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今日(1月14日のこと)、昼寝しようとしていて、ふと、ある映画のことが気になり出しました。 寝むれない・・・寝られない・・・(笑) その映画は、私の中でとても印象に残っているのですが「タイトル」を思い出せません。 その映画は、まるで「少女版のJ」の姿をモチーフにしたような内容でした。 最初から見てはいなかったのですが、 ある少女と一緒にいると、どんな偏屈な人も心を開いていき、その子がいるだけで、すべてが楽しくなるというようなシーンを覚えています。 その子が何か特別なことをするかというと、なにもしません・・・ ただ一緒に、心を開けない人のそばにいて、何も語らずやさしくその人の話を聞いているといった感じでした。 そのような明るいシーンとは別に、ある組織が人の一生のうち「ムダな遊びの時間を削除し、人間の経済効率だけを優先することで、その余った時間を「葉巻」に変え、永遠の命を持とうとしていました。 その生きながらえようとする人たちは、みな青白い顔をしており、時間の葉巻をプカプカとくゆらし、人をモノや経済的な豊かさと引き換えに自らを生きながらえる方法で、あらゆる町を支配しようとしているという設定だったように思います。 そして、その組織の魔の手が、その子にも伸びていきます。葉巻をくゆらす男は、その子が好きそうなモノを好きなだけあげるよと話しかけます。一瞬、その子もモノに反応しましたが、すぐに、葉巻の男の顔をただじっと悲しそうな目で眺め続けます。 そうしているうちに、その子の瞳が、葉巻の男に憐れみと悲しみを向けていることに気づき、その瞳に圧倒され逃げ出してしまいます。 その葉巻の男の失敗を期に、葉巻の男たちは、町の周りの人を誘惑し、切り崩しをかけました。 そうしているうちに、町の人たちはどんどん憩いの時間を忘れ、どんどん時の奴隷になっていきます。 その子と話そうとする時間さえも惜しむようになりました。 そして、かなり時間がたったあと、みなはそれなりに経済的に豊かになってはいましたが、時間の奴隷になっていました。 そこへ再び、その子があらわれ、楽しかった日々があったことを思い出す・・・ というような内容の映画です・・・・ どなたかご存知の方はいませんか? なんか無性にその映画をみたくなりました♪******************************** ミクシィの友人によって、映画の題名がわかりました。 ミヒャエル・エンデ原作の「モモ」です♪******************************** さらに追伸(2月4日追記) 日記の影響力ってすごいなぁ~と最近よく思います。 この日記を書いた後、ミクシィの友人が原作の「モモ」を持ってきてくれたり、 また、私の日記をよんでくださったある方が「ラジオ版のモモ」をわざわざ私に送ってくださいました♪ ラジオ版の「モモ」を送ってくださったK.Y.さま、ありがとうございます♪ この日記を介して、ここでお礼の言葉を伝えたいと思います♪
2009.01.26
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ミクシィでいろいろと友人たちと対話していて、ふと 「あるがままにまかせるとは、 自我においてなにもしないこと。 自我を選ばないこと。」 それとは、逆に 「あるがままにまかせるとは、 聖霊(Holy・Spirit=全体を知る霊)にすべてを委ねること、 それは、まず聖霊を選ぶことなんだ」と、 そして、聖霊を選ぶこととは、神を信頼することであり、 その選択によって、 私たちは本来「何も選ぶ必要のない」状態になります。 聖霊を信頼することで、 私たちは、何も選ぶ必要のない存在であることを知ることができます。 それは、今も神と共にあることを思い出すありかた・・・ ・・・そのように思いました♪ それはなぜかといいますと・・・ あくまでコースにおいてですが、 私たちという存在は、身体でも心でもなく 霊(スピリット)です。 そして、私たちの真の自己を記憶しているのが聖霊です。 聖霊はいつも神と共にあるので なに一つ選ぶ必要もない状態にあります。 その状態は、完全なる知識があり、 また時空の概念を越えたところにあるため すべてが今(この世界の言葉でいうなら同時)にあります。 聖霊とは私たちの中に今もあり、 分離のすべてが幻想であることに気づいていて すべて(神)を知っている私たちの本質です。 ただ、自分のことを分離した個人・人間- 宇宙・世界の中で自分が切り離された存在- 自我の世界を生きていると信じている- 私たちは、いまだ真の自己を忘れ、 誤解している-知らない(無知の状態にある)ため 選択する必要があります。 自我とは、一つの心をバラバラにした状態にあり、 自分とはちがう膨大な選択肢を用意することで、 真実・愛・神を隠そうとします。 では、何を選択するか? コースは、いつも私たちに2つの選択肢だけを問いかけます。 自我(分離・自分の影)を選ぶか? 真実(神・存在・源・ひとつであること・ありのままの自己・愛・自由・常在・知識)であるか? つねに選択肢は、この二つしかないと語りかけます。 いっぽうは「あり」、 もういっぽうは 「選択肢がたくさんあるようで何もない」 「選択肢の数だけ分離・幻想・夢があり、また道に迷い、 別々の人生があるよう見える」ということです。 また、二頭の馬に乗れない、 召使いは二人の主に誠心誠意仕えることはできないとも喩えています。 もし、本当の意味で心の平安と自信を得たいと願い、 罪悪感・争い・憎しみ・苦痛の世界を終わらせたいと願うなら・・・ 自我ではなく、 真の自己=聖霊=ハイヤーセルフの状態と 共にあることを選ぶ必要があります。 つまり、私たちが聖霊を選んだ(委ね任せた)とき、 それは 「何もする必要がない存在・真の自己の状態を選んだことになり、 一つの心に帰り-戻り、あるがままとなり、 結果として、ここにいながら、ただ在る」状態になります。 それこそが、あるがままに委ねることであり、 もっとも信頼できる状態なのかもしれません♪ コースの実践-コースがしようとしていることのすべては、 分離の世界にいながら、 今ここで、 霊としての自己と同じである状態を選び続けること 真の赦しも、身体と身体の外にある外側・分離をみず、 本質だけを見つめることで ありのままの自己と同じあり方をするということです。 不平不満を言わないということもそうです。 それが、本来の私たち 愛である私たちの もっとも本質的なあり方だから・・・
2009.01.15
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ただ、ただ心の奥へ そして、さらに奥へと 自分の想いを糸-意図をたどっていくと その意図は、すべてとつながっていて それに気づけば、なにも臆することはなくなる。 ただ私たちのすべては、 自らの真実だけを伝えたいことに気づく・・・ 身体は心の糸に従い、 心は虚栄のエゴに従いがちだが・・・ その支配は、くもの糸のようにからみつき 身動きをとれなくし、やがて自らの息の根を止めようとする・・・ でも、大丈夫 そのすべては嘘っぱちだから! エゴによってつくられた偽の想いを 恐れずに、 ただ通り抜けさえすればいい・・・ そうすれば、 心の糸は、意図となり、 もっと大きな意図ともつながっていることに気づけるから・・・ それは、私たちの真の思いにつながる意図 すべてのなかへと浸透していき それでいて、心地よく、やさしい風となり 私たちを包み込み、 心に喜びを戻してくれるところ それは、ほんとの私との再会の場 それこそが、真の意図-私たちの真実 聖霊は、だれ一人、ほうっておかない・・・ だって聖霊は、いつも私たちのハートとつながっているのだから。 その純粋さの中では ちがいは消え去り・・・ 敵などいないことに気づく・・・ そこに敵が住むことなどできはしない。 今まで、恐れていたのは、違いという自分の影・・・ みな、一つながりの存在なのだから・・・ 分けて考えることなどできはしない 私たちの純粋さは、形にも、心にも縛られることはない 心の奥にある純粋さは、けがれを知らない。 その純粋さが生み出す支配とは、 支え愛、配り愛しかない・・・ その意図に身を委ねればいい 身を任せればいい♪
2009.01.04
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ところで、私が考えている「悟り」という言葉やその状態についてですが、それは身体-自我を手放し、自我の夢-人生という幻想を自らの意志において完全に終わらせることだと思っています。 それは自らの本質-完全性に目覚めることであり、 自我-分離の終焉を意味すると私は考えています。 実在(存在)と夢(分離)を同時に得ることはできません。 ひとつであることと、分離は共存できないからです。 もし、人が悟りを本当に求めているなら、人生という幻想が終焉を迎える最後の時まで気を抜くことはできないように思います。 問われ続けるのは 外側にある何かでは決してなく いつも、心の中のことであり いつも、存在とひとつであり続けるか否か ということだけだと思います。 そして、完全に悟ったかどうかがわかる瞬間とは 身体を離れる最後の時間において、 次の輪廻を-自我を完全に手放すという選択をするか? においてしか問うことができないように思います。 コースのJやブッダの姿は、自我-分離を完全な幻想と捉えていたと思います。そして、身体を持っている間中、存在と共にあることだけを選んでいたと思います。 自我は比較・対象の世界でしか生き延びることができません。 心が自分とはちがう何か=分離を見ているなら、 自我を見ていることになります。 また心が存在だけを見ているなら、 その見ている存在が自己に戻ります。 彼らは、人間という状態を手放し、私たちの本質を示したモデルだと思います。彼らと同じ選択をしたいと思うなら、まずは彼らがこの世界をどのように見ていたのか?を知ることがスタートであるような気がしています。 最後に、今日のタイトルに戻りたいと思います。 もし神がこの宇宙を創造し、 死を創造したのなら、 それは愛だといえるでしょうか? そうであるなら、神は殺人者ということになります。 ですが、自我-分離がそれを想像したのなら、 神は以前として「愛」のままです。 ありのままの自己、本質的な自己とは何か?について問う場合も、 ここで決して見逃すことができないポジションに立つことになります。 ありのままの自己について、それがいつも変化し続けている身体だとか、心だと考え、 それらの違いに注目しているなら、自我の範疇を一歩も出ていません。 自我こそが、分離を承認し、レベル、違いがあること、 個であること、特別であることを維持しようとするからです。 自我を自分だと信じることは、 自分とは切り離された個だという概念であり、 それは、私たちにどのようにしたとしても、 最終的にお互いについて決してわかりあうことはできない! と言っているようなものです。 だって、あなたと私はちがう存在なのだからね・・・と。 違いを認め合うというあり方ですと、 それが意味する最終的な結論としては、 依然として「分離・放置プレーをされている」ことになっちゃいますよ ってことなんです。 もちろん、単に物質レベルや心のレベルで違う考えがあるように見えるだけだ と気づいているなら、いずれ解り合えます♪ (物質と心について話をする、言葉を使う場合、言葉というモノは「真実から二重に離れている」のでどうしてもレベル・段階という表現を使わざるを得ないのが玉に瑕です・・・(^_^;)) その理由として、私たちは身体からモノゴトを考えることを前提にしているので、次に心、そして本質とは?と順々に考えないとわかりにくいためです。) また、この点はよく議論の上でぶつかりがちなので、 もう少しだけ補足しますと、 違いがいけないとか、許されていないということではありません。 そして、ちがう考え方があってはいけない、ということでもありません。 これやっちゃうと思想統一や・・・ってなる危険性もありますからね。 そうではなく、私たちの身体でもなく、思考-心でもなく 存在・本質の状態において違いなどないことに気づいてこそ、 分離ではなく一つの方向、 分離を消すことができる 幸せを感じるうえでの 処方箋になりうるということなんです。 つまり、モノや心という自我の幻想を越えた視点で、 私たちは本質的に同じであると認めたとき、 私たちは本当の意味でわかりあうことができる と言えるのではないでしょうか? まずは、自我-分離が何をしているのか? について意識的に気づく必要があります。 そして、自分が言っていることの意味を 思考の流れを読み解き、まずは意識レベルの上でも 徹底的に見つめることも大切だと思います。 なぜなら、意識がそれに気づかないなら、 無意識も以前として野放しに放置されたままであり、 その流れを見ることができないからです。 でも、無意識は自分の身体とその身体の外に見えるすべてといってもよいので、それを自我の鏡として見ることで、自らが自我に嵌っているかについての指標にすることも可能です。 ただし、意識-無意識、そのどちらも今だ分離の中にあることを決して忘れないことが大切です。そのなかは依然として真実ではなく、鏡の世界のなかであるからです。そのどちらも裁かないでいるために! 最後に、 本当のところ、 心にはいつも二つの選択肢しかないようです。 それは、 自我という分かれ道を選ぶか? 真実を選ぶか?だけ・・・ 身体を持って生きているあいだに、 この二つの選択肢のうち どちらを選び続けるか?が 佳境ともいうべきポイントであるような気がしています♪
2009.01.02
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今日のタイトルは、コースのレッスン282「今日は、愛を恐れることはない」の中にある文章からの抜粋です♪ 正月そうそうぶっそうなのですが、自我は殺人者でもあります。 自我は、愛を-存在を-神を恐れるがゆえにこの世界における見せかけの死を想像しました。そうして、見かけ上の悲しみや苦しみを見せることで、不滅の存在を身体という鎖のなかに縛りつけようとします。 ですが、死とは何なのでしょうか? 死-それは、「神から離れた、神が見えなくなったという想いそのもの」なのではないでしょうか? この最初にして、最大の分離こそが、自分と他の存在を分け隔てることになったきっかけであり、幻想・夢・旅・道(未知)の始まりであると思います。 もちろん、自我の夢は無数にあり、時には幸せを感じることもあるでしょう。でも、「自分がその幸せ-ラッキーな人生から外れたらどうなるのだろうか?」という不安がつねにつきまといます。 また、自我の定義する幸せとは、「私がある状態になれればきっと幸せになれるにちがいない」という、ある対象や偶像との一体化を幸せだと勘違い-錯覚し続けることといえます。 ですが、「幸せとは、心が満たされることであり、また何かとひとつである(あるいは近接-接近する)方向に向かうこと」だと思います。そして、その「何とひとつになろうとしているのか?」が、最大の問題にもなりえます。 自我は、幸せの対象を、神という完全性ではなく、目に見える世界の中にある代用品-偶像の中にこそあると錯覚させようとします。 そして、対象が身体を含め物質-モノである限り、限りなく近接-接近することはでき一時の幸せを感じることはできても、以前としてそのモノとは離れているがゆえに、それが離れていくとき恐怖を感じ、完全に信頼することができない状態を持続させます。 ですから、モノとの一体感で幸せになろうという状態は、不変ではないため、つねにこのような分離感、欠落感、そして不安を伴うということができます。 また、モノという対象は、それが物質である限り、変化の流れの中にあり、やがては朽ち果てます。 それでは、思考・心・想い・感情・気持ちのレベルではどうでしょうか? これは身体-モノという対象物ではなく、それを動かす元であり、幸せを実際に感じているところではあります。 そして、このレベルでは「無限の選択肢がある」ように見えますが、選択肢がたくさんあればあるだけ欲しいモノや対象がたくさんあることを示し、その分だけ「迷い」が多く生み出されるということにもなります。 このように心のレベルは、あっちへふらふら、こっちへふらふらとあてどもなく彷徨う性質があります。 また、それをどのように考えるかということに関して制限もなく、自由ではあります。 メニューがたくさんあれば、たしかに自分は豊かであったり、安心できるようにも感じるとはいえます。しかし、そのすべてを同時に得ることは身体という鎖のなかに縛られている状態を自分だと信じている間は、そのすべてを得ることはできません。 知覚レベルは、身体という制限・分離に基づくシステムであるため、自分と対象物との違いを認識するようにできているからです。 ところで、私たちがこの世界で教え込まれた信念体系の多くは、つねに身体から始まることを前提にしています。 たとえば、身体があるから考えることができる、心がある、というのが常識的な考えになっていると思います。 しかしながら、身体や物質というモノ自体は、そこにあるエネルギーあるいは生命力、あるいは思考する存在なくして、なにもすることもできません。(註:奇跡のコースでは、生命のありかを見ようとするバイタルサインやその表現として顕れたエネルギーと呼ばれているモノも、心によって模倣されたシステムのようなものだと考えられています。) 私たちの身体における始まりの時と考えられている受精卵という物質、細胞の中のDNAも生命エネルギーがあってはじめてタンパク質を合成し、細胞を分化し続けることができるようになります。 ここでも、生命力のように見えるエネルギー それなくして、モノは何者でもなく、 モノだけでは何も考えることもできないし、 何も起こすこともできない、と言えます。 物質、それだけでは何もしないし、何もできない・・・ そして、その生命力と呼ばれるモノが身体から離れたとき、 この世界ではそれを「死」と定義しています・・・ つまり、肉体という物質の主導権をつねに握っているのは、基本的に目には見えないエネルギーということができると思います。 ですが、このエネルギーと呼ばれる構成要素すらも、プラスとマイナス、中性子というように分離構造が見られます。 そして、それは可視領域において完全に観測することができないように振る舞い続けます。 科学の領域では、ミクロの領域を扱う量子物理学がその性質をかなりの部分で解明しつつあったり、またその逆であるマクロの領域を扱う相対性理論などを結びつけ、それらを統一しようとしていますが、物質宇宙が分離に基づく自我宇宙である限り、その秘密は最新の研究成果ではという言葉の煙幕のもと発見されないようになっているような気がしています。 私はつねづね短気な性格なせいか(笑) この隠されているというのが大嫌いなんです・・・ なんか永遠に待たされているような気分にさせられます(爆) 誰かが答えを知っていて、私はそれを知らない・・・ そんなんやじゃないですか!!!ってなります。 科学が教えてくれないなら、自分で考えるしかないって感じで そんなところが、傲慢・偉そうなヤツと思われる原因かも(^_^;)() だからこそ、決して変わらぬ真実だけを 私は求めたい、心底、頼ることができる何かを知りたい・・・ それが「身体」の治療に限界を感じていたときから求めていたことであるような気がしています。 そして、私は一度だけその完全なる存在との一体感を体験をすることができました。でも、それがいつもでないなら、それは真実と共にいない自分がいまだいることになります。 それ以後も、私の時間はそれ以外のことばかり考え、そして見ています(笑) 存在は、決してそのような私をしかる(罰する)ことはありませんが いまだこの世界の何かに目移りしてしまう 困ったちゃん(←自我はそんな生やさしいモノではありませんが) な自我と共にあります(爆) もっとも、自我をどうこうしようとするのも間違いです。 自我そのものは幻想なので、自我がしているように見えることには すべて意味がないと知ることがコースの要旨でもあります。 簡単に言えば、身体がしていることに見えることに目をつぶりましょう・・・大目に見ましょう・・・それは真実においてひとつも起こっていないことだから・・・ってことです。 だから、私たちは身体が何をしているように見えようと存在は私たちを罰することはないのです。神の子供が恐い夢を見ているだけだし、存在にしてみれば、その子は以前として天国にいるから・・・ 自らを無意識にし、旅をしている夢を見ているのだから・・・ 神はそんな世界を夢見ている子供に何もしません。 ただやさしく、それは夢だから、何も心配しなくていい・・・ ただ穏やかに、目を覚ましなさい、というだけでしょう。
2009.01.02
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みなさま、明けましておめでとうございます♪ いつも未熟な私を支えてくださり、 ありがとうございます♪ 今年も、無知から愛知の境地へ歩みを進めていきたいと思います! 本年もよろしくお願い申し上げます♪ <(_ _)> ******************************** とあまりにも堅苦しい挨拶に・・・ リキ入りすぎな自分に気づきました・・・ ということで、 今年は、頭とばして、タコあたまでいこうかなぁ~と思います♪ ******************************** 今日は、元旦早々、ミスチルのニューアルバムを聴いていました♪ 紅白で、櫻井さんが「GIFT」を、心からすべての人に届け とばかりに歌ってくれていた影響かもしれません。 ところでミスチルのニューアルバム「SUPERMARKET FANTASY」の中にある 「風と星とメビウスの輪」という曲を聴いていて、ふと思ったことなのですが・・・ メビウスの輪って、 まるで「輪廻の輪」みたいだなぁ~って思いました♪ 「神との対話」では、この世とあの世を「アップル」「オレンジ」の芯の循環に喩えて 説明していましたが、 メビウスの輪は、 ヨコ8-無限大=∞を象徴しているモノなのかもしれません。 つながってはいるけれど、ひとつになれない・・・(T_T) みたいな、ねっ 奇跡のコースを学び始めて3年目になりますが、 このシンボルは「ある」と「ない」という幻想の世界の構造図なのかもしれないなぁ~ なんて思いました。 この世は「あるとないがあり(物質中心世界)」 あの世は「ないものがある(心中心世界)」 註)奇跡のコースでは、あの世、この世そして次元も、それが「分離」である限り、 そのすべてが心によって生み出された幻想だと考えています。 そして存在の状態は「霊」であり、変化せず、ただあるとしています。 この二つの輪はどちらも、存在から離れてみたいという 自我によって始まった旅のようです。 だから、そのどちらも存在を見ないようにし、 自我による多様性・多次元構造の循環を離れていないと思います。 これは、点(個・自我を信じる・夢見ること)から始まる時空の旅・夢・道の始まりと終わり、 時の中の幻想循環を示しているのかもしれません。 そして、道の終わりは、夢・幻想の終わり、 それは夢・点という覆いあるいはフィルターであるが故に 始めから存在しなかったと知ること・・・ ∞のまじわる点は自我によってつくられた盲点 (存在からの離れて自分の世界を創りたいと夢みて、 自らの身元を忘れ-無意識になろうとした神との分離点) 二つの輪は、盲点からつくられた 二極性の象徴・・・ そして、本質的な自己への目覚めは 自我の夢・道の終着点・・・ ∞の中の循環、見せかけの永遠は やがて消滅し ただ存在と共にある-愛-光-恒常だけの世界へと戻る・・・ そんなことを考えていました♪
2009.01.01
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