼にはフロイトもびっくりの、無意識の心を意識の元に引っぱりだす技術があるんだ。 中略 アーテン: 君を助けるといっても、スピリチュアルなお偉いさんたちの大好きな「昔からの知恵」を授けるんじゃない。世界が「昔からの知恵」と考えているものなんて、法螺ばかりだよ。「宇宙の聖なる知性」だなんて、裸足で逃げ出したくなるってものさ。赤ん坊はまっさらな状態で生まれてくるんじゃないし、本来は愛に満ちているのにこの世に生まれて堕落するわけでもない。神の元へ戻りたいなら、きちんと努力しなければいけない。‘世間的な努力ではなくて'、"自分の考えについての努力"だけどね。批判だらけのように聞こえるかもしれないが、理由があるんだ。君に教えてあげるには、"聖霊の考え方"と‘この世界の考え方'を対比するしかないだろう。聖霊の判断は健全で、神につながる。君たちの判断は貧弱で、何度も何度もこの地上に君たちを引き戻すことになる。 パーサ: 話していくうちに、あなたは本当の自分も発見するわ。なぜここに来たのか、なぜ人々はいまみたいに感じ、行動するのか。なぜ宇宙は何度も同じパターンを繰り返すのか。なぜ人は病むのか。すべての失敗や事故や嗜癖や自然災害の奥にある理由もわかるでしょう。世界のすべての暴力や犯罪や戦争やテロの真の原因もわかる。すべてに対する唯一の有意義な解決策と応用の仕方もね。 1-35~37からの抜粋、‘'""は私により補足。 ******************************** 「感想」 さて、上記の文章を読まれ、ずいぶん挑発的な発言をする聖霊たちだなぁ~と感じられた方も見えると思います。ここで、この野郎と考えられた方は、すでにこの本の魅力にはまりつつあると思います(私もその一人です・笑) 本来、私も努力というのは大嫌いですし「しなければならないことはなぁ~い」派の一人ではあります。でも、ジャッジメント(判断/決めつけ、批判)という言葉がありますが、私たちはこの世界を生きる上で、朝起きて服を着るにしろ何にしろ何かを選ぶ上で必ず選択肢の中から何かをするために選ぶ基準=判断をする必要はあります。そうしないと、頭にパンツをはいて、耳に靴をかけて会社に行くみたいになるかもしれませんね。そんなことはありえねぇ~と考えるのも判断の機能です。つまり、生きていく上で、何らかの判断基準を持たなければ、わからんちんになってしまいます。つまり、パンツは下半身に、靴は足に履くという基本的な判断は、生きる上で必要不可欠ということです。 ところで、ジャッジメントという言葉には、別の意味もあります。判断が固定された状態になり、こうでなければ正しくないという決めつけです。これが高じると非難が生まれます。判断の使い方を間違えたり、ゆがまないように気をつけたいものですね。 もちろん、アーテンとパーサの物語も注意深く読む必要があると私自身感じています。私、けっこう信じやすいし、のめり込みやすいタイプなので(爆)♪ でも最終的に、大切なことはメッセージの質であり、それがこの世界とそれを超える世界において、うまく使えるものであるかないかが私にとって重要な指針になっています。なんにせよ、やってみなければわからないので、やることにしました。 アーテンとパーサの言葉は、口が悪いマスターたちだなぁ~と感じられる方もみえると思いますが、日本でいう禅の師匠みたい雰囲気でこの物語は展開していきます。また彼らは私たちの知覚の限界から生じる誤解について述べ、私たちが真実だと考えている究極の土台・物質宇宙の存在について、それは真実ではない、と一刀両断にしています。 これは純粋な非二元論という、最終的に神へと続く道か、そうでないかの分かれ道になる考え方です。そのような究極的な目的に近づく、もしくは目的にかなうかかなわないかという意味で、正しい(判断)、間違っている(判断)という言葉を使っていることに注意する必要があります。 アーテンとパーサの問いかけは、私たちが、本当に目を開いて物事の奥に隠された真実に目を開けるためには、ときにこのような手段も効果的な手法であるのかもしれません。でも実際には、厳しさの中に優しさが溢れていることが全篇を読まれてみればわかると思います。 彼らのメッセージは、エゴの思考システムについては妥協がない、真実に関してはブレがなく一貫性した姿勢をもっているということです。 そして、多くの人が問う、何が真実か? もしくは、この世の中を生きる上で何を指標にして生きればよいのか?についてのブレをなくす「究極の真実・絶対的真理」をACIMと神の使者では打ち出しています。 さて、みなさんは彼らが話す真実を信じられるかな? 私もまだ半信半疑です(笑)
2007.12.25
コメント(0)
(あなたの無意識の罪悪感を聖霊に癒しもらい、赦しというダイナミズムを通じて、つまり心の巨大な選択力を自在に使えるようにすることで天に戻っていこう・・・それが(奇跡)のコースなの。J(イエス)はこう言っているわね)。 *これ(奇跡のコース)は心の訓練をするコースである 3-131 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「感想」 コースは「赦し」という実践を通して、心が投影した世界という映像・ホログラフィック・イメージ・ワールド(適当に英語を並べてみました・笑)の出来事を、聖霊の視点へと変換する方法のようです。 以前の私は「赦し」という言葉の真意がわからず、神と一体の存在であるなら、いったい誰を赦す必要があるんだと単純に考えていました。 でもコースの考え方を学んでいくうちに、あらゆる心を揺らす出来事に対して、集約された解消方法は、結局のところ「赦し」しかないと考えるようになってきました。 この世界、環境、人に対する不平不満、非難が攻撃に変わるまえに、「赦し」を選択すれば、そのあとに続く暴力・怒りのすべてが発動されなくなります。そのような意味で、私たちが日常生活でこれを人にも、特に自分自身に行うとき、最も実用的かつパワフルなツールになることは間違いないと思います。 上記のような現実的な赦しは私たちの仕事で、そのあとのどうしても赦せないと感じる感情のすべてについては、それを解体する作業をしてくれる聖霊に委ねきることで、真の癒しへ昇華させていくのがコースのありかたのようです。 私たちが不快な感情に振り回されたり、心が揺れているとき、聖霊であるハイヤーセルフ(高次の自己)を100%活用していく習慣を養っていくと、「自分一人で何でも解決しなくては!」という強迫観念も消えていきます。 またこの世界の怒り、恐れ、憎悪、非難、批判などのネガティブな感情が表現されているところに対して、聖霊の解釈を適用すると、それらのすべては愛を求める叫び声と受け止め直せるようになってきます。 今までの私たちのやり方、つまり自我の範囲で行動して解決しようとするやり方だけでは、たとえ一生懸命に努力したとしても決して満たされない、というサイクルを生み出し続けます。欲望は、満たしても満たしても決して満たされることがなく、やがては、その欲求を満たせない自分を始めとし、満たしてくれない誰かを非難し、否定し、痛めつけ、苦しみ続けろと命令し続けます。そのような形で、その声は私たちの無意識の中で罪悪感から解放されることを拒み続けます。 そして、そのような理不尽なわけのわからない苦しみに私たちは抵抗できず、人や環境に問題があるようにすり替え、自分の内なる憎悪や敵意をみないようにし続ける思考システムが隠され続けます。これがコースで言われているエゴの思考体系と言われるものです。 これを解消することが難しいのは、無意識に巣くっているからです。 顕在意識は10%ぐらいだとすると、残り90%の中にこの思考体系をもっているため、なかなか、この思考体系を自分の力だけで変えようとしても、また逆戻りになってしまいがちになるということです。 このエゴの思考システムは、この幻想世界の中に私たちを単なる身体として印象づけさせるように仕向け続ける働きを持ってます。 コースは、私たちの心に指令を与える二つの声のちがいをまず意識的な作業の中で浸透させます。そのあと、私たちの本来の自己であるハイヤーセルフに無意識の分離という幻想によって生み出され続ける罪悪感を赦しに変換してもらう作業を、第2の天性になるまで習慣化する実習を行うことで、心の平安へと導く方法でもあるようです。 今日、365日の言葉をピックアップしている作業中に「赦し」の処方箋の手引きがありましたので、これもご紹介しておきます。 ******************************** 「赦しについて」8-335 赦すとは、兄弟があなたにしたとあなたが思っていることは実際には起こっていないと認識することだ。それは罪を免じることによって、対象を現実にすることではない。それは罪などないと見抜くことである。その見方の中で、あなたのすべての罪が赦される。 ******************************** 7-309より抜粋。 「コースの赦しの処方箋の手引き」 「a」原因を明らかにする。 「b」その原因を手放す、そして 「c」入れ替える。 これが神を思い出す道よ。「コース」は、このプロセスの最初の二つにはあなたの協力が必要だとも言っているわね。でも最後のには必要ない、と。言い換えれば、聖霊の仕事の部分はあなたの責任じゃないの。 だから聖霊を信じなさいって言ったのよ。だけど、つきつめればあなたはまさに「彼」であり、「キリスト」なんだから。聖なる三位一体には分離なんかない。あれはキリスト教的な考えを理解させるための神学的な工夫ですからね。真の赦しを通じて、あなたは自分がJと聖霊と同一であると-神とキリストと一つであると気づくでしょう。天国では差異なんて認められません。だってそんなものはないんだから。 ******************************** 「真の赦し・思考プロセスの実例」7-331 あなたは本当はここにはいない。もし、私があなたに罪があるとか、あなたが問題の原因だと考えるなら、そして、私があなたをつくり上げたのなら、創造された罪や恐怖は私の中にあるに違いない。神からの分離は決して起こっていないのだから、私は自分たちが本当はしなかったことについて、私たちの「両方」を赦す。こうして存在するのは無辜だけであり、私は平和のうちに聖霊と一つになる。 ******************************** 神の使者のメッセージが何を伝えたいか?については、このような形だけではわかりにくいと思います。興味を持たれ、早く知りたいと感じられる方は、「神の使者」を購入され読まれるとスッキリしますよ。また、ACIMを実践する前に読まれると、よりコースの内容が深く入ってきたり、全体像がつかみやすくなると思います♪ 私、完全にACIMと「神の使者」の回し者状態のようです♪ もちろん、無償ですけど(笑)♪
2007.12.24
コメント(2)
テキストに混沌(カオス)の第一法則が記されていたのを覚えているかい?-中略 *これがあなたがたがつくった世界を支配している法則である。しかし、この法則は何者も律してはいないし、この法則を冒す必要もない。ただ見て、その先へ行けばいい。 混沌(カオス)の第一法則は、真実は人によって異なるというものである。これは全ての原理と同じく、それぞれがバラバラで、他人と自分を引き離す異なる考えを持っている、ということを意味している。この原理は階層的な原理が存在し、その一部はより価値が高くしたがって真実である、という信念から発している。 3-130 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「感想」 神の使者シリーズ-13で、すでにこの文章も書いてましたね 混沌(カオス)の法則は、この相対性の世界の人間関係のあらゆる場面で、実際よく起こっていることだと思います。これは、各人が生まれ育った環境にちがいがあり、さらに教え込まれてきた概念と体験によって生み出された信念体系をベースに、それぞれの真実があるように見えるということだと思います。 そして、一見すると混沌の法則が、私たちを支配しているように見えますが、神の使者の大前提では「神はこの世界(相対性の宇宙)を創らなかった」ということから、この法則のように見えるものも、真実(真の現実)ではなく幻想を構成する単なる要素である、ということになるわけです。 主体と客体が当たり前のようにあると考えられている、この世界の現実と前提そのものの中で観察されるもののすべてについて、ACIMの考え方の中では、あっさりそのすべてが「夢」と定義されているわけです。 ですから、バラバラの真実のように見えるものは真実ではないので、何者も法律のように縛りつけることもできないし、拘束力ももたないので冒す必要すらないということになります。 そして、その混沌・幻想を見て、真実(神はある、それ以外に見えるものは幻想)だけを見るようにする、という選択肢があることを思い出せばよいということです。 混沌の原理は、この世界の中にある全ての原理や法則だと考えられているものと同じで、それぞれがバラバラで、他人と自分を引き離す異なる考え、つまり主体と客体が存在する、相対性があることを基づいていることが前提なので、それが存在し得ない究極の現実においては何ら意味をなさないということになります。 最後の文章で、混沌の原理は、階層的な原理が存在するという内容は、分離が存在するように見える階層構造の中で、一貫する「共通項」や「法則」を探し出していけば、たくさんの人の同意が得られるようになり、その一部はより価値が高くなり、それを真実として結論できるであろう、という論理の展開だと思います。 ↑ ここは私はあくまでこのような意味だと自分なりの解釈が入っていますので、もっとわかりやすい説明があるようでしたらコメントしていただければ嬉しく思います♪ ↑ 上の私の解釈はどうもちがうようなので「訂正」したいと思います。また、ACIMそして神の使者の考え方の実践者でもある「でぃ-さん」が、わかりやすい表現を教えてくださいましたので、こちらも参考にされるとよいかもしれません。 ******************************** 以下の文章を この原理は階層的な原理が存在し、その一部はより価値が高くしたがって真実である、という信念から発している。 ↓ 「すべての原理は、レベルの高低があるという幻想と、「どれかが他 よりも価値が高いから真実なのだ」という思い込みから発している。 こちらのほうがわかりやすいかもしれませんね♪ ******************************** ACIMを採用するまでには、今まで私たちが信じ体験してきたものをゼロ点からリセットする必要があるので、人によっては信じたくない、見たくない内容なので遠ざけたいと感じられる方も多いように思います。 私もそうしたいのは山々なのですが、逆に今日の混沌の法則というテーマから生まれるイライラにむかついてしまうので、そのイライラの原因について、このシリーズを深く学ぶことを通して見極めてやろうと考えているところです。 話を少し変えますが、今日のテーマの信憑性を私なりに考えてみました。私たちは自分自身の知覚や感覚を重視していることから、頬をつねってみて「夢じゃない~、痛いし、これは現実だぁ~」って成るわけですが、知覚自体が分離に基づく階層構造-「刺激→感覚受容器→痛み」を感じる-という時系列の図式が存在するので、この知覚そのものも幻想ということになっちゃうわけです。つまり痛みがあるからって、それが現実じゃないんだよん、ってことです。 ひょっとして、数十年先の未来のバーチャル・リアリティ・ゲームで、すべての感覚を生み出せるゲームができたとすると、私たちが感じている知覚の世界はまさにゲームの中の幻想とイコールである図式になっちゃう訳です。これが私のような凡才の頭でも想像できちゃうくらいですから、そのようなゲーム機が登場することも、私が100歳ぐらいになったときには当たり前になっちゃうかもしれませんね♪
2007.12.22
コメント(0)
教えることは示すことである。 (神の教師として示すという意味は、赦しを実践すること) 3-128 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** *教えることは示すことである。 たいていの学習者は、この教えを伝統的な教師対生徒という形式でなければいけないと思っている。だが「コース(奇跡のコース)」には伝統的なところなどほとんどない。「コース」を教えようとするよりも、学ぼうとするほうがずっとうまくいくんだよ。 ゲイリー: 誰でもテキストを解釈したがるんだろうな。それがふつうの傾向だと思うよ。 アーテン: J(イエス)が「コース」を教えではなく解釈の対象とするつもりだったら、そもそもこんなものは与えなかったとは思わないかい? 君たちがいろんな見方をするのをほうっておけばいいじゃないか。君たちは一見バラバラな存在として、ずっとそうやってきたんだからね。 「奇跡のコース」をほんとうに理解すれば(ということは滅多にないが)、可能な解釈はたったひとつしかない。君たちがこれを変えようとすれば(たいていはそうする)、もう「奇跡のコース」ではなくなる。 テキストに混沌(カオス)の第一法則が記されていたのを覚えているかい?-中略 これがあなたがたがつくった世界を支配している法則である。しかし、この法則は何者も律してはいないし、この法則を冒す必要もない。ただ見て、その先へ行けばいい。 混沌の第一法則は、真実は人によって異なるというものである。これはすべての原理と同じく、それぞれがバラバラで、他人と自分を引き離す異なる考えを持っている、ということを意味している。この原理は、階層的な幻想が存在し、その一部はより価値が高く、したがって真実である、という信念から発している。 パーサ: 誰でも自分の真実を発見し、表現しようとしている。でも、その人たちの言う真実とは、じつはいまの場所に留まるためのものなの。 Jが「コース」で教えているものは、すべての人の真実は違わない、ということ。相対的ではないのよ。あなたがたが理解してもしなくても、同意しなくても、真実は真実である、と彼は言っている。真実はあなたがたの解釈の対象ではないし、「コース」も同じこと。彼が「師」で、あなたがたは生徒。そうじゃなかったら「コース」を勉強したってしかたがないでしょ? 心が勝手に走り回るままにしておけばいい。酔っぱらっていればいいのよ。 ゲイリー: それじゃ、「これらの言葉の(真の-私による補足-)解釈を見出す者は死を味わうことがないだろう」というあんたの福音書の言葉は、可能な解釈は一つしかない、って意味なんだね? パーサ: そのとおりよ-あなたいい線をいってるじゃない。言いたいことを正確に伝えるためにJは7年かけたし、その女性も全力を尽くしたから「コース」は高度なのよ。 ******************************** 「感想」 この文章を読んでから、私自身もこのような姿勢で「学ぶ」ということを始めました。私自身、今まで勝手に解釈して、わかったような気になって偉そうなことばかり言ったり、書いたりしている傾向があったからです。それに、学ぶことのほうがとってもメリットがあるということです。同じく「神の教師」の中で、どこに書いてあったか忘れましたが、一番成長できるのは教師ではなく生徒である、という言葉がそのメリットにあたります。 またコースが従来の宗教と違うところは、盲目的に信じろ、ということではないからです。真実と幻想の対比を行うことで、どちらが真実であるのかを生徒自身に見極めさせるエクササイズがあることも、コースの大きな特徴だと思います。 私はよく知ったつもりになります。でも、ここでちょっと今の自分を見て、本当の意味で学ぶ必要がなくなったなら、もうそのときは完全なる「悟り」を開いたということだと思います。 でも今の自分をみてみると、少しのことでも動揺する自分がいます。 そのような自分は、やはり頭だけでわかったふりをしているだけってことは一目瞭然だと思うのです。 明日、明後日で紹介する予定の神の使者の言葉ですが、 *これは心の訓練をするコースである。 *訓練されていない心は何も成し遂げられない。 以上の言葉は、一瞬一瞬移り変わる出来事の中で振り回されがちな自分を正直にみつめるうえで、何を目的にこのコースを学ぼうとしているのかを、自分自身に思い出させてくれる言葉だと感じています。 以前の私は、真実は一つではない、と名探偵コナンの言葉を否定していましたが、今では名探偵コナンの言葉のほうが真実になってきています。お恥ずかしい限りです・・・
2007.12.21
コメント(0)
奇跡は癒しの雨のように、飢えて渇いた生き物が死にかけている 乾ききったほこりっぽい世界に天から降り注ぐ。 3(奇跡)-124 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「ACIM-31章-7-もう一度選ぶ-からの抜粋」 誘惑は、どんな形であれ、またどこで生じるのであれ、一つのことを教えようとしている。 神聖な神の子(本当の私たち)に向かって、あなたは身体であり、必ず死ぬ定めを持って生まれ、その弱さから逃れることはかなわず、何を感じるかは、それの命令に縛られた身だと説得しようとする。そんなものが、その神の子に何ができるか限界を定め、その体力が神の子の持てる唯一の力で身体が届く狭い範囲でしか、ものごとを把握できないとする。 あなたはこんなものになるつもりだろうか、もしキリストがあらん限りの栄光のうちに現れて、あなたに一つだけ次のように頼んだらどうだろう。 この世界の救い主の一人としての本分を取るのか、それとも地獄にとどまって、兄弟たちをそこに引き止めておくのか、もう一度選んで欲しい、と。 キリストはすでに来ているし(肉体的な再臨としてではなく←私の補足)、こうして欲しいと確かに頼んでいるのである。 どのようにして、この選択をしたらいいのだろうか。 それは簡単に説明できる。あなたはいつでも、自分の弱さと自分の内なるキリストの強さのどちらかを選ぶ。そして、あなたが選ぶのは自分で本物だと思っている方だ。 ただ決して弱さに指図されて行動したりすることがなければ、それに何の力も与えることにはならない。そして、あなたの内なるキリストの光に、自分のおこないすべての責任をもってもらうことになる。それというのも、あなたが自分の弱さをキリストに手渡したので、かわりにキリストの強さが与えられたからである。 いろいろな試練は、自分が習得しそこなっていることがらが、再び現れてきただけであり、前の時は間違った選択をしてしまったとはいえ、こんどは正しい選択をすることができるわけで、そうすることによって前に選んだことがもたらした、すべての苦しみから逃れられる。 どのような困難に直面していようと、どれほど悲嘆にくれていようと、困ったことがあるたびにキリストはあなたを呼んで、「わが兄弟よ、もう一度選んだらどうだろうか?」と優しく言ってくれる。 中略 あなたが作る偶像は、神御自らがあなたに成らせようとしておられる姿に勝ることができない。では、決して誘惑を怖がらずに、それは単なる誘惑に過ぎないと見なし、もう一度選ぶ機会を与えられているのだと思って、あなたが以前ありとあらゆる状況で掲げた自分自身の偶像には、キリストの力強さで打ち勝つがいい。キリストの顔を隠しているようにみえるものは、そのキリストの威厳の前では無力であり、キリストが目にする神聖な光景の中ではかげも形もなくなる。 この世界の救い主たるものたちとは、キリストと同じように見ようとする者、キリストから離れて見るという自分たちの弱さのかわりに、キリストの力強さを選ぶ者たちにすぎない。その人たちは、この世界を救うだろう、神の御意志のもてるすべての力のうちに心を一つにしているのであるから。そして、その人たちが意図することは、神が意図なさることだけである。 では、自分自身を弱くて惨めなものだと知覚させようとするような誘惑には、そのすべてに明るい気持ちでつぎのように応答する習慣を身につけるがいい。 自分は神が創造してくださったままの姿。 神の子は、何一つ苦しむはずがない。 そして、自分はまさにその神の子である。 以後、省略 ******************************** 上記の文章から、ACIMの意図をご理解いただけると思います。 つまり、キリストとは私たち一人一人のことです。 聖書の世界で現れた肉体としてのキリストは、生きながらにして聖霊とひとつになった尊敬すべき兄のような存在であり、私たちはその兄であるキリストと決して離れてはいないし、同じ存在だということです。 私たち一人一人の本質は「神の子」であり、神の子の本質は肉体ではないということも書かれています。 肉体がもたらす不足や欠乏という感覚は、私たちが生きる上で何かが必要である。そして、その必要性を満たすために何かをしなければならない、という欲求を起こし続けます。 もちろん、同時に私たちは肉体を持っていますから、ACIMが示すような夢物語はどうしても信じられないと感じる方も多いと思います。 ただ本当に苦しいとき、今まで精神的にも完全に頼れる確かなよりどころになる存在はなかったと思います。ACIMによってキリストは本当に頼れる存在なのだろうか、そしてキリストそして神が本当に意図していることとは何か?が示されていると私は最近よく感じています。 これは新しい宗教というより、自分の中の内なるキリストと一つになるツールです。少々というか、かなり読みづらいものですが、一緒に楽しんでいただければ幸いです♪
2007.12.19
コメント(0)
あなたに与えられているすべては解放のためにある。 視力、ビジョン、内なるガイドはすべてあなたをあなたが愛する者 と一緒に、そして宇宙と一緒に、地獄から連れ出して導いてくれる。 2-123 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「神の使者の文脈抜粋」 多くの人と同じように、君も地獄に行く可能性を心配したことがあったね。だがすでに地獄にいるとは気づかなかった。ヘブライ人の古い神秘主義の伝統には、地獄とは‘神からの遠さ'のこと、天国とは‘神への近さ'のこと、という言葉がある-これはあたっているね。君が心を導かれて新しい冒険に乗り出すにあたって、認識の宇宙で君が見ているものすべてに選ぶべき二つの目的があることを忘れないようにしなさい。 一つは君を囚人のままにつないでおこうという目的で、もう一つは君を自由にするという目的だ。君が見ているものについて聖霊の解釈を選ぶなら、次の言葉のとおりだと気づくだろう。J(イエス)が新しい聖書のなかで教えているとおりだと。 *あなたに与えられているすべては解放のためにある。 視力、ビジョン、内なるガイドはすべてあなたをあなたが愛する者 と一緒に、そして宇宙と一緒に、地獄から連れ出して導いてくれる。 ******************************** 「感想」 上の文章を読まれて、「何ですとぉ~ここは地獄なんですか~?」と感じられた人もみえると思います。 「そう、まさにそうだ~」と感じられる人もみえるかもしれませんし、「これが地獄ならまぁまぁ~だなぁ~」とか、「いや、そんな言葉は信じられない。この世界はすばらしい。」と色々な反応がかえってくるように思います。 それぞれの中で感じられることはあると思いますが、この世界について一つ言えることは、ここは相対性の世界であるということです。 そして、相対性を感じている知覚を、聖霊のビジョンに置き換える方法を身につければ、相対性の幻想から抜け出せる可能性が、ここに示されているように思います♪ 「あなたが与えられているすべては解放のためにある。」というのは、自分とはちがうものが存在するという相対性の世界の幻想や知覚の制限を超え、この世界で起こっているように見えることすべては「幻想・夢」であることに気づくことで、真の自分が現れ、真実(神・天国)が見えてくる、ということだと思います。 ACIMの中心的な教えは、「(私たちが現実だと信じているこの)世界はない!(6-276)」という考え方にあります。この世界が現実であると信じる心をゆっくりと変容させ、心の平安を取り戻す技術として活用することもできます。 「視力、ビジョン、内なるガイド」とは「聖霊」であり、私たちのより高い自分(=ハイヤーセルフ(7-294))であり、私たちの本質、そしてキリストであり、神の子であるということです。また、聖霊は「神の声」という表現ではなく、「神のための声」、そして「聖なる精神6-271(私の理解では神のエッセンス)」と書かれています。 聖霊がハイヤーセルフと考えられている理由は、6-274で「神は天国で君にそのメッセージを与えた。聖霊はそのメッセージについての君の記憶」と書かれていることから。 その他、聖霊はあなたの心の中のキリストの心である部分に住まっている。6-287(独特な言いまわしや用語に慣れると、ACIMも読みやすくなると思います。) その「真の視力・ビジョン・内なるガイド・聖霊・ハイヤーセルフ・キリスト」の声に従うことで、神から離れていると感じざるをえないこの世界の幻想から離れ、真の現実を見ることもできる、ということが書かれているように思います。 このような姿勢で、この世界を生きられるようになると、この世界にいながら、何が起きても大丈夫だという内なる平安へと導かれるということです。 まだ、私にはわからないけれど・・・ ということで、Mr. Childrenの未発表曲見つけちゃったよん♪ http://www.youtube.com/watch?v=Hgp5pki7wcc&mode=related&search= そんでもって、I WORLD(これ何かわかるかな?) http://jp.youtube.com/watch?v=S5SlA-R79qg&feature=related (桜井さんのライブは、ほんと一つの歌を色んなバージョンで聴かせてくれて、すごいなぁ~) 見つかるのかなぁ~ Not found http://jp.youtube.com/watch?v=yTyNC4Lx7gM&feature=related
2007.12.18
コメント(0)
学びは直線的には進まない。 すべてが心に残るだけでなく、直線的に進行するように見える輪廻の決定も 人間の身体や脳で行われるのではないから安心しなさい。 まったく違ったレベルで、心で決まる。 君たちの無意識の罪悪感を癒そうとする聖霊を助けたか、 自分の役割を果たしたかどうかでそれは決まるのだよ。 2-87 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「神の使者の文脈抜粋」2-87 ゲイリー: あんたがたの話を人がみな拒否したら、あるいはしばらく従っても、そのうち放り出してべつの方向へ行ってしまったら、どうなるんだい? アーテン(聖霊): そうなるかもしれない。だが一部の人たちはついてくるだろうし、活用するだろう。細かいことは気にしなくていい。どんな教えも決して無駄にはならない。学んだことはいつまでも君の心に残るよ。消えてしまうことはない。自分ではわからなくても、やっぱり残っているんだ。 だから、この生涯で天国に行けるかどうか、あんまり心配しなくていいのさ。 *学びは直線的には進まない。すべてが心に残るだけでなく、直線的に進行するように見える輪廻の決定も人間の身体や脳で行われるのではないから安心しなさい。まったく違ったレベルで、心で決まる。君たちの無意識の罪悪感を癒そうとする聖霊を助けたか、自分の役割を果たしたかどうかでそれは決まるのだよ。 前にも言ったが、何が起こっているように見えても、君の心はすべての情報をもっているんだ。 ******************************** 「感想」 ACIMそして「神の使者」の考えでは、神からの分離を信じる心がつくり出したこの相対性の世界のすべては「夢」であるというスタンスを取っています。 なかなか、そのような考えを信じ実践して生きることは難しいことだと思います。この夢を終わらせるどころか、逆にいつまでも夢の世界を生き続けたいと思われる方も多いと思います。私もまだこの世界が提供する誘惑の数々に迷いっぱなしです(笑)。 ただ、この教えの核心は、「神以外はメタファー(隠喩)」であり、この相対性の中で、「私たちが遭遇する問題はたったひとつしかない」と書かれています。 神から分離したように見える、ということ、そしてそこから派生して生まれるあらゆる恐れによる罪悪感・苦痛・死という幻想の数々。 ACIMでは、相対性の世界で見る狂気から逃れるためには、統一ではなく違いや区別を強調する手法がとられています。 その理由として、私たちが身体と物質だと信じこんでいる世界の中で何が起こっているのかを見極める作業が必要になるからです。 その方法を知るためには、Jや聖霊の姿勢と、この世界の中で繰り広げられている分裂を望む心の仕組みとその背景を知り比較しなれば、何が起こっているのかわからないと言えます。 6-282で聖霊アーテンが、おもしろい比較の例を出しています。 聖霊は君に真の力を教えるが、エゴ(分裂した心)は君たち男性に、それから解放された女性全員にマッチョになれ、タフになって競争で人をけ落とせ、さもないとチーズを誰かに取られるぞと言う。 それで証明されるのは、彼らがどれほど恐れているかってことだ。だって恐れていなかったらタフになる必要はないんだからね。実は彼らは自分でも知らずに愛を求めているんだよ。 ******************************** この考え方を採用するまでに、人はかつてこの世界で夢み欲しがった数々の幻想のオモチャを自主的に手放す段階に成熟する必要があるのかもしれません♪
2007.12.17
コメント(0)
イエスはよく最後に「神はある(God is)」 と言って立ち去っていった。 2-77 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「神の使者の文脈抜粋」2-77 J(イエス)は私と二人きりの時、世界はただの無意味な夢だとよく言っていた。でもたいていの人たちはそんな考え方を受け入れられなかった。そうではないという体験があまりに強烈だったからね。 それで彼は"世界は幻想であると知るだけでは充分ではない"と強調したのよ。グノーシスや初期キリスト教徒の一部も世界は夢に過ぎないと言ったし、ヒンズー教ではマーヤ(幻)、仏教ではアニッカ(無常)と言うわね。どれもだいたい同じことを言っている。 でもその夢の目的と見ているイメージの再解釈の仕方がわからずに、世界は幻想だと漠然と教えるだけではあんまり価値はないわ。 でもJはいつか聖霊が人々にすべてを教えるときがくる、そして誰でも神だけが現実であるとわかる、とも言ったの(私たちもあなたにJの新しい教えを伝えることで、それに貢献したいと思っているわけ)。 Jはよく最後に「*神はある(God is)」と言って立ち去っていった。 それから、これもあまり指摘されていないけど、Jはとても優れたユーモアのセンスがあった。彼ったらほんとうにおもしろかったのよ。 笑うのが大好きで、人を楽しませてくれたわ。 ******************************** 「感想」 ACIMが存在しなかった時点では、聖書という媒体からしか、イエスという存在を知ることができなかったのですが、「神の使者」やACIM(奇跡のコース)でヘレン・シチュクマン博士を通してもたされたイエスのメッセージに目を通すことで、私たちは新しい視点を手にすることもできると感じています。(もちろん、それが真のメッセージであるかどうかについては、各個人の中でそれを見極めればよいと思います。) 私はこれが新しい聖書であると言いたいわけでもありませんし、また奇跡のコースの目的も、それを目指していません。 私たち一人一人の目覚めによる視野の拡大、源(神)と各個人とのパイプを強化することで、内なる奇跡そして平和を誰もが得ることができる状態をただ目指しているように思います。 内と外という分離もなく、一つの真実から物事を新たな目で見直すプロセスをたどることで、すべてを愛でる内なるキリストが私たち一人一人の中で目覚める可能性が高まるような気がしています♪
2007.12.16
コメント(2)
彼(イエス)の心はもともとの場所である聖霊のもとに帰った。 君たちの心の本来の場所も同じだ。 君たちはそれを取ってきたのだから、また戻さなければならない。 2-74 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「神の使者の文脈抜粋」2-73 ゲイリー: もし僕たちが夢を見ているなら、どうして別々の体験をしたり、同じ体験をしたりするんだろう? たとえば誰にだってあそこの窓から山が見えるだろう。 アーテン(聖霊): それは夢は一つしかなくて、それが共通の体験だからだ。心は自分を分裂させ、分裂したそれぞれが別の視点から夢を見ている。それが個別の体験なのだよ。中略 ゲイリー: あなたがたはJ(イエス)が人々を自分や神と同じ-制約のない完全な-存在だと見ていた、と言ったね。すると僕たちが他の人間や神に見るそれ以外の性格は、本当は自分たちに関する無意識の信念なんだな? パーサ(聖霊): あなたが見かけほどお馬鹿さんじゃないのはわかっていたわ。 いえ、冗談-わかるでしょ? ゲイリー: ああ、わかるよ。しかし口の悪いマスターが現れちゃったもんだ。 パーサ(聖霊): そうね。でもそれもこれもあなたにわからせたいからよ。 本題に戻ると、私たちはユダヤ人として、一神教である自分たちの宗教が多神教に比べて大きな飛躍を遂げたと本気で思っていたのね。 私たちのほとんどは、一神教が古代エジプトのアクナトーンから発展したこと、その一神教もそれを引き継いだ私たちの一神教も、それまでの神々の善悪ひっくるめたいろんな性格をいっしょくたにして一つの神にしたものだ、ってことを知らなかったのよ。 ゲイリー: ぐちゃぐちゃのいろんな神々の代わりに、ぐちゃぐちゃの神が一つできたってわけか。 アーテン: そうそう! もちろん、ほんとうは神は一つであり、その神はぐちゃぐちゃなんかじゃないし、Jだってそうだ。彼はこの世界を赦した- *彼(イエス)の心はもともとの場所である聖霊のもとに帰った。君たちの心の本来の場所も同じだ。君たちはそれを取ってきたのだから、また戻さなければならない。 君たちに伝えるメッセージがある。本当の場所に戻るまで君たちは決して幸福になれない、ということだ。どの生涯においてどんなことを達成したと想像しようとも、何かが足りないと感じるだろう。 なぜなら、君たちの幻想ではいつでも何かが欠けているから。 ******************************** 「感想」 ん~私たちはよりよい自分が住む世界をつねに夢見続ける存在ってことですよね。 過去・現在・未来のなかで探し続ける・・・ それが当たり前のように・・・ そして、いつかこの世界で何の心配や制約もなく、肉体的な存在でありながら、各人が創造的に生きられる状態を望んでいる・・・ パーサやアーテンが、そんな世界は未来永劫ないよって言ってるみたいに聞こえますね・・・ さてさて、困ったもんだ・・・ もう一つ困ったこと・・・じつはあんまり困っていないけど・・・ 私たちは「夢」というものをとっても大切にしています。 歌の世界でも、夢を追い続け、それをあきらめないことが私たちが希望を失わないための方法というイメージをわかせます。 でもACIMや「神の使者」では、この世界が、そもそも夢だから、神と天国だけを見なさい。夢そのものを消去しようという試みとなります。 なかなか受け入れがたい考えであることは、 間違いなさそうですね・・・
2007.12.14
コメント(0)
(一部の仏教が正しく教えているとおり、全てを考えている心は一つの心で、この心は完璧に時空の幻想の外側にある。そして、ある例外をのぞいてどの哲学も教えていないし、ほとんど受け入れられない真実がある。) この心そのものすらもまた幻想だという真実だよ。 2-61 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「神の使者の文脈抜粋」 一なるものしかないのなら、存在するように見えるそれ以外のものは明らかにすべてでっちあげだ。さらに-ごく最近までどの教えもちゃんとした答えを出そうとしなかったが-そのでっちあげには充分に納得がいく理由があるに違いない。したがって世界やそのなかにあるすべてを批判する代わりに、そもそもそれをつくりあげることにどんな価値があるのか、と考えるほうが意味があるのではないか。いまは、その適切な答えは何かと自問することが大切なのではないかな。 ******************************** ここでJ(イエス)の姿勢に話が戻るの。彼の教えは純粋な非二元論、道の終わり、終着点なのよ。 学ぶにあたっての主な四つの姿勢(二元論→半二元論→非二元論→純粋な非二元論/1-35/1-53)はどれも長い道のりで、ときにはピンポン玉のように行きつ戻りつすることを忘れないでね。聖霊は道筋を修正してくれるし、正しい方向に引き戻してくれるでしょう。道を見失ったからといってがっかりしなくてもいいのよ。Jを含めて、この地上に生きた人で道を外れる誘惑に負けなかった者は誰もいない。間違いのない完璧な一生なんて神話は、自滅につながるだけの無用なものよ。必要なのは修正を受け入れる意志だけ。2-61 ******************************** 二元論、半二元論、非二元論、純粋な非二元論については、いずれまとめてみたいと思います♪
2007.12.13
コメント(0)
心は神に帰らなければならない。 (純粋な非二元論/心という分裂自体を元(神)に戻す原理について) 2-60 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「神の使者の文脈抜粋」 アーテン(聖霊): だから、現実的であってはいけないとか、自分の人生を大切にしてはいけないとは決して言わないよ。ただ、君たちのボスはこの世界にはいない、というだけだ。自分のことは自分でして、自分がボスだというふりをしたいのなら、それでもかまわない。自分が一番いいやり方をすればいい。自分を大切にしなさい。我々が関心を持っているのは、君たちの行動と見えるものではなく「心の姿勢」なんだ。いずれ君たちは、自分が生きるためにすることはみんな、幻想の中の自分を支えようとする幻想で、幻想そのものを支えるのではないことに気づくよ。 今までの話を聞いて、非二元論(神から分離したかに見える心と一つになる方法)をとればすべての判断や信念に関する疑問に答えられそうだと感じたかもしれない。さらに主観とか客観などというものはじつはなくて、一なるものがあるだけだと気づいただろう。まだ君にわかっていないのは、それが真の一なるものの模造品に過ぎないことだ。 神から分離したかに見える心と一つになること(非二元論)と、【神そのものと一つになること】の違いがわかっている者はほとんどいない。 *「心は神に帰らなければならない。」 とはいえ、非二元論もいずれ通らなければならないステップだ。そこで君たちは、何かをその他から分かつことはできないし、何かをきみ自身から分かつこともできないと知るんだからね。 *【】、()の部分は、私が補足したものです。 ******************************** 「用語、解説」神、天国、キリストについて 4-168 アーテン(聖霊): 始まりの前には、始まりも終わりもなかった。あったのはただ永遠の「恒常」だけで、それはいまも-そして永遠にあるはずだ。また、あったのは欠けることのない一体(oneness)という意識だけ、この一体はとびきり完全で、とびきり驚異で、その喜びの広がりは無限であり、だから何者であれ「それ自身」以外の何かを意識することなどまったく不可能だった。過去も現在もこの現実にはただ神だけがある-この現実を我々は「天国」と呼ぶ。 神が自らの延長で創造するものは「キリスト」と呼ばれる。だがキリストはどの意味においても神と離れていないし、異なってもいない。 キリストは神の「一部」ではなく、全体の延長なのだから。真の「愛」は分かち合われなければならず、神の宇宙の中で分かち合われる完璧な「愛」はあらゆる人間の理解を超えている。 人間は全体の一部のように見えるが、キリストは全体のすべてだ。 キリストと神を区別する唯一の方法は-区別が可能なら-神がキリストを創造した、ということだろう。神が創り手だ。キリストは神も自らも創りはしなかった。だがこのことは、その完璧な「一体性」のゆえに天国では問題にならない。神はまったく曇りのない想像を超えた無限のエクスタシーのなかで永遠の「愛」と喜びを分かち合うために、まさに神のような存在としてキリストを創造したんだよ。 君たちが今いるように見える具体的で特定される世界とは違って、この恒常的で魅惑的な認識の状態は完璧に抽象であり、永遠であり、不変で、統合されている。それからキリストは新たな創造によって、あるいは全体の同時的な延長によって、それ自身を拡大する。それもまた神とキリストとの完璧な一体性ということではまったく同じだ。 そしてキリストも神のように創造する-だって神とまったく同じなのだからね。この延長は内側にも外側にも向かわない。なぜなら天国には空間という概念がないから。あるのはあらゆる場所(everywhere)だけ。全ての結果は、完璧な「愛」の無限の分かち合いで、理解を超えている。 ******************************** 「続き」4-169 霊の無邪気な考え =キリストのほんの小さな側面に、 神と分かち合えない考えが現れたかのようにみえる、 もしくは、何か別のものを意識したかに見える状態。 =「もし?という考え」 =心という幻想の誕生 =二元性の誕生 次に夢の中のようにほんとうは起こっていないことが-ただふっと現れることが-起こるように見える。ほんの一瞬、十億分の一秒もの、ごくわずかな一瞬に、キリストのほんの小さな側面に、神と分かち合えない考えが現れたかのように見える。 それが「もし?」という考えだよ。 疑問の形をとった無邪気な思いだ-だが残念なことに、あとに答えのないようなものが続く。その疑問を言葉で表せるとすれば、「もし私が出て行って、自分勝手にするとしたら、どうなるかしら?」ということだ。無邪気な子供がマッチで遊んで家を全焼させるようなもので、この疑問の答えが見つからないほうが、君たちはずっと幸せだったろう-この状態が必然的にもたらすかのような"恐怖"と過ちとたちの悪い防衛という状態が、無辜の状態に入れ替わったかに見えるのだからね。 君たちの考えは神のものではないから、神はそれに答えはしない。 答えれば現実性(リアリティ)を与えることになる。神自身が完璧な一体という考え以外の何かを認めるとすれば、もう完璧な一体は存在しなくなる。君たちが戻るべき完璧な天国もなくなるだろう。 これでわかるとおり、君たちはほんとうはそこ(天国)を離れてはいない。今もそこにいるのだが、幻想という悪夢に入りこんだのだ。 君たちが夢の中で旅をしているあいだ。つねに一体である神とキリストは過去もこれからもいつも同じだ。 J(イエス)が「コース」で、分離という「小さな狂気の考え」と言ったものにはまったく影響されない。 この個別化のように見える宇宙的な一瞬に-君たちが個別化をどれほど魅力的だと思ったとしても、結局は分離以外の何者でもない-キリストのごく小さな面が何か別のものを意識したかに見える。 それが二元性だ。こうして一体性の代わりに、君たちは「二つであること(twoness)が生まれる。 以前は天国の完璧な一体性があるだけで、それ以外は何もなかった。 それが非二元性、あるいは「二つとないこと」だな。今でもそれが現実(リアリティ)だよ。ほんとうは一つしかないのだが、君たちには何か違うことが起こっているように見える。神とそれ以外の何かがあるように見えるんだ。これが二元性の幻想であり、君たちが際限のない主体と客体を認識する複数性の世界はただ分離のシンボルに過ぎない。 君たちが創造しようと試みても、ほんとうは神の力なしに創造できないのだから、君たちがつくりだしたものは全て、結局はバラバラに崩壊する。 世界に赤ん坊が生まれてくるたび、神の元での完璧な環境-すべてが至福の状態で完全に自足し満足している-から離れる瞬間が再現され、地獄のような現実と思われるものにいきなりひっぱたかれるわけだ。 誕生を奇跡と思うかもしれないが、赤ん坊は微笑みながら生まれてくるかい? ******************************** 今日は、図書館に行って「心と脳の関係」、驚異の小宇宙人体「脳と心」のシリーズなどを借りてきました。 ざぁ~っと読んでいて感じたことは、現在の認識では、心は脳を通して、神経系の伝達様式であるシナプス、そして神経伝達物質によって感情が表出されているというような内容が書いてあるようです。 科学的な視点では、あくまで身体の中で心が表出される経路という視点で述べられているようです。電気的なエネルギー伝達の経路、心の表現である多彩な感情が外界の反応によって起こることは説明されていますが、それ以上の説明「心がなぜあるのか?」という答えはやはり謎のようです。
2007.12.12
コメント(2)
イエスの身体に大きな意味をもたせる という重大な過ちを犯したんです。 2-43 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 「神の使者の文脈抜粋」 パーサ: 私たち自身には聖霊以外のアイデンティティはないから、私たちは聖霊の表れで、私たちの言葉は聖霊の言葉ってことね。十字架にかけられたJ(イエス)が肉体をもった姿で現れたのは、私たちとコミュニケーションするためだった。墓の中の出来事でわかるように、彼の心は身体を出現させることも消すこともできたの。でも当時の私たち(聖トマスとしての生)にはそれがわからなかったから、「*Jの身体に大きな意味をもたせるという重大な過ちを犯したんです。」 本当は身体なんてどうでもよくて、重要なのは心なのに。 でも私たちを熱狂的だと批判するには及ばないわ。だって、疑いもなく死んだとわかっている誰かがおしゃべりにやってきたら、しかもその人に触れて本物だと確かめることができたとしたら、どんな思いがするかしら? 2-43より抜粋。 ******************************** 「今の私が理解していること」 旧約聖書、創世記の記述では、神が私たちが現実だと信じているこの世界を創造したと書かれています。 しかし、神の使者・ACIMによるイエスのメッセージでは、「神は(この物質的な宇宙や)世界を創らなかった」と言っています。このようなことをキリストが生きていた当時の世界で話すことは、生命に関わることでもあったようです。 このような矛盾が存在する背景は、聖書という書物が、歴史のなかで時の権力者にとって都合のよいものに改ざんされ続けてきたという背景があるということです。 また、多くのキリスト教の会派(聖書の解釈やあとで発見された福音書の違いなどにより2万以上の会派が存在するそうです)は、イエスが説いた霊性の道についてではなく、この物質世界において、キリストの肉体的な復活が起こり、永遠の命が得られ、キリスト教を信じるものによる地上天国が実現することだと考えているようです。 一方、ACIMによるイエスの教えは、夢の世界(私たちが信じている宇宙)を変えようという強迫観念にとらわれた組織をもうひとつ作ろうというのではなく、夢を見ている者の心を変えることを目指しています。 自学自習のコースを通って一人一人がキリストに変容しようというもので、それが実現されるのは私たちとイエスの間の心のレベルだということです。 究極的な考えとして、 神を除くすべてがメタファー ということになります。
2007.12.11
コメント(0)
あなたは、肉体がべつの肉体をつくり、脳が考えると思っている。 2-42 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出新社書房刊」より抜粋。 ******************************** 「神の使者の文脈抜粋」2-42 パーサ(聖霊) 私たちがどうやって出現するか、あなたにはまだ理解できないでしょうね。心が身体のイメージを投影する、とだけ言っておきましょう。 「あなたは、肉体が別の肉体をつくり、脳が考えると思っている*」だけど、考えるのは心だけ。脳はただ身体の一部よ。あなたも含め、すべての身体を投影しているのは心です。ただし、あなたが自分の心だと思っているちっちゃな心のことじゃないのよ。時空や形の外側にある心の総体のこと。それは仏陀が触れた心でもあるけれど、人々はまだ、神との合体までには一歩、重要な隔たりがあることに気づいていない。 その心が宇宙全体やそれぞれの身体、そこに表れる全ての形をつくっているんです。 ******************************** 「今の私が理解していること」 私たちの肉体は、ご存じのように細胞からできていることは、この世界において常識ですよね。その細胞も精子と卵子が一つの受精卵となり、細胞が増殖する過程で、組織が生まれ、神経系、心臓や他の臓器、そして脳と形づくられ人間という形になります。 この過程は、細胞という材料がなければ起こらないのはもちろん当たり前のことですが、それに先立つ生体電流のように考えられている生命力というような「命」がなければ、増殖することもできません。 (命・霊から分離した心が、物質界でエネルギーのような分離構造を生み出し、何かがあるように見せている? エネルギーという考え方自体も幻想?) 脳にはたくさんの細胞が集まっているので、そこで物事を考えたり感じたりする仕組みがあると考えられています。実際、何かを見たり、感じるたびに「知覚・感覚器官」が神経系という導線を通じて、脳の特定の領域に生体電流が流れるのでそのように見えます。 しかし、どのような知覚情報も細胞と細胞の間にあるとぎれ目があり、液性伝達(神経伝達物質)などが介在するため、私たちが今見たり、感じたりしていることは時空間のなかではつねに今ではなく過去を感じているということになります。 (私たちはいつも過去のイメージをみている?) (私たちはいつも時空間のなかで分離を真実だと信じているので、断片的な過去のイメージを見続ける構造になっている?) ある特定の細胞に記憶領域があると言われていますが、細胞の中にそれが本当に蓄積されるているというのは、とても不思議だと私は思います。もちろん、DNAという身体を設計する構造があるということまで否定しているのではなく、電磁気的なイメージが細胞の中にため込まれているという考えが不思議だという意味です。 何かを見る、そして映像という電磁気信号が脳に投射されるそれを脳が処理して見ていると感じる・・・ ではその映像を受け取り、処理しているのは、脳細胞のような物質的なものなのだろうか? (私は理数系ではないので、よくわからないことだらけなのですが、電気と磁気は切り離して考えられない特性があると聞いております。 そして「電気」は力、物事を動かしている推進力、「磁気」はビデオテープの特性から考え、この時空間の中である物質をつなぎとめたり、‘記憶'をとどめる性質があると私は大まかに考えています。) それとも、細胞自体がホログラムイメージなのだろうか? ここで論理が飛躍していることはわかっていますが、私たちの身体だと信じ、あらゆる感覚を感じるホログラム・イメージを受け取ったりしているのが、実際には脳ではないかもしれない、と仮定したらどうでしょうか? このような仮定は、目をつぶってある動物を思い浮かべるとします。 そうすると鳴き声が聞こえたり、色のある動物が見えてきたり、もっと映像がリアルにつくれるならその動物に実際に触れいかにもそれをなぜている感覚まで合成できるかもしれません。 (私たちは、時空間の中から過去に見た映像の断片を組み合わせ拾い出し、それをみていると信じている?) その映像をつくり出し、見て感じている自分を見ているのは何でしょうか? 人によっては、いやそれもすべて脳によって合成されたものだと考えられるかもしれませんが、自分とは違う何かを認知するという感覚器官の性質上、階層構造を考えないと細胞の中でそのホログラム・イメージをみつけだそうとしても見つけられないと思います。 実際、その本質は電磁気的なイメージに過ぎず、目にある形と次元的に重なり合うことで、それをリアルなものとして信じるようにできているのかもしれません。 またいまこれを書きながら思いついたことですが、すべての出来事や感覚にしてみても、そのすべては私たちの世界で定義されている電磁気的なエネルギー変換と交換現象が行われることで、エネルギーのスパークや点滅があるように見え、それが色づけられ、そのすべてが実際に起こっているように見えるということが考えられます。(エネルギーの点滅・ONとOFFがあるように見えることは、違いを無限に生み出し続ける原動力? ONとOFFというとぎれ目があるという概念が幻想を創り出す元?) 私たちの知覚できる範囲は、目に見えなくなる領域に近づけば近づくほど煙幕が張られ、その先を見えなくする性質があるように思います。 私たちが時空間という舞台の中で、一見違う何かが存在し、宇宙の物語、人生がくり返し上映されているように思えます。 しかし、私たちの細胞が分裂し続けているような現象をはじめ、違いを創り出す仕組みは、たえず自分とは違う何かがあることを意識させる無意識が関わっているような気がしています。 また、私たちの認識は過去があり、現在があり、未来があるというように時間が一定方向に進み、進化しているように見えますが、すべての映画はすでに時空間のエネルギーと磁場の中にすでにたたみ込まれていて、それを部分的に知覚することで、それが実際に起こっているように見えているという考えがあったように思います。 (ボームの考えだったかな?) さて、今回はさらに私たちが定義している原子と電子についても考えてみましょう。するとここにも分離構造が見られます。 そして、それがなぜ存在するようになったのでしょうか? ここまで来ると神のみぞ知るの領域になってきましたね~ 私もまったくわかりません。 でも、私たちが信じている科学もここら辺がまだよくわかっていないのではないでしょうか? 今日は、科学的ってことを考えたときの私の延々と続く?マークをとりあげてみました。その全てが幻想である可能性を感じつつも・・・♪ わかっていないことをあまりくどくどと論じるのも何ですが、「神の使者」そしてACIMの本当の目的を簡単にご紹介しますと・・・ 神の使者における原題「The Disappearance of the Universe」がその目的を現しているように思います。 それは「宇宙の消滅」という過激な題名です(私たちが宇宙だと信じている幻想そのものを消すということかな?)。 これは、私たちの生存を危うくし、過激な思想のように感じられるかもしれません。しかし、その本来の意味は、私たちが宇宙だと信じ共同創造している分離した心のイメージを消滅させ、輪廻の悪夢を抜け出し、真実の世界を観るということにあるようです。 その真意は、ACIMのテキストに書かれています。 霊は永遠に恩寵のもとにある。 あなたの実在はただ霊であるのみ。 したがってあなたは永遠の恩寵のもとにある。 幻想を終わらせ、ただ源・最も信頼できる場所に帰るだけのことなのかもしれません。 ふとdeviceという言葉が浮かんできたので、辞書を調べてみました。 装置、仕掛け、〔電子工学〕素子、爆弾 この宇宙という大がかりなデバイス・装置 そして人間界の信じている概念そのものをぶっとばすと、 何か新しいものが見えてくるのかな?
2007.12.10
コメント(0)
神と神の王国(天国)にだけ注意していなさい。 2(地下のJ)-39 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社刊」より抜粋。 ******************************** 「今の私が理解していること」 「神の使者」とACIMでは、神は、私たちが現実だと信じているこの物質宇宙そして身体を創らなかった、つまりこの世界のすべては幻想だ、と言っています。 そして、以下のようにも述べています。 神は天国の完璧な一体と異なるものは創造しない。それ(聖霊の思考システムを反映しないもの)以外のすべては、あなた自身の悪夢であって、存在しない。4-173 これはつまり、私たちの本質は「霊(スピリット)」であり、身体を持ち人間であると信じている個別化されバラバラになった意識が、この世界で行っていると私たちが信じていることは、私たちが見ている夢だとこの本そしてACIMでは論じています。 ちなみに天国とは何か?については、 天国の性質-天国は言語に絶するけど、こんな性質があるわけ。 完全で、形がなく、不変で、抽象で、永遠で、無辜で、全体で、豊かで、完全な愛。 これが真の現実、生命よ。 神とキリストとキリストの創造性は完全に一体で、ほかには何もない。 これが「神の意志」-「父の知識」の領域。 天国と対極のように見える知覚の領域- 個別性、姿かたち、具体性、変化、時間、分離、分裂、幻想、 欲望、希少性、そして死。 創世記の二章十六節から十七節- 「あなたは庭のどの木からでも自由に食べていい。 だが、善悪を知る知恵の木からは食べてはいけない。 それを食べた日には、あなたは必ず死ぬ」 善と悪は対極でしょ。天国と対極と見えるものを手にしてしまったら、あなたは死ぬ。でもこの導入部の言葉を始めとして、「コース」が千もの言い方で一貫して語っているように、「全てを包み込むものには対極はない」のよ。4-190 ******************************** さて、この文章を読まれてどう感じられましたか? この世界の常識・知識人と呼ばれる人たちが、最初の一文だけを読んだとしたら、何を馬鹿げたことをと一笑するのではないでしょうか? そして、次にこう問いかけられることになるでしょう。 神とは何だい? 神の王国だって~ そんなものはどこにあるんだい?ってね。 たしかに、これは私たちが目にしているこの世界を見る限り、どこにも見つけることはできないと思います。もちろん、天国に似たような雰囲気をもつ場所はありますが、それでも全てが満たされている場所とはいえないでしょう。 ですから、この世界を完全に現実だと信じられている人にとってみれば、このような話をすること自体、教養がなく、宗教にかぶれている愚かな人間だと、決めつける傾向をもつ人もまだまだ多いと思います。 その方たちにとって、このような話をする人こそが変人であり、短絡的に神について話す人=宗教家もしくは狂人というようになっているわけです。 ですが、私たちが目にし現実だと感じているこの世界のすべては、私たちの科学という分野で定義されている言葉で話すと、すべては「エネルギー」と呼ばれる目には見えないものが変換、交換されて、それがあらゆる出来事を形づくっている事実を忘れていると思います。 つまり、あらゆる知覚の背景にあるものは、目に見えない何か?によって動かされているという事実があります。 科学が発達して、あらゆることが解明されると私たちは信じてきましたが、依然として身体の「死」という状態は残されたままです。 そして、科学の発達の結果、人類が消滅する危険性も孕んでいます。 なぜこのようなことが起こるのでしょうか? それは「悪魔の仕業です」 というのは冗談です(爆) 私たちは、いまだに「私たちという存在がわかっていない」と言えるのではないでしょうか? ところで、あきやんは、ほんと神様マニアだなぁ~と思われている方も多いと思います(ウフ・笑) その通りというか、私が単に探求しているのは、「何を基準に物事やすべての現象を考えたらよいのか?」ということです。 このブレが起こっているうちは、真実をいつまでも間違って解釈し続けることになります。 そう最初の前提のまちがいを見なおさない限り、結局のところ、 ?????????????????????????? の山を時間のある限り考え続けることでしょう。 そして最後の言葉は決まってこうなると思います。 「すべては神のみぞ知る」と・・・ 最初の疑問から、最後の疑問まで、答えを知っているのは神ってことになっちゃいますね。最終的に行き着くところも・・・ 真に知識人であり、教養のある謙虚な人というのは、「私たちには、まだわからないことがある」と言える人だと、私は思います。 私たちが頼りにしている科学も、主体と客体という対象物を研究し続ける性質上、ミクロの世界を超えたところにある何か、マクロの世界を超えたところにある何か、あるいは最初の原因を知ることはできないように思います。 だから、「神を信じなさ~い」と短絡的には言いません。 それに、私自身の今の試みは神を論じることではなく、神を全身全霊で感じ、それを確信し、当たり前の事実として生きたい、ということが望みです。私自身の中にあるブレを取り除く手段の一つとして、神の使者、ACIM、神との対話をまず理解し、体験の中でそれを感じ続けたいだけです。 このプロセスは、けっきょくのところ各個人の中で何を求めるか?という選択によるところが大きく、それを考えないで生きる選択の自由もあります。私の場合は、最終的に「すべての問題の解決策を神に求める」ことを選択し始めた、ということです。 そして、神を見いだす手段として、既存の組織宗教の中で論じられている「分離に基づく思想がある神(神々)」の中には、私は見いだすことができないと心底感じています。 また、その追求は既存の宗教(布教)活動のように外側を変えようと働きかける方法ではうまくいかないように思います。 何を信じるかは各個人の自由な選択に基づいているので、私はまったくそれを強要したり、新しい宗教の教祖になるというつもりもサラサラありません。神は外に見いだすものではないと感じているからです。 以前、「インナーゴッド(内なる神)」という内容の日記を書きましたが、私の興味と探求はいつもそこに戻ってきます。 ACIMと神の使者で、私がとても興味がそそられるところは、「純粋な非二元論」という考え方にあります。これは簡単に説明すると仏教観の「この世界は幻想である」ということを超え、その先にあるものを見いだすための道(コース)でありプロセスです。 その道は、何が真実か、ただ一つの真実とは何かを見極める独学独習のスタイルをとっています。それはつねに本人の自由な意志と選択に委ねられています。ACIMでは「ワークブック」という毎日のエクササイズを通して、それが真実であるかどうかを生徒自身に確かめさせるという構成になっています。私もまだ何もわかっていません。 ただこのコースで示されている方法論は、公正であることは間違いないと思います。 純粋に私たちが何を求めるか? それだけが求められているだけですから・・・
2007.12.09
コメント(2)
コミュニケーションは、 世界が認識する狭い範囲のチャンネルに限られてはいない。 1-18(1章-P18) 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社刊」より抜粋。 ******************************** 「今の私が理解していること」 ここで言うコミュニケーション(communication=伝達、報道、連絡、通信、交際、親密な関係)とは、「*聖霊(聖なる精神6-271)=イエスの声=神のための声(1-137)」とのコミュニケーションを指しています。 ACIMの実践などを通して、聖霊と一体化したイエスとのコミュニケーションが深まるにつれ、従来の物質的な範囲のチャンネル(水路・ルート・電気信号の通路・霊媒)認識ではありえなかった、それにまつわる数々の「光のエピソード」が各人に開かれる可能性を示しています。 ******************************** *「聖霊」という言葉についての補足(3-137) いつもあなたともにある「者」のシンボル(象徴)。 聖霊は男性でも女性でもない。(個人としての)キリストでもない。 イエスが「コース」で聖書的な隠喩(メタファー)の言葉を使っているのは、キリスト教を修正するため。神の子キリストは男性でも女性でもない、私たちの現実(リアリティ)。そして私たちは個人ではなく、ただ私たちという個人を体験しているだけ。 「神のための声はあなたの声である、あなたの真の声である、なぜならあなたはキリストだから」。(真の)現実の中では「父と子と聖霊」には何の違いもない。3-148 彼(聖霊)は(心の)分離と共に保護として生じ、同時に「贖(アガナ)い・償い=atonement=一つの状態)」の原理を生み出した。4-181 彼(聖霊)は、あなたがたに、心全体を神に戻しなさい、それは一度も「彼(神)」から離れたことはないのだからと語る。それが一度も「彼(神)」から離れたことがないなら、あなたがたはただそれが戻っていると気づくだけでいい。したがって完全な贖いの自覚は分離が一度も起こらなかったという認識である。4-181 ******************************** 「神の使者」の著者ゲイリーは、13年前からスピリチュアルな真実を探し求め学んで来たが、実生活に活かすところまでいっていなかった。しかし1992年頃、何か新しい確信のようなものが沸いてきた。生き方を変えなくちゃいけない、と思った。もっといいやり方があるはずだ、と。 それから日々の暮らしの中でうまくいかないことがあると、当時理解していた限りで赦しと愛を実践しようと努力しはじめた。良い結果になることもあるし、とんでもない大きな困難にぶつかることもあった。 同じ頃、ときおり視野のすみで何かが光っていたり、光線が走るのを感じることがあった。澄んだ光は視野全体には広がらず、特定の部分に集中していた。それが何を意味するのか、のちに説明されるまでわからなかった。 この変化の年、ゲイリーはしょっちゅう、誰よりも優れていると思っていた知恵の予言者イエスに、どうぞ力を貸してくださいと祈った。 イエスとは何か神秘的なつながりがある気がして、二千年前にさかのぼってあなたの弟子になりたい、じかにあなたから学びたい、と祈りのなかで何度も語りかけた。1-19 ******************************** このような経緯を経た後、 1992年のクリスマスの週に、メイン州の田舎にある自宅のリビングで瞑想をしているとき、思いもよらないこと、つまり、アサンデッド・マスターのパーサーとアーテンが、いまふうの服装で突然あらわれたということです。 そして、ゲイリーはこの二人との対話を書き留め、これが本の形になったのが「神の使者」です。 ゲイリーの場合は、物質的な身体、そしてそれを通した声を使うことができる聖霊とのコミュニケーションもあったということです。 そのようなエピソードの真偽はおいといて、彼らが発するメッセージが私には響きましたので、このような形で紹介しています。 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社刊」 お勧めの一冊です♪
2007.12.08
コメント(0)
この世の限界などものともせず、しかも自分自身を完全に記憶していながら、 神と直接に触れあった人々がいる。 これらの人々は師のなかの師と呼ばれるだろう。 なぜなら、もはや彼らの姿を見ることはできないが、 彼らのイメージはなお鮮明だからである。 そして彼らは自分たちが役立つと思ったときに、 思ったところ現れるだろう。 彼らの現れに恐怖を感じる人々に、彼らは考えを授ける。 彼らに呼びかけて空しく終わる者は誰もいない。 また彼らの目にとまらない者も誰もいない。 神の使者-謝辞 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社刊」より抜粋。 ******************************** 「今の私が理解していること」 子供の頃、何か楽しいことに夢中になって遊んでいた時間が終わりに近づいた時、何とも言えない寂しさを感じたことはありませんか? この楽しさが永遠に続けばいいのにと感じたことはありませんか? そのような時を経て、いつしかこの世界に適応し、この世界の中で教えられたルールに従い、それに逆らわずに生きていくことが、いつのまにか自分の信条や生き方になっていませんか? でも、この世界のルールは一貫性がなく、人それぞれが違ったことを話し、みんながバラバラの真実を生きているため、いったい何を信じて生きたらよいのだろう、と悩むことはありませんか? そう、この世界は、何を信じて良いのかがわからなくなるようにできているようです。私たちが身体をもったときは、両親が神のような役割をもち、両親が信じているこの世界の真実を教え込まれます。 それから出会った人たち、友達、教師、テレビなどがまた別の真実を投げかけ続けます。 宗教、倫理、法律、政治、哲学、科学など人間のあり方や行動規範を与えようとする指針はあるのですが、はたして、その通りに生きたとしても葛藤は解消されることがあったでしょうか? この世界は、まるで本当に疑問符の山でできているように感じたことはありませんか? そして、心の声は「何かがちがう」と「何かもっとすばらしい感覚があった気がする」「とても大切なことを忘れている気がする」と感じていたとしても、この世界が与えてくれものなかではなかなか見いだせないことが多いと思います。 (この世界に満足されている方には、私の日記は必要ないので、閉じてください。それはそれで素晴らしいことだから。) 砂をかむような現実の中で、心が絶望の叫び声をあげ、真実を求めるとき、きっと神の延長としてのキリストは、私たちの心を通して現れるのかもしれません。 私たちが現実だと信じている世界を動かしているのは、結局のところは、肉体ではなく目には見えない何かではないでしょうか? それは肉体を創り出すもとのように見えたり、肉体通して表現される様々な感情についても、それなしでは何ひとつ表現されることもないでしょう。 では、それ(目に見えない何か)とは何なのでしょうか? この世界における二大指標、宗教の世界では「霊」、科学の世界ではエネルギーという通り名で呼ばれているようです。 しかし、その答えは何千年という時を経た今日でも、煙幕が張られたままであり、依然としてその全貌が明らかにされてはいないようです。 しかし、その目には見えない何かは、私たちが信じる時空間の世界を超えたところから、今も私たちの心を通して呼びかけ続けているように感じるのは、私だけでしょうか? 心には二つの選択肢があるようです。 ひとつは、この世界こそがあなたが生きるべき場所であり、個であることを精一杯、身体が終わるまで生き続けなさい、それがあなたの真実だという心。 もうひとつは、この世界を超えて「あなたが何者であるのか?」「あなたの真実を思い出しなさい」という心があるようです。 一つめの心は、制限を生み出し、もう一つの心は、制限そして分離が存在することこそが幻想であり、制限そして分離が存在するところに「真のあなたはいない」と告げるように感じます。 人は誰もが限界を超えたところ、完璧な世界(天国)を夢見ているのではないでしょうか? そして、それ(天国)を夢見ることができるのは、夢ではなく心のどこかで、それを覚えているからではないでしょうか? 私たちは、ひょっとしたらこの現実世界こそが夢だと気づいたとき、真実に目覚めるのかもしれません。 この夢から目覚める道は、一見するとたくさんあるように見えます。 しかし、源への道はやがて一つにつながることでしょう。 たくさんに枝分かれてしているように見える道が、分岐点が消え去り、じつはたった一つの源へつながっていただけだと、いつか気づく日が必ず来ると私は思います。 道は果てしなく続き枝分かれしているように見えるため、時に迷いが生じます。その迷いが生じたとき、つねに一つの道へと軌道修正してくれる道具は、それほど多くはないように思います。 光と闇の区別を知らなければ、どこへ向かっているのかわからなくなります。闇の中で光の道を探すためには、それぞれの違いを素直にみつめる心の訓練が必要なプロセスとなります。一つへと続く道を何の道標もなく歩いていくことはとても大変な作業だからです。 私の中では、神の使者、ACIM、そして神との対話という一つの道へと誘う道標は、神の延長であり偉大な師である内なるキリストそして聖霊を通じて、私たちの二つに分かれた心(葛藤)を救いだす道の一つだと感じています。 それが各人にとって、真実であるかどうかは、頭で考えるだけではなく、ただ実践を通してのみ得られるものだと思います。 まず、私自身でそれが何であるかを感じ続けていこうと思います♪
2007.12.07
コメント(0)
私は現在、「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社刊」の中でACIM(奇跡のコース)から抜粋(*によって示されている)されている365日の言葉をチャート化する作業を行っています。 一人で学習するのはつまらないので、このような考え方が好きな方とその情報を共有していきたいなぁ~と考えています。 私がこの本を私の日記でとりあげる意図は、みなさまにこの本の内容を解説するためではありません。私自身の仕事の中で実際にキネシオロジーを活用して、霊的な真意をわかりやすく伝えたり、365日の言葉を本の文脈の中で深く理解するために行います。 ですから、この作業は、みなさまに私が教えるという目的で行うわけではないことを、知っておいていただければと思います。 ただ、私はキネシオロジー(筋反射テクニック)を活用してこの情報を活用するとき、今クライアントさんの深い葛藤の中で何が起こっていて、どのように考えることが葛藤解消の糸口になるか?という目的でも使っていくため、まったく初めての人にお話をするとき、わかりやすく説明する練習をする必要性も感じています。 ですから、365日の言葉のあと、初めての人にはなじみのない概念については、シンプルに説明する工夫をしていきたいと考えています。 「神の使者シリーズ」の構成は、 最初に、「神の使者」内で抜粋されているACIMの言葉を、*(アスタリスク)がつけられている順番にご紹介していきます。 次に章とページを1章の15ページなら「1-15」と記載します。 最後に、「今の私が理解していること」という項目を設けます。 この目的は、まったく初めての人に「それらの言葉が何を伝えているのか?」ということを、わかりやすく説明する私自身のためのエクササイズとして書きたいと思います。 このようなことをすると、どうしても私の解釈が入ってしまうので、本来は望ましいものではありませんが、その真意が正確に伝わるときには、神との対話、ACIMや神の使者などの本と出会うきっかけになる可能性もあると思います。うまく説明できないときもあると思いますが、そのときは、ぜひコメントなどでアドバイスをよせてくださると嬉しく思います。私はコースの学習者ですから、間違って理解しているところがあると思います。そのような時こそ、逆にご指摘くださると私の成長の糧となりますから教えてくださいね♪ 私自身は、つねに学習者(かっこいい言い方をするとACIMにおけるイエスの弟子)であれたらいいなぁ~と思っています。 「神の使者」の中では、一番成長できるのは師ではなく弟子であると言っています。私はまだ人に何が真実であるかを確信していませんので、これからも単なる弟子であり、一生徒です。 「神の使者」における365日の言葉の中に、 「教えることは示すことである」 3-128(3章128ページ) と書かれていますが、神の教師としてこの教えるという言葉の意味は、人にこの本をもって教えたり布教活動をすることではなく、「単に各個人が日々の生活の中で赦しを実践すること」と記されています。 ACIMが意図していることは、この本の内容を勝手に変えたり、これを新しい聖書したり、新しい宗教組織をつくることではないといえます。 このコースがユニークであり、素晴らしい点は「独習形態」がとられていることにあります。ふつうに生活しながら、その教えが真実だと感じるなら、それを各個人の中で実践することだけが求められています。 外側(この私たちが現実だと信じている世界)を変えようとはしていないということです。 一緒に、真理を学ぶ(思い出す)ことができたらよいですね♪
2007.12.06
コメント(0)
心臓は、単なる循環器の王様・生命の要であるだけでなく、心が今何を自分に投影しているかを示すセンターでもあるようです。 今の自分が、あまりにもこの世界の現実にとらわれすぎている時、ハートは冷たくそして堅くなり、生命の息吹である呼吸も浅くなったり、とまっていたりします。 それとは逆に、この世界にありながらワクワクしていたり、楽しんでいたりするときは、ハートが温かくそして柔らかく感じ、呼吸も楽で自然な状態になるようです。 ですから、身体のこの内部感覚を活用して、今の自分の状態を把握することもできるような気がしています。 「ハート・インディケーター(基準器・指標)の活用方法」 ハートが温かく、柔らかい状態 =ハートがオープン =愛の思考体系 =イエス(受容、肯定、愛、希望) =呼吸が楽、おだやかでスムーズ ハートが冷たく、堅い状態 =ハートがクローズ =不安(エゴ)の思考体系 =ノー(拒絶、否定、不安、絶望) =呼吸が止まる、または浅い このような指標を、日常生活のなかでたえず意識する習慣をもつと、今の自分が何を選び、どのような状態になっているかを知ることができる一つの目安になるように思います。 そして、ハートがクローズしたときへの対処法としては、 自分がじつは無意識状態(エゴのワナ・不安)になっていることに気づき、その感情を批判なく見つめ(これが一番大切です)、深呼吸し、水を飲んだりするとよいかもしれません。 ハート・クローズのサインは、どんな小さな不安でも起こるようです。その小さな不安に気づくたびに、正気に戻るために周りをみわたし、焦点をそこから少しはずすのもよいかもしれません。 人はストレス状態になると、一点を凝視したままになり、視野が極端に狭くなりがちです。この様な状態こそが、私たちをこの身体に閉じこめ、積もり積もった罪責感のワナに入っていくサインなのかもしれません。 ほかに、ハワイの癒しの方法も役に立つかもしれませんね♪ そのような状況を直ちに癒すために、 Please forgive me. I'm sorry. I love you. Thank you. 他者、出来事、神、そして自分自身にもこの赦しを行うとさらによいかもしれません。 私自身、「赦し」という言葉にちょっと抵抗がありましたが、状況を赦すことで、どのような違いにまつわる戦争状態も終結させることができると思います。赦しは、内なる戦争を終わらせ、平安を自分自身の心にもたらします。 赦しが「他者、出来事、神、そして自分自身」に真に起こるとき、奇跡がただちに起こると思います。 それ(奇跡)は、出来事のスケールが小さくても大きくても変わらないとACIM(A Course In Miracles/奇跡のコース)では紹介されています。 外に見える出来事に振り回されずに生きるシンプルで強力な方法である「赦し」は、どんなときも内なる平和をもたらす方法として活用できると思います。 私もいまだ夢の途中ですが、夢から覚めるために、少しずつ実践していきますね♪
2007.12.01
コメント(2)
全28件 (28件中 1-28件目)
1